Soma x Soma

Soma x Soma

序章

 1999年7月。
 神戸を舞台に人知れず行われていた戦いがあった。
 それは自らをブラフマンと名乗る男によって立案された神をも恐れぬ実験。
 タロットを神に至る為の教典に見立て、カードの暗示を受けた少年・少女達が、人知を超えた力を持って互いのカードを賭けて戦う。
 そして、全てのカードを手にした者がNo.21世界…神に至る事を証明するというものだ。
 七の月が終わりを迎えようとする頃、その戦いも終局を迎えようとしていた。

 1999年7月31日(土)
 それは心ざわめくような夜だった。
 早過ぎる秋の到来を感じさせるような冷たい空気が吹き抜け、高い空に浮かんだ雲を散り散りに流して行く。
 天上に輝く丸い月は流れる雲によって様々に姿を変え、まるで意思を持つかのような畏怖を放っている。
 そして、北にそびえる六甲山の頂きには黒い闇が広がり、時折稲光と共に腹の底に響くような低い音を放っていた。
 何時もは憎たらしいがばかりに五月蝿く鳴り響く夏の虫達も、これから起きようとしている何かを察してか息を潜め、周囲には沈黙が漂っていた。
 稲光で洋風の趣をした校舎がシルエットとなって闇夜に浮き彫りになる。
 それは六甲山の麓にある県立高校…。
 ロンドン塔と呼ばれる塔屋や、銃眼に見立てた装飾の施された歴史ある校舎が特徴である。
 再び爆音が響き渡ると校舎の屋上で対峙する四人の少年少女の姿のシルエットが浮かぶ。
 異なる制服を着た二人の少年…。
 短髪で中性的な小柄の少年と、額に傷を持つ長髪長身の少年は、互いに強い視線を交わしながら対峙している。
 それぞれの傍らには少女が付いている。
 小柄な少年の傍らにはフリル付きの黒いドレスに身を包んだツインテールの少女が。
 長身の少年の傍らにはショートヘアーのセーラー服を着た少女が寄り添っている。
 黒いドレスの少女は月を仰ぎながら意味深な嘲笑を浮かべる一方、セーラー服の少女は大きな瞳一杯に涙を蓄えて、小柄な少年と長身の少年を交互に見つめている。
「どうしても、戦わなきゃ駄目なの…?!」
 セーラー服の少女が沈黙を破る。
「互いの大切な者を守る為、この戦いは避けては通れない…」
 長身の少年が言う。
「例え誰を相手にしようとも、負けるわけにはいかない…」
 長身の少年はセーラー姿の少女の手を強く握る。
 その手は冷たく生気を感じさせず、そのまま放せば消えてしまうように儚かった。
「お前を運命の呪縛から救う為に…!!」
 稲光の作り出すシルエットの中、長身の少年はセーラー服姿の少女と唇を重ねる。
 すると、少年の額の傷が闇夜の中で強い光を放ち、二人の持つ雰囲気のようなものが何処までも拡大して行く。
 その時、世界は少年と少女だけのものとなったのだ。
 そして、少年の眼前にNo.19太陽と書かれたカードが出現し、回転させながらつかみ取ると、それがチャクラムへと変化し両手に持ち替える。
 一方、小柄の少年に対し、ドレス服の少女は静かに呟く。
「運命を受け入れた者でなければ、未来を変える事が出来ない…。それでもあなたは運命に抗うと言うのですの?」
「僕には無理だ…。君の居ない世界になんか、耐えられないから…」
 小柄な少年はドレス姿の少女の唇に自分の唇を重ねる。
 すると、微弱な光と共に不可視の領域が彼の身体を包み込み、空中に出現したNo.18月のカードをつかみ取る。
 そして、腰に下げた二つの鞘から短剣を両手で抜き放ち構える。
「だから、僕は戦う…!!」
 対峙する二人の少年。
「運命を破壊し世界を創り変える為の犠牲となれっ!!」
「今こそ僕はあんたをっ…!!」
 互いに駆け寄る二人の少年。
 稲光によって影を落とすロンドン塔の尖塔で、スーツにサングラス姿の男がその行末を傍観していた。
「ブラフマン…。この世の全てを知る者…。お父様…。
 真に罪深きは人々を運命の輪へと縛り付けるわたくし達で御座いましょう。
 この永劫に続く輪廻の旅こそわたくし達に架せられし罰に他なりませんわ。
 ですが、後悔はありません事よ。
 幾度と無い刹那の逢瀬を交わす事が出来るのですから。
 そして、旅の果てに本当の強さを手に入れたあの方が、わたくしを解放して頂けると信じてますから」

 1999年7月12日(月)
 神戸の街は新しい朝を迎えようとしていた。
 街の北側に頂く六甲山の稜線をなぞるように光が溢れて行く。
 その麓の斜面には人々が眠りにつく住宅街。
 まだ薄暗く静まり返った空間に鳥のさえずる声が響く。
 斜面を下ると市街地が広がっている。
 生活感溢れる駅やデパート。
 西洋式近代建築物と現代的建築物が混在するオフィス街。
 東西南北を立派な門に囲まれた中華街。
 その全てが暁に染まって行く。
 そして、南には海上に面したエリアには湾岸地区がある。
 倉庫街のクレーン。
 ハーバーランドの観覧車。
 キャンドルのようなポートタワー。
 蒲鉾のようなオリエントホテル。
 埋め立て地へと続くポートピア大橋。
 天を突くような高層ビル。
 海上に特徴的なシルエットが浮かび上がって行く。
 日の光に全てが照らし出されると、まるで海に浮かぶ街のようだった。
 そして、日の出と共に人々は活動を再開し、街は何時もの喧噪に包まれる。
 人々は汗を浮かべながら坂を下り、街を東西に貫く高速道路や幹線道路は渋滞をはじめ、電車はひっきりなしに行き交う。
 その高校にも例に漏れず新しい一日がやって来ていた。
 阪急神戸線の王子公園駅から住宅街を抜け北へと続く坂道を、モダンな制服を着た学生達が列を作って登って行く。
 男子は普通のワイシャツにカーキ色のズボン。
 女子生徒は胸元を黒い紐で編み上げ、襟な白い二本のライン、袖口にタック、胸のポケットには国宝である八咫鏡をデザインした校章が入った特徴的なセーラー服を着用している。
 険しい事で知られるその通学路はさながら山のようで、学校に通う学生や地元民からは観音山と呼ばれていた。
 そして、坂を上り切ると中世ヨーロッパの古城を思わせる外観の校舎が姿を表す。
 特徴的なのはロンドン塔と呼ばれる塔屋で、朝の空に向かって誇らしげに伸びている。
 世界大戦時には陸軍の司令部として使用され、敗戦後には昭和天皇も宿泊したと言う歴史があり、阪神大震災をも耐え切った希少な価値のある建物である。
 その校舎の前で、真夏だと言うのに冬服であるカーキ色の詰襟を着込んだ、屈強な男子生徒達が円を成している。
 その熱気漂う輪の中心にいたのは、動揺の表情を浮かべた小柄な少年であった。
 髪は短くふわっとした猫毛で、成長し切っていない幼い顔つきは中性的な雰囲気だ。
 他の生徒達がカーキ色の学生服を着ているのに、その少年だけは特徴の無い黒い学生ズボンを履いて、そのベルトに乱れたワイシャツを無理矢理しまい込んでいる。
「他校の生徒が何用だ?」
 背丈は普通、七三分けにキッチリと塗り固められた髪型の男子生徒が、小柄な少年に対して詰め寄る。
 何の特徴も持たないような普通の容貌ではあるが、その瞳は光射さない深海を思わせるほど暗く、見つめられると寒気を感じるようだった。
 冬服の制服の襟にはローマ数字でNo.18と記されたバッヂ、腕には風紀委員長と言う腕章を巻いている。
 そして、その傍らにはお下げ髪で、狐を思わせる淵の切り立ったメガネをかけた女子生徒が付き添っている。
 セーラー服の腕章には風紀副委員長の六文字が記されている。
「…僕は今日からこの学校に転校する事になった」
 小柄な少年は言い知れぬ威圧感を感じながらも重たい口を開く。
「では、制服はどうしたのだ?」
「…急な転校だったんで用意出来なかったんだ」
「その程度の答えでは規則を破る理由にはならないな。
 君は何の為に規則があるか解るか?
 それは君達のような一般の生徒が平穏に暮らす為に存在する。
 自分から何も考えない、自分から何も感じない、自分から何も出来ない。
 そんな意思の弱い一者でも、強者の作り出す規則を守る事で、秩序の元で平和に暮らす事が出来るのだ。
 例外を許可したら規則を守って暮らしている他の一般生徒に示しがつかない。
 悪いがこの学校の秩序の為に粛清を受けてもらうぞ」
 お下げ髪の副委員長が跪き、風紀委員長に調教鞭を捧げる。
 その時、副委員長のメガネが残忍に輝くのを小柄な少年は見逃さなかった。
 そして、風紀委員長は小柄な少年に向けて調教鞭を振りかざす。
 だが、その時だった。
「規則の名において流されるまま暴力を振るう…。俺にとって君の方がよっぽどタチの悪い思考停止野郎に思えるな」
 凛と響く声。
 周囲の喧噪にも関わらず何処までも透き通るような不思議な声質だった。
 うめき声を上げながら次から次へと冬服の男子生徒達がなぎ倒されて行く。
 瞬く間に場を囲っていた冬服達は全員地に伏せ、そこに立つのは風紀委員長、副委員長、小柄な少年、そしてもう一人…。
 逆光の中に背が高く細身のシルエットが浮かんでいた。
「邪魔をするなっ!」
 風紀委員長は細身の男子生徒に対して勢い良く調教鞭を振りかざすが、彼はその軌道が止まって見えているかのような余裕さで、体を僅かに横に逸らして避ける。
 そして、そのまま風紀委員長の顔面に向けて拳を突きつける。
「チェックメイトだ」
 一瞬時が止まったかのような沈黙が訪れる。
「今日の所はこの者の強き意思に免じて引き下がるとするが、忘れない事だな。意思の弱い者は規則に従ってこそ平和に生きられるのだ。
 もし、規則を守れないのであれば、この者のように強い意思を示すか、粛清を受けるのみだ」
 そう言うと風紀委員長は仲間達を引き連れて校舎へと退散して行った。
 あまりの事に茫然自失となっていた小柄な少年は、自分を助けてくれた男子生徒をマジマジと見つめる。
 他の生徒と同じくカーキ色の学生ズボンを履いているのだが根本的な次元が違う。
 長く脚にフィットする細身の裁断で股上が浅く、細い胴に蓮華がデザインされたバックルのついたベルトが巻かれ、大きく開け放たれたワイシャツから露出した胸元には法螺貝のペンダントが光っている。
 そして、シャツの襟元にはローマ数字でNo.19と刻印されているバッチを着けている。
 猫化の動物を思わせるしなやかな筋肉を持ち、細身ながらも力強さを感じる。
 動く度にアロマハーブのような香りが漂って来た。
「お嬢さん、怪我は無いか?」
「助けてくれたのは有り難いけど、残念ながら僕は男だよ…!!」
「わるいわるい。君があまりにも可憐なので、そう呼びたくなってしまったのさ」
 彼は長く伸びた黒髪をかき分けて不敵に微笑んだ。
 侮辱のようにも取れる言葉だが、彼が言うと全く嫌みに感じなかった。
「君、転校生だろ…? 転校初日から災難だったね。
 彼らは生徒会長所属の風紀委員さ。武闘派の生徒会長を尊敬するあまり、その歪んだ思想を生徒に押し付けて取り締まる事から、影で粛清委員会なんて呼ばれているんだ。
 でも、決して悪気があるわけではなく、真面目さが行き過ぎているだけなのさ。
 だから、今回の事で学校を嫌いにならないで欲しいな。悪い事もあるかもしれないけど、それ以上に良い事も沢山あるんだから」
 彼の言葉は身をもって証明している事なので説得力があった。
「ありがとう」
 小柄な少年は不器用そうに笑った。
「ようこそ、我が県立高校へ…! 俺は青海奏真、この学校の三年生さ!!」
 差し出された手に気後れしながら、小柄な少年は手を差し出しその名を告げる。
「僕は、僕の名は…」

 Soma × Soma

「えー、本来であれば一学期が終わろうとする時期ではあるが、明日から始まる特別授業に参加する為に東京から転校生を迎える事となった」
 見知らぬ教室、見知らぬ顔に囲まれ、緊張を隠せない小柄な少年は、震える手を制しながら黒板に自分の名を書き記し挨拶をする。
「…僕は走馬竜斗と言います。えっと、東京の学校から来ました」
 竜斗は頭が真っ白な状態で、それ以上何も言う事が出来なかった。
「そんだけかい!!」
 窓際の一角を脚を投げ出して陣取っているツンツン頭の生徒がヤジを飛ばす。
 他の生徒同様、カーキ色のズボンにワイシャツと言う夏服姿だが、襟にはNo.8とローマ数字のバッチを着用している。
 竜斗は彼になんとなく自分と同じ空気…言葉にするならば若干残念な雰囲気を感じる。
「転校生来るっちゅうから、かわいい女の子期待してたのに、色々と期待外れな奴っちゃな!」
 悪かったな、男でしかもつまらん奴で。
 と心で呟きながらも、彼に親近感を覚え緊張を解きほぐすのであった。
「じゃあ、今日一日は皆と一緒に平常授業を受けなさい。席は藩臣の隣が空いているな…」
 先ほどのツンツン頭が、手招きして竜斗を呼ぶ。
「俺は藩臣大河や。よろしゅう」
 拳を突き出したので、竜斗も拳を重ねた。

 そして、授業が開始されたものの、それから先は地獄かと思う程時間が過ぎるのが遅く感じた。
 竜斗は一生懸命授業内容を頭に入れようとしているものの、今までの学校で受けている授業とは次元が根本的に異なり、全く理解出来ないばかりか苦痛でしかなかったからだ。
 正午になる頃には夏の熱さとも合さり、頭がオーバーヒートするんじゃないかと言うぐらい茹で上がっていた。
 授業の終了を告げる鐘が鳴り、昼休みの開始と共に竜斗は屋上に行き、ロンドン塔に寄りかかってぐったりとした。
 だが、いくら塔の影で日陰となっているとは言えこのカンカン照りの太陽だ。
 熱せられた床面は容赦なく竜斗の尻を焼いて行く。
 かと言って立ち上がる気力も無い。
「ああ、太陽が恨めしい…」
 思わずそう呟くしかなかった。
 そんな彼の頬に結露したペットボトルが突きつけられる。
 ひんやりしていて、気持ちよかった。
「お疲れさま」
 まるで鈴を鳴らしたかのように可愛らしい響き。
 顔を上げるとそこには青みがかったショートヘアーの少女が、制服のスカートを押さえて立っていた。
 少し危険なアングルだ。
 まるで子供のように小さな背丈だが、セーラー服に包まれたその肢体は緩やかな曲線を描き、子供でも大人でも無い思春期の少女特有の存在感を放っていた。
 やや丸みを帯びた顔に爛々と輝く大きな瞳と、頭の上でぴょこんと立った黄色のリボンが愛玩動物を思わせ、庇護欲をかき立てられる。
「旭陽空、空って言うの! よろしくね!!」
 まるで吸い込まれるような笑顔だった。
 喉が乾いていると言う事もあり、竜斗は軽い目眩を感じてしまう。
「ありがとっ!!」
 竜斗は差し出されたペットボルトを受け取ると、喉を鳴らしながら一気に食道へと流し込むが、妙な違和感を感じるのであった。
 具体的には味が無く、カルキ臭い。
「って、これ水道水じゃないか!」
「うん、君にと思って買ったは良いんだけど、気がついたら中身が水になっちゃったんだ。何があったんだろうね?」
 と両手を広げ大げさなポースを取る空。
 それがなんだかとっても可愛いらしい。
「ってか、君が飲んだんだろ!?」
 あきれながらも笑顔で返す竜斗。
「そうとも言うかも知れないけど、こう暑くちゃ仕方ないよね!」
 その屈託のないに竜斗は胸が高鳴った。
 ひょっとしたら、僕の緊張をほぐす為にわざわざ水道水を入れて来たりしたのかも知れないと、竜斗は思った。
 …考え過ぎかもしれないし、天然の成せる業かも知れないが、ありがたい事には違いない。
「でも、嬉しいよ…!!」
 それにもしかしなくても、間接キス…!?
 要らぬ妄想で顔を赤くする竜斗の隣に空はふんわりと腰をかけた。
 リンスの甘い匂いがふわふわと漂い鼻孔をくすぐる。
 太陽よりも熱い存在感を隣に感じる。
 どんどん竜斗の胸は高鳴り、息は切れ切れ、熱さからではない大量の汗が吹き出る。
 実際には一瞬の出来事なのだろうが、竜斗には一生に匹敵するほど長い時間に感じていた。
「おっ、こんな所におったんか!?」
 そんな凍り付いた時の中にいた竜斗を大河の声が通常時間軸へと引き戻す。
 正直助かったと竜斗は思った。
 あのまま凍り付いた時の中に居れば、どうかなってしまっていた可能性もあるし。
 大河は竜斗の隣にドッサリと腰を下ろす。
「あちっ! なんやこの熱さは! ケツ丸焼けやないか!! まったく太陽が恨めしいで!!」
 ただ、輝いているだけで恨みを買いまくるとは、まったく太陽は罪な奴だと竜斗は思った。
「どや、この学校の授業は? 殺人級とか思ってるんちゃう…?」
 それは改めて思う必要も無い程、思っている事だった。
 だが、自分の事で精一杯で周囲のことを気にする余裕の無かった竜斗は、ふと隣の席に座っていた大河の授業態度が気になった。
「お前はどうなのよ?」
「舐めてもらっちゃ困るで! 俺は去年からこの学校で授業うけているんや、当然解らないに決まっているやろ!!」
「それ、駄目過ぎだろ!!」
 竜斗は思わずペットボトルで大河の頭を叩いた。
 パコーンと屋上に快音が響く。
「だが、この一年間で解らない事を華麗にスルーするスキルを身につけたんや! 今じゃこの学校の授業なんて心地良い子守唄にしか聞こえへんで…!!」
「それは羨ましいね! 折角、そのスキルを伝授戴いきたいところだよ」
「やっぱし、そうかい。一目見た瞬間解ったで。こいつは同レベルの仲間やと!!」
「その言葉まんま返すよ!」
 二人の笑い声が入道雲が浮かぶ夏の空に響いた。
 竜斗は見知らぬこの地で、長い時を共に過ごした知己を得たようで、たまらなく嬉しかった。
「そういや、竜斗は何でこの学校に来る事になったんや…? 人の事言えへんけど俺らのレベルでどうこう出来る次元じゃあらへんで」
「それ、空も聴きたいな! だって、謎の転校生なんてカッコいいし、気になるもん!!」
 空はキラキラと輝く瞳を竜斗へと向けた。
 竜斗は全身の骨を抜かれたからのように脱力し惚けた。
 その顔が真っ赤となっていたのは言うまでも無い。
「…」
「おいっ、なんか喋れや!!」
 大河に突っ込まれて竜斗は我に返った。
 そして、大河は茹でタコとなった竜斗の顔を見て嫌らしくニヤリと笑う。
「さてはお前、空の事がっ・・・!!」
「ああああっ! 違うっ!! 違うってば!!!」
 畜生、気付かれた!!
 そりゃ、僕は解りやすいかも知れないが、絶対に言われてなるものかと、竜斗は大河の口を塞ぐ。
 出来ればこのまま息の根を止めたいぐらいであった。
「何が違うの? 空がどうしたの?」
 空は首を傾げて笑顔を浮かべる。
「わかった!! 言うからっ!! 何で僕が来たか言うから、その事は金輪際ネバーノーワードな!!」
 大河のその笑顔を例えるとするならば、不審者と言う言葉が最も相応しい。
「地獄の沙汰も金次第と言うし、飯くらい奢ってくれても良いんやでぇ!!」
「しかたない、マックセットで手を打とう…それ以上は出せん!!」
「よろしい、ビックマクドセットで決定や」
「くっ…!!」
 竜斗は期待に胸を膨らませた面々の顔を見渡し、目を瞑り真呼吸をすると重い口を開く。
「ふつう、人が何かをするには語るべき話とかあるだろ…。
 でも、僕にはそういう話は無い、そう、本当に何も無いんだ。
 何も話す事が無いぐらい自分が空っぽだったんだ。
 そりゃ、前の学校でも友達もいたし、楽しい事も沢山あったよ、でも一生懸命今を生きている他の友達と違って、僕には一生懸命になれる事も無くただ生きているだけ。
 勉強や家の手伝をしたり、友達と遊んだり、毎日やる事は一杯あったとしても丸っきり充実感が無くてさ、気がつくとあっという間に時が過ぎて行く。
 時間を作っても何もする事が見つからず結局は無駄に過ごすだけ、ひょっとしたらこのまま人生が終わってしまうんじゃないかって不安になったんだ。
 僕は自分らしく生きたい…、でも自分が何かが一番解らない。
 そう思っている時だったんだ。
 遠い親戚を名乗る人から連絡が入って、この学校で特別な授業を受けてみないかって誘われたんだ。
 そうすれば強くなれるって…」
「そうやったんか」
「でも、竜斗の気持ち凄く解るよ…。
 空の周りにも眩しいぐらいに一生懸命生きていてる人がいるの。
 空はその後を追い駆けているだけで精一杯だから、その人の為に何をして、何を残してあげられるのかって、いっつも考えさせられるんだ。
 まだ、その答えは見つからないんだけどね」
 空は強く握られた竜斗の右手を両手包み込むように覆う。
 その手は柔らかく、竜斗の血は沸騰するかのようだった。
「お互い答えが見つけられるように頑張ろうね」
 とびきりの優しい笑顔。
 互いに見つめ合う。
 竜斗は空しか見えなくなっていた。
 そう、その感情を例えるならば恋。
 空と出会えただけでこの学校に来てよかったと、竜斗は思うのであった。
「ああ、一緒に頑張ろう!!」
 と右手を包み込む空の掌の上にもう片方の手を置く。
 空と触れ合える事が嬉しくてたまらない。
 このまま時が止まれば良いと思った。
「あの、水を差すようで悪いんやけど…」
 だが、その時を大河がぶち壊した。
「なんだよ、邪魔すんなよ!!」
 大河は耳元で小さく呟く。
「こいつ、こう見えて彼氏おるんやで…!」
「えっ!!」
 竜斗は慌てて手を離す。
「どうしたの?」
 空は人差し指を立てて首を傾げる。
 まるでクエッションマークを浮かべているかのようだった。
「ほら、噂をすれば何とやらや」
 そこに現れたのは昼の太陽が作り出す細身で長身のシルエットだった。
 竜斗は彼を知っていた。
 そう、今朝竜斗を助けてくれた三年生で名前は…。
「あっ、奏真おにいちゃん!!」
 空が彼の名を呼んだ。
 登校そうそう颯爽と現れては竜斗を助けた青海奏真その人だった。
「探したよ、空…! おや、君達も一緒だったのか。転校早々友達が出来て何よりだね」
 あまりにも爽やかな笑みだった。
 そんな笑みを向けられたら、誰もが恋に落ちても可笑しくはないだろう。
「まっ、落ちこぼれ同士身を寄せ合って仲良くやらしてもらってるでぇ…!」
 だが、大河はその魅力にあえて逆らうようにジト目で奏真を見つめる。
「自分をそんな風に思っていたら、出来る事も出来なくなるよ。
 人は誰だって色んな可能性を持っているけど、それを実現出来ないのは自分を信じる事が出来ないからさ」
 本気で大河の事を思っているかのようだった。
 言葉から全くの嫌みを感じない。
「さて、行こうか…」
「うん、じゃまた教室でね!」
 と、二人は連れ立って屋上から姿を消した。
 彼らが消えるのを確認してから大河は口を開く。
「そう、空の彼氏はあいつや。この学校一の美男子で、頭脳明晰、運動神経抜群、しかも人格者で、喧嘩も強いと来たもんや。
 おまけに空に自分の事をお兄ちゃんと呼ばせてるなんて、羨ましいにも程があるで!!
 悔しいがケチの付けようが無い男や、残念やけど相手が悪過ぎるで。
 ま、奴の言葉じゃないけど、自分を信じて諦めなければ案外どうにかなるかも知れへんし、陰ながら応援してやるで」
 竜斗はまたも茫然自失としながら固まっていた。
「さようなら、高校二年生夏の恋…」
「諦めるの早っ!!」

 そして、放課後を告げる鐘が鳴り響くと、校内が一斉に若々しい喧噪に包まれた。
 授業が終わった教室の窓から覗く空は急激に暗くなりつつあり、夕立ちが降りそうな気配が気配があった。
「お前、今日はこれからどうするんや?」
 大河は荷物をまとめながら隣にいる竜斗にが声をかける。
「ああ、放課後、この学校に下宿先の人が迎えに来る事になっているんだ」
「…言っちゃアカンかも知れへんけど、その自称親戚って相当怪しいと思うで」
「ああ、解っている」
「なんやったら、俺も一緒に下宿先まで行ったろか?」
「それでも自分自身で決めた事だからさ」
「そか…。それやったら、俺のPHSの番号教えとくから、何かあったら連絡しや!! 何時でも何処でも駆けつけて助けたるで!!」
 大河は竜斗と互いにPHSの番号を交換した。
「…ありがと!!」
「じゃあ、俺は先に行くけど、気を付けるんやで!」
「ああ、また明日!」
 竜斗は大河が教室を出るのを見送った後、重い腰をあげて荷物をまとめる。
 そして、意気消沈と言った顔で廊下を歩きながらため息をついていた。
 息つく間も無く失恋した。
 それもあるかも知れないが、それ以上に他の生徒との差をまざまざと見せつけられ、自分が消え失せてしまいそうだったからだ。
 この学校の生徒は勉強が出来るとか表面的なものだけではなく、何か特殊なものを持っている。
 いや、普通の生徒もいるが、一部の生徒が際立って見えるのだ。
 自分自身を落ちこぼれと称するで大河であってもだ。
 特に奏真は格別であり、次元そのものが違う。
 空の事は好きだが、奏真の恋人ならば仕方ないとさえ思える。
 だが、自分自身を変えたいと思ってやって来たのに、仕方ないと諦めてしまえる事が何よりも情けなかった。
「…そう、自分で決めた事なのにな」
 無意識の内に歩き続けて、どうやって上履きを脱いで、どうやって外履きを履き、どうやって校門を出たか覚えていない。
 気がついたら校門の前に立っていて、校舎の目の前に停まった黒いクラシックカーと、その前で姿勢を正しているメイド服姿の若い女性を眺めていた。
「お待ちしていました竜斗さま」
 メイドと言っても創作の中に出て来る華やかな服装では無く、肌を覆い隠す黒いドレスに飾り気の無い白いエプロンを着用し、金色の前髪をアップにしてフリル付きの帽子で後ろ髪をまとめ、伝統を感じさせるスタイルである。
「私は桝田聖蘭、主の命によりあなたを迎えに来ました」
 彼女は柔和な笑みを浮かべると軽く会釈する。
「…ああ、よろしく」
「主から伝言を承っております。
『これが最後の確認ですわ。
 もし、あなたが本当の強さを手に入れたいのならばこの車に乗って下さいな。
 ただし、もう引き返す事は出来ませんですわよ。
 それでよろしいですの?』
 …との事です。如何致しますか?」
「…行くよ!!」
 そう、僕は自分自身を変えるって決めたんだ!!

 竜斗を乗せたロールスロイス・シルバークラウドツーは、六甲ライナーと呼ばれるモノレールの下を走る橋を渡り、六甲アイランドへと向かっていた。
 六甲アイランド…それは神戸の海に浮かぶ人工の島。
 島の中心地には様々な企業や、住宅街、店舗、公共施設等があり、特にファッション関連の施設が多い。
 また、島の周囲には沢山の工場が建てられているが、人々の暮らす島の中央部分とは公園や遊歩道、緑地等で隔たれ、工場地帯からの排気ガスが都市部へ流れる事を防いでいる。
 まさに人々の生活がデザインされた最先端を行く都市である。
 車が停車した所はかつて六甲アイランドに存在したアミューズメントパークの跡地であった。
 世界最大最多のウォータースライダーが有名で人気を博していたが、かの大震災の際に壊滅的な被害を受けて復旧の目処が立たず、1999年の今となっても廃墟となったまま放置されている。
「降りて下さい」
 聖蘭は竜斗の乗った後部座席の扉を開け放つ。
 空を見上げるとポツリポツリと雨が竜斗の頬を打つ。
 あれだけ晴れて居た空はあっという間に暗雲に包まれ、時折光と共に低く唸るような音を轟かせていた。
「この先に主がお待ちです」
 聖蘭が施設を取り囲むフェンスを開け放つと、竜斗はその敷地内へと足を進めた。
 ガチャンと言う音に振り返ると、フェンスは閉め切られていた。
 そして、間もなくして車を発進させる音が聞こえる。
「一人で行けという事か…」
 敷地内はベニスの街を思わせる運河に囲まれ、幾つかのエリアに別れていた。
 瓦礫を避けながらひたすらまっすぐ進むと、南の果てに桟橋を模していたと思われる場所にたどり着いた。
 そこに三つの人影を発見する。
 竜斗は少し離れた所から三人を観察する。
 一人は竜斗と同じぐらいの背丈でゴスロリ衣装を着た少女だ。
 彼女に対峙するように、カーキ色の学生服を着た七三分けの男子生徒と、お下げ髪のメガネをかけた女子生徒が立っている。
 竜斗はその男子生徒と女子生徒の二人に見覚えがあった。
 今朝、竜斗に体罰を加えようとした風紀委員…通称粛清委員の二人だ。
「貴様巫山戯るな!!」
 遠巻きでも解る程の風紀委員長の怒号が響く。
 七三分けの男子生徒がゴスロリ少女の胸ぐらを掴むのが見える。
 どうやら、風紀委員の二人がゴスロリ少女に絡んでいるようだった。
 朝の自分自身の姿とゴスロリ少女の姿が重なり、竜斗の胸は早鐘を打つ。
 あの二人の事だ暴力的な手段に出るのが目に見えている。
 緊張で脚がガクガクと震え、滝のように汗が流れ喉が乾く。
 雨は音を立てて叩き付けるように強く降り出す。
 周囲が真っ白に反転するかのような稲光と共に、大地を揺るがすような轟音が響く。
 急激に冷える気温の中で、火照った竜斗の体からはゆらゆらと湯気が立ち上っていた。
「どうする…?」
 竜斗は額の汗を腕で拭いながら必死で頭を回転させる。
 電話番号を交換した大河に助けを呼ぶか?
 警察を呼ぶか?
 駄目だ、そんなの間に合うはずがない。
 副委員長が跪き、委員長に調教鞭を捧げる。
 ドクン…!!
 ドクン…!!
 自分の心臓の音がやけに五月蝿く感じ、全ての動きがスローモーションのように感じる。
 どうする…?
 どうする…?
 そう、この場であの子を助けられるのは僕しかいない。
 僕が助ける…?
 体格も精神力も劣っている、何一つ特別なものを持っていない僕が…?
 無理に決まっている…!
 一瞬意識が飛ぶかのような衝撃と共にウォータースライダーの残骸に落ちて弾ける雷光。 
 その時、竜斗の脳裏に長身の後ろ姿が浮かぶ。
 それは今朝、颯爽と現れて助けられた時から、焼き付いて離れない奏真の姿であった。
 そして、奏真が大河に言った言葉がリフレインされる。
「自分をそんな風に思っていたら、出来る事も出来なくなるよ。
 人は誰だって色んな可能性を持っているけど、それを実現出来ないのは自分を信じる事が出来ないからさ」
 そうだ、やる前から諦めていてどうするんだ…!!
 僕は自分自身を変えたくてここに来たんだろ…!!
 僕が彼女を助けなきゃ…!!
「やめろっ!!」
 竜斗は脳裏に焼き付いた奏真の後ろ姿と重ねるように踏み出し、ゴスロリ少女と風紀委員との間に躍り出た。
 僕は奏真先輩みたいになるんだ…!!
「お前は今朝の転校生…! この女の仲間と言うわけか…!?」
「その子に手を出すのならば、僕が相手だ…!!」
「今朝とは違い、今のお前からは強い意志を感じる…!
 良いだろうっ!
 お前の考えを…! お前の感性を…! お前の行動を…!!
 その拳に秘めて見せるが良い!!
 それが出来なければ我が規則に従い粛清を受けてもらうぞ!!」
 対峙する竜斗と風紀委員長。
 その体格差は明らかだ。
 手を拱いていたらやられるのみだ。
 こうなったら、先手必勝!!
 竜斗は拳を振りかざして風紀委員長へと殴りかかる。
 だが、その構えは誰の目から見てもへなちょこであり、風紀委員は難なく避けるとかわし様に鳩尾に蹴りを入れる。
「ぐえっ…!!」
 反吐を出しながら倒れ込む竜斗。
 痛みというより苦しくて目眩がする。
 このまま意識を失った方が楽なのではないかと思うぐらいだ。
 でも、自分が意識を失ったらあのゴスロリの子はどうなる…?
「まただ、まだ終わらないよ…!!」
 竜斗は鳩尾を抑え、目を白黒させながらも立ち上がる。
「実力差は明らかなはずだ…。何がお前をそこまで駆り立てる…?」
「…僕は強くありたいんだ!!」
「その気迫に免じて一撃で楽にしてやる…!!」
 風紀委員長は竜斗に向かって調教鞭を振りかざす。
 風紀副委員長の口元が歪み、狐メガネが雷光で光る。
 竜斗は目を瞑る。
 一瞬、真っ白になった視界が戻った時、風紀委員長の手にした調教鞭は竜斗に当たる手前で静止していた。
 プルプルと震える鞭の先。
「ぐはっ、う、腕がっ…!!!」
 メキメキメキと言う音と共に、ゴスロリ姿の少女が風紀委員長の腕を掴んでいた。
 その手は俄には信じられない程強くめり込んでいた。
 風紀委員長がその細い手を引き離そうと体を引くが、ゴスロリ姿の少女はピクリとも動かない。
「あなたは素晴らしい心をお持ちですわ」
 彼女はもがく風紀委員長を完全に無視して竜斗へと囁きかける。 
 竜斗はその少女の姿をマジマジと見つめた。
 左右の側頭部から垂らした二束の長い銀髪は雨水を吸い艶々と煌めいている。
 フリル付きの黒いドレスに包み込まれたその体は小さく、風が吹けば飛んでしまうまでは無いかと思うくらい華奢であった。
 竜斗と同じぐらいの背丈だが、随分と底の厚い靴を履いている為、実際の身長は空と同じぐらいだろう。
 空とゴスロリ少女。
 同じような体格の二人であるが、雰囲気が空とはまるっきり反対であった。
 空が燦々と輝く太陽だとするならば、眼前の少女は闇夜に静かに浮かぶ月。
 その白い顔はまるで人の魂を吸って動く生き人形を思わせる怪しい美しさがあった。
「あなたと出会える日をどれ程待ち遠しく思ったでしょうか…」
 彼女は竜斗に向かって優しく微笑むと、掴んだ風紀委員長の腕を放す。
 すると、風紀委員長は後ろに向かって大きくバランスを崩し勢い良く尻餅をつく。
「ぐわっ…!!」
 一体、その細い体からどれだけの力を出していたのだろうか…?
 そして、彼女は振り向き様に立ち惚ける竜斗の首に腕を回すとその唇を優しく重ねた。
「ごちそうさま…。その強き思い、このわたくしが確と頂きましたわ…!」
 冷たい雨の中でその柔らかい身体の感触と、ふわっとした唇の感触が余韻として何時までも残っていた。
 彼女は舌鼓を打つと竜斗に微笑みかけて背を向ける。
 その背中は力強く、まるで小さな巨人を思わせる逞しさを感じさせた。
「貴様っ…!! 最早、手加減はしないぞ…!!!」
 風紀委員長は調教鞭を雨の中に投げ捨てると、副委員長を抱き寄せその唇を重ねた。
 すると、風紀委員長の周囲に薄い膜のようなものが広がり、その身体を覆うように収縮して行く。
 そして、目の前に現れたNo.18と月のイラストが記されたカードを掴み取ると、それは半透明の鞭のようなものへと変化する。
 あまりの事に竜斗の思考は停止し、ただただ呆然と眺める事しか出来なかった。
「行くぞっ!!!」
 風紀委員長が鞭を縦に振りかざすと、その先端は何処までも伸びて行き、まるで衝撃波のように少女へと襲いかかる。
 悠長に腕を組んで構える少女。
「攻撃が当たる…!」
 そう思って竜斗が目を瞑った次の瞬間だった。
 少女の姿が消えていた。
「いや、違う!」
 衝撃波を寸手の所でかわすと、その格好からは想像も出来ないスピードで風紀委員長に詰め寄り、その懐に潜り込んでは腰を落とし、身体を捻り込んで彼の鳩尾に向けて崩拳を叩き込んでいたのだ。
 もの凄い勢いで真後ろにすっ飛ぶ風紀委員長。
 ゴスロリ姿がその身体を追いかけるように加速し、その鳩尾に拳の連打を浴びせる。
 殴る!!
 殴る!!
 殴る!!
 そして、とどめの顔面へのハイキック!!!
 風紀委員の身体は錐揉みしながら宙を舞っていた。
 だが、それ程の攻撃を食らいながらも、風紀委員長の身体には一切の傷が無く、何事も無かったかのように起き上がるのであった。
 どうやら、彼の身体を覆う膜のようなものが攻撃を中和しているようだったが、身体に受けたダメージとは裏腹に彼の心は大きく傷ついている事が表情からも伺えた。
「ぐおーーーーっ!!!!」
 理性を無くした風紀委員長は手にした鞭を一心不乱に振りまくる。
 それは無数の衝撃波となり、もはや避ける隙も無いほど縦横無尽に少女へと襲いかかる。
「今度こそ駄目か!?」
 竜斗がそう思った時だった。
 彼女はふわりと広がったスカートをたくし上げると、隠し持っていた日本刀を抜き出し、無数の衝撃波に向かって斬りつけるのであった。
 斬る…!!
 斬る…!!
 斬る…!!
 その鋭い斬撃は全ての衝撃波を切り裂いて霧散させていた。
「なん…だと?! 何故だ…!? 何故、能力を持たざる者に攻撃が掻き消されるのだ…!?」
「あらあら、そんな事も解らないんですの?
 見知らぬこの場に誘い出された未熟なあなたが、共通認識を持つ者の立ち会いも無く、自我領域を完全に確立させられる訳は御座いませんわ。
 つまり、始めからこうなる事は決まっていたとも言えますわね」
 少女が刀を横一文字に一閃すると、風紀委員長の身体を覆う膜が完全に消失して倒れ込む。
「畜生…!!」
 そして、彼が捨て台詞を吐くと、手にしていた半透明の鞭は再びカードへと戻って、濡れた地面の上で怪しく光り輝いていた。
「委員長…!!」
 お下げ髪の副委員長がメガネを憎悪で光らせながらゴスロリ少女へと突進するが、その影が交差する瞬間に手刀が副委員長の首に炸裂して崩れ去った。
「あなた達には最高のディナーを仕立てて頂きました事を感謝しますわ。
 そう、あなた達はわたくしの誘いに乗り、ピエロを演じて見事にあの方の心に火を灯した。
 そして、本当の戦いの開始を前に能力を使ってわたくしに破れ、みすみすその座を明け渡す事になるのですから。
 まさにご苦労様(お馬鹿さん)としか言いようがありませんわね」
 ゴスロリ姿の少女は倒れ込んだ風紀委員長からNo.18と記されたカードとバッチを奪い取ると、呆然と立ち尽くす竜斗に手渡した。
「これは一体、どういう事なんだ!?」
 疑問を口にする竜斗に少女が怪しく微笑みかける。
 雨が上がり真っ赤に染まる夕日が彼女の小さな身体をシルエットとして浮かび上がらせていた。
「そのカードはあなたが本当の強さを手に入れる為の旅の切符となりますわ、大切になさって下さいな。
 そうそう、紹介が遅れましたわね。
 わたくしは香夜姫。
 あなたを呼び出した自称親戚で、あなたの旅の共をさせて頂く者ですわ」
 自らを姫と名乗った少女は、真っ赤に染まった夕空の下、破損して歪なシルエットとなったウォータースライダーの頂を見つめる。
 そこにはスーツ姿の背の高い男が立っているようだった。
「これはわたくしの挑戦でもありますわ、よろしくて…?」
 男が静かにうなずいたようだった。
 次の瞬間、竜斗の手にしたNo.18…月のカードは彼の中に吸い込まれるように消えて行った。
 竜斗が先ほど男が立っていた位置を見ると既にその姿は無かった。

 竜斗は瓦礫だらけの道をひたらす姫の後を追いかけていた。
 見る見るうちに周囲は暗くなり、その肌寒さに竜斗は濡れた身体を振るわせていた。
「あいつら大丈夫かな…?」
 竜斗の言うあいつらと言うのは気絶したまま放置して来た風紀委員の二人だ。
「怪我は無い事ですから、そのうち目を覚ます事でしょう」
「…よく解らないんだけどあの二人を利用して、挙げ句の果てにぶっ飛ばしちゃったわけだろ? ちょっと、かわいそうじゃないかな?」
「あらあら、あなたは優しいのですわね。
 でも、ご心配無く。あの二人も目を覚ましたらわたくしに感謝しますわ、なんと言っても戦いと言う宿業から解放して差し上げたのですから」
「まるで自分が良い事をしたような言い方で吃驚だね」
 竜斗は苦笑する。
「わたくしは正義の味方ですから、当然ですわ」
「嘘くさいなー」
「あら、本当ですわよ」
「それにさっき、ウォータースライダーの上にいる男の人に話かけていただろ? すぐ消えちゃったけどさ、あの人は一体誰なんだ…?」
「全ては追々説明させて頂きますわ。それに無節操に淑女に質問するのは紳士としてあまりに無粋ですわよ」
 こんな凶暴な奴の何処がが淑女なんだ…?
 と竜斗は思ったが、自分の末路を思って口に出すのを止めた。
 そして、辿り着いた先は草がボーボーに伸び切った元駐車場だった。
 かつては沢山の車で埋まっていたであろう駐車場には、たった一台のみ車が停められていた。
 低くかまえるような角張った漆黒のボディ。
 姫はそのドアを夕空に向かって開け放ち、サイドシルに腕をかけてコックピットに滑り込むとキーを捻る。
 そして、唸るようなエキゾーストノイズが響き渡る。
 その鉄の塊はまるで生きているかのような存在感を放っていた。
 さながら悪魔の名を持つ暴れ牛…。
「すげぇ、かっちょいい車だ!!」
 竜斗は思わず感嘆の声を上げていた。
「そうでしょう? これがわたくしの自慢の愛車…ランボルギーニ・ディアブロですわ!!」
「さぁ、乗って下さいな」
 竜斗はわくわくしながら、助手席へと滑り込んだ。
「何処に行くの?」
「わたくしのお屋敷…、あなたの下宿先ですわ!」

 その日は新月に近く夜の闇がより深かった。
 だからこそ、余計に美しく見えるものがある。
 それは札幌、長崎と並んで日本三大夜景と称される神戸の夜景である。
 光り輝く神戸の街は吸い込まれるような闇の中で、散りばめられた宝石のような高貴さを感じさせた。
 市役所や大型の百貨店が並ぶ三宮駅から北に行った所に古い洋館が並ぶ一角がある。
 公園として整備された広場の中央。
 石垣が積まれた丘の上に風見鶏が特徴的な尖塔を擁する煉瓦造りの洋館が佇んでいた。
 周囲には緑が生茂りっている為、暑い夏の夜にも関わらず涼やかな空気に包まれ、まるで通常とは異なる時間軸に存在するかのように静かであった。
 屋敷を取り囲む木製フェンスの庭門には筆記体で「KAGUYA」と書かれていた。
 その一階にあるダイニングで長テーブルを挟んで竜斗と姫は会食していた。
 竜斗は姫の運転する車でここ風見鶏の館まで連れられ、雨に濡れた身体をシャワーで暖めた後、予め届けられていた私服に着替えていた。
 姫はあの時と同じゴスロリ衣装のように思えるが、もしかしたらデザインが同じなだけで違う服かもしれない。
 昔映画で見た未来のジャケットのように自動乾燥機能でも付いていると言っても、姫の場合不思議では無いと竜斗は思った。
 なんと言っても存在が謎過ぎる。
 なんだってアリなような気がしてならなかった。
 そして、ホテルのディナーのように前菜から始まり、スープ、魚介、肉類、デザートと順番通り料理が運ばれて来る。
 料理を運ぶのはメイド服姿の女性…聖蘭であった。
 彼女達の持つ時代錯誤な雰囲気と、屋敷の持つ異国情緒に溢れた雰囲気が合さり、まるでヴィクトリア朝の世界に迷い込んでしまったかのような気になる。
「どうです? わたくしのお屋敷は?」
「なんて言うか、姫のイメージにピッタリだ」
「あら、単純な想像で心外ですわね。あなたの想像で計りきれるほど、わたくしは単純では御座いませんことよ」
 と姫は静かに微笑むと立ち上がって、竜斗の手を取って食堂の外にあるベランダへと連れ出す。
 南側に設置されたベランダは食堂の半分ほどの広さで、かまぼこのような形の三つ並んだ窓から柔らかい光が入り込み幻想的な光景だった。
 高台にある為、窓の向こうには神戸の夜景が一望出来る。
 開け放たれた窓から心地よい風が入り込み、レースカーテンをゆらゆらと揺らしていた。
 姫はベランダの角に置かれた蓄音機で音楽をかける。
 パイプオルガンの音色が響きゴシックめいた雰囲気であったが、よくよく聴くとビジュアル系バンドマリスミゼルの月下の夜想曲だった。
「これ、マリスミゼルじゃないか…」
 と竜斗は思わず苦笑した。
 姫のようにゴシックロリータファッションの女の子達の間に人気を博している事で知られる。
「意外で御座いましょ?」
「イメージ通り過ぎて、ある意味で意外だよ」
 姫がそういう俗っぽいものとは無関係な本物のゴスロリだと思っていただけに意外だった。
 そもそも、本物のゴスロリとは何であるかは解らないものであるが。
「さて、食後のダンスと洒落込みましょう」
 と姫は竜斗の手を取る。
「うわっ、僕踊れないんだけど…!!」
「大丈夫、感性の赴くままリズムに身を委ねれば良いだけですから」
 姫は細身で小柄な体からは信じられないほどの力強さで竜斗をリードする。
 だが、竜斗は姫に対してツーテンポ遅れ、ガチガチとしたぎこちない動きになっていた。
「ぴったりと身体を密着させないと動きがブレますわよ。わたくしと一つになるつもりで腰と腰を重ねて下さいな」
「そんな事言ってもね…」
 竜斗は姫に自分の下腹部を押し付けるのが恥ずかしくて顔を赤くして腰を浮かす。
「あらあら、恥ずかしがる事はありませんわよ。すぐに慣れますから」
 そう言って姫は竜斗の腰を強く引き寄せ、柔らかい女性の下腹部が、男性の硬い下腹部に向かって押し付けられる。
「あっ…!」
 その瞬間、竜斗の血は沸騰して身体の力が抜け、曲に合わせて姫の作り出す流れに誘われて行く。
「ふふふっ、その調子ですわ!」
 軽やかなステップを践み。
 互いの体を引き寄せ。
 腰に手を回しながら駒のように回る。
 長い二束の銀髪や黒いドレスが弧を描き夜に咲く花のように広がる。
 密着した姫の細く柔らかい体は、やや冷たい体温とは裏腹に優しさに満ちている気がした。
 竜斗は本当に姫と一つとなって溶てしまうかのような気持ち良さを感じていた。
 そして、曲が終わると姫はピタッと静止して、ドレスの裾を持ち軽く会釈をする。
「ほら、どんな事でもやれば出来ますわよ。たった一度の人生ですもの、何事も楽しまないと損ですわよ」
「ああ、そうだね」
 竜斗は姫と言う少女に不思議な親しみを感じていた。
 見た所、竜斗と年齢は変わらないように思えるが、あの細くて小さな身体からは想像も出来ない脅威の身体能力を誇り、あんな凄い車に乗ってこんな屋敷に住んでいる。
 そういう表面的なものでは計り切れない謎の人物である事は違いないが、そんな事は関係無く全面的に信頼する事が出来るのだ。
「なんか、不思議だな…、姫と会うのはこれが初めてのはずなのに、全然初めてって感じがしないんだ…。
 なんか、始めからずっと一緒にいる自分自身の一部って言うのかな…? そんな気がしてならないんだ」
「ふふっ、あなたは素晴らしい感性をお持ちですわね。だからこそわたくしの思いを託すのに相応しいと言うものですわ」
「どう言う事…?」
「貴方にしか出来ない事をやって頂きたいのですの。
 そう、それは定められし運命を乗り越えて…、この世界を、このわたくしを呪縛から解き放つ事…」
 姫の表情は真剣であった。
「運命に選ばれし男…青海奏真を倒す事ですわ…!」

第一章

 1999年7月13日(火)
 風見鶏の館のある北野町から県立高校に行く場合、南へと坂を下って三宮駅から阪急神戸線で二駅…王子公園駅で下車、また坂を北へと登って行く事となる。
 朝起きた瞬間から疲労感を覚えていた竜斗は、これから待ち受ける特別授業の前にして、通学路と言う試練を考えるだけで憂鬱だった。
 そもそも昨日は姫が用意してくれたベッドに横たわり、半分眠りについた状態で自問自答を繰り返すうちに、気がついたら朝になっていた。
 実際の所は泥のように寝ていたのだろうが、まるっきり寝ていたと言う実感が伴わない。
 昨日と今日の境界が曖昧だと、体の疲労が回復していたとしても、心の疲労が抜けない気がする。
 そんな事で本来なら自分の脚で通学路を行くべきなのだろうが、聖蘭の申し出を有り難く受け入れ学校まで車で送迎して貰う事にした。
 北野町から新神戸駅へと続く閑静な住宅街を濃淡のロールスロイスが優雅に流れて行く。
 それはシルバークラウド・ツーと言う車である。
 五角形のグリルの頂でスピリットオブエクスタシーと呼ばれる女性像が眩しく輝いている。
 普遍的な丸いヘッドライト。
 大きく盛り上がりリアに向かって流れるフェンダー。
 バンパーなどポイントを押さえたメッキパーツ。
 職人の手によってボディラインに沿って描かれたコーチライン。
 時代を超えた魅力を持つクラシカルな車であり、まるで旧家の貴族を思わせる上品さを感じる。
 その乗り心地はまさしく雲の上を行くがごとく、重力や時間を感じさせない心地よい世界感を持っていた。
 竜斗はソファーのような後部座席に深く腰掛けて心地よい疾走感に身を委ね、流れ行く景色を眺めながら昨日の夜の事を思い出していた。
 それは昨晩の夕食後、姫に唐突な要望を突きつけられた時の事であった。
 風見鶏の館のバルコニー。
 開け放たれた窓から差し込む柔らかい風と星明かりを受けて、レースカーテンがサラサラと煌めいている。
 鈴虫の鳴く声だけが響く静かに響く、幻想的な空間。
 その主が窓の冊子に背をもたれながらも、月夜を思わせる涼しげな瞳で小柄な少年を見つめていた。
「奏真先輩を倒すって、どういう事…?」
 姫は何かを思い出すような遠い目つきで語り出す。
「明日から人間の未知なる力を開発する特別授業と称された戦いが始まりますわ、それは自らをブラフマンと名乗る男によって立案された神をも恐れぬ実験ですの。
 タロットを神に至る為の教典に見立て、暗示により特別な力を与えた少年・少女達を戦わせ、互いの持つ運命の札…アルカナを奪い合わせ、その中で能力を開発して行く…。
 そして、最終的に全てのアルカナを手に入れた者がNo.21世界…つまりは神に至る事を証明すると言うものですのわ。
 あなたは既にその一端をご覧になられたはずですわよ」
「あのウェータースライダーの上にいた奴がブラフマンで、風紀委員長がその能力者か…」
 実際その目で見た事であはあるが、俄には信じられない事だった。
 風紀委員長が副委員長とキスを交わした事によって、半透明の鞭のようなものを具現化して衝撃波を発していた。
 まぁ、能力者でも無い姫の方が圧倒的に強かったわけだが。
「でも、ブラフってハッタリって意味だろ…? 自分をハッタリ男と呼ぶとは凄いとしか言いようがないね…!」
「ふふふっ、ブラフマンと言うのはヒンドゥー教の主神である破壊者シヴァ、保持者ヴィシュヌと並ぶ三神一体の一つで、全ての根源である創造者の名前ですのよ。
 人の身でありながら神を名乗るなんて、ハッタリ男とは言い得て妙ですわね」
「まぁ、確かにそれは言えるな…!
 それで、今は消えちゃったけど、僕が手に入れたカードが奪い合いの対象となるアルカナって奴なの…?」
「そう、本来ブラフマンのゲームにエントリーされていたのはあの少年だったのですが、本戦が開始される前にわたくしに呼び出されて彼はその座を奪い取られた。
 今はあなたがそのアルカナの持ち主で、彼の代わりに戦いに参加する事となりますわ。
 彼らがブラフマンに選ばれた能力者だとするならば、あなたはわたくしに選ばれた無能力者とでも言いましょうか」
「無能力者とは偉い言いようだね…、ってか本当の事だから何も言えないんだけどさ…。
 でも、何でわざわざそんなことをするの…?」
「それはブラフマンの計画を阻止する為ですわ。
 人間の未知なる能力能力を開発する特別授業…、人間が神に至る事を証明する為の実験…。
 ブラフマンがどんな御託を並べ、どんな余興を用意していたとしても、全ては青海奏真と言う男を神へと導く為に嘘で塗固めたシナリオに過ぎないのですわ」
「それの何処が悪いの…? 奏真先輩は非の打ち所が無い人だよ、彼が神になるんだったら世の中もっと良くなるんじゃないかな?」
「まったく、お馬鹿さんですわねぇ…」
 姫は苦笑する。
「この世にあなたが思っているような完全な人間はいませんですわ。
 何故ならば人間は心を捨て去る事は出来ませんから。
 どんな人間だって心があるからこそ、怒り、悲しみ、時に間違いを犯しますわ。
 そんな不完全な存在である人間が神になるなど痴がましいにも程がありますわね。
 人間は心を持った不完全な存在でありながら、力強く生きるからこそ美しく輝く事が出来るんですの。
 それが解らないお馬鹿さんだらけで困っちゃいますわね」
「それは何となく解る気がする…」
「そして、ブラフマンの思惑通り事が進めばこの世界は一度終わりを迎え、ある時点を境に個人のエゴを反映した造り変えられた世界が始まる事になりますわ」
「途方も無い話だね…」
 その言葉の重みに竜斗は夏の暑さからではない汗が吹き出るのを感じた。
「なんだって、ブラフマンって人はそんな馬鹿げた事をするの…?」
「…」
 姫は何かに思い耽るように目を瞑って沈黙する。
「愛と言うものは時に人を狂わせるものなのですわ…。何時か貴方にも解る時が来る事でしょう…」
 姫も何か悲しい思いをして来たのだろうか…?
 竜斗は姫の悲しい表情の裏側にあるものを想像して胸が痛くなる。
「そして、もし青海奏真を倒しその計画を阻止出来る者がいるとするならば、ブラフマンの暗示を受けず能力を持たざる唯一の参加者…、そうあなたを置いて他なりませんわ」
 青海奏真…。
 それは転校早々トラブルに巻き込まれていた所を助けてくれた上級生。
 容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群、人格も優れた完璧な人物…そして、空の彼氏。
 その強烈な印象は脳裏に焼き付いて離れない。
 一方で自分と来たら、女の子と間違われるぐらい背が低くて貧弱で、オマケに馬鹿と来たものだ。
 正直、同じ男子高校生と思えないぐらいの差を感じざるを得ない。
 しかも、全く特殊能力を持っていないと言うのはハンディが大き過ぎる。
「僕にそれが出来ると思っているの…?」
「とても難しい事は確かですが、あなたが本当の強さを身につけられたらば、きっと成し遂げる事が出来ますわ」
「本当の強さか…」
「その道のりに近道はありません事よ。
 人は日々の積み重ねでしか物事を成し遂げる事が出来ませんわ。
 一日一日を、その一瞬一瞬を大切にして、その時々で自分自身が出来る事を考えながら精一杯生きる事。
 それが、いつかあなたにとって掛け替えの無い力になりますわ」

 竜斗を乗せたシルバークラウドツーは県立高校の校門の前へと到着する。
 通学時間と言う事もあり古城のような意匠の校舎の前に沢山の生徒で賑わっていた。
 運転席から降り立った聖蘭は周囲を取り囲む生徒達に一礼し、竜斗を乗せた後部座席のドアを開く。
 親に送って貰って通学する生徒も中にはいるのだろうが、メイドの運転でロールスロイスで正々堂々と送迎される生徒など他にいないだろう。
 その状況を一言で言うとさらし者だ。
 やっぱり、いくら疲れているとは言っても、自分の脚でくれば良かったかと思ったが後悔先立たずだ。
 生徒を山をかき分けて、車椅子を押したツンツン頭の男子生徒が現れる。
 そのツンツン頭は既に見知った顔である大河であり、彼の押す車椅子に乗っているのは見知らぬ女子生徒だ。
「誰かと思たらお前かいっ!! その綺麗なお方はどないしたんや!?」
「ああ、彼女は下宿先のメイドさんなんだ」
「桝田聖蘭と申します。以後、お見知りおきを…」
 と言うと聖蘭は大河と車椅子の少女に深々と頭を下げた。
「…では、私はお先に失礼させて頂きます」
「ああ、ありがとう」
 竜斗はが礼を言うと聖蘭はもう頭を下げ、シルバークラウドツーの運転席へと乗り込むと、Uターンして来た道を戻って行った。
「あないなメイドさんに送り迎えされるなんて羨ましいやっちゃなぁ…!!」
「お前こそ、その子はどうしたんだよ…? まさか、彼女…?」
 車椅子に座っているから身長は解らないが、やや体つきが細い気がする。
 パッツンと切り落とした前髪、サラサラのストレートヘアー、黒々とした瞳が特徴的で、日本人形を思わせる純和風少女と言った感じだ。
「誰が彼女や!! 単なる長馴染みの腐れ縁や!! こんな奴が彼女なんて、天地がひっくり返ってもあり得へんっ!!」
 大河は顔を歪めてオーバーリアクションで否定する。
 大きく開かれた鼻の穴がピクピクしている。
「その顔ムカツクわーっ!! こっちだってお前の彼女なんてマッピラゴメンや!!」
 彼女は車椅子に乗ったまま大河に向けて正拳突きを放つ。
 そこはちょうど大河の股間であり、大河は口から泡を吹いて地に降れ伏す。
「ぐはーっ! チンがぁーーっ!! タマがぁーーーっ!!!」
「そんな大げに痛がるんやないのっ!! 男やろっ!!!」
「いや、男だから痛いのだが…」
 竜斗は思わず縮み上がる。
「うち、こいつの幼なじみでイッコ下の堀江夕鶴言います。よろしゅうね! センパイ!!」
「僕は走馬竜斗! よろしく!!」
 竜斗は思った。
 夕鶴はその見た目に反してかなり恐ろしい。
 逆らうのは止めておこうと。
「使い物にならへんようになったらどうすんやっ!! どアホっ!!!」
 大河はピョンピョンしながら復活する。
「女なんやし、もっと淑やかに出来へんのか…!?
 そう、聖蘭さん見習ったら良いねん…! 彼女はええでぇ!!
 なんちゅうの、プロのメイドさんとして目立たない縁の下の存在に徹してる事で、逆にあの人の持つ美しさや力強さが際立ってる気がするんや!!
 時の権力者が侍女に手を出してみたいな話は幾らでもあるけど、その気持ち痛いほどわかるで!!
 反則やっ…!! メイドさんという存在が反則なんやっ…!!!
 そう、メイドさんっちゅう圧倒的な存在は神に近いと言っても過言ではないでっ…!!!」
「アホぉ…!!」
 プルブルと拳を振るわす大河の股間に向かって正拳突きを放つ夕鶴。
「あ・ぶ・ね・ぇ・!!!」
 だが、大河はその殺気を感じて間一髪の所で避けた。
「何すんねんドアホォ…!!」
「それはこっちの台詞や…!! ホンマ最低やなコイツ…!!! 
 そんなにメイドさんが良いならば、自分がオカマになってメイド服着れば良いんや!!」
「うっ…。想像してしまった…」
 竜斗は今世紀最悪の映像を想像して吐き気を催した。
 そんな彼らに二つの影が近寄りつつあった。
 大河がそれに気がついて竜斗に耳打ちする。
「やっかいな奴らが来よったでー」
 時代外れのリーゼント頭に丈の長い詰襟を着込んだ男子生徒。
 詰襟にはNo.15のバッジをつけている。
 ちりぢりとしたパーマ頭に丈の長いスカートを着込んだ女子生徒。
 男子生徒の腕章には生徒会書記、女子生徒の腕章には生徒会会計。
 大凡生徒会とは思えない品性の欠片も感じさせない男女二人組であった。
「自称生徒会四天王の登場やで…!! あいつら文武両道の生徒会長、副会長の名を盾にして暴力を振るう最低の連中やで…!!」
「うちも暴力は大嫌いや…!!」
「お前がそれを言うか…!?」
「でも、ホンマに最悪やね…!! なんやねん生徒会四天王って…!? お笑いにしてもセンス無さ過ぎよ…!! アホちゃう思うよ…!! うちが彼奴らのオカンやったら、間違い無く吉本で修行させるよ!!」
「偉い言われようだな…」
「それにしても、四天王がいきなりお出ましとは変へやな…。いつもは粛清委員ちゅう取り巻きがまず出て来るんやけど…」
 自称生徒会四天王の二人は竜斗達の前に来るとポケットに手を突っ込んで、顎を突き出して舐めるようにガンを飛ばす。
 何とも言い難い香水と、汚物を思わせる口臭が最悪だ。
「おい、何時も連れてるむさ苦しい取り巻きはどないしたんや…?」
「あ? 生徒会長様に粛清されたにきまってんだろ、ダボぉ!! 一度でも負けた奴らには俺らのチームには必要ねぇーんだよ!!」
 そう、それは昨日の事だ。
 朝一番で粛清委員会にからまれた竜斗を助けに入った奏真により、屈強な体格の男子生徒達が一網打尽にされた。
 そして、その夕方には彼らのリーダーである風紀委員長は、妙な能力を発揮させた挙げ句に姫によって叩きのめされたのは記憶に新しい。
「ってか、そんなん関係ねぇーだろ!? てめーだよ、てめーっ!! 何で車で登校してやがんだよ!! あ!?
 しかも、制服が違うじゃねーか!? あんまナメてんと、どうなるか解ってるよな!?」
 と生徒会書記は竜斗の襟首を掴み上げる。
 近づけば近づく程臭いがキツく、下手すると吐きそうな勢いだ。
「だから、知らないって…!! おえっ…!!」
 と顔をしかめて吐きそうになるのを我慢する竜斗。
 もし、吐いたら本当に大変な事になる。
「あ? 何嘔吐いてやがるんだ!? マジ、粛清してやんぞ、ゴラッ!!!」
「こら駄目や…!! ねぇ、大河…!! 竜斗センパイ助けへんと…!!!」
 夕鶴は大河のズボンの裾を掴む。
 大河はダラダラと冷や汗を垂らしながら、竜斗を助ける為に一生懸命考えている風だった。
「言わんでも解っとる!! ああ、どうすりゃいいんやろ…?!」
 そして、大河はあるものを発見する。
 それは大量の女子生徒を引き連れた髪の長い冬服を着た細身の男子生徒が、清ました顔で校門を潜っている姿だった…。
 襟首にはNo.3のバッジを着用している。
 いや、正確に言うと男子生徒ではない。
 男子生徒の格好をした三年の女子生徒でフェンシング部長である宝塚舞だった。
 芝居がかったその言動やルックスから、その手の世界に憧れる女子生徒達に大人気であった。
「おい、何で竜斗の校則違反が駄目で、あの宝塚舞の校則違反は良いんや!? 女が男の服着てハーレム作っとるなんて、どう考えてもおかしいやろ!!」
 勝った…!!
 大河は心の中でガッツポーズを繰り出した。
 暴力には正論!! これで間違い無いはずや…!!
「あ? それは強いからに良いに決まってんだろ…?!
 あいつはフェンシング部の部長で、大会でも優勝した事あるから、何やっても良いんだよ!!
 テメーらみたいに弱い奴は何やっても許されねーに決まってんだろ!!
 あんまフザケた事ばっか言ってると、テメーラもシバくぞコラ!!」
「そ、そんなの理不尽やっ!!」
「車椅子のお嬢ちゃんをシバくのはアタイに任せなっ!!
 動けない相手をいたぶるのはゾクゾクするしねぇ!!」
「うわっ、あんなブスにやられるなんて嫌やわ…!!」
「おいっ、止めろっ…!! 悪いのは僕だ…!! 大河達は関係ないだろ…!? だから、大河達に暴力を振るうのだけは止めてくれ…!!!」
「あ!? そんなの無理に決まってんだろ!? 弱い奴は無条件で粛清決定なんだよっぉ!!!」
 そう言うと生徒会書記はその拳を竜斗に振りかざした。
「粛清してやるっ!!」
「うぁーっ、まんまんちゃんっ…!!!」
 大河は目を瞑り関西訛りのお経を唱えて竜斗の無事を祈った。
「待て下郎共っ…!!」
 その時だった。
 まるで時代劇に出て来る将軍のように威厳溢れる声だった。
 その声の主はひと際背が高く、オールバックに縁なしメガネ、冬服の詰襟と言った風貌の威圧的な男子生徒だった。
 その襟にはNo.4のバッジが輝いている。
 そして、その傍らには男子用の冬服を着用し、長い髪を後ろに束ねた中性的な顔つきの生徒が付き添っている。
 オールバックの男子生徒は生徒会長、髪の長い生徒は副会長の腕章をそれぞれ着用している。
「開戦前に選ばれし者同士の私闘が禁じられている事を忘れたのか?! こぉの痴れ者がぁーーーーっ!!!」
 まるで夕立に伴う雷のような声が、晴れた夏の朝空へと響き渡る。
「ははっ…!!」
 生徒会書記と会計の二人は文字通り雷に打たれたかのように体を振るわせると、竜斗を手放してアスファルトに頭を擦り付けるように土下座する。
「でも、こいつはアルカナじゃありませんぜ…!! こんな貧弱な奴が選ばれるわきゃ無いし、第一バッジを持ってないじゃないっすか!?」
「目に見えるものばかりに捕われるから貴様は馬鹿なのだっ!!」
「ま、まさか、こいつがそうなんすかっ…!?」
「間違い無いだろう。貴殿の持っているNo.18のバッジを見せて頂こう…」
「ああ…」
 竜斗はポケットから昨日、姫が風紀委員長から奪い取ったNo.18と書かれたバッジを取り出した。
「やはり、貴殿であったかっ!! 面白いっ!! 面白いぞっ!!!! よもや無能力者でありながら我が配下を倒し、アルカナの座を奪い取る猛者はがいようとはっ…!!」
 生徒会長は扇子を仰ぎ豪快に高笑いする。
「おまっ、何やっとるんや!?」
 大河が竜斗に思わず突っ込みを入れた。
「いや、正確に言うと違うんだけどさ…」
「あ…!? てめぇの理由なんて知らねぇんだよ…!!!」
 如何にも臨戦態勢の生徒会書記は目に血管を浮かび上がらせては竜斗に詰め寄る。
 だが、そんな彼を嗜めるように生徒会長は静かに重く口を開く。
「もし、この者が戦場を生き伸びるだけの力を持つのならば、やがては戦場で相塗れる事となるだろう。
 その時、雌雄を決すれば良い。
 だが、それまでに負けてしまうような器であれば、その時、粛清を加えれば良いだけだ」
「でも、会長っ…!」
「見苦しいぞ貴様!! 強き者の道理が通り、弱き者は淘汰される…それがこの世の定めなのだ!! 己の言葉は戦いで示せ!! では、行くぞ皆の者ぉ!!」
 生徒会長は生徒会の面々を引き連れて校内へと消えて行った。
「てめぇ、覚えてろよっ!! いつか粛清してやるからなっ!!!」
 と生徒会書記は竜斗に捨て台詞を吐いて行くのであった。
「なんだか知らへんけど、助かったでー…」
「ホンマやね…」
「助かった…のかな?」
 竜斗にはこれが戦いの始まりのような気がしてならなかった。

 教室に入り授業の開始を告げるチャイムが鳴り響くと、教壇に立った担任に生徒一人一人の名前が呼ばれて個別に指示を受けていた。
 指示を受けた生徒から順番に荷物をまとめて教室から出て行く。
 教室は何時もと違う緊張感に満ちあふれていた。
「旭陽空…!」
 そして迎えた空の番。
「ひ、ひゃい…!! わたしでよろしいんでしょうか…?」
 椅子をひっくり返して勢い良く立ち上がり、右手をあげて返事する空の声は裏返っていた。
 小さい背丈の頂でピョコンと立ったトレードマークのリボンも心無しか硬く見えた。
「他に旭陽空がおるわけないやろっ…!! ほら、速く行かへんか…!!」
 竜斗の隣に座る大河は空のあまりにもおかしな様子に思わず突っ込まずには居られなかった。
 そして、左手と左足、右手と右足を同時に出しながら教壇へと向かう空。
 何となくロボット的なガチガチした動きだ。
 言い知れぬ緊張に満たされた教室にクスクスと言う笑いがわき起こる。
 竜斗は可愛らしい空の姿をじっくりと眺めてホッコリする。
 昨日の昼休みもそうだったけど、空は人の心を癒す天才かも知れない。
「いくらなんでも、緊張しすぎやないか…? 事前に特別授業での自分自身の役割を知らされとって、これは最終確認に過ぎへんのに…」
 大河は笑いながら言う。
「僕、知らされてないんだけど…」
 竜斗がボソっと返す。
「…大丈夫や! こういうのは緊張するだけ損ってもんやで!」
「藩臣大河…!」
「おっ、俺の番やな…! ほな、お先に行って来るで…!! あくまで正々堂々とやっ…!!」
 そう言って教壇へと向かう大河の顔は青ざめ、額には汗がぎっしり浮かび、やはり左手と左足、右手と右足が同時に出ていた。
「自分だって緊張してるんじゃないか…!」
 竜斗は思わず突っ込まずには居られなかった。
 そして、一人一人教室から生徒が減って行き、竜斗はその度に言い知れぬ不安を感じていた。
 まさか、自分だけ呼ばれないパターンじゃないの…?
 なんと言っても人為的に放り込まれた例外エラーと言っても過言ではない存在だ。
 やがて教室には竜斗一人だけが残され、その予感は的中する。
「先生…? 僕は…!?」
「…」
 何その沈黙は…!?
「走馬竜斗…。君はNo.18、月のアルカナとして特別教室に行ってもらう…。だが、こんな例外があるとは…」

 特別教室として指定された教室に向かうと、そこには既に他の生徒達が勢揃いしていた。
 青海奏真と旭陽空。
 藩臣大河と堀江夕鶴。
 生徒会長と副会長。
 生徒会書記と会計。
 宝塚舞とその追っかけ女子。
 他にも知らない顔が幾つもあるが、皆ただ者では無い雰囲気である。
 学年もクラスもバラバラな総勢30人、15組の生徒達。
 まさに蒼々たる顔ぶれであった。
 気後れしている竜斗に奏真が優しく声をかける。
「ふっ、君が最後の候補者みたいだね。こんな所で会うなんて、運命を感じざるを得ないな」
「…それ男の子に言う台詞じゃないよぉ」
 奏真の隣に座った空が思わず苦笑する。
「ふっ、運命的な出会いには男も女も関係ないものさ」
「もう、お兄ちゃんったら変態なんだからっ! 取り敢えず大河と夕鶴の隣があいているみたいだし座ったらどう…?」
「うん、あんがと…」
 竜斗がコソコソと空いている席に座ると、隣に座った大河が拳を突き出して来た。
 竜斗はそれに応えて拳を合わせる。
「よー、やっぱり一緒やったなぁ!!」
「これが例の特別授業で選ばれた人達か…?」
「そうみたいやな…!! 腹に一物抱えとるような奴らばっかや…!! もう、思わず武者震いするで…!!」
 そう言う大河の顔は青ざめて、体はガクガクブルブルと震えている。
「それ、ヘタレ震いやろ…!!」
 と大河の隣で車椅子に座った夕鶴が突っ込んだ。
「にしても、何かおかしくあらへんか…?」
 大河が竜斗の隣の席を見る。
 大河と夕鶴も含めて他の生徒達は二人一組で席に着いているが竜斗の隣の席だけは空いていた。
「二人一組でパートナー組むっちゅう事になっているんやけど…!!」
「あ、やっぱり…?」
 昨日の粛清委員長の戦いしかり、そんな気がしていた。
 竜斗は汗が吹き出る額をポリポリと掻いた。
「これ、体育の時に一人はみ出て先生とボールパスするって次元の虚しさじゃあらへんね…!!
 ごっつかわいそうやわ、竜斗センパイ…!! 誰かパートナー組んでくれる人おらへんの…?」
 あえて言うならば姫って所だが、少なく見積もっても学生とは思えないので、パートナーとなる事は出来ないだろう。
「まったく、泣けて来そうだよ…」
「って、もう泣いてるやろ…! 相変わらず心折れんの早いやっちゃなー!!」

 そして、竜斗達が待つ教室にスーツ姿でサングラスをかけた長身の男が現れた。
「私は精神学、脳神脳神経学者として、人間の能力を開発する研究機関に勤め、君たちの特別授業を取り仕切らせて頂く者…。
 そして、内に秘めた力を具現化する方法を確立した最初の能力者。
 ここではあえてNo.0 愚者のブラフマンと名乗らせて頂こう。
 短い間ではあるが、よろしくお願いする」
 間違い無い。
 昨日の夕方、レジャー施設廃墟のウォータースライダーの頂きにいた人物だ。
 竜斗はその男をマジマジと見た。
 長身でスタイルが良い為に若々しく見えるが、口元には年齢を感じさせるほうれい線が刻まれている。
 長い髪をオールバックにした額に一筋の傷がある以外、まるっきり普通の人と言った雰囲気であった。
 とても、おかしな計画を実行する狂気的な人物とは思えない。
 それどころか何処か哀愁のようなものが感じられ、他人とは思えないような親しみさえ覚えてしまった。
 気になったのは奏真とブラフマンの関係だ。
 奏真は自分自身が利用されている事を知っているのだろうか?
 竜斗はふと奏真とその隣に座った空の表情を盗み見たが、二人からは何も感じる事が出来ない。
 いや、初対面の人間を見る場合、皆なんらかの表情を浮かべるのが当たり前だ。
 逆に何も感じさせないと言う事は、関係性を持っているか、もしくは感情を押し殺しているかどちらかでは無いかと思った。
 考え過ぎなのかも知れないが。
「君達には繰り返し見る夢と言うものがあるはずだ。
 例えば私はある者と共に月夜の空の下、摩天楼を飛び交う夢を頻繁に見ていた。
 繰り返し見る夢…それは潜在意識の象徴である。
 私はそれに絶対的な意味合いを持たせる暗示を君達に、そして自分自身に施術した。
 その暗示こそがタロットカードの役柄であるアルカナだ」
 竜斗はブラフマンの言うある者という存在が気になった。
 きっと、彼にとって大切な人に違いない。
 それに夜の街を飛ぶ夢を見るなんて、夢見がちな高校生の竜斗からしてもロマンチストな人だと思えた。
「タロットカードは占いの道具として知られているが、そもそもは56枚の小アルカナと、22枚の大アルカナを使用した遊戯が起源であり、君たちも遊んだ事があるだろうトランプの一種だ。
 占いとは偶然性に必然的な意味を見い出す事で、複雑な要素が絡み合って形成される運命を読み解く行為であり、ある種のジンクスを統計学によって高度に発達させたものだと思って良い。
 タロットカードを使った占いもその一つではあるが、神秘的な役柄に絶対的な意味があると多くの人々から妄信されている。
 信じると言う行為は人間の未知なる力を引き出す引き金となり、ただの偶然でも意味があると信じ込む事で、実際に運命を呼び込んでしまう事がある。
 結果としてタロットカードの的中率は非常に高いものとなっている。
 つまり、アルカナとはそれ程強い力を持つ暗示なのだ」
 ブラフマンの話は意味が解らない所もあるが、説得力があり引き込まれるものを感じる。
 姫から彼の計画の事を事前に聴いていたと言う事もあるが、ひっとしたら彼の話そのものが虚実を織り交ぜ、自分の世界に生徒達を引き込む為の暗示なのでは無いかと思った。
「そして、私はアルカナの暗示が埋め込まれた潜在意識の象徴を、特定の条件下で具現化する方法を確立した。
 そう、私の場合はその条件が揃った時において、実際に街の空をビルからビルへと飛び移る事が出来るようになったのだ。
 だが、私の能力はそれ以上でもそれ以下でも無い。
 私は更なる能力を求め資質ある二人の男女に教皇と女教皇の暗示を与え、発案した能力開発プログラムを受けさせたが、究極と言える領域にまでたどり着く事は出来なかった」
 自分だったら空を飛べるだけで十分だと思うのだが、何故それ以上の物を求めているのか、考えても解らず竜斗は眉間に皺を寄せた。
「そして、この学校の生徒で資質を持った有志に協力して戴き、アルカナの暗示を持つ能力者を増やしたが、誰一人として究極の暗示を受け入れ、その能力を発動する者は存在しなかった。
 究極の暗示…それは最後のアルカナであるNo.21世界。
 究極の能力…それは世界そのものを夢見たままに書き換える能力に他ならない。
 No.21世界は完全な存在を示し、ヒンドゥー教のシヴァ神や聖書のアダムに関連づける学者もいるように、まさに神そのものである。
 諸説あるがタロットとはNo.0である愚者…つまり人間が、No.21である世界…完全な存在に至るまでの旅の経緯を表したものと言われる。
 宗教で言う所の人が神に至るまでの教典のようなものだ。
 No.21世界とは始めから存在するものではなく、アルカナを廻る旅の末に至るものだと仮説した私は、この実験を行う事にしたのだ。
 それは君たちアルカナの暗示を持つ者が能力開発と平行し、トーナメント形式で互いの持つカードを賭けて戦い、最後まで勝ち残り全てのカードを手に入れた者がNo.21世界に至る事を証明すると言うものだ。
 では、午後からの講義では能力の発動や戦いの内容について説明し、いよいよ最初の試合を開始する事とする。それまで各自休憩だ」
 
「岩盤浴とこの屋上の違いって何だろうな…?」
「ありがたみの違いちゃうの…? これが有料やったら、きっと岩盤浴やで…」
「人間って現金なもんだよなー」
 竜斗と大河は昼休みに聖蘭が持たせてくれた弁当を突ついた後、屋上のロンドン塔の下で寝転んでいた。
 相変わらず真夏の太陽に照らされた屋上の床は焼け付くように熱かった。
「ところで、あのブラフマンって人の話解ったか…?」
「なめてもらっちゃアカンな。俺は自分から進んで長い事実験を受けているやで、そんなの解るわけ無いやろ…!!」
「駄目じゃん…!!」
「そんなに褒めたって何も出やしないでー。いや、変な汁は出るかも知れへんけど…!」
「褒めてないから…!! そして、頼むから変な汁だけは出すなよ…!! いや、マジで…!!!」
「おっ…? この屋上岩盤浴も慣れたら気持ち良くなって来よったでー!! マジで変な汁が出そうやっ…!!!」
「おまえやめろよなー!!」
「あ、出たっ…!!」
「おい、勘弁してくれよ…!!!」
「お前なんやと思ったんや…? 出たのは汗に決まっているやろ…!?」
「…お前って想像を絶する最悪さ加減だな」
「だから、褒めんといて…! もっと変な汁が出るやろっ!!」
「だから、褒めてないから…! んで、話戻すけどさ、お前は何でこの戦いに勝ったらどうする? 自分から志願したんだろ?」
「そう言うお前はどうなんや?」
「僕は昨日言った通りだけどさ、変えたいって思ったとしても、具体的にどうありたいかって解んないんだよな…。だから、お前を参考にさせて貰おうかなぁって」
「良いけど、参考にならへんで。いや、参考にしてもらえると有り難いんやけどさ」
「ん?」
「俺が神になったら、この世界の悲しき呪いを解き放つ…!! そう、阪神タイガース優勝の優勝を願うんやぁー!!!!」
「マジで参考にならないな…!!
 ってか、この世界の悲しみって言うか、むしろタイガースファン限定の悲しみだろ…!! 全世界がタイガースファンだと思ったら大間違いだぞ…!!」
 むしろ、この僕は生粋の巨人ファン…。
 竜斗はそう打ちまけたいのを必死で堪えた。
 大阪では阪神を応援し巨人が敵だと学校で教わると言うが、東京ドームがある東京都文京区などの一部の学校では、東京に来ている阪神ファンは危険だから絶対に近寄るなと教えられる。
 そして、万が一関西に行く事があっても、野球の話だけはするなと釘を刺されていたのだ。
 嘘のような本当の話である。
「まぁ、待て…! 聴いて欲しいんや…!!」
「なんだよ改まって」
「俺と夕鶴は兵庫県の東、甲子園球場のある西宮市で産まれたんや」
「甲子園って大阪じゃなかったんだ…!? って言うかお前大阪人じゃなかったのか…!?」
「甲子園球場が大阪だとか、タイガースファンだから大阪人だとか、西宮に対する侮辱も良い所やで…!
 真のタイガースの聖地は西宮であり、最もタイガースを応援しているのも地元である西宮市民なんや…!!
 そんな所で産まれた俺も夕鶴も、物心ついた時には立派な阪神ファンとなっていたんや。
 そして、人生で最も感動したのは1985年…、そう幼稚園の時やった。
 タイガースの球団社長が飛行機事故で亡くなるっちゅう悲しい事件があり、選手全員が社長の霊前に優勝を誓ったんや。
 そして、迎えたリーグ優勝をかけたヤクルト戦。
 俺ん家に夕鶴の家族も集まってみんなで一緒にその試合を見てたんや…!!
 そこで見たものは何度もヤクルトを追い越し、追いつかれ、延長の末の引き分けの自力優勝…!!
 真弓、バース、掛布、岡田の第二次ダイナマイト打線ばっか目が行き勝ちやが、本当に勝敗を別けたは球団社長に報いようとする諦めないド根性やと思うんや…!!
 幼心に大切な事を教えられた俺と夕鶴は抱き合って喜んだよ、それはもうホンマに…」
「それは良い話だな。なんか僕までタイガースが好きになりそうだよ」
「そやろ、でも話はそれで終わりやないんや…。
 そう、その後のタイガースの低迷具合は知っての通り…!!
 何でタイガースが勝てなくなったか知っとるか…? それはカーネル・サンダースの呪いやねん!!」
「ちょっと、タイガースとカーネル・サンダースがどう関係あるんだよ…!?」
「それは1985年、リーグ優勝の時やった!! 興奮したファンがカーネル・サンダースの人形をランディ・バースに見立て、胴上げの末に道頓堀に放り投げたんや!!
 何故か沈んだカーネルおじさんはその後見つからず…。
 それ以来、タイガースは勝てなくなり、バースは息子の病気の治療を巡って球団と対立して解雇、責任を取った代表が自殺するなど、えらい騒ぎになったんや…!!
 ホンマ恐ろしいで、カーネル・サンダースの呪いは!!」
「マジかよっ!?」
「そう、呪いに対向出来るのは神の力を置いて他ならへん…!! 俺は神になってこの呪いを解き放ち、あの時の感動をもう一度味わいたいんや…!!」
「ある意味ですげぇな、お前の目標!! そんなんで良いのかよ…!?」
「自分にとって価値があれば何でも良いとちゃうの!? 例えばお前やったら、あの奏真を倒して空を自分の物とするとか?」
「お前、大声でなんて事言うんだよ…?」
 竜斗は周りを見渡し、ホッと胸をなで下ろす。
「でも、悪く無いな、それ…!」
 そして、ボソっと呟いた。

「君達の見る夢に絶対的な暗示を与えたとして、それを現実に具現化するには特殊な領域を作り出す必要がある。それは自我と呼べる物を外界に展開すると言い換えても良い」
 午後の授業が始まり、ブラフマンは再び教壇に立っていた。
「君達は自分の自我がどう言う風に形成されて行くか考えた事があるか?
 我思う、故に我有り…と言うのはデカルトの有名な言葉であるが、君達のように感受性の豊かな若者は様々な経験を通して様々なものを感じ取り、それを繰り返す事で自己を確立して行く。
 特に他人との接触は自分自身を考える強い要因である。
 多種多様で流動的に変化し続ける他人との関係性の中で、君達は自分自身の在り方を変化させて行く。
 時に自分自身を強く感じたり、時に消え失せそうな程に弱くなる事もあるだろう」
 ブラフマンの言っている事は自分にも通じると竜斗は思った。
 それは昨日の事だ。
 自分自身を見つける為にこの街に来たは良いのの、何か凄いものを持つ他人と自分を比較して、消え失せそうになってしまった。
 今は自分自身がどういうものなのか解っているわけでは無いが、自分自身に疑問を抱かない程度に安定している気がする。
 ひっとしたらそれは、自分自身で一歩踏み出す勇気を持てたからかも知れない。
「外界において消える事の無い絶対的な自我を持つ事で、自分自身を中心に精神領域は拡大され、その範囲で夢を現実とする事が出来る。
 だが、絶対的な自我を持つ事は、歳若く感受性が豊かな君達には難しい事だろう。
 だからこそ、君達には側で支える存在が必要なのである。
 そう、互いに認め合う事が出来るパートナーを持つ事で、人は強く在る事が出来るのだ。
 しかし、人と人の絆、人の心と言うものは目に見える物では無く、言葉で伝えきれる程単純な物でも無い。
 故に時に感情に身を任せ、パートナーとの肉体的接触によって心と身体を補完する事も必要だ」
「肉体的接触ってまさか…!?」
 ブラフマンの言葉を聴いて竜斗は顔を真っ赤にしながらボソっと呟いた。
「竜斗先輩ったらエッチやなぁ…。何想像してるんやか…。キスやでキス…」
 と、夕鶴も顔を真っ赤にしながら竜斗に突っ込む。
「ちゅうか、お前も想像してるんやないか…」
 と大河が夕鶴に静かな突っ込みを入れた。
「マジでキスかよっ…」
 それでも、高校二年生の男子生徒にとっては刺激的な話であった。
 そう言えば、昨日目撃した戦いでも風紀委員長と風紀副委員長がキスをしていた気がする。
 そして、自分自身も姫とキスをしてしまった…。
 あの場は極限状態だった故に考える余裕は無かったが、今となって思い出すと悶々としてしまう。
 柔らかいその感触は脳天がトロけてしまうようだった。
 しかし、あれは一体どう言う意味であったんだろうか…?
 恋愛感情故なのか…?
 姫は存在自体謎過ぎるのでその言動について深く考えるだけ無駄ではあるが、一度ある事は二度あるので次も期待せざるを得ない。
「古今東西、接吻とは婚姻の誓いや、親愛、敬愛、信頼の証として交わされて来た魔力のある行為だ。
 また、ヒンドゥー教においても神々は神妃との交わりにおいて力を得ると言われている。
 君達は自分にとっての神妃と言えるパートナーとの肉体的接触によって自我領域を展開し、その中で具現化させた夢の象徴やそれが持つ特殊な能力を使って競争相手と戦ってもらう事となる。
 能力者は周囲を覆う自我領域が物理的なダメージを緩和させるが、自我領域に攻撃をを受け続ければ精神が疲弊し最後には気を失う。
 つまり当面は精神の削り合いの戦いになるだろう」
 昨日の戦いにでも風紀委員長は姫の攻撃を中和しているようだったが、攻撃を受け続けて最後には気を失っていた。
 そして、姫は相手の攻撃も見事防いでいた。
 だが、あれは姫だから出来る事であり、何の能力も持たず自我領域を展開する事も出来ない自分では、一瞬にして殺されてしまうのでは無いかと思って竜斗は背筋を凍らせた。
「だが、君達の自我は完成されておらず、能力にもまだまだ伸びしろがある。
 最初は自我領域を展開し能力を具現化しやすいように君達の馴染みのある学校内で、能力に対して共通の認識を持つ大勢の生徒達が見守る中で戦うが、次第に難易度を上げ最終的に外的要因に依存しないで力を発揮出来るようになって頂く。
 そう、絶対的な自我を持つ存在へと自分を育てて行くのだ。
 では、君達にこれからの予定…トーナメント表を渡そう」
 ブラフマンは各列にプリントを配った。
「トーナメントは今日…7月13日火曜日から、日曜日と第三土曜日を除き、7月31日土曜日までの間に一日一試合ずつ行われる。
 7月30日金曜日だけは変則的ではあるが、それまで勝ち残った二組で協力して、君達の先輩とも言える教皇と女教皇の二人と、小アルカナと呼ばれる小規模な能力者達と戦って頂く。
 欄外に記されている死神と審判のアルカナは能力の暗示ではなく、その二つを合わせる事で輪廻転生を意味し、この世界を構築する要素そのものを現している。
 では、これから戦いを開始するが…、今日の試合はNo.3の女帝と、No.8の力のアルカナを持つ二組で戦ってもらう…その二組は名乗りを上げて欲しい」
「私がNo.3の女帝のアルカナである宝塚舞だ」
 髪が長く細身な女子でありながら男子生徒の冬服を着た宝塚が立ち上がる。
 パートナーであるファンの女子がキャーと黄色い悲鳴をあげる。
 だが、なかなかNo.8の力のアルカナを持つ生徒は立ち上がろうとしない。
 竜斗は思わず周りをキョロキョロと見渡したが、誰だか検討もつかない。
「力のアルカナを持つ者も立ち上がると良い」
「誰や!? No.8力のアルカナっちゅう奴は!!」
 竜斗は大河の襟首についたバッチを注視すると、そこにはローマ数字でNo.8と書かれていた。
「ひっとして、お前じゃないの…!?」
「な、なんやとぉ…!?」
 大河は慌てて立ち上がった。

 そこは体育館。
 大勢の生徒が囲む中で大河と夕鶴、宝塚とファンの子が対立している。
「では、互いに自我領域を展開するのだ」
 緊張と羞恥で顔を赤くしながら大河と夕鶴がぎこちないキスを交わす。
 あの二人はパートナーであり、幼なじみで進んだ関係には発展していない事が見て取れる。
 だが、互いに意識はしているのだろう。
 だからこそ、あの赤面だと思った。
 そう言う淡い関係って良いよなと、竜斗はたまらなく羨ましくなる。
 そして、昨日の風紀委員長の時と時と同じように、大河の持つ雰囲気が薄い膜のように広がり収束する。
 目の前にNo.8、力のアルカナのカードが出現する。
 女性がライオンの口を押さえているようなイラストだ。
 虎のイラストだったら完璧だったのだが、ライオンのイラストだと微妙に惜しい。
 そして、大河がそのカードをつかみ取ると、存在感が希薄なバットのようなものを具現化した。
 一方で宝塚がファンの子とキスをする。
 多分、今朝宝塚が引き連れていた他のファンの子達だろう、体育館に無数のキャーと言う悲鳴が上がった。
 いや、ファンじゃなくても女性同士ならではの綺麗で妖艶なシルエットは妙に興奮するものがある。
 ファンの子はもう死んでも良いと行った恍惚な表情を浮かべて居るものの、宝塚はサラッとした涼しい顔だ。
 ひょっとしたら、宝塚にとっては女の子同士のキスなんて日常茶飯事なのではないかと、よからぬ妄想を抱いて竜斗は悶々としてしまう。
 そして、No.3…、王座にどっしりと構えた女性の絵が書かれた女帝のカードが現れ、つかみ取るとフェンシングで使う細剣が現れた。
 大河の具現化したバットよりやや存在感があるが、それでもまだ全然薄いと言う感じだ。
 この存在感の強弱は能力の強弱に関係あるのだろうか?
 大河と宝塚の二人は向かい合っているが、フェンシング部で試合慣れして緊張をコントロールする術を持っている宝塚と違って、野球好きであっても野球部では無い大河は場慣れしていない為、緊張が顔に出ている。
「では、戦ってもらおう!」
 ブラフマンが腕を上げたのを皮切りに、大河がバットを振るう。
「先手必勝や!!」
 すると、バットから丸い物体が飛び出し宝塚へと迫る。
 だが、宝塚は大河の発した白球…いや薄球を真正面に捉え、手にした細い剣で突き刺してその存在を掻き消す。
 あくまでも涼しい顔だ。
「これでどうやーっ!!」
 大河は連続してバットを振りボールを打ち出し、それは変幻自在の無数の光の軌跡となって宝塚へと向かって行く。
 それは弧を描いて飛ぶレーザービームのような、現実にはあり得ない光景であった。
 能力と言うものがどういうものか解らない竜斗にとって、それは一大スペクタルのように思えた。
 そう思っていたのは竜斗だけでは無いようで、ギャラリーと化している他の生徒達も歓声を上げる。
 宝塚は面白い物でも見つけたように微笑み、身体を斜に構えて剣を携えた右手を突き出すと、その手首の返しで剣先をゆらゆらと揺らし、次から次へと光の軌跡を断って行く。
 剣は僅かに光を帯びていて、薄暗い体育館の中でゆらゆらと歪んだ残像を残す。
 そして、またしても歓声が上がる。
 二人の能力者の織りなす美しい光の軌跡を伴った素晴らしい攻防は見るものを魅了し、戦いの世界へと引き込んで行く。
 能力を身につけたからと言っても、それを使いこなし実際に戦うには身体の動きが必要だろうし、二人がどれ程真摯に取り込んで来たかが動きから伝わって来る気がして感動するが、他の生徒達が夢中になる様を見ると何か少し違う気もしてしまう竜斗であった。
 努力をして舞台に立っている人間に対して賞賛しているのではなく、舞台そのものに酔っているような、そんな雰囲気だからかも知れない。
 さながらブラフマンのプロデュースするビジネスショーであるかのようだと竜斗は思った。
「では、今度は私の番だ」
 宝塚が剣を突き出しながら突進する。
「まんまんちゃんっ!!」
 そのあまりに速いスピードに大河は追いつく事が出来ず、バットを闇雲に振り回すして宝塚を退けようとする。
「遅いっ!!」
 だが、彼女にはその軌跡が手に取るように読めるらしく、見事に攻撃をかわして隙を露にした大河へと剣を突き刺す。
 その剣撃は刹那に煌めく閃光のような鋭さだった。
 そして、そのまま連続して何度も何度も剣先を揺らしながら大河へと攻撃を加えて行く。
 その剣撃は大河の身体を覆う自我領域に阻まれて、肉体的なダメージを与える事は無いが、繰り返し攻撃を受け続ける大河の顔には疲労の色が浮かびつつあった。
 そして、何度目の攻撃を受けた時だろうか、大河の身に異変が起きた。
「な、なんやとっ!?」
 大河の身体が眩しい光に包まれ、その光が収縮した時には全く違うシルエットになっていた。
 そこには、不思議の国のアリスのような童話めいたドレスを着た小さな女の子が居た。
「ちんがぁー!! たまがぁー!!」
 その子はスカートをたくし上げカボチャパンツに覆われた自らの股間をまさぐると、可愛い声で関西のイントネーションが効いた聴き馴染みのあるフレーズを叫んだ。
 手にはバットを盛っているし、ふわふわのベリーショートヘアーは何処かツンツン頭の面影を残している。
 間違い無い大河だ。
「な、なんだってぇ!?」
 竜斗は思わず叫んでいた。
 周囲からキャーとか、かわいいとか黄色い声が上がっている。
「そう、私の剣撃に魅せられた者は、誰もが恋する少女になるのだ」
 と宝塚は不敵な笑みを浮かべる。
 いや、言葉のあやではなく、文字通り恋する少女にしてしまうとは恐れいった。
 大河は元の身体に戻れるのだろうか?
 いや、むしろ戻らなくても良いのだが、付き合い方が変わってしまいそうだ。
「私の能力は長くは続かないはずだが、もはや、状態異常を正常化できない程にダメージを蓄積させていると見た」
「ち、ちくしょう…」
 恋する少女状態となった大河は、フラフラとなった身体をバットで支えている状態だ。
「私には少女を甚振る趣味は無い…。大人しく投降したらどうだ…?」
 色んな意味で宝塚の能力は恐ろしいと竜斗は思った。
 制限時間があるとは言え、あの姿では今までと同じような運動能力を発揮出来るとも思えないし、やろうと思えば一方的に嬲る事も可能だろう。
「おれはまだ戦えるっ! ちんが無くても、たまが無くても、おれにはまだこのバットとボールがあるんやっ!!」
 そう言ってバットを振るってボールを打ち出す大河。
 慣れない幼女の身体で疲労が蓄積している為にふらつき、フォームは大幅に乱れているものの正確無比にボールは宝塚へと迫る。
 おそらく、狙った通りにボールを打ち出す事が出来ると言うのが大河の能力なのだろう。
「ならば加減はしないぞ!」
 宝塚はボールを剣で貫いて打ち消すと、大河に対して無数の突きを放つ。
 その衝撃は凄まじく小さくなった大河の身体はギャラリーの人山の中に向けて飛ばされて行った。
 自分に危害が加わると思っていなかったギャラリー達は悲鳴をあげる。
 やがて、その人だかりの中から、小さな影が這い出て来た。
 身体を被う自我領域はかなり薄く今にも消えそうであり、竜斗の目から見ても限界に近いのは確かであった。
「何故、そうまでして何故立ち上がるのだ?」
「おれは倒れるワケにはいかんのや…!
 誰だってやれば出来るって事を、何度でも立ち上がれるっちゅう事をしょうめいせにゃアカンのや…!!」
 大河は甲高い雄叫びを上げると、バットを無茶苦茶に振り回して突進した。
 無数の弾丸に覆われた大河は、一つの大きな弾丸のようになって宝塚へと向かって行く。
 防御と攻撃を同時にこなせる凄まじい技だ。
「私もその気迫に応えさせてもらうとしよう!」
 そこから先は圧巻であった。
 まるで瞬間移動するかのようなスピードで宝塚は大河に向かって突進し、光の球と化した大河に真っ向から剣を突き立てる。
 薄暗い体育館に激しい光が飛び散る。
 あまりに眩しい光に一瞬視界が真っ白になったが、目が見えるようになると、そこには互いに渾身の一撃を放ち合い背中を向き合わせるように交差した二人のシルエットが立っていた。
 重い沈黙が訪れる。
 ギャラリー達も固唾を飲んで成り行きを見守っていた。
 その沈黙を破ったのは宝塚であり、彼女は崩れるように片膝をつく。
 だが、宝塚の手には未だ具現化された剣が握られている。
 一方の大河は立ち尽くしたままだが、手にしたバットが粒子となってNo.8力のカードへと戻り、体育館の床へとひらひらと舞い落ちた。
 宝塚は立ち上がるとカードを拾い上げ、幼女となった大河の肩を優しく叩く。
「気を失っても倒れないとは…。まさに素晴らしい戦いであった」
「勝者はNo.3女帝とする」
 ブラフマンの言葉を皮切りに体育館中に歓声が響き渡った。

