父のスーツ

 クローゼットから取り出した三つ揃いのスーツには、ナフタレンの臭いが染み付いていた。ワイシャツやネクタイも同様で、しかも折り畳まれた形の方が本来あるべき姿だとでもいうかのように、折り目がなじんでいた。そこへきて初めてぼくは、父親の死からずいぶん経ったのだということに気が付いた。両手の指を順番に折って数えてみたが、過ぎてしまった時間は指の間のほんの小さなすきまからすぐにこぼれて落ちて、掴みようがなかった。
 なんとなく引き出しを開けると、ネクタイピンやカフスと一緒に、こざっぱりとしたデザインの時計があった。もちろん針は止まっているが、どうせ出掛けるわけではないのだからと気にせずに腕に巻いた。文字盤の裏のひやりとした感覚。しげしげとそれを眺めながら、こんな時計してたんだなと、ふと思った。自分がそんなふうに思ったことも、ことさら意外だった。
 しばらく鏡の前に立って、前から後ろから点検するように自分のスーツ姿をみていると、玄関のチャイムが鳴った。梓がやってきたのだ。壁に掛かった時計に目をやると、約束の時間のきっかり五分前だった。するとずいぶん長い間、鏡で自分を見つめていたんだなと、苦笑が漏れた。
 ドアを開けると、梓は意外なほど荷物が少なかった。くじらか何かが刺繍された小さな手提げ鞄のほかには、小ぶりな白いケーキ箱の入ったビニール袋をひとつ持っているだけだった。どうぞと促しても、梓は驚いたように目をまるくして立ち尽くし、僕の格好を頭の天辺からつま先まで眺めていた。そうしてしばらくすると、はっと思い出したようにこんばんはと言った。こんばんは、どうぞ。もう一度促すと、うん、と返事をして、いそいそと靴を脱いだ。ドアを閉めて鍵をかけていると、僕より先に梓が歩いていくかたちになる。僕は華奢な後ろ姿を追いかけた。
 しかし、梓の軽快な足取りを見ていていよいよ不安になった僕は、あれ、今日は手料理を振る舞ってくれるんじゃなかったのと、率直な問いを梓の背中に投げかけた。梓は振り向きながら、うん大丈夫だよ、と言ってにっこり笑い、手にもったケーキの箱を差し出した。僕の甘いもの好きを知ってのことだ。受け取りながら素直にうれしくて、なんだかそれも恥ずかしかった。
 梓はキッチンに立つとまず、長いまっすぐな黒髪をうしろで軽く束ね、几帳面に手を洗った。手を拭いたあと、慣れた手つきで引き出しのひとつを開けると、中から見覚えのない、おそらく彼女が買ってきたのであろうエプロンを取り出した。いつの間にそんなところに。肩紐をくぐらせ、素早い手付きで体の後ろで蝶々結びをした(僕はあれがとても苦手だ)。そうして、よし、と合図のように声をあげると、夕食の準備をし始めた。
 あまりに手際が良くて、見ていて感心する。すべての動作には無駄がなく、まるでどこかでリハーサルでも済ませてきたみたいだった。おまけにいつの間に仕込んだのか、手作りのトマトソースやら、ふんだんに香草を入れたオリーブオイル漬けの豚肉やらが、どんどん僕の――他でもない僕の――冷蔵庫から出てくるのだ(それをあらかじめ一 日寝かせておいたのが…じゃーん、こちらです!)。狐に摘ままれたような気分で、梓の軽装が妙に納得されたが、その納得じたいが腑に落ちなくもあった。
 最初こそ僕も何かを手伝おうと近くまで寄っていったものの、変に手伝おうとしてもかえって足手まといになるだけだった。結局のところ、いつの間に、と言うことしかできていないことに気が付いて、馬鹿らしい心持ちなってテーブルについた。諦めてワインを開けてグラスに注いでいると、そうかと思って、と言いながら梓が肉詰めオリーブのフリットを差し出した。これも僕の好物だった。いつの間に。
 オリーブのひとつに、可愛いらしい花のピンが刺さっているのをつまみ上げて口に入れると、小さい頃の記憶が頭のうちで翻って、きらりと光った。正装をしてまさにこのテーブルで食事をする父と母、そしてもちろん僕も。慣れないネクタイがなんだかくすぐったいような心持ちだった。今朝のふとした瞬間に瓶底の澱が舞うようにして思い出された記憶が、一日じゅうぼくの頭を巡っていた。不思議な情景だ。なぜ、食卓で正装なんてしなければならなかったのだろう? オリーブをもうひとつ口に放り込んですこしばかり考えてみたが、分かりそうにない。僕は頭を二三度振って、ワインをすすった。
 ほんの数十分で梓が仕事をすっかり終えてしまうと、四人掛けのテーブルにはおいしそうな料理がずらりと並んだ。すごい、と思ったままを阿呆みたいに口にしてしまう。
「けっきょくね、かなめクン」エプロンをほどきながら梓は、ことさら誇らしげに言う「料理というのは仕込みが最もたいせつなのだよ」
 それさえ出来れば、あとは注意深く調理をするだけなんだ、と言いながらエプロンを彼女の隣、僕の斜め向かいの椅子の背にかるく掛けた。わかるかなあ、かなめクン。梓は腰を下ろすと、束ねていた髪をほどいて、すこし撫でつけた。そこで改めて僕を見て、どうしたのそのかっこう、とすこし笑いながら初めて尋ねた。梓が笑ったので、僕もつられて笑った。
「それが、分からないんだ」分からない? 梓はくすくすと笑った。
「朝シャワーを浴びていたら、急に思い出したんだよ」
 正装してテーブルを囲む僕たち家族。背の高い脚付きのグラスが、柔らかいろうそくの火できらきら輝いているのが印象的だった。おぼろげな記憶を辿ると、それが母の誕生日のことであるように思われた。それで僕たちはおめかししてお祝いをしている。そこまでが僕の、なんとか思い出せたことだった。だがその場所はたしかにこの家の、いま梓とふたりでついている、まさにこの食卓なのだった。
 最初、幼い記憶にありがちな混濁なのだと思った。いろいろな別の思い出と混ざってしまった、幼い時代の記憶のスープ。しかしどんなに思い返してみても、いや、思い返すほどに、それが純粋で正式な記憶としか思えないのだ。でも本当にそうだとして、自宅でお祝いするのに、なぜこんな大袈裟な格好を? 僕も幼いとはいっても、レストランへ連れていくことくらいはできる年頃だったはずだ。いくら考えてみても、むしろ謎は深まるばかりだった。
 結局のところ、僕は諦めて正装した。
「それで、よく分からないけどスーツなんだ?」
 そう言って、梓はまた可笑しそうに笑った。なんだか嬉しいような恥ずかしいような心持ちになった。

