~烈戦記~
プロローグ
「大変だッ!!」
小さな家の戸は勢い良く開かれると同時にその声が響き渡る。
田舎の村とは言え今は隣の強国、零と戦時である。
その慌しさにその場にいた僕と叔父は体を強張らせた。
「どうした!?敵か?!」
「いや、違う!!違うんだが・・・」
「じゃあなんじゃ!!はっきりせい!!」
第一声とは裏腹に何かにためらい言葉を詰まらせる村人に叔父は急き立てる。
「それが・・・」
村人と僕の目が合う。
嫌な予感がした。
「・・・豪統様が投獄された」
嫌な予感は的中した。
「お父さんが・・・?」
「何故あいつが捕まるんじゃ!?あいつが何をしたんじゃ?!」
「豪楊さん!!落ち着いて!!」
親の急な知らせに頭が真っ白になる。
その間も話が進んでいく。
「わしも聞いただけなんじゃ!!豪統様が軍への食料の徴収を断ったために謀反を疑われてそれで・・・」
「なんと・・・」
「豪統様はこれ以上ワシらを苦しません為に捕まったんじゃ・・・」
「あいつは国の為に自分の食さえ落として食料を送り続けたんじゃぞ!!それなのにあんまりじゃ!!」
「豪楊さん・・・わしらどうしたらいいんじゃろか・・・」
「とにかく県庁へ向かうぞ」
叔父さんが僕を見る。
「豪帯よ・・・家から絶対出るんじゃないぞ」
そう言い残して叔父さん達は家を離れた。
そして日が沈みかけ、空が夕焼け色に染まった頃、戸が開かれる。
しかし家を訪れた村の人から告げられたのは僕が期待したものとは違った。
叔父さんが捕まった。
村の人に連れられて県庁の前まで付いた時には人だかりができていた。
どの多さに僕からはその先どんな光景が広がっているのかがわからない。
「豪統様は悪くない!!」
「わしらには食うもんなんてもう無いんじゃ!!」
そんな怒声に近い声が飛び交っていた。
異様な雰囲気。
平穏で村のみんなが笑顔で談笑したり愚痴をこぼしたりしていた数週間前とは明らかに何かが違っていた。
僕はついに不安を堪えきれなくなり、叔父さんが出て行った後からずっと気になっていた事を口にした。
「・・・お父さんと叔父さんはどうなるの?」
「・・・」
返事は返ってこない。
大丈夫、明日の朝にはまたご飯を一緒に食べれるよ。
そんな言葉を期待していたがそれは叶わないと悟る。
それでも一度口に出してしまってからは堰が切られたように言葉があふれてくる。
「・・・ねぇ、おと」
『静まれ!!』
言葉を遮って怒声が夕空に響いた。
その怒声に一瞬で場が静まり返る。
『これより!!反逆者豪統ならびにそれに加担した狼藉者への刑を執行する!!』
場が一気にざわめき始める。
すごく嫌な予感がする。
お父さんの名前が呼ばれた。
そして刑を受けると告げられる。
お父さんは何をされるのだろう。
それを聞こうと隣の村の人に目をやる。
「・・・おお、なんということじゃ」
彼は群衆の先の光景に涙を流しながらつぶやいた。
その横顔を見た時、既に体が勝手に動いていた。
不安、計り知れない不安。
この先にお父さんがいる。
しかし、何がどうなっているのか。
それがわからない。
今にも不安で体が押しつぶされそうになる。
僕は群衆の中を掻き分けて前へ前へと進む。
聞こえてくるのは涙を押し殺す声や怒りのあまりに歯がきしむ音。
その中をただただ掻き分けて進む。
そしてついに群衆の先頭へと出た。
「・・・お父さん・・・叔父さん?」
群衆を遮る柵の向こうに広がっていた光景はお父さんと叔父さんとその他の村の人たちが後ろで手で縛られて座らされている状況だった。
お父さんは既に何かを悟っている表情をしている。
そしてその隣にいる叔父さんは気を失っていて何故かボロボロだった。
そしてその後ろで腰に剣を携えた兵士が並んでいる。
『以後!!戦時中、国に反逆する者はこうなると思え!!』
一番兵士の中で偉そうな人間がそう叫び手を上げる。
それを合図に並んでいた兵士たちが剣を引き抜く。
周りがどよめき、騒ぎ始める。
「豪統様!!豪統様!!」
「豪統様!!」
もうこの先何が起こるのかが理解できてしまった頭は真っ白になる。
「お父さん!!叔父さん!!」
僕も必死に叫ぶ。
何故家族の名前を叫んでいるのかはわからない。
ただ叫んだ。
「ねぇ!!お父さんが!!叔父さんが!!ねぇ!!」
必死に隣にいた女の人にしがみつく。
一瞬とまどった女の人だが何かを察した。
「見ちゃだめ!!」
そう言って僕に覆いかぶさってくる。
何故か冷静さがもどった。
「・・・お父さんはね、立派な人じゃよ」
「あそこには叔父さんもいるんだ・・・だから」
「・・・」
女の人の涙が服に染みてくる。
必死に声を殺して泣いている。
すると一瞬だけ女の人の体の間から前が見えた。
兵士が剣を構える。
「だめ!!」
声を上げたと同時に女の人を突き飛ばして柵の隙間から入ろうとする。
不意の子供の行動に女の人が止めに入るのが遅れた。
「誰かあの子を止めて!!」
その声を聞いて周りが動き始める。
しかし、僕の体は思いのほか簡単に柵をすり抜け、勢いが殺されずそのまま前方へと飛び出る。
柵の向こうの男の人たちが僕に必死に手を伸ばすがとどかない。
「お父さん!!叔父さん!!」
飛び出した勢いで叫んだ。
周りもその光景に一瞬場が凍りつく。
その空気に喉が絞まり、背中に汗が流れた。
目の前ではこの状況で動揺しながらも剣を構える兵士達。
そしてその奥にいる偉そうな兵士と目が合う。
その瞬間、兵士の口角が上がるのが分かった。
「豪帯!!逃げろ!!」
お父さんの声が響いた。
『あのガキを捕まえろ!!』
その声で兵士数人が僕目掛けて走ってくる。
体が強張って動けない。
「立て!!早く!!」
目の前の状況がスローになって見える。
必死でお父さんが叫んでいるが、どうにもならない。
後ろからも男達の叫び声が聞こえる。
そしてお父さん達と群衆の間まで迫っている兵士達。
ニヤニヤしながら顎をさする偉そうな兵士。
僕は呟いた。
「・・・神様、助けて」
それは一瞬の出来事だった。
眼前に迫る兵士達と僕の間を白い何かが遮った。
その大きな体躯のそれは大きな鳴き声を空にこだまさせた。
そしてその白が僕の前を通り過ぎると真っ赤な血を首から噴出した先頭の兵士が目に入った。
他の兵士たちは身構える者、動揺する者、尻餅をつく者など様々だった。
そしてその上に跨る一人の人間が声高らかに叫ぶ。
『我が名は鮮武!!罷り通る!!』
夕焼けに照らされた彼を僕は目に焼き付けた。
第一話 ~門出~
『…それじゃ、行ってくるね』
別れの言葉に返事は無い。
裏庭にある大きな木の下で、こぼれ日にちらちらと照らされる簡易な叔父さんのお墓。
叔父さんは最後まで質素を好んでいた。
僕の父さんはこの村の近くにある関の守将をしていて、その弟にあたる叔父さんは望めば生活はもっとぐんと良い生活ができた。
実際父さんも自分の下ではあるが県の役職を叔父さんに進めていた。
だが叔父さんは民草の方が気楽でいいとそれを断っていた。
そんな叔父さんの最後のお願いはこの木の下に埋めて欲しいという事だった。
確かに叔父さんの性格ならこれ以上無いくらいうってつけな場所だ。
思えばこの木には随分と思いれがある。
僕がまだ小さ…いや、幼い…。
僕がまだ"小さい"頃からずっと家の庭にあり、よく遊び相手になってもらっていた。
まぁ、僕が木に登って落ちてしまったのをキッカケにそれまでは何も言わなかった叔父さんに木登りを禁止されてからは家のシンボルみたいな感じになっている。
『…』
一瞬久々に登ってみようかと思ったがやめた。
これから父さんの元へ赴くというのに怪我でもしようものならまた父さんや周りの人達にからかわれるに決まってる。
僕はもう子供じゃないんだ。
そうだとも、僕はもう子供なんかじゃ…。
『…はぁ』
…なんだか虚しくなるからやめよう。
それにそろそろ出ないと日が暮れてしまう。
叔父さんに別れを告げ、ひとしきり思い出にふけって満足し、家の裏口から家の中へと入る。
寝床と本棚、主だって目につくのはそれくらいしか無い家。
何度も父さんの関と村を行き来してはいるが、やはり僕にとってはここが一番落ち着く。
…今までは叔父さんがいたから僕は父さんの所に気軽に行けたが、もうここには僕以外の主人はいない。
ここを離れればこの家はどうなるのだろうか。
そう思うとこんな場所でもやはり寂しさを感じる。
トントンッ
戸を叩く音で我にかえる。
いけない。
ここに居ては後から後から叔父さんとの思い出が湧き出てくる。
僕は一息ついて改めて心を決めた。
『すぐ行くよ!!』
寝床に置いておいた得物を手に僕は戸を開けた。
『お待たせ』
『忘れ物はございませんか?
』
『うん。待たせてごめんね、凱雲』
僕を戸の外で待っていてくれたこの凱雲という男は昔から父さんの事を慕ってくれていて、部下として父さんの仕事を手伝ってくれているらしい。
その関係から僕も良く遊び相手をしてもらったり、今日みたいに父さんのいる関までの道中を護衛してもらったりしていた。
背が2mにもなろうかという大男で得物の大薙刀は大抵の大人達は振り回す事はおろか構え一つもままならないものを片手で操る偉丈夫。
かといってその剛力に任せた事はせず、性格は冷静で寡黙。礼節を重んじていて読書を好むという変わり者…だと思う。
実際僕は父さんの関に所属する武官の人達を見てみても誰も彼の様な気質を持つ者を見た事が無い。
そんな彼の事を父さんも信頼して自分の家族を任せている。
そんな二人を見ていると、これが理想の主従関係なのかと思わされる。
『では参りましょうか』
『うん』
凱雲は連れてきていた二頭の内、一頭の馬の手綱を渡してくる。
それを受け取り馬の横に立つ。
『…』
『…豪帯様』
本当にこの瞬間だけは毎回心が折れそうになる。
僕は一息置いて凱雲に声をかける。
『凱雲』
『はい』
凱雲は何も言わずに僕の体を持ち上げると馬に乗せてくれた。
…そうなのだ。
恥ずかしい事に僕は馬に一人で乗れないのだ。
しかも、馬術云々では無い。
"背"が足りないのだ。
もう18歳にもなるのに僕の背は未だに160辺りなのだ。
最初の頃は周りの人も馬に乗るのには人の手を借りなければいけない僕にあれこれ励ましの言葉をくれたものだ
それすら僕の心を削りとる凶器になるとも知らずに。
凱雲は道中の護衛役という事で今では手慣れたように接してくれるが、最初の頃は彼の性格上とても気をつかってくれるので死ぬ程恥ずかしかった。
現在はこの短いやり取りが僕らの間で成立している。
『…僕、きっと大きくなるからね』
物理的に。
『はい』
まず始めに向かったのはこの県を担当する県長の所だ。
この人は7年前に父さんがこの群の太守から関の守将に任命されたさいに父さんと変わって県長になった人で、僕がこの村で叔父さんと二人で住んでる時や、叔父さんが亡くなってからなどお世話になった人だ。
勿論父さんが自分の目上の人間だからということもあるだろうけど、時折家に顔を出しては物を家に持ち込みたがらない叔父さんに変わって自分の読み終えた書物なんかを譲ってくれたりした。
叔父さんはただでさえ狭い家の中がさらに狭くなると渋っていたが、叔父さんの手伝いである農作業と木刀の素振り以外やる事が無い僕にとってはとても興味を惹かれるもので、これには叔父さんも渋々了承してくれていた。
そして今回この村から関の方に戸籍が移るという事で最後の挨拶に向かうのである。
『あ、豪帯だ!!』
村の中を歩いていると急に名前を呼ばれて振り返る。
すると普段遊んであげている村の子供達がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
『見送りですかな?』
『かな』
『随分と慕われてるようで』
『へへっ』
見送りに来てくれたのかな?
そう思うと少し照れくさくなった。
『豪帯!!』
『豪帯ちゃん!!』
『なんだなんだお前達!!わざわざ僕の見送りに来てくれたのか?』
『え?豪帯どっか行っちゃうの?』
『え?』
『え?』
一瞬変な空気が流れる。
そして隣の凱雲の横顔を横目で見るとそれに気づいた凱雲は決まりの悪そうに咳払いをする。
なんかすごく恥ずかしい。
慌てて話を続ける。
『お、お母さん達から何も聞いてないの?』
『聞いてないよ?』
『俺達はただいつもみたいに豪帯と遊んでやろうと思ってただけだぜ?』
なんでだろう。
一応それなりに村の人達とは前々からこの村から離れるという事は伝えてたつもりなのだが、どうやらこの子達は何も聞かされていないみたいだ。
あと遊んでやろうってなんだ。
『豪帯ちゃんどっか行っちゃうの?』
女の子の一人が聞いてくる。
『うん、もうこれから"遊んであげられなくなる"けどみんな仲良くな』
そう言ってさっき遊んでやるとかぬかしやがった男の子をわざとらしく見る。
なんか眉をしかめている。
へっどうだ。
『えー やだ!!』
『豪帯どっか行っちゃうのやだ!!』
『もっと遊ぼうよ!!』
成る程。
こうなってはスッキリ見送りもできないだろうとわざと子供達には伝えていなかったのか。
それでもやはりこんなにも別れを悲しんでくれる人がいるのは正直に嬉しい。
不意に口元がにやけてしまう。
隣の凱雲を見れば、彼もまた微笑ましく笑顔で返してくれた。
そんな雰囲気の中。
『豪帯"が"寂しいだろ!!』
『おいちょっと待て』
僕は聞き逃さなかった。
まぁ僕も大人だからね。
一回くらいは見逃してやるつもりだった。
が、凱雲がいる手前、これ以上恥をかかされては堪らない。
僕は颯爽と馬から降りる。
そして彼の前に立つ。
『さっきから妙にひっかかるんだよね。"誰が"寂しいって?』
『お前に決まってるだろ?豪帯。ついに耳"まで"いかれちまったか?』
周りの子達は"またか"というように僕らから離れていく。
だが気にしない。
『いっつも思ってるんだけどさ。お前って本当にガキだよな』
『がっガキだって!?お前に言われたくねぇよ!!バーカ!!』
カチンッ
『お前だってチビの癖に!!バーカ!!』
『んだとこの野郎!!』
『や、やめてよ二人とも!!』
子供達が止めに入る。
『豪帯ちゃん最後になるかもしれないのにケンカはやめてよ!!』
『だって!!こいつが最初に突っかかってきたんだぜ!?心配してやってんのに!!』
『誰が寂しがるかよ!!僕はお前と違ってもう大人なんだぞ!?お前が寂しいんだろ!!素直にそう言えよ!!』
『お、俺だって寂しくなんかないやい!!チービバーカガキガキ!!』
『んだと!?自分の年言ってみろこの野郎!!』
『やめてって!!』
それから少しギャーギャー騒いだ後。
『お前なんかどこにでも行っちまえ!!バーカ!!』
を最後に涙目になりながら彼は逃げて行った。
僕は子供三人に羽交い締めにされながら勝利を噛み締めていた。
『ふんっ、どうだ!!』
周りの子達からため息が漏れる。
『…豪帯ちゃん、大人気ないよ』
『だってあいつすぐ突っかかってくるもん』
『遼ちゃんも悪気がある訳じゃなくて、寂しいんだと思うよ?』
少し頭を冷やしてみる。
確かに大人気なかったかもしれない。
『…なんかごめん』
『ううん!!また村に来たら仲直りできるよ!!』
『その時は遼ちゃんも混ぜてまた遊ぼうね!!』
『お前ら…』
目尻が熱くなるのがわかった。
やはり僕自身も寂しいのかもしれない。
『お前らも仲良くやれよ!!』
『うん!!バイバイ!!』
『またね!!』
別れを告げて馬に近寄る。
そして気づいてしまった。
今自分がどういう状況なのかを。
『…ん?豪帯ちゃん?』
『どうしたの?』
冷や汗が背中を流れる。
そう、この子達はまだ僕が馬に乗れない事を知らないのだ。
馬に乗れなくて凱雲に乗せてもらう所なんてカッコ悪くて見せたくない。
しかも今感動の別れを告げたばかり。
それだけはどうしても避けねばならない。
僕は必死に頭をフル回転させた。
が、良い案が浮かばない。
万事休すである。
幸いあいつには見られてはいないが、恥は恥である。
僕は一息ついて覚悟を決めた。
『豪帯様、参りましょう』
『…うん。がい…あれ?』
僕が声をかけようとすると凱雲は既に馬を降りており、手綱を渡すとそそくさと歩き始めていた。
最初は意味がわからなかったが、意図を理解する。
…なんて頼もしいんだ!!
『じゃあな!!みんな!!』
そう言って僕は凱雲の後を追った。
その後少し歩いた辺りで馬に乗せてもらい、無事窮地を脱する事ができた。
感謝の気持ちを伝えると凱雲は"いえ"と簡素に答えた。
ただその後に言われたのは"もっと大人になりましょう、みっともない"との事だった。
県庁に着く。
そんなに離れた場所には無いのだか、子供達との一悶着あって既にお昼に差し掛かっていた。
しかし、逆にそれ以外道中では何も無く、もっと色々な人から別れを告げられるものだと思っていた分少し残念ではあった。
きっとみんな忙しいんだ。
そう自分に言い聞かせた。
コンコン
戸を叩くと中から返事が返ってくる。
そして中に入った。
『おぉ、豪帯か。それに凱雲様、お疲れ様です』
『いえ。そんな硬くなさらずに県長殿』
それから僕と県長さんは父さんと県長を変わった当初の事や顔を出した時の話、祭りの時の話などの昔話に花を咲かせた後、別れを告げて部屋を後にした。
『お父さんの所でも元気でな』
そう言ってもらえて嬉しかった。
県庁を出ると既に空が少し赤みがかっていた。
どうやら大分時間を潰してしまったようだ。
『大分時間かけちゃってごめんね』
『いえ、最後…ではございませんが、こんな時くらいは別れを噛み締めてもよろしいかと』
『ありがとう』
『はい』
本当なら危険な夜を避け、朝を待ってから村を出るのだが、僕らの村から関までは遠く、馬を走らせない事には一日で着ける位置には無い。
ようはどっちにしろ野宿はするので僕らは村の出口を目指した。
村の出口に着くと驚く事に人集りができていた。
『おぉ、みんな!!豪帯ちゃんが来たぞ!!』
その村人の一声で一斉に声があがる。
『豪帯ちゃん!!』
『待ってたぞ!!』
『早くこいよ!!』
『待ちくたびれたぞ!!』
僕は目頭がまた熱くなるのを感じた。
『豪帯様』
『うん…わかってる。おーい!!』
そう言って馬を走らせた。
『まったく何やってたんだよ』
『ごめんなさい。みんないつから?』
『お昼からよ。みんな豪帯ちゃんのお別れしないとねって事で仕事朝の内に終わらせてきてくれたのよ』
『みんな…』
思わず涙が出てしまった。
みんな父さんが県長の時から父さんを慕ってくれていて、その子供である僕の事も自分の子供のように接してくれていた。
父さんが関に移った後もそれは変わらず、叔父さんと一緒に大切にしてもらった。
言うなれば全員僕の家族みたいな人達だった。
『何泣いてんだよ!!男なら堂々としろよ!!』
『お父さんと会うんでしょ?』
『わかってる…わかってるよ。けど…』
涙が後から後から湧き上がってくる。
ひとしきり泣いた後、馬を降りてみんな一人一人に挨拶を済ませる。
ある人なんかはお土産なんかもくれた。
本当に大切に思われているのだと感じた。
『それじゃあ行ってくるよ』
『あっちでも元気でね』
『たまには顔出せよ 』
『うん 』
そう言うと隣でずっと待っててくれていた凱雲に目をやる。
それを察して凱雲が先に歩き始める。
気を効かせてくれて既に僕が馬から降りた辺りから馬を降りてくれていたようだ。
『それじゃ』
凱雲に続いて自分も馬を連れて歩き始める。
『豪帯!!』
別れの空気の中、突然後ろから聞き慣れた子供の声で名前を呼ばれて振り返る。
『お前…』
そこにいたのは昼に喧嘩別れしてしまったあの子がいた。
『…』
『…』
お互い言葉が出ない。
別れ際とはいえ、喧嘩してまだ一日も経っていない。
どちらも気まずい感じである。
『遼ちゃん!!』
子供の後ろ、僕から見て正面から声がかかる。
『最後だよ!!』
『頑張って!!』
昼に会ったあの子達だった。
必死に目の前の少年を励ます。
『…その』
ついに言葉がで始める。
『わ、悪かったよ』
その一言で周りが湧き立った。
『や、やったー!!』
『遼ちゃんやればできるじゃん!!』
『う、うっせーよ!!阿呆!!』
そんな子供達のやり取りを周りの村人達は微笑ましく見ている。
『べ、別にまた遊んでやってもいいんだからな!?またいつでも来たかったら…』
『遼、ありがとうね』
『っ…!!』
『お、おい!!』
急に抱きつかれ、慌ててしまったが、涙を啜る音が聞こえて平静さを取り戻す。
『…また来るからな』
『ぜっだいっ…ぜっだいだがんなぁ…っ!!』
頭を撫でてやると堰が来れたように泣き始めた。
それをただひたすら満足するまで泣かせてあげた。
そして夕焼けが本格的に暗くなりはじめた時、ようやく泣き止んだ。
『…それじゃあな』
そう言うと顔を上げ満面の笑みで。
『おうっ またな!!』
と、答えてくれた。
その目は真っ赤に腫れ上がっていて思わず笑ってしまった。
『ぷっ、お前目が真っ赤じゃないか!!ははは!!』
『なっ!!』
少年はすごく恥ずかしそうに目を擦った。
『じゃあな!!ははは!!』
ちょっとした優越感に浸りながら馬を連れて先で待っていた凱雲の元へ向かう。
『やい豪帯!!馬には乗らないのか!!』
最後の最後で悲劇が待っていた。
一瞬で血の気が引いた。
周りはこの少年の意外な発言に眉をしかめていた。
が、確かにもっともである。
みんなの視線が自分に集まる。
『…』
そっと振り返ると、少年の勝ち誇った顔が目に入った。
そう、あの時見られていたのだった。
隣まで来た凱雲が横で囁く。
『あの少年に一本取られましたな』
僕は絶望に打ちひしがれた。
『…豪帯様』
『…うん』
それからは大勢の笑い声に見送られたのは言うまでもなかった 。
第二話 ~道中~
『本当にあいつはガキだよ!!』
僕は焚き火の前で急に声を荒げた。
『…別れ際のあれですか?』
凱雲が簡素に、そして事務的に答えてくる。
半ば聞き飽きたように思えるその反応もそのはずで、かれこれ3,4回は繰り返していると思う。
しかし、わかってはいても何かの拍子であれを思い出してしまい悶えそうになる。
『だって別れ際だよ!?何であんな時くらい黙ってられないのかな!?』
『まぁあの少年もまだ年が年ですし…』
『そうだけど…そうだけどもっ!!』
あの瞬間が思い出される。
凱雲に持ち上げられた瞬間のあの何とも言えない変な空気。
恥ずかしさのあまり目を合わせられないから後ろを向いていたが、多分相当呆気にとられていたのではないか。
そして馬に乗せられた時の沈黙…からの堰を切ったような笑い声の嵐、波。
その時の顔の熱さと着たら火を吹いても可笑しくなかったんじゃないかと思えるくらいの恥ずかしい思いをした。
『僕だって…僕だって一人で馬に乗りたいよ!!』
はたから見たら僕が馬術の心得が無い、もしくは何らかの過去の悲劇によって乗れない人間に見えるであろう台詞を叫んだ。
しかし、それならまだ励ます方にも励まし方があるというものだ。
だが僕の場合ではただ単純に背なのである。
しかも既に背の伸びる肉体の限界に位置するであろう歳である。
こればかりはもうどうしよもない事である。
実際そんな不憫な人間が目の前で嘆いていても僕は愛想笑いしかできないであろう。
『豪帯様』
『あ、…ありがと』
どうやら泣いていたようだ。
凱雲が布を渡してくれる。
僕はそれで目を拭いたあと、鼻をかんで凱雲に返す。
それを凱雲は何でもないように懐にしまう。
『…なんかごめんね』
『豪帯様』
何度も繰り返している一連の会話の流れでいくと、ここで凱雲が"いえ"と呟く事で話が終わっていた分名前を呼ばれた事で少し不意をつかれた。
『何?』
『ある偉人の話をしてあげましょう』
『ある偉人?』
『かの者は後に覇者と呼ばれた男でありました。武にも文にも通じ、そして人材をこよなく愛した人間でありました。その者は初めは身分卑しく、出世への道は遠いものでした。しかし、彼は大陸を駆け、強者を破り、人から愛されついには自らの国を持つようになりました』
『…かっこいい』
『ええ、彼は色々な人間から憧れの眼差しを受けておりました。しかし、彼にはある弱点がございました』
『弱点?』
『ええ、それは背です』
やっと凱雲が何を言いたいかを理解した。
『かの者は護衛の兵よりも小さく、一度軍を率いれば馬に乗らねば見失ってしまう程でした。しかし彼からでる覇気は凄まじくそんなものを毛程も思わせないくらいの方だとか』
『…僕もそんな風になりたいな』
『なれますとも。いくら外見が良くとも大切なのは内に秘める器であります。それが大きければ大きい程に溢れ出るものは計り知れないものとなるものです。豪帯様も胸を張ればよろしいのですよ』
『うん…わかったよ』
そうだとも、背なんか一々気にしてるようじゃ大事なんか成せるものか。
自分は目指すならもっと大きな存在になりたい。
強く、優しく、そして見た者全てを虜にしてしまうような存在。
そう…あの方のように。
僕は懐の得物を握り締めた。
『大切にされているのですね』
凱雲が気付く。
『うん、これは僕の宝物だから』
そう、僕ら家族を救ってくれたあの方のように。
『…いつか鮮武様のように』
そう呟いた。
しかし僕はこの時凱雲が微笑ましくもどこか影を落としていた事には気づかなかった。
『そうだとも!!僕には器があるんだ!!あいつがなんて言おうと背なんか屁でもないんだ!!ざまーみろ!!』
そう声高らかに宣言する傍で凱雲が頭を抑えて大きな溜息をついたのは言うまでもない。
夜が深くなり、野営の為の簡易テントで僕は横になっていた。
凱雲は見張りをしてくれるのだと言って外にいる。
毎回毎回遠出の際は凱雲が寝ずに見張りをしていてくれる。
そもそも関の守将である父さんの副官が一人で護衛というのも変な話だが、この凱雲が"村に兵が押しかけても民が不安がるでしょう"、とあえて一人で行く事を提案したそうな。
確かにそうではあるが、街道がありはしても村を出れば賊に合うというのは良く聞く話である。
それなのに自分の一人息子を凱雲一人に任せるのだから父さんも相当凱雲を信頼しているのだろう。
しかし、たまに関での凱雲の訓練の様子を見る事があるが、ほとんど号令ばかりで、たまに兵と手合わせしても負ける所は見た事が無いが、イマイチ強者と呼ぶには迫力が無い印象だ。
ただ、本気を出したら強そう。
僕の認識はそのくらいだ。
そんな凱雲が外で見張りをしている間僕はというと簡易テントの中で明日に備えて布団に潜っている
よくよく考えれば凱雲は父さんの部下であって僕の部下ではない。
これまで凱雲本人が何も言わずにただ当たり前のごとく尽くしてくれていたから気づかなかったが、相当な事を僕はしてもらっているのではないか。
そう思いはしたが、仮に見張りを変わったとしても、僕が見張りを全うできるかは不安である。
確かにある程度関で父さんや武官の人達、凱雲から剣の腕は仕込まれていてそう簡単に賊にやられるとは思わない。
だが、本当の闘いを僕は知らない
あくまで訓練や修練の域を越えたものを見た事がない。
そう思うとやはり不安である。
『…僕もいつか戦場に出るのかな』
血を見るのは嫌だ。
痛い思いもしたくないしさせたくない。
戦場で命を掛けて戦った兵士から言えばこれ程馬鹿げた話は無いだろう。
だが本心がそう言ってしまっている。
一体僕はこの先どんな道を歩むのだろうか。
そんな思いに耽っていた。
『野郎共!!囲んじまえ!!』
そんな時、それらは現れた。
急な怒声と共に深夜で静かな雰囲気は去り、辺りは騒然とした空気になった。
僕は慌ててテントの外を見る。
どうやら賊に見つかったようだ。
相手は…
約18人…
まずい。
本当にそんな状況だった。
それと対峙するのは2mの大男一人
いくら強いとはいえ相手の数が数だ。
しかも凱雲を恐れていればまた話は別だか、賊達の目はそれではなかった。
警戒は必要だが戦える。
そんな目をしていた。
僕は自分が敵を倒せるかどうかを御構い無しにとにかく僕らが少しでも有利になるように加勢しようとする。
生き残る為に。
『…豪帯様、手出し無用にございます』
それを察したように凱雲が小声で止める。
一人で大丈夫な訳がない。
そう言おうとしたがその前に彼は言った。
『この程度、私一人で十分です』
相手は18人。
それを前にして"この程度"と言ってのける彼はいったい幾つの修羅場をくぐり抜けて来たのだろうか。
決して僕を危険な目に合わせないようにとかそんなのではない、確固たる自信がその言葉にはあった。
『荷物と有り金全て…』
賊が喋り始めた。
『『控えろ!!』』
夜空に怒号がこだました。
一瞬心臓が飛び出るかと思った。
現に今僕の身体は強張って動けない。
そして凱雲と対峙する賊達はその怒声に咄嗟に後ずさりした者や尻餅をついた者もいた。
こんな凱雲見た事が無い。
『貴様ら、覚悟はできておろうな』
そう言って凱雲は得物である大薙刀の刃に被さった布を取る。
その刃は月に照らされて怪しく光を放っていた。
それをこんな状況でも素直に綺麗だと思ってしまった。
『や、野郎共!!かかれ!!』
完全に空気に呑まれてしまってリーダー格の賊の号令はなんとも情けなく、"勝った"と一瞬で勝利を確信した。
18対1で剣も交えていないのに、である。
それくらいに凱雲が頼もしかった。
賊の一人がなんとか凱雲の前に出る。
明らかに怯えているが、勢いに任せたその身体は既に止まる事を許さない。
自分をわざと死地に追い込んでなんとか凱雲に斬りかかる。
『うわぁぁぁぁ!!』
『ふんっ!!』
大薙刀が賊の頭へ振り下ろされた。
一瞬の出来事。
賊は身を守ろうと剣でその斬撃を受け止めた。
だが、大薙刀の刃はその勢いのまま賊の身体を真っ二つに引き裂いた。
剣もろとも。
鮮血が飛び散らしながらその肉片は左右に落ちた。
『あぁ…あぁ…』
既に賊達からは闘いの意思は感じられず、目の前の惨劇を見せられた恐怖の感覚がヒシヒシと伝わってくる。
すごい。
これがあの凱雲なのか。
そう感じたのと同時に恐怖を覚えた。
『…次の相手は誰じゃ?』
『に、逃げろ!!』
その声で賊達が一目散に散らばっていく。
しかしそれを追おうとはせず凱雲は仁王立ちしている。
この人には敵わない。
自分の腕がどれほどのモノかを理解させられた。
『…豪帯様、片付きました』
凱雲から声をかけられる。
『う、うん』
まだ身体が震えている。
足が立たない。
初めて人と人との"殺し合い"を目の当たりにしてこの様である。
本当にあの時僕は顔を出さなくてよかった。
『これが私達兵士にございます』
そう言うと凱雲は肉片の片割れを持ちあげて森の方へ向かう。
その意図を察して声を上げた。
『あ、凱雲!!待って!!』
『ん?どうかなさいましたか?』
なんとかおぼつかない足取りでテントから出る。
『死体の…お墓作らない?』
『…』
凱雲は呆気にとられていた。
『賊の死体に情けは無用でございますよ』
『いや、そうなんだけどさ…』
凱雲に近寄る。
『多分…この人も何かがきっかけで賊になったんだと思うんだ。』
『…賊一人一人に同情していては霧がございませんぞ』
『わかってる。ただ、今回は一人だけなんだしさ。これくらいはいいかなって』
その言葉に凱雲は空を見上げた。
そして溜息をついた。
『お父上とそっくりでございますな』
本当なら僕の我儘だし僕自身も一人で墓を作る気でいたが、凱雲は何も言わずに手伝ってくれた。
本来なら森の中にある街道という事である程度深い場所に放置して
おけば獣や自然に処理してもらえて疫病の心配ない。
これが村や街ならまた話は別だが、ここは人通りの少ない田舎の街道。
内心は無駄な手間が増えた事に不満はあるとは思うが、それでも手伝ってくれるのが凱雲のいい所だ。
そして簡単なお墓ができた。
『ふー、できた』
『ええ、彼も賊の身でここまでされては来世では悪さはできないでしょう』
『…凱雲、ありがと』
『いえ』
そうして床へとついた。
『…ん~…ん~』
『…』
朝、日が登りかけで僕らは馬を進めていた。
昨日の夜の出来事で相当寝る時間を削られてしまったようですっかり寝不足である。
まぁ隣の凱雲は一睡もしていないのだが。
そう思うと毎回毎回大変だなと思う。
『…豪帯様、手綱はしっかり持たないと危のうございますよ』
『ん~…』
凱雲が溜息をついた。
豪帯様がワシの前に座りながら馬の動きに合わせて体を揺らしている。
一応馬の手綱を握りながらも体を抑えてあげてはいるが、その小さな体はいつ自分の腕から落ちてしまうか分からない。
あまり気を緩めるわけにはいかない。
先ほどまで意識をなんとか保っていた豪帯様ではあったが、あまりの不安さから豪帯様を勝手に自分の馬に乗せたはいいが、いざ乗せてみるとこれはこれで危ない気もする。
まったく、豪帯様は不憫というかなんというか。
本人も相当気にしてはおられる様だが、こうして自分の前に乗せてみると本当にまだ子供ではないかと思わされる。
これでまだ中身が威風堂々としていればそれなりに威厳が出るというものだが・・・
豪帯様にそれを求めるのは酷である。
多分性格上親に似て、とてもではないが人に厳命を強いる事はできないであろう。
実際豪帯様はそれはもう周りからも大切に育てられているようだ。
人を使う事をできるようになるまでは先が長くなるじゃろう。
そうなって来ると後は体の成長に任せるしかないが・・・豪帯様は既に18になられている。
もうこの先には期待できない。
どうしたものだろうか。
豪帯様はいずれ豪統様を継がねばならなくなる。
そうなる前に、それなりになってもらわねばならない。
・・・しかし、村での子供達との喧嘩を見ているとどうしても不安になる。
「はぁ・・・」
不安。
ただただ不安である。
昨夜の事を思い出す。
豪帯様が作られた賊への墓。
あれは本当に賊の事を思って作られていた。
そう、とても丁寧に。
それこそ、その賊に家族を殺された人間があれを見れば豪帯様を蔑み恨むだろう。
そうでなくても、賊は賊である。
情をかけるなど普通は考えない。
だが豪帯様は言われた。
”この人”と。
豪帯様を見ていると考えさせられる。
人に害をなす存在をそれでも同じ人として見る豪帯様は悪なのか。
それとも同じ人でありながら賊だという理由で人としての権利を奪う自分達が悪なのか。
・・・私にはわからない。
少なくとも私が賊を賊と、敵を敵と見れなくなったらこの薙刀を振るうことすらできなくなる。
そんな事は決してないし、あってはならない。
私は兵士なのだ。
武人なのだ。
豪統様より恩を受ける以上は、私は豪統様の為にこの薙刀を振るい続けなければいけない。
・・・これについて考えるのはここまでにしよう。
そうして空を見上げてみる。
そこには青く晴れ渡った世界とそこを自由に飛びまわる鳥たちがいた。
何にも縛られる事無く空を飛べる彼らならその答えを分かるのかもしれない。
同じ仲間を殺める事の無い彼らなら・・・。
そうして視線を落とす。
そこには口を無防備にあけ、口の端から涎を光らせている豪帯様がいた。
そうだとも。
平和な世には彼のような存在が必要なのだ。
穢れを知らず、そして自らの手を汚したことの無い彼のような存在。
「・・・ふっ」
何を心配していたのだろうか。
馬鹿らしくなってしまって思わず笑いがこみ上げる。
そうだとも。
その為の私たち兵士なのだ。
豪帯様にできない事を私がやり、豪帯様の望むような結果をさしあげればいい。
豪帯様本人が未熟であればそれを全力で支え、それを補ってやればいい。
至極簡単なことだ。
「・・・見えたか」
景色の遥か向こうに見える目的地である関を眺めながら、ただひたすら安心して自分に背中を預けるこの少年に思いを馳せた。
第三話 ~凌陽関~
『…あれ?』
気がつくと僕は布団の中にいた。
確か自分は馬に揺られながら関を目指していたはずだが。
その先が思い出せない。
ウトウトしていたのは覚えているが、布団に潜った覚えはない。
周りの様子を見渡せば既に自分が関についているのだとは予想できたが、布団に入るまでを覚えていないのは些か不安である。
何よりここが本当に関なのかが気になる。
僕は身体を起こして枕元にあった得物を腰に差して外へ出た。
外へ出ると人々の雑踏や談笑の声、そして訓練による練兵達の掛け声など様々な音や空気による独特の熱気が溢れていた。
この場所こそ父さんが管理している関、または街にあたる陵陽関である。
ここは元々この関の属する州、烈州を治めていた烈王が東南方面の蕃族の抑えとして建てた関で、関としての規模は国内最大で北壁、南壁の二つの重厚な城壁によって囲まれている。
当初は純粋な防衛拠点となっていたが次第に蕃族との交易が始まり関内の通行、滞在を奨励、次第にに人が集まり街になったという珍しい街である。
しかし、元々が関という事もあり他のちゃんとした都市と比べると狭くも感じる関内は昼は終始行き交う商人や民草によって埋め尽くされている。
『いつ見てもすごいな…』
自分の出てきた所はいつも父さんの所に来た時、いつも寝泊まりする関が管理する旅人用宿舎である。
僕は宿舎の管理人である年の少しいった男の人に声をかける。
『おはよ、おじさん』
『ん?おぉ豪帯じゃないか。良く寝れたかい?』
『うん』
『これからどっか行くのかい?』
『まず父さんの所へ行くよ』
『そうかい。一応豪統様が明日まであの部屋を借りてくれてるからまた戻っておいで』
『うん、ありがと』
そこから県庁、もとい関庁へ行くには人混みを掻き分けて少し歩かなければいけない。
『…よし、行くか』
『いやー、治安が良いと暇じゃの』
『じゃのー』
関庁の前で二人の警備兵が話をしていた。
『何というか、ここまで治安が良いとワシらは用が無いのではと思うんじゃが』
『それはそれでいい事じゃないか』
『うむ…蕃族と接しておる街なんじゃからもっとこう…蕃族が攻めてきた!!…とかあってもいい気がするがの』
『これ、物騒な事ゆうもんでねえ』
『んー…』
『…』
『…』
『…暇じゃの』
『うむ。…あ』
『ん?どうしたんじゃ?』
『そういえば今朝帯坊が来たとかゆうとらんかったか?』
『あぁ、確か来たとかゆうとったが、見かけんのぅ』
『うむ、実はひょっこりそこらへんから生えてくるんでねぇか?』
『ははははは!!確かにあいつは地面から近いからのう!!そこら辺にもう生えとるんでねえか?』
『ははははは』
ゲシゲシッ
『いで!?』
『足が!!』
『お前ら!!』
『あ、帯坊!!』
『いつから生えとった?!』
ゲシッ…ゲシッ
『あだ!!』
『いっ!?ワシも?!』
『同罪だ!!』
本当なら後ろから脅かしてやるつもりだったが…こいつら。
『会いたかったぞ!!帯坊!!』
『暇だっただけでしょ』
『いやいやそんな事はないぞ?ワシらはいつだってお主をからかいたくてウズウ…』
ゲシゲジッ
『いぎっ!!』
『だだだっ!!もうお前喋るな!!』
こんな感じで少し話をした。
帯坊と言うのはこの関の人、特に兵士の中での僕の呼ばれ方で、最初の頃は皆関主の子供という事で豪帯様と様付けで呼ばれていたのだが、何故か関にくる度に呼び捨てに近づき、今ではすっかり"坊"扱いである。
今、坊を付けずに呼んでくれるのは父さんと凱雲くらいだ。
だから僕は二人が大好きでその他が大嫌いだ。
『お前ら父さんに言いつけてやるからな!!』
『まぁ気を直せって帯坊。ワシらはお前が大好きで寂しかったんじゃよ』
『う、うっさいばーか!!』
僕はお前達が大嫌いだという事を伝えてその場を後にした。
『あー面白かった』
『あんまりからかってやるもんじゃないぞ?あれでも一応18を数えておるんじゃからな、そろそろ面子が出てくる』
『そりゃそうじゃが…帯坊は変わらんのー』
『…じゃな、大切に育てられておる』
『だが、いずれ帯坊も豪統様の後を継いでワシらの上に立つ時がくるのかと思うと…心配じゃ』
『…』
『今のご時世じゃ、まだここら辺は治安がいいが、中央では政治が荒れておるそいじゃないか。…いずれここにもその波はくるじゃろ。だから政治に巻き込まれたその時、帯坊は変わらず純粋でおれるのかの』
『そん時はワシらがしっかり支えてやればいいじゃろ。帯坊は帯坊のままでええ』
『…じゃな』
『まったく、あいつらは僕をバカにするが一応上司の子供だぞ?別に威張るつもりはないけど、もうちょっと接し方があるだろ…まったく』
愚痴が後から後からこぼれて来る
僕はブツブツ言いながら関庁の廊下を歩いていた。
『だいたい父さんも父さんなんだよ!!上司として自分の息子が坊扱いされてるのにいつも変わらずニコニコ見てるだけで…』
なんだろ…
そんなに背が低いのは威厳が無いのだろうか。
凱雲は昨夜ああ言ってくれたが、今の扱いをされた後だと将来が不安である。
いずれ父さんの後を継ぐ時がくる
その時は僕が彼らの上に立たないといけない。
『…父さんにばっかり頼ってられないな』
今度バカにされた時はハッキリ言ってやろう。
僕はもう子供じゃないんだと。
あるこれ考えてる内に父さんのいる事務室の前にくる。
父さんは大概昼はこの部屋で事務の仕事に追われている。
多分、記憶はないがまともな挨拶をまだ済ませていないはずだ。
それにこれから僕がこの関で暮らすにあたっての事を色々聞かなければならない。
トントン
『なんだ』
中から父さんの声がした。
僕は戸を開いた。
『父さん』
『おぉ帯よ、もう起きてたか』
事務机に資料を並べた父さんが椅子から立ち上がり、こちらへ来る
同じ家族なのに父さんの背は並にあり、僕と僕の前に立つ父さんが一度手を繋げばなんとも微笑ましい光景に見えるだろう。
まあ手を繋いだりはしないのだが。
成人ですし。
大人ですし。
『仕事を片付けてからお越しに行こうと思っていたが、中々終わらなくてな』
『別にいいよ、仕事終わるまでまってようか?』
『いや、折角席を立ったのだから休憩にするよ』
そう言うと父さんは背を伸ばした
骨が面白いように鳴るあたり、相当な時間席を立たなかったのだろう。
『なんの仕事してたの?』
『ん?いやな、商人達から宿舎の増設依頼が来ててな。…まぁ、見ての通りここには空地など既に無いのものだから古い宿舎を併合できないものかと探しておったんじゃ』
『大変だね』
『そんな事言ってられるのも今の内だぞ?いずれお前もやる事になるのだからな』
『一日机と睨めっこなんてやだな…』
『案外やってみると楽しいもんだぞ?』
『え~、そんなの言うのは父さんくらいだよ』
『いやいや最初はきつかったが、小さい街がどんどん大きくなって行くんだ。それが子供を育てるみたいでなんとも…』
『実の息子をほっといて良く言うよ』
『いや、それは…』
わざとムスッとした態度を見せると父さんが本当に困った顔をする
父さんはこういう人だ。
『…っぷ、冗談だよ。本気にしないでよ父さん』
そうだとも。
父さんはいつも自分の事より周りの事を考えてくれている。
僕が叔父さんに預けられていたのも、まだこの関に赴任当初は治安が今より良くはなく、毎日のように狭い通路で商人と住民との間で揉め事が起きていた。
更には住民側が自分達の正当性を主張する為に組合なる組織を作り上げて暴力で商人達を追い出そうとするなど散々であった。
そんな状況では息子の相手はおろか、息子の安全すら確保してあげれないということで僕は叔父さんに預けられる事になった。
それに治安が良くなった後だってこの関は交易の要にある拠点である。
やる事は山済みなのに間を見つけてはわざわざ関に僕を呼んで相手をしてくれた。
そこまで考えてくれている父さんを嫌いになれるわけがない。
『僕は父さんの息子で鼻が高いよ』
『すまんな』
『いいって。それにこれからは一緒に住むんでしょ?気にならないよ』
『うむ、これからはしっかりワシの後を継げるようにしてやるからな』
『ははは…。あ、そういえば僕、なんで宿舎で寝てたの?僕、今朝の事あんまり覚えてなくて』
『やはり覚えてはいないか。ワシの所にお前達が着いたと聞いたから出ていけばお前、凱雲の前に乗せられて居眠りしておったぞ』
『あー…なる程』
『そのまま凱雲がお前を宿舎に連れてったんじゃないか?あ、それはそうとお前達賊に襲われたそうじゃないか』
『うん。…凱雲ってすごいんだね』
『そうじゃろ。ワシの頼もしい片腕じゃからな。…ところで何人の賊に襲われたんじゃ?あいつは大した数ではないと言うが何分あいつは謙遜が過ぎる部分があるからな。賊の規模によっても色々やらねばならないからな』
『ん~…18人くらいじゃないかな?』
『…まぁ、確かにあいつにとっては大した数では無いな』
『え…』
『賊くらいならあいつ、50は相手にしてみせるんじゃないか?』
言葉が出なかった。
県庁さんからもらっていた書物の中で豪傑と呼ばれる存在の事は知っていた。
だが、あの凱雲がその豪傑に近い存在、または肩を並べれる存在だとは思いもしなかった。
『それはいくらなんでもないんじゃないかな?』
『いや、ワシらは幾つかの戦場に赴いた事があるが、あいつの強さときたらそりゃもうすごいものだったぞ?時には凱雲を見ただけで敵兵は逃げる時もあったからな。ははは』
笑い事ではない。
もし仮にそれが本当なら僕は次に凱雲と会う時どんな顔をすればいいかわからない。
現に今も今までの事を思い返してみてはいるが、とてもじゃないがそんな人に対する接し方をした覚えがない。
それどころか僕は小さい頃に一度凱雲の顔に泥だんごをぶつけた事だってあったのだ。
背中を嫌な汗が流れた。
『…っふ、お前なんて顔をしているんだ。』
『…いや、これからは凱雲を怒らせないように気をつけようかと』
『いやいや、あいつは小さい事は気にしないからいつも通りでいいんじゃないか?変にお前がオドオドしていてはあいつもどうしたらいいか困るだろ』
『…そうだね。ところで言っちゃ悪いけど、よく凱雲はこんな辺境に留まってるね。都の方なら今みたいな一武官じゃなくてもっといい場所につけそうなのに』
『確かにな…。実際北の涼族との戦が終わった時、凱雲に都から直接部隊長への誘いがあったみたいだが、どうにもこれを断っているんだ』
『父さんも大分慕われてるね』
『いやいや、多分あいつはこの地方から離れたくないんじゃないか?まったく、あいつも変わり者だよ』
父さんはどうにも昔から人の好意にはうとい。
実際父さんは県長だった頃からみんなに慕われていたし、今だって兵士や街の人達からも信望があつい。
だが、本人にはまったくそれがわからないようだ。
でもそこが父さんのいいところなのかもしれない。
『あ、そうだ。凱雲ってどこにいるかわかる?』
『あいつはお前を宿舎に連れて行った後、自分も休むと言っていたぞ』
確かに凱雲は僕の護衛で村に来た時から一睡もしていない。
本当なら父さんの言うとおりなのだが。
『わかった。ならこれから凱雲の所に行ってくるよ』
『うむ、終わったら宿舎の方にいてくれ。色々話さねばならない事があるからな』
『うん、仕事頑張ってね』
『あぁ』
そう言って部屋を後にした。
『迎撃、構え!!』
『『ハッ!!』』
部隊の駐屯所に凱雲はいた。
凱雲の事だと思って真っ先に来て見たらやはり自室で休んでなどいなかった。
多分何故かと問えば職務だからと言うのは目に見えている。
しかし父さんがああいう性格だ。
凱雲が休まず練兵に精を出していると知れば意地でも凱雲を自宅へと追いやるだろう。
しかし凱雲も長年父さんと一緒にいる間柄それをされる前に手を打っている。
だが、そんなにも仕事熱心になるのはどうかと思う。
体を壊しては元も子もない。
それに朝方に関に着く予定だったものを僕が村の人達と別れを惜しんで一行に村から出られなかったために予定を狂わせてしまったのかもしれない。
そう思うと少し申し訳ない気がする
『あ!!帯坊だ!!』
一人の兵士が僕に気付き走って来た。
それに続いて他の兵士達も腕を止めて僕の方に走って来る。
それを見ていた凱雲は始めは止めに入ろうとしたが、僕の登場で既に空気が訓練の雰囲気では無くなったのを察し諦めたようだ。
始めに走って来た兵士が小声で耳打ちする。
『よくやった帯坊…!!』
どうやら僕はみんなのサボりに利用されたようだ。
続々とみんなが僕の周りに集まってくる。
僕も凱雲に聞こえない声で喋る。
『みんな相変わらずだね』
『いやな?今日は帯坊の護衛から凱雲様が戻られたばかりだからみんな訓練は無いものだとばかり思っていたんだが…甘かった』
『みたいだね』
『ワシらだってたまには休暇が必要じゃというのに…帯坊、なんとかならんか?』
『なんとかも何も僕には何の権限もないよ』
『いや、最悪凱雲様でなくても豪統様に伝えてくださればいいんじゃ、"兵士がみな休暇を欲しがっておる"と』
『ん~…どうしよっかな~…』
『お願いじゃ!!』
みんな一斉に僕に頭を下げ始める。
こうやって責任者の息子に対して"休みをくれ"と兵士達が頭を下げるあたりこの関の防衛は大丈夫なのだろうか。
まぁ悪い気はしないが。
凱雲がこっちに向かってくる。
兵士達からは次第に焦りに似た感情が伝わってくる。
よし、今だ。
『あ、そういえば今関庁の前の警備している二人にすごくからかわれて恥ずかしい思いしたな~』
『おい、誰か!!今の時間関庁の警備してる奴を知ってる奴いるか!?』
『確か牌頻と陳常が居た気がします!!』
『よし、あいつらには悪いがワシらの為じゃ。犠牲になってもらおう。それでいいか?』
『うん。父さんに伝えとくよ。』
『『ウォー!!』』
兵士達から一斉に歓声が上がる。
そんなに休みたいのかこの人達は。
凱雲が若干顔を渋らせながら僕のそばまで来る。
多分何か良からぬ事が起きたのだとは察したようだが既に遅い。
ニヤニヤして凱雲を見る兵士達の中を凱雲が歩いて来て僕の所にくる。
『豪帯様、良く寝られましたかな?』
『おかげでね』
『いえいえ』
『ところで兵士達からはなんと?』
一瞬で場が静まり返る。
兵士達は次の僕の言葉に固唾を飲んで待った。
『いや?みんな僕に会えて嬉しいってさ』
『帯坊様!!』
『帯坊様!!』
兵士達からまたも歓声があがる。
結局様付けはしても僕は帯坊のままなのか。
そこに少し不満を感じたが今は不問にしよう。
凱雲は見え見えの嘘に溜息をついていた。
凱雲には悪いが僕もあの二人には返さなければいけない借りがある。
それに近い内に兵士達との密約は明らかにされる。
それまでは我慢してもらおう。
『あ、それより凱雲。寝なくて大丈夫?』
『いえ、職務は職務ですので』
やはりこう返されるのか。
だが、折角のいい機会だ。
ここはもう一つ兵士達に恩を売っておこう。
よかったな、兵士諸君よ。
今僕は最高に気分がいい。
『ダメだよ。凱雲が体壊しちゃったらそれこそ一大事だよ』
『いえ、私はこういった事には慣れていますので』
『慣れていたっていつかはそのしわ寄せがきちゃうよ。無理せずに今日くらい…』
『兵士達もそれは同じです。それなのに私だけが休んでいては示しが付きません』
ぐぬぬ。
中々引き下がらないな。
だが、僕だってここで引く訳にはいかない。
さっきから僕へ浴びせられている兵士達の無言の応援と期待に僕は答えなければいけない。
そうだとも。
今の僕は兵士達の希望そのものなのだ。
兵士達よ、任せておけ。
そう僕は背中で語った。
僕は奥の手を使う。
『…なんかごめんね。僕が村を出るのが遅れたばっかりに』
『いえ、別れを惜しむのは誰しも同じですよ』
『でもそのせいで予定が狂って寝れなかったんでしょ?』
『いえ、そんな事は…』
『なのに僕はこんな時間までグッスリ寝ちゃって。それに良く考えれば僕が村で話をしてる時もずっと凱雲は後ろで何も言わずに待っててくれてて…凱雲だって相当疲れてるはずなのに僕は…』
『…』
沈黙。
僕にはこれが精一杯だ。
流石にこれ以上は怒られる。
みんなもそれはわかっている。
もう後は無い。
これが最後のチャンスだ。
静かに流れる時間の中、僕と兵士達は固唾を飲んで次の言葉を待つ。
どうだ?
