外の瞳
後半にてベン E.キングの歌『スタンド・バイ・ミー』よりその歌詞<Those Were The Daysより歌詞転載 訳:HideS>を引用しています。また、松任谷由美作詞作曲『ずっとそばに』にある<降り注ぐ八月の雨>と<たなびく夕映えの雲>というフレーズを、オマージュとして作品に入れ込みました(広末晴樹)。そのまま投稿いたしますが、各権利者様の許諾なく本作を商業的に二次利用されることは権利の侵害にあたる恐れがあるかと思われます。投稿者は広末晴樹の創作に関する権利を主張いたしませんが、作中に登場する上記創作物についての権利者様の権利を不当に害する意図を持たず、万一の場合に発生する一切の争訟についても責任が持てませんため、転載等による本作の利用は利用者様の責任においてよろしくお願いいたします。
■起または承5924/起承転結
また吹いた、胸に風がフワッと。
僕はハッとする。
海岸線をドライブしている。ウィンドウを下ろす。潮風を吸い込む。
運転していると、ときに不思議な感覚におそわれる。ここはどこで、今どこに向かって走っているのだろう?
ここは〈外房〉の海岸線で、今はあてのないドライブを楽しんでいるところだ。そう自覚する。そしてまた潮風を吸い込む。夏の香。
「出したくなったら、いつでも言ってね」
ダシタクナッタラ、イツデモイッテネ?
瞬間、混乱。今の状況は?
今は夏、場所は海岸線で、僕はドライブ中。と確認する。うん、間違いない。カーステレオから流れているのは『スタンド・バイ・ミー』。
隣に瞳がいた。
横目で瞳を見た。ガムの包み紙をヒラヒラとさせている。それを見て、自分がガムを噛んでいたことに気がついた。そしてやっとさっきの台詞の意味を理解した。ガムについて瞳は語ったわけだ。
夏の香にガムの香が混じった。
「ねえ」と僕の婚約者はまた言った。「『ジョニーは戦場へ行った』だったか、そんなタイトルの映画、知ってる?」
ジョニーは、戦場へ、行った?
聞いたことがあるようなタイトルだ。でも思い出せない。
広いリビングにいる。二十畳くらいはあるかな、と思う。
古い造りだ。いい感じに色褪せている床。床も天井も、壁も窓枠も木でできている。
格子の窓。斜めに射しこんでいる光。床に長いテーブルの影。テーブルの他に、家具と呼べそうなものは見あたらない。
ここはロフトなのだ。最上階の屋根裏部屋。僕の大切な場所。
東南の隅に、覗き窓のついた古びた扉。見たこともない扉に僕は驚く。こんな部屋あったっけ?
扉の窓から向こうを覗く。と、そこは広い空間で。クラフトショップかなにかのようだ。
なにを売っているのかな。
すると目が合った。商品を並べた長テーブルの向こうに少女がいた。その目が僕を見た。
少女がこちらに近づいてくる。
あれれ、と思う。どうしたことだろう?
ここは僕のうちなのに、そこには知らない扉があって、扉の向こうはクラフトショップで、中には少女がいたりする。
少し怖くなる。
向こう側から扉は開いた。
少女を観察する。髪は黒く肌は白い。中学生くらいの年齢に見える。浴衣、ではないのかな、でも一見してそんな印象の装い。髪留めが銀色に光って飛び魚のようだ。
目を丸くしている。僕のことを知ってるみたいだ。
「まあ」ちょっと古風に、口に手を当てたりなんかして少女は言った。「お久しぶりです。どちらにいらっしゃったんですか?」
いや、こちらにいらっしゃったんですけど、と思う。それよか君、だれ?
「どこかで会ったかな?」
気持ちが言葉になる。
「まあ」少女はまた言う。僕の手をとる。「うちに来て」
うち?
少女の家の前にいた。ありふれた住宅街の中に建つ、普通に近代的な住宅だった。そのことがなぜだか意外に思えた。
「おかあさあん」
呼びかけながら少女は家に入った。玄関の外で待つ。
ほどなく少女の母親と、少女の姉が現れた。
並んだ三人を見て驚いた。みな同じ顔をしている。中学生のA子さん、高校生のA子さん、母親であるところのA子さん。
驚きながらも慌てて曖昧な挨拶をする。
「電車に乗り遅れちゃうから」と少女は母と姉に告げた。そしてまた僕の手をとった。「いきましょう」
イキマショウ?
