大人になるということ

 質問です。大人と子供の違いはなんですか?

 自分が大人になったのだと実感したのは、初めてお酒を飲んだ時だった。酒飲みの父が常々大人になったら一緒に飲もうと言っていたので、お酒は大人でなければ飲めないというイメージが刷り込まれていたのだ。そして飲んだ時、正直美味しいとは思えなかったが、それでもできることが増えたという事実が大人になったことへの喜びでもあった。
 しかし今の自分は寂しいことだとさえ思ってしまう。
 春の陽気が心地良い、とある日曜日のことだ。大学に入ってできた彼氏とデートの予定だったが、一昨日になって行けないと連絡が来た。なんでも親類の人が一人亡くなったらしい。地方から上京してきた彼は帰郷するにも一苦労で、通夜の前日にこちらを出発することにした。そして私は一人することも無いまま残されたのだ。
 突然生まれた空白の時間に何をするか迷ったが、何も決めないまま家を出た。最寄りの駅から電車に乗り、多くの路線が交差する大型駅まで行く。そこでたまたま見かけた水族館のポスターに気を引かれ、そこへ行くことにした。
 予想はしていたが休日の水族館はとても混雑していた。芋洗いと表現されるほどではないものの、歩くのが億劫になるほどの人出だ。何より私の気分を害するのはカップルが多いことだった。私も本来ならあれと同じことをしていた筈だ。その思いが胃のあたりでぐるぐると渦巻いている。彼が悪くないことは分かっている。けれど私が今こんな思いをしているのは彼が原因であり、自然彼に怒りの矛先が向いてしまう。だが、そんな気分もすぐに霧散するだろう。この水族館は去年リニューアルされたらしく、テレビでも大きく報道された。記憶が正しければ熱帯魚のフロアが広くあったはずだ。可愛らしいものを見れば気持ちも穏やかになるだろう。
実際にそうなった。私の心はその日の空ほどではないが透き通るほどに洗われた。昔ディズニーの映画で使われた熱帯魚のほか、様々な種類が見られたのも楽しかったし、意外なところに亀が泳いでいたのも、陸地の奥にイグアナがひっそりいたのも面白かった。中身のこぼれてしまった私の心の器が再び満ちる。そんなことを感じた。
 問題があったのは帰りの電車でのことだった。空いている時間を狙って乗り込んだ電車は、午後から出かけようとする人が大半を占めていた。特に私の乗った下り電車は、どこかのイベントに出向く家族連れが何組も乗っていた。その中に一人、まだ幼稚園か小学校の一年生か、その位の女の子がいた。その子は最初椅子に座った母親と話をしていたが、突然駆け出して離れたところに立っていた父親に抱きついた。
その光景に、私は大きな衝撃を受けた。ああ、私はいつ大人になってしまったのだろう。いつからあんなに素直な愛情表現が出来なくなってしまったのだろう。
 私にもあれ位の可愛さを持っていた時期があったはずだ。好きなものを好きと言い、好きな人に体当たりで愛情を見せる。今の私は家族に対してそっけない態度ばかり取り、彼氏に対してはベッドの上でしか好きだと言うことが出来ない。それがとても寂しい。
 大人になることは寂しいことだ。

