『唯、訪ねただけなのに、』

『唯、訪ねただけなのに、』

東日本大震災の情報を聞くだけで、何も出来ない、私。  車椅子の障害者に出来る事は、ないのか、今行けば迷惑になるけど、、、献花したい、勇気づけたい、励ましたい、応援したい、と訪ねた私が、被災地と人の優しさに勇気と生きる力をもらいました。 その時の、旅の様子を書きます。


 ★『私が、生きる力をもらいました。』★

        作 ; 森下 善和


 2,011年3月11日の午後2時過ぎ。部屋でテレビを見ていると、『臨時ニュースの速報が入りました。』
 東北地方にマグニチュ-ド9,5の地震が起きたようです。〈又,地震かと、軽い気持ちでテレビを見ていましたが、どのチャンネルを見ても画面に日本地図が映し出され, 東北地方の海沿いを中心に大きな津波が発生する〉と 画面の隅に日本地図が表示されて黄色い線で津波の警戒を知らせています。  次に津波が襲って来た瞬間の画像が放映されて、地震の揺れで放送局の中の機材が倒れる様子や津波で建物が流される映像。 田や畑に津波が押し寄せて、自分の家が流れて、思い出も総てを飲み込み。 人々が命からがらで高台に避難する姿。自分の見ている眼の前で家族が親が子供が大切な人が流れて行く姿をどうする事も出来ずに、唯、【泣き叫び、涙を流して見ているだけでした。】と、眼の前で大切な人が、愛する者が、 住み慣れた町も村も景色も土地までも流されて、 避難した高台から足下を見れば堤防が決壊して流れて行きます。
故郷の景色が??!【想定外の津波が襲う。その凄さに周りの物が総て破損・決壊、】 呆然と見つめる自分。【何も出来ない自分がいる。本当に辛かったです。】と話していましたが、 そこには見慣れた風景や景色があり、家があり、
 家族や大切な人達の存在や大事な命があったと思います。それを一瞬にして壊す。破損させる。人が亡くなる。【それも自分の見ている眼の前で、 どうする事も出来ない自分?、】〈私ならおかしくなると思います。〉 報道カメラは画像を撮して、その瞬間を記憶に残すだけ、人は見るだけで、どうする事も出来ないのです。  私は、映像を見て、その凄さに涙を流し心配したり祈るだけで何も出来ません。
『自然の力・津波の凄さに人はどうする事も出来ないのです。』唯、可哀想にと思うだけです。 
 1日・2日と過ぎると津波の恐怖や惨さ、被害の大きさを遭遇した人達の体験談をテレビや新聞等で報道を見たり・読んたりして、改めて その恐怖と凄さに涙を溢すだけで何も出来ない、自分がいます。
 今の私に出来る事は、少しでも募金するだけです。 テレビや新聞報道で世界各国の人々が、 日本でも都道府県。 町や村で義捐金やボランティアを募集しています。 《私は、実感しています。【人を救ったり、支えるのは,人の気持ちです。それは自分が一番よく知っているから。】 周りに誰かが居ないと生きて行けない私ですから。》 でも私には何も出来ません。
復興支援の義捐金や募金を募って、 イベントや催しが日本各地で毎日のように開催されています。    【やはり人を助けたり、救うのは,人なんだ。】『東日本大震災復興チャリチィー・頑張ろう東北。復興だ。東日本!』などの
 イベントや催しが国も政府は、もちろんで財界や法人 ・スポーツ界・芸能界・地元の婦人会・老人会までもその他。 ネコもしゃくしも、芸能人も変なおじさんも、
日本各地の市や町・会社や組織から。災害支援のボランチィアを派遣したり、応援に志願して出かける人も増えています。
 ここの園でも聖隷福祉事業団から。数回に別れて全国の福祉施設職員が入浴介護や給食サービスなど。応援に。お手伝いに出かけています。 【私も元気なら直ぐに出かけて役にたちたい気持ちです。】 でも、私に出来るのは、献金したり、心配して・祈る事しか出来ません。 悔しいです。切ないです。何も出来ない自分に腹が立ちます。 
 そして原発・放射能被害です。『福島の友達とは、連絡が取れましたが、宮城県に住む友達と連絡が取れません。』 【地震の日から。音信不通で行方が分からないままです。生死さえも分かりません。】 仙台の市役所に電話して安否を訪ねても【個人情報を教える事は出来ません。】と言われて教えてもらえません。 《人の生か死の安否を確かめるのに個人情報だなんて、?と言う事は、元気なんですね。》 私は、思います。〈規則・規則と特に役所は、先人達が作った規則です。ダメな規則は,改めるのも、規則。〉 この時、決めました。『復興を成し遂げた東北に、車椅子で旅して見たい』と 心に決めました。 半年か1年が経過して、地震や津波の被害で仮設住宅で暮らしている人や、
 原発被害で自分達が生まれた場所で生活が出来ずに避難生活をしている人達を見たり、原発の風評被害で,元の暮らしが出来なくなった人達の話しを聞く度に胸が熱くなりました。話しを聞き、【可哀想に】と思い、
心配するだけで、私には何も出来ません。
 そして,あの日から。1年以上が過ぎた。ある日岩手県南三陸町防災センターの災害をテレビで知りました。
それは、海から300メートル以上も離れた場所に建つ3階建ての庁舎を【あの日】津波が襲い、40人足らずが勤務する職員の5分の4が犠牲になり、亡くなられましたが、3人の人が、鉄塔にしがみ付き。命からがらで生き延びた。《一昼夜水浸し、泥まみれで命からがら鉄塔にしがみついて生きぬいたそうです。【どう生きてたのか分からない,】そうですが、》 
 その日。防犯無線で自分の命を犠牲に避難を呼びかけて、自分は、津波の犠牲で亡くなられましたが、 
 この呼びかけで地域周辺の10、000人以上の人達が高台に避難して助かりました。
☆女神さま、『現在のマザー・テレサ遠藤未希さん』この女性の事をテレビで知り。 ☆『それが,今回東北に行き。防災センターに献花したい、』と決意した切っ掛けです。
◆ま ず 行 く 先 と 目 的 を 決 め ま す 。◆

 1、東京に行き。ドームで巨人対中日の野球を見る。 2、東京に行って浅草寺に参り、人力車に乗り浅草の町 を散策する。スカイツリーに上り東京の町を眺める。 3、18年ぶりに友達と会って童心に返り遊ぶ。    4、東北新幹線【はやぶさ】に乗る。        5、福島県に行き、〈放射能被害を自分の眼で見たい, 18年ぶりに友達に会いたい、
6、そして1番の目的は,岩手県南三陸町の『防犯センター』に行き津波の犠牲で亡くなられた人達に献花して、手を合わせて黙祷する。
7、津波の被害を受けた東北3県を自分の眼で見て、お見舞いを言い、励ましたい、
 こんな理由で10泊11日のロングな東北への単独旅行を計画しました。 【こんなに長期で大丈夫かナー、もう俺も年だから。今回が最後になると思うから。無理しても実行あるのみ。】 宿泊するホテルは,総て東横インのハートフル・ルームに決めました。【会員になると優先的に利用が出来るそうです。】
選んだ理由は、ハートフル・ルームは部屋の中を車椅子で移動が出来て,トイレとお風呂が部屋の中にありますから。 【なんとか自分で出来る。】  ネットで選び、予約も出来ました。行きたい場所や見たい所は,パソコンのインターネットで調べました。〈便利ですよ。〉 乗車券は,友達に頼み揃えました。体調も整えまして万全です。【薬類、整腸剤・傷が絶えない為、カットバンも持ちました。】
 4月に入り出発する日が近づいて来ました。 東京ドームの巨人戦の試合日程に合わせてチケットを採り、4月11日からの中日との3連戦に会わせて入場券もネットで予約しました。
友達の【Aさん】が中日のファンだと聞いていましたが、【1塁側を2枚。入場券を予約しました。巨人側応援席ですが、〈私の隣りで付き添いです。〉ネットでは予約だけ出来て支払いは当日に入場券とひき換えで受け取りですから。早めに行きます。待ち合わせは、夕方6時チケット売り場の前で待ち合わせの連絡をしました。  
 ▲そして、その日になりました。旅立ちです。▼ 
 4月10日。朝8時04分の〈はまかぜ〉に乗り、和田山駅を出発しまず。 姫路で乗り換え新幹線で東京に向かいます。 姫路駅に着くと、播但線のホームが新しく改築されていて,ホームもトイレも使いやすく車椅子でも簡単に《荷物運搬用のエレベーターを使わなくても、》 移動が出来るようになっていました。【過去に何度か利用していますが、列車のトイレも前の古いトイレには,段差があり狭いので,使用出来ませんでした。】 播但線のホームから。新幹線のホームへ移動も新しいエレベーターで簡単に行けます。 
もう10年早く改築されていたら。私の生き方も変わった事でしょう。 今度は、姫路から。新幹線【こだま】に乗り換えて、憧れの日本の都。東京へ向かいます。
 憧れの新幹線に揺られて、早い,静かで快適な旅です。昨夜。興奮して眠れなかったので、知らない間に眠ってしまいました。 自己満足して眠っていたようです。  車内放送の声にハット眼が覚めました。 『名古屋・名古屋』とアナウンスが聞こえて、ビックリして目が覚めました。 まだ名古屋か、列車の窓から外を見て,(お城は、 金の鯱は、ウイロウは、名古屋コーチンは、?食べ物ばかりですが、)  列車の窓から外を見てもなにも見えません。大きな建物が見えるだけです。    列車のトイレに挑戦したいと思い、【駅員さんに支えてもらい、中に入りました。】(私が乗車した新幹線こだまのトイレは便座式で立ち便器ではありませんでした。)《私は車椅子を使用してますが、立ち便器でないと使用する事が出来ません。》(人は顔や性格が違うように、同じにハンデイを持っていても障害の軽度や性格で総て違うのです。)《それを知ってもらうには、やはり私達、障害を持つ者自身が外に出て、社会に参加して共に生活して人と接しなければダメなのです。》
この列車の座便器では,出来ませんでした。 次の駅までガマンしないとダメです。《次の駅までガマン出来るかナー。まあ、何とかなるでしょ。》と、ウトウトと眠っている私の耳に、 横浜―!・横浜―!と車内放送が聞こえたので、乗り越したと思い,慌てて飛び起きて、【すんません。東京で降りたいのですが、】と車掌さんに言うと、
 【東京は,この次ですよ。】と言われて、【地図を見ると東京の向こうに横浜がありますけど、?】【路線は大回りしていますから。地図では,東京が手前に描かれていますが、横浜駅を通過してから東京に着きます。】と説明されて安心しました。 
 さあ、憧れの東京に着きました。 駅に着き。駅員さんに誘導して貰いましたが、本当に凄い人です。道路は,4車線で交差点、スクランブル 赤から青に信号が変わると、人物大移動と言う感じで人の大群がアリのように横断して来ます。《ほとんどが観光客見たいです。こんなに大勢の人達が、〈私を含めて〉遊び。観光していて、日本は,本当に大丈夫なのかナー》と思わず独り言。 〈平和な日本の証拠ですか、ありがたい事です。〉 
 駅の中央口を出て道路を横断すると、左側に『デイズニィーの『おとぎ話』に出てくる。古代のお城のような建物が見えました。それが,今年の暮れに完成予定の新しい駅舎。東京駅だそうです。 その時は、お昼でしたが、 周りが薄暗くなると、ライトアップされて浮かび上がると言うのか、駅舎。建物自体が闇夜に浮かび上がり映える駅。 そして、ドーム型の駅で、『日本初のドーム式の駅舎。これが新しい東京駅です。』今年の下旬には,完成予定だ。そうですが赤レンガ造りの古代中世のお城を思わせるような建物が現在工事中でした。 これが新しい東京駅。 新しい日本の名所・日本の顔。ここで宿泊も出来る。そうです。
今度、東京に遊びに来た時は、ここを申し込み宿泊しようと、独り自分で納得していました。 それより問題は、早くトイレを見つけないと,ガマンの限界です。〈漏れる。〉 駅の職員を見つけて、【すんません。 トイレを教えて下さい。】【西口の階段の側にあります。】と聞いて迷いながらも行きました。トイレ。何とか間に合いました。【放尿にしあわせを感じていました。充実感で一杯でした。】達成感を感じていると、外でスゴイ勢いで扉を叩く音がします。 扉の向こうで【まだ終わりませんか、】と言われたので、即、私は【入ってマース。】と中で叫びましたら。 立ち去ったようです。 静かになりました。5分も経過してないのに、又,扉を叩いて,【まだ,ですか、】中で私、【もう少しお待ち下さい。】と言うと同時に係員にトイレの鍵を開けさせて、私が使用しているにも関わらず。無理矢理入って来ました。 慌ててズボンを上げながら。呆気にとられたと言うのか,ビックリして声も出せません。《幾ら東京でも使用している。トイレの中に入って来るとは、???》
 見ると係員のおばさんと年配の奥さんらしい女の人と杖を付いた左半身マヒの男の人の3人が入って来ました。 その杖をついた男の人は, 即 便器に座りましたが、《大変です。》ウンコまみれ、クソまみれで、もう大変な状態です。(想像して見て下さい。)ズボン。足。下着は,もちろんの事、靴下・靴・その人が歩いた後までも、もう、大変です。
 付き添ってお世話している奥さんの決まり悪そうな仕草や顔を見たら。 気の毒でなにも言えませんでした。《私も人から見ると、こう見えるかも知れない、》 係員さんと付き添っていた奥さんに何度も謝られ、【もう良いですよ。気にしていません。お互いですから。】【私も家族しか頼めない事でも人に助けてもらっています。だから不自由でも旅が出来るのです。】と言うと微笑んでいましたが、《奥さん大変だナー。明日は我が身だ。》 こんな事も外に出ると,経験したり、遭遇出来る。《園の生活では,体験出来ない,それが新鮮なんです。》『やっぱり旅っていいナー。みんな生きている。そして私も生きて参加している。?』 今度は、地下鉄に乗り換えて(後楽園前で下車、) そこから車椅子を引いて徒歩10分ホテルに到着。 今晩から3泊宿泊する。文京区の役所前に建つ、東横インを見つけました。フロントに行き。 【こんにちは、今日から3泊でお世話になります。兵庫県の森下と申します。】と言ってチエックイン 
 予約した部屋に案内されると3日前に送った荷物は着いていました。【夕食は、】と聞かれたのですが、《何時に到着出来るか,分からなかったので夕食は頼んでいません。》外で食べますと車椅子でブラブラと夕食を食べに出かけましたが、  まだ4時過ぎなので食堂は準備中で店には,入れません。 《でも腹減った。朝から何も食べていません。》周りをウロウロしていると、 (私の好きな,)コンビニを見つけました。
 即、店の中に入り、買い物カゴをぶら下げて中を見て回ると美味しそうな物が沢山あります。 
 お弁当にお寿司、缶ビール、おつまみ。 持ちきれないほどの買い物をして,レジに行くと、店員さんが親切に、【宿泊されてるホテルを知っていますので,ご購入された品物と一緒におうくりします。】とホテルまでおくってくれました。【ありがとうございました。】と丁寧にお礼を言って別れ、私は,部屋で買った食料を広げて遅めの昼食を頂きました。 お腹も満腹になると、(余は,満足じゃ、)安心したのか、気がゆるんだのか、いつの間にかウト・ウトと眠ってしまいました。
   ▼ そ し て 夢 を 見 ま し た 。 ▲

