親愛なる私へ
記憶喪失、呼び方は様々だが量を伴わず記憶を無くすことだ。
私……いや、俺? ……僕と自分の事を呼んでいたかもしれないが、今は私がしっくりくる。
私の場合は自分の事や、人間関係といった知識の記憶が飛んでしまったらしい。
記憶を無くした時は道の真ん中に倒れていて、酷く頭が痛かった。それに訳の分からない気分だ。
例えば、目の前に訳の分からない機械が置かれるとするだろう、その機械は、少なくとも自分は見たことが無い。
もちろん名前も知らない、正直触りたくは無い。でも、使い方は分かる。
この気持ちがわかるかい? 気持ち悪いなんてもんじゃない。
そんな気持ちのまま、何日も何日も歩いた。
そして、たどりついた先は図書館だった。とても懐かしい気持ちになったのを覚えている。
それからの知識は、全て図書館から手に入れた。
しかし、最初に本を開けたときはとても驚いた。
本に書かれていたあらゆる文字の意味が、どんどん私の頭に入ってきてパニックを起こしたのだ。
仕方なく絵本を読んでゆっくり私の頭を慣らしているうちに、普通の本も読めるようになった。
そして、最初の問題は住むところだった。
最初は図書館のすぐ外で寝ていた。
他に方法が思いつかなかったし、季節がちょうどよく、そこまで寒くはない。
しかし、怪しまれて図書館に勤めているおばちゃんに声をかけられ
覚えた言葉で事情を説明すると、とても親身になって話を聞いてくれた。
記憶が無いことや、自分の名前も分からないこと、とにかく自分が分かることは全て話し、住むところが無い事まで説明すると、自分の家に来ないかと提案してくれた。
「ちょうど一人ぼっちで寂しかった所なのよぉ」
笑顔でそう言ってくれた。
私はその言葉に甘え、今はそのおばちゃんの空き部屋に住まわせて貰っている。
とても良い人で私には家事を手伝うくらいしか出来ないが
おばちゃんはとても喜んでくれるので、私も嬉しい。
私を置いてくれている理由は、畳の部屋に置いてある仏壇に有るのだと思うが
おばちゃんにそれを聞くのは気が引けた。
そして、私は毎日図書館に通い、本を読んでいる。
しかし、記憶が戻る気配は無く
それどころか、未だに自分の名前すらわからない。
時折、自分が何なのか、なぜ存在しているのかを考え恐怖とも言えない感覚に襲われる。
今日も大きな机に向かって本を読んでいた。
「宮さん、今日は何を読んでるの? ミステリー?」
カウンターからおばちゃんが私の事を呼ぶ。
「そうですね、主人公も記憶喪失なので親近感が沸きますよ」
名前が無いと不便なので、おばちゃんは私に名前を付けてくれた。
宮(みや)さん。私がよく読む本の作家の名前から一文字とってつけてくれた。
私は、とにかく人と話せば何か分かるのではといろいろな人に話しかけた。
私がおばちゃんと何度も話していたので、そこまで怪しい人間には思われなかったようで
みんな優しく接してくれる。
なかでも気が合うのが、高校生くらいの女の子。
山津千砂(やまつちさ)さんだ。
「宮さ~ん! 聞いてくださいよぉ! 先生が酷いんです!」
今日は少し不機嫌そうに図書館へやってきた。
カバンを机に放り投げると私の横へ座り、カバンの中から紙を一枚取り出す。
どうやら、テスト用紙のようだ。
「ここ、ペケつけられたんですけど、どう見ても三角ですよね?」
私は本にしおりを挟み、テスト用紙へ目を移す。
どうやら、先生の採点に不満があるらしい。
「ここが三角だったら追試は免れたんですよ? 苦手なとこだったから勉強したのに……」
「先生はよほど山津さんと勉強したかったんだね」
「えぇ……意地悪いなぁ……」
山津さんは脳科学に興味があるそうで、僕が記憶喪失だと話したときはそれはもう酷い質問攻めにあった。
それからというもの、私と山津さんはとても仲良くなったと言うわけだ。
彼女は学校が終わるとまず図書館へ来て、入口の隣にあるベンチでプリンを食べている。
昨日は私の分も買ってきてくれた。
私は、本を読む事が記憶を取り戻すきっかけになればと読み続け
最近は自分の想像しない物語が出来るのではと、おばちゃんの家で見つけた原稿用紙を貰い。そこに自分の思いつくままに話を書いた。
山津さんはその評論係。言われたとおり書きなおすとなんとも自分がプロになった気になれた。
他にも彼女は、私の記憶の事を良く気にかけてくれる。
「そうですね……例えば道で知らない人がいきなり話しかけてくるとか有りませんか?」
「外人さんに道を聞かれたくらいだね」
そんなカウンセリングをしてくれた後
彼女はカバンから本を取り出して、パラパラとページをめくる。
「記憶は無くなっちゃったわけでは無くてですね、脳の奥に封印されている場合が多いんですよ。なので、脳にちょっとしたショックを与えましょう」
そう言って、図書館の資料室へ案内された。
「……それで、その広辞苑をどうするんだい?」
「……ちょっと後ろ向いてもらえますか?」
「……お断りするよ」
「ケチ」
