ピアノの音はふとんの香り

 母の背中はあたしの言葉の波状攻撃に無視を決め込み、黙々とお茶わんを洗う。
 しかし、なおもだだをこねくりまくりのまくりである、あたし。
 「ねえったら、ねえったら、ねぇぇぇぇえっ!」
 その時、母の頭が少し回り、かすかにのぞいた左頬から氷のような感情がのぞく。

 (ひっ!)

 たじろぐ、あたし。
 母のこらえていたいらだちがICBM化し、優しく落ち着いた声でこちらへ向かってゆっくりと放たれる。

 「おとうさんに相談しなさいね」

 (あう)

 あたしの、負け。

 「ふう」
 ため息。
 やだなあ。おとうさんに言うなんて。なんてったって小4の時、ピアノ習わせてくれって無理無理お願いしたの、あたしだもんなぁ。無い貯金でピアノ買ってくれたのに「やめたい」なんて。いまさら。
 あーあ。おかあさんったらそこんとこ知ってるのに「おとうさんに相談しなさいね」なんてさぁ。酷だよ、酷。優しい顔してて言うことがきついんだから。ほんとに大人の女ってわけわかんないよ。たくー。

 2階へ上る。
 いつもの場所にそれはいた。
 日曜の午前の日だまりの中、干してあった布団を引きずり下ろし、ベランダに広げて寝てる。
 おかあさんがあれほど注意したのに絶対やめない。聞き分けの無い奴だ。
 いつもならニードロップとアキレス腱固めで決めるのだが、今日はそうはいかない。
大切な「おねがい」があるから。

 「お・と・う・さ・ん」
 「んー?」

 のそのそと起き上がる。ずり落ちた丸眼鏡をかけなおし、視点の定まらない目でこっちを見る。

 「おとうさん。よだれ、よだれ」
 「お、おう」

 ごしごし
 あー。たく、まいるよなぁ。もうすこししまらないもんかなー。たえちゃんのおとうさんみたいにクールに決めて欲しいのに。それにその不精髭。なんとかならないんかな。よくおかあさんみたいなイイ女がこんな男と結婚したよ。あたしなら絶対無いわ。

「あのね、おとうさん。お願いなんだけど」

 あたしは肩をすくめ手を胸の上に組み、もう2度と使えないようなとっておきの猫なで声で訴える。この技を身につけるのに3年かかった。

 「んー?」
 「あのね、あのね。本当にごめんなさい。ピアノね、一生懸命やってたんだけど、あたしもうこれ以上上手になれないみたいなの。だから…」
「やめたい、か」

 おとうさんの目がきつい。
 ぞわぞわ
この男はほんとわからない。つまんないことで喜んだり、怒ったり。でも、この目は やばいぞ。
 しかしうろたえてはいけない。こちらの視線は常に相手の鼻先に固定する。そうすると相手の目を気にせずにいられるし、むこうはあたしがまっすぐ見ているように感じる。そして何よりも動揺が目にあらわれなくてすむ。大人と話すときはこの眼差しが一番効果的なのだ。
 しかし、やおらおとうさんは立ち上がった。
 失敗かっ?!
 (ひーん!)
 あたしは慌てて頭を押さえる。が、予期した衝撃はやってこない。おとうさんはのそのそとあたしの脇を通り抜け、ピアノの前に立った。
 (?)
 あたしは恐る恐るおとうさんの隣に立つ。
 おとうさんは椅子に腰を下ろし、ピアノのふたを開けた。
 (え?)
 ピアノが音楽をかなでだす。
 まさか
 あたしはあっけにとられた。
 いままでおとうさんがピアノを弾いているところなんて見たこと無かった。
 休みの日にはごろごろしたり、音楽聞きながらお酒飲むしか能が無いと思ってたぐうたら男が。
 そして、もっと許せないことに。あたしの弾けないドビュッシーをを弾いてる。

 あたしはただただ流れる音楽と、おとうさんの指の動きを目で追っていた。
と、いきなり音楽が止み、おとうさんはピアノのふたを閉め、のそのそと部屋から出て行く。
 ほうけていたあたしは我に帰る。

 「あ、あの、おとうさん…」
 おとうさんのひょろひょろした背中が止まり。伏し目がちな横顔が言った。
 (どき)
 「自分で決めなさい」
 (…)

 階段を降りていく。
 なんだか、変な気持ち。でも、今の横顔。なんだか、ちょっと、カッコよかった、かな?

 「どうだったの、由美」
 「うん…。自分で決めなさいって」
 「あら、よかったじゃない?」
 おかあさんは優しく微笑む。
 でも。あたしの気持ちは。

 「ねえ…おかあさん」
 「なあに?」
 「おかあさん、おとうさんがピアノ弾けるって知ってた?」
 「いいえ。さっきのおとうさん?」
 「うん」
「そう。おとうさんって変な人でしょ。なに考えてるかわからないし、何しだすかもわからない」
 「よくおかあさん結婚したね、あゆ人と」
 「ふふふ。ああいう人って観察してたら面白いでしょ?飽きなくて」

 (やぱ、この人も変だわ。あたしも変な親を持っちゃったよ)

 でも、もしかするとおとうさんって案外カッコいいのかも知れない。どうもあの横顔が気になってしかたがない。
 あたしは庭に出たおとうさんの様子をうかがいに、そおっと。のぞいてみた。

 「セッセッセー  サノヨイヨイヨイー」
 (な、なんなんだぁ…)
 思いっきりこける、あたし。

 三毛猫のサライの前足をつかんで踊りを踊らせているおとうさんと、迷惑そうなサライ。
 渋さのかけらもないじゃない。あーあ。さっきのは目の錯覚か。
 やぱ、ウチのおとうさんは変な奴以外の何物でもないよな。
ちぇっ。どきどきして損した。

 さて…。先生来る前にピアノ、触ってこよ。


                    おしまい

ピアノの音はふとんの香り

ピアノの音はふとんの香り

ピアノのレッスンをやめたいあたし。意を決しておとうさんに相談するが… ホームコメディ

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-06

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