『…わかりました。少ししたら私も休暇を頂きましょう』
『『『『ウォー!!』』』』
一際大きい歓声が湧き上がる。
その声は駐屯所の柵の向こうにまでそれは聞こえていたらしく、道行く人々も何か何かとこちらを見ている。
兵士達は皆喜びを噛み締めていた。
ある者は抱き合い、
ある者は涙し、
ある者は僕に向かってただひたすら頭を深く下げていた。
その中心に僕がいた。
それがとても嬉しくもあり、誇らしくもあった。
だが、今は凱雲が目の前にいる。
演技とはいえ、無理矢理凱雲の予定を狂わせたのだ。
まだ勝利の余韻に浸る訳にはいかない。
僕は最後まで演技を貫き通さねばならない。
『よかった!!これで今日の夜も安心して寝られるよ!!』
『えぇ、何も心配なさらずグッスリお休みください』
『うん、それじゃあ僕も宿舎に戻るね』
『はい。お気をつけて』
僕は兵士達の熱い視線に見送られながら宿舎へ向かった。
なんだこの茶番は。
凱雲は豪帯の去った後、浮かれる兵士達の中で一人冷静にそう思った。
訓練を拒むが故に関主の息子にまで寄って集って大の大人が頭を下げ、更には阿呆の用に声を上げ涙を流している有様だ。
しかもこれが我らの街を守る兵士である。
豪帯様が絡むといつも私は溜息をつく羽目になる。
一体何回目の溜息なのだろうか。
そうしてまた一つ大きな溜息を着く。
そして気を引き締め直す。
『皆の者!!』
その号令に皆、何時にも増して背筋を伸ばす。
だが、決して気を引き締めた訳ではなく、ただこの後の自由な時間への期待から体に力が入っている。
まったく阿呆ばかりじゃ。
『引き続き槍による迎撃訓練に入る!!隊列に戻れ!!』
『『え!?』』
『何がえ?じゃ!!早よう隊列を組め!!』
一人の兵士がワシの前に来る。
『凱雲様、それはあんまりじゃ!!今帯坊と約束して休暇を取ると言ったではありませんか!!』
周りもそれに加わる。
『そうじゃそうじゃ!!』
『帯坊との約束はどうなるんですか!!』
『破られれるんですか!?』
より一層力強く目の前の兵士が乗り出す
『凱雲様!!帯坊との約束はどうなさるんですか?!』
ドカッ
『ウグッ!?』
『『ッ!?』』
目の前の兵士の顔を殴る。
皆その光景に唖然とした。
『さっきから聞いておれば上司のご子息に向かって"帯坊"とは何事か!!』
『す、すみませんでした!!』
兵士が頭を下げる。
『し、しかし!!凱雲様は豪帯様との約束を破られるのですか!?』
『いや、約束は約束じゃ。守るに決まっておるじゃろ』
『でしたらなぜ?!』
『ワシは"少ししたら休暇を取る"と言ったんじゃ』
『『!!!!』』
『なに、ワシも鬼ではない。それ程時間をかけようとは思わん。安心せい』
その言葉で兵士達の顔に安堵が見えた。
そんな顔をされてはワシの心も揺れてしまうではないか。
『じゃから、残りの少ない時間で全ての予定を終わらせる。泣き事は許さん』
『『!?!?!?!?』』
兵士達の顔から安堵が消える。
誰かが厳しくなければいかんのだ。
許せ。
『貴様ら…覚悟せい』
僕は道行く人々の中にいた。
本当なら気が滅入ってしまうが今の僕は最高に気分がいい。
何たっていつも僕を帯坊帯坊と馬鹿にする奴らが僕に涙し頭を下げたのだ。
こんなに嬉しい事はない。
嬉しさのあまり今だに身体の熱が冷めず、その熱が僕の高揚感を醒ます事をさせない。
こうも密集した場所で無ければ駆け足で走り回りたい程だ。
そうこうしている内に宿舎についた。
僕は宿舎の管理人の所へ向かう。
『おじさん!!』
『あ、豪帯…』
声をかけたはいいが僕の舞い上がった気分とは裏腹に、何故かおじさんは僕の顔を見るなり気まずそうな顔をした。
『ん?どうしたの?』
『いや…実はな』
おじさんが気まずそうに話し始めた
『豪帯が借りてた部屋があったじゃろ?実はあの部屋に客が来てしまってな』
『え?僕の部屋に?』
『そうじゃ、偶然あの部屋の前を通ったら居ない筈の部屋に人がおってな。そして中を見てみればそいつが寛いでおったんじゃ』
『勝手に?』
『うむ…』
『まさか…今もそいつ居るの?』
『…すまん』
『すまんじゃないよ!!だったらそいつ追い出してよ!!あれは父さんが借りた部屋でしょ!?』
『いや、そうなんじゃが…』
『そんな常識知らずの為に何を躊躇ってるの!?お金でも積まれたの!?』
『ち、違う!!違うんじゃが…』
頭に来た。
折角のいい気分が台無しだ。
このおじさんは気のいい人ですごい好きだったのに幻滅してしまった。
まさか、後から来た奴に借りられた部屋を譲るなんて。
『…もういいよ。僕が追い出してくる。』
『あ、豪帯!!やめときなさい!!』
僕は無視して部屋へ向かった。
そして部屋の前。
おじさんが追い出せないような人が中にいる。
もしかしたら柄の悪い筋肉隆々の男、もしくはその類いの見るからに危険そうな奴が…
どっちにしろ、ここで黙って部屋を取られては僕はおろか父さんまで恥をかく羽目になる。
それに悪い事をしているのはあっちで正当性はこちらにある。
最悪の場合は法に持ち込めばいい。
そうして僕は戸を思いっきり開けた。
『…え?』
最初に口に出たのはその言葉だった。
『あ?なんだよ、お前。』
そこにいたのは旅人でも民草でもない出自の良さそうな個綺麗な服に身を包んだ僕と同い年くらいの男がそこにいた。
『何勝手に入ってきてんの?ここ、俺の部屋なんだけど』
『は、はぁ!?馬鹿言え!!ここは元々僕が借りてた部屋だぞ!?お前こそ何で勝手に寛いでんだよ!!』
『…』
男はのっそりと布団から身体を起こすと、こちらをギロリと睨んだ。
思わず体に力が入る。
『お前、今俺に向かって馬鹿って言ったよな?』
『あ、あぁ言ったとも。だからなんだよ』
『お前、誰に向かって口聞いてんのかわかってんの?』
こいつ何を言っているんだ。
多分服装から見るなりある程度の身分なのはわかる。
それに比べれば僕の今の服装を見れば農民同然だ。
先日までこの服で生活していて、今日も着替える暇がなかったから機から見れば誰だって僕を農民と間違えるだろう。
だが、僕はこの街を管理する人、要はこの一帯で1番偉い人を親に持つ人間だ。
少なくともそんじょそこらのいい所の人間よりは格はある。
その僕に向かって彼は"誰に口を聞いている"と言うのだ。
僕は一息ついて胸を張って答えた。
『お前こそ、誰に向かって口きいてんだよ。僕はここの関主の一人息子だぞ!!』
どうだ。
びっくりしただろ。
『ぷっ、ははははは!!』
え?
『こりゃ面白い!!ここの関主の息子だって!?通りで田舎臭いと思ったよ!!ははははは!!』
『な、何が可笑しいんだよ!!』
可笑しい。
この街にいる以上僕の父さんより偉い奴なんていないはずだ。
それをこの男は聞いても驚き謝るどころか笑い転げている。
不思議そうな顔をしている僕に向かって彼が口を開いた。
『教えてやるよ!!お前が胸を張って威張った相手が誰なのかを!!』
『俺の名は羊班!!烈州州牧たる羊循の息子だ!!』
第四話 ~対峙~
この国は5年前、現在の皇帝鮮武によって統一された。
そして国号を零と定める。
そして彼が、正しくは今は亡き零の丞相姜燕が統一後まず行った政策は国々によって独自に分けられていた地域の整備であった。
それまでは各々の国々が独自の地域区分を持っており、領土バランスがバラバラな状態であった。
それを姜燕は土地毎の統計を元に併合、細分化を図った。
まず全国を15の州に分け、更にその下に郡を置いた。
そしてその下に県を置き、領土バランスを整えだ。
州牧、それはその州を管理する責任者。
即ちその州の最高権力者である。
そしてそんな人間の息子を名乗る人間が今、僕の目の前にいた。
『どうだ?声も出ないだろ』
言葉が出ない。
その理由は二つある。
まず半信半疑なのが一つ。
何故そんな人間がこんな辺境の関に来ていて、そして旅人用の宿舎なんかにいるのか。
何かの勘違いにしたってどうみてもこの宿舎は民草の施設である。
これは何かの脅しではないかと疑ってしまう。
しかし服装や話し方からは、ここら辺の人間では無い気もする。
そしてもう一つは、仮にこの人間が本当に州牧の息子なら、僕はとんでもない暴言を吐いた事になる。
いくら僕の父さんがこの関の責任者であっても、たかが一拠点の長である。
この関を領内に収める郡はおろか、更にそれら郡を束ねる州の長には到底及ばない。
まずい事になった。
僕の青ざめた顔を見て、目の前の羊班を名乗る男は口元をいやらしく歪ませた。
『…で?そんな俺に対してお前は"馬鹿"と言ったな?』
『…っ!!』
何も言えない。
仮に正当性がこちらにあったにせよ、僕は遥上の人間に向かって暴言を吐いてしまったのだ。
それは変わらない。
『なんとか言えよ、え?』
だが、それでも権力によって権利を奪うのは間違っている。
それに、それは権力を持つ人間がする事ではない。
僕は口を開いた。
『貴方に対して暴言を吐いたのには素直に謝りましょう…しかし、元々正式にここの部屋を借りていたのは私です。そこに無断で上がり込むのはいくら州牧様のご子息様でもいけない事だと思います。』
『はぁ?お前何言ってんの?』
『え…?』
『俺はな?この烈州を治める人間の息子なわけ。つまりこの烈州では親父が法であり、その息子の俺が正義なの。わかる?』
空いた口が塞がらない。
無茶苦茶にも程がある。
しかし目の前の人間は、その冗談の様な理論を本気で信じているようだ。
僕はこんな人間と対峙するのは始めてで、どうしたらいいのかわからない。
続けて羊班は口を開く。
『これだから田舎者は嫌いなんだよ。世の中の常識を知らなさすぎて話にもなりやしない。息子がこの調子だと親の方もたかが知れるな』
『…おい』
『あ?』
『父さんの悪口だけはやめろ』
父さんが馬鹿にされた。
しかも、こんな訳のわからない奴に。
僕は必死で手が出そうになるのを堪えて警告した。
だが、羊班は怒りで震える僕の拳に気付き口元をニヤつかせた。
『やめなかったらどうすんだよ、豚子』
僕の身体は考えるよりも先に布団の上にいた羊班へ飛びかかっていた。
しかし、挑発の前からその行動を察していた羊班は布団から飛び退いて腰にあった剣を引き抜く。
『かかりやがったな馬鹿め!!これで名実共にお前は烈州に反逆した賊だ!!』
『なっ!?』
『これよりこの羊班が直々に処刑してやる…覚悟しろ』
ふざけるな。
元々部屋に勝手に上がり込んだこいつに非があるのに、謝るどころか散々貶してきた挙句命まで奪おうとする。
そんな事が許されてたまるか。
それはもう国の役人のする事ではなく、それこそ賊と変わらないじゃないか。
僕は自分の腰の得物に手を伸ばす。
『お?やるか?』
反応から見るにこいつもそれなりに腕には自信があるようだ。
だが関係無い。
僕だってわざわざ遠い村から関にまで毎回遊びに来ていただけではない。
僕は腰帯から得物を抜いた。
『ぷはははは!!腰に手をやるもんだから剣かと思えばなんだ、ただの鉄鞭じゃないか!!』
羊班は急に笑声を上げた。
まぁ無理もないかもしれない。
この男が笑うように鉄鞭と言うのは剣の様な形で、刃の部分だけが棒状になっている打撃武器で基本的には刑罰や拷問に使われるものである。
それを剣の変わりに持ち歩いているのだ。
機から見れば可笑しな話である。
だがこいつは一つ勘違いをしているようだ。
まあそれは時期にわかるだろう。
『親父からもらったこの名剣の初の相手が鉄鞭では格好がつかんが、まあいい。この剣の切れ味、その身体で為させてもらうぞ』
『喋ってばかりいないで早くこいよ』
『…言ったな?』
羊班はしっかりと重心を落としてジリジリと距離を詰めてくる。
流石にあちらも闇雲に突っ込む事はしてこない。
こちらとしては飛びかかってくれた方が組みしやすいが、どの道僕の戦い方では自分から攻めには回らない。
僕も相手の剣先に全神経を集中させて時を待った。
そしてついにその時がきた。
羊班は間合いに入ったと見るや否や剣を大きく振りかぶりこちらに飛びかかってきた。
それを見て僕は剣の軌道を予測して頭上に鉄鞭を構え、受けの態勢に入る。
『もらった!!』
羊班が叫ぶ。
だが、それはこちらの台詞だ。
キンッ
金属と金属がぶつかり合う音がした。
羊班は驚いていた。
自分の剣は鋭さでいえば相当なものであった。
名剣と言われて渡されたその日に切れ味が気になり、家畜を斬り殺した事があった。
だが余りにも面白いように切れるものだから試しに兵士から奪った剣に振り下ろしつみた。
そしたらその剣は金属のぶつかり合う音と共に裂けるように真っ二つに切れた。
それ以来ずっとこの瞬間を想像しながら待っていた。
敵が自分の剣を受け止めた時、果たしてどんな顔をして死んで行くのかを。
それは恐怖なのか。
それとも驚愕なのか。
そして家畜ではない、同じ人間を切る感触。
羊班はそれら全ての期待をこの一振りにかけていた。
だが、結果はどうだ。
目の前の鉄鞭は俺の剣を全く通さないではないか。
めり込みもしていない。
一瞬羊班の剣から力が抜ける。
それを豪帯は見逃さなかった。
『はっ!!』
『ッ!?』
カキンッ
渾身の力で羊班の剣を跳ねあげる。
なんとか剣を握り締めて持ちこたえたみたいだが、体制を立て直す隙は与えない。
立て続けに斬撃を打ち込む。
キンッ
キンッ
キンッ
『っく!!』
辛うじて僕の斬撃を受け止めてはいるが、どんどん後ろへと押し込んでゆく。
しかし、いつまでもこの状態は続けられない。
生憎部屋は狭く、羊班のすぐ後ろには壁が迫っていた。
もう少しだ。
キンッ
ドンッ
『なっ!?』
『せいや!!』
体重を乗せて一気に振り上げる。
カキンッ
サクッ
どうやら名剣と言うのは本当だったようだ。
打ち上げられ、回転しながら宙を舞った羊班の剣は地面に吸い込まれるように突き刺さる。
勝った。
『…あぁ』
信じられないといった顔をしながら自分の剣を眺めている羊班に僕は鉄鞭のひっ先を向けた。
『ひっ?!』
さっきまでの威勢が嘘のような情けない声を出した。
幸い剣ではないから切られて死ぬ事は無い。
だが、それでも重量のある鈍器で殴られればそれなりに痛い思いをする。
それに、いくら鈍器とはいえ僕の加減次第でこの男を殺す事だってできる。
見るからに恐怖に怯えている羊班。
これがさっきまで大口を叩いていた人間の顔とは思えないくらい恐怖で顔を引きつらせている。
なんて情けないんだ。
でも、もし僕が同じ状況ならどんな顔をしているのだろうか。
やはり情けなく顔を引きつらせて僕のように相手から蔑んだ目で見られてしまうのだろうか。
そう思うと何故かこの男に対して同情の気持ちと申し訳ない気持ちが出てきた。
『お、お前!!俺に指一本でも触れてみろ!!親父が黙ってないぞ!!』
だが、この一言で気が変わる。
この男はこんな状況に置かれてもなお、潔よく負けを認めず自分の親の権力にすがり付いて逃げようとする。
それが無償に腹がたった。
だが、最後に助かる機会を与えてやる。
『…父さんを馬鹿にした事謝ったら許してやる』
『な、何で俺がたかだか一関主ごときの為に頭を下げなきゃならんのだ!?俺は州牧の息子だぞ!!わかってんのか!?』
『…ッ』
機会はやった。
もう許してやるもんか。
『や、やめろ!!』
僕は鉄鞭を振り上げた。
『豪帯!!』
聞き慣れた声に振り返るとそこには父さんがいた。
『…父さん』
父さんはズカズカと僕に近づいてきた。
そして。
バチンッ
『…え?』
父さんの平手うちを左頬に受けた。
何故?
最初に浮かんだのはその言葉だった。
自分は何も悪いことをしていない。
正しいことを正しいと言っただけだ。
非があるのはあちら側で、命まで狙われて。
なのに・・・どうして?
だが、さっきまでは頭に血が上っていて気付かなかったが僕はとんでもない事をしてしまったと気付く。
州牧の息子を相手に牙をむいてしまった。
しかも、自分は勝ってしまった・・・。
自分の行いを振り返り、血の気が引いた。
僕だけじゃ済まされないかもしれない。
僕は父さんの顔を見れなかった。
『と、父さん・・・』
『…お前は部屋の外にいなさい』
『え…だって』
『出て行け!!』
『…ッ!?』
反論することができない。
僕の身体が強張る。
父さんがこんなにも大声で人を怒なるのを初めてみた。
『…後は父さんに任せなさい』
だが、その怒声とは裏腹に父さんの顔はとても悲しそうな顔をしていた。
どうしようもない。
父さんの顔はそう語っていた。
胸が苦しい。
どうすればいい。
どうなってしまうのだろう。
どうすればよかったのだろう。
そんな言葉が何十回も何十回も頭の中を駆け巡っていうように感じた。
父さんが羊班の元に近づく。
『ひっ…!』
『…』
羊班は父さんが近づくとまたも恐怖で情けない声をあげた。
それを察して父さんは少し離れた場所で止まる。
そして。
『…うちの息子が大変失礼な事をいたしました。申し訳ございません…』
そう言って父さんは羊班に向かって膝をつき地面に頭を擦り付けた。
目の前が真っ白になる。
父さん…
やめてよ…
そんな奴なんかに頭なんて下げないで…
僕の頬に涙が流れた。
『き、貴様!!』
羊班はようやく自分が優位に立ったと気付くと、みるみる内に表情を怒らせ父さんに近づいた。
『謝って許されることか!!』
ドカッ
そう言うと地面に頭をつけていた父さんの顔を思い切り蹴飛ばした
『ッ…!!も、申し訳ございません…』
『たかが一関主の分際で!!俺は州牧の息子だぞ!!貴様のせいで!!貴様のせいで!!』
『や、やめ』
『さっさと出て行け!!』
『ッ!?』
『…っ!!』
割り込もうとする僕をより一層声を張り上げて父さんが叱る。
僕は部屋を飛び出した。
だが、それでも父さんが心配で部屋の外で耳をすませる。
ふ、ふざけんな!!
ドカッ
先程の父さんの声にまたも驚いてしまった事への八つ当たりと言わんばかりに声を張り上げる。
その怒声と殴る音が部屋の外にまで篭った音として漏れてくる。
ドスッ
ドゴッ
バスッ
申し訳ございません!!
うるさい!!
ドカッ
バキッ
『…ッ…ッ!!』
何度も繰り返される父さんの謝る声と殴られる音に涙が後から後から滝の様に流れ出てくる。
声を殺してはいるがもう我慢の限界だ。
僕は泣きながらその場を後にした。
なんて、無力なんだ。
第五話 ~討伐令~
どうしてこうなってしまったのだろうか。
不安定な世の中の為に離れ離れになっていた親子。
親も子も互いに寂しさを押し殺し、いずれ来るであろう再開の日を待ち望んだ。
私は豪統様の側にいたから良くわかる。
主が抱える自分の子でありながら自分の手で育ててやれない罪悪感と切なさを。
そして豪帯様の関でのお目付役をやっていたからわかる。
豪帯様がそんな父の気持ちを察し、どれだけ必死に幼少の頃より涙を押し殺してこの来たる日を待ち望んでいたのかを。
そんな互いが互いの状況を理解し合い、大切に思う姿に周りは皆私も含め願っていた。
幸せになって欲しいと。
そして確信していた。
幸せになるだろうと。
…しかし、実際はどうだ。
感動の再開を果たした二人を待っていたのは更なる受難…。
片や父は顔や身体中に痣を作り、片やその子は今私のすぐ後ろを虚ろな目で弱々しく歩いている…。
いったい誰がこんな状況を予想できたのだろうか。
そしてこの状況を作り出した受難…烈州州牧洋循の第二子、洋班。
彼…いや彼ら家族の噂は耳にしていた。
州牧である洋循は戦時に零と対峙したこの州の元国、烈の将であり、長引く戦を内部の工作活動…裏切りによって終焉えと導いた功績で、この州を一旦に任せられた人間。
当時軍部では自国を裏切った者を州牧に据えるのに反対した者もいたが、零にはまだまだ敵が多く、烈州に時間を割ける時間がなかった事から"一時的に"烈州出身であり、裏切り者ではあるが功労者でもある洋循に白羽の矢が立った事になっていた。
しかし、その選択は公正とはかけ離れた世界をこの地に生んだ。
最初は大人しくしていた洋循だったが、戦後都では政治の中枢であった姜燕様の死によって混乱が生じ、洋循はその機に乗じて主要な地にいる本国からの官士を追い出し始めた。そして空いた場所には自分の親族や息の掛かった部下を配し、独裁を欲しいままにしていた。その独裁下では税は重く民にのしかかり、反抗の意思がある者を徹底的に排除されてきた。
しかしそれはあくまで烈州の首都周辺の事であって、この関の様な僻地には権力者が欲しがる旨みなど無いに等しい場所にとっては関係無い話しであった。
当然無用な動きを見せなければ権力者が絡んで来る事は無い。
だが、その権力者の子が現れてしまった。
理由はまだわからない。
『…凱雲』
か細い声で名前を呼ばれる。
振り返ろうとした時、自分の袖の辺りに違和感を感じた。
その違和感の正体はすぐにわかった。
豪帯様が袖の端を握っていた。
しかしそれは腕を動かすだけで離れてしまう程弱々しく握られていた。
それが痛々しく、振り返えるのを躊躇してしまった。
『…ごめんなさい』
唐突な謝罪。
だが、私は豪帯様の言わんとしている事が理解できた。
彼は人一倍我は強いがそれと同じくらい自分のした事への罪悪感も強い。
『…僕があいつに逆らわなければこんな事に…っ』
気付いた時には豪帯様の小さな体を抱きしめていた。
…謝るのは私の方だ。
何もしてやれない。
ここで我が命を張った所で所詮できる事は限られている。
人一人くらいなら容易く殺める事もできる。
だが、その父や州となると話は別だ。
兵を挙げれば抗う事は可能だ。
だが、それは同時に私の周りの全てを巻き込むという事。
何より我が主、豪統様がそれを望んでおられない。
昨日日が沈み掛けた頃、私の部屋に豪帯様が来た時は驚いた。
戸が騒がしく叩かれるものだから開けてみれば、顔中を涙で濡らした豪帯様が私にしがみつき必死に謝罪の言葉を言いながら泣き続けられるのだ。
理由を何とか聞き出した時は血の気が引いた。
まさかと思った。
駆け付けた時には既に豪統様は全身に傷をおいながら床に伏しておられた。
その豪統様の頭に足を乗せて罵り続ける洋班を見た時は私は冷静さを失ってしまった。
一喝の元叩き斬ってしまおうと思ったが伏せていた主がそれに気付き静止されてしまった。
そして主に駆け寄った時言われてしまった。
"決して早まるな"と。
私は一言命令して下されば例え州であろうが国であろうが豪統様の為に命を捧げる覚悟はある。
だが、その豪統様に私は早まるなと言われてしまった。
私が豪統様の意向を無視する事は決してあってはならない。
そう、あってはならないのだ。
そしてもう一つ言われた。
"息子を頼む"と。
『…豪帯様、大丈夫です。私がついております』
『…うぅ、ひっく、ごめんなさい…うぅ…ッ』
私に抱かれながら体を震わせ泣くこの少年に対して私がしてやれる事は"大丈夫"と根拠の無い言葉を掛けてあげるだけ。
なんて無力なんだ。
しかし、いつまでも泣かせたままではいけない。
今私達二人はあの洋班に呼び出しを受けている身。
もし少しでも待たせてしまったらあのガキの事だ。
きっと権力で更なる災いを招くだろう。
それだけは避けなければいけない。
主が為、そして豪帯様が為に。
『…豪帯様、そろそろ』
『…』
豪帯様が無言で頷かれる。
ふと見えた目には力が篭っていなかった。
…いったいどうしてこうなってしまったのか。
『おう、随分と待たせてくれるじゃねえか』
政庁には既に洋班と豪統様がおられた。
だが、本来豪統様がいるべきはずの上座には洋班が座っていた。
右手には酒杯が握られている。
そしてその隣に侍らずように部下と共に豪統様は並べられていた。
顔中の痣は青くなっており昨夜部屋にお連れした時よりもさらに痛々しく見えた。
自然と拳に力が入る。
『酒はまずいわ部下は上役を待たせるわ…やはり無能な人間の下にいる奴らは使えない奴らばかりだな。なぁ?』
『…申し訳ございません』
『あ?』
ドカッ
『…ッ!』
豪統様は額に酒杯が投げ付けられ膝をついた。
隣にいた部下達は心配そうに寄り添う。
私は今殺気を隠しきれているのだろうか。
なんとしても主の命は遂行せねば。
『と、父さん!』
『ん?』
私の後ろにいた豪帯様が姿を出した。
『おぉ、呼んだのに姿を見せないからてっきり逃げたと思ったが。まさか武官の後ろに隠れていたのか。はははっ』
『…ッ』
『あ?なんだその目は』
『あ、いや、ちが』
『お前はまだ自分の立場がわかってねぇようだな』
『洋班様』
『あ?』
洋班が腰をあげた所を静止させた。
不味い酒で気だるくなる程酔ったこの男を豪帯様に近づける訳にはいかない。
豪帯様は私の後ろで震えていた。
『お酒の方はその辺りでおやめになられた方がよろしいかと』
『…お前、昨日はよくも恥をかかせてくれたな』
昨日の恥…。
多分昨夜の宿屋での出来事だろう。
いつの間にか部屋から姿を消していたあたり、たかが喝の一つで部屋から逃げ出したのだから軍人、もとい男としては恥も恥だろう。
だが、その事を根に持ち、権力を傘にして威嚇してくるあたり自分が周りからどれほど滑稽に見えるのかはわかっていないようだ。
本人は気付いていないが周りの兵士達の顔色を見る限り、昨夜の噂は大分まわっているようだ。
洋班は続けた。
『お前は昨日俺に対して何をしでかしたかわかっているんだろうな?』
『はい、十分存じております』
『なら、覚悟はできているんだろうな…?』
洋班は口角を釣り上げてこちらを見ている。
すっかり自分が優位に立っている事に安心しきっているようだ。
『ほぅ…洋班様は我が首がお望みか?』
『…っ!』
だが、私はそんな餓鬼に付き合ってやる程甘くはない。
怒気を圧し殺した声で睨みを効かせてやる。
『…お、お前の首何ぞ何の価値も無いわ!』
案の定、直ぐに根をあげて顔をそらした。
こういう権力にしがみつく人間に対して引いては頭に乗るだけだ。
だからこそ始めから権力が通じない人間がいる事をわからせる必要がある。
洋班は遣る瀬無いといった表情のまま上座に座り直す。
残念だ。
もし、このガキにもう少しの気概があれば叩き斬ってやれたものを。
まぁ、無いとわかっての挑発ではあったが。
だが苦し紛れとはいえ、我が首級に価値が無いとぬかした事、憶えておくぞ。
『…くそっ』
悪態をつく洋班の傍らで、さっきまで膝を付いていた豪統様と目が合う。
すると、気付かれないように小さく頭を下げられる。
…いえ、豪統様の命に従ったまででございます。
心の中でそう呟きながらこちらもあちらより深く、そして気付かれないように頭を下げる。
ふと後ろに目をやれば安心したように息をつく豪帯様がおられる。
彼は彼でとても素直で純粋でそこが魅力だが、裏を返せばまだ世の中の清濁を飲み込む器量が無いという事だ。それが仇となり今回の問題が起きた以上、これからもできるだけ洋班と近づけないようにしなければいけない。
『…そうだ』
唐突に洋班が口を開く。
『おい、豪統』
『はっ』
『俺は父上からお前に対しての命を仰せつかった。心して聞け。』
『ははっ』
父上、つまりは州牧からの関将である豪統様への命である。
多分この内容こそがこの洋班がこんな辺境へ来た理由なのだろう。
いったいなんなのだろうか。
洋班は懐より一枚の紙を取り出し、読み始めた。
『これより陵陽関にて治安向上の為、周辺の賊、および蛮族に対しての掃討を命ずる!尚っ、掃討作戦の指揮官は洋班に命ずる!以上!』
やりきったような顔で洋班が締める。
内容は要するにこの地の州牧様は自分の息子に実践の経験と賊掃討の名声を稼がせる為にわざわざ首都から離れたこの辺境にこのガキを遣わしたのだ。
だが、それなら洋班がこの地に来たのも頷ける。
基本的に賊は首都より離れた場所に発生するものだ。
何故かといえば、官軍の目から離れた場所にいれば、官軍側の行動する労力や時間などの理由から小さい規模なら目を瞑られる可能性が高いからである。
さらに、この地は元々蕃族との歴史がある地である為に賊、及び蛮族の数には困らないと踏んだのだろう。
だが、それはこの関に限っては見事に外れている。
そもそも賊に対しての対策は十分に進めていて、今ではすっかり関周辺は平和になっていた。
さらに蕃族にいたっては既に独自の共栄関係が出来ていて、互いに民族の違いはあれど商売相手である。
よっぽどの事がない限りは蕃族との問題は起きない。
それを州牧様は知らないようだ。
元烈国出身が聞いて呆れる。
だが、問題はそれではない。
豪統様はどうなさるのだろうか。
『…洋班様』
『ん?なんだその反応は。州牧の命に不満があるのか?』
『い、いえ、滅相もございません!ただ、その掃討する賊についてなのですが…』
『?』
これはどうしようもない。
賊は増やしたくて増やせるものではないし、そもそも現れてはいけないのだ。
洋班殿にはお引き取り願わなければ。
『実はこの近辺では賊は既に根絶やし、蕃族にいたっては既に友好関係を築いていまして…』
『…なんだと?』
わざわざこんな辺境に足を運んで頂いて申し訳ないですな。
『ならば蕃族を根絶やす』
『…は?』
…なんだと?
『賊がいないなら蛮族を狩ればいい』
こいつは何を言っているのか。
さっきの話を聞いていなかったのか?
『いや、ですから蕃族とは既に友好関係を…』
『蛮族との友好関係などに何の意味がある?むしろ我ら本国の民が劣等民族と友好関係だと?ふざけるな!』
…そうだ。
ここでの生活が長かったから忘れていたが、基本的に私達は他の民族を"劣等"と見下し自らを"高等"と名乗る民族であったのだ。
考え方としてはこうだ。
長い戦乱と歴史の中で勝ち残り、今では大陸15州を統べる我らが至高で尊い民族であり、他の追随を許さない絶対の民族である。
そして周辺民族は取るに足らない存在であり、あっても我ら民族を脅かす"害"でしかない…と。
この大陸は広大で古代の頃は民族が乱立していた地であった。
その中で民族淘汰を生き延びた自信がそのまま傲慢な民族性に繋がっているようだ。
私も例外ではなく、数年前の戦乱の時は自らを孤高の民族だと信じて疑わなかった。
むしろ他の民族との共存意識こそが少数派であり、民族淘汰の世界では種を絶滅させる危険な思想だと。
その後私は豪統様と出会って感化されてしまったが、誰しもが何百年も続く民族意識を払拭できる訳ではない。
それどころか、今でこそ少なくなった民族同士で均衡が保たれているが、いつまた民族淘汰が始まるかはわからない。
だからどちらが正しいかなんてわからないのだ。
都の方では大学ができて以来この民族至高主義の考え方を否定した教えを広めているらしいが、大学自体がまだ日が浅く、全体への意識の広まりも薄い。
そして今目の前にいる人間は多数派の人間だ。
最初は呆気にはとられたが、別段変な事を言っているわけではない。
そう考えると、民族意識すら忘れてしまえる程この関の環境は異質な程に独立し意識が統一されているようだ。
よし悪しはともかく、豪統様の統治はそれ程にしっかりしているようだ。
…さて、話はそれたがどうしたものか。
『し、しかし!蛮族ではあっても我々に利益をもたらす蛮族でございます!その彼らを無用な戦で根絶やしてしまうのは…』
『ならお前は俺にこんな辺境にまで来て何もせずに帰れというのか!?ふざけるな!』
『も、申し訳ございません!』
豪統様の必死な説得が続く。
私は一武官として関の方針について口を出す事ができない。
だが、州牧の命を退ける事は一関将には叶わない。
目標が無ければ話は別だが、いくら友好的といえど、蕃族はやはり蛮族なのである。
だが、蕃族との争いはなんとしても避けなければならない。
利益云々ではなく、共に生きる関の仲間として。
これは豪統様が一番に大切にしている意思であり、望んでおられる事だ。
そして私は豪統様の兵士だ。
主の望みを叶えるのが兵士の役目。
ならば…。
『洋班様』
『下っ端は黙ってろ!』
『この地にはまだ賊がございます』
『…あ?』
『凱雲!お前何を!』
『豪統!貴様は黙ってろ!』
『…っ!』
…豪統様、申し訳ございません。
『詳しく話せ』
『はい』
『…』
私はできるだけ豪統様と目が合わないように洋班に話し始める。
きっととても悔しそうに、そして怒りに満ちた目でこちらを睨んでおられるのだろう。
『陵陽関より西に位置する荀山という山の麓を根城にする賊がございます。規模はだいたい50~100といったところでしょうか』
『なんだ?そんなちっぽけな賊もうち取れないのか?』
『…申し訳ございません』
『はははっ!安心しろ豪統!俺がお前の尻拭いをしてやるよ!』
『ありがとうございます…』
もう少しの辛抱を…。
『洋班様、討伐軍はいかがいたしますか?この城には動かせる兵が500程いますが』
『ん?なんだお前。さっきとは違い随分と主を差し置いて積極的じゃないか?』
『いえ、ただこの関の兵を預かる身なので…』
『ふん…まぁいい。だが兵士はいらん。』
『…兵は使われないのですか?』
『いや、兵士は別に用意してるからな』
『と、言いますと?』
『もう少ししたら2000の兵が徐城より送られてくる。そいつらを俺が指揮する』
つまりこいつはその兵士達より先行してこの関へと来たわけか。
『遅くても明日の昼には着くだろう。兵が到着次第準備に取り掛かる。兵を受け入れる準備をしておけ。』
そういうと洋班は席を立ち、出口へ向かおうとこちらえ歩いてくる。
私達二人は出口への道を空けて礼をとる。
横に来た豪帯様を横目で見ると目には涙を溜めていた。
無理もない。
目の前で尊敬する親が嫌いな人間に対して好き勝手言われ頭を下げている場面を見せられたのだ。
そしてそれを自分ではどうする事もできない。
…さぞ悔しい事でしょう。
もう少しの辛抱です。
だが、洋班が私達二人を過ぎようとしたところで立ち止まる。
それを感じとった豪帯様は身構えた。
だが、標的は豪帯様ではなかった。
『…なぁ、凱雲とか言ったな?』
私だ。
ここに来た直後のやり取りが原因か。
となると幾ら脅しはできても私も奴より遥かに格下の地位だ。
腹を括らなければいけない。
覚悟を決める。
『お前、俺の部下になれよ』
だが、そんな私の予想は以外な言葉で吹き飛んだ。
『…お戯れを』
『冗談で言ってんじゃねえよ。確かに俺はさっきといい昨日といい二回もお前に辱めを受けたが…。だが、そんなお前の肝玉を買ってんだ。それに腕っ節だって相当自信あんだろ?』
『いえ、そんな事は…』
『その謙虚さもいい。どうだ?悪い事は言わん。こんな辺境のへなちょこ親子の下より俺の下の方がよっぽど出世できるぜ?』
そう言いながら洋班は隣の豪帯様に目をやる。
豪帯様の拳に力が入ったのがわかった。
…悔しいでしょう。
しかし、申し訳ございません。
『お褒め頂きありがとうございます。…確かにここではこれ以上の待遇は望めませんな』
『…っ!』
『…』
『ふんっ。それでいいんだ』
この凱雲、いくら相手が相手であっても腕を買われたのは武士としては誉な事だ。
…だが。
『しかし、貴方の下よりは幾分もマシでございましょう』
『え?』
『!?』
『貴方の器量では私は使いこなせないという事ですよ、烈州州牧の 息 子 殿』
『き、貴様…っ!』
『…凱雲』
間接的に貴様と豪統様では器量が違うと言い放つ。
そもそも貴様の様な青二才の下で出世したところで武士として何を誇れようか。
私の主は豪統様ただ一人。
そして我が主を穢す者はこの凱雲が許さない。
本来ならこの餓鬼をこの場で即座に叩き斬ってやるところだが、主の命がある。
…命拾いしたな、小僧。
『凱雲…ッ!貴様の名覚えたぞ…ッ!』
『光栄にございます』
『…ッ!』
そう言うと洋班は即座に内宮を後にした。
豪帯様は安心したのか一気に膝をついた。
お疲れ様でございます。
…だが、私はまだこれからだ。
『…凱雲』
豪統様に呼ばれる。
『我が主は豪統様だけでございます』
『誤魔化すな!』
『え…と、父さん!?』
近付いて来た豪統様に胸倉を掴まれる。
それを見て何故豪統様が怒っているのかわからない豪帯様が慌てだす。
周りの兵士もそれを見て慌てていた。
『何故だ!何故あの村の事を喋った!答えろ!』
『父さん!やめてよ!凱雲は僕らを守って』
『帯は黙ってろ!』
『ッ!』
豪統様は怒りのあまり豪帯様に怒鳴る。
それを受けた豪帯様は完全に怯んでしまった。
『何とか言え!凱雲!』
『我が主の望みを叶える為にございます』
『ふ、ふざけるな!』
ドカッ
顔に豪統様の拳を受ける。
だが、私の方が体格があるせいで怯みはしない。
それを見て豪統様は悔しそうに若干私から後ずさる。
少し冷静さを取り戻したのを見計らって私は膝を着いて平服する。
『…勝手な真似をした事は存じております。本当に申し訳ございませんでした。…ですが、蕃族との争いを避けるにはあの村を引け合いに出さねば…』
『だがっ!彼らは、彼らは賊ではない!彼らは…私の民だ…』
『…』
そうだとも。
豪統様はいつだってこうだ。
豪統様が言われる村の民とは、元々村だったところを根城にする紛れもない賊なのだ。
豪統様が関将に就任した時に行った政策の内の一つとして治安向上の為に行った周辺の賊に対する討伐を行った事があった。
その頃は関外では賊の根城は幾つもあり、それはそれは大変であった。
その掃討作戦の時に出会った賊の一団なのだが、この時に豪統様は意図的にこの賊を見逃したのだ。
理由は『彼らは更生の余地がある』とか。
実際他の賊とは違い、私服を肥やす為に活動しているわけではなく、村を上げて国の重税から逃れる為に徒党を組んだ一団なのだ。
その為、豪統様は掃討作戦が大方片付いた時に税などを公平に戻し、国への帰順を促した。
しかし彼らは帰順を望まず、独自の自給自足を望んだ。
理由としては国がまだ信用できないだとか。
そこで豪統様はこの一団に対してある約束を交わされた。
その約束と言うのは自分が関将である内は村の独立を容認する。
その代わり、他の村々への盗賊行為の禁止といつでも安心したら帰順しろという、まともな官士が聞いたら頭を抑える程に甘ったれた約束だ。
私も当時は反対したが、豪統様は聞き入れず『善政によってあの一団を解体する事を目標にする』と突っぱねられた。
そしていつの間にか近隣の村々ではあの村の事を独立の象徴と言うようになっていた。
最近ではあの一団の構成員の数は次第に減少しているらしく、残っている人間も独立の象徴として一団を存続させているに過ぎない。
…確かに害をなさないのだから賊では無いのかもしれない。
しかし、彼らに犠牲になってもらわねば我が国はそれ以上の虐殺をしなければいけない。
その事は豪統様も分かっておられるのでしょう。
だが、その優しさからいざと言う時に決断ができない。
…だからこそその辛い決断は私が引き受けましょう。
『…私は彼らを守ってやれないのか?』
『はい、全ては多くの民草の為に…』
自分で言っておいて反吐が出る言葉だ。
民を犠牲にしておいて何が民草の為か。
だが、私はそれでも言い切らなければいけない。
…すまない、村の民よ。
『…』
『…では私はこれより兵の受け入れの為に準備をします。豪統様は部屋でお休みになっていて下さい。』
『…すまない』
『いえ。…私が言うのもどうかとは思いますが、心中お察しします。』
『…ありがとう』
そう言うと豪統様は豪帯様に近寄る。
『…帯。辛い思いをさせてしまってすまないな』
『…』
豪帯様は一旦ふさぎ込んだが直ぐに顔を上げた。
そして。
『僕は大丈夫だよ。父さんもあまり無理はしないでね』
ぎこちない笑顔でそう答えた。
そしてそれを聞いた豪統様は豪帯様を力一杯抱きしめていた。
抱きしめられた豪帯様は今にも泣いてしまいそうだった。
後の事は兵士達に任せて私は内宮を後にした。
兵舎へ向かう為、政庁の出口へ向かう廊下で私はあの二人の親子の事を考えながら自分の行いについて振り返る。
…私の行いは正しかったのだろうか。
洋班という男は親の権力のまかり通る環境で生きてきた人間だ。
だからこそ私はその権力が絶対ではないという事をわからせる為に虚勢を張っていた。
でなければ、この先洋班がどれだけこの関に居座るかは知らないがそれまでにきっとあの二人は洋班になじられて辛い思いをするだろう。
豪帯様に限っては病んでしまわれかねない。
今は充分に私を脅威であると思い知らせた分、私がいる内は洋班も容易にあの二人に手を出す事はできないだろう。
その代わりこの一件が終わった後、私はこの関にはいられないだろう。
私は主とその子を守る為ならそれでも良いと思っていた。
…だが最後のあの二人を見て考えが揺れた。
彼らには側で支えになる人間が必要だ。
ではもし、私がいなくなってしまったらいったい誰が彼ら親子を支えるのか?