 彼氏と違って私の実家は近い。大学から電車で二時間くらいの距離だが、毎朝長時間電車に揺られるのは辛く、一人暮らしを体験した方がいいという母の勧めに従って大学近くに部屋を借りている。
 その夜、私は実家に帰った。事前に連絡しなかったため非常に驚かれたが、両親は娘を歓迎してくれた。丁度夕飯の支度をしているところだったので母を手伝い、夕食後は父の晩酌に付き合った。
「私のアルバムとか持ってる?」
 私がそう切り出したのは、酒の肴として私が焼いた魚の味噌漬けをつまんでいるときだった。
「ああ、あるぞ。ちょっと待ってろ」
 そう言い残して父は立ち上がると、少しふらつきながらリビングから出て行った。その間に洗い物をしていた母が顔を出し、首を傾げた。
「どうしたの、急に?」
「別に。ちょっと気になったから」
 そう、と母が頷き台所へ引っ込む。そして私が梅酒を一口飲んでいると父が脇に数冊の本を抱えて戻ってきた。
「ほら、お前の結婚式で流そうととっておいたんだ」
「やめてよ恥ずかしい」
 言いながら一冊を手に取り開く。写真はまだ若い母が赤ん坊の私を抱えているところから始まっていた。母と私が写ったもの、父と私が写ったもの、三人で写ったもの、私だけで写ったもの。病院で撮ったと思われる十数枚の写真が終わってもそれらばかりが続いた。写真に写る両親はどれも満面の笑みだった。
 その後は時代が小刻みに動いていた。家の中で撮った写真ばかりと思えばベビーカーでお出かけした写真が続き、その後に一人で歩く私が写っている。二冊目は幼稚園の入園式から始まった。黄色の帽子と水色の服を着た私が走り回る写真が大量に残され、その合間に旅行に出かけた時の写真が挟まっている。私に物心がついたと思われる時期からは、私の顔も両親と同じ様に満面の笑みになっていた。
「こんなに写真撮ってたんだね。全然覚えてないや」
「小学生くらいまでは結構撮ったんだけどな。中学生になったあたりからお前が嫌がって、――ほら」
 父が最後の一冊を差し出してくる。
「最後は中学入学式だ。運動会にもカメラ持っていこうとしたんだけど、恥ずかしいから止めてって怒られた」
 それは覚えている。中学生になって大人になったような気分だったのに、父から子供のような扱いをされたことが嫌だったのだ。
「ごめんね、お父さん」
 今更だと思うが頭を下げる。しかし父は首を横に振って見せた。
「謝ることじゃないよ。それはお前が思春期を迎えて大人に近づいたってことだ。寂しいことはあっても謝られることじゃない」
「……そう」
 思春期を迎えることが大人になることなのか。その結論に不満を抱えながらも、酒で洗い流すことにした。

 三日後、実家に帰っていた彼が帰ってきた。昼に戻った彼は授業に出ず、しかし荷物を家に置いてきた彼は私の家までやってきた。
「ただいま」
「おかえり」
 彼はとても疲れた顔をしていた。私が夕食の準備を始めるとベッドに倒れこみ、完成するまで一切の言葉を発さなかった。
「いただきます」
 彼はそれだけを言って食べ始めた。一人暮らし同士のカップルはやがて同棲同然の関係になり、私の家にも彼の家にも二人分の食器が用意してある。
 メニューは大根と油揚げの味噌汁、トマトのサラダ、彼の好物の生姜焼きだ。彼がこの日に帰ってくることは聞いていたから事前に用意できた。しかし彼はあまり手を付けず、半分ほど食べたところで手を止めてしまった。
「もういいの?」
 ああ、と彼は頷いて食器を片づけ始める。私も急いで食べ終え、食器を水に浸す。そうして戻れば彼はまたベッドに横たわっていた。
 彼はやはり無言だった。私も彼の無言に無言で応え、冷え切った部屋で聞こえるのは二人の身じろぎと時計の針の音だけ。メトロノームのように規則正しい音の波に身をゆだねていると、やがて彼は重々しく口を開いた。
「死んだのは親戚の姉さんなんだ」
 珍しく真面目な口調で彼は語る。
「十以上歳年が離れていて、幼稚園に上がったころには大人と同じに見えたよ。中学生になるくらいまでは引っ付いて歩いていたっけ。でも中学生になってからはなんとなく恥ずかしくなって距離を取り始めたんだ。反動ってやつかな?」
 彼はそこで大きく息を吐いた。
「――事故だってさ。仕事帰りに居眠り運転してた他の車とぶつかって死んだんだって。まだ三十五だぜ? まだ何度も会えて、何度も話をできて、酒を酌み交わすこともできると思ってた。わざわざ会いに行かないくせにそんなことを考えてた」
 天井を仰ぎ、目元を隠すように腕を乗せる。
「俺、好きだったんだろうな、あの人のこと。初恋かもしれない。でも何も伝えないままで、それが悔しくて、寂しくて。俺、子供だったんだろうなぁ……」
 隠された目元から滴が流れる。指先でその滴を拭うと、彼は赤くなった眼で私と視線を合わせた。
 私は何も聞いていなかった。何も聞かされていなかった。しかしどんな言い訳をしようとも、私が一人でいた時に抱いた感情は否定できないものだ。
 そんな私から彼に言えることなど思いつかない。彼が積み重ねた時間も思いも私の想像が及ぶものではない。ただ彼の悲しみは伝わってくる。放射状にヒビが入ったガラスのような苦しみ。それを癒す言葉を私は持ち合わせない。
 だから私は彼に唇を重ねた。彼の悲しみを吸い取るように、彼の吐息を感じながら唇の湿った時間を過ごす。
 どれだけの時間を過ごしただろうか。どちらからともなく離れた時には、彼の涙はすっかり乾いていた。前髪が触れそうな距離で微笑むと、彼は私の背に手を回してくる。私も応えるように彼に覆いかぶさる。もう一度唇と唇を重ねると、今度は得る感触が増えた。先程食べた料理、おそらく生姜焼きか。ねじ込むように侵入させた舌先に刺激的な感触が伝わる。彼からも交わされる舌先の感触と唾液の味を感じながら、互いの足を絡ませていく。
「――する?」
 息継ぎの間に問うと、彼は抱擁の腕を強くすることで答えた。
 大人だからできる、大人にしかできないやり方は、とても卑怯だ。しかしこれが大人になるということなのか。それ以上のことも思いついたが、言葉にする前に彼の愛撫におぼれてしまった。