 それからどれだけの時間が経っただろうか。
 燦々と輝いていた太陽は傾き、夕焼けの中で人気の無くなった体育館のシルエットが浮かんでいた。
 少し涼しくなった空気に、ひぐらしの鳴く声が響いていた。
 体育館の小さな階段に小さな女の子が膝を抱えて俯いている。
 それは宝塚の能力を受けて「恋する少女」状態から未だ回復していない大河であった。
 そんな大河を見守る竜斗と夕鶴の二人。
 だが、痺れを切らした夕鶴が大河に声をかける。
「負けちゃったもんは仕方ないやないか…。何時までもいじけててもしょうがないし、そろそろ帰ろうよ」
「こんな姿で帰れるわけないやろ…」
「イジイジイジイジ…!! それでも男か? このヘタレ!!」
「もう男やないもん…」
「そんなヘタレだから、元の姿に戻れないんやないの!? そんなにタイガース優勝の夢を叶えられなかったんが悔しいんか!?」
「そんなんちゃう…! そんなんちゃうんや…!!」
 表を上げた大河の顔は涙と鼻水でベチャベチャに濡れていた。
「じゃあ何よ!? 言うてみぃ!?」
「言えへん…!! お前にだけは言えへん…!! こんな情けない姿さらしといて言えるわけないやろ…!!」
「なんやそれっ!!」
 夕鶴は大河の頬を叩いて車椅子の向きを変えた。
「もう、お前なんか知らへんっ!! うち、先帰らしてもらうで!!
 何時までも女の子の姿で泣いてれば良いんや!! そんでもって、そのままオカマとして大好きなメイド服でも着て生きれば良いんや!!」
 竜斗は膝を抱えて身体を振るわせ、嗚咽を堪える大河の隣に座った。
 そして、大河は深く息を吸い、呟くように沈黙を破る。
「おれな、あいつの為に戦おう思ってたんや」
 大河の言うあいつとは夕鶴の事だろう。
「あいつな、大地震の時に怪我してもうて、それ以来ずっと車椅子乗ってんねん…。怪我は治っているんやけど、心の問題で歩き出す事が出来へんやって…。
 おれな、もういっかいタイガースが優勝する所を見れれば、楽しかったあの頃や、あの時の感動を思い出して、あいつも歩き出す勇気を持てるって思ったんや…。
 それにおれが戦う姿を見せられれば、きっと誰だってがんばれば出来るって教えられると思ったんや…。
 それなのに…、それなのにおれは…!!」
 竜斗は胸が痛くなり、居ても立ってもいられずその小さな肩を抱いた。
 大河は今まで押し込めていた感情が吹き出し、竜斗の胸を借りて声を出して大声で泣き出した。
 その悲痛な叫びは竜斗の心に響き、溢れ出る涙を堪えるのに必死だった。
 それからどれだけ経っただろうか。
 落ち着きを取り戻した大河は竜斗と体育館の階段に並んで座っていた。
「ありがとう…。もう、大丈夫や…」
「そうか…」
 竜斗の声も少し霞んでいた。
「ひゃっはっはっ!! 最高の見せ物を見せてもらったぜ!!」
 卑下た笑い声が響く。
 No.15のバッヂを持つリーゼント頭の男子生徒…生徒会書記と、パーマ頭のスケバン…生徒会会計の二人組が竜斗達に近寄って来た。
「何か用?」
 竜斗は大河を庇うように二人の前に出る。
「あ? 俺がようがあるのはそこの負け犬だ!! ぼけぇ!!
 きゃんきゃん吠えて粋がった挙げ句に負けて無様な姿を晒し、おまけに女に振られて女子供みたいにギャーギャー泣きやがる!!
 あ? 今は女子供だったか!?」
「情けないったらありゃしないよ!」
 生徒会書記が間の手を入れる。
 侮辱された大河は顔を真っ赤にして俯く。
「俺はなぁ、力がねぇのにキャンキャン吠える負け犬が大っ嫌いなんだよっ!!! そんな奴は生きている価値はねぇ!! 俺が粛清してやるぅ!!!」
「ふざけるな…!!」
 竜斗は生徒会二人の暴言に強く呟くように言う。
「あ…!? なんか言ったかテメェ!?」
「ふざけるなと言っている!!」
 竜斗は自分より頭一つ大きい生徒会書記の胸ぐらを掴む。
「大河は情けなくなんか無いっ!! 大河は人の為に一生懸命生きる事が出来る凄い奴だ!! どんなに辛くても絶対に倒れない凄い奴だ!!
 全力を出して立派に戦い切った大河を馬鹿にする奴は僕が許せないっ!!!」
「あぁ!? テメェも粋がるのかよ!? テメェとは明日当たる事になっているが、良いんだぜぇ!! 今やってもよぉ!?」
「こっちも望む所だ…!!」
「お止めなさいな。双方共にブラフマンにアルカナを取り上げられますわよ」
 緊張した空気に凛とした涼しい声が響く。
 気がついた時には胸ぐらをつかみ合った二人の真横にゴスロリ姿の少女が立っていた。
「ひ、姫…!?」
「な…!? てめぇいつの間に現れやがった…!?」
「あら、始めから居ましてよ。あなた方がずっとわたくしを無視してただけじゃありませんこと?」
「あ?! そんな馬鹿なことがあるかっ!? テメェみたいなキテレツな女がいれば気付くに決まってるだろ!?」
「ならば、あなたの目は節穴と言う事ですわね」
「テメェ!!! フザケやがってぇ!!!! 何者なんだ!? あ!?」
「わたくしは香夜姫…。ここに居らせられるNo.18月のアルカナ…走馬竜斗様のパートナーですわ」
「姫と一緒ならば心強いよ!! でも、こいつは…、こいつだけは僕にやらせて欲しいんだ!!」
「ええ、勿論ですわ」
「フザケやがって!! テメェもこの女もまとめて粛清してやるっ!!!」
「やれるものならばやってみろ!! 僕はお前を倒して大河を馬鹿にした事を謝らしてやるっ!!!」
 竜斗は生徒会書記の胸ぐらを放して彼に背を向けた。
 生徒会書記もまた背を向ける。
「解っているかと思いますが、この先能力者を相手に戦い抜く事は容易ではありません事よ」
「ああ、だから姫には戦い方を教えて欲しいんだ」
「もちろんそのつもりですわよ。わたくしは貴方を本当の強さへと導く為に存在しているのですから。
 でも、わたくしの力だけでは足りません、貴方には他にも共に歩み、支え合える仲間が必要ですわ」
「ああ、解っている」
 竜斗は幼女と化した大河と向き合う。
「大河…、僕と一緒にやらないか?」
「えっ?」
 幼女と化した大河は竜斗を見上げる。
「僕と一緒に誰だって頑張れば出来るってことを夕鶴に見せつけてやるんだ!!」

 新月の夜。
 喧噪とした街の中心地から離れた丘の上にある北野の異人館は静寂に包まれ、りーんりーんと虫が鳴く声だけが響く。
 月明かりの射さない深い闇の中で、風見鶏の館の窓から優しい光が漏れていた。
 風見鶏の館の一階にあるダイニングでは、三人の小さな人物が長テーブルを囲って座っていた。
 一人は男性にしたら小柄で、少女のようにも見える竜斗。
 一人は竜斗より頭一つ小さく、少女に見えるが年齢不詳の姫。
 一人は姫よりも遥かに小さく、少女にされてしまった大河だ。
 共に少女っぽい外見だが実は違うと思われる、年齢と性別を超越した存在であり、見た目の華やかさとは裏腹にあまりに謎な集団であった。
 竜斗と姫はお婿に行けなくなった姿を親に晒したくないと言う大河を連れて風見鶏の館へと帰って来ていた。
 そして、聖蘭が夕食を準備している間に、今後の戦いについて話す事になっていた。
 配置は竜斗と大河が並んで座り、テーブルの反対側に姫が座っていると言った感じだ。
「結論から言うと貴方には現状レベルで能力者の攻撃は効きませんわ。何故かと言うとあなたはブラフマンの集団催眠を受けていませんから」
 姫は竜斗の顔を見つめながら言うと、続いて大河に視線を移す。
「おそらくブラフマンは特別授業と称し、能力の説明を繰り返しあなた達に聴かせていたはずですわ。
 話の中に虚実織り交ぜる事でそれが真実だと信じ込ませた上で、幾人かのサクラを含めた多くの生徒の前で実在する道具を使った練習から入り、徐々に難易度を上げた練習を行って成功体験を積ませたはずですわ。
 それらが全てブラフマンの仕組んだ集団催眠であり、あなた達は知らず知らずの内に彼の作り出す幻想の世界へと引きずり込まれたんですの」
「ちょっとまってくれや!!
 確かにそうやと思うけど、実際におれはこんな姿になっているやないか!! しかも、未だに元の姿に戻れてへんし、それをどう説明するんや!?」
 大河がすかさず姫の話にツッコミを入れたが、竜斗は全く持ってその通りだと思った。
 ブラフマンの言っている事も姫の言っている事も、何処までが本当で何処までが嘘だか判断する事は出来ないが、特殊な力によって大河の姿が変わってしまっているのは事実であった。
「そう、その催眠を繰り返す事で人間の領分を越えた能力が本当にあると思い込んでしまった結果、あなた達は実際にその力を発揮してしまっているのですわ。
 そして、能力に対しての願望が強いほど深く催眠を受けてしまう為、逆に相手の能力を強く受けてしまう結果に繋がるんですの。
 また、あなたが元に戻れない原因としては、相手の攻撃の持つ暗示があなたの持つ心の弱さと一致したからだと思いますわ。
 おそらくですけど、男性としての尊厳を傷つけられる出来事があったり、自分自身を男らしく無いと思ったんでなくて?」
 姫は妖艶な笑みを浮かべて大河を見つめる。
 竜斗は姫が大河の事情や心情を全て察した上で確信犯的に言っていると思った。
「うぐぅ…」
 流石の大河も寓の手も出ない。
 うぐぅの声は出ているが。
「残念だけど、どっちも図星だろ…?」
 竜斗は苦笑しながら言った。
「うっさいわ、アホ!!」
 その小さな手で竜斗に突っ込みを入れるが、少女の身体じゃ攻撃力ゼロだ。
「これは例え術者の方が能力を失ったとしても、継続的にあなたを苦しめる呪いのようなものですわ」
「な、なんやとぉ!?」
 姫はサラッと恐ろしい事を言い、大河に何時もの台詞を吐かせる。
「ただし、あなたが自分自身のコンプレックスを解消した時、その呪いは解けると思いますわよ。
 …まぁ、わたくしとしてはむさ苦しい男性の姿より、かわいらしいその姿の方が良いと思いますけど」
 姫は哀れな者を見るように大河を見回すとクスクスと笑う。
「僕も同感だ。一生そのまんまでいろよ」
 竜斗も吹き出しながら言った。
「冗談はよしてくれや!」
「いや、わりと本気なんだけどな」
「より悪いわ!」
 大河はまたしても小さな手で突っ込んだ。
 いや、だから攻撃力がゼロだって。
 ハリセンでも用意した方が良いんじゃないかと竜斗は思った。
「ところで、今日僕もその特別授業を受けたんだけど、集団催眠にかけられてないだろうか?」
 竜斗は気になっていた事を姫に聴いた。
「まぁ、大丈夫だと思いますわ。貴方は飲み込みが悪いお人ですから」
「な、なんだってぇ!?」
 竜斗もお決まりの台詞を口にしていた。
 今日一日で何度その言葉を言った事だろうか…?
 思い返して数えてみたら、まだ二回ぐらいだったので、それ程お決まりの台詞ってわけじゃないのかも知れない。
 数え損ないもあるかも知れないが、こまで厳密に思い出す必要性は全く無いので良いとしよう。
「ブラフマンも想定外のアホって事ちゃうの?」
 大河は仕返しとばかりに竜斗を笑う。
「五月蝿いな!! 本当の事言われると傷つくんだぞ!!」
「やっぱ、自覚してるやないか!!」
 大河は幼女の身体で素手で突っ込んでもインパクトが足りないと言う結論に至ったらしく、今度は履いていたスリッパで竜斗に突っ込んだ。
 なかなかやりやがる…!!
 竜斗は心の中で賞賛の声を送った。
「ふふふっ、決して馬鹿にしているんじゃありませんわよ。褒めてるんですわ」
 姫は二人のやり取りを見て笑いを堪えるように言った。
 そして、微笑みながら竜斗を見つめる。
「あなたは人の話の飲み込みが悪い事は確かですが、それは人の話を無条件に鵜呑みにせず、自分の頭で考え噛み砕いてから飲み込もうとするからですわ。
 催眠術と言うのは人の話を鵜呑みにし、思考する事を放棄した人がかかりやすいものですわ。
 おそらく、貴方はブラフマンの暗示を殆ど受けていないと思いますわ。
 その証拠に能力者達の作り出す能力に実体感を感じなかったり、熱狂する他の観客に対して一歩引いた立場に居たんじゃありませんこと?」
 竜斗は今日の戦いの事を思い返す。
 確かに能力者が具現化した道具が透けて見えていたり、ギャラリーに違和感を感じていたりした。
「ああ、僕もそれは不思議に感じていたんだ」
「ブラフマンは今後もあなた達に講義を通し催眠術をかけ続けるでしょうが、自分自身の頭で考え続ける事を止めなければ無駄に惑わされる事はありませんわ。
 そして、その催眠術の完成こそNo.21世界…個人の思惑を反映させた新世界の誕生に他なりません。
 そう、あなたが催眠術に対抗する事は彼の計画を阻止する事にも繋がるんですわ」
 ブラフマンの計画を阻止し、奏真が神として君臨する事を防ぐ。
 それこそが昨日知らされた姫の最終的な目的だ。
 だが、なんとなく大河にはそれを知られたく無いのだろうと竜斗は思った。
「それと、これは能力や催眠とは関係無い話ですが、ブラフマンの話の中にも生きる上で役に立つ事はあるはずですわ。
 一方的に他人を否定する事は、自分自身の人間性を否定する事と同じですわ。
 良いと思った所を取り入れる柔軟性を持つ事も必要ですわよ」
 竜斗はブラフマンの特別授業を思い出した。
 彼の言う自我の確立や夢を叶える方法論と言うのは、現実に応用出来るものだと感じた。
「ああ、僕もそう思ったんだけど、だからこそ彼の話は恐ろしいと思ったよ」
「それが解っているんだったら、大丈夫ですわ」
 と姫は微笑んだ。
「でも、このままブラフマンの催眠術が進み対戦相手の能力が強くなって行けば、催眠術に対しての耐性を持つ貴方と言えど、何時かは能力による暗示を防げなくなる時が来ます。
 その時の為に貴方には日々の生活の中で武術を学び、心と身体を鍛え気を操る術を習得して頂きますわ。
 鍛えた心と技と身体、それを更に気によって強化すれば、強力な能力者にも対抗できますわ」
「気って気功とかそういうの?」
 大河がこぉーっと、気を溜めるポージングをしながら姫に質問する。
「そうですわ。気と言うのは万物に存在する命の流れですが、自分自身に流れる気をコントロールする事で、心と身体に秘められた潜在能力を引き出す事が出来るんですわ」
「ちょいまち! それって一種の自己暗示なんとちゃうか? ブラフマンの暗示とどう違うんや?」
 姫がちょっと驚いたような表情を見せる。
 竜斗も大河にしたら中々良い質問だと思った。
「あらあら、中々鋭いですわね。確かに気は自分自身を操る力…自己暗示とも言えますわ。
 あえてブラフマンの暗示と気を比べるとするならば、ブラフマンの暗示は自然の摂理を歪め人間に与えられた領分を越える魔法であり、気の力は自然の摂理に則って自分自身の持つ本来の力を引き出す技術とでも言いましょうか。
 また、ブラフマンの暗示は才能ある選ばれた者のみが扱える物ですが、気と言うものは技術であり努力次第で誰にだって扱う事が出来ますわ」
「努力次第ってのが僕らしくて良いね!!」
 竜斗はその言葉に希望を感じた。
「わたくしもそう思いますわ。
 その時その時を自分自身の頭で考え続け、その場その場で出来る事をやり続け、その日その日で地に脚をつけた地道な努力を積み重ねる…。
 決して終わりが見える事が無い日々ですが、それが貴方を強くするでしょう。
 何度も言いますけど、近道はありません事よ?」
「ああ、望む所だ! 僕は強く生きるって決めたんだから!!」

 食後、姫による武術のレクチャーを終えた竜斗と大河は、風見鶏の館の二階にある朝食の間の丸テーブルに突っ伏していた。
 朝食の間と名付けられているが、実際の所は団らんの為の部屋として作られている。
 ちなみに二階には他にビリヤード台の置かれたホールと、寝室、客室、子供部屋、浴室がある。
 竜斗は寝室、大河は客室を自室としてあてがわれている。
 主人である姫は一番広い子供部屋を使用しているが、竜斗はまだ入った事は無いものの人形が沢山並べられていると言う事だ。
 聖蘭は地下にある使用人の部屋を使用しているとか。
「しかし、なんでおれまで武術修行されられなきゃアカンのや・・・?」
 大河が幼児の甲高い声で文句を口にした。
「文句言うなよ、僕なんてこうだぞ!!」 
 竜斗の指差す自分の顔面は傷だらけであった。
「うん、前より男前や!!」 
 大河は腕組みをして何度も頷く。
「男じゃない奴よかましだ!!」 
「うっさいわ、ボケっ!! にしても、なんで姫さんはあんなに強いんや…!! 反則やろ…!!」 
「さん付けかよっ!! まぁ、その気持ちは解らんでもないが…」 
 竜斗は自分が傷だらけとなる原因となった姫との武術の実演を思い出す。
 それは一階の居間でのことだ。
 一階の居間はダンスパーティを開けるようにとかなり広く作られているので武術の練習をするにもうってつけだった。
 一応、怪我をしないようにと聖蘭がマットを用意して敷いてくれていた。
「では、わたくしの教える武術がどういうものであるか身をもって体験して頂きたいと思いますわ。
 竜斗さん、わたくしに襲いかかって来て頂けませんこと?」
「いや、非常に嫌な予感しかしないだけど…」
「なんだったら、襲うついでにわたくしの胸でもなんでも触ってもよろしくてよ」
「喜んでヤラして頂こう…!!」
「単純なやっちゃなー」
 と大河が言うもののかなり羨ましそうだ。
「では、行くぞっ!!」
 竜斗は信じられない程の気迫を見せて姫に向かって突進する。
 姫は竜斗を向かい入れるように両腕を開いて待っている。
 まさに胸を触って下さいと言わんばかりの隙だらけの態勢である。
 だが、いざ竜斗の手が姫の胸に触れようとした時、彼女の姿が一瞬にして消え去った。
 そして、気がついた時には竜斗の身体は宙を舞い、顔面からマットへと落下していた。
「な、なんやとぉ!?」
 大河のおなじみの台詞が飛び出した。
「いててててっ…!!」
 顔面を打ちつけて文字通り出鼻を挫かれた竜斗を姫が楽々と担ぎ起こす。
 その小さな身体からは信じられない程の力強さであり、まるで地にしっかり根が張っているかのような感じがした。
「ふふふふっ。ご自身がどうなったかお解り?」
「いや、まるっきり解らなかった…。姫が消えて気がついたらこうなっていたとしか…」
「それは動きを先読みしようとする人間の特性を利用したからですわ。
 例えば先ほど貴方はわたくしに実演を持ちかけられた時に嫌な予感がするとおっしゃいましたが、それと同じように物の動作に関しても事前の動きから次の動きを予測する事を無意思に行ってしまうものなのです。
 ですが、わたくしはあえて隙を作って注目を胸に集めた上で、スカートで下半身の事前の動きを隠して貴方の死角へと回り込んだので、急に消えたように見えてしまったのですわ。
 そして、貴方が突進しようとする力をわたくし自身を支点にして方向をずらした事で、結果的に投げ飛ばされてしまったような形になったのです」
「つまり、フェイントとカウンターと言う事か?」
「そうですわ。例えわたくしのように可憐で非力な者でも、相手の虚を突き互いの重心をコントロールする体裁きを習得すれば、十二分に戦う事が出来るんですわ」
「それって、合気道とか柔術とちゃうんか?」
 大河がまたしても鋭い質問をする。
「あらあら、惜しいですわね。わたくしの使うのは新武芸ですわ」
「な、なんやとぉ?」
「お前、今日一日で何度その言葉を吐けば気が済むんだよ!」
 と竜斗は思わず突っ込んだ。
「日本における武術の原型は武士が戦う為に必要な技芸であり、武家階級においては剣術、馬術、長刀術、泳法術など十八種の武芸を修める事が求められたと言いますわ。
 後々に体系化されて古武術と総称されるようになりましたが、その中には現代武術の中で失われてしまった隠し武器、活法、薬方、はては呪術や、宗教に結びついた心法なども技術として取り入れられていたと言われます。
 わたくしが体系化された古武術から非力な者が戦う事を前提に要点を抜き出し、新たにまとめあげたものが新武芸ですわ。
 つまり、より実戦的な戦闘術と言えますわね」
「なるほどねー」
「まずは基本となる受け身、それから今わたくしが使った型の練習をしましょう」
 そして、それが一時間半続き今に至ると言うわけだ。
「結局今日習ったのはそれだけや…。強くなるには先が長いでホンマ…」 
「そうだなー…」
 しかも、明日は実戦を控えている。
 練習不足は否めないが闘志は十分だし、持てる全てをぶつけるしか無いと竜斗は覚悟を新たにするのであった。
「しかし、今日は沢山動いて汗かいたし、風呂入りたいんやけど…」
 と大河は珍しく小さな声で言う。 
「先、入れば?」
 竜斗はこのまま考え事をしたい所だったので、今は風呂に入りたい気分じゃなかった。
「一緒に入ってくれへん…?」
 大河が甘えたような声を出す。 
「は? 嫌だよ!! 勘弁してくれよ!!」
 竜斗は冷や汗ダラダラだ。 
「こないな身体になってもうたし、一人で入るの恐いんや!! 実は便所もまだ行ってへん!!」 
 大河の顔は悲痛だった。
 もしかしたら、トイレの方も限界だったのかもしれない。
「その気持ちは解るっ!! 非常に解るが自分でどうにかしろっ!!!」 
 と竜斗は言い切った。
「その話聴きましたわよ」 
 そこに姫が現れた。
「姫!?」 
「姫さんっ!?」 
 相変わらずの神出鬼没さに竜斗と大河は同時に声を出す。
 もしかすると、始めから居て気配を消していたのかも知れないが。
「わたくしが一緒に入りお世話すればよろしいんじゃなくて?
 女同士ですもの、互いに肌を見られても何ら問題ありませんわ。何だったら聖蘭さんに頼んでもよろしくてよ?」 
「そうだな…」
 竜斗は厄介事から解放された気がして、一瞬思考能力が麻痺していたが、実はそれがとんでもない事だと気づいた。
「って、問題あるよっ!!! それだけは絶対に駄目だ!!!! こいつは見た目は幼女でも中身は獣なんだ!!」
「おれ、いやわたし、心まで女の子になってもうたんや!! だから一緒に風呂入ってーな!!」 
 と、姫にすがりつく大河。
「アホぉ!! こうなったら、僕が世話してやるっ!! それで良いな!!!」 
 竜斗は大河の頭を拳骨で叩くと、腕を引っ張って風呂場に連れ出そうとするが、大河がそれに抵抗する。
「やっぱ嫌や!! お前に乙女の肌見られとうないしっ!!!」 
「顔赤らめるなっ!! だったら、始めから自分一人で入れよなっ!!」
 こうして、バタバタとした夜は過ぎて行った。

 1999年7月14日(水)
 この日も午前中のブラフマンの講義から始まり、午後から試合が開始されると言う流れであった。
 ブラフマンの講義は暗示の基礎となるタロットカード全体の成り立ちを詳細に説明するような流れであった。
 それぞれのアルカナについての説明は、引き続き後日に行うらしい。
 その講義は脱落した大河とそのパートナーである夕鶴も参加していたが、二人は一度も話す事がなく午前中を終えていた。
 席が隣同士と言うのがかえって心の距離を感じさせた。
 竜斗は元々の二人の仲の良さが印象的だっただけに胸が苦しくて仕方なかった。
 姫はと言うと例外的にこの学校の生徒では無いので、授業には参加せず午後の試合から合流する事となっていた。
 そして、昼下がりの体育館。
 前日と同じように大勢の生徒達によるギャラリーが竜斗と姫、生徒会の書記と書記を囲んでいる。
 試合開始を前にして期待と興奮に満ちたザワついた雰囲気になっていた。
 一人場違いな格好をした姫は嫌でも目立つわけだが、彼女を見て奏真が驚いたような表情を浮かべながら歩み寄って来た。
「やぁ、君は素晴らしく魅力的な人だね」
「お兄ちゃんの馬鹿っ!! 馬鹿馬鹿っ!! こんな所でナンパしないでよぉ!!」
 奏真が姫に握手を求めようとすると、観客をかき分けてやって来た空がそれを阻止した。
「おっと、レディを前に先に名乗らないのは失礼だったね。俺の名は青海奏真。そして、この子は俺のパートナーである旭陽空さ。よろしく」
「わたくしは香夜姫。竜斗さんのパートナーをさせて頂いていますわ」
 その時、姫と空二人の視線が合う。
 厚底のブーツを履いている為、姫の方が身長が高く見えるものの、実際には同じような体格であり、雰囲気がまるっきり正反対ではあるが何処か似ている。
 空の瞳から一粒の涙が溢れた。
「あれ…? どうしたんだろ!? あなたを見るのは初めてなのに、初めてって気がしないの…」
「俺も君の事を前から知っているような気がするんだ。良かったら君の事を教えてくれないか?」
「わたくしはこの世界を生きる貴方達にとって、草葉の影に揺れる亡霊のようなものですわ。例え見えたとしても必要以上に気にすれば心を病む事になりますわよ」
 なんか恐い言い回しだが、もの凄い説得力がある言葉であった。
「ふっ、面白い言葉だね。ますます気になる所だが、ここは大人しく引き下がった方が良いかもしれないな」
「じゃあ、お邪魔しちゃってゴメンね!! 応援しているから頑張ってね!!」
「健闘を祈るよ!」
「ああ、頑張るよ…!」
 奏真と空は連れ立ってギャラリーへと戻って行った。
 竜斗は姫と彼らの関係性が気になった。
 そして、体育館の真ん中二組に挟まれたスーツにサングラス姿の男…ブラフマンとの関係性も気になる。
 姫とは一体何者なんだろうか…?
 もし本当に亡霊だったとしても不思議では無いが、それでも構わないと言う気もする。
「では、自我領域を展開するのだ」
 ブラフマンが接吻タイムの開始を告げる。
 目の前にいる生徒会書記と会計が唇を交わす。
 うげっ…。
 竜斗は生徒会書記の汚物を思わせる口臭を思い出し吐き気を催した。
 会計は白い顔を紅潮させていた。
 よく、あんなのとキス出来るよな。
 世の中広過ぎる…あまりに広過ぎると竜斗は思った。
 そして、生徒会書記の身体を覆うようにおなじみの自我領域が広がり、その手にNo.15悪魔のカードが出現する。
 角と冠、背中にコウモリの羽をつけ、男の股間のふくらみと、女の乳房を持った訳の解らないものが描かれている。
 そして、それをつかみ取るとメリケンサックに変化した。
 全く捻りの無い武器であるが、痛そうな事に違いない。
「No.18月のペアも後に続け」
 そう言われてもね…。
 竜斗はまわりを見渡した。
 そこらかしこ人だらけ。
 宝塚に大河や夕鶴、奏真に空と知っている人達もちらほら居る。
 特に空は応援すると言った手前か、竜斗に熱い視線を送っていた。
 竜斗は生唾を飲む。
「あらあら、レディーを待たせるものじゃありませんことよ。通過儀式のようなものらしいので、このままじゃ何時まで経っても先に進みませんわよ」
「嫌だって!! 人前でキスなんて出来るかよっ!!」
 さらし者も良い所だ。
 竜斗の様子を見てクスクス笑う空。
「意気地無しですわね。自分から戦うと言ったのは何処の何方でしたか?」
「それとこれとは話が別だ!!」
 ごねる竜斗に会場大ブーイング。
「やるなら早くしろってんだよ!! でなければ帰れってんだ…!」
 生徒会書記に煽られてカチンと来る竜斗。
「くそっ! やってやる!! やってやるさ!!」
 竜斗が姫にキスをする。
 すると、自我領域が展開される事は無かったが、やたら存在感の薄い感じのNo.18のカードが出現した。
 それを掴んでももちろん武器に変化する事はない。
「ごちそうさまでしたわ」
 姫は顔を赤らめていた。
 姫は大胆なのか純情なのか良く解らない。
「では始め!!」
 ブラフマンの合図を皮切りに生徒会書記が拳を振り上げて突進して来る。
「死にさらせコラァ!!!」
 物語のセオリーで言うと先に手を出した方が負ける事になっているが、戦いはおろか喧嘩すらした事が無い竜斗にとってそんなセオリーは通用しない。
 相手の気迫に押されたのか、気がついた時には左頬を殴りつけられていた。
「…」
 なんと言うか、思っていた程痛く無かった。
 メリケンサックで殴りつけられたはずなのに、普通に殴られただけって感じだ。
 それに特殊な効果が竜斗の身を襲うわけでも無かった。
「てめぇ、何でメリケンサックで殴られて平気なんだ!? それ以上に何で毒を食らいやがらないんだ…!?」
 竜斗はこれが集団催眠を受けてない事による効果だと身をもって実感した。
 つまり、純粋な拳と拳の戦いと言う奴だ。
 それならば勝ち目はあると、竜斗は闘志を燃やして反撃に打って出る。
「教えてやる義理は無いっ!!」
 攻撃を繰り出して隙だらけになった生徒会書記の顎に、ここぞとばかりにアッパーカットを繰りす竜斗。
 顎を上にしながらすっ飛ぶ生徒会書記。
 かなりズッシリとした手応えがあった。
 今まで喧嘩など経験した事が無い竜斗であったが、その一撃は間違い無く決まったと言う実感があった。
「た、タッくん!!」
 生徒会会計が倒れた書記を助けに入ろうとするが、姫はそれを阻止しようと前に割って入る。
「この戦いはあの方が自ら選んだ道ですわ。邪魔をするなんて無粋な真似は許しませんことよ」
「テメェ!!」
 その鋭い眼光は生徒会家計の身体を硬直させ、彼女はびくとも動く事が出来なくなった。
「そう、このわたくしを含めて、誰にも邪魔なんか出来ないのです」
 そして、悲しさを堪えるような声で言った。
(頑張って下さい…。それがどんなに辛く厳しい道でも、それが貴方の選んだ道なのですから…)
 一方、竜斗にぶっ飛ばされた生徒会書記は何事も無かったかのように立ち上がって来た。
「な、なんだと!? 確かに手応えはあったはずだ!?」
 竜斗はダメージを受けた様子の無い生徒会書記に驚愕する。
「効くわけねぇだろ!? 自我領域があるのを忘れたか!?」
 思いっきり忘れていたが、竜斗には能力が通じなかったとしても、相手にはまだ自我領域と言うものがあった。
 だが、それでも活路を見いださない限り勝利はあり得ない。
「く、くそぉーーーーっ!!」
 竜斗は半分自暴自棄になって生徒会書記の頬に向かって殴り掛かる。
 まるでミットでも殴ったかのような気持ちの良い手応えだ。
 だが、生徒会書記は竜斗に左頬を殴られ首を右に大きく傾けたまま、陰険な目で竜斗を睨みつける。
「効かねぇって言ってんだよ!!」
 生徒会書記は街のチンピラが弱者をいたぶる時のように手をポケットに入れたまま蹴りを繰り出す。
 そのボンクラ然としたキックは竜斗の腹に食い込み、竜斗はそのまま反吐を吐いて膝をついた。
 戦いを初めとし身体や物を動かす事は全て物理であり、如何に効率良くエネルギーを伝えるかと言う事に帰結する。
 ポケットに手を入れたまま繰り出すボンクラキックは、体重を乗せる事が出来ない為に見た目に反して威力は無い。
 つまり、自分自身が強いと言うことをアピールするだけの虚勢であり、知識と経験を身につけた真の強者にとっては雑魚であると言いふらす愚か者に見える事だろう。
 だが、戦い慣れしていない竜斗にとっては、それでも脅威である事に違いが無かった。
「どうしたどうしたー!?」
 追い打ちをかけるように生徒会書記が竜斗を踏みつける。
 相変わらず手はポケットに突っ込んだままである。
 竜斗は自分自身を庇うように背中を丸めて動かなくなった。
「さっきまでの威勢はどうしたんだよー!?」
 竜斗はその痛みと恐怖に涙する事しか出来なかった。
(そう、現実とは残酷なものですわ。どんなに理想を高く掲げても、その実現には絶対的な力が必要なんですの)
 姫は生徒会会計を牽制しながらも、横目で竜斗の戦いを見守っていた。
「くそっ…!! くそぉ…!!!」
 竜斗が痛みに耐えながらも声を上げる。
(困難に直面した時、未知の力が目覚めるとか、何時も誰かが助けてくれるなんてご都合主義は通用しません)
 姫は竜斗の悲痛な叫びが聞こえる度に、自分がその痛みを代わってあげたいと思った。
 自分だったら一瞬にして相手の命を奪う事も可能だとさえも思った。
 脳内では相手を亡き者にするシミュレーションを何度も繰り返していた。
 だが、これは竜斗自身が決めた事であり、彼の気持ちを尊重してどんな状態になろうと水を注さないと決めていた。
 圧倒的な実力を持つ姫にとっては、ただ見守るしか無いと言う事は想像以上に心を痛める事であった。
 姫のその手は強く握られ、爪がめり込んだ掌にうっすらと血が滲んでいた。
「てめぇもアイツと同じだな!! 弱ぇクセにギャーギャー喚きやがるオカマ野郎と!! 弱い奴は生きてる価値は無ぇんだよ!!!!」
「だまれっ!!! だまれぇーーーーーっ!!!!!!」
 大河を侮辱されて闘志を取り戻した竜斗は、生徒会書記の脚を取ってすくい上げた。
 バランスを崩した生徒会書記は後頭部から派手に転倒する。
「僕はお前に勝って大河を馬鹿にした事を謝らしてやるって決めたんだ!! 誰だって頑張れば出来るって事を証明してやるって決めんだ!!!」
「てめぇ、やりやがったな!!」
 通常だったら気を失う所だろうが、自我領域に守られた生徒会書記は無傷だ。
 何事も無く起き上がった生徒会書記は、再び竜斗の左頬を殴り倒す。
 だが、ぶっ飛ばされそうななるのをグッと堪えて、竜斗は口から垂れる血を拭きながら生徒会書記を睨みつける。
「しつこいなテメェは!!」
「大河にっ…!! 謝れぇーーーーっ!!!!」
 竜斗の両の目が鋭く輝き咆哮する。
(自分自身の無力さを実感したとしても、何度傷ついたとしても、決して諦めずに何度でも立ち上がって下さいな。足りない所に気付けばそれだけ努力すれば良いだけですわ)
 もの凄い気迫で殴り掛かって来る竜斗に、今まで感じた事が無いような言い知れぬ恐怖を感じた生徒会書記は、彼の左目に向かって渾身のストレートを食らわす。
「く、来るなー!!」
 竜斗自身の突進する力も合さり、もの凄い衝撃であった。
 体育館の床ににひれ伏す竜斗を見て、流石にもう立ち上がって来ないだろうと一安心する生徒会書記。
 だが…!
 地面に手をつく。
 膝を立てる。
 背を起こす。
 ふらつきながら。
 血だらけになりながら。
 痣だらけになりながら。
 まるでゾンビのように這い上がる竜斗を見て生徒会書記の恐怖は絶頂に達した。
「謝るんだーーーーーっ!!!」
 その怒号は見ている者全員の心を揺さぶるような強さを秘めていた。
 竜斗の左目は腫れ上がって見えないが、残った右目で生徒会書記の目を捉えて離さない。
 生徒会書記はキョロキョロと目を泳がせる。
 どっと冷たい汗が吹き出る。
 その時、生徒会書記の身体を覆う自我領域や、具現化したメリケンサックが不安定になっていた事に本人は気付かなかった。
(人間は自分が出来る事以上の事は出来ません。だからこそ、その時々で自分に何が出来るかを考え、自分に出来る事を最大限にやり抜く…。
 大切な人の為ならばそれが出来る。貴方はそう言う強さを持っている…! わたくしは信じていますわ…!!)
「この野郎っ!!! 今度こそ死にやがれぇー!!!!!」
 生徒会書記がふらつきながら立っている竜斗に向かって拳を振り上げながら突進して来る。
 竜斗はその攻撃が顔面を狙っているものだと核心していた。
「虚を突き相手の力を利用する…」
 竜斗は脱力しているようにみせかけ無防備な顔面に生徒書記の意識をより集中させ、そのパンチが顔面に叩き込まれる寸前に相手の懐へと潜り込み、突き出された右手を掴むと自分自身を支点として投げ飛ばした。
「ぐはーーーーーーーっ!!!!」
 床を叩く大きな音と共に生徒会書記の断末魔の叫びが響いた。
「タッくんっ!!!」
 生徒会書記に駆け寄ろうとする会計を姫が怒りを込めた一撃で沈める。
 竜斗は生徒会書記の自我領域の消滅と共に現れたカードを回収し、高らかに天上に向けて掲げた。
「僕のっ…!!! 勝ちだぁーーーーーっ!!!!!」
 観客の歓声が上がる。
「竜斗ぉーーーーーっ!!! 」
 だが、駆け寄ろうとする大河を押しのけて、姫が竜斗に抱きついた。
「ふぎゃっ!!」
 コロコロと転がる大河。
「よく…、そんなにボロボロになるまで頑張ってくれましたわね…。信じていましたわ…」
 竜斗の肩を強く掴むその声は震えていて、まるで泣いているようだった。
「姫…心配かけちゃったな…」
 竜斗は姫の頭を抱き寄せるようにして優しく撫でる。
「戦っている時に姫の言葉が聞こえたんだ…。だから、最後まで諦めずに戦えた…。ありがとう信じてくれて…」

第二章

 1999年7月15日(木)
 一面の朝靄に包まれた神戸の街は、まるで雲海にビルが浮んでいるかのような幻想的な光景を作り出していた。
 そんな神戸の街の小高い丘の上。
 趣きある古い洋館の立ち並ぶ北野異人館の中でも、ひと際立派な風貌を持つ風見鶏の館は、公園のように整備された石垣の上で堂々と佇んでいた。
 その二階にある寝室。
 走馬竜斗は左眼を襲うズキズキとした痛みで目を覚ました。
 ふわふわとした髪は湿気を帯て額に張り付き、少女と見紛うばかりの中性的な顔の左目には湿布が貼られ、包帯が巻かれている。
 竜斗は天上を眺めながらその怪我を負った経緯を思い出す。
 ブラフマンが考案した特別授業と称した実験がいよいよ開始された。
 アルカナの暗示を受けた異能力を持った生徒同士をトーナメント形式で戦い合わせ、最後まで生き残った者が最強のアルカナNo.21世界…つまりは神に至ると言う事を証明するものだ。
 一昨日のトーナメント初日は大河と男装の麗人である宝塚の戦いであったが、大河は善戦したものの宝塚の能力によって小さな女の子の姿にされた挙げ句に負けてしまった。
 そして、試合後に何時までも塞ぎ込んでいた為、パートナーである夕鶴にもふられてしまった。
 そんな大河を生徒会書記は汚い言葉で罵り馬鹿にした。
 竜斗は大河が心の問題で歩けない夕鶴に勇気を与えようと頑張っていた事を知っていたので、そんな彼の思いを一方的に踏みにじる生徒会書記が許せなかった。
 その翌日行われるトーナメントでは竜斗と生徒会書記があたる事になっていた。
 怒りに燃える竜斗は何が何でも生徒会書記に勝って、大河に謝らせてやると心に誓い戦いへと望むのであった。
 だが、現実はそんなに甘いものではなかった。
 竜斗は姫によってブラフマンの計画を狂わせる為に送り込まれた無能力者。
 生徒会書記はブラフマンによって計画を実行する為に作り出された能力者。
 能力の有無の差は決して小さくは無かった。
 竜斗はブラフマンの集団催眠を受けていない為に、暗示によって具現化された道具や能力は効きづらいが、直接的なダメージは避ける事は出来ない。
 それだけでも不利であるのだが、能力者の持つ自我領域は尽く竜斗の攻撃を阻み続ける。
 その結果、竜斗は誰もが目を覆いたくなるような一方的な暴力を受け続けた。
 だが、僅かな時間で心を通わせる親友と呼べる存在となった大河の名誉の為…。
 竜斗を信じて厳しくも優しく指導してくれる姫の為…。
 倒れても、倒れても、決して諦めずに戦い続け続け、その気迫は生徒会書記をも圧倒し、最後には姫に教わった技が炸裂し辛くも勝利を掴んだのだ。
 何故、生徒会書記の自我領域を破る事が出来たのかは不明ではあるが、結果として勝てた事は確かだった。

 そして、戦いを終えた放課後。
 姫による応急処置を受けた竜斗は、校庭のど真ん中で生徒会の書記と会計を正座させ、大河に向き合わせていた。
 真っ赤な夕焼けがその場にいる四人の影をグランドに落とす。
「さて、約束通り大河に謝ってもらおうか…!」
「ふざけんじゃねぇ!! 俺は油断しただけだ!!! こんな弱い奴に負けるわけねぇだろダボォ!!!」
「貴様見苦しいぞっ!!!」
 そして、凛とした声を響かせながら、颯爽と生徒会長と副会長が現れた。
「敗してなお醜態を晒すと言うのならば、我が輩が粛清してやるっ!!」
 生徒会長は正座している書記の腕を掴む。
「や、やめてくれぇ!!!」
 そして、生徒会長は会計の腕を曲がってはいけない方向に折り曲げた。
「ぎゃーーーーーーっ!!」
 そして、涙を流し咆哮を上げる書記に馬乗りになり殴りつける。
 幾ら書記が泣き叫び暴れようとも、完全密着した上で膝で締め上げた生徒会長の身体は根を張ったかのように重くビクともしなかった。
 生徒会長は返り血を浴びながら、その顔を何度も、何度も殴りつけた。
 そう、動かなくなるまで。
 そのすぐ隣で副会長も書記に対して同様の粛清を会計に行い、グランドは二人の血で真っ赤に染まっていた。
 目の前に起きた事に戦慄を感じざるを得ない竜斗と大河。
「な、仲間になんちゅうことを…」
 大河は恐ろしい物を見た事で青ざめながらガクガクと震えていた。
「我が臣下が見苦しい様を見せてしまったようだな」
「あんな奴でも仲間だったはずだ!! それなのに何故!? 何故こんな酷い事をしたんだ!?」
「決まっているでは無いか? 敗者に価値など無いのだぞ。
 力のみが人の存在価値であり、力を証明出来なかった者は自己主張する事はおろか存在する事すら許されぬ。
 故に勝者にただ従うか、潔く死を選ぶ事が美学なのだ。
 此奴はそれが解らぬ下賎の者故、さぞかし貴殿の気分を害した事だろう」
「そ、そんな事って…」
「それに引き換え貴殿は能力を使えぬのに、素晴らしい精神力で戦いを勝ち抜いた。
 私は強者が好きだっ!!
 我が輩の理解を超越した異質な強さを持つ貴殿は、最早愛していると言っても過言ではないっ!!
 勝利を持ってその強さを示した貴殿を祝福しようっ!!」
 生徒会長は血塗られた手を竜斗に差し出すが、リュウトはその手を払いのける。
「僕は弱い存在だっ!!
 だけど、友達を馬鹿にされた事が許せなかったし、僕を信じて支えてくれる人がいたから勝てたんだ!!
 仲間をそんなふうに扱う奴は許せない!!」
「良いだろう!! 所詮、人は言葉では語り合えぬものなのだ!!
 勝てば官軍、負ければ賊軍!! この世は弱肉強食!!
 貴殿の正義、勝利を持って証明するが良い!!
 勝ち進めばいずれ我が輩と当たる事もあるだろう!!
 その時を楽しみにしているぞ!!!」

 その後、大河と共に風見鶏の館に帰宅したものの、夕食の時間になって痛みを伴って発熱し始めた。
 それも当然の事だろう。
 姫の調合した特製湿布を患部に貼り、漢方薬を飲んで活法…ツボへのマッサージを受けたり、氷嚢で冷やす等の応急処置を受けていたが、あれほどの怪我を負ってしまったのだ。
 おそらく、今まで痛みを感じなかったのは興奮で感覚が麻痺していたからであり、ほっと一息ついた途端に感覚が戻ったのだろう。
 一階にある広いダイニングのテーブルに突っ伏す竜斗に対し、桝田聖蘭が特製の薬膳粥を持って来た。
 相変わらずのバロック時代を思わせるメイド服で、温和な笑みを浮かべたクールな表情であったのをピンぼけした記憶の中でも覚えている。
 突然、発熱したのに手際よくお粥が出て来たのは、始めからこうなる事が解っていたのかも知れない。
 恐らくそれを予見していたのはこの屋敷の主人であり、竜斗を本当の強さを手に入れる為の戦いへと誘った謎の少女…香夜姫だろう。
 姫は自宅でも長い銀髪を二つの束にして垂らしした髪型で、黒いゴスロリファッションと言うお決まりの格好だった。
 そして、熱で意識朦朧とした竜斗を優しく抱きかかえ、木製のスプーンでお粥を食べさせた。
 思い返してみれば意識がしっかりしていない事が悔やまれる程の密着度合だったと思う。
 そんな竜斗の様子を幼女姿の藩臣大河が心配そうに見ていた。
 大河は元々はツンツン頭の男子高校生だったが、宝塚の能力攻撃を受けて以来、ベリーショートヘアーの小さな女の子となってしまった。
 この時は上下緑色のジャージと言った格好だった。
 その後、竜斗は姫と聖蘭に自室に担ぎ込まれベットへと寝かされたわけだが、姫から信じられない一言を聴いた事によって一瞬にして意識が戻って来た。
「さて、修行の時間ですわ」
 まさしく、青天の霹靂と言った感じだった。
「こないな時まで修行なんて、そんなアホな!!」
 竜斗は大河の意見に無言で頷いた。
「こんな時だからこそ、ですわ」
「な、なんやてぇ!?」
「今日は臍下丹田(せいかたんでん)式呼吸法と言う気功の訓練をしますわ。
 これは戦闘に置いて精神を集中させる事に有効であり、暗示による能力等の精神に起因する攻撃に対しての防御力を上げる事が出来ますわ。
 また、日常生活でも心身の状態を整え、抗体力を高める事にも使えるんですわよ」
「なんや、てっきり技の修行するかと思ったけど、心配して損したでぇ…」
 とほっと胸をなで下ろす大河。
「何も戦闘技術を覚えるだけが修行じゃありませんわよ。
 わたくしの教える新武芸は武士が学んだとされる古武術を基礎にしていますが、それは考え方や体調の管理までを含んだ生きる為の方法なんですわ。
 それに人間は状態に左右されてしまう生き物ですが、その状態の中で出来る事を考えて行動し続ける事が大切なんですわ。
 そして、それを積み重ねる事で状態に左右されずに生きる術を身につける事が出来るんですの。
 そう、これも強くある為の鍛錬の一つなんですわよ」
「…僕はやるよ。自分自身で決めた事だから、最後まで貫きたい…」
「もの凄い根性やぁっ…!」
 大河は涙腺を緩める。
「大河さんは床にあぐらをかいて、行ってみて下さいまし」
「こんなんで良いか?」
「本来ならば姿勢も重要な要素なのですが、今回は戦闘中も含めて何処でも使えるように、呼吸法に集中して練習しましょう」
「イエス・マムっ!」
「臍下丹田式呼吸法と言うのは読んで字の如く、おヘソの下にある下丹田と言う部分に気を集中させる呼吸法ですわ。
 起源はかのブッタが悟りに至る過程で作り出した修行法が元であると言われ、一概に臍下丹田呼吸法と言っても、その長い歴史の中でインドのヨーガから、中国の気功術や武術、日本の古武術等、様々な型式で応用されて来た為に、何が正しい方法とは言い切る事は出来ません。
 ですが、全ての方法に共通する事は、大きな世界…空や大地と一体となるようにイメージし、常に丹田に力を入れ続けるように集中する事、呼吸に合わせてお尻の穴を積極的に使用する事ですわ」
「ケツの穴を使いまくるって、とんでもない言葉の響きやなぁ…」
「あら、何を想像してらっしゃいますの?
 お尻の穴はあくまで排泄器官ですわよ。それなのに良からぬ想像を抱くようだから、元の姿に戻れないんじゃなくて?」
「いらん誤解を招く事言わんとってや!!」
 竜斗は意識朦朧とした身体で、身を構えるような動きをする。
「お前も本気にすな!!」
「では、実際にやって見るとしましょう。
 息を吐く時はお尻の穴を緩めて、丹田から空気を絞り出すように口から。
 息を吸う時はお尻の穴を閉めて、丹田へと空気を溜め込むように鼻から。
 一連の呼吸はゆっくりと確実に行い、一定のリズムを整えるようにしながら、三セットぐらいずつ繰り返します。
 その中でご自身の丹田から外界に向けて気を放出する、外界からご自身の丹田へと気を吸収すると言う気の流れをイメージし、大きな存在と一つになっていく感覚を持つと良いでしょう」
 暫しの沈黙…。
 静かな室内なこぉーっと言う息を吐く音だけが響く。
 だが、普段無意識に行っている呼吸を意識して行い、複数の要素を加わえようとするのは思いのほか難しく、どうしてもチグハグした感じになってしまう。
 特にリズムを整える事まで意識が回らないし、イメージをしている余裕が無い。
「どんな事でもそうですが、始めから全てを完璧にやろうとしては駄目ですわよ。
 まずは簡単に出来る事から繰り返し、確実に出来るようになってから、次の要素を加えてと徐々にステップアップして行くと良いですわ」
 竜斗はまずは肛門を閉める緩める、腹を膨らませる凹ませると言った事を繰り返し、確実に出来るようになってからそのリズムを整えて行く事にした。
 竜斗は寒気がしていた身体が次第に腹を中心に温かくなって行くのを感じ、何時しか心地よい虚脱感に包まれつつ深い眠りに落ちて行った。
 そして、気がついたら痛みによって目覚め、朝を迎えていたわけだ。
 やがて、意識がはっきりして来ると、額に置かれた氷嚢が適温に保たれている事に気がついた。
 誰かが夜通し看病し続けなければ適温は保てるわけが無い。
 一体誰が…?
 横を見るとそこには椅子に座ったままベッドに寄りかかるように眠りに付いたネグリジェ姿の姫がいた。
 いつもは長い髪を側頭部でふたつに分けているが、この時はキャップに包んでまとめあげていた。
 始め見る姫の姿に竜斗は愛おしさを感じてしまう。
 姫の隣にある車輪の付いた台車の上には、お湯の張られた洗面台とタオルが置かれていた。
 そう言えば沢山汗をかいたはずなのに、やけに身体がすっきりしている。
 おそらく、姫が身体を拭清してくれたのだろう。
 その場面を想像すると恥ずかしさの中に妙に興奮するものを感じる…ってか、結構元気な自分に苦笑する竜斗。
 当然完治には至って居ないし痛みはあるものの、腫れも引いて来ているし昨日よりも大分ましだ。
 これだったら、学校に行っても問題ない次元だろう。
「ありがとう姫…」
 竜斗は姫の頭をそっと撫でた。

 登校時間を迎える頃にはすっかりと日が上がり、朝だと言うのにも関わらず強い日差しがガンガンと照りつけるようになっていた。
 県立高校の生徒達は額に汗を浮かべ白いシャツを汗でべったりと貼り付かせながら、列を作って傾斜が急な通学路をせっとと登って行く。
 その坂の頂きにはロマネスク様式の城を模した校舎が聳えていた。
 竜斗達は聖蘭の運転する車で送迎してもらい、特別授業で選ばれた生徒達に充てがわれた教室へと入り込んだ。
 さすが特殊な能力を持つ生徒とそのパートナーだけあり、皆一様に強い個性を持った者たちばかりだ。
 だが、そのアクの強い生徒達が一斉に竜斗に視線を注いだ。
「なっ!?」
 竜斗は驚き慄く。
 やはり、薬草を染み込ませた湿布を包帯で巻いた、怪我人丸出しって姿が目立つのだろうか?
 そんな竜斗に空と夕鶴と談笑を楽しんでいた奏真が歩み寄って来る。
「やぁ、おはよう!!」
 青海奏真はとびきり爽やかな笑みを竜斗へと向ける。
 シャキーンと効果音が鳴り響くような白い歯が眩しい。
 相変わらず背が高く髪もサラサラで、カスタムした制服を見事に着こなすモデルのような男だ。
「ああ、おはよう…ってか、何でみんなして僕を見てるのよ!?」
「ふっ、君は自分の魅力に無頓着なんだね。…まぁ、それが君の素敵な所でもあるんだけど」
「へっ!?」
「お兄ちゃんったら、なんでそう変態な事ばっかり言うのよぉ!!」
 奏真の傍らに寄り添った空は彼を上目遣いで見ては顔を赤くする。
 奏真はそんな空の反応をじっくり楽しむように言う。
「男でも女でも素敵な人は褒めずにはいられない。それが、俺なりの挟持ってものさ」
「本気で意味が分からないんだけど…」
「能力を使わないのに生徒会書記を倒すなんて、誰もが無理だと思うような事をやってのけたんだぜ。そう、みんな君を尊敬しているのさ!」
「僕なんて全然大した事無いし、注目されても困るんだよなぁ。
 だって、奏真先輩みたいに強い人だったら、能力を使わないで相手を倒すぐらい、余裕でやってのけられるでしょう…」
 竜斗が思い出したのは転校初日に風紀委員の取り巻き達を一瞬にして倒した奏真と、能力者である風紀委員長をぶっ飛ばしてしまった姫の圧倒的戦闘能力だ。
 竜斗はと言うとしつこさで勝ったようなもんだし、彼らの強さには遠く及ばないのは明白だ。
「どんな能力者であろうとも人間である以上弱点はあるし、それをうまく突けば俺でも能力を使わないでも勝てるだろうね」
 自分の実力をさらりと肯定して、全然嫌みじゃない所が憎たらしい程カッコいい。
「だが、俺も完璧とは程遠い弱点を持った人間だから、大きなリスクを背負った戦い方は出来ないさ。
 だから、リスクを背負っても何かを貫き通す、君の精神力は素晴らしいと思うよ」
「僕はただ一生懸命やっただけさ。その結果、ミイラ男の仲間入りだけどね」
 と竜斗恥ずかしさを誤摩化すように戯けて言う。
「でも、痛そうやわぁ…」
 奏真の後を追うように車椅子を移動させて来た堀江夕鶴が、あんぐりと大きく開けた口を押さえる。
 日本人形を思わせる長い黒髪の美しい容姿だが、大河をも凌駕する的確な突っ込み具合で、男の急所ばかり狙う凶暴な一面を持つ。
 ひょっとすると誰よりも逆らうと恐ろしい人物かも知れない。
「痛そうやわぁ、じゃなくて実際痛いんやって…。見りゃ解るだろ、ドアホぉ…」
 竜斗の影に隠れた大河が文字通り夕鶴に陰口を叩く。
 大河は聖蘭特製の子供サイズの夏服を着ている。
 上は女子の制服を思わせるセーラー服で、カーキ色のズボンは半ズボンになっていたりと、ハイセンスに可愛らしくアレンジされている。
「はぁ、何か言うたかぁ? 言いたい事あれば表出てハッキリ言いや、男らしく無い! そんなんやから、まだ元の姿に戻れないんや!!
 それになんやその格好は? 幾らなんでも可愛過ぎやろ! タマだけで飽き足らず男としてのプライドも無くしたんか!」
「うっさいハゲ! 俺はともかく聖蘭さんの作った服を馬鹿にすんのは許せへんっ! 俺は聖蘭さんの作った服着れればそれで幸せなんやっ!!」
「また、お前はメイド、メイドとうっさいなぁ!! そんなメイドが良いなら冥土に行ってまえ!!」
 大河と夕鶴は幼なじみでトーナメントにもコンビを組んで参加していたのだが、第一回戦で敗退した際に仲違いをして以来険悪な雰囲気が続いている。
「あのさぁ、いい加減に喧嘩すんの止めたら!?」
 大河は夕鶴の為に戦っていたのだが、彼女に自分の気持ちを伝えていないので誤解されているのだ。
 竜斗はその事を知っているからこそ、二人のすれ違いが無益な事のように思えて仕方無かった。
「ふっ、喧嘩とは仲の良い夫婦のコミュニケーションのようなものなのさ」
 奏真は苦笑するように言う。
「誰が夫婦喧嘩やっ!!」
 と大河と夕鶴は声を合わせて奏真に突っ込む。
 そして、互いの顔を合わせて赤面する。
「なんだ、結局仲が良いじゃんか」
 竜斗がニカニカしながら二人を見渡すと、大河と夕鶴はますます小さくなる勢いだった。
 そんな竜斗の様子を見て旭陽空は満足そうに笑う。
「でも、ひっとしたら怪我が酷いんじゃなかって、ドキドキハラハラしてたけど、元気そうで良かったぁ!!」
 空が竜斗に向かって太陽のように眩しい笑顔光線を発射する。
 小さな顔に大きな瞳が爛々と輝き、ぽよっとした頬にはエクボが浮かび、ショートヘアーの頭にはリボンがちょこんと立っている。
 飼い主にかまってとせがむ小動物みたいであまりにも可愛い。
 こんなに愛くるしい人間が存在して良いのだろうか?
 竜斗の胸は大げさに高鳴り、一気に変な汗が吹き出す。
「まぁ、暫くは包帯姿だけどね」
 竜斗は気恥ずかしさを誤摩化すように頭をポリポリ掻く。
 声のトーンが反オクターブ上がっていたかもしれない。
「空は包帯姿も好き! だって、漫画のキャラクターみたいでカッコいいもんっ! 包帯で不思議な力を持った目が封印されてるんじゃないかって想像するとワクワクするし!!
 あ、包帯を外す時は『もう後戻りは出来ないぜ。巻き方を忘れてしまったからな』って言うのを忘れないでね!!」
「それ、夢見がちって言うか、もはや病的な発想やで!!」
 夕鶴がジト目で空を見る。
「…そうか、包帯姿はカッコいいのかっ! よし、このままずっと包帯姿で行こうぉ!!」
 竜斗は拳を振るわせながらブルプルする。
 空のアホな言動を見ていると心の底から元気が湧いて来るので不思議だ。
 きっと、何か特殊なフェロモンでも出ているのだろう。
「竜斗センパイも脳みそ湧いてんなぁ…。みんな、アホばっかや」
 夕鶴がそう言うとみんな笑い声を上げた。
 だが、長身のスーツ姿の男性が教室に入って来た事によって、朝の団欒とした教室の空気が静まり返る。
「さぁ、特別授業を始めるので席に着いてほしい」
 その声を聴く前にみんな一斉に自分の席へと戻って行った。
 オールバックにした額には一筋の傷が入り、常にサングラスを着用している。
 彼こそがブラフマンと呼ばれるこの特別授業の考案者だ。
「君達はこのトーナメントを通して自らの能力の開発して行き、神と呼べる存在…アルカナの到達点であるNo.21の世界を目指している最中だ。
 では、君達は自らの目標である神を信じているだろうか?
 この世界には無数の信仰があるが、その多くは自然現象や世界創造等の未知に対しての敬畏や、空想が起源であると言われる。
 それに政治に信仰心を利用した者、特殊な技術や思想を持った者、善悪を問わず偉業を成し遂げた者など、実在した人間の話に尾びれがついて、様々な土着の信仰に吸収合併されながら、現代に至る宗教が形作られて行った。
 つまり、伝承の真偽は別にして神と呼ばれていた者は実在し、現実世界に置いて絶対的な存在価値を持つ偶像となる事で人は信仰の対象になりうると言える」
 ブラフマンの話を聴いていると思わず納得してしまうような事も多く、彼の世界に引き込まれて行ってしまう事がある。
 姫曰く虚実を織り交ぜた高度な話術によって人間をコントロールするのが彼の常套手段らしいが、竜斗は繊細な感性を持ち憂いを秘めたブラフマンに対して妙な親しみを覚えていた。
「アルカナによって与えられる能力を開発する事もそれと同じだ。
 能力を発動し夢を具現化するには自我を強く認識する事が必要だが、客観的にその価値が認められる事により強さを増して行く。
 つまり、如何にして自分自身をプロデュースし、この世界に置いて絶対的な存在感を築いて行くかが重要なのだ。
 それは生きる上でも大切な要素なので、各々で考えてみると良いだろう」
 竜斗はこの教室にいる個性豊かな生徒達と比べてしまうと、埋没してしまうような非個性的な人間だと自分自身を認識しているので、立ち位置を考えるのは確かに重要だと痛感していた。
 …マジで包帯キャラを貫き通すのも悪く無いかなぁ、と思ってみたりした。

 そして、何時ものように午前中のブラフマンの講義が終了し、午後からトーナメントの試合が行われる運びとなった。
 戦いの舞台となる体育館の扉は全て解放されてはいるが、戦いの開始を前にして興奮する生徒達の熱気と夏の熱さで、館内はムンムンとした蒸気が漂っているかのようだった。
 しかし、今日は何時もと様子が違う。
「なんか、人少なくないか?」
 竜斗は周りを見渡しながら言った。
 何時もは二階のギャラリーまで観戦する生徒達で一杯のはずだが、この日は一階で全て収まり切っている上、その一階だって所々隙間が見られる。
「それも仕方無いで、ほら見てみぃや」
 観客達に囲まれるように、準備を整えた二組のペアが立っていた。
 一組はNo.9のバッヂと図書委員長の腕章を着用したボサボサの前髪で内気そうな少女に、図書委員の腕章を付けた聡明そうな少年の組み合わせ。
 一組はNo.14のバッヂをつけた継ぎはぎだらけの制服を着た坊主頭の少年に、かなり幼い感じで手作り感のあるスカートを履いたオカッパ頭の少女だ。
「図書委員長の方が隠者のアルカナや。
 見ての通り根暗女で声が小さ過ぎてまともに聞き取れへんけど、パートナーになっている新一年生の野郎の通訳を通して、夕鶴なんて目じゃない程の毒を吐くんやでっ!
 アレはもう突っ込みを越えた破壊行為やぁ!!」
 大河は涙を流しながらプルプルと拳を振るわせる。
「一体を言われたんだ…?」
「それだけは言えへんっ…!! 言えへんのやっ!!」
「だったら気になる事言うなよっ!! んで、もう一組のほうは?」
「貧乏っちゃまは節制のアルカナやね。
 新聞奨学金でこの学校通っている唯一の生徒で、パートナーである妹や幼い兄弟達を支える為、最終的に一流企業に入る事を目指しているんやって。
 ただ、金に執着するあまりトラブルも多いっちゅう噂や」
「人は見かけに寄らないんだな」
「まぁ、あくまで噂やけど、たった一つだけ確かな事があるでっ!」
「なんだよそれは?」
「二組とも地味で不人気って事やっ!!」
「可哀想だからそういう事言うなよっ!!」
 あの二人はまだ個性とそれに見合った能力を持っているので、これと言った特徴も無く能力も持っていない竜斗は彼ら以下である事は確かだ。
 だが、笑っていられないって事は解ってても、思わず吹き出してしまった。
「これは意外と重要な事やでぇ!
 能力の具現化っちゅうのは本人の自我の強さだけやなくて、ギャラリーからの支持率でも左右されるっちゅう話やし。
 今後の戦いを考えると初戦で固定ファンを獲得しときたい所やけど、対戦カードが地味過ぎて注目度が低いっちゅうのは致命的やなぁ…」
「しかし、注目度が低いって言ってもこの熱気だし、他のアルカナ達も一通りいるみたいだよな…」
「そりゃ、ギャラリーにとっちゃ娯楽みたいなもんやし、アルカナにとっても敵情視察は重要やしなぁ」
 人が少ない事もあり楽に周囲を見渡す事が出来た。
 空と夕鶴を連れ添った奏真はもちろん、センスを煽って偉そうに仁王立ちする生徒会長と副会長、他にも顔を知っているアルカナ達は一通りいる。
 だが、誰かが足りない気がした。
「あれ?」
 もう一度、周囲を見渡してもやはり姿が見られない。
「どないしたんや?」
「いや、宝塚さんがいないなーって思って」
 男装の麗人と言う目立つ姿の彼女を見過ごすわけは無いだろう。
「きっと、ウンコやろ?」
「そんな事あるわけ無いだろ!?」
「ふっ、女がウンコしないっちゅうのは男の抱く幻想やでっ! それをおれはこの身体になってそれを思い知ったんや!!」
「しょうもない事力説すんなよっ!!」
 しかし、宝塚は第一回戦で大河を破り、第二回戦で竜斗と当たる事が決定している。
 トーナメントで一番の雑魚である竜斗の試合も見に来るような真面目な彼女が居ないのは気になって仕方無かった。
 腕につけたGショックで時間を確認すると試合の開始まで五分程あった。
 竜斗は意を決したように頷く。
「よしっ!! ちょっと行って来るかっ!!」
「ってお前までウンコか? しゃーない、人間はウンコに勝てる生き物やないんや…」
 ウンウンと頷きながら何故か遠い目をする大河。
 竜斗の脳裏に女の子の姿にされた日の晩の事がフラッシュバックする。
 確かあの時はひたすら便意を我慢していたが…。
「まさか、お前っ…!? いや、今は何も言うまいっ…!! 時間も無い事だしササっと行って帰って来るよ!!」
「漏らさん内に早よ行って来るが良いでっ!」
「ああ、そうするよっ!!」
 竜斗は体育館を飛び出した。
 いちいち弁解をする時間は無かったが、本当に便意を催したわけではなく、姿の見えない宝塚を探す為だった。
 さて、宝塚は何処にいるのだろうか?
 教室、校庭、食堂、クラブハウス、屋上、それとも…?
 よく考えれば彼女は男装の麗人で女の子から人気があるとか、フェンシングの大会で優勝しているとか、騎士道精神溢れる性格だとか人となりを見聞きしているのにも関わらず、一度も話した事が無いと言う知っているようで知らない人物だ。
 正直、思い当たった選択肢の中には居るとは思えない。
 だったら、その選択肢に無い場所…つまり、自分が知らない場所にいる可能性が高いと思い、一度も行った事が無い場所を探してみる事にした。
 だが、その場所はすぐに見つかる事となる。
 剣道、柔道等が行われる武道館の一角で彼女はフェンシングの練習をしていた。
 全身を白いスーツに包み頭部にはのど元まで含んだ顔面の全てを守るヘルメットを被っている。
 板張りの床の上に敷かれた細長いマットを上で、前進、後退、突き、前に飛ぶ、後ろに飛ぶ、剣を突き出して突進すると言った動作を繰り返している。
 恐らくそれがフェンシングにおける基本的な動作なのだろう。
 下半身は激しく動いているのにも関わらず、上半身がピタッと停止しているかの如くブレが無い。
 それは人間の構造として相当な無理のある運動であるはずだが、彼女の行う一連の動作は一切の角が存在しないような滑らかさであった。
 実際の試合になればもっと激しく素早く動くのだろうが、だからこそ練習では基本中の基本を丁寧に煮詰めているのだと思った。
 スポーツの動きを映画のワンシーンの様だと在り来りな言葉で称される事があるが、彼女の動きはまるで雄大な水の流れを連想させる優雅さがあった。
 竜斗は彼女の作り出す美しい世界観へと引き込まれ、トーナメントや時間の事などすっかり忘れて魅入ってしまった。
 そして、そんな竜斗に見られているとは知らず、彼女は一心不乱となって練習を重ね続けたのだった。
 やがて、外から大きな歓声が上がったのを合図に、彼女はヘルメットを脱ぎ去り、汗に煌めく色素の薄い長い髪をかき分けた。
 その小さく細身な顔は精悍な表情を浮かべているものの、筋の通った鼻、小さく形の良い口、やや大きな瞳など、女性として完璧とも言える美を備えていた。
 竜斗は夢から覚めやらぬ表情で、そんな宝塚の横顔を眺めていた。
 そこでようやく竜斗の気配に気がついた宝塚が振り返り二人の目が合った。
 距離が離れているはずだが、竜斗の右目には宝塚の凛々しく美しい顔が、宝塚の両目には竜斗の包帯だらけの間抜け顔が写り込んでいた。
 その瞬間、二人の白い顔が真っ赤に染まった。
「…い、何時からそこに居たんだ?」
 宝塚の声は恥ずかしさに震えているようだった。
「…トーナメントの試合が始まる少し前ぐらいかなぁ」
 竜斗も恥ずかしさを誤摩化す為に頭をポリポリ掻きながら言う。
 またしても声が上擦っていたと思う。
「試合会場に居ないからどうしたのかなって、ちょっとだけ様子を見に来たんだけど、あまりにも宝塚さんの動きが綺麗なもんだから思わず見惚れちゃったんだよ!!
 あの丁寧で流れるような動きが特に凄い!!
 ずっと、練習し続けなきゃあの動きは出来ないだろうって思ったら感動しちゃったんだ!!
 今もみんなが戦いに熱中している間も練習し続けるなんてホントに凄いと思うよ!!!」
 竜斗は宝塚の練習風景を思い出し、両手をバタバタさせて興奮しながら言う。
 男でも女でも素敵な人は褒めずにはいられない…。
 まるで奏真のような物言いではあるが、本当に凄いものならば素直に賞賛の言葉が口に出るもんだなと竜斗は思った。
「そ、そんなこと…」
 竜斗のあまりのストレートな感受性をぶつけられ、ますます真っ赤になった顔を隠すように宝塚は背を向ける。
「私はただ不器用だから人より多く練習するしか無いだけだ。全然凄くなんか無いんだ…」
 まるで、男性と会話する事と不慣れな乙女のように、宝塚は小さく消えそうな声で応えた。
「そ、それより、君は昨日の怪我は大丈夫なのか? 大分酷くやられていたようだが…」
 宝塚は深呼吸して気持ちを落ち着かせると竜斗の方に振り向く。
 宝塚の顔はまだ大分真っ赤だったが、女性に対する経験値が少ない竜斗は、彼女の様子がおかしいと言う事に気付く余裕は無かった。
「大丈夫って訳じゃないけど、大分ましになって来たよ。それに自分で望んだ戦いで受けた傷だし仕方ないさ」
 竜斗が宝塚に優しく微笑みかけると、宝塚は顔を更に真っ赤にさせ、不器用に微笑み返した。
「そうか…、君は強いんだな。普通は能力を使えないのに、能力者に挑もうなどとは思わないはずだ。何が君をそこまで駆り立てたんだ…?」
 宝塚は何時もの精悍な表情を取り戻しながら言う。
「ああ、それね!」
 竜斗は思い出して笑う。
「君に女の子にされちゃった友達の大河が、生徒会書記に馬鹿にされたのが許せなかったから、絶対に謝らせてやるってムキになっていたんだよ。
 我ながら無茶したとは思っているけど、頑張ればどうなかなるもんだね!」
「戦いとは言え君の友達には悪い事をしてしまったな…。彼は落ち込んだり…、その…、私を恨んだりしていないか…?」
 宝塚は大河の事を本気で心配しているようだった。
 竜斗は彼女を凄く優しい人だと思い、その気持ちが嬉しくてたまらなかった。
「大丈夫、今日も五月蝿いほど元気だったよ!
 大河が元の姿に戻れないのは男として自身が無いせいだって言うし、むしろあいつ自身の責任だからさ、宝塚さんが心配する必要はまるっきり無いよ!!」
 竜斗は大げさに笑って言う。
「そうか…。自信、持てれば良いな…」
 宝塚自身に何か思い当たる節があるのか、何時になく切実な表情を浮かべる。
「ああ、そうだね…!」
「君とは次のトーナメントで当たる事になると思うが、改めて自己紹介をさせて頂こう。
 私はNo.3女帝のアルカナを持つ宝塚舞だ、よろしく頼む」
「僕は走馬竜斗…。一応はNo.18月のアルカナって事になっているのかな…?」
「そうか、君もソーマと言うのか…」
「ああ、紛らわしいから、みんな竜斗って下の名前の方で呼ぶけどね…」
 宝塚は一瞬考えるような様子を見せると手を差し出した。
「…では、互いに全力を出せるように頑張ろう!!」
「うん、こっちこそよろしく!!」

 1999年7月16日(金)
「まさか体育館に観客が入り切らないからって校庭でやる事になるとはなぁ…」
 竜斗は大河と夕鶴と三人で、校庭を取り囲むほぼ全校生徒達とも言える観客の中に入り込み、午後からの試合が開始される時をダラダラとしながら待っていた。
 竜斗は怪我が大分良くなったと言っても相変わらずの包帯姿だ。
 幼女姿の大河は夕鶴に顔を背けるようにむすっとしながら竜斗の影に隠れている。
 夕鶴はと言うと車椅子に乗って眩しそうに日傘を差していた。
 そして、校庭の中央には本日のトーナメントの主役になる二組が立っていた。
 No.1の魔術師のアルカナはステッキを手にしてマントと帽子を被った男子生徒と、帽子を被ったバニーガール姿の女子生徒の奇術部コンビ。
 対するNo.4のアルカナは皇帝冬の学生服に縁なしメガネにオールバックの背の高い男子生徒と、男子の冬服を着た髪の長い中性的な生徒のコンビ。
 No.4の皇帝はこの学校の生徒会長を務める小泉光一郎であり、そのパートナーは副会長の新妻まことである。
「この戦いがこんなに注目されているなんて、よっぽどあの奇術部に人気があるんだなぁ…」
「もう、竜斗センパイったら、人気あるのは生徒会長の方やでぇ! 生徒会長言うのは高い支持率があって成り立っているんやし!!」
「確かに彼が生徒会長やっているって事はそれなりに支持者がいるって事だよな…」
 生徒会長は力こそ正義だと妄信するあまり、この世は弱肉強食と言う戦国時代かと思うようなフレーズを掲げ、弱者に対して粛清と言う名の暴力を加えるような最悪な存在である。
 そんな彼が人気があるなんてとてもじゃないけど信じられなかった。
「うちが思うにアイツは仮想敵を使って人を操るのが上手いんや」
「それってどう言うことなの?」
「ホント竜斗センパイって純なんやなぁ…」
「…純って言うか、もはやアホって言ってるよね」
「例えばタイガースで言う所のジャイアンツみたいなもんで、常に敵を想定する事で支持者を一つにまとめるって人心掌握術のひとつなんや。
 これは政治でもよく使われる手法で、国民に無理な政策を強いると当然クーデターが起きる可能性があるけど、仮想敵国を作る事で不満のはけ口を国外に向けさせる事が出来るんですわ」
「夕鶴は僕より年下なのに色々な事知ってるんだなぁ…、関心しちゃうよ!」
「もう、竜斗センパイったら、そんなに褒めんといてぇ!!」
 夕鶴は白い顔を赤くして嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「生徒会長の場合は役立たずの前生徒会をリコールしてネガティブキャンペーンによって当選し、常に少数派の立場が弱いもんを仮想敵に仕立て上げ、粛清する事で支持率を維持してるんですわぁ!!」
「そんなのってイジメじゃないか! ますます彼を支持する事なんて出来ないよ!!」
「ところが、生徒の大多数は自分自身が標的になると思っていないし、自分より下の攻撃対象が出来る事によって自尊心を満たせるんで奴のやり方を歓迎しているんですぅ!!
 しかも、質が悪い事に粛清を自制の効かないチンピラっぽい部下にやらせて、その行き過ぎた行いを生徒会長が自ら止める事で正義の味方を気取り、弱いもんからも支持を集めようって魂胆なんやっ!!
 うちは暴力やイジメが大嫌いやし、卑怯なのも許せへんわぁ!!」
「でも、大河も夕鶴も反体制派でそれを隠そうともしてないのに、よく今まで無事でいられたよなぁ…」
「正直、何度も危ない目にはあってるんやけど、それでもうちらみたいな弱いもんが耐え凌いで来れたのは、生徒会長以上の人望と力を持ってる人が助けてくれるおかげなんですわぁ!!」
「それが、奏真先輩か! やっぱ、彼は凄いなぁ!!!」
「もう、完璧なお人やで! そりゃ、人の影に隠れとるウンコタレとは比較にならんわぁ!!」
「おい、お前ヘタレからウンコタレにバージョンアップしてるぞ!! 良かったな!!」
「うっさいわぁ、ボケぇ!! 昨日、試合の観戦すっぽかしてウンコタレ流し続けたどっかの誰かさんよりましや!!」
「ふっ、真のウンコタレは誰かなぁ…!?」
「な、なんやとぉ!?」
「なになに、竜斗センパイ? このウンコタレが何かやらかしたんか!?」
「それは…」
「ああああっ!! それだけはノーワードやでっ!! 勘弁したって!!」
「じゃあ、ビックマックセットで手を打とうか!!」
「くっ、仕方ない…!! これで貸し借りをチャラとしようやないかっ…!!」
「心の友よぉ!!」
 竜斗と大河はガッチリ手を結び合い、背を叩いて抱き合った。
「うわぁ、そういう関係やったんかぁ…。やっぱ、爽やかな奏真先輩とは偉い違いやわぁ…」
 余計な事を妄想して顔を赤くする夕鶴。
「…お前、さっきから黙って聴いてりゃなんや!! そんなに奏真が良ければ奴の所に行って、愛人二十八号にでもなってまえ!!」
「うちとしてもそうしたいのは山々やけど、生憎ながら今日は奏真先輩も空も来てい無いんや…!!」
「そう言えば今朝から居なかったし、今もこの会場にいないな…。どうしたんだろ…?」
 竜斗は念のために周囲を見渡すが、奏真と空の姿はそこに無かった。
 ついでに言うと宝塚の姿も無かったが、彼女はきっと今日も一人で孤独な練習を続けている事だろう。
「…」
 夕鶴は珍しく俯き口を閉ざした。
「どうかしたのか…?」
「いや、なんでも無いですわぁ。それより、ようやく試合が始まるようやで!!」
「では双方とも自我領域を展開だ」
 いつの間にかに二組の間に立っていたブラフマンが何時もの如く、自我領域の展開を促す。
 まずは奇術部の二人からだ。 
 まるで、マジックショーの一幕のように、奇術師の男子がバニーガール姿の女子の腰に手を回し、アクロバティックな格好で唇を交わす。
 その瞬間、ヒューヒューと言う声が上がる。
「みんな、よくこんなんで盛り上がれんなぁ…。うち恥ずかしくて見てられんわっ!!」
 そう言いつつも、夕鶴は顔を赤くしながらしっかりと二人の身体が合さるのを見ていた。
「って、しっかり見てるじゃん!!」
 夕鶴は日本人形みたいな可憐な容姿をしながらも、実は誰よりもムッツリスケベなんではないかと竜斗は思った。
 奇術部がカードを掴み取ると、それはマジックで使うステッキへと変化した。
 竜斗には相変わらずそれが半透明に見える。
 続けて生徒会長と副会長が…。
「…」
「…」
「…」
 竜斗と大河と夕鶴は顔を合わせて黙りこくった。
「うち、何か凄いものを見た気がする…」
「こりゃエグいで…」
「いっその事、見なかった事にしよう…」
 竜斗の提案に異論は無かった。
 そして、No.4皇帝のカードが出現する。
 王冠をがぶり、王座に腰掛けて、王笏を持った人物が描かれたカードを掴み取ると、戦国武将の鎧に全身を被われたような風貌の馬へと変化する。
 竜斗の目から見ても具現化度合が高い。
「う、馬やとぉ!?」
「しかも、何で馬なのに鎧なんや!? なんか発想が中学二年生レベルで痛いわぁ…」
「えらい、言われようだな…」
「では、はじめっ!!」
 ブラフマンが手を振りかざすと戦いが開始される。
 開始早々沈黙状態が続く。
「うち、これは先に手ぇ出した方が負けやと思うんや」
「何で?」
「今までの戦いはみんなそう言うパターンなんや。きっと、先に手出す方が精神的にヘタレっちゅう事やないかなぁ」
「…それ、遠回しにおれを馬鹿にしてへんか?」
「アホぉ、遠回しやなくて直に馬鹿にしてるんや!! 相手の出方が解らんのに先手必勝とか言う奴はアホ丸出しにも程があるでぇ!!」
「昔の事を何時までもグチグチグチグチ言うて、これだから女は腹立つんやっ!!」
「お前も今は女やろっ!!」
「うっさいなぁ、ハゲぇ!! 好きで女やっとるんとちゃう!!」
「誰もハゲてないし、むしろお前が五月蝿いって…。ちょっとは静かにしよろなぁ…」
 大河と夕鶴が不毛な喧嘩を繰り広げる内も膠着し続けた。
 だが、生徒会長は馬に乗り込み不敵な笑みを浮かべているのに対し、奇術部はあまりに落ち着き払った彼の雰囲気に飲み込まれ早くも憔悴した様子だ。
 ある意味で先に動いた方が精神的に負けていると言う夕鶴の解説は合っているかもしれない。
「ふっ、我が華麗なるマジックをお見せしましょう…!!」
「あちゃーっ、奇術部の負けは決定やなぁ…」
 夕鶴は合掌する。 
「それはまだ解らへんでっ!!」
 奇術部が具現化したステッキを振りかざすと、巨大な炎の玉が現れて生徒会長に向かって襲いかかる。
「おおっ、これは期待出来るでぇ!! ガンバレ、奇術部っ!! クソ女のジンクスなんか屁でも無いって証明したれっ!!」
 生徒会長は全身を炎に包まれる。
「よっしゃーーーーっ!!! 幾ら自我領域があろうとも、これは消し炭決定やで!!!」
「まだ、解らへんよっ!! 避けへんって事はそれだけ防御に自身があるって事やもんっ!!」
「…ってか、お前ら誰の味方だよ?」
 だが、またしても夕鶴の予想は当たる事となる。
 炎が徐々に収まって行くと、その中から明らかに先ほどと違う異形のシルエットが現れた。
「な、なんやとぉ!? 馬が鎧になったって言うんか…!?」
 そう、能力によって具現化された鎧馬が生徒会長の身体に装着され、まるで戦国武将のような威風堂々とした姿となっていた。
「あいつは聖闘士○矢か、サ○ライトルーパーか、シュ○トのつもりなんっ…!? 幾らなんでもこれは無いわぁ…!!」
 さっきまで大河の当てつけに生徒会長を応援していた夕鶴も嫌悪感を露にした。
「痛々しいにも程があるな…!!」
「まったくや!! うちの好きな作品が汚されているようで最悪や!! バトルスーツものやるんやったら、もっと絶世の美形じゃなきゃ許せへんよっ!!」
「そっちかよっ!!」
「では、これはどうかな!?」
 奇術部がステッキを振るうと今度は突然複数のパネルが現れて、それが鎧姿の生徒会長を囲って箱を形作る。
「それっ!!」
 何処からか取り出した鎖で箱の周りをグルグルと縛り付けて巨大な南京錠で固定する。
「イッツ、ショーターイム!!」
 そして、帽子の中から次々と剣を取り出し、ありとあらゆる方向から箱に突き刺して行く。
 その度に派手なエフェクトで赤い液体が飛び散る。
 最後に帽子から特大のチェーンソーが現れ、豪快な音を立てながら生徒会長の入った箱を真っ二つに切り裂いて行く。
「むむっ!? どうした事か!?」
 だが、突然チェーンソーの歯から火花が散り、それ以上切り込む事が出来なくなった。
「くだらんな…!! 貴様の力はその程度かっ…!!」
 そして、箱や鎖が大げさに弾け飛び、中から生徒会長の姿が現れる。
 鎧にも生徒会長の身体にも傷一つ付いていない。
「な、なんだと!!」
 明らかに同様を隠せない様子の奇術部。
「ヘタレ特有の台詞が出たでぇ!! これを言うって事は負ける寸前や!!」
「…」
 竜斗も結構その言葉を言っているし、自分をヘタレだと認識しているので何も言い返す事は出来ない。
「ふっ、だがボクには奥の手があるっ!! あそぉれ!!!」
 奇術部はマントで自分の身体を包み込むと、その場から姿を消した。
「消えよった!!」
「違うでぇ!! アソコ見てや!!」
 夕鶴が指差す方向を見るとそこには、グランドを全力疾走する奇術部の姿が。
「あいつ、逃げたんか!! おれをも上回るヘタレさ加減やっ!!! ある意味で尊敬するでっ!!!」
「お尻ぺんぺん! 悔しかったら追いついてみろぉ!! その鎧姿じゃボクの逃げ足には敵うまいっ!!!」
「下劣千万っ!! 敵前逃亡するとは何事かっ!!!」
 生徒会長の全身を被う鎧が弾け飛び、それが再び馬の姿になって組み上がる。
 瞬間的に生徒会長が全裸になって光り輝いているような気がしてならなかった。
「なんか、アイツ一瞬裸になって光ってへんかった…?」
「そこは気のせいだって事にしておこう…」
「…」
 夕鶴の白い顔に鼻血が垂れる。
「鼻血出てるよっ!!」
 夕鶴は竜斗から渡されたティッシュを鼻に詰めながら苦笑する。
「アイツ、乙女心が解っているやないかっ!! 美青年アニメの変身シーンで鍛えたうちの動体視力を持ってすれば丸見えやったで!!!」
「夕鶴恐るべし…」
 そして、馬に跨がった生徒会長は凄まじいスピードで逃げ回る奇術部へと迫り跳ね飛ばした。
「へぶしっ!!!」
 その衝撃によって奇術部の身体を被う自我領域が激しく光を放つ。
 生徒会長は再び馬を鎧として装着すると、尻餅をついて茫然自失となった奇術部の前に仁王立ちする。
「力無き者に粛清をっ!!」
「うわぁーーーーーーっ!!!」
 生徒会長は鎧で被われた拳を思いっきり奇術部に向かって叩き付ける。
 そのあまりの衝撃によって奇術部は地面へとめり込み自我領域を消失させた。
 そして、奇術部のステッキは光の粒子となってNo.1のカードとなり生徒会長の手に収まる。
「この世は弱肉強食…! 力こそ全てだっ…!!!」
 生徒会長の勝利の咆哮に全校生徒の歓声が上がった。

 1999年7月17日(土)
「今日も来ていないか…」
 朝、教室に来た竜斗の第一声がそれだった。
 この日、竜斗は包帯を巻いておらず、腫れはすっかり引いたものの、まだ若干の青みが残っていた。
「奏真と空の二人か…。何時もはおれらより先に来ているんやけどなぁ…」
 大河は小さな身体で教室を見渡しながら言う。
「…今日は確か奏真先輩が戦う日だろ? 大丈夫なのかな…」
「…そんなん、知るわけないやろ」
「…」
 先に教室に来ていた夕鶴は竜斗と大河をチラ見していた。
 竜斗はその視線に気がついたが、振り返った時には下に俯いていた。
 そして、そのまま授業開始の時間を迎える事になるが、とうとう奏真と空の二人が来る事は無かった。
「とうとう、来なかったな…」
「しかも、授業開始時間から結構経っているんやけど、ブラフマンも来ないってどないな事や…?」
 生徒達はみな着席してブラフマンを待ち続けているが、一行に彼が現れる気配は無い。
 言い知れぬ不安から教室中がざわめく。
 そして、教室に一人の男性が現れた事で一気に静まる。
「なんや、おれらの担任や無いか…!!」
 みんなブラフマンがやって来るものだと思っていたので、大河の愚痴も全くだった。
「ブラフマン博士は所用で午前中は来られないようだ。午後のトーナメント戦の開始まで各自自習をするように」
 とだけ言うと担任の先生は立ち去って行った。
 再び教室がざわめきに包まれる。
「これは事件やで…!!」
「事件って何だよ?」
「きっと、湯煙密室殺人事件や…!!」
「アホか!!」
 竜斗がふと大河の隣にいる夕鶴の方に視線をやると、彼女は珍しく考え込むように黙りこくって俯いていた。
 そう言えば昨日、空と奏真が学校に来ていないと言う話題になった時も様子がおかしかった。
「…」
 竜斗は席を立って夕鶴の正面で片膝を立てて目の高さを合わせる。
「ねぇ、夕鶴…。君、何か知っているんじゃないか…?」
「な、なんやとぉ?! マジか夕鶴…!!」
「…多分、空と奏真先輩は同じ場所に居ると思うよ。空の家や…。うちの口からはそれ以上は言えへん…」
「…駄目元で様子見に行ってみないか? どうせ自習だって言うしさ」
「でも、どうやって行くんや?」
「聖蘭さんに送ってもらおう。彼女だったらすぐに来てくれるよ」
「うちも連れてって貰うで…」

 竜斗が予想した通りにPHSで聖蘭に連絡したら、殆ど待つ事なく校門の前にロールスロイス・シルバークラウド・ツーを乗り付けてくれた。
 向かったのは神戸のランドマークであるポートタワーを擁するメリメンパークにもほど近い、中央区の国道2号線沿いにあるオフィス街であった。
 海沿いの開けた通りに歴史を感じさせる近代建築物や現代的建築物が立ち並ぶ中、目的の建物はひと際異彩を放っていた。
「これが空の家や!」
 先に車から降りた竜斗と大河に介助されながら、車椅子へと乗り換えた夕鶴が言う。
 下半分が趣きを感じさせる近代建築で、上半分が現代建築と言う目を疑いたくなるようなデザインだ。
 大河と竜斗は見上げながら呆然していた。
「僕の幻覚じゃないよね?」
「大丈夫、おれにも見えとるが、一体なんなんやコレは!?」
 夕鶴はと言うと見慣れているらしく涼しい顔をしている。
 そこに駐車場に車を停めて来た聖蘭がやって来る。
「この建築物は元々大正時代に建てられたのですが、阪神淡路大震災の際に全壊した際に、旧来の外壁等を意匠として使用し再建されました」
「さすが、聖蘭さんは何でも知っているんやなぁ!!」
「そんなん、兵庫市民として知ってて当たり前やっ!! こんな事も知らへん奴が居るなんて、うちは同じ兵庫市民として恥ずかしくてたまらへんっ!!」
「な、なんやとぉ!?」
「ええ、知っていて当然かと思います」
 と涼しい顔の聖蘭。
「もう、喧嘩してないで、さっさと行こうぜ!!」
 だが、そう言う竜斗は率先して歩き出すが、玄関を前にして足を止めてしまう。
「どうした? さっさと行けや!!」
「僕、こう言うのって緊張してダメなんだよっ!!」
「全く、ヘタレやなぁ…。もう、おれ先行くでぇ…!!」
 そう言う大河も竜斗と同じく尻込みする。
「な、なんや、このプレッシャーは!?」
「結局、二人ともヘタレやないかっ!!」
「ご安心下さい。私がアポイントを取り付けておきましたから」
 聖蘭は軽く微笑むと顔でビルの中に入って行く。
「流石聖蘭さんやなっ!!」
「ホンマ、どっかのヘタレ野郎共とは偉い違いやねっ!!」
「そうだな…。って、さり気なくそれ僕も含まれて無いか!?」
 ビルのエントランスは三階まで続く階段のある吹き抜けになっていて、天上のステンドグラスから自然光が差し込んでいる。
 そして、その階段からタキシードを着た背が高い若い紳士が降りて来る。
 いかにも執事と言う柔和さと有望さを兼ね備えた雰囲気だ。
「走馬様に、藩臣様ですね? 御待ちしておりました。
 私は旭陽様の執事をさせて頂いております安室礼と申します。
 堀江様もお変わりないようで」
「安室さんも相変わらずハンサムやなぁ!!」
 安室は軽く微笑むと会釈をする。
「きゃー、カッコいいわ!! 流石、執事ともなると他の男共とは違うで!!」
 確かに余裕のある大人の対応って感じだと竜斗は思った。
 その際に安室と聖蘭が目を合わせていた気がしたが、二人に同じ使用人として何か通じるものがあるのだろうかと、竜斗は不思議に思った。
「執事、執事ってアホかお前は!? そんなに執事が良いなら、羊飼いにもなれば良いんや!!」
 大河は何時かの仕返しとばかりに夕鶴に突っ込むが、竜斗の目から見てもピンぼけしてるのが解った。
「…」
「…」
「お前らなんか言えや!!」
「下手くそ」
 竜斗と夕鶴は声を合わせて言った。
「…」
 そして、安室によってエレベーターに案内される。
「まさか、このビル全てが旭陽家って事はあらへんよね?」
「建物は資産家である旭陽様の所有となっていますが、大部分はテナントとして外部に貸し出して、一部をご自身の自宅兼個人診療所としてご使用されています」
「診療所って資産家なのにお医者さんなの?」
「はい。脳神経外科をなさっております」
「滅茶苦茶なステータスやな…」
 竜斗は脳神経外科って言葉に引っかかりを感じていたが、その答えはすぐに解る事となる。
 エレベーターが竜斗達を最上階へと運び扉が開く。
 そこは休診中の診察所の待合室で、待構えていたのはスーツ姿で髪をオールバックにした背の高い男性だった。
「…!!」
 竜斗は絶句した。
「ブ、ブラフマン…!!」
 大河が彼をその名で呼ぶ。
 サングラスをかけていない為に憂いを秘めた優しい眼差が露になっているが、額の傷は間違い無く彼がブラフマンであると言う事を証明している。
「今は空の父親である旭陽昇だ。空の為にわざわざ来てくれてありがとう」
 思った通り直接話してみるとブラフマン…いや旭陽昇は親しみやすい好人物と言った印象だった。
 姫には彼に注意しろとは言われているが、まさか、空の父親だったなんて意外であった。
「そ、空は大丈夫なんですか?」
「空は体調を崩してしまったが、昨日今日と休んだら元気を取り戻したようだ。
 君達には心配かけてしまって悪かったと思っている。
 空は今学校に行く準備をしている所だから少し待っていると良い」
「…そうですか」
 とりあえず一安心と言った所だ。
「竜斗くん、君とは一度ゆっくりと話してみたかったんだ」
「僕も貴方に聴きたい事があります」
「そうか。君達、悪いけど席を外して貰えるか?」
「一人で大丈夫かいな?」
 大河は心配そうに竜斗の顔を覗き込む。
「頼むよ、大河」
「解ったで…」
 大河と夕鶴、それから執事とメイドの二人の給仕も立ち去る。
 待合室の椅子に竜斗と旭陽昇が座る。
「では、君の聴きたい事から聴かせて貰えるかな?」
 色々と聴きたい事は沢山あったが、一番気になる事はひとつであった。
「何故こんな実験を行っているのですか…?」
「それは子供達を不平等な悲しみから救う為だ。
 現実は残酷だ、産まれ付いて与えられるものは平等ではなく、本当は誰もが幸せに生きたいと思っていても、運悪くそれが許されない者もいる。
 もし、誰もが自分に都合良く現実を変える事の出来る力を持てれば…。
 もし、誰かが人の為を思って現実を変える事の出来る力を使えれば…。
 そう、誰もが穏やかに暮せる現実を作出す事こそ私の追い求める終生の夢なのだ。
 その為に君達には苦労を強いてしまっている事が気がかりではあるが」
「貴方の気持ちは解るんです。でも、解るからこそ解らないんですよ。何がそこまで貴方を駆り立てるか…」
「きっと、君にもそれを知る時が来る。だが、今はまだその時じゃない。その時が来れば人は否応無しに運命を考えざるを得なくなるだろう」
「…」
 竜斗は姫が同じような事を言っていた事を思い出す。
 結局、あの時と同じように肝心な事は解らずじまいだが、少しは真実に近づいたような気もする。
「では、今度は私から君に質問させて貰おう。君は何故、アルカナの暗示を受けずして、この特別授業のトーナメントに挑んでいるんだ?」
「…僕は本当の強さが欲しいからです」
「私は君が思う本当の強さと言う物が知りたい。
 私の暗示を受ければ君は自分自身が傷つく事も無く、思い描いた強さを現実にする事が出来るはずだ。
 だが、君はそれをしようとしない…、私にはそれが不思議でたまらないんだ」
「えっ、僕が暗示を受けて能力を発動出来るって言うんですか?」
 今まで竜斗は能力を使う事が出来ないと思い込んでいただけに意外だった。
「残念ながら全ての人間がとは言い難いが、君のように特に素晴らしい精神力を持つ子供ならば、私の暗示を受けさえすれば青海奏真に匹敵する程の強さが得られる可能性があるだろう」
「そ、そうだったのか…」
「ただ、私は君に一方的に自分の意見を押し付けるような事はしたく無い。
 それは君の事を愛して止まないあの娘も同じ事だろう。
 人はみなそれぞれが正しいと思っている事を信じて生きているので、何が正しいのかという絶対的な答えは存在しない。
 君にとって何が一番良い事なのか、自分自身の頭で考えて選択するが良い」
「…」
 彼の言うあの娘と言うのは姫の事に違いない。
 彼と姫の関係も気になる所だった。
「空が来たようだな」
 その時、奏真に支えられて空が現れた。
 奏真はずっと空に付き添って看病をしていたのかも知れない。
「心配させちゃってゴメンねぇ!!」
 そう言う空の顔は何時もの元気さからは信じられない程青ざめていた。
「大丈夫なの…?」
「うん、一日休んだら元気になったし、大丈夫よ!!」
「アホぉ、どう考えて大丈夫じゃないやろ!!」
 様子を察した大河が待合室にやって来て早速横やりを入れる。
 大河の言う事はもっともだと竜斗は思った。
 後からやって来た夕鶴は、言葉にこそ出さないものの心配そうな表情を浮かべている。
「奏真先輩、空に無理させ無いように、よろしくお願いします!」
 竜斗は頭を下げた。
「お願いするでっ!!」
「うちからもお願いやっ!!」
 大河と夕鶴も続いて頭を下げる。
「みんな、大げさね…」
 そう言う空を優しく抱き締めてながら奏真は涙を飲むかのように目を深く瞑る。
「ああ、俺に任せておいてくれ…!」

