マルコとスリム
マルコっていう名前にした。身体が丸々と太っていたし、目もまん丸かったからだ。
マルコは野良猫の割には体の毛が綺麗でつやもあるように見えた。太っているので、やはり動きが鈍い。というか、いつもほとんど定位置から動かない。
ホテルの裏の細い路地、エアコンの室外機の前に、マルコはいつも眠たそうにどっしりと座っている。都会のど真ん中のこんな場所にも、結構野良猫が居たりするものだ。
僕が近づくと、一瞬大きく目を見開き、びっくりしたような顔をする。そして、またお前か……っていう顔をして、目を瞑る。
たまたま見つけた、ただの野良猫になぜ惹かれたのかわからない。客室のメンテナンス中に気分転換で窓を開け、視線を落としたらそこにマルコがいた。次の日の朝、出勤前にマルコの元へ行ってみた。それから、かれこれ二週間になる。悩みなど何もない、苦しいことなど何もない、ただ丸くなっていればいい。そんなマルコがとてもうらやましい。
そしていつからかマルコは出勤前の憂鬱な気持ちをほんの少し癒してくれる貴重な存在になっていた。
小学生一年生の時、短い間だったけど実家で猫を飼っていた。学校の帰りに捨てられていた猫を僕が拾ってきて、両親に頼み込んで家で飼わせてもらったのだ。身体の大部分は白い毛で、腰のあたりにすこしの茶色の毛、左の後脚のあたりにやはりすこしの黒の毛、顔は左の耳の部分が茶色くなっている。
名前はスリムと名付けた。スリムはスリムというか、体が小さくて弱々しくて今にも死んでしまいそうな猫だった。鳴き声も小さくて、エサもあまり食べられない。それでも、頭を撫でてやると、とてもうれしそうな顔をしてミャーと泣く。
自分に重ねていたんだろうと思う。僕はその頃、体が小さくて運動能力もなく、いじめられっ子だった。勉強はそこそこできて、クラスでは上位の方だったのだけど、運動は全くダメでドッジボールなどの遊びでも目立たなかったのでクラスメイトからは雑魚キャラ扱いだった。
そんな自分を慰めてくれたのがスリムだった。スリムは何をするにも一生懸命に見えた。水を飲んでいる姿も部屋の中を歩く姿も体を震わせながら、やっとやっと、こなしているようにみえた。にもかかわらず、僕が学校でいじめられ、落ち込んで下を向いて家に帰ってくるとスリムは心配そうに僕の顔を見上げ体力がないのに必死に鳴き声をあげた。
元気を出せとでも言ってくれていたのだろうか。そんなスリムの姿を見るたびに、自分も頑張って生きていくんだと子ども心には決して大げさではない決意を固めていた。
それは夏休みのとても暑い日だった。僕は近所の噴水のある公園にスリムを連れて行った。あまりに熱いから、スリムに水浴びでもさせてやろうと思い、大きめのタオルを二枚持って出かけのだ。
公園にはめずらしく誰もいなかった。クラスの他の男子に見られたくないなあと思っていたのでラッキーだった。
噴水のところまで行って、スリムを水につけようとすると、どうも嫌がっているようで足が水に着きそうになると、必死に体をくねらせて水を避けようとしている。
その時、後ろから声がした。いつも僕をいじめているクラスメイト達だった。
「お前、猫が水を嫌がるって知らないのかよ」
そう言うと、いじめっこのリーダーで体格の良い近藤が僕の方に近づいてきた。
「俺の家、猫飼ってるから知ってるんだ。常識だぜ、お前可哀想なことしてんじゃねえよ」
知らなかった。猫を飼うのは初めてだったから、そういうことは何も知らなかった。
「おい、お前が飼ってたらその猫、不幸になるから俺によこせよ」
「……だめだよ」
「えっ! なんて言った?」
「スリムは僕と一緒じゃなきゃだめなんだ!」
「いいから、よこせよ!」
その言葉の後に近藤が僕の足を蹴った。それを皮切りに周りにいたほかのクラスメイトも僕に蹴りを入れてきた。弱気な僕はやり返す勇気などなく、じっとしているだけだった。
その時、僕の腕に抱かれていたスリムが勢いよく飛び出して、近藤にとびかかり、腕を引っ掻いたのだ。
「イテエ!」
近藤がひるんだ。その後、僕は咄嗟に両手を前に突き出して近藤の身体を突き飛ばした。近藤は思いのほか遠くまで、飛んで行った。
僕は震えていた。初めてだった。いじめっ子たちに立ち向かっていったのは。近藤とクラスメイト達はびっくりした顔をして、その場から走っていった。
緊張がほどけて、僕はその場にしゃがみこんでしまった。するとスリムが僕に近寄ってきて、小さな声でミャーと鳴いた。