そう考えると私はやり過ぎたのかもしれない。
今となってはもう取り返しはつかない。
だからこそ今からはそれに嘆くのではなく、できるだけ長く彼らの側にいる事を考えよう。
その間に信用できる人間を見つけるもよし、部下を育てるもよし…。
私にはまだやらねばならない事が沢山あるようだ。
政庁の出口に立った時、外の明るさに目を奪われる。
あぁ、こんな時でも空には雲一つもかからんぬものか。
だが、逆にその晴れ渡る空が嵐の前の静けさのような気がしてしまう。
どうかこのまま何も起きぬ事を…ただただ願うばかりである。
『…まずは賄賂か』
私は自らの足を自室に向かわせた。
第六話 ~初仕事~
…僕ががんばらなきゃ。
寝床から身体を起こし、唐突に心の中で呟いた。
窓の外は相変わらずの晴天だ。
こんな時でも外からはこの関の活気や雑踏が流れこんでくる。
そうだ。
いくら僕が嘆いたところで世の中は関係なく進んでいく。
だからこそ僕は前を向いて進まなきゃ。
…じゃなきゃ父さんはきっと僕の分まで無理しちゃうに決まってる。
昨日は泣き疲れて朝なのにも関わらず、いつの間にか昼まで寝てしまっていた。
前日に眠れなかった分が祟ってしまったんだと思う。
でももうそんな事はしない。
僕は昨日決めたんだ。
早く仕事を覚えて父さんを支えるんだと。
寝床から降り、身支度を整える。
衣服は村にいた頃のとは違い、しっかりと装飾の入ったモノだ。
僕の為に父さんが用意してくれた服。
だが、今はできるだけこの服を着たくない。
何故かといえば、僕と同じ年の洋班の衣服が華やかで、同じ空間にいるだけで惨めな気分になるからだ。
確かに身分の格差なんてあって当たり前の事だ。
そんな事を言えば村のみんなはどうなる?
服だけじゃない。
食事から寝床までどれ一つとっても誰しもがこんな生活ができているわけじゃない。
だから僕はこれからの生活相応にみんなの為にこの関で頑張ろうと思っていた。
どんな身分になったって僕はみんなと同じという事を忘れないように。
…でも、だからこそ僕はあの洋班を認めたくないし、認めてはいけないと思ってる。
身分が低い人間は身分の高い人間の為に働く。
高貴な人間は低俗な人間より優先される。
それを当たり前のように、そして漠然と世の中の決まり事のように語る彼を僕はどうしても好きになれない。
そんな彼と同じ空間で何かで劣っていると見られるのが僕は辛い。
…でも、僕はこの服を来て彼と会わなければいけない。
じゃなきゃ父さんがまた酷い目に合わされる。
『…』
鏡を見る。
なんて幼いんだろう。
村にいた頃は散々性格や背や顔の事で幼いと弄られていたが、もう中身だけは幼いままではいられない。
僕が問題を起こせば僕だけでなく周りも巻き込んでしまう。
我儘はもう言えない。
悔しいが洋班から学んだ。
権力のある人間には逆らえない。
それがたとえ間違っていても。
それが今の世の中の決まり事なのだと。
…もし、それを飲み込む事が大人になるという事なら僕はどうすればいいのだろう。
…世の中は本当にそんな事でいいのだろうか。
僕は枕元に立て掛けていた鉄鞭に目をやる。
…あの人が望んだ世界はこんな世界なのだろうか。
僕は鉄鞭を腰に差して部屋を出た。
父さんの部屋の前まで来た。
確か昨日の話しだと今日の昼までには兵士の一団が来るらしい。
そしてその受け入れ準備が必要ならきっと父さんは今その事で手が一杯だろう。
なら僕はまだこの関の事は何も知らないけど、何かを手伝えるかもしれない。
僕は部屋の戸を叩いた。
『父さん』
『…ん?あぁ、帯か。ちゃんと寝られたか?』
『大丈夫だよ。それより父さんは?』
『私も凱雲が昨日の内にだいぶ仕事を片付けてくれていたからな。しっかりと寝れたよ』
多分嘘だ。
笑顔は自然だが目の下には隈ができている。
父さんの机の上の資料の量を見る限り、凱雲ではできない仕事をやっているのだろう。
だが、その資料の量を初日に見た時と比べると多い気がする。
きっと洋班が来てからの事で色々と大変なんだろう。
『それより帯よ。私に何か用か?』
父さんは僕の視線の先に気付いたのか手元の資料を退けて話を聞く体制になる。
あまり長い時間はとりたくない。
『うん。僕も父さんの仕事を手伝いたくてさ。何か無いかな?』
『うむ…手伝ってくれるのはありがたいんだが、今私の手元には帯のできそうな仕事は残ってないな』
『…そっか』
よく考えればそうだ。
凱雲ができない程重要な仕事を僕にできるわけないよな。
それに今は大変そうだから僕に何かを教えながら仕事をやる余裕がないのだろう。
残念だ。
『あっいや、しかしな?凱雲の所にならきっと帯でもできそうな仕事があるかもしれんぞ?そっちを帯に頼めるか?』
しまった。
父さんが僕の顔を見て慌て気をつかい出す。
…すぐ感情を顔に出すのもこれから気をつけよう。
『えっ?本当っ!?』
本当なら一番大変な父さんを手伝いたいが、あえて僕は大袈裟に喜んでみせる。
『あぁ、任せた!』
『わかった!それならすぐ行ってくる!』
『うむ』
父さんは安心したように顔を緩める。
父さんも父さんで凄く単純ですぐに顔に感情が出る人なんだと思った。
そう思うと家族なんだなって思えて、思わず口元がにやけてしまう。
だが、そんな清んだ気持ちも不意に意識した父さんの痣を見てしまい現実に戻される。
でも、だからこそこんなやり取りの一つも大切に感じる。
だから僕はこの空気を壊さないように痣には気付かなかった振りをして部屋を出た。
帯が出て行った後、私は大きな溜息をついた。
『本当ならこんな会話を毎日してやれたんだがな…』
帯が関に来る前にほとんどの仕事を終わらせて待っていたのに、まさかこの時期に洋班様がこられようとは…。
手元の資料に目を落とす。
政務関連はすっかり昨日の内に片付けられていて私の仕事という仕事はほとんどなくなっていた。
それというのも凱雲が本来私のやるべき仕事にまで手を出したらしく、私がした事といえば帯が来る少し前に凱雲のまとめた資料に印を押すだけだった。
まったく…。
奴は私の為なら平気で本来の規則や役目立場を超えて働いてくれる。
頼もしいというかなんというか…。
そして今やっているのは完全に別件だ。
洋班様がこられたからには私は洋班様の命には絶対に逆らえない。
そして洋班様は…あのような性格だ。
何か関内の事や規則について気に入らなければ即座に変えろと言い出しかねない。
そうなれば一番被害を受けるのはこの関で商いをしている商人達だ。
だから私はこの関で有力な商人達にあらかじめその状況を伝え、それに伴う一応の準備と注意を促す文を書いている。
本来ならこのような内部事情を晒すような事はしてはいけないのだが、彼ら商人は私がこの関に就任して以来治安や活気を出す為に色々な事に尽力を尽くしてくれた所謂仲間のような存在だ。
だからこそ私は彼らとの信用を大切にしたい。
帯よ。
気持ちは確かに嬉しいが、これは私個人の事だ。
だからお前に手伝わせる訳にはいけないのだ。
青くなった左頬の痣をさする。
痛みはだいぶ引いたが、力を加えればまだ痛む。
あいつは私に気を使わせない為に気付かない振りをしていたが、それでもやはり嘘をつくのは下手なようだ。
『…気苦労をさせるな』
私は一息ついて文書に筆先を下ろした。
父さんの部屋から一直線に練兵所まで来た。
本当凱雲を探すならまず凱雲の部屋に向かうべきなのかもしれないが、凱雲が夜以外に部屋にいるのを想像できない。
そして一番強い印象はやはり練兵所なのだ。
村にいた頃から大抵は練兵所にいたし、昨日の話でも関の兵士を束ねているみたいな事を言っていたから間違いないだろう。
だが、不思議な事に今日は訓練の時の声が聞こえてこない。
ただでさえ兵士達は休憩がもらえているのか心配になるくらい終始訓練をしているのにその気配がない。
凱雲はおろか、兵士達すら練兵所にはいないのかもしれない。
だが、ここまで来たからには中の様子を確かめずにはいられない。
僕は練兵所へと足を踏み入れた。
『…え?』
練兵所の中に入ってまず出た言葉はそれだった。
そこにはいつものように兵士達がいた。
だが、地面に座りながら何やらみんなで話をしているようだっだ。どうやら談笑ではないらしいが、もし訓練中なら凱雲から拳をもらうであろう状況が広がっていた。
だが、凱雲はいない。
訓練中ではないのか?
ならいったい彼らは兵舎から出て来て何をしているのだろうか。
『ん?あっ!おいみんな!帯坊だ!』
『あ!帯坊!』
一人の兵士が気付くとみな一斉に立ち上がり僕の方に駆け寄ってくる。
だが、いつものような雰囲気ではない。
みな思い思いな顔をしていた。
いったい何があったのだろうか。
『なぁ帯坊!凱雲様を知らないか?』
『え?』
『凱雲様が一行に練兵所に現れないのだ』
凱雲がここにはいない。
なら凱雲はどこにいるのだろうか。
まったく想像ができない。
それより。
『みんなはどうしてここに?凱雲に呼ばれてたの?』
『え?いや、違う』
『?』
『なんというか…その』
『癖じゃな。毎日が訓練ばかりなせいで呼ばれんでも皆ここに足を運んでしまったのよ』
『そうじゃ。誰一人として遅刻せなんだな』
『そうじゃそうじゃ皆凱雲様が怖いんじゃな!』
『はははっ!』
なんというか凱雲はなんだかんだでみんなから愛されてるんだなって思った。
だが、今は関係無い。
ここに凱雲がいないなら別の場所を探さねば。
『あ、それより帯坊!』
兵士の一人に名前を呼ばれる。
いったい次はなんなんだろう。
『なんか帯坊の周りで大変な事になってるらしいじゃないか!』
『そうじゃ!昨日は大丈夫だったのか??』
『豪統様が痣だらけになる程殴られたというのは本当か?!』
もう情報が回っているようだ。
みんなから一斉に質問攻めにされる。
『うん!心配無いよ!大丈夫だよ!だから一人づつ!一人づつ!』
まずは周りを静かにさせる。
『州都から来た奴が豪統様を殴ったというのは本当か?』
『…うん』
『なんて野郎だ!どんな奴だ!?』
『俺が叩きのめしてやる!』
『やめてよ!』
みんなが一気に沸騰しそうになるのをなだめる。
…それができれば僕だって。
『いい!?絶対勝手な事しちゃ駄目だよ!?』
『なぜじゃ!?私等の豪統様が殴られたんじゃぞ??』
『そうじゃ!いくら上役だろうが黙ってられるか!』
『帯坊は悔しくないのか!?親が殴られたんじゃぞ!?』
『…ッ』
『おいお前!』
ドカッ
『ウグッ』
一人の兵士が違う兵士に殴られた。
周りがどよめく。
『いてて…なんじゃ急に!』
『言っていいことと悪い事があるじゃろ!帯坊の気持ちを考えてみろ!』
『なら黙ってろってか!?ふざけんな!腰抜け!』
『んだとてめぇ!』
『おいお前らやめろよ!』
『うるせぇ!』
『二人ともやめてよ!!』
二人が取っ組み合いになりそうな所を割って入る。
息を荒げた二人の鼻息以外静かになる。
『…僕だって悔しいよ。父さんが目の前で最低な奴に殴られて謝ってさ…。でも…僕らが我慢しなきゃ、きっと父さんがさらに責任を負わされて奴にいじめられるんだ…。だから…僕だって本当は…。』
地面に水滴が落ちる。
いつの間にか僕の目からは涙が出ていた。
『…帯坊』
『…ッ』
さっき僕に悔しくないのかと言った兵士が僕の目の前で膝をつく。
『帯坊ッ!すまんかったッ!ワシは頭に血が登るあまりに帯坊の気持ちも考えんと…ッ!』
『だ、大丈夫だよ!頭あげてよ!』
『すまんかった…ッ!すまんかったッ!』
その兵士は泣きながら頭を地面に擦り付け続けた。
気づいたら周りの兵士達もみな涙を浮かべていた。
…そうだよね。
みんな悔しいよね。
みんな父さんの事大好きだもん。
だから。
『…みんなもいい?絶対に問題起こしちゃ駄目だからね?』
『…』
どうやらみんなわかってくれたようだ。
だからこそ僕はみんな以上に頑張るよ。
大好きな父さんをこれ以上傷付けない為に。
『と、ところでさ!?凱雲がここにいないってなると、どこにいるかわかる!?』
僕は急いで涙を拭って笑顔を作る。
だが、一度落ち込んだ雰囲気は中々消えない。
いったん彼らをこの場に放置した方がいいのかな。
『…多分北門じゃないか?』
一人の兵士が答える。
北門?
何故?
『ワシは昨日内宮に呼ばれた一人なんじゃが、兵の受け入れをしろって言われてたから多分そこじゃないか?兵士の何名かも今朝急に北門に呼ばれたみたいじゃし』
『本当か?そんな話ワシは聞いとらんぞ?』
『ワシもじゃ』
『あ、ワシは数名北門に行った事は知っとるぞ!兵舎から今朝出て行くのを見たぞ!』
どうやら凱雲は北門にいるようだ。
『ありがとう!北門に行ってくる!』
僕は急いで練兵所の出口へ向かう。
だが、一つ気がかりを思い出し振り返る。
『あ、みんなはこれからどうするの?』
『ん?そうじゃな…』
『やる事がないなら兵舎に戻っててもいいと思うよ?多分凱雲は訓練どころじゃないと思うし…』
そういえば凱雲は昨日父さんの仕事もしてたんだ。
そして凱雲にも多分訓練以外にも仕事があるはずだ。
そして今、普段日課にしてる訓練を放置してる辺り父さんの仕事を優先していたのだろう。
そう考えると凱雲は今日訓練所に顔は出せないだろう。
それに普段から訓練ばかりなのだ。
たまには休暇も必要だ。
だが、兵士達の反応は違った。
『だったら尚更俺らは堕らける訳にはいかんじゃろ』
『え?』
『じゃな。帯坊達が頑張っておるんじゃ。ワシらだけ怠けとるのもバチが当たるわい』
『それに凱雲様の事じゃ。私等が訓練を疎かにした事が知られでもしたらそれこそ"貴様ら!兵士の自覚があるのか!"と殴られそうじゃわ!』
『はははっ!確かに言いそうじゃ言いそうじゃ!』
『よし!そうと決まれば訓練じゃ!』
『『オーッ!!』』
驚いた。
彼らがこんな真面目な事を言うなんて。
でもよかった。
みんなにまた活気が戻った。
これで安心して僕は僕の役目に集中できる。
僕は練兵所を後にした。
北門に近付くにつれてどんどん人が減っていった。
こんな事はこの狭い陵陽関ではまず起こりえない。
やはりこの先では凱雲が何かしら兵士の受け入れの為の準備をしているのだろう。
そう思うと普段が混雑している事もあり、自然と僕は小走りになっていた。
『急に北門を使うなと言われてもこっちも困るよ!なんとかしてくれよ!』
『本当に申し訳ない!だが勘弁してくれ!こちらも急だったんだ!』
北門に着くと、一人の兵士が何やら商人達と揉めていた。
多分受け入れ関係だろう。
話の途中ではあるがあの兵士に凱雲の居場所を聞こう。
『いや困る!もう受け入れ先が着く頃なんだ!なんとかしろ!』
『だから何度も言うようにここに上役が…』
『ちょっとごめん!』
『あ?なんだ帯坊か!すまんがちょっと後にしてくれ!』
『ん?帯坊ってあの豪統様の息子かい?なら丁度いい!ちょっとこいつらをどかしてくれないか!?』
『え?』
今なんて?
どかす?
急に話を振られるとは思わず間抜けな声を出してしまった。
『お、お前何を言って』
『私等商人は信用が命なんじゃ!しかし、こいつらは私等が築き上げた信用を崩そうとしやがる!だから頼む!今回の仕事はもの凄く大切なんじゃ!こいつらをどけてくれ!』
『え、えっと』
『帯坊!こいつの話は聞かんでええ!どっか行っててくれ!』
『あんたここの責任者の息子だろ!?なんとかしてくれよ!』
『ちょ、ちょっと考えさせて!』
『帯坊!』
『さすが豪統様の息子じゃ!話がわかる!おいっみんな!!豪統様の息子がどうにかしてくれるってよ!!』
『え?え?ちょっ、ちょっと!!』
今の商人の大声で周りでも揉めていた商人達がこぞって集まり始める。
え、なにこれ。
まずい。
これじゃあ明らかに僕がこの問題の責任者じゃないか。
しかも、僕はこの関に来たばかりでここの規則や商人達との関係なんて何一つ聞かされてない。
そんな僕が責任者?
無理に決まってるだろ!
だが、ここでもしも軽々しく発言してしまえばそれこそ収集がつかなくなる事は目に見えてる。
考えろ!
考えろ!
『ま、まずい事になっちまった…ッ!た、帯坊!凱雲様を呼んで来るから絶対早まるなよ!』
『あ、ま、待って!』
そういうと兵士は僕の静止を聞く前に商人達の中に消えてしまった。
…嘘でしょ。
既に商人達が充分に集まってしまい、今か今かと僕の発言を待っている。
だが、僕は本当は責任者なんかじゃない。
それに責任者だと言ったわけでもない。
…だが。
『おい坊主!まだか!?こっちも急いでるんだよ!』
『早くしてくれよ!』
既にこの商人達の間では僕はこの問題を解決できる人間だと思われている。
それに唯一の頼みである兵士は兵士で凱雲を呼びに行ってしまったっきり全然帰ってこない。
…もうそろそろこの商人達も限界だ。
周りからはヒシヒシと焦りや怒りが感じとれた。
それに僕自身も30~50はいるんじゃないかという程の商人達に囲まれて気がきじゃない。
『なぁ、息子さんよ』
最初の商人が声をかけてくる。
『な、何?』
『わしらはな?さっきも言ったように信用が命なんじゃ。信用がなきゃわしらは飯も食えんのじゃ。それにな?お前のお父さんとわしらは長い付き合いじゃ。ようは仲間のようはもんじゃ。だから頼む。豪統様の意思をわしらに示してくれ!』
流石は商人だ。
弁一つで生きているだけあってこちらが揺れそうな言葉を次々に言ってくる。
しかも、多分ここにいる人達はみんな僕が決定権を持っていないのも知っているだろう。
でも、それでも責任者の息子が一言黒と言ってしまえばそれが自分達の交渉を有利に進めれる事を知っている。
だからこそ焦りながらもじっと我慢してこの場に留まりながら僕を囲み続けている。
『なぁ、時間が無いんじゃ。豪統様はわしらを仲間とは思っておらんのか?』
だが、もう限界のようだ。
だから僕はこの場の中心にいる以上何かしら決断をしなければいけない。
多分本当の事を言ってもこの商人達は逃がしてくれないだろう。
理由は簡単だ。
なんと言っても僕は今ここに集まる商人達最大の切り札になり得る交渉要素だからだ。
だから決断せずにこのまま本当の責任者を待てば、商人達は僕の発言を引き出す為に何かしら仕掛けてくるはずだ。
…だから迫られた以上もう黙り続ける事はできない。
それに僕は父さんの力になるって決めたんだ。
やってやる。
『みんな聞いて!!』
大声をあげる。
みんな待ちに待ったと言わんばかりに期待の篭った眼差しを僕に向けて静まりかえる。
もう後には引けない。
『今回の件についてもう一度説明します!』
『それはもう聞いた!早く結論を言ってくれよ!どくのか!?どかないのか!?』
『そうだそうだ!』
『早くしろ!』
『…ッ』
一瞬怯みそうになる。
怖い。
みんな怒ってる。
だけど駄目だ!
僕が逃げちゃ駄目なんだ!
『いい加減にしてよ!!』
『『!?』』
『あんたらは交渉で飯を食ってる人間なんだろ!?だったら意見言う前に人の話を聞け!時間がなくても!!』
『…』
よし、黙った。
ここからが本場だ。
今なら僕の話がみんなに伝わる。
だがもしここで話が途切れたり噛んでしまえばもう終わりだ。
僕は一息ついて話始めた。
『まず、今回北門の出入りを禁止する理由は州牧様の命によりこの地に残った賊の残党を掃討するのが目的で徐城より派兵された2000の兵を受け入れる為です!』
『ちょっと待った!』
な、なんだ。
何かおかしな事言ったのか?
『この周辺の賊は昔に粗方片付いたはずだ!それに賊が残っているというのも初耳だぞ!?』
『それは近年徐城の太守様が独自で周辺調査をした結果森に潜んでいた賊の一団を見つけたとの事だ!』
勢いで嘘をついてしまった。
だが、昨日の父さんと凱雲の話を聞いていると、本当の事を話せばさらにこの場が混乱しそうだった。
だから多分これでいいはずだ。
全員が全員納得しているわけでは無いが続けた。
『そして本来ならこのような情報は事前に住民や関係者に報告しなければいけないところをこちらの不手際で伝達できなかった事をまずお詫びします!』
そう言って周りに頭を下げた。
『すみませんでしたで許されるかよ!』
『そ、そうだ!』
『それならわしらの商いはどうすりゃいいんじゃ!』
『ですが!!』
周りが沸騰しかけた所を大声で静止する。
『僕の父は必死にその受け入れを拒みました!それも州牧様の使者にです!』
『…ッ!?』
周りがざわめき始める。
また嘘をついた。
確かに父さんは洋班に対して反対はしたが、それは違う内容についてだ。
だが、僕は拒んだ理由を述べていない。
そうすると僕は嘘はついて…。
いや、僕は勘違いする事を知っていて嘘をついたんだ。
言い訳はできない。
でも、この嘘だけは突き通さなければいけない。
後で商人の方々に謝りに回ろう。
だからどうか今だけは許して下さい。
『…父さんは今とても大変な立場にいます。自分よりも立場が上な人間が来てしまって命令一つ出てしまえばみなさんを守りたくても守ってあげれません。そりゃ一時的に、また一回だけなら上に背いてでもみなさんを守れます。…だけど僕の父さんはそれよりもこれからもみなさんを守る為にある時は頭を下げ、ある時は恨まれ役を買ったりしながら必死に毎日戦ってます。…だからどうかみなさん』
『今回の件、どうか僕達に協力してください!!お願いします!!』
『?!』
そう言って僕は膝をついて頭を地面に着けた。
この言葉は紛れもない本当の言葉で、最後の方なんて交渉を度外視した僕の我儘だ。
やはり僕には荷が重かったのかもしれない。
結局最後の最後で自分の感情が前に出てしまい公私を混同させてしまった。
…僕は餓鬼だ。
ごめん。
父さん。
これが今の僕の精一杯です。
『…』
静まりかえってしまった空気。
その中で僕はただただみんなの反応を待つことしかできない。
怖い。
『帯!!』
そしてそんな静寂の中で父さんの声が響いた。
『た、大変です!』
戸が唐突に開かれた。
『な、なんだ騒がしい』
『豪帯様が!』
『!?』
名前を出された瞬間心臓が飛び出すかと思った。
『…何があった』
まずは冷静に状況を呑み込むんだ。
帯に何が起きたんだ。
『我々は凱雲様と共に北門にて兵の受け入れの為に交通整理をしていたのですが、そこに現れた豪帯様がいざこざに巻き込まれて…』
『なんという事だ…ッ!』
凱雲がついていながらなんという…。
怒る気持ちを抑えて状況を聞く。
『…豪帯は無事なのか?』
『あ、いえ!巻き込まれたのは話し合いのいざこざであって暴力事ではございません!』
『…はぁ。それをはよ言わぬか』
『も、申し訳ございません!』
よかった。
もしこれで帯に何かあったら私はどうすればよかったのだろうか。
一瞬で身体中の力が抜けた。
『しかし!』
『…ん?なんじゃ?』
一瞬何故こうも慌てているのか気が抜け過ぎて気がつかなかったが、仮に話し合いに巻き込まれた程度でこんなにも慌てて来るわけがない。
改めて気を引き締める。
『それが…商人達が豪帯様が豪統様の子供だと知るや否や交通整理の早期撤回を豪帯様に迫っていて…』
『なんだと!?』
それはまずい。
この関は国にとっては僻地の一拠点に過ぎないが、商人達にとっては蕃族と本国を結ぶ重要な拠点だ。
だが、元々が防衛しか視野になかったせいで門は内陸側の北門、蕃族側の南門の二つしかない。
つまり、この関での交通整理というのは基本的に商人達との事前の打ち合わせの元行われる行為だ。
それが今回は急を要するモノになってしまった為にさらに難しく、繊細な仕事になる。
だが、凱雲が向かったと聞いていたから安心して任せていた。
それがどうだ?
話を聞く限り帯が商人達に撤回を
求められているだと?
まだあいつは村から出て来て数日の人間だぞ?
この問題はあいつには早すぎる。
絶対に無理だ。
だがあいつは私の息子だ。
経験があろうが無かろうが帯が一言商人の要求を飲んでしまっては大問題だ。
『凱雲は何をしているんだ!!』
『そ、それが他の兵士に聞いた所北門より離れた場所で商人の一団との交渉に向かわれていて…』
『くそっ!今すぐ案内しろ!』
『は、はい!』
帯よ、頼む。
そこに行くまで耐えてくれ。
『お願いします!!』
北門につくなり帯の必死な声が聞こえて来た。
遅かったか。
『どいてくれ!』
『お、おいッ…ってあんたは!』
『道を開けてくれ!』
商人の人集りを掻き分けて中心へと向かう。
そして。
『帯!!』
中心では帯が商人達に向かって頭を地面にすり付けていた。
私は急いで帯の元へ駆け寄る。
『…帯、顔を上げなさい』
『…父さん。ごめん。』
『!?』
『僕にはやっぱ無理だったよ…。何の役にもたてなかった…ッ』
そう言うと帯は涙を流し始めた。
『ごめんなさい…ッごめんなさい…ッ!』
その言葉で完全に頭が真っ白になる。
『貴様ら!!』
『…!?』
『と、父さん!?』
気付いた時には怒鳴り散らしていた。
『こんな子供に向かって大の大人が何十人も寄って集って恥ずかしくないのか!?』
『父さん!違うよ!これは僕が自分から…』
『何とか言え!!』
完全に頭に血がのぼってしまっていた。
もう交渉もくそもない。
ただ自分の息子が何十人もの人間に責め寄られた事実だけが許せなかった。
私は商人の一人に掴み掛かる。
『ご、豪統さん落ち着いてッ』
『よくもぬけぬけとッ!!』
拳を振り上げる。
『いい加減にしてよ!』
バチンッ
『ウグッ!?』
尻に鈍い痛みが走る。
我に返る。
なんだこの痛みは…ッ!
後ろを振り返ると息を荒げながら目の端に涙を浮かべて鉄鞭を構える帯がいた。
…まさかその鉄鞭でワシの尻を叩いたのか。
『父さんは何しに来たんだよ!僕を助けに来たんじゃないでしょ!?しっかりしてよ!阿呆!』
そう言うと帯は問題が解決していないのにも関わらず、緊張から解放された安心感と恥ずかしさのあまり、堰を切ったように泣き始めた。
改めて帯がまだ子供なのだと知る。
たが、その言葉で冷静になれた。
…私はなんて事をしてしまったんだ。
自分の子供可愛さに仕事を忘れ私情で動いてしまった。
…なんという事だ。
掴み掛かった商人に向き直る。
『す、すまん。私は自分の子供可愛さのあまり…』
『豪統さん』
商人に言葉を遮られる。
駄目か。
私は身を構えた。
『あんたも変わらないね』
だが、言われた言葉は自分の予想外の言葉だった。
『あんたが役人に向いてない事くらい、ワシらが一番知っとるよ』
…ん?
どういう事だ?
『何年あんたと付き合ったと思っとるんじゃ。なぁ!?みんな!』
商人が他の商人達に言葉を投げかける。
『…そうじゃな。ワシらはあんたの我儘には嫌と言う程付き合わされて来たからな。今更かの』
『そうかもしれん。別に今日に限ったわけでもないしな』
『あぁ…今回のワシの大損はどうすりゃいいんじゃ…』
『んなもん商人じゃろ?商売にら損得はつきもんじゃ。諦めろ』
『とほほ…』
すると今まで帯を囲んでいた商人達は一斉に散らばり始めた。
…解決したのか?
『豪統さん』
何故かさっきまでの空気とは打って変わって急に緩んだ空気に呆気にとられていると、さっき掴み掛かってしまった商人に声を掛けられる。
『…あんたの息子さん、立派じゃったよ』
『…息子が?』
帯が何かしたのか?
『子供だからと甘く見ておったが…いやはや、逆にこれだけの人数の商人が説得されてしまうとはな』
そう言うとその商人もどこかへ行ってしまった。
…帯が交渉に成功した?
今私の後ろで童子のように泣きじゃくる私の息子がか?
商人の言葉が一瞬信じられなかった。
だが、散りじりになる商人達の背を見ていると何故か皆不満はあれど納得してくれているようだった。
…勿論、私は何もしていない。
私は後ろを振り返り、自分の息子に手を差し伸べる。
『…父さん?…どうなったの?』
どうやら帯も今のこの状況を理解できていなかったようだ。
顔はいかにも何故だと書いてあるような表情をしている。
『あぁ、お前のおかげでな』
『…僕?』
本人は無自覚のようだ。
…まったく、やってくれる。
『…ッ!?と、父さん!?』
私は自分の息子の成長に可愛さを憶え、思わず頭を荒々しく撫でた。
『よくやった。流石は私の息子だ』
『ッ!?うん!』
帯は潤んだ目を嬉しそうに輝かせる。
そして。
『へへっ』
同時にこれでもかと言う程照れ始める。
…まだまだ子供だな。
『帯よ。照れておる場合ではないぞ?まだ商人の一部を説得させただけだからな』
『あ、そっか。まだあれだけじゃないんだ』
帯は分かりやすい程肩を落とす。
まったく、先が思いやられる。
『だから帯よ。残りの商人の説得をお前にも頼めるか?』
『え?僕でいいの?』
『あぁ。どうやったかは知らんが、実際あれだけの商人達を説得できたんじゃ。お前に安心して任せられる』
…安心は言い過ぎかもしれんが。
『わ、わかった!頑張るよ!』
帯は私の言葉がよっぽど嬉しかったのか、みるみるやる気を出した。
『…だが、簡単に頭を地面に擦り付けてくれるなよ?』
『…うん』
その後少しして凱雲が戻ってくるなり地面に頭をすり付けて謝られた。
そしてその後は私と帯と凱雲の三人で商人の説得に回った。
帯はその間何度も私や凱雲の所へ来て助言を聞きながらも必死に商人達を説得してくれた。
…なんと心地のよい時間なのだろう。
自分の息子とやる仕事とはこれ程にやり甲斐のある事だったのか。
私は息子が来てからは自分の情けない姿ばかり見せていて、なんとも不甲斐ない毎日を過ごしてきた。
だが、だからこそ私は本来の仕事をする姿を自分の息子に見られている事が嬉しかった。
そして誇らしかった。
そして日が落ちない内に北門の封鎖を完遂する事ができた。
後は派兵された兵士達を迎えいれるだけだ。
…この一件が終わったら、色々な事を帯に教えてやろう。
そして今まで見せてやれなかった父の後ろ姿を見せてやろう。
これがお前の父なのだと。
だが、現実はそれを許してくれない事を二人はまだ知る由もなかった。
第七話 ~前哨~
『…なかなか来ないね』
『…あぁ。』
北門閉鎖を終わらせた僕らはそのまま、徐城からの派兵団を待つ事になった。
『豪統様、派兵団がこられるまで近くの宿で休憩なさってはいかがですか?一団が現れれば遣いを出しますので…』
『よいよい。ワシはこのまま此処に残る。でなければ商人達に示しがつかんからな』
そう言うとはははと心地良さそうに父さんは笑った。
そういえばこの関に来て以来、父さんが笑う所を見るのは初めてだと思った。
そう思うと早くこの一件が終わって欲しいとつくづく思う。
…誰にも邪魔されずに父さんと過ごしたい。
そんな我儘が頭を過る。
…早く大人になりたい。
『それより帯よ』
急に父さんに声を掛けられる。
『ん?何?』
『お前は別に出迎えに付き合わんでもいいのだぞ?何も州牧様を迎える訳でも無いのだし…』
『いや、僕も残るよ』
『いつ来るかも分からんぞ?』
『どうせやる事なんて無いんだもん。それに僕だってもうこの関の一員でしょ?』
僕はわざと誇らしげに言い放った。
少し前までやっていた交通整備だが、その時は必死でよそ事を考える余裕なんてなかったのだが、今暇が出来て考えてみると僕がこの関で行った初の仕事だったのだ。
そう思うと父さんや凱雲には手伝ってもらっていたものの、仕事に関われたという事実が堪らなく嬉しかった。
そしてそれは紛れもなく父さんをこの関の仕事で支えていく一員としての第一歩なのだ。
『ふふんっ』
僕は大袈裟に鼻を鳴らしてみせる。
『確かにそうかもな』
『…っ』
父さんがまた僕の頭を荒々しく撫でまわす。
でも嫌な気はしない。
何故なら父さんの僕への気持ちがその荒々しさから伝わってくる気がするからだ。
『へへっ』
『ただしな』
だが、照れる僕に父さんは言葉を付け足す。
『この関の一員として、この凱雲以上に働けるようにならねばな一人前とは認めぬからな』
『え!?』
凱雲以上?!
そんなの無理に決まってるだろ!
それこそ手を抜いてくれでもしなきゃ…。
そう思いながらそっとばれない様に父さんの横を覗いてみる。
が、凱雲と目が合う。
『…お手柔らかに』
そう言うと凱雲は大人びた笑顔を作ってみせた。
『望みなんてないじゃんか!!』
『はははははっ!』
『フッ…ん?』
凱雲が何かに気付く。
『豪統様、来られたようです』
『うむ、兵士達も長旅だ。しっかりと迎えてやろう』
『うん!』
確かに遠方には微かに砂塵が見えた。
…だが、その砂塵が静かに、そしてひっそりと舞う光景に不安が過る。
何かが起きる。
そんな気がした。
『お待ちしておりました。私はここの関を任せられております豪統と申します』
『うむ、ワシは黄盛じゃ』
派兵団の先頭で馬に跨っていたのは如何にも猪武者という様な人だった。
顔はゴツゴツしていて赤黒く、眉毛は太く釣り上がり、顎にはビッシリと固そうな髭が生えていた。
おまけに目はギョロリとしていて体格は凱雲に引けを取らない程ずっしりしていた。
…強そうだ。
だが。
『徐城よりの長旅、お疲れ様でございます』
『はははっ!何々、この程度で疲れるワシでは無いわ!』
『それはなんとも頼もしく…』
失礼な気はするが、凱雲と比べると知恵に欠く気がする。
凱雲を偉丈夫とするなら彼は巨躯の怪物と言った所だ。
今の父さんの言葉だって、何もこの人一人に対して言った訳じゃない。
この人の後ろにいる兵士達も含めての言葉だ。
現にこの人は気付いていないのか、兵士達の顔には"やっと着いた"と書いてある。
そりゃ徐城と言えばこの関の所有する都市ではあるものの、距離としては相当な道程になる。
どちらかと言えば徐城自体が烈州では僻地という扱いがされていて、この関に至っては更にその最奥に位置する拠点だ。
所謂領土ではあるが、半ば連携が取れきれない距離にある拠点なのだ。
そこへ徒歩で歩かされたのだ。
疲れない訳がない。
たが馬に跨ってここまで来たこの男には分からないようだ。
凱雲とは比べられないと思う。
『して、洋班様はどこにおられか?』
『はっ、政庁にて黄盛様を待っておられるかと。今遣いを出しておりますのでもうしばらく…』
『そうか。では私達はこのままここで待たせてもらおうか』
さっき父さんに気を使われたのに気を良くしたのか、疲れていないという事を示したいのか馬も降りずに待機すると言う。
勿論、後ろの兵士達は皆立たされたままの状況だ。
一言休めと言ってやればいいのに。
『豪統様、水の手配ができました』
いつの間にかいなくなっていた凱雲が部下を数十人引き連れて来た。
みんな手には水が入っているであろう壺が持たされていた。
その様子を見ていた後ろの兵士達の顔色が変わる。
『うむ。黄盛殿、只今水の用意ができました。もしよろしければ水の一杯でもいかがですか?勿論黄盛殿が許して下されば後ろの兵士達の分までご用意しておりますが』
そう言うと兵士達の中で安堵の空気が一斉に流れ、静かなどよめきが起こる。
やっぱりみんな疲れてるんだ。
『…豪統殿、余計な気は使わんでくだされ』
だが、黄盛という男はこの行為が気に入らなかったようだ。
さっきまでと打って変わり如何にも不機嫌そうな顔をしている。
後ろの兵士達の間でさっきとは違うどよめきがおこる。
『静まれ!!』
『…っ!』
しかし、黄盛の怒号で一気に静まりかえった。
『し、しかし黄盛殿。ここまでの距離を彼らはずっと歩いて来たのです。何かしら私達で労いを…』
『豪統殿』
ドスの効いた声で父さんの名前が呼ばれる。
『私の部下はいついかなる状況でも弱音を吐かない訓練をしております。それが兵の精強さに繋がるのです。なので貴方の所の兵士はどうか知りませんが、私の兵士を甘やかす事はしないで頂きたい』
嘘だ。
多分この黄盛という男は父さんが気を回した事に対して、自分がそれを出来なかった事が兵士達に広まるのが嫌なのだろう。
自分はこいつには劣っていない。
気付いてはいたが、ワザと気を使わなかったんだと。
…こんな図体してなんてちっさいんだ。
やっぱり凱雲とは比べられない。
『…むむ』
『豪統様』
『ん?』
父さんがどうしたものかと手を劇招いていると、凱雲が隣で耳打ちを始めた。
『…』
それを見ている黄盛もまた眉間にシワを寄せ始めた。
やばい。
またこの人怒っちゃう。
『黄盛殿』
『…なんじゃ』
父さん…がんばって。
だが、父さんは言葉を発するかと思いきや、黄盛の元に歩み寄る。
『な、なんじゃ』
『黄盛殿、少しお耳を…』
『…?』
馬に跨りながらも父さんに耳を預ける黄盛。
なんていうか、今の一連の行動で父さんに策があるのは目に見えてわかるのに、それに素直に耳を預けてしまうなんて。
『うむ、確かにそうかもしれん…』
案の定、直ぐに陥落したようだ。
『お前ら!有難く思え!ワシの配慮により、今回だけは許してやる!思う存分飲むがいい!』
『『…ッ!?』』
兵士達がどよめく。
『なに、ワシも鬼じゃないからの!気にせず飲め飲め!』
『は、はい!ありがとうございます!』
『黄盛様!感謝します!』
『がははははっ!』
凱雲はさっそく水の手配に取り掛かる。
そして父さんもそれに加わる。
僕は父さんに近づいた。
『…父さん、何て言ったの?』
僕は小声で聞いてみる。
『何、"黄盛殿の情深い人格を知らしめる良い機会ですぞ"とな』
父さんも小声で返してきた。
なんだそれ。
『よう!黄盛!』
水の手配の最中、洋班の声が聞こえた。
…そういえば今日はまだ一回も彼の声を聞いていなかったっけ。
兵士の隙間から声の方向を見てみる。
だらしない歩き方で黄盛の方へ向かっている洋班が見えた。
…最初の時は怖かった洋班だが、今はそれ程怖くない。
なんと言っても、いざとなれば凱雲が助けてくれる事を知っているからだ。
そう思うと僕は溜め込んでいたモノがふつふつと込み上がって来た。
そう、親を馬鹿にされた云々ではなく、個人的な感情がだ。
『…べーッだ!』
『?』
僕は兵士達に紛れながら洋班を威嚇してやった。
『洋班様!?わざわざ出向いてくださったのですか?!』
『おう』
私は急いで馬を降りた。
『も、申し訳ございません!』
『ははっ、何を畏まってんだよ!俺との仲じゃないか!』
『…はは』
よかった。
怒ってはおられぬようじゃ。
『そういえばお前とはいつぶりだ?』
『…確か洋綱様が徐城太守に任命された時以来でございます』
『あぁ、確かそうだったな。ここに来る前に兄貴には会ってきたんだが、お前の姿が見えないからどうしたもんかと思っとったわ』
『申し訳ございません。何しろ私共も派兵が急に伝えられたもので急いで準備をしていたもので…』
『ははっ、気にするな気にするな!』
気にするに決まっておるじゃろ。
相手が相手なだけに…。
『洋班様!』
『ん?どうした豪統』
『わざわざ出向いて下さるとは…』
この方という人は…。
遣いの者が帰って来たかと思えば政庁から飛び出したとか…。
何を考えておられるのか。
『はははっ!なに、こいつとの仲だからな!な!?』
『え、ええ、古い付き合いですから…』
そして黄盛殿は黄盛殿で頭が上がらんようじゃ。
…まぁ、人の事は言えぬが。
『…そうだったんですか』
『それよりじゃ!』
今度はなんだ?