イキマショウ。
よくわからないままに少女と歩く。駅へ。
また胸に吹く。風がフワッと。
「夢を見ているのです」
モニターされた波形を指し示しながら医者は告げた。
「瞼がピクピクと動いて、夢を見ていることがわかるはずです。もしも患者さんに瞼があったらね」
少女に見覚えがある、ような気になる。
どこかで会った、ような気がする。
例えばネット上のサークルの、最初のオフ会かなにかで。
十人かそこらで丸いテーブルを囲んでいて。そのうちのひとりが少女だった、ようなそんな感じ。
その日が初対面、だけどそれまでにまったく互いを知らなかったというわけでもない。ネット上でいくらか言葉を交わした程度のそんな知り合い、のような距離感。
少女はだれだったっけ?
あれはいつだったっけ?
あれはどこだったっけ?
懸命に記憶を探る。
「ら! 小僧!」だれかが怒鳴る。「電話鳴ってんぞ! とれよ!」
僕は慌てて電話を掴む。
「差し替えの入稿まだですか?」
印刷所からだ。
「すみません」
謝りながら、先輩の方を見る。
「まだだ!」と先輩は叫ぶ。「まだ待て!」
「もう待てません!」と電話も叫ぶ。
木曜日の編集部は戦場だ。
「来た!」とそのときだれかが叫ぶ。「政府からの緊急メール、来た!」
「よし!」と先輩。「発射確定か? いつだ?」
「すでに発射されています!」と声が裏がえる。「目標は」
沈黙。
編集部の窓が震えた。外を見る。閃光。衝撃。
激痛。
「ではでは」横から瞳の声がする。「私たちの物語を語りましょうか」
下ろしたウィンドウからはコパトーンの香。
ハイウェイから見下ろすビーチには、水着姿の女の子。裸足で笑ってる。そう意識した途端にまるで双眼鏡で覗いたみたいにその足が、グッと手繰(たぐ)り寄せられたような気がして慌てて目を逸らす。
視線を路面に戻して僕は、瞳の提案に頷く。
「子供は何人?」と瞳。
子供か、と思う。そして応える。「三人かな?」
「三人ね」
「一姫二太郎、っていうじゃん?」
「バカね。二人でしょ、一姫二太郎なら」
そうか、そうだったな。上が女の子、そして下が男の子。
なんて話していると突然、激しい雨が降り出した。
「晴れてるのになあ」
ワイパーを起動する。
「通り雨よ」
「ひょっとしたら虹が」と言いかけた僕の視界の正面に、白いガードレールが飛び込んでくる。
そして夢から覚めた。
暗闇と静寂の中に僕はいた。
瞳はベッドのわき、かつては婚約者であった塊(かたまり)の、その横にいた。
ラックには夏の写真。並んで笑っている二人。その隣に見舞い客の残していった花。
その花の香も無論彼には届かない。彼には鼻がないからだ。
耳もない。焼け焦げ、捻れて張り付いた、かつては耳であったところの痕跡に向かって、だから瞳は囁く言葉を持たない。
目もない。二つのただ虚ろな穴がある。
二つの穴とは別にもう一つの穴がある。そこには言葉を発する器官があった。今はない。だから瞳が彼の言葉を耳にすることは今後永久にない。
「失礼しますね」とそこへ年配の看護婦がやってきた。
白衣の上に紺色のカーデガンを羽織った看護婦は瞳に言った。「今日は冷えますね」
「ええ」
短く応えて瞳は手をこすりあわせた。
窓の外は冬。枯れ枝が小刻みに震えている。
彼は今、どのような季節にいるのだろうか。
かつて医者は言った。「夢を見ているようです」
塊の両親はそれを聞いて泣いた。
チューブに繋がれてそれは生きている。そして夢を見ている。
「どのような夢でしょうか?」と瞳は医者に訊ねた。
■承または起9276/起承転結
激痛。
最初はそれだけだった。
どこが痛いのかもわからなかった。全てが痛かった。あまりの苦しさに僕は、すぐに意識を失った。
やがて意識を取り戻す。すると堪え難い激痛。
繰り返した。激痛と失神を交互に繰り返した。
いつからだろう。眠りを得るようになった。そして夢のようなものを見た。炸裂する光や、色のない渦巻き。やがて悲鳴が加わった。
そして夢から覚めると、また激痛。
「苦しんでいるのでしょうか?」と瞳は医者に訊ねた。
若い医師は感情をまじえずに応えた。「先週までは苦しかったかもしれません」
「先週までは?」
「ええ」と医者は説明をした。「神経細胞の死滅が進みましたから、今はもう痛みを感じることもないでしょう。モルヒネの投与もストップしました」
痛みすらも感じない、と瞳は医者の言葉を翻訳して呟いた。そしてスッと両手を伸ばしたが、塊には、握ってやるべき手がついてはいなかった。だから瞳の手にできるのは、所在なく宙を舞ったのち、ぎこちなく毛布を掛け直してやることのみだった。
僕は暗闇に浮かんでいた。あたりは静かだった。
目を開けることができない。失明してしまったのか、と咄嗟に思った。それを思うと恐ろしかった。
いやそんなことはない、とネガティブな思いを強引に打ち消した。あれからどのくらいの時間が経ったのかわからないけれど、おそらく今は治療中なのだ。病院に搬送されて僕は、手厚い看護を受けているに違いない。たった今手術室に運ばれたところかもしれない。現代医療はきっと僕を救ってくれる。もう数時間も頑張れば世界は色と形を取り戻す。と、そう信じたかった。
耳を澄ませてみた。静かだ。というのとは違う。無音だ。僕は求めた。幼い夏の日、海で拾った貝がらを耳にあてると聞こえた、例えばあの風のような音を。無音ではない、あのような感覚を。奥行きの存在。それを求めた。けれども。聴力検査のときに閉じこめられた無音室。そのような濃密な静寂を確かめるのみだった。
体を動かそうとした。でも動かない。
助けを求めて口を開けようとするが、そう、まるで金縛りにあったときみたいに動かない。動かしているはずなのに、動いているという感覚がない。
瓦礫に埋もれたままでいるわけじゃないだろうな。と、また悪いことを考えた。だとしたら、大声で助けを求めなくては!