「スリム、ありがとう」それに応えて、スリムはもう一度ミャーと鳴いた。
夏休みが終わり、二学期を迎えた。あの時以来、近藤とそのほかのいじめっ子たちとは一度も会わなかった。
登校するのがちょっと怖かった。あの時の仕返しをされるんじゃないか? あの時は勢いでたまたま喧嘩に勝ったような形になったけど、何度も勝てるわけはないのだ。教室に入ると近藤はすでにいて、自分の席に座っていた。僕に気づくとじろっと僕の目をみて、すぐに目を逸らした。僕はなるべく近藤の方を見ないようにして、自分の席に座った。
近藤は二学期からは僕をいじめなくなった。かといって仲良くなったわけでもなかったけど、僕があの時、突き飛ばしたことで何かが変わったのだろうか。
それ以来、僕からいじめられっ子というレッテルが外され、クラスのみんなが僕を輪の中に入れてくれるようになった。今まで一人もいなかった友達も何人かできて、学校生活が少しずつ楽しくなっていった。以前とは違い、学校から帰って来た時の僕の顔には笑顔が残っていることが多くなった。
Tシャツと半ズボンという服装から、パーカーに長ズボンの服装に変わった頃、スリムが亡くなった。雨が三日間続いたジメジメとした日のことだった。
学校から帰ってくると、小さなスリムの身体を母親が抱きかかえ、何度も何度もゆすっていた。でも、スリムは目を瞑りピクリとも動かなかった。母親の涙が、スリムの目に零れ落ちた。するとスリムも泣いているように見えた。
「浩志、スリムちゃん……」
「うん」
「がんばったよね。本当に頑張った」
「そうだね」
その時の僕は泣くことができなかった。日に日に弱っているスリムを見ていたので、近いうちに別れが来るだろうとは思っていた。覚悟まではできていなかったけど、予測はしていた。スリムが居なくなったら、悲しくて寂しくて仕方がないんだろうと思っていた。
でも、いざその時を迎えたら何も考えられなくなった。悲しいという気持ちを脳みそが受け入れなかったのだろう。ただ茫然と母親の腕の中で動かなくなったスリムを見つめていた。
スリムが何歳だったのかはわからない。見た目がとても弱々しかったから、結構な年齢だったのだろうか。それでも、僕ら家族と一緒に力の限り生きたのだ。老衰で天寿を全うしたのならば、幸せだっただろう。いじめられっ子を卒業して、笑顔で学校から帰ってくる僕の顔をみてスリムは喜んでくれていただろうか。
僕が元気になったから、もう励ます必要はないと……自分の役目は終わったと……そんな思いで天国へ旅立ったのではないかと、自分が大人になった今、思う。
地下鉄銀座線の三越前駅から昭和通りを越えて、一本目の道を右に入った所に僕の勤めているビジネスホテルはある。五階建ての、ボロいというわけではないが決して新しくもかっこよくもない客室数六十室の小さなホテルだ。
右隣にはやはり五階建てぐらいの会社がいくつか入っているビル。左隣は昔からある生命保険会社の八階建てのビル。この一角は秋葉原や汐留、丸の内など新しいオフィスビルがたくさん立ち並ぶ街とは対照的な、三十年位景色が変わっていないようなそんな場所。
場所柄、ホテルのお客様の九割がビジネス客だった。月曜から金曜までの平日は満室になるが、土日祝の休日は空室だらけ。どこかに遊びに行く目的でも交通の便などは悪くないのだが、客室からの景観に難があり観光客の利用はかなり少なかった。このホテルに勤務して三年。半年前に支配人に任命された。それ以来、休日の稼働率をどうすれば上げることができるか? そのことで頭がいっぱいだった。インターネットや雑誌の広告の内容を見直したり、新しい宿泊プランを作ったり、近隣の娯楽施設や観光施設などに出向いて提携の話を持ちかけたり……。でも、なかなか努力が実ることはなく集客を上げることができないでいた。
八時一〇分。今日も三越前駅に出社時間の三十分前に着いた。いつものように、マルコに会いに行こうと細い路地に入る。
「あっ」
思わず、小さな声をあげてしまった。マルコが鎮座している室外機の前には先客がいたのだ。小学一年生ぐらいの少年だ。黒のダウンジャケットに薄いブルーのジーパン、赤のスニーカーを履いて、髪の毛は僕が子供の頃に流行っていたスポーツ刈りのようにしている。
こんなところで小さな子を見ることは今までなかったので、少し驚いた。まあ、オフィス街ではあるが住宅がまったくないわけではない。近くに住んでいる子なのだろうか?