『兵も来た事だし、早速賊の討伐に向かうぞ!』
『…はい?』
思わず口が開いたままになる。
今なんと?
『ここにおっても退屈だ!早やく準備させろ!』
『ま、待ってください!』
『…なんだ?また痛い目に合いたいのか?』
『い、いえ!逆らう訳では無いのですが…』
洋班様は戦準備がどれほどのモノか知らないのだろうか。
遠征の為の武具や兵装はまだいい…。
だが、兵糧の問題や兵士達の休憩だってまだ満足にとれていないじゃないか。
時刻だって今出れば夜営せねばならないのにこの方ときたら…。
『兵糧や兵士の休憩もままならない上にこの時刻ですと夜営を必要としますので…』
ドカッ
『ウグッ!?黄盛殿?!何を…ッ』
『貴様!洋班様の命が聞けんのか!?』
突然黄盛殿に腹を殴られる。
何故だ。
同じ兵を預かる武官なら分かるはずじゃろ…。
それを何故…。
洋班様が見ておられる…ッ!
なら今が取りいる絶好の機会!
そう思ったら手が出ていた。
『たかが田舎関主の分際で!』
『しかし黄盛殿!』
『くどい!』
ドカッ
『ウッ!』
無茶苦茶なのくらいワシだって知っておるわ!!
しかし、相手は洋班様じゃぞ!?
やれるかやれないかではなくやらねばならんのだ!
許せ、田舎関主よ。
『その辺にしてやれ』
『は、はい!』
洋班様に止められる。
…どうじゃ?
ワシの事をどう思っておられるんじゃ?
『お前…こいつらなんかよりよっぽど見所あるじゃねえか』
『!?』
『黄盛よ、今回の一件が終わり次第俺が父上に推薦しといてやるよ』
『ほ、本当でございますか!?』
『あぁ、ワシとお前の仲じゃ。取り立ててやろう』
『あ、ありがたき幸せ!』
や、やった!!
まさかこうも簡単に上手くいくとは!
『よし!では早速準備に取りかかれ!』
『はいっ!…え?』
今なんと?
『ん?どうした?はよう準備に取り掛かれ』
『…』
しまった。
今の流れ的にワシに責任が来る事くらい予想できたじゃろうに。
…どうすればいいんじゃ。
『ご、豪統様…ッ!?』
後ろから田舎関主の部下の声がする。
父さんが殴られた。
だから僕は急いで凱雲を呼んで来た。
また昨日みたいに助けてもらう為に。
『凱雲…』
『凱雲…ッ!』
洋班は凱雲の姿を見るや苦虫を噛んだような顔をした。
『な、なんだ貴様!』
それを察したように隣の黄盛が怒鳴る。
『…豪統様に何をしておられる』
『何をとは侵害な!我らは洋班様より出発準備を命ぜられたのにも関わらず、此奴は一関将の分際で反発しおったのじゃ!』
『何?出発準備だと?黄盛殿は今の兵達の現状と兵糧準備がどれ程大変かを知った上で言われておるのか?』
『…ッ!そんな事田舎武官に言われんでも知っておるわ!』
『では何故?』
『それが洋班様の命だからだ!』
話しにならない。
凱雲や父さんは現状を見て無理かどうかを判断しているのに対し、黄盛は無茶苦茶であろうがなかろうが、上が望むか望まないかで判断している。
そんな状況で話しができる訳がない。
『そうだとも!貴様ら田舎武官共にはわからんだろうが、上の言う事が絶対なんだよ!貴様らが異常なんだ!』
洋班が黄盛の後ろで吠えている。
今までは後ろ盾がなかった分、黄盛が凱雲に怯まずに対する事ができると知った瞬間にでかい態度を取り出す。
…あんな風にはなりたくないな。
『…』
凱雲は黙り込む。
多分後ろ姿しか見えないが、相当怖い顔をしているんだろう。
体全体でどっしり構えていて、どんな事があろうと不動を貫きそうだ。
…だが、その予想はあっさりと覆される。
凱雲は大きく息を吸い込むと、その溜め込んだ息に声を乗せる事はせず、そのまま大きく肩を落として吐き出した。
『では洋班様、こうしましょう』
『…なんだ』
『まず掃討部隊を先鋒、後続の二つに分け、先鋒部隊は洋班様が率いて先に出発なさいませ。そして今出れば野営は必須でしょう。ですので朝までに後続部隊が兵糧などを用意し合流。その後に賊に当たるのは如何でございましょう?』
『…むむ』
洋班が黙り込む。
僕も含めてまさか凱雲が洋班に対して妥協案を出すとは思いもしていなかった。
『そんな簡易な案で事が成功すると思っておるのか!』
『では黄盛殿には他に案がおありで?』
『グ…ッ!』
この人はなんなんだろうか。
折角凱雲が出した案に文句を言う。
しかも何か考えがあったわけではなさそうだ。
そんなに洋班にいいところを見せたいのか。
『…それで進めろ』
『なっ!?洋班様!?』
そして洋班はこれを受け入れる。
『こいつの案なんて聞かなくてもなんとか…ッ!』
『お前に考えがねぇのはもうわかってんだ!引っ込んでろ!』
『…クッ!』
『…それでは我々は準備に取り掛かりま』
『おい待て』
凱雲が呼び止められる。
今度はなんだ。
『…なんでございましょう』
『お前、準備の前にここでこの黄盛と一騎打ちしろ』
…なんだって?
『…急に何を言われるか』
『いやいや!ただ純粋にお前とこの黄盛のどちらが強いのかを知っておきたくてな!』
『…』
この関で1番腕が立っていたのは凱雲で、その事が洋班の行動を抑止していた。
だからこそ洋班はそれが面白くなくて、この黄盛と凱雲をぶつけたいんだろう。
黄盛が勝ちさえすれば今度こそ自分が優位に立てると思って…。
だが、凱雲が負けるはずがない。
この関に来る時の賊の一件で既に凱雲の強さは目の当たりにしてる。
確かにこの黄盛という男も凄みはあるが、あの夜の光景を思い出すと凱雲が負けている姿なんて想像できない。
多分思惑に気付いている凱雲はどうするのだろう。
『凱雲…わかってはいると思うが、このような無用な事を受ける必要は』
『よろしい。お相手いたそう』
『凱雲!』
『そうだ!そうじゃなくちゃな!おい!北門前を空けろ!』
父さんが止めるのを聞かずに了承する。
凱雲良く言った!
父さんには悪いが、僕としては洋班達が鼻を明かされるところを見てみたい。
『豪統様、ご心配なさらずに』
『…むむ』
それから僕らは急遽北門前から兵士達をどけて場所を作った。
『勝負は一本だ。二人ともわかったな?』
『異存はござらん』
『ワシもじゃ!』
二人はその中央で対峙した。
『黄盛!』
洋班が叫ぶ。
『…恥をかかせてくれるなよ?』
『お任せください洋班様!徐城一のこの黄盛の怪力!特とご覧あれ!』
何が徐城一だ。
こっちは父さんと一緒に戦時代を生き抜いた凱雲だぞ。
お前みたいな目立ちたがりなんかに負けるか!
『凱雲の強さ見せてやれ!』
思わず叫んでしまう。
『…』
だが返事は返ってこない。
きっと手合せに集中したいのだろう。
そう思い僕は、はやる気持ちを自分の中に押し込めた。
『始め!』
そして洋班の掛け声と共に二人の手合せが始まった。
結果は呆気ないものだった。
洋班の掛け声の元、黄盛が凱雲に飛び掛かった。
二人の棍がぶつかり合う。
そして両者は数合打ち合った後、対峙側の棍を弾く形で勝負がついた。
だが、宙を舞った棍は凱雲の得物だった。
『…え』
僕は言葉を失った。
今目の前で起きたでき事が信じられなかった。
あの夜に賊を得物事真っ二つに斬り裂き、返り血を浴びても尚凛として月明かりに照らされながらその場を支配していた不動の偉丈夫は今、荒々しいく髪を乱した余所者の猪武者を前に尻餅を付き首元に棍を突きつけられていた。
僕の中で何かが崩れた。
『しょ、勝負あり!勝負あり!黄盛!良くやった!』
『ふ、ふはははは!当然にござる!』
『…』
『…なんで』
そんな言葉が漏れてしまった。
『見たか!?見たか豪統!!俺のの黄盛が勝ったぞ!!』
『…ええ。そのようで』
『所詮凱雲なんぞ見た目ばかりの田舎武官じゃないか!はははははっ!』
『…』
父さんを挟んだ隣では洋班が興奮しながら父さんに好き勝手言っている。
悔しい…。
今まで頼りにしていた人間を目の前で貶される。
しかも…それに反論する事もできないなんて。
不意に洋班と目が合う。
『豪帯!』
『…ッ』
『貴様らの頼みの綱が俺の黄盛に負けたぞ!どうだ!?悔しいか!?え!?』
『クッ…!』
飛び掛かりそうになるのを拳を握りながら必死に堪える。
目のやり場を無くして咄嗟に凱雲の方を向く。
『…お見事にございます。完敗でござる』
『はっはっはっ!気にするな気にするな!お主も十分に強いが相手が悪かっただけじゃ!』
見なきゃよかった。
凱雲は黄盛に頭を落としていた。
『はははっ!おい聞いたか!?"完敗"だとよ!はははははっ!』
『ッ!』
『た、帯!』
僕は耐え切れなくて走り出していた。
『帯…』
『はははっ!あいつ耐え切れなくて逃げ出しおったぞ!』
帯はそのまま街の中へ走っていった。
『…すまん』
『豪統様』
後ろから凱雲に呼ばれる。
『申し訳ございません。負けてしまいました』
『よい。良くやってくれた』
『…お気づきでしたか』
『何十年そなたの主をやっていると思っとるんじゃ?』
『豪統様にはかないません。…豪帯様には?』
『今は伝えるべきじゃない』
『わかりました』
『お前ら何をこそこそしてんだ!出陣準備だ!』
『直ちに!』
これでいい。
今本当の事を伝えれば今後も凱雲を頼みに問題を起こしてしまいかねん。
この一件が終わるまで耐えてくれ。
『黄盛!』
『ここに!』
『兵に伝達しろ!目標は荀山麓の賊だ!』
『了解にござ…ん?荀山の麓でございますか?』
『あぁ!そうだ!何か不満か?』
『い、いえ!滅相もございません!ただ、私はてっきり蕃族を狩るものと…』
『いずれ狩る!その前に荀山だ!』
『…しかし、あの様な場所に賊とは』
『?何かおかしいのか?』
『はい、荀山であればまだわかりますが…確か麓には村しか無く、賊が身を隠す場所などはなかった気が…』
あいつら…。
『豪統!』
準備に向かう豪統を呼び止める。
『?なんでございましょう?案内役でしたらこちらですぐに…』
『本当に荀山麓に賊はおるのか?』
『それは…』
豪統は言葉をつまらす。
まさか俺を騙そうとしたのか?
『貴様…まさかこの俺に嘘をついたのか?』
『い、いえ!そんなことは決して!』
『なら何故貴様は』
『賊は確かにございます』
またあの忌まわしい声が聞こえた。
だが、今になってはもう恐るるに足らん。
何と言っても俺には今黄盛がいる。
『凱雲…確かこの話をしたのも貴様だったな?』
『はい』
『では聞こうか。もし麓に賊がいなかった場合、どうやって責任をとる?』
『私の首を差し出しましょう』
『何?』
『が、凱雲!』
賊がいるのは確かなのか。
…ならなんで豪統は言葉を濁らす?
まさか賊に情があるとは言わんだろ。
ならなんだ…。
『では賊がいなかった場合はこの黄盛が直々に貴様の首を』
『まて』
だがまぁ、この後におよんで理由なんかは知ったことじゃない。
だがな、凱雲。
考えてみれば、この関に来てからは貴様の上手いように言いくるめられてばかりだ。
それが気に食わん。
その仏頂面…引っぺがしてやる。
『お前のような死にたがりの首なんて価値ねぇよ』
『…では何がお望みか』
『そうだな…。なら豪帯でどうだ?』
『!?』
『な、何を言われますか!』
豪統は何時もながらの反応だが、凱雲…貴様の驚き顔はなんて愉快なんだ。
思わず口元が歪む。
『そうだそうだ、案内役ついでに奴を出せ。もし賊がいなければ即刻首を刎ねる』
『洋班様!息子に手をかけるのだけはお許し下さい!まだ息子はこの関に来たばかりで満足に判断できる状況じゃ』
『何慌ててんだ?嘘偽りさえなければ息子の首など刎ねんわ』
『しかし…ッ!?』
黄盛が再び豪統に歩み寄る。
だが、その間に凱雲が二人の間に割って入る。
そして凱雲の表情はいつの間にか驚きから怒りへと変わっていた。
黄盛、やってしまえ。
『…凱雲殿。お主は何をしておる』
『…』
『答えろ!!』
ドガッ
黄盛の拳が綺麗に凱雲の腹を捉える。
だが、人の腹を殴ったとは思えない鈍い音が聞こえた。
『…ッ』
そしてそれを受けた凱雲は一瞬眉をひそめるも、直ぐに涼しい顔をしてみせる。
おかしい。
黄盛は手を抜いたのか?
『…ッ!貴様!』
『洋班殿』
凱雲は黄盛を無視するように俺を睨む。
その瞬間背筋が凍る。
『な、なんだ』
『豪帯様は巻き込まないで頂きたい』
しまった。
また怯んでしまった。
俺には奴を潰した黄盛がいるじゃないか!
何を怯む必要がある!
『そ、そりゃ無理な相談だな』
『何故?』
『親の罪は子も同罪だ!それを捌いて何が悪い!』
『…どうしても撤回はして頂けないおつもりか?』
『お、おう』
『…』
やばい。
『こ、黄盛!何をしてる!こいつを斬れ!』
『は、ははっ!!』
黄盛が獲物の吊るしてある自らの馬へと駆け寄る。
『ま、待ってください!』
だが、それを豪統が引き止める。
『賊は必ずいます!嘘偽りはございません!洋班様の命であるならば…息子を案内役にお付け致します…ッ!』
『な、何を言われますか!何も豪帯様を人質に差し出さなくても!』
豪統が俺の言う事を受け入れる。
そしてそれを聞いた凱雲が慌て出す。
少し様子を見ておくか。
『凱雲…すまない。私の決意が足りないばかりにこんな事になってしまった。責任は私にある。だから…』
『何を弱気になられるのですか!?何も豪帯様まで』
『凱雲!!』
『…ッ』
『…頼む。自らの子を人質に出す私の気持ち…察してくれ』
『…』
あの凱雲も自分の主に言われては背けまい。
いい気味だ。
『主に言われては方なしだな?凱雲』
『…ッ!!』
『凱雲!!』
『…』
おうおう怖い怖い。
『なら早速彼奴を連れてこい。長くは待たん』
『…直ちに』
『…私は兵糧の準備をしてまいります』
奴らは各々が別々の方へと向かった。
きっと凱雲はこの後自分を責めるのだろう。
ざまぁねえな。
関の二人が居なくなるのを確認する。
さて…もう一つ確認せねばならない事を確認するか。あ'
『黄盛』
『は、はい。ここに』
『貴様、手を抜いたのか?』
『!?も、勿論にございます!あの様な田舎の一武官なんぞに遅れは』
ドカッ
『ウグッ!な、何をされますか!?』
『貴様!何故手を抜いた!』
『そ、それは…』
『もし次に奴らに手を抜いてみろ!その時は昇進の話はおろか徐城にすら戻れなくしてやる!』
『は、ははっ!!』
胸糞わりぃ。
何故黄盛がいながら俺は奴に怯えねばならんのだ。
『直ぐに兵を整えろ!』
『直ちに!!』
一連の話を目にしていた兵士達はみな諦めたように動き出した。
私はなんて情けないのだろうか。
一度は多くの者の為に少数の罪の無い者達を見捨てる決断をしたのにも関わらずその決断に迷い、その挙句に大切な部下の命を危険にさらし、さらには自分の息子までも人質に出さねばならなくなるとは…。
なんてざまだ。
これでは官士としても親としても失格だ。
そして今私は自分の息子に"人質になってくれ"と伝えに向かっているのだ。
しかも散々自分を貶してきた相手の元へだ。
…こんな父を許してくれ。
帯に用意した部屋の戸の前まで来た。
私の心は未だに揺れていた。
罪の無い数十人の者達の事。
自分の息子の事。
だが、それで私が中途半端なままでいては更なる災いを周りにまで与えてしまう。
意を決して戸を叩いた。
コンコンッ
僕の部屋の戸が叩かれた。
…だが、今は誰にも会いたくない。
コンッコンッ
無視を続けたら今度は控えめに叩かれた。
多分父さんかな…。
(…帯。入っていいか?)
戸の外からは案の定父さんの声が聞こえた。
控えめな声色からきっと慰めに来たのだと思う。
…でも、だったら今はほっといて欲しい。
ガチャ…
父さんが戸を開けた。
…億劫だ。
良いとも言っていないのに部屋に入って来た父さんに若干癇に障った僕は寝床の枕に顔を沈めたまま無視しようと思った。
『…帯、勝手に入ってすまんな』
『…』
なら入ってこないでよ。
『…』
『…』
『…まぁ、あれだ。凱雲の事は気にするな』
『…ッ!』
ボスッ
『うぷっ!?』
急に頭に血が登った僕は気付いたら父さんに枕を投げていた。
『出てってよ!慰めなんていらないから!』
『た、帯っ。すまん…』
『いいから出てってよ!ふんッ!』
『…帯』
『ふッ…クグッ!!うあぁッ!』
投げるものが周りに無くなった僕は自分の被っていた布団を投げようとする。
だが、上手い事布団が飛んでくれなくて結局めくれて寝床から落ちただけに終わる。
『はぁ…はぁ…』
『…』
布団に包まりたい…。
できないけど。
『…出てってよ』
『…』
『でっ…出てってよっ…お願いだから…』
恥ずかしさと悔しさのあまり、気付いたら涙が出ていた。
『帯…』
父さんが寝床の上の僕の所まで歩み寄って来る。
『…すまない』
そして優しく抱きしめられる。
本当なら直ぐに振りほどいて逃げ出してやりたい。
『…うぅ…クッ…ッ!』
だが、僕にはできなかった。
僕は父さんの胸で泣いていた。
『なんで…ッ!なんで凱雲負けちゃうんだよ!彼奴らっ…彼奴らなんかに…ッ!くそっ!』
『…帯』
『なんでッ!なんでなんだよッ!!』
『…ッ!帯…ッ!』
『ッ…!?』
この際名一杯父さんの胸で泣こうと思った。
だが、その父さんに抱かれたまま止められた。
一瞬どういう事か理解できなくて素に戻る。
『…父さん?』
『すまない…ッ。父さんはお前に聞いてもらわなきゃいけない事があるんだ…ッ』
『…
』
こんな時に言わなきゃいけないことってなんだろ?
『…討伐部隊の案内役を…やってもらいたいんだ』
討伐部隊の…案内役?
…あいつが関係してるのかな。
『…洋班がまた何か言ったの?』
『…ッ』
僕を抱き締める強さが増した。
…多分また辛い立場にいるのかな。
『…父さんが情けないばっかりに…お前をひとじ』
『父さん』
『ッ』
『…父さんも大変なんだよね?』
『…』
父さんの背中を軽く叩く。
すると父さんの抱き締める力が弱まる。
そして顔が見えるくらいの距離に離れる。
見合わせた父さんの顔は…今にも泣きそうな情けない顔をしていた。
…僕以上に父さんも辛いんだね。
僕は頑張って笑顔を作ってみせた。
『僕案内役やるよ』
『…しかし』
『大丈夫。何があっても頑張るよ』
『…』
『だって…父さんの息子だもん』
『…ッ』
急に体を引き寄せられて抱き締められる。
直前に見えた父さんの表情は罪悪感で一杯だった。
…僕、今回は覚悟決めなきゃいけないのかな。
『…すまないッ…すまない…ッ!』
父さんは声を押し殺しながら謝罪の言葉をかけてくる。
…どんな事になってるか知らないけど、もし戻ってこられたら今度こそ親孝行してあげよ。
さっきまであんなにも涙が出てきた目からは自然と涙は引いていた。
父さん…僕頑張るから。
そしてその日の夕方僕は派兵団の中に紛れて関を後にした。
第八話 ~初陣~
『豪帯!!』
夕暮れに照らされた砂塵、乾いた空気。
青々とした木々が左右に生い茂るものの人々の行列からはどんよりとした雰囲気が漂っている。
そんな中で一際目立つ程の張りを持った声が僕の名を呼ぶ。
『荀山はまだか!』
これで何度目になるのだろうか。
彼洋班は関を出てからというもの度々に同じ質問を短い間隔で聞いてくる。
そして僕もまた、億劫な気持ちを抑えて同じ答えを口に出す。
『荀山はまだです』
『さっきから貴様は同じ事しか言ってねえじゃねえか!え!?』
そりゃそうだ。
最後に質問された時の場所は後ろを振り返れば見えるか見えないかの位置にあるのだ。
それでは僕も同じ答えを返さざるおえない。
『…今日中に着く事はないと思います』
耐え兼ねて僕は洋班も凱雲から聞いたであろう事実を言ってみる。
『そんな事聞いてねえよ!あとどれくらいあるんだ!』
『…今でまだ半分はあるかと』
『は!?お前どれだけ移動したのかわかってんのか!?半分なわけあるか!!』
本当に勘弁してほしい。
関を出る前に一応荀山の記してある地図を父さんからもらったが、それ以前に仮にもこの地の官士なら荀山のだいたいの位置くらい知っておいて欲しいものだ。
僕も人の事は言えないが、荀山の名前くらいは知っていた。
…まぁ、そのおかげで幸か不幸かか僕らは荀山の麓を目指す事になったのだが。
…荀山の麓の村では今何をしている頃なのだろうか。
日ももう落ちるからきっと食事をとっている頃か。
まさか翌日には兵の一団が現れるなんて知りもせずに…。
心が痛む。
凱雲に必要だからと言われ、父さんは泣いていた。
多くを救う為の犠牲だと。
そして僕が地図を貰った時父さんに"お前は戦闘が始まったら帰ってこい"と。
きっと村を兵団が襲う所を見せたくないのだろう。
僕だって見たくない。
…でも本当にそれでいいのだろうか。
無実の人々が殺されるのを知っててそれを見逃す事。
手綱を持つ腕に力が篭る。
いいわけがない。
でもだからってどうすればいい?
本当は違うんだって叫びたい。
でも僕が叫けべば叫ぶ程周りが不幸になるだけで何も変わらない。
僕には今の現状を変える力なんてない。
父さんが泣きながら決断した事だ。
僕に何かできるわけが無いんだ。
僕は何度めかになる自問自答にまた終止符をうった。
『聞いてんのか!!』
ガツッ
『ウッ!』
後頭部に鈍い痛みが走る。
何がおこった。
いつの間にか隣まで迫っていた声の方を向く。
だが、目の前は黒い何かに覆われた。
ガッ
『うぁ!』
自分の顔面に強い痛みを感じると共に僕は勢いで馬から落ちた。
だが、今ので何と無く洋班に何かで殴られたのはわかった。
僕は血のでる鼻を抑えながら洋班の方を向いた。
すると洋班は自分の馬から降りてこちらに向かってきていた。
手には柄に収まったままの剣が握られていた。
きっとこれで殴られたんだろう。
何故か僕は迫り来る洋班に恐怖を感じるどころか頭の中で冷静に状況分析をしていた。
洋班が目の前に来て胸ぐらを掴む。
『てめぇ、俺に向かって無視とはいい度胸じゃねえか』
『…すみません』
『あん!?』
しまった。
関を出てからは洋班に気を使う意味でできるだけ丁寧な敬語を使うようにしていたが、急な事で油断していたのか不貞腐れてしまった。
その感情の籠らない返事をされて腹をたてたのか、洋班はまた手に持った柄入りの剣を振り上げる。
…当たり前か。
僕は潔く殴られる準備をした。
ドカッ
『グッ』
今度は頭に強い痛みを感じ、そのまま地面に突っ伏した。
頭が冷やっとするのを感じた。
痛みを堪えながら殴られた場所を触ってみる。
するとそれと同時にツーっと顔に何かが垂れて来た。
そこで何と無く今どうなってるのかが予想できた。
一応違和感のある頭を触った手を見てみる。
すると手には赤い血がべったりとついていた。
だが、まじまじと見ている暇を洋班は与えてくれなかった。
突っ伏したままの僕の首元を横から片手で洋班が引っ張りあげようとする。
だが、完全に脱力した僕の体を片手では持ち上げられないと知るともう片方の手から剣を離し、両手で襟元を掴みあげた。
『おいおい、この程度でへばんじゃねえよ。なあ?』
駄目だ。
頭から血が出てる事を確認した瞬間、何もかもがどうでもよくなった。
ただただ頭に浮かぶのは次頭に強い衝撃を受けたら自分の頭はどうなってしまうのか。
また、今頭はひんやりとした感覚があるが、表面の頭皮が傷ついただけなのか、それともどこか割れてしまったのか。
そんな事が頭をぐるぐるしていた。
『おい!聞いてんのか!』
洋班が拳を振り上げる。
あ、駄目かもしれない。
そう思った僕はその拳を虚ろな目で見ていた。
『…』
『…っち』
だが、洋班は拳を崩し僕を地面に放り出した。
投げ出された体を反射で腕が地面を捉えて支える。
『ウグッ…!』
だが、その反動が伝わり何とも言えない鈍い痛みが頭に広がる。
頭がさらにひやりとして気持ち悪くなる。
…これは本当にまずい怪我をしたのかな。
そんな事をふと思った。
『洋班様、もうよろしいのですか?』
『ふんっ。すぐへばりやがってつまらねえ…。まだ親父の方が殴りがいがあるのによ』
何かよくわからないがよかった。
今の状況で殴られでもしたら本当にどうなってたかわからない。
僕はふと安堵した。
『洋班様』
『あん?なんだ黄盛』
『もう日も落ちる頃に御座います。ここらで野営の準備をしませんか?』
『…ふん。すぐに準備をしろ』
『ははっ!』
すると黄盛は兵士達に向き直る。
『おい兵士共!!野営の準備に取りかかれ!!』
するとやっとかと言わんばかりにみな重い足を必死に動かしながら動き始める。
だが、その間誰も僕を見ない。
多分、何か手を貸せば自分達にも被害がくるのがわかっているのだろう。
みんな僕の周りを避けていく。
…こっちの方が気が楽でいいのかな。
『おい』
後ろから洋班の声がした。
僕は何も考えずにそちらの方を振り返る。
だが、その直後頭全体に激痛が走り僕は気を失った。
あぁ…なんて酷い世の中なんだ。
今偶然見てしまったが、頭から血を流してフラフラになっていた小僧の頭に向かって洋班様が最後の一撃と言わんばかりに柄入りの剣を振り払われた。
…何もそこまでしなくても。
『ふんっ』
洋班様は満足そうにその場を離れていった。
…小僧は突っ伏したまま全然動かない。
『…おい。あんま見てると目つけられるぞ』
一緒に幕を張っていた向かいの兵士に声をかけられる。
『しかし、あんまりじゃないか?…あの小僧、多分20もいってないんじゃないか』
『ならお前が代わりになるか?』
『い、いや、何もそこまで』
『ならあまり関わらん方がええ』
『…』
確かにそうだ。
ワシらにできる事なんて何もありゃしない。
それに、人に同情してやれる余裕なんてワシらには無いんじゃ。
…許せ、小僧。
だが、ふと関での出来事を思い出す。
確かあの小僧の親のおかげで他はともかくワシはうまい水にありつけた。
それがどれだけうまかった事か…。
また小僧に目をやる。
一向に動く気配が無い。
…死んだのかの。
だが。
『…なぁ、どのみちあんな場所に寝転がられては邪魔じゃないか?』
『いい加減にせい!そんなに痛い目みたいなら一人でやれ!』
向かいの兵士に響かない声の大きさで怒鳴られた。
…最後に気をつかってくれたのか。
じゃがすまんな。
恩を受けて何もしないのは後味が悪いんじゃ。
…それにワシの故郷にはあれと近い歳の息子がおるんじゃ。
『…水、もらったか?』
『あぁ、もらったさ。だがワシは戦場以外で死にとうない』
『そうか…うまかったな』
『…あぁ』
そう言うとワシは人目を気にしながら小僧の方に向かった。
『…本当に馬鹿ばかりじゃ』
ワシが怒鳴った兵士が小僧に向かったのに気付いた兵士達はぞろぞろと小僧に集まり始める。
人数はそれ程多くは無いが、みな関での水に恩を感じているんじゃろう。
だが、あれではあまりにも目立つではないか。
だからワシらは官士になれずに兵士のままなんじゃ。
…本当に馬鹿ばかりじゃ。
『…世話が焼けるの。おい!そこのお主ら!』
『…ん?なんじゃ?』
ワシは周りにいた兵士達に声をかける。
『ちょっとあっち側から先にテントを張らんか?』
『…あの小僧か?』
『何を心配しておる!ワシらは幕を張るだけじゃないか!』
『そ、そうじゃよな?』
『よし!ワシらも手伝おう!』
皆洋班様達にあの集団が見えないように幕を張るのに賛同してくる。
…やはり恩とは重いものじゃな。
何故か体は疲れているのにも関わらず清々しい気持ちが体をよぎった。
夕陽に照らされ、白馬に跨りながら一人で敵を凪ぎ続けた武者がいた。
彼は逃げ惑う残党には目もくれず、ただ僕達に向かって"遅くなってすまない"と声をかけてくれた。
そして彼は言った。
"だが、もう心配はいらない"
"この地はこの鮮武がいただいた"
と。
僕は感極まって聞いてみた。
"僕らはもう苦しまなくていいの?"
すると彼は答えた。
"あぁ"
"俺がこの大陸を平和にしてやる"
と。
あれ?
『おぉ!豪帯様!!』
僕が目を覚ますと隣には凱雲がいた。
『よかった…よかった…ッ!』
そう言うと凱雲は目に涙を浮かべていた。
え?
凱雲って泣くの?
凱雲が泣くのを初めて見た。
いやいや、そんな事より。
『僕はどうしてここに?』
『グズっ…はっ。どうやらここの兵士達が豪帯様を手当してここまで運んでくれたようです』
僕は頭の怪我について思い出す。
そしてふと頭に手をやる。
ズキッ
『いた…ッ!』
『豪帯様、まだ傷が開いて間も無いようです。…どうか安静に』
『…うん』
なんとなく直前までの事を色々思い出す。
多分最後に気を失った時は殴られたのだろう。
その時の激痛とも鈍痛ともとれない痛みを思い出す。
『ウブッ…!』
『豪帯様!?』
不意に吐きそうになる。
あの気持ち悪い感覚を思い出すのはやめよう。
『だ、大丈夫!心配無いから!』
『…』
心配そうに凱雲がこちらを見てくる。
もう心配はかけれない。
『そういえば凱雲、いつ着いたの?』
『…ついさっきで御座います』
凱雲の言葉に違和感を感じる。
『外に出てみていい?』
『いけません』
きっぱりと断られる。
当たり前か。
頭に怪我を負った人間に外を歩かせるなんて凱雲なら許さない。
だが、ふと凱雲の後ろの垂れ幕から薄い光が射し込んでいるのが見えた。
…もう朝方か。
『凱雲、いつからここに?』
『?ですからついさっき着いてそのまま』
『いつからいるの?』
『…』
やっぱり嘘か。
凱雲の事だから着いてからずっと僕に付きっきりだったのだろう。
『凱雲、僕はもう大丈夫だから凱雲も寝なよ』
『いえ、私は大丈夫で御座います』
『駄目だよ。昨日の夜からずっと父さんの仕事とかしてて寝てないでしょ?』
『…いえ、本当に私は』
『凱雲』
『…』
凱雲の名を押し込むように呼ぶ。
凱雲をこのままほっとけば無理ばかりしてしまいかねない。
だから倒れる前に休んで欲しい。
もう、僕の周りで誰かが倒れるのは見たくない。
『ね?』
『…』
すると凱雲はまた俯いてしまった。
何故こうも頑なに寝るのを嫌がるのかわからない。
すると、凱雲の目からまた涙が零れた。
え、なんで!?
『申し訳御座いません…私の到着がもっと早ければ…ッ』
あ、そういう事か。
『私に力さえあればこんな事にはならなかった…ッ!豪帯様を守るお役目を頂きながらなんと不甲斐ない!なんと不甲斐ない…ッ!』
つまり凱雲は僕が殴られて倒れた事に責任を感じているのか。
…だったら尚更その張り詰めた気を休ませてあげたい。
それにこの怪我だって元わと言えば僕がぼーっとしてた事が原因だ。
凱雲が責任に感じる事は無い。
『本当に申し訳ありませんでした!!』
『…凱雲、顔上げて』
『…合わせる顔が御座いませんッ』
『命令だよ』
『…ッ』
『…顔上げて』
『…』
凱雲が顔を上げた。
彼の顔は自分への怒りのあまり紅潮し険しくなっていて、ゴツゴツした顔の溝を伝うように涙が流れていた。
つくづくこんな凱雲を見たのは初めてだ。
でも、だからこそその涙は僕には重く感じた。
これが男が流す涙なんだと思った。
これじゃあ僕が流す涙なんてちっぽけなんだな。
そう思ったらなんだか恥ずかしくなってきた。
僕は凱雲の顔を上げさせたはいいが、その後どうするかは考えておらず、ただ笑ってみせた。
『凱雲、ありがと』
『ッ!』
その後凱雲は声を押し殺しながらも泣き続けた。
そして朝はやってきた。
『出発するぞ!準備をしろ!』
黄盛の野太い声が朝方の空に響いた。
僕らは起きていたからいいようなものを、あれでは兵士達は寝覚めが悪いだろう。
そんな事を思いながら僕は寝台に立ててあった鉄鞭を手にした。
『豪帯様、その必要はありません』
既に泣き止んだ凱雲に止められる。
結局凱雲は寝てはいないが、これから先鋒部隊が出発した後に夜間の物資運搬の役目を終えた後続部隊の兵士達に充分な睡眠を与える為にここに残るそうだ。
多分その時に自分も寝るのだろう。
『凱雲、僕怪我はしてるけど道案内しなきゃ』
『豪帯様がする必要はありません。こちらで代わりを用意します。ですので豪帯様は後続部隊と一緒に』
『いや、でも洋班は多分許さないよ?』
『その時は私が交渉しましょう』
これはいけない流れだ。
多分凱雲の事だ。
何をしてでも僕を道案内から外そうとするだろう。
でもそうなればまた洋班を怒らせかねない。
…それにあちら側には凱雲より強い黄盛がいる。
いざとなったら凱雲は何も出来ずに斬られてしまいかねない。
それだけは嫌だ。
『凱雲。行かせて』
『駄目です』
面倒くさいな。
『ねぇ、これは僕が父さんから頼まれた関に来てからの数少ない仕事の一つなんだよ?その仕事を僕から取るの?』
『豪帯様をこれ以上危険な目には合わせられません。現に今こうして命の危険にさらされたではありませんか』
『これは…』
言葉が詰まる。
確かに次に先鋒部隊に従軍したらそれこそまた大怪我を負うかもしれない。
『お願いです。従軍はおやめください』
凱雲が頭を下げてくる。
それ程までに僕の事を心配してくれている。
それは凄く嬉しくもあり、本当に従軍をやめてもいいとさえ思えた。
だが。
『…凱雲は13年前にあの村で起きた事覚えてる?』
『…えぇ』
『僕さ、あの時からずっと夢みてる事があってさ』
『…』
『でもそれを叶える為には力が必要でさ。だから僕はずっと関で父さんの仕事を手伝えるのを心待ちにしてたんだ』
『…』
『だからさ。僕はここで任された仕事を投げ出したく無いんだ』
『しかし、それで死んでしまえば元も子も…』
『それは違うと思う』
『…と言いますと?』
『だって、この国の為に色々な人達が命をかけてきたでしょ?だったら僕達の世代が命を惜しんで何もしないじゃ命を落としていった人達に申し訳ないよ』
『今ある平和の中で命を捨てるのでは平和を求めた意味がありません』
『多くの命で創り上げられた平和はきっと命を掛けて守るに値するんじゃないかな』
『…』
『…まぁ、今は世の中の平和どころか自分の親すら幸せにできないんだけどね』
そう言って笑ってみせる。
凱雲は複雑そうな表情を見せた。
『…だからこそ、これくらいはやりきりたいんだ』
『…そうですか』
そう言うと凱雲は立ち上がった。
不満はまだあれど、どうやらわかってくれたようだ。
『御無理はなさらぬよう』
『わかってる』
それだけ交わすと凱雲は天幕を出て行った。
『ふぁ…ねみい…』
黄盛に起こされて目蓋を開けたはいいが、なかなか早朝はきついもんだ。
だが、今日は待ちに待った賊退治だ。
俺は腰から剣を抜き取る。
『へへ、やっとこいつが試せるぜ』
親父には経験だの名声だの言われてここまで来たが、そんなのはどうだっていい。
俺はこの名剣で人が切れればそれでいい。
この輝く刀身が人の命を殺める瞬間が堪らなく待ち遠しい。
『はっ!!』
ヒュッ
剣を降り下ろせば風を切る音がする。
その音色が心地よかった。
『へへへっ…ん?』
遠くからこちらへ向かって来る見覚えのある巨大な人影が見えた。
あれは…凱雲だ。
表情は影になって見えないが、あの図々しい程威厳を放つ歩き方は紛れもない奴だ。
何度見ても忌々しい奴だ。
…だが、この一件さえ終われば州都に戻って真っ先に奴をこの国から追い出してやる。
精々今の内に粋がっているんだな。
俺は口元を歪ませるのを必死に堪えながら凱雲の横を通り過ぎようとする。
…が、突然目の前を丸太のような腕が遮る。
こいつ…。
『おい、なんのつも…』
凱雲の顔を覗きむ。
『ッ!?』
一瞬で背筋が凍った。
荒い鼻息を立てながら顔面は紅潮で赤黒く、眉間は深く皺が寄り、顔の至る所が歪み、ギョロリとした目が此方を視線で射殺さんとばかりに捉えていた。
その顔はまさに鬼のようだった。
『う、うわぁ!!』
思わず大声を上げて尻餅をつく。
『な、な、な、なんだ!!』
『…』
『なんなんだよ!!』
それしか言えなかった。
今にもとって食わんとばかりなその異様な雰囲気に相手が人間である事すら忘れていた。
尻餅をついて怯えていると、凱雲はのそりとこちらへ身体を寄せてきた。
喰われる。
そう感じた瞬間身体は固まり言葉が出なくなった。
だが、目だけは離す事ができなかった。
そしてとうとう鬼の顔がすぐ目の前まできた。
『あ…あぁ…』
情けない声が空いた口から漏れた。
見開かれた目からは涙が自然と溢れていた。
『小僧…ッ!』
『ひっ!?』
今まで聞いた事も無いようなドスの聞いた声で声を掛けられた。
もう駄目だ!
そう思った。
『次に豪帯様に手を出してみろ…ッ!例え首一つになろうと貴様の首をねじ切ってやる…ッ!』
『ひぃ…ッ!ひぃ…ッ!』
『『わかったか!!!!』』
鬼の咆哮が空を駆けた。
『ひゃぁ、ひゃあいぃぃ!!』
そしてか細い声が空を舞った。
それから鬼はゆらりと俺から離れていった。
そしてその後異様な咆哮に呼び寄せられた黄盛が来たが俺は当分立つ事も喋る事もできなくなっていた。
『…よ、洋様?お気分はいかがですか?』
『最悪に決まってんだろ!!』
ドカッ
『あだっ!』
『二度とふざけた事ぬかすなよ!?いいか!!』
『は、はいっ!!』
くそくそくそッ!!
胸くそわりいったらありゃしねえ!!
なんだ奴は?!
こっちには黄盛がいるんだぞ!?
斬られるのが怖く無いのか!?
俺は出発してからというものずっとこの調子で荒れていた。
ふと前を行く豪帯に目を向ける。
『ッ!』
『…あ?』
豪帯と目が合う。
だが、それに気付いた豪帯は慌てて目を背けた。
多分俺が怒鳴り散らしているのが気になったのだろう。
…だが、それすら今は腹立たしく感じる。
元々は貴様らの凱雲のせいでこんな胸くそ悪い思いをしてるんだ。
これが豪統なら真っ先に殴り倒してやるところだが…。
『…』
『…』
『…ふん』
あの程度の事で頭に包帯を巻いているような雑魚に構う事はない。
そうだとも。
この判断は決して奴は関係ない。
あくまで俺の気紛れだ。
『黄盛!』
『は、はい!』
『…賊を見つけたら容赦無く殺せ。いいな?』
『わ、わかっております!手など抜きません!』
そうさ。
いざとなれば黄盛がいるんだ。
凱雲ごとき恐ろしくもないわ。
『…ふん』
『…おい。着いたのか?』
『…』
『あの山が荀山のようですな』
嘘だ。
僕は地図を見直した。
『…なら、あれが賊の根城なのか?』
『…だとは思いますが。』
だが、地図では確かにここが荀山の麓だと記されていた。
僕はそれに驚愕のあまり言葉が漏れた。
『…あれが…賊の根城?』
僕の目の前に広がっていた光景は根城というには余りにもお粗末で、そしてのどかな村だった。
一応防衛目的とされているであろう木で出来た柵と門は見えるが、その柵の外には綺麗に整備された農地が広がり、そこには農夫達がせっせと昼の耕しに精を出していた。
そしてその間を縫って駆けるように子供達が走り回っている。
さらに門には見張りが見えるものの明らかに此方を目視しているはずであるのにも関わらずその役目は機能しておらず、門は開け放たれていた。
…話では聞いていたが、これを賊の根城などとは言えないだろう。
なんてのどかな村なのだろうか。
『まぁいい。さっさと潰すぞ』
『『え?』』
洋班の言葉に不意をつかれたのか僕と黄盛の疑問の声が被さった。
なんだって?
『お前ら!これより荀山に住み着く賊を根だやす!いいか!』
兵士の中からも困惑のざわめきがおこる。
僕も自分の耳を疑った。
『なんだ貴様ら!これから賊退治だぞ!気を引き締めろ!』
『よ、洋班様?』
『なんだ黄盛!?』
黄盛が洋班に声をかける。
そうだ、流石に目の前の村は襲えないだろう。
そう思っていた分、黄盛が少し頼もしく思えた。
『我々は本当にあの村を襲うのでございますか?』
『あ?』
ガツッ
『あだ!?』
急に洋班が黄盛の顔面に拳を叩き込む。
その一連の流れに僕はついていけずに固まった。
『な、何をなさいますか!?』
『てめぇが武官のくせに腑抜けてるから兵士も腑抜けになるんだろうが!腰いれろ!』
『は、はい!』
黄盛がすぐ折れてしまって、完全に村に攻め込む流れになった。
『ま、待ってください!』
『今度はなんだ!?』
僕はその流れを察してすかさず声をあげる。
『今目の前に見える村はどう見たって賊ではございません!現に門番がいながら正面の門は開け放たれているではありませんか!』
『…てめぇ、まだ自分の立場がわからねえのか』
『…ッ』
洋班が僕に馬を歩かせる。
殴られる。
そう思った瞬間、あの痛みが頭を過ぎり背中が凍った。
その間に洋班が馬を寄せてくる。
まずい。
僕は目を瞑った。
『…父さんがどうなってもいいのか?』
『…ッ』
だが予想とは裏腹に殴られる事は無く、変わりに耳元で囁かれる。
僕は一瞬殴られなかった事に安堵したが、すぐに言葉の意味を理解し絶望した。
『…ふんっ』
洋班が馬を返して兵士達の方へ向き直る。
『…待って』
『あ?』
だが、僕はやりきれない気持ちを抑えられず、最後に洋班の良心にかけて足掻いてみる。
『…子供だっているんだよ?』
『賊の子なんぞ知るか』
だが、返ってきた言葉は残酷な言葉だった。
…駄目なのか。
『お前ら!もう一度言う!これより荀山に住み着く賊を撃つ!従わねば死だ!いいか!』
『『おおー!』』
『よし、この洋班に続け!行くぞ!』
『『おおー!』』
洋班が僕の隣を駆けて行った。
そして次に隣を駆けて行ったのは
…。
『洋班様に続け!』
黄盛だった。
そして…。
オーッ!