ここにいる、僕は〈ここ〉にいるぞ!
ふと気がついた。あれほど苦しくあれほど痛かったのに、今はもう痛くはない。これこそ治療を受けているという証拠ではあるまいか。
あるいは、と最悪のケースもまた一方で考えた。ここは死後の世界なのかもしれない。僕はすでに死んでしまったのではないか。痛くないのは、喋れないのは、聞こえないのは、見えないのは、動かないのは、僕が〈なくなってしまった〉からではないか。
だとしたら、とまた考えて、声にならない悲鳴を上げた!
ここは永遠なのだ。永遠の暗闇、永遠の静寂、永遠の孤独。
待つべきものはなにもない。誰も助けにこない。ずっとこのまま。
時間。と思った。時間が恋しい。と思った。時計。と、スントのクオーツを思った。誕生日に瞳がプレゼントしてくれた腕時計。
そうだ。瞳。瞳はどうしているだろう。瞳は泣いただろうか。
僕は泣いた。内側で泣いた。漏らすべき声も、こぼすべき涙もなく泣き続けた。
どのくらい?
わからない。
〈ここ〉には時間がなかった。お腹も減らない。トイレに行きたいという感覚もない。
外部世界が感知できないのだから、基準にすべきものがなにもなかった。相対的なものの一切ない、絶対的な孤独。だから時間なんて意味をなさなかった。
死後にも存続する意識。それは時間も空間も持たないのだ。そう思うと発狂した、ような気がした。
夢を見た。サイケデリックな夢。
意識が戻った。そしてまた内側で絶叫した。僕はまだ〈いた〉。無になれなかった。濃密な暗闇と静寂の中に目覚めている〈僕〉という意識。
殺してくれ。と思った。終わりにしてくれ。と願った。消してくれ。と祈った。
そしてまた夢を見た。
そしてまた目覚めた。
本当に僕は死んだのだろうか。
我思う、ゆえに我あり。と唱えてみてふと考えた。考えている。ということは、脳が機能しているということだろう?
ニニンガシ、ニサンガロク、ニシガハチ。と九九を唱えてみた。ほら、ちゃんと計算できる。
ふーけゆくー、あーきのよー、たーびのそーらーのー。と歌ってみた。ちゃんと歌えた。
嬉しくなった。計算できる。歌も失ってはいない。
片っ端から歌を歌った。
疲れると眠った。
眠りながら思った。疲れる?
なにが疲れるというのだろう。
目覚めて答えを見いだした。絶望し続けることに疲れているのだ。
で、また思った。現状に絶望している。ということは、絶望という感情は僕とともにある。絶望を凝視し続けるとくたびれた。ならば、と確信した。くたびれるだけの心が僕にはある。
ということは、と可能性を見いだした。感じたり考えたりくたびれたりしているということこそ、脳が生きているという証拠ではないか。
やはり僕は生きていて、治療を受けている最中なのではなかろうか?
ずいぶんと時が経ったように思うのは錯覚で、実はまだいくらも時間は経過していないのかもしれない。長い夢をわずかなまどろみのうちに見ることがある。あれと同じだ。内的時間感覚はあてにならない。〈ここ〉には時計がないんだから。
あるいは、とさらに力を込めて考えた。身体的には痛みもない、苦しみもない、ということは体が良好に回復の途を辿っているって、やはりその証明じゃないか!
似たようなことを繰り返してグルグルと考えた。
体、と思った。僕の体。
僕の腕でスントは、まだ時を刻んでいるだろうか、それともある時刻を示したまま、息絶えてしまっただろうか?