何もなかったようにその横を通り過ぎ、振り返ってさりげなく様子をうかがうと、少年はマルコをかわいがる様子もなく、無表情でただ見つめているだけだった。少年の子供らしくないその雰囲気に思わず凝視していると、少年がふと顔をあげてこちらを見た。慌てて視線を逸らすと次の瞬間、少年は建物の間の狭い隙間に入っていき、そのままどこかへ行ってしまった。マルコは相変わらず、つまらなそうな眠そうな表情を浮かべ、その場に居座っていた。
次の日、僕はいつもよりさらに二十分早く家を出た。昨日の少年がいつから来ていたのかわからないが、このままいつもの時間に顔を出していたら、マルコをとられてしまうような気がしたからだ。我ながら子供じみた考え方だが、たとえ相手が少年とはいえマルコを奪われたくなかった。自分が先にこの時間にマルコをかわいがっていれば、時間をずらしてくれるかもしれない。
七時五十分に駅に着いて、マルコが居る場所に向かう。今日は誰もいなかった。ホッと胸を撫で下ろし、マルコの前にしゃがみこみ頭を撫でながら小さな声で語りかける。「お前はいいよなあ、なんにも悩みがなさそうで」毎回、同じセリフを投げかける。
「お前は生きていて楽しいか?」マルコに話しかけているのか自分に問いかけているのか?きっと、後者の方だろう。
ふと、背後に視線を感じた。何気なく振り返ると、昨日いたあの少年だった。少年は無表情で僕の方を見ている。可哀想なことをしたかな……。ちょっと罪悪感にかられ、少年に話しかけようとした。
すると、無表情だった少年は僕に向けて微笑みを浮かべた。そして、小さくお辞儀をしてその場を去って行った。
マルコをよろしくお願いします。そういう意味だったのだろうか? あの子は以前、マルコを飼っていて、ここに捨てて行ったのだろうか? 次の日から、この場所で少年を見ることはなくなった。
それから一週間が経った木曜日の夕方。本社での会議の後、ホテルに戻る途中に四、五人の子供たちが集まっているのを見た。何気なく様子を窺うと真ん中に一人の男の子がしゃがみこんでいて、その周りを囲んでいる他の男の子たちがその男の子を責めているようだった。
「おい! 俺たちにも触らせろよ!」
その言葉を発した男の子がしゃがんでいる男の子を蹴った。そして、それにつられるようにほかの子たちも蹴りはじめる。しゃがんでいる男の子は蹴られても何も抵抗せず、ただじっとしていた。
僕はあわてて、その輪に駆けよって止めに入った。
「何してるんだ。可哀想だろう。やめなさい」
僕がそう言うと、囲っていた男の子たちは何も言わずにサッっと散らばっていった。
「大丈夫?」
ずっと、しゃがみこんでいた男の子に声をかけた。男の子が顔を上げた。あの少年だった。
「ミャー、ミャー」
鳴き声がした。少年が小さな猫を抱きかかえているようだった。そうか、この猫をいじめっ子たちから守っていたのか。猫が少年の手の中から飛び出した。僕はその猫を見た。小さくて弱々しくて、白い毛並みの身体に少しの茶色と黒の毛。
「スリム……」
ぼそっとつぶやいた。自分の耳に聞こえた自分の声が、子供の頃の声のような気がした。そっくりだった。スリムに。その猫は子供の頃、いつも自分を励ましてくれたスリムにそっくりだったのだ。
僕の足元に何か水滴が零れ落ちた。雨は降っていない。今までずっと自分の中に閉じ込められていたものが自然と外に出てきたようだった。その水滴のせいで自分の頬がむずがゆくなった。
そんな僕を少年はじっと見ていた。そして少年は何も言わず、その小さな猫を抱きかかえ、一度お辞儀をしてその場を去って行った。
その日の夜、帰宅途中の地下鉄の中で僕の頭の中にはいろいろな思いが巡っていた。スリムと一緒にいた時間はそれほど長くはなかったけど、スリムのおかげで自分が変われたのだということを。
今の自分はどうなんだろう? お客様に来てもらおうと支配人として自分なりに頑張っているつもりでいた。でも、一度うまくいかなかっただけで諦めようとしている。どうせ自分にはできるわけがないとすぐに弱気になってしまう。
地下鉄が最寄駅に到着した。駅を出て家まで十分ぐらいの道を歩く。自宅のマンションに着くといつも見かける黒い野良猫が自分の前を走って横切って行った。いつもなら、不吉だと思うのだが、今日はなぜかそうは思わなかった。
次の日の朝、いつもの時間にマルコに会いに行った。地下鉄の出口を出て、見上げると空はまったく疑いようのない青い色をしている。とても爽やかな空だ。
室外機の前にマルコはいなかった。そんな気がしていた。でも、喪失感のようなものは感じなかった。僕はそのまま出勤した。一時間近く早く出勤した僕に夜勤明けのスタッフが不思議そうな顔をしている。
「よし、今日も気合い入れて仕事するぞ!」
「どうしたんですか? 支配人、気合いなんて言葉、今まで使ったことないじゃないですか?」
僕は何も言わずに微笑みを返す。
そこにチェックアウトのお客様がフロントにやってきた。お客様の背中を見送り、ありがとうございましたと声をかけた。
そして外に視線を向けると自動ドアの向こう側にあの少年が立っていた。その横にはマルコがどっしりと座っている。そして少年はスリムにそっくりなあの小さな猫を抱きかかえている。
少年は僕を見ると、にっこりと笑顔を浮かべた。その後、抱きかかえられている小さな猫とマルコの口が動いたのが見えた。
僕は外に出て少年のもとに行き、丁寧にお辞儀をした。僕が頭を上げると少年は走り去っていった。その後をマルコも走ってついて行く。そんなマルコを見て、なんだあんな体でも走ると結構速いんだなあと、クスりと笑ってしまった。
終わり
マルコとスリム