ドドドドッ
それは無数の顔も知らない兵士達だった。
僕はその人の流れの中でただ一人その場で動きを止めていた。
皆僕を避けて走って行く。
僕はふと顔を上げてみる。
…だが目が合うものは無く、見る顔は全てやり切れない表情を浮かべていた。
『…なんで』
そんな言葉が漏れた。
みんな思っている事は同じだ。
この戦に何の意味があるのか。
この蹂躙劇に何の意味を見つけれるのか。
…無意味だ。
ただ上の人間の自己満足だ。
その為の戦。
そしてその自己満足を満たす為に自分達は目の前の平和な日常を踏み躙らねばならないのだ。
それがわかっていて…。
それをこれだけの人間がわかっていてどうして…。
彼らは人殺しをしに走るのか。
…簡単な事だ。
みんな自分の身が可愛いいんだ。
だからわかってはいても声があげられない。
上げても同調する人間がいなければ無意味だから。
そして同調すれば自分も巻き添えなのがわかっているから。
顔も知らない赤の他人の為に命は張れないんだ。
『…ふざけるなよ』
それが何もわからない子供でも。
『ふざけるなよ!!』
僕は耐え切れずに叫んだ。
だが、その声は2000の雑踏によって掻き消された。
村の兵士達が此方の異様な雰囲気に気付いたのか門に集まり始める。
…だがもう遅い。
ついにこの時が来た。
俺は走らせていた馬の上で期待と興奮によって張り裂けんばかりの胸の鼓動に苦しめられていた。
やっとこの名剣で人を割く瞬間が来た。
もう誰にも邪魔されない。
今だけは好きなだけ同じ人を斬る事ができる。
『…ふへ、ふへへへ』
自分でも気持ち悪くなるような笑が口元から零れる。
だが、そんな体裁なんてどうだっていい。
今は後少し先にある村の門が待ち遠しくて仕方がない。
門が近付くにつれて胸の動機が早まるのが自分でもわかった。
…あと少し。
…あと少し。
そしてその瞬間は訪れた。
門が目近に迫った所で衛兵の姿が確認できた。
今正に門を閉じようという所か。
だが、それが運の尽きだ。
俺の名剣の初めての獲物は今この瞬間に決まった。
閉まり掛けの門に素早く潜り込み、呆気にとらわれた衛兵を間合いに捉えた。
『我が名は洋班なりぃぃ!』
そして俺は剣を振り下ろした。
誰かの叫んだ声が聞こえた気がした。
僕は兵士達の波が去った後、ただ一人陵陽関を目指していた。
父さんから戦闘が始まったら戻ってこいと言われた。
だが、それ以前に僕はあの村で起きている惨劇を見守る事しかできないのに耐えられる自信がなかった。
『仕方無いんだ…どうしよも無いんだ…』
僕はずっと下を向きながらそんな事を呟いていた。
後ろは振り返らないようにしていた。
何故ならあののどかな景色が蹂躙されている風景を見てしまったらその景色を一緒忘れられない気がするからだ。
だがその意識すら今の聞こえる筈の無い叫び声に揺らいだ。
…本当に僕はこのまま関に戻ってもいいのか?
僕が今やっている事はなんだ?
僕はまたも無意味だとわかっていながらこの現場に自問自答を繰り返す。
…どうしよもない事。
だから僕に罪はない。
そう言って僕は現実から目を背けているんじゃないのか?
今僕が見ていない所で人が殺されている。
でも、そんな事を言えばこの大陸でどれだけの人間が殺されているかわかったもんじゃない。
…だから逃げるのか?
僕の知ってる所で人が殺されているのに。
僕が止められずに蹂躙されているあの村から。
僕の頭の中では"よせ""やめておけ"と誰ともわからない声で呟かれた。
だが、僕はそれでも村の方を振り返った。
村があった所からは黒煙が幾つか上がっているのが見えた。
もう、今戻っても遅いだろう。
頭の中で人々が蹂躙される光景が次々と浮かんでくる。
…だが、それでも僕は戻る事を選んだ。
僕が止められなかった責任を自分の目に焼き付けようと。
『…なんだこれ』
だが、そんなちっぽけな正義感では到底受け止めきれないような光景が村では広がっていた。
見渡せば家屋からは黒煙が上がり、火を吹き出していた。
そしてその家から逃げ出そうとしたであろう人の死体、勇敢にも戦おうとしたであろう人のズタズタな死体、今殺されたであろう死体、悶絶した表情の死体、壁に追い詰められた死体、ピクピクと痙攣する死体…集められて殺されたであろう子供達の死体。
そして僕の馬の下には赤ん坊を抱えた女の人が転がっていた。
…そして赤ん坊ごと貫いたであろう母親の身体の位置からドス黒い血が溢れていた。
『ウグッ!?』
そのあまりの生々しさに吐き気が込み上げてきた。
堪らず吐こうとしたが、目の前の死体に嘔吐物がかからないように精一杯身体を捻った。
『ウッゲェェェッ!!』
嘔吐物が馬の上から放たれてその勢いでビチャビチャと音を立てながら当たりを汚した。
馬は驚いたのかいななりを上げ、それをよけるように暴れだす。
僕はその急な馬の動きに振り落とされそうになるが、、意識が離れそうになるのを必死に耐えて静止させる。
『…はぁ…はぁ…』
なんとか落とされはしなかったものの、気持ち悪さに合わせて身体に重たい倦怠感を感じる。
そして目には苦しさで涙が溢れていたが、それによってボヤけた視界の中で色々な言葉が頭を巡った。
"僕が止めれなかったから"
"この人達はついさっきまで生きていた"
"子供まで死んだ"
『ちくしょう…ッ!どうして僕は…ッ!』
後悔が後から後から湧いてくる。
どうにもならなかったのは事実だった。
でも、それでも僕には何かできたんじゃないか。
何かを失えばこれだけの人間の命を守れたんじゃないか。
そんな気がしてならなかった。
『…ちく…しょう…ッ』
僕は馬の上でうなだれていた。
『なんだ、来てたのか』
『ッ!!』
声のする方を振り向く。
そしてその声の主は紛れもない洋班だった。
彼の顔は満足と言わんばかりに清々しい表情を浮かべていた。
そしてその手には血のりでべっとりとした剣が握られていた。
『俺はてっきり怖気ずいて関に…』
『うわぁぁぁぁぁぁ!!』
『ッ!?』
気付いたら鉄鞭を鞘から引き抜き洋班に襲いかかっていた。
『洋班ッ!!貴様ッ!!』
『おぃ!なんだ急にッ!?やめろッ!』
僕は無我夢中で洋班へ鉄鞭を振り回した。
洋班は突然の事にわけもわからないといった感じで僕の鉄鞭から逃げていた。
『ふざけんな!!おぃ!?誰かこいつを止めろ!!』
『あぁぁぁぁぁぁ!!』
『うぐッ!!』
『よ、よし!抑えたぞ!』
『離せぇぇ!!』
『暴れるな!』
僕は一通り洋班を馬で追い散らした後、集まった兵士達によって地面に押さえつけられていた。
『はぁ…はぁ…ッちくしょうッ!なんなんだ!』
洋班は息を上げながら守られるように兵士達に囲まれていた。
『洋班!!洋班!!』
僕は頭を地面に押さえつけられながらも洋班を睨む。
『…てめぇ、気でも狂ったか』
『洋班様、彼奴をどうしますか?』
『あ?』
兵士達の後ろからでかい図体がヌッと出て来た。
黄盛だ。
『もしお望みとあらば私めが彼奴の首をはねますが』
『クッ…!』
黄盛の手にする薙刀が目に入る。
彼の薙刀にも血のりが滴っていた。
そして僕は自分の首がそれによってはねられるのを想像して背筋が凍った。
『洋班様、どうなさ…』
『ふんッ!』
ボガッ
『いだぁッ!?』
だが、またしても急に黄盛の顔に洋班の拳が突き刺さった。
『貴様ッ!俺が追われてる間どこにいた!?貴様の役目は俺の護衛だろうがッ!』
『す、すみません!』
『この役立たずが!』
『すみません!』
洋班は兵士達が呆然とする中で仕切りに黄盛に怒鳴り散らした。
黄盛はいつの間にか馬を降りて洋班の馬の前で頭を地面にすりつけていた。
『はぁ…はぁ…』
『すみません!すみません!』
『…こいつに手は出すな』
『すみま…え?』
『いいから手は出すな!!わかったか!!』
『は、はいぃぃ!』
怒鳴り散らして息を荒げていた洋班の口から驚くべき言葉が出た。
兵士に押さえられてやっと冷静さを取り戻したが、僕は洋班に対して相当な事をしでかしている。
てっきり蹴るなり殴るなりしてくるものだと思っていた。
最悪斬首もありえた。
だが、そんな僕に対して手を出すなと命令が出た。
僕は呆気にとらわれた。
『…ふん』
そして洋班はこの場を離れようとする。
『あ、あの…』
『洋班!』
『あ?』
僕を押さえる兵士がどうすればいいか分からずに指示を仰ごうとしたが、それより先に声を張り上げた。
洋班が面倒臭そうな横目で見下ろしてくる。
『…可哀相だと思わないのかよ』
『あ?なんだって?』
『こんだけの人間を殺しておいて平気なのかよ!?』
それを実行した張本人に向かってその言葉を投げつける。
返ってくる言葉なんてなんとなくわかっていた。
だが、それでも叫ばずにはいられなかった。
『賊を成敗したんだ。何を気にする事がある』
『クッ…!』
僕は悔しさのあまり地面に顔を擦り付けた。
言っても無駄。
この男にはここに横たわる人達なんてどうという事は無い存在なんだ。
同じ人間…そんな事さえ彼の中には無いんだ。
『ちくしょう…ッ』
結局止める事なんてできなかったんだ。
彼に目をつけられた時点で彼らの命運は決まっていた。
なんて言ったって彼は偉いんだ。
そして僕らの関には彼を止めれるだけの立場の人間がいないんだ。
『ちくしょう…ッ!』
『…ふん』
洋班は兵士達の中に姿を消していった。
『お、お前ら!関へ戻る準備をしておけ!』
そしてそれを追うように黄盛がついていった。
『こ、こいつどうする?』
『どうするって言われても…』
『はなせよッ!』
『あっ!』
僕を押さる兵士達から腕を振りほどく。
『…くそ…くそぉ…ッ』
『…なぁ坊主』
地面に伏して涙を流す僕に兵士の一人が声をかけてくる。
『気持ちはわからん事は無い。だが、悪い事は言わん。深く考えるな』
『…ッ』
兵士達は皆その場から散り散りになる。
"そんなんだから"
兵士の好意の言葉にそんな言葉が頭を駆け巡った。
僕はそのから暫く立ち上がる事ができなかった。
こうして僕の初陣は終わった。
第九話 ~元凶~
またしてもまたしてもまたしても…ッ!
私は怒りに拳を握り締めていた。
それは私が任務を終え、先に関で豪帯様の帰還をお待ちしていた時の事だ。
"豪統様!凱雲様!洋班様の軍が見えました!"
"ッ!"
"来たか!"
私と豪統様は洋班…もとい豪帯様を北門近くの宿で待っていた。
私はともかく豪統様は豪帯様が関を立たれてからのこの約2日間どれだけ心配を重ねながらこの瞬間を待っていた事か。
私が帰還してからは尚更な事だ。
私からの報告に豪統様は涙を流されて悔やまれた。
何度も自分を責められ、何度もそれをなだめた。
本当なら私が豪帯様をお守りせねばならないのだ。
これは私の責任だ。
それから一日はただただ豪帯様の安否を心配しつづけた。
そしてその時は来た。
…だが、私達の心配は思わなぬ形で訪れた。
簡単に…とは言っても洋班を刺激しない程度に礼を尽くしてから、二人で豪帯様をお迎えした。
…だが、豪帯様は軍の後ろをただ一人で馬を引き連れて歩いていた。
何か嫌な予感をしながらも豪帯様に近付いてみた。
だが、その顔には生気は無く、明らかに何かあったのを物語っている表情だった。
"大丈夫か?何があった?"
そんな豪統様の言葉に豪帯様は。
"…今はほっといて"
と答えられた。
その言葉でとうとう私は憤怒を堪えきれずに関内へ向かう洋班の名を力の限り叫んだ。
その怒声は関内にもそれは響き渡り、兵は皆唖然としていたのを覚えている。
豪統様に止められ、兵士に止めらるも怒りの余り全てを蹴散らしながら兵団の前を行く洋班を目指した。
兵団の先頭についてみれば黄盛の後ろに隠れながらビクビクしている洋班がそこにいた。
"貴様!覚悟はできているだろうな!"
"なんの事だ凱雲!貴様無礼だぞ!"
"お、俺は何もしちゃいない!何もしちゃいない!"
"よ、洋班様?"
そんなやり取りをした後に周りにいた兵士達が私に事情を説明してくる。
そこでやっと豪帯様はあれ以来手を出されていないと知る。
…だが、それでも悔しさや怒りは収まらなかった。
だが。
"凱雲!いい加減にしろ!"
その言葉で我を取り戻した。
そして私はその後に豪統様から謹慎の処分を受けて今自室にいる。
なんてあり様だ。
本来ならこんな時こそ私が一番冷静さを保たねばならないのに。
これでは豪統様の補佐は失格だ。
実の親が耐えているというのに私は…。
ドガンッ
ピシッ
石でできた壁にヒビが入る様な音がした。
案外壁は厚いのだな。
そんな事を思いながら自分の拳を見る。
その拳は赤く滲んでいた。
あの凱雲があそこまで取り乱すとは…。
私は自室で夕陽を窓から浴びながらそんな事を考えていた。
それというのも私の子帯を思っての事だとはわかってはいるが、やはりこの関を守る者としてはあの様な行為は避けて欲しかった。
せっかく洋班様も関での目的を終えて帰られる時が来たのだ。
あまり帰られる前に刺激して欲しくない。
『…』
だが、あの凱雲が冷静さを失うなんて何年ぶりだろうか。
それくらい彼にとっては衝撃的だったんだろう。
…勿論それは私も同じだ。
帯のあの表情。
その顔が今でも鮮明に思い出される。
関に来た時、一緒に北門の整備をした時、その時々の表情からは想像なんてできないくらいに疲れ果てたその顔を見るのは親として何より辛かった。
そしてその原因は私の招いた事だった。
私が親として、官士としてしっかりしていればこんな事にはならなかったんだ。
『…すまない』
そんな言葉が漏れた。
だが、もうそんな事は言ってられない。
もう翌日には目的を終えた洋班様はこの関から出ていかれる。
やっと終わったんだ。
だからこそ、もう二度と私達に不幸が訪れないようにしっかりと洋班様の気を損ねないよう、また洋循様への報告も兼ねてしっかりと"種"を準備せねば。
私は再び目の前にある紙に筆を走らせる。
もう少しだ。
もう少しだけ待っていてくれ帯。
そしたら私が見せたかったモノ全てを見せてやる。
もう苦しむ必要のない世界を。
…そうだな。
だが、やはりあの帯の様子は気がかりだ。
だからこの仕事が終わったら少しだけ帯様子を見に行こう。
…いいよな?
私は沈み掛けた夕陽に照らされながらひたすらと筆を走らせた。
『…ふー』
『お疲れ様でございます』
俺は用意された部屋の寝床に身体を投げた。
人を切る事がこんな疲れるなんて。
確かに興奮によって余分に疲れたのもあるが、名剣を持ってしても人の肉を引き裂くまでの動作や相手の行動によって身体中の筋肉を使った気がする。
正直な話し怠いのだ。
『…よっと』
寝床の上で仰向けになり、自分の手のひらを見てみる。
そして今日の村での事を思い返す。
なんというか、同じ生きた人間を自分の手で斬り殺すというのはもっと何か感じるものがあると思っていた。
それがどうだ?
あまりに呆気なく死ぬもんだから最初こそは鳥肌がたったもんだが、後半にはどうしたら綺麗に切り裂けるかとかどうにかして真っ二つにできないもんかとかそんな事を考えながらただひたすら腕を振っていた記憶しかない。
"なんというか飽きた"
それが今日の感想だった。
『…では、明日の出発に備えて準備を整えてまいります』
『あ?』
すっかり忘れていたが、この黄盛は律儀にも部屋までお供をしてきたようだ。
…まったく。
ここの田舎共とは違い、こいつは媚の売り方をしっかり心得ているようだ。
こんな些細な事をしてでも従順さや献身さを見せてこその目下だろうに。
だから奴らはこんな辺鄙な場所から出られないのだ。
出来損ない共め。
『あー、待て待て』
『はい?』
俺は黄盛を呼び止めた。
急に呼び止められた黄盛は何故呼び止められたのかわからないといった表情をしていた。
…まぁ無理も無いか。
こいつは"幾つもの戦場を経験してこられたのだから"な。
『なー、その事なんだがな?』
『その事と言いますと?』
あーじれったい。
そのくらい察しろ筋肉馬鹿め。
『その明日の準備についてだよ阿保』
『それがどうかなさったのですか?』
イラっときた。
だが、今日初めて人を切った事で悲鳴を上げていた筋肉が急な動きを拒んでいた。
そのせいもあって、俺は枕元の机にある小物を握るも投げ付ける事をやめた。
『はぁー…よっと』
精一杯の力で身体を起こす。
『お前は何か物足りねぇって思わねえか?』
『?』
『はぁー…』
既に暴力を諦めた分溜息しか出なかった。
説明するのも面倒だがぐっと堪えた。
『いいか?今日の賊狩は俺の初戦なんだぜ?つまり、今日は俺にとっては記念すべき日なんだ。』
『はぁ…』
『だが、実際その記念すべき戦はどうだった?』
『どう…と言われましても』
ガツッ
『あだッ!?』
『だーかーら!!俺が言いてえのは記念すべき日にしてはしょぼいんじゃねえかって事だよ!』
等々手元の小物を投げ付けた。
そうだとも。
俺様の記念すべき初戦が、こんなにも地味でいいはずが無い。
俺はもっと地方で野ばらしにされている賊共何万を根絶やし、そこの民草から感謝され、官士共からも一目置かれ、ついには都より将軍位を賜ると共に"皇宮校尉"として召し抱えられ、晴れて皇帝のお膝元で出世街道まっしぐら…。
それが俺の計画だった。
だが…。
『実際に討ち取った賊の規模はなんだ?たかだか100~200そこらの小賊ではないか。そんなもの報告したところで笑われるのが落ちじゃないか』
『はぁ…確かに誇れた功績では有りませんが…』
『そこでだ!』
『?』
俺は手招きして黄盛をそばに寄せる。
きっとこれを聞けばこいつも驚くだろうよ。
ちょっとした期待に胸が膨らましながら屈んだ黄盛の耳元に顔を近ずける。
『…蕃族だ』
『蕃族?』
本当に察しの悪いやつだ。
『蕃族を俺らで根絶やすんだよ』
『な、なんと!?蕃族を我々で!?』
ドガッ!
『あだッ!?』
『声がでけえんだよ!』
『す、すみません!』
こいつは本当に頭に何か入ってるのか?
こっちがわざわざ声を小さくしているというのに…。
『し、しかし、良いのですか…?聞いた話しでは蕃族とは確か友好関係を結んでるだとか…』
『なーに気にするな。あんなもの豪統が蕃族に対抗できないもんだから勝手に言ってるだけさ。逆にそれを我々が打ち滅ぼしてみろ?それこそ我々は大手柄だ。それに本当に同盟を組んでるにしても相手は蛮族だ。何を気にする必要がある』
『しかし、豪統はそれを知って黙っているかどうか…』
『はぁー…。お前は本当に考え無い奴だな、黄盛。頭を使え頭を』
『…?』
『何も馬鹿正直に"出陣します"なんて伝える必要なんかねぇんだよ。なんたって俺は州牧の息子なんだぜ?それに俺達には俺達の兵2000がある。つまり…』
『豪統には伏せて蕃族を討ちにいくと?』
『そうだ!中々わかるようになったじゃねえか!』
『ははっ…。では、出陣は何時になさいますか?一応我々は明日の昼には関を出ると…』
『今からだ』
『は?』
『今から蕃族を潰しに行く』
『い、今からですが?』
黄盛が窓の外を見る。
既に日は山に隠れつつあった。
『夜に抜け出すという事ですか?』
『そうだ!それに夜の方が蕃族だって不意を突かれて大混乱!これぞ兵法!これぞ知将の戦い方だ!』
『それはいい作戦にございます!では早速準備をさせます!』
『あ!待て!』
『はい?』
俺は部屋から飛び出そうとする黄盛を呼び止めた。
多分しっかり言って置かないといけない気がするからな。
『いいか?誰にもバレないように慎重にな?』
『わかってございます!この黄盛にお任せを!』
お前だから心配してんだよ阿保。
そして黄盛は部屋を出て行った。
ククッ…。
夜が楽しみだ。
ガヤガヤッ
準備を急げッ!
さっさとせねばばれてしまうぞッ!
ガヤガヤッ
外が異様にうるさい。
こんな日も落ちた時間にいったい南門で黄盛は何をしているのだろうか。
僕は関に帰って来て直ぐに北門とは反対側の南門近くの宿に来ていた。
理由は二つ。
一つは自分の部屋には居たく無かったからだ。
今は本当に心の底から誰とも会いたくない。
それが父さんでも。
…しかし父さんはそんなこっちの気も知らないで慰めに来そうだったから。
『…はぁ』
父さんのいき過ぎた優しさにはたまに凄く嫌な思いをさせられる。
そして二つ目は洋班にできるだけ会わないためだ。
多分北門だと明日の帰り際には必ず洋班が通る。
それに、父さんが用意した洋班の部屋だってどこにあるかは知らないし、無いとは思うがもしかしたら北門周囲の良い宿を借りているかもしれない。
そうなら尚更出歩いている洋班に会いかねない。
もう洋班の顔も見たくない。
明日は腰抜けだの弱虫だの言われるだろうが、それでも洋班に会わなければそれでいい。
そして選んだのはこの南門だ。
こちら側は北門に比べて若干ではあるが、内陸側に位置する北門よりも高い宿屋は無く、どちらかと言うと蕃族と頻繁に交易している流れ商人が一時的に借りるような宿しかない。
…それに。
コンコンッ
(帯坊、飯は戸の前に置いて置くからな!腹減ったら食いな!)
そうなのだ。
ここの宿は昔からの付き合いで僕が父さんとケンカをした時や、父さんと凱雲が偶然出掛ける事になった時に良く来ていた場所なのだ。
そのせいもあってここの主人は僕が来ると何時も何も聞かずに宿に泊めてくれる。
そして今みたいにご飯も用意してくれる。
…あとでしっかりお礼言わなきゃな。
僕は枕に顔を沈ませながらそんな事を思った。
そして、少し宿主の好意に胸が暖かくなるが、直ぐに昼の事を思い出しその温もりは冷めた。
…今日死んだ人達の中にはこんなやり取りをしていた人達もいたんだろうな。
僕は自分と宿主との間に起きた些細なやり取りをあの村と重ねた。
穏やかな日常。
みんなが気を使い合いながらも気さくに、そして時には小さなケンカをしたりしながら流れていた日常。
その中で昼に宿に泊まりながら宿主とたわいも無い会話をしている二人。
…だが、そこに急に剣を持った兵士達が押し寄せて来て訳もわからずに斬り付けられてそして…。
ギュッ
より一層強く枕に顔を押し付けた。
僕はどうして止められなかったんだ。
あの場では反対意見を言えたのは兵士達より位の高い僕か黄盛しかいなかった。
だからこそ兵士達の、そして僕の意見をしっかり諦めずに主張し続けるべきだったんじゃないか?
…それが死ぬ事になっても。
でも僕は途中で諦めて黙認した。
最善を尽くしたか?
いや、最善なんて尽くしちゃいない。
それこそ死ぬ気で喰いついていればなんとかなったかもしれない。
それなのに僕は…。
もう涙も出ない。
何度も何度も同じ言葉を繰り返している内にいつの間にか涙は乾いていた。
そのせいか、異常に喉が乾いていた。
だが、自分の喉を潤す為に水を飲むのに抵抗を感じていた。
涙が出なくなった今、死んだ人達への謝罪の仕方がわからない。
泣く事で許されるとは思っていないが、それでも罪悪感を誰に示すでもなく感じているというのを示せなくなった今はこの乾きこそが泣く事に変わる死んだ人達への謝罪の仕方のような気がしていた。
死んだ人達はこの乾きすら感じる事はできない。
水を飲んだ時の生きている実感や
清々しさなんてもっての他だ。
そんなものを僕が感じる資格なんて無い。
僕は何十、何百の人殺しを黙認したんだ。
『…ごめんなさい』
枯れた喉から無気力にそんな言葉をひじりだした。
ガヤガヤッ
早くしろと言っているだろ鈍間共!
ガヤガヤッ
ガヤガヤッ
それにしても外は相変わらず煩いな。
あのデカブツはこんな夜中に兵士達に何を怒鳴り散らしているんだ。
僕は懺悔に懺悔を重ね疲れて、無気力に外の声に耳を傾ける。
ガヤガヤッ
ガヤガヤッ
貴様ら!兵士だろ!
戦前にそんなに無気力でどうするか!
ガヤガヤッ
ん?
戦?
戦とはなんだ?
ガヤガヤッ
ガヤガヤッ
ドンッ!
『…っち』
部屋の外から部屋の壁に向かって何かがぶつかる音がした。
まったく…なんて迷惑な。
これじゃあ僕以外の人達も眠れやしない。
第一南門にこいつらが何の用なんだ。
昼間に賊討伐と言って村を襲ったばかりだろうに。
それに賊退治なら内陸側である北門に集まるべきだろう。
南門なんて城壁を越えた先に蕃族しか…。
『…え?』
一瞬嫌な予感が頭を過る。
そしてそれによって急にぼけていた頭が冴えてくる。
そうだ。
戦ってなんだ?
賊退治が終わった今戦なんて起こるわけがないだろ。
もう目的を終えた奴らは明日の朝には州都に戻るだけなのにどうしてまた戦準備なんか。
しかもその目的の方角は明らかに蕃族を目指している。
それは南門に来ている時点で明確だ。
賊が関より外側にいるのを突き止めたからか?
いや、そんなはずは無い。
関に来てそんな情報は聞かないし、荀山すらあまり知らないような奴らが僕達より先に関より外の情報を掴めるとは思えない。
第一そんな情報があればあの村は犠牲になる必要はなかったんだ。
じゃあ残る目的はなんだ?
蕃族…か?
いや、そんなはずは…。
だが、相手は洋班だ。
もしかしたら…。
僕は枕元にある鉄鞭を手に取り部屋を出た。
『貴様ら!!何度言わせるんだ!!早くせねばバレるだろうが!!急げ!!』
気だるそうに身支度を整える兵士達の中を進んで行くと、そこには夜の静けさ、とは言っても昼よりも静かになった辺りに響き渡る声で仕切りに叫ぶ黄盛がいた。
まぁ黄盛がいるのはわかっていたから驚く事はなかった。
それよりもだ。
『黄盛さん!』
『ん?…ゲェッ!!』
分かりやすいくらい"しまった"と言わんばかりの表情の黄盛を見て想像に現実味が帯びてくる。
『何でお前がここに!?』
『それはこっちの台詞です。貴方達はここで何を?』
『う…うぐぅ…それはだな…』
『蕃族ですか?』
『ギクッ!?な、何故それを!?』
何だこの人。
わざとやってるのか?
だが、今の反応で想像は確信に変わった。
…まさかあの村だけでは飽き足らずに蕃族を襲おうとするなんて。
洋班という男はとことん想像の遥か上を行く人間だという事を再認識させられた。
『…まさか、僕にばれてまで出陣されようとは思いませんよね?』
『グギギィ…し、知るかそんなもの!これは洋班様直々の命令だ!それに貴様らは逆らうのか!?』
『やましい事だとわかってるからこんなコソコソとした真似をするんでしょ?』
『ウッ…』
よかった。
僕にはこの暴挙を止める事ができる。
あの村は救えなかったが、その犠牲を無駄にする事だけは止める事ができそうだ。
それが罪滅ぼしだとは思わない。
けれど、それでも僕にとってはこの事が支えになった。
あの村の虐殺からしっかりと何かを学べたと。
そして新たに起きそうになっていた虐殺を止める事ができたと。
僕は罪悪感から少し救われた気がした。
『では黄盛さん。兵士達を引き上げて休ませてあげてください。明日からはまた大変な行軍になるのですから』
『し、しかし…』
ザワザワッ
兵士達からは安堵の空気が流れる。
そりゃそうだ。
ここに来てからというもの、休憩という休憩も取らずに今日まで頑張ってきたんだ。
その上でまた戦闘をしなければいけない状況で待ったの声が掛かったのだ。
しかも、黄盛は押せば折れそうだ。
あと少し…。
僕は一息にケリをつける為に息を吸い込んだ。
『もし引いて下さらないのであれば僕は父さんに…ッ!?ゲホッ』
『?』
しまった。
喉が枯れ過ぎてむせてしまう。
しかも思ったよりも喉の渇きはひどかったらしく、今の一言で喉が割れたような痛みを感じる。
僕はその場に座り込んでむせた。
『ゲホッ!ゲホッ!ゴホッ!』
苦しい。
吐き気に近い感覚が喉を襲うが、出てくるのは乾いた空気だけだ。
僕は涙を目に浮かべて咳を続けた。
が、それが奴に思わぬ反撃のスキを与えてしまった。
『こ、こいつを捕らえろ!』
『!?』
黄盛は急にそう叫ぶと僕に目掛けて走り出した。
周りの兵士達も急な命令に唖然としながらも、こちらを追う構えに入り始めていた。
口封じをする為と悟った僕は急いで逃げ出そうとする。
…が。
ドンッ
『え?』
後ろにいたであろう人影にぶつかる。
一瞬状況が理解できなかった。
『おいおい黄盛。これはどうゆうことだ?』
『よ、洋班様!?』
僕はふと顔を上げるとそこには飽きれながら僕を見下げている洋班の顔があった。
マズイッ!?
僕は洋班を押しのけて逃げ出そうとする。
…が。
ガシッ
『おっと!逃がさねえぜ!』
僕はそのまま洋班によって羽交い締めにされてしまった。
『クッ!ケホッ、は、離せ!』
『バーカ!離すわけねぇだろーが!』
完全に身動きが取れない。
捕まった。
『ウヲォォ!』
『ん?』
そしてそこへ猛烈な勢いで黄盛が走ってくる。
…嘘だろ。
『洋班様ァ!そのまま捕まえといてくださぁぁい!』
『お、おい!?まさかお前!?』
『ぐらぇぇぁあぁぁ!!』
『ま、ま…!!』
『ウオラァァ!』
ドガンッ
『ガッ…ハッ…ッ!』
『うぐぅ!?』
猛烈な痛みが腹を襲う。
身体中の皮が拳のめり込んだ場所へと吸い込まれる気がした。
そして肉は裂ける様な痛みと骨の軋む感覚に襲われ…そして。
ドサッ
僕の意識は無くなった。
『はぁ…はぁ…』
な、何とか口封じはできた。
『うぐおあぁぁぁ!!』
だが、なんか嫌な予感がする。
な、何か俺はやらかしちまったのか!?
駄目だ!
頭が回らない!
洋班様に羽交い締めにされたガキに向かって拳を叩きこんだが、ガキは意識を失い、そして後ろにいた洋班様も猛烈に苦しがっておられる。
はて…何なんだこの違和感は。
『がぁぁ…ッ!』
『あ、よ、洋班様!』
い、いかん!
とにかく洋班様が苦しんでおられる!
駆けつけなければ!
『うぎぎぃ…ッ!』
『だ、大丈夫ですか!?』
『だ、大丈夫なわけ…あるかぁぁ…ッ!』
『…あ』
やっと興奮から冷めて理解した。
俺は…洋班様ごと拳で貫いてしまったんだ。
ドガッ
『アガッ!も、申し訳ございません!アダ!?』
バキッ
『ふざけんな!ふざけんなぁ!』
何なんだこいつは!?
何なんだこいつは!?
自分の上司毎拳を叩きこむ奴があるか!
しかも捕まえた時点でやりようは幾らでもあるだろ!?
なのにこいつは!!
俺はその後少しして直ぐに兵を率いて関を出た。
そしてその間ずっと鞘にしまった剣で俺の馬の隣を歩きながら謝り続けるこの男を殴り続けている。
非常識もいいところだ!
馬鹿もいいところだ!
こいつの言い分的には豪帯に見つかってから相当混乱したらしく、豪帯が咳き込んだ時には気絶させて口を封じる事しか頭になかったようだ。
そして、待つのに飽きた俺が来て豪帯を羽交い締めにしたのを契機と見て拳を叩きこんだ…と。
こいつには絶対に大事な事は任せられないと悟った。
第一、あれだけ気をつけろと言っていたのにも関わらずあっさり豪帯に見つかりやがって…。
ドガッ
『ふぎぃ!』
既に顔中あざだらけな黄盛は耐えきれなくなったのか等々地面に膝をついた。
こんなもんじゃない。
俺は人間越しに拳をくらってあれだったのだ。
もし豪帯に避けられでもしてたら…。
それを想像して背筋が凍った。
こいつは確かにどうしようもない馬鹿だ。
だが、徐城一の怪力は嘘では無いらしい。
それどころかこの国一なのかもしれない。
そう思うと、自分の手元にいるこの黄盛の怪力に心強さを感じると共に、後ろで荷車の上で縄に縛られて気絶している豪帯に気の毒さを感じた。
人間越しであれなのだ。
それを直接、しかもあんな小さく華奢な身体で受けたのだ。
もしかしたらこいつは目を覚まさないかもしれない。
…そうなると凱雲が黙ってはいないだろうが、だが黄盛がいる。
最近は全く頼りにならなかったこいつだが、こいつの腕力は身を持って体感したんだ。
腕っ節ならあの凱雲に負けるはずはない。
現に既に勝っているしな。
『お、お許しを…』
『…ふん。馬に乗るのを許す』
『!?は、ははッ!!ありがたき幸せ!!』
ボロボロになりながらも許しを乞う黄盛の姿を見て流石にこれ以上はという気持ちと筋肉痛な身体に鞭を打って殴り続けたのもあって疲れたという理由で許してやる事にした。
こいつでなければ拷問の末に打ち首の所だ。
そうこうしながら森の中の道に馬を進めた。
行軍を続けていると月明かりだけの森の暗がりの中で先の方に村のようなものが見えた。
『洋班様!見えましたぞ!』
ギロッ
『ひっ!?』
『…』
こいつは話を聞いていたのか?
まったく、夜襲だというのにこいつは…。
『…声でけぇよ』
『す、すみません…ッ』
普段なら有無も言わさずに殴りつけるところだが…。
『ふぁ~…ねみ。』
今の俺は深夜という事もあり、行軍の途中で眠気に襲われていた。
既に身体中の関節も動く事を拒み、必要最低限の動きしか許容しない。
『…よ、洋班様?眠いのでございますか?』
『あ?…あ~』
『でしたら蕃族はまだこの村だけではございませんし、少し引いた所に陣を構えて明日を待つのも…』
『あ~?せっかく目の前まで来たんだ。さっさと片付ければいいだろうが』
『はッ』
『では後は任す。さっさと終わらせて陣を敷け』
『了解しました!おい貴様ら!』
夜の暗がりの中でまたも黄盛の声が響いた。
そんな黄盛が苛立ちを覚えたが、
もう言うのも面倒だと思いその行為を不問にすることにした。
『これより目の前の蕃族に夜襲をかける!』
ザワザワッ
『いいか!』
オーッ!
『一気に叩き潰す!』
オーッ!
『我に続け!』
その叫び声と共に幕は切って落とされた。
兵士達の雑踏はさっきまでの夜の静けさを飲み込んでいく。
そんな中で俺は波行く兵士達が横をすり抜けて行く中で馬をゆったりと歩かせた。
ドンドンッ
部屋の戸が忙しなく叩かれた。
いったいなんなのだろうか。
謹慎中の人間に、しかもこんな夜に面会などとは常識の無い者もいたものだ。
それとも、それ程に急な大事なのだろうか?
私は床から寝ぼけた身体を起こして戸を開いた。
『が、凱雲様!』
そしてそこにいたのは豪帯様が昔からお世話になっていた南門近くの宿の宿主だった。
その事から豪帯様関係の事だという事をすぐに悟る。
そしてその悲しげな表情や目の前で息を整えているところから只事では無いことも悟る。
私の寝ぼけた身体から嫌な汗が滲み出てくる。
明日で全て終わるというのに今度はなんだ?
『…宿主、いったい何があった』
私はできるだけ頭を冷やしながら冷静に言葉を並べる。
『凱雲様!お、落ち着いて聞いてくれ』
『わかっておる。なんだ?』
『たい、ご、豪帯様が今日私の宿に来たんですが…その…』
『…』
やはり豪帯様か。
私は無言で次の言葉を待つ。
『例の余所者達に…連れさられた』
『…なん…だと?』
意味がわからなかった。
余所者達というのは大体予想できる。
だが、あの餓鬼共が今更豪帯様を連れさる理由がどこにある?
しかも、いったいどこへ?
『ど、どういうことだ!?いったいどこへ連れさられた!』
『が、凱雲様落ち着いて!』
理由がわからない今、豪帯様がどんな危険な目にあっているのか想像できない分焦りが募る。
私は宿主の肩を揺らし、返答を促した。
『わ、私にもわからないですが兵隊を連れて外の方へ…』
『外とはなんだ!?北門から出て行ったのか!?』
『い、いや…』
『なら外とはなんだ!?』
北門では無いならいったい兵士を引き連れて何処へ行けるというのか。
豪帯様を人質に州都へ赴くならまだ理由は色々想像できた。
だが、宿主の言う外というのがそれで無いと聞いて尚更想像ができなくなる。
いったい宿主が言う外とはなんなのか。
…頼むから大事で無いでくれ。
『み、南門から…』
『…み、南門?』
一瞬わけがわからなくなる。
何故南門なんだ?
何故そこに豪帯様が必要になる?
いったい奴らの目的は…。
"蕃族"
『』
頭にその名が過り、身体中の体温が消し飛ぶ。
自分が思いついてしまった可能性に絶句した。
もし仮にもこの予想が当たる事があっては豪帯様だけでは済まない。
それこそここら一帯を巻き込む一大事だ。
私は自分の予想を必死に否定した。
『そ、そういえば確か余所者の一人の大男が口々に"夜襲だ!"だの"急げ!"だの叫んでいました!』
だが、宿主の言葉でその予想は確信へと変わる。
『だ、だから多分豪帯様は蕃族のいる方へ…ヒィッ!?』
宿主が何かに驚いて部屋から飛び退いて尻餅をついた。
だが、今の私の意識にはそんな些細な事に割かれる余裕は既に無くなっていた。
『あいつらぁぁぁ!!』
『ひぃぃッ!』
私は尻餅をつく宿主を横目に兵舎へと向かった。
ドンドンッ!
豪統様!豪統様!
ドンドンッ!
『…んむ。なんだこんな夜中に』
私は床の中で目を覚ます。
いったい誰なんだ?
仮にもここの関の責任者の家にこんな時間に訪ねてくるなんて。
声からして官士や兵士では無いようだが。
私は気怠さを押し殺して戸へ向かった。
『あ、豪統さん!大変だ!』
『ん~…なんだ、南門の所の…』
『そんな事はいいんです!!大変なんです!!』
訪ねて来たのは昔からの付き合いの宿主だった。
宿主の声が耳を劈く。
…まったく勘弁してくれ。
私は寝ぼけた頭を必死に起こそうとする。
『わかったわかった。聞くからまず、声の高さを…』
『豪帯様と凱雲様が!』
『ッ!?』
その名を叫ばれて一気に目が覚めた。
そして目が覚めて気付くが明らかに只事ではない表情をしていた。
『…宿主、あの二人に何かあったのか?』
『豪帯様が余所者達に連れさられました!』
『なんだって!?い、いったいどこへ…』
『蕃族です!』
『は、蕃族だと!?』
『はい!兵士達を引き連れて南門より…あ、豪統様!?』
私は余りの急な事に眩暈がしてさっきまで寝ていた寝床に腰を落とした。
『だ、大丈夫ですか!?』
混乱した頭の中を整理する。
まず、余所者とは十中八九洋班様達の事だろう。
そして、その洋班様達が派兵された兵士達を引き連れて帯共々蕃族に向かって…。
『あぁ…なんという事だ』
どう考えてもいい予想が出せない。
洋班様達はきっと昼の戦果だけでは物足りずに蕃族討伐へ向かったのだろう。
では、いったい荀山の村の民はなんの為に犠牲に…。
私の築き上げた蕃族との友好関係は?
そして何より…。
『蕃族と戦争なんて無謀すぎる…』
今の蕃族相手に戦争なんて"無謀"なのだ。
今現在の国としての蕃族の認識とは、辺境の森の中に住む文明の遅れた少数民族、所謂蛮族と位置づけられているのが実は違う。
彼らは関を越え、森を抜けた先に広大で肥沃な領土を持ち、そこには無数の河川が流れ、文明も彼ら独自の文化と交易路を持つ。
そしてその環境を周りから包み隠すように広い森や深い谷、険しい山々に囲まれていて、我々を含めた外国からの侵略を受けずらい地なのだ。
そのせいもあり、戦時の大乱の中でもその領土を守り抜き、今も細々とではあるが交易相手を旧国"烈"から現在の"零"へと変えて共存してきた。
私もここの関主をするまでは間違った認識を持っていたが、交易を管理するにあたってその認識を改めるにいたる。
そしてそれを私は上へと何度か上訴はするのだが、一行に信じてもらえないばかりかこうして派兵までしてくる有様だ。
そして話しは戻るが、その蕃族を相手にするとなると一本縄ではいかない。
それこそ国の大事、我々のような一拠点程度が独断していい類のものではない。
それをあの洋班様は…。
私は全てを投げ出したくなる衝動に駆られた。
だが、この国の問題にはこの国からご恩を受け、この関を任せられた一武官として逃げるわけにはいかない。
そして何より、この問題に自分の息子が巻き込まれているのだ。
親として逃げるわけにはいかない。
『だ、大丈夫ですか?』
『…宿主、大丈夫だ。続けてくれ』
私は頭を抑えながら話しの続きを仰ぐ。
『はい…そしてこの話しをまず通りかかった凱雲様の屋敷で凱雲様に伝えたところ凄い剣幕で…』
『何故まず私では無く凱雲に話した…?』
『そ、それは私も迷いはしたのですが、急を急ぐと思いまして勝手ながら凱雲様にも伝えようと…。も、申し訳ございません!』
まったく…。
これでは軍の規律も何もありはしない。
この宿主は私達に気を効かせてくれたのだろうが、謹慎中の人間が上司の許しも無く政治や軍事に関わるのはいただけない。
また、報告だってまずは上司で上司から部下だ。
…民との距離が近すぎるのも考えものだな。
『まあいい。以後はまず何があっても私に報告してくれ』
『…はい』
私はバツの悪そうな宿主の隣を避けて部屋出る。
『宿主』
『…え?』
『ありがとう』
『は、はい!』
私は急いで南門へ向かった。
『これより豪帯様の保護、及び派兵団の進軍を止めに向かう!最悪蕃族との戦闘になるかもしれん!心しておけ!』
オーッ!