どうあれ、と抗った。僕の心臓はまだ時を刻んでいるぞ、僕の体は時間の中にちゃんと存在し続けているぞ、きっと!
きっと!
そのとき。
まさにそのとき、奇跡が訪れた、春風のように。
吹いたのだ、まさしく風が、フワッと。
心臓のあたりに風を感じた。
〈感じた〉のだ!
漆黒の海に灯る確かな光だった。全感覚を一点に集中するようにしてそれを求めた。
すると。
また吹いた、風が。胸のあたりにフワッと。
微かだけれど、確かに。
歓喜した。外になにかがある。
僕は〈ここ〉だぞ!
だれかいるのか?
そこにいるのか?
胸のあたりに外部世界を、僕は感じた!
「体を拭きますね」と看護婦が言った。
瞳は毛布を捲(めく)った。フワリと毛布は、空気を踊らせた。
看護婦は、カーデガンを脱いで椅子の背にかけ、そしてベッドから塊を持ち上げた。
塊には腕がなく、足もなかった。腰から下がまるまるなかった。落雷で焼かれたサボテンのように〈それ〉は見えた。
チューブをつけたままの塊を、看護婦は拭き、瞳もそれを手伝った。
終わると塊は、再びベッドに戻された。
瞳がまた毛布を掛けた、胸のあたりまで〈フワッと〉。
寒さを感じることもない、と医者は言った。だから毛布の役割はそう、〈目隠し〉のようなものだった。
人間はどんなことにでも慣れちまうもんだ。というのはカミュの『異邦人』に出てきた言葉だが、これは真実だと僕は悟った。暗闇に慣れ、静寂に慣れ、孤独に慣れた。
風を感じてからというもの、〈待つ〉べきものができた。それは帰郷だった。外部世界への帰郷。
待つべきものがあるということ、それは実に素晴らしいことだった。待つべきものがあるというただそれだけで、絶望は希望に変わるのだ。待つしかないのなら待てばいい。そういうことだった。
孤独を紛らわせるように、これまでの人生のさまざまな場面を回想して過ごした。
例えば、幼かった夏。住んでいた団地前の広場で、ビックリマンシールの交換会をしたこと。蝉時雨に紛れるようにして、丈太郎くんのシールを盗んでしまったこと。あとから罪の意識に苦しめられて、いやいや、あれは本当に苦しかったな。
数年経って、僕の引っ越しの日が近づいて。オレンジ色の夕日に瘡蓋を焼かれながら、やっとのこと罪を打ち明けた。夕日を背にして、いいよいいよと笑ってくれた丈太郎くんの笑顔。彼は今、どこで何をしているのかな。
例えば、高校時代。憧れのクラスメートの自宅を訪ねた日のこと。彼女の部屋に流れていたメロディ。彼女はどうしているのだろう。そうだ、あの日降りたった彼女の駅には、尋ね人のポスターが貼ってあったっけ。あの人は無事に見つかったのだろうか。
なんて次々に回想をした。記憶の引き出しをかき回しては、どんな細部も見逃さずに、まるでプルーストみたいに丁寧に、人生の各エピソードを順に追っていった。
「夢見のスペシャリストです」と医者は告げた。「脳波形を見る限り、実によく夢を見ています」
回想に飽きると、いくつもの新たな物語を紡いだ。他にやることは何もなかったから、物語はたちまち膨大な量になった。磨きに磨かれた想像力は僕を、世界一の金持ちにもしたし、ドラゴンの翼を切り落とす勇者にもした。
疲れると気絶するように眠った。そして夢を見た。
物語を紡ぐ生業(なりわい)のなかで、紡いだ物語の夢を見た。
そうこうするうちに、物語と夢との境界は滲んで、曖昧にぼやけていった。
夢見の技術は洗練され、夢はよりリアルになり、より深く僕を包み込むようになった。
つまり僕は夢を生きた。リアルな夢を。
ときどき〈目覚めると〉そこは暗闇だった。僕のリアル。
暗闇と静寂にいるときは、ただ風を待って過ごした。漂流者が船の影を求めるように。
夢を見ていても風を感じることがあり、その度にハッとした。そうだ、これは夢だったんだっけ。
眠りの底、物語のただ中で空を仰ぐ。そして思う。僕は〈ここにいるよ〉。
だれかいるのかい?
〈外に〉だれかいるのかい?
カーデガンを羽織って看護婦が出てゆくと、瞳はまた一人きりになった。
一人きり?
二人きり、というべきだろうか?