    ★『夢で自分自身を回想?!』★
 私事ですが、今年の3月に親父が亡くなりました。7月になれば満82才でしたから。〈本人に聞かないと分かりませんが、人生をまっとう出来たのでは,と思います。〉 私は、息子として【親】両親の面倒も死に水も取れなかった事を悔やんでいます。 (/_;)ゴメンなさい。(-_-;)〉 弟や妹。その他。家族が側にいて最後まで面倒みてくれた事に感謝します。〈私は、ダメな息子です。〉 親父は、3年前におふくろが逝ってから。
 どこか寂しそうで元気がなく、優しい顔した親父になりました。昔は、毅然とした人でした。 
 平成22年の2月に田舎に帰りまして、久しぶりに会い、【親父の顔を見に来たけど、元気な顔見たから。もう帰るわ。】と言うと、【もう帰るのか,と一言。】変な顔。寂しかったのかナー。【又、お盆に帰って来るから元気でナー、】と言うと、【一晩ぐらい泊まれば,】と言いましたが、【俺が泊まると迷惑かけるから.帰るわ。】と言うと、【お母ちゃんのありがたさが分かったか、】と誇らしそうに笑っていました。親への感謝は,居なくならないと、分からないと言いますが、親が亡くなり。ありがたさが分かった気がします。【もう遅いと思いますが、】それが人です。人間です。 そんな両親への追悼の意味も込めて今回の旅を企画しました。【私の自己満足ですが、】(^_^)/~ これが今回の東北4県への黙祷・献花の旅です。     話がそれました。    それでは、本題に入ります。
4月11日。東京でも、朝の6時に目を覚まして、洗面と着替えを終えて、外で朝食を食べようと思い、少し早めにホテルを出ました。             近くの喫茶店でモーニングサービスを頼み。モーニングセットを注文して、頂きますと、《口にスプーンを銜えて、コーヒーをかき混ぜたり,皿にかぶりつきパンを食べていると、》【お客さん失礼ですが,腕も動かないのですか、】【ハイ、動きません。でも,自分で食べられますから。】【ご不自由なのに,1人で旅行をしているのですか、?車椅子で、どうして、?】
 【唯,旅がしたい、いろんな場所を訪ねてみたい、いろんな人達に会いたい、そんな私に,障害がある。それだけです。】【ご不自由で自分で食べる事も出来ないのに,不安は,ないのですか、怖くないですか、独りで。健常者の僕でも、不安で、怖くて独りで知らない土地に行く事など出来ません。】【あなたは,当たり前に何処でも行けて,何でも出来るから。分からないと思いますが、不自由でも旅がしたいです。車椅子でも旅行がしたいです。自分の行きたい場所に自分で行きたい、】【大変なのに、どうして?、】【体が不自由で自分の事も出来ない私達は,人に迷惑かけないように。何処へも行かず。なにもしないで、唯、生きているだけで良いと言われるのですか、】と私は、《少し,強い口調で》叫びました。 【気に触ったら。すみません。実は,僕の幼なじみの友達が、5年前交通事故で頸椎を損傷して、首から下がマヒして車椅子で生活していますが、事故の後。性格も生き方と言うのか,考え方も変わり、自暴自棄で,4年が過ぎた今でも家に閉じこもりの生活が続いています。どうすれば、あなたのように,前向きに生きられるのか、と思います。
周りの者。家族も友達の僕もどうする事も出来なくて悩んでいます。普通に生活出来る。良い方法があれば教えて下さい。あなたのように車椅子で旅行が出来て,羨ましいです。】 
【別に教えることは,ありませんが,自分で解決するしか?、彼も毎日自分と格闘して、もがいていると思います。私も昔は,そうでしたから。自分の宿命を悩みました。でも一つの出会いと切っ掛けが、私の考えも性格も生き方まで変えてくれましたから。人は,変わりますよ。変わる事が出来ますよ。それが人です。心配ないですよ。】【そうですか!変わりますかね。彼も、あなたのように前向きに変われば良いのですが、】【人は、変わります。私がそうでしたから。自分で悩んで時間を賭けて解決するしかないのです。】と食事を終えると、連絡先を交換して別れました。《何ヶ月かして、手紙やメールで連絡をとり、悩みや疑問アドバイスをしています。》
 これから憧れの東京ドームに向かいます。本通りは、車が多いので車椅子での横断は,無理です。少し遠回りになりますが、裏道を通ります。 出会う人や擦れ違う人は、皆,不思議そうな顔して【こんな道を通るのか、それも車椅子でと、迷惑そうに覗き込みます。】お構いなしに私は,【こんちは、お邪魔しまーす。】と出会う人達に笑顔で挨拶して、1時間あまり裏道をウロ・ウロして、AM9:00時過ぎ、 東京ドームの裏口の門にたどり着きましたがドームの入り口が工事中で入る事が出来ません。残念!!!       
 工事のお兄さんに聞くと、【ドーム内には、開門の午後4時前にならないと通行は、出来ないよ。ゲートは開かないよ。】
 と言われて困っていると作業中の若い人。《イケメンで2枚目。それに親切。都会にもこんな親切な人がいるんだ。名前を聞いたのですが忘れました。》【僕が御案内しますので、10分程,待てないかナー。仕事が終わるので、】暫く待っていると、勤務時間が終わった。イケメンで男前の若者は,正面玄関の入り口まで車椅子を押して送ってくれました。《私は,胸を熱くして中に入りましたが、方向音痴で何処に行けば良いのか分からず。ウロウロしています。》
  案内図の掲示板と、にらめっこして、 野球博物館の隅々まで調べ。 グッズ売り場・遊園地・食堂などを教えてもらい、 【勤務明けで疲れているのに,ありがとうございました。】とお礼を言って別れましたが、《都会の人も,優しくて親切な人がいるんだ。オマケに男前の好青年です。》 都会の人は,冷たいと聞いていたけど?、、 まず順番に、博物館内を見学します。受付に行き、入場券を買って出発進行です。 まず眼に付いたのは,7年前のWBCで優勝して獲得した。純金の大トロフィーと選手・コーチ・監督全員が記念撮影している。 大きな写真パネル。選手コーチ監督が着たユニホームやスパイク・グラブにボール・バットなど。 次は、大リーグ各球団選手の紹介や説明書きや顔写真に、はじまり記録やエピソードなどの説明書きを読んで進みます。      
私の記憶に残る。総ての大リーグ選手の名前が載っています。日本のプロ野球創立時から。現在までの記事や写真。出来事。中等野球【現在の高校野球ですが】・社会人野球・都市対抗野球・大学野球・少年野球・リトルリーグ・女子野球・ソフトボール・軟式野球・日本のプロ・アマ・大リーグ等の野球・その他、野球に関する記録や記事。写真が展示してありました。 
そして私が一番,期待して訪れた。『野球殿堂館です。』
  ▲ 説 明 書 き を 読 む と ▼
 ▲野球殿堂とは、日本野球の発展に大きな貢献をした方々の功績を永久に讃え、額影するために1959年に創設されました。2012年までに殿堂入りした方は177人です。殿堂入りには、「競技者表彰」と「特別表彰」があります。また「競技者表彰」にはプレヤー表彰・エキスパート表彰の2部門があります。    
◆殿堂入りするには、■競技者表彰★プレヤー表彰、
■選ばれる人:現役を引退したプロ野球選手で、引退
 後5年以上 過ぎた人。その後15年間が対象。  ■選ぶ方法:野球報道に関して15年以上の経験を持 つ委員の (約300人)が投票。75㌫以上獲得し た人が 殿堂入り。               
■エキスパート表彰 
■選ばれる人: 1、現役を引退したプロ野球のコーチ ・監督・審判で、 引退後6ヶ月以上が過ぎた人。
2、現役を引退したプロ野球選手で、        引退後1年以上が過ぎた人。           ■選ぶ方法: 競技者表彰委員会選出で殿堂入りした人 と競技者
表彰委員会(約50名)が投票。75㌫以上獲得し た 人が殿堂入り。                  特別表彰 
■選ばれる人: 1、現役を引退したアマチュア野球の 競技者(選手・ コーチ.監督・審判)で、選手は引退後5 年、コーチ・ 監督・審判は引退後6ヶ月以上過ぎてい る人。
2、プロ及びアマチュア野球の組織又は管理に関し て野球の発展に顕著な貢献をした人。しつつある人。■選ぶ方法:                 
  プロ野球の役員及び元役員、アマチュア野球の役員、  野球関係学識経験者(計14人以上)が投票。 75㌫  以上獲得した人が殿堂入り。          
◆ 以上が殿堂入りの明細で創設された日から。◆
2,011年まで野球殿堂入りされた方々は、2,012年。 現在で177人おられる。その1人ひとりのプレートをこの眼に焼き付けて来ました。
 私が憧れた。往年のスター選手で、☆『長嶋・金田・王』☆の名前入りプレートが一段と輝いて見えました。ゆっくり時間をかけて車椅子を引いてAM:11時過ぎから。
 PM:15時まで博物館の隅々までを見て回りまして、次は,売店に向かいます。 今回。ここに見学に来た記念に野球グッズを一つ土産に買おうと思い探します。やはりドームは,野球好きの親子連れや野球好きのアベック。おじさん。おばさん。そして車椅子の変なおじさんまで【私です。】自分達が応援するひいきの球団の帽子・選手のユニホームなどを着た人。野球好きの人や子供達がグッズを買っていました。《私は,ジャビット人形と巨人坂本選手のリストバンドを買いました。》  試合開始が近づき1塁側の改札口で入場券を受けとりました。《席は,2階の車椅子席です。《1ヶ月前にネット予約を申し込んで,ここで現金と引き替えです。》 入場券を受け取り、席も決まったので,さあ遅めの昼食を食べようと1階の食堂に行きました。【すみません車椅子ですが入れますか、】と言うと【いらっしゃいませ。こちらへどうぞ、】と広い席のテーブルに案内してくれました。 店の中に入り車椅子で席に着くと、ウエイトレスのおねーさんが、【いらっしゃいませとメニューを見せてくれました。】
 トースとココアを注文しまして、暫くすると【お待たせしました。】と持って来てくれました。【すんません。自分で出来ないものでパンに蜂蜜をかけてココアにストローを差し込んで下さい。】と頼み。皿にかぶりついて食べていると、ウエイトレスさんが来て、【お客様。パンをお切りします。】と、一口サイズに切ってくれて食べる事が出来ました。
 周りの人達は不思議そうにジロジロと見ています。 そしてヒソヒソ話が聞こえて来ます。《あの人見て皿にかぶりついて食べている。付き添いは、いないのかしら。 1人で旅行している見たいよ。背中に車椅子独り旅と書いてあるから。》など・など、その他。ヒソヒソガヤガヤと噂をする声が聞こえて来ます。 
 すると、【お客様大丈夫ですか、】と店長さんが心配して来てくれたので、私は、ワザと大きな声で【自分で何とか食べられますから。 健康な人達と同じ事は出来ませんけど、近づける事は出来ます。周りの人達にお手伝いしてもらいながら。車椅子で日本各地を旅しています。全国で助けてもらいながら。でも東京が一番ダメですね。人の噂や批判は,しますけど、お手伝いしてくれません。批判するだけ?特に、中年のおばちゃんは、】と店長に言うと【そんな人ばかりではないですよ。】噂をしていた。 おばちゃん達に聞こえたみたいで、決まり悪そうな顔していました。 
ハンバーグを食べていると、2才ぐらいの男の子が【おじちゃん何故、車椅子に乗ってるの、どうして?!】【おじさんは、歩けないから。車椅子に乗っているんだよ。】
 すると私の、足に触って、【おじちゃんの足あるじゃないか?】【足は,あるけど、歩けないんだ。】と言うと【ふーん。博士に頼み。超合金でジェット噴射が出来る足を作ってもらいなさい。】【ありがとう。博士に,頼んでおくれよ。お金が無いけど、】【あのね。5億円いるんだよ。おじちゃんお金あるかい、】【おじさんお金ないよ。】【パパが言ってたよ。お金がない人は,働くんだって、】【おじさん働けないんだよ。おじさんが出来る仕事を探してと,パパに頼んでおくれ、】【ダメだナー,僕のおじいちゃんに頼んで上げるよ。だからマジメに働きなさい。】【わかったよ。 マジメに働くよ。】
 その子供と私の会話を聞いていた。 店の人みんなが大笑いです。 周りの人達も店の雰囲気も, その場がパッと明るくなりました。 その子は、【おじちゃん自分で食べられないの】と食パンを口に入れてくれたり、 コーヒーに砂糖を入れてかき混ぜてくれたりして、お手伝いして食べさせてくれ、周りの人達は,笑顔になり,明るい気持ちになりました。《これなんだ。自分から参加して生きるって。!》 朝食を終えて近くを急ぎ足で走り回り、 午後の5時を過ぎたので,ドーム内の巨人側の車椅子席に向かいます。
 待ち合わせ時間は,午後6時だから。売り場でチケットを受け取り、1塁側の一番上の席で観覧しているとメールが来て、【仕事を終わらせて、直ぐに行くから。入場券だけ頼む。】とAさんからメール。顔を見るのは,18年ぶりです。 月日が流れて、お互いに顔が分かるかナー?《私は,車椅子だから。すぐに解ると思うけど,???》  席は,本塁ベースと1塁ベースを客席側に線を引くと突き当たる。地点があるとすれば、その場所で、3階の一番奥の場所の一角です。車椅子が4台並んで観覧が出来る。付き添いは,その後ろにパイプ椅子に座り共に観戦する。 後ろは、ビニールシートで覆われた3階の通路。3メートル位の通路があり。その通路の外側には,売店やいろんな売り場があり、人通りも多く賑やかな商店街と言う感じがしました。
 セ・パ全球団選手の商品やグッズ。人気球団・選手のポスター・写真など。その他の売り場。 緊急時の救護所など、 年間を通して、何十万人ものお客さんが野球を観戦に来られるのだから。ケガをされたり、病人が出るかも知れませんから。
その日の試合観客動員数は,ザッと4万5千人と場内放送がありましたが、観客以外に球場で働く人達・警備員さん・ガードマン、両チームの選手コーチ。 球団関係者も含めて沢山の人を見かけました。【ご苦労さんです。】初めての東京ドームです。 改めて周りを見ると大きくてとても広い場所です。
 選手やコーチ・監督その他すべてが小さく見えます。十数年前に甲子園球場で阪神・巨人戦を観戦したことありますが、【噂のガルベスの乱闘事件の試合です。】ドームで見るのは初めてです。【野球盤でゲームをしているような気持ちです。】そして今,いる場所は,テントで仕切られて後ろが,見えない席です。
 車椅子専用の席で私の他にも車椅子の方が2人席に着いておられました。
付き添い、介助する人は、その人の後ろで観戦する。 車椅子の人の後部にパイプ椅子が用意されていて、お手伝いする人や付き添いの人は,自分が介助する人の後ろにパイプ椅子で座るのが決まりだそうです。
初めての体験。雰囲気もそうですが、ドームで野球を生で見る。《テレビだけですから。》それだけで私は,興奮していました。初めてのドームにキョロキョロしていると、【お久しぶり、元気。】とAさんが現れました。18年ぶりの再会です。懐かしさと嬉しさで興奮して、《何を話したのか憶えていません。》 久しぶりの再会を祝してビールで乾杯をしました。ドームで野球観戦の3時間は、アーッと言う間に終わり、
試合の方は、「巨人の勝ちゲームでした。」勝った。余韻にしたりながら。20分かけて出口に辿り着きました。そして外に出て食堂を探して夕食を食べようと通路に出ると、人混みの大群に遭遇して、前に進む事が出来ません。時間をかけて疲れ果て,やっとの思いで外に出ると、
 突然のにわか雨で移動する事が出来ません。倉庫の軒下で、雨宿りをして観客の数が減るまで待つ事にしました。雨の中を倉庫の軒下で20分ほど,試合の余韻に慕っていました。暫くして雨も小降りになり、大勢の人の波も人の数も減ったので,小雨の中を傘をさした。 男前のAさんと車椅子の変なおじさんが食堂を探して小雨が降る中をピチャ・ピチャ・ウロ・ウロと歩いて行きますが、11時を過ぎているので、食堂はほとんど閉まっていました。「すれ違う人は,不思議そうな顔して見ています。」雨に濡れながら20分程進むとセルフ・サービスの食堂を見つけました。 《これでやっと夕食にありつける。お腹はペコペコです。腹減った。》 10分ほど2人共。無心で食べてすべてが終わり、   時計を見ると、11:30分。少し小降りの雨がシトシト降る中をホテルに帰ります。 今晩宿泊する文京区の東横INは,目の前に見えるのですが、なかなか辿り着けません。まだ,20分ほどウロ・ウロして雨に濡れてビショ・ビショです。《一緒にいる。Aさんが傘をさしてくれているのですが、2人共ずぶ濡れです。》Aさん。【どうやら。俺達,同じ道を何度もウロウロしているよ。あの歩道橋を渡ればホテルに近いよ。】【でも,車椅子では,あの階段は無理です。】と話していると、向こうから3人ずれの若者が通りかかったので、声をかけます。【すんません。向こうに渡りたいので、お手伝いお願い出来ませんか,】と頼むと、
 【快く、車椅子ごと持ち上げて運んでくれました。】【ありがとうございます。助かりました。】とお礼を言うと【言って下されば、俺達に出来る事は,お手伝いしますよ。】【ありがとう。】【いいんですよ。 1人で出来ないから頼む。それを出来る人がする。頼んだ人も頼まれた人も気持ちが良い、それが世の中の決まりです。】若者のその言葉に感心して別れましたが、 世間で言うより。【都会の人って冷たくないし、親切で優しい人が多いですね。都会は,人の数が多い分、親切な人や優しい人が多いですね。】と、言うと【森下君が、良い人だから。優しい人。親切な人が集まって来るんだよ。僕もNさんもそうだよ。】【ありがたいです。私は,周りの人達にお手伝いしてもらい.自分の好きに、自分勝手に生きています。
私は,幸せ者です。】【そう僕が,森下君に初めて出会った時、【障害を売り物にして、公共の施設や乗り物を割安で利用出来る。 ディズニーランドもUSJも裕次郎記念館も健常者のように並ばなくても優先的に裏口から入館出来たり、割引してもらえる。】周りの人は,みんな気を使い、我慢している。 【障害者がなんぼのもんだ。!】と思っていたよ。でも、君と会って、触れ合い、生きる姿を見ていたら。出来る事は自分でやる。出来ない事も、、、
 【それなりに、一生懸命に自分の人生を楽しんで生きている。 五体満足なオレ達でも出来ない事。健康な人でも無理で考えもしない事でも平気で人を頼み。実行している。その強さ・行動力は、スゴイと思う。本当に変なオッさんだ。】そして君が喜べば,お手伝いした人も気持ちが良い、【僕は,森下君に会ってから。障害者を観る眼が変わったよ。】【どんなふうに変わったのですか、私は,自分を不自由だと思っていません。人より少し不便だと思いますけど、障害があり、自分で出来なくても自分の人生は自分で決めて生きて行きたいです。自分の事が出来なくても、やり方や考え方を変えて自分が出来る事をやろうと思います。】 日付が変わり、午前0:00時を回った頃。 無事、文京区の東横INに帰って来ました。
 【明日。午前10:00時に迎えに来るから。 浅草に行き、Nさんに連絡して何処かで待ち合わせをして、そこで3人で相談して行き先を決める。】Aさんと別れて、 私は,今夜も昨夜と同じく東横INのハートフル・ルームの部屋に宿泊します。
 このホテルは, 『日本全国チエーンでホテルを展開している宿です。荷物を送るのも、予約するのもネットで簡単に予約出来ました。そして『部屋の中も車椅子で利用出来ます。お風呂と障害者用のトイレが部屋の中にあるので、時間かけて自分で使用出来ます。ベッドも2個ありますので、介護する人も共に宿泊する事が出来る。
 ハートフル・ルームと言う部屋で、2ヶ月前に申し込みが出来て到着した。 当日でも、部屋が空いていれば車椅子の人が優先的に宿泊出来るそうです。』部屋は,車椅子で移動も全てが簡単に出来ました。  東横ホテルは,朝食は食べられますが、お昼と夜の食事は,外で食べるか、 もしくは,出前も頼めます。 そして近くにコンビニがあり、自分で買い物をして持ち帰り食べる事も出来ます。《冷蔵庫が部屋にあり、》昨日買っておいた惣菜のソーセイジとサンドイッチ・パックのコーヒーで食事を済ませて、時計を見ると,午前1:00時を過ぎていました。もう寝ます。疲れていたのか、いつの間にか寝てしまいました。