 それにしても、と手首に心地よく収まった時計をさすりながら思う。シャツもスーツも、何もかもが僕の体にぴったりだ。父は生前よく、意外とオーダーメイドの方が安くついたりするんだぞと言って、新調するたびに出来立てのスーツを僕に自慢げに見せてくれた。確かにそれは父の体型によく合っていて、子供心にもかっこいいと思ったものだった。そうして何年後かに父の死んだあと、母は遺されたスーツを虫除けまでして大切にしまいこんだ。そのときの僕にはその意図がわからなかったが、実際に着てみるとなんだか分かるような気がした。このスーツはある意味、父を記録として遺すものなのだ。故人の体がこのような容でこの世にかつて存在した。それは場合によっては、直筆の手紙なんかよりもっと生々しく感じられるのかもしれない。
 今、僕の体にぴたりと合うこのスーツを見たら、母はなんて言っただろう。もう今ではそれを聞くこともできないけど。

 時間をかけてゆっくりと料理を食べ終えると、生きているんだ、という実感が湧いた。素直にそう伝 えると、梓は照れながらありがとうと言った。いいお嫁さんになるのが夢、だっけ、と僕はふと思い出して言うと、梓は小さく、ぎゃあという悲鳴を上げた。もう、やめてよねー。
「ほんとよく覚えてるよね、そういう昔のなんでもないことばっかり」
 梓は恥ずかしそうに、両手で顔をはさみこむようにして覆った。いいお嫁さん、というのは小学生の頃の宿題で、将来の夢がテーマの作文を書かされたときに、梓がしたためたものである。
「すると梓は、もうほとんど夢をひとつ叶えたようなものじゃないか。こんな美味しい料理をてきぱきと作れるわけだし、どうやら他の家事も得意そうだし」
 うらやましいなあ、と少しおどけた口調で言ってみて、意外な気分になったことに気付いた。いやいや、そんなはずがある訳ない。どうしてそんな気持ちにならなければいけないんだ。僕は胸に手を当てて確かめてみたがやはり、間違いなかった。
 掛け値なしに、羨ましいと僕は梓に対して思ったのだ。
 そうだ、僕はといえば、その時になんと書いたのか覚えてすらいない。どれだけ思い出そうとしても、まるでだめだった。ワイングラスをぐるぐると回しながら考えてみる。もしかしたらその渦の中心に答えが見いだせるんじゃないか、そんな希望を抱きながら、ひたすらに回す。料理は趣味だし、いちおう長いことバイトでやってましたし、とまだ恥ずかしそうに梓が微笑むのを見ていると、そのうちに、なんだか恐ろしくなってきた。ひょっとして思い出せないんじゃなくて、僕の夢じたいがとっくの昔、永遠に失われてしまったのではないのか? 強い寒気が背中を走り抜けるような気がした。あわててグラスを大きく傾ける。なんだか味がしない。
 まだ飲む? と梓がワインの瓶を持ち上げながら問うた。うん、と答えると僕のグラスに、続けて自分のグラスに注いで、それでボトルは空になった。梓はかるく口を付けてひとくち飲むと、ぽつりと言葉をこぼした。
 たいしたことない夢―――
「えっ?」 なぜだか心臓をぐっと掴まれえたような気がした。どくどくいうのをごまかすようにワインをあおって、いったい何を焦っているのかが自分でも分からなかった。
「だなあ、って。もっとほかに書くことなかったのかな、あの時の私め…」
 そういうと梓はうなだれて、長い髪がぱさりと顔にかかった。
「ばりばりのキャリアウーマン、とか書いてたらさ、もしかしたら私、今ごろは世界を飛び回る女社長だったかもしれないんだよ?」
 顔を上げた梓は笑顔だったが、無理に口の端を持ち上げたような、かえって泣いているような表情に見えた。梓がいったい何を思い悩んでいるのかは分からないが、ただ気の毒だ、と思った。こんな小さな肩で、体で、か細い腕で。こんな弱々しい体で苦しまなければいけないなんて。