塊は確かに生きている。だが、塊が瞳に意思を伝えることはない。そして瞳もまた塊に、なにも伝えることができない。対話の可能性がない。であれば、やはり瞳は一人きりなのであった。塊が一人きりであるのと同じように。
加湿器のたてるコポコポという音よりほかに、室内に音はなかった。
しんしんとした気配を察知したのか、ふと立ち上がると瞳は、窓辺に歩みより、曇った硝子を指の先で拭った。雪。外界に降る雪は大粒で、白く世界を染めていた。
「これはまだまだ、かなり積もるわね」
瞳は呟いた。塊に話しかけたのであっても自分に話しかけたのであっても同じことだ。瞳の言葉は瞳自身にしか届かない。
重い音をたてて大儀そうに窓は開いた。冷たい外気が吹き込んだ。瞳は目を細めて、ひっそりと、だけどしっかりと呼吸した。
そして、チェーンを装着したタイヤが路面をこする、そんな微かな音を見つめるかのように、そのままじっと動かずにいた。
■転9784/起承転結
いつまで、と看護師は言った。「いつまで看てさしあげるおつもりですか?」
瞳は看護師を見た。
「失礼ながらあなたは、こちらの」と看護師は、ベッドの上の塊を見ながら重ねた。「奥様でも、お母様でもないのでしょう?」
瞳はまた看護師を見た。そして黙ったまま視線を窓に移した。
外には月があった。静かに闇を照らしていた。
「来週ね」と妻が言った。「結婚式があるの、学生時代の友達の」
日曜日の午後のことだった。
「そうなんだ」僕は雑誌から目を離さずに応えた。でもそのあと、だから三万円頂戴、と妻が続けたので顔を上げて妻を見た。「三万円?」
蝉の声。ここは都心の三十階だというのに。
「お祝い包まなくっちゃ」
逞しく生きているのだな、と蝉について思った。こんな都会においても。
「みんなで決めたのよ、揃って三万円にしましょうねって」
マンションの外壁にしがみついている蝉の姿、それを想像してみた。ヤツらはいったい何階くらいまでの高度をその生活圏としているのだろうか。
「頂戴!」
蝉時雨が乱れた。
おいおい、と思った。そんな声出すなよ、鳴き止んじゃったらどうすんだよ、ヤツらにとっちゃこれが最後の夏なんだぞ、最終学年の甲子園なんだぞ。
「いいけどさ」と、それでも僕は応えた。「でも先週も足りなくなって、いくらか補填したばかりじゃないか」
「あれはパパの誕生プレゼント買うのに使ったんだもん!」
との響きに、やっぱり蝉はピタリと鳴き止んでしまった。
ゲームセットか、都心の蝉よ、それで終わりか。と寂しく思った。
妻には毎月、現金を手渡している。食費や生活雑費を、美容院代やお習い事の月謝、その他の交友費と一緒に、話し合って決めた一定の額で任せていた。
「携帯電話の支払いやガソリン代なんかのレジャー費、光熱費やマンションの管理費とかは口座から落ちてるんだから」と僕は文句を言った。「そう毎回は上乗せできないよ?」
妻はグッと詰まった。
子供はなく、妻は専業主婦をしている。
料理はなかなか美味しいし、部屋だっていつも綺麗に片付いている。だから妻の、自身を綺麗に飾りたいだとか、友人との関係を大切にしたいだとか、そういう気持ちはできるだけ尊重してやりたい、と思っている。
年に一度くらいは二人で海外旅行にもでかける。一昨年はサントリーニ島に行ったし、去年はウブドに行った。今年もすでにボラボラ島を予約している。世間様に比べて妻を大切にしていない、という自覚はない。
なのにお嬢様育ちの癖が抜けない妻は生活費の管理が苦手で、渡せば渡すだけ遣ってしまうし、近頃では毎月赤を出してしまっている。
「お金を遣うな、と言ってるわけじゃないんだよ」耳を澄ませながら僕は言った。期待したのは蝉の声。「でも予算のやりくりは覚えなくちゃ。友達の結婚式は半年も前から決まっていたんだろう。だったら」
「結婚式のお祝いは、生活費やお小遣いの範囲の外だもん!」と妻は台詞を被せた。