4月12日。朝,眼を覚ますと、5時30分トイレと着替えに洗面を済ませて、 午前8時前になりました。 《今日も元気にがんばろう。 》フロントのおねえさんに【友達と浅草へ出かけて来ます。】と言うと【行ってらっしゃいませ。】と、送られ、車椅子でカバンを首にぶら下げて颯爽とホテルを後にします。 暫く行って、立ち止まります。 そこでガラス越しに不思議な物。《男なら、嬉しい風景です。》なんと女の人が裸です。《マネキンではありません。》『本物。』生身の人です。それも若い人。《年の頃は二十歳前後で》それに綺麗な人です。
【私は、独り事いいながら。】『なんで???』ガラスの奥を時間が経つのを忘れて暫く覗いていました。 
 するとそこへ。待ち合わせしていた。Aさんが現れて、【森下さん何、見てんだー。】と、言う声にカーテンを閉められました。残念。。。、 Aさんに旅で感じた事や出来事。 初めて出会う人達との触れ合い、 親切にされた事、 お世話になった事など、 そして今回その人の家にお邪魔して、宿泊する事など、 それに初めて見る。東京と言う場所。都会の姿・景色に見とれて、汗まみれになりながら。車椅子を漕いでバックで進みます。『都会の空気・匂い、初めて観る景色と人混み。人の多さにビックリしました。
 十数年ぶりにNさんに会える懐かしさと嬉しさと期待に』にシンドイ事も疲れた事も感じませんでした。ブル・ブル汗をかきながら。浅草に着くと、凄い人。賑やかで盆と正月が一緒に来たような賑わいでした。 ここは、特に人が多い、 私を含めて、ここにいる人は, 皆、暇な人ばかりなのか?、《私は,日本の未来を心配します。?》 浅草雷門の提灯の下まで行き。そこでNさんと再会しました。(?_?)《お互いに18年の年月は、髪が白くなったり、太ったり、私は,頭が剥げましたが、本当に年月を感じます。》【森下君。久しぶり。元気で良かった。浅草に来て,どこか行きたい場所とか食べたい物とかやって見たい事があれば言ってよ。どこでも行くし・なんでも付き合うよ。せっかく東京まで来てくれたから。何処へ行きたいんだ。】
 【じゃー最初は,人力車に乗って、 浅草の町を見学したいです。】と言うと人力車を呼んで20分コースで見学しました。
《2人乗りなので,Nさんと並んで乗りました。》人力車を引く人が1人。後ろで押す人が1人。後ろのお兄ちゃんは,お笑いの《小島よしお》そっくりで、もう1人のお兄さんは,先日沖縄から。出て来たばかり、と話してくれましたが、漫才のような2人の掛け合いに大笑いで,楽しい、人力車での浅草観光となりました。    ガイドのお兄さんが、《沖縄の方言で観光案内をするので、凄い人気者。》沖縄弁でガイドするのでおかしくて笑い転げていました。 Nさんは,人力車の上から独特のアングルで浅草の風景を写真に撮影してくれます。 私は、沖縄方言でガイドしてくれる。 兄ーぃにの言葉と浅草の景色を人力車の上から見学します。
雷門の大きな提灯がある場所を出発して、10秒ほど進むと右手ビルの屋上にウンコが見えます。キリンビールの会社のビルだと聞きましたが、【大笑い、黄色で,あれはまさしくウンチに見えます。】高いビルやモダンな建物が建ち並び。人通りも多く、まさしく都会です。商店街に入ると、280年も続く人形の店に和菓子の店・呉服・草餅・団子・手打ちそば・うどんの店などが建ち並び。老銘の店。昔から続く由緒ある店の通りなのです。 私達が入ったお店は,150年続く天ぷら屋さんで、『あの、勝海舟。』も会食した。
 店だそうですが、と言う事は,幕末から創業していたんだ。〈ここで、未来の日本を夢見た場所かも、〉と。思うと嬉しくなりました。その店でお昼ご飯を食べます。 そして、3人共。好みの食べ物を注文しました。
私は、エビ天丼のセットを注文しました。大きなエビと茄子・玉ねぎ・ピーマンの天ぷらに、ご飯とお味噌汁と漬けものに美味しいお茶付きのセットです。《凄く大きいエビがカラッと揚がっていて、美味しく頂きました。》  お腹も満腹になったので、少し歩くとスカイ・ツリーのよく見える川沿いの公園を見つけて、
 一休み。3人でお花見をします。見ると、大勢の人がお酒やお弁当を広げて、食事の真っ最中です。 春の青い空に〈少し曇ってましたが、〉気候も良く東京の浅草は、今『桜が満開です。』川の土手には、白い橋が架かり、スカイツリーも綺麗に見える場所。【そこから見えるウンコが気になりましたが、】男3人で,お花見をしました。 近くでお座敷の船。 隅田川クルーズで花見と舞踊り・スカイツリー見学コースと名付けられた。屋屋形船が出ていて、便乗しました。『船上時間約50分の船旅で花見の旅です。』何キロも桜の花が川の両端に咲き乱れる中をお座敷クルーズに乗り, 春の景色を見ながらゆっくりと隅田川を往復します。船の中でも和服姿の女の人がお茶を点てたり、舞妓さんが舞を踊ってくれます。
 私達は,お弁当やお酒等は、頼まないで飛び入りで、花見と宴会の団体さん達が利用する。船に私達3人。『特別に』便乗させてもらいました。 綺麗な舞妓さんの踊りが側で見られたり,3人で舞妓さんと一緒に写真を撮りました。【現在,パソコンの壁紙に使用しています。】が、船の上から見る桜と景色がメインで青い空。 満開の桜と隅田川河口の春の景色。 大きなビルや工場。  新しくスカイツリーが、そびえ立ち地元の人に言わせると、日本の神髄の町が出来た。と喜んでいました。そしてこの場所から見る。スカイツリーが一番だそうです。50分の船の旅。 桜の景色を満喫して、スカイツリーは,10月に開館しますので、
 6ヶ月後でないと入れませんと聞いて、《ガッカリ残念でした。》 そして今度は,浅草演舞場の周辺をブラブラしていると、〈往年のスター。〉現在で言う有名人の手形がありました。浅草会館の玄関の階段には、萬屋銀之助・大川橋蔵・美空ひばりなどの有名人の手形が階段に彫られていました。《今では、国宝です。》それを初めて自分の眼で確かめる事が出来ました。 
 そして左右の道端には,お店が建ち並び。 いろんな名物料理の出店や、お酒類やお肉類や麺類。その他珍しい食べ物ばかりです。祭ではありませんが、テントを張りで、机を2~3個並べて、お客さんの眼の前で料理を作ります。露天のお店で好きな料理を一品ずつとお酒を3人で昼間から頂きましたが、美味しかったです。
久しぶりに出会った友達と初めての浅草で初めての食べ歩き、初めて味わう不思議なお酒や料理に,ご機嫌です。18年前の北海道旅行を思い出しました。【漫画、車椅子独り旅の《始発駅から。》北海道が、私達オッさん3人の出会いの始まりです。】あれから。18年が経過しました。今でも前と同じく3人で遊んでしまいました。
 午後6:00前。又、お腹が空いたー、今度は,夕食です。食べることばかり、《それが青春だー。いや,おじさんだー?。》【森下君。夕食に何か食べたい物があれば、言ってよ。ごちそうするよ。】と言われたのですが、【お任せします。なんでも頂きます。】と言うと炉端焼や一品料理で人気のお店に行き。 又,又、久しぶりの再会を祝して乾杯です。40度のお酒を注文して、《私は薄めてもらい、飲みます。》運ばれて来た。料理は,ラム肉をコショーで焼いて、、、。そして,飲んだ事のない、お酒に酔っぱらい、気持ち良くなり途中で分からなくなり、 今まで食べた事もない、料理を夢中で食べていました。美味しかった事だけしか憶えていません。時計を見ると11時を回っていましたので、宿泊先の文京区東横inまで3人でタクシーを飛ばし帰って来ました。 2人でホテルの部屋まで送ってくれて、又の再会を約束して、懐かしのオッさん3人の青春は,又,会う事を約束して終わりました。 
 そして翌日、4月13日。午前9時過ぎの列車に乗り、福島県の郡山へ向かいます。列車の窓から。外の景色を見ますが、所々にまだ根雪が残るぐらいで、地震の形跡は、ありませんし,特に見えません。 “のどかな田舎の風景です。¨ 暫くして、郡山の駅に着きましたが、にぎやかで大勢の人達で溢れています。普通の駅。 別に変わった様子はありませんでした。郡山から乗り換えて会津若松駅へ向かいます。会津若松駅から。友達が住む。田島まで《列車の時間が、》2時間ほどあります。タクシーの運転手さんに頼み込んで津波の被害と原発被害。《重複被害》の福島を《危険区域には行けませんが、》見て回ります。
10分ほど進み。海沿いをゆっくり走ると、ここから危険区域(立ち入り禁止)と書いた看板と通行禁止・通行止め。立ち入り禁止・危険区域の標識ばかりで、田や畑は、草がボウボウで人の姿は、全く見えません。
 家は,かたむき・屋根瓦は,崩れ落ちて、窓ガラスは,壊れて・壁は、落ちたり、剥がれたり、車から降りて周りを建物を覗き込みます。 誰もいません。ここだけ止まっています。あの日から。時間が町が存在、総てが、、、?
 人の居ない場所。人が住めない町と言うのは、こう言う場所を言うのですか、
▲『村が、 土地が、 故郷が死んでいます。、、』▼家の前や玄関には草が生えてゴミだらけです。
 どこが玄関で、どこが入り口なのか分かりません。 人の居ない町。人が住めない町。人が住まない場所は、こうなるのですか? 寂しいです。悲しいです。そこには,誰も居ません。人の姿が亡いのです。人が住めないのです。ここでは,人が生きる事が出来ないのです。 そこで私は、ガリガリに痩せこけた犬1匹と薄汚れたネコを3匹見ました。《可哀想と言うよりも、頼もしい、嬉しかったです。》 汚染された場所で、人が住めない、 津波で全て流され、破壊された場所で、人が誰も居ない土地で生き抜いた彼らに私は、最敬礼しました。 『よくぞ、生きていて下さったと。』と 向こうの壊れかけた納屋を覘と、牛小屋らしき場所に、牛か豚の死骸が数カ所に転がり、 ムシがたかって周辺は、凄い悪臭が漂っています。《青いビニールシートをかけてありますが,》誰もそれを葬る事は出来ません。『立ち入り禁止で放射能に汚染されている場所だからです。』
 この現実を自分の眼で見る。自分の耳で聞く、地震・津波・原発事故・放射能漏れ。日本は、本当に大変な事が起ったのだと痛感しました。2時間弱の散策ドライブを終えて、午後3時過ぎの 列車で友達の住む。田島に向かいます。汽車の窓から見る。会津盆地は,まだ所々に根雪が残り寒そうでしたが、根雪の下には,若草の息吹が根付いていました。《自然の力って怖いけど,凄い、明日に,希望を与えてくれます。》そして会津若松駅から。
 田島駅に向かう列車が、塔のへつり 辺りで止められて、数人の役場の職員が乗り込んで、放射能の線量を計られましたが、 《やはりおかしな感じがしました。》
そして暫くして、田島駅に到着しました。 18年前にお邪魔した時と比べ駅舎はモダン的に建て替えられて、 売店も食事が出来るようになり, 前回に、お邪魔した時には、駅のトイレが狭くて車椅子では,入れずに苦労したのですが、今回は,綺麗で広くなった上に障害者トイレとスロープ。手すりも設置してあり,車椅子でスイスイ移動も出来る。立派な駅のトイレに変わっていました。 
 午後4時過ぎに田島駅に着しました。 私は、友達のWさんは、仕事が終わる5時過ぎに迎えに来ると約束をしています。まだ時間は50分以上あります。車椅子マークの場所を見つけてトイレを済ませて、迎えに来るまで新しい駅の中を〈時間稼ぎに〉散策して見ました。 何台もの車が並ぶ駐車場・食堂の端に地元で収穫した果物や野菜などの物産品売り場などあり、楽しく見て回りました。18年前にお邪魔した時に比べると,モダン的で、近代的な駅に生まれ変わっていました。 〈これも18年と言う年月なのですか、〉  すると、向こうの駐車場に、止まった車から。友達のWさんが、笑顔で近付いて来ました。《久しぶりの対面です。》お互いに初老になって、髪の毛が薄くなったり,白くなりましたが、Wさん元気そうな顔。姿を見てとても嬉しかったです。
 迎えの車に乗り込み。  Wさんの家に向かいます。今夜は、Wさんの家に宿泊させて頂きます。家に着くと3階建ての御殿のような新居でした。遠慮なく上がり込むと、Wさんの部屋に案内されました。 十数年ぶりに息子のT君と対面しました。 凛々しい会津の若者です。《今風に言いますと,イケメンで肉食系男子。》 前に出会った時は、確か,小学校の6年生で、親子・兄弟 4人で【戦い】プロレスごっこをして、 無邪気に遊んだ事を思い出します。下の弟達は、都会で就職して家には,居ませんでしたが、、、、 長男のT君と前にお邪魔した時には,奥さんのお腹の中で会えなかった。末弟のY君と初対面の挨拶をして、歳を聞くと17才。?《高校2年生だそうです。年月を感じました。》 初めて訪ねた時は,まだ奥さんのお腹の中にいたそうですが、その彼がもう17才です。【Wさんお互い年を取る筈ですね。】と笑いました。 WさんとT君。3人で話が弾み。PM:7時頃みんなで夕食です。 そして今回の旅の目的やこれまでの出会いや出来事。
 それに明日からの予定を話しながら。 久しぶりの再開を懐かしみ3時間ぐらい話しました。寝る前にWさんにお風呂に入れて貰い、心も体もリフレッシュして、明日は,Wさんと車で、目的地の岩手県南三陸町『防災センター跡に献花に出かけます。』【車椅子で1人行くのは大変だ。】とWさんと車で一緒に2人出かける事になりました。 
 4月14日。朝、少し早いですが、遠方なので、朝の8時過ぎに出かけようと決めました。
 着替え・洗面・トイレ等を早めに済ませて、雨の中Wさんと車に乗り込み。岩手県南三陸町の《防災センター跡》に向かいます。 「役場の防災無線で、津波の情報を流し続けて、『自分の命と引き替えに1,000人以上もの地元の人達を救い、』自分は津波の犠牲になり、亡くなられた。【遺体はまだ不明だそうですが、】遠藤美希さん『現在のマザーテレサです。』その他。防犯センターの職員16人。その人達に献花をして、一言,『ありがとう。』とお礼を言いたい。」 東日本大震災が起きてテレビ・新聞等でニュースを見たり、情報を聞いたりする度に、私は,涙が溢れて来ましたた。
 でも,どうする事も出来ませんでした。《出来るならすぐにでもお手伝いかボランティアに行きたい、 なんでも良いから。力になりたい,》と思うのですが、 
 何も出来ませんでした。 1年以上過ぎた今でも津波に襲われた人達の話を聞いたり、土地や家が流された場面を見て何も出来ない、自分がいました。
 何度も津波の恐怖と惨さ、凄さを見て、その衝撃に言葉が出ません。 と涙を目に一杯溜めて話していた被災者の顔が忘れられません。  
 2月の初めに、行方不明で一年以上も連絡の無かった。宮城県に住む友達から。電話がかかり。【心配かけてゴメン、俺も家族も子供達も皆、無事で元気だから。】と、連絡がありました。【電話しても、手紙を書いても連絡が取れないし、役場に捜索を頼んでいたんだよ。無事か、元気で良かった家族も無事で良かった。1年以上連絡が無いから。地震か津波でやられたと、思っていたよ。生きてて良かった。 でも,どうして1年半も連絡をくれなかったんだ。心配していたのに、】【ゴメン災害後の「跡かたずけ、」等で連絡出来る状態では、なかったと、電話の向こうで、すすり泣く声が聞こえました。】私は、ビクリして【どうしたんだ。家族の人に不幸があったのかと、聞きました。】すると、【親戚が2人と仕事場の同僚の4人が津波で亡くなり、2人の遺体は、まだ不明だそうです。それを思い、】電話の向こうで泣いていたようです。【でも、君は、元気で良かった。2~3年が経過してて落ち着いてから。【顔。見に行くよ。 みんなに会いたいし、綺麗に復興した東北も訪ねて見たいから。何年か先に行くから。必ず。】と言いました。すると、【地震の事も津波が来て多くの人が亡くなられた事、】『ある日突然地震が来て、津波に襲われて、自分の土地や家。家族も肉親も大切な人も亡くして、 0じゃない、マイナスから。スタートするしかない、被災したの人達。災害を受けた人達。 町が人が東北が被害を受けた人全員が頑張っている姿を復興をしようと頑張っている姿を。
 想定外の津波被害を受けた場所を見て欲しい、《私達は,こんな状態から立ち上がり、悲しみを乗り越えて復興しようとしている。》 その姿を翡翠のどん底から。立ち上がり、生きて行く、人の力。東北の力を、被災地の姿を、私達が立ち上がる姿を、生きる姿を見て応援してほしい、 何年か経過して、東北に地震が来て津波を受けた。沢山の人が亡くなられた事も忘れられて、被災地も元通りになり、地域も町も綺麗になってから。訪ねて来られても嬉しくない、
【森下さんが車椅子で、被災地まで、献花・黙祷しに来る。』それは、お金持ちの人が寄付する事より、心ある人達がボランチィアをする事より、意義のある事では、ないだろうか、?】君にしか出来ない事、重度の君が、施設暮らしの君が、車椅子で、東北まで1人で献花・お見舞いに来る。  【森下だから。出来る事。】
    ◆『障害者の代表選手になれ、』◆  
と言われました。【今、この時期に、不自由な君が,車椅子で,不自由な体で1人で東北まで来て献花をしたり黙祷して、地元を勇気づける。】それは,健常者の人がボランティアするよりも、お国の偉い人が復興支援で予算を算出する事よりも意義がある。 
 地元の人に勇気を与える事では,ないのかナー。  被災者は、それだけで嬉しい、『俺達に勇気を与えてくれ、』と言われて、
素直で単純な私は、一晩考えて、即。実行しました。 それも、4月と言う早い時期に。《善は、急げと言いますから、???》単純ですんません。
〈話しが横道にそれました。〉白河インターから東北自動車道に乗り、一路仙台へ向かって、車は,走ります。 途中の安積サービスエリアに立ち寄り、朝ご飯に,ラーメンを食べました。『喜多方ラーメン』おいしかったです。 《ラーメン大好物ですから。》 そこには、これより『陸奥路』と書かれた標石があり、ここへ来た記念に写真を3枚程撮りました。 今度は,三陸道を走っていると,見たことのない、派手なスーパーカーと擦れ違いました。 すると,Wさんが、あれ見てと言われて、見ると俳優の【堺正章です。】紫のキャップ帽をかぶり,派手な服装で隣の席には,奥さんらしい若い女の人が便乗していました。他に3台のカラフルな車が並んで走っています。 
〈東北に応援か励ましに来たのかナーと独り言、、、〉Wさんと南三陸町に向かう車の中でも、いろんな話しをしました。今回の旅のことから。18年前、福島を訪ねた時の事、 お邪魔した時,初めて会う私なのに,家族全員が優しく歓迎してくれて、男5人で、将棋をして遊んだ事やお風呂に入った事は,今でも忘れられない思い出です。
 昨夜話をした。長男のT君や次男Y君。同じく3男のY君の3兄弟達と初めての出会いで、将棋をしたのですが、次男Y君の手を借りて、 将棋を指した事を思い出します。【私,腕が不自由なので駒を動かして貰いまして、】私と兄弟3人の計4人で将棋を楽しむ事が出来ました。その時の事をT君に、昨日訪ねて見ると、憶えていませんでした。 〈寂しいーナー。〉
 あの時も翌日仙台まで出かける旅でして、Wさんに送ってもらい、車に便乗して仙台まで出かけました。前回は、神戸地震が縁で出会い。仙台まで行き、今回は、 東日本の震災で東北へ、と我々が会えるのは、災害や悲しい事件が起こった時ばかりだナーと、 お互い笑い話をしました。日本に良い事がある時に会いたいものだと、笑いました。   
仙台に、向かう車の仲でもWさんから。4兄弟の性格や小さい頃の話しを聞いて、 私は,自分の事のように嬉しくなりました。 長男のT君と昨夜。久しぶりに対面しましたが、 彼の優しい性格と誠実さを感じました。 会って話した感じや話すしぐさ性格などから。彼への感想は、 会津には、『什の掟』と言う教えがあるそうですが、“立派な会津の若武者でした。
   ◆ 会 津 藩『 什 の 掟 』 ◆

