お月さまのひと

 降ってくる雨が、あの甘くておいしい飴だったらどんなに良いだろうと思う。冷たくないし、濡れないし、じとじとしない。みかん味にぶどう味、いちご味やりんご味。おなかが空いたらぱくりとすればいい。だけど飴だけだと飽きてしまうから、チョコレートやグミやチューイングガムなんかも良い。そして甘いお菓子だけじゃなく、おせんべいやポテトチップス。本当に空からお菓子が降ってきたら、何て幸せだろう。
 だけど現実ではそんな事あり得なくて、今日も重たい空からしとしとと冷たい雨が降っている。お菓子と違って冷たいし、濡れるし、じとじとする。お菓子が降ればいい、なんて考えている私を、ばかにするように雨は降り続ける。
 うーん、憂鬱。いつになったら雨はやむの?
 廊下の曇った窓を指でなぞる。弥代(みよ)、と自分の名前を小さく書いてみて、塗りつぶす。あの人はいつも、私のことを鳥山さんと呼ぶ。とりやまさん。あの人が言うと、他の人が言うのとは少し違って聞こえる。なんとなく優しくて、軽くてふわふわした感じ。好きな人の言葉は、何か特別な色を持っている感じがする。
 とりやまさん。いつか、弥代と呼んでほしい。あの声で、あの音で、特別な色をつけて。
 遠くで雷が鳴って、靴箱のところで女子生徒がきゃあと騒ぐ声が聞こえた。そろそろ帰ろうか。傘も無いし雨がやむのを待とうと思ったけど、この様子じゃもっとひどくなりそうな気がする。かばんをからいなおし、重い足を前に進める。
 帰りたくない。雨のせいだけじゃなく、家が嫌いなのだ。
 父と母は、私が幼い頃から仲が悪かった。口を開けば言い争いになるので、最近は二人ともお互いに避けあっているようだ。高校2年生の姉は、高校生になったころから見た目ががらりと変わり、ピアスの穴まで開けて母は学校に呼び出しをくらった。最近はあまり家にも帰ってこない。そのこともあってか、母はいつもイライラしている。
 家のなかで唯一の癒しだったうさぎのミミ子は、1年前の夏に死んでしまった。ミミ子は私が小学4年生の秋に家に来た。その秋の年の夏休みに父と一緒に近くの子ども牧場へ行ったとき、譲ってもらったうさぎだ。白いふわふわの毛に黒いぶちが可愛い子だった。
 靴箱で白いスニーカーを履いて玄関を出た。大きなドアがギィと鳴る。雨の匂いを深く吸い込んで、だけどどうしようと悩んだ。傘が無い。雨はまだ降っている。走って帰ろうか・・・。
 ふと横を見ると、壁に一本の透明傘が立てかけられていた。
 誰のだろう。
 だけど、もう学校に生徒はいないはずだ。今日は進路のことで先生に呼び出されて、一人で遅くまで残っていたから。
 ごめんなさい、明日返すから。今日だけ、貸してください、誰かさん。
 私はその透明傘を手にとってバッと開いた。先の方が少しサビついていて茶色くなっている。
 「どろぼう」
 突然声がして、ビクッと肩が震えた。それは聞き覚えのある声で、耳の奥がなんだかじんわりと熱くなった。
 きっと私はとんでもないアホ面だったと思うけど、そんなことには気がまわらなくて、そろそろと声がした方を振り返った。
 やっぱり。そこに立っていたのは、制服のズボンのポケットに手を突っ込んだあの人─月見 翔平─だった。
 目があったとたん、私の胸はドキドキうるさくて、月見くんはニッと笑っていた。少し茶色い髪と、紺色のふちのメガネの奥で、笑うたび細くなる目。胸がきゅうってなる。
 「鳥山さん、どろぼうしようとしてたでしょ」とりやまさん。言葉とは裏腹に、月見くんの声は優しい。弱みを見つけた、とでもいうように。
 「ごめんなさい」閉じた透明傘を月見くんの方に差し出す。顔が熱い。
 「俺の傘じゃないけど、狙ってた。だから俺もどろぼうになるとこだった」ニッと笑う月見くん。
「あの、私、すぐに返そうって思ってたんだけどね」きっと赤くなってんだろうなーと思って、さりげなく片手で左のほっぺを隠す。不自然にならないように、言葉ひとつひとつに気をつかう。
 それっきり雨の音しかしなくなって、月見くんは私が差し出した透明傘を受け取らずに、ふーっとため息をしたあと、「鳥山さん、使いなよ。それじゃあね」と言って校門の方に向かって歩き出した。私はその背中を、精一杯出した声で呼び止めた。
 「いっしょに、この傘使おう」