蝉の出る幕はない。
蝉に申し訳ないような気持ちになって、妻に向かって言葉を重ねる。「ご祝儀だとか誕生プレゼントだとか、そういう前もってわかってるようなお金は、毎月の予算をやりくりしながら貯めておく、みたいなワザも覚えたほうがいいと思うよ。月々の予算はそもそも、不測の要り用も含めて十分な」
「もういい!」と妻はまた台詞を被せる。「ママに出してもらうから!」
これにはカチンときた。「あのね、結婚して君は、もう僕らの船で」
「もういいです!」妻はまたしても僕の言葉を遮って、テーブルの上でミニチュアのホットケーキを食べていた小さなアヒルのぬいぐるみを掴む。「ガーコと出掛けてくる!」
そうして妻は部屋を出て行った。
なんだかな、と僕は思う。天気がいいので、二人で海までドライブしようか、なんて考えていたのに。
結婚前を思い出す。海岸線のドライブ。カーステレオからは『スタンド・バイ・ミー』が流れていたっけ。僕らは〈内房〉の、人にあまり知られていないビーチの近くで車を停めた。午後の日はすでに斜めに傾いていたけれど、その小さなビーチで泳いだ。魚が跳ねてあちこちで光った。
今、この三十階の窓の向こうには、あの日と同じような空が広がっている。あれからどれくらいの年月が経ったのだろう。近頃はよく喧嘩をする。僕がこれだけうんざりしているのだから、妻のほうだってうんざりしているに違いない。
わかりあえないものだな、と積乱雲を見ながら溜め息をつこうとした僕の胸に、なんの脈絡もなくフワッと風が吹いてハッとする。
この風、と思う。懐かしいような哀しいような。
そうだ、あの日も風は吹いた。
僕らはビーチにいた。海亀のように転がって体を焼いていた。打ち寄せる波の音が眠りを誘っていた。甲羅に風を感じた、と思った次の瞬間世界は急に暗くなり、大粒の雨が降り出した。シャワーの蛇口をひねったみたいに。
うわっ、と跳ね起きた。車に避難しようぜ、と言いながらビーチマットをたたもうとすると、通り雨だよ、とのんびり彼女はそう言った。そのうち通り過ぎるから大丈夫、と空を見上げている。
遠くの空は確かに明るかった。雨雲に隠されて見えないけれど、その向こうに太陽があるのは確実だった。
雨は過ぎ去るものなのだ、と悟った。太陽は変わらず天空にあり、僕らは孤独ではなかった。
どうせ濡れるんだし、と言って彼女は立ち上がり、裸足で駆け出した。笑い声を追うようにして僕も砂を蹴った。駆けながら思った。そうさ、どうせいつかは。
「このあたり」と、かつて医者は告げた。
瞳は医者の目を見て、そして塊の胸を見た。
「心臓の真上あたりの、ここらへんの皮膚は生きています」
「生きている?」と瞳は訊ねた。それは象徴的に響いた。
「そうです」と医者は頷いた。「このくらい」と指でOKのサインを作ると、それを塊の胸に翳して彼は続けた。「このくらいの範囲に僅かながら、感覚が残っているものと思われます」
瞳はそのあたりに、おずおずと手を重ねてみた。
「残念ですが」と、それを見て医者は声を落とした。「あなたの温もりを感じられるほどには、その部分も機能してはいません」
黒雲は去り、雨はあがった。陽射しが戻った。
瞳と並んでビーチに座り、沖を見ていた。夕映えの雲がたなびいていた。ブルーと、そしてオレンジ色の水平線。
ふと横を見ると、瞳の頬に涙があった。
「なんで?」と訊ねた。
沖を見つめたまま、瞳は短く応えた。「幸せだから」
その髪が金色に輝いた。
そのとき。
風が吹いた、胸のあたりにフワッと。僕はハッとした。
この風はなんだろう?
なんだっけ?
忘れてしまったのかもしれない。と漠然と思った。とても切実なものであることをどこか深いところで知っているような気がしたから。とても愛しくて、とても哀しいような、そんななにか。
これはなんだっけ?
どこから吹いてくるのだっけ?