「すごい大盛況だな!」
 校庭に響く生徒達のざわめく音に竜斗の声も掻き消されそうになる。
「そりゃそうやろ。No.19太陽のアルカナである奏真が人気あるのは当然やけど、相手のNo.17星のアルカナはそれ以上やで!!」
 大河はモテない男特有の嫉妬心丸出しで顔を歪める。
 校庭を取り囲む大勢の生徒達の輪の中心にいるのはブラフマンと、奏真・空のコンビ、そして彼らと相対するもう一組の対戦相手だ。
 No.17の星のアルカナは如何にもと言う感じのビジュアル系ロックバンドのボーカル系で、背が高く細身なのだが真っ赤なサラサラな長髪で化粧をし、鋲だらけの革のライダースジャケットに赤いチェック柄のスカートを履いている。
 パートナーは女性でありながらライダースジャケットを着て、短い紫色の髪をツンツンに立てたベーシストだ。
「彼は高校生でありながらインディーズでCDデビューしてるんやで!!
 うちも大ファンや!! だってカッコいいんやもんっ!!
 もし、人気が能力の強さに比例するんやったら、ひょっとしたら奏真先輩よりも強いかも知れへんよっ!!」
「って、何時もの事だけど、お前は誰の味方なんだよ!?」
 しかし、そんな馬鹿なとも言い切れない程の雰囲気がビジュアル系にはあった。
 なんと言うか常に観客を意識し、自分を演出する事に秀でている感じだった。
「では、自我領域を展開して貰おう」
「うわっ、またキスタイムがやって来たわぁ…」
 夕鶴は顔を赤くする。
 ビジュアル系はプロモーションビデオの一幕のように情熱的で激しいキスを交わす。
 周囲からキャーと言う歓声が上がる。
 そして、七つの星空の元で壷から水を注いでいる裸の女性が描かれたNo.17のカードが現れ、それはギターへと姿を変えビジュアル系の手に握られる。
 間違い無く今まで竜斗が見た中で一番強く具現化されていて、もはや現実のギター以上の存在感を放っていた。
 またしても夕鶴の予想が正しいと裏付けられてしまった。
 続いて奏真と空の番だ。
 空は体調が悪いらしく、目の焦点が定まらず意識朦朧とした感じであった。
 奏真はふらつく空の身体を優しく労るように支えながら唇を交わす。
 竜斗は胸が締め付けられるように痛むのを感じた。
 自分と奏真は比べようが無い程の違いがあるが、何故あそこで空と口づけをしているのが自分では無いんだと思った。
 これ以上見てられないと竜斗が視線を落とそうとした時、宝塚が竜斗と同じように俯こうとしている姿が見えた。
 彼女は普段この時間は練習に費やし、あまり戦いを見に来たりはしないので珍しいと思った。
 奏真の手に握られたNo21…太陽の雫を浴びる二人の子供が描かれたカードは、左右二組のチャクラムと呼ばれる円盤状の武器へと変化する。
 ビジュアル系の次ぐらいに強く具現化されているが、まだまだ彼の領域には及ばない感じであった。
「では、はじめ!!」
「空、待っててくれ…!! 速攻で片を付けてやるっ!!」
 戦いの開始と共に先に手を出したのは奏真の方だった。
 チャクラムを投げるっ!!
 投げるっ!!
 投げるっ!!
 投げるっ!!
 無限大に具現化され続けるチャクラムを次から次へと投げつけ、それを盾にしながら奏真は驚くべきスピードでビジュアル系に向かって突進する。
 ビジュアル系は手にしたギターでチャクラムを相殺し続けるが、それにも限界がありかなりの量の攻撃を自我領域へと受けてしまう。
「これは先に手を出した方が負けるって言う夕鶴のセオリーにも修正が必要だな…!!」
 竜斗はこのトーナメントは奏真が神になる事が始めから決定している出来レースだと姫から聴かされていたので、彼が負けるとは絶対に思えなかった。
 奏真はその隙に一気に間合いを詰めて、手にしたチャクラムで一閃! 二閃!! 三閃!!
 そして、とどめの光を伴ったサマーソルトキック!!
 しかし、ビジュアル系もそのコンボをただ食らうだけではなく、最後のサマーソルトキックをしっかりとガードし、奏真が着地した瞬間に大きくギターをスウィングし、彼の横っ腹に強烈な一撃を食らわせる。
 そして、ビジュアル系は間髪入れずギターをかき鳴らす。
「Prelude!!」
 弾ける爆音!!
 爆音!!
 爆音!!
 縛音!!
 強烈な音の衝撃波を照射して奏真の身体を吹き飛ばして一気に間合いを空ける。
「なん…だと!?」
 その音による攻撃は相手の平衡感覚を狂わせるらしく、奏真はふらついたまま姿勢を立て直す事が出来ない。
「ああっ、それ言っちゃアカンよっ!!」
 夕鶴は息を飲んだ。
「Serenade!!」
 それがチャンスだと踏んだビジュアル系は間合いを保ったままギターを振りかざして物理的にあり得ないほど弦を伸ばすと、奏真の左腕と胴体に絡めて自由を奪い取り強烈な電気攻撃を浴びせる。
 それを見た生徒達が何人か失神する。
 少し前に子供向けのアニメで問題になった事だが、人間は強烈な光が点減する所を見る事で、意識を失ってしまう事があるらしい。
 その電撃は奏真の肌を焼き、彼は自我領域で守られているとは思えない程のダメージを受けていた。
「アカンでっ!! 自我領域が効いてないやないかっ!!」
「きっと、能力が強過ぎて自我領域で打ち消せないんと思うよっ!!」
「そ、そんな、このまま食らい続けたら、いくら奏真先輩でもっ!!!」
 そう、このまま強力な攻撃を受け続ければ、奏真の負けは決定してしまう。
 姫の言っていたブラフマンの計画ってのはどうなるんだよっ!?
 竜斗が思ったその時だった。
「俺はこんな所で負けるわけには行かないんだっ!!!」
 奏真が雄叫びにもにた声を上げた次の瞬間、右手に持ったチャクラムが一閃する。
 そして、大量の血を吹き上げながら奏真の左腕が宙に舞い、ボテっとした音を立てて血溜まりになった地面に転がった。
 みな、その瞬間何が起きたか解らなかったが、奏真の血に塗れた姿を見て全てを理解した。
 彼は自分の左腕ごと、束縛する弦を切裂いたのだ。
 全校生徒から悲鳴が上がる。
 竜斗は自分から血を引くのを感じ思わず膝をついた。
 大河も尻餅をついて夕鶴に縋るように抱きつき、彼女もまた大きく口を開けて唖然としていた。
 だが、三半規管をやられた奏真は、片腕を無くしたと言う事もあって、ふらついてまともに歩く事すらままならない。
「俺は空を守らなければならないんだっ!! こんな所で立ち止まっている暇は無いっ!!!」
 そう言うと奏真は自らの耳に指を突っ込み、感覚の狂った三半規管を破壊する。
 そして、血まみれになった奏真は猛スピードでビジュアル系へと突進する。
 その姿は恐ろしい悪魔のように見えた。
「Erlkönig!!」
 恐怖に駆られたビジュアル系はギターをかき鳴らして鋭い刃状の音波を発射し続ける。
 その威力は今まで見た能力の中で桁違いに強力であり、自我領域をものともせず奏真の身体を容赦なく切り裂いて行く。
 肌が裂けるっ!!
 肉が散るっ!!
 耳が飛ぶっ!!
 指が飛ぶっ!!
 目が潰れるっ!!
 激しい攻撃によって胴体から切り離された肉片が飛び散り、全身余す所なく血に塗れながらも奏真は突進を止めない。
 そして、奏真は一気に間合いを詰め、残った右腕で持ったチャクラムでビジュアル系に切り掛かろうとするが、次の瞬間には右腕も血しぶきを上げながら切断されていた。
「Finale!!」
 ビジュアル系が恐ろしい思いをするのもこれで最後だと勝ちを確信して口元を歪めた時だった。
「!?」
 油断していたビジュアル系は錐揉みしながら弾き飛ばされてしまう。
 そして、奏真の姿を見て驚愕する。
 今まで受けた全ての傷が無かったかのように元に戻り、自ら切断したはずの左腕でビジュアル系に斬撃を食らわせていたのだ。
「な、なんやとぉ!?」
「あれが奏真先輩の能力なのか…」
「そう、全ての怪我を無かった事にする再生能力や…。
 ただ、身体は瞬間的に治ったとしても、痛みまで消す事は出来るわけやないんや…。
 それなのに何であんな戦い方が出来るんやろ…。
 うちは能力の事を知ってるだけに信じられへん…」
「うへっ…。おれやったら痛みだけで死ねる自信あるで…」
「一体何が彼を支えているって言うんだ…」
 ビジュアル系はニヤリと不敵な笑みを浮かべて立ち上がるが、その瞬間にの傷口が開いて血吹雪が舞う。
「まさか、奏真先輩の攻撃も相手の自我領域を切り裂いたって言うのか…!」
 ビジュアル系は唖然とした表情で自らの胸を押さえ、手についた血を眺めて膝をついて倒れた。
 そして、ギターがNo.17星のカードへと戻り、奏真はそれを掴み取ると夏の太陽に向けて掲げる。
 ふらつく空が奏真へと抱きつくと、学校中が歓声に包まれた。
「悔しいけど、まさに最強やな…!!」
 ただ強く優くしいだけでは無く、目的の為ならば手段を選ばない、悪魔のような精神力を秘めている。
 竜斗は奏真の持つ全てに惹き付けられて行くのを感じた。
「これが青海奏真…。運命に選ばれた男…。そして、僕の倒すべき相手…。僕は彼に勝つ事が出来るんだろうか…?」
 竜斗は空と抱き合う奏真の姿を見て思う。
「僕は彼のようになりたい…」

 1999年7月18日(日)
 元町駅の近くにある南京町中華街は、横浜中華街、長崎新地中華街と並ぶ日本三大中華街の一つである。
 東西南北にある門を潜った先は日本とは思えないぐらいの別世界で、日曜日と言うだけあって沢山の人で賑わっていた。
 名物である中華まんを初めとして、揚げパンや、大根餅、串刺しフルーツなど様々な食べ物が売られており、普通に歩いているだけで食欲をそそられる。
 立ち並ぶ土産物屋にもブルースリーの全身像が置かれていたり、豚型のゴミ箱が置かれていたりと目でも楽しむ事が出来る。
 私服姿の竜斗はあちこちに目移りしながらも先を行く姫の後を追いかけていた。
 チノパンに無地の白いTシャツの上からベストを羽織り、ニューバランスのスニーカー、セイコースプーンの腕時計と言った格好だ。
 一方で姫は中華街でも何時もと変わらないゴスロリ姿で、あまりにも目立つ為に普通に歩いている限りは見失うって方が無理だろう。
「しかし、姫は何時もその格好だな」
「あら、何でしたらチャイナドレスでもよろしくてよ」
「姫のチャイナドレス姿か…。悪く無いけど、どっちにしても目立つよな」
「そこは個性的と言って下さいまし。
 わたくしは風景に埋没してしまうような無個性な生き方なんてまっぴらゴメンですのよ。
 常に他の誰とも違う存在であるからこそ、わたくしはわたくしで居られるんですの」
「際立った個性があるって良いよなぁ。僕なんてそこらに居る通行人レベルだぜ」
「ふふふっ、貴方だって個性はありますわよ。
 そもそも、この世には一人として同じ人間は存在しないんですから、人は大なり小なり個性を持っているはずですのよ。
 ただし、それを活かすか殺すかは別の問題で、個性を活かすには自信を持つ必要がありますわ」
「だったら、僕は個性を活かしてないって自信があるね」
「あらあら、面白い事言いますわね」
「そう言えば大河も聖蘭さんも置いて二人だけで中華街に来たわけだけど、いったい何処に向かっているの?」
「もう、着きましたわ」
「ここは?」
 そこは中国の変わったデザインの刀剣を始めとして、日本刀やサーベル、銃器など古今東西の武器・防具が並べられた観光客が多い所ではおなじみの土産物屋だった。
「見ての通り武器屋ですわ」
「って本物かよっ!!」
「土産物が全てレプリカだと思ったら大きな間違いですわよ。確信犯的に本物を売っている所も幾つかありますわ」
「中華街恐るべし…!!」
 しかし、本物の武器と言われるとより解らないものがある。
 剣の先にかぎ爪がついていたり、刃がぐにぐにと曲がり鹿の角のように枝分かれしていたり、ノコギリのようなギザギザとした刃のついたものもあったりする。
「しかし、どう使うんだかよく解らないものばっかりだな」
「中には単なる装飾と言うものもありますが、突起によって相手の攻撃を防いだり、騎馬戦において相手の手綱を切ったりと、如何に戦局を有利にするかを考えた結果の形ですわ」
「さすが、中国三千年の歴史だな!」
「貴方にはこれなんて良いと思いますわよ」
 姫が竜斗に二本で一対となっている短刀を渡す。
「かっちょいいなぁ!!」
 刀身が短くて幅広く、柄や鍔の部分に十手のような護手盤が付いている。
「胡蝶刀と言う中国拳法の伝統的な武器で、自分の身体の延長線上で使えるので扱いやすく、攻撃を受け流すのにも適していますわ」
「って、これどうするの?」
「貴方に買って差し上げますわ」
「ありがと…って、マジかよ!?」
「それから、こちらも差し上げますわ」
 姫は店主から紙袋を受け取ると竜斗に渡す。
「開けてみて下さいな」
 竜斗が紙袋を開けるとそれは長袖の夏の制服のようだった。
 しかも、よく見なくてもブレザー型のでデザインであり転校前のものだ。
「なんだ、制服のブレザーじゃないか…。しかも、よりによって前の学校のだし」
「それはわたくしが特注した防刃ケプラー製の制服で、要所にはダイラタント流体を内蔵していますわ」
「ダイラタント?」
「簡単に言うと水とき片栗粉のようなもので、普段はサラサラとした状態なのですが、強い圧力がかかった時にのみ硬くなると言う特性のものですの」
「でも、何故こんなものを…?」
「それはこれからの戦いを勝ち残る為ですわ。
 既にご覧になったと思いますが、より高い次元に到達した戦いには自我領域による防御など無意味です。
 今後の戦いで相手の能力がより強力になるに従って、ブラフマンの暗示を受けていない…、能力を多少なりとも無効化出来る事は大きなアドバンテージとなりますわ。
 ただし、幾ら貴方と言えどあまりに強力な攻撃を何度も無効化する事は出来ませんので、物理的な防御力・攻撃力を上げて対抗する必要があります。
 また、能力を過信するあまりワンパターンになりがちな相手に対し、戦局に応じて武器を使い分ける事も有効だと思いますわ。
 怪我も癒えた事ですし、今後は今までの基本的な動作や気功法に加えて、武器の扱いを取り入れた練習をして行きましょう」
「じゃあ、これから帰って早速練習しよう!!」
「あらあら、今日は日曜日ですわよ。
 本格的な練習や作戦は明日からって事にして、今日のところはわたくしとデートを楽しみましょう」

 そして、竜斗と姫は南京町中華街名物である元祖ぶたまんを食べつつ、中華街を出て元町駅を通り越し地下鉄の県庁前駅近くの中華料理屋にやってきた。
 しかも、かなりこじんまりとした感じで、どこの街にもある中華料理屋と言った風貌だった。
「なんで、わざわざ中華街の外の中華料理屋に来たんだ?」
「南京町中華街は他の中華街とは違って住宅の無い商業地区であり、味が売りの老舗は住宅のある中華街の外にある事が多いんですの」
 店内も外見からの予想通りカウンター席にがメインで、テーブル席が幾つかあるという庶民的な感じであった。
 前もって姫が予約を入れていたらしく、予約席と書かれたテーブルに案内された。
「姫って高級なお店にしか行かないと思っていたよ」
「あら、心外ですわね。わたくしは真の美の探求者ですわよ。洋の東西、価格や品格に関係なく、良いものを愛しているだけですわ」
「もはや無差別級って所が厄介だな」
 予約していた為か殆ど待つ事無く料理が運ばれてくる。
「お、確かに美味い!!」
「このお店は野菜と魚を中心にした料理で有名で、美容と健康を追い求める女性に人気があるんですわ」
 竜斗と姫は次々と運ばれて来るコース料理に舌鼓をうった。
「しかし、本当にこんなにゆっくりしていて良いのかな?」
「残念ながら人間の心と身体には限界があるんですわよ。
 自分自身に限界が無いと思い込んでいるのは若さ故の無知であり、頑張り過ぎてしまうと気がつかない内に追い込まれてしまう事になりますわ。
 焦ったとして出来る事以上の事は出来ないし、逆に出来る事すら出来なくなってしまいますから、休む時にしっかりと休む事が必要なんですの」
「それは現実逃避じゃないの?」
「現実から逃げちゃダメだと言うのは心の貧しい考え方ですわ。
 結論として現実からは逃れ切る事は出来ませんが、例えひと時でも現実を忘れられる楽しい事があるから、人は現実に立ち向う英気を養う事が出来るんですの。
 貴方には気分転換出来るような趣味は無いんですの?」
「考えた事も無かったよ」
「わたくしは道楽家ですから趣味は沢山ありますが、特にドライブは好きですわ。
 思ったままに世界を駆け巡る事で、身体と言う重みから解き放たれ、心が軽くなって飛んでいる気持ちになるんですわよ。
 それにドライブには遠き日の大切な思い出がありますしね」
 姫は切なそうに笑う。
 竜斗はなんだか胸が苦しくなる。
「今日はわたくしと貴方でドライブの思い出を刻みましょう」

 姫の運転するディアブロは魔獣のような咆哮をあげながら高速道路を駆けて行く。
 何処までも。
 何処までも。
 ありとゆらゆる物が歪みながら流れ、後ろに吸い込まれるように消えて行く。
 かなりのスピードが出ていると思われるが、姫の持つ雰囲気のようなものが車全体を包み込んで周囲の道路にまで広がり、まるで母親の胸に抱かているかのように心が安らぐ。
 道路を撫でるような硬い振動も、道路の継ぎ目のボディを叩くような衝撃も、身体の芯を突き抜けるような排気音も全てが心地良い。
 そのハイペースなリズムに身を委ねながら流れ行く景色を眺めていると不思議な高揚感に飲まれて行く。
 気がつくと去年開通したばかりの日本最大のジャンクションである垂水を通り、車は明石海峡大橋を渡って淡路島を通り四国へと渡る。
 東京で産まれ育った竜斗にとって四国とは飛行機で行くものであり、知識として道路が繋がっていると言う事を知っていても、こんなにも簡単に来れるとは思っていなかっただけに新鮮であった。
 そして、ディアブロは徳島、香川を通り、瀬戸大橋を通って再び本州へ。
 瀬戸大橋もまた竜斗にとって未知の体験となった。
 お台場にあるレインボーブリッジや、横浜のベイブリッジなどの関東の橋は、街から街へと飛び交う感覚であるが、瀬戸大橋はそれとは全く雰囲気が異なる。
 美しく煌めく青い海の上、晴天の青空を飛んでいるような爽快感が味わえるのだ。
 そう、自分も自然の一部へと溶け込むような気がした。
 本州へと戻った車は岡山県を通り、兵庫県に入る頃にはすっかりと暗くなっていた。
 そして、神戸の北側から峠道を通って六甲山へと登る。
 車内のオーディオでザ・ビートルズのThe Long And Winding Roadが流れた。
 この頃はスバル・レガシィのTVCMに使われているので耳にする機会が多いが、大切な人との思い出を求めて曲がりくねった道を行くみたいな歌詞だった。
 姫の運転はとてもスムーズでブレーキや旋回、加速と言った動作につなぎ目を感じさせない、まさに車を転がしているような印象で、まるでこの曲のリズムのように穏やかな雰囲気であった。
 姫もまたこの歌のように、大切な誰かとの思い出をこの道に重ねているのだろうか?
 そして、六甲山の展望台に車を止めて、二人は神戸の夜景を眺めた。
 まるで闇の中に宝石箱を散りばめたかのようなとは、使い古された安っぽい言葉かもしれ無いが、それ以上の表現が見つからない程の見事な光景だった。
「ドライブは如何でした?」
「凄く楽しかったよ! 空の上を駆けているようで気持ちよかった!!」
「そうでございましょ。いずれ貴方もご自身で運転するとよろしくてよ。わたくとしても殿方に運転して頂いてドライブに行く事は見果てぬ夢でありますわ」
「えっ、僕!? 無理だよ!! 難しい事は出来ないし、きっと試験だって合格出来ないよ!!」
「あらあら、そんな事は御座いませんわよ。
 諦めなければ誰にだって免許は取れますし、誰にだって車を買って運転する事は出来ますわ。
 ただ、それが出来ないのは車を運転する事を異世界の話だと思い込んで、やる前から無理だと決めつけて自分から動こうとしていないだけですわ。
 確かにディアブロともなれば価格も高く運転も難しいかも知れませんが、世の中にはもっと安くて簡単に運転出来る車も沢山御座いますわ。
 まずは自分の手が届く所から初めて、その時々で見合った車に乗り続けて、ゆっくりと時間をかけて上達して行けば良いんですから。
 貴方は来年免許を取れる年齢になる事ですし、チャレンジして見るのもよろしくてよ」
「…そうだね。もし、来年免許を取ったら、僕が姫をドライブに連れて行くよ!」
 姫はとびきりの嬉しそうな顔をする。
「ええ、そうなったら、どんなに嬉しい事でしょうか…!」
「じゃあ、約束だ…!」
 夜風に吹かれながら、二人は指切りげんまんを交わす。
「今日はありがとう、姫…!! また来ようね…!!」

 1999年7月19日(月)
 夕暮れの風見鶏の館の一階リビング。
 武器の扱いと丹田式呼吸法…つまり気の運用を戦いに取り入れた練習を終えた竜斗と大河は、姫から打倒宝塚に向けて作戦の説明を受けていた。
「能力を持っていない竜斗さんが能力者を倒すには、絶対的に相手の自我領域を攻略する必要がありますわ。
 いくら特殊な能力を持っていると言っても所詮相手は人間ですわ。
 その実は幾つか攻略方法があるんですの。
 ひとつはダメージを与え続けるか、精神的に優位に断つ事で相手の心をへし折る事。
 そして、相手の支えとなっているパートナーを倒してしまう、もしくは信頼関係を破壊する事ですわ」
「なんか卑怯だな、それは」
「あら、甘いですわね。弱点とは狙うためにあるんですわよ。
 …とは言っても、あまりスマートなやり方とは言えませんので、最終手段と思った方が良いかもしれませんわね」
「とすると、必然的に精神的優位に立つってやり方になるんだよな…。正直、次の相手の宝塚舞にはそれも難しいと思うんだけど」
「ほんまやでぇ!
 フェンシグの選手として受賞歴を持ち、高い実力を持ちながらも日々の努力を怠らず、下の女子生徒に慕われる男装の麗人…。
 おまけに人を小さな女の子にしてまう恐怖の能力の持ち主や…!!
 ほんじゃそこらの奴じゃ、おれと同じように女の子にさてれおしまいや!!」
「まぁ、僕は暗示受けてないからその能力は多分効かないと思うけど…」
 と言いつつも、相手の能力が強力だった場合は、微妙に女の子化されてしまうかもしれないと、ドキドキする竜斗。
 部分的に女の子とかマジ困る。
「なぁ、今からブラフマンに暗示受けて、そんでもって宝塚の能力食らって、二人で女の子に生まれ変わって幸せに暮らせへん?」
「は!? なんでだよ!!」
「一人で女の子やってるの微妙に辛いんやで!! 道連れが…!! いや、仲間が欲しいんやー!!!」
「却下!!」
「お二人が女の子になって幸せに暮らすのは美味しそうな光景ですが、貴方には殿方のまま勝って頂かないと成りませんのよ」
「でも、どうやって…?」
「前にも言いましたが、この世に完璧な人間は存在しないんですの。何故ならば人間は誰しも心に弱さを抱えているからですわ」
「姫にだって弱さがあるのか…?」
「当たり前ですわよ。わたくしを一体何だと思ってるんですか?」
「うーん…。魔女とか妖怪かなぁ…?」
「当たらずとも遠からずって所ですが、一応人間ですわ」
「あ、完全には否定しないんだ」
 と竜斗は笑った。
「人間ですが生物としての理から外れてしまっているとでも言いましょうか」
「わかった! 幽霊か!!」
「こないに存在感溢れる幽霊があってたまるかいっ!! ってか幽霊だけは勘弁したってや!! チビってまう!!」
「お前、何度も何度も勘弁してくれよな!!」
「ふふふっ、もしかすると幽霊かもしれませんわね。
 まぁ、わたくしの正体についてはその時が来ればお伝えしますが、今は宝塚舞さんを攻略する方法ですわ。
 人間は時にその弱さを隠す為に嘘を付きますわ。
 例えばNo.15の悪魔のアルカナを持つ方を思い出して下さいまし。
 彼は弱者に対して威圧的な態度の人間でしたが、それは彼自身の気の弱さを覆い隠す為の嘘だと考えると解りやすいと思いますわ。
 また、彼は攻撃相手を毒に侵す事が出来ると言う能力があると仰ってましたが、それこそが彼の心の弱さの裏付けになるんですわ。
 なぜならば、ブラフマンの与える能力とは無意識を具現化したものですから。
 恐らく彼は自分自身が弱くても、他人がより弱くなれば自尊心を保てると無意識に思っていたと推測されますわ」
「…つまり、宝塚さんも弱さを隠す為に嘘をついていると、そう言いたいの…?」
「ええ、そうですわ」
「でも、どうすれば良いんだろう?」
「嘘に対抗するには正直である事ですわ。
 これからわたくしが指示する作戦行動の中で、貴方には自分自身の弱さを包み隠さずに動いて頂きますわ」
「それじゃ、弱いまま何も変わらないんじゃないの…? 僕は強くなりたいんだけど、奏真先輩みたいにさ…!」
「ふふふっ、それは無理ですわよ」
「おれも無理だと思うで…!! ってか、そんな事を思ってるなんて恥ずかしいやっちゃなぁ。鏡見て比べれば一目瞭然やで!!」
「そう、はっきり言うなよ! 自分でも解ってても微妙に傷つくんだぞ…!!」
「人はどんなに努力しても自分以外のものにはなれませんわ。
 それに、貴方はご自身の良さに気がついていないだけですわ。
 人は単純に比べられるものではありませんが、わたくしから見ればあの青海奏真に負けず劣らずの魅力を持っていると思いますわよ」
「そうかなぁ…。でも、その僕自身の良さってのが解らないんだよな」
「自分自身と言うものは客観的に見なければ解りにくいものですからね。
 長所・短所は同じカードの裏表であり、見方によって変わって来るような物ですわ。
 例えばわたくしの小柄な体格は格闘において弱点にもなり得ますが、その反面で相手の油断を誘ったりスピード面で有利だったりします。
 あなたの弱さも裏を返せば強さとなりますわ。
 まずは長所・短所を含め自身の全てを受けていれる事から始めましょう。
 ご自身に対して嘘をつかないと言うこの作戦は、その為の訓練も兼ねているんですわよ。
 ただし、この作戦は一見すると遠回りな事ばかりで、不安に思われる事もあるかも知れませんが、その一つ一つを積み重ねる事が重要なんですの。
 そう、本当の強さへの道に近道は無いんですわよ。
 覚悟はよろしいですか…?」
「ああ、やるよ…!! 自分で決めた事だからさ…!!」
「では、まずはこのホームページにアクセスしてみて下さいな。この屋敷の地下にコンピュータールームがあるので使ってよろしいですわよ」
「大河さんにはこちらを差し上げますわ」
 大河に英数字が羅列された紙を渡す。
「なんや、これ!?」
「IRCと言うチャットソフトでの夕鶴さんのニックネームですわ。コマンドを使って彼女をチャットルームに招待すれば会話が出来ますわよ。うまく行けば仲直りが出来るんじゃありませんこと?」
「おれパソコンなんて使えへんで!」
「使い方は聖蘭さんが手取り足取り教えてくれますわよ」
「ホンマかいな!! あんがと姫さん!!!」
 大河は短い手足で竜斗の背中を蹴っ飛ばし、部屋を出るように促す。
「ほな、早く行くでー!!」

 風見鶏の館には厨房や、聖蘭の使う使用人の間があるが、他にも幾つか部屋がありその中の一つがコンピュータールームになっていた。
 部屋の中には最新のiMacやVAIO等の個人向けのものから、シリコングラフィック等のワークステーションまで色々と揃っている。
「沢山あるんやなぁ…。これ、2000年問題で全部使えへんようになったらアホやで!!」
「大丈夫だろ…、多分」
「でも、どれ使ったら良いんやろな…? お、これ半透明でiMacに似てるけど何やろ…?」
「それはソーテックe-oneと言う一般向けには明日の7月20日からの販売となっている機種で、IntelのCeleron433Mhzを搭載しWindows98がインストールされています」
 と聖蘭が説明する。
「なんか知らへんけど、ウンドーズーが動くなんてiMacより凄そうやし見た目も豪華やから、これにする事にするわ!!」
「なんか、外れっぽい気がするんだよなぁ…。僕は無難にiMacにしとくよ」
 竜斗は半透明のUSBキーボードに付いた電源ボタンを押す。
「そういえば、まだ11時前みたいだけど、ネットして大丈夫なのかな?」
「どういう事や?」
「夜の11時から朝8時の電話代定額時間外にネットすると、馬鹿みたいに電話代が請求されるんだ」
「ネット恐いわー!!」
「それは大丈夫です。この屋敷は専用回線が引かれている為、時間を気にする事なく使用する事が出来ます」
 聖蘭が淡々と言うが、それが如何に凄い事か。
「さすが姫だな!」
「んで、どうすれば良いんやろ?」
「クライアントを起動してチャンネルにjoinし夕鶴さんをinviteします」
「…やってくれへん?」
 大河は聖蘭に甘えた声を出す。
「では、代わりに私が入力させて頂きます。
 夕鶴さんを招待する事に成功しましたが、『あんた誰や?』と仰られています。如何様に返しますか?」
「おれや、藩臣大河や」
 聖蘭は大河の言った言葉を瞬時に画面へと入力して行く。
 殆ど大河が喋るのと同時にキーボードを打つ為に、最先端の音声入力ソフトなど比じゃない程のリニア感である。
『なんで、お前がうちのIRCのニックネーム知ってるんや?』
「おれらが仲直り出来るように、姫さんがわざわざ調べてくれたんや」
『そら、難儀な事やね。でも、お前がパソコンなんてハイカラなもん使えるなんて、うち知らへんかったよ』
「聖蘭さんに教えてもらいながら、やっているんや」
『Mu…』
「聖蘭さん凄いんやで! 車の運転や家事だけやなくコンピーターまで達人なんや!! もう、尊敬してまうでホンマ!!
 …って聖蘭さんキーボード打つ手が止まっているようやけど、どないしたんや?」
「このまま入力してよろしいのですか? 私にも解るぐらいオチが見えているようですが…」
「オチって何や? 何も漫才しているワケやないし、そんなもん関係あらへんやろ?」
「…解りました」
 聖蘭は高速で大河の言葉をそのまま入力する。
『おまえ、こないな所までメイド、メイドってアホやろ!? ももいいわ、さいなら!! 冥土さんと仲良くしてやってや!!』
 夕鶴は捨て台詞を残すとチャットルームを退室した。
「な、なんでやねん…!」
 一方で竜斗は標準ブラウザであるネットスケープを立ち上げて「すみれの花咲く頃」と言うホームページを見ていた。
 Maineと言うハンドルネームの女子高生が作る宝塚歌劇団のファンサイトで、全体にすみれの花の壁紙やリンクバナーが使われた乙女チックな印象だった。
 宝塚は宝塚だけど、宝塚違いな気がしないでもない。
 無骨で真面目な宝塚舞と比べて、このMaineと言う少女はあまりにも夢見がちな気がする。
 今まで見て来た講演などが思春期の少女ならではの目線でまとめられているが、竜斗が気になったのが「男役10年」と言う宝塚の男役の魅力を書いたページであった。
『宝塚歌劇団には男役10年って有名な言葉があるの。それは男役を演じる方法は人から教わるものじゃなくて、それぞれが自分の頭で理想の男性像を考えて、そこに向かって10年近くも絶えまない努力を繰り返す事で初めて本当の男役になる事が出来るって意味なんだって。…私の10年前って言うと8歳で小学2年生だし、10年後って言うと28歳でもう三十路近い事になっちゃうし、もの凄く大変な話だよね。
 私は男の人って魅力的だと思っているの。でも、それは女の子として客観的に見ているからで、殆どの男性は自分の事を魅力的だなんて思っていないんじゃないかな。私もそうだけど主観的に自分の良さを理解出来る人ってそんなに多く無いと思う。…それはそうよね、自分が魅力的だと思ってたらナルシストだもんね。
 宝塚の男役の人達って女性だからこそ客観的に男性の魅力を理解する事が出来るし、絶対に辿り着く事が出来ない理想の男性像を目指して努力するからこそ、最高にかっこいい存在なんだと思う。
 宝塚歌劇団は女の子にも絶対おすすめだけど、男の人にも是非是非見て欲しいな。それで、男性としての魅力に目覚めて、努力してかっこいい人になって貰えれば嬉しいもの』
 竜斗はホームページの中にCGIを使ったチャットルームがある事を発見した。
 現在の参加者は管理人であるMaine一人なので参加して見る事にしたが、どうやら名前の入力が必要なようだった。
 こう言う所ではバンドルネームを使うべきなのだろうが、姫から正直でいろと言われていた事もあって、名前を偽るのに抵抗があったので、今回はSomaと言う名前でアクセスする事にした。
 すっかりと忘れ去られてしまった事だが、竜斗の名字は走馬であるのでギリギリ嘘はついていないはずだ。

Soma>こんばんわ、初めまして。ホームページ見させて頂きました。
Maine>はじめまして、Somaさん。どうでしたか?
Soma>男役の格好良さについて書かれている事に共感しました。僕もそんな生き様に憧れてしまいます。僕は神戸に住んでいるので是非見てみたいです。
Maine>Somaさんはひょっとして兵庫県立高校の生徒ですか?
Soma>はいそうです。どうして解ったのですか?
Maine>私も県立高校の生徒で、その名前を聴いた事があるからです。太陽のアルカナと呼ばれている方ですよね?
Soma>そうです…。と言いたい所ですが、残念ながらカッコいい方のSomaではなく、カッコ悪い方のSomaです。主に下の名前で呼ばれています。
Maine>月のアルカナの方ですね。カッコ悪くなんか無いです。私はあの特別授業は恐いので極力見たく無いんですけど、あなたともう一人の方のSomaさんの試合だけは見ました。
Soma>僕も特別授業が恐いです。同じように思っている人がいて嬉しいです。でも、何で僕とカッコ良い方のSomaの試合は見たんですか?
Maine>あなた達は他の生徒達とは違うと思ったからです。でも、やっぱり、戦いを見て後悔しました。
Soma>その気持ち凄く解ります。僕もカッコ良い方の戦いを見て後悔しました。あの戦いは恐いです。自信を無くしました。それとキスシーンが嫌です。
Maine>私も全く同じです。ひょっとして、Somaさんは彼のパートナーの女の子が好きなのですか?
Soma>叶わぬ恋でした。
Maine>私達似ていますね。私はずっと彼が好きだったので、キスシーンは見たくありませんでした。
Soma>僕のように恋人で無い人とパートナーを組んでいる人もいると思います。でも、彼らは違うと思いました。
Maine>それは私も解りました。解るからこそ、心が痛いんですよね。

 1999年7月20日(火)
「昨日はお楽しみでしたわね」
 聖蘭に起された竜斗は風見鶏の館の二階にある朝食の間に入るなり、既に着席していた姫に声をかけられた。
 大河はまだ起きて来ていないらしい。
「はぁ、なんで?」
「昨日は一晩中インターネットをしておられたのでしょ?
 若い殿方がインターネットでどのようなお遊びをするかは存じていますわよ。何度、その淫靡なお姿を覗きたいと言う衝動を抑えたか。いっその事、一緒にお遊びしたいとも思った所ですわ」
「いかがわしい言い方しないでよっ! 何も嫌らしい事はして無いって!! …まぁ、楽しかった事は事実だけどさ」
 そう、竜斗とMaineは意気投合して、ついつい周囲が明るくなるまでチャットをし続けてしまったのだ。
「で、首尾の方はどうでしたか?」
「姫から知らされたホームベージの管理人とメールアドレスを交換するほど仲良くなれたけど…」
「上等ですわね」
「でも、宝塚さんとは関係ないような気がするんだよなぁ…」
「あら、近道はありませんって言いましたわよね。今の貴方に出来る事はどんな事でも目の前にある事を精一杯やる事ですわ」
「…そうだね」
「では、今日は宝塚舞に対して直接アプローチをかけますわよ。この作戦は彼女の女らしい所を引き出し、貴方の男らしさで対抗するものですわ」
「でも、どうやって?」
「それは大河さんの協力無くしてはなし得ませんわよ」
「なんや、おれに出来る事やったら協力するで」
 ちょうどその時、聖蘭に付き添われたジャージ姿の大河が現れた。
 そして、大河が席に座るのを待って姫が作戦の詳細を告げる。
「まず、大抵の女性が怖がるような黒い虫を用意しますわ。高速でシャカシャカ動くその虫を仮にGと呼ぶ事にしましょう」
「Gってまんまやろっ!!」
「大河さんは授業中に隠し持ったGを宝塚さんの席に向かって投げ入れ、泣き叫ぶ彼女を前にして竜斗さまが颯爽と助けに入り、Gを退治すると言う算段…そう、名付けてオペレーションGですわ!!」
「どう考えても嫌な予感しかしないんやけど!!」
「僕も同感…」
「あら、これはご自身で選んだ道ですわよ!
 それとも、不良に扮した大河さんが宝塚さんに襲いかかり、それを竜斗さまが助けるって作戦でもよろしくてよ? 名付けてプロジェクトYですわ!!」
「ちょっとまてぇい!! おれがこの格好で不良って無理あるやろ!! 正体バレバレやし!! しかも、オチが見え切っているんやけど!! もう、出落ちは勘弁やで!!」
「あらあら、大河さんが宝塚さんにやられておしまいと言う事ですか?」
「解ってるやないかい!!」
「こうなったらヤケクソで、ゾンビになってみれば良いんじゃないかな?! 名付けてZフォース!!」
「あら、良いアイディアですわね!」
「変わってへん!! そればかりか悪化しとるやないかい!!  もう解ったで!! オペレーションGで行こうやないかっ!!」

 かくして、何時もの学校の何時もの教室。
 ブラフマンの特別授業が実施される中で、オペレーションGが開始される時が来た。
(女の子にされた恨み今こそ晴らしてやるでっ!! これでも食らいやっ!! おらおらおらっ!!!)
 大河は手の中でガサゴソと暴れるあまりに活きの良いGを、鍛え上げた見事なアンダースローで宝塚の席に向かって投げ入れる。
 だが、予想外の出来事が起きた。
 なんて、Gがその黒い羽を広げて飛んでしまったのだ。
「な、なんやとっ!!」
「きゃーっ!! 出たぁーーーーーっ!!!」
 教室を飛び交うGを最初に発見して悲鳴を上げたのは、すっかり元気になって登校して来ていた空であった。
 空はとなりに座っている奏真にしがみ付く。
「約束しただろ、俺は空を守るって…! 例えそれが黒い虫相手でも…!!」
 と空を抱きながらカッコつけて言いつつも、奏真は怖がる彼女を見て笑いを堪えきれない。
「やだぁーーーっ!! こっち来ないでよぉーーーーっ!!」
「こうなったら、アルカナの発動だっ!!」
 手を振り回してGを追い払う者、取り乱して能力を発動しようとする者等、教室は混沌とした空気に包まれる。
「ただの虫相手に臆するとは、貴様らはそれでも選ばれしアルカナの戦士かっ!! 痴れ者共よっ!! 黙らぬと粛清するぞっ!!」
 と生徒会長がバンと机を叩くが、誰も聴いていやしない。
 ブラフマンも生徒達の混乱する様子にあきれ顔だった。
「き、貴様らぁーーーっ!!」
「あらら、天下の生徒会長もあの虫には敵わへんのやなぁ…って、うちの所に来るんや無いでっ!!」
 夕鶴がGを払いのけると、それがポーンと飛び竜斗の鼻先へと着地する。
「うぎゃーーーーーっ!!! やだやだやだっ!!!! 誰かボスけてぇーーーーっ!!!!!」
 竜斗が女の子のように泣き叫びながら両手足をバタバタさせていると、ゆっくりと歩いて来た宝塚が丸めたノートで竜斗の鼻先を軽く払う。
 目の前をノートが通過して、竜斗は驚きおののき尻餅を着く。
 うまく叩き落とした為に竜斗には一切のダメージはなく、Gも潰れておらず床に転がってピクピクと気絶しているだけだった。
「虫と言えど無闇に命を奪いたくは無い」
 そう言うと宝塚は気絶したGをティッシュで掴む。
「二度と来るんじゃないぞ」
 そして、窓から校庭へと放り投げると、意識を取り戻したGは元気よく夏の空へと飛んで行った。
「漢やないかっ!! うち、惚れてしまいそうやっ!!」
 夕鶴の声を皮切りに生徒達は次々と宝塚を賞賛した。
 竜斗と大河はその様子を冷ややかに見ていた。
「始めからこうなる気がしてたんやけどなぁ…。きっとあの女に恐いものなんてあらへんよ…!」
「僕もそう思うんだけどなぁ…」

 戦いの練習をする為に竜斗と大河はトーナメントが終わると早々に帰宅し、首を長くして待構えていた姫に作戦の顛末を伝えた。
「作戦は成功したようですわね」
 姫はその内容を聴くなりニッコリと微笑む。
「なにそれ、皮肉…?」
 竜斗はムスッとする。
「違いますわよ、本当に順調に進んでいるんですわ。結果はともかく相手の心に種を撒いた事が重要なんですの。あとは今日あった事を貴方自信の言葉で嘘偽りなく、インターネットのお友達に伝えてみて下さいな」
「そんなんで大丈夫なのかなぁ…?」
「あら、あなたは精一杯やってますわ。でも、どんな事でも結果はすぐ現れるわけでは御座いませんわ。その時々で目の前の課題に対して全力で邁進し続け、一つ一つを積み重ねる事が大切なんですの」
「まるっきり実感ないけどなぁ…」
「焦っても良い事はありませんわよ。さて、今日も何時ものように修行しますわよ。それが今の貴方に出来る事ですわ」
 そして、夜になって修行が終わり、昼食後にその日の事をMaineにメールする竜斗。
 Maineは最近流行のポストペットを使っていると言っていたし、iMacにもインストールされているようなので竜斗も使ってみる事にした。

『特別教室に凄くカッコいい女の人が居るんだよ。
 特別授業の教室にゴキブリが現れて僕の鼻に止まったんだけど、僕の鼻を擦る事なくゴキブリだけを叩き落として、そのまま気絶したゴキブリを鷲掴みにすると校庭に逃がしてあげたんだ!!
 そして、決め台詞はもう二度と来るんじゃないぞ、だって! 超かっちょ良い!!
 その人は恐いものが無いのかな?
 僕は恐いものが沢山あるし、男らしく無いから凄く羨ましい!!』

『カッコいいって女の子にとって褒め言葉にならないよ。
 少なくても私は女の子らしくて可愛いって言われる方が良いなぁ。
 それに恐いものが無い人なんて絶対にいないよ。
 私は恐いものが沢山あるけど、他は隠す事が出来ても雷が恐いのだけは隠せないの。
 もう、小さな子みたいにキャーキャー言っちゃうの。
 変でしょ?
 その子もきっと恐いものがあるんだけど、隠しているだけよ。
 PS.可愛いって男の子にとって褒め言葉じゃないと思うけど、私は臆病な男の子って可愛いと思うし好きだよ♡』

『全然変じゃないよ!! 可愛いよ!!
 僕はヘタレだけどそんな女の子がいたら守ってあげたいって思うしね!!
 でも、僕も自分自身のヘタレな所を隠したいって気持ち、凄く解るよ…。
 僕は強くなる為には自分に嘘を付くなって言われているけど、なんだか素っ裸でいるようで無防備で恥ずかしいんだ。
 ただ、僕がヘタレだって事は全世界的に知れ渡っている事だし、今更隠すも何もあったもんじゃないけどね。
 PS.可愛いって言われても褒め言葉だと思えないけど嬉しいよ!!』

『可愛いって言ってくれてありがと♡
 でも、いくら恐がりでも自分を隠さないって強くてカッコいいと思うよ♡
 私は君が羨ましいなぁ。
 私は自分に嘘をついてばかりなの。
 人から見向きもされなくなるのが恐いんだ。
 いつか、君みたいな強い子になりたいよ。
 ねぇ、もし私が自分らしく生きられるようになったら、会ってくれて良いかな?』

『カッコいいって言われた方がやっばり嬉しいね!!
 女の子から僕の弱さが強さだって言われるのはこれで二度目なんだ!!
 なんだか、少し自信が持てる気がするよ。
 Maineちゃんが強くなれるように応援しているよ!!
 PS.僕は今すぐにでも会いたいけど』

『応援してくれてありがとう。
 でも、今直ぐには会えないよ。
 待たせちゃうと思うけど待っててね。PS.女の子と話している時に他の女の子の話をするのはマナー違反よ♡』

 1999年7月21日(水)
 決戦を明日に控えた朝を迎え、姫は珍しく朝食の時間にラジオで天気予報を聴いていた。
 それによると夕方から天気が大幅に崩れ高確立で雷雨となるとか。
 姫はニッコリしながらラジオのスイッチを切る。
「わたくしの読み通り絶好の流れとなって来ましたわね」
「…」
 竜斗は口を尖らせて俯いている。
「貴方がこの作戦に対して疑問に思うのは当然ですわよ。
 前に人の言葉を鵜呑みにするのでは無く、自分なりに噛み砕いて飲み込む事が大切だと言いましたが、考えているからこそ様々な事に対して疑問を抱くのです。
 大いに悩んで下さいまし。
 その迷いを乗り越えて、答えを見つけ出す事で少しずつ強くなって行く事が出来るのですわ。
 もし、あなたがもう止めたいと言うのならば、わたくしはそれでも構いませんわ。
 これは貴方の人生なんですもの、最終的な決定権は貴方にありますわ」
 と姫は優しく微笑みかけた。
「止めたい…とは口が裂けても言えないよ。
 選択肢は他にあったとしても、僕は楽な道を選べる程器用じゃないんだよな…。
 やるよ、先が見えなくても歩き続けないと答えなんか解りっこないしさ…」
「よろしいですわ。
 では、今日は宝塚舞さんの練習を始めから最後まで通して観察して頂きますわ。
 きっと、色々な事を思う事でしょうが、それも大切な修行の一つですわよ。
 けっして、辛くても目を背けてはいけませんわ。
 そして、最後に練習を終えた彼女の話を聴くと良いでしょう。
 今日の作戦を上手くこなせれば今まで撒いて来た種が芽吹き、本当の強さとは何かと言う答えにも辿り着く事が出来きますわ」

 案の定と言うべきか、宝塚は午前中の特別授業が終わった後、食事を取ると直ぐに武道館へと行きフェンシングの練習を開始した。
 そう、午後になって他の生徒達がトーナメント戦に熱中している間もだ。
 一心不乱に一つの事に打ち込んで行く。
 そして、一歩ずつ、一歩ずつ、確実に竜斗の遥か先へと向かっている。
 竜斗だって一生懸命練習しているつもりだし、戦いを勝ち抜くための作戦だって実行しているはずだが、一行に先に進めているって気がしない。
 竜斗はあまりにも凛々しい宝塚の姿を見ていると、自分がこの学校に来る前と何も変わらない、空っぽな人間なんだって事を痛感し悔しくてたまらない。
 何がそんなにも違うのか。
 生まれついての才能や、考え方など色々あると思う。
 だが、やっぱり一番違うのは、今まで努力に費やして来た時間だろう。
 つい最近、頑張り出した竜斗と比べ、彼女はきっと何年も練習を繰り返して来たに違いない。
 竜斗なんて、たかが数日の間で辛いと思う事が沢山あったというのに。
 もう、純粋に凄いとしか言いようが無い。
 竜斗は宝塚を尊敬するしか無かった。
 彼女のように強く生きられたらと思った。
 夕暮れになってようやく練習を切り上げた宝塚に竜斗はスポーツドリンクを差し出しながら話しかける。
「おつかれさま…!」
「…ああ、ありがとう。だが、君は少し慎んだ方が良いぞ」
「え、何を…?」
「君は誰振り構わず優しい声をかけているのではないか? 本人にそのつもりは無くても女好きの不貞の輩だと思われてしまうぞ」
「スケベなのは否定しようがないけど、なんでいきなりそんな事を…?」
「…ああ、すまんな。これは私事だ」
 顔を赤くして咳払いする宝塚。
「なんか、変だなぁ…」
 なんだかおかしくて、吹き出す竜斗。
「ところで君はこんな所で、こんな事をしていて良いのか? 明日はいよいよ私達の戦う日なんだぞ」
「僕もそう思うんだ…。
 でも、姫が今日は宝塚さんの練習を見ろって言うんだ。それも修行の一環なんだって…。
 あ、姫ってのは僕のパートナーで、戦いの師匠のような人ね。基本的に厳しいんだけど、時々優しいんだから参っちゃうよ」
「…まったく、君はまた他の女の話を」
 と宝塚はボソッと呟く。
「ん…?」
「…いや、何でも無い。
 確かに君の師匠の言う事は一理あると思う。
 スポーツの世界ではよりレベルの高い試合を見たり、ライバルの様子を知る事、有名選手の講演会や勉強会に参加かる事も立派な練習の一つだ。
 特に自分自身の壁に突き当たった時には、乗り越える良いチャンスだと言える。
 人と比較する事で自分自身の間違いに気付かされたり、自分自身の考えが正しいと再確認する事があるんだ。
 もっと言えば何処にだって自分にとってプラスになる材料は転がっているんだ。
 大切なの人生における全てを練習だと思って、吸収しようとする姿勢なのではないか」
「そうか、そう言う考え方が僕に足りなかったのかも…! 
 ありがとう!! 宝塚さんのおかげで前向きになる事が出来そうだよ!!」
「ふっ、君は本当に真っ直ぐで心が強いんだな。君のそういう姿勢は素晴らしいと思う」
 宝塚は照れを隠しながら笑う。
「宝塚さんこそ、何時もそう言う考え方をしているから強いんだね! ますます尊敬しちゃうよ!!」
「よしてくれ。私は不器用だから、そんな生き方しか出来ないだけさ」
 その特、大粒の雨が体育館の屋根を強く叩く。
「ん…、雨か?」
 その時、一瞬視界が真っ白になるかのような激しい光と共に、地面を揺さぶるような大音量が響き渡る。
 そして、竜斗は信じられない光景を目にする。
 なんと、宝塚が雷に負けないぐらいの悲鳴を上げ、頭を抱えて丸くなっていたのだ。
「か、雷だけは駄目なのだ…!! きゃっ…!!」
「雷が怖い…!?」
 …竜斗はつい最近、何処かでそんな女の子の話を聴いていた。
 そして、雷鳴と共に二つの線が一つに結びつく。
「まさか、宝塚さんがMaineちゃん…!?」
「きゃっ!!!」
 雷が鳴るたびに震えるその姿は、まるで小さな女の子のように弱々しく可愛らしかった。
 竜斗は意を決し宝塚の横に並んで、その震える細い肩を抱き締めた。
「な、何をっ…!?」
「言ったでしょ…。雷に震える女の子がいたら、守ってあげるって…!」
 あまりの緊張に声が途切れ途切れとなりながらも、竜斗は顔を真っ赤にして言う。
「きゃっ!! す、すまない…!!!」
 宝塚は竜斗の肩に寄りかかって、縮こまって震え続けた。
 彼女は背が高いのだが体格は竜斗よりも明らかに華奢で、両腕を広げれば包み込めそうな程に小さく感じた。
 竜斗は女性を守りたいと言う男としての本能を強く滾らせるのであった。
 そして、それがどれだけ続いたのだろうか、雷雲は通り過ぎ周囲は夕焼けに包まれていた。
 竜斗と宝塚は扉の所に二人で並んで、夕日にかかる虹を眺めていた。
「情けない所を見せてしまったな…。
 だが、これが本当の私…、見かけ倒しの臆病な人間なのさ…。
 自分でもこのままじゃいけないと思いつつも、どうしょうもないんだ…」
 そう言う宝塚の顔は辛そうで、今にも泣き出しそうであった。
「僕で良かったら話を聴かせてくれるかな…? 僕でも力になれる事があるかも知れないし…!」
 竜斗は小さい子供に言うように優しく微笑みかける。
「ありがとう…。君は本当に優しいな…」
 宝塚は涙を堪えるように目を瞑り上を向くとゆっくりと話し始める。
「意外に思うかも知れないが、私だって昔はこんな生き方をしていなかったんだよ…。
 昔の私はインターネットで見せているような、夢見がちだけど臆病で目立たない少女だったんだ…。
 そんな私が変わるきっかけとなったのは中学二年の時だった。
 当時、私の通っていた市立中学は、学生による学生の為の統治を掲げ、生徒会長となった一人の男によって支配を受けていたんだ」
「その男ってまさか…!?」
 何処かで聴いた事がある話に竜斗は嫌な予感がする。
「そう、この学校でも生徒会長をやっている小泉光一郎さ。
 彼は統治とは名ばかりの力による支配を行い、当時の私のように力の無い一般的な生徒は権利を取り上げられ、暴力のターゲットとされていたんだ」
「あいつ、そんな前からそんなことを…」
 竜斗は生徒会長の横暴な顔を思い出して、腸が煮えくり返る思いで拳を強く握る。
「当時は今よりずっと酷かったんだ…。
 私達が中学二年の頃はちょうど阪神大震災のあった年であり、心の傷と思春期が重なり極端な思想を持つ者が多かった。
 彼の考えに同調して暴力を振るう者も居れば、塞ぎ込み心を閉ざして不登校になる者、抜け殻のようになる者、そして自ら命を落とす者もいた。
 私自身もそのようになる寸前であったと思う…」
 そう言う宝塚の顔は悲壮であり、当時の彼女の気持ちを思うと竜斗は胸が苦しくなる。
 阪神大震災の後、神戸で凶悪な犯罪を犯したり、自殺をする同年代の子供達が増えたという事は、東京でも報道されていた。
「大変だったんだね…」
 今までテレビの中の話のように思っていた自分が恥ずかしくてたまらなかった。
「だが、一学期が始まりしばらく経った半端な時期に、ある男子生徒が転校して来てから事態は急変したんだ。
 彫刻のような美しい容姿、冷静かつ明晰な頭脳、野性的な運動神経…。
 全てを併せ持った神の子のような存在である彼が、何処から来たかは誰も知らなかった。
 阪神大震災の時に両親を亡くし記憶を失う程の怪我を負い、彼自身も自分が誰なのか解らないと言う出所の解らない噂だけが一人歩きをしていた。
 彼は生徒会長の集団的な暴力にたった一人で対抗して、他の生徒達の希望の対象となるまさに救世主とも呼べる存在となった」
 竜斗は自分自身が生徒会長直属の風紀委員に絡まれ、一人の男子生徒に助けてもらった事を思い出す。
 いや、忘れようと思っても忘れる事なんかできはしない。
「僕もその人に助けられた事があるよ…」
「当時の私はそんな彼に心惹かれ、ある日、自分の思いを告白したんだ。だが、女として見られないと冷たい言葉で突っぱねられてしまったよ。
 …今からすると信じられない事だろうが、当時の彼は粗暴で他人を寄せ付けない所があったんだ」
「まさか、彼にもそういう時があったなんて…」
 竜斗は完全な人間はいないと言う姫の言葉を思い出していた。
「思い返してみれば当時の彼は心に傷を負った中学二年生であり、空っぽな心を埋めるように力を振るっていただけなのかも知れないな。
 私もまた自分勝手な子供だったから、そんな彼の事情を察する事が出来ずに傷ついてしまった。
 そして、ある日、突然彼が変わったんだ。
 彼の傍らに年下の小柄な少女が常に付き添うになってから、今までの態度を改めるように人を受け入れるようになったんだ。
 彼の事を諦める事の出来ない私は、彼の隣に他の女性が居る事が苦しくてたまらなかった。
 彼女に成り代わりたいとさえ思ったが、明るく可愛い彼女と自分を比べては、自己嫌悪する事の連続だったよ」
「世の中は不公正だよね…。
 報われる恋もあれば、報われない恋もある…。
 みんながみんな主役でいられれば良いのに、脇役や悪役になってしまう人もいる…。
 別に好きでそうなっている訳じゃないのにね…」
「本当にそうだな…。
 それからは中学を卒業するまでは、生きているんだか死んでいるんだか解らない毎日だったよ。
 そんな自分が嫌でたまらなかったから、自分を変えて強くなろうと思ったんだ。
 彼のように強く気高くなる事が出来れば、女として見向きされ無くても、何時かは振り向いて貰えるのではと思ったんだ。
 そして、高校入学と共にフェンシング部に入部して、好きだった宝塚の男役のように振る舞い、強い自分を演じたんだ。
 その結果、今まで見向きもされない程地味だった私が、いつしか年下の女の子達からチヤホヤされるようになり、皆の期待に応えるように練習を続けて大会で優勝するまでに至った。
 そして、気がつくと私の事を否定していた生徒会長の一派にも一目置かれるようにまでなっていたよ」
「僕も弱い自分を変えたくて、この学校の特別授業に参加する事にしたんだ。
 それに、彼と出会って彼のように強くなりたいと思った。
 だから、宝塚さんの気持ちが凄く良くわかるし、僕のずっと先に行っている宝塚さんの事を尊敬できるよ!」
「だが、何処まで行っても彼に振り向いてもらえる事は無く後に残るのは虚しさだけだったよ。
 偽わりの自分を維持するのに疲れ果て、何度も本当の自分を曝け出したいと思ったよ。
 しかし、また弱い自分に戻って見向きもされず消えてしまうのが怖くて、次第に誰も自分の事を知らないネットの世界に依存するようになって行った。
 ますます本当の自分が解らなくなって行く一方で、もうどうすれば良いか解らないんだ…」
 宝塚はその顔を手で覆い小刻みに身体を振るわせる。
「宝塚さん…」
 竜斗は居ても立ってもいられず、その細い肩を抱いた。
「…君は本当に優しいな。
 君は自分自身の弱さを知っているから、人の気持ちを察して優しく有る事が出来る。
 そして、豊な感受性で思った事を隠す事が出来ない、真っ直ぐで純粋な心を持っている。
 だからこそ、私は君に話を聴いてもらいたいたかった。
 それは君の持つ素晴らしい力だと思うんだ。
 だから、君にはそのままでいて欲しい。
 人は弱さを捨て去ろうとして自分自身を偽り続ける限り、本当の意味で強くなる事が出来ない。
 決して私のように間違った強さを求めないで欲しいんだ」
 宝塚の言葉を聴いた竜斗の中で、全てのピースがひとつに組み上がって行くのを感じた。
「僕、解ったよ…! 本当の強さが何なのか…!!」
 そうか、姫は僕と宝塚さんを対比させる事で、客観的な視線から見た僕の良さと、本当の強さが何かを教えたかったのか…!!
 竜斗は姫の気持ちが嬉しくて仕方無かった。
 しかも、その為に姫は水面下で様々な下調べをし、一見すると解らないような誘導の積み重ねによって、その答えに自主的に辿り着けるように導いていたのだろう。
「…でもその答えは言わないでくれないか。それを聴いてしまったら、私は明日君と戦う事が出来なくなってしまう気がするんだ」
 そして、同時に宝塚の攻略法も解った。
 きっと、それは宝塚さんの今まで歩んで来た道を活かし、彼女を救う事にも繋がるんだ…!!
「だったら、僕は戦いを通じて本当の強さが何かを見せてあげるよ…!!」
 竜斗は立ち上がって夕日に向かって強く拳を握りしめた。

 1999年7月22日(木)
「今日から夏休みに入ると共に、トーナメントの第二回戦が行われる事となる」
 特別授業の教室でブラフマンが発した夏休みと言う言葉を聴いた生徒達は一周ザワめきたった。
「よっしゃー、待ちに待った夏休みやっ!!」
「お前うっさいわ、アホっ!!」
 夕鶴は声を上げて喜ぶ大河を叩く。
「やったーっ!! 空、夏休みだーいすきっ!!!」
「こら、空もうっさいよ!! それに席立たんといて!! 子供かアンタら!!」
 と夕鶴はアホな生徒達を注意しまくる。
「夕鶴はオカンみたいだな。だが、実は夕鶴が一番五月蝿いなんて口が裂けても言えない…」
 と竜斗はボソッと言った。
「第一回戦は能力が安定して発動出来るようにイメージしやすい学校で行われていたが、第二回戦は学校を離れて外部の閉鎖された場所で戦って貰う。
 その為に二回戦まで勝ち残った生徒にはこれを渡しておこう」
 ブラフマンは二回戦まで勝ち残った生徒の名前を一人一人呼んで携帯電話を手渡した。
「ええなぁ、なんやそれ? おれにもくれへん?」
「DoCoMoのデジタル・ムーバP501iハイパーって書いてある…ってか、あげんぞ」
 嫌らしく覗きこむ大河に竜斗は答えた。
「ケチやなぁ…」
「それは最近発表されたi-Modeと言う携帯電話でのインターネットサービスに対応した機種で、夏休み期間中のトーナメントの時間と場所は、前日の夜11時に試合当事者の端末にメールで送信する。
 もし、指定した時間と場所に来る事が出来なければ失格となる。
 また、当事者以外の試合観戦を希望する場合は、前日の夜11時に更新されるインターネットのサイトで確認すると良い。
 ログインネームは氏名のローマ字、出席番号がパスワードとなる」
「ちょい待ち…! それやとインターネットが使えへん奴は確認出来へんし、ギャラリーが大幅に少なくなるんやないか?」
「お前、聴きにくい事をよく聴くな…」
 竜斗は小声で大河を賞賛した。
「共通認識を持つ観客をふるいに掛けるのもこの第二試合の目的なのだ。
 第一試合で人々を魅了する事に成功した者ならば、第二試合もインターネットで情報を得たり、友人から話を聴いてでも観客が見に来るだろう。
 つまり、より求心力がある…神に近い者が有利になると言う事だ。
 また、第二回戦以降は必然的に観客が減る事になるが、最終的に外的環境に影響させず安定して強力な能力を発動する事への練習となっている」
「…なるほどなぁ」
「今日行われるトーナメントに関しては、例外的に今この場で発表させて頂く。
 第二回戦第一試合…No.3女帝とNo.18月の試合は、本日14時ちょうど宝塚市にある宝塚大劇場で行うものとする」
 教室がザワめく。
「おいっ!! なんか、明らかに不公平な気がするでっ!!!」
「世の中に公平などと言うものは存在しない。私が求めている存在とは如何なる状況であろうとも、絶対に勝つ事が出来るような強さを持った者なのだ」
「良いんだ大河…、それで良い。それで良いんだ!! それでこそ戦いがいがあるってもんだよ!!!」
 竜斗は熱い視線を宝塚に送り拳を力強く握りしめる。
「竜斗、お前目ん玉燃やしちゃって何や!? いつの間に生徒会長みたいな戦闘狂になってもうたんや!!」
「面白いっ!! 面白いぞ走馬っ!!! それでこそ我が輩が見込んだ漢であるっ!!!」
「こら、アカン…。アホ二人が共鳴しとるよ…!」
 夕鶴はボソッと呟いた。
 竜斗に熱く見つめられた宝塚は、困惑しながら真っ赤になった顔を伏せる。
「おやおや、彼も大分女性の扱いに慣れて来たようだな。これは俺のライバルとなる日も近いかもな」
 それを見た奏真は面白そうに笑う。
「お兄ちゃんの馬鹿ぁ! 何のライバルよぉ!?」
 と空は奏真に突っ込んだ。
「ふっ、決まっているだろ?」

 そして、14時前。
 宝塚市栄町を流れる武庫川の畔に聳えるヨーロッパ風の堂々とした建築物が宝塚大劇場だ。
 内部は一階席、二階席合わせて2550人が収容出来る巨大なホールになっており、そのステージの上に本日の主役になる者達が向かい合っていた。
 No.3の女帝である宝塚舞とそのパートナー。
 No.18月である走馬竜斗とそのパートナーの香夜姫。
 そして、進行を務めるブラフマンの五人である。
「では、自我領域を展開してもらおう!」
 宝塚はファンの娘相手にいつも通りクールな表情のまま唇を交わす。
 そして、出現したNo.3のカードを掴み取ると、それをフェンシングのフレールへと変化される。
「では、これを忘れずに着て下さいな」
 姫がキスの前に竜斗に出した物は特注で作った前の学校のブレザー型防刃ジャケットであった。
「これは貴方が初めて勝ち取った個性の象徴であり、貴方の歩んで来た軌跡そのものですわ」
 そう、前の学校の制服は転校初日に風紀委員会、二日目に生徒会書記に絡まれる原因にもなった物で、生徒会書記を倒して学校に馴染んだ事で、いつの間にかに竜斗も他の生徒も誰も気にしなくなっていた。
「今まで積み重ねて来た結果は決して裏切らず、貴方を力強く守ってくれる事でしょう。それが貴方に足りなかった自信と言うものですわ。
 わたくしは貴方を信じています。だから、貴方もご自身を信じて下さいな」
 姫は竜斗にブレザーを着させながら言う。
「ありがとう、姫…」
 そして、竜斗はそんな姫に口づけした。
「行って来る…!!」
 それはまるで新婚夫婦の朝を思わせるような光景であった。
 竜斗は姫から二本の胡蝶刀を受け取ると、宝塚へと向かい合い不敵な笑みを浮かべた。
 宝塚は動揺を隠せない。
「では、開始しろっ!!」
 フェンシングの基本動作は、前進、後退、突き、前に飛ぶ、後ろに飛ぶ、剣を突き出して突進する。
 その6つであり全てはその組み合わせであると言う事は、今までの見学から察する事が出来た。
 それは能力で具現化した剣であっても同じであり、勝負を焦った宝塚は恐らく一番攻撃力のある手段で先制して来る事だろう。
 すなわち、剣を突き出しての突進だ。
「フレッシュ!!!」
 剣と一体となり矢のように加速する宝塚。
 竜斗は身体を僅かに横にずらし、胡蝶刀の護手で攻撃を受け流す。
「ボンナリエール!!」
 大きな隙を見せた宝塚は反撃を恐れて後ろに飛ぶが、竜斗は落ち着き払って構えているだけだった。
「…どうした? 反撃しないのならば、こちらから行くぞ!!」
 宝塚は前に飛んで一気に間合いを詰める。
「ボンナバン・ファンデヴっ!!!!」
 突く!!
 突く!!
 突く!!
 剣先をゆらゆらと揺らしながら、連続して鋭い突きを発する。
 まさに変幻自在の突きだった。
 そんな攻撃を戦いの経験が浅い竜斗が捌ききれるものではなく、何発も身体へと直撃を食らってしまう。
「ぐわっ!!!」
 だが、衝撃吸収材入りの防刃ジャケットによってかなりダメージが軽減され、宝塚の剣はかなり存在感が薄い事もあり、剣で刺されると言うより局地的な筋肉痛のような衝撃を感じる。
「完全なノーダメージでは無いと言うわけかっ…!!」
 一発、一発は致命傷で無くても、食らい続けるとまずい。
「だが、そんな時だからこそ臍下丹田式呼吸法だっ!!!」
 竜斗は攻撃を食らい続ける中、落ち着いて臍の下に力を入れる腹式呼吸をして気を取り込み、自分の中に気が巡って行く様子をイメージする。
 すると、まるで強力な自我領域が発生したかのように、宝塚の攻撃が弾かれて大きくバランスを崩す。
 しかし、竜斗はまたしても反撃に出る事はしない。
「ロンペ・ファンデヴ!!!」
 宝塚は後ろに下がり、力を溜ながら未だかつて無い程の高速の突きを放つ。
 その攻撃はまるで太いレーザーのように収束してもの凄い勢いで竜斗へと襲いかかる。
 だが、姫の長時間の運転によって超スピードの世界にならされた竜斗にとって、それを余裕を持って見て取る事が出来た。
「完全に避ける事が無理ならば、気を込めた剣で切裂いて見せるっ!!」
 竜斗の繰り出した十文字の斬撃によって、光の束は四散するが完全には防ぎ切る事は出来ず、かなりのダメージを受けてしまう。
「さすが、宝塚さん…!! 攻撃の重みが違うね…!!!」
 片膝をつく竜斗。
「マルシェ・ファンデヴ!!」
 つかさず宝塚は前進して鋭い突きを放つが、竜斗は身体への直撃を何とか剣で弾いて避ける。
 大技をかわされ続けて疲労が蓄積した宝塚と、大技をかわし続けて疲労が蓄積した竜斗の身体が重なり、抱き合うような形になる。
「何故だ…?! 何故、君は反撃するチャンスがあったはずなのに、それをしないんだ!?」
 まるでキスでもするかのような、抱き合いながら向き合う態勢で宝塚は竜斗に問いかける。
「それが、僕に出来るただひとつの事だから…!!」
「何っ!!」
 宝塚は離れ際に剣で薙ぐような攻撃を放つが、竜斗はその攻撃を両手の胡蝶刀で弾く。
「やっぱり、宝塚さんの攻撃は凄いよ…。きっと、防御も凄いんだろうね…。僕みたいなのが下手に攻撃に出たら、きっとカウンターで反撃されて木っ端微塵だよ…!!」
 至近距離での突きを竜斗は身体を捻ってかわす。
「…そんな事は無いだろ? 今まで戦って来た中で君はトップクラスの実力を持っていると感じた…!」
 再び二人の唇が接するのではないかと言うぐらい接近する。
「それは自分自身が弱いって事を受け入れて、自分に出来る事…つまり防御のみに集中しているからさ…!」
「な、なんだと…?」
 二人は剣を構えてぐるぐると周り合い、互いを牽制し続ける。
 それはまるで、ミュージカルでも見ているかのような光景であった。
「宝塚さんの築き上げて来た技と比べたら僕自身が築いて来たものは小さくて、心が萎縮して消えてしまいそうになるけど、そんな僕にも出来る事はあるんだ!! だから、僕は絶対に自分自身を見失わない!!」
 そして、つばぜり合いをしながら付かず離れずを繰り返す。
「それが君の答えだと言うのか!?」
「それを教えてくれたのは宝塚さんなんだ!!
 宝塚さんが一生懸命頑張って生きて来たからこそ、僕はその答えに辿り着く事が出来た!!
 だから、その思いを宝塚さんに返したい!!
 宝塚さんが心を痛めた事も!!
 宝塚さんが磨いて来たフェンシングの技も!!
 演じて来たって言う勇ましい所も!!
 ネットでの可愛らしいMaineちゃんも!!
 宝塚さんの歩んで来た全てが無駄じゃなかったって証明する為、僕はどんなに弱くても自分自身を貫くって決めたんだっ!!」
「何で…!? 何でそんなにも、私の事を気にかけるのっ!?」
「僕はそんな宝塚さんが好きだから…! だから、自信を持って欲しいんだ…!!
 宝塚さんの歩んで来た全ての道は自信となって、ありのままの自分を守ってくれるはずだからっ…!!」
「そんなことっ!!」
 宝塚は感情に流されるまま、接近した竜斗に向かって残った全ての力を光と化して解放する。
 その瞬間、激しい光の中で二人の顔と身体がシルエットとなって折り重なる。
 そして、二人の身体は弾き飛ばされた。
 予め宝塚の捨て身の攻撃を読んでいた竜斗は臍下丹田に気を集中して攻撃を中和しほぼ無傷であったのに対し、力を使い果たした宝塚は自我領域を失いかけながら膝をついて倒れた。
「最後にひとつだけ聴かせて欲しいの…」
 宝塚は最後の力を振り絞り、剣を突き立てながら竜斗に突進する。
「君は本当は誰が好きなのか…」
「何をっ…!?」
 竜斗はフラつく宝塚の攻撃を避けて、テコの原理を応用して投げる。
 姫との修行の中でシチュエーションを変えながら何度も型を繰り返していたので、動揺しながらも勝手に身体が動いていた。
 気がついたら竜斗の足下には涙を浮かべた宝塚が床に沈んでいた。
 その顔には既に雄々しい表情は無く、儚い夢を見る少女の表情そのままであった。
「私は…、私はSomaが好きよ…」
 宝塚は最後にそう呟くと自我領域を失った。
「僕は本当は…が好きなんだ…」
 そして、竜斗は宝塚の耳に呟き、出現したカードを取り上げてそれを胸に抱いた。

第三章

 1999年7月23日(金)
「ボソッ…」
「この作品はワンパターンだな…と、図書委員長は申しています」
「そのような世迷い事で我が輩を翻弄出来ると思ったか戯けが!!」
 図書委員長が具現化した開かれた本のページから、飛び出す絵本のように不潔な臭いを放つ巨人…トロールが立体化し、手にした棍棒を相対する生徒会長へと振りかざす。
 具現化した鎧によって全身を完全武装した生徒会長は、武装された文字通りの鉄拳を持ってトロールの一撃を相殺する。
 昨日から始まった第二回戦は学校外の場所で行われていて、今回の戦いは兵庫県朝来市にある竹田城跡を舞台としていた。
 竹田城は城下から見上げる高い山の上にあり、雲海の中に累々とした古城の石垣が浮かんで見える事から、天空の城…日本のマチピチュと称されている。
 神戸からかなり離れた山の中だと言うのに、沢山の生徒達がその戦いを観戦しに来ていた。
 それが、生徒会長…、もしかすると図書委員長の人気を象徴しているのかもしれない。
「ボソッ、ボソボソっ…」
「物語開始直後から憎まれ役は生徒会関係ばっかだし、しかもホモとかレズが連発して飽き飽きしてるんだよ…と、図書委員長は申しています」
 重量級の攻撃の打ち合いの最中に図書委員長が呟くと、それをすかさず傍らにより沿ったヒラ図書委員の男子が通訳する。
「つまり、この我が輩が男色家だと申すのか!?」
「ボソッ…」
「まぁ、この作品ではスタンダードな存在だがな…と、図書委員長は申しています」
「戯けがっ!! 我が輩は男色家では無いっ!!!
 男でも女でも強い力を持った真の漢と呼べる存在を分け隔てなく愛しているだけだっ!!!
 つまり、我が輩はお前も愛していると言う事だっ!!!」
「ボソボソボソボソっ…」
「出たよバイ宣言。気持ち悪いから止めてくれよな。
 お前のような奴がいるから作品が低迷するんだよ。今後の展開の為にもいい加減に退場してくれないかな…と、図書委員長は申しています」
「消えるのは貴様の方だっ!!」
「…ホンマ、あの女の言う事は何だかわからんけど恐ろしいで!!」
 高い位置にある石垣の上で戦いの様子を傍観していた大河は思わず呟いた。
 竜斗は大河、夕鶴、空、奏真と言う何時もの面々でトーナメントを観戦しに来ていた。
 竹田城趾のある山頂までは車で行く事が出来るので、自分で歩く事が出来ない夕鶴でもアクセスに不自由する事は無かったが、観戦に適した石垣の上までは体格に優れた奏真が背負って運んだ。
「ふっ、彼女はこの世界を誰かが作った物語であり、自分自身も含めて全ての人間はその登場人物に過ぎないと思っているのさ」
 奏真がもっともらしく説明すると、夕鶴は背負ってくれたお礼の意も含め、彼の考えを賞賛するように間の手を入れた。
「さすが、奏真先輩やね!! きっと、本の読み過ぎでおかしくなったんやなぁ!!」
「アニメの見過ぎのお前が何言ってるんや…」
 依然として大河と夕鶴の喧嘩状態は続いていて、顔を合わす度に互いに毒を吐きまくっていたが、それは不器用なコミュニケーションだと竜斗は思っていた。
 だが、大河の今の発言は特に刺がある気がした。
 ひょっとすると、大河は自分自身に不甲斐なさを感じ、奏真先輩に嫉妬しているのかも知れないな。
 本当ならば夕鶴を背負うのは大河の役目だけど、小さな女の子の姿じゃそれも出来ないし…。
 竜斗も自分自身に不甲斐なさを感じる事も、奏真に嫉妬する事も多かったので大河の気持ちが手に取るように解った。
 だが、人と比べてどんなに劣っていようとも、自分なりのやり方があると認識してからは自信を持てるようになった。
 大河も自信を取り戻して欲しい…竜斗はそう切実に思った。
「うちはアニメ好きやけど、ちゃんと夢と現実の区別は付いているでっ! 一緒にせんといてやっ!!」
「でも、空は図書委員長の言う事も解る気がするよ。だって、みんながみんな自分だけの物語を持ってて運命に操られているんだもん…」
 竜斗は空の顔を覗き見る。
 何時もの明るい笑顔とは違って、何処か影を感じさせる表情であった。
 空も何か運命に翻弄される事があるのだろうか…?
 考えてみれば竜斗は空の事を知っているようで何も知らない。
 こんなにも近くにいて親しみやすい人物のはずなのに、急に距離を感じて寂しさを感じてしまう。
「ううん、むしろ物語であって欲しいな。だって、物語だったら、どんな運命だって切り開く事が出来るヒーローが出て来て全てを解決してくれるんだから!」
 そう夢見がちに語る空は先ほどの表情から一転し、何時もの爛々とした表情に戻っていた。
 やっぱり、空は可愛いと竜斗は思った。
「ふっ、俺が空のヒーローになってやるさ!」
 と奏真は戯けて言うが、その目は何時になく真剣であった。
「でも、この世界が物語って…、そんな事があるんだろうか…?」
 竜斗が呟いたちょうどその時だった。
 互いに拮抗していた生徒会長と図書委員長の戦いの均衡が崩れる時がやって来る。
 図書委員長がすかさずページを捲るとトロールが消滅し、代わりにアラクネーと呼ばれる下半身が巨大な蜘蛛になっている女性型の怪物が出現し、尻より分泌された糸を生徒会長へと投げつける。
 …おそらく蜘蛛の糸に絡めて相手の動きを止める能力なのだろう。
 生徒会長は相性が悪いと直感し、瞬間的に鎧を騎馬状態に変形させると、全速力で間合いを取って攻撃を避ける。
 蜘蛛の糸を投げる!!
 投げる!!
 投げる!!
 だが、蜘蛛の糸は騎乗してキザギザと動き続ける生徒会長には当たらず、やがて射程距離から外れてしまう。
「貴様の攻撃は既に見切ったぞ!!」
 そして、生徒会長は騎馬の踵を返すと蜘蛛の糸をかわしながらもの凄い勢いで図書委員長へと迫り来る。
 だが、生徒会長が乗った騎馬の前足が図書委員長へと向けられた時だった。
 図書委員長の口元が不敵に歪む。
 手にした本のページが捲られて蜘蛛の怪物が消滅すると、角の生えた馬の姿をした怪物…ユニコーンが現れて、その鋭い角が騎乗した生徒会長の生身の身体を襲う。
「なん…だと!?」
 なんとか攻撃をかわした生徒会長は落馬して無防備な姿を晒してしまう。
 竜斗は鎧に被われていない状態の生徒会長の自我領域は、他の人と比べてかなり薄く広範囲に渡っている気がしてならなかった。
 今の状態であれ程の存在感を放つユニコーンの攻撃を受けたら勝負は決してしまうだろう。
「ぼそっ、ぼそぼそっ!!」
「その台詞を言った者は負ける…。それが物語のセオリーなんだよっ!!…と、図書委員長は申しています」
 生徒会長に向かってユニコーンの蹄が迫る。
 まるっきり先ほどと逆の展開に誰もが生徒会長の敗北を想像した。
 だが…!!
 生徒会長は瞬間的に身を捻ってかわすと、全体重を込めた猛烈なタックルを図書委員長へと浴びせる。
 そして、生徒会長は飛び跳ねると、倒れた図書委員長の鳩尾に向かって、片膝を突き立てながら落下する。
 通常だったらかなりのダメージがある所だろうが、自我領域に守られた図書委員長の身体は単純な打撃での攻撃を跳ね返す。
 しかし、そんな事は生徒会長も想定済みだった。
 そのまま倒れたままの図書委員長の首を、鍛え上げた丸太のような太腿で締め上げる。
 図書委員長は何とか逃れようと暴れるが、生徒会長の脚は隙間が無い程に強く食い込み、戦いの素人である竜斗から見ても完全に技が決まっているのが解った。
 そして、図書委員長は白目を剥きながらピクピク震えると失禁して意識を失う。
 その胸から出現したNo.9隠者のカードを取り上げると、生徒会長は勝利を宣言するかの如く高々と天に掲げた。
 そして、汚物に塗れて倒れた図書委員に対して侮蔑するような表情を浮かべると、追い打ちをかけるように足で踏みにじる。
 何度も…!!
 何度も…!!
「その汚い足を退けろっ!!」
 竜斗は生徒会長に向かって怒りの声をあげていた。
「敗者を足蹴にして何が悪いのだ…!?」
「彼女は彼女なりに一生懸命戦っていたんだ!! 何で頑張って生きている人に対してそんな酷い事が出来るんだよっ!!!」
 竜斗は生徒会長の前に躍り出て、図書委員長を庇うように立ち塞がる。
「笑止!! どれ程の努力を重ねようとも勝てなければ意味が無いのだっ!!
 無様な姿を晒しながら生きながらえるのは恥である!! 潔く死を選ぶのが武士の在り方と言うものだ!!」
「違うっ!! 人は自分の弱さを受け入れて精一杯生きる事で、強くある事が出来るんだっ!!」
 竜斗は常にコンプレックスを感じ萎縮して生きて来たが、姫や周りの人々に助けられて乗り越える事が出来た。
 だから自分自身の生き様を否定するような生徒会長の言動は逆鱗に触れるものだった。
「では、貴様の信じる強さと言うものを戦いで証明するが良い!!
 第二回戦を勝ち進んだ貴様と我が輩は、次の第三回戦で当たる事が決定しているのだからな!!
 その戦いを制した者こそ真の正義なのだ!!」
「…勝った方が正しいって、そんなの納得出来ないが、お前にだけは絶対に負けたく無いっ!!」
「敗者には粛清を…!! 我が輩の正義を貴様に思い知らせてやる!!」

 1999年7月24日(土)
「竜斗さまにお伝えしなければならない事があります」
 昼下がりの風見鶏の館、その一階ホールに畏まった聖蘭が現れた。
 その日は第三土曜日でトーナメントは休みであり、竜斗と大河の二人は朝から新武芸の修行をしていた。
「あらあら、今は修行の最中ですわよ。一体の御用ですの?」
 姫は竜斗と密着し乱取り稽古をしている最中であり、楽しみを邪魔されたとあって不機嫌な様子であった。
「宝塚舞さんを始めとしたトーナメントに敗退した元アルカナとパートナーが、次々と何者かに襲撃されて重傷を負ったとの情報が入りました」

「 お見舞いに来てくれて嬉しい… 。でも、君にだけは今の私の姿…、見られたく無かったな…」
「宝塚さん…」
 竜斗は急遽修行を切り上げて、聖蘭の運転する車に乗って海岸ビル内にあるブラフマンが経営する診療所に来ていた。
 空の実家でもあるその診療所の入院施設には現在、宝塚や怪我を負った他のアルカナやパートナーが収容されていた。
 個室のベッドの上。
 全身余す所なく血に塗れた包帯に巻かれ、両手両足をギブスで固められた宝塚の姿は痛々しく、竜斗は思わず目を逸らしたくなる程だった。
「いったいどうしたの…?」
「言いたく無いよ…。きっと、それを聴けば、竜斗君は傷ついて心を黒く染めてしまうから…。私は優しくて純粋な竜斗君が好きだから、そんな姿は見たく無いの…」
「僕は自分自身を見失ったりしないよ。現実を受け入れて自分に出来る事を貫く事で強くある事が出来る…。それを宝塚さんに教えてもらったから…!
 だから、僕を信じて話を聴かせて欲しいんだ…! 宝塚さんの為に僕が出来る事、僕にしか出来ない事があるかも知れない…!!」
「ありがとう…!!」
 宝塚は涙を堪えるように天井を仰ぐ。
「聴いてくれるかな…、私の話…」
「うん…」
「私ね、君に負けたことで、本当の自分に戻る事ができたんだ…。
 フェンシングの試合でも、特別授業でも、勝ち続ける事で私は強い自分を演じる事が出来ていたけど、その反面で本当の自分を見失って、苦しくて苦しくて仕方無かったの。
 でも、君は本当の強さで、私を偽りの自分から解放してくれたの…。
 本当に嬉しかったよ…。
 だから、私にとって竜斗君に負けた事は大切な思い出だよ」
「僕も宝塚さんと戦えた事は大切な思い出だよ…」
「だけど、本当の私の心は柔らかで傷つきやすく、努力が実らず負ける事の悔しさも込み上げて来て、君に負けた晩は子供に戻ったようにずっと泣き続けたの。
 泣きながらずっと考えていたんだ…、どうやったら自分を偽らない本当の強さを身につけられるんだろうって…。
 でもね、考えても考えても解らなかった。
 昨日の朝、気がついたら夏休みの誰も居ない学校の武道場で、独りフェンシングの練習に打ち込んでいた。
 ただ、ただ、夢中だったの。
 でも、夢中になって練習する事が楽しくて、楽しくて仕方無かった。
 今まで練習は辛さを我慢するものだと思っていたから、そんな気持ちは初めてだったの。
 それで思ったの…、自分自身を偽る為じゃなくて、自分自身であり続ける為にフェンシングを楽しんでみようって。
 そうすれば、君みたいな本当の強さを持った人間になれるって…」
「宝塚さん…」
「でもね、夕方…、練習を切り上げようとした時だった…。
 突然、生徒会長が現れたの…。
 彼は汚い言葉で私の大切な思い出を…、竜斗君が取り戻してくれた本当の私を否定した…。
 私は許せなかった…、許せなかったの…。
 だから、私は…、私は、彼を殺す気でフレールを突き立てた。
 でも、彼は能力を発動し私の攻撃を防ぐと…」
 彼女は身体を振るわせ、涙を零しながら絞り出すように言う。
「気がついたらもうここに運ばれていた…。わたし、もう、フェンシング出来ないんだって…!!」
 そして、病室に少女が慟哭する声が響いた。

 海岸ビルの診療所の待合室で医院長であるブラフマンと共に竜斗を待っていた大河と空は、廊下の向こう側から現れた小柄な姿を見て思わず身を振るわせた。
 何故ならば今まで無垢な少年だったとは思えない程の悲壮感と殺意を抱いていたからだ。
「やったのは生徒会長だった…」
 そんな竜斗の姿を見てブラフマンは独り不敵な笑みを浮かべた。
「既にアルカナの力を失った敗者を相手に能力を使ったとしても、トーナメントが失格になる事は無い…彼はそれを利用したんだろう」
「無防備な人に何でそんな事が出来るの…? そんなのって酷いよ…!」
 空の嗚咽まじりの声を聴いて、竜斗は歯を食いしばり強く拳を握りしめた。
「君が彼女達の為に君が出来る事は、彼を倒して無念を晴らす事だ。その為に力を欲するのならば私を頼るが良い」
「戦いに勝つ事が全てじゃないよ…。勝った方が正しいなんて生徒会長と何ら変わりがないじゃないか…。それじゃ、アイツの思想に負けたと同じだ…」
 竜斗は目を瞑って怒りを深く沈めると、ブラフマンの横を通り過ぎて大河と空の元に歩み寄る。
「夕鶴の所に行こう…。今現在、生徒会長にやられていないのは、大河とパートナーである夕鶴だけだ…。急いで匿えばまだ間に合うはずだ…」
「竜斗…」
 空は心配そうな顔を竜斗に向ける。
「大丈夫、絶対に大河と夕鶴は守ってみせるよ…。それが今の僕に出来る事だから…」
「アホっ!! 空が心配してるのはお前の方や!! お前がおれらの事を心配するように、おれらもお前の事を心配してるんやで!!」
「僕なら平気だよ。それより、早く行こう…。車で姫と聖蘭さんが待っているし…。
 空、宝塚さん達を頼んだよ…」
「うん、精一杯みんなを看病するよ…。竜斗も気を付けてね…」
 空は立ち去る竜斗の背中を何時までも見つめ続けた。

 聖蘭の運転する車に乗って、竜斗と姫と大河は夕鶴の家のある西宮市へと向かった。
 夕鶴の家は甲子園球場の周囲を取り囲む住宅街の中にあり、幼なじみである大河の家とも隣り合っていた。
 大河達が夕鶴を呼びに行っている間、竜斗は彼らの家の目の前にある神社の境内で独り空を仰いでいた。
 素盞嗚神社はその名の通りスサノオの尊を奉る神社なのだが、甲子園球場と隣接している為にタイガースの選手やファン、高校野球の必勝祈願をする者が多く、別名タイガース神社等と呼ばれている。
 ボール型やベース型のお守り、タイガース絵巻、野球塚と言うベース型の敷石が名物で普段は参拝客で賑わっているのだが、その時は竜斗以外の人影は無かった。
 夕時を迎えた夏の空はみるみる表情を変え、稲光を伴いながら大粒の雨が降りしきり、竜斗の頬を濡らしていた。
「たまには雨に濡れるのも良いものですわね。まるで、色々なものが洗い流されるような気がしますわ」
 竜斗は声を掛けられるまで、横に姫がいる事に気がつかなかった。
 姫は気配を断ち人の死角に入り込む事に長けているので、突然現れたとしても竜斗は驚かなくなっていた。
 姫はレースの付いた黒い傘を手にしているものの、両手を広げて全身で雨を浴びていた。
「傘…、ささないと風邪惹くよ」
「あらあら、わたくしを誰だと思っているんですの? 雨に濡れたぐらいで体調を崩すような軟弱な鍛え方はしてません事よ」
「そう言えば初めて会った時も、今日みたいな夕立ちの中だったね…。僕は寒かったけど、姫は全然平気そうにしていたもんな…。
 あれから大して経っていないはずなのに、随分と遠くに来てしまった気がするよ…」
 竜斗は目を瞑って雨が降りしきる空を仰いだ。
 姫は大人へと変わって行く少年の横顔を眺める。
「ねぇ、姫…。僕はあれから強くなる事が出来たんだろうか…」
「ええ、貴方は強くなりましたわよ。
 一日一日を、その一瞬一瞬を大切にして、その時々で自分自身が出来る事を考えながら精一杯生きる…。
 そんな、本当の力を手に入れつつありますわ」
「それなのに僕は宝塚さんに何もしてあげられなかった…。
 心が痛いんだ…。怒りで何もかも滅茶苦茶にしたくなる…。悲しみで胸が張り裂けそうになるんだ…」
「人は決して完全な存在では御座いませんから、例えどんなに努力しても出来る事には限りがありますし、例えどんなに苦しくても心を捨て去る事は出来ませんわ。
 貴方はそれを受け入れてなお、人の為に一生懸命になる事が出来るから、誰よりも傷ついてしまうんですの…」
 姫は竜斗を後ろからそっと抱き締めた。
 姫の身体は冷たい雨の中でも温かく、竜斗は優しさに包まれて行くような安堵感に抱かれた。
「でも、わたくしはそんな優しい貴方が大好きですわ…。だから、わたくしにも貴方の痛みを背負わせて下さいな…」
 姫の声はまるで泣いているかのように細く震えていた。
「そして、そう思っているのは、わたくしだけじゃ御座いませんわ。
 貴方には貴方を大切に思ってくれている人達がいるのですから、決して独りで全てを背負い込む必要はありませんことよ…。
 例え力が足りなかったとしたら、誰かと力を合わせれば良いんですの…。
 例え心が傷ついて折れそうなら、誰かと痛みを分合えば良いんですの…。
 それは人を大切にしない者には決して手に入れる事の出来ない掛け替えの無い宝物なのですから…」
「ありがとう、姫…」
 竜斗は自分の胸を抱き締める姫の手を握りしめ、子供のように声を出して泣いた。

 1999年7月25日(日)
「なんや、お前が自分から起きて来るなんて珍しいなぁ。何時もは起されへんとダメでオカンに叱られまくっとったのに。雪でも降るんとちゃうの?」
 風見鶏の館では姫の指針によって休日でも平日と同じ時間に起きて朝食を取る事になっているのだが、皆に遅れずに朝食の間へと現れた大河を見て夕鶴は思わず突っ込んだ。
 夕鶴は生徒会長に狙われる恐れがある為、昨日の夕方から風見鶏の館に匿われて寝泊まりしていた。
 この日は日曜日なので夕鶴も何時もの制服姿ではなく、身体にフィットした細身のTシャツにジーンズにサンダルと言う私服を着用している。
「うっさいわハゲっ!!」
「そう言えばここ最近だよな、ちゃんと起きるようになったのって。それまで聖蘭さんに起されるまで寝てたのに、一体全体どうしちゃったんだ?」
 竜斗は姫の助けもあり、すっかり元気を取り戻していた。
「別に今までは好きで起きれへんかったわけやない、寝ても寝ても疲れが取れへんかったから朝がキツかっただけや!!
 せやけど、最近はちゃんと疲れが取れるようになったんや!!」
「それは正しい睡眠を取れるようになったからですわ。
 始めは大変かもしれませんが、決まった時間に起きて適度に身体を動かす事で、眠りが深くなり一日のサイクルの中で気力・体力を充実させる事が出来るようになるんですの。
 また、休みの日でも目的意識を持つ事で起きやすくなりますわ」
「目的意識ってコイツにあるとは思えへんけどなぁ。なんて言ってもコイツの脳みそは野球の事にしか使えん専用設計やし!」
「専用設計脳みそって、響きが良いな…!」
 竜斗はプルプル震えて笑いを堪える。
「おれやってちゃんと他の事考えられるし、ちゃんとやる事あるんやでぇ!! ホンマのホンマのホンマやでっ!!」
「そうムキになるだけ子供っぽくてアホ丸出しやで! まぁ、今はまごうことなき子供なんやけどね!!」
「ちくしょーっ!!」
 大河は泣きながら震える。
 その時、聖蘭が朝の食事を運び終え、会釈して朝食の間を出て行った。
「ふふふ、仲がよろしいのも結構ですが、冷めないうちに朝ご飯を頂くとしましょう」
「ごちそさん!!」
「早っ!! 幾らなんでも早過ぎだろっ!! 姫の台詞から全く間隔空いて無かったぞ!!」
 せめて改行して行間を空けるか、食べる描写ぐらい挿めよなと思う竜斗であった。
「ほら、さっさと食って準備始めるで!!」
「解ったから、ちょっと待ってろって!!」
 そして、大河の後を追うように竜斗も朝食の間を出て行く。
「あらあら、お行儀が悪いですわね」
「まったくや、アイツらがうちより歳上なんて信じられへんなぁ…。それに準備ってなんの事やろ…?」
「それは食後のお楽しみですわ。わたくし達はゆっくり食事をしましょう」
「にしても、美味しいなぁ。バターロールにスクランブルエッグ、ウィンナーって朝の定番やのに全然他と違うよ。まるで、一流ホテルのモーニングみたいや!」
「ここの家の食べ物は聖蘭さんが用意しているのですが、卵は毎朝淡路島から取り寄せ、ウィンナーは神戸ポークを使った自家製、パンも自家製の焼きたてですわ。
 出来る限り新鮮な地元の食材を使っているって事もありますが、何より安心して楽しく頂けるように食べる人の顔を想像して作るのが料理の秘訣らしいですわよ」
「料理は愛情っていうもんなぁ…。でも、アイツが聖蘭さん凄いって言うのも、最近うちにも解って来たで…。ホント聖蘭さんは凄いんやなぁ…」
「我以外皆我師とは宮本武蔵の遺した言葉ですが、人はそれぞれ違う物をもって生きていて、それぞれに見習うべき所があるんだと思いますわ。
 …もちろん、他人から見れば自身の中にだって見習うべき所があるわけですし、謙虚になりすぎて己を過小評価するのは違いますが」
「ほんまかなぁ…? 竜斗センパイのヘタレなとこ、空のボケたとこ、奏真先輩の八方美人なとこは見習うべきと言えるかも知れへんけど、アイツの口先だけなとこだけは見習いたく無いわ…」
「ふふふっ、では食事も食べ終わったみたいですし、一階ホールまで彼らの様子を見に行くとしましょう」
「でも、うち一人で階段降りれへんし、身長の高い聖蘭さんか、竜斗センパイ呼んだ方が良いんやないの?」
「あら、彼らの手を煩わせる必要はありません事よ」
 そう言うと姫はいとも軽々椅子に腰掛けた夕鶴の身体を抱えてみせた。
「うわっ、うちって見かけによらず重いって言われるのに、姫ちゃんって見かけによらず力持ちなんやなぁ!!」
 夕鶴は大抵の事は自分一人で出来るように訓練をしているが、バリアフリーが整えられていない場所等ではどうしても介護の手を必要とする事があり、その時は父親や大河や奏真のような体格に優れた男性でも大変そうであった。
 それなのに姫はどっしりとした力強さで階段を下がって行く。
「あらあら、女性に対して重いなんて失礼な物言いですわね」
「まったくや!!」
「貴女は見た通り華奢で軽いですし、わたくしも見た目通り可憐で非力ですわよ。
 人の身体は重心が安定しない為に体重よりも重く感じてしまうのですが、コツを知っていると非力でもなんて事は無いんですの」
「そのコツってどんなもんや?」
「相手と自分の腰を密着させる事で、互いの重心を一つにするんですの。隙間があると重心が安定しないので、腰や筋肉に負担をかけてしまいますわ」
「勉強になるわぁ、姫ちゃんって色んな事知っているんやな」
「わたくしの知識・技術・思想の多くは日本古来から伝わる多岐に渡る古武術から抜粋して現代風に応用したものなんですの。
 それが、伝統から今を生きる術を学ぶ新武芸…、わたくしが彼らに教えているものですわ」
 姫に抱きかかえられて一階ホールの椅子に座った夕鶴が見たものは、竜斗と大河がゴム製の武器を使って模擬戦形式の修行を行っている所だった。
「休みの日の朝は自分達でメニューを考えて自主的に練習して頂くようにしてますの。
 例えば呼吸法や型のおさらいをしたり、得意なものを伸ばしたり、不得意なものを克服したり。
 当たり前な練習メニューかもしれませんが、誰かに言われるがまま動くのではなく、その時々で何が必要かを自分の頭で考える事が重要なんですわ」
 竜斗はゴム製の胡蝶刀を使って大河の死角に回り込む攻撃を、大河はゴム製のバットを使って竜斗の攻撃を受け流す防御を、それぞれ重点的に練習しているようだった。
「竜斗センパイは後手に回り過ぎてチャンスを逃したり、あのアホは先走り過ぎて相手にチャンスを与えたりしてたけど、自分らでそれ解ってたんやな…」
 夕鶴は俯いて苦笑しながら言う。
「なんやアイツら!? ガキっぽさは相変わらずやけど、うちが思っていたよりも全然大人やないか…!! がんばってるんやないか…!!
 それが解らへんって、うちのほうがよっぽどガキやないか…!! ああ、恥ずかしいわぁ、ホンマに…!!」
「ふふふっ、あなたは素晴らしい観察眼をお持ちですが、偏見を改める事が出来れば、もっとその才能は伸びますわよ」
「そやね、ありがとな姫ちゃん…!
 いや、お世話になったんはうちだけやない。
 きっと、甘ったれで嫉妬心の強いアイツが負けた後も腐らずにいられたんは、姫ちゃんが尻を叩いてくれたからや。
 一緒に歩いてくれる竜斗センパイと、甘やかしてくれる聖蘭さんが居てくれたからや。
 うち、みんなにお礼したいっ!!」