一・年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二・年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三・嘘言を言ふことはなりませぬ
四・卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五・弱い者をいぢめてはなりませぬ
六・戸外で物を食べてはなりませぬ
七・戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです 以上、

 "私は,Wさんが羨ましい,“です。車は,東北自動車道の海岸線を走ります。 窓から外の景色を見ると、震災で津波の爪痕が周りに見えます。  家も道路も田畑も景色が、“当たり前の景色が、当たり前では、無いのです。”【ギャグではなく,】常識でない、普通でないのです。 高台。山や丘の陰に面した建物は,なんとか無事に残っていますが、 存在している建物の中は,瓦礫とヘドロに覆われて凄い状態です。 臭い、汚い、凄い匂いがしています。嗅ぐだけで病気になります。こちらの空き地には津波で流された車が積み上げられて山のようです。 壊れた車。へこんだ車。水浸し、 窓から中を覗くと、渇いて泥まみれ瓦礫まみれの廃車・自家用車の山です。車の墓場です。【車の死体です。】この悲惨な状態を写真に撮ろうとしたら。
 係員の人に止められました。《ナンバープレートで持ち主が分かる。個人情報ですので,》と言われ写真は,撮れませんでしたが、とにかく凄い状態でした。
津波を受けると大変です。津波の後は、何もない、総てが存在しません。 それをこの眼で見た私,、言葉が出ません・声が出ません。唯,呆然として涙が止まりませんでした。 
途中,仙台の松島に立ち寄り、海が見える5階建ての食堂の窓際の席で外の景色を見ながらの食事です。
 仙台名物の噂の牛タンを食べて生ビールを飲みます。《Wさんは,運転があるのでアルコールはダメですよ。なにか可哀想で、中ジョッキーしか飲めませんでした。》 その日は,海の祭りで、 沖の小さな島から。神輿が船に乗り、 神様が船に乗り、こちらの神社に訪ねて来られる。神様の里帰りみたいな祭だそうです。それを見る為に、凄い人の数で賑やかでした。そばにいたお客さんが、今回の津波で、【大きな災害があっても、ここ松島と仙台空港は、もう復興していますけど、他の場所は,何時になるのか、、、】と呟いていましたが、私もそう思いました。
食事を終えて、今度は,東北の雄。伊達政宗の菩提寺で国宝の『瑞巌寺』に立ち寄りました。先日の津波が本殿を襲い、境内も本殿も国宝の品々も水浸しで、国宝の虫干しと修復作業で工事中で建物の中には入れませんでした。
でも、国宝の重要文化財指定の本堂障壁画。伊達家歴代藩主画像・書籍・茶碗・墨絵。日本三景の松島に関する絵画や書及び、発掘調査で出土した中世円福寺関係資料など、約3万点もあるそうですが、津波で水をかぶったり、濡れた国宝や貴重品は,虫干しの為。
この近くの場所に展示されていて観覧する事が出来ました。青龍殿を入ると津波の凄さを物語るように。地面の土も抉られ削られ,建物は流されて,水溜まりが出来たり、 
 あの有名な松並木と杉並木そしてイチョウ並木を見ると、生木の根元が津波で削られて、土は,流され、抉れて、見るにも悲惨な状態でした。【それでも挫けずに,生きている。樹木や根っ子に,頑張ったね。】と思わず私は,声をかけました。1時間足らず別館【被害を免れた場所ですが、】を見て回り、 周辺を暫く見学してから。岩手県に行こうと、時計を見ると時刻は午後の5時を過ぎていました。   
 この辺で、【献花する花を買いたいけど,店はないし,防災センター跡地まで、ここから。30分から40分以上かかる。【もう暗くてダメだ。】今日は,宿舎の秋保温泉『佐助』に行き。 明日早めに出かける事にしようと2人で相談し、  明日の朝行く事に決めました。それより今夜pm:6時頃に到着しますから。と申し込んであるので、宿に急ぎます。
 薄暗い夕方の三陸自動車道を下り。今晩の宿泊場所仙台秋保温泉佐助をめざします。 道に迷いウロウロして8時過ぎに到着しました。 Wさん【もう遅いから。夕食は,食べられないかも,】と2人共。心配していました。 8:30分過ぎ無事に宿。《佐助に》到着しました。【すんません松島を見学していたら。遅くなりました。】と言うと、【お待ちしてました。】と女将さんが給仕して、夕ご飯を食べることが出来ました。12階建ての高い豪華な宿で、私達が宿泊したのは,8階の窓際の部屋でした。 中に入るとビックリ。応接間があり、豪華な居間。《そこで食事をします。》お風呂・トイレ・それにローカ付きで、広い場所です。       1件の家を借り切ったような部屋でした。 ここだと『宿泊費は高いだろうなー、私なんか1泊。3万以下のホテルです。』でも、こんなホテルに宿泊出来て、豪華な食事付きで、女将さんに給仕してもらえる。もうバチが当たります。《殿様になったようです。伊達の殿様。余は,満足じゃ、、、》又,食事が豪華でした。小さな釜に入った炊きたての松茸ご飯に、刺身・天ぷら・茶碗蒸し、その他。想像してみて下さい。そしてすき焼き鍋。中にトマトが入っていました。《ええーっ、こんなの食えるのかナー、》と思いましたが、食べると美味かったです。《炊いたリンゴのようでした。》10時過ぎて、食べた・飲んだ。もう満腹です。もう動けない、  
Wさんに,【森下さん風呂に行かないか,温泉だよ。】と言われたのですが、【疲れているので、今晩は止めときます。】と断ると、【じゃー俺,入って来るよ。】とWさんは,お風呂に行きました。 私は,酔っぱらったのか良い気分で部屋で寝ていました。 Wさんが帰って来た事も分かりませんでした。《全然覚えてないです。》
夜中の2時30分頃に眼が覚めてトイレ。いつもは,立ち便器で行うのですが、部屋には立ち便器はありません。時間は,かかるし、手すりがなく便座が高いし、靴を履いていないので,足が滑り、踏ん張る事も出来ません。 いろんな難談が重なり、便座の上にひっくり返ってしまいました。《1人で,どうする事も出来ません。》足が届かない、《短い、》起きあがろうにも,手すりが無い為。足をドタバタしているとドアの鍵が掛かってしまいました。大きな声で何度か呼んだのですが、 Wさんは,グッスリ寝ています。 聞こえません。 《私は,便器の上でひっくり返ってしまい、扉を空ける事が出来ません。内から扉には鍵が掛かっていますので、 外から開ける事が出来ません。泣きそうです。》何度も、叫んでいると、やっと目覚めてくれた。Wさんが事務所に電話して宿直の人を呼んで扉を開けて貰い、無事トイレから出る事出来ました。
 《お騒がせしました。ハイ。》
4月15日。 朝、7時ぎお腹は,まだ空いていませんが、【食堂でバイキングがあるから。行こう。】と誘われ、 コーヒー飲んでいると,Wさんが美味しそうにハムを食べていたので、《食べ物に眼のない,私は,ハムを食べました。》 9時過ぎ1階でトイレを探し、終わり外に出るて玄関で宿泊している人達や宿のみんなに送られて、 南三陸町陸前高田の『防災センター跡地』へ出発します。今回の旅で東京の浅草を歩き破れた靴と献花する花束を買い求める為に、 途中で百貨店を見つけて立ち寄り、腹ごしらえと靴と花束を買い求めました。  『千羽鶴とみんなの気持ちを届けに兵庫県から。独り車椅子で来ました。』と訳を話すと,花屋のおねえさんが、《感激して》少し大きめに花束を包んでくれました。【ありがとう。】 さあ又、車に乗り込み。一路、三陸町陸前高田の防災センター跡地に向かいます。    車で走る途中で又,悲惨な景色に遭遇しました。【森下さんここは,一番。ヒドイよ。】とWさん 外を指さして眼をやると、瓦礫の山と傾いたビルばかりで、百貨店とか・病院それに学校とか公共の建物は,残っていると言うより、廃墟となり,傾いた建物が所々に、残っているだけです。
 民家は疎か,田も畑も緑は,この周辺には、見当たりません。 瓦礫の山とゴミの山。 廃墟と化した民家が存在していた。 
 その土台まで津波で抉られています。そして,数カ所建物が残っていますが、傾き。窓ガラスは総て割れて,その中は,土砂が一杯で建物の3分の1が、土砂に埋まっています。左前方を見ると津波に流された車が数十台も集められ積み上げられています。こちらには何メートルもの瓦礫の山が2・3カ所あります。 カメラを向けて写真を撮ろうとして、 警備している人に叱られました。【瓦礫の中にある。車のナンバープレートで、個人情報の流出になります。】と係員に言われて、 写真を撮る事出来ませんでした。 〈すんませんと謝りましたが、〉 途中でも三陸鉄道でしょうか、トンネルは土砂で埋もれて、線路レールは,枕木が付いたまま宙ぶらりんで、土台の土は流され、土は総て抉れていました。 特撮の映画ウルトラマンの【悪い怪獣に荒らされた町。】見たいでした。
 そして、20メートルほど東側に駅があったそうですが、繁華街だった場所には,何もありません。盛り上がった瓦礫の山が2たっと、山積みにされた無数の廃車の山があるだけです。人は誰も居ません。見えません。  痩ぽっちの犬が3匹と薄汚れたネコが4匹仲良く彷酔う姿と その場所には,異様な臭いがして,カラスが集まり、ムシが大量に異常発生していました。
 この世の地獄を見ているようで、私は、涙が止まりませんでした。 
 お昼前に,目的の南三陸町陸前高田の『防災センター跡地』に到着しました。周りの建物は殆ど流されていました。廃墟となった広い場所に、骨組みだけが残る建物。 その中に祭壇が設けられていています。周りは,瓦礫以外なにも見えません。鉄骨の建物。骨組みだけ残り、傾いてそこに見窄らしい建物が、5・6個。残っていました。一つ・一つを見て回っていると、車が8台ほど止まって、そこには、『祭壇が設けられている。場所』を見つけました。 それを見つけて、【Wさん見つけました。ここに献花に来たのです。】と車から降ろしてもらい、真摯に献花します。『津波で亡くなられた大勢の人達。安らかに、、、。 美希さんありがとう。▼貴女が命を賭けた呼びかけに感動して、それが私の心に響き。兵庫県から献花に来ました。▲僕達の気持ちと、私が住む但馬の施設真生園職員・利用者が1羽1羽に感謝と祈りを込めて有志で織り上げた千羽鶴と花束を携えて、車椅子で来ました。  
 今回の津波で亡くなられた遠藤未紀さんを初め被害を受けられた人達にお見舞いとお悔やみに参りました。なにも出来ない私を許して下さい。ご冥福をお祈りします。と静かに黙祷しました。
 3階建ての防災センター。屋上の鉄塔まで瓦礫やゴミが引っかかり“みすぼらしい姿¨で骨組みが残る。あの上にある鉄塔とアンテナ、
 あそこに,一晩しがみついて生存した人達の話は,有名ですが、ここの2階で避難を呼びかけて、自分の命を引き替えに、防災無線に命を賭けて叫んだ。『美希さんの命の叫びをしていた。』2階放送室。この叫び。呼びかけで10,000人以上の地元の人。その放送を聞いた人達は,避難出来て助かったんだと、聞きました。
現在の『マザー・テレサです。』彼女に献花をして、ひと言、『ありがとう。』とを言う為に、遙々東北まで来たのです。 〈念入りに感謝を込めて黙祷しました。〉
私の他にも地元の人や県内。遠く県外からも多くの家族連れや心ある人達が《わりと若い人達も、》次々と黙祷・献花に訪れていました。  Wさんが、【この人兵庫県の療護施設から。献花に車椅子で独り来たのですよ。】と言うとみんながビックリしていました。 中の1人で地元の中年のおばさんが、涙を流しながら喜んで私の手を握ってくれました。 Wさんに【なんだか人気者になったようです。】と言うと、【あなたは,人が出来ない事をしたんだ。福島まで来て、独り車椅子で岩手県まで行くと言う。だから私も協力した。】と言われて私は嬉しくなりました。【名もない,施設暮らしの私に親身になり,宿泊から食事まで家族ぐるみで面倒を見て、共に目的地までまで送迎してくれる。 【Wさんあなたがいたから。陸前高田まで来て、お見舞い・献花する事が出来ました。ありがとう。】と言うと、
 【私も楽しい慰労の旅が出来たよ。ありがとう。】と返されて、【この人は、本当に素晴らしい,会津の人です。】《新撰組副長土方歳三の言葉にありますが、会津の武士には,志がある。》と【心の中でありがとう・ありがとうと何度も呟きました。】 〈感謝してます。〉
 そして献花しての帰り道に建物も余り無い場所に、小さなバラック小屋のラーメン屋さんを見つけました。〈ラーメンに眼のない,私は,即,入りました。〉母屋の前の空き地の石ころだらけの場所に、緑の旗で『ラーメン』が眼に付きました。  
 母屋に付け出しと言う感じでカウンターだけの店。満席でも5人から7人ぐらいのお客さんが入れる。《小さな店。》おばさんが1人で切り盛りしているようで,お客も私達2人で、店の中もおばさん1人しか見かけませんでした。Wさんに支えてもらい,歩いて店に入ると、不思議そうな顔して、【車椅子で入るには,狭いです。お客さん歩行が出来るのですね。】いらっしゃいませと迎えてくれました。入り口から1番近いカウンター席の椅子に座らせてもらい、ラーメンとカレーのセットがあり,〈それは,私の大好物です。〉即。注文して食べましたが、美味しかったです。 私が食べている間だ。Wさんが、話します。【この人車椅子で1人兵庫の施設から。震災で亡くなられた人達に献花と黙祷に来られたのです。】
と話し【自分は,福島の友達で、その話に賛同して一緒に防災センターまで付いて来たんです。】と話すと、私の手を握り、おばさんは、凄く喜んでくれました。【お兄ちゃんが車椅子でお見舞いや励まし、献花に来てくれた事は,俺、忘れへんよ。】と言ってくれました。  私も、この時期。震災から1年と言う時に、この地を訪ねた事は、生涯忘れないと思います。 忘れる事は、ありません。『今回は、忘れられない旅となりました。』15分ほど、お邪魔しましたが、次の目的地に向かいます。 目的の献花を済ませたら。安心したのか、目的を果たして気が抜けたのか、      
 帰りの車の中でウト・ウト寝ていました。【森下さんここかナー、着いたよ。】と言われ、 眼を覚ますと、今日の宿泊先の仙台東口2号館の東横INホテルへ着きました。入り口まで送ってもらい、 そこでWさんと別れたのですが、《18年前に初めて会って仲良くなり、私が一方的にお世話になるだけのお付き合いです。 前には,仙台。今回は,岩手の陸前高田まで送迎とお付き添い、いえ、共に旅したようなものです。》その感謝の気持ちと大切な友達とさよならする事と感謝と寂しさに【感】極まり,思わず涙が溢れてWさんの顔が見れません。声が出ません。本当に嬉しかったです。 Wさんありがとう。
 Wさんと別れて、ホテルに入り。【こんにちは,今日から。2日間お世話になります。兵庫県の森下と申します。宜しく、】【いらっしゃいませ。ハートフル・ルームご利用のお客様ですね。こちらでございます。】と案内された場所は、1階の受付カウンターのすぐ横でした。すぐに対応が出来るようにとの事だそうです。
