Love-Impossible
Prologue
『ほら、こっちにおいで』
見知らぬ女の人がこちらに向かって手を伸ばす。
少女は涙目になりながら首を横に振った。
『大丈夫よ』
女の人が笑顔で話しかけても、少女は顔を下に向けたまま涙をこぼすばかり。
困ったような顔で女の人がため息をついた。
その時。
『大丈夫だよ、ほら、おいで』
女の人を押しのけて、小さな少年が少女に手を差し伸べた。
少女は顔を覆っていた手のひらを少しずらして少年を見た。
優しそうな顔を見て、少女はようやく泣き止んだ。
『行こう』
少年の差し出した手を取って、少女は歩きはじめた。
-Ⅰ-
「あああああああああああああああああ!!!!!!!」
広い屋敷に少女の叫び声がこだまする。
東京のとある町にある立派な大邸宅、巨大な屋敷、立派なお家。
鈴木 秋(すずき あき)は勢い良くベッドから飛び起きた。
上質の羽毛布団を乱暴に足元に蹴飛ばしてふわふわでとても肌触りのいいスリッパに足を突っ込む。
すべすべしたシルクのパジャマを脱ぎ捨て、制服に腕を通す。
そして髪の毛にワックスを付け、毛先を散らす。
「よし、こんなんでいいか」
秋は鏡に向かって頷いた。
そして部屋の隅に放り投げてあった学生カバンを肩にひっかけ、急いで部屋を出た。
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「おはようございます!」
秋は2階にある自分の部屋から階下に降り、超巨大な食堂に向かって叫んだ。
「おはよう」
テーブルに腰掛けて優雅に湯気の立つコーヒーを口に運びながら、優しげな眼差しをした老婦人が秋に挨拶を返した。
「今日から高校生ね」
老婦人は微笑みをたたえながら秋を眺めた。
「はい、私が全力で樹(いつき)をまもります!」
秋はグッと拳を握りしめた。
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秋は数年前、もろもろの理由につきこの巨大な屋敷というか豪邸というかに貰われてきた。
そこでとてもいい待遇を受けていたのだが、全く血の繋がっていない家に半ば居候として滞在し、美味しい食事に最高級のベッド、最高級の洋服などなど…
こんなに良くしてもらってるのに、自分は何も返せない。
それでは申し訳ない!
そう思った秋は自分から屋敷の掃除やその他色々な雑用を引き受けてきたのだ。
そんな秋にこの館の女主人、(先ほど優雅にコーヒーを飲んでいる云々と書いたが、あの老婦人が女主人である。)相樂 しのぶ(さがら しのぶ)
が仕事を申し渡したのである。
それは、今年晴れて高校に進学する息子、相樂 樹の子守…ではなく、言うなればボディーガードである。
某有名企業の息子で有名男子高校に合格した樹が誘拐されたりいじめられたりなんかされたりしないようにサポートする役目である。
しかしこの相樂 樹、相当な曲者であり、性格は180度、いや359度位ひん曲がっている。もうぐにゃぐにゃである。
しかしながら普段全く樹と接点のない秋は樹のすっさまじい性格については何も知らないのだが。
「じゃあしのぶさん、私もう行くね」
「ごめんね、こんな事頼んで」
しのぶは心配そうな顔で秋を見た。
秋は首を横に振った。
「ううん。私が決めたんだもん、大丈夫だよ」
「でもねえ」
しのぶはそれでも心配そうな顔だ。
「あ、もう8時だ…」
秋はそんなしのぶの声を遮るようにつぶやいた。
「じゃあ、行ってきまあす」
秋は元気よく玄関を出た。
玄関の前にはこれ又立派なリムジンが停車している。
「おはようございます!」
秋は運転手のおじさんに元気よく挨拶した。
後部座席のドアを勢い良く開けると、そこには薄い茶色の髪の毛をした男の子がふんぞり返って座っていた。
「おはよう!」
秋は車に乗り込みながら樹に挨拶した。
「‥‥‥‥‥‥」
聞こえなかったのだろうか、返事はない。
秋は隣に腰掛けている男の子の顔をじっと見た。
形のよい顔を縁取る茶色の髪の毛はふわふわと空気を含んで柔らかそうで、顔はそこらの雑誌に載っていそうなほどに整っている。
薄い茶色の瞳を縁取るまつげは女子であるはずの秋よりも長いかもしれない。
肌はきめ細やかで、そのへんの女性が嫉妬してどんな化粧品を使っているのかと質問攻めにされそうなほどである。
秋だって女の子の端くれなので、樹をみて素直にカッコいいなと思った。
しかしそのかわいい顔から紡ぎ出される言葉はとんでもない毒舌であった。
「何見てんだよ」
「は?」
秋は一瞬なにを言われたのかわからずきょとんと樹を見た。
「何見てんだって聞いてんだよ、何回言えばわかるんだこのバカ」
樹は秋の顔を見もせずに言った。
「…」
私、こいつと上手くやっていけないや、
一瞬にしてそう悟った秋であった。
-Ⅱ-
高級そうな住宅が居並ぶ中を、一台の大型リムジンが風を切ってさっそうと走る。
その光景に、ゴミ出しの為に通りを歩いていた主婦が振り返ってため息をついた。
「いいわねえ。お金持ちって…。きっと中では優雅なひとときが…」
しかしそんな主婦の幸せな妄想とは裏腹に、車内はピンと張り詰めたような空気が漂っていた。
まだ出会って数分しかたっていないのに、樹と秋の間にはもう日本海溝レベルの深い溝が横たわっていた。
車を操る運転手さんも沈黙したまま一所懸命運転している。
そしてー…
「うっわあ、すっごーい」
秋は窓ガラスに顔を押し付けんばかりにして叫んだ。
窓の外にはこれまたご立派な校舎がそびえ立っていた。
これでもかというくらい大きな校舎、大きなテニスコート、屋外プール、室内プール、柔道場、バスケットコート、サッカー場、弓道場その他もろもろ。
いちいち感動している秋を尻目に、樹は無表情で外を眺めていた。
正面玄関には赤絨毯さえ敷いていないものの、立派な風格漂う上級生が下級生を品定めするために集まっていた。
相樂家のリムジンが正面玄関に横付けされ、秋は運転手に礼を言って車を降りた。
樹は言うまでもないが、無言で車を降り、スタスタと玄関に向かって歩き去った。
樹がリムジンを降り、玄関に向かって歩き始めるとなにやら興奮したようなざわめきが波のようにあたりに広がった。
樹の容姿がいいからだろう。
秋はひとごみに紛れるその背中を慌てて追いかけた。
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二人のクラスは1年A組。
秋も樹も同じクラスである。しかもはかったように席までとなりである。
密かに違うクラスになればいいと思っていた秋はがっかりしてため息をついたが、秋の隣で呆然と立ち尽くしている樹の表情から察するに、
彼も秋と全く同じ心境らしい。
「ちっ」
樹は舌打ちするとカバンを机の上に放り投げた。
秋はそれを横目で見ながら盛大にため息をついた。
「なんだようるせーな」
樹がこちらを睨めつけた。
「うるさいな、わ、じゃない、オレの勝手だろ」
秋は舌をかみながら答えた。
ここは男子校である。
秋は女の子である。
つまり秋は男装しているということである。
Love-Impossible