「な、なんだこれ…!?」
 竜斗がそう言うのも当たり前だった。
 朝の練習を終えて昼時に食卓についた竜斗達を待構えていたのは、今まで見た事が無いような珍妙な料理だった。
 大阪名物と言えばたこ焼き、明石名物と言えば卵焼き(通称明石焼き)が有名であるが、目の前に出されたそれはそのどちらとも違った。
 ソースと青のりがかけられた見紛いようが無いたこ焼きが、茶碗の中で出汁に浸けられているのだ。
「神戸たこ焼きや! たこ焼きを出汁の中で少しずつ崩して食べるんや。それで、最後にソースと混ざり合った出汁を飲むんよ!!
 うち、みんなの為の作ったんやで、美味しいから食べたってや!!」
「・・・う、うむ」
 折角、夕鶴作ってくれたのは嬉しいが、見た目のインパクトが抜群で中々口に運ぶ事が出来ない。
「な、南無三っ!!」
「ってか、何で飯物食うのに気合い入れとんやっ!!」
 と竜斗の隣に居る大河が突っ込んだ。
「う、うまいっ!! 明石焼よりも生地が厚手で出汁が染み込んでも食べ応えがあるし、濃厚なソースとあっさりとした出汁が混ざり込んで味に深みがあるっ!」
「そやろ、そやろ!!」
「…んで、こっちは!?」
 竜斗の視線の先には細かく刻んだ焼きそばと、ご飯が混ぜられたものであった。
「それも神戸名物でそばめしって言うんやで! 食べてや!!」
「これも美味いな!! 焼きそばの塩っぱさと油っぽさがご飯で中和されているし、甘辛い牛すじの煮込みがアクセントになってガンガン箸が進むよ!!」
「そばめしは好みに応じて野菜や魚介類とか色々入れるんやけど、今回うちが使った牛すじ肉とこんにゃくの醤油煮込みも、ぼっかけって言う神戸名物なんやで」
「文句無しに美味いんだけど、これって本当に神戸名物なの? 夕鶴が考えたんじゃなくて!?」
「いやん、竜斗センパイったらそんなに褒めんといて!! いくらうちでも、こんな美味しいもの考えられるほど天才やないで!!」
「いや、それ全然褒めてへんから!!」
 大河が夕鶴に突っ込んだ。
「ええ、夕鶴さんのお作りになった料理は正真正銘神戸の名物です。
 古くから港街として栄えて来た神戸の人は、様々なものを折衷する事で新しいものを作り出す文化を持っています」
 聖蘭が答えた。
 普段ならば使用人として徹底し、決して主達と食事を共にする事は無い聖蘭であったが、この時は皆にごちそうを振る舞いたいと言う夕鶴の意向に従っていた。
「さすが聖蘭さん、神戸人の特性を的確に捉えているで!!」
「ほんまやね!!」
 大河の何時もの聖蘭リスペクトに間の手を入れる夕鶴。
「…おふっ? 何か変やな」
「ふふふっ、更に言うとこれらの名物料理は元々下町である長田区の飲み屋さんや一般のお宅で食されていたものですが、最近になって神戸全域で知られるようになったんですわ。
 このまま行くと、10年後には日本全国でブームになったりするかも知れませんわよ」
「そりゃ、地元としてそうなって欲しいのは山々やけど、幾らなんでも言い過ぎやないか!?」
「あら、世の中はどうなるか解りませんわ、何だったら賭けをしてもよろしくてよ」
「幾らでもええで、負ける気せーへんから!!」
「だったら、1億3千万でどうですの?」
「宝くじかっ!! 幾らでも良いって言ったけど、幾らなんでも高過ぎるやろっ!!」
「あら、わたくしの仕事を手伝って頂ければすぐに返済できますわよ」
「どんな仕事やねん!!」
「ってか、姫って仕事してたんだ!?」
「当たり前ですわよ、働かざる者食うべからずですわ。
 なんだったら竜斗さんも、今までの寝食とわたくしの唇と心を奪った分を、働いて返して頂いてもよろしくてよ。
 ただ、一回仕事を手伝っただけで返せる金額じゃ御座いませんけど」
「どんだけだよっ!? ハメにも程があるよ!!」
「ふふふっ、妥当な金額ですわよ、何だったら具体的な内容をお教えしましょうか?」
「聴きたく無い、聴きたく無い、恐過ぎるっ…!」
 そして、楽しい昼食の時間はあっという間に過ぎて行った。

 竜斗と大河と夕鶴は食卓を囲いパンパンに張ったお腹を落ち着かせていた。
「楽しかったなぁ、こうしてみんなでご飯食べるのも良いもんやなぁ」
「そうだね、なかなかこういう機会って無いもんね」
「どうせやったら、空と奏真先輩と安室さんがいればもっと楽しかったんやけどなぁ…」
「奏真と安室は要らへんやろ!! あんなん、カッコいいだけで別に居ても面白くもなんともないわ!!」
「なんやとぉ!? お前二人に嫉妬してるんとちゃう!?
 少し見直したと思ったら、相変わらずケツの穴の小ちゃい男やなぁ!! そんなんだから、元の姿に戻れへんのやろ!!」
「うっさいわハゲっ!!」
 夕鶴の言葉が図星であると竜斗には痛い程解った。
 少し前まで竜斗も大河と同じように人と自分を比べて嫉妬ばかりしていたから。
「…そう言えば、なんで夕鶴って空や奏真先輩、それに執事の安室さんと前から知り合いなの? 空と奏真先輩とは学年も学区も違うわけだし」
 竜斗はあえて二人の話の間に入って割る事にした。
「…」
 夕鶴は押し黙ってしまった。
「…ごめん、聴いちゃいけない事だったのか」
「いや、竜斗センパイには何時か話さへんといかんと思っていた事や…。ちょっと、湿っぽい話になるんやけど聴いてくれへん?」
「もちろん…!」
「全ての始まりは小五の冬ん時やった。
 何時ものように朝寝てたら突然大きな揺れと共にタンスが襲いかかって来たんや。
 そう、阪神淡路大震災や。
 それで医者に運ばれて手術を受けたんやけど、脊髄が損傷しているから自分の足で歩く事はおろか、うんちやおしっこすら満足にする事も出来ないって言われた。
 そんな身体と一生付き合って行く事になるから、とにかく受け入れて慣れるしかないんやって」
「そうだったのか…」
 竜斗は以前、大河から夕鶴の症状について聴かされた事があったが、その時は怪我は完治しててるって言っていただけに、重い現実にショックを隠せなかった。
 まるで、ガンガン脳みそと胃が揺さぶられるようで気持ち悪かった。
 そして、大河は表情を変えずに黙って俯いている。
「それからはリハビリの日々や。
 動けない事による床ずれや、排泄障害による膀胱炎、腸内感染で入退院も繰り返しとったな。
 まわりに言われるまま、がんばれば、がんばるほど、もう二度と元のようには生きられないって現実が突き付けられるだけで辛いだけやった。
 うちの気も知らんで無責任に前向きな事を言う奴らが、腹立たしくて、腹立たしくて仕方なかった。
 何でそうまでして生きてなきゃアカンのやって、誰ふりかまわずあたり散らし、殺してくれって叫びまくってたよ」
 竜斗は唇を噛み締めても、溢れる涙を堪える事が出来なかった。
 夕鶴の気持ちを完全に理解する事は出来ないものの、辛い思い出から立ち直れていない気持ちが痛い程伝わって来たからだ。
「ごめんなぁ、この話をすれば純粋な竜斗センパイは傷つくって解ってたけど、どうしても聴いてもらいたかったんや…」
「僕の方こそ今まで夕鶴の気持ちに気付く事が出来なくてゴメンね。…でも、辛い事を思い出したく無いだろうに、それを僕に話してくれるのは凄く嬉しいよ」
「ありがとな、センパイ…!」
 夕鶴は鼻声で言うと瞳に浮かんだ涙をハンカチで拭う。
「それで、地震から丁度一年が経った小学校の終わり頃、入院していたうちの病室にオールバックでサングラスをかけたスーツ姿の長身の男が現れたんや。
 …そう、ブラフマンや。
 ブラフマンはある研究の過程で産み出された再生能力を試してみたいから、うちにその実験台にならないかって誘って来たんや。
 滅茶苦茶怪しいって思ったけど、もうどうにでもなれって状態やったから、ヤケクソで引き受ける事にしたんや」
「まさか、そこでブラフマンが出て来るとは…」
「これは、あとで知った事やけど、旭陽家は代々続く有数な資産家であり、国に資金提供してるから色んな所にパイプを持っているんやって。
 それで、病院や学校、公共施設を使った実験が出来るんやろうね。
 執事の安室さんが病室に沢山のカメラが設置して、大勢の学者が見守る中でうちはブラフマンに暗示を受けたんや。
 お経のように低く唸るような声やったけど、信じる事で特別な力を受け入れる事が出来るよって、みんな普段特別授業で聴いているのと同じような内容やったよ。
 それから、場所を手術室に移してうつ伏せになった上で、体中を固定されて滅菌布を被せられ、部分麻酔で背中を切り開かれて脊髄を露出させられたんや。
 その状態をうちはモニターで見させられて。
 能力ってのは催眠術の延長線上にあるらしいので、視覚で力の存在を確認しないと効果が出にくいんやって。
 そんで、とうとう能力を発揮するって言う人達が病室に入って来た。
 たいそうな手術着を着こんでいるものの、体型から中学生ぐらいのひょろっとした男の子と、チビっこい女の子やってすぐ解ったよ」
「その二人って、まさか…?」
「そう、中学生の頃の空と奏真先輩や。
 二人は当時から仲が良いのはすぐに解ったよ。
 なんせ、アジの開きにされたうちを見て小さく悲鳴をあげた空を、奏真先輩が諭すように優しく抱き締めていたんやから。
 身体動くんやったら、その場でぶっ飛ばしたいって思ったわ」
「ははは…、それは微妙に解る気がするよ」
 大河も俯いたまま、うんうんと頷く。
「んで、ブラフマンがこの子を救う為に頑張ってくれるか、みたいな事を言って二人は覚悟を決めたようや。
 そして、事もあろうか、うちの目の前でアイツらキスしやがったんや!
 もう、我慢ならん!! …そう思った時、奏真先輩の身体の周りに光を放つ空間が広がってタロットカードが出現し、それを掴み取ると円盤状の武器に変化した。
 実は超常現象なんてあり得へんと思ってただけに、度肝を抜かれて放心状態になってもうたよ」
「まさか、そんな前から奏真先輩がアルカナの力を使えたなんて…」
「後で聴く所によると、太陽の暗示を持つ奏真先輩は、愚者であるブラフマン、うちの知らない教皇と女教皇に続く史上四人目のアルカナなんやって。
 それで、意を決した奏真先輩はうちの背中に手をかざしたんや。
 その瞬間、うちは奏真先輩の作り出す世界観のようなものに囲まれて、怪我をした時に埋め込まれた背骨を固定するボルトが体外へと弾き飛ばされ、様子を見る為に切開された部分がみるみる塞がって行ったんや。
 周囲から歓声が上がった。
 うちも実験が成功したって思った。
 でも、それは大きな間違いやったんや。
 麻酔がかけられているのに、死んだ方がましだって言う程の痛みに襲われて、うちは全身を固定するバンドを引きちぎり、苦しみもだえる中で意識を失った。
 そして、次に目が覚めた時、うちは自分の足に感覚が戻っている事に気がついた。
 うんちもおしっこも自分の意思で出来るようになっとった。
 でも、自分の意思で足を動かそうとすると、気が狂いそうになる程の激痛が走るんで結局歩く事は出来ないままやった。
 ブラフマンの話やと不完全なアルカナの力では因果応報を覆す事は出来ず、それが痛みとして現れているんだろうって。
 そりゃそうや、一生もんの怪我が超能力で治るなんて、そんな都合の良すぎる話はあるわけ無いんやから。
 でも、怪我は完治しているので希望はあるだろうって、ブラフマンの診療所で経過を看て行く事になったんや。
 正直、希望も何もあらへんって思っとったけど、そこで奏真先輩と空に出会ってアイツらの事情と実験の目的を知らされて、辛いのはうちだけや無いって知って一緒に頑張って行こう思ったんや。
 アイツらとはそっからの付き合いやね」
「ひょっとして、今行われている特別授業の真の目的も同じ理由なのか…?」
「そうや…。でも、うちの口からはそれ以上は言えへん…」
「…」
 竜斗は以前にも同じような事を夕鶴から言われた事がある気がして、ひょっとしたら何か繋がりがあるんじゃないかと思った。
 それが何時何処で言った事か思い出す事は出来なかったが、代わりに思い出した事があった。
 それは太陽のように竜斗の心の中で光を放ち、胸を大きく高鳴らせる。
「そう言えば、前に奏真先輩の戦いを観戦している時に、夕鶴は能力を良く知っているって言ってたな…!」
「うん、うちは自分で能力を体感したって意味や」
「って事はあの戦いで全身を再生して、今も動きまくっている奏真先輩は、その痛みに絶えまなく耐え切っているって事か…?」
「あの痛みに耐えるって、はっきり言って人間業じゃないわ…」
 竜斗は夕鶴の体験談から奏真の抱える痛みを想像して戦慄する。
 一体、何がそこまで彼を支え、戦いへと駆り立てていると言うのだろうか、竜斗は想像しても解らなかった。
 ただ、そんな人間離れした相手と戦うだけの強い信念を自分が持ち合わせていない事だけは明らかだった。
 でも、問題はそんな事じゃない。
「奏真先輩が痛みを克服しているって事は、他の人だって可能性があり得るって事だよね!?」
「うちには無理やったけど、そう言う事になるんやろうね…」
「だったら、奏真先輩に頼んで、生徒会長にやられた宝塚さん達を治せないかな…!?」
「それは良い考えやと思うで!!
 怪我の程度と痛みは比例すると思うし、うちや奏真先輩ぐらいの怪我やったら痛みも酷いけど、骨折や筋の断絶ぐらいやったら耐えられん事も無いかも!!」
「…おれは反対やな」
 今まで黙って聴いていた大河は独り反対意見を述べた。
「えっ、何でだよ!?」
「確かに可能性はあると思うで。
 でも、お前は自分で宝塚達の為に何かしたいって決めたんやろ、それなのにアイツの力を借りるなんて悔しくあらへんのか?!
 自分が何も出来へんって、負けを認めたって事にならへんか!?」
「大河…」
 大河はきっと夕鶴の力になれない自分に悔しい思いをして来たんだろうと竜斗は思った。
 それで力になる事が出来る奏真に対して嫉妬して来たんだ。
「僕一人の力じゃ宝塚さん達の為にしてあげられる事はたかが知れている…。
 でも、自分の力が足りないって事を受け入れて、他の人の力を借りればもっと大きな力になる事も出来るかもしれない…!
 それが今の僕に出来る事だから、どんなに悔しくても突き進むだけだよ…!!」
「そうか、それがお前の答えなんか…。
 お前はどんなに強い奴にも絶対に負けず、何処までも自分の意思を貫いてくれるって思ってた…。
 そやのに、結局は奏真の奴に媚びへつらうしか無いなんて、おれと同じ負け犬やないかっ…!
 おまえに期待していたおれがアホやったで…!!」
「アホはお前やっ!!!」
 夕鶴は手にしたコーヒーカップをテーブルの反対側に座る大河に投げつけた。
「うち、お前の事見直していたんやでっ!!
 負けた事を乗り越えて精一杯頑張ってるって思ったんやけど、何も変わってへんやないかっ!!!」
 夕鶴は椅子から転がり落ちて泣き崩れた。
「夕鶴…!!」
 竜斗は夕鶴の肩を抱く。
「出て行けっ! 出て行ってくれっ!! もう二度とうちらの前に顔見せんなっ!!!」
「言われなくてもそうするで…! おれかて奏真の奴に群がるお前らを見てられへんからな…!!」
 大河は頭から血を流しつつ食堂から立ち去ろうとする。
「竜斗、どんな情けないお前でも良いから、夕鶴の事だけは絶対に守ってやってくれや…」
 そして、捨て台詞を吐いて姿を消した。
「自分勝手な事言うなよ、馬鹿野郎がっ!! 自分で守れよなっ!!!」
 竜斗は夕鶴を抱きつつ、床に拳を突き立てた。
「姫っ!! どうせ、そこに居るんだろっ!?」
「ええ、始めから隣で見てましたわ」
 竜斗のすぐ横に姫の姿が現れる。
 姫の姿を見た竜斗は何故かホッとした気分になる。
「大河を頼むよ…。僕は聖蘭さんに送って貰って奏真先輩の所に行って来るから…」
「…うちも連れてってや。少しでも気を晴らしたいんや」
「それは構いませんが途中で襲撃される可能性も高いと思いますわ。
 聖蘭さんはボディーガードとして優秀ですが、手段を選ばないアルカナの前では無力に等しいと言えます。
 十分気を付けて下さいな」

 聖蘭の運転する車に乗せられてやって来た先は、神戸市長田区だった。
 先ほど姫の話でも取り上げられていたが、神戸の下町と言われる情緒ある地域である。
 だが、竜斗達がやって来た新湊川の堤防沿のとある路地は、形容しがたい異様な雰囲気が漂っていた。
 まるで阪神淡路大震災から時が止まっているかのように、路地に沿って倒壊して荒れ果てた住居が何処までも連なっているのだ。
 火災で焼け崩れた住宅、壁が無くなり中身が見えている住宅、戦後を思わせるバラック住宅などから、風が吹く度にカラカラと言う音が聞こえて来る。
 ゴミと雑草に塗れた通りは廃墟としか言いようがない様を晒しているのに、すぐ近くには人の暮らす通りが存在するのがあまりにも異様であった。
 夕鶴は辛い記憶を思い起こされるのか身体を震わせていた。
「なんやここ…! こんな所があるなんてうち知らへんかったよ…!!」
「真相は確かではありませんが、元々は市有地に不法占拠によって家が建てられた地域であり、震災後に所有権の問題から再建される事なく住民が転居し、以来放置されていると言う説があります」
 夕鶴の車椅子を押す聖蘭が説明する。
 明らか様に廃墟となっている通りを抜けて、人々が生活する通りに出ても荒れ果てた廃屋は多く、震災後の復興が進まずにそのまま放置されているのが見て取れる。
「まるで、ゴーストタウンだな…」
「元々住んでいた若い世代の方々は他の地域へと転居し、残された高齢者は世間から忘れ去られて孤立し、そのまま孤独死を迎える事も多いと聴きます」
 竜斗達は神戸の知られざる姿を垣間見ながら歩みを進める。
「奏真さんの住居はここになっています」
 地下鉄が走る大通りを跨いだ向かい側は、新しく綺麗な市営団地が立ち並ぶ地域となっていた。
「見た目は新しいけど、空き室ばっかみたいや…」
 確かにこれほど良い陽気なのにベランダに洗濯物を干している箇所は少なく、人が生活している気配は感じられなかった。
「ええ、復興案として次々に新しい団地が建造されましたが、全くと言って良い程に入居が進んでいないようです」
「まさか、建物だけを作ってそれで復興したって言っているのか?」
「はい、この後は復興対策が打ち切られる方向となっていますし、今後は世間からも忘れ去られて支援金が送られる事も無いでしょう」
「あれから何年も経っているけど、今も夕鶴は歩く事が出来ていないし、宝塚さんや他のみんなだって心の傷を背負っている…。
 こうして、復興が進まずに忘れ去られている地域が存在する…。
 僕は神戸の華やかな所だけを見て、震災を乗り越えたと思っていた。
 だけど、それは都合の良い所だけを見て、都合の悪い所を見ないようにしていただけなのかも知れない。
 本当は今も震災は続いている、そして今後も続いて行く、それが神戸の現実なのか…」 
 エレベーターから降りると、解放廊下に何処までも同じような玄関が続いている。
「この部屋ですね」
 奏真が住んでいると言う部屋には表札も無ければ生活を感じさせる物も無く、磨りガラスになった窓も閉め切られている為に他の空き室と全く区別がつかなかった。
「本当にここなのかな?」
「間違い有りません」
「とりあえず、ピンポン押してみるか…、って鳴らないし」
 竜斗が扉を叩くが反応が無い。
「うち、夕鶴やけど、奏真先輩おらへんか?!」
 夕鶴が声を出すが返事が無い。
「居ないのかな…?」
 と竜斗が駄目で元々でドアノブを引っぱりながら回すと扉が開いてしまった。
「あら、開いちゃった…。どうする?」
「もちろん、お邪魔するに決まっているやろ! ほら、ぼーっとしとらんで、うちを背負わへんか!!」
「マジかよ…」
 竜斗は車椅子から夕鶴を引っぱり起こして背負ったが、竜斗の背中と夕鶴のお腹の間には隙間があり、歩こうとすると重みを感じてずり落ちて来る。
「ほら、しっかりくっ付いて重心を一つにしないと、身体が安定せーへんよ!」
「ちぇ、解ったよ…!」
 全く持って気が進まなかったが、仕方無く夕鶴のお尻を掴んで自分の背中に引き寄せる。
 すると今までの重さが嘘のように軽く感じた。
 しかし、夕鶴は胸もお尻もふくらみが殆ど無いマッチ棒のような体型なので、女の子を背負っていると言う感覚では無かったのは幸いであった。
「どや、うちと密着出来て嬉しいやろ?」
「な、なんだってぇ…?!」
「アホっ!! 台詞の使いどころ間違えているやろ!!」
 竜斗は夕鶴に後ろから頭を叩かれた。
「あだっ!! なんか最近、センパイ扱いされて無い気がするんだよなぁ…!!」
「自業自得や!!」
 そして、聖蘭を一人残して夕鶴を背負った竜斗は、玄関に靴を脱ぎ捨てて廊下へと上がる。
「うへっ、埃だらけだよ…!!」
 一切の物が置かれていない廊下は埃が堆積していて歩く度にベタくので、極力踏む面積を少なくしようと爪先で歩こうとするが、夕鶴を背負っている為にフラついてしまう。
「ほら、まっすぐ歩けや!!」
 廊下を抜けた所はリビングとなっていた。
 廊下にバス・トイレの扉が並んで、リビングとキッチンが一体となっているワンルームの間取だ。
 リビングはパイプベッドと、ベッドサイドテーブル、それから独身向けの小型冷蔵庫があるだけだった。
「部屋ってその人の世界観ってものが凄く出ると思うんだけど、奏真先輩のイメージと全然違う…」
「ほんまやね、何か無機質な感じや…」
「あれは…?」
 竜斗はベッドサイドテーブルの上を見る。
「空のリボンのようやね…」
「ただ、大分古いみたいだし、黒い染みが出来ている…。まさか、血じゃないよな…?」
 その時、廊下にある扉が開いて、全身から湯気を立ち上らせた古代ローマの彫像を思わせる男性の裸体が現れた。
「お、誰かと思ったら君達か」
 他でも無い奏真だった。
「きゃー!! なんやこのサービスシーンは!? 美味しい!! 美味し過ぎるでっ!!」
 竜斗の背中で奏真の裸体を見た夕鶴が手をバタバタと動かして、甲高い悲鳴をあげて狂喜乱舞する。
「五月蝿いから、耳元で叫ぶなよな!!」
「そんな事言うたって仕方ないやろっ!!」
「ふっ、華やかな客人が来てくれると男の一人暮らしも色付くものだな。しかし、今日は大河は一緒じゃないのかい?」
 奏真はジーパンを履きながら言う。
 その名を聴いた竜斗と夕鶴はズーンと沈んだ顔になる。
「うちらの前でその名を口にせんといてや…」
「…そんな事より、今日は奏真先輩にお願いがあって来たんだ!!」

 竜斗と夕鶴は奏真を連れて聖蘭の運転する車で海岸ビル内のブラフマンの診療所へとやって来た。
 診療所では主であるブラフマン、娘の空、執事の安室が迎え入れてくれた。
「良く来てくれた。準備は既に整っている」
「あ、ありがとうございます。随分と手際が良いんですね」
「そこに居る聖蘭君から予め連絡を受けていたと言う事もある。
 だが、奏真君の能力を使用して生徒達の治療をする事は、君の立案の前に計画していた事であったのだ。
 奏真君のアルカナは未だ完成されていない為に真の意味で病状を回復させられないが、それでも生徒達に可能性を啓示する事が出来る。
 また、被験した生徒達の中に痛みを乗り越え因果を完全に覆す事が出来る者が現れれば、臨床実験として意義のあるものとなり、今後多くの人を救う事にも繋がるからな。
 しかし、想定外の事態によって私の計画は頓挫する事となったのだ」
「どうしてですか…?」
「昨日の段階で多くの生徒の同意を得る事が出来なかったのだ。
 恐らく私の規格外である一部の戦闘の観戦を積み重ねる事により、生徒達の中に能力に対する恐怖や不信感が植え付けられた事が要因であると考えられる」
「そんな…」
 竜斗は自分以外の戦闘を幾つか観戦したが、他の観客は生徒達が能力を使って戦い合う、幻想的な光景に熱狂して現実感を失っていた印象であった。
 確かにあのような戦いを見続ければ、どのような事態になったとしても、能力に対して疑問を抱く事は無かっただろう。
 だが、そのブラフマンの計画を狂わせたのは、他ならぬ竜斗と姫の活躍だろう。
 姫の指導によって竜斗が能力を使わずに戦い抜く事で、ブラフマンの想定した以外の感想を生徒達に植え付けたに違い無い。
 水面下で続いていた姫とブラフマンの戦いが、今となって表面化しつつあるのだ。
 自らの努力が報わる事は嬉しくはあるが、その結果生徒達が治療を拒む原因に繋がったと言う事は心苦しくあった。
「だが、案ずる事は無い。
 先ほど君から同様の提案を受けた事を話した事で、ようやく生徒達の同意を得る事が出来たのだ。
 君には私の理解を超え、皆の心を惹き付ける力があるのだろう。
 君のおかげで皆を治療する事が出来ると言う事だけは確かだ、心から礼を言わせてもらおう」
「いや、僕はただ自分がそうしたいと思っただけですよ」
 竜斗はほっと胸をなで下ろす。
「ふっ、謙遜する必要は無い。君は君が思っている以上に素晴らしい少年だ。君を前にすると私も考えを改めざるを得ない事を実感させられるな」
 ブラフマンは近くにいる聖蘭に何やら目配らせしていた。
 そして、聖蘭は意を決したように深く頷く。
「だが、いまだ一組だけ同意を得る事が出来ていない二人の生徒がいるのだ。君も知っているだろう、工藤拓也君と木村静香君の二人だ」
「工藤と木村…?」
 竜斗は思い出そうとしたが、その名前に該当する人物を思い出す事が出来ない。
「君は誰だか解っていないようだが、顔を見れば思い出すと思う。
 彼らは私が何を言っても頑に話を聴こうとしないのだが、君の話ならば聴いてくれるかもしれないので、ここは一つ頼んでも良いだろうか?」
「…もちろん良いですよ! みんなの為に僕に出来る事だったら何でもしますから!!」

「あ? 何だテメェら!? 勝手に入って来るんじゃねぇよ!?」
「アタイラの前から消えなっ!!」
 竜斗と夕鶴が入室した病室にいたのは身体中を包帯やギブスでグルグル巻きにされた、リーゼント頭の男子生徒と、パーマ頭の女子生徒だった。
 かつて、竜斗と戦って破れたNo.15のアルカナであった生徒会書記と、そのパートナーである生徒会会計の二人だ。
「あれ、病室を間違ったかな? ゴメン、出て行くよ…」
 と竜斗は表に出て表札を確認すると、間違い無く工藤拓也と木村静香と書いてある。
「おかしいな、ここで間違い無いはずなんだけど…。まさか、あの人達がそうなんじゃないかな…?」
「まさか、それは無いやろ! だって、アイツら工藤拓也とか木村静香って顔やあらへんし!!」
「僕もそう思うんだよな、どう見ても名前と顔があってないし…。頼まれてしまった以上、ダメ元でもう一度確認してみるか…」
 ガラガラガラ。
「君たち工藤君って人と、木村さんって人知らないかい?」
「てめぇら、病室の前で好き勝手言いやがって!! そんなに俺達が工藤と木村じゃ悪いのかよっ!? あっ!?」
「アタイらを舐めんじゃないよっ!!」
「出来ればそうであって欲しくなかったのは事実だが…」
「そや!! お前らドブ朗、ブス子って改名した方がええで!! うち、改名手続き手伝ってやるで!!」
「ぷっ…、それ似合い過ぎだろ!!」
「ザケンじゃないよっ!!」
「ぶっ殺す!!」
「出来もしない事、言うもんやないで!!」
「…夕鶴、お前なかなか強気だなっ!」
「くっ、テメェら一体何の用だよ!? 用が無いなら早く消えろっ!!」
「帰りたいのは山々だけど、生憎ながら話があって来たんだ」
「あ!? あのスカした野郎の能力で怪我を治せって話はお呼びじゃねぇんだよ!!」
「なんで、そんなにも嫌がるんだよ?」
「決まってんだろ!? それが俺達のケジメだからだ!!
 この世は弱肉強食だ!! 弱い奴は生きている価値は無ねーんだよ!! 無様な負けを晒しても、のうのうと生き続けるなんて俺達のプライドが緩さねぇ!!
 だから、この粛清は当然の結果に決まってんだろ!!」
「ふっ…」
「あ!? 何笑ってやがんだよ!!」
「いや、君たちがあまりにも小さ過ぎると思って…」
「な、なんだと!?」
「だって、この学校って狭い世界でも僕より凄い人はいるし、もっと広い世界に出たらそれこそ凄い人だらけなんだよ。
 そう、この学校で起きる事が世界の全てじゃないんだ。
 何時か卒業して就職して、其々の道を歩み続ければ何時かは思い知らされるはずだよ、自分に感じている万能感なんか幻想に過ぎないって事をさ。
 君たちは自分自身が弱いって現実を受け入れたくないから、ただをこねてるだけにしか思えないよ」
「はっ!! それの何が悪いんだってんだ!! 負けた事が無いお前に俺らの何が解るんだよ!?」
「舐めた事ばっか言うとしばくよ、コラ!?」
「気持ちならば解るよ、僕は何時も負け続けているからさ…」
 竜斗は天井を仰ぎながら言う。
 竜斗のその言葉の重さに工藤と木村も押し黙ってしまう。
「僕はこの学校に来る前、本当の自分を持っていないような、空っぽな生き方をしていたんだ。
 そんな自分を変えたくてこの学校にやって来たけども、そこで待っていたのは僕なんかよりよっぽど凄いって見ただけでも解る人達だった。
 それでも、彼らに負けないぐらい本気で生きよう、そう思った矢先に待っていたのは絶対的な敗北だ。
 生徒会長は僕が本来の持ち主を倒して月のアルカナを奪い取ったと言ったが本当は違うんだ、僕は彼に完膚無きままに叩きのめされたんだ。
 彼を倒したのは香夜姫…そう、僕のパートナーさ。
 彼女は破壊的なアルカナの力を前にして何ら特殊な力を使わないで圧勝し、奪い取った月のアルカナを僕にくれたんだ」
「けっ、テメェは最低の卑怯者で負け犬だな!! テメェみたいな奴は許さねぇ、生きているが価値ねぇ!! 俺の身体が動くならブチ殺してやるっ!!!」
「そんときはアタイも協力するよっ!!」
「こりゃアカン!!」
 殺気立つ工藤と木村を前に夕鶴は狼狽する。
 だが、竜斗は涼しい顔だった。
「残念だけどそれは無理だと思うよ」
「生意気言うんじゃないよっ!!」
「何故ならば僕は今、パートナーである姫から戦う術を、生きる術を教わっているんだ。
 君たちに勝っただけではなく、次には宝塚さんに勝ち、今は生徒会長とも戦おうとしている。
 そして、トーナメントの決勝で奏真先輩を倒す事が目標なのさ。
 かつての僕からは信じられないぐらい強くなっているし、アルカナを失った君たちじゃ勝てないと思うよ」
「なんだとぉ!?」
「はんっ、アンタ、言うじゃないのさ!! ゾクゾクするねぇ!!」
 木村は何故か恍惚とした表情を浮かべた。
「でも、姫はそんな僕の遥か先の世界で生きている。
 僕が努力した何百倍もの時間を彼女は積み重ねている、僕が強くなればなる程彼女の強さが痛い程解るんだ。
 そう、僕は今も毎日負けて、悔しい思いをし続けているのさ。
 でも、それで良いんだ、悔しいのは自分が本気で生きている事の証だから。
 本気を出さなければ負けたとしても言い訳できるし、永遠に負けを感じる事は無いかもしれないけど、そんなのカッコ悪すぎるだろ。
 そして、何時かは姫と肩を並べて戦う事の出来る、彼女に見合う男になりたいと思っている…それが僕の夢なんだ…!」
「あ、結局テメェは何が言いたいんだよ!?」
「人間は負けを受け入れて、そこから先どうするかが大切ってことだよ。
 そこで、諦めてしまったら空っぽな人生を送るだけ…、それこそ君たちの言う通り死んだ方がましさ。
 君たちがそこまでの人間だって言うんだったら僕はそれで良いよ。
 だけど、僕は何時までも先に進み続けるつもりだよ、夢に向かって…!
 こんな所じゃ止まらないよ、行こう夕鶴…」
 竜斗は夕鶴の車椅子を押して病室を出ようとする。
「待て!! 待ちやがれ!! 治療を受けてやるっ!! そして、いつかテメェをぶっ飛ばしてやるっ!! もちろん、特殊能力無しのステゴロのタイマンでな!!」
 竜斗は工藤と木村に背を向けてニヤリと笑った。

 そして、いよいよ生徒会長の粛清を受けた生徒達の治療が、其々の収容された病室で開始されてる事となった。
 まずは宝塚からである。
「この鎖で宝塚さんを縛り付けるなんて…」
 準備を手伝う竜斗が躊躇うのは無理も無い。
 なにせ、精神病棟や刑務所で使用される拘束衣の上から、更に太い鎖で身体を縛り付けようとしているのだから。
「これは、一種の催眠によって人間に眠る未知の力を発揮させ、損傷した部位を再生させると言う行為だ。
 それに伴う激しい痛みによって理性を無くした場合、被験者が持てる限界を越えた力で暴走するケースが過去の検証で確認されている」
 ブラフマンの説明に竜斗は夕鶴から聴いた話を思いだす。
「いいのよ、これは私自身が望んだ事だから。
 どれだけ苦しんだとしても、またフェンシングが出来るようになるかも知れない…、少しでも可能性があったら私はそれに賭けたいんだ。
 その可能性を示してくれた竜斗くんには感謝しているの、だから、心を痛める必要は全く無いよ」
「宝塚さん…」
「でも、出来れば竜斗くんには治療中病室にいて欲しく無い…。私のみっとも無い姿…見られたくないから」
 そして、ブラフマンが宝塚の口に舌を噛む事を防ぐ為のマウスピースをはめ込む。
「がんばってね…!」
「うちも応援しとるで…!」
 それを横目で眺めつつ、竜斗は夕鶴の車椅子を押しながら病室を出る。
 そして、入れ替わりに奏真と空が入室して来た。
「ふたりとも、宝塚さんをよろしく頼むね…」
「うんっ、任せといて!!」
「ああ、俺の名に賭けて全力を尽くす!!」

 そして、竜斗と夕鶴の待つ待合室では、治療を受ける生徒達の耳をつんざくような苦悶の声が響いていた。
 夕鶴は脳裏に浮かぶ暗い過去を振り払うように頭を抱え込み、竜斗は両手を強く握りしめて目を瞑り全身を冷たい汗で濡らしていた。
 その様子を少し離れた所で聖蘭が見守っている。
 ただ待つ事しか出来ない地獄のような状況が延々と続き、やがてビルの壁の向こうで夏の太陽が沈みかけた頃、汗に塗れた奏真と彼を支える空が姿を現した。
 竜斗は能力を使うのにどれだけの気力を使うか解らないが、奏真は明るい表情の中に多少の疲れを感じさせた。
「無事、全員分の治療を終える事が出来たよ」
「ありがとう、お疲れ様…」
「どうしたの…? そんなに暗い顔しちゃって…」
 空が心配そうに竜斗の顔を覗き込む。
「僕がみんなに苦しみを与えてしまったんじゃないかって思ったんだ…。
 僕が夕鶴の話を聞いて都合の良い所だけを見て、みんなが苦しむかも知れないと言う事を考えなかったから…。
 そんなの偽善じゃないか…」
「竜斗の気持ち、解るよ…」
 竜斗の強く握られた拳を空が優しく包み込む。
「空は何時も思ってるの、誰かの為に生きられたら良いなって…。そうすれば自分の人生を意味のあるものに出来るんじゃないかって…。
 でもね、空が誰かの為を思う事で、その人を苦しめてるって感じる事があるの…」
 空がその言葉の裏に奏真を思っている事は竜斗にも解った。
 だが、二人が抱える何か大きなもの片鱗を感じる事が出来ても、それが何かまでは推し量る事は出来ないし、それを知ってしまう事に言い知れぬ恐怖を感じた。
「空…」
「でも、心が痛くても空は思う事を止めないよ。
 だって、立ち止まってても何も変わらないし、誰かの事を思い続けている限り空は自分でいられるんだから」
「そうやね、何が正しいなんて、誰にも解らへん。
 でも、少なくてもうちはあの時、奏真先輩と空に助けてもらって良かったと思ってるで。
 そりゃ、未だに歩く事が出来ないかも知れへんけど、今もこうして希望を持って生きる事が出来ているし、二人とも友達になる事が出来たんやから」
「ありがとう、夕鶴!!」
 夕鶴は空に抱きついた。
「こら、空…!! 暑苦しいやろ!!」
 と言いつつも夕鶴も嬉しそうであった。
「…きっと、大丈夫や! みんなうまく行く!! 今は迷う事もあるかもしれへんけど、何時か何もかも無駄やなかったって思える時が来ると思うよ…!!」
「ふっ、そうなれるように生きて行こうじゃないか」
 奏真が微笑しながら拳を強く握る。
「うん、そうだね…!」

 ブラフマンの診療所を出る頃にはすっかり日が沈んでいた。
 聖蘭の運転するロールスロイス・シルバークラウド・ツーは阪神高速三号神戸線沿いに一般道を東に走ると、国道二号線を左折してを新神戸駅方面に北上していた。
 車に揺られる中、竜斗は何時もと違う空気に妙な胸騒ぎを覚えていた。
 何故だか空気がやけに冷たく静まり返り、車の行き交う音や虫の鳴き声等の喧噪が異様に響き渡る感じであった。
 まるで嵐の前の静けさと言うべきか。
 そんな竜斗の心配をよそに、夕鶴は竜斗の肩に首を預けすっかり夢の中だ。
 それも当然だろう、聖蘭の運転は何時も至極丁寧であり、まるで揺り籠のような乗り味に身を委ねてしまえば誰だって夢見心地だ。
 隣の人が眠ると、眠くなってしまうが世の常だ。
 竜斗も夕鶴に誘われるように軽い微睡みに落ちそうになるのだが、突然空気が張りつめるような何かを感じ瞬間的に目を覚ました。
「なんだ、この感覚は…?」
 戦いの経験が豊富な者ならば、その張りつめた感覚を殺気と呼ぶ事を竜斗は知らなかった。
「緊急回避します、お気をつけ下さい…」
 殺気を感じた聖蘭は瞬間的にバックミラーとサイドミラーで周囲を確認すると、大きくハンドルを右側に切って追い越し車線に車線変更した。
 夜の神戸の街にスキール音が鳴り響く。
 あまりに急激な横Gの発生に、後部座席の右側でうたた寝していた夕鶴の身体が転がり、左側に座っていた竜斗を押しつぶす。
「なんや、なんや…!?」
「ぐっ、重い…!! そんなの知らないよっ…!!」
 竜斗が左側の窓の外を見ると、そこにはローダウンされた黒塗りのセダンを駆る生徒会長の姿があり、狂気に歪んだ笑顔を浮かべて竜斗と夕鶴を舐めるように見ていた。
 その隣の助手席には副会長が座っているのが見える。
「うぎゃーーーっ!! 出たおったでぇーーーーーーっ!!!」
「やっぱり、来たか…!!」
「にしても、演出過剰やない…? 暗闇の中で突然あの不気味な顔が現れたら、下手すれば一生もののトラウマや!!」
 威圧感のあるエアロパーツに覆われた生徒会長の車は、加速してシルバークラウド・ツーの前に割り込み進路を塞ごうとする。
 テールランプが瞬間的に光を点す。
 だが、聖蘭は華麗なハンドルさばきで進路妨害を難なくかわすと、そのまま国道二号と並行するトンネルへと逃げ込む。
 新神戸トンネル有料道路と書かれた電光掲示板には閉鎖中と書かれていた。
 まさか閉鎖された道路に逃げ込むと思っていなかった生徒会長は、突然の動きについて来れず一瞬にして視界から消え去った。
「やった、いなくなったで!!」
 一方通行のトンネルは何所までも真っすぐ続いていて、シルバークラウド・ツー以外の車は一台も走っていなかった。
「姫様は本日の襲撃を予測しておられ、逃走ルートを確保する為に新神戸トンネル有料道路を閉鎖するように働きかけていました。
 このトンネルは六甲山の真下を通り抜け、北側を走る複数の道路へと繋がっている為、高確立で逃げ切る事が出来ます」
「さすが姫だな!!」
 竜斗達が安心したのもつかの間だった。
 前方からあちこちを破損させた生徒会長の車が現れた。
「しつこいな!!」
「閉鎖を突破し次のジャンクションで合流したようです」
「ご苦労さんやわ!!」
 そして、黒塗りのセダンはテールランプを赤く煌めかせると、道の中央で大きな車体を左に傾けながら急停車させた。
 道路の左右には一見して回避出来るスペースが無いように見える。
「あうっ、絶体絶命や!! これは停止するか、激突するか、その二択しか無いんやないか…?!」
「いえ、第三の選択肢を取らせて頂きます」
 そう静かに言い放つと聖蘭は車体をピッタリと右側に寄せる。
「大きく揺れますのでお気を付け下さい」
「えっ?」
 そして、聖蘭はハンドルを一回左に切ったかと思うと、そのまま大きく弧を描くかのように右旋回をし、更にシフトダウンしてアクセルを踏み込んで行く。
 あまりにも強烈な過重によって車内の重力が右前から左後ろへと移動し、またしても竜斗の身体は夕鶴の下敷きになってしまう。
「ぐえっ!!」
 だが、苦しいと思う所の話では無かった。
 常識と言う枠を遥かに超えたスピードで走るシルバークラウド・ツーの車窓からは、静止しているはずの物が凄まじい勢いで襲いかかって来るかのように見えた。
 迫り来るトンネルの左壁!!
 迫り来るセダンのボンネット!!
「ぶつかるっ!!」
「まんまんちゃんっ!!」
 竜斗と夕鶴が死を覚悟して抱き合った時だった。
 限界を越える遠心力を受けたシルバークラウド・ツーのボディは左側のタイヤを軸にして浮かび上がり、セダンの低いボンネットの上をすれすれで通り抜ける。
 そして、サスペンションを底付くまで二、三度リバウンドさせ、そのまま何事も無かったかのように姿勢を整えて走り続けた。
「なんや!? 何が起きたんや!?」
「重心の低い車で高過重をかければタイヤが滑り出し横滑りするのはご存知だと思いますが、重心の高い車でそれをすればボディが浮かび上がる…、ただそれだけの事です」
 それが如何に凄まじい技術であるかは言うまでも無いが、何より恐ろしいのは針の穴を通すような瞬間的な命のやり取りを、一切の表情を崩さず行ってしまう聖蘭の精神性である。
「人に出来ない事を平然とやってのけるっ!! そこに痺れるっ!! 憧れるっ!!」
 夕鶴が何処かの漫画に出て来たような台詞を口にする。
「更にナイキラス・オキサイド・システムを起動します」
「…なんだって?!」
 聖蘭がハンドル横に設置されたスナップスイッチを上に押し上げ、シフトダウンに伴ってアクセルを踏み込むと、フロントが大きくリフトしながら車体が急加速する。
 甲高い吸気音と共に竜斗と夕鶴の身体はシートへと叩き付けられ、目の前の視界が歪んで行くのを感じた。
「ぐはっ!!」
「なんや、身体が重いで!!」
「これは笑気ガスをピストンシリンダーに噴射する事で酸素分圧を2.5倍に高め、瞬間的に出力を向上させる俗称ナイトロと呼ばれるシステムです」
「まさか、ニトロ…!?」
「ナイキラス・オキサイドとニトログリセリンは同じ窒素化合物で呼称も似ている為に混同されやすいのですが、ナイトロは危険なニトロとは科学的特性の異なる安定した物質であり、エンジンのパワーアップに伴い冷却も兼ねる事が出来る効率の良いチューニングとして知られています」
 リアガラスに目をやると生徒会長の車はあっという間に小さくなって行く。
「やった!! 逃げ切れるぞっ!!」
「ただ、連続使用はする事が出来ない為、あくまで瞬間的な加速を補助するものでしかありません」
 聖蘭の言葉を裏付けるようにナイトロの効果が切れたシルバークラウド・ツーは徐々に減速して行った。
「…ああっ、減速してもうたっ!!」
 そして、それに相反するように後方から、もの凄いスピードで生徒会長の車が迫りつつあった。
「速いっ!!」
「彼の車はトヨタ・アリスト…、高速走行向けスポーツカーであるスープラと同様のエンジンを搭載した国内最速のセダンであり、耐久性に優れチューニングによって1000馬力を超えるパワーを発揮する事も可能です。
 本気を出されると追いつかれるのも時間の問題でしょう」
「そんなっ!!」
「ですが、それも姫様にとっては想定の範囲内、あくまで僅かなアドバンテージを得る事が出来れば良いのです」
「えっ?」
 その時だった。
 耳をつんざくようなエキゾーストノイズと共に、前方から凄まじい勢いで逆走する、低く這いつくばるような黒い機影が現れた。
 見間違いようが無いランボルギーニ・ディアブロである。
「姫っ!!!」
「姫ちゃんっ!!!」
 竜斗と夕鶴は歓喜の悲鳴にも似た声でその乗り手の名を叫んでいた。
 この絶対絶命のピンチであっても、姫ならばなんとかしてれると言う絶対的な信頼があった。
 姫の駆るディアブロはシルバークラウド・ツーとすれ違ってアリストとの間に入り込む。
 そして、助手席側のガルウィングを開け放ち、小さな身体を投げ出した大河が不釣り合いな程大きなロケットランチャーを担ぎ、その弾頭をアリストの眼前に打ち込んだ。
 それから先はまるで時が止まったかのように見えた。
 アリストの巨体はロケット弾の爆発によって宙を舞い、その下をディアブロの低い車体が通り抜けて行く。
 そして、地面に頭から叩き付けられてバウンドするアリストを横目に、スピンターンしたディアブロが駆け抜けて、あっと言う間にシルバークラウド・ツーの横に並ぶ。
 窓の向こう側に不敵な笑みを浮かべる姫と、引きつった笑みを浮かべた大河の顔が見えた。
 次の瞬間、アリストは大きな音を立てて爆発し、炎に包まれたその姿はリアガラスの向こう側に消えて行く。
 そして、トンネルの中は鎮火の為、水噴霧設備と呼ばれる特殊な消防設備が起動し、霧に包まれたかのようになった。
「きゃあっーーーーーーっ!!!! カッコ良いっ!! カッコ良過ぎるで姫ちゃんっ!!! うち惚れてしまいそうやっ!!!!」
「それには激しく同意なんだが、アイツら死んでないだろうな…」
 だが、それは要らぬ心配であったと言う事が直ぐに解る。
 まるで法螺貝のような音がトンネル内に鳴り響いた。
「これは何の冗談や!!」
 馬の駆け抜ける音が近づいて来る。
「まさかっ!! まさかっ!?」
 そして、立ち籠めた霧の中から騎馬形状となったパワードスーツに騎乗した生徒会長と副会長が現れた。
「やっぱり来たぁーーーーーっ!!」
「しかも、追い付いて来るやんかぁ!! もっとスピード出ぇへんの!?」
「既にアクセルは全開です」
「車より速いなんて非常識にも程があるっ!!」
「ああっ、もうトンネルの出口やっ!!」
「これ以上の逃走は不可能と判断し迎撃に切り替えます」
 二台の車はトンネルの出口付近で停車し、姫と大河、竜斗、聖蘭と彼女の押す椅子に乗った夕鶴の五人が霧に包まれたトンネル内に躍り出る。
 生徒会長は騎馬形状から変形したパワードスーツを全身に纏い、まるで巨大な戦国武将のような異様な風貌を晒し、彼ら五人に対峙するように立ち塞がっていた。
 その様子を少し離れた所で、無表情の裏側にドロドロとした感情を宿した副会長が眺めている。
 竜斗は無意識にパートナーである姫の元へと寄り添い、その白く小さな手を強く握っていた。
 そうする事で不安感が少し和らぐ気がした。
 そして、意を決したように言う。
「僕がやるしか無いのか…」
「いえ、トーナメントを戦っている最中であるわたくし達は戦う事が出来ませんわ。
 その瞬間に互いのアルカナが消滅して失格となり、ブラフマンによって新たな代表者が選出され何事も無くトーナメントが続行されますの。
 それはわたくし達の目的を思えば面白くありません事よ」
「じゃあどうすれば…!?」
「俺が行くで…!!」
 大河は相変わらずの幼女の身体に、生徒会長達と同じようなカーキ色の学ランを纏い、金属製のバットを手にしていた。
「大河っ!!」
「学生服は竜斗さんと同様の仕様で、バットはチタン製の中空構造で突端に鉛が内蔵されてますわ。攻撃力・防御力共にわたくしの折り紙付きですわ」
「いや、そう言う事やなく、なんでコイツなんや!!」
「この場で戦えるのはおれだけやけど、それだけや無いっ!!
 竜斗が教えてくれた特別な力なんて無くても頑張れば出来る言う事、今度はおれが証明したいんや…!!
 その為におれは力を付けたっ!!
 だから、おれは誰の力も借りず、自分一人の力で戦いたいんや!!」
「アホかお前、なんでそんなに意地はるんやっ!?」
「自分自身を取り戻す為っ!! そして、夕鶴っ!! お前の為やぁぁぁぁっ!!! 行くでぇっーーーーーーっ!!!」
「ふははははははっ!!! その気迫は良しっ!!!! そうで無ければ面白くないっ!!!! 行くぞっ!!!! 敗者には粛清をーーーーーーっ!!!!!!」
 二人は同時に突進し互いに第一撃を放ち合う。
 激しい火花を散らして生徒会長の鋼鉄の右拳と、大河のチタン製バットが激突し、双方共に弾き返される形になった。
 すかさず第二撃。
 大河は地面に確りと根を下ろした足を支点に、振り子のようにしてバットを生徒会長の左拳へと叩き上る。
 そして、激しい金属音と共に再び両者の攻撃は相殺される。
 一撃目、二撃目と同様の攻防は竜斗達の目の前で何度も繰り返される事となる。
 子供サイズの大河に対して、巨人のような生徒会長が競り勝つ姿が安易に想像出来ただけに、双方の力が拮抗する展開は意外であった。
「打撃の強さと言うものは如何に重量を相手へと伝えるかで決まりますわ。
 鉛入りのバットを遠心力を使って打撃力を増幅さているのはご覧の通りですが、それだけではあの対格差を埋める事は出来ません。
 相手の攻撃に勢いが乗る前にタイミングを合わせる事で相殺しているんですわ。
 攻撃こそが最大の防御…、それが大河さんの編み出した戦法のようですわね」
「あのアホ、やるやないかっ!!」
「ですが、大河さんは大切な事を忘れていますわ…」
「…」
 竜斗は姫の言いたい事が解っているだけに、悲痛な面持ちで唇を噛み締めて沈黙した。
 そして、その予感が的中し、戦いの均衡が崩れる時は突然やって来た。
 激しい打ち合いの中で生徒会長が突然バランスを崩して大きな隙を晒し、大河はチャンスとばかりに無防備になった胴体に向けて渾身の一撃を叩き込む。
 火花が散って金属同士が共鳴する派手な音が鳴り響く。
 だが、永遠とも思えるような一瞬の沈黙の中、兜の下で生徒会長が不敵に微笑んでいる様が容易に想像出来た。
「そう、大河さんが攻撃を最大の防御としているように、相手にとっては防御こそ最大の攻撃なんですの…」
「なんやて…!?」
 次の瞬間だった。
 生徒会長の鋼鉄の拳が大河の腹に叩き込まれ、その小さな身体は何処までも何処までも、地面にの上を転がるようにすっ飛んで行く。
「大河っ!!!」
 いくら衝撃吸収剤入りの制服と言っても生徒会長の痛恨の一撃を防ぎきれるものでは無く、大河は大量の血反吐を吐いて地面にひれ伏せた。
 生徒会長はカツカツと音を響かせながら大河の後を追って行く。
 竜斗達も思わず後を追う。
 仁王立ちする鎧姿の生徒会長を前に、大河はバットを杖代わりにして、全身血に塗れながら立ち上がる。
「まだやっ!! まだ終わらんよっ!!!」
「死体が蘇る事は我が輩が許さぬっ!!」
 繰り出される生徒会長の蹴りに対し、大河は自分から身体を投げ出す事で勢いを殺そうとするが、力尽きかけた小さな身体では何の意味も成さなかった。
 蹴り上げられた大河の小さな身体は空中で錐揉みし、音を立てて地面に叩き付けられた。
「この野郎ぉ!!」
 今まで溜め込んで来た怒りを爆発させた竜斗が、怒髪天を衝く勢いで生徒会長に殴り掛かろうとするのを姫が制止する。
「それはなりませんわ!!」
「何でだよっ、アイツは絶対に許せないんだ!!
 失格になろうとも僕自身がやられても構うものか、アイツが傷つけた人と同じ目に合わせてやるっ!!」
 パシっ!!
 姫は竜斗の頬を叩き、その身体を強く抱き締めた。
 戦場の中にあって一瞬時が止まったかのようだった。
「それが貴方の優しさ故の事だとしても、怒りに飲み込まれて自分自身を見失ってはいけません。
 暴力に対して暴力で訴えかける事は、誰よりも優しい貴方の戦い方ではありません。
 それでは暴力こそ正義だと信じるあの方と同じになってしまいます。
 決して、自らを闇に陥れたりしないで下さい。
 貴方には貴方にしか出来ない戦いをした…、今はその結果だけを信じれば良いのです。
 それは隣人を大切にしない者には決して手に入れる事が出来ない、本当の力なのですから!!」
「今こそ粛清を受けるが良いっ!!」
 そして、生徒会長は地に伏せた大河に歩み寄ると、その動かなくなった身体を踏みにじろうと鋼鉄の足を振り上げる。
「いややぁーーーーーーっ!!!」
 夕鶴の悲鳴がトンネル内に響き渡ったその時であった。
 その声を打ち消すように甲高いエンジン音が響きわたり、生徒会長は足を止めて音のする方を振り返る。
 その音の発生源は巨大なウィングを装着した真っ白いボディに同色のアルミホイールを履いた小型セダンであった。
「ホンダのインテグラ・タイプR、安室の愛車です」
 聖蘭が説明する。
 チャンピオンシップ・ホワイトのインテRは生徒会長の眼前でスキール音を立てながら停車した。
 そして、その四枚のドアが開け放たれ、オーナーである安室を始め、奏真と空が霧の立ち籠める戦場へと降り立つ。
「お嬢様、お呼び頂いたいた所、遅くなって申しわけございません」
 姫に向かって深々と頭を垂れる安室。
「いえ、ジャストタイミングですわ」
「ふっ、真打ち登場と言った所かな」
「大河は大丈夫!?」
 奏真は生徒会長を睨みつけ、空は怪我をした大河の身を案じた。
「笑止千万っ!! トーナメントを戦っている最中の貴様らが来ようとも、我が輩と戦う事等出来はせぬっ!! 事態は何も変わらないと言う事が解らぬかっ!!」
「ふっ、流石に思考停止野郎共の親方だな、戦うのが俺達だって誰も言ってないだろ?」
「何っ!?」
「君たちと戦うのは彼らさ!」
 後部座席から長いストレートの黒髪を持つ細身の男性と、同じような髪型の女性が降り立つ。
 双方共に地肌にサラシを巻いた上で白い特攻服を着用し、ブラフマンが治療の時に用意した鎖をアクセサリーのように身体に巻き付けていた。
 格好は痛いしいが美男・美女と呼んでも差し支えない容姿だ。
「誰や!? こんな時に新キャラなんて普通あり得へんで!!」
「あ!? 何言ってやがる!? 俺達を誰だと思ってやがるんだ、ゴラァ!?」
「ザケンじゃないよっ!!」
「そ、その声は工藤に木村…!?」
「ふっ、解らないのも無理は無いさ。
 俺の能力を受けてパーマや脱色で痛んでいた髪や、ボロボロになった歯や顔の骨格まで再生してしまったんだから。
 何を隠そう一番驚いたのは治療した俺自身さ」
 奏真は苦笑しながら言う。
「ま、マジかよっ!!」
「う、嘘やっ!! そんなわけあらへん!! あれ程の大怪我を負った身体を再生させて、何で動く事が出来るんやっ!?」
「あ!? そんなん知らねぇーよ!! 気合いだよ気合いっ!! 根性があればどうにでもなるんだよっ!!
 俺は借りは必ず返す主義なんだよっ!! 生徒会長に受けた粛清の借りを返すまで寝てられっかよ!!」
「ほうっ、貴様が我が輩の相手になると言うのかっ!!」
「副会長はアタイがやらして貰うよっ!!」
 そして、鎧武者化した生徒会長とメリケンサックを構えた工藤、マーシャルアーツの構えを見せる副会長と鎖を振り回す木村が対峙する。
 聖蘭に抱きかかえられた大河がその様子を見る。
「それだけじゃねぇんだよっ!! ついでにそこのカマ野郎にも借りを返さなきゃなんねぇからな!!」
「…なんの、ことや…!? おれが何時…、貸しを作ったって、言うんや…?」
 大河は息も絶え絶えの様子で聴く。
「あぁ!? 約束を忘れたとは言わせねぇぞ!! 一度しか言わねーから、ちゃんと聴きやがれっ!! 馬鹿にして悪かったな!! 馬鹿野郎がっ!!!」
「き、貴様!! 今何を言った!? まさか謝ったのでは無いだろうな!?
 自ら過ちを認めると言う事は、自ら負けを認めると言う卑下た行為であるっ!! 我が輩の一番嫌いな事であると知っての狼藉かっ!?」
「知らねぇんだよっ、ダボがぁ!!!」
「そんな奴は死ぬまで粛清してやるっ!!!」
 次の瞬間、戦いの膜が切って下ろされる。
 素手での副会長に対して、武器を使う木村の戦いは拮抗している。
 だが、工藤の攻撃は生徒会長には一切きかず、生徒会長の攻撃を一度でも食らったら負けが決定してしまう事は火を見るより明らかであり、工藤はひたすら近距離で生徒会長の周囲をグルグル回り牽制する事しか出来なかった。
「…な、なんでや!? アイツら、仲間やったんやろ…!? 生徒会長の実力、解ってるんやろ…!? なのに、なんであんな不利な戦いに挑むんや…!?
 なんで今ここでおれに謝るんや…!?」
「ふっ、解らないかい? 
 彼らは自分の敗北を受け入れる事で、大切な人の為に不器用でも一生懸命になる事が出来る君の強さに気付いたのさ。
 そして、君が困っているからこそ助けたいと思った、それは俺も同じさ!」
「な、なんやて…?」
「さぁ、彼らが時間を稼いでくれている内に俺の能力で再生するんだ!! 後遺症の残らない怪我の場合は後々の反動は無いはずだっ!!!」
「…すまへん」
 大河は奏真に対して頷くと、一筋の涙を零した。
「空、行くよっ!!」
「うんっ!!」
 奏真は空と口づけをかわすと出現したNo.19太陽のカードを掴み取り、二組のチャクラムへと変化させ大河へとかざした。
「ぐわーーーーっ!!」
 大河の身体はみるみる再生して行くが、傷口を抉られるような苦痛に叫び声をあげる。
「みんな頑張ってるんだ…! 僕達も自分に出来る事をしようっ!!」
「せやね!!」
 竜斗と夕鶴はそんな彼らの様子を見て、自分にも出来る事は無いかと思考を張り巡らせた。
「やっぱ、あの鎧をどうにかせんとアカンね…」
 相変わらず生徒会長相手に苦戦を強いられる工藤の様子を見ながら夕鶴が言う。
「鎧を脱がせる…、つまり、騎馬形態へと変形させられればな…」
「そう言えば、アイツ一度自分から変形した事あらへんかった?」
 竜斗は過去に生徒会長が自ら騎馬形態に変形した時の事を思い出す。
「ああ! 図書委員長が雲の蜘蛛の攻撃で生徒会長を束縛しようとした時だ!!
 多分、生徒会長の鎧は大河の鉛入りのバットと同じように、重量物を振り回して遠心力によって攻撃力を増幅させる仕組みだ。
 完全に縛り上げられちゃうと脱出するだけの力が発揮出来ないと思ったんだろうな」
「図書委員長もそれを読んでいたんやろうね。
 その後、騎馬形態に対して遠距離からの追撃を繰り返し、攻撃を見切って間合いを詰めて来た所で落馬させて、無防備になった所を仕留めようとしたまでは良かったんやけど…。
 きっと、生徒会長がサブミッションの使い手って言うんは誤算だったんやろうね、せめて、そこで更にもう一手あれば良いんやけどね」
 それを聴いた竜斗の中で何かが閃く。
「よしっ!! こうしようっ!!」
 竜斗は夕鶴に耳打ちする。
 夕鶴の顔がみるみると青ざめる。
「嘘っ、それをうちがやるん!?」
「それしか手段が無いから仕方無いよ。でも問題は道具をどうするかだよな…」
「ふふっ、話は聴かせて頂きましたわ、これを使って下さいな」
 小声で話したはずなのに姫は全てを察していて、ふわふわとしたスカートをたくし上げると黒光りする筒状の物を取り出した。
 しかも、その際にパイナップル状の物や、銀色に輝く抜き身の長物など、文字通りの危険物が見え隠れし、色んな意味で竜斗と夕鶴を驚愕させた。
「うぎゃっ!! 何でそんな所からそんな物が出て来るんやっ!? そのスカートは危険物の四次元ポケットか!?」
「なんか、色々と見てはいけないもが見えた気がする…」
「あらあら、今はそんな事気にしている暇はありません事よ!」
「くそぉ、映像が脳裏に焼き付いて離れないが、作戦実行だっ!!」
 竜斗は生徒会長に対して牽制する工藤に声をかける。
「よしっ、その鎖で生徒会長を巻き付けるんだ!! 生徒会長は動けなくなるのが恐いはずだ!!」
「む!?」
 その言葉に過剰反応する生徒会長。
「うっせぇ!! 俺の戦いに口出しすんな、ダボぉっ!!」
 そして、口答えしながらも工藤は手にした鎖を鞭のように使い、生徒会長の身体に巻き付けようとする。
 実際にはそんな攻撃効く訳は無い。
 だが、生徒会長は図星を突かれた事に焦りを感じ、瞬間的に騎馬形態へと変形して間合いを取ろうとする。
「今だっ!! 夕鶴っ!!!」
「もう、ヤケクソやっ!!」
 夕鶴は姫から渡された小型のマシンガンを生徒会長の足下に向けて連射し、渇いた音を立てながら地面に薬莢の山が作られて行く。
 聖蘭は車椅子を支えてその反動を上手く吸収していた。
 生徒会長は機動力を活かして、その攻撃を難なくかわし続ける。
「ふふふっ、お上手ですわ。なんでしたら、そのまま頭を撃抜いてしまっても構いませんわよ。わたくしの方で後片付けして差し上げますから」
「また、凄い事言っちゃった…!!」
「いややわーっ!! うちにこの手を汚させないでぇーっ!!」
「あぁ!? アイツら、生徒会長よりも恐ろしいじゃねぇかよ…!!」
 工藤はその様子を見て苦笑した。
 そんな彼に竜斗が密かに近寄り耳打ちをした。
 そして、夕鶴の快進撃の幕切れは呆気なく訪れる事となる。
 マシンガンの弾薬が尽き一瞬の沈黙の後、ニンマリとした笑みを浮かべた生徒会長が騎馬の踵を返した。
「今だっ!!」
「うおっーーーーーっ!! やってやんぜぇーーーーーっ!!!!」
「むっ!?」
 竜斗の合図に合わせ、工藤は騎乗している生身の生徒会長に向かってタックルをしかける。
 騎馬から転げ落ちる生徒会長と工藤。
「そんな事で我が輩を倒せると思っているのか!? 愚か者がぁーーーーーっ!!!」
 そして、案の定、生徒会長は工藤に対して寝技をしかけようとする。
「愚か者はテメェの方だぁ!!!」
「笑止っ!!」
 工藤は渾身の力で生徒会長を逆に押さえつけようとするが、サブミッションの基本が密着状態であると言う事を理解していない為、簡単に形成が逆転してしまう。
 そして、生徒会長に頸動脈を締め付けられ、工藤の意識が遠のいた時だった。
「やらせはせんでっ!!」
 派手な音とと共に鉛入りバットから繰り出される会心の一撃が、生徒会長の首元に叩きつけられた。
「ぐはーーーーーーーーっ!!」
 生徒会長は錐揉みしながらすっ飛ぶ。
「おせーんだよ、ダボっ…」
 そう言うと工藤は意識を失った。
「あんがとな、あとは俺に任せろや…!!」
 そして、傷を癒した大河と生徒会長が三度対峙する。
「いくでっ!! これが本当の最終決戦やっ!!!」
 大河は雄叫びをあげながらハンマーのように勢いをつけてバットを叩き付ける。
 何度も、何度も。
 連続で繰り出される怒濤の攻撃を鎧を失った生徒会長が防ぎ切れるはずもなく、その薄い自我領域を貫通したダメージが蓄積されていく。
 そして、生徒会長の自我領域は誰の目から見ても明らかと言う程、脆くなり今にも消え去りそうな状態になっていた。
「何故だぁ!? 何故この我が輩が落伍者等に追いつめられていると言うのだっ!?」
「敗北を拒絶して仲間を足蹴にするお前には解らへんやろな…!」
「戯れ言を言うなっ!!!」
 生徒会長の素手での攻撃は、バットで軽々と打ち返される。
「手がぁっ!! 手がぁっーーーーーっ!!!」
「敗北を乗り越えて解ったんや…!!
 何でも独りで背負い込もうとするんは夕鶴の為でも何でもない、自分の無力さを認めたくないエゴに過ぎんかったんやって事を!!
 おれにとって一番大切な事は夕鶴を守る事や!!
 独りでは無理でも仲間と力を合わせれば出来る事があるっ!!
 俺は独りや無いっ!! 力を貸してくれる仲間の為にも、夕鶴の為にも俺は負けへんっ!! 負けるわけにはいかんのやぁーーーーーーっ!!!!!」
 力強い一閃が無防備になった生徒会長の腹に叩き込まれる。
「我が輩は弱者の理論など認めぬっ!!  例えこの身が朽ち果てようとも、弱者に敗北するなど決して認めるものかぁーーーーーっ!!!!!」
 そして、自我領域を失い、大の字になって路面に倒れる生徒会長。
 大河は力尽きて片膝をつくと、そのままの態勢でバットを天高く掲げた。
「おれ達のっ、勝ちやぁーーーーーーーっ!!!!!」
「うおっーーーーーーーっ!!!」
 そのあまりにも劇的な勝利に、皆近くの者と抱き合って歓喜の声を上げた。
 それはその場に居る者、その場に居ない者、多くの者が力を合わせた故の結果であり、生徒会長が否定し続けたものの勝利であったからだ。
「あのアホっ…、ようやりよったで…!!」
 夕鶴はハンカチで涙を拭い取りながら猛スピードで車椅子を大河へと向かわせる。
 だが、何か嫌な予感がして振り向くと、皆が勝利に酔いしれて盲目になる中で木村を倒した副会長が、死角を縫うようにして大河へと駆けて行くのが目に入った。
 副会長の手には闇に煌めく刃が握られていた。
「アカンっ!!」
 夕鶴の悲鳴に似た声に事態を把握した姫であったが、距離の離れた彼女がどんなに急いだとしても間に合わないのは明白だった。
「わたくしとした事がっ!!」
「ダメだっ!! 誰か止めろっ!!! 命を失ってしまえば俺の能力でも再生する事は出来ないんだっ!!!」
 冷淡な聖蘭や安室、不敵な奏真ですら焦りの色を浮かべ、人類の限界を遥かに越えた走りを見せる。
「大河ぁっ!!」
 竜斗と空は顔を真っ青にさせて、足をもつれさせながらも駆け出す。
 だが、副会長を止められる者は誰も居なかった。
 力尽きた大河へとナイフが突きつけられ、誰もが凄惨な死を想像したその時だった。
 副会長は殴り飛ばされ、一撃で意識を失い生徒会長と並んで地に伏せた。
「はぁはぁはぁ…」
 荒い息づかいがトンネルの中で木霊していた。
 その光景に皆は目を疑った。
 大河を庇うように二本の足で立ち上がった夕鶴が、その細い腕から繰り出される会心の一撃を副会長に叩き込んでいたからだ。
「なんやお前…、自分の足で立ってるやないか…!!」
「ホンマやね…、必死やったから自分でも何が何だか、わからへん…。
 うちな、お前にどうしても言いたい事あったんや…。
 だから、良いカッコして、勝手に死なれたら困るんよ…、アホぉ…、ホンマにアホぉ…!!」
 夕鶴は大河に泣きすがりながら、嗚咽を堪え途切れ途切れに言葉を放つ。
「なんやねん、改まって言う事か…?」
「良いから黙って聴けや…!
 うちな、今まで何で自分だけが不幸なんやろってずっと思ってた…。
 そんで、うちの事大切にしてくれる人の優しい気持ちを踏みにじって、冷たく当たって傷つけてばっかやった…。
 うちが不幸になるだけやなく、うちがみんなを不幸にしてた…。
 ホンマごめんな…。
 んでもってありがとう…。
 何時も、何時も、うちの事気にかけてくれて、ホンマにありがとう…。
 素直になれへんかったけど、嬉しかったんやで…!!」
 そして、夕鶴は大河を抱き締めたまま唇を重ねた。
 その時だ、大河の身体が光に包まれ、みるみる大きくなり元の男子高校生の姿へと戻って行った。
「おおっ、大河の身体がっ!!」
「ふっ、呪いは乙女のキスで解ける…か」
「まるでおとぎ話みたいっ!! やったーーーーっ!! こんなに嬉しい事ないよっ!! 夕鶴が立ったぁーーーーっ!!! 大河が戻ったぁーーーーっ!!」
 空の悲鳴を皮切りに、滝のように涙を流して抱き合い、自分の事のように喜びあった。
 しかし、大河は苦悶の表情を浮かべていた。
「ぐはーっ!! チンがぁーーっ!! タマがぁーーーっ!!」
 身体は伸びても服はそうもいかない。
 大河の股間はピチピチになったズボンに締め付けられていた。
「そんな大げに痛がるんやないのっ!! 男やろっ!!!」
「いや、男だから痛いのだが…」
 と久々となったお決まりのやり取りの後、姫はスカートから抜き身の日本刀を取り出すと、その刀身を閃かせて大河の防刃ケプラー製の服を切り裂いた。
「また、つまらない物を切ってしまいましたわ」
 そして、大河は皆の前に全裸を晒す事となる。
「な、なんやとっ!!」
「きゃーーーーーーーーっ!! 大河のバカァーーーっ!!」
「変な物見せんといて!!!!」
 大河は夕鶴と空に同時にビンタされノックアウトしてしまった。
「なんでやねーんっ!!!!」
 そして、周囲が笑いに包まれる一方で、暗躍する者たちがあった。
 長身の安室が作り出す死角に隠れ、聖蘭は生徒会長の胸から出現した皇帝のカードを回収していた。
「姫様に竜斗様…。
 貴方がたは目覚ましい活躍をしておいでですが、それは我が真の主にとって都合の良い事では御座いません。
 いよいよ、戦いは佳境に入り、修正案が実行される事となります。
 訪れる試練に心して挑んで頂けるよう願っております」

第四章

 1999年7月26日(月)
「ふっ、やっと一息って感じだな」
「もう、奏真お兄ちゃんったら、だらしないんだからっ!!」
 この日はNo.19太陽のアルカナとNo.11正義のアルカナの試合が行われる事になっていた…つまり、奏真と空の第二回戦である。
 その舞台となる場所は神戸のランドマークとして知られるポートタワーのあるメリケンパークであり、22時と言う比較的遅い時間に設定されていた。
 竜斗達は昼過ぎに集合して、メリケンパークの対岸にある複合商業施設、ハーバーランドの一角にある神戸モザイクで時を過ごした。
 神戸モザイクは西洋の港町を思わせる外観のショッピングモールで、如何にも神戸らしいモダンさから若者達を中心に人気で、夏休みと言う事もあり沢山の人で賑わっていた。
 彼らは一通り映画鑑賞やショッピングを楽しんだ後、神戸モザイクの隣にある煉瓦倉庫レストランで夕食を取る事にした。
 その名の通り海に面した古い煉瓦倉庫をレストランに改装したもので、彼らの入った店は情緒あるレトロな内装で、古い時代のアメリカを思わせるスパゲティが売りだった。
「にしたって、はしゃぎ過ぎやろ!!
 スターウォーズEP1の映画見て、喫茶店行ってケーキ食って、洋服見て、アイス食って、雑貨見て、そしてスパゲティ!! 食ってばっかやないかっ!!」
「はぁ? お前アホか!? 甘いもんは別腹に決まってるやろ!?」
「ねーっ!!」
 夕鶴の熱弁に空が掌を合わせて同意する。
「別腹って都合が良いシステムだよなぁ…、まぁ、あんだけ動けば腹減って当然だけど。
 夕鶴なんて松葉杖であちこち歩き回るんだもんな、転けるんじゃないかと見ててヒヤヒヤもんだったよ」
「仕方無いやろ! だって、自分の足で歩くのって久々やし楽しいんやもんっ!!」
「ふっ、歩けるようになって何よりだ」
 奏真は何よりも嬉しそうだった。
 ひょっとしたら、奏真は自分が夕鶴を苦しめていると、長い間気にして来たのかも知れないと竜斗は思った。
「でも、何で急に歩けるようになったんやろね。そりゃ、筋肉の衰えはあるんやけど、今までみたいな痛みは無いみたいやし」
「そーいや、工藤と木村も平気そうやったな。まぁ、アイツらに痛みを感じるだけの品性があるかどうか疑わしい所やけど」
「ひでぇな、お前…!」
 と言いつつも何となく納得してしまう竜斗であった。
「もしかすると、いんがおうほうが関係あるんじゃないかって、お父さんが言ってたよ。
 なんでも、人間の運命にはみんな理由があって、それを見つけて乗り越えると良いんじゃないかって。
 空には難しくてよく解んなかったけどね…」
 空の言うお父さんとは、旭陽昇…つまりブラフマンの事だ。
「因果応報か…、確かにいきなりそんな事言われても解らないね」
「ふっ、そう言う時は具体的に何かに例えると良いさ。
 例えばあの二人の場合、怪我を負った原因は生徒会長に組して、弱者を虐げるような態度を取り続けた事だろ?
 ところが竜斗の説得もあって、過去を反省し大河を守る為に生徒会長と戦おうとした。だから、因果応報を克服する事が出来たんじゃないかな」
「じゃ、うちの場合はどうやの? 怪我した原因なんて思いあたらへんで」
「夕鶴の場合は怪我をする事は避けられない試練で、そこから学ばないといけない事があったんじゃないかな…? 多分、それは自分で解っているはずさ」
「そやね…! でも、そうすると空の場合は何やろ…?」
「ん!?」
「それどう言う事や!?」
「な、なんでもあらへんよ!! それより、折角ハーバーランド来たんやし観覧車乗らへん…?! うち、一度乗ってみたかったんや…!!」
 竜斗と大河が聴くと夕鶴はあわてて誤摩化した。
「まぁ、良いけどさ…」
 何時か話してくれるんだろう、竜斗はそう思った。
 だが、それが彼らの運命を揺るがす事になるとは、この時の竜斗は知るよしも無かった。

 そして、食事を終えた竜斗達はモザイクガーデン内にある観覧車へとやって来た。
 一千万ドルの夜景と称される神戸の街を一望出来るのは当然ながら、六甲山の上から見た場合ライトアップされた観覧車が海に浮かんでいるように見え、神戸の象徴の一つとして市民・観光客問わず人気が高いスポットである。
 ゴンドラの乗員は四名である。
 必然的に奏真と空、大河と夕鶴がペアを作って並んでいた。
 その様子を竜斗は少し離れた所から見ていた。
「ちょっと待て…! 何か不公平さを感じやしないか…?」
 竜斗はその状況に疑問を呈した。
「ん、どう言う事や?」
「このままだと一人だけはぐれ者、もしくは邪魔者が発生する事にならないか…? 誰とは言わないけど、そんな事になったら泣いちゃう人がいるかも知れないぞ」
「ホントだ、これだと竜斗が独りになっちゃう!!」
 空が口を大きく開けて驚く。
「いや、だから誰とは言ってないけどね!!」
「うわっ、竜斗センパイごっつかわいそうやなー!!」
 夕鶴は同情するように竜斗の肩を叩く。
「いや、ここで同情されると、本当に泣きそうなんだけど…」
「こうなったら、お前の分まで存分に楽しんで来てやるで!! ほな、行こか!!」
「らじゃーっ!!」
 と大河のかけ声に夕鶴と空が乗っかる。
「ちくしょう!! もう泣いてやるからなっ!!」
「って、言う前から泣いてるやろっ!!」
「ふっ、じゃあ、公平にウラオモテで組み合わせを決めようじゃないか」
「うらおもて…?」
「もう、竜斗センパイったらそんな事も知らへんの? ウラオモテ言うたら、手の裏出した人と、手の表を出した人でグループ別けする方法に決まってるやないの! 一発で決まらへんかったら、テッテノテって言うんやで!!」
「ああ、グーパージャスみたいなものか」
「なんやそれ?」
「空、グーパージャス知ってるよ!」
「ああ、前に東京に行った時にやった事があったな。
 グーパージャスは関東の広い地域で使われているグループ別けさ。ちなみにウラオモテは神戸でしか使われていないらしい」
「ウラオモテって神戸ローカルやったのか、うち知らへんかった…」
「子供の遊びは地方によって呼び名やルールが違うのさ。郷に入れば郷に従えと言うし、ここではウラオモテで決めるとしよう。
 じゃあ、どんな組み合わせになっても恨みっこ無しだ!!
 いくぞっ!!」
「うらおもてっ!!」

「じゃ、女子同士仲良く行こか!!」
「うん、楽しんで来ようね!!」
 と先陣を切って空と夕鶴の女子二人のペアがゴンドラに乗り込んで行く。
 続いて竜斗、奏真、大河の男子三人のトリオだ。
「…なぁ、言ってええか?」
「言うなよ、言うだけ悲しくなるだけだぞ…!!」
「いいや、ここはあえて言わせてもらうでっ!! 何が悲しゅうて野郎三人で観覧車乗らなきゃアカンのやっ!!」
 と大河は拳を震わせて涙を零した。
「ああっ、言っちゃった!! 止めろよな、せっかく悲しさを忘れようとしてたのにっ!!」
「そりゃ、黙ってられへんでっ!! 今頃、向こうのゴンドラではキャッキャッ言いながら夜景を楽しんでるんやでっ!! 今からでも向こうのゴンドラに移りたいわっ!!」
 竜斗は大河がゴンドラの緊急避難口を開けて、鉄骨伝いに先を行くゴンドラに移動する姿を想像する。
「大分、アクロバットだな…!! よし、止めはしないっ!! むしろ応援するよっ!! ガンバレっ!!」
「応っ!! 行ってくるで!! お前の分まで楽しんでやるからな…ってちゃうやろ!! そこは止めてくれや!!」
「ふっ、俺は男同士でも全然構わないけどな。むしろ君達と一緒に乗れて嬉しい限りさ」
 竜斗と大河は後ずさる。
「出してくれぇ!! 俺をこっから出してくれぇ!! 俺には失いたく無いものがあるんやぁ!!」
「おや、何を誤解してるんだい? 美しい魂を持った者に男も女も無いだろ!?」
「いや、それ全然誤解や無いやろ!!」
 竜斗は大河と奏真がわだかまりなく接している事が何だか嬉しかった。
「まぁ、確かにたまには男同士ってのも悪く無いかもね…!」
「うわっ、お前まで何言うとるんやっ!! この中でマトモな男は俺だけかいっ!!」
「昨日まで女の子だった奴が何言ってるんだよ…!」
「それ言わんといてやっ!!」
 ゴンドラ内に笑い声が響いた。
「はははっ、竜斗こそ本当は空と一緒に乗りたかったんじゃないか?」
「…そりゃ、一緒に乗りたいとは思うけど、あくまで友達としてだよ!」
「嘘こけっ!! お前モロ空の事好きやったやろっ!!」
「うわっ!! お前ソレ言っちゃう!?」
「ふっ、知ってたさ。俺が君の空への気持ちに気がつかないわけ無いだろ?」
「さすが、奏真センパイ!! それに気付くとはやっぱり天才!?」
「いや、むしろ気がつかん方がアホやろ!!」
「その通りさ、竜斗は解りやすいからな」
「な、なんだって…!?」
「何ショック受けてるんや!! 自分で解るやろっ!! ちゅうか、お前まさか自分の事、謎めいた転校生キャラだと思ってへんやろな!?」
「そ、そんな事あるわけ無いじゃないか!!」
「図星かいっ!!」
「はははっ、その裏表の無い真っ直ぐな心は素晴らしいね。そんな君だからこそ、俺のライバルとして相応しいってものさ…!!」
「ら、ライバルって…!?」
 竜斗は明らかに顔色を変える。
「ふふっ、君は本当に解りやすいな…」
 奏真は何時になく深く嘲笑する。
「そう、俺が君の気持ちを知りながらも様子を見続けたのは、君と言う男の本質を確かめたかったからさ…!
 そして、勝手ながら君は俺のライバルとして認定させてもらったよ…!!
 だが、言っておくが俺は負けるつもりは微塵も無いさ…!!」
「ええっ!!」
「共に互いに惚れた女を賭けて戦おうじゃないか…!」
「ああ、なんだそう言う事か…!!」
 竜斗は思わず深く息をつく。
「おや、何か勘違いでもしたか?」
 奏真は一人で青ざめたり、ホッとしたりする竜斗の様子を見て笑っていた。
「残念ながら僕は奏真先輩のライバルとは成り得ないよ…!
 まぁ…、そりゃ空を女の子として好きだった事は確かだけどさ、今は本当に友達として好きなだけだからね…!!」
「おっと、そいつは残念だな」
「お前、奏真の手前遠慮してるんとちゃうの? それともアレか、イチャイチャ見せつけられて敵わない思ったんか?」
「違うってば! ただ、他に好きな人が出来ただけだよ!! いや、本当は始めから好きだったんだけど、最近になって自分の気持ちに気づいたって感じかな?」
「竜斗ってホンマに色恋事に鈍感やな!!」
「お前がそれを言うか!!」
「ふっ、俺も身に覚えがあるだけに耳が痛いな」
「意外やなぁ、それって空との事かいな?」
「ああ、それは今も続く空との恋の始まり。そしてもう一人…、俺の初恋の相手であり、初めての失恋の相手との思い出さ」
「誰やその相手は!? おれ達の知ってる奴か!?」
「うわっ、お前そこまで聴いちゃうのかよ!!」
「褒めんといて!!」
「だから、褒めてないからっ!!」
「ああ、その相手は間違い無く君たちが知っている人さ」
「へぇ、誰だろう!?」
「残念ながら彼女に断り無く名前を教える事は出来ないが、その一冬の物語を話すぐらいなら構わない。
 もっとも、その名を言った所で信じる事は出来ないだろうな、現在の彼女とは遥かに印象が違うから」
「勿体ぶらないでサッさと話せやっ!!」
「ふっ、それにはまず俺の事から話さなければならない。
 そう、全ての始まりは1995年の時だった。
 君たちも噂ぐらい聴いた事があるだろう、俺は阪神淡路島大震災で怪我をして、自分の名前以外の記憶を失ったんだ。
 …もっとも、青海奏真と言う名前すら本名かどうかは解らない、何故ならば該当する戸籍が存在しないのだから。
 身よりの無い俺は脳神経外科医である旭陽昇…そう、空のおじさんに拾われて治療を受け、そのまま家に住まわせて貰える事となった。
 幼かった空は傷ついて孤独な俺を心配し、甲斐甲斐しく看病し世話を焼いた。
 そのおかげか俺の怪我は全快し、中二の五月から学校に通う事になったんだ。
 だが、俺にとっては日常生活は退屈で下らないものだったよ。
 何をしていても現実感が無く、俺の住む本当の世界は他の場所にあると思っていた。
 そう、それは繰り返し見る断片化した夢の世界だ。
 その世界での俺は傍らに寄り添う少女と唇を重ねる事で異能力を発揮し、同じような能力を持つ者と果てなき戦いを繰り広げていた」
「それって、この特別授業と同じやないか…!」
「まさかそれが奏真先輩の過去の記憶だって言うの…!?」
「冷静に考えればそれは無いだろうな。
 記憶を失う前の幼い俺が戦いに興じていたとは考えられない。
 更に言うと時系列が世紀末であると思われるが、現在の状況ともかなり異なっているようだ。
 つまり全くの異世界、単なる夢さ。
 おじさん流に言うならば潜在意識の現れであり、アルカナとしての核と言った所だろう。
 だが、当時の俺はそれが真の世界だと信じて疑わず、現実世界での満たされない思いを埋めるように、気に食わない奴を探しては喧嘩を繰り返していた。
 それは正義など無いただの暴力だった。
 同じ学校の一学年下である空はそんな俺を心配していたが、俺は空を口五月蝿い妹のように思って邪険にしていたよ」
「空もアンタの事、ダメな兄貴のように思っていたんやろうな」
「ダメかどうかは解らないけど、先輩をお兄さんのように慕っていたのは確かだろうね」
「ふっ、本当の所はどうなんだろうな、正直女心は今でも解らないものさ。
 だが、確実に関係が変わったと言える時がやって来る。
 その年の冬休みの事だ、俺達はおじさんの仕事の関係で東京の別邸で過ごす事となったんだ。
 東京でもやる事と言ったら変わらない、空の目を盗んで夜の街に繰り出して喧嘩をするだけさ。
 そして、もっとも闇の深い時間、俺は新宿のビルの路地で夢に見る少女の影を見たんだ」
「その夢の少女ってどういう子なの…?」
「そや、それって結構重要やで!!」
「それが思い出せないのさ、夢を見ている間だけは覚えているが、目が覚めると霞のように記憶から消えてしまうんだ。
 その時も確かにその姿を見たはずだが、今となってはその姿を思い出す事が出来ない。
 まるで存在そのものが幻であるかのようだった」
「…」
「俺は少女の後ろ姿を必死で追いかけ、気がつくと都庁前の通りに出ていた。
 そして、俺は出会ってしまった。深夜の都庁前の通りで能力を使う男相手に戦う一人の女性に。
 身体にぴったりとフィットした破れたジーンズに、ライダースジャケットと言う趣きの長身の女性は、長いストレートの金髪や腰に下げたチェーンを振り乱し、能力者相手に一歩も引かない戦いを見せていた。
 だが、能力を持たない彼女がジリ貧になるのは目に見えていたので、俺は意を決して助けに入る事にした。
 しかし、彼女は不敵に微笑むと突然俺の唇を奪い、絶対的とも言えるような自我領域を展開させた。
 彼女はNo.2女教皇のアルカナを発動すると、1.5メートルはあろうかと言う斬馬刀を具現化させ、圧倒的な力で相手をねじ伏せたよ。」
「それって、確かブラフマンに続く二番目のアルカナで、トーナメントの準決勝で戦う相手じゃないか…!!」
「そう、彼女はブラフマンによる能力開発の真っ最中であった。
 それは小アルカナと呼ばれる者達との戦いだった。
 彼らは能力発動にパートナーを必要としない代わりに、能力の威力が大アルカナと比べて弱いんだ。
 彼女はパートナーと別れたばかりで、俺を強引に新たなパートナーと決めたようだった。
 俺は正直、心躍ったよ。
 夢に見た戦いの世界が目の前で繰り広げられようとしているのだから。
 そして、彼女は自分の愛車であるロータリー仕様のマツダ・ロードスターに俺を押し込むと、彼女の部屋に連れ込まれて身の回りの世話をさせられたよ。
 なんと言うか、彼女は自分の興味の無い事に対して全く無関心な人だった。
 昼間から酒を飲んでは眠り続けて布団から出ようとしない、自分の事も自分でやりたくない様子だった」
「とんでも無いねーちゃんやな…! なんか、親近感湧くで…!!」
「間違い無く大河系の人だな…」
「だが、夜が更けて戦いの時間になると一転するんだ。
 過激な言葉で相手を煽ってギリギリの危険な攻防を楽しみ、スリルに身を任せている間だけ生きている事を実感する。
 そして、暴力に対して圧倒的な暴力でねじ伏せる。
 彼女を言葉で現すとしたら、戦闘狂の快楽主義者さ。
 俺は彼女の存在そのものが探し求めていた真実の世界だと思い心惹かれて行った。
 そして、俺は彼女の誘う闇の世界に堕ちて行く」
「それはカッコいい人やな!! 俺も惚れてしまいそうやで!!」
「でも、空はどうしたの!? まさか放置したとか!?」
「そのまさかさ、俺は空の存在などすっかり忘れていたよ。
 だが、俺と空は思わぬ形で再開する事となる。
 No.2女教皇のアルカナの元パートナーであった男性が、No.5教皇のアルカナとして目覚め、空はそのパートナーとなり俺達の前に現れたんだ。
 教皇のアルカナは空の手の甲に口づけをすると、太刀と小太刀の二本の刀を具現化し女教皇のアルカナへと立ち向った」
「何が目的なんだろう…!?」
「それは俺達を止める為さ。
 空はずっと失踪した俺を探し続けていたらしい。
 そして、人の心を捨てつつある女教皇を止める為、パートナーを辞めてアルカナの力を手に入れた教皇と出会ったようだ。
 何処までも堕ちて行く俺の状態を知ると、何としてでも止めたいと思ったようだ。
 女教皇と教皇、二人の大アルカナによる戦いは熾烈を極めた。
 その戦いに魅入られた俺は空の言葉に耳を貸そうとはしなかったんだ。
 やがて、力の拮抗した二人の大アルカナが共に倒れそうになった時、小アルカナの中で最強クラスの一人であるクラブのキングが現れ、二人に止めを刺そうとしたんだ」
「卑怯者やな…!!」
「二人の大アルカナは一時休戦して、力を合わせてクラブのキングに挑んだ。
 それは女教皇にとって初めて意味のある戦いとなったんだ。
 戦いは彼女にとって捨て去る事の出来ない自分自身を構成する要素だが、誰かを守る為に戦うと言う目的を得て満たされたようだった。
 そして、守りたい相手であり、かつて愛し合っていた男と背中を合わせて戦う、それ以上に嬉しい事は無かったんだろう。
 彼女は良い笑顔で笑いながら戦っていたよ。
 だが、既に力尽きかけていた二人は、抱き合うような形で倒れてしまう」
「それが失恋の瞬間だったのか…」
「俺は失恋の痛みを誤摩化すように怒りに任せて、クラブのキングに向かって行ったんだ。
 それこそ、なんの力も持っていないのにな。
 結果は言うまでも無い。
 全身を細切れにされ瀕死の重傷を負った俺は止めを刺されそうになったが、それは自業自得だと思い自分の人生を諦めた。
 だが、空はそんな自暴自棄になった俺を庇って代わりに攻撃を受けたんだ。
 空は血に染まり倒れながらも俺の身を案じてくれていた。
 俺は空が側にいてくれる日常の大切さ、夢に逃げて見て見ぬふりをしてきた空への思いに気がついたんだ。
 失わないかけないと、そんな事を気づけない馬鹿野郎だったんだ。
 俺と空は死に瀕し、薄れ行く意識の中で唇を重ねた。
 その瞬間だ、俺の中でNo.19太陽のアルカナが目覚めたのは。
 再生能力によって空と自分自身を治療した俺は、何度も破壊と再生を繰り返しながらクラブのキングを倒したんだ。
 そして、俺は空と共にある日常を大切に守りながら生きる事を決め、今に至るってわけさ。
 それからはあの夢は一度も見る事は無くなったよ。」
「うわぁ、超壮大な物語だった!!」
「本が書けそうな次元やな!! 金に困ったらこれをネタに夕鶴に小説書かせる事にするわ!!」
「って、お前自分で書くんじゃないのかよ!!」
「舐めてもらっちゃ困るでっ!! 俺が小説なんて書けるわけないやろ!!」
「コイツ、やりやがるっ!!」
「ふっ、そろそろ地上のようだな」
「話が凄過ぎて夜景見るの忘れていたよ」
「ホンマやな」
「竜斗も内に秘めた思いがあるならば、それを行動に移すべきだ。
 何故ならば時は永遠に続くものではなく、終わりと言うものは唐突にやって来るものだから、その時に後悔しないように今を大切にするんだ。
 失ってからじゃ、何もかも遅過ぎるからな」
「そーいや、言い忘れてたんやけど、俺と夕鶴は今日で家に帰る事にしたで。戦いも一段落したし、元の身体にも戻れたしな。
 聖蘭さんも俺達を送った後、そのまま明日から休暇やって言っとったから、これはチャンスやで!! ガンバレや!!」
「…そうだね!!」
 竜斗は拳を強く握りしめた。