 部屋に入りしばらくして、喉が渇いたので、缶ジュースを買おうと部屋の外に出て、お客さんを見つけて頼みます。【手を貸して下さい。】と自動販売機で缶コーヒーと缶ビールを買って貰っている姿を側で見ていた受付の女の人。顔は綺麗だけど、《愛想が悪い、フロント向きではないと独り言。》〈私には,関係ないけど、?〉【食事は出来ませんか、】と聞くと【朝食は,ご用意出来ますが、お昼と夜の食事は、、、でも、食べ物の持ち込みは出来ますので、近くのコンビニをご利用下さいませ、】と言われて、近くの食堂。『食事所。〈みちのく〉』の暖簾をくぐり、その店に入りました。          車椅子でそれも独りで来た私を見て、店の人は,ビックリしたようですが、遠慮なしにズケズケ話す。私のペースに負けたのか普通にお付き合いしてくれました。 食事が終わり、お勘定の時。【お幾らですか、このカバンの中に財布がありますから。会計をお願いします。】おかしな顔して、【私が、お客さんの財布を空けて、お金を出しても良いのですか、】【ハイ。私,出せませんので、】〈固まっています。〉
 【お代いらないのですか、】と言うと財布を開けて取りましたが、店を出ようとすると、主人が奥から出て来て、【お兄ちゃんありがとう。良く来て下さった。車椅子で入って来たのは,知ってた。歩けない人だなーと、でも腕も動かせないのに、俺の料理をかぶりついて、美味しそうに満足そうに全部残さずに、俺、嬉しくて涙が出たよ。】【そうですか、ごちそうさまでした。美味しかったです。ありがとう。】と言うと【元気で】と手を握って別れました。 店を出てホテルに帰る途中で、
 又、コンビニを見つけ、部屋で食べる食料を買いたくて店に入ります。20センチほど,高さのある玄関を入ろうとしていると中学生ぐらいの男の子が【大丈夫ですかと車椅子を押して中に入れてくれました。】【ありがとう。】と言うと、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしていました。 こんな子もいるだ。 日本って本当に良い国だ。と独りで喜んでいます。  
 夜食にお寿司・お菓子・メロンパン・ジュースにコーヒー・ビール・アイスと買い込みホテルに帰ります。 沢山の荷物をぶら下げて車椅子を漕いでいるとホテルまで、今度は,【通行している。女の人が荷物を待って送ってくれました。】考えてみると、これまで私が出会った人達は、親切で良い人ばかりです。 本当に私は幸せ者です。【困った時は,必ず誰かが助けてくれる。】 翌朝。4月16日。今日は,仙台空港に行って一日過ごします。
 朝ごはんです。今朝ホテルの食事は,地元のおばさん達がパンも自分達が捏ねる事から。始め、焼きたての温かい、いろんな種類のパンを選んで食べる事が出来ます。飲み物もコーヒー・紅茶・ミックスジュースを選んで飲む事が出来る。ご飯もいろんな惣菜が入った。おむすびで何個でもお代わりして食べる事が出来ます。  地元の味噌で作った汁に地元で採れた。野菜の漬け物と盛り沢山でした。 〈それに,おばちゃんの笑顔〉
私が,和食を注文すると高菜のおむすび、地元の味噌汁、そして地元で採れた野菜と地元の人が漬けた漬け物。もう最高です。【夕べあんなに食べたのに又,ペロリと食べてしまいました。】食事を済ませ、 これから。仙台空港に、行きます。《あそこなら。屋根が,あるから。雨が降っても大丈夫です。それにトイレも食堂もあります。沢山の人がおられるから。何かあれば助けてもらえる。車椅子でも一日利用が出来ます。》不自由な私でも大丈夫で生活出来ると考えました。
『車椅子の背中に単独旅行中』とワッペンを付けているので、それを見た。観光客・お店の人。地元の人や通行している人まで声をかけてくれて、〈恥ずかしい、〉
 AM10:00過ぎからPM16:00時過ぎまで6時間弱を空港内で過ごしました。 買い物をするのも、食事を食べるのも、店のおばさんや食堂のおねえさんにお手伝いしてもらえる。
 買い物が出来たり、食事も出来る。トイレにも行ける、雨天でも屋根があります。《何も言う事ありません。》 【私も旅の恥は,掛け捨てと言うのか,何でも頼んでしまいました。そんなこんなで皆,親切にしてくれますが、出来る事は時間をかけても自分でやる。その見極めが難しいですよ。】〈出来る事を頼むのは,ダメです。〉 本当に出来ない事や自分で出来ても時間がかかる事などを助けてもらったり、お願いしていますが難しいです。 その時は、自分で判断します。
 「自分で出来ないくせに。人の親切は素直に受けろ。」反対に,《なんでもかんでも人に頼み。自分では,何もしないのか、だから障害者はダメなんだ。》と 怒られた事もありましたが、人を頼む。人を使う事も生きて行くには,大事な事なのです。 〈仕方のない事ですね。私達は,人の良心にすがる訳ですから。〉エレベーターで1階から。屋上まで何度も往復してキョロ・キョロウロウロとしていました。
 掃除のおばさんが話してくれましたが、 昨年の3月11日に、ここ仙台空港まで津波が押し寄せて、滑走路は津波に襲われ、飛行場にある物総てが流されて地獄絵を見ているようだった。と、涙ながらに話してくれました。 2階から屋上まで人が避難2千人以上の人がいたのかなー。 
 もう1人の警備員のおじさんは,「私がビルの上から見ていると、大地が突然揺れて空港内の建物が揺れ、 天井にある物は,壊れたり落ちたりで大変な状態でした。叫ぶ人やら泣き出す人。中には座り込み手を合わす人もいました。『地震の揺れの後には津波が来るから。外には,出るな』と、誰かの叫び声が聞こえて来ました。 【こんな海から何㌔も離れている。ここまで津波は,来ないと、思っていました。】
屋上から海を見ていた人が,【外に出るな。津波が来るぞ、!と叫びました。】するとみんな慌てて戻って来て、空港内に避難したのです。その日から。2晩,電気も食料も水もない時間が続き。 ここで過ごしましたが、【みんな放心状態とパニックでどう、生きていたのか分かりません。】 あの時。高い場所から見ていると、何㌔も離れている海の向こうから津波がジュータンを捲るように押し寄せて来て、家も土地も建物も人も総てを飲み込んで、こちらに近づいて来ました。
 その時私は,3階に逃げて、窓際から飛行場を眺めていました。泣き叫ぶ人。大きな声で叫ぶ人。肉親や子供の名前を呼ぶ人。手を合わせて祈る人。みんなの精神状態は、普通ではありません。 飛行場に整列している。旅客機が・車が・タラップが・整備車が・滑走路が・地面が・ジュータンを端から持ち上げてゴミを払うように、いろんな瓦礫を乗せて津波が押し寄せて来ます。 
 【この世の地獄を見ました。】と眼にいっぱいの涙を溜めて話してくれましたが、私も話しを聞きながら。泣いていました。 災害の2日目後に、自衛隊の救助で助かりました。と、泣きながら話してくれました。
 昨日。松島に行きましたが、ここ仙台空港と松島海岸は,早くも綺麗に復興していました。 凄いです。
 と言うと【空港ターミナルも松島も外国から。観光客が沢山来られる。観光地は、外貨を稼ぐので、】早く復興させないと,お金が落ちませんから。。。 【そうですか、いろんな事情があるのですね。】 お昼、3階の食堂に行き、昼食にします。 チャーハンとコーヒーをを注文して席に着きます。  お昼の時間は,満員なので、時間をずらして2時過ぎにお昼ご飯を食べます。   【車椅子の私は,お客さんが空いた。時間に行けば,お手伝いして貰い、食べる事が出来ます。】 店には、お姉さんが3人いて立ち替わり,【コーヒーに砂糖を入れたり,ストローを差してくれたり、砂糖を入れて、かき混ぜたり,】親切に面倒を見てくれました。ありがとう。【綺麗なお姉さんだったのでご機嫌でした。】 《デレー。》 楽しい時間は,終わり、午後2時40分過ぎ。   1階で、地元“仙台のうまいもん"販売コーナーが開かれていたので、 お邪魔する事にしました。入り口から。 搭乗口に向かう途中に,ローカの左右に仙台名物や自慢のお店が並んでいます。
 果物のフレッシュな香りがしたり、御菓子・ケーキの甘い香りに、おさかな・お肉・店の人。搗たてのお餅・蒸した。おまんじゅう・炊きたてご飯で手作りお結び。アツアツの弁当・そして、忘れてはならない, “仙台名物笹かまぼこと牛タン"の作りたて、【生ツバを飲み込み。ヨダレが出ましたが、】これを持ち帰る事は,出来ませんので、牛タンの“ふりかけを1瓶。"土産に買いました。 そして,豆乳と果汁をミックスして拵えた。アイスクリームを食べましたが、〈余りの美味しさに〉
 ペロリと2たっも食べました。 店の隅から隅まで“うまいもん市”を見て回っていたら。 16時を過ぎましたので慌ててタクシーを呼び。 東口2号館の東横INのホテルまで帰って来ました。途中、楽天Kスタ宮城の《野球のチケット求めに行ったのですが,売り切れでありませんでした。》仕方がない、 〈残念ですが、見る機会は,あります。〉と諦めました。20分後ホテルに帰り、お風呂に入ります。2時間かかりましたが、なんとか1人で入浴する事が出来ました。《ああ、サッパリした。》 明日は,旅の8日目。 本州の果て青森県まで車椅子で行こうと思います。          今日は、少し早めに休みます。  4月の17日は、定番どうり、朝6時に眼が覚めました。今日も元気にがんばろう。大きな声で、【ファイト。1パーツ!】9時頃ホテルのフロントで精算をして、
 【朝食をどうぞ、】と、言われたので,食堂に行くと。50センチほど,低い場所にあり、お姉さんがボーイさん2人で車椅子ごと降ろしてくれ、食事を採る事が出来ました。 今日はパン食です。《トーストにココア。スクランブルエッグ》 食べ物を眼にすると、お腹がグーグー泣きます。《かぶりついて食べていると,親子連れが側へ来て。お手伝いしてくれました。》車椅子で独り,日本各地を旅している事や、今回。東北の震災で津波の被害を受けた場所を自分の眼で見たい、《なにも出来ないけど、》自分の眼で見てお見舞いを言って、津波で亡くなられた人達に、献花したい、それが私に出来る。支援であり、応援の気持ちです。と訳を話しました。》
 喜んでくれて、何度も感謝され、 【ありがとう。不自由なお体で車椅子のあなたが来られた事は、私達忘れませんよ。この旅で出会う総ての人が証人です。【あなたは,ステキな事をなさったのですよ。】と感謝されました。【そんなオーバーな献花したり,励ます事が目的でしたが、】震災で家や家族を亡くされた悲しみ。狂しい思い、悔しい思い、不幸な体験をしても負けないで、  明日に向かって生きる強さを、人の素晴らしさを教わりました。 漁師のおじさんは、《余りの悲しみに,明るく生きる事しか出来ない、》と話してくれましたが、被災された人達から。 
 震災に遭われた人達から。私は,凄い力と勇気を貰いました。人は,凄いです。強いです。特に本当の悲しみの極限を体験した人達に、沢山の感動と力を貰いました。と、話すと、おばさん鼻水を流しながら泣いてくれました。吹き出しながら。 《私、人を泣かすような事したのかナー。》 夢中で話していると、列車の時間が来ました。 急ぎます。  お礼を告げて駅に向かおうとする私に、側にいた人が、【私達も駅に行きますから。】と車椅子を押してくれました。【私達は,これから郡山まで行きますけど、お気をつけて、それじゃーお元気で、】【ありがとうございました。私は,これから青森まで向かいます。】と別れて青森行きの新幹線改札口へ向かいます。【すんません。次の青森行きに乗りたいんですけど、】と言うと【まだ。列車が来るまで20分以上ありますから。ここでお待ち下さい。時間が来たら。お迎えにまいります。】【お願いします。】と周りを見ていました。 すると、黒いスーツ姿の団体。《私は、何事なのかナー。お葬式か、礼服を着るような集まりがあったようです。》紳士の人から身なりのサッパリした女の人・学生。 それと大きな荷物を背負ったり,さげたりして忙しそうな人ばかり見かけます。 《こうしてみんな生活しているのだと感心して見てました。》 すると後ろから突然女の人が来て、
 【1人で旅行してんの、どこから来て、何処へ行くの?】と聞かれました。私はビックリして、【兵庫県から来て、東京・福島・仙台・岩手・青森・京都と10日間の独り旅をしています。】【へーェ。強行で凄いわね。私、そう言う障害者って好きよ。頑張りなさい、】と言って通り過ぎました。【何だ。あの女は、???!】すると、駅員さんが迎えに来ました。【お客さん3番ホームです。ご案内します。】と車椅子を押して列車に乗せてくれました。
【お気を付けて良い旅を、、。】【ありがとうございました。】とお礼を言って別れて、10分程。 東北新幹線(はやて)の窓から外を見ていると、【ここ,席空いてる。】と私の前の席に、女の人が強制的に座りこんで来ました。ビックリしていると、 【私、『全国うまいもん専科』と言う雑誌の編集兼カメラマンをしている。Uと言います。知らないでしょう?地方紙だからね。
 いろんな。お店に、お邪魔して、 食べて・味見をして。 そのお店の雰囲気・そのお店の名物料理や・お店の紹介をする。雑誌なんだけど、あなた全国旅をしていて、美味しかったお店や車椅子でいやがられたお店とかイヤな経験をした事があれば,教えてくんない、】と聞いて来ました。   〈変な人と思いました。〉
そうですね。【良く私の車椅子姿を見て、私どもの店は、エレベーターもスロープもなく、障害者の方の御利用は,出来ませんと、言われます。】見てくれでの判断それが一番イヤですね。
私達、ハンデイを持った者も,初めて入る店には、【車椅子ですが入れますかと、お聞きしてから。】入りまが、車椅子を見ただけで、【障害者の方は,利用出来ません。】と決めつけらられる事。それが一番イヤです。辛いです。・悲しいです。・悔しいです。  私達障害者は,見てくれで判断される事が、一番辛い事です。私は,??????。
【あなた,それで良いの、差別をするのかと腹を立てないの、怒らないの、???】【だって、狭くて車椅子が入れない店に、無理に入れば,自分が困ります。食事も美味しく食べられません。 私は,車椅子で入れる店を探します。それは,普通の事でしょう。】  例えば、《車椅子や老人・妊婦・体が不自由な人達が利用出来る店。》 
 そんなお店を紹介する。雑誌・チラシや情報が解たら。。、不自由な私達やお年寄りの人達も行けます。
 毎日がダメなら。第1と第3の水曜と土曜日。 午前中は、車椅子や老人・子供・幼児や赤ちゃんを連れたママ達。弱者の人も気さくに利用が出来ると思います。
 そんなお店や憩いの場があれば、そんな情報が欲しいです。 そんな情報が解れば、、、
 なるほどと、言いながらメモ書きをしていました。
1、車椅子で入れる事を教える。
2、車椅子の人達が街を通行していて気軽に入る。事が 出来る店。
3、情報が欲しい、         
ありがとう。参考にします。 やはり。不自由な私達が,外に出て利用して周りの人に生きている姿。生活している姿。を見せなければダメだと思います。
 《例えば、お店の入り口が狭くて車椅子が入れません。入れます。・お手伝い出来ます。出来ません等解れば、、、》店の前に説明書きをするだけで良いです。  そして席を広めにする。【車椅子が動きやすいように、】 お客さんや店で働く人に,お手伝いの理解と配慮を心懸けてもらう。【それが店の売りになります。サービスです。】初めは,普通のお客さんは減るかも知れませんが、車椅子のお客さんは,増えると思います。
 その人達には,友達・家族・付き添いもいます。 噂は、噂を呼びその店は有名になると思います。  町に、地域に町に広まり、こんなお店があれば、【行こうと思いませんか、】お客さん増えます。集まります。困っている人は,安心する。寂しい人は,微笑みが、 不幸な人が,幸せになれるような場所。お店があれば、【そう思いませんか、】と、私は,自分に言語障害があるのも忘れて、私は、興奮しながら一生懸命に熱弁していました。 