残念そうにため息をつくと広辞苑を元の棚に戻し、またページをめくり始める。
他にもさまざまな方法を試してくれた。
しかし、どれも成果が無い。
山津さんは図書館の中を歩き回り、何かを考えているようだ。
私は読みかけの本を開き、途中だったところを見つけ読み進める。
三ページほど、進んだとき
「あ!」と山津さんの声がした。
「どうしたの?」
本を置き、声のした方へ歩いていくと、山津さんはおばちゃんと話している。
「おばちゃん、これ、このストラップです」
山津さんは、カウンターの横に置かれたガラス製のたなを指差しおばちゃんを呼んだ。
クリアボックスには、落し物ボックスと書かれている。
「はいはい、ちょっとまって……」
おばちゃんは、カウンターの下から鍵を取り出すと、裏から鍵を開け「どれが千砂ちゃんの?」と聞くと
「三段目のキーホルダーですよ」
「はい、これね。あら、千砂ちゃんの名前が書いてあったわぁ。ごめんね届けてあげられなくて」
おばちゃんはそう言いながら、プリンを模したキャラクターの付いたキーホルダーを差し出すと
山津さんは御礼を言いながら受け取り、自分のカバンのある場所へ戻っていった。
「宮さんも何か落としてない?」
なーんちゃって、と言わんばかりの笑顔を私に向けた後おばちゃんはカウンター業務を始める。
特に落としたものは無いはずだが、みんなどんなものを落としていくのだろうか。
ケースを覗くと、腕時計や鍵、眼鏡など落としたら困りそうなものもあった。
その中で、私の目を引いたのは一枚の写真。
「……これ」
写真を撮った覚えは無い、しかし、そこに写っているのは明らかに鏡に映った私と同じだ。
「何かあった?」
「……この写真」
「これ、やっぱり宮さん? 似てるとは思ってたんだけど」
そう言いながら、おばちゃんは鍵を開け写真を取り出すと私にくれた。
その時に、本で読んだ事を思い出した。
記憶を取り戻す時、記憶が無い時の人格は消えてしまうことが多い。
私は、少しだけ記憶を取り戻すのが怖くなった。
家に帰ってから、妙に眠気が襲ってくる。
そして、山津さんに批評してもらう小説に向かったまま私は倒れ込むように意識を失った。
目が覚めると、私は机に伏せるようにして寝ていたようで、原稿用紙によだれの跡が沁みついている。
「うん?」
その隣には、私の書いた日記が開きっぱなしで置いてあった。
一番新しいページで止まっているところを見ると、誰かが読んだらしい。
おばちゃん……は、そんなことしないだろうし。
よだれの跡を拭こうと机の横のティッシュを一枚取り、丸めてポンポンと跡を叩く。
すると、原稿用紙の字が自分の書いた字ではない事に気がついた。
「これは……」
それは「私」では無い「私」から日記への返事だった。
つまり、私が私では無くなり始めている事を示している。もう時間は少ない。
次の日、私はおばちゃんに何度もお礼を言いながら新しい家が見つかった事を報告した。
とても喜んでくれて、そして少しさみしそうだ。
しかし、もし今日中に記憶が戻らないと引っ込みがつかないので
もしかしたら、忘れ物を取りに戻るかも。
と付け足すと、おばちゃんは、いつでも戻っておいでと言ってくれた。
私も寂しい、しかし、時間は無い。
私は図書館へ走った。
途中コンビニでプリンを買い、いつも彼女がプリンを食べているあの場所へ急ぐ。
しかし、彼女はいなかった。
ゴミ箱を覗いてもプリンのカップが無い事から、山津さんはまだ来ていない事が分かる。
まだ会えるかもしれない。
私のそんな希望とは裏腹に、また睡魔が襲ってくる。
次寝たら、二度と起きられない。本来の私のためにも私はずっと眠っている方が良い。
「……もう少しだけ……待ってもらえないか?」
私の中で必死に起きようとしている記憶に、こちらも必死で語りかけているつもりでいた。
私の言うことを聞いてくれたのか睡魔は一瞬で消え、水をかけられたように目が覚める。
「あ! 宮さん。何してるんですか?」
カバンを片手に現れた山津さんの姿を見てとてもホッとした。
「山津さん、はい、これ」
私は質問にも答えず、何食わぬ顔でプリンの入った袋を渡す。
「プリンだ! やったぁ!」
さっそく開けて食べ始める山津さんに、私はさっさと切り出した。
「……山津さん、私はもうここには来なくなる」
「え……どうしたんですかいきなり」
「うん、私の知り合いだと言う人が来てね。少し遠くに住んでいるけど、そういう人と一緒にいる方が記憶は戻りやすいんだろう?」
「まぁ……そうですけど……」
「それで、今日そっちに向かうことになったんだ」
我ながら分かりやすい嘘だった。
山津さんは気が付いているのか、いないのか、それすら怪しいほどの嘘。
短い間だったけど、とても楽しかったよ。勉強頑張ってね。精一杯の笑顔でそう言ったつもりだ。
もう、思い残すことは無かった。
最後に私へ、そこのおばちゃんは記憶の無い私を支えてくれた大切な人だ。
ぜひ御礼を言ってほしい。
それから、この最後の小説を書く時間をくれた事を嬉しく思
親愛なる私へ