 午後10時。
 大勢の生徒達が取り囲む閉鎖されたメリメンパーク内で戦いが開始された。
 ライトアップされたポートタワーの下、No.19太陽のアルカナである奏真と空、No.11正義のアルカナである少年と少女の二組が対峙している。
 戦いは開始早々に膠着状態となって、互いにジリジリと間合いを保って牽制していた。
 正義のアルカナは右手に両刃の剣、左手に天秤が描かれた盾を具現化している。
 竜斗はトーナメントのBブロックでは奏真以外の試合以外を観戦した事が無かった為、正義のアルカナの戦いを見るのはこれが初めてであった。 
「あの正義のアルカナってどういう人なの…?」
「それがおれにも解らへんのや!!」
「うちも知らん生徒やね。なんて言うか他のアルカナと違って、強い個性が無いのが恐い気がするわ」
 そう、正義のアルカナである少年と、そのパートナーである少女を一言で現すならば平凡だ。
「貴方はボク達の事を覚えていないかも知れませんね、ですがボク達は貴方がしてくれた事は永遠に忘れませんよ。
 悪が支配するあの中学校においてあなたは唯一絶対的な正義を示し、悪に抗う力の無いボク達にとっては救世主であり憧れの存在でしたから」
「ふっ、この俺が救世主か…。まったく不本意な称号を付けられていたものだな。その気持ちだけは有り難く受け取らせて頂こう…!!」
 奏真は正義のアルカナの隙をついて、手にしたチャクラムで斬りかかる。
「きゃーーーっ、奏真センパイ!! 先に手ぇ出してしもうたらアカンよっ!!」
 観戦していた夕鶴が悲鳴に近い突っ込みを入れる。
「コレあれやろ!? 攻撃防がれた挙げ句に反撃されて、なんやとってなるパターンやろ!?」
「だからお前ら誰の味方だよ!?
 あの場面だったら反撃食らうのを覚悟して、相手の出方を伺うしかないんだし、少し奏真先輩信じて応援しようよ!!」
 正義のアルカナは左手に持った大きな盾で斬撃を防ぐと、右手に持った剣で接近した奏真に向けて斬りかかった。
 奏真はもう片方のチャクラムでそれを弾き返す。
 正義のアルカナの反撃が如何に鋭かろうとも、運動神経と洞察力に優れた奏真にとって避けられない攻撃ではなかった。
「ふっ、カウンターを狙っていたのは読んでいたさ」
「さすが奏真やなっ!!」
 大河が絶賛の声を上げ、奏真が不敵に唇を歪ませた瞬間、正義のアルカナも同時に笑みを浮かべていた。
「なっ!?」
 その場にいる全員が嫌な予感を感じた時には既に遅かった。
 奏真の身体は自我領域ごと切り裂かれ、真っ赤な血に染まっていた。
「ぐはっ、な、なんだと!?」
 奏真が受けたダメージは大きく、反自動的に再生しながらも片膝を付く。
「おにいちゃんっ!!」
 心配した空が駆け寄る。
 だが、そこに剣を突き立てた正義のアルカナが突進して来る。
「空、危ないから離れてろっ!!」
「うんっ…!!」
 奏真は剣撃をチャクラムで弾こうとするが、正義のアルカナは直前で剣を引き、彼の斬撃を盾で受け止めた。
 そして、またしても剣で斬りつけようとする。
「ああっ、また謎の反撃来るで!!」
「それは奏真先輩も解っているはずさ!!」
 奏真は先ほどの例もあるので、無闇にチャクラムで攻撃を弾いたりせず、防御態勢のままバックステップで間合いを空けた。
 だが、奏真の身体はまたしても、切り裂かれる事となる。
「ぐっ、そう言うことか…!! 盾で受けた攻撃をそのまま相手に返す能力と見たっ…!」
「しかも、避ける事は不可能です。攻撃力の高さが仇となりましたね」
「な、なんやと!?」
「そんなの最強やないのっ!!」
「…」
 大河と夕鶴が焦る中、竜斗は一人冷静な表情をしていた。
 正義の能力が決して最強とは思えず、奏真ならば当然として、自分でも勝つ事が出来ると思ったからだ。
「ボク達の信念は目には目を、暴力には暴力を、罪には罰を与える事、かつての貴方に教えられた絶対的正義です。
 ですが、今の貴方は人を傷つける罪人を止める事はあっても、決して罰を加えようとはしない。
 温いです、生温いんです。
 それでは、傷つけられた者達は納得しない。
 そして、人を傷つけようとする罪人が何時まで経っても消える事は無い。
 腑抜けとなった貴方に代わってボク達が唯一絶対の正義となります」
「ふっ、君は解ってないね…! この世で最も罪深き者…、それは正義の名に置いて暴力を正当化する者なのさ!!
 どのような理由があろうとも、決して暴力は許されるべきでは無いのだからっ!!」
 奏真はチャクラムを手を盾に向かって斬り掛かる。
「何度やろうとも同じ事っ!!」
 盾に向かって斬撃を繰り返す。
 斬る!!
 斬る!!
 斬るっ!!
「この盾が攻撃を受ける程、後で大きな攻撃を受ける事を解っていないのですか!? 死にますよっ!!」
「それはどうかなっ!!」
 斬撃は勢いを増し徐々に押されて行く正義のアルカナ。
「能力の発動条件はその剣を振りかざす事…、つまり反撃の余地を与えなければどうと言う事はないっ!!」
 正義のアルカナの盾が弾かれて無防備な身体が晒された瞬間だった。
「しまっ…!!」
 奏真のチャクラムが自我領域を切り裂き、正義のアルカナは地面に両膝をついた。
「貴方が正義で無いとしたら一体…!?」
「俺はたった一人の大切な存在を守る為ならば、如何なる罪だろうが背負い、如何なる罰をも受ける覚悟をしているだけだ。
 そう、例え友を殺す事になろうとも構わない。
 罪悪感や痛みに心と身体が引き裂かれようとも決して止まらない、それが俺の持つ唯一絶対の力だ」
「…貴方ならば彼らを倒す事が出来るかも知れません」
「彼ら…?」
「中学、高校と生徒会長を操り、影から暴力の支配する世界を楽しんで来た者達…、その代表です。
 彼らは絶対に勝ち上がって来るはずです。
 本当はボク達がこの手で倒したかった…。でも貴方に託します…」
 そう言うと正義のアルカナはパートナーの少女と共に倒れ、その身体を夜の闇へと霧散し、No.11のカードへと変わってしまった。
「き、消えた…!?」
 竜斗の声と同時に周囲のギャラリーから悲鳴が上がった。
「死んでもうたんか…?」
「うぁん、まんまんちゃーん!!」
「彼らは集合意識が産んだ思念体だ」
 試合を取り仕切っていたブラフマンの声は、ざわめきの中でも不思議と通るようだった。
「この世界には自我領域のように人々の思いが力を持ちやすい場所が存在する。
 例えば恐山、鎌倉、東京、高尾山、富士山、京都、出雲など…。そして、六甲山を有するこの神戸も含まれる。
 そのような場に置いて信仰や、妖怪伝承や都市伝説の噂を耳にする事も多いと思う。
 それは集団意識や強い思いが具現化し、感受性の強い者に働きかけ、影響を与えているからだ。
 私はそのように自然発生し力を持った事象を小アルカナと名付け、大きく分けて4つの種類、13つの段階に分類した。
 人間に制御可能な能力として発現した場合、クラブ。
 人間の精神に取り憑く形で発現した場合が、ハート。
 妖怪や幽霊等に具現化されて発現した場合、スペード。
 超常現象や事件として原因が不明の場合は、ダイヤ。
 便宜上56種類に分類したが、人が心を持った存在として生きている以上、永遠と発生し続けるものであるだろう。
 そして、このトーナメントには特に強い力によって大アルカナとして具現化した、思念体や人間が数名参加している。
 たった今、消滅した彼らは君達の集合意識が具現化した思念体であり、君達自身であった事を知っていて頂きたい。
 では、本日の勝者はNo.19太陽のアルカナとする」
 奏真は空を強く抱き締めながら、手に入れたNo.11のカードを天高く掲げた。
「具現化された思念体や人間…、そんな事があるんだろうか…?」
 竜斗は酷く不安になった。
 1999年7月27日(火)
「あのさぁ、姫…」
「あらあら、改まってなんですの?」
 竜斗と姫は風見鶏の館の朝食の間で朝食を取り終わった所だった。
 大河と夕鶴は実家へと帰り、聖蘭は休暇を取っている為に広い屋敷に二人きりであった。
 朝食は予め聖蘭が用意していたパンとスープを姫が暖めたものである。
「今日は二人きりだしさ…、何と言うか…、したい事があるって言うか…」
 そう言う竜斗の顔に迷いの色が浮かんでいた。
「言いたい事があるならはっきり仰って下さいな」
「いや、そうなんだけどさ、何か色々と自信が持てないんだよね…」
「ふふふっ、意気地がありませんわね。では、こちらの方からお誘いさせて頂きますわ。今日は一日わたくしと付き合って下さいませんこと?」
「あ、うんっ、付き合うよっ!!」
「ふふふっ、では、早速行きましょうか」
 竜斗は姫の後に付いて行って地下の厨房で食器を洗った後、そのまま地下室の一角に連れて来られていた。
「いざ始めましょうか」
「ここって、前に使わせてもらった地下のコンピューター室じゃないか! まさかこんな所であんな事やそんな事を!? それも悪くないっ!! 悪く無いけどっ…!!」
「あらあら、鼻の下を伸ばして何を想像していらっしゃいますの? わたくはお仕事に必要だからここに来ただけですわよ」
「えっ、付き合うって、もしかして仕事を手伝えって事!?」
「ふふふっ、期待と違って残念でしたわね。その迸る若いパトスを仕事で発散させて下さいまし」
 姫は竜斗をからかうように微笑む。
「ううっ、色んな意味で悔しい…!!」
「やりたい事があるのならば、はっきり言えばよろしくてよ。それが対等な大人としての言葉であれば、わたくしは受け入れますわよ」
「まぁ、今はそれで良いさっ!! 姫にはお世話になっているし、ここいらで恩を返すのも悪く無いし!!」
「あらあら、何も泣く事はありませんわよ」
「べ、別に泣いてなんか無いんだからねっ!! 僕は目から汁が出やすい体質なだけさっ!!」
「ふふふっ、お鼻も出やすい体質なんですね」
 と姫は竜斗の顔をハンカチで拭う。
「ぼ、僕は男だしっ、そんな事されても全然嬉しくないんだからっ!!」
 と言いつつも本当は凄く嬉しい実に乙女っぽい竜斗であった。
「では、説明致しますけど宜しくて?」
「良いけど、何か嫌な予感がするんだよな」
「簡潔に言いますと、わたくしの仕事は幽霊や妖怪を退治したり、怪奇現象を解決する…祓魔師と呼ばれるものですわ。
 神戸は昔からその手の話が多い事で知られていますが、近年では震災の影響か人々の心の闇が肥大化し、加速度的に増加している傾向にありますわ。
 もう、従来の怪談や都市伝説に止まらず、UMAやUFOまで何でも御座れな状態になってますわ」
「うわっ、やっぱりホラー系だったよ!! やめてよね、目から汁が出ちゃうだろっ…!!」
「あらあら、そんなに怖がる事はありませんことよ。
 何せブラフマンはそれを小アルカナと呼称し、大アルカナと比べれば取るに足らない事象であると考えているぐらいですもの。
 わたくしや貴方のように気を学び、無能力者でありながら大アルカナを倒せるぐらいの力があればお茶の子さいさいですわよ」
「でもなぁ、大アルカナは強くても人間だから別に恐く無いけど、小アルカナは弱かったとしても人間じゃないのも居るしな」
「まったく、お馬鹿さんですわね」
 姫はクスクスと笑う。
「えっ、何で?」
「例えば肉体を持つ人間が貴方を殺そうと思ったら、刃物で心臓を刺せば良いだけの事ですが、肉体を持たぬ人外が貴方を殺そうとしたらどうですの?」
「えっと、呪い殺そうとする…?」
「そうですわね、せいぜい心や身体の弱みに付込んで来るか、回りくどい事をする程度しか出来ませんわ。
 そんなものは付け入る隙を見せなければ無害も同然ですの。
 万が一弱みを見せて憑かれる事があったとして、生命力に満ちた者は殺す事は出来ず、出て行くか成仏するしかありませんわ」
「なんか、小アルカナって風邪みたいだな」
「それは鋭いご意見ですわ。
 昔から弱り目に祟り目、病は気からと言いますが、わたくしは病気も憑依によって引き起こされると考えていますの。
 つまり、生命を操る力である気を学んだ者は、風邪程度に屈する事はありませんわ」
「そうか、だから姫はあんなに雨風を浴びても風邪惹かないのか…!」
「あら、貴方も同条件で風邪を惹いてませんですわよ」
「うわっ、そう言えばそうだ!! しかも、最近は疲れが続かないし怪我も早く治る!! 意外な所でも修行の成果が出始めているんだな!!」
「まぁ、お馬鹿は風邪惹かないって言いますしね」
「あ、それ言っちゃう…!?」
「ですが、全ての人間がわたくし達のように強く生きる事は出来ないんですの。
 誰だって心や身体が弱る事があれば負い目の一つや二つはありますし、抵抗する術を持たない人にとってそれが脅威である事に違いありませんわ。
 だから、わたくしのような仕事が必要になるんですの。
 誰にだって出来る事と出来ない事はありますし、出来ない人に代わって出来る人が動く…助け合って生きる事がお仕事と言うものですわ」
「僕にオバケ退治が出来るって自信は無いけどね」
「これから自信をつけて行けば良いだけですわ。
 では、パソコンを起動致しますわね。
 困ってらっしゃる方からお仕事の依頼を受ける事もあれば、わたくしから営業をかける事もありますわ。
 なにせ、超常現象が原因だと気がついてらっしゃらない方が多いものですから。
 その為にインターネットを使って小アルカナが関係する事件をピックアップする独自なアルゴリズムを開発したんですの」
「ここにあるコンピューターって趣味じゃなかったんだ」
「ふふふっ、半分趣味である事は否定出来ませんわね。
 それで、今現在ピックアップされているものや、依頼を受けた仕事の内容はパソコンの画面上に表示されるようになっていますわ、ご覧下さいな」
「えっと、今表示されているのは二件か…。
 一件目は六甲山でターボばぁちゃん退治の依頼。
 県道82号線で速い車やバイクを追いかけ、事故を多発させる老婆が出現している。
 若者達の間でターボばぁちゃんと呼ばれ恐れられ、全国的規模で噂が広がりつつある為、速やかな対策を願う。
 これはまさしくって感じだ…!
 依頼主は警察で…、うおっ、凄い金額だ!! こりゃ、本当に宝くじなんて目じゃ無いね…!!!」
「専門的な職業には専門的な道具が必要となりますが、絶対的な需要量が少なく量産出来ない物は高価になる為、当然の如く経費も高くなってしまいますわ」
「必要な道具って?」
「代表的なもので言いますと、銃で射出して使う弾丸型の結界ですわ。
 小アルカナのようなあやふやな存在を相手にするのには、特殊な力場を発生させて束縛しないと逃げられてしまいますもの。
 もっとも、ブラフマンの暗示を受けた者ならば自我領域を使って代用する事は可能でしょうが、超常的な能力を持たざるわたくし達は道具に頼らざるを得ませんわ」
「そういう物って何処で売ってるの?」
「あらあら、もうお忘れになられたんですの? 中華街の闇道具屋には連れて行って差し上げましたはずですわよ」
「ああ、あのお店か…!!」
「ふふふっ、お金次第で合法・非合法問わず何でも用意して頂けるお店ですから、入り用でしたら是非お尋ね下さいな」
「そんな物を必要とする場面は無いとは言い切れない自分が恐ろしい…!!」
「二件目は須磨ニュータウンで、引きこもり少年宅の周囲で動物の殺傷が多発しているって事件ですわ。これはコンピューターが自動的にピックアップしたものですわね」
「これは猟奇事件であって怪奇事件じゃないと思うんだよな」
「いえ、おそらく自己表現が下手で心に傷を負って部屋に引き蘢ってしまった少年が周囲な勝手な思い込みで非ぬ噂を立てられ、歪められた心が具現化して事件を起しているんでしょう。
 一種の生き霊…ポルターガイストのようなものですわ。
 近年になって神戸では子供による重大な犯罪が多発し、自分の子供を守る為に人の子供に疑いの目を向け、傷つけられた子供が犯罪を犯すと言う悪循環が出来ていますの。
 今は小さな事件かもしれませんが、その子の心が折れて生霊に憑依された時、大きな事件が起きる可能性がありますわ」
「そんな…!! どうにかしてあげられないかな…!?」
「現状では警察や自治体も重要視していませんですし、ご両親だって如何わしい除霊に大金を払う事は無いでしょうし、利益を上げる事は難しそうですわね。
 経費がかかる以上、赤字は頂けませんわよ」
「例えば闇道具屋さんにお願いして値下げしてもらって、全体的に利益を下げるとか出来ないかな?」
「このような専門職の場合、単価を下げても絶対的な需要量があるわけではありませんから、業界全体を守る為にも価格の水準を保つと言うのは暗黙の了解となってますわ。
 もし悪戯に価格を下げてしまえば、わたくし達のような現場の者だけではなく、裏方で屋台骨を支える方達の生計をも苦しめてしまう事にもなりますわ」
「でも、なんとか出来る事があるはずだ…!!」
「人の為に一生懸命になる事が出来るのは貴方の良い所ですが、貴方が出来る事には限りが有るって事を忘れてはなりませんわ」

「なんか、ゾクゾクするような違和感があるな」
「ええ、確実にいますわね」
 竜斗と姫はターボばぁちゃんが出現すると言われる六甲山の北側を通る県道82号線にやって来ていた。
 鬱蒼とした木々に囲まれた峠道で荒れた路面に沢山のタイヤ痕が刻まれ、夜な夜な走り屋達がドッグファイトを繰り広げている事が見て取れる。
「でも、姿が見えないな…。このまま出て来なければ良いんだけど…」
「こういうものには出現条件があるんですの。依頼内容を見る限り今回の場合はスピードの出ている車やバイクを追いかける為に出現するようですわね」
「でも、真夜中に変な儀式をするとかじゃなくて良かったよ」
「あら、中にはそう言うのもありますわよ」
「うわっ、やめてよね…!」
「ふふふっ、あえてそんな仕事を手伝って頂き、貴方の泣き顔と言うご馳走をたっぷり堪能するのも悪くありませんわね」
「意地悪だなぁ…」
「あら、それも一種の愛情表現ですわよ」
 そう言うと姫は突然スカートをたくし上げる。
「うわっ、何を突然っ…!?」
 数々の危険物が潜む文字通りのデンジャーゾーンが視界に飛び込んで来て、竜斗は慌て真っ赤になった顔を手で被う。
 そして、姫は白い太腿に括り付けてあった黒い筒状の物体を取り出した。
「またしても、見てはいけないものを見てしまった…」
「これはソードオフ・ショットガンですわ。
 通常のショットガンと違い銃身が短いので長距離射撃には向きませんが、発射直後に散弾が拡散する為に至近距離での有効性に優れているんですの。
 弾丸はもちろん先ほど説明した結界弾ですわ。
 これから、わたくしが車で走り抜けますので、貴方には出現した対象に結界弾を打ち込んで頂きたいんですの」
 そう言うと姫は竜斗にそれを渡す。
「こ、これは…!!」
「意外とズッシリしてますでしょ?」
「いや、ほんのり温かいんだっ…! しかも、良いにおいがっ…!!」
「まったく、お馬鹿さんですわね」
「これを越えるビッキクリドッキリメカはそうそう無いね!!」
「予備の結界弾を使用する事を考慮して経費を多めに計上していますが、一撃で決めるに越した事はありませんわよ。
 初めての仕事で思う事もあるでしょう。
 確かに貴方に出来る事は限られているかもそれませんが、だからこそ出来る事に集中すれば良いんですわ。
 今は目の前の仕事を成功させる事だけを考えて下さいな。
 竜斗さん…、わたくしは貴方を信じてますわよ」
「うん…!!」
 そして、作戦は実行される事となる。
 姫はディアブロに乗り込むとワインディングロードのコーナーの向こう側へと消え、暫く走り続けた後にタイヤが路面滑るスキール音が響く。
 おそらくスピーンターンをしたのだろう。
 そして、間髪入れずにアクセル全開の甲高いエクゾーストノイズが山中に響き渡った。
 その音を聴いた瞬間、張り詰められた空気が破裂するような感じがして、竜斗は背筋を凍らせた。
「始まった!?」
 間違いなく、その瞬間何かが起きたと言う確信がある。
 シフトアップ・シフトダウン、ブレーキを激しく繰り返し姫の車が近づいて来る音と共に、ただならない気配が近づいて来るのを感じる。
「なんか、自分自身が否定されて消えてしまいそうな感じだ…!!」
 全身を貫くような悪寒に竜斗は身を震わせる。
「今はまだ姿が見えないけど、間違い無く近づいて来ている…!! そろそろ射撃の準備をしないと…」
 竜斗は銃身を構えて視界の先に照準を合わせようとするが震えが止まらなかった。
「ダメだ、プレッシャーで震えが止まらない…!!
 こんな時、どうすれば良いんだろう…!? 自分に出来る事を考えろっ!! 考えるんだっ!!!」
 しかし、竜斗が自分自身を奮い立たせる間もなく、視線の先からディアブロの低いボディがコーナーを曲がって来るのが見えた。
 そして、その後ろからもの凄い形相をして迫り来る白装束の老婆が薄らと見える。
「うわっ、本当に出たっ…!! 
 でも、言っちゃ悪いけどかなり存在感が薄いぞ…! あれじゃトーナメント初戦の大河の能力以下じゃないか!!
 この威圧感だって大アルカナの能力攻撃の感覚に似ているけど、工藤や宝塚さんには遠く及ばないよ!!
 そうだ、こう言う時は深呼吸…、もとい臍下丹田式呼吸法だ!!」
 竜斗が腹式呼吸をすると手の震えはピタッと収まり、照準は迫り来る老婆に向けてピッタリと定まった。
 そして、大気を振るわせるように咆哮したディアブロが加速し、風を切り裂き黒い機体が眼前を駆け抜けて行った。
「今ですわ…!」
 その瞬間、姫の顔が制止して見え、声が聞こえたように思えた。
「解ってるさ…!!」
 ディアブロに対して大きな遅れをとった老婆が、竜斗の前を通り過ぎようとした時だった。
 パンと言う炸裂音と共に煌めく光のようなものが飛び散り、自我領域に近い空間が広がって老婆を被った。
 老婆はそれに構わずディアブロを追いかけようとするが、不可視の壁に打ち当たり高速で足を空回りさせていた。
「まるでゼンマイ仕掛けの玩具のようだ…。でも、捕まえたけど、コレどうすれば良いんだろう!?」
 その時、再びスキール音を響かせて姫の車がスピンターンして戻って来た。
「よくやりましたわね!」
 姫は車から降りて来るなり竜斗の手を強く握り、その唇に口づけをした。
「ひ、姫…!?」
「頑張った貴方へのご褒美ですわ。それともわたくしの口づけは嬉しくなくて?」
「いや、嬉しいんだけどさぁ…!!」
「なら、よろしくてよ。では、後片付けと参りましょうか」
「片付けるってまさか…!?」
「ふふふっ、それは決まってますでしょ…!」
 姫はスカートの中から刀を抜き出し結界の中に飛び込んだ。
 結界内に閉じ込められていた老婆は先ほどまで追い駆けていた車のドライバーを見つけると、怒りのあまり頭部を人間のそれから巨大な牝牛のものへと変化させ、猛牛のように地面を足で掻く。
「変身した!?」
「どうやら正体を現したようですわね」
「正体って…?」
「あの姿…、太平洋戦争時代の神戸で噂になった牛女ですわね。
 当時、牛を解体する屑場を営む裕福な家で娘が牛の頭を持って産まれたんですが、体裁を保つために牢獄に幽閉されて育てられ、神戸大空襲の際に六甲山に逃げ出したと言う怪談が流行したんですの。
 その後、六甲山にたむろす暴走族が牛女を祀る岩を蹴った事で、度々出現してはスピードを出す車やバイクを追い掛けるようになったと言う尾びれがついて、現在のような話に形を変えて行ったんでしょうね。
 いずれにしても武力行使あるのみですわ!!」
 そして、牛女は身の毛もよだつような雄叫びを上げ、小柄な少女に向かって猛突進した。
「危ないっ!! ぶつかるっ!!!」
「そんな攻撃、避けるまでもありませんわねっ!!」
 だが、姫は落ち着き払った様子で迫り来る牛女に向かって華奢な片腕を突き出した。
 姫のまとった陰陽の気と、牛女のまとった陰の気が激しくぶつかり合い、結界内に白と黒が入り交じった光が飛び交う。
 牛女はアスファルトを削りながら姫に対して突進し続けるが、姫の小さな身体は大地に根を下ろしたかのようにビクとも動かない。
 そればかりか、白魚のように白く愛らしい手は、巨大な牛の頭を握りつぶさんとする勢いで食い込んでいた。
 そう、姫は片手一本で敵の攻撃を押さえ込んでしまったのだ。
「御免遊ばせっ!!」
 そして、姫は全体重を乗せた回し蹴りを牛女へと繰り出す。
 その異形の姿が飛ぶっ!!
 牛女はまるでスーパーボールのように結界内をバウンドし地面に叩き付けられ、怒り狂って咆哮を上げた。
「あらあら、休んでいる暇はありません事よっ!!」
 だが、間髪入れず銀色の斬撃が閃く。
 斬る!!
 斬る!!
 斬る!!
 最早、相手の反撃を許さない圧倒的な滅多切りである。
「な、なんて、かっこ良いんだ…!!」
 竜斗はあまりに凛々しい姫の後ろ姿に見惚れてしまい身を振るわせる。
 例えるならば小さな巨人だ。
「初めて見た時と変わらない、あの時と同じ後ろ姿だ…! そう、僕はずっとこの後ろ姿に憧れて追い駆けて来たんだ…!!」
「何を惚けてらっしゃいますか?! 幾らわたくしでもこんな硬い相手を一人で倒すのは骨が折れますわ、助けて下さってもよろしくてよ…!」
「僕が助ける…!?」
「ええ、近年牛女が出没すると噂される寺で、若者が肝試しを行うのが流行していると言う話を聴く為、強い存在感を得ていると考えられますわ!!
 でも、わたくし達二人で力を合わせればどうと言う事ありませんわ!! 頼りにしてますわよっ!!」
「ああ、任せてくれっ!!」
 竜斗は腰に下げた二組の短刀を抜き取ると、喜々として結界内の戦場に躍り出た。
 そして、姫と二人で異形の姿を挟み込むように斬撃を繰り出す。
 右斬り!!
 左斬り!!
 右斬り!!
「まさか、僕が姫と肩を並べて戦える日が来るなんてねっ!!」
「あらあら、また泣いてらっしゃるの?」
「嬉し涙だよっ!!」
「うふふっ、あれだけ頑張って来たんですものね!!
 でも、努力の日々に終わりはありません事よ、貴方にはわたくしを越えて頂かなければ困るんですからっ!!」
「そのつもりさっ!!」
 竜斗は右蹴りを浴びせつつ、回転しながら右で流し斬り、そのまま身体を捻って左踵蹴りを叩き込み、右突き、左突きと連続して突きを繰り出す。
 咆哮を上げてますます存在が曖昧になって行く牛女。
 それは大アルカナの自我領域が消えて行く時の感覚に似ていた…、つまりダメージの限界が近いと言う事だ。
「最後は二人で決めますわよっ!!」
「了解っ!!」
 竜斗と姫は溜め込んだ気をそれぞれの武器に込め渾身の斬撃を放つ。
 姫の一文字斬り!
 竜斗の十文字斬り!
 牛頭の老婆の左右から放たれた閃きは、その異形の身体を細切れにして霧散させた。
「ふふふっ、わたくし達の共同作業にかかればこんなものですわね…!」
 
「どうしたんですの、そんなに浮かない顔をして?」
 携帯電話で道路閉鎖の解除や報告等の一通りの手続きを済ませた姫は竜斗の顔を覗き込んだ。
 劇的な勝利の後だと言うのに竜斗は、何か真剣な面持ちで考え事をしているようだった。
「いや、さっきの都市伝説が何処まで本当だか解らないけど、僕だったら静かに眠っていたいのに、心無い人達の悪戯で邪魔されたら嫌だなぁって…。
 それに夜な夜な肝試しなんかされたらお寺の人も迷惑だしね」
 竜斗はディアブロの扉を開け放ちサイドシルに手をかけて助手席に乗り込もうとする。
「そうですわね、わたくしも牛女さんの気持ちは痛い程解りますわ…。
 では、わたくしの方から住職さんにご連絡を入れ、牛女は引っ越しましたと書いた紙を貼って頂くようにご提案しますわ」
 姫は竜斗が席に座るのを確認すると華麗に運転席に滑り込む。
「って、そんなんで大丈夫なのかな!?」
「ふふふっ、人間心理なんてそんなものですわ、きっと牛女さんも安心して眠れる日々を取り戻せますわよ」
 そして、ディアブロのイグニッションキーを捻って、山中にエキゾーストノイズを高にかに響かせた。
「それでは、次の物件に移動するとしましょうか」
「えっ、次の物件って…?」
「あら、そんなの決まってますでしょ!」

「須磨ニュータウン…それは神戸の西側に位置する団地群ですわ。
 元々は神戸の海に浮かぶ人工島ポートアイランドを埋め立てに使う為の土砂の採掘場であり、山を切り崩した跡地にそのまま団地を建造したんですの。
 だから、街には至る所に大きな高低差があり、低い位置に作られた道路を跨ぐように歩道橋が掛けられ、歩行者が車道に出る事なく行き来出来るようになっているんですわ」
「よく考えられた街なんだね」
 竜斗達は車を駐車場に停めて、少年の生霊が出没すると言う場所へと向かっていた。
 夕方と言う事もあり遊歩道には部活を終えた学生や、遊び疲れた子供達、パートや買い物を終えた主婦達が行き交い、あちこちからまな板を叩く包丁の音や、夕飯の臭いが漂って来ていた。
 画一的な集合住宅が何処までも連なっているが、ニュータウンと言う言葉から連想される無個性で非人間的な印象は無く、人々の生活に根付いた親しみやすい雰囲気であった。
「なんか暖かい感じがするんだけど、本当にこんな所に生霊なんて出るのかな?」
「わたくしはいると思いますわ。
 どんなものにも光と闇が存在し、光が強くなればなる程に闇もまた濃さを増すと言うものですから。
 目に見えやすい表面的なものだけでは無く、目には見えにくい裏面も含めて総合的に判断する事は重要ですわよ」
 姫の言葉を証明するように、一歩山沿いに入ると時代から取り残された一戸建てが立ち並ぶ地区になり、そこに暮らす人々の抱える闇が深い事を肌で感じられた。
「急に雰囲気が重くなったな…」
「気を操る術を学ぶ事で、自分以外の気の流れも感じる事が出来るようになるんですの。この気を辿って行けば目標に辿り着く事が出来ると思いますわ」
 そして、集落の一角にある寂れた公園で虚ろに立ち尽くす小さな影が佇んでいた。
「やはり、いましたわね」
「でも、本当に良いの?」
 竜斗はその影を前にソードオフ・ショットガンに結界弾を装弾しながら聴く。
「ええ、前の仕事のついでに余った結界弾を使うだけですもの、余計な経費はかかっていませんから。
 本当に人から必要とされる仕事であるならば、単独で利益を出す事が出来なくても総合で損失を出さないように巧みに切り抜ける、それが真の仕事人と言うものですわ」
「姫って本当に正義の味方だったんだね!」
「あらあら、わたくしを一体何だと思ってらして?
 わたくしは始めから正義の味方のつもりでしたわよ、もっとも、今回は貴方が頑張って下さったから助かりましたけど。
 さぁ、貴方自身の手でこの素晴らしい初仕事の幕を締めて下さいな」
 姫は本当に嬉しそうな表情で竜斗の肩を叩いたニッコリと微笑んだ。
「うん…!」
 竜斗は小さな影に向かって結界弾を打ち込み、展開された特殊な力場の中にそれを閉じ込め、腰に下げた双刀を抜きつつ結界内に入る。
 だが、見えない周囲の目に怯えるように膝を抱えて震える影は、竜斗や姫と比べてもあまりに小さく、小さな子供と言っても過言では無いぐらいであった。
 竜斗は臨戦態勢をとったまま暫く考え込んでいたが、意を決したように手にした刀を捨て去る。
「いくら生霊とは言え傷ついた子供に手を掛ける事は僕には出来ない…」
「ではどうするんですの?」
「異物を排除する事以外にも解決方法はあるはず…! どんな方法だろうと僕は全力でぶつかるだけだよ…!!」
 影は歪に拗じ曲げられた生の感情や殺意の念を飛ばして来るが、竜斗は下腹に力を入れて自我を強く保ちながら歩み寄ると、微笑みかけながら手を差し伸べた。
「さぁ、立ち上がるんだ…!」
 竜斗は影の手を握り自分の足で立ち上がらせると、その不確かな身体を強く抱き締めた。
「今までみんなに誤解されて辛かったね…。
 誰だって好きで悪者になりたいわけじゃない、傷ついて追いつめられて仕方無かったんだよね…。
 君が困っていても誰もが見て見ぬふりをして、手を差し伸べてくれる人が居なかったんだよね…。
 僕と姫は君が本当は良い子だって知っているよ…。
 君の事を解ってあげられる…。
 一緒にいてあげるから今は泣いて良いよ…。
 めいいっぱい泣いて、泣き飽きたらもう一度がんばろうよ…」
 影は竜斗の胸の中で小さな身体を嗚咽するように小刻みに振るわせると、夕焼けの中に溶け込んで言った。
「行ってしまいましたわね」
「あの子、立ち直れると良いね…」
 竜斗は涙を拭きながら言う。
「生霊から解放されて大分負担が減るとは思いますが、あとは本人の頑張り次第ですわね。
 でも、きっと大丈夫ですわよ。
 貴方の優しい思いは確かに伝わっているはずですから」
「うん、そうだね…!」
 夕焼けの中で竜斗は姫の手を強く握りしめる。
 姫の温かい手から伝わって来る安堵感は竜斗の緊張を解き放ち、憧れの姫と肩を並べて仕事をやり遂げた誇らしさで胸が一杯になった。
 周囲に立ち籠めていた暗い雰囲気も、この気持ちの良い夕空のように浄化されて行くようだった。

「ねぇ、姫…」
「あらあら、改まってどうしたんですの?」
 風見鶏の館の食堂で二人きりの食事を済ませた後、竜斗は意を決して姫に話しかけた。
「僕、姫に伝えたい事があるんだ。でも、その前に一緒に踊ってくれないかな?」
 そう言う竜斗の顔は朝食後の時と打って変わって自信と確信に満ち満ちていた。
「ふふふっ、久々に良いですわね」
「僕がエスコートするよ」
「お願いしますわ」
 竜斗は姫の小さな手を取ってバルコニーへと導く。
 バルコニーの開け放たれた窓からは小望月の優しい明が差し込み、清らかな風が通り抜ける中で虫の鳴き声が響いていた。
「もちろん、曲は月下の夜想曲でね」
 ベランドの角に置かれた蓄音機がゴシックめいたパイプオルガンの音色を響かせる。
 イントロがの間互いに見つめ合う二人。
 ボーカルが流れ出すと互いの手を取り、互いの腰の後ろに手を回し、下半身と下半身を密着させて軽やかなステップを踏む。
 姫の身体はあまにりにもしなやかで柔らかく、両腕で全て包み込んでしまえるほど小さくて愛らしかった。
 竜斗の中に眠る男性的な本能が目覚め、密着した姫の下腹部へと熱いパトスを伝えながら、全く臆する事なく頼もしい力強さで動きをリードする。
 姫は女性的な本能でそれをしなやかに受け入れ、恍惚とした表情で竜斗の作り出す流れに乗って行く。
 時に互いの頬をすり寄せるかのように近づく。
 時に互いの身体を突き放すかのように遠ざける。
 時に大輪の華を咲かせるかのように、髪や衣服を大きく振り乱して回る。
 あまりにも激しく情熱的な輪舞に互いの胸は止めどなく高まり、心と身体が解け合い世界は二人だけのものとなって行く。
 曲の終わりと共に竜斗は姫の身体を引き寄せると強く抱き締め、ゆっくりと離れると膝を折って姫の手の甲に口付けた。
 その顔は最早少年とは言えない精悍さに満ちていた。
 姫は竜斗の手を取って立ち上がらせると、その顔を愛おしむように柔らかく撫でる。
「見違えるようにお上手になりましたわね」
「ああ、身体の使い方を覚えたと言う事もあるけど、次にどうすれば良いのかって、自然に解るようになったんだ」
「ふふふっ、それは貴方がわたくしと同じ、理の概念に目覚めつつあるからですわ」
「ことわりって?」
「簡単に言うとこの世の全てに意味があると考える思想ですわ。
 理は気の条理、気は理の運用と言いますが、森羅万象を構成する力である気を学ぶ事で、直感的に様々な事柄を関連付けて考え、物事の本質を感じ取れるようになりますの」
「そうか、あの宝塚さんとの戦いの前の作戦、あれがその練習を兼ねていたんだね」
「ええ、貴方は元々素晴らしい感性をお持ちでしたが、あの鍛錬を経る事でより高い次元へと歩み出しましたわ。
 その次の戦いでは大きな流れを引き込む選択肢を選び抜き、わたくしや他の方々の力をひとつに合せる大活躍を致しましたわね。
 そして、今ではわたくしの予想をも上回る答えを導き出せるようにもなりました。
 貴方ならばやがて悟りに至る事が出来るかも知れませんわね」
「悟りって仏教の?」
「そう、悟りとは仏陀ことゴーダマ・シッダルタの教えを元に作られた仏教の到達点であり、因果応報の原因を取り除く事で苦しみの輪廻から解脱する事ですわ。
 仏教はヒンドゥー教を元にして作られていますが、アートマン…ブラフマンと同一視される永遠不滅の魂を否定している事が違いとされています。
 つまり、ヒンドゥー教は死ぬ事により永遠に生まれ変わり続けられると考えていますが、仏教は死ななくても学ぶ事が出来れば幾らでも生まれ変われると考えていますの」
「そうだよな、人が死んだら生まれ変われるなんて保証は何処にも無いし、精一杯生きて行く中で何かを学び、自分自身を変えて行くべきだよな…!!」
「仏陀は人の身ではありますが、ヒンドゥー教の創造者ブラフマン、破壊者シヴァと並ぶ三神一体の保持者ヴィシュヌの分身であると言われていますの。
 旭陽昇がブラフマン、青海奏真がシヴァだとするならば、貴方は仏陀のように思えてなりませんわね」
「そんな、大げさな…」
「ふふふっ、わたくしはそれだけ貴方を信じていると言う事ですわ。
 人は運命を受け入れそれに準じる事で、大きな追い風を味方にする事が出来るんですの。
 それはこの世界を意のままに造り変えようとするブラフマンの到達点、No21世界に相対する事が出来る唯一にして絶対の力となります。
 ここまで頑張ってこれた貴方ならば、きっと最後までやり遂げられると思いますわ」
「でも、僕がここまでやってこれたのは、姫が支えてくれていたおかげだよ。
 心が折れそうになった時は励ましてくれた。
 間違った道を歩もうとしたら叱ってくれた。
 色々な事を教えてくれるけど、本当に大切な事は僕自身で気付けるように導いてくれた。
 僕の気持ちを大切にして、僕がやろうとしている事を影から手助けてくれた。
 嬉しくて、嬉しくて、ずっとお礼が言いたくてたまらなかったんだ。
 ありがとう、本当にありがとう、姫…」
「あたり前の事だと思っていたので、お礼を言われると恥ずかしいですわね…」
 姫は真っ赤になった自分の顔を見せないよう下に俯く。
「姫…、今こそ伝えたかった気持ちを言うよ…」
 竜斗は姫の両肩に手を乗せて向き合う。
「好きだよ、姫…」
 そして、竜斗は逞しくなった腕で姫の華奢な身体と小さな頭を抱き締め、白く形の良い耳に囁くように言う。
「小さな身体で信じられないぐらい強い姫…。
 厳しいんだけど優しい姫…。
 賢くて意地悪な姫…。
 スケベでエッチな姫…。
 そして、時々寂しそうな姫…。
 僕はそんな姫の全てが大好きでたまらない…。
 だから…、だから、僕の恋人になってほしいんだ…」
 二人を柔らかい風が包み込み込む。
 そして、姫は竜斗の身体を強く抱き締め返し、嗚咽を漏らしながら涙を零した。
「嬉しい、嬉しいですわ…」
 姫は声を掠れさせながら呟いた。
「わたくしはこの時をずっと待ってましたの…。
 ほんとうに、ずっと、ずっと、気の遠くなるほど、ずっと昔から…。
 長い旅の果てに貴方と出会う事が出来て、わたくしと肩を並べる事の出来る大人の男へと成長し、互いの心と身体を重ねられる時を迎えられる…!」
 姫は止めどなく涙を零しながら竜斗の唇を奪う。
 互いの舌を絡ませ、ふわふわとした髪の感触を楽しみながら頭を抱き、背中をなぞり尻の谷間まで愛撫する。
「喜んで貴方の恋人にさせて頂きますわ…!」
 そして、風見鶏の館の二人きりの夜は更けて行く。
 やがて日付が変わる頃、姫の寝室のベッドサイドテーブルに置かれた竜斗の携帯電話はiModeメールを着信して密かに光を放っていた。
 1999年7月28日(水)
「ねぇ、竜斗…! 起きて…! 起きてってば…!!」
「う、うん…!?」
 身体を揺さぶられて起された竜斗の目の前には少女の小さい顔があった。
 寝ぼけ眼で何もかもぼやけて見えるが、その顔の輪郭は彼が愛おしく思う姫のものであった。
「姫っ!!」
 竜斗は野性的な衝動の赴くまま、目の前の少女の顔に抱きつこうとする。
 掛け布団が開けて小柄で細身ながら引き締った裸体や、熱り立った若いパトスが露になる。
「きゃーーーっ!! 竜斗の馬鹿ぁ!! 裸で何するのっ!? 」
 だが、思いっきり頬をひっ叩かれ完全に目が覚めた。
 目の前にいたのは夏らしい白いワンピースを着た旭陽空であった。
「あ、あれっ、空…!?」
 周囲を見渡すと天蓋付きのベッドと、沢山の人形が置かれた姫の寝室である事は間違い無かった。
 そう、竜斗は一晩姫と共に激しい夜を過ごしたはずだ。
 夢のような体験ではあったが、それが本当に夢であったとは思えない。
 それが太陽がようやく顔を出そうとする早朝になったら、添い寝していた相手が空へと変わっていてた。
「まさか、姫が空に…!? いや、確かに背丈や輪郭は似ているけど、幾らなんでもそれは無いよね…!?」
 竜斗は何が何だか解らず目の前にいる空に睨みつけられ、全裸のままベッドの上で正座して全身から変な汗を吹き出させていた。
 膝をピッタリ閉じて下腹部の前で両手を合わせているので、肝心な部分は見えはしないが、かなり際どい格好である。
 しかも、空の視界に非ぬものが写ってしまう恐れがある為、睨みつけられている限りは身動きを取る事が出来ない。
 竜斗が混乱していると、部屋の扉が開き二人の人物が入って来た。
「あらあら、ようやくお目覚めかと思えば、愉快な格好をしてますわね」
「姫!?」
「ボクも一緒ですよー!」
「あれ、旭陽家の執事の安室礼さんだよね? 何て言うかキャラが違くない!?」
 竜斗が疑問に思うのは無理無い。
 何時ものピッチリとしたオールバックに燕尾服姿ではなく、髪型は寝癖だらけで服装は破れたジーパンに惑星破壊者(スターデストロイヤー)と書かれた漢字ロゴのTシャツ、サンダルと言うラフ過ぎる格好だからだ。
「いやだなー、間違い無くボクは安室礼ですよー。ただ、今は仕事じゃないんで、ほんのちょびっと素なだけです」
 しかも、何時もの畏まった標準語ではなく、気さくな人の良さがにじみ出る関西なまりで喋っている。
「とすると、何時ものクールな態度は一体…!?」
「ほら、執事やメイドってキャラクター性が重要でしょ? 旦那様のお顔を汚すわけにはいけないし、仕事している時はシャキッとしてないとダメなんですわ。
 それに如何にもって執事キャラだったら女の子受けも良いし、内心はもうウハウハですよー」
「ゆ、夕鶴…。アイツ、見事に騙されてるな…。ところで、こんな朝早くにどうしたの?」
「それを聴きたいのはこっち!! 竜斗こそなんで女の子の部屋で裸で寝てたの?!」
「そんなの言わなくても解るでしょ!?」
「そんなの解んないよっ!!」
「解んないままじゃだめなの…?」
「だって、なんだかドキドキして気になって仕方無いんだもん!!」
 竜斗は頭の中で考えを巡らす。
 ここで姫との関係を肯定すれば空に罵られて攻撃を食らうだろうが、否定すれば恋人になってくれた姫の心を傷つけてしまう。
「ど、どう説明して良いやら…。僕と姫は恋人同士になったから、その…」
「そう、恋人同士が裸で夜を共にしてやる事と言えば一つですわ…」
 姫は空に耳打ちする。
「竜斗の馬鹿ぁ!!」
 空は顔を真っ赤にさせながら、竜斗の頬に平手打ちを放った。
 竜斗はいまだ全裸でベッドの上で正座し身動き出来ない状態だった為、見事クリーンヒットを食らってしまった。
「ああやっぱ、こうなるしかないのね…!」
「もう、竜斗なんて知らない!!」
 空は背を向けるが、その隙に竜斗は布団の中に潜り込む。
「そんな事言ったって…。だいたい、空だって奏真先輩と付き合ってるんでしょ?!」
「でも、そんなのした事ないもん! だって、そう言う事は大人になってからじゃ無いとしちゃダメなんだよ!!」
「そうですわね、貴女はまだお子様ですから、大人の付き合いは早いですわね」
「そ、そんなことないもん!!」
「どっちだよ?!」
「いいですか、愛情と身体の関係と言うものは切っても切り離せないものなんですわ。
 心が求め合えばこそ自然と身体も求めあう物であり、心と身体の繋がりがあるからこそ愛情を共有する事が出来るんですの。
 それが人として、生き物としてあるべき姿で、とても素敵な事だと思いますわ。
 逆に心と身体のコミュニケーションが同調していない状態というのは、酷くアンバランスで不自然だと言えます。
 潔癖さから肉体的な繋がりを否定したり、欲求に流されてしまうのは若さ故の過ちですわね」
「ううっ…」
「手厳しいね…」
「ただ、人は間違いを犯すことで成長する事も出来ますのよ。
 責任から逃げ出す事さえしなければ間違っても大いに結構ですし、いっそのこと間違いを犯してみるのも悪くないと思いますわよ。
 そう、華の命は短いものですから、自分自身の気持ちに素直になって楽しみ、大切な人との思い出を残さなければ損ですわ」
「うん…、そうだね…!」
 空は姫と向き合い、その小さな白い手を握りしめる。
「姫さんって何となくお姉ちゃんっぽい…! これからはお姉ちゃんって呼ばせてもらうね!!」
「ふふふっ、嬉しいですわね」
 そうやって並んでいる姿は本当に姉妹のようだった。
「空って慕ってる人をお兄ちゃん、お姉ちゃんって呼ぶんだね」
「うん、凄く小さい頃だけど、空には月夜って名前のお姉ちゃんがいたの。
 いっつも長い黒髪をツインテールにしてフリフリのお洋服を着てて、悪戯好きで怖いけど優しくて頼もしくて大好きだったんだ。
 でも、お母さんが病気で死んでから暫くして、家のお金を持って家出しちゃったの。
 凄く心配してお父さんが行方を調べたんだけど、子供なのに会社を作って自由気ままに生きているんだって。
 お姉ちゃんが幸せだったらそれで良いけどやっぱり寂しいの。
 だからかも知れないけど、空は誰かの妹だって気持ちがずっと消えないんだ」
「そうか、そう言う理由があったんだね。ついでに僕もお兄ちゃんって呼んでくれると嬉しいな」
「それは無理!!」
「何で?!」
「だって、竜斗って弟って感じなんだもん!!」
「ガーン!!」
「ふふふっ、わたくしもそれには同感ですわね。ですが、そろそろお話をお聞かせ下さってもよろしくてよ」
「それなんだけど…」
 空は下を俯いて口ごもる。
「あー、それについてはボクの方からお話させてもらいますわ。まずは竜斗くんの携帯を見て欲しいんですよ」
「携帯、携帯…。あ、ベッドの横か…!!」
 竜斗は布団から出てベッドサイドテーブルの上に置かれた携帯電話を取ろうとするが、その際にまたしても裸が露になる。
「もう、竜斗ったらワザとやってない!?」
「そんなわけ無いって…! 姫、悪いけど僕の服取って来てくれない?」
「それですけど、聖蘭さんがいらっしゃらないから、まとめてクリーリングに出してしまいましたわ。もうすぐ返って来る頃だと思いますが」
「昨日着てた服は!?」
「あらあら、恥ずかしい汚れが付着してしまった事をお忘れですの?」
「のぉーーーっ!!」
「恥ずかしい汚れって何?」
「それはですね…」
「ああっ!! いちいち説明しなくて良いからっ!!」
 姫はニヤニヤしながら空に耳打ちしようとするが、竜斗は慌てて姫を制止する。
「それだったら、ボクのTシャツ着ると良いですわ。ほら、ボクのサイズは大きいですし、竜斗くんの大事な所は隠れると思いますよ」
「くっ、背に腹は変えられないか…!」
 かくして、上半身裸のジーパン男と、ダボダボの惑星破壊者(スターデストロイヤー)Tシャツで下半身裸男と言う変態二人が誕生する事となった。
「ほら、ボクの読み通りちょうど良かったでしょ?」
「うん、まぁ…、ちょうど良過ぎるとも言うね…」
 Tシャツの下半分に描かれた宇宙戦艦がビームを発射する絵が、ちょうど竜斗の股間あたりに位置して意味深な比喩表現を思わせた。
 しかも、丈が絶妙で竜斗が動く度に危険な領域が見え隠れする。
「もう二人ともヤダっ!! お姉ちゃん助けてっ!!」
 空が姫にすがりつくが、姫は恍惚な表情を浮かべて涎を垂らしていた。
「わたくしとした事が思わず見惚れてしまいましたわ…!」
「お、お姉ちゃんまで!?」
「皆さん、折角ボクが竜斗くんに服を貸して問題解決したのに何を騒いでいるんですか!?」
「ま、まさか安室さんは無自覚でそれをやったと言うのかっ…!? 僕は戦慄しているっ…!! 未だかつてこれ程の猛者は見た事が無いっ…!!」
「いや、ボクは年長者として当たり前の事をしただけですよー!!」
「だ、ダメだ…!! もはや面白過ぎて突っ込み切れないっ!!」
 そして、竜斗が笑いを堪えながらベッドサイドに置かれた携帯を見ると、そのランプがメールの着信があった事を知らせていた。
「あれ、今日のトーナメントを知らせるメールが来ているみたいだ…。生徒会長は途中でリタイアして今日の試合は無くなったはずだけど…」
「つまり、ブラフマンは件の計画の邪魔となるわたくし達を止める為に手を打って来た…、そう言う事ですわね?」
「ええ、お察しの通りですわー」
「空たちが来たのはその事についてお願いがあるからなの…」
「邪魔するのを止めろと言われても無理な相談ですわよ」
「ううん、違うの…!」
「ボクらがお願いしたい事は旦那様の意思にそぐわない事なんです。
 だからこそ、今回は個人的な用件で来たんですよ。
 ボクらの行動や胸の内など旦那様は全てお見通しでしょうが、旦那様に仕える執事としての立場もありますので、これからお話する事はオフレコとして聴いて下さい」
「うん…」
 竜斗は息を飲む。
「まず、旦那様…、いえブラフマンの計画についてお話します。
 世界を改革する能力を開発する特別授業なんて言ってますが、その実は殆ど出来レースで奏真くんを神にしたいだけなんですよ。
 その計画が成功すれば1999年7月31日にこの世界は終わりを迎え、1995年1月17日を起点に奏真くんによって変革された世界が始るらしいんですわ」
「明々後日か…。日付までは知らなかったけど、その話は聴いた事があるよ」
「でも、驚くべき事はそれだけじゃないんです。
 ブラフマンはこの世界は既に何度も再構築されていているって言うんですわ。
 その都度、奏真くんは新世界の神となるべく記憶を失って転生し、ブラフマンは彼を導く役目を背負い、時空を超えて断片的な記憶を保持しているらしいんです」
「信じがたいけど、なんだか妙に納得出来る気がする…」
「そして、破壊と再生の間に幸福な時を繰り返しながら、誰も傷つく事の無い理想の世界を目指す…それが計画の全貌らしいですわ」
「そんな事を考えていたなんて…」
「ふふふっ、まったくお馬鹿さんにも程がありますわね。
 どんな時間にも終わりがあるからこそ、一日一日を、その一瞬一瞬を大切にして生きる事が出来るんですわ。
 それに視野が狭く感情に流された個人的な理想などはエゴに過ぎませんわ」
「でも、空はお父さんとお兄ちゃんの気持ちも解るよ。だって、今みたいな楽しくて幸せな時がずっと続けば良いって思うから…」
「空…」
「だけど、他の人達を巻き込んで、自分自身も傷つけて行くのは違うから、ふたりの為に空がしてあげられる事を、ずっと…、ずっと考えてたの…。
 でも、空が何をしても、ふたりを苦しめるだけだったんだ…。
 そんな時、竜斗がみんなの力を合わせて傷つけられた人達を助けて、生徒会長さんを倒しちゃったのを見て思ったの。
 空ひとりじゃ無理でも、安室さんや、竜斗、お姉ちゃんに相談して、力を借りればどうにか出来るんじゃないかって…。
 だから…、だから、お願い!! お兄ちゃんを倒してお父さんの計画を止めて欲しいの…!!」
「ボクからもお願いしますわ…!
 ここには空ちゃんに相談を受けて付き添って来たんですけど、ボクにとっても人ごとじゃ無いんですよ…!!」
 姫は何も言わずに空を抱き締める。
「ええ、もちろんそのつもりですわよ。
 ずっと、ひとりで抱え込んで辛かったでしょうが、これからはわたくし達が力になりますわ。
 わたくしと竜斗さんが力を合わせれば、例え誰を相手にしようとも決して負けはしませんから…!」
「ありがとう、お姉ちゃん…!!」
 空は涙を零しながら姫の身体を抱き締め返した。
「うん、僕達に任せておいて!!
 最近僕も解るようになったんだ。奏真先輩は色んな資質に恵まれているだけで、僕たちと同じように感情を持った普通の男の子だって。
 みんなが思っているように決して完璧ではなく、人を助けてあげられない事に傷つく事もあるんだ。
 それなのに神様なんて幻想を背負おうのは辛いはずだから、友達として何としても助けてあげたいんだ!!」
「ありがとう、竜斗…!! お兄ちゃんの事を解ってくれて…!! 本当に嬉しいよ…!! ふたりとも、大好きっ!!」

 竜斗と姫は次なる戦いの舞台にやって来ていた。
 そこはポートアイランドと呼ばれる神戸の南の洋上に浮かぶ人工の島である。
 須磨地区の山を切り崩した土によって埋め立てられて造成され、神戸の中心部と神戸大橋を通るモノレールや道路で結ばれているが、1999年7月30日…つまり二日後には新たに神戸の中心地と直通で行き来出来る港島トンネルが開通予定だ。
 最新技術によって整備された土地に展示場や企業ビルなどの独創的な建物が立ち並ぶ近未来的なイメージのある街である。
 だが、阪神淡路大震災の際には液状化現象が至る所で発生し水道管が破損する等の人工島の脆弱さを露呈する事となり、十年程前から造成が始まった第二期地区の土地売却が進んでいない等の問題を抱える為、現在はその対策として学校や研究機関等の誘致をしている状態である。
 また、1946年に計画された神戸空港が島の南側に建造される予定であるが、騒音や環境問題を危惧する住民からの反対運動が続き、近年では震災の復興計画に空港の建造を盛り込んで批難を受けたが、今年の6月になってようやく島の埋め立て許可が下りたばかりである。
 まさしく、神戸が抱える光と闇を具現化した街であった。
 モノレールの駅や、神戸国際交流館やポートピアホテル、ワールド本社等の近代的ビルが立ち並ぶ街の中心地は市民広場となっていた。
 広場の道路側の入り口部分、ピラミッド型のモニュメントの前には二台の車が乗り入れられ、まるで対峙するように向かい合っていた。
 姫が愛用するランボルギーニ・ディアブロと、聖蘭が運転を任されているロールスロイス・シルバークラウド・ツーである。
 そして、西洋の回廊を思わせる大きな柱が特徴の屋根付きの歩道に囲まれた広場の中心は大勢の人で賑わい、その中で竜斗と姫、大河と夕鶴の四人が向かい合っていた。
「何だ、お前ら聖蘭さんに送ってもらったのか」
 何時もの閉鎖された戦場と違って大勢の人が行き交う中、誰が相手かも解らない状態であったが、竜斗は落ち着き払った様子で大河に聴いた。
 大河と夕鶴の背後にいる聖蘭が竜斗と聖蘭に向けて軽く会釈するのが見えた。
「そやけど、お前こそなんや?!」
 大河は竜斗の首を思いっきり抱きかかえた。
「何がだよ?」
「お前、姫さんとよろしくやったんやろ?!」
 大河はニヤニヤしながら聴く。
「な、なんでそんな事解るんだよ!?」
 竜斗は大河を突放しつつドギマギする。
「ホンマに図星やったんかいっ!!」
 大河は竜斗の頭を軽く叩いた。
「畜生っ、カマ掛けやがったな!!」
「竜斗センパイったら単純やし、顔見ればすぐ解るでっ!!」
 そう言うのは夕鶴だ。
「うちやってっ!! うちやって、姫ちゃんにあんな事したり、こんな事したりしたいのにっ!! もう、羨ましくてたまらへんよっ!!」
 本来真っ白い顔を真っ赤にし、松葉杖を脇に抱えたまま両の拳を握りしめた。
「ゆ、夕鶴…、また鼻血が出てるぞ…!!」
 悶々とする夕鶴の鼻から勢い良く血が滴り落ちたので、竜斗は慌ててティッシュを渡した。
「お前、人前でなんちゅう事を想像してるんや!?」
「鼻血やらなんやら出ても仕方ないやろっ!! そこに美味しいネタがあれば時も場所も関係あらへんっ!! 自由自在に妄想せざるを得ないのがうちの本能やもんっ!!」
「また、公衆の面前で凄い事を言い切ったな!!」
 竜斗はふと周りを見渡す。
「しかし、今日は本当に人が多いな…」
 群衆の中には奏真に空、安室、工藤に木村の馴染みのある面々を始めとし、宝塚や図書委員長、貧乏学生、奇術部、ビジュアル系と言った元アルカナ達が車椅子に乗って来ているのが見えた。
 そればかりか学生では無い一般の人も多く混ざっている。
「っていうか、うちの学校の生徒じゃないのも明らかに混ざっているよね。あんな、バーコードっぽい高校生って滅多にいないと思うし」
「では、今日と明日で行われる第三回戦の説明をさせて頂こう」
 竜斗と姫、大河と夕鶴の間にサングラスをかけた黒服の男…ブラフマンが現れた。
「今まで君達は馴染みのある学校や閉鎖された場所で、共通の認識を持つ者達の立ち会いの元、能力を具現化させる練習を兼ねた戦いを行って来た。
 だが、今回は共通認識を持たぬ者…、つまり何も知らない一般人の観衆の前で戦って貰おう。
 当然、超常的な能力に対して懐疑的な者が大多数であるが、そう言った環境の中でも安定して能力を発揮させ、優れたカリスマ性により人々を味方につける事が出来れば、更なる高みへと登る事が出来るだろう。
 これは能力開発だけではなく、君達の人生に置いても重要な要素である為、この戦いを通して学ぶと良い」
 竜斗はこのブラフマンを名乗る男…旭陽昇と対面する度に、彼が本気で子供達の将来の事を考えている先生と呼ぶに相応しい愛情の深さを感じ、とても思い通りに世界を確変する為に手段を選ばない人物だとは思えなかった。
「では本日戦う皇帝のアルカナと、月のアルカナは準備を開始してもらおう」
「皇帝のアルカナって生徒会長じゃないのか…?」
「ちゃうねん、今は俺や!」
 大河は特注のチタン製バットでコツコツ床面を叩きながら、首元に輝くNo.4のバッチを指差す。
「そ、それは…!?」
「一昨日お前と別れた後に聖蘭さんから計画の真の目的を聴かされ、皇帝のカードを譲り受けてお前達を倒してくれって頼まれたんや」
「うちは前から計画の事知っとったけど、まさか竜斗センパイと姫ちゃんが邪魔しようとしてたなんて思いもよらへんかったよ…」
「この計画だけは止めるわけにはいかんのやっ!! 悪いが勝たせてもらうで!!」
 大河と夕鶴が唇を重ねる。
 それは今までの思春期の少年と少女の関係ではなく、互いを完全に受け入れた男と女の関係を思わせる濃厚な交わりだった。
 大河の身体から未だかつて感じた事が無い程の強い存在感が溢れ、空中に出現したNo.4皇帝のカードを掴み取る。
 だが、それは何かの形に具現化する事はなく、広場全体に拡散して行く。
 そして、車椅子に座っていた元アルカナ達の身体が光に被われると、ガクガクと操り人形のように身体を揺らしながら立ち上がった。
 因果を克服して自由に歩き回る事が出来るようになった工藤も同様に光を纏い、彼を筆頭にして元大アルカナ達は円陣を組んで中央にいる戦いの主役達を取り囲んだ。
 しかも、それぞれ物理的な武器を手にしている。
 周囲の観衆がただ事ではない雰囲気を感じ取りざわめき出す。
「くっ、どういう事だよ…!?」
「こいつら全員おれのパートナーであり、おれの力や…!!」
「そんなんアリかよ…!?」
「普通の人間が何人居ようが、大アルカナの前では無力に等しい。
 故にパートナーの規定は能力を使わず、トーナメントにもエントリーされていない人間であり、必ずしも一人である必要は無い。
 既にトーナメントを敗退し能力を失っている者達は、彼のパートナーとなる資格を有している」
 ブラフマンは竜斗に対してルールを説明する。
「くっ…、それに能力も変わっているなんて…!!」
「アルカナの暗示と心境が変化した事で新たな能力に目覚めたようですわね。
 でも、例え誰を相手にしようとも、どんな能力であろうとも、わたくし達に出来る事は全力で迎え撃つだけですわ。
 大丈夫ですわよ、二人で力を合わせれば恐い物はありませんから」
「そうだな…!!」
 竜斗は姫と相思相愛の口づけを交わし、出現したNo.18月のカードを手に取る。
 そして、臍下丹田式呼吸法で心と身体の状態を整えると、腰に下げた鞘から二刀一組の胡蝶刀を抜き出した。
 姫もスカートをたくしあげ日本刀を抜き出し、二人で背を合わせて臨戦態勢を取る。
 凛とした表情で望む竜斗の心には微塵の迷いもなく、互いに支え合う事で得られる強い自信を全身に漲らせていた。
 二人の立ち姿はまるでつがいの美しい猛獣を思わせた。
「では始めろっ!!」
 ブラフマンの合図を皮切りに元アルカナ達が一斉に竜斗達へと襲いかかる。
「行くよ、姫…!!」
「ええっ、わたくし達の力をお見せしてさしあげましょうっ!!」
「あっ、そーれっ!!」
 姫に向かって奇術部が刃のついたトランプを投げつけるが、彼女は手にした刀でそれを次々と叩き落とす。
「一撃でも頂いたらおしまいですが、気の流れを読み、理の概念を身につけたわたくし達にそんな攻撃が効くと思いましてっ?」
 そして、姫は奇術部の横に回り込むと、その首筋に向かって強烈な峰打ちを繰り出す。
 奇術部の身体はメキメキと音を立てて地面にひれ伏した。
「どうやらパートナーに自分の絶対領域を纏わせ、その身体を保護し動きをサポートすると言う能力みたいですわね…!
 でも、おかげで余計な怪我を負わせる必要が無く全力を出せますわ…!!」
「そう言う事かっ…!!」
「Energico…!!(力強くの意味)」
 竜斗はビジュアル系のギタークラッシュを身体を右に捻ってかわしつつ、カウンターで顔面に刀を握った右の拳を思い切り叩き付ける。
 ガンと言う強い衝撃と共に反動でビジュアル系の身体がすっ飛ぶ。
「ボソッ、ボソボソッ…!!(お前みたいな平面野郎にメタファクターを破壊されてたまるかよっ!!)」
 その隙に左側から図書委員長が鉄塊入りの本を振りかざして来たが、予めその動きを読んでいた竜斗はそのまま右回転してかわす。
 そして、左手で図書委員長の頭に過重をかけると、重みに耐え切れなくなった彼女の身体は地にひれ伏した。
 姫は猛烈な飛び蹴りを繰り出し貧乏学生を倒し、そのまま図書委員長の背中を踏みつけるように着地する。
 その衝撃でまたしても勢い良く失禁する図書委員長。
 そこに残ったアルカナ達がまたしても一斉攻撃を仕掛ける。
「面倒ですわね、一気に片付けますわよっ!!」
「了解っ!!」
 姫はスカートの中からソードオフショットガンを取り出すと竜斗に渡し、自らはハンドマシンガンを構える。
 二人は武器を構えたまま背中を合わせ、敵を充分引き付けた所で一斉射出する。
 気絶した人間の山の中心に立つ竜斗と姫であったが、硝煙の向こう側から殺気を感じて揃って飛び退くと、そこにサーベルと鎖の二つの攻撃が放たれていた。
 風が吹いて硝煙が晴れると、そこにはサラサラヘアーでメリケンサックとチェーンを装備した工藤と、女子の制服姿でサーベルを構える宝塚の姿があった。
 共に竜斗と戦い大きく変わった人物であった。
 竜斗と姫は銃器を捨て、武器を刀へと持ち替えて身構える。
「まさか、再び竜斗君と戦う事になるなんて思いもしなかったわ…! でも、今度は負けない、恩人の恩に報いる為にも負けるわけには行かないの…!!」
「何の事だよっ!?」
 宝塚は竜斗に向かって鋭い突きを放つ。
 竜斗は気の流れを感じる事でなんとか避ける事が出来るが、相手は間合いの長い真剣のサーベルであり、間合いの短い胡蝶刀では近接して反撃に転する事が出来ない。
「誰かの為に戦うなんてガラじゃねぇが、ここで見捨てたら男が廃るんだよっ、ゴラァ!! だから、テメェらはここでぶっ潰す!!」
「ふふふっ、やれるものならやってみて下さいまし…!!」
「てめぇ、ぶっ飛ばしてやっ!!」
 因果を克服して全快した身体を強化された工藤は人間離れしたスピードを発揮し、小回りの効かない日本刀では姫の技量を持ってしてでも捉え切る事が出来なかった。
「このままじゃジリ貧になるっ!!」
「ここは、互いに相手を交換するとしませんことっ?」
 竜斗は宝塚の攻撃をかわしながら、姫は高速で走り回る工藤を牽制しながら、互いに言葉を交わす。
「いや、宝塚さんは僕にやらせて欲しいんだ…!! 今度は真っ正面から勝負したいんだ…!!」
「あらあら、まったくお馬鹿さんですわねっ!! でも、わたくしは貴方のそう言う所が好きですわっ!! では、武器を交換いたしましょ!!」
 竜斗と姫はすれ違い様、互いの武器を交換する。
「貴方には相手に応じて臨機応変に武器を使い分けられるように教えてありますわ!! 今までの努力をっ!! わたくしを信じて下さいなっ!!」
「ありがとう姫っ!!」
 竜斗は日本刀を構えて宝塚に、姫は胡蝶刀を構えて工藤と対峙する。
「君達の絆…見ていて痛い…。竜斗君の心の中に私の入り込む隙間はないのね…」
「ゴメン…」
「ううん、謝らなくて良いの…。今は互いの背負ったものの為、全力で戦いましょう…!!」
「うん…!!」
「いざ勝負っ!!」
「うぉーーーーっ!!」
「やってやんぜーーーーっ!!」
「決めますわっ!!」 
 四人が一斉に攻撃を繰り出す。
 宝塚の鋭い突きを竜斗の手にした日本刀が薙ぎ払い、サーベルの刀身をへし折るとそのまま彼女の身体を一閃する。
 工藤の繰り出したメリケンサックでのストレートを難なくかわした姫は、そのまま人間離れしたスピードで距離を保とうとする工藤に向かって、怒濤の如く素早い斬撃を繰り出す。
 次の瞬間、宝塚と工藤は地にひれ伏し、後には威風堂々と立つ竜斗と姫の姿が残っていた。
「いゃーーーーーーっ!! お願いだから避けてやぁーーーーーーーっ!!!」
「!?」
 だが、そんな二人に夕鶴が放ったロケットランチャーの弾丸が襲いかかる。
 竜斗と姫は瞬間的に武器を交換すると、猛スピードで飛来する鉄の塊に向かって、一文字斬りと十文字斬りを同時に放つ。
 鋭い斬撃によって細切れになった弾丸は小規模な爆発を起こし、周囲から悲鳴が上がったものの誰も怪我をする事は無かった。
 目覚ましい活躍を見せる竜斗と姫の二人に対し、何も知らない観客達からも賞賛の声が上がる。
「残るはお前だけだ…!!」
「そのようやな…!!」
 竜斗は胡蝶刀を大河はチタン製バットを構えて対峙する。
 姫は捨て去った銃器を回収すると夕鶴と並んで、その様子を少し離れた所から見守る。
「行くでっ!!」
「ああっ!!
 大河のバットは勢いを乗せる事で威力を増す事が出来るので、致命傷を負わない為には間合いを詰める必要がある。
 竜斗は至近距離で大河が振り回すバットを避けつつ、その懐に入って二刀一組の胡蝶刀で斬り付ける。
 胡蝶刀は大立ち回りをする相手との近接戦闘でかなり有効な武器であった。
 だが、竜斗の戦法を知り尽くした大河にとってそれは想定の範囲内であり、竜斗の身体を蹴り出したり、頭突きや肘打ちを繰り出す事で間合いを適正に保とうとする。
 至近距離であっても上から下に向かって体重を乗せた体術はかなりの威力を発揮した。
 武器に体術を併用する…、それは幼女の身体から元の身体に戻ったからこそ有効となる、初めて見せる攻撃パターンであった。
 今までにない攻撃に焦りを感じ間合いを大きく取った竜斗に対し、8の字を描くように小刻みにバットを振る隙の少ないモーションで突進する大河。
 その攻撃範囲は広く左右に避ける事は難しく、質量のあるバットを軽い胡蝶刀で捌き切れるとも思えない。
 だが、そんな絶対絶命の時だからこそ、竜斗は臍下丹田式呼吸法で心身の状態を整え、無数の戦略の中から一つの答えを導き出す。
 竜斗は大河に背中を向けて、姫達のいる場所に向かって走り出す。
「姫っ!!」
「了解しましたわ!!」
 姫は竜斗の意図を汲み取り、ソードオフショットガンに装弾して手渡す。
 そして、振り向き様に猛スピードで迫り来る大河に向かって発砲する。
 装弾して発砲する。
 装弾して発砲する。
 幾ら自我領域で守られていると言ってもその威力は絶大だった。
 大河の手にしていたバットはすっ飛ばされ、自我領域の存在感もかなり希薄となっていた。
 竜斗は武器を持ち替えると硝煙の中の大河に向かって怒濤の斬撃を繰り出す。
 だが、大河は竜斗の攻撃を食らいながらも臍下丹田式呼吸法をする事によって、失いかけた自我領域を一時的に回復させる。
 不意に攻撃を強く弾かれた竜斗は大きな隙を見せ、大河に小手を払われて二振りの胡蝶刀を落としてしまった。
「やるじゃないかっ…!」
「それはこっちの台詞やっ…!」
 竜斗と大河は武器を持たず、互いに拳を構えて対峙する。
「一体、聖蘭さんから何を聴いたって言うんだ?!」
「計画の必要性や…!!」
「世界を確変する事に理由なんかあるのかよっ…!?」
「大切なものを守る為にはこの計画は必要なんやっ…!!! お前は計画の表面的な部分しか見てないし何も解ってへんっ!! そんな奴に俺は絶対に負けへんっ!! 負けるわけにはいかんのやっ!!」
 大河は自我領域を失いかけながも、熱い闘志を滾らせ拳を強く握りしめる。
「くっ、僕もここで負けるわけには行かないんだっ…!!」
 竜斗は連戦で体力の限界に達しながらも、臍下丹田式呼吸法で冷静さを保とうとする。
「互いに限界のようやな…!! 次の一撃で勝負を決めようやないかっ…!!」
「望む所だっ…!! この拳で全てを決めるっ…!!」
 竜斗と大河は互いに拳を振り上げて突進する。
 このままクロスカウンターになれば自我領域を持ちリーチの長い大河の方が有利な事は明白だった。
 だが、竜斗は互いの拳が交差する寸前で大河の突き出された腕を掴み、そのまま一本背負いに持ち込む。
「ぐはっ!! 拳はフェイントやったって事か…!? 始めに習った基本を忘れとったで…!!」
 地面に叩き付けられて自我領域を失う大河。
「やっぱ、お前は凄い奴や…。毎日を大切にして一歩一歩確実に前に進んでいるのが解るで…。お前やったら世界の確変に頼らず、運命を変える事が出来るかも知れへん…。頼んだで…相棒…」
 竜斗は意識を失った大河の胸に出現したNo.4皇帝のカードを掴み取る。
「計画にどんな理由があるのかは解らない…。でも、そんなものに頼らなくても、どうにかなるって証明して見せるっ…!!」
 そして、天高くカードを掲げた。
 少年少女達が織り成す一大スペクトラルに周囲から大歓声が上がった。
 一躍してヒーローとなった竜斗の姿を空は切なげに、奏真は闘志を燃やしながら見つめていた。
 観衆から一歩離れた所で聖蘭は未だかつて見せた事の無いような不敵な笑みを浮かべながら興奮でゾクゾクと身体を振るわせ、その横顔を隣に立つ安室が悲痛な面持ちで盗み見ていた。
 1999年7月29日(木)
 風見鶏の館の朝食の間。
「今日は奏真先輩と塔のアルカナの第三試合…、須磨区の神戸総合運動公園で10時からか…」
 竜斗は姫と二人きりでテーブルを囲み、朝食を食べ終わると携帯電話に着信したメールを溜め息まじりで読み上げた。
「今日は貴方一人で現地に向かって頂く事になりますが心配はありませんわよ。
 わたくしの指定した時間に、決められたに電車の車両に乗れば、乗り換え無しで辿り着く事が出来ますから」
「いや、どうしても行かなきゃダメなのかなぁと思って…。
 一人で電車乗るってのもそうだし、他にも色々と心配毎があってさ…。
 ブラフマンの計画通りの試合展開になるのが目に見えているわけだし、その時間を使って修行した方が良い気がするんだ…」
「ふふふっ、お馬鹿さんですわね。
 貴方は今まで過ごして来た日々の中で、青海奏真を倒しブラフマンの計画を阻止出来るだけの力を積み重ねて来たはずですわよ。
 本当の力と言うのは日常の中で養われるものなんですの。
 今日も明日も明後日も、何時ものように決められた鍛錬を行い、何時ものように日常を送り、何時もの状態でいる事が必要ですわ。
 人に出来る事には限りがあり、それ以上の物を求めてしまえば心と身体を壊してしまいますわよ」
「でも、明後日にはもう世界の存亡をかけて戦わなければならない…そう思うと居ても立っても居られないんだ…」
「では、貴方は戦闘中に焦りを感じたらどうしますの?」
「えっ、臍下丹田式呼吸法で心と身体の状態を整える…かな?」
「そう、どんな時でも心を乱せば身体を萎縮させ、本来あるべき力を発揮させる事が出来なくなるのは同じですわ。
 それに溜め息が出ると言う事は気が重くなっている、つまり無理をしている証拠ですの。
 もし、なんらかの息を乱れを感じた時は、そのまま下腹に力を入れて臍下丹田式呼吸法に変えてみて下さいな。
 常々臍下丹田式呼吸法を行うように心がければお通じも良くなりますし、まさに一石二鳥ですわよ!」
「まぁ、うんこが出やすくなるのは余計だけどね…!!」
「あらあら、お通じを舐めてはいけません事よ。出すものをしっかり出せば、食欲が増して元気になりますわ…それは生物としての理ですわよ」
「お通じを舐めるって凄い言葉だな!」
「では、早速実践あるのみですわ」
 竜斗は臍下丹田式呼吸法を試す。
 臍の下に力を入れつつ、大きく腹を膨らませ肛門を締め上げながら息を吸い、腹を絞り上げ肛門を緩めながら息を吐く。
 自分が世界と一体となって、気が循環して行くイメージをする。
「うん、なんだか頭がすっきりした気がする!!」
「良く出来ましたわね。どんなに辛い時だったとしても、心が乱れたら臍下丹田式呼吸法を行う事を忘れないで下さいね、約束ですわよ」
「ありがとう、姫!」
「解ればよろしいですわよ!」
 姫はニッコリ笑って竜斗の頭を軽く撫でた。
「それに決戦を前に貴方には知るべき事があるはずですわよ。
 ご察しの通りこの試合はブラフマンの計画通りの展開になると思いますが、計画と言うものは意図した通りに物事を進めると言う事。
 つまり、戦いを考察する事でブラフマンの真意を読み取る事も可能かと思いますわよ」
「…大河が聖蘭さんから聴いたって言う計画の本当の理由ってやつか。
 確かに大河の言う通り僕は表面的な事しか知らない。
 ブラフマンが本当は何を考えているのかも、何故聖蘭さんが彼に加担するような事をしたのかも、何故空が彼らを裏切るような事をしたかも解らないんだよな」
「人と言うものは近くて遠いものですわ。
 解っているつもりでも解っていない事もあり、時にとんでもないすれ違いを生む事もありますの。
 だからこそ、人の気持ちを想像して解り合う事が大切なんですの」
「そうだね…!」
「まずは事情を知る観察力に優れた人物と接触する事ですわ。鍵を握るのが誰であるか貴方には既に解っているはずですわよ」
「…夕鶴か」
「そう、彼女から知っている事を聞き出した上で、観戦中に意見を伺って見て下さいな。
 以前の夕鶴さんは優れた観察眼を偏見によって曇らせる事もありましたが、数々の経験を経てその才能は開花しつつあります。
 うまく行けば限りなく真実に近づけると思いますの」
「でも、どうやって聞き出せば良いの?
 多分、夕鶴は自分からは絶対言わないと思うんだ…、大河や他の人達だって聖蘭さんに教えられなければ知る事は無かったんだろうし…。
 それに昨日、盛大に対立したばかりだから、何となく気まずいんだよなぁ…」
「ふふふっ、貴方はただ何時も通りでいれば良いだけですわ」
 姫は竜斗を抱き締める。
「今一度、貴方の本当の力を思い出し、引き出して見て下さいな。
 これから訪れる本当の試練はそれを守り抜く戦い…、わたくしは貴方がその力を失わず強く生きられるよう、離れていたとしても見守り続けますから」
 そして、二人は口づけを交わした。

 竜斗は風見鶏の館のある北野から新神戸駅まで歩き、姫に教えられたまま神戸市営地下鉄西神・山手線に乗った。
「いくら、電車で一本で行けるって言っても一人だと心細いよなぁ…。しかも、どの面下げて夕鶴と会えば良いんだか…。早速、溜め息が出そうだよ…。臍下丹田式呼吸法を心がけないとな…」
 竜斗が地下鉄に乗って代わり映えしない風景を眺めていると、新神戸の次の三宮駅のプラットフォームで見慣れた少女の姿を見つけた。
「このアホぉ!! うちを乗せる前に発車したら承知しないでぇ!!」
 松葉杖をついて電車に乗り遅れまいと、必死になっているのは間違い無く夕鶴である。
 しかし、焦るあまり足をもつれさせてしまった。
「アホはお前だよっ!! 無茶すんなって!!」
 竜斗は無意識に駆け寄ると、夕鶴が転ぶ寸前でその身体を支えた。
「誰かは知らへんけど、ありがとさん…って、竜斗センパイやないかっ!!」
 そして、竜斗はそのまま夕鶴を支えて車内に入り座席に座らせたが、かなり疲れているらしく息が上がっている様子だった。
「うちは甲子園駅から阪神電鉄本線でここまで来たんやけどメチャキツかったでぇ!!
 ただでさえ三宮駅はいろんな路線が入り組んで迷路状態やのに、阪神側のホームに至っては構造が古すぎてエレベーターが無くて、うちみたいに足悪い人には地獄やし!!
 神戸の街は古いものを大切にしながら、新しいものをどんどん取り込むのは良いんやけど、もっと使う人の事を考えて欲しいでぇ!!
 オマケに今日は特別運行で全体的に電車のダイヤがズレてるみたいで、下手すると遅刻するかも知れへん所やったからホンマに助かったわぁ!!
 まるで、狙ったかのようなナイスタイミングやったでぇ!! 竜斗センパイも少しは先輩っぽい時もあるんやねぇ!!」
「少しかよっ!!」
 竜斗は苦笑した。
 ちょっとしたトラブルのお陰で昨日の事など嘘のように、互いに何時も通りと言った感じである。
 それが偶然で無いとしたら、姫が裏に回って状況操作しているお陰かもしれない。
 真相はどうあれ竜斗は肩の荷が降りて、心も身体もすっかり楽になるのを感じた。
「そやで、竜斗センパイは、センパイであって先輩やないし、まだまだ精進しなきゃアカンよ!」
 しかし、姫は夕鶴が変わったって言うけど、毒舌なのは相変わらずと言った所だ。
「そーいや、大河はどうしたんだ?」
「あいつ、慣れない力を無理して使った反動で寝込んでるみたいやわぁ。安めば回復する思うし心配あらへんよ!!」
「まぁ、何時までも寝込んでいる所なんてアイツらしく無いしね!!」
「そやね! 元気だけが取り柄のアホなんやしね!!」

 そして、何時も通りの他愛も無い話を繰り広げる内に、目的地である総合運動公園駅に着いた。
 様々な学校施設が集合している学園都市駅と、須磨ニュータウンの最寄である名谷駅に挟まれた森の中にあり、夏休みと言う事もあって老若男女多くの人で賑わっていた。
 なにより特徴的なのは駅を降りて直ぐ右側に見える大きなスタジアムである。
「これはカッコいい球場だなぁ!」
「そやろ? これはグリーンスタジアム神戸言うて、オリックス・ブルーウェーブの本拠なんやで!!」
「ブルーウェーブってプロ野球のパ・リーグのチームだよね?」
「そや、1995年にはパ・リーグ優勝、翌年の1996年には日本シリーズにも優勝して、震災で傷ついた神戸の人達に勇気と希望を与えた神戸の象徴みたいなもんやでぇ!!
 所属するイチロー選手が被災者を招待するシートを自費で用意したって逸話も感動もんやわぁ!!
 球場の方も今年からボールパーク構想ってのを掲げて、本場メジャーリーグの球場を手本に改修する予定なんやって!!」
「詳しいんだね!」
「そりゃ、ファンやもん!!」
「って、夕鶴ってタイガースファンじゃ無かったのか…!?」
「甲子園球場の側に住んでるからってタイガースファンって決めつけへんで欲しいわぁ!! 確かにタイガースも好きやけど、ブルーウェーブの方が遥かに好きやでぇ!!
 まぁ、関西圏でその話すると下手すると村八分やから誰にも言ってへんけど…」
 竜斗の脳裏に第一回戦にして幼女にされて負けた挙げ句、夕鶴に愛想つかされてしまった後の大河の姿が蘇る。
 あの感動のシーンも今となってはシュールなギャグでしかない。
 本人が真剣なだけに余計に笑える。
「あ、アホだっ…!! アイツ本物のアホだっ!!!」
「どないしたん?」
「いや、夕鶴って大河が何の為にトーナメントに志願して、何の為にタイガースの優勝を願ったかって聴いた事ある?」
「そーいや、知らへんなぁ。私利私欲ちゃう?」
「やっぱりね…」
 大河が壮大に勘違いしていたとすると、あの時の夕鶴の様子や、その後のすれ違いも納得出来るものがある。
「アイツさ、夕鶴がタイガースが好きだって思い込んでて、タイガースが優勝したら楽しかった時の事を思い出して、もう一度歩き出せる勇気を持てるんじゃないかって考えていたんだ」
「あのアホぉ、そんな事考えとったんか…!」
「でも、僕はアイツの気持ちが良く解るよ…。
 男は単純だから複雑な女の子の気持ちなんて解らないんだけど、不器用なりにも大切な女の子を守りたくて仕方無かったんだよ」
「そやね、やり方ズレとってもアイツの気持ち嬉しい思うよ!」
 と言って夕鶴は気恥ずかしそうに笑った。
 夕鶴が毒舌なのはかわらないけど、偏見を捨てて素直に人を認める事が出来るように成長しているんだと竜斗は思った。
 それは大河が一生懸命頑張ったからであり、その様子を近くで見ていた竜斗は、自分の事のように嬉しくてたまらなかった。
「人ってどんなに近くに居て解り合っているつもりでも、ちゃんと伝えなければ解らない事ってあるのかも知れないね。
 だから、時にとんでもないすれ違いをしてしまう。
 特に男と女なんてそんなものだから、ちゃんと互いの気持ちを伝え合う事が必要なんだろうね」
「そやね、コミュニケーションが大切やって事は身にしみてるわぁ!! ボケボケの竜斗センパイでも、たまには心に響く事言うんやね!!」
「まぁ、だいたい姫の受け売りだけどね…」
「なんや、感動したうちの気持ち返して欲しいわぁ!!
 でも、しっかり姫ちゃんの言う事を聴いてあげてるんなんて見直したで!!
 女の子って無駄話が多いかも知れへんけど、自分では全部が大事な話やって思ってるから、男の子に話を覚えて貰えると嬉しいもんやし!!」
「彼氏が彼女の話をちゃんと聴いてなかった事が原因で喧嘩に発展するパターンは容易に想像出来るね。なんで、わたしの話をちゃんと聴いてないのーってさ。
 でも、姫にもそういう普通の女の子っぽい気持ちって有るのかな?」
「アホやなぁ、もちろん有るに決まってるやん! 人より繊細な心の持ち主やなかったら、あそこまで色んな事考えられへん思うよ!
 竜斗センパイもしっかりと姫ちゃんとコミュニケーションとって、ちゃんと気持ちを汲んであげへんとダメやでぇ!」
「ちぇっ、相変わらず上から目線だよなぁ…。でも、言っている事が的を射ているから助かるよ!!」
「そやで、うちの毒舌に感謝してや!」
「ふっ、ありがと! やっぱり、夕鶴は夕鶴らしく毒舌なのが一番だよな!!」
「それは竜斗センパイも同じやで!! 竜斗センパイは竜斗センパイらしくお人好しでアホ正直なのが良い所やわぁ!!」
 竜斗の脳裏に姫の言葉が蘇る。
(人は日々の積み重ねでしか物事を成し遂げる事が出来ませんわ。
 一日一日を、その一瞬一瞬を大切にして、その時々で自分自身が出来る事を考えながら精一杯生きる事。
 それが、いつかあなたにとって掛け替えの無い力になりますわ)
「そうだよな、誰だって自分らしくあるのが一番だよな…。
 力を引き出すって事は自分らしくあるって事、強く生きるってのは自分らしさを貫く事、それを忘れちゃダメだ…」
「なんや、薮から棒に!?」
「夕鶴にお願いがあるんだ…、僕に、僕たちに力を貸して欲しいんだ!!」
「おっと、計画を止める手伝いをしろって事やったらお断りやで…!」
「そう、僕たちはブラフマンの計画を止める為に戦って来た。
 だけど、大河や他の人達と戦って、彼らの事情も解らず一方的に力で否定するのは何の解決にもならないって思ったんだ。
 だから、僕は彼らの事を少しでも知りたい…! 解り合いたい…! 計画に頼らなくても良いように彼らの力になりたい…!!
 その為に、夕鶴が知っている事を教えて欲しいんだ…!!
 夕鶴が計画の本当の目的を誰にも言えないのには理由があるとは思う…、それでもお願いだよ…!!」
 竜斗は夕鶴に頭を下げた。
「なんで竜斗センパイはそんなにも一生懸命になってるんや…!?」
「僕に出来る事はどんな時でも誰かの為に真っ直ぐに生きる事だけだから…! そうする事で僕は僕でいられるからさ…!!」
 そして、顔を上げて力強くまっすぐに夕鶴を見つめた。
「そっか、竜斗センパイは何も解らへんのに、空に計画止めてくれって頼まれたんやね…!?」
「な、何でそれを…!?」
「バレバレやで! ホンマにお人好しでアホ正直やなぁ…!」
「またやられたか…」
「そやね…、空のヤツずっと辛かったんやろな…。
 アイツのオトンと奏真先輩は優しいからこそ全てを犠牲にして必死になっている…。
 うちはそれを知っているから応援して来たし、大河や他の奴らもそれを知って協力したけど、それは空の気持ちを無視して傷つける事やったんかも知れへんね…。
 うちには空の気持ちは良く解る…、だかこそ何が正しいのか良く解らへん…。
 でも、大河の言う通り竜斗センパイと姫ちゃんやったら、どうにか出来るかもしれへんね…、真っ直ぐで噓偽りの無い地に足を着けた力を持っているから…」
「夕鶴…」
「わかったわ…! うちが知っている事も、うちが思った事も全て話す…! その代わり空を、奏真先輩を助けてやってね…!!」
「ありがとう、夕鶴…!!」

「な、なんだと!?」
「いきなり、初めからその台詞は早過ぎねん!?」
 試合開始時間が迫り、舞台となる駅前広場には生徒だけではなく、一般人も含めた多くの人々が集まっていた。
 竜斗と夕鶴は並んで戦いの開始を見守っていたのだが、奏真と空に相対するように立つ対戦相手を見て驚愕した。
「いや、それも仕方無いだろ! だって、だってアイツは…!!」
 それは、中肉中背で七三分けの特徴の無い冬服の男子生徒だが、その瞳に生身の人間が持っているはずの光を感じる事は無い。
 その傍らにはお下げ髪で狐メガネの女子生徒が付き添っている。
 転校初日の竜斗に因縁を付けて来て、奏真と出会うきっかけになった相手。
 姫の圧倒的戦闘力を初めて目撃し、本当の強さへと一歩踏み出すきっかけとなった相手。
 忘れもしない。
「風紀委員…通称粛清委員の二人じゃないか!!
 粛清委員長は姫にぶちのめされた挙げ句、アルカナを強奪されて失格になったはずだよ!! そのアルカナは今は僕が持っているのに、何でアイツが!?」
「竜斗センパイはアホやなぁ…。
 何やかの原因でアルカナが失格になった場合、ブラフマンが代わりを選出するってルールになっとったはずやで。
 失格になるのはトーナメント以外でアルカナ同士が戦ったり、トーナメント以外で破れてアルカナを失った場合とかやな。
 竜斗センパイと大河が良い例やないの。
 ただし、単純にアルカナを倒してカードを奪えば良いってわけやなくて、ブラフマンの許可が無いとトーナメントには参加出来へんし、ブラフマンの暗示を受けへんと能力は使えへんから、結局はブラフマンの鶴の一声次第ってヤツやね」
 竜斗は姫が粛清委員長を倒した後、ウォータースライダーの上に立ったブラフマンに許可を得ていたのを思い出した。
「そうか、あの時ブラフマンが僕の参加を許可したのは、そのルールを使えば幾らでも計画を修正出来ると思っていたからなんだな。
 事実、僕を止める為に大河を充てがってみたりしたし。
 今回の粛清委員長の復活だって計画の修正…つまり、初めから奏真先輩と粛清委員長は何処かで戦うように仕組まれていたって事か?」
「それか、途中で失格になってもうた生徒会長の代わりかも知れへんよ!」
「なんで、そう思うの?」
「だって、勝つためならば手段を選ばず、力無いもん達を虐げて来た生徒会長を奏真先輩が倒して、世界を変革してみんなを救うって最高の展開やし!」
「なんか、図書委員長を思わせる漫画的理論だな!」
「あんなんと一緒にせんたってやっ! アホっ!! どアホぉ!!」
「悪い、悪い…! そうだよな、夕鶴の方が全然可愛いんだし、一緒にされたく無いよな!!」
「アホぉ!! そんな事言わへんといてっ!!」
 夕鶴は顔を真っ赤にさせると、背中を思いっきり叩いた。
「あだっ!! 何で叩くんだよ!?」
「自分で解ってない所が恐ろしいわぁ、ホンマ…!!
 でも、生徒会長と粛清委員長はAブロック、奏真先輩はBブロックで本来は決勝戦でしかあり得へん組み合わせやし、何れにせよ重要な意味がある戦いなのは確かやと思うよ!!」
「姫の予想した通りって事か…!!」
 そして、いよいよ試合開始の時を迎える。
「いよいよ、我々の恨みを晴らす時が来たようだな。貴様があの中学でした事は忘れていない…! 忘れていないぞっ…!!」
「俺は自分の犯した罪は決して忘れていない。未来永劫、輪廻の先まで罪を背負い続ける覚悟はしている。だが、お前の恨みを受ける所以は無いはずだ」
「貴様は何も解っていない!! 解っていないのだ!!
 強き意思を持たざる人々にとって最も恐ろしい毒は何であると思う!?
 それは自由であるっ!!
 何処までも続く荒廃した世界において、人々に無責任な自由を与える事は、死への不安を与える事と同意義であると知れっ!!
 当時、震災で傷ついた幼き中学生達は、支配により自らを導く救世主を求めていたのだっ!!
 我々は人々の求めるまま救世主を作り上げた!!
 それが生徒会長であるっ!!
 彼は意思の弱き者を粛清する事で、強き意志を持つ者を目覚めさせ、意思を持たざる人々に標を与えた!!
 そう、彼は人々に楽園をもたらしたのだ!!
 しかし、貴様は生徒会長に抵抗し弱き者達に味方したばかりか、生徒会長を叩き潰す力があるのにも関わらず、それをしようとはしなかった!!
 貴様のおかげで我々の楽園は失われる事となったのだ!! それは許される事で無いと知れっ!!」
「誰が生徒会長を操っていたなど興味が無い。
 だが、自分自身が罪を背負う覚悟を持たず、他人を盾にする事しか出来ない思考停止野郎は許さざる程に醜いものだな」
「そう、我々は強き意志を持たざる者であるっ!! だからこそ、絶対的な支配者を求めているのだっ!! 力を持ちながらもそれが解らぬ貴様は我々が粛清してやるっ!!」
「俺は誰を相手にしようとも決して負けはしないっ!! 例えどんな罪を背負う事になろうとも、守るべき者を守る為に戦い続けるだけだっ…!!!」
「お兄ちゃん…」
 空はとびきり切なそうな表情を浮かべた。
 そして、奏真は空と口づけを交わし、No.19太陽のカードを取り出し、それを掴み取って二組のチャクラムへと変化させた。
 一方で粛清委員の二人も同様にシルエットを重ねると、燃えた建築物から人物が落下している絵が描かれたNo.16塔のカードを取り出す。
 そして、それを掴み取ると以前と同じ調教鞭へと変化させた。
「では、初めっ!!」
 ブラフマンの合図を皮切りに、双方共に同時に全力で攻撃を放つ。
 振るっ!!
 振るっ!!
 振るっ!!
 斬るっ!!
 斬るっ!!
 斬るっ!!
 粛清委員長の鞭が作り出す衝撃波を、奏真のチャクラムの斬撃が掻き消し、一進一退の攻防を見せ周囲は大歓声を上げる。
「粛清委員長の能力は前に姫と戦った時から変わっていないみたいだな」
「大河みたいに精神的な変化が無ければ、アルカナが変わっても能力は変化せんのかも知れへんね。それよりも、粛清委員長の能力ってどんなんや?」
「えっ、鞭から衝撃波を出すだけじゃないの!?」
「アホぉっ!! それだけなはずないやん!? ああ言うシンプルな攻撃の場合はステータス異常が伴うはずやで!!」
「そっか、宝塚さんの女の子化もそうだったし、工藤だって毒攻撃だとか言ってたしね。
 でも、姫は一撃も食らう事なく圧勝しちゃったから、結局本当の能力は解らず終いだったんだよなぁ」
「それはさすが姫ちゃんとしか言いようが無い感じやね! おっ、動きがあったようやで!!」
 互いに全力の攻撃を繰り出し、一息ついて向かい合ったまま膠着状態になっていた。
「どうした、攻撃はそれだけか!? これ以上、お前と付き合っていても時間の無駄だ!! これで一気に決めさせてもらうっ!!!」
 奏真は間合いを詰めて一気に勝負を決めようとする。
「アカンっ!! これは反撃食らうパターンや!!」
「それは僕も思ったけど、なんか、さっきから奏真先輩らしくない気がするよ…!」
「きっと、焦っているんやろなぁ…」
「焦り…?」
 奏真が接近して右腕に持ったチャクラムで斬り掛かった所で、粛清委員長は至近距離で鞭を振るい、放たれた衝撃波によって奏真の右腕を切断する。
 派手に血が飛び散り、奏真の右腕がボトリと言う音を立てて地面に転がり落ちる。
 周囲からは悲鳴が上がるが、当の本人は涼しい顔で、そのまま攻撃を続ける。
「そんな攻撃が俺に効くと思っているのか…!」
 左の斬撃!
 右の膝蹴り!!
 しゃがみ蹴りの連続!!!
 そして、右腕を本来の場所に取り付け、再生しながら左右の斬撃の連続!!!!
 回転しながらのアッパー斬撃!!!!!
 そのコンボになす術も無く自我領域を削られて行く粛清委員長。
 そのあまりにも華麗な動きに周囲からも歓声が上がる。
「莫迦めっ!! 我々の狙いは貴様ではないわっ!!!」
「何!?」
 その時だった。
「きゃーーーーっ!!」
 奏真の背後で少女の声がした。
「空っ!!」
 奏真が慌てて振り返ると先ほど粛清委員長が放った衝撃波を全身に浴びて、空が倒れ伏せている所が見えた。
 奏真は目の前の粛清委員長を無視し、急いで空の元へと駆けつけた。
「大丈夫か、空っ!?」
 奏真が空を抱き起すと一切の怪我は無い様子であり、ほっと一息ついた時だった。
「ぐはーーーーーっ!!」
 空は手にした調教鞭で奏真の身体を切り裂き、その返り血を浴びていた。
「お、お兄ちゃん…!!」
 空は身体をガクガク揺らしながら、手にした鞭で連続して奏真に次々と攻撃を浴びせる。
「やめてっ!! 身体がっ!! 身体が勝手に動くのっ!!」
 茫然自失となった奏真は全身を隈無く切り裂かれ真っ赤に染まって行く。
「お兄ちゃん避けてっ!!」
 空の一声で我に返った奏真はバックステップで空との間合いを取るが、そこには粛清委員長が待構えていて、背中から渾身の一撃を食らってしまう。
「!!」
 声も無く地に伏せる奏真。
「やっぱし、嫌な予感が当たってもうたか…!」
「あ、相手のパートナーを操るなんて、何て卑怯な能力なんだ…!!」
 奏真は再生しながら立ち上がり同時に二人を相手にして応戦するが、空に攻撃をする事が出来ないので状況は著しく苦しかった。
「どうだ、愛するパートナーに成す術も無く切り裂かれる気分は!?
 かつての貴様は暴力的であり、第二の生徒会長に、第二の支配者になれる素質があった!!
 しかし、この小娘に出会ってからと言うもの貴様は温くなった!!
 生徒会長亡き今も、その力を持って人々を支配しようとはしないっ!! それは許されるべき事では無いのだっ!!
 諸悪の根源である小娘の手によって裁かれる、それが貴様への真の粛清なのだっ!!!」
「止めてっ!! もう止めてぇーーーっ!!!」
 空の鳴き声も虚しく、奏真への怒濤の攻撃は続く。
 下段!!
 中段!!
 上段!!
 そして、飛び退いて衝撃波での攻撃!!
 粛清委員長と空の動きは完全にリンクし、まるで踊るように鞭がうなり奏真に攻撃を浴びせかける。
 もはや、完全に自我領域が消えつつあった。
「これはアカン…!!」
「まさか、奏真先輩が…、負けると言うのか…!?」
「いや、それ以上に心配なのは空や…!! これ以上、激しい動きをさせたらアカンで…!! 解っているんやろ、奏真先輩…!!」
「えっ!?」
「これで止めだ!!」
 しかし、夕鶴の不安は的中し奏真へと止めを刺そうとした所で、空は突然嘔吐し全身から大量の汗を吹き出しながら、身体をフラフラさせて倒れてしまった。
 それと同時に奏真も完全に自我領域を失って倒れてしまう。
「ああっ、やっぱし発作が出たか!!」
「どう言う事なの!?」
「空は重い病気なんや…!!
 自立神経ちゅう所に原因不明の異常があるらしく、緊張や激しい運動、温度変化で発作が出て、発熱や嘔吐で脱水症状を引き起こしてしまうんや…!!
 素早く水分補給しないと命も危ないし、常にスポーツドリンクが欠かせないんよ…!!」
「そう言えば初めて出会った時、カラになったペットボトルに水を入れて渡されたよ…!! あれは発作の後だったのか…!!」
「中学の時に発症して以来、色んな治療を試して来たけどダメやった。奏真先輩の能力でも治す事が出来んかったんや…。
 最近では加速度的に症状が悪化して、長い間意識を失って自分で栄養や水分を補給する事も出来ん時もあるんよ…。
 ブラフマンの見立てだと、もうそう長く無いって事らしいんやって…」
「ま、まさか…、そんな…!!」
「もう、空を救う為には運命をっ、世界を変える事しか無いっ…!!
 だから、奏真先輩は戦ってるんやっ…!! 自分自身が傷ついても、誰を傷つける事になっても、痛みを堪え続けながらっ…!!」
「それが、奏真先輩…、そしてブラフマンの真の計画と言うのか…!?」
「ふはははははっ!! 貴様に止めを刺すのは後回しだっ!!! まずはパートナーを殺し、後悔の中で死なせてやるっ!!」
 粛清委員長は無表情な顔に不気味な笑みを浮かべると、ゆっくり空の方へと足を進める。
 しかし、奏真は血だらけで気を失った地に伏せてピクリともしない。
「立って!! 立つんや奏真先輩っ!! お願いだから立ってくれやぁ!!!!」
 一歩、また一歩、粛清委員長が空へと歩み寄る。
「奏真先輩の馬鹿野郎っ!! こんな時に寝てる場合じゃないだろっ!? こんな所で空を殺されて良いのかよっ!?
 僕が憧れ追いかけて来た男はそんな弱い奴じゃないはずだ!! 
 大切な人を守る為ならば自分がどんなに傷ついても絶対に負けない、そんな強さを持った男だからこそ僕のライバルとして相応しいんだ!!
 だから、起きろっ!! 起きろよっ!! 起きてアイツをぶっ飛ばしてくれっ!! その強さを見せてくれっ!!!」
 粛清委員長が空に向かって鞭を振り上げた所だった!!
「ぐはーーーーーーっ!!」
 粛清委員長の身体が錐揉みしながらすっ飛んでいた。
「な、何だと!?」
 自分自身に何が起こっているか確認する前に粛清委員長の身体は再びすっ飛ばされていた。
 何度目かの衝撃の後に粛清委員長が前を見ると、そこには意識を失っていたはずの奏真が血だらけで意識も絶え絶え、絶対領域も失ったまま殴り掛かっていた。
「貴様は!?」
 殴る!!
「何故、自我領域を失っても立っていられるのだ!?」
 殴る!!
「何故、それだけの傷を負っても生きていられるのだ!?」
 殴る!!
「何故、能力も使わず我が自我領域を犯す事が出来るのだ!?」
 殴る!!
「何故だ!?」
 殴る!!
「何故だ!? 何故だぁ!?」
 殴る!!
「それは貴様が空を傷つけたからだっ!!」
 殴る!!
「そ、そんな事でっ!!」
 粛清委員長は苦し紛れに鞭を振るい奏真の額を切り裂く。
 だが、奏真は止まらないっ!!
「俺にとっては空が全てだっ!! 空を守る為に戦うっ! その為だったら例え誰を相手にしようとも、どんなに心と身体を痛めようとも、俺は絶対に負けはしないっ!!」
 そして、奏真は粛清委員長を殴り飛ばし、その自我領域を完全に打ち砕いた。
「ちくしょーーーーーっ!!」
 粛清委員長は副委員長と共に倒れると、その身をNo.16塔のカードへと変化させ消えて行った。
「き、消えた!?」
「あの時と同じやっ!! まさか粛清委員長達もみんなの集合意識が具現化した思念体やったって言うんか!?」
「でも、粛清委員長の物言い、雰囲気…。あの時と似ていたかもしれない…」
「そやね…、うちらの思いが粛清委員を産み出し、さらには生徒会長と言う暴君を台頭させたって考えると複雑やけどね…」
 奏真は消えた粛清委員長の事など脇目も触れず空に駆け寄って抱き締めると、自分の口にスポーツドリンクを含ませると空に口移しにした。
 意識を戻した空と奏真は自我領域に包まれながら再生して行く。
「でも、この戦いが仕組まれているとしたら、どんな意味があったんだろう…。奏真先輩に空を失う事の恐怖を植え付けているとしか思えない…」
 竜斗は奏真の勝利を告げるブラフマンの顔を盗み見たが、その意思を読み取る事が出来なかった。
 運命の時まであと二日…、だが、真実はまだまだ遠い気がした。