 すると、【興奮しないで話して、言葉が早すぎて良く分からないから。】【ごめんなさい。自分では,分からないもので、】【あなたでも,興奮するのね。安心したわ。】【それ。どう言う意味ですか?、】【考えておくわ。貴重な意見をありがとう。】【今、日本の主な観光地や施設・ホテルは、整備されていて、バリヤフリーが当たり前になりましたから。 車椅子の私でも旅が出来ます。  本当に日本は、土地柄も人情も最高の国です。大袈裟ですが日本は、本当に良い国ですよ。】 【あなたぐらいよ。そんな考え方が出来るのは、】【人に,頼まないと何も出来ない私が旅をしてそう感じるのですから。間違いないですよ。】【そう言えば,外国の人が言っていたけど、震災や津波・災害。大きな事件が起きたのに、略奪や盗難・暴動もなくて、家族も家も食べる物さえない人達が自分よりも隣人のことを遣い、助けている。『ジパングは,サムライだと。』と日本人は,一番だ。見習わなければと、 全世界にネット配信されたとか、本当に日本人は凄いそうよ。】【外国の人の方が分かっているんですね。日本で暮らす外人さんは,特別な人ですが、 健常者ばかりの中で車椅子で独り旅をしている。私は,変な人なのです。でも、旅は楽しいですよ。出会う人達は,みんな親切です。いろんな人に会えるから。車椅子で旅が出来ます。】『自分が主人公になれますから。』 Uさんが突然泣き出しました。
 【どうかされたのですか,?】【ごめんなさい。車椅子のあなたが、旅している姿を想像したら涙が出て来た。】【私は、女の人を泣かす。 そうか、感動したのですね。私の話に?!】笑う。【感動しました。あなたの生き方・考え方に、。】【ありがとうございます。私は,女の人を泣かせてしまいました。悪いヤツです。スンマセン。】と誤り、別れましたが、旅は、こんな出会いや触れ合い、いろんな事があるから。1人旅が、止められません。 【施設に居たら。解らない事が体験出来ますから。】 Uさんと別れて、新青森駅に向かいます。
 列車の窓から津軽の景色を眺めていました。 暫くして、列車の中をドタドタと子供達が5・6人。走って列車に乗り込んで来ました。《3才から5才ぐらいの男の子2人と女の子3人の計5人です。》私の隣の席が空いているのを見つけて、【ここ空いてるよ。】と子供達が5人。後ろから保護者がゾロゾロと乗り込んで来ました。《列車の中は,保育園で、保護者参観日。遠足みたいです。》1人のお母さんが、私を見つけ、【にぎやかに,うるさくして、ごめんなさい。】 もう1人の母親も私に気づいて、【うるさくして、すみません。あなた達、おじさんに謝りなさい。】と、言うと子ども達も、他のお母さん達も【おじさんごめんなさい。】と、謝って来ました。【良いよ。小さい子供は,元気で可愛いナー。年は、何才。】
 と聞くと、子ども達が皆、手を上げて指を3本差し上げて年を教てくれました。 中の1人の子供が私の車椅子を見つけて、【この車椅子おじちゃん乗るの、おじちゃん足が痛いの、歩けないのー、】と、聞いてきましたので、【おじさん歩けないし,手も使えないんだよ。】〈おかあさん達は,子供達が大変な事を聞いたと、変な顔して覗込んでいます。〉【この車椅子は、おじさんの足なんだ。】【どうして、おっちゃん足。あるじゃーないか、】【足があるけど、歩けないから。車椅子に乗って歩いているんだよ。】考えて、【おじちゃん楽ちんだね。】【楽ちんじゃーないよ。階段あがれないし、滑り台にも上れない,急いでも走る事が出来ないんだよ。】【そうか,可哀想だね。】と1人の女の子が言うと、他の子供達も真剣に考えてくれました。【ドラえもんに頼みなさいとか、ノーベル賞を貰った博士に頼みなさい、ロボットを雇なさい。子共達が真剣に考えてくれました。】 そして、考えて出た答は,順番を決めてみんなでお手伝いすれば良いんだよ。】と言う事になりました。【初め変な事を聞かないかと、心配していたママ達も子供の意見に感心していました。】《私は,嬉しくなりました。》 今度は、ママ達です。車椅子旅行中と書いた。ワッペンを見て、【あのー、車椅子で御旅行されてるのですか、スゴイ。】【凄くないですよ。みなさんに、お世話になり、私に関わる総ての人達に迷惑を賭けています。唯の自己満足です。】
 【障害をお持ちで自分の事が出来なくても自己満足?。やっぱり考え方もどこか違います。】【そうですか、深く,考えていませんから。】 
 私の側にみんな集まり,列車の中は、大騒ぎで大変です。【人気者になったようです。】側で聞いていた。 ばあちゃんが、【おめーエ、日本中さ旅してんのケーエ、クンマイスで、タマゲタデヤー、】《日本全国を旅しているのですか、車椅子で、ビックリしました。》東北弁ですが、私には,分かりませけど、あいづちを打ちます。【まわりの人達が助けてくれますから。何処でも行けるのです。】【己で,歩けねっし、飯さ、己で、食えねぇのに。どうすんだ。おめェ。】と津軽弁で聞いてくれました。【車椅子に乗れば,何処でも行けます。ご飯は,テーブルの上に置いて貰えば自分で食べられます。それに,周の人達が皆、親切にしてくれますから。】【んやーェ。あんだ。『オシラ様』見てぇな人だョ。】【誰ですか,その人は,】と聞くと、横にいた。おかあさんが、【この地域に,昔から言い伝えのある。偉い神様です。】と教わり、【そんな、私は,偉くもないです。】と言いながらも嬉しくなりました。 お母さん達とも,子供達とも仲良くなり、今まで全国を旅した話。 そこで感じた事、楽しかった事、苦しかった事、悔しい事や悲しい出来事、旅で体験した事をいろいろ話すと、興味を持ってくれまして、みんな順繰りに質問して来ました。【列車の中は,小さな懇談会となりました。先生は,勿論私です。】そんな事まで聞くの、と言うような質問も飛び出して、私も熱弁になりました。【自分が障害者だと知った時の気持ちは、から始まり,どうして,ご不自由で車椅子なのに旅行をしたいと思ったのですか、自分で食べる事も,歩く事も出来ないのに、何故,旅行したいと思ったのですか、】 そして最後は,話しが飛躍して、車椅子で世界一周旅行から。ロケットに乗り宇宙に単独旅行する話まで盛り上がりました。   
すると、車内放送で【新青森ー。新青森ー。降り口は、左側です。お忘れ物のないように降りて下さい。】と放送があり、 みんな列車を降りました。 今日の泊まりは、駅の前に建つ東横INだと言うとホテルまで全員が付いて来ました。今夜の宿、東横INホテルは,新青森駅の真ん前にあるので、玄関ロビーまで付いて来ました。ここの『ハートフル・ルーム障害を持った人や高齢者の人が優先に宿泊が出来る。バス・トイレ付きの部屋です。』と説明するとみんなビックリしていました。
 部屋に荷物を置いて。近くの喫茶店に行くと言うと,みんな付いて来ました。 《アナタ達は,ヒマなのですか、?喫茶店は,喜んでいますよ。》 私は、自分の食べたい物を注文して食べました。 食べている姿を皆がジーッと見てましたが、お構いなしに、私は,コーヒーを飲む。口に銜えたスプーンで砂糖を入れたり、コーヒーを別のスプーンでかき混ぜ、ストローを口に銜えて,カップに差し込んで、熱いので,フーフーしながら飲みます。デザートのケーキが来ました。スプーンを口に銜えて手頃な大きさに斬り、かぶりつきます。おしぼりは横に置き、時々顔を拭きます。
 その姿をジッーと不思議そうに見ていましたが、【なるほど、なんでも出来ますね。これなら何処でも行けますね。凄い、凄い、】と感心していました。  
今晩泊まる。ホテル横の喫茶店でガヤガヤと20分ほど店にタムロしていましたが、【ありがとうおじさん気をつけて元気で,又,何処かで会いましよう。メール送るよと、ひとり・ひとりと握手をして別れましたが、中には泣き出すママもいて,もう大変でした。】新青森での宿。東横inは,新青森駅から。道を挟んで100メートルもありません。 車椅子を漕いで独り、フロントに行き、【今日と明日の2泊お世話になります。兵庫県の森下と申します。】が【承っております。】と、部屋に案内してくれて】【本日と明日の2泊でお伺いしております。】【お世話になりますが宜しくお願いします。】《ここのフロントの人。可愛い、娘だナーと、独り言。》 案内された部屋は,車椅子のまま利用が出来る。ここもフロントの側にある。バス・トイレ付きの個室です。【この部屋なら。1人で何とか入浴出来る。立ち便器でないのが不満だけど、???時間をかければ,自分でトイレも出来ます。食事もお腹が空いたら。コンビニで買って来て食べる事が出来ます。】だから【ホテルの近くにあります。】自分の旅です。【自分の好きに出来るから。・食べたい物を食べたい時に、食べられます。団体生活をしていますから。1人の旅は、息抜きになります。】
 今晩は,ゆっくり風呂に入り、ピンク・ビデオを鑑賞します。
 廊下で同じ階に宿泊している。男の人に頼み。【有料テレビのプリケーカードと缶ビールとお摘みを自動販売機で買うのをお手伝いして貰い。部屋まで送ってもらいました。 部屋の中に入り、買って来た物をテーブルに並べてもらいました。
【1人?付き添いさんは、いないの?】と聞かれたので、【独り旅です。】と言うと、【俺も独り旅だよ。後で遊びに来ても良いかナー、】と聞かれたので、【良いですよ。大歓迎です。でも、私,これからお風呂に入りますので,2時間後は、どうですか、】【俺も,用事を済ませてから。2時間後にお邪魔するよ。何か欲しい物があれば?、】【なにもいりませんが、お酒が足りないかも、】と言うと、了解と出て行きました。  こんな人がいる。  こんな出会いがあるから。独り旅は、楽しいのです いろんな人に会えるから。、、、早速、浴槽にお湯を張り、その間に服を脱ぎます。手の届く足や下半身は,何とか洗えますが、背中は,浴槽の縁に,石鹸を付けたタオルを垂らして、そこに,体を擦り付けて洗います。頭は,座れば時間かかりますが、なんとか自分で洗えます。『私の入浴の仕方ですが、』  《必要ないですか、失礼。》 
 お風呂から上がって着替えが終わると、合計1時間20分経過していました。 部屋でくつろいでテレビを見ながら缶ビールを飲んでいると、ドアをノックする音がしました。 《来た。》 【お入り下さい。お待ちしていました。】と言うと【お邪魔します。これ,お土産と、】缶ビールとおつまみをテーブルにどっさり並べました。 【凄い,こんなに飲めないし,食べられません。】と言うと【残ったら。俺が後で持ち帰るよ。まだ長いから。】【長いって、何処からいらっしゃったのですか、】仕事で、【大分県から。深海の生物の調査に4週間の出張で来たんだ。だから。夜は退屈で、、、】と話してくれました。 【申し遅れましたが、私は,兵庫県から。東北の震災で亡くなられた人達に献花とお見舞いに来ました。  その帰り、青森にお邪魔しています。】【1人。車椅子で、《敬礼して、》ご苦労様です。犠牲者になり変わり,御礼を申し上げます。】と言って喜んでくれました。  2人で乾杯しました。これで2人は、友達です。しばし食べて飲んで話して午後11時が過ぎ約束のピンク・ビデオを2人で観賞しました。期待と興奮の連続です。2人共。『眼』をギンギン・ギラギラさせて、かぶりつきで見ていました。これが40分・1時間続くとイヤになります。気持ち悪くなります。人間ってこんな事??、私もこうして??、あの誠実で偉い男の人も、、、あの清楚で綺麗な女の人も、こんな事をするんだ。
 自暴自棄になり、罪悪感さえ感じて来ました。私だけではなく、どうやら。彼も同じ事を感じたようです。 それじゃー。明日、【朝,早いから。帰るわ、】【気をつけて、明日は,まだ。ここに宿泊しています。明日の夜も宜しくです。】【そうか、明日も1日いるんだったナー。何処に行きたい場所を考えておきなさい。遊びに行こう、】【分かりました。宜しくお願いします。】と言って別れました。時計を見ると、夜中の2時を過ぎていました。ベッドに潜込み。知らぬ間に寝てしまいました。翌日。眼を覚ますと9時過ぎです。1階の食堂でモーニングを食べます。ウエイトレスのお姉さん《おばさん》?にテーブルまで運んでもらい、トーストを頂きました。午前11時過ぎまでそこにいましたが、ブラーと近くを散歩してみました。そこは,綺麗な場所です。
 冬は、雪が多いようで、雪が少なければ車椅子でも生活出来ると思います。 広い道路の両脇には、広い歩道が整備されていて、歩道こは、お店屋さんが沢山並んでいます。曲がり角にある店は,漬物屋さんです。扉が開いているので、お邪魔して中に入ります。いろんな漬け物があります。〈暇でした。数えてみると、〉計。68種類。【リンゴも漬け物になるのですね。】大根は,もちろんで蕗や薇・バナナ・トマトまで漬物がありました。商品を珍しそうに見ていると、
 店の奥から主人が出て来て、【変わった物さ、押さえ込んであんべーェ。】津軽弁です。〈いろんな物を漬けているでしょ。〉 津軽弁、始めは、分かりませんでしたが、《言葉の感じで判断しますと、》40分ほど主人と話して、感じで理解出来ました。
 御主人が教えてくれました。【儂の店は、《230年ほど続く店だ。》大昔。東北一帯を大寒波が村を襲い、2年から4年そこでは、作物が採れません。飢餓に村は、消滅。家族は、食べる為に娘を息子を売り、おとうは、出稼ぎ。おかあも町に働きと、残った村には子供と老人ばかり、 この地域で食物が何年も栽培出来ずに、悩んでいた時。  お百姓さんが前年度から。蓄ていた大根やニンジン。その他の野菜や肉・魚など。を漬けて保存して食料が無い時でも 食べられるようにと考えた。それが、保存食。漬け物の始まりです。】と40分余り、ご主人の説明を聞いていましたが、商品を見て回り、一口サイズの茄子の漬け物を見つけて買い求めました。
《私は,なすびに、目が無いのです。》青森のお土産に買い求めました。 帰り又、コンビニを見つけて入ろうとするのですが、30センチ以上の高い階段があり。車椅子では,無理です。困っていると、【オイちゃん助けよか,入れんね。】と男の子が車椅子を持ち上げて中に入れてくれました。
 私は,凄うれしくて、何度もありがとう。ありがとう。と、御礼を言いました。 本当に嬉しかったです。【オイちゃんそげェに礼せんでェェ。オラアデケルケイ、】私には,津軽の方言は、分かりませんでしたが、言葉の感じで理解出来ました。
 どこか温かくて、優しい、津軽弁です。 コンビニの中でも他の人達が《取れない,私に》商品を取って,見せてくれたり、違う子がカゴをぶら下げて車椅子を押して付いて来てくれたり、《それも若い子達が?、こんな若者もいるなら。未来の日本は,心配いらないですよ。》 暫く買い物をして、慣ない道を汗かきながら。ホテルに戻りました。 フロントの綺麗なお姉さんに、【ただいま、ここは,近くに沢山のお店があるのですね。】【お帰りなさいませ。】と笑顔で迎えられ、部屋に入ります。まだ午後2時過ぎです。買って来た。アイスクリームを食べながらテレビを見て、一休みです。《寝てました。》 眼を覚まし時計を見ると、午後の6時前です。 
部屋を出てホテルの玄関に行くと、 受付カウンター。斜め左側の広いスペースに、津軽の暮らしと題して、 明治の初めから。現在までの庶民の暮らしと言う題で写真が展示してあるのを見つけて1枚・1枚を食い入るように、見ていました。《厳しく寒い吹雪・嵐の中を。漁を終えた。
 船が大漁で冬の薄暗い夜明け頃には、港に戻ります。地元の人、女も子供も冷たく凍える手に息を吐きかけながら働ている写真を覧て、それを想像したら。 私は、涙が溢れて来ました。 土地で生きて行く厳しさを感じました。【写真。】を見ると、大量の雪に埋もれた町。春まで孤立した村。 