私の予想は的中した。
多分凱雲の事だ。
あんな事を聞けば兵を叩き起こして兵糧も用意しないまま出陣するだろう。
そう思って真っ先に南門へ来てみれば案の定800の兵が凱雲の鼓舞を受けていた。
『凱雲!』
『む、豪統様ですか』
凱雲が私に気付く。
そして馬を降りて私と凱雲は対峙する。
『謹慎中の身で勝手に兵を繰り出す事、お許し下さい。しかし…』
『話しは聞いた。一刻を争うのだろう』
『はい。では出陣をお許しに?』
『いや、出陣は私がする』
『駄目でございます』
凱雲は即答してくる。
しかし、凱雲も凱雲で最近私に良く逆らうようになった。
いや、そんな事はどうでもいい。
『凱雲、これは命令だ。それにお前は今きんし…』
『では豪統様のお身体に何かあった場合に誰がこの関を纏めるのですか?』
『しかし!私が行かねば洋班様は止められん!』
『誰が行ったところであの方は止められません!』
『ぐっ…』
遠回しに私でも無理だと言われたが、確かにそうだ。
だが、凱雲に任せてはきっと荒業時になるに決まっている。
それはいけない。
それにあそこには帯が…。
そうだとも。
私はただ単に帯がこれ以上私の知らない場所で危険な目に会うのが嫌なのだ。
『下手をすればあの蕃族を相手にしなければいけないのです。その時にもしも豪統様に何かあっては…』
『しかし、今あそこには私の息子が…』
『豪統様!』
『!?』
凱雲が私の肩をがっちりと掴む。
その喧騒に驚き言葉が詰まる。
『豪統様。今度こそ…今度こそは豪帯様をお守りしてみせます。だから…私を信じてください』
『…凱雲』
顔は伏せていて表情は見えないが、掴まれた肩から凱雲の心情がヒシヒシと伝わってきた気がした。
凱雲は先日の帯の怪我に未だに責任を感じていたようだ。
私は私の手で、親として自分の息子を守りたい。
だが、凱雲の言うように私が行っても何にもならない。
そればかりか、私に何かあればあの関は私では無い違う関主を迎える事になる。
…そうなれば、せっかくの民の平和も崩れてしまいかねない。
それは今までついて来てくれた関の人間達への裏切りだ。
私が責任を持って彼を守らなければ。
『凱雲、命令だ』
『…』
『…必ず息子を無事に連れて来い』
『!?』
『それと蕃族との戦は絶対にあってはならない。何としてでも洋班様を止めてこい。いいな?』
『ははっ!!』
凱雲が再び馬へ戻る。
『凱雲!』
『はい』
そんな凱雲に私は呼びかけた。
『…頼んだぞ』
『…お任せあれ』
そして凱雲率いる800の兵は洋班様の後を追って関を出た。
『…遅かったか』
兵を走らせてどのくらいがたったのだろうか。
私の目の先にある村からはこの時刻には不釣り合いな光が当たりを照らしていた。
あの光の正体は兵士達の篝火であろう。
そして兵士達が村で篝火を灯しているとなると、既にあの村は…。
『…』
私はそれについて考える事をやめた。
今は憐れみをしている暇は無い。
もし、仮にあの場で2000の兵だけで陣を構えているのであればそれは自殺行為だ。
一瞬このまま放置して合法的に洋班を排除できないかと思い浮かんだが、不毛だと踏んで諦めた。
仮に洋班が死ぬ事があっても、蕃族の民には既に手を出してしまったのだ。
もう戦は回避できないだろう。
『…』
本当にどうしようもない事をしでかしてくれた。
蔑すもうとすればする程に怒りの言葉は湧き上がって来るが、今はとにかくこれから重要になるであろう貴重な2000の兵力と豪帯様を回収する為に村へ急いだ。
『洋班様、粗方死体の処理が終わりました』
『…ん』
『仮の陣容も整えましたゆえに、今夜はここで夜営ということで…』
『…ん』
『…では洋班様の天幕へ…』
『待たれい!』
『ん?ゲェッ凱雲!?何故貴様がここに!?』
『…ん?凱雲?』
丁度村の中央では大きな篝火の下で洋班と黄盛がいた。
辺りは今にも夜営をしますと言わんばかりの天幕を張り巡らせていた。
ちらほら見える兵士達はここ連日の酷使によって疲労の様子が隠しきれていないようだ。
…これでは仮に陣を襲われる事があれば守り切るどころか逃げ切るまでにどれだけの被害が出る事やら…。
『洋班様…早急に兵を関までお引き下さいませ』
『あ…?』
『貴様!何を寝ぼけた事をぬかしておる!この夜営の状況が見えんのか!?』
『…ここでの夜営は自殺行為でございます。既に蕃族にはこの村襲撃の報はいっているはずです。ですので陣を捨てて早急に…』
『蕃族相手に陣を捨てて逃げろだと!?ふざけるな!第一こんな時間に兵を出してくるわけが…』
ジャーンジャーンッ
真っ暗な夜空に陣銅鑼の音が響いた。
…予想はしていたが早すぎる。
『な、なんだ!?』
『なんじゃ!?』
『蕃族だ!!さっさと兵を退け!!』
『貴様ら!!』
蕃族領側より少し遠くの小高い丘の上から声がした。
そしてそちらを見れば月明かりに照らされた騎馬武者が単騎で影を見せた。
…まずい。
『だ、誰だ!』
『我が名は形道晃!蕃族の王、刑道雲が第一子なり!貴様らこそ何者だ!?見たところ賊の類ではないな!』
『ふふふ…聞いて驚くな!?我々は…』
ドカッ
『あだっ!?』
『…ん?』
『俺の名は烈州州牧が第二子、洋班!貴様ら蛮族を討ち取りに来た男だ!』
『…何?零の官軍か?』
『そうだ!降伏するなら今のうち…』
『どういう事だ!貴様らと我ら蕃族は同盟関係にあるはずだろ!』
『はぁ!?蛮族風情が調子に乗るなよ!貴様ら蛮族なんぞと我ら高等民族が同盟など組めるか!』
『何!?貴様らぁぁ!』
『待たれよ!!』
『…ん?その声は』
堪らず声を張り上げた。
『凱雲!そこにいるのは凱雲か!?』
『いかにも!』
刑道晃が私に気付いて声をあげる。
『凱雲!これはどういう事だ!?何故同盟を反故にするような真似を!?』
『…』
『答えろ!』
私は何も答える事ができなかった。
言い訳や謝罪の言葉で住むような事では無い事は十分に知っている。
…だが、今の私にはそれ以外の言葉が思い当たらなかった。
『…っち!豪統だ!豪統を出せ!』
刑道晃は痺れを切らして豪統様の名を叫んだ。
『あんな蛮族相手に臆病風に吹かれる下っ端なんぞ関に置いて来たわ!それより来るのか!?来ないのか!?』
『…成る程。そうなっておるのか』
刑道晃は何かを察してくれたようだ。
一瞬心の中で誤解が解けた安堵が過るが、かといって現状は未だに最悪のままだ。
誰が命令してようが関係無い。
我々は蕃族の民に手を出したのだ。
その事実は変わらない。
『そちらで何が起こっているのかは知らん。だが…』
刑道晃は言葉を濁らせ、変わり果てた村の姿を見渡した。
村には蕃族の民の姿は無く、見える人影は全て陣銅鑼によって目を覚まして戸惑う兵士達だけだった。
『貴様らは我が同族に手をかけた。その事実は変わらない』
『あ?さっきから何をぼそぼそと…』
『黙られよ関越えの民よ。私は今そこにいる凱雲と話しておるのだ』
『んだと貴様!』
『凱雲』
刑道晃は隣にいる洋班を無視して話を続けた。
『長き間柄ではあるが、私には私の義務があり責務がある。それは軍人としてわかるな?』
『…あぁ、わかっておる』
そうか…。
やはり駄目か。
私は手綱を握りしめた。
『洋班様…』
『あ?なんだ?』
そして刑道晃にバレないように横目で洋班に喋りかける。
『…私達がこの場を引き受けます。ですので洋班様は合図を出しましたら急いで兵士達を纏めて下さいませ。…そして』
『逃げろってか?』
『…では、行くぞ』
刑道晃が腕をあげる。
あれが振り下ろされれば戦闘が始まる。
『…はい。洋班様、どうか決断を』
『ふざけるな!蕃族相手に我々高等民族が退けるか!黄盛!』
『洋班様!』
『はっ!ここに!』
『蛮族共を蹴散らせ!』
『御意!』
だが、私の努力も虚しく洋班は戦闘の意思を固めた。
駄目なのか!!
そして刑道晃の腕が振り下ろされた。
『かかれ!』
『かかれぇい!』
二人の男の声は夜空に交差し、戦闘の幕は切って落とされた。
第十話 ~捜索~
星々が散らばる夜空。
辺りを覆うように生い茂る木々達。
本来なら静寂に包まれているはずのこの村は今兵士達の怒号と剣撃のぶつかり合う音で溢れかえっていた。
『同胞の仇!生きて逃がすな!』
小高い丘の上では月明かりを背に受ける騎馬武者、蕃族の将にして部族の王の第一子形道晃がその手をこちら側へ振りかざし、彼の後ろからは続々と兵士達がこの陣、または村跡地へ向かってなだれ込んでくる。
『前衛は何をしておるか!敵の突破を許すな!』
そしてそれを迎え撃つは零の属州、烈州本土より派兵された賊軍掃討軍部隊将、黄盛。
そして。
『蛮族なんぞさっさと蹴散らせ!』
掃討軍部隊長にして烈州州牧が第二子、洋班。
彼らがこの戦闘の引き金を引いた主謀者達だ。
戦闘は我々官軍側が占領した村に立て籠もり、それを蕃族側が攻める形になっている。
だが、官軍側は不意を突かれたという事もあり防衛線を整える前に戦闘が始まり、早くも蕃族の陣中への侵入を許してしまう。
そして今陣中は敵味方入り乱れての白兵戦になっている。
一度白兵戦となってしまえば将の用兵知識、経験よりもその兵士達自身の戦闘能力や訓練度、つまり"質"に頼る他は無いのだが…。
『はぁ…はぁ…』
『くっ…!』
周りの兵士達を見る限り、ここ連日の行軍や戦闘、軍事行動によって兵士達の疲労は限界にきているようだ。
そんな状態ではいくら兵士達の質が良くても敵に当たる事など到底できない。
…それに。
『うぐぁ!』
『ぐふ!』
『た、助けて!』
戦闘の様子を見る限り、その質でさえ蕃族に劣っているようだ。
これではいくら2000もの兵を集めた所で精々訓練経験の無い村々を襲うか、良くて同数の賊の集団と戦うので精一杯といったところか。
『おりゃ!』
『くっ!こいつら他の奴らとなんか違うぞ!』
だが、今は私が関から連れてきた800の兵が何とか陣中に散り散りになりながら蕃族の兵に対して抵抗はしている。
しかし、それもいつまで続くかわからない。
関軍800に寄せ集めの官軍2000で何とか兵数は多いものの、形道晃のいる丘からは今もなお次々と兵士達がその姿を現していて、これでは我が方の壊滅は時間の問題だ。
『どりゃぁ!』
『邪魔だぁ!』
ザシュッ
『ぐえッ!』
そんな戦闘の最中、私は陣内の敵味方を避けながら馬を走らせていた。
理由は一つ。
この陣内の何処かにいる豪帯様を見つけ出す為だ。
本来なら軍権が無くともこの壊滅の危機の中、全軍に撤退命令を出して我が部隊が殿を務める間に早々に官軍を引き上げさせる所だ。
だが、今は陣中のどこかに豪帯様がいる。
こんな状況で撤退を叫べば、兵士達は命令の混同で更に混乱し、皆一心不乱に逃げ惑うに決まっている。
そうなれば豪帯様を連れ帰らせるどころか、陣中に置き去りにされかねない。
そうなるくらいなら兵士達には悪いが、現状のまま私が豪帯様を陣中で見つけるまでの囮になってもらおう。
だが、きっと壊滅する前に兵士達には撤退命令が出てしまうはずだ。
洋班も黄盛も壊滅するまで気付かないなんてことは無いはず。
だから私はそれまでに何としても豪帯様を見つけ出さなければならない。
そうした結論が出た事によって私は敵味方が剣を交える中、ただ一騎誰とも剣を交えずにこうして陣中を駆け回っている。
『豪帯様!』
私は手近にある天幕を開く。
『げぇ!?』
『み、見つかった!?』
『…』
だが、そこに居たのは官軍の兵だった。
見たところこの混乱に乗じて盗みを働いているようだ。
…しかも味方の。
『で、出来心で…あれ?』
『こ、こないのか?』
命乞いをしている傍、もう一人は健気にも剣を私に向けて来る。
だが、こんな小物共に今は構っている暇は無い。
私はその天幕を後にした。
『…』
私は丘の上で敵陣内で行われている戦闘の様子を見ながら、関とのこれまでの関係を振り返っていた。
異質だ。
それが彼らと初めて会った時の印象だった。
私と彼らが出会ったのは八年前で、その頃の蕃族はまだ零とは対立しており、父と共に対北前線になっていたニ城にて零と対峙していた時だった。
"形道雲様!"
"なんだ?敵襲か?"
"い、いえ!何やら北国より使者が来ているとか…"
"…何?"
私達はこの報せに驚いていた。
元々蕃族と北の国々とは昔から対立の関係にあったからだ。
しかもその歴史はとても古くからで、零以前の烈王の時代、さらにはそれ以前にまで遡る。
それまでに何回かは外交も行われてきたようだが、それも記録に残るものは指を折る程度のものだった。
それだけに私達は戸惑った。
"ふむ…"
"ど、どうなさいますか?このまま使者を斬り捨てて…"
"いや、待て"
この時父上は伝令の提案に待ったをかけた。
"…父上、まさか北国からの使者に会われるのですか?"
"…あぁ"
"何故です!?彼ら北国との交渉など無意味です!現に今までだって使者のやり取りなど…"
"確かにそうだ。奴らとは遠い先祖の代より外交を断絶し、武力で領土を争って来た。だが、それは使者のやり取りがなかったからではないのか?"
"それは…"
"正直ワシにもわからん。今まで生きてきた中でこんな事はなかったからな。だが、断言はできない分今ここで会いもしないで使者を斬ってしまってもいいものだろうか"
"…"
"なに、心配するな晃よ。会ってみるだけ会ってみてその使者がふざけた事をぬかす様なら直様斬り捨てればよい話だ"
"父上がそう言うのでしたら…"
そして私達はその使者に会う事になるのだが…。
"旧陵陽関関主馬索より対蕃族防衛の任を引き継ぎました豪統にございます"
その使者は護衛ただ一人を従え、敵陣真っ只中で自分が敵国の前線拠点の大将だと名乗った。
それが彼ら豪統殿と凱雲だった。
当然私達は皆騒然とした。
"…ふむ。して、豪統殿。其方は何をしに参られた?まさかそれだけを伝えにわざわざ敵陣真っ只中に来たわけではあるまい"
"えぇ"
皆が固唾を飲む。
いったい彼らはこんな危険を犯してまで何を交渉しに来たのか。
"では、要件を聞こうか"
"単刀直入に言います。我々と同盟を組んでくださらぬか?"
"なに?"
それは誰もが予想だにしない事だった。
"ご、豪統様ッ…!。確か今回の使者は停戦の筈では…"
そしてそれは護衛に着いて来た凱雲すらも予想外だったようだ。
"お互い長い戦の中で勝敗はつかず、兵は疲弊し、国は安定せず、今や我らの陵陽関と貴方方のここニ城との間で悪戯に少数の兵をぶつけ合っているのが現状であります。そこで、今一度は積年の恨みを忘れ、互いに民の生活に目を向ける機会を作るのは如何でしょうか"
豪統殿の言い分は"このまま泥沼化した戦を続けても民の生活が良くなる訳では無いから戦を互いに止め、内政をしよう"との事だった。
確かにこれは我々にとっても都合がいい事だ。
昔からこの国では北への牽制用の軍事費に半ば習わしの様な感覚で国庫を割いて来たのが歴史の中である。
だが、北国が小国の集まりから戦国六雄の傍、烈に纏まってからは北からの圧力が増し、此方は本格的に軍事力を持たねばならなくなる。
更にその烈すらも呑み込み広大な領土を有した零と隣接してからは尚更だった。
しかもその頃の北国零は更に膨張を続け、いつの間にか北の国々を統一してしまっていた。
その間にも我々は牽制や防衛の軍事費に国庫を蝕まれ続け、零には遠く及ばないにしてもそれなりの領土を有していた筈の我が国は栄えるどころか、発展は遅れ、内需は安定せず、挙句に敵国の商人達との交易によってなんとか国を保っている有様だ。
そして、その商人との交易によって国の情報が漏れてしまっているようだ。
…だが、我々には商人達を規制する事はできない。
そんな状況下では豪統殿の話しは渡りに船だった。
…だが。
"豪統殿、貴方の言い分はわかりました。確かに、我々はその領土には見合わない程の軍事費に頭を抱えております"
"そのようで"
"しかし、それでもこの話しはお受けできませんな"
"…何故です?"
そうだとも。
我々は誇り高き民族、蕃族なのだ。
北国では敵国の人間を拉致しては犬馬の如く奴隷として扱うのが習わしのようだが、そんな下劣な民族に屈する様な我々では無い。
現に今までの戦の中で我ら同胞もその奴隷の一部として連れ去られているのだ。
だからこそ我々は苦しい中でも国庫を割き続け、ひたすら同胞を助ける為、またこれ以上同胞に手を出させない為だけに兵を出し続けているのだ。
それが我々と北国との歴史であり、払拭できない関係なのだ。
停戦は勿論、同盟などは言語道断だ。
"…我々との歴史は知っておりますな?"
"…えぇ"
"仮に我々は最後の一兵になろうとも、その信念を、同胞の恨みを忘れる事はござらん"
"…そうですか。では再び戦場でお会いしましょう"
"あぁ、何時でも参られよ"
"…では"
交渉は決裂。
短い言葉を交わし、豪統殿は我々に背を向け内宮を出ようとする。
"待たれよ、豪統殿"
"…"
だが、それを父上は制しされた。
"敵国の、しかも大将首がわざわざ敵陣ど真ん中まで護衛一人で来るとは…覚悟はして来ただろうな"
父上が宮座から腰を上げて腰から剣を引き抜いた。
そして、それを待っていたと言わんばかりに内宮にいた重鎮達も剣を引き抜く。
それもその筈。
敵国の大将が護衛一人で我が国に乗り込んで来たという事は"貴様ら何ぞ護衛一人で充分"と言っているようなものだ。
皆舐められたものだと言わんばかりに目をギラギラとさせてその瞬間を待った。
それを察し豪統殿の傍らにいた凱雲が持っていた長柄の獲物の刃から布を取り払い大薙刀を構えた。
その時の彼から怯えたなどは一切感じられず、迫り来る者全てを薙ぎ払ってやると言わんばかりの不動の面様をしていた。
その気迫に冷や汗をかいたのを今でも覚えている。
"形道雲殿…敵国の使者に刃を向けてもよろしいのですか?"
一触即発の空気の中、豪統殿が背中越しに父上に話しかけられる。
"何分、戦育ちの性分でしてな。敵国の人間相手に対する礼を私はこれしか持ち合わせておらんのだ。悪く思うな"
そう口元を釣り上げながら父上は言われた。
決定的かと思われた。
私はこれから始まる戦闘に備えて構えを更に深くする。
…だが。
"でしょうね。実を言うと私達も武官の出でしてね。わざわざ敵国まで赴いて喋るだけの役には些か心残りがありましたゆえ…"
豪統殿はゆっくりと腰から剣を引き抜いた。
"しかし、もし来られるのでしたら用心なさいませ。私はともかく、この護衛凱雲はそう安安とは打ち取れませんぞ"
"何?凱雲だと?"
明かされた護衛の名で私を含めて周りがどよめいた。
我々の所には今の北国に三人の鬼神がいると伝わってきていた。
まず、初めにこの国より北に位置する場所に住む騎馬民族、荒涼蛮の王、鄧旋。
次に零国の将軍にして旧戦国六雄"童"の武門名家、乱家の若武者、乱獲。
そしてその彼らと互角に渡り合った無名武官の懐刀…。
それが三人目、凱雲だと。
"…果たして、今ここにいる武官で足りますかな?"
顔は知らないとはいえ、まさかこんな所で北国の武の頂点の三人の内の一人と対峙する事になるとは。
豪統殿の言葉に私達の緊張は一気に高まった。
…だが。
"ふふっ、ふははははっ!!"
"ち、父上!?"
その緊張は父上の豪快な笑声と共に消し飛んだ。
皆が皆どうしたと言わんばかりに父を見る。
"いやいや!何とも清々しい武者振りではないか!"
"そ、そんな事言っている場合ですか!奴らを早々に…"
"よいよい。皆、剣を下げろ"
"父上!?"
そしてその父からは思わぬ言葉が飛び出した。
皆が渋々と剣を下ろしていく。
"…刑道雲殿、これはどういうおつもりで?"
"いやなに、そなたらの豪胆振りに敵ながらに惚れましてな"
"父上!何を言われますか!"
"お前は黙っておれ"
"…ッ"
"…ワシは歳を取りすぎたのかもしれん。そなたらの姿に胸が空いてしもうたわ"
"…情にございますか?"
"いや、勘違いしてもらっては困る。ワシはただ、そなたらの首をここではなく戦場で奪いたくなっただけの話しよ"
"…そうでございますか"
そして豪統殿は納得したように剣を納めた。
そしてそれに続いて凱雲もまた薙刀の刃を宙へ逸らす。
"行け"
"では…"
最後は短いやり取りだった。
"父上!私は納得できません!"
そして豪統殿が内宮を出た後、私はすぐに重鎮達の前で父上に噛み付いた。
納得ができなかった。
何故敵国の、しかも大将首を目前にしながら刃を納めねばならなかったのか。
しかも、そうさせたのは他らぬ自分の父の酔狂によってだ。
これでは下について来る者はどうなる?
私は父の軽率な行為を攻めた。
だが。
"心配するな晃よ。何もワシはさっき言っていた理由だけで奴らを逃がしたわけじゃない"
父上にはそれとは違う理由があると言われた。
"では何故!?"
"…なぁ、晃よ。奴らを見てどう思った?"
"はい?"
そしてさらに問い詰めてみれば、唐突に質問を突きつけられた。
最初ははぐらかそうとしているのかと思った。
だが、父は大事をはぐらかすような人ではないし、宙を見据えるその鋭い眼差しは意味深に何かを察しているようだった。
"…どうと言われましても"
だが、質問の意味がわからず、私はそう答える事しかできなかった。
"彼奴らがどうしたのですか?まさかそれが彼奴らを逃がした理由にはなりますまい"
"直にわかる"
"…"
そして私を含め重鎮一同は何とも言えない空気になった。
いったい父上は何を考えられているのか。
敵大将を自分達の大将自ら逃がした事実は大きい。
だが、父上はこの国切っての読みの深さと手腕をもっているのもまた事実だった。
ださらこそ、重鎮達も父上の判断の意味を必死に探っていた。
"刑道雲様!"
そんな内宮の空気の中に兵士の声が響いた。
皆が一斉に内宮に入ってきた兵士に視線を向ける。
"なんじゃ?"
"じ、実は…"
"北国の使者は引き返していったのですが、彼らが引き連れて来た荷車が何十も我らの陣に放置されていて…"
"な、なんだと!?"
"敵の策略だ!直ちに陣から遠ざけろ!"
"やはり奴らはこれを狙ってッ…!"
"慌てるな!"
兵士からの報告で騒然となった重鎮達に父上は一喝した。
皆焦りの表情を隠せないまま父上の指示に従う。
"…して、中身は確認したか?"
"い、いえ!まだ敵国の荷車ゆえ兵士の身で勝手に確認はできませんので指示を仰ごうかと…"
"…ふむ。皆、ついて参れ"
"え?"
"ワシが直々に確認する"
皆この日何度目かになる驚きを見せた。
何故、危険かもしれない敵の荷車を大将自ら確認しに行くのか。
父上は軽率な行動を何より嫌って来たのに、どうしてここでこうまでして行動理念が狂うのか。
皆動揺していた。
"直にわかる"
そう言って父上は内宮を出られた。
そしてその後父上と私含めた家臣団が荷車の確認をしたところ、中身は全て今までに北国に連れ去られていた同族達だった。
皆やはり騒然としていたが、その中でただ一人父上だけが豪快な笑い声を上げていた。
それから父上は国の軍事優先の方針から内政優先へと切り替えた。
最初は家臣一度反対が多かった。
私もその内の一人だ。
仮に同族達が帰ってきて、北国側にも攻める意思が無いにしても、あくまで一時的に過ぎず、信用するのは危険だと何度と無く家臣を引き連れて父上に上訴した。
しかし、父上は"時が経てば人が変わり人が変われば方針は変わる。一時的だと言っていては何も変わらない。彼らは大丈夫だ。私が保証しよう"と聞き入れられなかった。
しかし、その結果私達は疲弊した内政を立て直す事ができた。
民は安寧を取り戻し、内需も安定。
商人を介した交易はその後も続ける事にはなったが、それにより北の文化の恩恵も受ける事ができた。
そして極め付けは父上が保証した通り、彼らはこの八年間の間本当に我々に害を成す事が無いばかりか、一度蹴った友好の使者を度々に出してきた。
流石に自らこの国に乗り込んでくることは無くなったが、それでも私含めた家臣達の中にも今までの北国の印象を、そして何より北国の人間である豪統殿に対しての印象を改め始めるようになる。
そして3年前等々いがみ合い続けた両国は同盟を結ぶにいたった。
『…』
だが、その尊い同盟は今正に目の前で崩れ落ちている。
しかも、それは彼らからの裏切りによってだ。
私は家臣の中でも最後まで主戦派の立場をとっていた人間だが、その分自論を曲げるに当たって誰よりも北国との関係を期待していた人間になっていた。
だからこそ尚更この現実が悲しくてならなかった。
だが、父上が言われた"時が経てば人が変わり、人が変われば方針が変わる"の言葉は何と無く開戦前のやり取りで理解できた。
豪統殿はきっとこの流れに抗っただろう。
そういうお方だ。
『刑道晃様』
『…なんだ?』
隣に馬を並べた"奴宮"(ドグウ)が声をかけてくる。
『敵陣内は既に敵味方の入り混じる混戦状態にございます。ですので、一旦残る兵を温存するのが上策かと…』
『いや、このまま一気に攻めて早期に次戦に備える』
『ははっ』
そうだ。
これからが本当の戦なのだ。
小競り合いに時間を割くつもりはない。
『…北国は変わりませなんだな』
奴宮が深いため息の後に言葉を並べた。
『…あぁ』
『も、もうダメだ!』
ある兵士とのすれ違い際にそんな言葉が聞こえた。
横目に見えたその兵士は味方側だ。
敵前逃亡。
戦闘中に一人でも逃げ出す者が現れればたちまち周りを巻き込んで一気に敗走の流れが出来上がる。
だからこそ一軍を率いる将はこの一人を出さない為に日々の訓練や兵士達の信頼を勝ち得ていなければならない。
そして戦闘中にもしも現れてしまえば"死"をもって厳罰に処さねばならない。
それが強兵を率いる軍律というものだ。
だが、今の私にはその兵士を厳罰に処すよりも今の目的の為に背律行為を見逃す事を選んだ。
理由は簡単だ。
元々練度が低く、上の将が上の将なだけに日常の酷使が予想できるこの部隊で高々一人を見せしめにした所で効果が無いと踏んだからだ。
もう時間がない。
今はその事実だけが私を焦らせた。
私は既に何回と繰り返した行為を続ける。
天幕の入り口に薙刀の刃を引っ掛けて中に入る。
『豪帯様!』
中では敵兵と味方兵が刃を交えていた。
その光景に何度目かになる冷や汗をかいた。
急いで豪帯様の姿を探す。
…だが、それらしき人影は見当たらない。
良くも悪くもここにはいないようだ。
私は心の中で安堵しながらも急いで天幕を出た。
『待たれい!』
だが、天幕を出ると同時に敵意の篭った声で静止をくらう。
そして声の方へ振り返れば馬に跨り槍をこちらへ構える敵将の姿があった。
『名のある武将とお見受けいたす!』
厄介な事になった。
私は今もなお増え続ける逃亡兵の中で急がねばならないのに敵将に構っている暇などない。
かといってこの陣内を敵将を巻きながら探すには余りにも狭すぎる。
『我が名は牌豹(ハイヒョウ)!いざ!』
そうこう悩んでいる間に敵将はこちらへ馬を走らせてくる。
…ならば。
私もそれに合わせて敵将に馬を走らせた。
どれ程の手合いかはわからない。
だが、打ち合うその数合すら今の私には惜しい。
だからこそ、この一刀に渾身を込める。
敵将との距離は僅か。
もう少しで互いの間合いに入る距離。
私は駆ける馬の上で薙刀を頭上高くに構えた。
『好きあり!』
敵将は私の構えを見てすぐ反応し、槍の握る位置を浅くし、間合いを伸ばてガラ空きになる胸元に向けて槍を突き出してくる。
その間僅か。
間合いに入るギリギリの瞬間だった。
…成る程、自ら敵将に挑むだけあって中々な手合いだ。
これでは避けるか中途半端に凪ごうとすれば馬上での体を維持できなくなる。
はたまた並の手合いではそのまま間合いを見誤り突き崩されてしまうだろう。
…だが。
『フンッ…!』
私はそのまま渾身を込めて薙刀を振り下ろした。
ガキンッ
『…え』
それがすれ違い際に聞こえた彼の言葉だった。
私は後方の敵将には目もくれずに馬を走らせた。
グサッ
微かにだが、私の後ろからは槍の先端が地面に突き刺さる音が聞こえた。
それを聞いた後、私は天幕と天幕の間をすり抜けて唖然としているであろう敵将の視界から逃げた。
私の槍捌き完璧だったはずだ。
間合いギリギリで見せた敵将の隙。
そしてそれに乗じて意表を突いた間合い詰め。
自分の腕に自信があった分、槍が届かぬ内に勝利を確信していた。
…だが、気付いたら敵将は私の横をすり抜けていた。
また、敵将の胸元を貫くはずだった私の槍はいつの間にか矛先を失っていた。
呆然。
まさにその言葉が当てはまる状態に私は陥っていた。
私は矛先を失った槍を眺めながら、間合いの瞬間に起きた出来事を思い返す。
"フンッ!"
その声はまさに敵が持っていた得物を振り下ろした瞬間だったのだろう。
…だが、それが私の槍の矛先を斬り落としたのか?
…あり得ない。
経験からしてあの間合いでは彼の得物が私の得物を捉えるより先に胸元を槍が貫いていたはずだ。
振り下ろす動作、しかもあんな胴が隙だらけになる程掲げた薙刀が私の槍を捉えられる訳がない。
それこそ彼の薙刀が私の槍の突きを上回る高速の斬撃でなければ…。
『…ッ』
だが、私はふと見た地面に突き刺さる槍の矛先を見て背筋が凍った。
その地面に埋まる刃が、事実に起きてしまったのだと物語っていたからだ。
『…化け物だ』
そんな言葉が漏れてしまっていた。
『はぁ…はぁ…!』
何とか先程の敵将を巻いたようだが、随分と陣より端の方に来てしまっていた。
そこには既に敵の姿は薄く、また、敗走兵の姿を良く見かけるようになる。
…だが、何故かその敗走兵達に違和感を覚えた。
何というか、逃亡にしては数が多く、退却にしては数が少ないというか…。
だが、どの道時間が無い事だけは察する事ができた。
私は縋る思いで天幕の入り口を広げた。
『豪帯様!』
…だが、そう上手くいくわけも無く、そこには微量の兵糧があっただけだった。
『…クッ!』
私は苦々しくも天幕を離れようとする。
『ま、待ってください!』
『!?』
だが、突如気配の無い天幕の中から声がした。
私は薙刀を構えた。
『そこにおるのは誰だ!』
『わ、私は味方です!』
すると、兵糧の山の影から数名の兵士が出てきた。
だが、見た所兵糧番の様には見えない。
…では略奪か?
だが、ならば何故私を引き止めるのか。
私は不思議に思いながらも近付いて来る兵士達から少しでも情報を引き出せないかと内心すがり付く思いで訪ねた。
『お前達はここで何をしておる?見た所兵糧番では無いようだが…』
『はい、我々は前線で洋班様の側で共に敵兵に当たっていたのですが…』
そこで兵士達の顔色が歪んだ。
なんだ?
『…洋班様は戦況が芳しくないと見るや否や撤退命令は出されず、我々に殿を任せると言って黄盛様と共に退却されて…』
『…なんと愚かな』
先程の違和感の原因はこれだったか。
部隊の大将の敗走を知らぬ者が健気にも敵に当たり、偶然にも敗走途中の大将を見かけた者が逃げ始めている状況らしい。
そして彼らが撤退命令を出さなかった理由は、統率が取れなくなってバラバラになった部隊の中で殿を任せられる戦力がなく、変わりに"囮"という方法で残った兵士達に時間稼ぎを期待したからだろう。
…しかし、戦の大将が2000もの自分の兵士を戦場に置き去りにして逃げるとは。
人の事は言えないが、上がこれではついていく兵士達の事を思えば不憫でならない。
そしてそんな人間の為に駆け付けた我々は一体…。
『…あの』
『ん?なんだ?』
私が頭を抱えている所に先頭の兵士が声をかけてくる。
そうだ、まだ本題を聞いていない。
我は直ぐに頭を切り替えた。
『先程の…豪帯様と呼ばれる方は子供でございますか?』
『何!?お前達!豪帯様の場所を知っておるのか!?』
失礼だが"子供"と呼ばれて間違い無く豪帯様だと確信できた。
私は思いもよらない情報に内心歓喜した。
『え、えぇ…。実はそちらに…』
『なに!?』
兵士が先程出てきた兵糧の影に指を指す。
すると兵士数人がその物陰へと姿を消し、何やら大きな物を運んでくる。
『あ、豪帯様!』
そしてその大きな物は紛れもない豪帯様であった。
だが、その姿は両足と両手が縄で縛られ、目には周りが見えないように目隠しがされていた。
私は直ぐに駆け寄った。
『な、なんとおいたわしい…ッ!』
『こ、これは洋班様の命で仕方なく…ひっ!』
私は兵士の言葉に思わず睨んでしまっていた。
だが、冷静に考えてみれば兵士達はあの洋班に逆らえるわけもなく、また相手が洋班であればこれくらいするのは予想できた事だ。
私は私自身を宥めた。
『…直ぐに縄を解け』
『は、はい!』
目の前で兵士達が縄や目隠しを緩める。
しかし、冷静になってみれば尚更この兵士達が豪帯様をこの天幕で保護していた理由がわからない。
敵兵に降伏の手土産にするにはこの者達は豪帯様を知らないようだが…。
『お主ら、何故豪帯様をここで?』
『は、はい!実は我々も真っ先に逃げようとはしたのですが、このままではこの方が陣内に置き去りにされてしまうのでは無いかと思い…かと言って彼をここまで連れて来たはいいものの彼を連れて逃げ切れるかどうか…』
成る程。
要するに彼らは豪帯様を連れて逃げ切れるかどうかがわからずここで手をこまねいていたという事か。
そのまま豪帯様を連れてさっさと逃げてくれていれば良かったのだが、そうで無くてもこの兵士達には感謝せねばな。
『…お主ら、先程はすまなかったな。改めて礼を言うぞ』
私は馬から降りて首を垂れた。
『い、いえ!とんでもございません!頭をお上げください!』
兵士達は自分よりも上の人間に頭を下げられて慌てていた。
…だが、いつまでもこうしてもいられない。
私は改めて頭を上げた。
『…して、そんな主らに頼みたい事がある。良いか?』
『は、はい!何でも仰せください!』
兵士達は先程の行為に相当感慨深かったのか私の頼みにしっかりと反応してくれた。
これなら任せて大丈夫そうだ。
『主らに関まで豪帯様の護送を頼みたい。頼めるか?』
『はっ!…ただ、貴方様はどうなさるのですか?』
兵士は最初から私が豪帯様を引き受けるものばかりと思っていたのか、豪帯様を預けた後の事を聞いてきた。
『私はここに残ろう』
『…殿ですか?』
『あぁ』
そうだ。
私の任務は最初から味方部隊の援護、または殿なのだ。
それに豪帯様も見つかった今、尚更馬を持たない兵士達に任せたのだから時間を稼がなくては。
兵士達の顔には"心配"の二文字が浮かんでいた。
『なに、気にするな。私はこういった事は慣れておる。それに私一人では無いからな』
兵士達の心配を除くと同時に頼れる自分の部下の存在も知らせておく。
これなら万が一何か退却に不具合が起きても豪帯様を足手まといと道に放置する事は無いだろう。
まぁ、彼らにいたってその心配は必要なさそうだが。
『…わかりました。どうか御武運を』
『あぁ』
私はそう言って天幕を出た。
さぁ、ここからが腕の見せ所だ。
今までは平和の中で必然的に振えなくなっていたこの薙刀。
そして今最重要であった豪帯様の護送も任せる事ができた。
これで久々に武将としての本懐を成す事ができる。
殿。
それは敗軍の中でただ唯一敵に当たる役目。
死亡率で言えばそれこそ常戦の比では無い。
しかし、だからこそ勝戦よりも重責であり、また武将の武が最も輝く瞬間でもある。
私はこの殿の中で何とも言えない高揚感に見舞われた。
私は勢い良く馬に跨ると、陣内に散開した味方勢を集めに中央へと馬を走らせた。
第十一話 ~殿~
『…おかしい』
私は月明かりに照らされた丘の上でそう呟いた。
隣では私のこの呟きが聞こえていたであろう奴宮が敵陣内を鋭い眼光で睨みながら沈黙を貫いていた。
多分、彼もまたこの違和感を感じているのだろう。
いったい我々は兵に敵陣を攻めさせてからどれくらいが経つ?
既に丘の裏にいた兵士達は全員導入し、今や2000いた兵士は護衛を残して極わずかしか側にいない。
しかも、敵陣にいたであろう2500~3000の同数以上の兵に対して決死をもって当たらせたはいいが、思いの外弱兵ばかりで勝利は時間の問題だとばかりに思っていた。
…だが、未だに敵陣内では土煙や怒号が鳴り止んでいない。
『私が見て参ります』
隣にいた奴宮が私の気持ちを察して戦場視察を申し出た。
今は夜戦。
仮に私達が見晴らしのいい丘の上にいたてとしても、遠目から得られる情報は限られてくる。
『…うむ』
私は彼の提案を飲んだ。
『では暫しお待ちを』
彼はそう言うと手綱を握りしめて馬を走らせた。
敵陣内に近付くにつれてまず見えたのは味方勢の兵達の後姿だった。
どうやら陣内に散らばっていた敵兵は粗方片付けたようで、皆が一方向を目指して剣を抜いているようだ。
その光景に味方の優勢を確認しひとまず安堵した。
続いて感じたのは違和感だった。
状況を見れば既に敵はこの陣の約七割を奪われ、残る兵士で抵抗しているのはわかった。
だが、こんな状況で残っている兵士なんぞは十中八九殿に残された兵士だろう。
その殿というのは退却する兵士を出来るだけ逃がす役目を負うわけだから、当然全体の兵士の一割二割といったところだ。
更にその全体の兵士なんぞはたかがしれている。
陣内の敵兵の死体を見れば想像はつく。
だが、陣内に着いてみると味方勢の数にはまだ余力はあれど、どうにも進みが悪いようだ。
では、何故そんな少数の相手にこうも味方勢の押し込みが緩いのか?
それが感じた違和感だった。
私は兵士達に馬を近づけた。
『おい、お前』
『え?はっ、奴宮様!?』
目の前の兵士は私の姿に驚いた様子を見せた。
だが、それを差し置いて私は話を進めた。
『残る敵の数はどれほどか?』
『はっ。多分500そこらかと…』
『何?』
500…も残したのか。
これだけの被害を出しておいて殿に500も割いているという事実に私は少し驚いていた。
だが、されど500。
それだけの兵士なら私達の兵力を持ってして轢き潰せない数ではない。
私は改めて兵士に聞いた。
『…して、その500相手にどうしてこうも味方勢は手を拱いておるか?何も敵が強兵揃いな訳ではあるまい』
『そ、それが…』
『いえ、残る兵士は皆強兵揃いにございます』
『ん?』
『あ!牌豹様!』
話しに割って入って来たのは私の変わりに部隊の指揮を任せていた我が副将牌豹だった。
彼は冷静さや慢心といった点ではまだ甘いが、その若さと武術の腕を買って私の片腕として使っていた武官だ。
だが、そんな彼が敵兵を見て"強兵"と言うのには少し違和感があった。
現に我々より兵を有していながら、敵は早々に崩れ、被害を出し、そして今この陣を放棄するに至っているのだ。
そんな状況で彼のいう言葉は鵜呑みにできるものではなかった。
私は彼に問うた。
『…強兵揃いとな?』
『はい。彼らはどうやら本隊とは別に戦力を有していたようで、少数ではありますがその練度は本隊とは比べられぬ程に良く成されているようです』
成る程。
もしそうであれば、全体に対しての殿の比率がおかしかった事には頷ける。
…だが。
『ふむ…敵が弱兵では無いのはわかった。だが、それでも高々500であろう?そんな少数相手に我が方が手をこまねく道理にはなるまい』
そうだ。
幾ら強兵とはいえ数は数だ。
それに我が方も練度が低い部隊では無い。
相手の練度が高かろうが、我々と余程の大差がついているとも考えられない。
私は再び牌豹に問うた。
『…これを』
『ん?』
だが、彼はその問いにまず出したのは言葉では無く槍であった。
『…これは』
だが、その槍は先端の刃を失った柄の部分だけだった。
一瞬その意味が良くわからなかった。
『…敵将との一騎打ちで負けました』
『…』
私はそこでやっと理解した。
これが彼の言う敵将との一騎打ちで刃を失った槍だとという事を。
そして、それを見せてきた彼が何を伝えたいのかを。
『…敵将の名は?』
『わかりません…』
『…ふむ』
彼は若干下を向きながら唇を噛み締めて悔しそうにしていた。
どうやら一騎打ちに負けた事、そしてそれを報告するのが悔しかったようだ。
私は彼の性格や槍の腕は良く知っている。
槍を国で競わせれば多分一位二位を争う腕は持っているだろう。
だが、それに若気が加わり、彼はどうにもそれを必要以上に誇る癖がある。
そんな彼が一騎打ちで負け、そして自分の得物さえも奪われてしまったのだ。
その悔しさは相当なものだろう。
だが、これはいい機会だ。
私の副将として、そして未来の蕃族を背負う若者としてこの経験を生かして慢心を捨て、更に精進してもらいたいところだ。
…だが、今はそんな事も言っていられる状況では無いらしい。
まだまだ若いとはいえ、槍の腕は確かな彼が純粋な武で大差をつけられたのだ。
きっと余程の敵がこの先にいるのだろう。
そしてそれ程の腕を持つ人間に私は心当たりがあった。
『…牌豹よ。行くぞ』
『はっ!』
私達は兵士達を掻き分けてその先頭を目指した。
『フンッ!』
ザシュッ
『でりゃぁぁ!』
ドガッ
『ひっ…!』
『どうした!蕃族に腕のある奴はおらんのか!』
最前線では敵味方の乱戦の中馬に跨りながらその巨身に違わぬ薙刀を振り回している凱雲の姿があった。
その刃に触れた物は得物ごと真っ二つに引き裂かれ、一振りで何人もの人間が宙に浮かぶのが見えた。
そして返り血を浴びながら雄叫びをあげ、兵士達を薙ぎ払うその姿は正しく"悪鬼"のようだ。
『…噂では聞いていたがこれ程とは』
そして私はその光景に一人の武人として畏敬とも呼べる感覚を覚え、言葉をもらしてしまっていた。
『え?奴宮様は奴を知っているのですか?』
隣について来ていた牌豹が私の言葉を聞いて聞いてきた。
『あぁ…噂でだがな。お前は奴と戦って負けたのだろう?』
『は、はい…』
『なに、落ち込む必要は無い。彼は別格だ。お前は北の鬼神についての噂は知っておるか?』
『え?確か三人の鬼神が北にはいるとか…』
『彼はその内の一人だ』
『え!?』
牌豹の予想通りの反応に心地良さを覚えた。
そうだとも。
まさかとは思ったが牌豹が彼と対峙していたとは。
だが、生きている事自体が運がよかったのかもしれない。
今目の前で薙刀を振るう彼を"鬼神"と呼んで違和感を覚える人間など何処にもいないだろう。
『…どうりで』
牌豹が隣でボソリと呟いた。
『ふっ…』
『なっ!』
そんな姿に私は笑みが零れてしまった。
普段はあれだけ慢心に慢心を重ねて、上司の私の言葉にすら耳を傾けないあの牌豹が、今素直に目の前の出来事に感心しているのだ。
彼の慢心に日時眉を寄せていた私としてはこれ程に透いた気分になれた時は無い。
隣ではそれに気付いた牌豹が顔をみるみる赤くしているのがわかった。
まったく…。
手が掛かる息子程可愛いいとは良く言ったものだ。
だが、それも最後になるかもしれない。
私は緩んだ口元を引き締めて牌豹を見返した。
『なぁ、牌豹よ』
『…なんですか』
牌豹は私の様子の変化に気付いたのか赤く染めた表情を引き締め直した。
『私はこれから奴に一騎打ちを仕掛ける』
『や、奴にですか…?』
『なんだ?私では役不足とでも言いたいのか?』
『い、いえ!そんなつもりじゃ…』
彼は直様顔を背けた。
武人としては敵の将よりも武で劣っていると言われるのは何より悔しい事だ。
だが、今回ばかりは牌豹の見立ては正しいだろう。
私では彼の足元にも及ばない。
それは奴の今尚続く戦働きや、牌豹を打ち破った実績によってわかる。
牌豹と私の腕の差は前までは私の方が上であったが、最近手合せは無くなっているものの、歳による腕の訛りと彼の武術の成長を見る限り、既に抜かれているだろう。
そんな事を私の一番目近で働いてきた牌豹がわからないわけがない。
牌豹は何とも言えない表情をしていた。
普段は人の話しを聞かない癖に一丁前に人の心配はしおって…。
だが、それでも私には奴に挑まなければいけない理由があった。
まず第一に、兵士達の士気だ。
私が到着するまで彼らはこんな化け物相手に勇気を振り絞って挑み続けていたのだ。
普段の訓練や将と兵との信頼の現れと言ってしまえばそれまでだが、それももう限界であろう。
現に、兵士達は私が来てからはそれまで苦悶と恐怖に歪ませた表情を期待と安堵の表情に変えているのだ。
これでは仮に兵の被害を顧みずに再びあの鬼神への突撃を命令しようものなら、彼らはきっと私への、また国への信頼を落としてしまうだろう。
更に、一度絶望から救ってしまった兵士達だ。
安堵に染まった彼らを再び決死の覚悟にさせるには並々ならぬ力が必要だ。
そしてそんな力を持つ者など、私はおろか、どこの国を探したっている訳が無い。
人の心とはそういうものだ。
しかし、だからと言ってこのまま何もせずに奴らを逃がせば、それはそれで我々蕃族の名誉に関わる。
だからこそこの一騎打ちには我々の、そして奴らの引き際になるという意味を持つ。
そして二つめの理由は私自身の問題だ。
既に私に限界が来ている事は少し前から知っている。
訓練時に馬に跨れば、馬を制御する為の手綱に力が入らない。
久々に訛った感覚を取り戻そうと薙刀を握ってみれば、それまでは小枝のように感じた得物にズッシリとした感覚を覚えるようになった。
そんな老いを感じる状態で北国との戦が始まってしまったのだ。
私はきっと昔程の成果を残す事は出来ないだろう。
そして、それは国の重鎮として、そして古参としてはプライドが許さない。
私はこの戦を戦い抜くには、余りにも歳をとりすぎてしまった。
だからこそこの戦。
武人として老害に成り果てるより、私は最後の数少ない戦場で華々しく散りたい。
それが出来なければ引き際を見極めて大人しく隠居しなければならない。
それだけは嫌だ。
そしてその散り際にこの戦は持ってこいだ。
死に際に意味を持たせるのは難しい。
だが、今回は偶然にもその意味ができていた。
『牌豹、もし私が負けた時はそのまま兵を引き上げ、形道晃様に有りのままの出来事を伝えろ。いいな?』
『…奴宮様、それはつまり』
『なに、もしもの時の為だ』
『…』
牌豹は私の意図を察したのか、何かを考えるように押し黙ってしまった。
多分牌豹の事だ。
私が一騎打ちで負けを見越した上で奴に挑むのは分かってはいるが、何故そんな一騎打ちにわざわざ挑むのかは分かってはいないだろう。
だが、これはもう経験の差だ。
こればっかりは牌豹自身が兵を束ねる一軍の将にならねば理解は出来ないだろう。
『そりゃぁ!』
『あっ!』
私は牌豹が次に発するであろう静止の言葉が出る前に馬を走らせた。
『凱雲!』
『む?』
私は薙刀を脇にしっかりと挟んで動かない凱雲の前に飛び出した。
『そなたは確か…』
『あぁ、そうとも。私は八年前のあの場にいた者よ』
『…そうか』
『よもや主らから同盟を裏切るとはな…』
『…』
凱雲はその言葉に表情を曇らせた。
別に本心で攻めているつもりはなかった。
多分凱雲達は否が応でも従わなければ行けはかったのは想像がつく。
だが、仮にそうだったとしても我々蕃族が一度でも彼ら北国と共に歩もうとした事。
その事実がどれだけ重く、そして大きかったのかだけは知っていて欲しかった。
そしてもし、今後北国と蕃族がもう一度共に歩もうとした時、二度とその誓いが崩れないようにしたかった。
そんな期待を込めての言葉だった。
『凱雲よ…。行くぞ』
『…』
凱雲は悲しそうな表情のまま馬上でその大薙刀を自らの頭上高くに振りかぶる体制をとった。
『あ!奴宮様!』
そして後ろからは牌豹の声が聞こえてきた。
それから察するにあの構えこそが彼の恐ろしさなのだろう。
だが、そんな事は改めて言われないでも私に慢心は無い。
私の生涯の全てを乗せてこの一瞬にかける。
私も自らの薙刀を後ろに構えた。
『我が名は奴宮!いざ!』
そして私は馬を走らせた。
奴宮という老将との一騎打ちは一瞬だった。
というのも、彼の腕が私に大差をつけられていたわけではない。
かの老将は正しく決死の、引くを顧みないその構えからの一撃を持って挑んできた。
そして、それは正しく彼が一流の"武人"であった証であった。
これは命のやり取りの場である戦場、また一騎打ちにすら今後の余生を根元に置いてしまう並の将ではできないものだ。
彼はきっと私との格付を既に見定め、そして尚挑んできた。
だからこそのあの一撃だったのだろう。
そして、格付を終えて尚挑んできたその理由もまた一流の"将"だった。
周りで見ているだけの敵味方の兵には到底わからないかもしれない。
だが、私は彼が最後に見せた"武人の散り際"を死ぬまで忘れないだろう。
『…見事なり』
私の口からは自然とその言葉がもれた。
そして馬を返し改めて振り返るその老将の亡骸に私は左手で畏敬の意を現した。
"武士とはかくありたいものだ"
私は閉じた瞳の奥でこの老将の様に先は余り長く無くとも、きっと武人の名に恥じぬ散り方をしようと自分に言い聞かせた。
そして、感慨に浸るもそこそこに私は彼がその命を持って残した意味仕上げの為に瞳を開いた。
『他に我に挑む者はあるか!』
私はいつの間にか敵味方共に静まり返っていた戦場で声を張り上げた。
そしてその声に皆一様に時間が動き出したかのようにざわめき始めた。
既に決着は着いていた。
だが、幕引きこそしっかりやらねば、きっと今この瞬間に起きた出来事に水を指しかねない。
私は敵側に戦意が無いことをしっかりと味方や敵自身に確認させた。
『引くぞ!』
そして私は終えた戦場からの撤退命令を味方へ出した。
しかし、味方方も味方方で敵味方わからない程に入り乱れた戦場の中、ついさっきまで目の前で命のやり取りをしていた相手を前に堂々と背を向けて引くことへの抵抗があるのか、とても困惑したような表情を皆がしていた。
しかし、それを見て私は直様馬を返し、ただ一人自国領側の村の出口へ馬を歩かせた。
すると、皆一様に慌てたようにゾロゾロと撤退を始めた。
それを確認して私は心の中で安堵した。
"今回の戦も生き残れたか"と。
『待て!』
だが、現実はそうあっさりとは終わらせてくれないようだ。
『…』
私は馬を返さずに後ろ目で声の主を見据えた。
そしてその声の主は、あの豪帯様を探している時に出くわした牌豹と名乗る敵の若武者だった。
しかし、その彼は俯いているのか顔に影がかかっていて、表情が見えない。
『…』
だが、彼と対峙した時の状況や味方の将を討ち取られて呼び止める辺り、怒りやそれに似た感情を私に抱いているのは安易に想像できた。
そして、今にも斬りかかってきそうな程のその殺気に今討ち取った将との関係も推測できる。
多分歳からして師弟の関係か。
"その歳で自分の師を討たれるのはさぞ辛かろうに"
同情。
だがそれも一瞬だ。
ここは戦場。
敵として出会えばたとえそれが友であっても斬るが習わし。
そして、師の仇討であるならば自らの力を持って仇を討つのもまた習わし。
"ではどうする?