第五章

 1999年7月30日(金)
 この日は朝早くから気持ち良く晴れ渡り、元気よく蝉の鳴き声が響いていた。
 風見鶏の館の朝食の間では竜斗と姫が何時ものように二人きりで食卓を囲み穏やかな時を過ごしていた。
「しかし、聖蘭さんが休職してから、朝食はパンに前日のスープの作り置き、昼は外食、夕飯は出張のシェフさんに作ってもらってばっかでワンパターンだよな」
「ふふふっ、なんだったらわたくしが作ってもよろしくてよ。火を使ったり包丁を持つのは恐ろしいですが、味覚には自信がありのすので為せば成ると思いますわよ」
「ってか、日本刀を平気で振り回す奴が言う台詞じゃないよな…! しかも、味覚だけで料理が出来るとか素人丸出しな気がするぞ…!!」
「仕方ありませんわよ、わたくしは今まで厨房に入る事無く生きて来たんですから」
「姫って見かけ通りのお嬢様だよなぁ。まぁ、とは言っても僕も今まで料理なんてした事は無いから人の事言えないんだけどさ…」
「あらあら、お料理が出来なくてもお金があれば生きて行けますわよ。自分に出来ない事はお金で解決ですわ!」
「ふっ、それを言ったら元も子もないよな」
「ふふふっ、それがわたくしの生き様ですわ。貴方もわたくしを見習って貴族的な暮らしを目指して下さいな」
「金が無いのに姫を見習ったらダメ人間になっちゃうって!」
「そうならないように精一杯働いて下さいな。わたくしの仕事を引き継げば充分やっていけますわよ」
「充分過ぎるけどね…! さて、ごちそうさま!」
「ごちそうさまですわ」
 竜斗と姫は食事を終えて手を合わせた。
「でも、こうしていると明日には世界が終わりを迎えるとは思えないね」
「ええ、本当にそうですわね。
 世界が本当に終わってしまうかどうかは解りませんが、決着の時が近づいている事は確かですから、さながら嵐の前の静けさと言った所ですわね。
 ずっとこうして居たいのは山々ですけど、これからの事を考えないといけませんわよ」
「とは言っても実際には解らない事だらけなんだよな。
 ブラフマンの動機は空の病気を治す事だって解ったけど、わざわざ鍵を握る奏真先輩を追い込むような事をしたり行動に違和感があるし」
「そう言う時は解らない事を無理に考えるより、今解っている事を整理して掘り下げると良いと思いますわよ」
「じゃあ、そもそもの動機…空が病気になった自律神経って何なのかな?」
「自律神経と言うのは交感神経と、副交感神経の二つから成り立ち、呼吸や代謝、消化、循環、体温など無意識に生命活動の維持や調節をする機能ですわ」
「となると、あの症状も納得出来るよな…。原因は不明とは言っていたけど、どうにかならないものかな…?」
「自律神経の異常は遺伝的疾患や癌等によるホルモンバランスの乱れが原疾患である事がありますが、その殆どが不定愁訴…つまり症状があるのに原因が解らない疾患で薬物投与の効果も無いそうですわ」
「結局、解らないって事か…」
「ですが、どのような病気にも効く治療はありますわよ」
 姫はニコリと笑う。
「なんか、微妙に嫌な予感がするんだけど大丈夫だよね?」
「ふふふっ、もちろん医学的見解に則った治療法ですわよ。
 病は気からと言いますし、ここは一つ養生して英気を養うべき…、と言う事で今から奏真さんに空さん、大河さんと夕鶴さんもご一緒して温泉に行きますわよ!」
「やっぱり、ぶっ飛んでたよ!! こんな時なのに姫は相変わらずだよなぁ…!!」
「あらあら、こんな時だからこそ楽しみが必要なんですわ。皆さんも疲れも溜まっている事ですしね」
「まぁ、それはそうだけど、夜には試合がある事だし、中途半端な時間で温泉って入れるものなの?」
「目的地は電車で30分程で行けるぐらい近い所にありますわ。ただ、体調の優れない空さんや、足の悪い夕鶴さんも居る事ですから今回は車で行きましょう」
「でも、ロールスロイスは聖蘭さんが持って行っちゃたんだけど…」
「その辺は抜かりなく手配してますわ。
 時は悠久に続くように見えて有限であり、何時かは終わりが来てしまうものですわ。
 悔いのない人生を送る為には、考える時は考え、楽しむ時は楽しみ、自分の気持ちに従って、その時その時を精一杯噛みしめる事が大切ですわよ」
「うん、そうだね!」
「では、出発までの間、何時ものように朝練をしますわよ!!」

 朝練を済まし軽くシャワーを浴びた竜斗と姫が風見鶏の館を出ると、そこには北野異人館街の石畳の道に似つかわしく無いボロボロのホンダ・ステップワゴンが停まっていた。
「おはようございます!!」
 運転席から降りた私服姿の安室が出迎えた。
「お出迎えご苦労さまですわ」
「送ってくれるのって安室さんだったんだね!」
「ええそうですわ、既に他の皆さんも迎えに行ってますよ!」
「おはよう!」
「おはよさん!」
「おはー!」
 助手席には奏真、真ん中の席には夕鶴と空、大河が座っていて顔を出して挨拶を交わした。
 奏真は黒いタンクトップの上から白いワイシャツを羽織り、下は細身のジーンズをハイカットのコンバースオールスターにインし、何時ものネックレスとバックルを着用し、制服時とイメージが大きく変わらない。
 空は水色のギンガムチェックのワンピースの上に白いウィンドブレーカーを羽織り、足下はローカットのコンバース・オールスターと言った格好で、何時もより可愛らしさが増して見える。
 奏真と空はお揃いのカシオのBaby-Gをペアで着用している。
 夕鶴は長い髪を後ろで束ねてポニーテールにして帽子を被り、緑のチェック柄の長袖シャツにベージュのゆったりしたパンツ、GTホーキンスのブーツを履いた本格レジャースタイルだ。
 大河は背中に虎のイラストが描かれた黒いTシャツに、サスペンダーを緩めて腰履きをしたサイズが大きめの深緑のカーゴパンツ、足下にはナイキのエアジョーダンを履き、黒いリストバンドの上からカシオのG-SHOCK Extremeを巻いている。
「おはよう!」
「おはようですわ」
 奏真はかなり追いつめられているような真剣な面持ちだったが、空は病気であると言う事を感じさせない程に元気で、大河もすっかり元通りと言った感じだ。
「でも、あまりエレガントな車じゃ御座いませんわね」
「あ、迎えに来てもらっといて、それ言っちゃうの!?」
 しかし、姫がそう言うのも納得でステップワゴンはあちこち擦り傷、凹みだらけ、汚れ塗れになったいた。
「これはボクのオカンの車なんですよ! お嬢さまには解らないかもしれませんけど、庶民なんてこんなもんですよ!!」
「確かにオバさんは何故か平気で車をぶつけながら走るしね!」
「あら、傷を直すにはお金がかかるでしょうが、洗車ぐらいならばお金をかけなくても出来るんでなくて?」
 姫は鼻で笑うように言う。
「姫ってば、ちょっと厳し過ぎるんじゃないの?」
「でも、一人暮らしのオカンがこんな大きな車を洗うって酷ですよ!」
「たまに実家に帰った時に貴方が洗ってあげれば良いと思いますわよ。貴方に気遣いや心がけが足りませんわ」
「そやで!! それに何やその私服!? 低予算にしてもセンス無さ過ぎるで!! うち、幻滅したで!!」
 車の中から夕鶴の声が響く。
「ゆ、夕鶴、お前あんだけ安室さんの事カッコ良いって言ってたのに、掌の返しっぷりが半端ないな…!」
「うちが好きだったのは、執事の安室さんや! こんな、ヘボイな兄ちゃんじゃないで!!」
「ううっ…」
 目頭を抑えて涙する安室。
「しかも、すぐ泣くし、まるで誰かさんみたいなヘタレやん!」
「誰かさんって誰だよ?!」
「まぁまぁ、女なんてあんなもんやで!! これからは男同士仲良くやろうやないか!!!」
 三列目に竜斗と姫を乗せる為に、車を降りてシートを折り畳んだ大河が安室の肩を叩く。
「お、お前、顔が嬉しそうだな…!」
 竜斗は姫をエスコートし三列目シートに乗りながら言う。
「じゃあ、発進しますね!」
 全員が乗り終わった事を確認すると車を走らせた。
 石畳の道を車がガタガタ揺れながら動き、洋館の立ち並ぶ情緒ある町並みが流れて行く。
「でも、空は仕事じゃない時の安室さんの方が好きだよ! だって、空の家庭教師のアルバイトしてくれてた時はこんな感じだったし!」
「へぇ、安室さんって空の家庭教師だったんだ!」
「…と言っても大学三年の時の冬休みの間だけですけどね。
 ボクは故郷の神戸を離れて東京の大学に通ってたんですけど、当時付き合ってた子と一緒に冬休み期間中に旭陽教授の特別講習を受ける事になって、そのよしみで空ちゃんが東京に滞在する間の家庭教師のバイトを紹介してもらったんですよ」
「でも、空の家庭教師をする寸前でその女の子にフラれちゃったんだよ。休憩時間中に隠れて泣いてたの見ちゃったもんね!」
「それは言わんといて下さいよー!」
「やっぱ、ヘタレやね!」
「ですわね」
「もう、さっきから、お姉ちゃんと夕鶴は安室さんに厳し過ぎるよー!」
「そうだよ!」
「安室さんは一見人に気遣っているように見えますが、それは仕事中の紳士的な態度や格好によって作られた仮面と同じく表面的なものであり、その本質は極めて自分勝手で子供っぽいと思いますわ。
 情けは人の為にならずと言いますが、ここで甘やかしてしまっては本人の為になりませんのよ」
「そやそや!!」
「うううっ…」
 運転しながらも泣く安室。
「でも、俺は安室さんの気持ち痛いほど解るでー!!」
「うんうん、僕もいっつも泣いているし、他人事とは思えないよ!」
「そうだな」
 竜斗と奏真は安室を擁護するように力強く頷いた。
「おう? おれや竜斗はともかく、奏真も泣く事があるんか?」
「そんなことはしょっちゅうさ。男なんてみんなそんなものだろ」
「そう、殿方は幾つになっても純粋ですから、ついつい悪戯したくなってしまうんですの。殿方の狼狽する姿はあまりに可愛らしくて快感を覚えてしまいますわ。それは愛があるが故、ある種の愛情表現とも言えますわね」
「お、お姉ちゃん変態っぽいよぉー!」
「うん、解るっ!! 姫ちゃんの気持ち良く解るでっ!!」
「ふふふっ、わたくし達は同志ですわね」
 姫と夕鶴は座席の列を超えて硬く手を握り合った。
 その為に三列目で姫の隣に座る竜斗と、二列目で夕鶴と空に挟まれて座る大河が押し潰される形となった。
「せ、狭いっ!! この狭い車内で止めてくれよっ!!」
「ホンマやっ!!」
「いいじゃないか、俺と安室さんなんて男同士並んで座っているんだ。正直、大河の席が羨ましくてたまらないな」
「お兄ちゃんの馬鹿っ!! スケベっ!!」
「ふっ、俺も男だしスケベなのは仕方無いものさ…!」
 まるで今での過酷な戦いや、これから待ち受ける戦いが夢であるかのように車内は笑いに包まれた。
 そして、皆を乗せた車は以前生徒会長との戦いを繰り広げた新神戸トンネル有料道路を通って六甲山の北側に抜け有馬街道を東に走る。
 しばらく住宅街のような変哲も無い景色が続いたが、安室が提案した尻取りにブーブー言いつつも盛り上っていると、いつの間にかに深い緑に被われた山中を思わせる情景に変わっていた。
「もうすぐ着きますよ」
「なんか、それっぽくなってきたやん!!」
「うん、うきうきわくわくするね!!」
「風景が変わって空気が澄んで行く…、この高揚感はたまらないな。旅をしていると言う気分にさせられる…!」
「そやな!」
「でも、本当に近いよな! まだ30分ぐらいしか経っていないし!!」
「そう、街からのアクセスが良く人々に愛され続ける憩いの場…それが目的地である有馬温泉郷ですわ!」

「実はボクの知り合いも呼んでるんですよ。もうすぐ来るはずですし、待ってもらって良いですか?」
「あほぉ!! そー言う事は始めに言っておくもんやで!! どうせ言い出す度胸が無くてズルズルになったんちゃうん!?」
「な、なんでそれが解ったんですか!?」
「解るやろ!! じゃあ、ここに座って待とうか!!」
「あ、結局待つんだ!?」
「当たり前やろ!! うちをなんやと思ってんの?」
「夕鶴だしな」
「そやな、夕鶴やし」
「お前ら後で覚えとけやぁ…!!」
「ボクの為にわざわざありがとうございます!!」
「ふっ、気にする事はないさ」
「そうよ、安室さんの友達だったら、空たちの友達と同じだもん!」
「ふふっ、ご心配なさらなくても大丈夫ですわ。おそらく、ここに来るのは皆さんもご存知の方だと思いますから」
 その時、遠くからパァーン、パァーンと軽快なエキゾーストノイズが近づいて来るのが聞こえた。
「なんだ…? バイク程じゃないけど、普通の車より音が軽い…?」
「ロータリーエンジンの音ですわね。
 ロータリーはマツダのみが実用化に成功しているエンジンで、ピストンの上下運動を回転運動に変換し動力にする一般的なレシプロエンジンとは異なり、三角形のローターを回転させる為に慣性抵抗が少なく、動力に伝える過程の運動エネルギーの変換と言うプロセスが存在せず、エネルギー損失が少ないのが特徴ですの。
 その為、少ない排気量で大きなエネルギーを発生させられますし、シンプルな構造と相まって通常のレシプロエンジンと比べて遥かにコンパクトですので、ボディの重心に近い位置に搭載して旋回性能が飛躍的に高い車を作り上げる事が出来ますわ」
「や、やけに詳しいんだな、説明が近年稀に見ぬ程長かったよ…」
「ふふふっ、幾ら高級なマシンを操る事が出来る資金と技術があったとしても、知識が無ければ勝つ事が出来ないのが公道バトルの世界ですからね」
「公道バトルって何やっちゃってるの?!」
「ふふふっ、ちょっとしたお遊びですわ」
 そして、ロータリーサウンドの発生源は竜斗達のいる駐車場に入ると、派手なスキール音とタイヤの焼ける臭いと共にボディを横滑りさせて見事に白線内に駐車した。
「な、なんや!?」
 大河は驚きおののきアスファルトに尻餅をついた。
 それはハードトップとGTウィングを装着した青色のユーノスロードスターで、ドアを開け放つとロールゲージの張り巡らされた車内から女性の姿が現れた。
 夏だと言うのに革ジャンを着込み、細いボディラインにフィットしたダメージジーンズとハイカットの革ブーツを履きこなしている。
 肩まで伸ばした金色の髪と涼しげな眼差しはそこにいる誰もが見覚えがあった。
「せ、聖蘭さん!?」
「遅くなって申し訳ございません」
「いえ、わたくし達も今来た所ですわ」
「なんや、安室さんの呼んだ人って聖蘭さんやったんか!? にしてもカッコいい!! メイド服も最高やけど私服も最高やで!!」
「ふっ、聖蘭さんのその格好を見るのは久々だな…!」
「うん、中一の冬以来だよね!」
「なんや、あんたら、そんな昔から聖蘭さんの事知ってたん!?」
「うん、お父さんが東京の大学で講師やってた時の生徒さんだったの。安室さんとは何度も付き合ったり別れたりしてたんだよね!」
「空、そう言うプライベートな事は言っちゃ…! ゴメン、聖蘭さん!! 空は無邪気なだけで悪気は無いのさ…!!」
「過去の事ですので気にするまでもありません」
「じゃあ、今はどうなんや?」
「ゆ、夕鶴…、お前はまた凄い事を…。無邪気さの欠片も無く悪気が満ちあふれているとしか言いようが無いぞ…!」
「知人と言う程度です。それ以上でもそれ以下でもありません」
「そ、そんなぁ…!」
「まぁまぁ、男なんてみんな不器用なもんや! 温泉に入って嫌な事は全て忘れようで!!」
 ショックを隠せない安室の肩を叩く大河。
「だから、お前顔が嬉しそうだぞ…!」
「では、全員揃った所で行きますか。あのタクシーで旅館まで行きますわよ」
「うおっ、おもしろかっこいいタクシーだな!」
「また、懐かしいフレーズやね…!」
 丸目のヘッドライトの間に挟まれた四角く大きめなグリルが印象的なクラシカルなデザインのフロントセクションに、屋根が高く四角い箱形の座席が組み合わされている。
「倫敦タクシーと呼ばれるイギリスから輸入された車で、ミニバンの二列目が取り外され三列目に座るような感じの広々としたレイアウトが特徴ですのよ」
「でも、それやと全員乗れないんやない?」
「ええ、ですから空さんと夕鶴さんに乗って頂き、あとの人達は歩いて行きましょう。宿はここから近いですし」
「そやったら、うちらも一緒に行くで!」
「でも、良いのか空?」
 奏真は心配そうに空を見る。
「うん、みんなで一緒に行った方が楽しいもん!」
「ふふふっ、解りましたわ。みんな一緒に行きましょう」
「おーっ!」
 駐車場を出て有馬街道を東に向かい、駅前にある太閤橋交差点に出ると、南に向かって川に沿った坂道を上がって行く。
 川にかかった橋のすぐ近くにある噴水のある広場にはちょんまげ姿の銅像が鎮座していた。
「成金っぽいおっちゃん像やな」
 歩きながら夕鶴が言う。
「太閤秀吉像です。跡継ぎに恵まれない秀吉は子宝の湯で知られる有馬温泉の効能にあやかろうと、何度もこの地を訪れ様々な改修をしたと言われています。
 その為、この辺りには秀吉と縁があり太閤と名の付く地名が多くあるそうです」
「でも、結局効いて無いんやないの!?」
「この太閤秀吉像の視線の先…左側に見える赤い欄干の橋の所には、奥方のねね様の像があるんですよ。
 ねね様は梅干しが大嫌いだったから、食べてから温泉に入ると懐妊するって言うはらみの梅を口にしなかったって伝説が残されているんです」
 少しは良い所を見せたい安室が補足説明する。
「きっと、子宝の湯って効能にケチつけたく無いが故のこじつけやね!」
「それは言っちゃアカンやろ!!」
「ふふふっ、ご利益があるかどうかは皆さんが試してみては如何ですか?」
 姫は立派な壷を差し出し、蓋を開けてシワシワになった梅干しを見せる。
「いつの間に!?」
「美味そうやないの! うち、梅干し大好きやで!!」
「な、何の躊躇いもなく行くか…!?」
「やる事やらなきゃ妊娠しないし、やる事やってもやる事やってれば妊娠しないし、やる事やっても妊娠しない時はそん時はそん時やしね!」
「公衆の面前でまた凄い事を言い切った!!」
「お前なぁ、女としての恥じらいっちゅうもんが無いんか!?」
「苦渋を舐め続けたうちにそんなもんあるわけ無いやろ?!
 生きていれば飲むし食べるし、オシッコもすればウンチもするし、どんな事でも諦めたら終わりやけど、どんなに頑張っても出来ない事もあるし、欲望も我慢出来ない事もあるんや!!
 そう、生きるっちゅう事は綺麗事じゃないんやで!!」
「ふふふっ、夕鶴さんは良い母親になるかも知れませんわね。医療関係にも向いていると思いますわ」
「…なんだか僕もそう思う」
「ほら、空も美味しいから食べてや!」
 夕鶴が梅干しを掴んで空に差し出す。
「ふぇ…?」
「なんや、顔真っ赤やん!! 空でもそう言う事に興味あるんやね!! まぁ、思春期の女の子やったらあたり前やけど!!」
「そ、そんな事ないもんっ!!」
 空は夕鶴から梅干しを奪い取るように掴み、その小さな口に運ぶ。
「食べちゃったよぉ!! 赤ちゃん出来ちゃったらどうしよう!?」
 嬉しいんだか、恥ずかしいんだか解らない複雑な表情を浮かべる空。
「そ、空…!?」
 そんな空を見て顔を赤くする奏真。
「もし、そうなったら責任とらなあかんで…!」
 大河はニヤニヤとしながら奏真の耳元で呟いた。
「俺はそんな事はっ…!」
「ふふふっ、残念ですけどそれはお土産屋さんで買った紀州南高梅干しですわ。
 はらみの梅はこの近くの林渓寺と言う所にある、未開紅と呼ばれる樹齢二百年を超える紅梅の実で、そうそう食べられるものじゃありませんのよ」
「もぅ、お姉ちゃんの意地悪ぅ!!」
「あらあら、わたくしは一言もはらみ梅とは言ってませんことよ」
「さすが姫ちゃんやね、その意地の悪さはうちも見習いたいわー!」
「頼むから見習わんといてや!」
「さぁ、他の皆さんも食べて下さいな」
「うん、すっぱいけど美味しいや!」
「関西では梅干しって言ったら和歌山の紀州南高梅って言うぐらいスタンダードな物なんですよ」
「おれん家なんて冷蔵庫に完備されてるで!」
「はい、関西圏の土産物屋では高確立で扱っていますし、この有馬温泉郷でも南高梅を料理に取り入れている旅館が数々あるそうです」
 梅干しをじっと見つめ誰にも聞き取れない程の小声で呟く奏真。
「空も大人になろうとしているんだな…。いや、大人になろうとしないのは俺の方か…」
 そして、その実を頬張った。
 川から一本は離れた道に入ると両側には土産物屋が連なり、浴衣姿の老若男女が下駄を鳴らして歩いている姿が見られ、ますます気分は盛り上がる一方であった。
「まったく、温泉街と言うものは無性に胸が高鳴るものだな…」
「ボクも胸を高鳴らせる相手が欲しいもんですわ…」
 そして、道をまっすぐ行った所に目的の旅館はあった。
 木造三階の和風建築で三角形の屋根が特徴的であり、ロビー前の広場には緑色に生茂った桜の木が植えられていた。
「木造の和風ながらどこかモダンな感じだ!!」
「ここは西暦1191年に開業した老舗で芸術を愛する人々に好まれ度々作品の舞台になった有名な旅館ですわ。
 明治になって神戸港が開港された事をきっかけに、この周辺には外国人専用ホテルが立ち並んでいたらしいんですの。
 そう言った影響もあってか、昭和初期になってこの建物が新築された際には、フランスから取り寄せたステンドグラス等を使ってサロンを作ったりと、温故知新、和洋折衷な趣きとなったのかも知れませんわね」
「まさしく神戸らしい場所だね!」

「ここにはエレベーターは無いんやけど、階段や廊下の途中に椅子やワインセラーが置いてあったり、うちみたいに足悪くてゆっくり歩いてても落ち着くわー」
「神戸には古い建物が多く今後のバリアフリー化は課題だと思いますが、例え設備改修をする事が出来なくても人を気遣う心を持つ事は大切だと思いますわ」
「そやね! うち、ここに座らせてもらうわ!」
 木の温もりに包まれた旅館の二階で夕鶴が廊下の椅子に座る。
「では、皆さんの使うお部屋ですが…、伝統的な雰囲気でこの宿を愛した文化人の作品の残る天楽が一室。ネオジャパネスクと呼ばれる和洋折衷な雰囲気の中庸を二室。レトロモダン…つまり温故知新な雰囲気の地久を一室借りていますわ。
 わたくしと竜斗さん、大河さんと夕鶴さん、奏真さんと空さん、安室さんと聖蘭さんで別れて使いましょう」
「ちょっと待ってくれや!? 普通部屋割言うたら男と女で別れるやろ! それが何や!? 間違いだらけの部屋選びか!? そんでもって四室も借りて贅沢か!?」
「あら、わたくしが払いますからお金の心配はしなくてよろしくてよ。
 それにお値段に差はありますが、どのお部屋も素晴らしくて何処を選んでも間違いなんてありませんわよ。
 あと、木造の旅館では静かにしないと迷惑ですわよ」
「そやな、おれが悪かった。木造旅館では静かにせんとアカンな」
「って言うか、問題が色々とすり替わっているんだけど」
「ふっ、俺は良い部屋割りだと思うが」
「お兄ちゃんの…エッチ…」
「そ、空…、なんかスイッチ入ってへん!?」
「私も構いません。安室とは何もありませんから」
「…ボクは、皆さんにお任せします」
「安室さんはやっぱヘタレやね!」
「僕は誰と一緒でも良いよ」
「誰とでもオッケーって、竜斗センパイは質悪いわぁ!!」
「まぁ、とにかく中庸の二部屋を男に女に分けて、温泉に入った後に他の部屋は自由に使うとしよや!」
「だから、なんで大河が仕切っとるん!?」
「さっきからお前うっさい! 姫さんが静かにしろって聴いてなかったんか!?」
「いや、お前ら二人共五月蝿いんだけど…!」
「ふふふっ、男同士、女同士と言うのも悪くありませんわね」
「姫はまたそうやっていかがわしい言い方をする…!」
「では、あとでだな…!」
「うん…!」

 脱衣所で服を脱ぎ金郷泉と呼ばれるメインの浴場に入ると、左手に浴槽、右手に洗い場があり、更に奥に通路があり露店風呂へと続いていているようだった。
「なぁ、竜斗…」
「言うだけ悲しくなるだけだぞ!」
「いや、ここはあえて言わせてくれや…!
 なんや、この不公平さは…!? おれらが一体ナニしたって言うんや…!! こいつらのぶら下がってるモン見ると文字通り自分がちっさく思えるわ…!!」
「ああ、言っちゃった…! しかも、泣いてるし…!!」
「顔も良く、スタイルも良くて、アレもデカイ…! おれらで勝てるものって言ったら性格の良さぐらいしかあらへん…!! そう、男の真の魅力は器のデカさや…!!」
「いや、大河には全て無いから…! 僕も人の事言えないけど…。もう、止めようよ…。マジで泣けて来る…」
「そやな…」
「竜斗と大河もそこで漫才してないで、さっさと身体を洗ったらどうだ?」
「そうですよ、熱いシャワーで身体流すと気持ち良いですよ」
「うん、そうだね…!」
「ああ、シンドイわぁ…。あのデカイもんが隣にあると思うとシンドイわぁ…」
「お前はまだ言うか…!」
「むむ? 奏真お前デコん所どうしたんや…?」
 大河がお湯を被って露になった奏真の額を覗き込むと、そこには今までに無い一筋の傷跡があった。
「それは昨日の怪我…? 能力で治ったんじゃなかったの…!?」
「ああ、これは自分への戒めにあえて残したのさ…」
「戒め…?」
「そう、もう竜斗も知っているかと思うが、俺は空の病気を治す為…、空が苦しまなくて良い世界を作るために戦っている。
 それなのに、空を守る事が出来ず傷つけてしまった自分が許せなかったんだ。
 だから、二度と空を悲しませる事が無いよう、昨日の事を永遠に忘れないようにしたいのさ」
「そうだったんだ…」
「奏真の気持ちは解る…、痛いほど解るから応援する…! せやけど、それで空が喜ぶとは限らへんと思うで…!」
「どういう事だ…?」
「男は不器用な餓鬼やから好きな女の為やと思うと、ついつい無理して大げさな事を考えがちやけど、それは女から見れば男のエゴに過ぎないんや。
 女の望んでるもんって思いを伝える言葉やったり、行動やったり、日常の中にあるほんの少しの特別やと思う。
 お前の男としての意思を貫くって事も大切やけど、空の女としての気持ちも組んでやった方が良いで」
「た、大河がまともな事を言っている…! お前頭大丈夫か…!?」
「なんでしたら、ボクが知り合いの脳神経外科医を紹介しますわ。ちょっとマッド・サイエンティストですけど腕は確かですよ!」
「大きなお世話や…! おれは自分が苦しい思いをしたから、友達に同じ苦しみを味わって欲しくないだけや…!!」
「だが、俺が空の為に戦い以外に出来る事など…」
「奏真…、お前ホントはまだ童貞やろ…?」
「な、何故それを…!?」
「お前、凄い事をストレートに聴くよな…!」
「そうですよ! 幾らなんでも恥ずかしすぎますよ!!」
「前に竜斗にアレコレアドバイスしとったけど、アレって本当は自分がやりたい事やったんやないの?」
「ああ、その通りだ…。だが、空の病気の事を考えると、とても手を出す事が出来ないのさ…」
「そりゃそうやな…」
「そこで、あっさり引き下がるか…!?」
「せやけど、奏真の気持ちもごもっともやし!」
「でも、空も奏真先輩と一つになりたいって思ってるのは間違い無いだろ!?
 過ぎて行く時を抱き締められる二人だけの思い出が欲しいんだよ!!
 ここでその思いに応えられなかったら、奏真先輩だけじゃなくて空にも後悔が残る…、そんなの本当に空を大切にしている事にならないよ!!
 僕はあの時、奏真先輩から励まされたからこそ男になれたんだ!! だから、その思いを返したいんだ!!」
「…ふっ、流石は俺のライバルだな。君は人から様々な事を吸収して、人を変えて行く事が出来る…そんな力を感じるよ。
 だが、残念ながら俺は空を守る為に戦う事を止めるつもりはないし、決して誰にも負けるつもりも無い…、それこそが俺の存在理由なんだ。
 しかし、恋愛でもライバルである君に負けるわけにはいかないしな…!」
 奏真は竜斗に向かって微笑みかけた。
「んで、結局どうすんねん!?」
「それは聴くだけ野暮ってもんですよ」
 ガラガラガラ。
 その時、壁の向こう側…女子浴場から音が聞こえた。
「はじめに身体を洗うのがマナーですわよ」
(おっ、噂をすれば何とやら、女どもが入って来たようやで…!)
(結構、音が響くし、ここは静かにしておいた方が良い気がする)
(そやな…)
「うわぁ、姫ちゃんってスレンダーで肌も真っ白だし、お人形さんみたいに綺麗やね!」
「わたくしでよろしければ、幾らでも見て頂いて結構ですわよ」
「お姉ちゃん!! 女の子がそんなとこ見せちゃダメだよ!!」
(そんな所って何処だよ!?)
「うわぁ! あないな所まで真っ白やん!! 下の毛も銀色って事はその髪も地毛なんやね!! ほんまに日本人、いや人間離れして綺麗やわ!!」
(だから、夕鶴…、お前は何を見ているんだ!?)
「元々は肌の色も髪の色も普通だったんですが、最近になって色が抜けて来たんですの。老化現象かもしれませんわね」
「老化現象って姫ちゃん何歳やの!?」
「肉体年齢は19歳ですが精神年齢は遥かに高いですわよ。数字にすると300歳を超えていますわね」
「なんや、結局は19歳やって事やん! 意外にも歳が近かったんやね!
 でも、姫ちゃんと空って同じような体型やけど結構違うんやなぁ!  空は寸胴でぷにっとしたフォルムで、胸なんて陥没しとるし、ここなんて一本筋やん!! 」
(ダメだ、これは突っ込めない…。突っ込んだら負けだ…!)
「もう、バカにしないでよねぇ!! 」
「でも、うちは可愛いらしくて好きやで!!  こうすると、どうなるんや?! 」
「くすぐったいよぉー!! 」
「いいやんか、減るもんやないし! お、陥没してた可愛いお豆さんがプクっとしてきたでぇ!! 」
(…)
「そんな事言わないでよぉ!! 」
「うぁあ! 聖蘭さん立派な身体やなぁ!! うち憧れてまうよぉ!!
 しかも、大人なのにツルツルやん!! こんなところまでちゃんと手入れしとるんやなぁ!! うち感動したで!! 美しくあるのって見えないところも努力が必要なんやな! 」
「恐れ入ります」
「ふふふっ、絶景ですわねぇ」
 かぽーん 。
(ダメだ、露天風呂に行こう…、これ以上は耐えられない…!)
(そやな…!)
 竜斗達は屋内浴場の奥にある通路を行く。
 通路には茶褐色の湯が張られていて、先に行く程水位が高くなって行く。
「しかし、夕鶴の奴…天才か?! 」
「悔しいが、いい仕事してるで!!
 って言うか、奏真と安室さんは頼むから隠してくれや!! 元々デカイのが益々デカくなってるのなんて見たくないで!!」
「ふっ、そいつは仕方無い」
「ええ、不可抗力ですわ」
 そこは大きな窓があって外が見える半露天風呂と言った感じだった。
 茶褐色の温泉は腰のあたりまであり、かなり色が濃いので下半身を見通す事は出来ない。
 右側に石積みの敷居があり、奥に行く程その境界が低くなっている造りだ。
 竜斗達は風呂の先端まで行って肩まで漬かった。
 温度変化により肌にピリピリとした刺激が走り、それから全身がとろけて行くような心地良い脱力を感じた。
「ふぅ…、良い湯だな」
「そうですなぁ…」
 そして、暫くそうやってまったりとした入浴を楽しんだ後、火照った身体を冷やそうと立ち上がって窓の外を眺めようとした時だった。
「おっ、奥が露天風呂になってるんやね!」
「あらあら、そんなに急ぐと危ないですわよ」
 敷居の反対側から夕鶴と姫の声が聞こえた。
「また、五月蝿いのが来たで…!」
「まぁ、正直お互い様だけどね…」
 と、彼らが振り返ったその時だった…。
 低くなった石積みの敷居の向こう側に夕鶴を始め、続々と現れた女性陣の全裸姿が見えてしまった。
「な、なんやとっ…?」
「きゃーーーーっ!! なんや、お前ら痴漢かっ!?」
 一瞬、思考停止状態になって固まってしまったが、夕鶴が悲鳴をあげた事で我に返って慌てて背を向けて肩まで温泉に漬かる
「ちゃうでっ!! 不可抗力や!!」
「そ、そうだよ!! それに一瞬だったから何も解らなかったよ!!」
 と言いつつも、先ほど夕鶴がわざわざ解説してくれた事が事実であると言う事だけは解った。
 特に白くて細い姫と、ふくよかな空の対比は印象的だった。
「うそや!? お前らうちのおっぱい見とったやろ!?」
「いや、おっぱいなんて無かったで!! 洗濯板しか無かったやないか!!」
「やっぱり、見たやん!! アホぉ!! 最低やお前ら!!」
「ふふふっ、言うのを忘れていましたが、この温泉は半混浴で男女が顔を見合わせて入浴する事が出来るのが特徴なんですのよ」
「そう言う事は早めに言ってくれや…!」
「むしろ、あえて言わなかっただろ…?」
「何の事ですかねぇ」
「お姉ちゃんの意地悪ぅ…」
 空は涙目で言う。
「あらあら、良いじゃありませんこと? 女性は見られる事で美しくなるものですわ。むしろ、殿方に見られると思うと興奮しますわね」
「ほんと、姫って自分の欲望に忠実だよな…!」
「そんなに褒めないで下さいな」
「だから、褒めてないから…!」
「済んでしまった事は仕方ありません。気にせず入浴を楽しみましょう」
 そう言うと聖蘭は何事も無かったかのように肩まで浸かる。
「聖蘭さんは対応が大人やね…!」
「ボクとしてはもうちょっと気にして欲しいですけど…」
「空は…、恥ずかしかったけど…」
「ふっ、だがそんな空も可愛かったよ…」
「お兄ちゃんの…馬鹿…」
「し、仕方無いから入ってやるわ…! 肩まで浸かれば見えへんみたいやし…。でも、変な事したら承知せーへんよ!!」
 そして、全員が温泉に入った。
「するわけ無いやろ! ジャリん子の頃、さんざん一緒に風呂入っても何も無かったやろ!!」
「そん時と今はちゃうやん!!」
「お前の洗濯板は今も昔も変わらへんやろ!?」
「そやね、お前のポークビッツも今も昔も変わらへんし!!」
「そやな、俺のポークビッツは今も昔も変わらへん…って違うやろ!! 何言わせとんねん!!」
「だから、お前ら五月蝿いって!!」
「でも、おれらのお陰で恥ずかしさはなくなったやろ!?」
「そや、うちらに感謝せーや!」
「お、お前ら…!!」
「でも、こうしてると小さい頃に月夜お姉ちゃんと一緒にお風呂に入った時の事を思い出しちゃうな」
「ああ、前に話してくれた生き別れたお姉さんの事か」
「うん、月夜お姉ちゃんは悪戯好きでね、一緒にお風呂入ってると手で水鉄砲作って、口とか鼻を狙って空が溺れたり泣いたりするの見て喜んでたんだよ!」
「うへっ、酷い姉ちゃんやなぁ、悪戯にも程があるで!」
「ふっ、良い子は真似しちゃいけないな」
「あら、弱点とは狙う為にあるんですから、少しでも隙を見せる方がいけないんですのよ」
「姫って本当に人の弱点が好物だよな」
「うちは姫ちゃんの言う通りやと思うよ! 今後はその考え参考にさせてもらうで!!」
「姫お嬢さまを参考にするまでもなく、夕鶴さんは人の弱みをガンガン狙ってるじゃないですか!?」
「ヘタレには厳しくがうちのモットーやし!」
「ええ、情けない男は叩くべきです」
「そ、そんなぁ…!」
「おまけに月夜お姉ちゃんはもの凄く嘘が得意だから、どんな悪戯をしてもうまく誤摩化して絶対に怒られないんだよ。そればっかりか、悪戯を空のせいにしちゃう事もあったし」
「うわぁ、それはうちでも真似出来ん領域やわ!」
「きっと、ブラフマンの才能を色濃く受け継いでしまったが為に、産まれ付き性格が拗じ曲がってるんやな!!」
「どんな才能を持って産まれたとしても、全ては使い方次第だと思いますわよ」
「姫はやけに月夜さんの肩を持つよな」
「あら、気のせいですわよ」
「私はどのような事でも人に出来ない事を平然とやってのけるとは素敵だと思います」
「ふっ、聖蘭さんらしいな」
「ええ、まったくですわ」
「せ、聖蘭さんも案外ぶっ飛んでるな…」
「でも、どんなに意地悪でも空は月夜お姉ちゃんの事が好きだったの。また、一緒にお風呂に入りたかったなぁ…」
「きっと、月夜お嬢様も空ちゃんと同じように思ってますよ! 案外、もう既に一緒に入ってたりするかも知れませんよ!!」
「…」
 聖蘭はジトっとした目で安室を睨みつけていた。
「!?」
 それに気付いてビクっとする安室。
「そうだよね! かくれんぼが得意だった月夜お姉ちゃんの事だから、何処かに隠れて一緒にお風呂に入ってたりしても不思議じゃないもんね!!」
「ふっ、そうだと良いな!」
「そやね!」
「そうやな!」
「そうだね!」
「そうですわね」
「やっぱり、みんなでお風呂に入ると楽しいねっ! こんなに長くお風呂に入ったのって久しぶりだし、何だかのぼせて来ちゃったみたい!」
「大丈夫か空…?」
「うん、全然平気、ポカポカして気持ち良いぐらい!!」
「じゃあ、俺達はそろそろ上がらせてもらうよ!」
「では、私も失礼させて頂きます。安室をお説教しなければならないので」
「え、ボク何か悪い事しましたっけ? と言う事でボクも出ますわ…」
「うちもフラフラやね!」
「なんやお前、この程度でフラフラか? おれは全然平気やで!!」
「アホぉ、あれだけ入ってフラフラならん方がおかしいやろ!?」
「ふふふっ、多少でも気を学んだ大河さんは、他の方より体温調整が優れているんですわ」
「何でもかんでも気で解決って、どこぞの漫画並みの御都合主義やね…!」
「それは言っちゃダメだろ!」
「しゃーない、俺も上がって街でアイスでも食おか、夕飯までは各自自由時間やしな!!」
「当然うちにも驕ってくれるんやろ!?」
「…」
「なんで、そこで黙るん!?」
「じゃ、お先に失礼するでっ…!」
 と足早に立ち去る大河。
「だから、無視せんといてや!」
 それを追掛けるように夕鶴も女子側の脱衣所へと向かって行く。
 そして、露天風呂には竜斗と姫が残された。
「ふぅ、やっと静かになったね…」
「そうですわね、せっかく二人きりになれたんですからゆっくりしましょうか?」
「うん、他の女の子がいる前じゃ出来なかったけど、やりたい事があったんだ…!」
「あらあら、エッチな事ですか?」
「違うって!!」
 竜斗は立ち上がって半露天風呂の先端まで行くと、窓先の岩に腰掛けて足だけを湯につけて山の緑を眺めた。
 露出した火照った肌を柔らかい風が優しく撫でつける。
「やっぱり窓から身を乗り出すと気持ち良いや!! なんか、こう言う自然の中で風呂に入って、全身に風を浴びるって最高だよね!」
「この露天風呂や旅館もそうですが、家や庭と言った狭い生活空間の中に広大な自然を表現する…、日本人の持つ和の感覚と言うものは本当に素晴らしいと思いますわ」
「うん、なんでこんな時にって思ったけど、温泉に来て本当に良かったって思うよ!
 それに、根本的な問題解決にはなっていないかも知れないけど、奏真先輩や空も元気を取り戻す事が出来たみたいだしね!」
「ふふふっ、わたくしは何時もの通り自分自身の欲望に従ったまでですわ!」
「ふっ、姫も今日は何時も以上に楽しんでたよね! でも、残念ながら一部で哀れな人もいたけど…」
「あらあら、それならば貴方は何時ものように、その人の為に行動すればよろしいんじゃありませんこと?」
「そうだね、それが僕に出来る事だしね!」
「ふふふっ、わたくしは誰かの為に一生懸命生きられる、そんな貴方が好きで好きでたまりませんわ!」
 やけに姫の声が近く感じた竜斗は横に振り返って驚愕する。
 低くなった岩の敷居の向こう側で姫は竜斗と並んで岩に座り込み、その小降りだが形の良い双丘が目の前で露になっていたからだ。
「うわっ!! 見えちゃってるよ!!」
「いいじゃありませんか、貴方の他に誰もいないんですから」
「そうかも知れないけど、目のやり場に困るんだよな…!!」
 顔を真っ赤にした竜斗は脈打つ部分を手で覆い隠し、岩に座ったまま姫に背中を向ける。
「では、こうすればよろしくてよ」
 姫は低い敷居越しに後ろから竜斗の首に抱きつく。
「ひ、姫…!?」
「しばらく、こうして居させて下さいな…」
 滑らかな肌や柔らかい二つの胸の感触が背中に伝わってくる。
 その小さな身体が愛おしくて愛おしくて仕方無く、竜斗は自分の首もとで交差された姫の白魚のような可憐な手に頬をすり寄せ、両の手で優しく握りしめた。
 竜斗の若い情熱は露になり天に向かって力強く聳り立っていた。
「大切な人と同じ時を過ごし、手を伸ばせば互いを感じ合う事が出来る…こんな幸せな事はありませんわ」
「僕も姫と居られて幸せだよ…!」
 竜斗は岩に座ったまま姫と向き合って、露になった白くて華奢な肩を掴む。
 アーモンド型の切れ長の美しい瞳や、お団子にしてアップにした銀色の髪が光を受けてキラキラと煌めく。
 その身体は以前にもまして人間離れした美しさが増している気がした。
「なんか、前よりも綺麗になったんじゃないか?」
「あら、目のやり場に困るんじゃなかったんですの?」
「本当は見たいに決まってるだろ? 姫の事が好きで好きでたまらないんだから!」
 そして、そのシルクのような肌を抱き締め、自分の唇を姫の唇に押し当てた。
「ふふふっ、貴方は燃え滾ると蠱惑的な程に大胆になりますわね。貴方に魅せられてわたくしも熱くなってしまいますわ。お部屋に帰ったら続きを楽しみましょ!」

 部屋で二人きりの時間を楽しんだ後、竜斗と姫は浴衣に袖を通しながら話していた。
「さて、これから安室さんを探しに行こうと思うけど、他の皆は何処で何してるんだろうな?」
「大河さんと夕鶴さんは、聖蘭さんと一緒に街に繰り出しているようですわね」
「アイツらが聖蘭さんを慕っているのは解るけど、普通はデートに他の人を同行させないよなぁ…」
「聖蘭さんが姉で大河さんが弟、夕鶴さんが妹で、一般的な恋愛関係を超越し、ある種の家族関係を築き上げている感じですわね」
「なんか、滅茶苦茶羨ましい気がするよ!」
「ふふふっ、そうですわね!」
「一方で兄妹当然に育って来た空と奏真先輩は、部屋に戻って一線を超えちゃったんだろうな。ぶっちゃけ、旅館が古いって事もあって、声がだだ漏れ状態だし…」
「でも、あの空さんからあんな声が出るとは、想像すると無性に興奮してしまいますわね!」
「うわっ、ヨダレ垂れてるよっ!」
「あら、垂れているのはヨダレだけじゃありませんわよ!」
「相変わらずオープン・スケベだよなぁ…!」
「貴方だって興奮してるじゃありませんか、浴衣から可愛い物が飛び出してますわよ!」
「それは事実だけど、言われると恥ずかしいよ!」
「そう、人間は理性という仮面を被っていたとしても、誰もが野性的な一面を持っているものですから、スケベなのは仕方無いものなんですわ!」
「そうだけど、あまりスケベをオープンにし過ぎると世間体って言うのもあるしね!
 実際にはスケベでも表面的にはピュアでクリーンなイメージを保つのも必要だと思うんだ!!」
「ふふふっ、今更それを気にしても遅いですわよ、貴方がムッツリ・スケベもとい、隠れ熱血野郎だと言う事は既に周知されていますわ。
 それに、向こうの声があれだけ漏れていたと言う事は、こちらの声も相当漏れていたはずですわよ」
「…えっ? マジ!?」
「旅の恥はかき捨てと言いますが、もはや開き直るしかありませんわね」
「のおっーっ! 恥ずかしいっ!!」
「そして、肝心の安室さんの行き先ですが、皆目検討もつきませんわね。
 近頃の高校生と比べても自由に出来るお金は無さそうですし、そう遠くには行ってないと思いますわ、最悪は可能性の高い順番に総当たりですわね」
「姫って肝心な所で当たって砕けろ的な感じだよな」
「ふふふっ、その方がわたくし達らしいんじゃなくて?」
「まぁ、そうだね! んじゃ、まずはサロンから行ってみるか!」
 竜斗と姫は部屋を出てサロンに立ち寄った。
「うわぁ、ピアノも置いてあるし、二人かけのテーブルの配置や、壁一面の本棚が西洋風な感じでセンス高いね!」
「このサロンは昭和初期に応接室として使用されていたらしいですわ。フランスから輸入されたステンドグラスや、建築当時にしては珍しく洋材を使用した床や壁が特徴ですの」
「へぇ! しかも、流れている音楽が良いね! 旋律は優雅で奇麗だけど切なさに胸震えるような感じだ!」
「古いマッキントッシュと言うアンプを使い、タイノンと言うスピーカーで音楽を流すのがここの売りらしいですの。
 曲は1899年…ちょうど百年前にフランスの作曲家モーリスにより作られた作品で、逝ける王女のためのパヴァーヌ…ですわね。
 パヴァーヌと言うのは16世紀から17世紀にかけてヨーロッパの王宮で普及していた舞踏の事で、逝ける女王と言う曲名は特定の人物を示すものではなく、古い時代の風習や情緒に対してのノスタルジーを表しているらしいですわ。
 この曲は発表した当時、音楽関係者からはテンポが悪いと酷評され、作曲したモーリス本人も駄作だと言っていたのですが、晩年になって記憶障害を患った後には、誰が書いたか知らないがとても素晴らしい曲だと認めたらしいですわ」
「懐古主義って言うのかな…? 僕には振り返りたくなるような過去がまだ無いから解らないけど、自分への偏見を無くして始めて自己肯定を出来るようになったモーリスの生き様には共感出来るよ」
「ふふふっ、貴方はヘタレのモーリスのように歳を取って破滅的な経緯を経なくても、若くして少しの切っ掛けでご自身を認める事が出来たじゃありませんか」
「また、姫は過去の偉人に対してヘタレとか言っちゃって祟られても知らないぞ!」
「あらあら、祟りなど怖くはありません事よ。そんなもの気合いと根性でどうにかなりますもの」
「ふっ、本当にそれが出来ちゃうのが姫らしいよな。でも、そんな姫にサポートされているからこそ、僕は成長する事が出来るのさ。ありがとう姫…」
 姫と向き合って手を繋ぎ、その白い頬にキスをする竜斗。
「あら、そんなの貴方を愛する者として当たり前ですわよ。それより、先ほど世間体云々言ってたのに、人前でそんな事して良いんですの?」
「人前って…? 誰も居ないはずっ…」
「いいですなぁ、皆さんはイチャイチャする相手がいて…!! ボクなんて聖蘭に説教された上に独りですよ…!!」
「あ、安室さんこんな所に居たんだ…。あまりにも気配が無いから気づかなかったよ…。しかも、もしかして呑んでる!?」
「呑んでますとも!! これが呑まずにはいられますかっ…!!」
「ちょっと、運転するのにそれはまずいんじゃないの!?」
「ふふふっ、それは心配ないようですわよ、彼が飲んでいるのはファンタと言う炭酸飲料のようですし」
「ファンタって中学生か…!? しかも、それで酔っ払うものなの…!?」
「人間、何にでも酔う事が出来るんですの。もっとも、安室さんの場合はファンタに酔っていると言うより、自分自身に酔っていると言った方が正解かもしれませんけど」
「…また、随分とダイレクトな事言うよな」
「ううっ…」
「しかも、また泣いてるし! なんか、悩み事があるんだったら、僕達で良かったら話くけど。まぁ、大方聖蘭さんとの事だと思うけど…」
「凄い!! なんで解ったんですか!?」
「いや、解らない方が違う意味で凄いでしょ!」
「そうなんですよ!! 少し長い話になりますけど、本当の本当に良いんですか?!」
「勿論、僕達は始めからそのつもりで安室さんを探してたんだし!」
「うううっ、ありがとうございます…!」
「あらあら、泣いている時間がありましたら、早く話すべきじゃございませんの?」
「そうは言っても、人には人のペースってもんがあるし、あんまり急かせても可哀想だよ」
「竜斗くんは優しいですね! 竜斗くんだったら気兼ねなく全てを話せる気がしますよ!!」
「安室さん…」
「ボクの物語の始まりは東京の大学に通っていた時です。
 ボクが産まれ育ったのは神戸の北部…、神戸とは名ばかりの本当に何も無い田舎で、それまで遊びと言う遊びを経験した事が無かったですから、親元を離れて都会に出て良い気になって居たんでしょうね。
 親がボクの為を思って一生懸命働いて稼いだ仕送りを使って、未成年なのに仲間と酒を呑み、エッチなお店で一晩限りの欲望を満たしたり自由を満喫していました」
「若さ故の過ちもここまで来ると酷いですわね」
「でも、僕だって姫の所に下宿してお尻を叩かれなければ、同じようになっていたかも知れないよ」
「そして、東京で堕落した生活を送りながら、95年の1月17日…阪神淡路大震災の日を迎えます。
 その日も何時ものように前日の夜から遊び歩いて始発で帰って来て、夕方ぐらいに起きて何気なくテレビを付けて初めて故郷に起きている現実を知りました。
 ボクは慌てて親や友達に何度も電話しましたが一向に繋がらず、胃を鷲掴みされるような感じがして、天地が反転するような目眩の中で戻して倒れてしまいました。
 こう言うのを生きた心地がしないって言うんでしょうね。
 全く先の見えない不安に押し潰され頭が滅茶苦茶になってしまいそうでした」
「それは辛いよね…」
「竜斗さんったら、またお鼻が出てますわよ」
 と言って姫は竜斗の鼻水をハンカチで拭う。
「そして、それから何日か経ってオカンから電話がありました。
 オカンは何とか逃げ延びる事が出来たものの、オトンは火災による二次被害で亡くなり、被害にあった他の人達と一緒にプライベートも無ければ、トイレも無いような避難所で、寒さに震えながら暮らしていると聴きました。
 地元に帰って皆の助けに成りたいって言いましたが、オカンは大学を卒業して立派な大人になる事がオトンの望みやし、震災なんかに負けて戻って来るなんて許さんってドヤされました」
「きっと、安室さんを危険から遠ざけたいって言う親心だったんでしょうね。その気持ちは痛い程解りますわ」
「良いお母さんだね…」
「ええ、ホントにそうだと思います。
 ボクは親の金で遊び惚けていた事を反省し、みんなが大変な時に自分だけ楽をするわけにはいかないので、一心不乱に勉強に打ち込みました。
 でも、現実はそんなに甘いものではなく、全く身に成らないばかりか、心と身体が遠く離れて行くのを感じました。
 そんな時です、旭陽教授のゼミで聖蘭と出会ったのは。
 そして、彼女はボクに言いました。
 本当に辛い事があったなら強がるだけ無駄だと言う事を知れ。
 自分自身が傷付いている事を認めない限り、何時まで経っても空回りして先には進めない。大切な事はそこから何を学ぶかだと」
「聖蘭さんは安室さんが直接震災に遭わず、東京で暮らし続ける事に負い目を感じ、心の傷から目を逸らしているって事が解っていたのかもね!」
「もしくは何処かの誰かによる仕込みであったかも知れませんわね。ですが、その言葉はまぎれも無い聖蘭さんの生の感情だとわたくしは思いますわ」
「ええ、ボクもそう思います…。そして、ボクはそのまま聖蘭に旭陽教授の提案する実験に参加しないかと誘われました」
「それってまさか!?」
「そう、それは人工的に神を作り出す実験…、聖蘭はそのテストタイプとも呼べるNo.2女教皇の大アルカナであり、ボクはそのパートナーに選ばれたそうです。
 旭陽教授…ブラフマン曰く、この世の全ては因果と言う法則に縛られているらしいのですが、大アルカナとはその法則を破壊する力であり、世界を意のままに改変して人の死すらも無かった事に出来ると言われました」
「人の弱みに付込むなんて詐欺まがいも良い所ですわね」
「ええ、いくら憔悴していると言っても、ちゃんと分別はわきまえる事が出来たので、当然の如く断りました」
「そりゃそうだよね…!」
「でも、聖蘭は立ち去ろうとするボクの唇を突然奪い、自我領域を展開するとNo.2のカードを巨大な刀へと具現化させ炎を操って見せたんです。
 当然、ボクは驚きましたよ、そんな夢のような事があるなんて、直接目で見ても信じられませんでしたから。
 ブラフマンは言いました、この世界は何処かの誰かが見ている夢物語…、だから、不可能を可能にする事が出来ると」
「でも、大アルカナが自我領域の範囲内で夢を実現する能力だって聴いてけど、この世界そのものが夢なんて突拍子もないね」
「ボクも竜斗くんと同じように思いましたが、ブラフマンはボクの疑問に対して一つ一つ理論的な答えを教えてくれました。
 正確に言うと夢物語をブラフマンが現実世界を舞台にして再現する事で、この世の摂理を捩じ曲げているらしいです。
 だから、大アルカナの能力を発動するには、暗示を受け入れる核となる強い願望の他に、その夢物語において役柄を持つ必要があるそうです」
「なるほど、このトーナメントが夢物語の再現だとすると、ブラフマンによって暗示を受けた選手だけが大アルカナの能力を発動出来るって事にも納得出来るね。
 だから、トーナメントに敗れると大アルカナの力を失うってわけか」
「ブラフマンはその夢を見ている人こそ変革された世界を構成する要素であり、転生を司るNo.20審判の大アルカナだと言ってました。
 ヒンドゥー教ではこの世界は保持者ヴィシュヌの見ている夢であり、ヴィシュヌが瞬きする間に一つの世界が産まれて消えて行くって言う話がありますが、その化身とも呼べる存在なのかも知れませんね」
「No.20審判の大アルカナって、確かNo.13死神の大アルカナと一緒にトーナメント表の欄外に書かれていたのだよね」
「ええ、聖蘭のパートナーとして選ばれたボクに関係あるのは、そのもう一つの世界を構成する要素…、死と輪廻を司るNo.13死神の大アルカナの方らしいです。
 それは大アルカナと言う力を産み出し、世界が変革される原因になった存在。
 彼女は絶対的な因果である死と輪廻の象徴であり、ヒンドゥーの神々の力の根源である神妃の概念そのものと言えます」
「ある意味で諸悪の根源と呼べるような女ですわね」
「全ての大アルカナは彼女の為に作られたようなものですから、そのパートナーは彼女と同じ因子が求められるらしいんですよ。
 それは精神的や肉体的な脆さを持つ、つまり死を強く感じさせると言う事です。
 阪神淡路大震災で親や、知人、友人を亡くし、心神喪失状態になっていたボクは絶好のサンプルだったんでしょうね。
 確かに大アルカナが運命に抗う手段だと考えると、誰もが避ける事が出来ない運命を身近に感じてこそ力を発揮出来るのも納得出来ます」
「思い返してみれば空や夕鶴もその条件を満たしているし、僕が知らないだけで他の人達だって同じような問題を抱えているのかも…。
 あの地震の恐怖は忘れられない、いや忘れちゃいけないものだしね…」
「そして、一般人が知る良しも無いような専門的な物理、科学、心理学、医学、民族・宗教学に関する事まで様々な講義を受ける内に、ボクは何時しか疑うと言う事を忘れて行きました」
「それはブラフマンお得意の理詰めでの洗脳ですわね。常に的確な答えが与えられ続けると、大抵の人間は考える力を失ってしまいますから」
「ええ、ブラフマンと言う人は本当に恐ろしい技術を持っていると思いますよ…」
「ふふふっ、貴方は騙されちゃダメですわよ」
「僕は大丈夫だよ!」
「そして、全ての講義を終えて聖蘭の能力開発が行われる事となりました。
 能力を完成させるにはNo.13死神の大アルカナと、No.20審判の大アルカナの因子を取り込む必要があるんです」
「死神と審判の因子ってどう言う事…?」
「つまり、パートナーの力を借りず、舞台や役に縛られずに大アルカナとしての能力を発揮するって事ですわ」
「ああ、それは前にも聴いた事があるよ。確かハードルを上げながら練習をする事と、小アルカナを一定数倒す事で実現出来るって言ってたっけ。
 …でも、何でそこで小アルカナが出て来るかは聴いた事が無かったけど」
「ブラフマンが小アルカナと呼称する霊現象や霊能力、魔術、超能力等の現象は因果と言う枠に縛られた理力であり、それを上回る事で因果律を覆す大アルカナとしての能力が完成した事を暗示出来るらしいですよ」
「でも、小アルカナって自然発生するものでしょ? 何人用意したかは知らないけど、結構大変な気がするな…」
「そのような理力使いを育てるノウハウは遥か昔から確立されていて、世界中に育成期間のようなものがあるんですよ。
 そこから計画に必要な人員を派遣してもらっているのですが、ブラフマンは大アルカナと比べれば取るに足らない噛ませ犬としか思っていないようですよ」
「ふふふっ、そうやって見下していると、何時か痛い目を見る時が来ますわよ」
「それから、ボクらはブラフマンの指示を受け、東京の夜の街で何人もの小アルカナを倒しました。
 聖蘭と言うのは不思議な人で、普段はクールと言うか色んな事に無関心なんですが、一回スイッチが入る人が変わったみたいに熱くなるんですよ。
 理由もなく退屈な世界を破壊する事を楽しむ…、ある意味でもの凄く純粋な人なのかもしれのせんね」
「確かに聖蘭さんってクールだけど、たまにもの凄く過激な雰囲気を感じる事があるよ」
「人と言うのは誰もが色んなお顔を持ち、時と場合に応じてそれを使い分けているものですから、一面だけを見て単純に判断する事は出来ませんわ。
 彼女に過激な一面があるのは事実ですが、感情を抑えて優しいメイドとしての仕事に取り組む一面も、私生活でのだらしない一面も、わたくし達の知らない一面も、全て含めて聖蘭さんと言う人間なんだと思いますわよ」
「そして、ボクは自分に無いものを持つ聖蘭に心惹かれ、公私ともにパートナーと呼べる間柄になりました。
 でも、生きている事を楽しいと感じると同時に思うようになったんですよ…、過去の自分があるからこそ今の自分があるんだって。
 正直、阪神淡路大震災やボクの愚行は美化出来るものじゃありませんですし、今でも思い出すだけであの時と同じような吐き気に襲われます。
 でも、そう言う一つ一つの経緯があったからボクは聖蘭と出会う事が出来たし、そこから何かを学ぶ事が出来たんだと思えたんです」
「きっと、自分自身を受け入れる事が出来たんだね!」
「ふふふっ、正しい答えを導き出すには問題と言う現実を受け入れる必要がある…、それも世の理ですわね」
「ですが、このまま聖蘭と一緒に計画を実行すれば、ボクの全てが…、過去も現在も未来も…、ありとあらゆるものが無かった事にされてしまう…。
 何より聖蘭との絆を失ってしまう…、そう思うとたまらなく恐くなったんです」
「それは当然の事だと思うよ…」
「でも、聖蘭はそれを許さずボクをパートナーから外し、能力を使わなきゃ勝てるわけも無いのに、一人で戦いに挑んで行きました。
 ボクはどうしても聖蘭を助けたくて戦場に駆けつけましたが、そこで見たものは当時中学生だった奏真くんをパートナーにして、小アルカナを倒してしまう聖蘭の姿でした。
 浮気現場目撃って気分でしたよ…、なんせ能力発動ってキスじゃないですか…?」
「うん、それは辛いね、マジで…」
「ボクは自分の居場所を失って腑抜け状態になってしまいましたが、旭陽教授の奨めで空ちゃんの家庭教師のバイトをする事になりました。
 そんな中で空ちゃんに奏真くんが行方不明だって相談を受けて、ボクは戸惑いながらも自分が知っている事を話したんです。
 そして、空ちゃんの気持ちに押されたボクは、旭陽教授に頼んでNo.5の大アルカナとなり、一緒に聖蘭と奏真くんを止める為に戦う事にしました。
 その後の顛末は既に知っているかと思いますが、あの事件をきっかけに互いの意見が対立しながらも、互いの意見を認め合って再び付き合うようになりました」
「人は都合の良い一面だけを見て恋と言う幻想を抱きますが、現実として付き合うとなると都合の悪い面すらも容認し、その人の全てを好きになる必要があるんですわ」
「まるで恋愛博士だな、僕が初めての相手だった癖に…」
「ふふふっ、肉体的には19歳の乙女ですけど、自称精神年齢300歳は伊達じゃありませんことよ」
「そして、ボクと聖蘭は大学を卒業して共に旭陽家の従者として働く事になりました。
 とは言っても暫くはお給料を頂きながら訓練校で研修を受ける毎日で、関西なまりを矯正されたり、従者としての心得や家事等の仕事を教わりしました。
 教官が厳しくて本当に嫌って程泣きましたよ…、正直、学生時代より社会に出てからの方が勉強する事が多かったと思います」
「なんか、何処まで行っても勉強って感じだね…」
「もし、何も学ぶ事の無い日々を送っているのならば、それは無意味な人生を過ごしていると同じですわ。
 ですが、人は興味も無いような事に努力を費やせる程、都合良く出来ていませんの。
 だから、自分の好きになれる仕事を見つけたり、仕事の中に自分の好きになれる要素を探す事が大切なんだと思いますわよ。
 安室さんの場合ならば、例え下手くそでも車の運転だったり、自分本位であっても空さんのお世話をする事を楽しむ事だったと思いますわ」
「…いちいち刺があるけど納得したよ」
「研修を終えたボクらはそれぞれの場所で働く事になりました。
 ボクは旭陽家の執事として旦那様や空ちゃんのお世話をさせて頂きながら、ブラフマンの執行者として計画を実行する任を…。
 そして、聖蘭は危険分子である姫さまを監視する為に香夜家に出向し、メイドとして働きながらもブラフマンに情報を流す任を与えられました」
「そ、それってスパイじゃん!?」
「ふふふっ、聖蘭さんがスパイだと言う事は承知してましたけど、あの美貌と有能さの前では些細な問題だと思っていましたわ」
「いや、そこは問題にしようよ!」
「それに些か頼りなさはありますが、こちらもブラフマンの懐にスパイを潜り込ませていますしね」
「ほんと、頼りなくてすみません…。そう、ボクは基本的に計画の実行に反対ですから、旦那様の暗黙の了解の元で姫さまに情報を流して来ました」
「でも、それじゃ互いに出し抜く事なんて出来ないんじゃないの?」
「そうです、ブラフマンの狙いはそこなんですよ。膠着状態になればなし崩し的に力がある方が勝ちますからね」
「あら、最後に勝つのはわたくしですわ。何と言ってもわたくしには最愛の恋人にして、切り札となる竜斗さんが居ますからね!」
「そりゃ、責任重大だね…!」
「竜斗くんだけに負担をかけるつもりはありませんよ! ボク自身もトーナメントの優勝を目指して計画を止めるつもりですから!!」
「ふふふっ、互いに頑張るとしましょう!」
「うん、そうだね!」
「でも、ここ数日前の事ですが、聖蘭が当然に別れを切り出して来たんです…」
「やっぱり恋人同士で戦いたくないからとか?」
「いや、 聖蘭にとって戦いは存在理由そのもの…。
 だから、彼女はボクと対立している事を喜び、何時か全力を出して戦う事を約束して、何時か来るその時を楽しみにしていたはずなんですよ。
 そして、ボクもその戦いに勝つ事を目標に、ずっと自分自身を鍛え上げて来ました。
 でも、いざその時が迫りつつある中で、ボクとの約束を捨ててでも戦わないとならない相手…、本当に好きな人が出来たんだって言われました。
 だから、別れて欲しいって…」
「安室さん…」
「聖蘭は取り返しのつかない間違いを犯そうとしている大好きな人を止めて、その人の為に理想の世界を作り出したいって言ってました。
 なによりも、自分には無い強さを持つその人と純粋に戦い合う事が楽しみで仕方無いらしいです。
 そりゃ、誠意を見せて説明してくれたので聖蘭の気持ちは解りますよ…。
 でも、頭で理解したとしても人間の気持ちは簡単に割り切れはしないんです…。
 やり場を失った気持ちをどうしたら良いか解らず、切なくて、切なくて、もう死にそうなんですよぉ…!!」
「大人が子供に恋愛相談するとは本当に切ないね…」
「ええ、どうしょうも無いヘタレさ加減ですわね…」
「それは言わないで下さいよぉ!!」
「でも、安室さんの気持ちは凄く良く解るよ、好きになった人が自分を好きで居るとは限らないからね…。
 僕も恋人がいる人を好きになった事があるんだ…。
 恋敵と自分を比較して自己嫌悪に陥って、その人に成り代わりたいとさえ思ったよ。
 でも、ありのままの僕を好きで居てくれる人の気持ちに気がつき、何処まで行っても僕は僕にしかなれないって事を受け入れる事が出来たんだ。
 そんな今だからこそ、例え恋人同士になる事が出来ないとしても、好きになった人の幸せを最優先に考えるべきだって思えるようになったんだ。
 自分を後回しに考えるのは、凄く悔しくて辛い事かもしれないけどね…!」
「やっぱり竜斗くんに相談して正解ですわ! ボク、聖蘭の幸せの為に何が出来るか考えてみますよ!!」
「僕なんかでも力になれて良かったよ!」
「それにお嬢様もありがとう御座います!! あえてキツい事を言う事で竜斗くんと一緒に飴と鞭を作り、ボクが話し易いようにしてくれたんですよね!」
「ふふふっ、本当に素でやっていただけですけど、褒められて悪い気はしませんわね」
「やっぱり、素だったんだ!」
「当たり前じゃありませんか、情けはヘタレの為に成らずがわたくしのモットーですから!」
(でも、聖蘭さんの好きな人か…。まさか、奏真先輩じゃないよな…)
 竜斗は心の中で呟いた。
 神戸研究学園都市。
 神戸市西区に存在する学校集中地区であり、住宅と産業の複合機能団地として計画された西神ニュータウンの一部である。
 地下鉄西神山手線の学園都市駅を中心に綺麗に区画された団地や一戸建て住宅が立ち並び、その周囲を囲うように私立、公立問わず、小学校から中学、高校、大学、自動車教習所まで様々な学校が設立されている。
 その一角、学園都市の北に位置する流通科大学のキャンパスを閉鎖し、トーナメントの準決勝戦が行われようとしていた。
 23時…まるで夢のような楽しい一日が終わろうとする時間であった。
 竜斗と姫、奏真と空、そして相対する安室と聖蘭は、一度帰宅して私服から何時もの制服や執事服、メイド服に着替えた後に再び集合した形となる。
 先ほどまでは和気あいあいとした雰囲気が嘘であるかのように、それぞれがピリピリとした緊張感を漂わせていた。
 流通科大学の石畳で舗装されたキャンパスの出入り口。
 コンクリートのゲートを幾重にも重ねたような近代的なデザインのレストラン棟の前。
 そこに再集合した彼ら六人の他には主催者であるブラフマンと、コート姿の見知らぬ二人の若い男女の姿があった。
 そして、他には誰も居ない。
 つまり、今まで戦いを観戦し続けた他の生徒達は居なかった。
「この世で最も希望的な事は何だろうか?
 私は究極の希望とは無知であると考える。
 君達はシュレディンガーの猫と言う物を知っているか?
 何時致死性のガスが噴き出すか解らない箱の中に猫を入れて、蓋を開けずにその中の猫が生きているか、死んでいるかを問うと言う物だ。
 答えは蓋を開けるまで解らない。
 つまり、解らないと言う事は、そこにありとあらゆる想像や可能性があると言う事だ。
 君達、神の候補として選ばれし者達が少年である事は、無知であるが所以に無限の可能性を秘めているからだ。
 そう、君達は特別なのだ。
 特異能力の有無に関わらず、少年は皆自分の事を特別だと何処かで思っている。
 それは広い世界を知らず、自分の小ささを知らず、人との距離を知らず、穢れを知らない存在だからだ。
 だから、異性と肉体的接触を果たしたぐらいで、互いの存在意義を認め合った気になり、世界が自分を中心に回っているかのような気になってしまう。
 そんな簡単に理解し合える程、人は単純なものでは無いし、そんなちっぽけな世界など大きな世界から見れば何ら影響力も無い。
 だが、真実を知らず閉鎖された箱の中においてそれは現実となるのだ。
 多くの者は真実を知り、自分自身が特別な存在では無い事を悟り力を失う。
 だが、真実を知ってもなお自分自身の特別性を失わず、絶大な力を持って大きな世界に影響力をもたらす者が居るとすれば、それは限りなく神に近い存在と言える。
 そして、今君達の前にいる二人の給仕は大人になってもその力を失わず、またパートナーに頼る事無く自分の存在意義を認識する事ができる。
 それは何故か…?
 木は土から養分を吸い取って生長する。
 土は水を吸い取る。
 水は火を消す。
 火は金属を溶かす。
 金属は木を切る。
 そのような自然の摂理とも呼べる理を操る者達との戦いを経て、因果律をも超越した絶対的な自我を身につけているからである。
 これから君達は二組で協力して小アルカナと呼ばれる理力使い二人と戦ってもらう。
 ただし、戦場となるこのキャンパスには今までのように共通認識を持つギャラリーは存在しない。
 つまり、強い自我を発揮しない限り勝つ事は出来ないだろう。
 もし、その戦いを勝ち抜き絶対的な自我を手にする事が出来たら、敷地の奥にあるグラウンドで待ち受ける二人の先人と戦うのだ。
 限りなく神に近い者同士の戦いを制し、完全なる大アルカナすら超えた力を手にした二組こそ、トーナメント決勝戦で神の座をかけて戦うに相応しい」
「グラウンドまでは校舎の渡り廊下を潜り、中庭を通り抜ける一本道ですので迷う事は無いかと思いますが、途中に池や植栽、芝生等が有り大変美しく整備されています。
 未知の能力者を相手にするのは大変かと思いますが、行き詰まった時はブラフマン教授のお話でも思い返しながら、風景を眺めて心を癒すのも良いかも知れませんね」
「安室さん…、こんな時に何を…?」
「安室…、貴方の行為は自己愛に過ぎないと言ったばかりですよ。全く反省の色が見られないようでしたら、もはや身体に言い聞かすしかありませんね…」
「!?」
「では、私は安室にお説教をしなければならないので、お先に失礼させて頂きます。互いに全力で戦い合える事を待ち望んでおります」
 そして、聖蘭は無言のプレッシャーを放ちつつ、ガクガク震える安室を引き連れて去って行った。
「言葉使いは丁寧だけど安室さんは安室さんだな…」
「ふっ、聖蘭さんも聖蘭さんさ。是非とも二人の元へと辿り着きたい所だな」
「ふふふっ、その為にもあの方達を片付けなければなりませんわね」
「そう簡単に我々を制する事が出来ると思っているとは心外だな」
「無惨な屍を晒すのはお前達の方と知りなさい」
 対面する二人組の男女は試合開始の合図を待たずクナイを乱れ投げする。
 竜斗はほぼ無意識のうちに女性からの攻撃を読み、胡蝶刀を抜き放ち連続してクナイを弾き落としていた。
 一方で男性からのクナイを浴びせかけられた奏真は能力の発動前で無防備な状態であったが、姫が驚異的な反射で両者の間に割って入り日本刀で迎撃する。
「はははっ、まさか不意打ちとは恐れ入ったね…!」
「我々に与えられた任務はお前達を始末する事だけだ。お前達が行っているゲームのルールに縛られるつもりもなければ、目的の為に手段を選ぶつもりも無い」
「ふふふっ、敵ながら良い心がけですわね。ここはわたくしが引き受けますから、奏真さんは早く能力を発動して下さいな」
「ああ、ありがとう!」
「頑張ってね、お姉ちゃん!!」
 そして、そのまま竜斗対女性、姫対男性と言う流れになる。
 女性は地面に投げつけた球体から発生した煙幕によって竜斗の視界を遮ると、忍刀を抜いて斬り掛かる。
 しかし、その軌道を読んでいた竜斗は胡蝶刀で相手の忍刀を弾き、無防備になった女性の腹に蹴りを繰り出す。
 だが、女性は全身の力を抜き後ろに飛ぶ事によって、竜斗の蹴りの威力を受け流す。
「かわいい顔して女に蹴りを入れるとはとんでもない坊やね」
「自分自身を貫く本当の強さには男も女も関係無いし、そんな強さを持った相手に手を抜くのは失礼だしね。
 それに自分に相手より優れている面があったとしても、相手にも自分より優れている面があるはずだから、互いに優れている部分を活かす事が卑怯だとは思えないよ」
「気に入ったわ、坊や…! その歪みない精神力に鋭い先読み…、どうやら強力な陽の気を持っているようね…!!
 あちらのやたら素早いお嬢ちゃんは陰の気の使い手かしら…?」
「あらあら、精神年齢300歳を越すわたくしを小娘扱いするとは心外ですわね」
「やぁ、待たせたね…!」
 自我領域を発動させて具現化させたチャクラムを手にした奏真が、姫と相対する男の間に躍り出る。
「気を付けてね…!!」
 その様子を離れた所から心配そうに見る空。
「その円月輪が世の理から外れた力の象徴と言う物か…。よろしい、我々も本気を出して忍術を以て向かい打たせてもらう!!」
「陰陽なんて年寄りの健康法みたいな初歩的な気じゃ、より高度な五行の気を扱う私達の足下にも及ばないって事を教えてあげるわっ!!」
 そして、二人組の男女はコートを脱ぎ捨てて、鎖帷子の上に黒装束を纏った姿になると両の手を組み合わせる。
「まさか、忍者だというのか!?」
「そう、私の名は甲賀の橘アヤメ…! 本物の忍術を伝承し続ける里の末裔よ…!!」
「近畿地方の山間部は作物が育ちにくい為、農業の傍らで傭兵業を生業にする忍者の隠れ里が多く存在していました。
 その多くは時代と共に失われて行きましたが、一部はその力を活かして各国要人の暗殺や護衛等を請け負う闇の仕事人となっているらしいですわ」
「そう言う事っ!! いくわよっ!! 金遁の術!!」
 竜斗と相対する橘アヤメは印を組み、地に手を翳すとそこから金属の槍のようなものを取り出し鋭い突きを放つ。
「な、何も無い所から槍が出て来た!?」
 竜斗は鋭い反射でなんとか避けるが、予想に無い出来事に冷や汗を流す。
「槍だけじゃないよっ!! 次は水遁よっ!!」
 橘アヤメが印を組むと槍の表面に結露のようなものが発生し、次第に槍は巨大な水の竜へと姿を変えて竜斗に向かって襲いかかる。
「こりゃ、ダメだ!! あんなものに襲われたら溺れ死んじゃう!!」
 竜斗はどう足掻いてもそれを避ける事が出来ない事を悟ると背を向けて走り出し、技の射程距離外へと逃れようとする。
「おそらく、相手の目に見えない所まで移動すればコントロール出来ないはずだ!!」
 道の両横には川のように水の流れる池と植木があり、更に校舎の空中回廊を潜った向こう側には、芝生に木製の椅子とテーブルが置かれた中庭が見える。
 竜斗はとっさに回廊の柱の影へと隠れると、案の定、水の竜は目標物を失い、迷った挙げ句に植木にぶつかり消滅する。
「やったか!?」
「甘いっ!! 木遁の術!!」
 だが、橘アヤメが間合いを詰め再び竜斗を視界に捉えると、先ほど水の竜が当たった植木がうねり、もの凄い勢いで触手のように竜斗へと枝を伸ばす。
「なんじゃこりゃ!? だが、これは刀で斬る事も出来そうだ!!」
 竜斗が迫り来る木の枝を右手の胡蝶刀で切り落とそうとした瞬間だった。
「火遁の術!!」
 チリチリと言う音と共に木の枝が炎上し、右手側の胡蝶刀がドロドロに溶け落ちる。
「なっ、武器が溶けた…!?」
 そして、次の瞬間、半径一メートルの範囲が一気に火に包まれた。
 だが、後から追い駆けて来た姫が竜斗の身体を抱え、共に池に飛び込む事でダメージを避ける事が出来た。
「油断大敵ですわよ!!」
「ありがとう姫!!」
 池から上がって橘アヤメの次の攻撃に身構える竜斗であったが、先ほどの木が炎上して石畳に積もった灰が粘土へと変化し、彼の足下を固めて自由を奪う。
「これが土遁の術よ!! どう、私の五遁の術のお味は!?」
「いや、流石だよ…! まさか、こんな漫画みたいな忍術が存在するなんて思ってもいなかった…!!」
「忍術と言うものは密教や陰陽術、修験道の行者が用いた呪術を戦闘用にアレンジしたものだと言われ、本物の忍者ならばその技法を現代に伝えていたとしても不思議ではありませんわね」
「あら、自称300歳のお嬢ちゃんは、大切な坊やがピンチだと言うのに随分と余裕じゃないの?」
「ふふふっ、竜斗さんは絶対に死にませんわ…」
(このわたくしの命に代えても絶対に守りますから)
「なっ!!!!!!!?」
「…何故ならば、彼は全ての理を悟り人々を解脱へと導く者ですから!」
「言うじゃないの…!」
「竜斗さん、追いつめられたらどうすれば良いのかは忘れていませんわね…?」
「臍下丹田式呼吸法か…!」
「ふふんっ、馬鹿の一つ覚えで陽の気で精神を強化しても意味が無いわよ。だからと言って陰の気で肉体を強化した所で、力技じゃ私の忍術は破れはしないけど…!」
「どんな物にだって弱点は存在する…、今から竜斗さんが貴女の五行の術を破ってそれを証明しますわ!! 笑ってられるのは今のうちですわよ!!」
「ああ、やってやるさっ!」
「これは何…、坊やの雰囲気が変わった…?
 陰の気を練って少し好戦的にはなっているけど、むしろ、陽の気と陰の気が混ざり合って神々しい感じがする…!!」
 竜斗は安室のアドバイス通り周囲を見渡し、ブラフマンの話を思い返す。
「木は土から養分を吸い取る…。姫っ、粘土に枝を刺してくれ!」
 姫は隠し持った木の枝を竜斗の足下の粘土へと差し込むと、それは力を失って普通の土になって崩れ去った。
「よしっ!!」
 竜斗はバックステップで間合いを空ける。
「例え抜け出す事が出来ても、また同じ事を繰り返すだけよ!」
 橘アヤメは印を組むと竜斗の足下に広がった砂の中から鎌を取り出す。
「そうはならないさっ! 焼夷弾!!」
「解ってますわ!」
 竜斗が言うのとほぼ同時に姫はソードオフショットガンに焼夷弾を詰めて空中でパスしていた。
「なっ!!」
「火は金を溶かす。忍者だって色々な武器を使い分けるわけだし、卑怯だとは言わせないよ」
 驚異的な反射神経を持った橘アヤメにとって、弾丸が炸裂する前に弾き落とす事は雑作も無い事であったが、手にした鎌は弾丸内部の化学物質によって瞬間的に火に包まれて溶け落ちる。
 しかも、火災は止まる事を知らず、どんどんと広がって行く。
「だからと言って、こんな所でこんな武器を使う奴があるかっ!!」
 橘アヤメは印を組んで池に手をかざすと水の虎を作り出し、炎を消火してから竜斗へとけしかける。
「土は水を吸う」
 竜斗が床面から土を掴んで水の虎に向かって投げると、力を失ってバシャっと言う音を立てて水たまりと化す。
「木遁っ!!」
 橘アヤメは植木に直接手にかざし枝を操るが、竜斗は池の中まで引き付け、片方だけとなった胡蝶刀で一閃する。
 切断された枝は音を立てて池の中に落ち、枯れ木となって浮かんでいた。
「金は木を斬る」
 すかさず植木の枝を折りクナイの要領で竜斗に投げつける橘アヤメ。
「火遁っ!!」
 だが、竜斗は印によって枝が発火するタイミングを見計い、池の水をふりかけて発火させる事無く胡蝶刀でたたき落とした。
「そして、水は火を消す…。解ったよ、五行の相殺方法は…!」
「本当にやるわね、坊や…! 感の冴えもさる事ながら、動きのキレもさっきまでとは段違いだったわ…!!」
「陽の中にも陰は存在するので、陽の気の持ち主は強靭な精神に肉体が守られる。
 陰の中にも陽は存在するので、陰の気の持ち主は強靭な肉体に精神が守られる。
 陰と陽は元々一つであるので、陰と陽の気を同時に練って混ぜ合わせる事で、人間の持つ潜在能力を満遍なく引き出し森羅万象の理へと至る。
 五行のように相反する要素によって相剋するのではなく、転化し何処までも力を増して行く…それが陰陽の真の力ですわ!」
「ふふっ、陰陽の理も捨てたもんじゃ無いわね…!
 確かに五行は木、火、土、金、水と循環して強い力を発揮する相生もあるけど、それを打ち消し合う相剋の関係も存在する…!!
 でも、幾ら五行の法則を理解したとしても、体術と合わせて複雑なパターンを駆使すれば何ら問題は無いと知りなさい…!!」
「でも、僕もただで殺されるつもりはないよ…!!」
 竜斗は臍下丹田式呼吸法で陰陽の混ざり合った気を高める。
「それは凄く楽しみね…!! 本気の殺意と言う物をっ…!?」
「…」
「!?」
「どうしたの!?」
「…教えて上げようと思ったけど、やっぱ止めとくわ!」
「ガクっ!」
「坊やを殺したら最も残酷な死をくれてやるって、そのお嬢ちゃんから殺気と呼ぶのも生易しい程の陰の気を感じるもの。
 あんな陰の気をピンポイントで浴びせられたら、私じゃなかったら精神崩壊する所だわ。
 そして、それを確実に実行出来るだけの力も持っている。
 お嬢ちゃんは戦いの中で坊やを見守りながらも、この私を相手にその気になったら何時でも殺せる間合いを取り続けた。
 ハッキリ言って暗殺者なんて比較にならないイカレ具合ね…、うん、私の負けよ!」
「姫ぇっ…!」
「あら、なんの事ですかね…」
「でも、勘違いしないでね! 私はお嬢ちゃんに負けたんじゃなくて、あなた達二人の絆に負けたんだから!!
 あなた達はさしずめ陰と陽…。強い絆で結ばれて互いに支え合い、一緒にいるだけで自然と気が高まる関係だから、戦闘開始直後から強い力を発揮出来たのね。
 そして、二人で気を掛け合わせて戦う事で、その力は何処までも転化して強くなって行く…、そんなのに勝てる奴なんて居ないわ。
 この私が認めてあげる、あなた達、本当に最高のパートナー同士ね!」
「何を当然の事を言っているんですの…!?」
「僕は凄く嬉しいよ…! ありがとう…!!」
「坊や、貴方は幸せ者よ…、こんなにも一途に思ってくれる子なんて、何度生まれ変わったとしても出会う事が出来ないわ。
 これは私からのお願いだけど、お嬢ちゃんを大切にしてあげてね。貴方を守る為だったらどんな事でもするって覚悟を感じたから…」
「それ以上はプライバシー侵害ですわよ…。もし、戦いの最中にわたくしの心の声が聞こえたとして、それを口外したらどうなるか解りますよね…?」
「解った、解った、言わないよ。まだ死にたく無いからね…。おっと、向こうも決着が付いたようね!」
「お姉ちゃん!! 竜斗!! 大丈夫!?」
「ふっ、どうやら、そっちも無事に戦いを終えたようだね!」
 竜斗と姫の元に奏真と空が寄って来る。
 奏真の服は切り裂かれ、焼け落ち、殆ど裸と言っても過言では無い状態だった。
「そう言う奏真先輩は無事みたいだけど酷い有様だね…。この場に夕鶴が居たら半狂乱間違い無しな格好だし」
「ふふふっ、確かに目の保養には良いですわね」
「お姉ちゃん、恥ずかしい事言わないでよぉ!」
「これかい? 相手の攻撃がかなり強くてね。しかも、竜斗と同じように大アルカナの力が効きにくいようでかなり苦戦したよ」
「それでどうやって勝ったの?」
「攻撃を食らい再生しながらも特攻し、相手が倒れるまでひたすら殴り続けただけさ!」
「そんな単純な…!」
「あら、先ほど竜斗さんがおっしゃった通り、相手より何か一つでも優れている所があれば、それを活かして戦うのが戦略の基本ですわよ」
「ふふっ、あなた達の強さは本物のようね。
 特に陰陽使いの坊やと自称300歳のお嬢ちゃんは気に入ったわ。良かったら名前を聴かせて貰えるかしら…?」
「僕は走馬竜斗!」
「自称、香夜姫ですわ」
「自称って何よ…? 非常識な子ね!!」
「あら、暗殺者の貴女に言われたくありません事よ」
「とにかく、竜斗に姫ね…、覚えたわ…!」
「言っときますけど、名前を呪術に使おうとしても無駄ですわよ。わたくし達にその手の攻撃は効きませんから」
「違うわよ…! もし何かあったら、この甲賀の橘アヤメを頼ってねって事! あなた達だったら特別料金で仕事してあげるからさ!!」
「まぁ、竜斗さんの将来を考えると、使える手ごまが多いに越した事はありませんわね」
「暗殺者の力を借りるって、僕の将来って一体…!? まぁ、どんな力と言えど使い方次第だと思うし、何かあったら有り難く頼らせてもらうよ…!!」
「ふふふっ、まぁそんな所で私は失礼させて貰うわ! これにてドロン!!」
 橘アヤメは印を組むと、懐に忍ばせた木の枝を地面に投げつけ、炎に包まれながら消えて行った。
「き、消えちゃったよぉ…!?」
「ふっ、こいつは驚いたね…!」
「これが本当の火遁の術ですわね。五遁の術は自然現象を目くらましにして身を隠すのが正しい使い方なんですのよ」
「そうだったのか…」
「さて、そろそろ行こうか、グラウンドで聖蘭さんと安室さんが待ちくたびれている事だろうしね…!」
 奏真と姫は何やらアイコンタクトを取る。
「ええ、わたくし達の戦いはこれからですわ…!」
 そして、竜斗と空を置いて人間離れした速度で駆け出した。
「ああ、ちょっと…!!」
「二人共待ってよぉー!! 空そんなに速く走れないよぉ!!」
「竜斗さんと空さんは後からゆっくり来て下さいな!」
「竜斗…! 空を守ってくれよ…!!」
「あーあ、もう見えなくなっちゃったよ…。一体全体何だって言うんだ…?」
 竜斗は空と一緒に視界の先へと消えて行った二人の姿を追い掛けるが、空は突然息を荒くして地面に膝をついて動かなくなってしまう。
 それに気付いた竜斗は慌てて引き返し、空の顔を心配そうに覗き込む。
「ゴメン…!! 空は病気で走れないんだけっけ…」
「こっちこそゴメンね…」
「気にしないで良いよ、二人の事は心配だけどゆっくり行こう…! 僕が手を引いてあげるから…!」
「うん、ありがと…!」
 竜斗は空と手を繋ぐ。
 その手の大きさは握り慣れた姫のものに近かった。
 ただ、姫の手は白雪のように冷たく儚げな印象なのに対し、空の手は病気にも関わらず脹よかで生命力に満ちた印象だった。
「きっと、こんな空は足手まといになるから、お兄ちゃんとお姉ちゃんは先に行っちゃったのかも…」
「足手まといになるのは空だけじゃないよ。
 姫は僕も危険から遠ざけたいって思ったんだろうね。
 彼女は殆どの相手を一人で倒せるぐらいの実力があるんだけど、何時も僕の為を思って戦いを任せてくれる。
 でも、誰よりも優しいから、僕が傷付くのを見て何時も隠れて泣いてる。
 いざとなったら相手を殺してでも、自分自身を犠牲にしてでも、僕を守りたいって思ってくれている。
 多分、今回はそんな事言ってられる相手じゃないんだろうね…」
「竜斗こそ自分を責めちゃダメよ…」
「いや、自分を責めてなんかいないよ…」
 そう、まるで小動物のような庇護欲を誘う空に父性本能を刺激され、情けない自分でも誇らしく思えるので、必要以上の劣等感に苛まれまれる事は無かった。
「僕の力が足りないのは事実だから仕方無いけど、そう言う事じゃないんだ…。
 姫が僕が傷付くのを見て心を痛めるように、僕だって姫が傷付くのを見れば心が痛いに決まっているよ…。
 だから、どんな時でも一緒に居て痛みを分かち合いたかった…」
「うん、そうだよね、分かち合うって大切だよね…。
 空ね…、お兄ちゃんとお父さんが空の為に傷付いて行くの見てられなかったから、何だか解らない計画なんて止めて欲しかった。
 それで空が死んじゃっても仕方無いって思ってた。
 でもね、みんなと楽しい時を過ごしたり、お兄ちゃんと思い出を作ったり、竜斗とお姉ちゃんを見たりして思ったの…、空も自分勝手なんだって…」
「空…」
「空が小学校六年生の頃…、お父さんが阪神淡路大震災の時に、大怪我をして記憶喪失になったお兄ちゃんを連れて来たって話は知っているよね…?
 あの頃のお兄ちゃんは何時も大切な人を失った夢に苦しめられ続け、悲しみを埋めるように人と自分を傷つけるような毎日を過ごしてたの。
 空もお母さんを亡くして、お姉ちゃんとも別れたきり…。
 お兄ちゃんの気持ちが痛い程解ったから、なんとしても助けてあげたいって思ってたんだ…。
 でも、中学一年の冬休みに東京に行った時だったんだけど、お兄ちゃんが夜中に一人で出て行っちゃった事があったの…」
「その話は聴いた事があるよ…」
「夜遊びは毎日の事だったけど、その日は何となく嫌な予感がしたから、新宿の街まで追い駆けて行ったけど見失っちゃったんだ…。
 そのままお母さんや月夜お姉ちゃんのように、二度と会えないかも知れないって思うと恐かったよ…」
「空も辛かったよね…」
「それで、色々な人に話を聴いて回ったけど、お兄ちゃんに殴られたって人達の怒りを買っちゃったんだ。
 路地に連れ込まれて十人ぐらいに囲まれてもうダメかもって思ったよ。
 でもね、その時白いフリフリの服を着た女の子が助けに入って、黒いツインテールを振り乱してあっという間に全員倒しちゃったの…!」
「…まるで何処ぞの誰かのツーピーカラーみたいだけど、マジでカッコいい…!!」
「ツーピーカラー…? 良く解らないけど本当にカッコ良かったよ…!
 暗がりで顔は見えなかったけど、空はその子が月夜お姉ちゃんだって思ったんだ…!
 だから、嬉しくて、嬉しくて、必死になって後を追い駆けたんだけど、行き着いた先で見たのは聖蘭さんが超能力者を倒し、お兄ちゃんを車で連れ去る所だったの。
 それと、安室さんの姿も見たんだけど、聖蘭さん達の様子を隠れて見てて、大人の癖に声を出して泣いてたんだよ…」
「マジでヘタレだな、安室さん…」
「うん、それからも安室さんのヘタレは止まる事を知らず、家庭教師として再登場した時も休憩時間に隠れて何度も泣いてたんだよ…」
「それは酷い…、本当に泣きたいのは空の方だったんだろうにね…」
「うん、遂に我慢出来なくなった空は、あの夜の事を安室さんに聴いたんだ。
 そしたら事情を教えてくれたの…、お兄ちゃんは聖蘭さんのパートナーになって、お父さんの実験に巻き込まれちゃったんだって。
 だから、お兄ちゃんを探して戦ってでも間違った事を止めさせる事にしたの。
 でもね、安室さんと聖蘭さんが戦って共倒れになった所で、超能力者の人に襲われてお兄ちゃんが殺されそうになっちゃったんだ…。
 空ね、お兄ちゃんを庇って代わりに攻撃を受けたの…。
 生きててもお兄ちゃんの居ない世界に耐えられないって思ったから…。
 一歩間違えたら二人とも死んじゃうほどの大怪我をしたんだけど、お兄ちゃんが能力を目覚めさせてなんとか助かったんだよ」
「安室さんと聖蘭さんも仲直り出来たみたいだし、奏真先輩も空と一緒にいる事が幸せだって気付けたみたいだし本当に良かったよね…!」
「でもね…、それからお兄ちゃんはもっと苦しむ事になったんだ…。
 空はあの事件の後…、自律神経って所がおかしくなる原因の解らない病気になっちゃったの…。
 本当の事は何一つ解らないんだけど、お父さんは死んじゃう程の怪我から無理矢理再生した後遺症かも知れないって言ってた。
 だから、お兄ちゃんは空の病気が自分のせいだって思っちゃったの…。
 それで、距離を置いて一人暮らしをするようになって、お父さんと一緒になって色んな人を実験台にして再生能力の研究をしたり、こんな変てこな計画を立ててみたりしてる…。
 お兄ちゃんは空に優しくしてくれるようになったけど、その優しさが何よりも痛いの…」
 空は立ち止まって深呼吸をしながら力強く拳を握りしめる。
「私も、お兄ちゃんも、お父さんも…、みんな、みんな同じ…。
 大切な人が自分の為に傷付くのが恐いの…、だから、大切な人の為に自分は傷付いちゃっても良いって思ってる。
 大切な人が居なくなっちゃう事が恐いの…、だから、大切な人の為に自分が消えてしまっても良いって思ってる。
 でも、それじゃ自分勝手な優しさを押し付けて大切な人を傷つけているだけよ。
 私はその連鎖を止めたいの。
 だから、私の事を思う人の気持ちを無視して、生きる事を諦めたく無い。
 何かを犠牲にする以外にも方法があるはずだから、お互いの気持ちや現実をちゃんと受け入れて、どう生きるかって一緒に考えて行きたいの。
 病気を治す事が出来ても出来なくても、何時かは絶対に終わりは来るものだから。
 大切な人と過ごす日常を大切にしながら、最後の瞬間まで一生懸命生き抜きたいのっ…!!」
 空はその大きな瞳に強い意志の光を輝かせる。
 今までの幼く気弱だった空が信じられない程に大人びて見えて、強い精神力に満ち溢れているのを感じた。
「なんか、急に大人になったね…、やっぱ、初体験済ませたのは大きいのかな…」
「竜斗のエッチ…!! こんな時に何言ってるの…!?」
「うわっ、ゴメン!! そう言うつもりじゃなかったんだって!!
 いや、よく考えるとそう言う事でもあるか…。
 姫は人と人って近いようで遠いものだから、解り合う為に互いの気持ちを考える必要があるって言うんだけど、その為には色々と経験しないと解らない事もあると思うんだ。
 空は色々な経験を通して人として成長したような気がするよ」
「やっぱり、お姉ちゃんは凄いよね…!
 今もそうだけど空達に色々なヒントを出して、自分達で答えに導いてくれているんじゃないかって思えるの…!」
「そう、姫はそう言う事を平気でやってのけるんだ…!」
「なんか、急に心配になって来ちゃったから急ごうよ!!」
 そう言って病気とは思えない勢いで走り出す空。
「ちょっと、病気は大丈夫なの…!?」
「うん、なんか急に元気になったみたいなの…!!」
「それは良かったね…!!」
 竜斗は臍下丹田式呼吸法を併用しながら走り出す。
 戦いの時など激しい運動を継続する時は、浅い呼吸で気を練り込む事で持久力を飛躍的に向上させる事が出来るからだ。
 もちろん、攻撃力や防御力、精神力等を集中して向上させたい時は、しっかりと深く気を練り込む必要があるが。
 そして、竜斗は空の背中を見つめながら考える。
(もしかして、因果応報を受け入れて、再生能力の反動を克服したのかな…?
 なんだか精神力も体力も充実していて、陰と陽が織り混ざった気を練り込んでいる状態に近い気がする。
 気は潜在能力を意図的に引き出し理に至るって技術だけど、強い気持ちを持って現実を受け入れる事で同じ効果が発揮されるのかも。
 そう考えると、初めての戦闘で根性だけで工藤を倒す事が出来たのも納得出来る。
 仮に空が能力の反動とは関係無い病気だったとして、気を練り込む事で症状を改善出来るって言う可能性は充分あるな。
 そう言えば今日温泉に入った時、気を学んだ僕と姫と大河は自律神経が強化されている為か、一向に上気せる事が無かったし…。
 にしても空の裸…、他の女の子達と見比べてもぷにぷにしてて健康的だったな…、とても死にかけている子の身体とは思えないぐらいに…。
 なんだろう…? 何かもの凄く引っかかるものを感じる…)