 雪国の里や村の古い写真を見ていると、春まで人が、足を踏み入れない為に、閉ざされた里や雪に埋もれた村。と言うイメージですが、  見ていて私は、温かい家族愛。人の繋がり。人か人を気遣う。誰かが誰かを思いやると言う。人間の原点の姿が写真で展示してあります。その写真から。人の強さ。生きる事の素晴らしさを覗き見た気がしました。 《私だけでしょうか、》   午後7時過ぎ。昨夜。この宿で、出会った。Iさんが仕事から帰って来ました。【お帰りなさい。お待ちしていました。】【さあ,これから。食事に行う。場所は、俺に任せて、】【ご馳走になりますから。何処へでも行きます。】夕べは、【酔てたから。聞いてないかと心配してた。】と言うとタクシーに2人で乗り込み。20分ぐらい走ると着きました。 そこは、入り口が2間ぐらいの『さいはて』と言う小さなお店でした。その店は、お酒が飲めて地元の家庭料理が食べられる店でした。女将さんが綺麗で優しそうな人で《若い時の五月みどりと言う感じ》他に,2人女の子がいましたが、2人共。素朴で明るく,綺麗と言うより、可愛い娘達でした。
 タレントに例えると、《柳原加奈子と藤山直美,》のような2人で、女将さんは、秋田出身だそうで、名物の“きりたんぽ鍋"をご馳走してくれました。『これが話しに聞く,あの秋田名物。“きりたんぽ"ですか、?』美味しかったです。《初めて食べる事が出来ました。》味噌とお醤油の甘い味でいろんな野菜が入り、竹輪のように輪切りにした。 お餅入りで甘辛く,暫くすると体がポカ・ポカ暖まって来ました。【アラー、お酒飲んだ。??。】【いえ,綺麗なお姉さん
 が側にいるから。アガッテいますす。】 食べて飲んだら。 カラオケを歌います。私は、【言語障害があるからと、お断りしたのですが、】無理矢理ママさんと,デュットで♪『銀座の恋の物語』♪を歌う事が出来ました。みんなで順繰にマイクを回し歌いましたが、女将さんが歌う。『石狩挽歌』と言う歌を聴いて、私は,思わず?。
 何故か?、涙が溢れて止まりませんでした。歌が上手い。!それもありますが、  厳しく・寒い土地に暮らして、 大漁の時には,村の漁師や地域の人達全員が集まり大漁を喜ぶ。《そんな歌詞が歌の中に出て来ますが、》そんな場面が脳裏に浮かび涙を流してしまいました。【私,性格が単純ですんません。】と言うと、女将さんが,【おらの歌で感動しただべか、】〈私の歌で感動してくれたのですか,〉【そうです。女将さんの歌に,感動しました。】と言うと
 【アンれー嬉しやおめーえだけし、】〈本当に嬉しい、貴方だけです。〉津軽弁。何故かなつかしいです。心が温かくなりす。3時間余り、食べて飲んで騒いで、歌った。 楽しい時間は,終わりました。〈つかの間の夢か、〉 10時過ぎ店の人やそこで出会った。お客さんの1人・1人と握手をして、そこを後にしました。《慰問に来た。何処かの芸能人になったようです。》タクシーで東横INに帰ると、11時を過ぎていました。 Iさんに【楽しい時間と出会いをありがとうございました。】【僕の方も楽しかったよ。ありがとう。】明日の朝早いから。と連絡先の交換をして、又,【出かける時は,連絡をしますので、時間を合わせて下さい。遊びましょうと、別れました。】 《その日から。メール交換しています。》部屋に戻り、今日1日。出会った人や触れ合った人を思い出しながら。眠りにつきました。
 翌日。4月20日。今日もam6:00時に目覚めて、今日は、東北に¨さよなら"します。『最初の予定では,青森駅からー東京まで《東北新幹線はやぶさ》に乗れば食事つきで、綺麗な女の車掌さんが面倒を見てくれる。』と、聞いていたので、〈秘かな期待をしていました。〉 乗車券を確かめてみると、《期待はずれ、》同じ東北新幹線でも《はやぶさ》では,無く《はやて》でした。 乗車券の交換は、出来ませんか、と窓口へ行きましたが、空席は,ありませんでした。
 東京か大阪で乗り換える。と思っていたら。 乗車券頼んだ人に、京都まで行くとスケジュールに書いてたので、京都行きが、《はやて》なので、その乗車券を用意してくれていました。 【ありがとう。】早い、青森から6時間30分で京都に着きました。
 私は、水を得た魚のように、車椅子で京都駅のデパート商店街車椅子でウロ・ウロして、先ず、食堂を見つけて食事をします。 かき揚げうどんを食べました。 デパートの中でもみんなが声かけて来ます。【お手伝いしましょうか、車椅子で御旅行は,大変ですね。】とか,【まあ,スゴイ東北まで独り車椅子で、私達には,行けませんわ。】と多くの人が言いますが、反対に,ある人に言われた言葉が私の胸でモヤ・モヤしています。【旅に,行けるほど、年金が貰えるのか、税金を納てる。俺達は,生活するのが精一杯で旅行なんか行けない、 納めていない、 お前達は、旅行が出来るのか、】と、叱れましたが、「私もそう思います。申し訳ないです。」 でも,これだけは,言わせて下さい。 『私、施設で,生活しています。 年金。2ヶ月で162,500円で食費。1日1,500円×30=電熱費1月10,000円。医療費1割負担ですが、保険料と電話料金+プロバイザー料。その他の経費を引いて、1万円づつ積み立てをして、そのお金で2年に1度か3年に1度。旅行に出かける費用にしていますが、普段使う物、下着・衣類からイソジン液までネットのオークションで落札して、なるべく安い品物を購入しいます。【自分で言うのもヘンですが生活は,苦しいですよ。】年金で贅沢など,出来ませんよ。【でも,年金で何度も旅してるじゃないか、?】と言われますが、【普段は,始末して生活を切りつめて,旅に出た時に使う。】それが私の考え方ですが、、人,それぞれに違います。自分に,頂いたお金です。自分の思うように使う。それで良いのでは、??私の生活している施設でも夕食にお寿司の出前を頼み食べている人もいます。1カ月毎日,朝昼晩3度ずつ,ご飯の後に缶コーヒーを飲む人。外に出るのが楽しみで買い物に毎月出かけている人。私は,お金を独り旅に使うためコンビニの安いお寿司かお弁当を買って食べています。【たまには,即席ラーメンとか焼きそばを食べますが、ネットでまとめて買います。】
 私に,もらえる年金の範囲での話です。?
大きな声で言いますが、私には,貯金なんか,そんなものありませんけど、友達の中には,800万以上も貯金している人もいます。『それも年金を貯めてですよ。 私には,考えられません。』 
 自分に頂ける。お金です。自分で考え自分が欲しい物や、やりたい事に使う事。それが理想ではないでしょうか、 今晩のホテル〈サンルート京都〉に行くには,まだ早いから。暫く駅のデパート内をブラ・ブラしていると、見知らぬ女の人が、 私の後を付いて来ます。  少しスピードを出して、早歩きをすると、《私の車椅子は,足で漕ぎ進みます。》 その人も走り出して、まだ付いて来ます。 《気持ち悪いので、》 
 ワザと店の奥の方に入り、商品を探す。“ふり"をして、商品の陰から覘いて見ていると、その女の人もキョロ・キョロと私を捜しているようです。
私は、その女の人の前に飛び出し、【何か私に,用事ですかと聞きました。】すると【車椅子で,お一人で行動しておられるので、心配で、、、、。】【ありがとうございます。大丈夫です。】【何処からいらしたのですか、】【兵庫県から旅して、東京で友達と遊び。震災で大変な被害を受けられた。東北の4県を自分の眼で見る事と津波で亡くなられた人達に献花をして,お見舞いをして来ました。】【すると突然、泣き出しました。】私は,ビックリして、【どうかされたのですか、】と聞くと、【失礼ですが、そんな体で、まして車椅子で被災地まで1人で行かれるなんて、身内の方が災害で亡くなられたのですか、】【身内。知り合いの1人が被災者ですが、大丈夫でした。】
 【でも、南三陸町やその他。今回の災害の犠牲で亡くなれた人達に、献花したり、津波を受けた場所を自分の眼で見て見たい、それだけです。】【大変では,なかったですか、被災地をお1人で、それも車椅子で行くは、】【友達が一緒に行ってくれましたから。楽しい旅でした。】【友達の方も良い方なのでしょう。あなたの感じから想像出来ます。】【本当にありがたいです。今回の旅行も友人が一緒に行ってくれたから。三陸町まで行き、献花する事が出来ました。】感謝しています。今回の旅でもいろんな場所のいろんな人達に、お世話になりました。【あなたが良い人だからです。《神様は,ご命令されています。その人に、お手伝いをしなさい、》
 とだから天命なのです。】今話している場所は、通路なので,近くの喫茶店を見つけてお茶を飲みます。【あなたは、どちらの方ですか、】と聞くと、【宇治市と言う所に住み。茶道と華道を地元で教えて、25年になります。昨日,教え子の結婚式に行っての帰りです。】と話してくれました。 【私、まだ。お昼ご飯を食べてないので、食事をしたいと思います。】と言うと、【お付き合いしてくれました。】【口だけで食べている。私を見て、】【ふーん。これだから。どこでも行けて,旅行が出来るのですね。】【時間をかければ、何とか生きて行けますが、出来ない事も沢山あります。】【あなたなら。お手伝いする人がいるでしょう。ほうっておけない、手伝たくなる。そんな風貌ですよ。あなたは、】【そうですか、呼んでも頼んでも。顔見るだけで、聞こえないふりをして逃げて行く人もいますよ。】【マア。そんな人がいますか、】【いますよ。】【バチ、当たりな。】【イヤな事を言う人や冷たい感じの人の方が結構良くしてくれます。】【そうですか、あなたの人柄ですよ。それじゃ-、私は、失礼しますけど、お元気で良い旅を、】と別れました。【なんだ。あのおばはんは、?】この後,タクシーを呼んで宿に行きます。 駅前で客待ちをしている。タクシーに近づき【すんません。と、タクシーに乗り、ホテルサンルートまでお願いします。】
 と宿に向かいます。車椅子でホテルのカウンターに行き。【先日、ネットで申し込みをしました。兵庫県の森下と言います。今晩お世話になります。宜しく。】とチェックイン。 部屋は、4階でした。部屋を説明しますと、この部屋は,普通の部屋です。車椅子では,移動出来ませんので、【床に降りて移動します。】やはり,風呂場とトイレが一緒の部屋で、奥にベッドと椅子・机があり,床には、ガラスのテーブルと冷蔵庫があります。 【冷蔵庫の中は,空っぽです。この頃のホテルの冷蔵庫には、冷凍室が無い為、《私の秘かな楽しみである。アイスクリームを食べる事が出来ません。青森に宿泊した時にホテルの冷蔵庫に入れて置いて,朝。食べようと見ると、溶けて食べる事が出来ませんでした。》又、近くのコンビニに出かけ、どっさり食料を買って、大きな荷物をぶらさげて帰って来ましたが、〈コンビニの店内でもホテルに戻る道中でも,車椅子を押す人もいない、重たい荷物を持ちましょうか、と声かける人もいません。〉 店は、入りやすく。自動ドアーで段差もありません。道路も広くて歩道が整備されていて車椅子でも簡単に走れます。 『でも,何かが?何処かが?違うのです。お年寄りも子供も体の不自由な私も町に出て参加して健常者の中で当たり前に生きる事が出来ます。でも,町が便利になり、車椅子で外に出たり、障害者が外に出る事が,普通になって良い時代、嬉しい事ですが、なんか寂しい気持ちになります。周りが無関心で、人を思う気持ちの無い現実を知らされました。』
私達にも責任がある事を反省しなければと思います。私達,ハンデイを持った者は、不自由な自分やカッコ悪い自分をさらけ出して、生きる事が必要なのかも、、、
 【何年か前になりますが、ある障害者の人が、【僕は、世間の人にカッコ悪い事や不自由な自分は、見せたくない、】と自分のポリシーを持っていましたが、
 周りの人から見れば,何も出来ない、可哀想な障害者なのです。《自分で出来るのに、人に頼むのは,ダメですが、》周りの人達に頼まないと出来ない事が沢山あります。《数え切れないほど、》勇気を出して、出来ない事は出来ないから。《お願いします。》と人に頼み助けてもらう事も障害者に出来る社会参加だと、私は,思います。《自分が心を開かなければ,周りの人も近ずいて来てくれませんから。》 最初は,私も【お願いします。助けての一言、が言えませんでした。】それが、言えるようになるのも社会参加だと思います。
午後6時過ぎ。仕事が終わった友達が訪ねて来ました。 久しぶりの再会です。懐しい,【メールでは,毎日のように話していても、実際に会うのは5年ぶりです。嬉さと懐しさに,思わずハグして、頬ずりしました。《男同士。気持ち悪い、私もそう思いますが、久しぶりで会えた嬉さに我を忘れてしまいました。》 部屋で時間の経つのを忘れて、話していたら。 夜の7時前です。《腹減ったー、何か食べよう。》と2人で2階の食堂に行きました。先ず。何年かぶりの再会を祝して乾杯しました。
 今回の旅の目的から。津波の悲惨な現状を見て感じた事や感動した事。家族を亡くしたり、家を無くして、大変な筈なのに、私を気遣い、【東北まで、車椅子でよく来てくれた。】と手を握り、涙を流し迎えてくれた。おじさんもいましたが、 被災者への応援・励ましに出かけた私が、反対に、応援されて・助けられて・励まされて、『勇気と言う利息』まで貰って帰って来ました。と話すと、【良い旅をして来たよなー、車椅子でチョロ・チョロしてすれ違う人達に、声をかけている。オッさんの姿が目に浮かぶよ。俺との出会い,も憶てるかい、】【憶ています。24年前。初めての旅で四国に旅しての帰り、瀬戸大橋経由で岡山郵便貯金会館に宿泊した時です。】【車椅子で変な障害者のオッさんが、近づいて来て、  夜勤空けの俺に、タバコに火を点けてくれと、】近づいて来たんだっけ、【ビックリして、思わず自分でタバコに火を点ける事が出来ないなら。タバコなんか吸うなと、】叫んだんだ。《あの時は,ゴメンなー。》【あのぐらい、しなければ、何も出来ません。外なんか出れらませんよ。でも、あの時,タバコまでくれて火を点けてくれました。】【付きまとい,うるさいから。点けてやったんだよ。】【あれから。仲良くして頂き感謝をしています。今回もありがとうございます。】【まあいいよ。でも,今回はゴメンな。休めない仕事が出来て、和田山まで行き。《身体障害者支援施設真生園》で、
 ボランティアもお手伝いも出来ないけど、外に出てくる時は,声かけてくれよ。俺に、出来る事があれば、】  今回、初めて会ってから。25年で,お会いするのは、今日が4回目です。【確か、広島と長崎の時に始めて会い、  3年前は、京都。6年前は、山口県の萩。12年前はに、東京の後楽園と今回の旅です。】【いろんな場所に行ったよなー。園に行き、お手伝いは、出来ないけど。君が外に出て来る時は、声をかけてよ。俺も会いたいから。】 明日は仕事だと聞き、 帰ってもらいましたが、勤める会社の帰りに、岡山県から。 はるばる私の顔見に来てくれました。【嬉しいです。】知らない人・初対面で初めて出会った人。旅をしていると、誰とでも仲良くなれます。     〈それが私の自慢です。〉
《昔は,騙された事もお金を盗まれた事もありましたが、》これも経験でしようか、 現在では,大丈夫だと、信じて財布を渡して支払いをお願いしています。 
 明日は、京都東山にある。『霊山歴史館』と『霊山護国神社』を参拝し見学に行きます。明日は、仕事だと、友達と別れた。時間は、深夜の0:00時を過ぎていました。  【顔見せに来てくれて、ありがとう。】 
4月21日。朝9時過ぎ、朝ごはんを済ませて,ホテルに別れを告げ、京都東山にある。霊山歴史館と霊山神社に見学と参拝に出かけます。タクシーで10分余り、