今この場で私に挑むか?"
私は薙刀を握る右手に再び覚悟を籠めた。
『…次は…』
だが、彼の口から出たのは"次"という言葉だった。
そして俯いて影になっていたその顔から雫が地面に零れ落ちた。
『次は…負けない…ッ!今度…ッ!今度出会ったその時、貴様のその首貰い受ける!』
彼はそれを川切りにここが戦場であるにも関わらず赤児の様に目を真っ赤にしながら涙を流し始めた。
その姿に周りの敵味方の兵達は皆呆気にとられていた。
"戦場で男児が涙とは…"
私の初めの印象もそれだった。
その涙ながらの言葉すら状況が状況なだけに敗軍の将の負け惜しみにしか聞こえない。
本来ならば敵への侮蔑と嘲笑の意味を籠めて鼻で笑ってやるところだ。
…だが、私は彼にそれができなかった。
その理由は、彼が私情によって引き際を誤らなかった事だ。
どんなに歳を重ねた将であっても身近な者を殺されて、そしてその仇が目の前にいるのにそれを逃がすというのは難しい事だ。
それを彼は、涙を流しながらも必死に堪え、そして師が命を賭して残した引き際を受け入れたのだ。
勇将の元に弱兵無し。
そんな言葉が浮かんだ。
私は彼に背を向けたまま残りの兵を束ねて陣を後にした。
敵陣に奴宮を向かわせて幾分か経つ頃、それまで鳴り止まなかった謎の怒号と剣激の音は鳴り止んだ。
それも異様な程に突然。
"奴宮が何かをしたのか"
"または奴宮に何か起きたのか"
両者の対極的な結果に私は不安を覚えていた。
それというのも、彼は蕃族諸将の古参組の中でも特に歴を重ねている老将だ。
それも、本来ならば既に隠居をし、次世に家を託し余生を過ごす身であって、決して今回の様に軍を率いていいような人間では無いのだ。
しかし、今回の戦は平時の時に起きた完全な不意打ち的な戦ゆえ、それまで戦時の常識で隠居が決まっているはずの奴宮は偶然にもその隠居が有耶無耶にされていたのだ。
そんな彼が急な有事という事もあり同じ部隊の中で馬を並べるに至るのだが、当然私は彼を陣頭に立たせるつもりは毛頭なかった。
そしてそんな彼が敵情視察を申し出たから"視察"を目的として敵陣へ向かわせたのだ。
そして、その直後にこの異変なのだ。
奴宮がこれに関わっていないというのは考えにくい。
『…』
しかし、私は少数の護衛と共に敵陣から離れた丘の上にいる。
当然事実はわからない。
私は奴宮の身に何も無いことをただ祈った。
『奴宮様は…見事な散り方で戦死されました…ッ!』
だが、帰ってきた兵士達と共に伝えられた奴宮の安否は最悪の結果だった。
『…』
だが、私は涙を必死に堪えながら自分の師の死と散り際を伝えるこの若者を前に何も言う事ができなかった。
だが、別に悲しい訳ではなかった。
寧ろ私を含め、彼の死で悲しみを背負う者は少なく無いだろう。
彼はそれだけこの国の為に長く尽くしてきてくれた重鎮なのだ。
だが、かの若者牌豹が伝える彼の最後を聞いていると、何とも彼らしいというか、寧ろ彼にとっては平時の隠居という道よりも遥かに幸せな最後だったんじゃないかとさえ思えてしまうのだ。
私は周りが悲しみに暮れる中ただ一人密かに長きにわたる戦友奴宮の冥福を祈っていた。
『…以上が、奴宮様の最後でした…ッ』
牌豹が奴宮の見事な散り際の報告を終えた。
皆一様に沈んだ空気の中で涙を流していた。
『…そうか。惜しい人物を無くした』
私は皆とは少し冷めた位置にいたが、それでもとなけなしの言葉で彼の話をしめた。
『…刑道晃様は悔しくないのですか?』
『…何?』
だが、この言葉が気に入らなかったのか牌豹が喰ってかかってきた。
『は、牌豹様!』
『悔しく無いんですか!』
牌豹は周りの兵士の静止を聞かず、私の眼前へと迫り出てきた。
彼の目は真っ赤に腫れ上がっていた。
『あなたは確か奴宮様とは長い付き合いでしたよね!?なら、何故涙を流されないのか!』
『牌豹様!落ち着いて!』
牌豹は数人の必死な兵士達に引っ張られるように私から距離を離した。
牌豹を抑える兵士達の表情は真っ青だった。
それもそのはずだ。
私と牌豹とでは王子と一武官の副将という差がある。
本来ならこのような行為は打ち首にされてもおかしくない行為なのだ。
静まり返っていた辺りが一瞬で騒然となった。
『悔しく無いんですか!』
だが、それでも尚牌豹はその矛先を失った怒りや悲しみを私に怒鳴り散らしていた。
…まったく、奴宮の奴め。
話では聞いていたが、飛んだ置き土産を残していきおって。
私は兵士に抑えられても尚暴れる牌豹へ近寄った。
そして、先程牌豹が迫って来た時と同様に牌豹の眼前へと迫った。
すると牌豹は気押されたのか顔を引いた。
周りが一気に凍りつく。
これからいったいどんな罰が牌豹様へ加えられてしまうのか。
牌豹を含め皆一様に固唾を飲んだ。
『…そなたは私に悔しく無いか、と言ったな?』
『…』
牌豹の表情は血の気が引いたように真っ青になっていた。
多分自分の犯してしまった愚行に今更気付いたといった所か。
これが聖人君子なら全てを無しにしてやる所なのだろうが、私としてはそうはいかない。
それはただ単に私の逆鱗に触れたからとかではない。
今正に戦というものが始まってしまったからだ。
しかも、自分達よりも遥かに強い相手とのだ。
それはつまり、我々が生き残る為には十二分の力を持ってして当たらないといけない。
当然そこに甘えが入る余地は無い。
私は父上の跡取りとして、そして一軍の将として先頭に立って信賞必罰を成す為、上と下の線引きをしっかりする必要がある。
『悔しいに決まっておろうが』
『…ッ』
私は冷たく突き放すように言い放った。
『私は誰よりも奴宮と共に戦場を渡り歩き、また私事についても共に酒を酌み交わして来た。それを副将ごときにとやかく言われる云われなど毛頭無いわ…ッ!』
私はできる限りドスの聞いた声で、そして淡々と脅すように牌豹へと話した。
牌豹は話の途中で既に私の目を見る事ができなくなっていた。
場はこれ以上に無いくらいに静まり返っていた。
牌豹自身にもそうだが、既に周りにも十分に牌豹の立場を示せただろう。
そろそろ罰を言い渡す頃合いか。
『…なら』
『ん?』
『なら何故…』
だが、牌豹の口からは思わぬ言葉が飛び出した。
『何故貴方は、そんなにも飄々としていられるのですかッ!?』
『…』
辺りが更に凍りついた。
本人の顔色も真っ青だ。
だが、それでも尚真っ直ぐと私の目を見て訴えてくるこの若者。
そんな若者に対して私は素直に呆れていた。
こいつは本当にあの奴宮の下に居たのかと。
信賞必罰は絶対。
それをそこなえば軍紀が緩む。
軍紀が緩めば兵は弱くなる。
それは軍に関わる人間なら誰しもが理解し、そして守り通していくものだ。
当然その軍紀の根源には上下関係というのが存在する。
だが、彼はそんな軍の線引きすら飛び出して私に喰いついてくる。
しかも、既に自身にその罪が降りかかり、また私が周りにも十分に理解できるようにそれを罪だと示した後にだ。
さらに用兵にかけては軍中で秀でていたあの奴宮の副将がこれなのだ。
いったい彼はどうして彼を副将に選んだのか。
私は内心苦笑いをしていた。
だが、もう一つ私には彼に抱く感情があった。
『それはな…』
『奴がお前を残したからだ』
『…え?』
それは彼の肝玉の太さや若さへの素直な称賛と期待だった。
『確かに奴宮の後釜としては些か以上に足りないものは多いようだが、お前が奴宮の仇を取るのだろ?』
そうだ。
今は戦時に突入する重要な時期。
だが、そんな時だからこそ彼の様な若くて勇気のある人間が必要じゃないのか。
今この国の大事を扱う人間は13年前まで前線で戦っていた歴戦の勇将達。
されど13年もの年月によって歳をとった古参老将達ばかりだ。
彼らはいずれ自らの役を誰かに渡さなければいけない。
そんな状況で未来ある若者を失ってもよいのだろうか?
こいつの場合は些か深慮には劣るが、それは私達が導いてやらねばいけない。
それが、国の未来の為なのだ。
『どうなんだ?』
『…え?あっ、えっと』
そして何よりあの奴宮の奴が後事を託していった若者なのだ。
ならば、彼以外に奴宮の代わりは務まらないのだろう。
私は奴宮を信じて彼を使う事にした。
『も、勿論です!必ずや凱雲の首をとってきます!』
『では、戦の中でかならず凱雲の首をとってまいれ。それで今回の失態を無しとしてやる』
『は、はい!』
だが、落とし所はしっかりとせねばならない。
私は牌豹に罪の償いを約束させた。
辺りは今のやり取りで一気に緊張が緩んだのか安堵の空気に包まれた。
だが、本当はここからが大変なのだ。
我々蕃族は形はどうであれ、再び北の大国"零"と戦をしなければいけないのだ。
幸い13年の平和な月日の中で国の内需は整った。
軍備だってしっかりと有事に備えて蓄えてきた。
兵も屈強。
あとは、私達がどれだけ勇戦できるかにこの国の存亡がかかっている。
もう、豪統殿のような変わり者は今後数百年この国には現れないだろう。
だが、だからこそ彼が残してくれたこの機会を生かして私達は自らの血を誇り、蕃族の地位を盤石にしなければいけない。
もう他国には頼れない。
私達は私達の道を進まなければいけない。
『皆の者!良く聞け!』
私は緩みきった空気の中で一際喝を込めた声で辺りへ叫んだ。
それによって兵は皆異質な雰囲気を察して再び静まり返る。
『これより晏城へと戻り、これからの北国との大戦に備え、守りを固める!』
大戦。
そうだ。
これから再び北との長い戦の日々が始まるのだ。
『平和は終わった!もう一度言う!平和は終わったのだ!』
もう偶然の平和は訪れない。
だからこそ、今度は私達で万年の平和を作るのだ。
『皆、再び気を引き締めよ!』
『オーッ!』
屈強な男達の雄叫び。
しかし、その雄叫びはどこかさみし気に、そして悲し気に私には聞こえた。
そんな雄叫びに包まれた村跡地でただ一人夜空を眺めた。
だが、その空は既に夜空というには不十分な程に明るさを取り戻しつつあった。
夜が終わる。
平和と共に。
第十二話 ~両軍~
『...というのが今回の全容でございます』
『...そうか』
それはこれ以上に無い悲報だった。
『...間に合わなかったか』
私は両手で額を支えながら大きな溜息を机の上に吐き出した。
しかしそれはあくまで自分自身の気持ちの切り替えの為の大きな溜息のつもりだった。
だが、その結果酷い徒労感が全身を襲った。
『...申し訳ございません』
凱雲がそんな私の様子を見て謝罪の言葉をかけてくる。
だが、当然この落胆は彼のせいでは無い。
『いや、お前は良くやってくれた。...感謝するぞ』
『...いえ、とんでもございません』
むしろ彼は今回自分の息子を救い出してくれた恩人なのだ。
感謝はされど、謝られるいわれなどはどこにも無いのだ。
『...』
だが、そんな彼への次の言葉が出てこない。
部屋は重苦しい空気に包まれた。
何故こんな状況になっているのか。
それは、ある少年の功名心と無知さが生み出した行動によるものだった。
だがそれを若気の至りの一言で片付けてしまうには余りにも大きく、そして取り返しのつかない事態を引き起こしてしまっていた。
戦争。
それは武力を用いた外交手段。
だが、この『外交手段』というのは聞こえは無害に聞こえても言ってしまえば他を暴力で自分に従わせる行為に他ならない。
さらに民衆規模で言えば攻め手守り手どちらも働き手である男衆を兵士として死地へ奪われ生活は苦しくなる。
当然戦が長引けば長引く程両国は疲弊し民は苦しむ。
そして極め付けは敗戦国の民になってしまえば其れ相応の悲惨な扱いが待っているという事だ。
だからこそ私はそんな悲しみを生まない為にこの関で途方もない時間と労力を割いて来たのだ。
蕃族を一辺境部族としてしか見ていなかった国には蕃族との交易の有用性と危険性を長年に渡り使者を介して説き続け、また蕃族側にも同じく交易の有用性と同時にこちら側の攻撃の意識が無い事を証明し続けてきた。
そしてつい三年前やっと彼らと和解を決し、同盟関係を築くにいたったのだ。
だが、そんな努力はつい昨日の時点で無意味となってしまった。
『...私はどうすればいいんた』
思わずそんな弱音が出てしまった。
『...豪統様、今は気持ちを切り替えて』
『どうやって切り替えろと言うんだ!』
『...』
静まりかえっていた部屋で私の怒声が響いた。
それは完全な八つ当たりだった。
私は机から乗り出して机越しの凱雲を睨んでいた。
だが、少し近くに見えた凱雲の様子を見て冷静さを取り戻した。
身体に纏っていた衣は固まって黒く変色した敵の返り血で汚れ、顔や手は未だにその血を落とした形跡は無い。
その様子からも彼が戦闘から帰って来て真っ先にここへ来たのがわかる。
その理由は私が蕃族との関係や、何より息子の心配をどれだけしているのかを知っているからだろう。
だが、それでも私は自分を恥じる気持ちがあっても、既に溢れ出てしまった感情を抑える事ができなかった。
『わ、私は...私は...』
私は再び椅子の上に腰を降ろした。
『私は...これから蕃族の者達にどんな顔をしていればいいんだ...』
長く対立していた最中、半ば一方的にこちらから友好的な関係になろうと持ち掛け、10年は掛かったがそれでも私の申し込みを受け入れてくれた彼ら。
更に商人を介して伝わってくる、敵国であったのにも関わらず私を信用してくれる多くの蕃族の民の声。
私はそれを裏切ったのだ。
考えれば考える程私は全ての事を投げ出したくなってくる。
私はなりふり構わずに髪を力一杯掻き見出した。
『...』
そして再び部屋は静寂に包まれた。
そんな静寂の中で私は気付いた。
私は頭を上げた先にいるであろう凱雲の言葉を待っている事に。
何でもいい。
何でもいいから今の私を一人にしないで欲しい。
この辛さを共用して欲しい。
この辛さを知って欲しい。
いざとなれば私の行く当ての無い感情の捌け口となって欲しい。
私はそんな自分の童子の我儘のような心境に再び落胆した。
凱雲は今どんな心境なんだろうか。
真夜中に戦闘に駆り出され、日が登り疲れて尚上司に気を使い真っ先に報告をしに来てみればその上司の八つ当たりや我儘に付き合わされて...。
私ならとてもじゃないがついていけない。
私は凱雲への謝罪と解放を伝えるべく顔を上げようとした。
『...戦闘の中、ある敵の老将と出会いました』
だが、先に口を開いたのは彼自身だった。
私は彼が話始めた話の腰を折らないために気取られないよう再び顎を引いた。
『その老将は”まさか貴様らから裏切るとはな”と言ってました』
私はその言葉で全身が鉛の様に重くなった気がした。
それは想像はしていたが、実際彼らが口にしたという事実が私に重くのしかかった。
『しかし』
だが、それだけでは話しは終わらなかった。
私は半ば方針状態で次の言葉を覚悟した。
『しかし、これは私が思うに彼が恨み辛みの類いで吐いた言葉ではないと感じました』
だが、私の覚悟とは裏腹に彼は私に期待させるような言葉を使ってきた。
その言葉に私の顔は自然と上がってくる。
『...どういう事だ』
私は縋る気持ちで彼の話しに食いついた。
『私は彼と手合わせをしたのですが、彼は世の中に対してただ愚痴を零すような人間には私は思えませんでした』
『...』
なんだ。
ただの根拠の無い直感の話しか。
私を慰める為だけにそんな話しを持ち出してくるとは。
私も見捨てられたのかもな。
私はそこで彼の話しへの興味を失い、彼に聞こえない程度の溜息をついた。
ドンッ!
『ッ!?』
だが、急に私の目の前の机の上が叩かれた事で再び意識が覚醒する。
一瞬状況が飲み込めなかった。
『...豪統様、まだ話しは終わってはおりません』
だが、眼前に迫った真剣な凱雲の顔と半ば怒りの篭った声で直ぐに私の態度への改めてを要求してきている事が理解できた。
『...すまん』
私は顔を下げ、だが手は机の上に置き再び聞く意思を凱雲へ示した。
『...私は自分を一塊の武人であると思っております』
凱雲は話しを続けた。
『そして、本来武人というのは命を掛けた戦場ではその一撃に自らの生き様や信念を込めるものだと思っております。当然、これは武人同士で無ければわからぬと思っております』
『...』
凱雲は私に対して一息置いて”信じてくれますよね?”と言ってきたような気がした。
私としては自分を彼の言う武人には程遠いと思っている分彼の言っている事が図りきれないが、それでも彼の事は信じているつもりだ。
『...あぁ』
私は彼の言葉に返答で返した。
彼は話しを続けた。
『そして私はその手合わせの中でその老将の生き様や信念を感じました。そうしてみると、どうにも彼は今回の出来事をただ嘆いている様には思えないのです』
『...では何故”裏切った”と?』
『次の友好こそ長く続いて欲しいが為でございましょう』
凱雲は私の質問にハッキリと答えた。
何の根拠もない答えをだ。
だが、凱雲の言いたい事も何と無く理解はできた。
きっと凱雲が言う事が正しいのなら、手合わせをしたその老将は次があるかどうかもわからない友好関係の為にその友好関係の価値や重さ、それらを十分に理解して欲しいくて改めて責めるような事を言ったのだろう。
『次の...か』
だが、果たしてその”次”がこの国に訪れるのだろうか。
『えぇ、次でございます』
だが、目の前の彼はその次を信じている。
そして彼と手合わせしたその老将もまた...。
『...ならば、期待させたからには責任は取らねばな』
私は再び決意した。
崩れてしまった信頼関係。
それを再び取り戻すのだと。
...どんな形になろうと。
私は顔を上げた。
『凱雲。礼を言うぞ』
『いえ、とんでもございません』
凱雲。
お前には助けられてばかりだ。
私はその言葉を口にせずに心の中で呟いた。
『ところでその老将は?』
『一騎打ちの末に立派な最期を遂げました』
『...そうか』
できればその老将にも今後の時代の流れを見届けてもらいたかったが残念だ。
...いや、見ない方がいいのかもしれないが。
『...洋班様はどうしておられる?』
私は話を切り替えし、これからについて話す事にした。
『関にいた兵に聞いたところ、帰って来るなり”会都”へ使者を出したと』
『...援軍か』
『だと思われます』
『...まぁ、このまま戦争になったら我々の兵だけではこの関を守りきれんからな』
本当ならこの時点で直ぐにでも蕃族に使者を送ってこちらの手違いの謝罪とそれに伴う誠意を持って再び停戦の交渉ができないか試すのだが、何分今回敗戦を喫したのはあの洋班様だ。
仮に彼自身の汚名や恥、怒りをどうにかできたところで親である州牧様の面子もある。
どの道開戦は避けられない。
ならばもう、これからの戦争を前提に物事を考えなければならない。
『では、早速住民達への開戦の通達を...』
『待て凱雲』
『はい?』
『お前は夜中の戦闘で疲れただろう。今は休め』
『いえ、戦争が始まったばかりなのに整える物を整えていない内に休む訳にはいきません』
『いや、しかし...』
『それに豪統様こそ豪帯様の御様子を見にいかれてはいかがですか?その間にやれる事はやっておきますので』
『...いや、いい』
『いいのですか?』
『...あぁ』
確かに帯の事は心配ではあるが、それよりも私は私のやるべき事をしなければ。
関に住む民を守る者として。
『...そうですか。では私は街に看板を...』
『いや、お前は休め』
『...しかし』
『命令だ』
『...わかりました。では少し休養をいただきます』
『あぁ。まだ援軍が来るまでには時間はある。ゆっくり休め』
『ありがとうございます』
そう言うと凱雲は部屋を出ていった。
『...ふー』
それを確認してから私は一息をついた。
『...まさかこんな事になるとはな』
私は先程とはまた別の愚痴を漏らした。
今度は一人の親としてのだ。
本当なら今回の賊討伐の仕事を最後に帯との時間を増やすはずだったのだが、こんな状況では時間を増やすどころかまた内地へ帯を避難させなければいけなくなってしまった。
当然理由は帯の身を安じての事だ。
内政事なら幾らでも手伝わせるが、戦闘に関しては参加させるつもりはない。
だが、問題は果たしてそれを帯が素直に受け入れてくれるかどうか。
仮に帯が素直にそれを受け入れた所で結局また寂しい思いをさせてしまう事には変わりない。
それを思うと私の中で帯への罪悪感がふつふつと湧いて来ていた。
『仕方ない...か』
それに、今後はまた洋班様の直轄の元不甲斐無い父の姿を延々と晒す羽目になる。
それを一人の親としてこれ以上子供に見られたくはない。
『...はぁ』
私は再び一人になった部屋の中で溜息を零した。
『...というのが今回の全容でございます』
『...そうか』
私は重鎮達が居並ぶ広間の奥の玉座に腰を据える父に村襲撃の全容を述べた。
『...ふぅ』
それを聞いた父は空を仰ぎながら、その老体相応の一つ大きな溜息をついた。
私達はそれを静かに見届け次の言葉を待った。
『...何とも悲しい事じゃな』
そして父からそんな言葉が漏れた。
だが、ある一老人が日常で起きた出来事に溜息をついくそれとは全く違う、重臣達の居並ぶこの空間の奥で貫禄を漂わせながら王座に腰を据える人間の口から零れた言葉だ。
皆一様にそれの意味を理解していた。
そのせいか重臣達の間にも哀愁のような空気が流れていた。
皆その空気に酔いしれる。
『...して、奴宮の奴は何処におる?』
不意のその言葉に私は体を硬直させた。
だがそれは私だけじゃないだろう。
この広間に居並ぶ重鎮ら全員が体を強張らせただろう。
『国の大事だと言うのに奴は何処で油を売っておるのか』
まさか今後の方針より先に奴宮の件を突かれるとは。
だが、奴宮はここに居並ぶ重鎮達の中でも特に上席に居た人物だ。
当然と言えば当然なのだろうか。
父への報告の中では奴宮の死は伝えてはいない。
それどころか従軍についてすら触れてはいない。
理由としては一つに老体の父の身体を気遣っての事と、ただたんに
同じく老体の奴宮を従軍させ、更には前線に出した挙句に戦死させてしまった事を踏まえての事だ。
だが重鎮の中では既に防衛軍に奴宮が従軍していた事、そして敵将との一騎打ちの末に戦死した事は広まっていた。
勿論私も隠し通せるとは思ってはいないし、罪を免れようとは思っていなかった。
だが、国の方針すら決まらぬうちに父に倒れられでもしたら大変だと思っての事だった。
『奴宮は...』
私は意を固めぬままに口を開いた。
それを見て周りの視線が一気に私に集まる。
皆も不安なのだろう。
私が真実を今伝えるのか。
はたまた今はその真実を伏せるのか。
だが私は意を決した。
『奴宮は今回の防衛軍の従軍によって戦死しました』
一瞬で空気が凍る。
私は真実伝える事を選んだ。
きっと重鎮達は皆この事にさぞ肝を冷やしているに違いない。
だが、変に隠して後から死にましたではそれこそ父が可哀想だと思っての判断だ。
いや、父に対して失礼だと思ったからだ。
『...今なんと?』
父が聞き返してくる。
『奴宮は今回の防衛で勇敢にも敵将に挑み、そして戦死しました』
『...』
沈黙。
私は父の前で上奏の際に頭を垂れていたせいで父の表情は読み取れない。
だが、どんな顔をしているのかは想像はつく。
きっと複雑な気持ちに表情を歪ませているか、はたまた怒りに表情を歪ませているかのどちらかだろう。
前者であればこの後に早速北国に対しての具体的な対策が話し合われるだろう。
そして後者であれば...。
『...あいつは』
そして父の口から第一声が放たれた。
重臣達の緊張は一気に限界点へ達した。
『あいつは自分から従軍を申し出たのか?』
私はその言葉で思わず口元を歪ませた。
依然としてピリピリとした空気が流れているのにも関わらずにだ。
そう、私はその言葉で全てを察した。
『はい』
私は顔を上げてしっかりと答えた。
『...そうか』
『...死に場所が出来たか』
父はぼそりと呟いた。
『では今後についてだが、何か意見のある者はおるか?』
一瞬何が起こったと言わんばかりの驚きが重臣達の中でおこる。
そんな状況からは皆後者を想像していたのだろうというのが伺える。
そのせいで今の一連の流れからどうして私に対してのお咎めも無しに話が進むのかを理解できていないようだ。
仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないが少し寂しい気もする。
多分父も同じ気持ちだろう。
だが、このままでは話が進まない。
国の一大事について国王から質問されたのだ。
ならば臣下はそれに応えねば。
『当然、国を挙げて戦仕度を整えるべきでしょう』
『じゃな。それについては皆同意でよいな?』
依然として重臣達の動揺は続いてはいたが、父は先程のやり取りに対してわざわざ解説するつもりは無いようだ。
無論、私もそんな野暮な真似はしない。
『ふむ、異論は無いな』
半ば臣下を置いてけぼりにしている感じはあるが逆にこの後に及んで北国との平和的解決を申し出る者はいないだろう。
仮にいたとしても、あちら側からの一方的な裏切りに対してこちらから歩み寄る事はありえない。
皆それは重々承知しているはずだ。
『では直ちに晏城にて守備を整えよ。また、国内にも戦の旨を』
『は、直ちに』
『皆の者!』
父が声をあげる。
皆父に向き直る。
『これより再び北国との戦へと入る!各々思うところはあるだろうが、北国と我々の関係は既に切られた!短い間の平和ではあったが、それらは本来ならば我々が守り抜いて得るものだ!』
父の力の篭った演説は本来の歳を思わせない程に空気を震度させ、私たちの心を揺する。
そしていつの間にか先程までの動揺が嘘のように臣下達の目は皆固い意思を宿していた。
これが父の、王者の演説か。
私の中で改めて父への敬意の念が強まった。
『きっと昔のように、いや、昔以上に厳しく長い戦になるだろう。だが、それでも我々は北国に対して頭は垂れる事は無い!退く事はない!何故ならば我々は誇り高き蕃族の民だからだ!そしてその誇りを穢す北の野蛮人共をこの地に入れはしない!皆再びこの戦に命を賭けよ!』
『『オォォォ!!』』
体の奥底から何とも言えない熱が沸き上がってくる。
戦の空気に血がたぎる。
それらの感覚は平和の中では決して味わえない高揚感だ。
そしてそれらの感覚により再び昔の戦時代に戻ったような気がする。
だが、一つ違うとすればそれはきっと北国の人間を少し知ってしまっているからだろう。
心の奥底では憎悪とは裏腹に複雑な感情が芽生えてしまっている。
だが、既に戦は始まってしまった。
もう躊躇う事は許されない。
私は重臣達の雄叫びの中で何かを振り払うように全身の力を込めて喉を鳴らした。
戦の始まりだ。
第十三話 ~大将着陣~
『...はぁ』
隣で豪統様が何度目かになる溜息をつかれた。
『豪帯様も何れわかるようになりますよ』
『...気苦労をかけてすまぬな』
そして何度目かになるやり取りを済ませた。
少し前にこの陵陽関は先の事件により戦争に向けて会都から正式な軍の派遣を通達された。
そして今ここ陵陽関北門では軍の迎え入れに向けての通達より前に、正式には事件後直ぐに豪統様と私は交通整備に手をつけていた。
今回は前回の御子息殿のように緊急では無く、有る程度余裕を持って(それでも急ではあるが)交通整備に取り掛かれた事と、商人達の友好的な理解の元なんとか迎え入れ前に整備を終わらせる事ができていた。
そして我々は今派兵の通達日と会都からの距離で予測を立てた上で今日その派兵を迎え入れる為に朝から北門で待機している最中だ。
憂いは無い。
それは相手があの御子息殿の父上殿であっても今の所隙は無いはずた。
それなのに何故こうまでも隣の豪統様は溜息をつかれておられるのか。
それは今より少し前の昨日の事になる。
『嫌だ!』
『帯よ...わかってくれ。私はお前の事を思って...』
『絶対に嫌だ!』
予想通りといえば予想どおりだ。
今私と豪統様は豪帯様が目を覚まされたという事で豪帯様の寝室に来ているのだが...。
『僕だって父さんの役に立ちたいんだ!』
『何度も言うがお前を今回の戦争に関わらせるつもりは無い!戦争は政の手伝いとは訳が違うんだ。...お前の気持ちはわかるが...』
『それでも僕はここに残る!』
『帯!』
『嫌だ!』
と、このように今後の豪帯様の件について豪統様と豪帯様が珍しく意見をぶつからせている。
豪統様の意見は、まだ未熟で初陣どころか軍への従軍すらまだまともに行った事の無い豪帯様を戦争に出すわけにはいかないと再び元いた村へ避難させるというものだ。
対して豪帯様の意見は...とにかく何でもいいから父の手助けがしたい、といったところだ。
『凱雲!凱雲からも何とか言ってよ!』
『えっ?』
不意に名を呼ばれて腑抜けた返事をしてしまった。
どうやら豪帯様が私に助けを求めてきているようだ。
だが、残念ながらはたから聞いていた私からは豪統様の意見はもっともなものだった。
仮に豪帯様がこの関に残られたところで戦争になればできる事は無い。
そればかりか、この関にはあの洋班だけにとどまらずそれの父が来るのだ。
私は洋循という男を知らない。
しかし子が子ならとはよく言うのだからいつまた豪帯様が危険な目に合わされるかわからない今警戒はしなければいけない。
そうなれば手間が増えるだけだ。
『...凱雲。わかってはいるとは思うが...』
しかし、かといって豪帯様の意見も無視するにはあまりに酷というものだ。
これは完全に情であるが、豪帯様は豪帯様で幼い頃から甘えるべき親から離れてずっと叔父の元に預けられて今までを過ごして来たのだ。
そう思うと積もる思いもあるだろうし、何よりその父を気遣って我儘を押し殺してきたのだから一言可哀想だというのがひっかかる。
『『凱雲!』』
『...』
二人の言葉が合わさる。
どうやら傍観者のつもりがいつの間にか両意見の決定打のような立ち位置になっていたようだ。
さて...どうしたものか。
義理と道理をとるか。
はたまた人情をとるか。
『私は...』
口を開く。
二人が更に私に集中する。
そしてその私の意見は...。
『私は豪統様の意見が正しいと思います』
『...ッ!』
『...』
豪統様を選んでいた。
当然といえば当然だ。
まず、主人である豪統様への義理を抜いたとしても道理を捻じ曲げる事はできない。
それに人情で言えばそれは豪統様にだって言える事だ。
子に子の悩みがあれば、その子の親にもまた親の悩みがあるものだ。
残念だが、今回は豪帯様本人の為にも諦めてもらおう。
『...』
『...』
『...』
無言な空気がこの部屋を支配している。
だが、その中でも豪帯様は俯きながら降ろしている両手に拳をつくりその小さな身体を震わせていた。
それはさながら噴火直前の火山のように。
『...帯』
『もういいっ!!』
『帯!』
案の定豪統様が豪帯様に声をかけるや否や声を張り上げて部屋を飛び出していった。
『...』
『...』
部屋には再び無言な空気が流れた。
...これは当分私も豪帯様に口を聞いていただけないだろう。
『...はぁ』
その重苦しい空気の中で豪統様は部屋にあった椅子に腰を下ろした。
しかし、木の椅子特有のギシッと軋む音は相当量な物体を受け入れた時の様に重たく、そして深く聞こえた。
『お疲れ様でございます』
『あぁ...』
豪統様に声をかける。
それに対して豪統様は天井を仰ぎながらいかにもといった感じで返事を返してきた。
『...はぁ』
そして今に至る。
豪統様は思いのほか豪帯様の言葉が響いているようだ。
そりゃ親としては子の想いはできるだけ反映させてやりたいというのが親心というものだ。
特に豪帯様のように普段我儘を言わない子の願いとしては尚更だ。
しかし時として親はその子を正しい道、または安全の為に厳しくならなければいけない時がある。
しかしそれを仕方ない事と綺麗に割り切るには豪統様は優し過ぎるようだ。
『...私だってできる事ならあいつと一緒にいてやりたい。しかし、...』
また豪統様の一人語りが始まる。
これで何度目になるのか。
豪統様は豪帯様が絡むとどうにもこう...女々しくなられる。
今に始まった事ではないが。
私は表情に出さないように聞き耳だけは立てたまま前方遥か彼方を見た。
『...ん?』
『しかし、私はこんな情けない姿を見せつづける訳にはいかない。そうなれば他ならぬ帯自身に...』
『豪統様』
『...思いをさせるばかりじゃなく再び同い年の洋班様にいびられて...』
『豪統様』
『...ん?どうした?』
『見えたようでございます』
『...来たか』
完全に自分の世界に入り込んでいた豪統様に呼びかける。
それは正面に広々と広がる土砂ばかりの荒野とその端に広がる青々とした木々の隙間から時折見せる険しい岩肌を見せる山々の景色の中に微かな砂埃を見せる一団の姿が見えたからだ。
『...』
僕は父さんと喧嘩別れした後、部屋の荷物を整えて北門へ向かっていた。
理由は自分が数日前までいた村へ戻る為だ。
しかし、旅支度と言うには余りにも寂しい様相だった。
腰に差した一振りの得物と数少ない荷物を背中にかけた、ただそれだけの準備。
それはこの関に来た時と同じ量の荷物。
本当ならもっと荷物が増えているはずだった。
この関に来る前は余分な物は全て置いてきた。
理由はただ物が無かった事もあるが、それよりもこの関での生活を一つの自分の中での分岐点にしたかったからだ。
自分に必要なもの、自分の思い出のものは全てここで手にいれるつもりだった。
しかし、それが叶う事は無かったようだ。
それを持って行く荷物を整えている時に気付いて思わず泣いてしまっていた。
我儘なのはわかってる。
でも、それでもこの感情は抑える事ができなかった。
自分では今まで気付かない振りをしていたみたいだが、どうやら僕はどうしようもないくらいに寂しがりやだったようだ。
今になってとてつもなく寂しいという感情が心の中に渦まきはじめる。
『...邪魔だよね』
そして何より一番辛かった事は、今までずっと父さん達の役に立ちたくてここでの生活を夢見てきて、それが叶ったと思った矢先のこの帰省である。
役に立たない。
そればかりか役に立ちたいと思いここにとどまる事すら今の父さんや凱雲を困らせる事になる。
それだけはいけない。
それではここへ来た意味がない。
僕は自分に言い聞かせた。
『...ん?』
そうこうしているうちに北門付近に着く。
しかし、そこである異変に気が付く。
『...なんで?』
さっきまで北門へ続く大通りではなく、北側の城壁沿いの道を歩いていたせいで気がつかなかったが、北門付近につくと普段の喧騒は無く、人通りすら綺麗に無くなっていた。
しかし、理由を考えれば何という事は無かった。
先日の事件の事や、その後どんな状況になっているのかは目を覚まして父さんと喧嘩する前に少し聞いていた。
きっとその事で交通整理が行われたのだろう。
そしてその場に僕は呼ばれなかった。
だから知らなかった、ただそれだけの話だ。
『...グズッ』
不意に目頭が熱くなり、目の前が霞む。
さっきまで部屋で泣いていたばかりなのにまだ涙が湧いてでてくる。
僕はその涙を服の袖で荒々しく瓊ぐった。
『遠征ご苦労様でございます』
『...ッ』
不意に北門の外側から父さんの声が聞こえた。
それが丁度僕が北門から外へ顔を出そうとした直前だったせいで思わず城壁に隠れてしまった。
何故か心臓が激しく波打つ。
『うむ、苦しゅうない。頭を上げてくだされ』
しかし、父さんの声の後に続く見知らぬ声にふっと冷静さを取り戻す。
...誰?
僕はほんの少しだけ門から顔を出す形で外側を覗いてみる。
これが普段の人通りの中であれば不審者と間違われて衛兵に捕まってしまうだろう。
いや、寧ろ人通りが無いこんな状況の中でこんな事をしている方が怪しく、そして目立ってしまっているのだろう。
まぁ、そんな心配が必要無い程にこの関の兵士と街人達には顔を知られているのだが。
『それにしても大変な事になりましたな、豪統殿。はっはっは』
『いやはや面目ない』
北門の外には父さんと凱雲、そしてその先には...すごい人数の兵士達が待機していた。
そしてその兵士の一団の先頭でいかにも位の高そうな衣服を纏いながら父さんと談笑する男。
体格は戦闘はおろか、自ら剣を振るう姿を想像できない程に...その...胴回りがしっかりしている人だった。
『本来ならこんな辺境にまで州牧様にお越し頂くのは気が引けるところではありますが...何分、我々では手に負えない事態になってしまっていて...』
...州牧。
それは洋班が度々自分の父がそれだと口に出していた言葉だ。
となるとあの肉男こそがあの洋班の父なのか?
急に心の中で黒い感情が湧き上がってくる。
『いやいや、とんでもないっ。私はあくまで自分の息子から呼ばれたから来ただけであって豪統殿が気にぬさる事ではござらんよ。はっはっは』
ん?
『それに、今回の事件は紛れも無く私の息子が引き起こしたそうではありませんか。でしたら親である私が尻拭いをするのは当たり前でございますよ。はっはっは』
『はははっ...恐れいります』
あ、あれ?
この人洋班と違っていい人?
さっきまで渦まいていた黒い感情が栓を抜かれたように一気に消えていく。
『...しかしですな』
...ん?
『いくら私の息子`であっても`流石に戦経験も無しに蛮族相手に一人で
`向かわせる`のは、ちと酷ではござらぬか?』
え?
『それに息子が率いていた兵は皆徐城より出した`新兵`であり2000はあれど、流石にこれではかの英傑豪傑が率いていた`としても`難しいと私は思うのだが...』
洋班の父であろう人が、さも大物の様な困り笑顔でそう締めくくる。
...なんだこの人。
この言い方だと全部父さんが悪いみたいじゃんか。
『...それは些か語弊がございます』
『む?語弊とな?』
父さんが口を開く。
『その...洋班様からどのように聞いておられるかは存じあげませんが、あくまで我々の見解では大切な州牧様のご子息を一人で危険な蕃族の地に向かわせる事は決して...』
『では何か?』
急に先程までの人が良さそうな声色とはうって変わってドスの効いた声に変わった。
『豪統殿は私の息子が`嘘を`私に話したとでも?』
『い、いえ!そんな事は決して...』
『それに』
父さんに洋循が畳み掛ける。
『`仮に`息子が勝手に事を起こしたっして、それを止めるのも貴方の仕事ではござらんか?私は現地に`貴方程の`人間が居ると知っていたからこそ大事な息子を任せたというのに...。しかも、よりによって貴方は息子が蛮族退治に向かおうとして、それを引き留めたそうじゃありませんか?』
『そ、それは相手が蕃族であって、その蕃族の有用性と無害さを前々から...』
『私は蛮族の討伐を命じたのだ!』
『...ッ!』
『この地の責任者である私が蛮族を退治しろと言ったのだ!これはお願いでも提案でもない!命令だ!まったく...これでは蛮族退治も失敗して当然だったという事ですな。息子の初陣に泥を塗りおって...』
『...』
なんなんだあいつ!
なんなんだあいつ!
なんなんだあいつ!!