冬の窓を瞳は閉めた。振り返って、スリッパの音を重ねながらベッドのわきまで歩き、ラックの上の古いラジオに手を伸ばし、その電源を入れた。
飾ってあった夏の写真はもうラックの上になかった。
無意識の動作で瞳は、ポットをカップに傾けた。珈琲は香った。
〈てなわけで〉とラジオは語った。〈恋人のいるキミもいないキミも、よーくよく聞いてほしい。ぼくらはみんな、たとえひとりぼっちでいても、本当の本当はひとりぼっちじゃあないんだ。ってまあそういうこと。胸に手をあてて聞いてくれ。次の曲『スタンド・バイ・ミー』〉
音楽が流れた。
When the night has come
And the land is dark
And the moon is the only light we see
夜になって
あたりは暗く
月明かりしか見えなくても
If the sky that we look upon
Should tumble and fall
Or the mountain
Should crumble to the sea
見上げている空が
万一 崩れ落ちてきても
それとも 山が
万一 崩れて海になっても
No, I won't be afraid
Oh, I won't be afraid
Just as long as you stand
stand by me
いいや 怖くない
ああ 怖くないさ
君がいてくれさえすれば
君がそばに いてくれさえすれば
水平線にたなびく雲が、三十階の窓から眺める雲に重なった。
まるで、と思った。まるで夢のようだな。
〈降り注ぐ八月の雨〉
〈たなびく夕映えの雲〉
どこかで聞いたことのある歌のフレーズ、みたいな断片たち。今はもう見つけられない、そんなカケラたち。
そんなことを思っていたら、なぜだか急にのっぴきならなく眠たくなって、フラフラとリビングを後にする。
寝室に入り、ブラインドを下ろし、ベッドに身を投げ出して、そして思った。このまま眠ってしまおうかな。
瞳はガーコを連れて、いったいどこまで行ってしまったのだろう。ガーコは手のひらサイズの小さなアヒルだ。黄色い体にピンクのソラマメみたいな足がついている。まん丸な目と反り返ったオレンジ色のクチバシ、それに太めの腕にしか見えないような不細工な翼を持っている。そんなガーコをカバンにギュッとしまってひとり街を歩く瞳の姿を思った。
そしたら突然寂しくなった。それは絶対的な寂しさだった。広い宇宙にぽつんと取り残されたような寂しさだった。
怖くなって、横になったまま亀のように首をもたげて、空を探して窓を見た。だけど窓にはブラインドが下りていて、外は見えなかった。絶望的に見えなかった。外を見たい、と落ちてゆく意識の片隅で強くそう思った。
すると、いつもの風を感じた、胸のあたりにまた、フワッと。孤独の闇に沈みながら、すがるようにその風を見つめた。
『スタンド・バイ・ミー』の流れる個室で、瞳は見つめていた。塊を、長いこと見つめていた。
その唇がやがてふと、やわらかく笑った。
瞳は毛布をフワリと捲り、塊に向かってそっと手を伸ばした。そして
僕は目を覚ました。あたりは真っ暗だった。
ここはどこだろう?
と思った。
僕は誰だろう?
と思った。
ここは我が家の寝室じゃないか、とすぐに気がついた。僕は誰だろう、だなんて変だなそんなの、僕は僕に決まってるじゃないか。
おかしな感覚を振り払うように、二、三度頭を振ってから立ち上がり、窓に向かって歩むとブラインドを上げた。
外はまだ明るかった。
寝ている間に降ったのだろうか、サッシには雨粒がいくつも並んでいて、そのひとつひとつが、今は斜めからの陽を浴びてキラキラと輝いていた。よく見ると、ひとつひとつの水滴の中には〈それぞれの〉青空があった。
そうだ、妻はどうしただろうか。傘を持たずに出たはずだ。すでに戻ってシャワーでも浴びているだろうか?
気配をうかがうが、しんとしている。
寝室を出てリビングに向かう。
リビングには妻の姿もガーコの姿もなかった。バスルームとトイレの様子をうかがうが、やはり妻のいる気配はない。
冷蔵庫から烏龍茶を取り出そうとして異変に気がついた。冷蔵庫の中がガラガラだった。いつもならあるはずのしなびたレタスや食べかけのヨーグルトがない。福神漬けや大根の葉っぱの入ったタッパーもない。我が家は大根の葉っぱをきらした試しがない。僕が毎晩ご飯にかけて食べるからだ。シンクを覗くと洗い終わったタッパーが乾かしてある。おまけにシンクは綺麗に拭き取られていて水滴ひとつ残されていない。
リビングを振り返れば、片付いている。いつにも増して片付いている。洗濯物が丁寧に畳まれてソファの上にあった。
妻はそういう女なのだ。いざ本気で去るときは部屋を完全に片付けて出る、そういうタイプの女なのだ。
タツトリアトヲニゴサズ、ピース! なんて言って笑っているガーコを思い浮かべた。
■結4685/起承転結
そりゃないよガーコ!
と僕は思った。
部屋が片付いているということは、つまり妻は一度部屋に戻ったのだろう。そして荷物をカバンに詰めてから再びそっと出て行った、というわけだ。これはまずいね。
不思議なものだな。と、ひとりぼっちの部屋で考えた。僕はいつからここにいるのだろう。〈ここ〉というのはつまり僕が主人公である、この僕の人生のことだ。
子供の頃のことは覚えてる。でもそれよりも、もっと小さかった頃の記憶は? これはない。いつのまにか僕は世界にいて、いつのまにか僕は僕になった。生まれてくる前、僕はいったいどこにいたのだろう? そこには他に、だれがいたのだろう?
だれかがいたのかな? それともひとりぼっちだったのかな?
なんて、そんなことを考えながら寝室に引き返した。そしてサッシを開けて、小さな水溜まりの残るバルコニーに出た。空はまだ青い。
今だってひとりぼっちだ。と思った。人間なんて本当の本当はみんなひとりぼっちなんだ。
親だって、友達だって、そして妻だって、ひとりひとりはひとりひとりの世界を、ひとりぼっちで生きているのかもしれない。
だって、と思う。毎日一緒に寝起きしてきた妻の気持ちだってちっともわからなかったんだぞ?