 外から聞こえる鳥の囀りで私は目を覚ました。首を動かして窓に目をやると、鋭い日差しからまだ日の出から間もないということが分かる。
 隣では彼が静かな寝息を立てている。彼を起こさぬようベッドから出ようとしたが、一糸まとわぬ姿に早朝の空気は冷たい。逃げるように毛布を深く被る。しかし一度広げて冷気を取り入れたベッドはやはり寒い。暖気を求めて手を動かすと彼の素肌に手が触れた。
「……あったかい」
 彼の腕に触れ、胸に触れ、腹に触れ、腰に触れ、足に触れるために足を絡ませる。その何処も冷えた私の体を温めるのに十分だった。そしてつい彼の顔にまで触れてしまう。彼の顔は他の場所ほどではないが温もりがあり、しかし、
「――――?」
 冷え切っていた私の手で目を覚ましてしまう。おはよう、と寝ぼけた顔の彼に言うと、彼も同じ言葉を返してきた。
「今何時?」
「まだ朝早いから大丈夫」
 言って身を寄せると彼は腕を回してきた。
「昨日はゴメン。変なこと言った」
「謝ることじゃないよ。普段あんなこと言ってくれないもの。それが嬉しい」
「大人になったもんなぁ」
 彼が苦笑する。その言葉に私はこの数日抱いていた思いを口にした。
「大人になるってどういうことだと思う?」
「好きな相手を抱けるってことかな?」
「真面目に答えて」
 きつい口調で言うと彼は数秒考え込む。
「そうだな、……今が続かないって知ることかな? 俺も卒業やら引越しでそれが分かったつもりでいたけど、実際は分かっていなかった。本当に理解したのはあの人の死のおかげだと思う」
 成程、と内心で頷いた。子供の頃は友人関係も何もかもが永遠に続くと思っていた。ただ、と私は答える。
「私はこう思う。大人になるのは体が大きくなるだけじゃないかな、って」
「どうして?」
 考えるきっかけになったあの子供も、今の私も、誰かを愛していることに変わりない。それを表現する手段がたまたま違っていただけで、私が変わってしまったのだと思い込んだ。
 あえて私はそれを告げず、彼の腕の中で体を小さく丸めた。

大人になるということ

 人それぞれの答えがあると思います。正しい答えなんてありませんし、酒が進んだ席でしか話せないような内容ですが、真面目な答えが出たでしょうか。

大人になるということ

たまたま見かけた子供の全力での愛情表現。それができるのは子供だけか、それとも。

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更新日
登録日
2013-04-03

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