さも呆れたような顔で、しかも周りにいる人間全員にわざと聞こえるような大きな声で父さんに怒鳴りつけるこの男。
洋班の、いや、洋班以上に汚い。
僕の中で再び黒い感情が芽生える。
『...む?』
ふとした瞬間に洋循と目が合う。
『誰だ!そこにおる者は!』
『...ッ』
飛び出るかと思うくらいに心臓跳ねた。
洋循の声に周りもこちらに振り返る。
『た、帯!?』
『...ッ』
父さんの何故という表情の横で凱雲は、いかにめ苦虫を噛むような表情をしていた。
僕は逃げた。
何故かわからぬままとにかく逃げた。
『あの者を捕らえよ!』
洋循の口元が嫌らしく歪んでいるのも見ぬままに。
『洋循様!捕まえました!』
『離せ!離せよ!』
目の前では自分の息子が兵士に羽交い締めにされながらもがき叫んでいた。
それはさながら駄々をこねる童子を大人が力強くで引っ張り出してきたようだった。
『...帯』
私はそれを見て項垂れていた。
『洋循様!この者をどうしますか?』
『うむ、離してやれ』
『え、よいのですか?』
『よい。その童子は豪統殿の息子殿であるようだからな』
『は、はぁ...』
そう洋循が言うと兵士は渋々といった感じで帯を降ろす。
『...童子じゃないし』
その途中でボソッと帯が呟くのが聞こえた。
『で、その息子殿はあんなこそこそと何をしていらしたのかな?豪統殿』
洋循様がこちらに目を向けてくる。
しかしその目は愉悦に浸るようなねっとりとした笑みを零していた。
再び私の背中に緊張がはしる。
『いえ、私には思い当たる節はございますが決して疚しい事では...』
『私と豪統殿との会話の中で自分の息子に何か盗み聞きをさせる程の事でもありましたかな?はっはっは』
『い、いぇ!盗み聞きなんてそんな...』
『どうだか...』
再び口調があの蔑みに満ちた口調に変わる。
『さしずめ`自分の罪`を逃れる為の言質を私から引き出しといて、それを後後そこの息子を証人に見立てて街にでも流すつもりだったのだろう?』
『ち、違います!そのような事決して!』
『まったく。卑しい人間の考える事程醜いものはございませんな。』
『違う!!』
違う。
その渾身の込められた言葉はより一層辺りに響き渡り、そして場を一瞬にして静かにさせた。
しかし、それを叫んだのは私ではなかった。
『父さんは...父さんはそんな卑怯な真似はしない!』
そう。
その言葉は私ではなく、帯によって叫ばれていた。
『僕は...僕はただ村に帰る為にここを通っただけで父さんは関係ない...』
今度はさっきとは打って変わって急に萎らしく言葉を紡ぎ出していく。
『村とな?』
『はい。村でございます』
そしてそんな帯に変わり凱雲が前に出た。
『豪帯様は見ての通りまだ`成人`すら達していない身でございます。ですからこれからの戦には参加できぬ故、内地の村へ避難していただく事になっておりました。多分この場に居合わせたのも偶然でございましょう。誤解を招いてしまった事、誠に申し訳ございません』
そう一息に言うと凱雲は深々と頭を下げた。
帯の歳については嘘が混じるものの、見事に現在の状況の説明とそれに伴う洋循様への配慮をさり気なく済ませた凱雲の完璧な対応に呆気にとられながらもそれに合わせて頭を下げる。
本来なら凱雲の言葉を私が言うべきなのだろうが...。
『ふむ...』
流石の洋循様も納得せざるを得ないのかさっきまでの愉悦の表情がすっかり不満気な表情へ変わっていた。
『では、私は豪帯様の護衛の任がありますのでこれで。豪帯様、行きましょうか』
『え?あ、う、うん...』
そう言うと凱雲は帯の手を引いてそそくさと洋循様の隣を擦り抜けようとする。
...何とか帯を巻きこまずに済んだ。
そう安堵した。
『...待たれよ』
『...』
だが、洋循様はそれを許してはくれなかった。
帯の手を引いていた凱雲は洋循様の若干後ろで背中合わせのような状況で静止した。
距離はそんなに離れていない。
『...何でございましょうか』
凱雲が若干警戒混じりに反応する。
『いやなに、子供の育て方にも色々あるなと思いましてな』
『...?』
子供の...育て方?
『私は自分の息子には早い段階から色々な経験をさせてやりたくて、たとえそれが少々危険であってもやらせる、獅子の子落としを参考にした様な教育方針でしてな』
なんだ?
何が言いたい?
私はおろか、凱雲もその洋循様の言葉の意図が読めずに困惑していた。
『それに比べて豪統殿は随分と子を大切に育てる方針のようで』
『は、はぁ...』
『いや、別にそれが悪いと言う意味で申しているわけではないぞ?ただ...』
そこで何故か視線を後方の...帯の方へ落とした。
嫌な予感が過る。
『それがこの先の経験の差になるのだなと』
そう、わざとらしく吐き捨てた。
しかし、ただそれだけだった。
そうだとも。
本来ならただそれだけだったはずだった。
『...僕だって一緒に戦いたいよ』
帯がたった一言ぽつりと呟いた。
そしてその一言に洋循様は口元をいやらしく歪ませた。
『ッ!?』
そこでやっと私と凱雲は気付いた。
このやり取りがただの嫌味では無い事に。
『豪帯様、行きましょう...』
『え、う、うん...』
凱雲が半ば無理矢理に帯の手を引こうとする。
それにつられて空気を察した帯がその場を離れようとする。
『まぁ待て待て...ッ!』
『ッ!?』
しかし帯の空いた腕を洋循様が馬に乗ったまま器用に捕まえる。
それにより二人はその場から動けなくなる。
『お主、確か豪帯と言ったな?』
洋循様が帯に声をかける。
それはもう目をギラギラと光らせながら。
『洋循様、我々は急ぎますゆえにこれにて...』
『洋循様!私からも今後の事について急ぎ確認したい事がございますのでこちらへ!』
それでも尚無理矢理に帯を洋循様から離そうと凱雲と私で試みる。
『貴様ら!!』
がしかし、洋循様の一喝が辺りに響く。
『たかが一武官の分際で出過ぎた真似をするな!私は今貴様らではなくこやつに話しておるのだ!』
『...ッ!』
私達の試みは失敗に終わった。
『...凱雲よ』
『...』
『その手を離せ』
『...』
凱雲が黙り込む。
帯の腕は今だに握られたままだ。
『...貴様、私に逆らうのか?』
『...』
一触即発の空気。
どちらも退かぬという意思がこちらまで伝わってくるようなピリピリとした空気。
『...凱雲』
そんな空気を終わらせたのは。
『帯の腕を離せ...』
私だった。
...してやられた。
まさかさっきの流れからこんな事になろうとは。
私は豪統様の命を苦渋な思いで遂行した。
『...え、え?』
突然頼りの綱を無くした豪帯様はその不安を押し殺す事ができずに視線を泳がせる。
...申し訳ございません。
今の私ではどうすることもできません。
私はすがるような眼差しを向けてくる豪帯様から目をそらした。
『して豪帯よ』
『...ッ!?』
洋循様に声をかけられた豪帯様がその小さな身体をビクリと震わせた。
それを目の当たりにして胸が張り裂けそうになる。
『お主、戦に出たいのか?』
『...』
『正直に申せ』
この狡猾な男の狙いは最初からこれだったのだ。
ここに来てから終始豪統様を周りに聞こえるように貶めていたのは紛れもなく洋班の失態を有耶無耶にする為だ。
そしてここまで形振り構わずに対面を気にする男なのだ。
きっと名声や名誉、評判というのがこの男にとっては何よりも大切なのだろう。
そして今目の前にいるのは自分の息子と歳の近い人間。
もし同じ戦場でその同期の人間よりも自分の息子が手柄を立てれれば周りへの掴みにもなる。
しかも、皮肉な事にその相手は他ならぬ豪統様の子だ。
豪統様自身が戦乱の中で挙げた手柄の数が少なくない分、尚更洋循様にとってみれば美味い話しなのだろう。
豪帯様が口を開く。
『...僕は』
そこで一旦言葉を飲み込む。
そして伏せた顔を少し上げて豪統様に視線を向ける。
『...ッ』
当然、豪統様は必死な表情で訴える。
乗せられるなと。
『...』
がしかし、豪帯様はそれを見たうえで申し訳なさそうに再び俯かれる。
...ダメか。
『僕は...別に...』
しかし、豪帯様は踏み止まる。
豪統様と私の顔に少しばかりの安堵が戻る。
『洋班にやられっぱなしでいいのか?』
『ッ!!』
だが、洋循様はここに来て更に豪帯様を揺さぶりにくる。
『息子が手柄を立て続ければ、お主との差は広がる一方じゃぞ?そうなれば豪統殿もさぞ肩身狭い事じゃろうなー...』
『...ッ』
『よ、洋循様。そのあたりで...ッ!?』
豪統様が我慢できずに止めに入ろうとするが、洋循様に無言で鋭い眼光を突き付けられて再び沈黙する。
そして豪統様が沈黙したのを確認すると、洋循は最後の仕上げに入る。
俯く豪帯様の耳元に顔を近づけ、そして...。
『...』
『...ッ』
何かを呟かれた。
`...お主が出世せねば、豪統殿はずっと洋班にいびられ続けるぞ?`
それがあの男が僕に言った最後の言葉だった。
...ごめんなさい。
僕の戦への参加は決まった。
それが結果だった。
僕は返答を出してすぐにこの自室に逃げるように帰ってきていた。
返答を出した時の父さんと凱雲の顔は見ていない。
だが、きっと呆れと怒りと悲しみ、蔑みを合わせたような表情をしていたに違いない。
もう、当分二人の顔は怖くて見れない。
...ごめんなさい。
無いと思われた父さん達との初陣への期待や洋班と対等に戦える事への願望は確かにあった。
そしてその洋班に遅れを取らない自信もあった。
だが、それ以上に父さんがあいつらにいびられるのが我慢できなかった。
父さんがこれからずっとあいつらに、しかも自分の知らない所でいびられるその姿を想像するのが辛かった。
僕が守らなきゃ。
それが僕の答えだった。
コンコンッ
『...ッ!』
急に部屋の戸が叩かれる。
心臓が跳ね上がった。
咄嗟に布団の中に隠れる。
...父さんだ。
きっと父さんが何か言いに来たんだ。
...怒られる。
僕は布団の中で震えた。
ガチャ
『...入るぞ』
嫌な予感は当たってしまった。
その声は紛れもなく父さんの声だった。
頭の中が真っ白になる。
どうしよもなかったんだ。
こうするしかなかった。
怒られる。
でも僕がやらなきゃ。
そんな言葉が頭を駆け巡る。
『...』
『...ッ』
静かな部屋。
どちらとも言葉を発しないまま方や部屋の戸の入り口で、方や布団の中で震え、動かない。
二人が二人ともその距離感を図り兼ねている違和感のある空間がより一層体感時間を長く感じさせた。
ギシッ
『...ッ!』
だが、その静寂は僕のいる寝床の木が軋む音によって消え去った。
どうやら父さんが僕が布団にくるまって震えている横で空いている寝床の場所に腰をかけたようだ。
『...』
『...』
だが、その腰をかけた場所は僕からは一番遠い寝床の端の端だ。
それに気付いた時何故か震えは収まり、自然と冷静さを取り戻す。
何故か。
それはきっと父さんのその時の対応がどうにも弱々しく、決して憤怒を宿した者の行動ではなかったからだろうと覚めた頭で理解する。
そしてそうとわかると今度はまた別の感情が芽生えてきた。
『...帯』
父さんの声。
それはいかにも申し訳なさそうな。
...なんで。
なんで父さんはいつも...。
『...すまない』
身体の奥底から湧き上がってくる。
...やめてよ。
何で父さんが謝るんだよ。
『またお前に辛い思いをさせた...』
違う。
僕はそんな風に弱々しい姿の父さんが見たくなくて...。
それは鉛のように鈍く、そして不味く。
『ははっ、こんなんじゃ父親失格だな...』
やめて。
やめてよ...。
重苦しく。
『本当に...』
やめて...。
そして。
『すまない』
やめろッ!!
パリンッ!
目を覚ました時父さん達がわざわざ僕の為に持ってきてくれた水の入った陶器の器。
朝に喧嘩別れしてからずっとこの部屋の机に放置されたままだったもの。
それが...。
『...ッ』
陶器独特の破砕音を出して父さんの足元に散らばった。
『はぁ...はぁ...』
そしてそこには陶器に残っていたであろう水が木の床を黒々と湿らせていた。
『...た、帯?』
『うるさいッ!!』
『...ッ!?』
さっきまで胸の辺りで渦巻いていた重苦しいものが肉体の隔たりを破り、一気に溢れ出すような感覚。
『何で!!』
頭でわかっていても止める術が思い浮かばない。
『何で...ッ!!』
堰を切ったように。
『何でいつもそうなんだよ!!』
全てが溢れ出す。
『何でいつもすぐ謝るんだよ!!』
あいつらに父さんはいつだってそうだ。
『父さんは悪く無いじゃんか!!悪いのは全部あいつらじゃんか!!』
さも当たり前のように頭を下げる僕の大好きな父さん。
『それなのに毎回毎回すみませんすみませんって!!何で父さんが謝らなきゃいけないんだ!!』
それが見ていて辛かった。
『そんなんだから!!』
父さんがそんなんだからあいつらは図に乗って。
『そんなんだから...ッ!』
父さんがそんなんだから子供の僕は肩身狭くて。
『そんなんだから...ッ』
父さんがそんなんだから。
『...父さんが』
『父さんが...辛い思いしなきゃいけないんだ...ッ!!』
顔の下に隈を作って笑顔が消えた。
そんな父さんを見るのが何より辛かった。
『うぁぁぁぁッ!!』
言葉というには余りにも脈絡もなく、そして纏まりのない言葉の羅列を吐き終わると今度はただただ涙と言葉にしきれなかった分の感情がそのまま声になって溢れてきた。
『ッ!?』
そしてそのまま父さんの胸元に飛び込む。
何故か。
そんな理由は思い浮かばなかった。
『うぐぅぅッうあぁぁぁ』
ただ泣きたかったから泣いた。
『...』
父さんは何も言わない。
このまま何も言わずに父さんの温もりを受けながら眠りにつけたらどれだけ幸せなのだろうか。
そして今までの事が全部嘘で目を覚ませば青空の下で僕と父さんと凱雲の三人で街を回って...。
ぽんっ
だが、突然頭に大きな手が優しく、だが跳ねるように乗せられた事によってその先の思考、もとい幸せな妄想は終わった。
『ふぅ...』
そしてその手の主は気の抜けるような息を吐くと。
『いやな...』
一つ言葉を溜めて。
『すまんなぁ、帯よ』
また謝った。
だが、怒りは湧かない。
何故か。
それは多分この数日間で聞いてきたどの謝罪の言葉とも違う、優しさがあったからだ。
そして僕はそれに動揺していた。
僕は顔を上げてその手と声の主の顔を覗く。
そしてその顔は。
『...ぁ、また謝ってしまったな。はははっ』
目の下に隈を作りながらも眉毛を八の字にしながら困り笑顔を作っていた。
それに僕はさらに酷く混乱した。
何故父さんは自分の息子にあそこまで言われ、そして泣かれたのにここまで飄々としているのか。
僕の中での父さんでは理解できなかった。
『...私はな』
そして僕が今だに答えを出し切れていないのにも関わらず父さんが口を開く。
『昔から普通だったんだ』
どうやら父さんの昔話のようだ。
『何をするにも中途半端でな。若い時には武芸を学ぶにも軍学を学ぶにも、政学から思想学、歴史学に至るまでどうにも目が出なくてな。そしてそれは歳を重ねても変わらずに同期の人間が出世なり落ちぶれるなりしてる中でただただ流されながら生きて働いて、そしていつの間にやら官士になっていて...』
それを話す父さんは困ったような、だが深刻そうには決して見えないというような何とも微妙な表情だった。
『そして、そんな人生の中で凱雲に出会った』
だが、そこで表情が変わる。
『あいつは凄いんだぞ?何をやらせても上手くやるし、頭はいいし、おまけに武芸と腕力にかけては敵う奴なんて何処にもいやしない!まったく対した奴だよ昔から』
その目はキラキラとしていて、さながら子供が自分の友達に新しいおもちゃや自分の夢を語る時のような目だった。
『...本当に...対した奴だよ。あいつは』
だが、一通り喋ると今度はさっきとは打って変わって表情が曇る。
その様子から父さんのその言葉の次があるとするならそれはきっと`私とは比べものにならないくらいに`とか言いそうな、そんな表情だ。
『あいつと出会ってからは全てが変わった。本当なら一地方官士の下役人で終わるはずだった私は偶然部下になった凱雲の働きでみるみる出世していって、いつしか片田舎ではあるが県令にまでなっていて。そして転機となったあの日、私と凱雲は鮮武様に拾われて...』
あの日...。
夕焼けの下、白馬に跨って僕らを助けてくださった鮮武様。
その光景が脳裏を過る。
『そして私達二人は鮮武様の軍で数々の戦を周り、そして...名を上げていった』
今では戦国時代と呼ばれる時代。
平和になった今だからこそそう呼ばれるようになった時代だが、それもまだつい五年前の話しだ。
そしてその戦国時代が終わるそれまでの十三年間、僕はあの村で過ごしてきた。
だから父さんと凱雲がどんな事をして、どんな事をしてきたのかを僕は知らない。
『だが、どこまで名を上げても、どれだけ出世しても私は私のままだった』
そして再び父さんの声色は暗くなった。
『いつまでたっても私は凱雲の腰巾着だった。名目上では上司という立場だったが、そうでないのは周知の事実だった。凱雲は正に私には過ぎたる者だった。これではいけないと更なる武芸や軍学を学んだ事もあった。...だが、結局は気休め程度にしか身につかなかった』
父さんはどこか遠い目をしてそう言った。
『...そんな私が』
そう言うと父さんは再び大きな手を僕の頭に乗せてきた。
『この世界で何か大切なものを守ろうとするには`これくらい`しかなかったんだよ』
そう言って頭を撫でてくる。
『...わかんないよ』
だが、その微かな優しさを感じるも結局父さんがあいつらに頭を下げる事には変わらない。
理由に至っては何一つ理解できていない。
『...わかんないよッ』
顔を埋める。
意味がわからない。
悪いものは悪い。
良いものは良い。
間違いは間違いで正しい事は正しいに決まってる。
父さんはいつだって優しくて人の事を考えて動いてみんなから慕われて。
だからこそ尚更あいつらに頭を下げていい理由が理解できなかった。
『あぁ...わからないだろうな』
だが、それでも父さんは優しく撫でてくる。
『お前は知らなくていい』
とても優しく、そして暖かく。
『どうか、お前はお前のままでいてくれ』
僕は再び泣いた。
何も考えずにただ泣いた。
もうなんでもよかった。
何が正しいとか理由とかそんな事はどうでもよかった。
ただ、今だけは父さんがくれる無償の優しさが、安心できる父さんの胸の中が心地良くて何も考えたくなかった。
だから泣いた。
ただただ泣いた。
第十四話 ~第二次蕃族掃討戦・前~
晴天。
雲一つ無い青空が広がり、周りの青々とした木々の隙間からは獣達の賑わいが音が無くとも感じる事ができる。
そして人も然り。
きっと先に出発した陵陽関ではこの晴天により一層気合いを入れた商人達の営みや、それらの合間からごく少数の童児達がはしゃぐ声で賑わっているのだろう。
しかし、この辺境の地では春に当たるこの時期に雲一つ無い晴天は珍しい。
しかも今日だけにとどまらず、ここ最近はずっと続いている。
それが意味する答えは何なのかを考えてしまうのは果たして無粋なのであろうか。
『…凱雲、どうした?』
そんな事を考えながら馬を進ませる私に不意に主からの声がかかる。
私はそれに答えるべく空を仰ぐのをやめた。
『いいえ、何でもございません』
『そうか』
私の隣を行かれる豪統様の方へ向きなおると、豪統様も空を仰がれた。
『…いい天気だ』
そう一言呟かれた。
だがその表情からは決してこの晴々しい青空に対しての喜びや和みなどは感じられなかった。
『…』
しかし、意味深な表情は見せたもののその意図は語らずそのまま再び前方へと視線を落とされた。
だが、語らずとも長年部下をやっていれば豪統様が何を思われたかは想像は着く。
この青々とした空を純粋に関の民と共に喜び、また同じくその平穏が蕃族の民にも訪れれば…いや、来ていたはずだった。
だが、それはもう嘆いてはいられない。
賽は投げられた。
そして私は国の軍人。
なれば国の為、そして大切な民の為に出来うることをする。
もう迷ってはいられない。
きっとそう思われているのだろう。
『…』
ならばあえてその意図を改めて汲む必要も無いだろう。
そこまでの決意に水を差す必要は無い。
『凱雲』
だが、そんなことを思っていた私に対して豪統様は声をかけてくる。
わかっております。
その言葉は改めてかけてさしあげるべきだったか。
私の頭の中をそんなちんけな考えが過った。
『…帯の事は任せたぞ』
だが豪統様から出た言葉はそれではなく、今回私に課せられた秘密裏の特別任務についての確認だった。
『…はい』
私の中は一瞬にして羞恥心で満たされた。
…浮ついていたのは私か。
それを思い知らされた私は火照った身体を冷ますように大きく息を吸ってゆっくりとそれを吐きだした。
気を引き締めねば。
今回の戦は蕃族との戦。
だが我々にしてみればそれは単なる戦では無い。
この地ではそれはもう古くから続いていた戦を、彼らは彼らの経験で、そして我々は先任として戦われていた馬索殿の助言という知識だけで戦わなければいけない。
それはつまり我々にとってはとてつもなく不利だという事だ。
戦というのは体験談、または軍学書などから得た知識を頭に詰め込んでいれば勝てるというものではない。
何故なら現場というのは天、地、人という三つの不確定要素が絡み合う場所であり、同じ刻は存在しない。
それに対し戦の知識というのは限定的な状況への解決法に過ぎない。
つまり戦の知識だけでは限界があるのだ。
だが戦の経験というのは変化し続ける現場の中であらゆるものを必要最低限な情報を元に解決、または試行錯誤してきた事案の積み重ねの事だ。
そしてそこには数々の可能性や条件状態、そしてその分だけの解決法がある。
だから書や言葉とは単純に判断材料である情報量が圧倒的に違うのだ。
そしてその知識と経験の差というのは今までの戦の中で何度となく痛感させられた事だ。
幸い大局的に見れば兵力や継戦能力ではこちらが圧倒的優位ではあるが、それでも最前線で戦う兵士達にとってみれば関係無い。
彼らにとってみれば一つの戦での結果は生きるか死ぬかなのだ。
勿論現場の指揮官である我々も例外ではない。
そういう意味でも一戦一戦での力関係の不利というのは不安だ。
だからこそこの一戦に油断や妥協は許されない。
それに、純粋な練度の差も気になる。
だからこそ今、他事を考える暇があるならばその間に再度作戦や地理情報の確認、また練度の低い隊との連携や不足の事態などを頭の中に入れておく必要がある。
私は自身の身体に戻ってきた緊張感の中で再び豪統様から言い渡された特別任務について考えを巡らせた。
『み、皆さんどうぞよろしくお願いします!!』
…なんだあれ。
それがあの餓鬼に対しての第一印象だった。
今俺の目の前では成人をいったかいってないかわからないような豪帯という餓鬼が俺達兵士を集めて健気にも頭を下げてよろしくお願いしますと叫んでいた。
そして今度はこれまた律儀に最前列にいる兵士から順に一人一人握手を交わして激励の言葉をかけていく。
なんて素晴らしい鼓舞なんだ。
こんな鼓舞は今までに見た事も聞いた事もない。
そしてなんとあの方こそが正に俺らの今回の司令官様だそうだ。
…頭が痛くなってきた。
『…隊長』
同じように俺の後ろこの光景を目の当たりにしていた部下の一人が後ろから心配そうに声をかけてくる。
いや気持ちはわからんではないが、俺にどうしろと?
部隊の兵士というのはいつだって下っ端の立場にあり、その処遇や所属は状況により変化する。
そして当然その所属、即ち上司が無能であればあるほど俺達の死は近づく事になる。
そりゃ前線の兵士にとって死というものはいつだって身近にあるし、それも承知で兵士をやっているのだ。
だから死ぬのが怖いなんて言うつもりはない。
だが、俺達だって人間だ。
できる事なら犬死はしたくない。
だから今回のように眼前に押し付けられた事実にはどうしても戸惑ってしまうのだろう。
安心しろ、俺だってこんな奴は初めてだ。
せめて無能な上司なら他の無能な上司供と同じく戦闘が始まるまでは自信満々に踏ん反り返ってくれていたらどれだけ気が楽か。
そして俺を含め、こいつらが不安がる理由はもう一つある。
それは俺達と他の奴らとの目の違いだ。
そもそも今回この部隊の任務はこの主戦場と掛け離れた僻地に陣を敷き敵を警戒、または防衛せよというものらしい。
だが、防衛とは名ばかりに殆どの目的は前者の警戒にあるようでこの僻地にはそれ程の兵は割かれていない。
そして極めつけはその数少ない兵の中でも俺達の隊、即ち会都よりの援軍の中でも偶然選ばれた少数の兵を抜いた大多数を占める奴らは皆、先の初戦で敗戦をした部隊の兵士達と聞いている。
そりゃ敗戦してまだ間もない奴らと俺らとじゃ目の色が違って当然ではあるが、こうまであからさまにビクビクされていては俺の部下だって不安になってくるだろう。
仕方ないといっちゃ仕方ない。
『た、隊長…っ』
…うっとおしい。
そもそもそんなのは俺だって一緒だ。
元々最近まではたった10人程度を束ねるだけのただの什長だった男だぞ?
それが例に違わず偶然この部下の兵を含め後ろの50人を束ねる事になっただけで、現にこの声をかけてくる兵士の名前すらまだまともに覚えちゃいないんだ。
境遇はみんな同じで俺だってすげー不安なんだよ。
なのに何故お前の分まで心配を取り除いてやらんといかんのだ。
『…』
『…はぁ』
…面倒くせぇ。
だが、だからといってこの弱気な部下を無碍にする訳にもいかず一応後ろを振り返る。
『…』
だが、振り返ってみればどうってことはない。
そりゃこいつ一人なわけねぇよな。
あーやめたやめた。
無理無理。
そして俺は声をかけてきた兵士含めほぼ大半の不安気な部下達をよそに空を仰いだ。
『あ、あの!』
『あぁ?』
『あっ…』
『あ…』
しまった。
もう俺の番だったのか。
急に声をかけてきたもんだから思わず素が出てしまった。
『…』
『…え、えっと…』
だがどうしたものか。
仮にもこの餓鬼は上司ではあるものの何か釈然としないこいつの態度にまるで謝る気が起きない。
それは多分俺の性格だ。
それにそんな気持ちのまま謝まった所でボロが出てしまうだろう。
『隊長ッ…隊長ッ…!』
だが後ろでは何時迄も上司に対しての不遜な態度を詫びない俺に対して肝を冷やしているのか小声で急かす先程の兵士がいる。
『はぁ…すー…』
あー…面倒くせぇ。
『大変申し訳ございませんでしたであります部隊長殿!』
『…ッ!?』
『…ッ!!』
ほら、言わんこっちゃない。
結局言ってはみたものの素は隠しきれずに途中から茶化してしまった。
後ろからは肝をさらに冷やした部下達の声にならない悲鳴が聞こえてきそうだ。
だが何も俺だって世渡りがそこまで下手な程実直な人間ではない。
寧ろ捻くれ者で、しかし小心者なせいで今までの人生ずっと日和見もいいところだろう。
だから相手が相手なら話しは変わったのだろうが、俺からしたらこいつは羨ましい程に、そんでもって見るからに頭の中はお花畑のようだ。
こっちの見え見えの上辺言葉にすら気付かなそうだと思った。
『い、いえ!こちらこそ取り込み中にすみません…』
ほらな。
案の定お花畑な答えが返ってきた。
後ろからは安堵に似た溜息がどっと聞こえてくる。
そもそもお前らはお前らで何こんなションベン臭い餓鬼にびびってんだよ。
だいたい何だよ取り込み中すみませんって。
こいつ自分の立場わかってんのか?
頭沸いてんのか?
『…』
『…』
『…』
『…』
なんだよこの餓鬼。
さっさとなんとか言えよ。
何もねぇならさっさと失せろよこの餓鬼。
『あ、あの…っ!』
お?
『よ、よろしくお願いしますね!』
『…』
そう言ってこいつは俺に手を差し出した。
それはそれは満面の笑みで。
多分握手を求めているんだろう。
だが、俺にはその行為が逆に俺の癇に障った。
『…はぁ…』
限界だ。
いや、我慢する余裕くらいはあるにはあるんだが、ここで一言言っておいてもバチは当たらんだろう。
短い付き合いなんだろうが、こいつの今後の為でもあるんだ。
そう自分に言い訳をしながら、俺は心の中で一息ついた。
バチンッ
『あっ…!』
『…』
『……え…』
そして俺はそいつの差し出してきた手をはたき落とした。
『遊びじゃねえんだよ』
『…あ、あの、そんなつもりじゃ…』
見るからに青ざめていく顔を見て踏ん切りがつく。
いける、と。
完全な弱い者虐めだ。
『や、やめましょうよ隊長っ、まずいですって…っ!』
『俺達は命張ってここに来てんだよ!』
『…っ!』
俺は制止しようとする兵士の言葉を遮るように大声で叫んでいた。
だがそれが予想以上に大きかったのか、先程まで蚊帳の外だった他の兵士達までもがこちらを注目して辺りは静まり返っていた。
…やっちまった。
これじゃーもう後には引けない。
だが、既に俺の中では引くつもりなど更々なかったので動揺は直ぐに…は収まってはくれないようだ。
頭は冷静だ。
しかし、その冴えた思考とは関係無いかのように顔の表面は熱くなり、そして手足が小さく震えていた。
…ちくしょう、小心者め。
しかし、今はまだやめられない。
落とし所まではいかなきゃならない。
緊張の中、言葉を続ける。
『お前は目上の人間が下の人間を同等に見るのが美徳だと思ってるようだが、はっきり言わせてもらう』
『俺達は俺達以上の人間だと上を信じて命を預けてんだよ!お前みたいにへこへこした輩になんて安心して命預けれねぇんだよ!』
『…っ!』
『餓鬼が戦場に出てくんじゃねぇ!』
よし言ってやった。
言ってやったぞ。
俺は興奮していた。
予想以上にしっかりと言い切れた事に自分でも驚き、そして歓喜した。
胸がバクバクしているのが伝わってくる。
それが俺には心地よく、程よい高揚感と達成感を感じさせた。
だが、それの意味を察してスッと頭が冷静になる。
…あぁ、やはり俺は小心者だ、と。
自分が相手にした事が無いような大多数の人間に注目されているからといって、高々餓鬼一人に正論吐いたくらいでこれなのだ。
これじゃあ50人規模の隊長程度で精一杯だ。
農民上がりの兵士じゃここが限界だな。
多分言い切った後の俺は相当得意気な顔をしていたのだろうよ。
はっ!気色悪いぜっ!
そうやって自分を何とか白けさせていた。
『…グズッ』
『…え?』
だが、俺はそれに集中する余り目の前の変化には気付いていなかった。
『ぼっ、僕だってっ…グズッ』
おぃおぃマジかよ。
え、まさか、嘘だろ、こいつ、泣くのか?
『僕だってっ、こっ、グズッ、こんな事になるなんてっ…グズッ…思ってなかったんだっ!うわぁぁぁ!』
そう言い切るとこいつは大勢が見守る中で大声で泣き出した。
えー…。
でも…そうだよなー。
こんな平和ボケした奴が好き好んで補助役も付けずに一人でのこのここんな所来るはずないよなー。
けど、だからって泣く事ないだろに。
お前仮にも男だろ。
それに見てみろよ周りを。
これじゃあ俺がこの餓鬼を泣かせたみてぇじゃねぇかちくしょう。
…まぁ実際そうなんだけどさ。
あの兵士なんて、うわぁーあいつ子供泣かせたー大人気ねー、みたいな目で見てきやがる。
だけどなぁ違うだろ?
悪いのは別に俺じゃなくないか?
実際こんな指揮官にお前らだって命預けたくないだろ?
どうせ戦闘が起きたら真っ先に逃げんだろ?
俺は逃げるぜ?
お前ら善人ぶってんじゃねぇよこんちくしょう。
俺は嫌な視線を受け、背中を冷汗で濡らしながら、今も尚泣き続けるこの餓鬼に目をやる。
…確かにこの餓鬼にはちと言い過ぎだったかもしれん。
それにこの空気は俺がどうかしないといけなようだ。
このまま放置ってわけにもいかんだろうし…。
あー。
本当貧乏くじ引いちまったよちくしょー。
『…な、なぁ』
『うわぁぁぁ!』
『…』
な、何言えばいいか全然わかんねぇー!
『わ、悪かったよ、俺も言い過ぎたよ…な?』
『うわぁぁぁ!』
『…』
どうすんだよこれ。
なぁどうすんだよこれ。
おぃ、お前今目が合っただろうが。
目逸らすんじゃねぇよちくしょう。
どいつもこいつも他人事かよ。
だいたい俺は餓鬼の扱いなんて知らねぇんだよ。
あ?自分が餓鬼の頃を思い出せだ?
はっ、んなもん物心着く前に二人とも仏様だっつーの!
『そ、そうだよな!?お前だって自分で望んでこんな怖い場所になんて来たくなかったよな!?』
あー…。
何言ってんだろ俺。
『…』
『…なっ?』
『…』
『…そうなんだよ…なっ?』
『…』
『…』
『…』
『…は?』
なんでそこで黙んだよぉぉぉぁあ”?
なんだよ!
お前自分で望んで来たのかよ!?
それとも何か心当たりでもあんのかよ!?
でもお前さっき…ってこんな事になるなんてとかうんちゃらかんちゃらって…ぁああああもう!
わけがわからん!
だいたい何で俺がこんな餓鬼のっ…て、いかんいかん。
冷静になれ。
冷静になるんだ魯典よ。
あと少し。
あと少しなんだ。
冷静になれ。
『だ、大丈夫だって!お前が戦経験なくたって俺達みんな戦経験者だからよ!何とかなるって!』
『…』
ど、どうだ?
『…グズッ…本当?』
よし来た!
『あぁそうとも!いざとなれば俺達に任せろって!な、なぁ!?』
『…』
『…』
『…』
『…グズッ』
お前ら本当に屑だな。
『そ、それに!』
あーもうしゃらくせぇ!
『な、なんたって百戦錬磨のお、俺様がついてるからな!わからん事があれば何でも聞けぃ!ははははははぁ…はぁ…』
何言ってんだろ、俺…。
…死にたい。
あとあそこの何言ってんだあいつみたいな目でこっちを見てくる奴。
お前顔、覚えたぞ。
『…グズッ…わかった…』
で、お前はお前でそれでいいのかよ。
『…グズッ…頼りない指揮官ですが…よ、よろしくお願いします!』
『…お、おぅ』
…解決、したんだよな?
これでよかったんだよな?
俺は不安なまま辺りを見渡した。
すると周りの奴らからも一応一安心といったような雰囲気が漂っていた。
…お前ら傍観してただけのくせに。
まぁ、でも実際俺も同じ立場なら絶対にこんなクソ面倒くさい状況に自分から首を突っ込む真似はしないから何とも言えん…。
今回は高を括ってしゃしゃっちまったのが原因の自業自得ってやつだ。
…はぁ、なんでこんな事に。
…ん?
いやまてまて。
てかそもそもこれ、普通にやばくないか?
仮にもたかが一兵長の俺が官士様の息子?様を泣かせた挙句に頭下げさせちまったよおい。
どうすんだよこれ。
しかも大事になり過ぎて周り目撃者だらけだよこれ。
あー…本当にもう…なんでこんな事に…。
『あ、あの!』
『…ん?なんだ?』
『え、えっと…何てお呼びすればいいですか?』
『…』
名前かー。
そうかー。
これ言ったら完全に身元バレるよなー。
…手遅れか。
『…魯典だ』
『魯典…さん』
『…』
『魯典さん!よろしくお願いします!』
もうこれ、普通に手柄の一つでも立てないと人生終わりだな。
あ、てかそもそもこんな場所に敵兵なんてこねぇわー。
上が山張ってんだもん。
万が一にもこねぇわーちくしょうー。
…詰んだわこれ。
『あ、あの!魯典さん!』
『…あぁ?』
『顔色悪いですよ?』
てめぇのせいだよ。
『…何でもねぇよ』
おいおいどうしたんだよ俺。
ちょっと前までの威勢はどうしたんだよ屑が。
はははー…情けねえ。
何が一言言ってもバチは当たらないだ。
少し前の餓鬼を前に大人ぶろうとした自分をとことんぶん殴ってやりたいぜちくしょう。
『…そ、それで何ですが…』
『…』
何だよ。
今度は何だよ。
『ま、まず何をすればいいんですかね?』
『…は?』
『ほ、ほら!あるじゃないですか!例えば敵に備えて陣を張るとか兵士の方々に休養を取ってもらうとか!』
『…』
知るかぁボケェ!!!
お前仮にも官士の息子だろ!
何して今まで生きてきたんだよ!?
何でそれを一兵卒頭に聞くんだよ!
あああああああ!!!
うがああああああ!!!
『…』
『…?』
『…』
『…まずは斥候をだな…』
はぁ…死にたい。
もう少しじゃ。
もう少しでこの大地はワシの天下はなるぞ。
『…くふ、くふふふ…』
『…』
おっと、いかんいかん。
ついつい頬が緩んでしもうたわい。
…しかし、こうなるまでにいったいどれほどかかったことか。
ワシが前主烈王に仕えていた頃は仕官時を逃していた事もあって重席は既に埋まり、対した権力は望めなんだが、それでも野望を抱き続けてはや20年…。
軍才も政才も武才も欠くこのワシがのし上がる為に来る日も来る日も腰を屈めて媚び耐えぬき、時には謀略を用いて他を蹴落とし、やっとの思いでこの辺境の権限を握りはや10年…。
後はただひたすら平和な時代にあっても昇格の望みをこの地にだけは残すべく争いの火種は消さず広げずのらりくらり…。
だがそんな苦労も零の邪魔立てで消えかけたあの数年前…。
しかし、あの時のワシは冴えていた。
持てる既知を最大限に生かし、一時的とはいえ、小間使いから一転、今では烈州州牧…。
まったく、人生というのはわからぬものよ。
だがしかし、浮いたままの地位に甘んじるワシじゃない。
それからは急いで前主時代に散々ワシを見下してきた連中に頭を付かせ、逆らう者は消してきた。
途中何度か本土側から警告紛いなものが届いたが、運が良い事に本土は本土で皇帝と古くから親しかったそうな宰相が死んだ事で宮中自体が荒れてくれて無視する時間ができた。
そればかりか統治の契機すらうやむやにして伸ばす事ができたのだから、零の宰相様々じゃ。
いや、この偶然は天がワシの並々ならぬ努力を見てこの地を納めよと仰せになられておるのじゃ。
全てはワシ自身のおかげ…か。
『がっはっはっはっは!!』
『…ッ!?』
おっと、いかんいかん。
ワシとした事が州牧としてあるまじき、いや、高貴なワシにあるまじき品の無い笑い方をしてしまった。
以後気をつけねばな。
そして、そしてじゃ!
烈州各地の実権を着実に握り続けた今、ついに最後となる舞台がこの地なのじゃ!
今思えば苦心に苦心を重ねていたこの地が最後の舞台になろうとは、まったくもって因果なものよ…。
まぁ実際この地に足を踏み入れたのは初めてだし、そもそも最後にこの地で締めれば後後自伝にしても華があるからという理由でわざとワシが最後にとっておいたのじゃがな。
『くっひっひっひっひ』
『…』
だがしかし、しかしじゃ…。
本当ならワシが直々にわざわざこんな辺境の地に足を踏み入れんでも州牧の権力を持ってすれば辺境の田舎の人事など幾らだって変える事ができた。
なのに何故だか知らんが異様に隣の旧流州の奴らが豪統の事をあれこれ聞いてくるもんだから不自然な人事をしようものなら何をしてくるかわからん。
いくらワシがこの地のほぼ全ての実権を握っているからといって流石に旧流州勢とやり合うにはまだ早い。
少し前に州を分割された云々とは聞いてはいるが、まだ完全に分割しきれていないのか支配力は衰えていないようだし、もう少し時間が必要だ。
まったく…最後の最後に手間をとらせおって。
だがまぁ今はまだ土地の豊かさや文化で圧倒的に劣ってはいるから見逃してやるが、いずれ蛮族の地を併合したら真っ先に潰してやる。
くふふ…。
奴ら思いもすまい。
まさかこの辺境の山岳地帯の先に流州並みの肥えた土地があるとは。
『くっ、くくっ…』
『お、おい、お前寄ってくんなよ…』
『いや、だってよ…』
『叱られるぞ』
『…』
だが、洋班さえしくじらなければあいつの名声稼ぎと蛮族の地の平定の一石二鳥で全て上手くいったものを…。
まったく、ワシの顔に泥を塗りおって。
だが、あいつもワシの息子じゃ。
それに恥じぬ程度には名声を掴んでもらわねばいかん。
だから、たからこそ今度の計画はとてつもなく完璧じゃ。
第二次蛮族討伐軍をワシが直々に率いて蛮族の地を平定する。
そういう作戦じゃ。
じゃが、それはあくまで名目で今回は一旦失敗させる。
本格的な平定は第三次からじゃ。
わざわざ一回失敗させるのはまず邪魔な奴らを消すため…。
その為にまずワシの率いる本隊に豪統、それからもう一人の憎き邪魔者、洋班を散々邪魔してくれたと聞いている凱雲を部隊両翼に従軍させる。
洋班と黄盛は本陣である陵陽関。
そして主戦場とは別の所にあるもう一つの拠点に豪統の餓鬼を一人で配した。
何故こうしたかと言うと、まず餓鬼のいる拠点は本来僻地であり、我が陵陽関にもそれ程遠くない場所に位置する。
つまりワシらにしてみれば本陣近くであり、敵からしたら相当敵勢力下に食い込んだ場所なのじゃ。
だから本来なら狙われない、または狙われてもこちらからすれば本陣近くで援軍を直ぐに寄越せて安全、敵からすれば撤退の効かない危険な地帯じゃ。
だが、だからこそ仮に、万が一にもここが敵に攻められ落ちるような事があればそれは主戦場へ向かう我が本軍が危険に晒されるばかりか、本陣にして辺境の最重要防衛拠点である陵陽関すら危険に晒され、それは同時に本土への危険にも繋がる。
つまりは最も安全であると同時に、最も責任のある拠点なのじゃ。
しかも今回は上手いこと餓鬼を唆す事ができたおかげでこの拠点の防衛役は餓鬼の志願という名目でやらせる事ができた。
当然、万が一の事態を切り抜けるだけの兵力などは主戦場の戦略価値を理由に餓鬼の拠点には渡してはいないし、餓鬼さえ失敗してくれれば後は本陣にいる洋班と黄盛にそれを十分に奪還しえる兵力を渡してある。
…といっても全体の兵力から本陣に必要以上に割いたのでは豪統共が騒ぐから、前もってワシが陵陽関に着く前に秘密裏に会都からの派兵軍を前軍、後軍に分けておいて、後軍には時間差で陵陽関に着くように命令してあったのじゃ。
だから今頃陵陽関には豪統共の知らぬ温存兵力があるのじゃ。
『くっくっく…』
まったく、ワシの知略とは恐ろしいものよ…。
仮に事が終わった後でこの事を咎められても、奴らは自分らの餓鬼の志願で重要拠点を紛失するんじゃ。
そればかりか先に述べた重責の責任もあるからいくら騒がれた所で餓鬼やその親、そしてその部下も纏めて合法的に消し去る事ができる。
そう思うと今から奴らの怒りと悔しさで顔を真っ赤にさせている姿が目に浮かんで笑えてくるわ…。
ん?
なに?
餓鬼の拠点に敵が来なければ意味が無いじゃと?
『はっはっはっはっはっ!』
なーに、安心せい。
ワシはそういう一か八かの賭けは嫌いなんじゃ。
いつだって地道に、そして堅実に生きてきたんじゃ。
抜かりは無いわ。
情報は既に売ってある。
それも飛び切りの上物をな。
『くっくっく…』
さぁ、戦はもう間近じゃ。
いや、戦ではない。
あくまで下ごしらえの時間じゃ。
あとは願わくば餓鬼がそのまま敵に殺されず、おめおめ逃げ帰って来て尚且つ豪統共が主戦場から離脱でもしてくれれば最高の形になる。
そうすれば一旦ワシらは 奴らの敵前逃亡 を理由に悠々と退却でき、尚且つ重要拠点を敵に手放しておめおめ逃げ帰ってきた情けない豪統の餓鬼の汚名と、それの尻拭いをし、拠点を取り返した我が息子の名声を同時に比べて世に知らしめる事ができる。
比べる相手がいればそれだけ先の失態の汚名も簡単に返上できようぞ。
『がっはっはっはっは…ん?』
おっと、考え事をしているうちにいつの間にか兵達との距離が開いていたようじゃ。
はたから見ればワシ一人が軍から突出しているように見える。
…しかし、そんなに早く馬を歩かせていたかの?
そもそも、仮にそうであっても将に行軍を合わせるのが兵というものじゃろうに。
まったく、戦前だというのに情けない。
『貴様ら!行軍が遅れておるぞ!何をしておるか!』
『は、はいぃ!』
まったく…。
ぞろぞろと兵士共が再びワシの真後ろに列を整える。
心なしか前列の兵士共は顔が引きつっているようにも見えるが、まぁ気のせいじゃろう。
『ん?』
そして丁度よく前方からは味方の斥候達の走ってくる姿が見えた。
その後ろを良く見れば敵陣の柵らしきものが見てとれる。
どうやらそろそろのようじゃ。
『ふむ…』
だが、本来ならここで軍の歩みを止め戦前の鼓舞の一つはする所なのじゃろうが本戦で無いと知っている分気が乗らない。
ようは面倒なのじゃ。
だから今回は無しとしよう。
そうしよう。
仮に今更不自然だと奴らに思われた所で何もできまい。
『…くくっ』
いかん。
またにやけてしまう。
ワシはこのにやけを誤魔化すように雲一つない空を見上げた。
空はそれはもう長閑に晴れ渡っていた。
やはり、天は今ワシの味方じゃ。
そうワシは確信し、再び前方から走ってくる斥候達とその後ろの敵陣を見据えた。
~烈戦記~
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==============連載中==============
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