 歴史館に着きましたが,凄い雨で神社の方は,【私の車椅子では、】道がぬかるみ参拝出来る状態ではないので,参拝は諦めて、霊山歴史館の方を見学する事にしましました。場所は、八坂神社の側です。 ◆新しい国を夢見て、幕末と言う時代を駆抜けた人達の霊を奉納してあります。『幕末と言う時代に興味を持つ私は、幕末の志士達』龍馬さんを初め高杉晋作・桂小五郎〈木戸孝允〉・中岡慎太郎・久坂玄瑞。その他大勢の人々のお墓がありました。   今の時代???!           現在の日本を見たら。志士達は、こんな国。時代にする為に、命を賭たのでは,ない、と言う声が聞こえて来ます。 私は、尊命を賭て、 《明治と言う時代。そして現在を》創って頂いた皆様に感謝したい、そして謝りたくて、ここに来ました。と静に黙祷。『あなた達に感謝している者がいます。』 先人達が命と引き替えに創って下さった。今の時代。いろんな問題や世相。不平や不満など、滑稽で理不尽な事も沢山あります。後悔もありますが、それを改めるのも現在を生きる私達の使命です。 日本の礎を創作する為に奔走してくれた志士の御霊に感謝をします。 ¨ありがとう。“ 雨が凄いので、『歴史館』を見学。玄関までタクシーを付けて、乗り降りします。事務所のお姉さんと館長の方が車から車椅子を降ろしたり、私を支えてくれて、玄関に入ります。
 【いらっしゃいませ。お一人様ですか、】【はい、独りですよろしく、】【まー、お一人で、どちらから。いらっしゃったのですか、】【兵庫県から来ました。幕末の志士達に、会いに来ました。】『幕末維新ミュージアム霊山歴史館』は、 
 我が国随一の幕末維新の総合歴史館として1970(昭和45年)に開館し、幕末維新ミュージアムと呼ばれています。収蔵資料は5,000点を超え、常設展・特別展では約100点を展示しています。2,005年には全館リニューアルで、映像・パソコン・歴史再現模型も充実し、2,11年春から3D映像もご覧頂けるようになりました。ここ京都・東山の霊山地域には明治新政府の太政官布告を受けて,坂本龍馬ら先寛志士たちの墓がつくられ,今日では『維新の道』史跡公園として親しまれています。 
  ◆入り口の壁に『日本の心』と題して、◆
日本には2千年にわたる歴史があります。    その間ほぼ一貫して発展の歩みを続け、その長い歴史を通じて独白の優れた伝統の精神を尊び敬って来ました。そして、その精神はことあるごとに発展され、今日の日本が気付かれました。 およそ百五十年前、幕藩体制が行き詰まりつつある頃、アメリカの黒船をはじめ外国船が開国を求めて来航。日本は突然世界の潮流を知らされました。海外からの凄い圧力と国内の混乱が渦巻く中、わずか半世紀足らずで、政治・文化・産業などの広範囲にわたる改革が断行された明治維新で、この大業
 を成し遂げ、近代日本の礎を築いた人々の多くは,二十代・三十代の若者達でした。彼等に身命を賭した勇気ある行動を起こさせたのは先覚者の教と日本の伝統の精神がここにありました。この伝統の精神こそ『日本の心』と,私は,確信します。
   ★『幕末維新ミュージアム霊山歴史館』★
 以上の案内書を読んで入館します。詳しく説明しますと、場所は,八坂神社のそばでした。奥の方には,幕末維新の時代に命を落として亡くなった志士たちのお墓があります。霊山神社・志士の墓。 勤王も幕府も関係ない、みんな国を思い、命を賭けて、亡くなった人達なのです。〈そこに,雨の為に参拝出来なかった事が残念でしたが、〉それを証拠に、霊山記念館には、龍馬の他に、◆新撰組副長。土方歳三の関連グッズが沢山販売されていました。 《ちなみに私は,誠のハチマキと歳三。 辞世の句。『たとひ身は、蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん』と書かれた。壁掛を土産に買い求めました。〈旅の記念ですから。〉2階建の館の中は,玄関に階段・スロープがあり、入ると直ぐにグッツと入場券売り場。10―20人ぐらいが着席して。大画面のテレビが置かれている場所で、暫く立ち止まり、見ていました。 新撰組の名前が一躍。有名になった。 あの池田屋事件と幕府側の敗戦が濃厚となった。
 鳥羽伏見の戦いの場面をビデオ上映していました。カブリ付きで暫く見ていました。1階をほぼ見て回り、【2階には,車椅子では,上がれませんか、】と言うと、【係りの者に,お申し付け下さい。】と言われて、お願いすると、《車椅子から降ろされ、階段下のリフトで座ったまま2階に上がる事が出来ました。》車椅子は,後で係りの人が階段式エレベーターを使い上げてくれました。【ありがとう。】 龍馬の刀。《陸奥の守吉行》子孫の人が、北海道に移住して、釧路で展示していたのですが、大正12年の火事で鞘は,焦げたけたそうですが、刀剣は,焼け跡から見つけ出され、それを複製して、ここに展示しているそうです。ピストルは,ありませんでした。》 龍馬の手紙が何通かありましたが、乙女姉ーやンに,宛た手紙が何通か展示してあり、文面を読んでみると、龍馬は、姉さん子で,甘ったれだったようですね。    隅から隅まで見て回り最後は,1階に,降りて、又、土産物コーナーで等身大のロウ人形の龍馬さんと同じ時代京都の英雄で新選組副長。土方歳三のロウ人形と記念撮影しました。ハイ,ポーズ。  なんで,土佐の龍馬と幕府方の土方が並んでいるのか、そして何故,近藤勇は,ここには、居ないのかと、【受付のお姉さんに聞くと、答えは,カンタンでした。土方さんは,男前だから。???】 昼過ぎまで,お邪魔していましたが,雨の中を又、タクシーを呼んで京都駅まで行き。
 そこで食堂を見つけて,遅めの昼食を食べようと食堂を探してデパート内をウロ・ウロします。中華の店を見つけて中に入ります。【車椅子なんですけど、】おねーえさんが、【いらっしゃいませ、こちらへどうど、】と奥の席に案内してくれました。 席に着き。【焼きめしと餃子を】お願いしますと注文しました。暫くすると、ホカ・ホカの焼きめしと熱々の焼きたて餃子が運ばれて来ました。  満足して食べていると、酔っぱらいのオッさんが突然現れて、【兄ちゃん歩けんのか、いい若い者が大変だろう。】ハイ。大変です。【不自由なのに、外に出なくても、良いんだ。その為に、年金を貰っていると、違うのか、】と言われ、【いつもの私だったら、カーッとしていますが、】その時は,何も言いませんでした。《疲れていたのか、【すんませんと誤り,】酔っぱらい相手だと広い気持ちでした。》隣の席にいた人達や店のご主人が酔っぱらいのオッさんを追い出してくれました。 【お客さん気を悪くしないで下さい。普段は,良い人なのだけど、お酒が入ると人が変わるのです。お酒は,いけませんや!!】と,独り言。【兄さん何処の人。何処から来たの,】【兵庫県から。京都の霊山歴史館の龍馬に会いに来ました。】【独りで、車椅子で、】【ハイ。あいにくの雨でお墓には,お参り出来ませんでしたが、手紙とか暗殺された部屋を見て来ました。《刺客に襲われ暗殺された様子を再現してありました。》その帰りに、ここで遅めの昼食を頂くところです。】【そうですか、京都は,初めていらしたのですか、】【いえ、6回目ですが、独り来るのは,4回目です。】【何度も来られてるんだ。良い所でしょ。】【良い場所ですけど、坂と階段。そして細道が多くて迷子になります。】【町屋が多いし,ゴチャゴチャ細道や抜け道が多いから。車椅子では,大変だ。】【でも、親切で優しい人が多いです。女の人は、綺麗な人を沢山みかけます。】【口が上手いナー、兄さん。】【本当ですよ。道にまよい迷子になった私の車椅子を押して道案内して貰いました。それも初対面の方なのです。】【それは,兄さんが良い人だから。《神様は,見ているから。良い心の人には,必ず良い事があり,辛い事や、困った時は,必ず周りの人が助けてくれる。》そう言う星の下に生まれて来たんだ。兄さんは、】と言われましたが、【どんな星でも良いから?普通に健常者に生まれたかったです。】【健常者に生まれても、悪い事して世間に迷惑かけたり、親を泣かす人もいる。兄さんから見れば,羨ましく見えるかも知れないけど、障害に負けずに生きろと、神様が兄さんに障害を与えたのだ。】【私の祖母と同じ事をおじさんは,言われます。《小さい頃,祖母がいつも私に,言いました。お前は,神様に選ばれたんだ。》この子なら。重度の障害を与えても、負けないで生きて行く、】と【 選んでくれなくて良いから。歩ける足が欲しい、食べたい物を自分で食べられる腕が欲しいよ。】
 と言うと、眼にいっぱいの涙を溜て、私を抱きしめてくれました。それが切っ掛けで自分に与えられた人生を生きて行こうと決めました。【祖母さんは偉いし、兄さんも偉い、 その人は、明治生まれかい、】【ハイ。確か、明治33年生まれでした。】【明治の女の人は,偉いねー。自分を表に出さない、出しゃばらない、】【いろんな事を教えられて育てて貰いました。】【兄さん大切に育てられたんだ。】【だから。ワガママで、甘えん坊です。】良い育ち方をしなさったと、何度もうなずいてくれました。 遅めの昼食も終わり、京都に別れを告げ。舞鶴で乗り換えて、福知山周りで和田山駅へ帰ります。思えば,11日ぶりです。 今までで一番長い旅でした。 園に帰っても今夜の食事は,ありませんので、駅弁とお茶を駅の売店で買って帰ります。
 まだ、列車が来るまで時間があるので、駅の売店で,いろんな種類の弁当を見ていると、《車椅子の背中に付けた。〈旅行中と書いたワッペンを見て、)女の人が、なにも言わずに行かれました。》【なにか私に,用があると,違ったのかナー、】と、思いましたが、向こうに行かれましたので,買い物を続けていました。お茶と牛肉弁当を買い、 レジで精算していると、【善和ちゃん。!森下の善和ちゃんと違うの?と,呼ばれました。】【失礼ですけど、どちら様ですか、】と聞き返しました。 【まあ。善和ちゃんだ。 久しぶり、40年ぶりになるかナー、】と言うと,泣き出しました。私は,ビックリして、
 【どうかされたのですか,と聞き返しました。】【私よ。40年以上前に、あなたの家の近くに住んでいた。〈旧姓K.Kと申します。〉幼い頃。一緒に遊んだ。】と言われ、暫く考えて 、、、、思い出しました。!昔の思いが蘇って来ました。《確か,10才から~14才の頃。田舎の家の近所に,住んでいて。毎日のように,遊びに来て、一緒に遊んだ。K子さんでした。
 子供の頃,引っ越して離ればなれになってから。44ぶりの再会です。》 【K子ちゃん久しぶり、元気!久しぶり。でも、顔が変わってたから。分からなかった。】と言うと、【私も,分からなかった。車椅子の人がいるけど、森下君に似てる、あの森下君がここにいる訳ないし、でも,顔見ると昔の面影がある。と声をかけたのです。】【今の俺は、車椅子で何処でも行けまる。今回も東京まで行き福島から東北の4県にお邪魔しての帰りなんだ。】そう言えば、昔。【おじいちゃんおばちゃんに、何処でも連れて行ってもらってたよね。】【私の母に、《あの子は,大きくなっても、1人では,何処にも行けないから。私達が元気なうちに、行ける場所は,何処へでも連れて行ってやるんだ。》と、言ってたよ。】【そのお陰で列車にも船にも飛行機にも乗り物酔いはしません。
 そのお陰で現在は,独り旅が出来ます。】【おばあちゃん達も考えてくれていたのね。あなたの未来を。 弟のM君小さい頃。良くぼやいていたわよ。《じいさん・ばあさん達は,兄ちゃんばかりを旅行に連れて行ってる。》
 不公平だ、】と【そのお陰なんだよ。今こうして旅が出来るのは、】【でも、あなた独りで何処でも行けて、良かったね。幸せそうね。〈あの、何も出来ない,甘えん坊の森下君が旅を?それも1人で、、、。会えて良かった。】【今は、どこに、お住まいなのですか、?】【現在、名古屋で生活しています。私,もうおばあちゃんで孫娘が京都の大学にいるので、今日は,京都見物させてやると言われて遊びに来たのです。】【で、どこにいるのかナー、】【向こうで買い物している。】【U子ちゃんここよ。】と叫ぶと紙袋をぶら下げて女の子が走って来ました。【おばあちゃんどこへ行ったのか,心配してたのに、】【知りあいの人に45年ぶりに会ったので、話し込んでいたんだよ。おばあちゃんの幼なじみの森下君。】と紹介され、【男の子かナーと思ってたのに、女の子?それに、可愛い子。】と,言うと恥ずかしそうに挨拶をしてくれました。【おばあちゃんの幼い頃に、そっくり。可愛い。】【私、可愛いかった?。】【可愛いかった。今だから言うけど、初恋だったんだ。】と言うと、【知らなかった。初めて聞いたわ。】【俺も、初めて言った。】【どうして告白してくれなかったんですか、】【好きだ。と言ってどうなるんですか、?。幸せにも出来ないし・付き合いもデイトさえ出来ない、君が困った時に,支る事も守る事も助ける事も出来ない、そんな人間が好きだ。】と言える。言えないよ。】と言うと、《Kちゃんは、なにも言いませんでしたが、》
 孫の女の子が涙をボロ・ボロと流して泣き出しました。私は,ビックリして、【どうしたのかナー、】と言うと。【おじさんのその時の気持ち分かります。】と泣いてくれました。Kちゃんも私もその子の感受性に、ビックリしました。《さすが、K子ちゃんの、お孫さんの素直な心に関心していました。》
 そして、列車の時間が来たので、又の再会を約束して別れましたが、 何ヶ月かして今年届いた。手紙に、『老人や障害者の人。病気の人達を』助ける仕事をめざし、 介護専門学校の試験を受けて合格したのだと、誇らしそうに手紙に自慢そうに長い手紙を書いて来ましたが、 私が旅をする意味を少しでも分かってくれる人がいる。《人の気持ちを動かす事が出来た。》それだけで嬉くて、誇らしい気持ちになりました。
 私が、車椅子で旅する意味があります。京都から舞鶴へ、乗り換えて、そこでも乗客のみなさんがいろいろと助けてくれてお世話になり、無事に福知山から和田山へ。20:30分過ぎ和田山駅。ここでも車掌さん助役さんを始め駅員のみな様にお世話になり、無事に帰って来ました。駅前でタクシーを拾い、途中。運転手さんに,【コンビニでお弁当を求め帰園しました。】《京都駅で買い求めた駅弁は,K子ちゃんの孫娘にあげました。》【後悔してます。反省、】PM9:04分無事、真生園に帰って来ました。 数日は、余韻と達成感で自己満足していました。
 1週間。2週間と経過して、その後左足の膝がバン・バンに腫れあがり。もう大変です。意地を張り自分で【名誉の負傷だと、言ってますが、バチが当たったんでしょうか?】病院で診てもらったのですが、《水を抜くと癖になるから。自然に水が抜けるまで、待ちなさいと言われて、》 3ヶ月も要して大変でしたが、今思うと良い旅が出来たと満足しています。《自己満足ですが、 私は、自分なりに震災に貢献できた。》それが嬉いのです。
 又、お金は、ありませんが、何年か先に、今度は、北陸への旅を夢見ています。元気な限り、体の続く限り、車椅子で私の生きる証の旅を続けたいと思います。
死ぬまで旅を続けたいです。私の生き甲斐だから。  こんな事しか出来ないから。旅している時は、楽しいです。そして、人に会える。自分が生きている事を外に出て人と触れ合い、確信したいから。私が外に出る事で何かが変わるかも、、、 


 今回の旅で、触れ合いが出来た。 無事に帰る事が出来ました。 人との出会いや触れ合いは、私の宝物です。そして東北の被災された皆様。自分達が大変なのに私に、勇気や励まし・優しさ生きて行く力を頂き、「人が生きる素晴らしさを教えて貰いました。」 
      ありがとうございました。





 



          

『唯、訪ねただけなのに、』

 今回の旅で、触れ合いが出来た。みなさま無事に帰ることが出来ました。 いろんな人との出会いや触れ合いは、私の宝物です。 そして東北の被災された皆様。自分達が大変なのに私に、勇気や励まし・優しさ生きて行く力を頂き、「人が生きる素晴らしさを教えて貰いました。」 ありがとう。

『唯、訪ねただけなのに、』

  • 随筆・エッセイ
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-07

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