 あー、何てばかなのだろうと思う。付き合ってもない人、ただのクラスメイトの男子に、相合傘の提案なんて。ばかばかばか。引かれるに決まってんじゃんか。あの時の月見くんの顔、忘れられない。変な人って思われた、絶対、絶対に。あぁ、あの時間に戻って、何か知らないけど勇気出してあんな事言っちゃった自分の頭をぽかんと殴って、やめなさい!と言いたい。
 だけど時間は戻らない。あの日から、なんとなーく、月見くんとは気まずい雰囲気。
 「しかしまあ、弥代がそんなに勇敢な心の持ち主だなんて。今まで、月見と少し話しただけでぎゃあぎゃあ言ってた奴が」有紗(ありさ)は言う。ショートヘアの私と正反対のロングヘアを後ろで一つに結んでいて、クラスのなかで2番目に身長が高い有紗は、女子っていうより男子に近いって感じ。性格がクールなおかげで、この前なんか後輩の女の子からラブレターなんて貰っていた。
 「違うの、私だって、何であんなことしたんだか。こう…、変なパワーがみなぎっちゃって、今なら何でもできそうって、そんな気がしたの」
 私だって、びっくりだし、ばかだと思うし、いっぱい反省してる。
 あの時、月見くんと初めて二人っきりで話せて、舞い上がっちゃったんだ。それに、あの透明傘を、「使いなよ」って言ってくれた月見くんの優しさが苦しいほど嬉しかった。
 それで、このままお別れは嫌だって思っちゃって・・・。振り返った月見くんは、ぽかーんって口開けて、とっても不思議そうな顔していた。その時自分がやったことに気がついて、「ごめん、やっぱりなんでもない」ってあわてて付け加えた。月見くんは一度だけ小さく笑って、そうして帰って行った。私は透明傘をぎゅっと握りしめ、雨の音も聞こえないくらいに頭のなかがぐちゃぐちゃで、恥ずかしくて仕方がない思いだった。
 ゴメンナサイ、月見くん。そして傘譲ってくれてありがとう。おかげで濡れずに帰れたよ。
 月見くんに言いたい言葉はたくさんあるのに、同じ教室にいつもいるのに、月見くんは遠い遠い存在。


 「何なの?どうしようが、あたしの勝手じゃん」
 久々に姉が家に帰ってきた。きっと今まで友達やら彼氏の家に住み着いていたのだろう。
 しかし帰ってくるなり姉と母は言い争いをはじめた。
 「その耳は何?また穴あけたの?それにそんな派手な格好して」
「うるさい!本当うざい。あっち行って!」
 私は縁側のところで足の爪を切っていた。プチンプチンという音だけが耳の奥に響いて、姉と母の声は遠くに聞こえた。もやもやと、うっとおしい。私は立ち上がって、リビングを出て玄関の段差に座った。
 ここには、いたくない。どこかへ行きたい。ここの空気は、不味い。
 私はスニーカーを履き、オレンジ色に染まった外に出た。夕方の匂い、寂しくなる。
 空はどこまでも遠くに続いていて、ずーっと先は見えない。どこまでも遠くへ行ってみたい。
今の生活を全部切り捨てて、新しい人生を始めたい。・・・だけど、もしそうなったら。月見くんには、会えなくなっちゃうんだろうか。
 ぶらぶらと歩いていたら、スーパーサイトウに来てしまった。夕方の買い物に来たと思われるおばちゃんたちがレジに列をつくっている。
 すぐそこの棚にあったチョコのお菓子を手にとり、私も適当にレジに並んだ。
 「あれっ…、10円足りない」
 そう言ったのは前に並んでいた人で、その声の主の顔を見ると、なんと月見くんだった。青いパーカーにジーンズにスニーカー。片手にお茶を持っていて、どうやらそれを買いたいらしいが、お金が足りないのだろう。
 偶然。神様のいたずら。どうか、どうか、私に気づきませんように…。
 「ちょっと待ってください…。あぁ、お先にどーぞ」そう言って振り返る月見くん。ちょっと、どうしてよー。
「あ、鳥山さん!」本当に驚いた、という顔をしている。
「こんにちは」私は気まずくて、月見くんの目の少し上を見ていた。
「10円、貸すよ」私は財布から10円をとりだし、レジに置いた。
「いや、いいよ!お茶、あきらめればいいし」
 月見くんはそう言ったけど、待たされて少し機嫌の悪くなったレジのおばちゃんが、すでに10円をうけとってしまった。


 「本当に、ありがとう。助かったよ。すごくのどかわいててさ」
 結局あの後、流れ的に一緒に帰ることになって、私と月見くんは途中にあった公園のブランコに、なぜか座っていた。
 「明日、学校で返すよ」そう言って、月見くんはゴクゴクとのどを鳴らしながらお茶を飲んだ。
 「あのぅ…」お茶を飲み終わるのを待って、私は口を開いた。
 「この間は、ゴメンナサイ」この間、相合傘して帰ろうなんて、誘って。
「え?」月見くんはぽかんと口を開けている。そう、あの時も、こういう顔をされたの。
「いっしょに、傘使おうなんて言っちゃって」顔が熱い。きっと赤くなっているだろう。
 足元の石ころをつまさきでいじりながら、そうっと月見くんの顔を見る。月見くんは、



 
 
 

お月さまのひと

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-05

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