「な、何これ…!?」
 そして、竜斗と空は次なる戦いの舞台であるグラウンドに辿り着く。
 そこで見たものはグラウンドいっぱいに聖蘭と安室の自我領域が広がり、その中を聖蘭の作り出す炎と、安室の作り出す氷が混ざり合って渦巻いている戦場だった。
「炎が凍り、氷が燃えて融合している…!? もはや、自然の理なんて完全無視だな…!!」
「どうしよう、近づけないよ…!?」
 空は竜斗の腕にすがりつく。
「ああ、無鉄砲にこの中に突っ込むのは危険な気がする…。空…、ちょっと離れててもらえるかな…?」
「うん…」
 竜斗はブレザーの内側に括り付けてあった手榴弾を取り出す。
「何でそんな所からそんな物が出て来るの…!? 竜斗って最近お姉ちゃんに似て来たよね…!!」
「僕もそう思うよっ…!」
 そして、ピンを抜いて炎と氷の渦巻く空間へと思いっきり手榴弾を投げ込む。
 だが、爆発するどころか空間に触れた瞬間に消滅してしまった。
「消えちゃった…!?」
「こいつはヘビーだぜ…!」
「そう、完成に至った大アルカナとは因果律を超越した存在である。故にその自我領域の中では自然の理ではあり得ない対極した属性の融合が果たされる」
「お父さん…!」
 竜斗と空の前にブラフマンが現れる。
「そして、光と闇、破壊と再生、炎と氷…、対極する大アルカナの融合は全てを超越する力の鍵となるのだよ」
「ダメだ、そんな中には幾らなんでも入って行けない…!」
「愛する者達が心配かも知れないが、今はここで彼らの戦いを見守るしかあるまい」
「みんな、無理しないでね…」
 竜斗と空は目を凝らして炎と氷が渦巻く自我領域の中を覗き込む。
 そこでは姫対聖蘭、奏真対安室と言う構図になっていた。
 空間中に炎を纏った大剣を出現させ縦横無尽に斬りつける聖蘭に対し、姫は法則性の欠片も無いような攻撃を全て読み切り、僅かな隙をついてはその強靭な自我領域に対して華麗なヒット&ウェイを魅せる。
 しかも、隠し持ったナイフを投げたり、小型拳銃、日本刀、気によって強化された格闘術を使い分け、間合いを完全にコントロールし隙を見せない。
 まさしく、姫こそ史上最強の名に相応しい。
「私はこの時を待っていたんだっ…!! 私の知り得ない最強の力を持つ貴女と全力で戦える…そんなに嬉しい事は無いっ…!!」
「あらあら、そんなに買い被られても困りますわよっ!!!」
 それを見ている竜斗が呟く。
「聖蘭さんが戦いたい程に好きな相手って姫だったのか…。図書委員長じゃないけど本当にワンパターンだな…」
「そう言う事言っちゃダメよ。人を好きになるのに理由なんて無いから、みんな自分自身の現実に苦しんでるんだと思うの…」
「うん、そうだね…」
 一方で安室は聖蘭と同様に氷に覆われた槍を出現させて愚直なまで捻りの無い攻撃を繰り出すが、そのスピードのキレは奏真の運動神経を遥かに上回っており、彼の身体を貫いて凍らせる。
「まったく、聖蘭さんは楽しそうだね…!! あんなに生き生きとした彼女を見たのは初めてさっ…!!」
「ええ…!! ボクは聖蘭が本当に望む人との戦いに集中出来るように、サポートしようと決めたんですよ…!! だから、悪いけど奏真くんにはボクの相手をして貰います…!!」
「ふっ、安室さんを相手にするには、俺も完成された大アルカナの力を使いこなすしか無いようだな…!!」
 奏真は安室の攻撃を受けて凍りついた部分を自分で切り落とし、絶えまなく再生しながら安室や聖蘭と同様に空中に具現化したチャクラムを出現させ攻撃を仕掛ける。
 しかも、ボロ布と化した服まで再生しているようだった。
「何も無い所にいきなり武器を具現化させたり、能力を発動したり、挙げ句の果てに服まで再生する…、完成された自我領域の中じゃ何でも有りだな…」
「竜斗…どうしたの…?」
 空が心配そうに竜斗の顔を覗き込む。
「いや、もし彼らと戦う事になったとして、あんな力にどう立ち向えば良いんだか解らないんだ…」
「大アルカナに対抗出来るのは大アルカナだけだ。
 君は既にトーナメントに参加し能力を発動する権利を得ているので、私の暗示を受けさえすれば誰にも負けない力を手にする事が出来るだろう」
「大アルカナか…」
 対聖蘭戦の為に反射神経を鍛えた安室は、奏真のチャクラムを瞬時に自らの槍により撃ち落とし続ける。
「そんな付け焼刃の攻撃なんてボクには通じませんよ…!!」
「ああ、大アルカナの真の力に目覚めたばかりの未熟な俺の技が、熟練した安室さんの技に敵うとは思ってないさ…!!」
 そして、奏真は空間攻撃を囮にする事で、一気に接近しての格闘戦に持ち込む。
「チャクラムは捨て駒って事ですか…!?」
「そう言う事だ…!」
 安室の槍は至近距離での間合いに弱く、安室と比べて優れた肉体を持つ奏真は徐々に押して行く。
「くっ、強い…!!」
「相手より優れたものが一つでもあるならば、それを活用するのは戦いの基本だろ…?」
「随分と合理的ですね…!!」
「合理的発想をしているのは安室さんも同じだろ…?
 この戦いの構図は一見して聖蘭さんの願望を叶えているように見える。
 だが、世界改変推進派と反推進派の二体二と言う対立は維持していて、安室さんが自分で手を下さなくても聖蘭さんを止められる可能性が高い組み合わせになっている。
 残念ながら安室さんは間違っていると言えるよ…!」
「くっ…、奏真くんまでヘタレだって言うんですか…!?」
「ふっ、そうじゃないさ…! この戦いは二対二ではなく、三対一だったって事さ…!!」
「な、なんですって…!?」
 奏真は安室の隙をついて振り返り、姫との戦いに夢中になっている聖蘭に向かって、手にしたチャクラムで斬りつける。
「ぐっ…!?」
 油断していた聖蘭は奏真のチャクラムと自らの自我領域の反発によりすっ飛ばされる。
「良い不意打ちですわね…!!」
「まだだ、まだ終わらないさっ…!!」
 奏真は大量のチャクラムを空中に作り出し、地面に膝をついた聖蘭に向かって一斉攻撃を仕掛ける。
 そして、最後に奏真は頭上に巨大な光の円盤を作り出してゆっくりとしたスピードで解き放つ。
「聖蘭ぁーーーーっ!!」
 だが、地に膝をついた聖蘭を庇って安室が躍り出る。
「ぐはぁーーーーっ!!」
 次から次へと連続されるチャクラムの攻撃に安室の自我領域は削られて行く。
「安室さん邪魔をしないでくれっ…!!」
「ボクはやっぱりヘタレなんですっ…!! 例え対立しててもボクは聖蘭が傷付く姿なんて見たく無いんですっ…!!」
 そして、最後に巨大なチャクラムがゆっくりと迫り来る。
「安室っ…!! そう言う事をするからお前にはお説教が必要だって解らないのかっ…!?」
「ヘタレでゴメン、アホでゴメンな…、聖蘭…」
「本当にお前は馬鹿だっ…!! 何時も尻拭いする私の身にもなってみろっ…!!」
 自我領域を失い倒れた安室を庇うように聖蘭が覆い被さり、次の瞬間二人は巨大チャクラムが作り出す爆発に巻き込まれる。
 そして、グラウンドを覆っていた炎と氷が融合した強力な結界は消失する。
 爆煙が収まるとそこには爆発によって生じた巨大な穴と、No.2女教皇のカードとNo.5教皇のカードが残されているだけで、聖蘭と安室の姿は何処にも無かった。
「まさか、二人とも木っ端微塵になった…!?」
 竜斗は姫の元に急いで駆け寄り、その小さな白雪のような手をギュッと握ると、地面に空いた大穴を見て脂汗を浮かべる。
「いえ、方法は解りませんが瞬間的に身を隠したようですわね。
 聖蘭さんの法則性の欠片も無い卓越した発想力と、完成された大アルカナの力があれば不可能はありませんわ。
 ただ、ルール上逃亡は敗北となってしまう為、カードだけが残されたのでしょう。
 正直、これ以上戦いが長引いて聖蘭さんに本気を出されていたら、わたくしの方が木っ端微塵になっていた所でしたから本当に助かりましたわ…」
「姫でも勝てないって言うのか…」
 そして、空を抱き寄せ不敵な笑みを浮かべた奏真と、サングラスの奥で感情を押し殺したブラフマンが対峙する。
「何故、聖蘭くんを攻撃するような事をした…? 君にとって彼女は同じものを志す同士のはずだ…」
「何よりも大切な事に気付いたからさ…!!」
 そう言うと奏真は自身のNo.19太陽のカードを始め、運命、恋人、塔、戦車、吊男、正義、星、教皇…、合計9枚のカードを投げ捨てる。
「俺はトーナメントを辞退するっ…!!」
「お兄ちゃん…!?」
 その様子に驚きを隠せない空。
「世界の変革無くして死に至る病に犯された空の命は救えないのだぞ…?」
 ブラフマンはサングラスを押さえながらカードを拾い上げる。
「そう、俺は空を失うのが恐い…、それこそ何も考えられなくなる程だ…。
 だが、誰かを…、自分自身さえも犠牲にして世界の再構築を目指すって事は、空の気持ちを無視した自分勝手な思いに過ぎないって仲間達に教えられたんだ…。
 俺はずっと孤独だった、空だけが全てだった。
 楽しそうに笑っている同年代の子供達は外の世界の存在でしか無かったんだ。
 でも、竜斗がみんなの事を思って行動し続け、作り上げられた仲間の輪にいつの間にかに俺も引き込まれた。
 産まれて初めて心を許せる友達ってものが出来て、そこら辺にいる普通の子供になる事が出来たんだ。
 そう、俺は戦う前から竜斗に負けていたんだよ」
 奏真は竜斗に不敵な笑みを向ける。
「奏真先輩…」
「今まで心配かけてゴメンな…、空。
 現実と向き合って何が出来るか考えてみたんだ。
 俺は医学の勉強をして他の方法で空を救えないか探してみるから、空も頑張って待ってて欲しいんだ。
 どれだけ時間が残されているか解らないけど、その時に良い人生だったって思えるように、毎日を大切にして二人で生きて行こう。
 もし、志半ばで残される事となってとしても、同じ悲しみを共有出来る友達がいるから、思い出を背負って生きて行く事が出来る…。
 だから…、だから、最後の時まで一緒にいよう…! 好きだよ、空…! 結婚しよう…!」
「奏真…、私、嬉しい…、嬉しいよぉ…!!」
 そして、奏真と空は互いの身体を強く抱き締め熱く唇を重ねた。
「良かった…、本当に良かったね、二人とも…」
 竜斗も自分の事のように喜び涙を流しながら姫の手をぎゅっと握る。
「奏真さんじゃありませんけど、それも全て貴方が頑張ったおかげですわよ…」
 姫の声も心無しか霞んでいるように思えた。
「ああ、本当にその通りだ。
 本来私のシナリオの外側であの娘と共に幸せで暮らすはずだった君が、ここまで私のシナリオを狂わせるとは思わなかった。
 こうなると、またシナリオの修正が必要なようだ」
 ブラフマンは黒光りするサングラスを竜斗に向ける。
「もし、空の病気が治る可能性があるって言ったら、これ以上計画は実行しなくて良いんじゃないですか…?」
 竜斗は身構えながらも、繋いだ姫の手から勇気を貰い、毅然とした表情で答える。
「それはどう言う事だ…?」
 奏真が驚きながら聴く。
「空の病気の原因は解らないけど、それが再生能力の反動だったとして、夕鶴達の例を見るように克服出来ないものじゃない。
 もし、重度の自律神経失調症だったとしても、僕らの使う陰陽の気を練る事で改善出来ると思うんだ。
 正しい生活習慣を身につける事も効果があるかも知れない。
 陰陽の気を練ったり、生活習慣を改善する方法は大河だって知っているよ」
 竜斗の言葉を聴いて空は思わず泣き崩れそうになる。
「私…、私…生きられるかも知れないのね…! 嬉しい、嬉しいよ…!!」
 そんな空を支えるように、奏真が強く抱き締める。
「良かったな、空…! ずっと、ずっと一緒にいよう…!」
 そして、涙に濡らした頬を寄せ合った。
「こんな嬉しそうな空と奏真くんを見るのは初めてだな…。
 もうこれ以上は二人を苦しめる事は出来ない…、そう、君の言う通り空は死に至る病では無いと認めよう…。
 だが、私は計画を止めない…、止める事が出来ないんだよ…」
 ブラフマンはサングラスを取って、その憂いを秘めた目を竜斗に向ける。
 その瞬間、竜斗の中で全てが繋がった。
「やっぱり、そうだったんですね…。
 貴方の行動には全て意味がある…、だからこそ、昨日の戦いにどう言う意味があるのか、ずっと考えていたんです。
 本来は夕鶴や生徒会長にやられた人達を実験台にして、再生能力では本当の意味で人を救えないと思わせ、奏真先輩に世界の再構築を実行させるつもりだった。
 でも、再生能力の反動を克服した人が現れたので、違う形で奏真先輩に死への恐怖を植え付ける必要があったんだと思うんです。
 つまり、貴方には空を助ける為ではなく、他に計画を実行しなければならない理由があった…。
 優しさと悲しみを秘めた貴方が、嘘をつき心を痛めてまで望む物が何なのか…、僕はそれが知りたいんです…!」
 そして、強く優しい意志を秘めた視線をブラフマンに送る。
「それは何故だ…?」
 ブラフマンはまっすぐ竜斗の事を見つめ、感情を深く沈めるように聴く。
「人の為に一生懸命になる事で僕は僕でいられるからです…!」
「ふっ、君は本当に優しいのだな…。
 だからこそ、ここまで辿り着く事が出来たのだろう…。
 だからこそ、君は真実を知れば誰よりも傷付く事になる…、君にその覚悟はあるのか…?」
 ブラフマンは本気で竜斗の事を心配しているようだった。
「本当の強さとは自分自身を貫き通す事…、だから、僕は現実から決して目を逸らしません…!」
 竜斗が決意に震え拳を握りしめる様子を見て、横にいる姫が満足そうに微笑む。
「閉ざされた時の中で二人で幸せに暮らしていれば良いものの、それを捨ててまで愛する少年に過酷な道を歩ませるとは、我が娘ながら残酷な事をするものだ…」
 そして、ブラフマンは呆れ返ったような表情を姫に向ける。
「やっぱり、姫は貴方の娘だったんですね…」
 空が姫を見て口を押さえる。
 姫は竜斗に寄り添いながら、空に妖艶な笑みを返した。
「そう、君の愛する少女の本当の名は旭陽月夜…、私の娘であり空の実の姉だよ。
 そして、私の望みとは愛する娘達の幸せさ。
 二人の娘には互いの生き方を尊重出来るような男性と、愛と優しさに包まれた人生を歩んで欲しかった。
 だが、運命は残酷であり不公平なもので、月夜にはその時間が残されていないんだ。
 そう、月夜は明日の日付変更と共に命を失ってしまう」
 憂いを秘めた静かな声色で言うブラフマン。
 その言葉は竜斗の心の奥底まで響き渡り、まるで波紋のように黒い物が広がって行く。
「そんなの嘘だっ…!!」
 それが嘘偽りの無い言葉であると言う事は竜斗も解っていた。
 真実だからこそ受け入れ難かったのだ。
「残念ながら本当の事ですわ…」
 静かに響く姫の声。
「なんで、そんな事が解るんだよ…!?」
 竜斗は涙を流しながら姫に向き変える。
「わたくしには幾度と無く破壊と再生を繰り返し続けた世界での全ての記憶があるんですの。そして、その中で嫌と言う程自分自身の最後を経験して来ましたから」
「そ、そんな…!!」
 竜斗はその言葉を聴いた瞬間、全身の力が抜け地に伏せた。
「月夜こそが世界の破壊と再生が繰り返される事となった原因…、No.13死神の大アルカナであり、その死は決して避ける事が出来ない運命なのだ。
 もし、その運命を回避する方法があるとすれば、因果律を覆す力である大アルカナの暗示を受け入れ、この呪われた世界を再構築するしかない。
 君にはそれが出来る才能が眠っている。
 何故ならば君はNo.20審判…、この世界を構成する無自覚の大アルカナだからだ。
 必要な試練を乗り越えた後である為、始めから完成された能力を扱う事も可能だろう。
 何よりも誰よりも優しく強い心を持った君ならば、誰も傷付く事の無い世界を創り出す事も夢ではなくなる。
 もし、絶対的な運命を変える事が出来なかったとしても、破壊と再生の僅かな時間だけでも月夜は生き続ける事は出来るだろう」
「僕が大アルカナ…!? 誰も傷付く事の無い優しい世界を…、姫と永遠に生き続けられる世界を創る…!?」
 地に伏せた竜斗にブラフマンが手を差し伸べようとする。
「やめてくないか…」
 奏真が竜斗とブラフマンの間に具現化したチャクラムを突きつける。
「大アルカナの力を完成させた俺はカードを失い、トーナメントを辞退しても能力が使えるんだ…。 
 もし、竜斗がこの世界を…、空や仲間達の生きる俺達の世界を壊すと言うならば、俺はこの力を君に向けざるを得ない…。
 今の俺の力ならば君を殺すぐらい容易い事だ…。
 だが、竜斗は俺を…、俺達を救ってくれた大切な友達だ…、殺したく無い…。
 だから、その手を引いてくれないか…?」
「止めてよっ!! 奏真だって竜斗と同じだったのに、そんなの酷いよっ…!!」
 だが、空は奏真の頬を滴り落ちる滝のような涙を見て息を飲む。
「でも、俺には誰かを犠牲にする事になっても、守らないといけないものがあるんだっ…!! 気持ちが解るから辛いんだっ…!!」
「奏真っ…!!」
 顔をくしゃくしゃにして、声を出して泣き出す空の頬をハンカチで拭う姫。
「ふふふっ、泣き虫は相変わらずですわね」
「せっかく会えたお姉ちゃんが死んじゃうなんて嫌よっ…! どうすれば良いのか解んないよっ…!!」
 空は姫を強く抱き締める。
「勝手に出て行って妹を悲しませ、今もこうして泣かしているなんて、わたくしは本当に悪い姉ですわね。
 でも、そんな極悪な姉の妹として産まれてしまったんですから諦めて下さいな」
「お姉ちゃんの意地悪ぅ…!!」
「ほら、もう貴女は大人の女性ですから何時までも泣いてちゃダメですわよ、そうでなければ大人になるのを手助けした甲斐がありませんもの」
「うん…」
「ふふふっ、良い子ですわ」
 姫は空の頭を撫でる。
「それに、誰よりも死と向き合い続けて、それを乗り越えられた貴女なら解りますわよね…、わたくしの気持ちが…」
 竜斗は直感する。
 姫は空や奏真を通して竜斗に死と向き合うと言う事を教えようとしていたのだと。
「まさか姫は…、姫は僕に死を受け入れろって言うの…!?」
「ええ、わたくしは充分過ぎる程生きましたわ。
 幾度と無く繰り返される破壊と再生の狭間で、幾度と無く貴方との出会いと別れを繰り返し、幾度と無く愛し合う事が出来て本当に幸せでした。
 ですが、どんな時にも何時かは終わりはやって来るものですわ。
 急激に魂の老化が進んでいるんですの。
 身体が痩せ細り、体温が低くなり、肌や髪から色が抜けるだけじゃありませんのよ。
 一人でいる時に感情が無くなった植物のような状態と、感情をむき出しにする野獣のような状態を繰り返し、思考や記憶も滅茶苦茶になってしまう事もあります。
 あの橘アヤメが陰陽の気を年寄りの健康法と言ってましたが、それもある意味正解で気を学ぼうと思ったのは自分自身の老化を止める為だったんですの。
 でも、どうやらそれも限界に近いようですわ。
 確実に自我を失ってわたくしが…、わたくしで居られなくなる時が近づいています。
 だから、その前にわたくしを解放して欲しいんです。
 竜斗さんならば運命を乗り越えて…、この世界を、このわたくしを呪縛から解き放って頂けると信じていますわ…」
 姫は竜斗に対して手を差し伸べようとする。
「お嬢様…、貴女は自分勝手です…」
 その時だった。
 グラウンドの地面が爆発したかと思うと、竜斗と姫の間に燃え盛る斬馬刀が突きつけられていた。
 それは全身泥まみれの姿となった聖蘭であった。
 その足下には精神力を使い果たした安室が片膝を付いて息を荒げていた。
 聖蘭のメイド服は激しい爆発を受けてところどころ破けていたが、露出した白い素肌に怪我をしている様子は無かった。
「その様子ですと爆発に爆発をぶつけてダメージを相殺し、炎で地を掘り進んで難を逃れていたようですわね」
「一時戦線を離脱する事となりましたが、安室を守る為にはやむを得ない選択でした…」
 そして、聖蘭は何時もの柔和な表情を浮かべ、慈愛に満ちた目を姫に向ける。
「聖蘭さん…、やはり、わたくしの我が侭を許してはくれませんのね…」
 そう言う姫の声は震えていた。
「お嬢様はスパイである私の事を調べ尽くしたはずですからご存知ですね。
 私は愛する弟を自殺で亡くしているのです。
 弟は困っている人を見捨てる事が出来ない優しい少年で、間違った事を何よりも嫌う真っ直ぐな心を持っていました。
 そして、虐められている友人を助ける為、たった一人で弱者が群がる世界に戦いを挑みました。
 ですが、弟は本当の強さを持つ事が出来なかったのです。
 だから、助けようとしていた友人に裏切られた事に傷付き、自分自身の首を絞める事になってしまったのです。
 ですから、私は本当の強さを手にして、この間違った世界を正したいと思いました。
 そして、心優しい人が虐げられる事の無い世界を、 愛すべき人々が生き続けられる世界を創りたかったのです」
 聖蘭の言葉は静かだが重く、心の柔らかい所を押し潰してしまうようだった。
「なんで…、なんでそんな大切な事を今まで言わなかったん…? もっと早く言ってくれれば…、力になれたかも知れないのにっ…!!」
 安室は限界に近い身体に鞭を入れ声を振り絞るように聖蘭に声をかける。
「安室…、貴方は親を亡くし闇雲に生きていた経験から何も学んではいません。本当の強さを持たざる者の利己的な優しさは、私の弟のような破滅を招くだけです」
 それは本気で安室の事を思っているからこその言葉であり、彼はそれが解っているからこそ辛かった。
「そんな事…、ボクは解らない…。人が苦しむ姿を見れば辛い…。人の為に心を鬼にする事は出来ない…。そんな救われない生き方は悲しいだけだ…」
 安室は彼女を哀れむように掠れた声を絞り、あまりの悲しさから崩れ落ちると地面を涙で濡らした。
「そして、私はお嬢様と出会い知りました。
 お嬢様は心の闇から産まれたモノと戦う事で弟のように破滅に向かう人々を救い、たった一人で繰り返される輪廻の中で戦い続け間違った世界を正そうとしていると。
 私には無い力と強さを持ち、私には出来ない事をなさる嬢様にお仕えする日々は、私に本当の強さを与えてくれました。
 そして、何時までも…。
 何処までも…。
 例え生まれ変わってもお嬢様を支え、人々を救い世界を変える手助けをする事が私の天命であると悟ったのです。
 ですが、お嬢様はその責任を…、自らの命を放棄しようとしています」
 竜斗は聖蘭から計り知れない異質な強さを感じ、燃え盛る剣を突き立てられているのにも関わらず背筋がゾッとするような悪寒を覚えた。
「お嬢様が亡くなる事で遺された人達がどれ程傷付くとお思いですか?
 痛みを知ればそれだけ人に優しく出来ると言われますが、それは現実を知らない者が掲げる理想論に過ぎません。
 心を蝕む死への恐怖は人から優しさを奪い、消えない悲しみは死への渇望へと繋がり、何時までも悲劇が繰り返されるのです。
 断ち切れない負の連鎖は、愛すべき人の人生を地獄へと変えてしまいます。
 だから、貴女は例え痴呆を抱え衰えようとも、世界の破壊と再生の狭間に生き続けるべきだと思います」
 冷淡ながら慈愛に満ちた聖蘭の言葉は竜斗の胸に突き刺さる。
 聖蘭は竜斗の辿るかも知れない道を行き、計り知れない程の悲しみを乗り越えて来たのだと思ったからだ。
 何よりも正しい…、正し過ぎて痛いのだ。
「聖蘭さん…、わたくしは貴女の気持ちを解った上で眠りにつかせて頂きますわ…。わたくしは既に死んでいるはずの人間ですから」
 決して視線を逸らさず涙を流す姫…。
「姫…!!」
 竜斗は初めて見る姫の弱々しい姿に居ても立っても居られずに、火傷を覚悟で素手で聖蘭の刀を撥ね除けて駆け寄ろうとする。
 だが、次の瞬間には灼熱の刃が竜斗の首筋に突きつけられ肌を焼いていた。
 鋭い切れ味と肉を焼く痛みは一歩でも動くと命が尽きる事を否が応でも理解させ、竜斗は微動だにしないで大量の汗を流す。
「竜斗様がこの間違った世界を正し、お嬢様が生きられる世界を…、誰もが傷付かなくても良い優しい世界を創ると言うのならば私は止めません…」
 一瞬で竜斗の命を奪える立場にありながら、聖母を思わせる慈愛に満ちた声で言う聖蘭。
「だが、もしお嬢様を見殺しにすると言うのなら…、この腐った世界を存続させると言うのなら…、貴方を殺してでも私が世界を創り変えてやるっ!!」
 そして、鬼神のように怒気をむき出しにして、聖蘭は刀を構え直して切っ先を竜斗に向ける。
「僕はただ姫を…、みんなを…、この世界を救いたいだけなのにっ!! 何でこんな事になるんだよっ!!!」
 奏真と聖蘭に武器を突きつけられ、竜斗は息を荒たげて夜空に向かって吠える。
「優しいが故に誰よりも過酷な選択を突きつけられ、それを貫く為の絶対的な強さが求められる。
 これが君の選んでしまった道の現実だ。
 月夜の命を犠牲にして世界を存続させる為に聖蘭くんと戦うか、月夜の思いを犠牲にして世界を再構築する為に奏真くんと戦うか。
 トーナメント決勝戦でどちらと戦うかは君自身で決めるが良い。
 残された時間を使って良く考えて欲しい。
 君であれば私のシナリオを超えた答えを導き出し、本当の意味で月夜を救ってくれると信じている」

第六章

 1999年7月31日(土)
 眠れない夜を過ごした竜斗はMDウォークマンで音楽を聴きながら、風見鶏の館の二階ベランダから重い空気に包まれた神戸の街を眺めていた。
 普段ならば明るくなり始める時間だと言うのに、空を覆う分厚い雨雲のせいで真夜中よりも暗く、まるで竜斗の心を現しているかのように重い雰囲気であった。
 MDに録音されているのは現在放送中のアニメ、ターンエーガンダムのサントラだ。
 7月23日に発売されたばかりのサントラには放牧的で雄大な大地と、幻想的で儚い月を思わせる美しくノスタルジーに溢れた曲ばかり収録されている。
 中でも劇中で使用されていないBoys About16と言うイメージソングは、今の竜斗の気持ちを歌っているようで、とても切なく涙が溢れ出てしまうようだった。
 竜斗は手すりに身を預け、闇に向かって溜め息をつく。
 姫の気持ちを尊重すべきなのか、姫の命を尊重すべきなのか。
 竜斗自身どうしたいのか、どうすれば良いのか、一晩中考えても考えても答えは見つからなかった。
 ただ、姫を愛したいその為に、この全世界を捨てても良いと思った。
 奏真や聖蘭と戦い命を奪う事もやむを得ないと思った。
 彼らと同じ立場に立ち気持ちが痛いほど解ったが、だからこそ戦いは避けられないと言う事も痛いほど解ったのだ。
 だが、完成された大アルカナを相手にするには、今の竜斗の実力では遥かに役不足であり、間違い無く命を落とすのが目に見えている。
 つまり、彼らを相手にするには同じ大アルカナの力が必要になる。
 もしくは、リタイヤして第三者に運命を委ねるかだ。
 何れにせよ竜斗が今まで貫き通して来たものを失ってしまうのは確かであり、都合良く全てを解決出来るような答えなど存在しないと言う事だけは確かだった。
「まだ、起きるには早過ぎる時間ですわよ」
 ベランダの反対側の扉から現れたネグリジェ姿の姫が話しかける。
 竜斗の使っている寝室と姫の子供部屋はベランダで繋がっていて、互いに行き来出来るようになっている。
「ああ、眠れなくてね…。姫こそ随分遅くまで空と話していたみたいだね」
 竜斗はイヤホンを取りながら、姫に向かって微笑する。
 それは今までの無垢な少年では無く、憂いを秘めながらも精悍な青年の顔だった。
「ええ、随分と積もりに積もったものがあったんでしょうけど、今しがた泣き疲れて眠ってくれた所ですわ」
 昨日の戦いの後、突然空が姫の家に泊ると言い出したのだ。
 二人乗りのディアブロだけだと不便なので、安室が聖蘭からシルバークラウド・ツーを回収し、運転手兼世話係として共に泊る事となった。
「そうか…」
 竜斗は再び遠くを見る。
 厚い雲が一瞬途切れ、少し欠け始めた月が朧げに輝くのが見えた。
「竜斗さんはどんな音楽を聴いてたんですの?」
「アニメのサントラだけど胸を打つような綺麗な曲ばかりなんだ」
「一緒に聴きましょうか?」
 姫は静かに竜斗の左に並ぶ。
 そして、竜斗は右耳に姫は左耳にイヤホンを付け、少し聞こえ方の異なる同じ音楽を共有する。
 その時流れていたのはMoon(ガブリエラ・ロビン)と言う造語で作られた歌だった。
「永遠に満ち欠けする月に消え行く女性の面影を求める…、そんな情景が浮かんで来るような曲ですわね」
 そう言ってヘアーキャップから溢れた銀色の髪を風に靡かせる姫。
 竜斗は彼女の顔を盗み見る。
 長いまつげに覆われた切れ長の目は何処か遠くを見つめ、白い顔に浮かぶ表情はまるで人形のように美しく儚げであった。
 一体何を思っているのだろうか…?
 こんなにも近く…、手を伸ばせば触れられる距離に居ると言うのに、姫と言う存在が遠く感じた。
 そんな時、何時か姫が竜斗に言った言葉を思い出す。
(人と言うものは近くて遠いものですわ。
 解っているつもりでも解っていない事もあり、時にとんでもないすれ違いを生む事もありますの。
 だからこそ、人の気持ちを想像して解り合う事が大切なんですの)
 以前、姫からその言葉を聴いた後、すれ違いを繰り返していた大河と夕鶴を見て、特に男女の間は互いの気持ちを伝え合う事が大切だと知った。
 そして、夕鶴に言われた。
(竜斗センパイもしっかりと姫ちゃんとコミュニケーションとって、ちゃんと気持ちを汲んであげへんとダメやでぇ!)
 思えば竜斗は姫の事を何も知らない。
 短い時間とは言え共に暮らし、共に様々な試練を乗り越え、身体を重ねただけで全て解ったつもりになっていただけだ。
 無知で視野の狭い子供であった。
 いや、何時までも何も知らない子供で居たかったんだ。
「姫…、馬鹿でゴメンな…」
「ふふふっ、何を今更言ってるんですの?」
「僕は何時も支えてくれる最高のパートナーであり、最愛の恋人である姫の事を考えてあげられなかった。
 姫は僕がここに辿り着くのを、ずっと待っていたんだと思う。
 本当はその時になって現実を受け入れられるようにって、姫が色々な事を通してヒントを出してくれていた事に気付いていたんだ。
 でも、僕は見て見ぬ振りをしていた。
 何時までも一緒に居られるものだと思っていたかった、本当の事を知って大切な何かが壊れてしまうのが恐かったんだ。
 だから、姫が抱えている現実を突きつけられた時に、それが本当の事だって思いながらも、どうしても受け入れる事が出来なかった…。
 いや、今も受け入れ難い…。
 大切な人の死なんて簡単に受け入れられるものじゃ無い…。
 だけど、ちゃんと姫の気持ちを知った上で僕がすべき事を考えたい…」
(何かを犠牲にする以外にも方法があるはずだから、お互いの気持ちや現実をちゃんと受け入れて、どう生きるかって一緒に考えて行きたいの)
 それは空が言っていた言葉だ。
「だから、姫の事を僕に教えて欲しいんだ…!」
 竜斗は姫と向き合いその小さな手を握る。
「少し散歩しながら話しましょうか…。旭陽月夜として産まれ香夜姫として死んだ女と、双間創真と呼ばれた少年の物語を…」

 風見鶏の館の前にある北野町広場は朝霧に包まれ、外灯がぼんやりと幻想的な光を浮かべていた。
 広場は高台にあり晴れている日には神戸の街を一望する事が出来るが、この日はまるで雲海の中からビルが生えているように見えていた。
 そして、広場の横にある階段を下がり、シャッターの閉まった土産物屋が連なる坂道を下がって行く。
 そのまま旧パナマ領事館や、英国館、ラインの館、仏蘭西館、ベンの家などの古い洋館、お洒落な建物が立ち並ぶ北野通りを左に曲がり異人街を廻り歩いて行く。
 途中に日本の伝統的な神社や、現代的なマンション等もあり、古今東西入り交じった異世界となっていた。
 竜斗は戦闘用の学生服を、姫は何時ものゴスロリ服を着て手を繋ぎ、肌寒い空気の中で互いの身体を暖め合うように寄り添いながら語り合う。
「先ほど聴いたアルバムの中には竜斗さんを思わせる曲が収録されていましたね。
 ですが、もし貴方がその曲からインスピレーションを受けた誰かによって創造された人格であると言われたらどう思いますか?」
「ショックだし普通は受け入れられないと思う。
 だけど、この世界が誰かに創造されたものだとすると不思議じゃない。
 それこそ、最初の世界から生き続けている姫とブラフマン以外、誰かに創られた存在だって考える方が正解かも知れないな」
「ところが、あのアルバムにはわたくしを思わせる曲もありましたわね。
 もし、わたくしもその曲から影響を受けた誰かが、自分自身の思い出や願望を元にして創造していたとしたらどうでしょうか?」
「まさか、姫が産まれた世界すらも誰かの創造だったって言うの…?」
「本当の所はどうだか解りませんわ。
 ですが、旭陽家はその世界を創造した者の末裔だと言われ、代々世界を維持する神とも呼べる役目を背負って来たと言ってましたわ」
「ぶっとんでいるとは思ったけど、まさか神様の末裔とはヘビーだね」
「ふふっ、旭陽家も大量にいる自称神の末裔の一つに過ぎませんわ。
 ただし、世界と神の定義が少し変わってて、世界を誰かが創造した物語だと考えているようなんですの。
 もし、この世が物語だとして欠かせない存在は何だと思いますか?」
「物語の中心人物である主人公かな?」
「そう、物語は主人公がいるからこそ成立するのです。
 役割を持った子供に無意識に周囲の因果を操作する力を与え、世界を維持する神へと育て上げるノウハウと使命が旭陽家には伝えられていました。
 そして、わたくしが幼い頃…、始めに産まれた世界で神と呼ばれていたのは、わたくし達の母である旭陽神子だったんですの」
「ブラフマンじゃないんだ?」
「父である昇は旭陽家の婿養子なんですわ。
 お父様は少し特殊な力を持っていて、少年時代に旭陽家の研究施設に身売りされ、そこで研究員として働いていたお母様と出会ったんですの。
 その力は夢と現実の境界線を無くし潜在意識を解放する特殊な自己暗示によって、他人を拒絶する心が発現したもので、決してコントロールなど出来はしませんでした。
 でも、お父様がお母様に対して心を開いた事により、他人を拒絶する力は外側へと向かい、力をコントロール出来るようになったんですの。
 そう、それが今で言う自我領域です。
 更に旭陽家のノウハウと組み合わせる事で誕生したのが、意のままに因果を操作する大アルカナですわ。
 お父様とお母様はNo.0愚者の跳躍能力を使って、月夜に街の空を飛び交うデートを繰り返したみたいですわ」
「前にも思ったけどロマンチックな能力だよな」
「ええ、お父様はああ見えて純粋で夢見がちなんですの」
「空にもそう言う所があるし、やっぱり親子で似る所があるのかもしれないな」
「そして、お父様はのんびり屋で芯の強いお母様と結婚し、ずる賢く美しい姉の月夜と、お馬鹿で素直な妹の空、二人の娘に恵まれ幸せに暮らしました」
「ずる賢く美しいって、自分でそれを言う…!?」
「あら、本当の事だから仕方ありませんわよ」
 姫は含み笑いをする。
「でも、幸せは長く続きませんでしたわ。お母様は原因不明の病…、空さんの症状に近い病気を発症して、苦しみの中で命を落としてしまったんですの」
 口調を変えずに言う姫の言葉には妙な重みがあり、竜斗は思わず息を飲む。
「それって、遺伝的な疾患なの…?」
「いえ、あくまで原因は不明ですけど、わたくしは人工的に神へと育てあげられてしまった事と、大アルカナのパートナーになった事による影響だと思っていますわ」
「自然の摂理に逆らって運命を捩じ曲げようとする力には、それだけ強い反作用が伴うって事か…」
「お母様の場合も因果を受け入れたり、摂理の力である陰陽の気を練る事で克服する事は出来たと思いますの。
 今のわたくしだったらお母様を助ける事が出来たかも知れませんが、過ぎ去ってしまった事は変えようが無いですし後悔しても仕方無いですわね。
 大切なのは過去を受け入れた上で現在と未来を如何に変えて行くかですわ」
 そう言って姫は笑って見せた。
「姫…」
 竜斗はその微笑みに胸が痛くなる。
「そして、その世界に神の存在しない空白の期間が産まれてしまったんですの。
 だからと言ってすぐに世界の崩壊が始まるわけでも無く、そもそも本当に世界が崩壊するかも確かではありませんが、遠い親戚の年寄り達は焦って次の神候補を選別しました。
 その結果、選ばれたのがまだ幼かったわたくし…旭陽月夜でした」
「何で姫が…!?」
「神の血を受け継ぐ直系であると言う事もありますが、異能者であるお父様の血が交わった事で、従来の神を超えられる可能性があるらしいんですの。
 あと、霊力と呼ばれる魂が元々持っている力が強いとか。
 他にも常識から外れた異常な精神性も神の資質としては申し分無いとか、ちゃんちゃらおかしな事を言われましたわ」
「それは本当にちゃんちゃらおかしいね」
「そして、わたくしは神に成り上がる為の儀式に挑む事になりました。それは大きく別けて贄と祀りの二つで構成されていますの」
「贄と祀りか…、マジで儀式っぽい感じだな。まさか、またしても恐い系じゃないよね…?」
 竜斗は色々とおぞましい想像をして背筋を凍らせる。
「恐いと言ったら恐いし、恐く無いと言ったら恐く無いですわね。
 贄とは陰陽師や修験者、僧侶に巫女、風水師と言った理力使いや、闇より産まれた鬼退治…、今で言う所の小アルカナと戦って倒す事ですわ。
 その為に私は旭陽家に代々伝わる霊剣…天叢雲剣を与えられ、それと同時に旭陽家伝来の古武術による戦闘法も叩き込まれましたの」
「本当に大アルカナの育成方法と同じなんだな…。それにしても子供に武器を持たせて戦わせるなんて虐待も良い所だ…」
「ふふふっ、わたくしは身体を鍛えて戦う事が好きでしたので、贄の方は楽しくて仕方無い儀式でしたわ」
「さすが、子供の時から姫は姫だったんだな」
「三つ子の魂百までもって言いますしね。それより、苦痛だったのがもう一つの祀りの方の儀式ですの」
「大アルカナに近い事を考えると暗示とか…?」
「そう、実質的に暗示ですけど、大アルカナとは方向性が大きく違いましたわ。
 清められた神宮で神の子として祀られ、長期間に渡って俗世から隔離されて暮らし続けるんですの。
 儀式を繰り返す合間にハードな勉強や修行をこなし、わたくしを神と崇る神官と巫女によって日々の寝食や入浴・排泄に至るまで世話されましたわ。
 そうする事であっと言う間に毎日が過ぎて行きましたの。
 他者から神扱いされ思考する自由を奪う事で、神に相応しい無我の境地を作り出す事が目的だったんでしょうね」
「つまり、大アルカナは自我を強くする暗示だけど、旭陽家のやり方だと自我を捨てる暗示って事か…。それにしても、時間をかけて行うのは質が悪いな…!」
「正直言うと他人にチヤホヤされる暮らしは悪くはありませんでしたわ。
 でも、他人にアイツはああいう奴だって勝手に決め付けられ、自由を奪われて押し付けられるのだけは我慢できませんでしたの。
 わたくしはお母様の代わりなんかじゃない、神なんて言う存在意義不明の偶像なんかじゃない。
 わたくしが何者であるかは自分自身で選びたい。
 他の誰でも無い…、永久不滅にわたくしであり続けたいって思ったんですの。
 そして、意を決したわたくしは行動に移しました。
 そう、ありったけのお金と家宝の天叢雲剣を盗み出し、腹いせに神宮に火を付けて逃亡したんですの」
「意を決し過ぎでしょ!」
「どうせ、もともと超法規的な儀式でしたし、多少の犯罪行為はもみ消されてしまうんで、全然問題はありませんことよ」
「いや、そう言う問題じゃないから!」
「そして、わたくしは生まれ育った神戸に戻って風見鶏の館を買い上げ、名を香夜姫と改めて新しい人生を歩み始めました。
 鍛え上げた格闘術と天叢雲剣を使って妖怪退治をしたり、マフィアや警察からの依頼を受ける武闘派探偵業を営み、自由気ままに楽しく暮らして居てましたわ」
「もう、その頃は今とそんなに変わらなかったんだね」
「ここまでは何処の世界でも共通する基本的な設定なんですの。
 ですが、1995年1月17日を境に世界は変わって行く事になります…、そう阪神淡路大震災の日ですわ。
 始めの世界で大震災から暫く経った後に事は起きました。
 たった一人の少年が風見鶏の館に乗り込んで凄腕の黒服達を全て倒し、不敵な笑みを浮かべて軟派な言葉でわたくしを挑発して来たんですの。
 史上最強を自負するわたくしをか弱い少女扱いするなど、万死に値する行為だと思いましたから、死ぬより酷い目に合わせてやろうと鍛え上げた格闘術で迎撃しました」
「でも、その頃の姫って今よりも遥かに過激だよな」
「何せ300年近く前の事ですから、若気の至りと言うものですわ。
 わたくしは赤子の手を捻るように倒され、井の中の蛙であった事を嫌という程に知らしめられましたの。
 プライドをズタボロにされたわたくしは、相手をズタボロにしてやろうと逆上して、天叢雲剣で少年の身体を細切れにしました。
 ですが、少年を殺せたと思って安心したわたくしは隙を突かれ、一気に間合いを詰められてしまいました。
 例え両手が切断された状態であっても、歯で頸動脈を噛み切れば人間を殺す事は可能ですから死を覚悟しましたわ。
 なのに少年はわたくしを殺そうとはしませんでした。
 代わりに歯の浮くような言葉を吐きながら、わたくしの唇に口づけしたんですの。
 その瞬間、不可視の力がわたくしをも包み込むように広がり、少年の身体は何事も無かったかのように完全再生しました」
「大アルカナの力か…。奏真先輩に似ているようだけど、その少年は何者なんだ…!?」
「彼の名はソーマこと双間創真。
 No.18月の大アルカナであり、神になる男だと自称していました。
 そして、わたくしはソーマ様に研究施設へと連れられ、自らをブラフマンと名乗る首謀者と対面しました。
 そう、それは別れたままになっていたお父様でした。
 お父様はお母様や逃亡したわたくしに代わり、完成された大アルカナの力を代用して神の代理を務めていたようでした。
 ですが、お父様の力が及ばず世界の崩壊が始まってしまい、その次元の歪みによって生じたのが阪神淡路大震災だと言っていました」
「何処まで本当の事であるかは解らないけど、その時を起点にして世界が変革を繰り返すようになったのは確かだな…」
「そして、世界の崩壊を食い止めより良い未来を目指す為、大アルカナを使い次世代の神を育成する計画が始まったのです。
 そして、その鍵を握るのが双間創真と呼ばれる少年。
 破壊と再生、自我と無我、意識と無意識、夢と現実、相反する要素を一つの身体に秘めて神となるべき産まれた存在。
 旭陽昇と旭陽神子の遺伝子を掛け合わせて造られた人造人間でした」
「じ、人造人間っ…!? そんなものが存在するなんて…!!」
「倫理上の問題を気にしなければ、現代の遺伝子工学で十分可能な事ですわ。
 彼は神の器として人工的に優れた能力を与えられていましたが、反面で人造人間特有の数々の欠陥を潜在的に抱えていました。
 いえ、あえて遺伝子を致命的に破壊する事で複製を防ごうとしたんでしょうね。
 あの身体ではそう遠く無い未来、重い病気を発症する事が目に見えてましたが、壊れた部分を交換し続ければ良いと思っていたのかも知れませんわね」
「姫も大概だけどブラフマンはもっと酷い…。命を弄ぶ事を屁とも思っていない…!」
「人は環境次第で幾らでも堕ちて行けるものなんですの。貴方も同じ轍を踏む可能性があると言う事を認識して下さいな」
「…ああ」
 先ほど殺人を覚悟したばかりなので図星を突かれた気分だった。
 姫は竜斗の気持ちが解った上で戒めの為に、自分自身やブラフマンの過去の間違いを包み隠さず話しているんだと思った。
「そして、わたくしは世界崩壊を招いた責任を問われ、完全な自由を得る条件としてソーマ様のパートナーとして計画を手伝う事になったんですの。
 お父様の手で産み出された大アルカナや小アルカナを全て倒す為、夜の神戸の街を舞台に戦いに明け暮れる日々を過ごしました」
「それって、奏真先輩が見ていたって言う夢とそっくりだ…」
 それは忘れもしない奏真と観覧車に乗った時だ。
 彼は何処か違う世界で謎の少女と共に戦う夢を繰り返し見続けていたらしい。
 だが、聖蘭と出会った事件の後に、空の大切さに気付いた事でもう見なくなったと言っていた事を思い出した。
「それは彼の魂に刻まれた前世の記憶でしょうね。
 青海奏真が共に暮らす空さんを大切に思うように、ソーマ様も空さんと共に暮らしていて彼女の事を何よりも大切に思っていました。
 彼女が戦いに巻き込まれる事無く、何も知らずに幸せに暮す事を望んでいました。
 だから、ソーマ様は自らの人格を二つに別けて戦闘時の記憶を封じて日常生活を送っていたんですの。
 妹もまた父の暗示を受けて、全ての元凶である姉の記憶を消去されていました。
 わたくしは望んでも居ないのに現実を突きつけられ、自分自身の人生を奪われ続けていると言うのに、妹は皆に愛され現実を見る事なく幸せに暮らしている。
 そう思うと実の妹に対して強い憎しみと嫉妬心を覚えざるを得ませんでしたわ」
 淡々と語る姫の言葉は痛かった。
「ですが、その均衡が崩れる時がやって来ます。
 空さんと日常的な人格である創真さんが戦いに巻き込まれてしまったのです。
 創真さんは日常生活に馴染めず孤独を感じていましたので、突然訪れた非日常的な戦いを喜び、その象徴とも言えるわたくしに心惹かれていました。
 空さんは危険な戦いに身を投げ出そうとする創真さんを止めましたが、わたくしは彼を誘惑して連れ去り心と身体を奪いました。
 空さんが創真さんの事を愛している事を知ってましたから」
「見せしめの為に人を愛するのはあまりにも哀し過ぎるよ…」
「ですが、それは本当の愛へと変わって行く事となりました。
 わたくしは一宿一飯一女の恩を盾に創真さんに仕事を手伝わせる事にしたのですが、その中で自分と向き合って成長して行く彼に心惹かれてしまったんですの。
 きっと、わたくしが忘れてしまった何かを、彼が持っていたからなんでしょうね。
 ですが、彼が選んだのは空さんの方でした。
 彼は学校や家庭と言う閉鎖された環境から離れる事で、孤独の中で自分自身を支えてくれた人の大切さを身を持って実感したようです。
 そして、絆を取り戻した空さんと交わる事によって、創真さんの中に目覚めたものがNo.19太陽の大アルカナ…絶対破壊能力でした」
「まさか、一人の人間が二つの対極する能力を持つなんて…」
「最終戦を前にわたくしはお父様に真実を問いただして知る事となりました。
 新たな神を創り出す事はあくまで手段に過ぎない。
 双間創真が全ての大アルカナを倒した後、対極する能力を持つ二つの人格を統合する事で世界の破壊と再生を引き起す。
 そして、お母様が生きている世界を創り出す事こそ真の目的であると。
 それこそが双間創真の人格を二つに別けて、二人の娘をそれぞれのパートナーに付けた理由だったんですの。
 そうなれば双間創真のパートナーとしてわたくしは用済みであり、再構築された世界で好きなように生きろと言われました」
「姫は傷付いているって言うのに…、そんな言い方って無いよね…」
「わたくしは他の誰の代わりでは無く自分らしく生きたいと思っていたのに、何処まで行っても他の誰かの代わりでしか無かった。
 だからこそ、誰の代わりでも無く無条件で愛される空さんが許せませんでした。
 そして、強い憎しみを抱いたまま最終戦を迎え、わたくしは他に方法があったのに関わらず、激しい戦いの最中で創真さんを庇って自ら命を落としました。
 そうする事でわたくしを傷つけ続けたお父様と空さんに復讐し、創真さんの心を永遠にわたくしの物にしようと思ったんですの。
 それが全ての元凶であるNo.13死神の大アルカナが誕生した瞬間でした」
「世界を構成する因果…。死と輪廻の象徴であり、力の根源か…」
(ある意味で諸悪の根源と呼べるような女ですわね)
 竜斗は安室の話を聴いている最中に、姫がNo.13死神の大アルカナを卑下するような発言をしていた事を思い出す。
 姫は淡々と語っているものの、かなりの後悔を抱いているのだろう。
 だからこそ、姫にその話をさせるのは辛かったが、ここで逃げ出してはいけないと竜斗は心を強く保つ。
「自殺とも呼べる行為により完全に死んだはずのわたくしですが、時空を揺るがすかのような大地震によって目を覚ます事となりました。
 大きな揺れによって壊れてはいたものの、そこは慣れ親しんだ風見鶏の館であり、わたくしは何時もと変わらず自分の部屋で寝ていたのです。
 何が起きたか解らない状態のままベランダから眼下を見下ろすと、神戸の街の至る所から火の手が上がっていました。
 その惨状は忘れもしない1995年1月17日に見たものと寸分の違いもありませんでした。
 そう、お父様が次元の歪みと称したその日を境に、誰にも気づかれる事なく改変された世界が始まっていたんです」
「まさか本当に神を造り出し、世界を創り変えてしまうとは…。
 でも、姫を傷つけるような悲しい世界は創り変えられて当然だよ、あんな結末は絶対に認められないから…」
「ですが、それが本当の試練の始まりとなってしまったのです。
 わたくしは以前の世界での記憶を完全に引き継いでいましたから、世界がどう変わったのかを調べました。
 特に気になったのは双間創真と呼ばれていた少年の事でした。
 わたくしは彼の行方を探す為、お金にものを言わせて日本中の学生に対して適性試験を実施しました」
「適正試験ってひたすら単純な計算を繰り返したり、似たような文字を関連づけたりする奴だよな。確かに僕もやったけどあんなので何が解るの…?」
「本来は潜在能力を計る為のものですが、結果の善し悪しに関係無く傾向を統計する事で深層心理…、もっと言うと魂の類似性を調べる事が出来るんですの。
 双間創真はお父様とお母様の遺伝子から産まれ、わたくしと近い魂を持っていましたから、データを比較すればどうと言う事は無い作業でしたわ。
 その結果、三人の子供がピックアップされました。
 まず始めに実の妹である旭陽空。
 二人目は神戸でお父様の子飼となっている孤独な少年…青海奏真。
 そして、東京のごく普通の家庭で優しい心を育む少年…走馬竜斗ですわ。
 そう、かつての世界で二つの人格を持った双間創真と言う名の少年は、この新しい世界において別々の心と身体を持った二人の少年へと転生していたんですの」
「まさか、僕と奏真先輩が元々一人で、しかも姫や空の兄妹とも言えるような人造人間だったなんて…」
 竜斗は姫が遠い親戚のようなものだと名乗っていた事を思い出した。
「念のために貴方達二人の遺伝子を調べてみましたが、互いの間と旭陽家には血の繋がりは無く、双方共に人造人間特有の欠陥も全く有りませんでした。
 その上で青海奏真は人造人間特有の超人的な能力を全て受け継いでいましたわ。
 人間を超越する力を有しながらも欠陥が無いとは、まさに究極と呼ぶに相応しい存在ですわね」
「じゃあ、僕は…?」
「竜斗さんは遺伝的に見れば一切の優位性が無い凡人でしたわ」
「まぁ、そんなもんだよな…」
「ですが、わたくしはそんな貴方が大好きですわ。
 青海奏真が人を超越した素晴らしい能力を受け継いだように、竜斗さんは大切な人を思いやる素晴らしい心を受け継いでいるんですから。
 そして、貴方はその優しさで、わたくしに代わって世界を維持すると言う責任を背負って下さいました。
 わたくしは貴方のその気持ちが嬉しくてたまりませんわ。
 もっとも、お父様は貴方の素晴らしい心をNo.20審判の大アルカナと呼び、大アルカナを産み出す力として計画に利用しているのが悲しい事ですが…」
「でも、姫が苦しむ原因となったものを肩代わりする事が出来て本当に嬉しいよ。
 まぁ、無意識に世界を変える力があるとか、世界を維持する役目だとか、突然言われても何をして良いか解らないけどね…」
「誰だって生きているだけで世界を支え、多少なりとも変え続けて行くものですけど、貴方の場合は他の人より多少範囲が広く影響力が強いだけですわ。
 だから、貴方は何時も通り前向きな気持ちで、健やかに暮らしていれば良いと思いますわよ。
 そうすればみんながみんな笑顔になって、幸せの輪が広がって行きますから」
「…それはある意味責任重大だね」
 竜斗は場合によってはありとあらゆる物を捨てる覚悟をしているだけに、寝耳に水のように聞こえた。
「こうして世界は再構築されましたが、お父様の念願であったお母様の復活は成し遂げられなかったようです。
 そして、新たな実験が開始される事となりましたの。
 神の器が二人に別れてしまった為、対極する二つの大アルカナの力を融合させる手段としてトーナメント形式が採用されました。
 そして、空さんが大アルカナを巡る戦いに巻き込まれ、わたくしが日常を送ると言う立場が逆転した構図になっている事も違いでした」
「それで姫はその間どうしてたの?」
「心を痛めるような戦いには関わらないに越した事はありませんから、東京で仕事を営んでアルバイトとして雇った貴方と共に幸せな時を過ごしました」
「みんなが幸せになれればそれで良いと思う…。だけどそんな都合が良い事なんて無いから、今も同じ事を繰り返そうとしているんだろうね…」
「ええ、結論から言うとわたくしは、最初の世界で命を落とした1999年7月31日を超えて生き続けられる事はありませんでした。
 お父様はサングラスで涙を隠しながら、世界の破壊と再生を繰り返しました。
 わたくしが生きていられる世界を維持し続ける為に。
 わたくしが生き続けられる世界を何時か創出す為に。
 ですが、わたくしは事故や突然の病気、他にもありとあらゆる原因によって死に続けました。
 そして、空さんはわたくしの代わりに宿業を背負わせれ、永遠に心を痛め続けるような戦いを繰り返していました。
 お父様は中途半端にしか記憶を保持できませんので、反省を活かして世界を変える事も出来ませんですし、後悔だけが積もり続けて相当苦しんだ事でしょうね」
 姫は繋いだ竜斗の手を強く握りしめた。
「姫…」
 俯いた姫の表情は伺い知る事が出来なかった。
「わたくしは貴方と共に破壊と再生の狭間で幸せな時を送り、その間にお父様や空さんは永遠に苦しみ続ける。
 それがわたくしの望みが叶った世界だと本気で思っていました。
 ですが、永遠に同じ事ばかり繰り返される世界の中で、記憶を保持し続ける事は苦しみへと変わって行ったのです。
 人は先が解らないからこそ希望を持てるのです。
 どんな時にも終わりがあるからこそ、今を耐え抜いて生きられるのです。
 絶望を超える絶望の果て…、わたくしは考えつく限りの残酷な方法で自分自身を殺し続けました。
 しかし、次の瞬間には何事も無かったように新しい世界で生き返ってしまうのです。
 生きる希望も無く死ぬ事も出来ないわたくしは、ただ怠惰に時間を貪るだけの存在と化してしまいました」
 その言葉は特別重く姫の味わった絶望は計り知る事の出来ないものであった。
「なんで、誰にも助けを求めなかったの…? 何処の世界の僕でも事情を知れば絶対に姫の力になったと思うのにっ…!」
 竜斗は姫が苦しんでいる時に頼られる事が無く、平然と暮らしていたであろう前世の自分自身が不甲斐なく思えた。
「誰にも言えなかったんですの。
 前世の因果を知り永遠と転生を繰り返すわたくしは、現世を生きる人々の運命を捩じ曲げ、自然の摂理に反する亡霊のような存在だからです。
 心の弱い人間ではわたくしを記憶に止める事は出来ませんですし、無理に覚え続ければ精神が蝕まれる事となります。
 心が強い人間でもわたくしの話を聴き前世の因果を知る事となれば、反作用を受けて原因不明の病に倒れてしまいますからね」
 奏真は過去に前世との繋がりを感じさせる謎の少女…、おそらくは姫を東京で見かけた事があったが、その時の記憶が曖昧になっていると話していた。
 また、血を別けた姉妹なのにも関わらず、空は姫と再開した際に記憶を思い出す事が出来ず涙を流していた。
 そして、その段階で姫は自分自身の事を亡霊と称して接触する事を避けていた。
 なにより、姫は無節操に淑女に質問するのは紳士として無粋と言い、竜斗に教える情報を段階的にコントロールしていた。
 その話を聴いた瞬間、色々と納得する事が出来た。
「だから、僕が反作用を克服出来るだけの陰陽の気を身につけるまで、姫は自分の話をしなかったんだね…」
「もしくは空さんや夕鶴さんのように因果を受け入れるか、聖蘭さんや安室さんのように因果律を覆す能力を持っても同じですわ。
 でも、当時はそんな人は居ませんでしたからね。
 次第に食事をする気力すら無くし餓死するのを待つ事にしました。
 ですが、身体の何処かに生きようとする本能のようなものが残ってたんでしょうね。
 意識を失っている間に屋敷中の食べ物を漁り続け、気がつくと洗面所で固形石鹸を貪っている自分自身を鏡で見つめていました。
 そして、自分が醜く歪んだ何かへと変わり果てていた事を初めて知りました。
 長い髪の毛は無惨にも抜け落ち、顔はからからに乾涸びて皺だらけで、深く落ち窪んだ眼窩から飛び出した目は昏く、一切の生気を感じさせませんでした。
 一糸まとわぬ身体は一体何処に筋肉や内臓等の重要な器官があるのかと思うほど痩せ細り、ぶん殴れば軽々とすっ飛びバラバラに砕けてしまいそうでした。
 干し柿のような垂れた乳と、大きな骨盤、外性器の形状等から性別が女性である事は確かでしたが、まさかそれが自分とは思えませんでしたわ。
 以前倒した妖怪・餓鬼にそっくりで、その雌としか言いようがない姿でしたから」
 下ネタを織り交ぜつつ戯けて言うが、それがかなり辛い事であった事は確かだ。
「笑えないって…!」
 そう言い竜斗は苦笑する。
「わたくしは誰よりも美を愛していましたから、そんな姿になってしまった自分が許せず、歩く事すらままならない身体で屋敷中の鏡を割って回りました。
 そして、再び空腹で昏倒し意識と無意識の狭間で自己嫌悪を繰り返し、わたくしは気付く事となりました。
 あれ程、自分自身で有り続けたいと思ったのにも関わらず、何時の間にかに環境に負けて自分自身を失っていたと言う事に。
 そう、わたくしは幾ら戦闘能力の強さを身につけ驕り高ぶろうとも、本当の強さを身につけてはいない弱い人間だったんです。
 だったら単純な事ですわ。
 弱くて負けてしまっていたならば、強くなって勝てば良いだけですから。
 それからわたくしが本当の強さを身につけ、環境に打ち勝つ為の戦いが始まりました」
「結局、そこに来て実力行使か…!? でも、なんか凄く姫らしくて良いな…!!」
 竜斗はなんだかたまらなく嬉しくなって目に涙を滲ませた。
「死ぬ事が出来ないからこそ追いつめられてしまったのは事実です。
 でも、決して死ななかったからこそ、泥を啜ってでも生き続けようとする本能が目覚め、前向きな気持ちを取り戻す事が出来たんですわ。
 だから、わたくしは日々の生活を改めて、生きる事を大切にするようにしたんですの。
 目的意識をもって朝を起きる。
 しっかりと食事を取る。
 出すものを出す。
 やるべき事に一生懸命取り組む。
 疲れて壊れそうになったら休んで英気を養う。
 その繰り返しの中に楽しみを見いだし、苦しみの中には意味を見いだし、わたくしは長い時間を掛けて様々な事を学びながら本当の強さを養って行きました」
「美化する事も出来ない辛い思い出もあったと思うけど、そうやって姫が学んだ事を教えてくれたからこそ今の僕があるんだね…! なんだか凄く嬉しいよ…!」
「そう、貴方はどの世界でもわたくしの言葉を真剣に聞き、ただそれを鵜呑みにするだけではなく、しっかりと噛み締めて自分の力として活かしてくれました。
 その結果、始めは優しいだけで頼りなかった貴方も、次第に逞しく成長するようになって行ったんですの。
 わたくしは気付きました。
 自分自身の愚かさと言う因果を受け入れて学び、それを活かして貴方を本当の強さへと導き、今の世界を生きる人々を助ける事がわたくしの使命であると。
 そして、そうする事で世界の再構築などに頼る事なく、本当の意味で世界を良い方向に変えて行く事が出来ると」
 姫は竜斗に優しくも強い視線を送る。
「それは同時に僕の使命でもあるんだね…!」
 竜斗はそれに対して力強く返した。
 竜斗は正直自分がそんな大層な存在では無いと解っていた。
 でも、姫は竜斗が能力的には凡人である事を認めつつも、そんな表面的なものでは計れない何かを持ち、世界を救う存在であると本気で信じていた。
 それなのに無理に自分自身の価値観を押し付ける事なく、竜斗が自分自身の意思で成長するのを見守り続けた。
 だから、竜斗は彼女の気持ちを大切にしたかったのだ。
「そして、それは世界の輪廻と再生を望む創造神たるお父様と決別し、破壊神となるべく運命を背負わされた少年…青海奏真と対決する事を意味しました。
 大アルカナ、小アルカナ、古武術の知識を持つわたくしであれば、長い時間をかけて貴方を鍛え上げて青海奏真をも凌駕する戦闘力を持たせる事は十分に可能でしたわ。
 でも、それでは貴方らしさが失われてしまいますの。
 貴方の良い所は人の為に一生懸命になる事が出来る優しさですわ。
 だから、わたくしは貴方にしか出来ない戦い方をして欲しかったんですの。
 それは、わたくしと竜斗さんが平和な暮らしを営む事の犠牲となり、報われない戦いを繰り返す空さんと奏真さんを救う事。
 そして、わたくしを愛するが故に苦しみ続けるお父様を止め、彼らを宿業から解放する事が貴方にとって本当の勝利だと思ったんですの」
「そうだね、それが僕らしいよ…!」
 竜斗は自分の個性を尊重して良い所を伸ばしてくれる姫の気持ちが嬉しかった。
「わたくしはその時の為に下準備をする事にしました。
 それはお父様が青海奏真の能力を目覚めさせ、空さんに死の呪縛を植え付ける為のシナリオに介入し、彼らの絆を従来より一歩進んだ状態にする事ですわ。
 そうする事が何時か貴方が彼らを救う為の足がかりになると思ったんですの。
 何よりもわたくしは空さんへの嫉妬心や、あの人の力と孤独を引き継いだ青海奏真への未練を捨て、自分自身の罪と向き合いたかったのかも知れませんわね」
 どれだけ時間が経とうとも、どれだけ成長して大人になろうとも、人は簡単に過去を吹っ切れるもので無い。
 きっと、姫も葛藤を繰り返した末に勇気を振り絞った事であろう。
「頑張ったね…、姫」
 竜斗は姫の気持ちを想像し、その小さな手を優しく握る。
「でも、安室さんがわたくしの事情を聴いて協力者になってくれた事。
 そして、青海奏真すら超える力を持つ聖蘭さんが、わたくしを監視する立場となった事はまるっきり予想外でしたが。
 イレギュラー要素を警戒するお父様の修正案である事は確かなんですけど、何かそれ以外の意味もあるような気がするんですの」
「なんだろう…? なんか嫌な予感と、良い予感が入り交じったような…。ようするに良く解らない感じだ…」
 竜斗は気を学び理を読み取る力を身につけていたが、この件には複雑な因果がからんでいるらしく、混沌とした印象を受けるだけだった。
「そして、トーナメント前日になって貴方を呼び出しました。
 本当はもっと早く呼び出して入念に鍛え上げたかった所ですが、聖蘭さんに監視された状況下でそれをすれば、確実に対策されて打つ手が無くなる恐れがありましたから。
 貴方は素晴らしい心をお持ちでしたが、当然それだけで勝ち進められるほど現実は甘くはありませんでしたわ」
「宝塚さんに負けたんでしょ…?」
 あれは竜斗の実力を考えると初見では絶対に勝つ事が出来ない戦いであった。
 今になって思い返してみれば、記憶を引き継いだ姫が根回しして、外堀を埋め尽くしてくれたからこそ勝てたようなものだった。
「具体的に何が起きたかは想像におまかせしますわ。
 因果とは本来自分自身の力で学びながら向き合うものなんですの。
 幾ら貴方とは言え前世の因果を知り過ぎれば、大きく運命が狂い克服する事の出来ない反動を受ける事となりますから。
 ただ、最初に挑戦した際は見事に途中敗退して、世界が再構築されるのを防ぐ事は出来なかった事は事実ですわ。
 ですが、その時わたくしも予想だにしなかった事が起きました。
 世界の輪廻がトーナメント前日である1999年7月12日から、最終日である1999年7月31日までの間を繰り返すようになっていたんですの。
 完全に記憶を保持する事が出来ないお父様はその事に気付いていないようでした。
 おそらく世界が輪廻する事となった因果を少しずつ解決して行った事により、世界が呪縛から解き放たれようとしているのでしょうね」
「…」
 竜斗は何も言えなかった。
 それは同時にある事を意味していたからだ。
「そして、何度も失敗を繰り返しながら少しずつ歩み続け、あと一歩と言う所でわたくし達は失敗してしまいました。
 この輪廻する世界を構成する最大にして最後の因果に打ち勝つ事が出来なかったんですの」
「…」
 竜斗は押し黙る。
「そして、再びトーナメント前日に戻った世界に貴方は現れず、貴方が不在のトーナメントが何度も何度も繰り返される事となりました。
 きっと、わたくし達には時間が必要だったんでしょうね。
 貴方の魂が因果と向き合う覚悟を決める為の時間が、わたくしには貴方が因果に打ち勝つ方法を模索する時間が。
 ですが、貴方と会えない時間を過ごす中、わたくしの老化は一気に進んで行きました。
 空さんと奏真さんに対して罪滅ぼしをした後から身体の変化はあったのですが、とうとう精神にも限界が訪れてしまったみたいでしたの」
 竜斗は昨日姫が話していた事を思い出す。
 姫は竜斗の居ない場所で植物のような状態と、猛獣のような状態を繰り返すようになったと言っていた。
 それは人として当たり前の事であった。
 生きると言うことは良くも悪くも変わり続ける事であり、経験を重ねる事で人は成熟されて行くが、一方で新鮮な気持ちを失い老いへと近づいて行く。
 姫であってもそれは例外では無いだろう。
 むしろ、同じ時を繰り返し続ける世界に300年も閉じ込められ、今まで自分自身を保ち続けて来た事の方が驚愕であった。
「あと一歩と言う所まで来て貴方を残してボケるなんてマヌケにも程がありますが、だからと言って我が身の不憫さを嘆き、偶像に祈りを捧げても何の解決にもなりません。
 そんな時こそ実力行使ですわ。
 そう、自分自身の限界と戦えば良いんですの。
 わたくしは古今東西の健康法を研究して臍下丹田式呼吸法…、すなわち陰陽の気へと辿り着きました。
 それは天啓のようなものだったのかも知れませんわね。
 わたくしの中で陰陽の気と幼い頃に習った古武術、繰り返される世界の中で学んだ生活法や心の在り方、日本古来の伝統など様々な知識が一つに融合して行きました。
 そうやって産まれたものが貴方が本当の強さを貫き、この世界を良い方向へと変えて行く為の力…新武芸ですわ」
 姫は強かった。
 どんな時でも自分自身を貫いていた。
 しっかりと現実と見据えて前向きに立ち向かっていた。
 以前、姫は運命に殉じる人の背中を押す追い風の話をしていたが、姫こそまさにそれを体現しているかのようだった。
 竜斗自身その風に乗らなければならないと言う事は解ってはいたが、残酷な答えを出すのが辛くそれ以上考える事は出来なかった。
「そして、貴方が現れない世界が続くこと182回。
 最後にトーナメントに挑戦した時から約十年の歳月が流れ、奇しくも新武芸が完成すると同時に貴方は再びわたくしの前に現れ、素晴らしい心を見せて下さいました。
 正直見守る事しか出来ないのが辛い時もありましたが、貴方は自分自身の優しさを貫く為に数々の試練を乗り越えて行きました。
 そして、貴方はわたくしと対等な強さと力を持った大人の男へと成長し、互いの心と身体を重ねて思い出を作る事も出来ました。
 長い旅の果てに貴方と再び廻り会い、肩を並べて同じ時を過ごす事が出来た。
 こんなにも幸せで嬉しい事などありませんわ」
 異人街を巡る小さな旅路は回帰し、風見鶏の館前の北野町広場に戻って来ていた。
 空はますます暗く重くなり、今にも雨が降り出しそうな雰囲気だった。
「わたくしのお話はこれでおしまいになりますが、そこから何を学びどんな答えを出すかは貴方自身が決める事ですわ。
 貴方から考える権利を奪ってしまったら、貴方は自分自身を…、本当の強さを失ってしまいますから。
 例え貴方がこれから先にどんな道を選ぼうとも、わたくしは残された命の限り共に歩み続けますわ。
 わたくしは貴方と一緒に居られればそれだけで幸せですから」
 姫は竜斗の両手を握り向かい合う。
「…」
 竜斗が沈黙してからどれ程の時間が経った事だろうか。
 ポツリ、ポツリと大粒の雨が二人の肩を優しく叩くと、竜斗は魂に蓄積された積もりに積もった感情を吐き出す。
「僕は姫が好きだ、好きで好きでたまらない…。
 姫の気持ちを無視する事になっても…、他の誰かを犠牲にする事になっても…、ずっと一緒にいたい…。
 ずっと生きていて欲しい…、僕を一人にしないで欲しい…、僕の気持ちを無視しないで欲しい…。
 でも、結局、姫の気持ちは無視出来ないし、姫が悲しむから他の人だって犠牲にする事は出来ないんだ…。
 姫が本当に大好きだから…」
 竜斗は姫を抱きながらすすり泣く。
「よく…、辛い現実と立ち向う勇気を持って下さいましたね…」
 姫は震える竜斗を宥めるように、雨に濡れた少し伸びた髪を撫でる。
「死とは簡単には受け入れ難いものですわ…。
 ですが、それは決して避けられない誰もが通る道であり、人生とは死と向き合いながら歩き続けるものだと何時か知る事となりますわ…。
 そして、自身を取り巻く世界は止めどなく変わって行き、やがては取り残されてしまう時がやって来ます…。
 わたくしは愛する人に祝福されるような死を迎える事こそ、人生をまっとうする事だと思うんですの…。
 もし、自分から命を投げ出したり人を傷つけるような人生を送れば、生者の念や未練に縛られて決して魂が報われる事はありませんから…」
 姫の声は掠れていた。
「姫…」
「人は人生をまっとうする事で、魂を次の世代に引き継ぐ事が出来るんですの。
 本当の意味で自分自身を失ってしまったわたくしですが、貴方に祝福して頂ければ本当の意味で生まれ変わる事が出来ます」
 姫は自分自身の涙を拭うと、力強く竜斗を抱き締める。
「だから、決して哀しみや孤独に負けて、自分自身を失ってはなりませんわよ。
 貴方が本当の強さを貫きながら生きるならば、わたくしは貴方の中で力として活きる事が出来ますから。
 そんな本当の強さと力を持った貴方であれば、自分に出来る事をしっかりと考え、どんな困難だって乗り越えられますわ。
 例え失敗して傷付いたとしても、前に進む気持ちを失わないで、そこから何かを学びながら最後まで歩き続けて下さいな。
 そして、どんな形でも良いので貴方が生きた証をこの世に遺し、誰かに祝福されながら旅立つ事が出来れば、長い輪廻の旅の中で再び廻り会えるかも知れませんわ。
 もし、もう一度生まれ変われたなら全力で貴方を探しますから、これから先は泣かないで笑っていきましょう」
 そう言い、竜斗の涙を拭い微笑む姫。
「生まれ変われる保証なんて無いのに、本当にずるいよな姫って…」
 竜斗は自分の頬に触れる姫の手を撫でながら苦笑する。
 不思議と姫を憎む事は出来なかった。
「わたくしは貴方の気持ちを利用するずるい女だと自分でも思いますけど、それが貴方が好きになったわたくしなんですから許してやって下さいな」
 そして、竜斗は止めどなく涙を流しながらも笑う。
「ふふっ、空にも同じような事言って怒られてたよな…。でも、約束だよ…。僕は最後まで本当の強さを貫き通すから…。だから、絶対にまた会おうね…」
 竜斗は姫に向かって小指を突き出す。
「ええ、指切りげんまんですわ。出来なかったら鼻でパスタでも何でも食べて差し上げますから」
 二人は小指を重ねては指を切った。
 こうして、重く冷たい雨が降りしきる中で最後の朝を迎える。
 しかし、その雨は涙に濡れた頬を洗い流し、まるで竜斗の心を浄化しているかのようだった。
 ザーザーと屋根を打つ雨音が風見鶏の館に響く。
 何時もならば東向きの窓から射し込む温かい朝の光に包まれる朝食の間も、この日ばかりは薄暗い印象だった。
 食卓に座って食前のコーヒーを飲んでいるのは屋敷の主である香夜姫こと旭陽月夜、恋人である走馬竜斗、彼女の妹である旭陽空の三人だ。
 姫は黒いゴスロリ衣装、竜斗は以前の学校の学生服と言った普段通りの格好だが、空は珍しく白いゴスロリ衣装を着用していた。
 竜斗は空をまじまじと見つめながら言う。
「どうしたの、その格好?」
「えへっ、お姉ちゃんが昔着てた服を貸してもらったの! 可愛いでしょ!?」
 黒い衣装の姫と並んでいると、愛らしい人形の姉妹のようだった。
「ああ、まるで姫のツーピーカラーみたいで凄く似合っているよ。色違いの双子みたいにそっくりって事さ」
 竜斗は精悍な顔つきで微笑んだ。
 言っている事は相変わらずだが、今までの子供っぽさが信じられない程に逞しく凛々しい印象であった。
 空は竜斗の中に大人の異性を感じて顔を赤らめる。
「えへへっ、ありがとっ! なんか、竜斗って少し前は弟のように頼りない感じだったのに、急にお父さんみたいに頼もしい感じになったよね!!」
「ちぇっ、僕もお兄ちゃんって呼ばれたかったのに、それを通り越してお父さん扱いかよっ…! まぁ、空のお陰で少しは大人になる事が出来たのかも知れないね」
「ええっ、わたし竜斗を大人にするような事してないよぉ! まさかわたしが寝てる間にエッチな事してないよねっ!?」
「ち、違うって…! 空の言葉に助けられたってだけなのに、なんでそーなるのっ!?」
 竜斗は思わず吹き出す。
「だって、エッチすると成長するって言ったの竜斗だよ…!」
「確かに言った…! 言ったけどさ、何でもかんでもソッチ方面に考えるのはどうかと思うよ…!!」
「ふふふっ、可愛いお顔をして四六時中スケベな事ばかり考えているとは、流石は美しき野獣たるわたくしの妹ですわね」
「もう、お姉ちゃんまでそんな事言わないでよぉ!!」
 空は顔を真っ赤にしながら手をブンブン振り回す。
「ふふふっ、恋人がありながら他の男性に淫らな妄想をするとは、最早わたくしを凌駕するスケベと言っても過言では有りませんわよ」
「良かったな空、姫を超えられたってさ!」
「そ、そんなの嬉しく無いもんっ!!」
 そこにカートに朝食を入れた執事姿の安室が現れる。
「お待たせしました」
「ご苦労さまですわ。突然の事で有り合わせの食材も無いような状態で大変だったんじゃありませんこと…?」
「ええ、この屋敷に出入りしている業者さんに頼んで食材を配達してもらったんですよ。
 ただ、何時もの淡路島産の卵だけは手配する事が出来なかったので、仕方無く他のもので代用してますけど…」
 料理を配り終わると安室は会釈して下がる。
「あら、よくこの屋敷で使っている業者さんや食材の事を知ってましたわね。しかも、盛りつけの仕方や味付けも聖蘭さんと殆ど変わらないようですわ」
 姫はフォークとナイフを使い料理を口に運び舌鼓を打つ。
「うん、暫く聖蘭さんが居なかったから、この味は久々って感じだね!」
 竜斗もその味に感動する。
「でもこれって、何時も安室さんが私のお家で作ってくれるお料理と同じだよ!」
 空が興奮したように言う。
「それは同じで当然ですよ。
 ボクと聖蘭は使用人としての訓練を一緒に受けているので料理の基本を同じくするってのはあります。
 でも、それだけじゃなくて旦那様によって使用する業者さんや食材、レシピまで指定されているんですよ。
 きっと、旦那様はお料理の事を相当勉強なさっているんでしょうね」
「そっか…、離れてても一緒のご飯を食べてたんだね…! なんか、家族として繋がっていられた気がして嬉しい…!!」
「お父様ったら、 わたくしと同じで料理なんて全く出来なかったと言うのに…」
「二人のお父さんは言ってたよ、二人の娘が幸せに暮らして欲しかったって。
 きっと、全ての原因となった実験を開始したのも、姫を重荷から解放して幸せになって欲しかったからだと思うんだ。
 でも、不器用だからやる事なす事が悪い方向へ転がり、最後のチャンスで優しい言葉をかける事が出来ずに最悪な結末を迎えてしまった。
 その事を後悔しているからこそ、姫を戦いから遠ざけて守る為に聖蘭さんを送り込んで、彼女を通して家族の暖かみを伝えたかったんじゃないかな」
 竜斗は姫を優しく見つめながら言う。
「だったら、始めからそう言って下されば良いのに…。まったく、男性ってどなたもこなたもお馬鹿さんですわね…」
 姫は突然の事にどうして良いか解らず困惑している様子だった。
「なんか、男性を代表してすみませんって感じですっ…!」
 安室は意味も無く身を震わせて頭を下げた。
「お姉ちゃんだって本当は嬉しいんでしょ…!?」
「嬉しいに決まっているじゃありませんか…!」
 そう言う姫の瞳は涙で潤んでいた。
「そうだよね…!!」
 そんな姫に空が抱きつく。
「あらあら、お食事の時にはしたないですわよ…」
「だって、仕方ないもんっ…!」
「良かったね、二人とも…」
 そんな二人の様子を見て竜斗は涙を流した。
 しかし、そんな優しさに包まれた時の中で竜斗は突然胸が苦しく、背筋が凍るような何かを感じる。
「ふふふっ…、こんな最後になって家族の暖かみを取り戻せるなんて…、幸せ…、です…、わ…」
 次の瞬間、姫は空にもたれかかる。
「お姉ちゃん…!!」
 空はバランスを崩しそうになりながら姫の身体を受け止める。
「姫っ…!?」
 竜斗は慌てて駆け寄り、空を助けて姫の身体を支える。
「大丈夫ですか、お嬢様…!?」
「ええ…、寝不足で少し…、眠いだけです…、から…」
 そうは言っても姫の顔は何時にも増して真っ白で生気を感じさせなかった。
「安室さん…。悪いですけど…、寝室まで…、運んで下さいな…」
「はい、解りました…」
 安室は姫を抱え上げて彼女の部屋へと運ぶ。
 そして、姫をベッドに下ろして布団を掛けると、後から付いて来た竜斗と空が心配そうに彼女の顔を覗き込む。
「ごめんね…、わたしがお姉ちゃんの事考えないで、朝まで付き合わせちゃったから…」
「ふふふっ…、わたくしも久々に姉妹水入らずの時を過ごせて…、本当に楽しかったので…、気にしないで…、下さいな…。
 まぁ…、夜更かしは美容の大敵ですし…、老体にも響くので…、極力避けたい所…、ですけどね…」
 そう言って笑う姫。
「お姉ちゃんの馬鹿っ…」
 空は涙を流しながら微笑み返す。
「竜斗さんも少し寝るだけですから…、そんなに心配しなくても…、結構ですわよ…。決戦の時間までには絶対に…、起きますから…」
「そんな事を心配してるんじゃないんだけど…」
「それより…、わたくしが寝ているからと言って…、朝の練習をサボっちゃ駄目ですわ…よ…」
 竜斗はそれ以上何も言う事が出来なかった。
「安室さん、わたくしの代わりに…、竜斗さんの力になってあげて…、下さいな…。頼みますわよ…」
「はい、全力で勤めさせて頂きます…!」
 安室は感動して自分の拳を強く握りしめる。
「では…、おやすみ…、なさい…、です…わ」
 そう言うと姫は事切れるように意識を失い、穏やかな表情を浮かべながら眠りについた。
 大好きな人形達に囲まれながら、微動だにせずに眠る姫はまるで等身大人形のようで、竜斗達は言い知れぬ不安に駆られた。
 竜斗が姫の口元に耳を傾けると僅かに呼吸の音が聞こえて、ほっと胸を撫で下ろす。
「良かった…、生きてる…」
「竜斗の馬鹿…、そんなの当たり前だよぉ…」
 そう言う空も安堵の表情を浮かべていた。
 しかし、小柄な身体に不釣り合いなぐらい強靭な横隔膜を持つ姫からすると、信じられない程に呼吸が弱々しく感じた。
 竜斗はそっと彼女の手を握るが、殆ど体温を感じられず冷たかった。
「一体、どうしちゃったんだよ、姫…」
「解んない、でも気持ち良さそうな顔してるね…」
 空は微笑みながら姫の頬を撫でる。
「ひょっとしたら、旦那様の仰っていたお嬢様の運命に関係あるのかも知れませんね…。もっとも、それが本当の事なのか定かではありませんけど…」
「本当の事だって姫は言ってたよ…」
「うん…、わたしも聴いたよ…。 どんなに世界を改変したって運命は変える事は出来ないって…」
 空は竜斗と同じように、昨晩姫の話を聞いていたのだろう。
「僕は…、僕はこれ以上姫を苦しめたく無い…。
 だから、この計画を阻止して別れを受け入れようって覚悟したけど…、やっぱり胸が苦しいもんだね…。
 姫ともう泣かないって…、これからは笑って行こうって約束したのに…」
 そうは言ったものの竜斗は涙が零れるのを止める事が出来なかった。
「人生で避けて通れない事って沢山あると思うの…。
 例えば朝起きること、食べること、出すこと、夜寝ること、それから好きな人と一緒にいること、毎日当たり前のようにやっている事を自分から楽しむと幸せだよね…。
 それと同じように本当に辛い事こそ、前向きに向き合って楽しみを探すと良いと思うんだ」
「でも、大切な人の死だよ…、そんなに簡単には行かないよ…」
「どんな時にも終わりが来るのは仕方ないけど本当に辛い事だよね。
 だけど、その時に後悔しないように今を大切にしながらめいいっぱい生きて、やり切ったって自分の人生に満足しながら終われたら幸せだなぁって。
 お姉ちゃんの寝顔を見てると、そう言う人生を送って来れたんだって思ったの」
 空は竜斗に向き合ってニッコリ微笑む。
 その輝くような心の強さに竜斗は姫の面影を重ねる。
「空…」
「空ちゃん…」
 かつて、血を別けた姉妹のすれ違いは姫を死に追い込み、世界改変にまで至った因果の一つとなった。
 だが、改変された世界で空は姫の代わりになり、前向きに運命に向き合い続けたからこそ、誰よりも姉の事を理解する事が出来るようになったのかも知れない。
 そう思うと竜斗は感動を禁じ得なかった。
 安室は中学生の時から見守り続けた空が成長した事を喜び、目頭を抑えながら鼻水を啜る。
「だけど、まだお姉ちゃんに残された時間が終わったわけじゃないよね。
 長くは無いかも知れないけど、まだまだ残っている。
 だから、最後の最後までその幸せを守ってあげたいし、心残りが無いようにもっともっと幸せにしてあげたいって思うんだ。
 大切な人を楽しませて幸せにすれば、自分も楽しくて幸せになれるから。
 でも、最後の最後で本当にお姉ちゃんを幸せに出来るのは、お姉ちゃんが誰よりも大切に思っている竜斗だけだよ。
 だから、竜斗にはお姉ちゃんに残された時間を一緒に楽しんで欲しいの…! ううん、楽しんで行こうよ…!!」
 さっきは冗談で空のスケベが姫を超えたと言っていたが、本当に空は姫を超えた自分だけの強さを身につける事が出来たのかも知れない。
「ああ、そうだね…!」
 竜斗は涙を拭き取って目を輝かせながら拳を強く握る。
「でも、その前に聖蘭を倒して計画を止めるのを忘れないで下さいよ…!」
「もう、安室さんったら、心配なのは解るけど今言わなくても良いじゃない…!!」
 空は腰に手を当ててプンプンと怒る。
「それなんだけどさ、空のお父さんや聖蘭さんと掛け合って、戦いの時間を早めてもらえないかな…?」
「それぐらい出来ると思いますけど、どうしてです…?」
「姫はね…、何時も僕が戦いで傷つくのを見て本当に辛い思いをしていたんだ…。
 だから、姫が幸せな気分で寝ている間に戦いを片付けられたら良いなって…、そう思ったんだ…。
 それに、姫の力を借りずに聖蘭さんを倒して、これから先も僕が強く生きられるって事を証明すれば安心して旅立てるよね…」
 竜斗は姫の寝顔を見て優しく微笑みながら言う。
「竜斗…」
 空は昨日の戦いで竜斗を庇って聖蘭との一騎打ちに挑んだ姫の姿を思い出し、その大きな瞳を潤わせる。
「ですが、聖蘭はそう簡単に倒せる程甘い奴じゃありませんよ…。
 アイツは…、アイツは大切な人の為ならば心を捨て、自ら鬼になる事を厭わない本当に恐ろしい奴です…。
 ボクはアイツが本当に怖いし、本当に哀れで仕方ありません…」
 安室は昨日始めて知った聖蘭の本質を思い出し身震いする。
「それに竜斗一人で頑張っても、わたしみたいに失敗するだけだよ…」
「そう、僕一人の力じゃダメだから、みんなの力を借りたいんだ…! 僕を…、僕達を助けてくれないか…!?」
「うん、一緒にがんばろっ…!」
「ボクも全力で力になりますよ…!!」
「じゃ、安室さんには早速手伝ってもらう事にしよう…!」
 竜斗は姫を思わせるような邪悪な笑みを浮かべ、安室は嫌な予感がして背筋をゾクゾクと震わせた。

「竜斗くんの力はその程度ですかっ…!?」
「くっ…!!」
 安室は完成された大アルカナの力を発動し、空中に冷気を伴った槍を無数に出現させ竜斗へと襲いかかる。
 竜斗は陰陽の気を練り込んで精神力と身体能力を強化し、かすり傷を追いながらも間一髪かわし続ける。
「こんな本当の戦いみたいな特訓なんて危ないよぉ!!」
 竜斗は雨の降りしきる県立高校のグラウンドで、聖蘭と同等の力を持った安室を相手に実戦さながらの特訓を行っていた。
 わざわざ車で学校まで移動したのは、狭い風見鶏の館の室内では空中に武器を具現化する大アルカナの実力を十分に発揮出来ないからだ。
「何も対策しないで聖蘭さんに勝てるわけなんて無い…!! 例え無茶でも、ほんの少しっ…!! どんな事でも良いからヒントを掴みたいんだっ…!!」
「でもぉ…!!」
 しかし、傘をさし二人を見守る空が心配するのは無理は無い。
 安室の攻撃によって空爆後のように穴だらけになっており、夏だと言うのにグラウンドの水たまりは凍り付き、安室の周囲は雨が雪へと変わっていた。
 その異常な光景は完成された大アルカナの能力の強さを物語っていた。
 そんな攻撃を受けたら自我領域を持たざる竜斗なんて粉々になってしまうだろう。
「その通りっ…!! 能力は同等ですが聖蘭はボクに無い変幻自在な戦闘センスを持っていますっ…!!
 つまり、ボクに対抗出来ない限り絶対に勝ち目はありませんからっ…!!」
 再び無数の槍を出現させて竜斗に攻撃を仕掛ける安室。
 幾ら攻撃を読む事が出来ても避けるのが精一杯で、胡蝶刀が有効な間合いまで詰める事は出来なかった。
「くそっ…!! 間合いに関係無く空間から攻撃されると、手も足も出ないじゃないかっ…!!」
「竜斗っ…!! お姉ちゃんは聖蘭さんを相手にしてちゃんと戦っていたよっ…!! だから、竜斗にも出来るはずだよっ…!!」
 竜斗の脳裏に昨日の姫と聖蘭の戦いが蘇る。
 あの時、姫は無数の武器や格闘術を使い分け、聖蘭の様々な攻撃に対抗して間合いを完全にコントロールしていた。
「そうか、状況に応じて武器を使い分ければ良いんだ…!!」
 竜斗は姫によって武器の基本を徹底的に仕込まれているので、どんな武器を使ったとしても、ある程度使いこなす事が出来るようになっていた。
「確かに有効な手段だと思いますけど、戦闘中にそれを一人で出来るんですか…!?」
 喋りながらも安室は竜斗に対して攻撃を休めない。
「でも、今までは出来てたよ…!!」
「あれは竜斗くんと以心伝心の関係であり、様々な武器に精通して、それを常時装備しているお嬢様のサポートあってこその事です…! 考えが甘過ぎますよっ…!!」
「ぐっ…」
 竜斗は今まで無意識に姫の力を頼り、それを当たり前だと思っていた所があったと思い知らされる。
「安室さん、どうしちゃったの…!? さっきから竜斗に厳し過ぎるよぉ…!!」
「ボクは竜斗くんの力になるってお嬢様との約束を果たさないといけませんから、自分が嫌われたくないからって甘い事ばかり言ってられませんよっ…!!」
 安室は人を傷つける事で自分も傷つく事を恐れる臆病な青年であり、人の為に心を鬼にする事がどれだけ勇気のいる事であったか。
「安室さん、なんかカッコ良くなったね…!!」
「僕は姫に頼らないで生きて行かないといけないから、厳しくしてくれると嬉しいよっ…!!」
 しかし、こうしてても何時まで経っても進展せず、体力を削られ間違いなくいつかはやられてしまう。
「まぁ、ぶっちゃけ、少し腹立つけどね…!!」
「す、すみませんっ…!! って、何してるんですかぁっ!!!」
「見て解るでしょっ!! 特攻だよっ!!」
 竜斗は大ダメージ覚悟で無数の槍に向かって突進し、気を込めた十文字斬りで文字通り切り抜けようとする。
「きゃーーっ!! 竜斗が死んじゃうよぉ!!!」
 空の言う通り下手すると死ぬかも知れないが、それ以外に方法は無いと思えた。
 しかし、何故か恐怖を感じる事は無く、ただ出来ると言う根拠の無い自信に満ち満ちていた。
「行けるっ!!」
 十文字の気の光が炸裂する。
 竜斗の剣撃は安室の槍を弾く事に成功するが、接触した部分から鋭い痛みを伴う冷気が伝わって来て、みるみるその身体を凍らせて行く。
「ぐはーーーーーっ!!」
 竜斗の身体は一瞬にして氷の彫像となってしまった。
 その状態で氷が砕ければ、内部にいる竜斗の身体も粉々となってしまうだろう。
「あ、あかんですっ!!」
「きゃーーーーーっ、竜斗ーっ!!!」
 しかしっ!!
「うぉぉぉぉぉーーーーーーっ!!! 痛ってぇーーーーーーっ!!!!」
 そう言いながら竜斗は内部から氷を砕き、唖然とする安室に向かって突進する。
「な、なんで自我領域も使わずに攻撃を食らって生きているんですかっ…!?
 ボクの能力はありとあらゆる原子を瞬間的に絶対零度まで冷却し、全てのエネルギーを完全停止させる事が出来るんですっ…!!
 とてもじゃないけど、痛いで済まされる次元じゃないんですよっ…!!」
 しかし、肉体的なダメージはともかくとして、命そのものが削られているような感覚があった。
「ふっ、それが気の力って奴さっ…!!!」
 疲労感で顔を青くしながらも、安室の至近距離まで間合いを詰める。
「幾ら気の力とは言え普通はここまで攻撃を防ぎきれるわけじゃありませんよっ…!
 何れにせよ大分ダメージを受けているようですし、そう何度も使える戦法じゃ無い事だけは確かですねっ…!! 次は無いと思って下さいっ…!!」
「だったら、やられる前にやるだけさっ…!!」
 竜斗は安室に向かって渾身の力を込めた斬撃を放つ。 
 安室は槍と言う中距離向けの武器を使う為、至近距離では大きな隙を晒してしまう。
「くっ、防げないかっ…!!」
「ぐわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 これ以上無いって程の会心の一撃を食らった安室は断末魔の悲鳴を上げる。
「…」
「…」
「あれ…? 全然効いてないんですけど…!?」
 余りの竜斗の気迫に思わず敗北を覚悟した安室であったが、強力な自我領域に守られてほぼ無傷であった。
「これでも食らえっ!! えいっ!! やぁっ!! とぅっ!!」
 竜斗は安室に向かって気を込めて連続して切り掛かるが、一向にダメージを与えられる様子は無かった。
「やっぱり、完成された大アルカナの自我領域はそう簡単に攻略出来ないか…」
「そう言えばお姉ちゃんも何度も聖蘭さんに攻撃を当ててたけど、全然効いてない様子だったよね…」
 確かに昨日の姫はヒットアンドアウェイを繰り返していたものの、それ以上の進展は無かった。
「くそっ、姫でさえ出来なかった事をどうすれば良いってんだよ…!?」
「でも、それが出来たら、お嬢様を超えた事の証明になりますよっ!! だから、頑張って下さいよっ!!」
「そうだっ…!! 僕は諦めるわけには行かないんだっ…!! こうなればダメ元でガンガン攻撃してやるっ…!!」
「そうです、その意気ですよっ!!」
 その瞬間、竜斗の顔が不敵に歪む。
「だったら、これでも食らいやがれぇっ!!!」
 ガキィーーーーーン!!
 竜斗の膝蹴りが見事に安室の股間に命中した。
「…」
 逆行で沈黙した安室の顔は見えない。
 あまりの竜斗の蛮行に空は顔を真っ赤にして怒る。
「竜斗の馬鹿っ!! なんで男の子のそんな所を狙うのっ!?」
「甘いっ…!! 弱点とは狙うためにあるんだよっ…!!」
 そして、竜斗は勝ち誇ったように言う。
「もう、そんな所までお姉ちゃんを真似しなくて良いよぉ!!」
「ふふふふふっ、ははははははっ…!!」
 しかし、安室はあくまで涼しい顔をして高笑いする。
「そんなヤワな攻めじゃボクはビクともしませんよっ…!! 股間の自我領域は常に全開ですからっ…! さぁ、どんどん攻めて下さい…!!」
 そう言い股間を突き出す安室。
 かなりもっこりして卑猥な感じであった。
「安室さんも最低っ!!」
 と言いつつも顔を赤くして、突き出された大きな股間を見つめる空であった。
「そんなに大きいのが偉いかぁ!!」
 何だか無性に腹が立った竜斗は安室の股間をがっしり掴む。
「だから、効かないって言っているでしょう…!! ってアレっ…!? アレレっ…!!?」
 みるみる顔が青くなり、悶絶する安室。
「うぎゃーーーっ!! な、なんじゃこりゃーーーーーっ!?」
 そして、自我領域を消失させてのたうち回る安室。
「き、効いたっ!! 完成された大アルカナの弱点は股間を潰す事だったのかっ!! よし、これで聖蘭さんも攻略出来るぞっ!!」
 竜斗は自分の手をニギニギし、残った感触を思い返す。
「竜斗の馬鹿ぁ!! 聖蘭さんは女の子だよっ!!」
 そして、空に頭を叩かれる。
「そ、そうか…!! しかし、おっぱいとかを握ればあるいは…!!」
「もう、そんなのダメに決まっているでしょっ!!」
 空は腰に手を当ててプンプンと怒る。
「ちぇっ…」
「なに残念がってるのっ…!? もう、お姉ちゃんと関わるとみんなスケベになるから、やんなっちゃうよぉ…!!」
「一番スケベになった人が何言っているの…?」
 竜斗はジト目で空を見た。
「ぐうっ…、危うく潰される所でしたよ…」
 その時、安室が腰を叩きながら復活する。
「でも、何で握りつぶしが効いたんだろうな…?」
「そんなの解りませんよ…!! でも、聖蘭にはセクハラまがいの攻撃は止めて下さいね…!!」
「ちぇっ…」
「だから、残念がらないで下さいよぉ…!!」
 竜斗はタオルで顔を拭き、時計を見ながら言う。
「もう、こんな時間か…。結局決定的なヒントは掴めなかったけど、朝の練習はこれで引き上げだな…」
「うん、そうだね…」
「旦那様の言う通り、大アルカナに対抗出来るのは大アルカナだけって事なんでしょうかね…」
 やっぱり、暗示に頼るしか無いのかな…。
 竜斗は思わずため息をついた。
「安室さん…、少し早めに空のお父さんの所に行きたいから運転をお願いします…。それから空は風見鶏の館で姫の面倒を見てやってね…」
「竜斗…」
 空は心配そうに竜斗を見つめた。