あんな些細な言い争いで家を出てしまうだなんて、と考えながら、遠い八月の雨と夕映えの雲を思った。
わからないものだな。そう思いながらバルコニーから下界を見下ろす。街を行き交う人々がここからはアリンコのように見える。ひとりひとりの顔もよくわからない。
あそこを歩いている人々も、みんなそれぞれにひとりぼっちなんだろうか。
はっきりしていることは、と哀しく思った。あそこを歩いているだれひとりとして僕を見てくれてはいないってこと。僕が〈ここ〉にいるってことを、だれも気に留めてくれてなんかいない。彼らがどうであれ、この僕がおそろしくひとりぼっちであることは確かなことだとそう思えた。胸にカラッポの、僕ひとり分の空白を僕は抱えた。
そのときだ。
下界を行き交うアリの群れの中に一点、歩みを止めて空を仰ぐ者の姿を見つけた。
塊の胸に手を置いてから、また放し、そして瞳は指を躍らせた。
ず
指文字が綴られてゆく。
っ
と
地上の小さな人影は、手にオレンジ色の傘を提げていた。
その色に見覚えがある。一昨年のクリスマスは雪の日で、僕らは互いのために傘をプレゼントしあったのだった。瞳はコバルトブルーの傘を僕のために、僕はバーミリオンオレンジの傘を瞳のために、揃いで選んだ。
人影が傘を高く掲げた。そして振った。
遠すぎて表情はわからない。その瞳が向いている方向も定かではない。
でも、その一点を見つめて僕は固まってしまった。
ピョンピョンと跳ねながら傘を振り続けている。人影が見ているのは僕だろうか?
僕が〈ここ〉にいることに、気がついているのだろうか?
手を振り返したくらいじゃ伝わらないだろう。ラジオ体操の[大きく体を捻る運動]みたいに、体全体を使って激しく自身を振ってみた。どうだい? わかるかい?
僕は〈ここ〉にいるんだよ! ここにいて、今君に気づいているんだよ!
そうすると人影は、いっそう激しくジャンプした。
伝わった!
〈ここにいる〉って伝わった!
瞳は、僕を見ている!
僕もますます激しく〈体をくねらせた〉。
ところがまもなく様子がおかしいことに気がついた。ジャンプをいっこうにやめようとしない。オレンジ色の傘で天をつっつき続けている。
なんだ?
なにを伝えたいのだ?
肩越しに空を振り返ってみて、わかった。
虹だ。大きな虹の架け橋が、空のあっちからこっちまで、実にのびやかに、実に鮮やかに架かっていた。しかも虹は二つあった。二重の架け橋。
美しさにしばらくみとれた。橋の袂を手繰って(たぐって)みると、南の端(はし)はビルの合間を縫って遥か彼方より生じていて、では西の端は、とグルリと頭を回してみると、このマンションの壁の向こう側に切れ込むように続いていた。また西から始めて、グルリと視線で橋を渡った。南の端まで辿り着き、そのまま視線を下ろすと、そこに瞳がいた。
もう傘を下ろしていた。虹に気がついた、とわかったのだろう。もう一度だけオレンジ色を高く突き上げてから、そしておそらくは僕らのマンションに向かってであろう、再び歩き出した。よく見ると、傘と一緒に鮮やかなグリーンのバッグを提げている。食材の買い出しに使ういつものエコバッグだった。
ほっとして空を仰いだ。そして二重の架け橋をもう何往復か渡ってから寝室に戻った。
で、気がついた。
枕元にガーコが置かれていた。
さっきまでどうしてその存在に気がつかなかったのだろう?
ガーコが着ている服の、胸のちっちゃなポケットからなにかがのぞいていた。折り紙のように丁寧にたたまれたピンク色の紙。引っ張り出すとそれは置き手紙だった。
開くとそこにはこうあった。
ず
っ
と
そ
ば
に
い
る
よ
〈ずっとそばにいるよ〉と書き終えてから、瞳は少しだけ泣いた。涙は塊の胸にこぼれた。
『スタンド・バイ・ミー』が奏でる懇願に、瞳は静かに頷いた。
ガーコに託されたメッセージを読んだ。
そしてふと振り返り、窓から再び外を見た。
白い月を、そこに見つけた。虹の向こうに僕は見つけた。
月は〈瞳〉のようだった。
月が、僕を見ている。
僕の外にいて、僕を見つめてくれている、そんな瞳を僕は思った。
妻のために珈琲を淹れた。
僕の外にいる瞳のために。
了
外の瞳