「関係ないよ、そんなの!」思ったより大きい声が出て、梓のみならず自らも驚き、ふたりで目を見合わせた。慎重に声量を見積もって出来るだけ静かに、しかしやっきになって再び反論する。
「あんな将来の夢だなんて、宿題だからってよく分からずに無理に書かされたようなものに、人ひとりの運命を左右できるわけないだろう!」まったくそうだ、その通りだ、と心の中で自分自身に賛同する。梓はしかし、泣いたような笑顔のままだった。どうしたっていうんだ梓、なんて顔してるんだ。作文がなんだって? なんなら今からだって、新しく書き直せばいいんだ。そうだろう、梓?
 そうでないならば、「ぼくの将来の夢」をまるで覚えてもいない僕は、いったい何だというのだ?
「大丈夫だよ、梓」力強くそう言ったはずの声は不確かで、僕の口から出たように感じられなかった。そうしてあらぬ方向へ飛んでいって、冷たい壁を何度も何度も跳ね返ってようやく僕の耳に届いた時には、真鍮のようにひやりと無機質だった。少し俯きながら、ありがとう、と梓が弱々しく言ったときに、涙が一粒だけ彼女の瞳から零れおちるのが見えた。その雫はすぐ真下にあったコップの中におちて、ぽちゃん、という小さな音を立てた。
 ああ、もしかしたら――最初からそんなものなかったのかもしれないな。浮かんだ考えをもはや、否定する気力も湧かなかった。
 あの頃の僕たちは、平等に何も持たない純真無垢な存在だったはずだ。恐らく僕はその純粋な汚れない心で、大人たちを喜ばせようとして、ありもしない何かについて書いたに違いない。それも、出来るだけ美しく聞こえるように何重にも装って。そうして書いた何十枚もの原稿用紙たちが、今の僕の体の一部分を形作っているのは、疑いようのない事実のように思われた。

「ところで…夢の実現にはまだまだ、ほど遠いんだよ」
 帰り際の玄関でおもむろに振り返り、梓が言った。黙ったままじっとこちらを見上げてくるので、僕も同じようにじっと見返しながら、そう、とだけ言って続きを待った。いつもにこにこしている梓が珍しく真顔だった。
 しばらくして梓は小さくため息をついて、再び踵を返すと、腰を下ろした。靴を履きながら、お嫁さんには自分ひとりじゃなれないでしょ、ざんねんながらね!  と、こちらを顧みずに言った。僕はなるほど原理的にね、と返したが、それには何も応 えなかった。不機嫌そうに、ぱっと立ち上がった梓だったが、ドアの向こうに消える間際にまた来るね、と言った時には、やはりいつもの笑顔だった。

 しばらく着替える気にもなれずそのままでいたが、決心して立ち上がって、クローゼットまで歩いた。スリーピースのスーツを脱ぎながら、もしかしたら父も同じだったのかもしれないと、ふと思った。父も僕と同じで、おぼろげな記憶の中に不可解な正装を偶然見つけたのだ。そしてその意味もはっきりとは分からないまま、今日の僕のように、とりあえず倣ってみた――なぜだかその仮説はすっきりと僕の心に収まった。よく分からないんだけど、と曖昧に提案する父の姿も、戸惑いながらも楽しそうにそれを受け入れる母の表情も、ありありと思い浮かべることができる。無意味に受け継がれた不思議な伝承。きっとそうに違いない。
 僕は今しがた脱いだジャケットに鼻をつけて、胸いっぱいに空気を吸い込む。相変わらずナフタレン臭かったが、紛れてしまいそうな微かな香りがそこにあるような気がした。

父のスーツ

父のスーツ

ふと思い出された、父と母の不可思議な記憶。 僕は、深い意味もなく、それに倣うことにした。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-31

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