ノーヒットノーラン
俺は今、ネクストバッターサークルにいる。よくテレビで見ていると、次の打者が素振りしているあの小さい丸の所だ。
今は地方大会決勝、勝てば夏の甲子園行きが決定する試合の九回裏、一点差で負けていて、しかもツーアウトだ。まさか、アニメとか漫画でよくあるような場面が自分にも迫っているとは思わなかった。
だが、きっとその場面は迫っているだけで、結局は俺の横を通り過ぎてしまうだろう。
なぜなら、今打席に立っている三番は最近不調で、前回、今回の試合どちらもノーヒットなのだ。案の定、すぐにツーストライクと追い込まれてしまっている。
ここからでも、ベンチや観客席の応援からどんよりした空気が漏れているのが見える。
それに、例え三番が打っても結果は変わらないだろう。俺も最近は調子が悪いのだ。いまだこの試合でノーヒットノーラン。四番としての役目を少しも果たせずにいる。
ピッチャーが投げた。大きく外れたカーブ。さすがにバッターも手を出さない。これでツーストライク、ワンボール。
また投げた。今度はストレートだ。コースはきわどいインハイ。つまり、バッター寄りで高い球だ。キン、と金属にかすれる音がする。ボールはキャッチャーの後ろにするどく飛んだ。ファールボールだ。
バッターも粘るが、最終回でツーアウトの現状。緊張感で疲れが見えている。
さらに二球、ピッチャーが投げたが、それぞれボールとファールボールだった。
これでツーストライク、ツーボール。ピッチャーがロジンバッグを手にする。マウンドに置いてある、白いやつだ。
一回から続けて投げているピッチャーにも疲労が見られる。一呼吸おいて、ピッチャーがボールを投げた。
鋭いフォークボール。ストライクゾーンからボールゾーンへ逃げる形だ。思わずバッターがバットを振る。
三振か。
そう思った矢先、信じられないことが起きた。
キャッチャーがボールを取りこぼしたのだ。
コンマ何秒かの沈黙。どこからか声が聞こえた。
「振り逃げだ! 走れー!」
その声は、実は俺だったのかもしれない。何しろ無我夢中だったので、この頃の記憶があいまいなのだ。
キャッチャーが後ろにそれたボールを追いかけて一塁に投げる。しかし、ランナーはすでに一塁を踏み抜いていた。
「セーフ!」
審判の声が響くと同時に、会場が沸き立った。
ウグイス嬢が俺の名前をコールする。いまだ、この試合でノーヒットノーランの四番の名前を。
九回裏ツーアウト、ランナー一塁、一点差。ホームランでサヨナラの場面。漫画やアニメでしかありえなさそうな状況。
しかし、バッターボックスに立つ俺の心情は、主人公とは程遠いものだ。
恐怖、緊張、重圧。
こんな状況で、ホームランどころか、ヒットをどう打てと言うのだろう。三振してしまったらどうなるのだろう。みんなの批判を喰らうだろうか。
ピッチャーを見る。焦りも恐れも感じない、敵を射るような目線が俺に刺さる。
一投目のストレートに手も足もでない。球速自体はたいしたことないのだが、気迫にやられている。相手が、とてつもない大物に見えてくる。
タイムがかけられる。バッターを交代させられるのだろうか、と思っているとキャプテンが近づいてきた。
何か、言われるのかと思った。しかし、キャプテンがとった行動は、俺の背中を思い切り叩いただけだった。
「いってぇ!」
背中をよじる。痛さのあまり、「あぁ」とか「うぉ」とか呻いていると、俺の顔をじっと見てキャプテンは少し頷き、ベンチに戻っていった。
それをみて、急に冷静になった。試合の状況を客観的に見られるようになった。
なんだ、俺はただヒットを出せばいいんだ。そう思った。
だってそうだろう。確かに今、俺たちは追い込まれている。かつてないほどの追い詰められようだ。しかし、バッターの役割はボールを打ち返してランナーをホームに戻すことだ。それは一回表だろうが九回裏だろうが変わらない。ましてや、それがツーアウトだとかなんてとことん関係ない。
バッターボックスに戻って、ピッチャーを見る。相変わらず、俺のことをにらんでいるが、あいつだって等身大の高校生。化け物でもなんでもないのだ。同年代に、気迫で負けるほど俺はへたれじゃない。
三球目が投げられる。緩めのカーブが決まってツーストライク。会場にまたもやあきらめの色が見え始めたが、俺は気にしない。
待つのだ、狙いの球が来るのを。粘って粘って待つのだ。もし、ストライクゾーンにボールが来たら、何とかしてファールにする。そして、さらに待つのだ。
狙いは、三番バッターを空振りにしたフォーク。
ピッチャーが七球目を投げた。
俺は、ボールを見据えながら思い切りバットを振った。
快音が、球場に響き渡った。
ノーヒットノーラン