 竜斗は安室の運転するシルバークラウド・ツーに乗り、一度風見鶏の館に帰って予備の戦闘用制服に着替えた。
 そして、眠ったままの姫を空を任せて、海岸通りにある海岸ビルへとやって来た。
 ひと際目立つ近代建築物と現代建築物の融合した異様な風貌のビルは、大粒の雨を振らす雨雲に向かって聳え立っていた。
 海岸ビルのエントランスには県立高校の生徒が警棒を持って整列し、これから始まる最終決戦の邪魔になる部外者の進入を拒んでいるかのようだった。
 凄まじい緊張感に竜斗は思わず息を飲む。
 そして、何時ものようにエレベーターで最上階にある旭陽家の自宅兼診療所に上がると、昇降機の扉が開いた瞬間にサングラスを着用したブラフマンが出迎えた。
「君が来るのを待っていたよ」
 彼の傍らには頭を垂れるメイド服姿の聖蘭が付き従っている。
 竜斗と安室は聖蘭から発せられる無言の圧力に気押されそうになるが、竜斗は負けじと強い視線を聖蘭に送る。
 その様子を見てブラフマンは不敵な笑みを浮かべる。
「どうやら、答えは決まったようだな」
「はい、二人きりで話がしたいのですが、よろしいでしょうか?」
 竜斗はブラフマンと向き合いながら言う。
「良いだろう、聖蘭くんと安室くんは外して貰えるかな」
 聖蘭と安室はブラフマンに深々と頭を下げる。
 安室は竜斗を心配そうに見つめて立ち去る事に戸惑いを感じるが、聖蘭の鋭い視線に促されるように仕方無く立ち去る。
「では、こちらに来てくれ」
 ブラフマンに案内されて竜斗が通された場所は、シックな内装が施された医院長室だった。
 ブラフマンは机の前に椅子を置くと竜斗に座るように促し、自分も机の反対側の正位置に座る。
 ブラフマンの背中にある窓からは殆ど日が射さず、暗い室内でサングラスを掛けている事もあり彼の表情を読み取る事は出来ない。
 言い知れぬ緊張から竜斗の鼓動は速くなり、手足がガタガタと震え、運動もしていないのに息が荒くなる。
 動揺を必死に隠そうと竜斗は拳を強く握るが、全身から滴り落ちる汗を隠す事は出来なかった。
 当然、竜斗が重大な局面を迎えて強いプレッシャーを感じている事はブラフマンも見て取れたが、あえて見て見ぬ振りをして話を進める。
「では、聴こう。君は誰と戦う事を決意をしたのだ…?」
「僕は世界の改変を止め、姫を運命から解放する為に聖蘭さんと戦います…!」
 竜斗は凛とした視線をブラフマンに向ける。
 聖蘭と戦う事には最早一切の迷いは無かった。
「そうか、それが君の答えか。
 私の計画を何処までも狂わせ多くの子供達を救い続けた君であれば、世界改変以上の素晴らしい未来に辿り着き、本当の意味で月夜を救う事が出来るかも知れないな。
 しかし、どんなに素晴らしい未来を夢見たとしても、それを勝ち取る為の力が無ければ意味が無いと言うものだ。
 君は聖蘭くんを倒せる力が無い事を自分で理解している。
 だからこそ、最終決戦を前に私との対談を望んだのでは無いかな…?」
「それは…」
 図星であった。
 だからこそ竜斗は言葉に詰まったのだ。
「全ての大アルカナの根源である君が私の暗示を受ければ、この世で最も強い力を持つ存在となるだろう。
 君は月夜を救う為に誰よりも強くならなければならない」
 ブラフマンは竜斗に手を差し出す。
「さぁ、私の手を取れ…!! そして、君は真の意味で人々を導く為の救世主となるのだ…!」
 竜斗の心臓は口から飛び出るのでは無いかと言う程に強く脈打ち、全身から滝のような汗が吹き出し、最早隠す事が出来ない程に手足の震えが大きくなっていた。
 呼吸は浅く切れ切れになり胸が苦しかった。
 姫を救う為に誰よりも強くなりたい…。
 だが、大アルカナに頼った強さが本当の強さなのか…?
 それは姫が与えてくれた本当の強さを裏切る事になるのでは無いのか…?
 解らない…。
 解らないよ、姫…。
 恐い…、助けてよ姫…。
 僕に答えを教えてよ…、姫…。
 竜斗の目から止めどなく涙から溢れ、視界が暗転したように何も考えられなくなり、闇の中に手を伸ばそうとした瞬間だった。
 心の奥底で強く輝くものが見える。
 それは今まで培って来た経験や思い出の走馬灯。
 忘れようも無い楽しい場面から、一刻も早く忘れたい辛い場面、はたまた竜斗自身が気にも止めず覚えていないような場面まで。
 時系列や法則性の欠片も無く様々な思い出が止めどなく流れて行く。
 そして、姫が言った言葉が思い返される。
「貴方は戦闘中に焦りを感じたらどうしますの?
 そう、どんな時でも心を乱せば身体を萎縮させ、本来あるべき力を発揮させる事が出来なくなるのは同じですわ。
 それに溜め息が出ると言う事は気が重くなっている、つまり無理をしている証拠ですの。
 もし、なんらかの息を乱れを感じた時は、そのまま下腹に力を入れて臍下丹田式呼吸法に変えてみて下さいな」
 そうだ…!! こんな時こそ臍下丹田式呼吸法だ…!!
 竜斗は暗転した視界の中で走馬灯を前にして下腹に力を込めながら呼吸をする。
 大地から天まで自分自身を貫いて繋がっている事をイメージする。
 肛門を緩めて腹をヘコませるように口から息を吐き出し澱んだ気を放出する。
 肛門を締め上げ腹を膨らませるように鼻から息を吸い込み周囲の気を取り込む。
 それを繰り返すうちに、無秩序に暴れるだけであった記憶の欠片達を自在に思い返す事が出来るようになった。
 竜斗は走馬灯に手を当てて自分自身に必要な答えを探そうとする。
 そして、竜斗にとっては前世と呼べる領域まで、何処までも何処までも遡って行く。

 1999年7月31日(土)
 それは心ざわめくような夜だった。
 早過ぎる秋の到来を感じさせるような冷たい空気が吹き抜け、高い空に浮かんだ雲を散り散りに流して行く。
 天上に輝く丸い月は流れる雲によって様々に姿を変え、まるで意思を持つかのような畏怖を放っている。
 そして、北にそびえる六甲山の頂きには黒い闇が広がり、時折稲光と共に腹の底に響くような低い音を放っていた。
 何時もは憎たらしいがばかりに五月蝿く鳴り響く夏の虫達も、これから起きようとしている何かを察してか息を潜め、周囲には沈黙が漂っていた。
 稲光で洋風の趣をした校舎がシルエットとなって闇夜に浮き彫りになる。
 それは六甲山の麓にある県立高校…。
 ロンドン塔と呼ばれる塔屋や、銃眼に見立てた装飾の施された歴史ある校舎が特徴である。
 再び爆音が響き渡ると校舎の屋上で対峙する四人の少年少女の姿のシルエットが浮かぶ。
 異なる制服を着た二人の少年…。
 短髪で中性的な小柄の少年…走馬竜斗と、額に傷を持つ長髪長身の少年…青海奏真は、互いに強い視線を交わしながら対峙している。
 それぞれの傍らには少女が付いている。
 竜斗の傍らにはフリル付きの黒いドレスに身を包んだツインテールの少女…香夜姫が。
 奏真の傍らにはショートヘアーのセーラー服を着た少女…旭陽空が寄り添っている。
 姫は月を仰ぎながら意味深な嘲笑を浮かべる一方、空は大きな瞳一杯に涙を蓄えて、竜斗と奏真を交互に見つめている。
「どうしても、戦わなきゃ駄目なの…?!」
 空が沈黙を破る。
「互いの大切な者を守る為、この戦いは避けては通れない…」
 奏真が言う。
「例え誰を相手にしようとも、負けるわけにはいかない…」
 奏真は空の手を強く握る。
 その手は冷たく生気を感じさせず、そのまま放せば消えてしまうように儚かった。
「お前を運命の呪縛から救う為に…!!」
 稲光の作り出すシルエットの中、奏真は空と唇を重ねる。
 すると、奏真の傷が闇夜の中で強い光を放ち、二人の持つ雰囲気のようなものが何処までも拡大して行く。
 強力な自我領域に覆われ、世界は少年と少女だけのものとなったのだ。
 そして、奏真の眼前にNo.19太陽と書かれたカードが出現し、回転させながらつかみ取ると、それがチャクラムへと変化し両手に持ち替える。
 一方、竜斗に対し姫は静かに呟く。
「運命を受け入れた者でなければ、未来を変える事が出来ない…。それでもあなたは運命に抗うと言うのですの?」
「僕には無理だ…。君の居ない世界になんか、耐えられないから…」
 竜斗は姫の唇に自分の唇を重ねる。
 すると、微弱な光と共に弱い自我領域が彼の身体を包み込み、空中に出現したNo.18月のカードをつかみ取る。
 そして、腰に下げた二つの鞘から胡蝶刀を両手で抜き放ち構える。
「だから、僕は戦う…!!」
 対峙する二人の少年。
「運命を破壊し世界を創り変える為の犠牲となれっ!!」
「今こそ僕はあんたをっ…!!」
 互いに武器を構えて駆け寄る二人の少年。
 稲光によって影を落とすロンドン塔の尖塔で、スーツにサングラス姿の男がその行末を傍観していた。
「ブラフマン…。この世の全てを知る者…。お父様…。
 真に罪深きは人々を運命の輪へと縛り付けるわたくし達で御座いましょう。
 この永劫に続く輪廻の旅こそわたくし達に架せられし罰に他なりませんわ。
 ですが、後悔はありません事よ。
 幾度と無い刹那の逢瀬を交わす事が出来るのですから。
 そして、旅の果てに本当の強さを手に入れたあの方が、わたくしを解放して頂けると信じてますから」
 そして、竜斗の胡蝶刀と奏真のチャクラムが激しくぶつかり合う。
 竜斗が片方の胡蝶刀で奏真の片側のチャクラムを薙ぎ払い、もう片方の胡蝶刀で無防備になった奏真の身体を狙おうとする。
 だが、奏真もそんな竜斗の攻撃は勿論読んでいて、残った片方のチャクラムで竜斗に斬り掛かる。
 しかし、竜斗は間髪入れず先ほどチャクラムを弾いた方の胡蝶刀で奏真の攻撃を防ぐ。
 そのまま息もつかせぬ激しい攻防が続くが、この流れでは体力や体格に劣る竜斗が不利になってしまうのが目に見えていた。
 竜斗は奏真の腹に渾身の蹴りを放ち、互いの自我領域が反発するのを利用して、間合いを取って態勢を整えようとする。
 だが、奏真はすかさずチャクラムを投げ竜斗に追撃をかける。
 竜斗は反復練習によって鍛えた反射神経によって、ほぼ無意識のうちにチャクラムを弾き落とすが、すぐにそれがフェイントであったと言う事に気付く。
 竜斗の眼前に空中から出現した無数のチャクラムが迫りつつあるのが見えた。
「しまっ…!!」
 竜斗はその攻撃を防ぐ事が出来ずに被弾すると、次から次へと追い打ちを掛けられ続ける。
「やったか…!?」
 そして、爆煙に包まれ竜斗の姿が見えなくなると、奏真は一瞬の隙を見せる。
 だが、竜斗は爆煙の中から奏真に向かって突進し、あまりにも激しい怒濤の剣撃を浴びせかける。
 突く…!!
 突く…!!
 突く…!!
 間合いを詰めながら連続される突きに、奏真は態勢を整える間が無かった。
「な、なんだと…!? 何故、自我領域も弱く、武器も具現化出来ず、能力も発動出来ない君が、俺の攻撃をそこまで防ぐ事が出来るんだ…!?」
 奏真は自我領域に攻撃を食らい続けながらも聴く。
「僕がトーナメントに参加したのは自分自身を見つける為だっ!!
 だけど、戦う為の力として姫から暗示を受けたけど、具現化する程の強い願望を持っていないから、未だに能力を発動する事は出来ていないっ!!
 でも、能力への願望が弱ければ攻撃力の弱さに反比例して、相手の能力攻撃に対する防御力が上がるんだっ!!」
 竜斗は喋りながらも手を休める事は無い。
「しかし、物理攻撃じゃ俺の完成された自我領域を貫く事は出来まいっ…!!」
 奏真は強力な自我領域を活かし、竜斗の攻撃をくらいながらも体当たりを仕掛ける。
「ぐはーーーーっ!!」
 体重の軽い竜斗はすっ飛ばされ、大きな隙を見せる事となる。
 奏真は一気に間合いを詰めて追撃するが、竜斗は体当たりされた時に武器を落としてしまった為にそれを防ぐ術は無かった。
「幾ら能力攻撃を弱体化出来たとしても、それにも限度ってものがあるはずだっ…!!」
 右縦斬り…!!
 左横斬り…!!
 右肘打ち、しゃがみ右蹴り、飛翔斬り…!!
 最後に衝撃波を伴う左右クロス斬り…!!
 竜斗は能力攻撃を弱体化出来る限界を超え、自我領域に大きなダメージを受けながらすっ飛ばされる。
「これでとどめだっ!!!」
 奏真は空中に無数のチャクラムを出現させると、巨大なひとつのチャクラムとして融合させ、竜斗に向かって解き放つ。
 もはや、能力を弱体化する事も出来ず、自我領域を失いかけた竜斗にそれを防ぐ術は無い。
「くそっ…、これまで…か…よ…」
 迫り来る巨大チャクラムに竜斗が死を覚悟した瞬間だった。
「ふふふっ、貴方は死にませんわよ…。わたくしが命に代えても守りますから…」
 倒れた竜斗の前に姫が躍り出て、身体を大の字にして彼を庇おうとする。
「止めろ姫っ…!! 止めるんだ…!!」
 竜斗に背を向けていた為に姫の表情は読み取れなかったが、優しく微笑んでいるような気がした。
 何もかも吹き飛ばすかのような激しい爆発が襲う。
 姫の愛らしい手足が引きちぎれ血が噴き出し、身体を包む洒落たゴスロリ衣装が一瞬にして炎に包まれ、露になった美しい白い肌が醜く焼けただれて行く。
 音も無くスローモーションのようになった世界で、姫がその身を散らして行くのを竜斗はただ見ている事しか出来なかった。
「姫ぇーーーーーーーーーっ!!」
 竜斗は残った力を振り絞り、黒いだるまのような姿となった姫を抱きかかえる。
 もはや愛らしく美しかった面影は何処にも無く、瞼を失った二つの大きな瞳だけが竜斗を見つめていた。
 竜斗は嗚咽を堪えながら、ただ滝のように涙を流し続けた。
「どんなに足掻いても…、わたくしが死ぬ運命は変える事は出来ません…。ですが、消えつつあるその命を…、貴方を守る事に使えてわたくしは幸せですわ…」
「馬鹿っ…、そんな事…、そんな事言うなよぉ…」
「貴方は…、わたくしが生きた証そのものですから…」
「嫌だっ…! 嫌だよっ…!! 姫と別れるなんてそんなの嫌だよっ…!!! 僕は姫の事が好きで…、好きで仕方無いんだからっ…!!」
「わたくしの事を本当に大切に思うならば、最後の我が侭を聴いて下さいな…。あの方を倒し…、わたくしを運命から解放して欲しいんですの…」
 そう言い、力尽きる姫。
 だが、まだ微かに息があった。
「姫…」
 竜斗は涙を流しならその焼け焦げた唇に口づけする。
 すると、奏真をも凌ぐ強力な自我領域が広がり、竜斗の周囲に無数の武器が浮かび上がる。
 それはバットや、メリケンサック、サーベル、ギター、本など今まで出会った大アルカナ達が具現化していた武器であった。
「僕は姫の気持ちに答える…。それが僕が見つけ出した願望だよ…。例えどんなに自分自身が苦しむ事になろうとも…!! 自分自身の心を捨てる事になろうともっ…!!」
 竜斗は優しく姫の身体を下ろす。
「だから、そこで見ていてくれっ…!!」
 そして、バットで無数のボールを打ち出し奏真の目をかく乱すると、サーベルを突き出しながら一気に間合いを詰める。
「どのように攻撃も当たらなければどうと言う事は無いっ…!!」
 奏真はチャクラムでサーベルを弾くが、竜斗は接近した所で毒を秘めたメリケンサックで殴りつける。
 竜斗は毒を食らいふらついた奏真に対しギタークラッシュを食らわせ、そのまま弦を絡めて電撃を発し動きを止める。
 奏真はすぐ自分自身の身体ごと弦を引き裂いて脱出しようとする。
 しかし、竜斗はその僅かな隙を狙って本からトロールと呼ばれる棍棒を持った巨人を召還し、奏真に対して強烈な一撃を食らわせようとする。
「やったか…!?」
 棍棒を床面に叩き付けたトロールの死角となって奏真の姿は見えなかった。
 だが、次の瞬間、トロールの背中を駆け上がった奏真が、上方から竜斗に向かって斬り掛かって来た。
「その程度でやられる俺では無いっ…!!」
「くっ…!!」
 竜斗は左手で自分を庇い攻撃を防ごうとするが、奏真の一撃は竜斗の自我領域を腕ごと切り裂いた。
 ボトリという重い音がして、竜斗の切断された左腕が地面に転がる。
「ぐわぁーーーーーーーっ!!!」
 肘から先を失い血しぶきを上げる左腕を押さえて竜斗はうずくまる。
「能力に対して強い願望を持ってしまったが故に、攻撃力に反比例して防御力が低くなったようだなっ…!!」
「姫が味わった痛みに比べれば、僕の痛みなんてっ…!!」
 竜斗は立ち上がり、メリケンサックで奏真の顔面を殴りつける。
 脳を揺さぶられながら毒による攻撃を受けた奏真は、尋常では無いダメージを受けて、ふらつきながら血反吐を吐く。
「お兄ちゃん…!!」
 空が悲鳴を上げる。
「それに、能力が強過ぎるが故に、相手の攻撃を強く受けてしまうのは僕だけじゃないだろっ…!?」
「だが、俺にはそれを補うだけの再生能力があるっ…!!」
「しかし、脳をすっ飛ばされて再生出来るはずはないっ…!! 今こそ決着を付けてやるっ…!!!」
「それはこっちの台詞だっ…!!」
 竜斗はありったけの武器を空中に出現させると奏真に向かって解き放つ。
 奏真も対抗するようにありったけのチャクラムを出現させて竜斗に向かって解き放つ。
 あまりに強力な二人の能力と能力はぶつかり合い、白と黒の渦巻きとなってこの世界を覆って行き、時空そのものが音を立てて大きく歪んで行く。
 そして、会場となった県立高校の屋上は激しい爆煙に包まれ、二人の少年は全身血まみれになって完全に意識を失っていた。
 姫は瞼を失った大きな瞳で、空が泣きながら二人の少年に駆け寄るのを見ていた。
 そして、命が消えつつある中でブラフマンの声を聴く。
「決勝戦の結果は引き分けのようだな。
 しかし、トーナメントを勝ち残った者同士が大アルカナの力をぶつけ合えば、対極する力が融合し世界の破壊と再生が引き起こされる。
 そう、誰が勝ったとしても私の計画は止める事は出来ず、月夜は永遠に繰り返される世界で生き続ける事となるのだ」
「見てて…、下さいな…、お父様…。だったら、大アルカナに頼る事無く…、勝てば…、良いだけです…、から…。実力行使…、それがわたくしの信条です…わ…よ…」
 姫がそう呟き命を失ったと同時に、世界は終わりを迎えた。

 我に返った竜斗は机の向こう側に座り、手を差し伸べるブラフマンをじっと見つめていた。
 そして、竜斗は不敵な笑みを浮かべながら頭を下げる。
「ありがとうございます…! でも僕には大アルカナの力は必要ありません…!!
 僕が暗示を受ければ確かに強い力を手に入れる事が出来ると思います。
 でも、強い能力を持ってしまえば、その分だけ相手の能力を強く食らい、それこそ相撃ちが関の山です。
 それに最終戦まで勝ち残った大アルカナの力がぶつかり合えば、勝敗に関わらず対極する力が融合されて、世界の破壊と再生を回避する事が出来なくなりますから」
 ブラフマンは差し出した手を引くと、サングラスを持ち上げる。
「まさか、その事に自力で気がつくとは、君は本当に恐ろしい少年だな…。
 しかし、現実問題として大アルカナの力を使わずして、どうやって聖蘭くんと戦うと言うのだ…?
 確かに大アルカナに願望を抱かなければ能力に対して抵抗出来る。
 特に全ての根元である君ならば、現実を受け入れた上で精神を強く持てば、能力を完全に無効化する事すら可能だろう。
 しかし、外的要因に依存しない完成された大アルカナの能力を、そう何度も無効化する事は出来まい」
 竜斗はブラフマンに笑みを向けつつ拳を強く握る。
「僕には姫が教えてくれた新武芸があります…!! それは僕が僕らしく生きる為に姫が作り出してくれた僕の宝物です…!! だから、僕は絶対に負けませんっ…!!」
 現実問題として竜斗が聖蘭に勝つのは困難だ。
 だが、前世の断片を見た事により、姫が長い時間をかけて新武芸を編み出した本当の理由を知る事が出来た。
 そう、全てはこの時の為だったのだ。
 竜斗は常に姫と一緒にいるような心強さを感じ、心の奥底から希望が湧き出て来るかのようだった。
「ふっ、君は心から月夜の事を信頼しているのだな…。
 君のような素晴らしい男に愛されるとは月夜も幸せ者だな…、本当に…、本当に君のような男が月夜のパートナーで良かったと思うよ…」
 ブラフマンはサングラスを外し、姫の親である旭陽昇として微笑んだ。
「お義父さん…」
「だが、君にそう呼ばれるのはまだ早いぞ。せめて、戦いに勝ってからにして欲しいものだ」
 そう笑う旭陽昇に竜斗は頭をポリポリと掻く。
「しかし、パートナーはどうするのだ? 試合開始時刻の正午までに一人もパートナーが居ない場合は失格となってしまうぞ」
「安室さんは…?」
「彼は対戦相手である聖蘭くんのパートナーなので兼任は不可能だ。
 トーナメントに参加して居ない人間で、能力を使わなければ誰であろうとも、何人だろうとも構わない。
 だが、並大抵の人間では厳重な警備を搔い潜って、正午までに試合会場であるこのビルには辿り着けまい」
「くっ…、今は11時半だから、あと30分しかない…」
 姫ならば時間内にここまで辿り着く事は可能だろうが、それこそ本末転倒だ。
 しかし、悩んでいたら時間が無くなってしまう。
 どうしたものかと竜斗が頭を抱えていると、部屋の外が騒がしくなっていた。
「あっ、竜斗くんと旦那様のお話を邪魔しちゃダメですって…! あふっ…!!」
「やぁ、お待たせ…!」
 そう言いがらドアを蹴り破って奏真が登場した。
「奏真先輩、一体どうしてここに…!?」
「ふっ、空から話を聴いて、君の力になる為に馳せ参じたのさ…!」
「ここにいる警備を全員ぶっとばして、正々堂々不法進入して来ましたよ…。ついでにボクもぶっ飛ばされましたけどね…」
 ぶっ飛ばされて真っ赤になった頬を押さながら安室が入室する。
「わるいわるい…! ちょうど竜斗のパートナーが居ないって話が聞こえて来て、居ても立っても居られなかったのさ…!」
 奏真は竜斗に微笑みかける。
「えっ…?」
「ふっ、俺を君のパートナーにして欲しいってことさ…!」
「な、なんだってぇ…!?」
 竜斗は驚きを隠せない。
「俺は既にトーナメントを辞退しているから資格はあるんだろ、おじさん…?」
「ああ、ただし能力を使った時点で竜斗くんは失格になる…。能力を使わないで戦えるほど聖蘭くんは甘くは無いぞ…?」
「ふっ、能力を使わないで聖蘭さんに挑むのは竜斗も同じだろ…? だったら宿命のライバルである俺も同条件で挑むのが当たり前さ…!!」
「本当に良いの…?」
「ああ、もちろんさ…!! 君は俺を…、俺達を救ってくれた恩人だから、その恩に報いたいんだ…!! それとも、俺がパートナーじゃ不満かい…!?」
「とんでもない、こちらからお願いしたい所だよ…!!」
「ふっ、俺達の力を聖蘭さんに見せつけてやろう…!! 一人の力じゃ無理でも二人の力を掛け合わせれば出来る事もあるはずだ…!!」
「ああ…!!」
 竜斗と奏真はガッチリと拳と拳を重ねた。

最終章

 激しい雨の降り注ぐ神戸海岸ビルの屋上。
 Rと書かれたホバリング用ヘリポート上に二組のファイナリストが向かい合う。
 柔和な笑みに鋭い眼光を宿したメイド服姿の聖蘭と、不安そうな表情を浮かべる執事服姿の安室。
 対するは小柄な身体に大きな雰囲気を放つ戦闘用学生服姿の竜斗と、不敵な笑みを浮かべながら何時も通りのカスタムされた制服を着こなす奏真のコンビだ。
 双方の間にはスーツにサングラス姿のブラフマンが立つ。
「大アルカナの申し子である君達二人が手を組み、能力を使わずに計画の執行者に挑むとは因果なものだ…」
 ブラフマンは蒼々たる顔ぶれを見渡し、サングラスの奥で表情を隠しながら言う。
「未来とは如何なるものであろうか?
 私は未来とは大人達が責任を持って子供達に与え、更に子供達が大人になり次の世代へと与えて行くものだと考えていた。
 この計画はその思想を象徴していると言っても過言では無い。
 しかし、計画の参加者である君達は私のシナリオを無視し、私の想像を遥かに超えた目覚ましい活躍を見せた。
 君達の目指す未来は強く輝き、もはや私の衰えた目では見通す事が出来ない程だ。
 私はそこまで成長した君達をとても頼もしく思う。
 しかし、同時にその先の見えない可能性に不安を感じざるを得ない。
 もし、子供が道を誤ろうとするのであれば、大人は責任を持ってそれを正さなければならないからだ」
 ブラフマンはサングラスを光らせ威圧的に言う。
「僕は道を誤ったとしても良いと思う…! 例え今は間違っていたとしても、最後にそれで良かったと笑えれば良いんだから…!!」
 竜斗は今まで姫が歩んで来た道を思い返しながら言う。
「そう、それが他の誰でも無い自分だけの人生を生きるって事さ…!!
 おじさんの考えは子供が目指す未来を信じる事が出来ず、自分の敷いたレールの上に縛り付けようとするのは大人のエゴでしか無いね…!!」
 奏真は一切の迷いもなく凛とした声で言う。
「僕らは何時までも大人に与えられるだけの子供じゃない…! 大切な人を守り自分自身の人生を生きる大人になるんだ…!!」
「良いだろう…! ならば聖蘭くんと戦って君達の力を示すが良い…!!
 計画の執行者であり最も神に近い存在である彼女を倒す事が出来たならば、私は君達を大人として認めよう…!!
 そして、本当の意味で未来を…、娘達の幸せを託そうではないか…!!」
「ふっ、そいつは是が非でも頑張らなければならないね…!!」
「ああ、僕たちの未来は、僕たち自身の手で摑み取るっ…!!」
 サングラスに隠されたその目は嬉しそうであった。
「貴方達は何も解っていません…。それが如何に子供染みた独善であるか、この私が教えて差し上げましょう…!」
 聖蘭が静かながら殺気を込めた視線を竜斗と奏真に向ける。
「では、口づけを交わすが良い…!」
「えっ…? 何その罰ゲーム…!?」
「ふっ、裸の付き合いをした仲じゃないか、今更キス程度で恥ずかしがる事はないだろ…?」
「マジで勘弁してよっ…!!」
「確かに俺達には互いに愛する女性がいる…。だが、男同士でだったら浮気に当たらないだろ…?」
「いや、そう言う問題じゃないからっ…!!」
「君から行かないのなら、俺から行かせてもらうよ…!」
「止めてっ!! 止めてくれぇーーーーっ!!! ぐわぁーーーーーーーっ!!!!」
 虚空に竜斗の断末魔の悲鳴が響き渡った。
 そして、吐き気を催して真っ青な顔をした竜斗は、胸から出現したNo.18月のカードを掴み取った。
「うわぁ、御愁傷様ですわぁ…。こうなったら、竜斗くんの分までボクは楽しませてもらいますよ…!」
 そう言うと安室は聖蘭の唇にキスをしようとするが、あまりに鋭い眼光に尻込みしながら跪いて、その手の甲に口づけする。
 すると、聖蘭を中心に強烈な自我領域が何処までも広がって行く。
 聖蘭の自我領域に覆われたこの世界では、彼女以外の全てはアウェイと言っても過言では無かった。
 そして、聖蘭の胸から椅子に座り教皇冠を被った女性が描かれたNo.2女教皇のカードが出現し、それを掴み取ると二メートルの丈がある巨大な斬馬刀に変化する。
 聖蘭の発する熱気によって周囲の雨は蒸発し、霧のような状態となって会場全体を覆っていた。
「ふっ、この身震いするかのような圧倒感…! まったくもって魅せ付けてくれるじゃないか…!!」
「ああ、手の甲でキスするだけで良かったんだったら、僕の苦しみは一体なんだったって言うんだ…!! 安室さん許すまじっ…!!」
「なんか、竜斗くんは焦点がズレてません…!?」
 そして、正午丁度を迎えるとブラフマンは手を上げ試合開始を宣言する。
「では、トーナメント最終決戦をここに開始するっ…!!」
 竜斗は二振りの胡蝶刀を、奏真は実物のチャクラムを持って駆け出す。
「聖蘭さんの能力は一度でも食らったらおしまいさっ…!! 一気に斬馬刀の死角になる懐に飛び込んで、先手必勝で決めるんだっ…!!」
「ああ、解っているよっ…!!」
「そうはさせませんよっ…!! 幾ら対立する立場と言ってもボクは聖蘭を守りますっ…!!」
 そんな竜斗と奏真の前に安室が立ち塞がり、手にした実物の槍で鋭い突きを放つが、二人は二手に別れて難なく攻撃をかわす。
「何っ…!?」
「安室さんは能力を使わなければどうと言う事は無いね…!!」
「ふっ、ハッキリ言うと雑魚って事さっ…!!」
 安室とのすれ違い様に竜斗は脇腹に刀の柄を叩き込み、奏真は首に肘打ちを放ち、そのまま振り向く事無く聖蘭の元へと向かう。
「…!!」
 安室は声も無く崩れ去る。
 竜斗と奏真は一気に間合いを詰めると、聖蘭の隙をついて同時に斬り掛かる。
「私は安室のように甘くはありません」
 しかし、聖蘭の身体を覆う強力な自我領域によって攻撃を弾かれ、一気に隙を見せる竜斗と奏真。
 そこに猛烈な聖蘭の蹴りが放たれる。
「ぐはっ…!!」
「重いっ…!!」
 体重を乗せた上で自我領域を纏った一撃は重く、二人はとっさに防御したものの、すっ飛ばされて間合いを空けてしまう。
 間髪入れず燃えさかる斬馬刀が奏真を襲う。
「くっ、避けられないか…!?」
「そうはさせるかっ…!!」
 だが、奏真の危機を察した竜斗が彼を体当たりして救い、そのまま聖蘭に向かって斬り掛かる。
「力を込め過ぎると弾かれてしまうので、一撃一撃の攻撃力が弱くても手数で勝負するしか無い…!!」
 そこに態勢を整えた奏真が攻撃に加わる。
「ふっ、パートナーが倒れても自我領域と能力を失わないとは、流石完成された大アルカナなだけあるねっ…!!」
 だが、幾ら攻撃を加えられようとも、聖蘭は涼しい顔を崩さない。
「完成された大アルカナにとって、パートナーとは形骸化した存在に過ぎませんから」
 聖蘭は竜斗と奏真に回し蹴りを浴びせかけようとする。
「でも、そんなのって寂しくないかい…? どんなに成長して一人前になったとしても、人と力を合わせるって事は楽しいものさっ…!!」
 攻撃を読んでいた奏真は聖蘭の蹴りに勢いが乗る前に体当たりをする。
 見事に聖蘭の態勢を崩す事に成功した奏真であったが、勢い余って転倒し大きな隙を見せてしまう。
「攻撃を防いだのは良いですが、あまりにも隙だらけですね」
「それは聖蘭さんも同じだろっ…!! 今だ竜斗っ…!!」
「ああ…!!」
 聖蘭に生じた僅かな隙を狙って竜斗は怒濤の攻撃を仕掛ける。
「私には自我領域があるのをお忘れですか?」
 聖蘭は鬱陶しいハエを落とすように竜斗に向かって斬馬刀の柄を叩き付けようとする。
「やらせるかっ…!!」
 だが、奏真はチャクラムで聖蘭の腕を下から上へと撥ね除けて竜斗を守る。
 しかし、次の瞬間には聖蘭の鋭い膝蹴りが無防備になった奏真の脇腹に迫りつつあった。
「くっ…!!」
 だが、あわや猛烈な一撃を食らってしまうと言う所で、竜斗が聖蘭の鳩尾に向かって体重を乗せた掌低打ちを放って奏真を救う。
「ふうっ、ナイスアシストだな…!!」
「パートナーなら当たり前の事さっ…!!」
 自分自身の自我領域の反動によってすっ飛ばされた聖蘭を竜斗と奏真が追う。
「自我領域と言えど完璧じゃない…!!」
「その通り…!! 攻撃を食らい続ければ何時かは限界が来るはずさ…!!」
「この私を相手にそんな事が出来ると思っているのですか…?」
 そして、一気に間合いを詰めると竜斗と奏真は聖蘭を挟み込むようにして波状攻撃を仕掛ける。
「出来るっ…!!」
「二人の力を合わせれば不可能は無いさっ…!!!」
 竜斗が突く…!!
 突く…!!
 突く…!!
 突く…!!
 奏真が斬る…!!
 斬る…!!
 斬る…!!
 斬る…!!
 竜斗と奏真は例え視線を合わせなくても互いの場所や思考が通じ合う抜群のコンビネーションを発揮し、互いが互いを補うように絶えまないラッシュを繰り返す。
 二人のコンビネーションは単純な足し算ではなく、何倍にも力が増幅されるような掛け算のような関係性だった。
 走馬竜斗と青海奏真の共闘…、それこそSoma × Somaだ。
 最後に二人同時の蹴りを食らった聖蘭は錐揉みしながらすっ飛び仰向けに倒れる。
「どうだい、俺達の力は…?」
 倒れたままの聖蘭に対して挑発する奏真。
 聖蘭はゆらゆらと身体を揺らすようにゆっくりと立ち上がるが、頭を垂れたその表情は読み取る事は出来ない。
「なかなかやるじゃないか…。
 私が今まで戦って来た相手の中じゃ最強…、君達二人の力を合わせた強さはお嬢様をも上回っていると言っても過言では無い…。
 しかし、その程度ではこの私の本気には到底及ばないな…」
「な、何…!?」
「はっきり言うと弱いって事だよっ…!!」
 聖蘭は鬼神を思わせる激しい口調で感情を露にする。
 そして、自我領域を操作してメイド服から私服のジーパンにライダースジャケット姿に服装を変化させた。
 しかし、静かながら強い殺気を放っていた先ほどとは違い、熱く燃えさかりながらも何処か冷淡な印象を受けるのが異様であった。
「このプレッシャーはあの頃の聖蘭さんと同じ…、いやそれ以上か…!!」
「教えてやろうじゃないか、この私の本当の強さと言うものを…!!」
 竜斗は背筋にぞっとするものを感じ、ほぼ無意識の内に奏真を突き飛ばす。
「危ないっ…!!」
 そして、次の瞬間、奏真が立っていた場所に斬馬刀が出現し、巨大な炎の柱が吹き出した。
「なっ…!?」
 続けて竜斗は奏真の頭を押さえてしゃがみ込む。
 すると、彼らの頭上を灼熱を帯びた斬馬刀が薙ぎ、ジリジリとした熱が伝わって来る。
「次はジャンプだ…!!」
 奏真は竜斗に言われるまま優れた反射神経で息を合わせてジャンプする。
 次の瞬間、足下に斬馬刀が出現していた。
「くっ、少しでも間合いが開くとこれか…!!」
 竜斗は縦横無尽に斬馬刀を具現化する聖蘭の攻撃を読み、ジグザグに走りながら間合いを詰める。
 奏真は竜斗の動きをトレースして後を追う。
「聖蘭さんの本当の強さと言うのは大アルカナの能力の事か…? それだったら今までのように接近して使えなくすれば良いだけの事さ…!!」
「お前は頭は良くても短絡的で馬鹿な所は昔から変わらないな…!! 本当の事は何も解っては居ないっ…!!」
「何…!?」
 聖蘭は突然手にした斬馬刀を捨て、徒手空拳で竜斗と奏真に襲いかかる。
「まさか自分から武器を捨てるとはっ…!!」
「役に立たないものは切り捨てるのは当たり前だろっ!! オラオラオラァーーッ!!!!」
「ぐわぁーーーーっ!!」
 竜斗と奏真は一発ずつ顔面に自我領域を伴ったパンチを食らい、瞬間的に視野が真っ白になって失われる。
「脚がお留守だっ!!」
 文字通り面食らい何が何だか解らず、後から激しい痛みが襲って来た次の瞬間、足下を掬われるような蹴りを入れられ二人共転倒させられてしまう。
「雑魚雑魚雑魚ぉっ!!! 何て脆いんだお前達はっ!!!!」
 そして、倒れた奏真はローキックを連続して浴びせられ追い打ちを掛けられる。
「くっ、このままやらせるかよっ!!」
 竜斗は奏真を救う為に立ち上がると聖蘭の攻撃をカットしようとする。
「邪魔するなっ!!!」
 だが、聖蘭は竜斗の方を振り向く事なく鳩尾に肘打ちをクリーンヒットさせ、吐き気を催して蹲った所で手の甲で顔面を叩く。
「うぼろっ…!!」
 竜斗は吐瀉物をまき散らしながらも無意識に間合いを空けるが、次の瞬間怒濤の如く空中に斬馬刀が出現して炎を上げながら襲いかかる。
「そいつと命を掛けた追いかけっこでもしてなっ!!」
 その間に奏真は蹴りを放つ聖蘭の脚を抱え込みなんとか起き上がろうとする。
「虫けらは虫けららしく地べたを這いつくばってろ…!!」
 だが、聖蘭は逆に倒れた奏真の胸を強く踏んで動きを封じ、斬馬刀を出現させて止めを刺そうとする。
「ぐっ、避けられないっ…!!」
 竜斗は襲いかかる斬馬刀の群れを避けながら聖蘭の顔面に手榴弾を投げつける。
「これでも食らえっ!!」
 爆発によって聖蘭の身体は吹っ飛ばされる。
「はんっ、そんな玩具で攻撃が止められるとでも思ったか…?」
 だが、聖蘭の手を離れた斬馬刀は倒れた奏真の身体を串刺しにしようと迫り続ける。
「逃げ道が出来ただけで十分だっ…!!」
 奏真は身体を捻って間一髪斬馬刀を避けた。
「お前は甘いんだよっ!!」
 だが、次の瞬間、刀が大爆発して奏真は転がりながらすっとばされる。
「ぐはーーーーっ!!」
 転がり続ける奏真を突き刺そうと後から後から斬馬刀が出現し、床面に無数の火柱が上がる。
「奏真先輩っ!! くっ、避けるので精一杯で助けに行けないっ…!!」
 竜斗は縦横無尽に襲いかかる斬馬刀を搔い潜りながら、奏真のピンチを救う手だてを考える。
「人を大切にしようとする気持ちは自分を強く突き動かす…!! だが、そんな風に迷ってたら人は救えないんだよっ…!!」
 聖蘭は奏真に気を取られていた竜斗の隙をついて接近すると殴り飛ばす。
「ぐばっ…!!!」
 燃えさかる感情の込められた聖蘭の拳はあまりにも重く、竜斗は一撃で意識朦朧となってしまう。
 手にした胡蝶刀がガタッと音を立てて床面に転がり、聖蘭はそれを蹴飛ばすと具現化させた斬馬刀の熱によって溶かす。
「オラオラっ!! まだ寝るには早いだろ…!!」
 聖蘭は倒れ掛かった竜斗の首根っこを掴み往復ビンタを浴びせかけると、斬馬刀を避けて転がり続ける奏真に向かって投げつける。
「ぐわぁーーーーーっ!!!」
 聖蘭は互いにぶつかり合って地に伏せた竜斗と奏真に斬馬刀を突き立てる。
「くっ、あの頃より…、遥かに強い…!
 元々持っている強い情熱に加えてメイド時代に培った冷静さが合わさり…、法則性の欠片も無い喧嘩スタイルが神業…、いや…、悪魔の業へと昇華されているっ…!!」
 奏真は中学時代に目の当たりにした聖蘭の戦いを思い返し、息も絶え絶えになりながら言う。
「本当の強さとは自分本位の優しさや迷いを捨て去り、燃えさかる魂の力を人の為に使い神にも悪魔にもなる事を躊躇わない事だっ…!!」
 竜斗の脳裏に初めて聖蘭と会った時に大河が言った言葉が蘇る。
(なんちゅうの、プロのメイドさんとして目立たない縁の下の存在に徹してる事で、逆にあの人の持つ美しさや力強さが際立ってる気がするんや!!
 そう、メイドさんっちゅう圧倒的な存在は神に近いと言っても過言ではないでっ…!!!)
 ある意味で大河のアホ丸出しの感想は的を射ていたのかも知れない。
「まさか、本当に迷いを捨てる事が出来る人間がいるなんて…。神に近い存在って言われているのも伊達じゃないって事か…!!」
「そして、私はお嬢様を救う為ならば手段を選ぶつもりは無い。それが、嘘か本当か試してみるか…?」
 爆風にその身を焼かれ満身創痍となった奏真の襟首を、人間離れした怪力で無造作に持ち上げる聖蘭。
「ぐっ…」
 奏真は力尽きている為、抵抗する事が出来ない。
「な、何をするんだ…?」
 雨に濡れた身体から脂汗が吹き出るのを感じ、とっさに聖蘭に対して殴り掛かる竜斗であったが、重い蹴りを食らってすっ飛ばされる。
「ぐはっ…!!」
「良いから黙って見てろよ…」
 聖蘭はニヤリと笑いながら、ゆっくりと奏真の腹に掌を翳す。
「や、やめろぉーーーっ!!」
 そして、聖蘭の掌から出現した斬馬刀は奏真の身体を音も無く貫く。
 夥しい量の返り血が竜斗の顔に降り注ぐ。
 熱を帯びた刀が煙を上げながら血を焼き、流れ出る血を霧のように蒸発させて行く。
 真っ赤に染まった千切れかかった胴体から音を立てて臓物が零れ落ちる。
 最後に具現化された斬馬刀が消失すると、大きな音を立てて奏真は崩れ去った。
「!!」
 竜斗は声にならない声を上げ、地に伏せた奏真に駆け寄る。
 身体の中央に大きな風穴を空けられているが、灼熱の刀身に傷口を焼かれた為に殆ど血は出ていなかった。
「り…、りゅう…、と…」
 そして、奇跡的に命があり僅かだが意識も残っていた。
 だが、呼吸の度に口から大量の血を噴き出し、文字通り虫の息であった。
「そ、奏真…、先…、輩…」
 竜斗は息を乱し、止めどなく涙を零しながら奏真の手を握る。
「これで解っただろ、私の本当の強さと言うものがっ…!!
 そして、命の重みと言うものがっ…!!
 人の命はこんなにも簡単に失われ、一度失えば二度と戻らないんだよっ…!!
 自分自身の愚かさ故に大切な人を亡くしてしまえば、あとに残るのは永遠と続くような後悔と苦しみの日々だっ…!!
 唯一、それを取り除けるのは大アルカナの力であり、世界の再構築だけなんだよっ…!!」
 聖蘭は雨の降り注ぐ天に向かって吠える。
「そうだ、大アルカナの力だ…!! 奏真先輩、再生能力を発動させれば今だったら助かるかも知れないっ…!!」
「それは…、良い…、考えかも知れない…。だが…、断る…」
 奏真は切れ切れになりながら、ハッキリとした意思を竜斗に伝える。
「な、何でっ…!! 何でだよっ…!?」
「竜斗が…、失格に…、なって…しまう…」
「で…、でもっ…!!」
「戦って…、くれ…、竜斗…。空との…、みんなとの…思い出が詰まった…、この世界を…、守る…為…に」
 そう言うと奏真は意識を失った。
 だが、まだ息はある。
「さっさと再生能力を使っていれば良い物の相変わらず馬鹿な奴だ…!!
 だが、竜斗くん…、君がリタイヤすれば奏真くんも諦めて再生能力を発動させるかも知れないな…。
 ふふふっ、もっとも、君が失格になったら私が世界の再構築を行い、奏真くんはお嬢様と共に新世界で救われるわけだが…!!」
 そう言い聖蘭は高笑いする。
 竜斗は心が折れて息を荒たげながら蹲る。
 色々あったけど…、今度こそ…、ダメだ…。
 奏真先輩を犠牲にするぐらいだったら…、本当にリタイヤして世界を再構築するのも良いかもな…。
 そうすれば…、姫も救われるんだ…。
 そうだ…、そうしよう…。
 これ以上辛い思いをする事は…、ないな…。
 …。
 …。
 …。
 竜斗はギブアップしようとするが、奏真の最後の言葉と今までこの世界で築いて来た思い出が走馬灯のように蘇って押し止まる。
「アカンっ…!! 諦めちゃダメやで…!!」
「せやね、奏真先輩の最後の気持ち無視したら、うち許さへんでっ…!!」
「ああっ…!? テメェはその程度で諦めるような野郎なのかよっ…!? あの時の根性をもう一度見せてみやがれっ…!!」
「まったく、ダサイったらありゃしないよっ…!!」
「I'm in the coolest driver's high…!!」
「ぼそっ…、ぼそぼそっ…」
「図書医院長はテメェはこの作品を中途半端に終わらせて駄作にするつもりかよ…、と申しています…」
 まるで本当に仲間達が励ましてくれているようだった。
 竜斗は重い頭を上げると、そこにトーナメントを敗退した元大アルカナとパートナー達が自分自身の脚で立ち上がり、それぞれの武器を手にして駆けつけていた。
 奇術部や貧乏学生、他にも生徒の姿が見えた。
 竜斗の元に宝塚が駆けつけて、その傷付いた小さな肩を抱く。
「みんな奏真くんに呼ばれて竜斗くんの力になる為に集まったんだよ…!!」
「宝塚さん…」
「ほら見てっ…!! 私頑張ってまた歩けるようになったんだよっ…!! フェンシング出来るようになったんだよっ…!!」
 そう言うと宝塚はフェンシングのサーベルを持って、少女らしく竜斗の前でくるりと周り自分自身の姿を見せる。
「だから、竜斗くんも頑張ろうよっ!! 私に本当の強さを教えてくれた竜斗くんだったら出来るよっ!!」
 そして、宝塚は微笑みながら竜斗の涙を拭う。
「ありがとう…、みんなありがとう…」
 竜斗は宝塚を抱き締めると、その耳元で何かを囁く。
 その姿はまるで頬に口づけしているように見えた。
「竜斗くん…」
 顔を赤くして頷く宝塚。
 そして、竜斗は立ち上がって仁王立ちする聖蘭を睨み付けると、臍下丹田式呼吸法で陰陽の気を強く練り込む。
「はぁーーーーーーーーっ!!!」
 竜斗の身体から発せられる熱によって雨が蒸気となって立ち上る。
「僕は絶対に負けないっ…!! 支えてくれるみんなの為に、この世界を守る為にっ…!!」
「ほぅ、心優しい君が奏真くんを見殺しにすると言うのか…?」
「聖蘭さんを早く倒して再生能力を使えば良いのさ…!!」
「戯れ言を言うなっ…!! 力も無く武器もパートナーも失った君にそれが出来るけはないっ…!!」
「出来るっ…!!」
 竜斗は宝塚からサーベルを受け取ると、聖蘭に対して激しい突きを放つ。
「な、何っ…!?」
 聖蘭は突然の攻撃により自我領域にダメージを受け動揺する。
「だが、付け焼刃の武器など、この私に効くわけ無いだろっ…!!」
 聖蘭はバックステップで間合いを取ると、竜斗の手にしたサーベルを斬馬刀で薙ぎ、熱で溶かしてしまう。
「これで振り出しに戻ったな…!!」
 そして、聖蘭は空中で無数の斬馬刀を具現化させ竜斗に向けて一斉に放つ。
「夕鶴っ…!!」
「竜斗センパイ受け取ってやっ…!!」
 竜斗は夕鶴からマシンガンを受け取ると、脇に抱えて迫り来る残馬刀の束に向かって一斉射出する。
 残馬刀は聖蘭の意思に反して大爆発を起こし、炎と爆煙によって一瞬視界が奪われる。
「視界がっ…!!」
 聖蘭に生まれた一瞬の隙を狙って爆煙の中から何か四角い物が飛来し、自我領域に覆われた聖蘭の頭に直撃する。
「くっ…、なんだこれは…!? 本…だと…!?」
「ぼそっ…、ぼそぼそっ…」
「私の大切な本を投げるなこの平面野郎…、と図書委員長は申しています」
 そして、間髪入れず煙の中から竜斗が現れ、木村から受け取った鎖を振り回して聖蘭を絡める。
「東京の元暴走族だか何だか知らないけど、神戸で現役やってるアタイを舐めるんじゃないよっ…!!」
「こんなもので私を拘束出来ると思ったかっ…!?」
 聖蘭は空中に具現化させた斬馬刀で鎖を切り裂くが、その僅かな隙を狙って竜斗はビジュアル系から受け取ったギターを叩き付ける。
「woh clash into the rolling morning…!!」
 ギタークラッシュは壊れる音が派手なだけで然したるダメージは無かったが目くらましには十分だった。
「これで落とし前つけろってんだよっ!! ダボがぁ!!」
 竜斗は間髪入れず工藤の武器であるメリケンサックを装着した拳を聖蘭の顔面に叩き込む。
 元大アルカナ達は能力の訓練に伴って自分の手にした武器の間合いを覚え込んでいる為、適切なタイミングで竜斗をサポートする事が可能であった。
 そして、仲間達から次から次へと武器を受け取り、リレーを繋ぐように聖蘭の間合いを完全コントロールする竜斗。
 それはまるで先日、様々な武器を使い分けて聖蘭に対抗した姫の姿のようであり、前世で大アルカナの能力を目覚めさせた竜斗の姿のようでもあった。
「そう、僕のパートナーはここに駆けつけてくれた全員だっ…!!」
「ば、馬鹿なっ!! そんな事許されるわけ無いだろっ…!?」
「忘れたんかいっ…!? 俺ん時、これと同じ作戦を伝えてくれたの聖蘭さんやろっ…!!」
 大河は突っ込みながら竜斗に特製の戦闘用バットを渡す。
「そして、みんなとの絆が僕の武器であり力なんだっ…!!」
 大河相手に模擬戦を繰り返した竜斗は、戦闘用バットの特製を完全に理解していた。
 そして、まるで自分の手足のように扱いながら聖蘭の自我領域に対してダメージを与えて行く。
「この私をここまで追いつめるとは、君の持つ絆の力は認めざるを得ないっ…!!
 しかし、まだだっ…!! まだこの私の完成された自我領域を崩すには力が足りないっ…!!」
「ぐっ…!!」
 聖蘭の言う事は図星であった。
「我が輩に無い力を持っている貴様が何をこの程度で苦戦しているのだっ…!? この痴れ者がっ…!!」
「なっ…!?」
 竜斗は戦いながら度肝を抜かれる。
 その場に現れたのはかつて中学、高校と暴力によって学園を支配し、大河によって倒された生徒会長その人だったからだ。
 隣には副会長を従えているのは相変わらずだが、何時ものオールバックを止めて髪を下ろしている為に心無しか美形に見える。
「うわぁ、ここでキレイな生徒会長登場とは、うち胸熱やでっ!!」
 何故か感動する夕鶴。
「だから、お前誰の味方だよっ!!」
 竜斗は戦いながら夕鶴に突っ込む。
「いいか、走馬よっ…!! 我が輩の話を聞くが良いっ!!
 如何に相手が強力な自我領域を持っていようとも関係ないっ!! サブミッションにより身体の内部を直接破壊すれば良いのだっ!!
 貴様には王者の技であるサブミッションを扱う資格があると知れっ…!!」
 竜斗は生徒会長が能力とは無関係に絞め技で図書委員長を倒した事を思い出す。
「そうかっ…!!」
 また、今朝の安室との模擬戦で握りつぶしが効いたのも同じ事で、接触した状態で内部を破壊するような攻撃に対して自我領域は効かないと言う事だ。
「仮にサブミッションで自我領域を攻略出来るとして、そう簡単に私に接触出来はしまいっ!!」
 竜斗は大河から渡されたバットを巧みに操り、自我領域によって強化された変幻自在の格闘術を駆使する聖蘭に対して接近戦を繰り返していた。
 だが、完成された自我領域の壁は厚く次第に聖蘭の勢いが増して行く。
「くそっ…!! あと一歩…!! あと一歩なのにっ…!!」
「君の敗北は変わらないっ…!! お嬢様を救う為の犠牲となれっ…!! 死ねっ…!! 死ぬが良いっ…!!」
 竜斗と激しい戦いを演じる聖蘭を見て大河は涙を流しながら呟く。
「聖蘭さん…、俺もう見てられへんよ…。
 今のカッコいい聖蘭さんもかっこ良くて好きやけど…、何時ものメイド服姿で優しい聖蘭さんが大好きやから…。
 聖蘭さんは何時も俺の事を気にかけてくれた…。
 ヘタレな俺が心折れずにやってこれたのは、聖蘭さんが居てくれたからやって思てるよ…。
 俺にとって聖蘭さんは大切な姉ちゃんみたいな人やから、友達を傷つけて殺そうとしている所を見ると心が痛くて…、痛くてしょうがないんや…!!」
 そう言うと大河は声を上げて泣いた。
「男が泣くなっ…!! ホンマお前ってヘタレやな…!!
 聖蘭さんを姉ちゃんみたいに思ってるのはお前だけや無いっ…!! うちかて…!! うちかて悲しいんやでっ…!!」
 大泣きする大河を優しく抱き締めながら自分も涙を流す夕鶴。
「くっ…!!」
 聖蘭は自分の事を慕ってくれる二人が泣く姿を見て明らかに動揺する。
 その変化を見逃す竜斗では無かった。
 僅かに生じた隙に激しいラッシュを仕掛ける竜斗に対して、聖蘭は間合いを取って仕切り直そうと態とらしく掌を突き出すように構える。
 それは先ほど奏真に止めを刺した零距離射撃で斬馬刀を具現化させる技だ。
 竜斗であれば確実に攻撃を避ける…、そう聖蘭は思っていた。
 だが、竜斗は聖蘭の掌を腹に押し付けられた状態で目を瞑った。
 背筋にゾッとするものを感じたが時既に遅し、次の瞬間には竜斗の身体を燃えさかる斬馬刀が貫いていた。
「くそっ、殺っちまったか…!!」
 竜斗を殺してしまったと思った聖蘭は大きな動揺を見せる。
 次の瞬間、聖蘭は殺したはずの竜斗に腕を掴まれて投げ飛ばされ、天地が逆転して地面に叩き付けられていた。
「な、何…!?」
 そして、そのまま寝技に持ち込まれ竜斗の脚によって首の頸動脈を締められる。
 竜斗は数々の戦闘に加えて、姫とのダンスや日常生活等の経験において、完全密着して相手との隙間を作らない事が動きのブレを防ぐ事だと学んでいた。
 その全てを活かした三角締めは誰の目から見ても解る程の完全な決まり具合だった。
「くっ…、ここまでか…!! すみません…、お嬢…さ…ま…」
 そして、聖蘭は意識を失った。

「良かった…、絞め技なんて初めてだったし、そのまま死んじゃったらどうしようかと思ったよ…」
 倒れた聖蘭が意識を取り戻すと、竜斗と大河、夕鶴、安室、奏真が心配そうに覗き込んでいた。
 聖蘭は自我領域を失った事で元のメイド服姿へと戻っていた。
 場所は変わらず屋上で、雨が上がり雲の切れ目から陽光が差していた。
「そうですか…、私は負けてしまったのですね…。敗因は…、自分本位の優しさを捨て切れない事を…、見抜かれてしまったからでしょうね…」
 聖蘭は思い返すように言う。
「聖蘭さん…、貴女は常に相手を気遣いながら戦っていたよね。
 姫を相手に戦った時も楽しんでいるフリをしていても、実際の所は全然本気を出していなかった」
「オマケに絶対に負けられない戦いだったのに、勝負を捨ててまでボクを助けてくれましたね…」
 安室は執事服姿だが長い事雨に濡れながら気を失っていたので、髪も服もぐしゃぐしゃになっていた。
「そう、あの時から何か違和感を感じていたんだ。
 僕達と戦っている時も一見して感情を露にして激昂しながらも、避けられる事を前提にして高度に計算をしながら攻撃を仕掛けていたんだと思う。
 きっと、そうやって実力差を見せつけながら持久戦に持ち込む事で、必要以上に傷つけず相手が折れるのを狙っていたんだろうね。
 そして、奏真先輩を直接的に攻撃したのだって、再生能力を使わせる事を前提にリタイヤを誘うためだった」
「ふっ、傷口を熱で焼いて止血しながら攻撃して、見た目は悲惨でも実際のダメージを少なくしてたんだろ…?
 そうでなかったら、俺は生きていられなかったさ。
 そもそも、俺を殺す事を目的ならば心肺や脳を狙えば良いだけの話だし、裏があるのは何となく解っていたよ」
 能力によって再生して元通りの姿になった奏真が言う。
「…」
 聖蘭は目を瞑って押し黙る。
「でも、そこまでプランを立てていたのに予想外の展開になった事に焦りを見せ、兄弟のように思っていた大河と夕鶴が泣く姿を見て動揺を隠せなくなった。
 そして、解ったんだ、聖蘭さんは絶対に優しさを捨てる事が出来ない人なんだって。
 だから、僕は聖蘭さんの攻撃を真っ向から受ける事にしたんだ。
 僕は戦闘中に一回きり、完成された大アルカナの能力を完全無効化出来るから。
 でも、それを知らない聖蘭さんは僕を殺してしまったと思い込み、思考が完全に停止してしまったんだ…」
 竜斗は躊躇無く相手の弱点を付くのが戦いだと思っていたが、聖蘭の優しい気持ちに付け込んでしまった事に罪悪感を感じていた。
 弱点は狙う為にあったとしても、あまりスマートなやり方じゃないので、あくまで最終手段だと姫が言っていた理由が痛いほど解った。
「私は…、死んだ弟に誓ったのです…。大切な人を守る為には…、自分本位な優しさを捨てて…、神にも悪魔にもなるって…。
 でも、私はそれが出来なかったのです…。だから私は…、お嬢様を…救う事が出来ません…でした…。私は自分が情けない…、悔しくて…仕方ありません…」
 聖蘭は声を殺しながら涙を流す。
「良いやないか…、神にも悪魔にもなれなくたって…。俺の好きになった聖蘭さんは誰よりも優しいから…、誰よりも強くてキレイになる事が出来る人なんやから…」
 そんな聖蘭の肩を泣きながら優しく叩く大河。
「せやで…、聖蘭さんが自分を責めると、うちらも悲しいんやで…。聖蘭さんが好きやから…。きっと、弟さんもそう思てる…。せやから、もう自分を許したってよ…」
 そう言いながらも自分も泣き崩れる夕鶴…。
「夕鶴さん…、貴女こそ…、泣かないで下さい…」
 そして、三人で抱き合う。
「聖蘭さん…、僕は姫がやってた祓魔師の仕事を引き継いで、弟さんのように環境に追いつめられた人達の心の闇と戦って行こうと思うんだ…。
 だから、姫が自分自身の人生を全うする事を認めてあげて欲しい…。
 遅かれ早かれ人の死は避ける事は出来ないものだけど、その時を迎えて誰かに祝福されながら旅立つ事が出来れば最高に幸せだって思うから…。
 僕は姫が何よりも大切だから、何よりも幸せになって欲しいんだよ…」
「貴方は悲しくないのですか…?」
「そりゃ、もの凄く悲しいよ…!
 だけど、僕には悲しみを分かち合える友達がいるから、どれだけ時間が掛かったとしても何時かは乗り越えられると信じている…!
 それに今は姫を幸せにする事を想像すると、悲しみより楽しみの方が勝るしね…!」
「決して自分自身を捨てる事なく柔軟に環境と融和する…、それが貴方の本当の強さなのですね…。そうなれば私は完全に負けを認めるしかありませんね…」
「だったら、これはもう要らないよね…!!」
 竜斗が取り出したものは、トーナメントで勝ち取った計18枚のタロットカードだった。
「はい、勿論です…!」
 聖蘭は涙を拭き取りながら大きく頷いた。
 竜斗が天高くタロットカードをばらまくと、聖蘭が具現化した斬馬刀から放った炎で燃やす。
 それで終わるはずだった。
 だが、タロットカードはそれ自体が自我領域のようなものを発し、空中でシャッフルされながら黒い渦となって世界を覆って行く。
「な、なんやねん、これは…!?」
 そして、ピシピシと音を立てて空間そのものにヒビが入って行く。
「ボクが思うに世界そのものが壊れて行っている感じですね…!!」
「まさか、世界の再構築…!?」
 それは竜斗が走馬灯の中で見た世界の再構築に似ていたが、あの時は白と黒の渦が融合して行く感じであったが、これは黒一色であった。
「なんでや、竜斗センパイがタロットカードを放棄して、それで終わりなんちゃうん!?」
「ふっ、悪い冗談も良い所だ…!!」
「全ての力には慣性が働く、それは物理で習った事があるだろう。
 おそらく、計画を阻止したものの世界の再構築を繰り返そうとする力は急には止まらず、破壊と再生の核となる者も存在しない為に暴走を始めているものと考えられる。
 このままでは世界は破壊されて消滅する事となるだろう」
 ブラフマンはサングラスを光らせながら言う。
「そ、そんな…!!」
「ならば、誰かが核となって力を制御すれば良いだけだ」
 ブラフマンはサングラスを外しながら言う。
「私がタロットカードを取り込み、世界の破壊を一時的に押さえ込む。その間に私を倒して全てを終わらせるのだ。
 子供達の歩む未来の礎となるのは大人としての当然の責務だ。
 だが、私は他者の気持ちを考えず自分自身の考えを押しつけ、子供達を苦しめる事しか出来なかった最低の大人だった。
 だから、最後に一つぐらい大人としての正しい姿を子供達に見せておきたいのさ」
 そう言って彼は優しく微笑む。
 それは狂気に取り憑かれたブラフマンとしての仮面を脱ぎ捨て、子供達を導く先生であり、二人の娘を持つ父である旭陽昇としての素顔だった。
「おじさんっ…!!」
「お義父さん…!!」
 朝陽昇は竜斗と奏真の制止を振り切ると、渦の中心に向かって飛び込む。
 そして、彼は巨大な人型の何かへと変貌する。
 その背中には無数の黒い羽が生え、光の輪を背負い、身体には道化を思わせる紋様が刻まれている。
 右手には剣、左手には盾を持ち、胸と額には宝玉のようなものが埋め込まれているようだった。
 まさしくそれは、No.0愚者→No.21世界への進化の具現。
「まるで道化と神の融合体…、フール・ザ・ワールドと言うべきかっ…!!」
 奏真がそれが放つ圧倒的な自我領域を前にして思わず呟いた。
 そして、その未知の存在は己を中心にして世界を歪に改変して行く。
 下半身を海岸ビルと一体化させて取り込むと、建物は臓物を思わせる異形へと変化し、ボコボコと音を立てて脈動する。
「うわっ、なかなかの気持ち悪さですね…!!」
 安室は思わず呟く。
「あの程度に怯えるとは、相変わらずのヘタレ具合ですね」
 そう言う聖蘭はすっかり落ち着きを取り戻していた。
 ビル内部の警備に当たっていた一般生徒達は改変に巻き込まれ、テレビゲームに出て来る怪物のような姿に変貌して塔屋から次から次へと溢れ出て来る。
「きゃーっ!! なんかモンスター出て来たでっー!! あれって、ここに来る時に伸びてた生徒達やない…!?」
「一体、どないしたら良いんや…!!」
 大河は涙を零して慌てる。
「そう言う時は自分に出来る目の前の事に集中すれば良い…、そうあの巨大な怪物…フール・ザ・ワールドと戦う事を考えれば良いんだ…!!
 おそらくあれを倒せばこの世界の破壊も、滅茶苦茶な改変も戻す事が出来るはず…!! 
 ここに居るみんなの力を合わせば不可能は無いよ…!!」
「そやな…!!」
 その場にいる全員は竜斗の声を聴いて落ち着きを取り戻す。
「奏真先輩に聖蘭さん、安室さんは完成された大アルカナを使って、フール・ザ・ワールドに直接攻撃を仕掛けるんだ…!!
 大河を始めとして他の戦える人達はビルの中から出て来るモンスターを止めて欲しい…!! ただし、殺さないようにね…!!」
「うちはどないする…?」
「夕鶴は僕と一緒に少し離れた所から戦いを観察して、フール・ザ・ワールドの弱点を探って欲しい…!! 闇雲に突っ込んでも勝てる相手じゃない…!!」
「了解…!!」
 そして、竜斗の作戦通りに動き出す面々。
 奏真、聖蘭、安室は自我領域を展開して各々の武器を具現化すると、建物の屋上から生えた異形の前に躍り出る。
「ふっ、何処から攻撃していいものやら」
「ほんとですね、幾らなんでも大き過ぎますよ…!!」
 戸惑っている三人に向かって巨大な剣が振り下ろされる。
「そんな事を言っている間に攻撃が来ます…!!」
 聖蘭の声で間一髪と言う所で避ける事に成功する。
 だが、次の瞬間には額の宝玉が光り、三人に向かって雷が放たれていた。
 聖蘭と安室は熟練した勘によって危険を察知して避けたが、二人に比べて未熟な奏真はその攻撃を食らって半身が黒こげになる。
「うわっ、奏真先輩相変わらず攻撃食らい過ぎやわぁ…!!」
 しかし、奏真は他の二人には無い、経験を補って余る程の能力を持っている。
「なかなか、強力な攻撃じゃないか…!!」
 奏真は慣れた様子で再生し涼しい顔をしていた。
「でも、あの攻撃食らったのが奏真先輩で良かったで…!! 他の人やったらアウトやったし…!!」
「よし、奏真先輩はチャクラムを使って、あの額の宝玉を狙うんだ…!!
 それと出来る限りあの雷を引き付けて他の人の弾除けになって欲しい…!! そして、もし他の人が怪我したら直ぐに回復させるんだ…!!
 辛い役目だけど、あの攻撃に対抗出来るのは奏真先輩しか居ない…!!」
「ふっ、そいつは責任重大だね…!!」
「あとは両腕やね…!!」
 聖蘭と安室は協力して重い剣撃を放つ右手を攻めようとするが、鉄壁の防御力を秘めた盾を持った左手に攻撃を阻まれてしまう。
 盾に攻撃を防がれてしまうのは額の宝玉を狙う奏真も同じ事であった。
「防御は硬いようですね…」
 そして、二人に生じた隙に右手が攻撃を仕掛けて来る。
「この攻撃もアホみたいに強力ですわー!!」
 二人の実力からして避けられない攻撃では無いが、それを繰り返せば体力が無くなってしまう事は目に見えていた。
「アカンよっ…!! これはジリ貧になるパターンやわ…!!」
「よし、二人の炎と氷の力を融合した合体技を盾に仕掛けてみよう…!! 自然の理を完全無視した合体技に勝る攻撃力は無いはず…!!」
 竜斗は昨日の戦いで聖蘭と安室の自我領域が交じり合った空間を思い出して言う。
 完成された大アルカナの力は自然の摂理を歪め、本来あり得ない現象ですら引き起こす事が出来るのだ。
「了解です…!!」
「行きますよ…、安室…」
 聖蘭は炎を纏った斬馬刀を、安室は氷を纏った槍を空中に出現させ、同期回転させながら盾に向かって解き放つ。
 氷が燃え、炎が凍る自然界ではあり得ない現象を受けた盾は、その未知のエネルギーが発する激しい光に包まれる。
「やったか…!?」
 だが、爆風を薙ぐように巨大な剣が聖蘭と安室に襲いかかる。
「な、なんだとっ…!?」
 大きな隙を見せていた二人は床面に振り下ろされた際に発生する衝撃波でダメージを受ける。
「どうやら、あの盾は一切のダメージを受けていないようですね…」
 クールな聖蘭の額に珍しく汗が垂れる。
「うそやんっ…!! ほぼ全ての攻撃を無効化するって反則やないのっ…!!」
「だったら、盾以外の場所を狙えば良いだけだよ、例えば盾を搔い潜って腕を直接攻撃するとかね…!!
 聖蘭さんの変幻自在な攻撃スタイルを持ってすれば十分可能な事だよ…!!」
「了解しました…」
 だが、五月蝿いハエを叩くように右手の剣が聖蘭に執拗な攻撃を仕掛けて来るので攻撃に転じる事は出来ない。
「こうなると右手と左手同時に攻めなきゃアカンよっ…!!」
「安室さんの能力で右手ごと凍らせて、一瞬で良いから隙を作る事が出来ないかな…?! 然したるダメージは与える事は出来なくてもそれで十分だよっ…!!」
「解りましたっ…!!」
 竜斗と夕鶴の作戦は見事機能した。
 安室が右腕ごと剣を凍らせて一瞬動きを止め、その隙に聖蘭は盾を搔い潜って左腕を直接攻撃する。
 左腕にダメージを受ける事で盾の動きが鈍くなり、奏真も額の攻撃を一人で引き寄せながらチャクラムでダメージを与える事が容易になる。
 更に額に攻撃を加えている間は電撃攻撃も影を潜めていた。
「よしっ!! いい感じやね!!」
 そして、ブンっと言う音を立てて額の宝玉と左腕が消滅する。
「やったでっ!! これで大分楽になるはずやっ!!」
 だが…!
 胸の宝玉が光ったかと思うと、瞬間的に左手と額の宝玉が再生した。
「うわっ、ズルイっ!! 再生なんて卑怯者のやる事やんっ!!」
「お前、それ言っちゃうの!?」
「ふっ、再生能力と言うのは敵にやられると良い気はしないものだな…!」
「はい…、正直卑怯だと思います…」
 そして、少し遅れて小さなダメージを蓄積された右腕が消滅するが、またしても胸の宝玉が光って瞬時に再生される。
「ボクの苦労も一瞬にして水の泡ですね…!!」
 しかし、フール・ザ・ワールドの攻撃を防ぐ為には、無駄だと解っていても今のやり方で攻撃し続けるしかない。
「やっぱり、あの胸の宝玉を先に片付けるしか無さそうだな…!!」
「でも、どうするん…? 他の人は精一杯の状態やで…!!」
「僕が行くっ…!! 武器はみんなに返しちゃったから、夕鶴のマシンガンを借りるよ…!!」
「気を付けたってね…!!」
「ああっ…!!」
 竜斗は戦場に躍り出て他の三人と阿吽の呼吸で作戦を共有すると、フール・ザ・ワールドの胸の宝玉に向けてマシンガンを零距離で一斉射出する。
「食らえっーーーーーっ!!」
 薬莢が踊り、硝煙が漂い、自我領域とぶつかって派手な光を上げているが、見た目の派手さに対してどうも手応えを感じなかった。
 案の定全ての弾薬を使い切ってたとしても、フール・ザ・ワールドの外観上に何ら変化は見られなかった。
「マシンガンが効かないならば、直接殴ってやるっ!!」
 竜斗はマシンガンを捨てて気を込めた拳を叩き付ける。
 だが、フール・ザ・ワールドは完成された大アルカナに匹敵する自我領域を持っているらしく、鉄板をガンガン叩いているような感触で竜斗の拳の皮は血に塗れる。
「くっ、硬いっ!!」
 つまり、完成された大アルカナに匹敵する程の攻撃力を持たない限り、太刀打ち出来ないと言う事だ。
「ダメやんっ…!! 竜斗センパイじゃ攻撃力が足りないんや…!!」
「竜斗…!!」
 他の面々は攻撃の合間を縫って竜斗に加勢しようとするが、その僅かな隙を見逃すフール・ザ・ワールドでは無く、下手すると瞬間的に全滅してしまう恐れがあった。
「これじゃ、手も脚も出ないや無いのっ…!!」
 だが、それでも竜斗は決して諦めない。
「手も脚もダメだったら頭も出してやるっ…!! それでダメだったら体当たりでも何でもすれば良いっ…!!」
 何度も何度も殴りつける。
 何度も何度も蹴り付ける。
 何度も何度も頭を叩き付ける。
 何度も何度も体当たりを繰り返す。
 全身が打ち身だらけであまりの痛みに悲鳴を上げながら。
「ぐっ…!! まだまだっーーーー!!」
 連戦に継ぐ連戦で体力が尽きかけ、もはや限界に近くなっても竜斗は攻撃の手を緩める事は無かった。
「竜斗センパイっ…!!」
 夕鶴は竜斗の痛々しい姿に涙を流すが、止めろと言う事は出来なかった。
 ここに集まった全員が己の限界へと挑むような戦いを続け、先が見えない苦しみの中で心が折れないで居られるのは、先頭で立ち向い続ける竜斗の気持ちに支えられているからだ。
 竜斗が諦めない限り、誰一人諦めようとはしないだろう。
 それが解っているからこそ、夕鶴はどんなに辛くても竜斗を止めはしない。
 見守り続ける事も戦いなのだ。
 フール・ザ・ワールドは無力ながら邪魔な存在である竜斗を鬱陶しがり、聖蘭に攻撃され動きが緩慢になった左手の盾でゆっくりと押し潰そうとする。
 当然、竜斗はそれに気がついていたが、限界に達した身体は思うように動かなかった。
「待ってろっ、こんな奴ぶっ殺して今助けてやるっ…!!」
 聖蘭が怒りを露にして怒濤のラッシュを仕掛け、竜斗に危害が及ぶ前に左手を滅ぼそうとするが、その壁はあまりに厚かった。
「マズいですねっ…!!」
 安室が顔を真っ青にする。
「逃げろ竜斗っ…!!」
 奏真が叫ぶ。
「竜斗センパイ、転がって避けるんやっ…!! 力が入らんでも身体を動かす方法はあるんやでっ…!!」
 夕鶴が自分自身の経験から竜斗にアドバイスを送る。
 仲間達の声に背中を押されるように竜斗は気力を絞り出し、間一髪転がるようにして盾での攻撃をかわす。
「僕はっ…、僕は…、最後の最後まで絶対に諦めないっ…!!」
 そして、間髪入れず再び盾が迫り来る。
「コイツを倒して皆を…、この世界を救うんだっ…!!」
 再び転がりながら避ける。
「姫を絶対に幸せにするって決めたんだっ…!!」
 だが、次の攻撃を避ける体力は竜斗に残されていなかった。
「だから、こんな所で死んでたまるかよっ…!!」
 竜斗は動かなくなった身体でフール・ザ・ワールドを鋭く睨みつけた。
 だが、巨大な盾は無情にも竜斗へと迫り来る。
 誰もが竜斗の覚悟したその時だった…!!
「貴方は死にませんわっ!! わたくしが命に代えても守りますからっ…!!」
 小柄な黒い影がビルの塔屋から溢れ出たモンスター達を薙ぎ飛ばしながら現れる。
 ツインテールにした美しい銀色の髪が風になびく。
 きめの細かい白い肌を露出させながら、フリルの付いた黒いドレスを翻す。
 ガーターストッキングに覆われた細い脚を振り上げる。
 厚底のブーツで地面を力強く蹴り出す。
 切れ長の瞳に刀剣を思わせる鋭い光を宿したそれは、人間の限界と言うものを遥かに凌駕したスピードで竜斗の元へと駆けて行く。
 そして、巨大な盾が押し潰す間一髪の所で、竜斗の身体を軽々と抱え救い出した。
 口元を僅かに歪ませ、静かな微笑を浮かべた。
「姫っ…!!」
 竜斗がその名を呼ぶ。
 香夜姫…、本名旭陽月夜。
 それは本当の強さを持つ史上最強の少女の名だった。
「なんで来たんだよっ…!! 僕は姫を戦いに巻き込みたくなかったのにっ…!!」
「ふふふっ、お馬鹿さんですわね。わたくしが貴方に会いに行く理由は一つに決まってますのよ。愛している…、ただそれだけですわ…!!」
 姫は竜斗をフール・ザ・ワールドから少し離れた夕鶴の元へと避難させる。
「馬鹿は誰だよ…。でも…、来てくれて嬉しいよ…」
 竜斗は後から、後から涙が零れ出るのを止める事が出来なかった。
「ごめんね…。竜斗が帰って来るのが遅いから、私が起して話しちゃったの…」
 姫の後からやって来た空が合流して言う。
「聖蘭さんを倒して計画を阻止したんやけど、タロットの力が暴走して世界の破壊が止まらなくなって、ブラフマンがそれを押さえ込む為にああなってもうたんや…!!」
 夕鶴が姫に状況説明した。
「まさか、お父様がそんな事を…。
 それに聖蘭さんを倒すばかりか味方に引き入れるなんて、まるで寝ている間に世界が改変されてしまったような気分ですわ…。
 本当に…、本当によく頑張ってくれましたわね…。
 幸せで…、幸せで…、嬉しくて…、嬉しくてたまりませんわ…」
 そう言って竜斗の傷付いた身体を愛おしそうに優しく抱き締める姫。
 それだけで竜斗の苦労は報われた。
「でも、あんまり無茶はなさらないで下さいな…。貴方の痛みはわたくしの痛みなんですから…」
「ああ、だからこれから先は最後まで一緒だよ…。嬉しい事も…、楽しい事も…、悲しい事も…、辛い事も…、全てを二人で分かち合おう…」
 そして、竜斗は姫と抱き合いながら唇を重ねる。
 音を立て舌を絡み合わせる。
 肩を抱く。
 背中をなぞる。
 尻の谷間にまで手を滑り込ませながら愛撫する。
 熱く燃え滾る互いの下腹部をすりあわせる。
 愛する人と一緒にいる。
 身体を触れ合わせる事が出来る。
 ただそれだけで力と勇気が湧いて来るようだった。
「帰ったらこの続きをしようか…?」
 先程まで力つきていたのが信じられないほど、竜斗の身体からは強い生命力が溢れ出ていた。
「ふふふっ、良いですわね…!! ではさっさと片付けてしまいましょ…!! わたくし達の力を合わせれば楽勝ですから…!!」
 姫は竜斗に予備の胡蝶刀を手渡すと、スカートの中から家宝の天叢雲剣を抜き出す。
 竜斗の身体からは陽の気が、姫の身体からは陰の気が立ち上がり、太極図のような紋様を描きながら交じり合って行く。
 そして、何処までも、何処までも転化し、無限大に気が高まって行く。
 易に太極あり。
 太極から両儀が生じた。
 そして、陰陽の精が一つとなって万物が産まれる。
 それは古来から伝わる哲学的世界観であり、男女の交りにより気を高め森羅万象の理に至る技法を房中術と言った。
 気を感じる事が出来ない空や夕鶴でも、二人の周囲の大気が歪み、何か大きな力が発せられている事が見て取れた。
「凄い…!! 二人から命の力が湧き出てるみたい…!!」
 空は顔を紅潮させて感動する。
「これはまさしく二人の愛の力やね…!! でも、あんな濃厚な絡みを見せつけられたら、恥ずかしくてしょうがないわぁ…」
 夕鶴は顔を真っ赤にしながら脚を擦り合わせモジモジしながら言う。
「うん、やっぱり二人一緒に居られるって良いよね…!!」
 そう言う空は今までの二人の道筋を思い出して涙を零した。
「行きますわよっ…!!」
「ああ…!! 一撃で決めてやるっ…!!」
 竜斗と姫はそれぞれの武器に気を込めた渾身の斬撃を放つ。
 姫の一文字斬り!
 竜斗の十文字斬り!
 白と黒の入り交じった激しい閃光を放つ最強の一撃は、フール・ザ・ワールドの胸部に大穴を空けていた。
 再生を司る宝玉は微塵も残っていない。
 そして、安室が右手を、聖蘭が左手を、奏真が頭部の宝玉を倒す。
 フール・ザ・ワールドは大地を揺るがすような轟音を立てて、眩しい光を放ちながら粒子が分解されて崩されるように消えて行った。
「…どうやら、上手くやったようだな」
 すっかり元通りになった海岸ビルの自室で目を覚ました旭陽昇は、自分を見守る面々を見渡しながら言った。
 そこに居たのは走馬竜斗と青海奏真。
 それから彼の実の娘である香夜姫こと旭陽月夜と空の姉妹だ。
 旭陽昇は元通りになって何時ものスーツ姿のまま寝ていた。
 ただし、素顔を隠すサングラスは胸ポケットにしまったままになっていた。
「まったく、お父様も無茶しますわね…」
 姫は憔悴しながらも満足そうな父親の顔を見て飽きれる。
「月夜か…、お前には本当に辛い思いをさせてしまったな…」
 旭陽昇は姫の顔を見ると目を瞑る。
「ふふふっ、良いんですの…、お父様の気持ちはちゃんと解っていますから…」
 姫はそう言うと微笑んだ。
「そうか…」
 そして、旭陽昇は胸ポケットからサングラスを取り出すと静かにかける。
 しかし、溢れ出る涙を隠す事は出来なかった。
「お父さん…、お姉ちゃん…、本当に良かったね…!」
 その短いやり取りだけで、また遠い昔のように家族に戻る事が出来た。
 そう思うと空は嬉しくて嬉しくて仕方無く、奏真の胸に抱きつき声を出して泣いた。
「ふっ、家族と言うものは良いものだな…」
 奏真が空の肩を優しく抱いた。
「そう言う奏真も家族の一員でしょ…?」
「そうだな、ようやく本当の家族になる事が出来たって所さ…! でも、それは俺だけじゃないけどね…!!」
 そう言うと奏真は竜斗にウィンクする。
「では、お義父さん…、約束は守ってもらいますよ…!!」
 竜斗は奏真に頷くと、旭陽昇に向かって微笑みながら言う。
「まさか本当に君にそう呼ばれるようになるとはな…。良いだろう…、君を一人前の大人の男として認めて月夜を託すとしよう…!」
「あら、どう言う事ですの…?」
 一連の流れの意味が解らない姫は首を傾げながら聴く。
「僕が姫を連れて帰るって事だよ…、さぁ、行こうか…!!」
「何だか解りませんが、妙に頼もしいですわね…!」
 竜斗は姫をエスコートしながら退室する。
「ふっ、しっかりやれよ、兄弟…!」
「月夜お姉ちゃんも、竜斗お義兄ちゃんもお幸せにね…!!」
 そんな二人に奏真と空がエールを送る。
 そして、部屋の外に出た所で姫が竜斗に聴いた。
「ふふふっ、竜斗さんったら、ようやく空さんに兄と呼ばせる事に成功したんですのね…!」
「ああ、長い事苦労した甲斐があったよ…!!」
 旭陽家の自宅兼診療所を出てエレベーターに乗ると、一階のロビーでは元大アルカナとそのパートナーを始め大勢の生徒が出迎えていた。
 人の群れはまるでモーゼの十戒のように二人の行く道を開けて行く。
「よもや、あの怪物を倒してしまうとは、流石我が輩の王者の技を受け継ぐ男なり!!」
 生徒会長は副会長を従え、扇子を仰ぎながら二人を祝福する。
「しかもテメェ、その奇天烈な女と肩を並べて戦うって夢を叶えたじゃねぇかよ!!」
「やるじゃないか、アンタ…!! 絶対に諦めないって言うその気持ちは伊達じゃないねぇ…!!」
 工藤と木村は病院で竜斗に説得された時に姫と一緒に戦う事が夢であると聴かされていたので、最終戦での最後の一撃を見た時に密かに誰よりも感動していたのだった。
「我々も敗北を糧にし貴殿に負けないような武士を目指して精進しようではないか!!」
 かつて生徒会四天王と呼ばれた恐れられた四人であったが、武闘派である事は変わりなくても歪んだ思想は何処にも無かった。
「ぼそっ、ぼそぼそっ…」
「まさに物語のヒーローとヒロインはお前達だな…と図書委員長は申しています」
 図書委員の二人は相変わらずな感じであった。
「最高のっ、Finaleをっー!!」
 そこにビジュアル系が現れ、珍しく日本語の織り混ざった台詞を言う。
「おいっーーーっ!! お前は英語の台詞しか喋らないキャラじゃねぇのかよっ!!」
 図書委員長はビジュアル系のあるまじき失態に思わず自分で突っ込んでしまう。
「そう言う図書委員長もキャラが崩壊しています。まったく最後の最後まで自分のキャラを貫き通して欲しいものです…と私は自分で申してみたりします」
「なんだったら、今ここで漏らしてやろうか…!?」
「の、No,Thank Youでーす…!!」
「もはや、台詞が全然ビジュアル系じゃありませんね…と私は言われるまでも無く自分で申します」
 図書委員とビジュアル系と言う異色の組み合わせは、まるで漫才でもしているかのようなノリだった。
「良かった…、間に合ったね…!!」
 宝塚が竜斗の元に駆けつける。
「そんなに慌ててどうしたの…!?」
 まるで練習の後のように汗だくになっている様子だった。
「これ…、みんなでお金出し合って…、私が元町の駅前まで急いで買いに行ったんだ…! 私達の気持ちだから受け取って欲しいの…!!」
 宝塚はそう息を切らせながら言うと、竜斗に耳打ちして小さな箱を渡す。
「本当にありがとう…!!」
 竜斗は宝塚の肩を抱きながらお礼を言う。
「うん…、喜んでもらえて嬉しい…! 幸せになってね…!!」
「宝塚さんこそね…!!」
 そして、外に出ると聖蘭、安室、大河、夕鶴の四人が待っていた。
 建物前の道路には聖蘭の愛車である青色のユーノスロードスターが停まっている。
「よっ、待っとったで相棒ーっ!!」
「安室さんから聴いたけど、ヘタレの竜斗センパイにしては良い事考えたやないの…!! まぁ、それもうちのお陰やけどね…!!」
「ちぇっ、恩着せかましい奴だなぁ…。でも、粉うことなく事実だし、一応お礼を言っとくよ…!!」
「一応ってなんや、アホぉ…!!」
「夕鶴、お前先輩にその口の聞き方無いと思うで…!!」
「ほーっ、お前ヘタレの癖にうちに説教するんか…!? 良い度胸やないの…!!」
 夕鶴は手をゴキゴキ鳴らし、大河の股間を狙う気まんまんだ。
「俺はもうヘタレや無いで…!! やれるもんやったらやってみれや…!! ホレホレっ…!!」
 そう言うと大河は大の字に両手両足を広げ夕鶴に股間を突きつける。
「おおっ、大河くんまでその必殺技を使うとは…!! それでこそ男と言うものですよっ…!!」
 安室は大河に自分の姿を重ね合わせて感動する。
「お前ら、ホンマに最低やね…!!」
「ええ、最低です…」
 夕鶴と聖蘭は呆れ顔だ。
「ふふふっ、素晴らしい技ですわね…!!」
「何処がだよっ…!?」
 他の女性陣とは正反対の感想を言う姫に竜斗は思わず突っ込んだ。
「解ったからそのポークビッツしまえや…!! しゃーないから、竜斗センパイを先輩として認める台詞を言ったるよ…!!」
 夕鶴は意を決してぶりっ子っぽい顔を作る。
「竜斗先輩、頑張って下さいっ!! うち応援してますわっー!! って恥ずかしっ!!」
 そして思いっきり可愛らしく言うが、あまりの恥ずかしさに顔を真っ赤にして蹲る夕鶴。
「やっぱ無理やんっ!! 竜斗センパイはセンパイであって先輩や無いしっ!!
 って言うかさっきからこのキャラ崩壊ラッシュなんやの…!? うち付き合ってられへんよっ…!!」
「夕鶴まで無理にキャラ崩壊させる事は無いよっ…!! 夕鶴は夕鶴で十分さ…!!」
 竜斗は笑いながら夕鶴の肩を優しく叩いた。
「ホンマに…!? そう言ってくれると助かるわー!!」
「んじゃ、そろそろ行くよ…!!」
 そして、皆の顔を見回し竜斗は手を振った。
「私のロードスターを使って下さい。かなりチューニングはされていますが、ディアブロやシルバークラウド・ツーに比べたら運転は容易かと思います」
「ありがとう…!!」
 竜斗は聖蘭から鍵を受け取ると、ロードスターの助手席のドアを開けて姫をエスコートする。
「あら、免許も持っていない貴方が運転しようって言うんですの…?」
 竜斗は笑いながらロールゲージに囲まれた運転に滑り込む。
「まぁね…!」
「その為に旦那様のお力でトーナメントと同じような超法規的な処置を取って頂き、走行するルートを完全閉鎖したんですよ…!」
 安室が説明する。
「ふふふっ、お父様まで手駒に使うなんて素敵な事を考えますわね…! でも、お家に帰るだけにそこまでする必要があるんですの…?」
「うん、その前にちょっとだけ寄りたい所があるんだ…! んで、この車どうやって動かすの…!?」
 そして、竜斗の一言でその場にいる全員がずっこけた。
「ふふふっ、わたくしが教えてさしあげますから、焦らず行きましょう…!」

 海岸ビルを出たユーノス・ロードスターは現代的なビルの立ち並ぶ国道2号線を東に走り、二つ目の税関前交差点で右折して高速のガード下をくぐる。
 閉鎖された道路の各交差点には奇術部を筆頭に県立高校の生徒達が立っていて、ロードスターを正しい順路へと誘導していた。
 そして、すぐ次の税関本庁前の交差点で右折する。
 カーオーディオからは聖蘭が買ったのであろう7月1日に発売された、L'Arc~en~CielのArkと言うアルバムが再生されている。
「初めて運転したわりにお上手ですわね…!」
「何時も姫や聖蘭さんの運転を近くで見てて、操作と動きの関係性ってのは大体解ってたから、実際運転しながらイメージと現実のズレを修正してるんだ…!」
「理の修行で培った関連性を結びつける考え方と、多彩な武器を使いこなす為の応用力の成せる技ですわね」
「でも、失敗するとエンストするとか、初めて知る事の方が多いけどね…!!」
 神戸らしい古めかしい趣きの税関本庁前を通り過ぎると、京橋ランプで右折して阪神高速3号神戸下り線に入る。
 加速車線に入ったその時、アルバムの3トラック目に収録されたDriver's Highと言う曲が流れた。
 アニメの主題歌にも使われた疾走感のある曲で、刹那なスピードの中で命を燃やす青春を思わせるような歌であった。
 感情の赴くままアクセルを踏み込むとロータリー・エンジンが勢い良く吹き上がり、甲高く軽快なエキゾーストノイズを奏でながら高速の本線に向けて力強く加速する。
 アクセルワークに忠実なロータリー・エンジンのレスポンスは、正しくチューニングされた楽器を思わせた。
 阪神高速3号神戸下り線は神戸の海沿いを東西に走る高架式道路だ。
 左右に立ち並んだ高いビルが後ろへと流されて行く。
 幾つかのゆるやかなコーナーを路面に這いつくばるようにして駆け抜け、長い直線の区間に入ると強い西日が射し込み思わず目を細めてバイザーを下ろす。
 朝の雨が嘘だったかのように昼下がりの空は気持ち良く晴れ渡り、まるで世界そのものの色が違って見えるかのようだった。
 火照った肌を冷やす為にエアコンを付けると、芳香剤の甘い林檎の香りが車内に広がる。
 ザラザラしたノイズと共に路面を転がるタイヤの感覚や、高架のエクスパンションを超える度に腰を叩く硬いサスペンションの感覚が心地良い。
 やがて、運転感覚のズレが修正されると、車そのものが自分の身体のように思えた。
 そして、直線区画を抜けて大きく右カーブすると小高い山が見えて来る。
 ちょうどオリックス・ブルーウェーブの本拠地グリーンスタジアム神戸のあるあたりだ。
 幾つかのカーブとトンネルを抜けて山を越えると、幾十にも路線が交差する垂水ジャンクションに辿り着く。
「ふふふっ、ここは日本でもっとも複雑だと言われる難所ですわ…。果たして迷わないで抜けられますでしょうかね…?」
 姫は笑いながら言う。
「大丈夫さ…! 手は打ってあるから…!!」
 垂水ジャンクションの分岐点には今までの交差点と同じように、県立高校の生徒達が立ち竜斗が間違わないように誘導していた。
 地味ながら大アルカナとして選ばれた貧乏学生の姿も見える。
「あら、こんな所にも誘導する方を配置していたんですのね…!!」
「まぁ、どんな対策をしたとしても間違いを避けられない事もあるし、最終的には失敗を恐れずに自分の信じるまま突き進むだけだよ…!!
 どんなに道を間違ったとしても、焦らずに修正すれば良いんだから…!!」
「ふふふっ、貴方も言うようになりましたわね…!」
 そして、垂水インターを神戸淡路鳴門自動車道方面に向かい、長いトンネルを抜けると突然視界が大きく開ける。
 淡路島へと渡る明石海峡大橋は青空に向かって何処までも伸びているかのようだった。
「まるで、お義父さんの大アルカナの能力みたいに、姫と一緒に空を飛んでいるような気分だよ…!」
「ええ、本当に…、夢みたい…、ですわ…!」
 竜斗がバックミラーを見ると、姫の頬が光るのが見えた。
「姫…」
「何も言わなくても…、解っていますわ…。貴方がわたくしとの約束を果たす為に…、皆さんの力を借りて…、頑張ってくれたと言う事を…」
 姫は止めどなく涙を零し嗚咽をこらえながら、一語一語を絞り出すように言う。
「わたくしは…、最初に産まれた世界で…、貴方の前世である双間創真さんの運転で…ドライブを楽しんだ事が…、長い間…、忘れられなかったん…ですの…。
 何度も…、何度も…、生まれ変わっても…。
 二度と戻れない思い出は苦しみでしかないから…、忘れてしまいたい事なのに…。
 ふとした時に楽しい思い出が蘇って…、虚しさを埋めるように…、思い出の曲を流しながら刹那的なスピードに…、何度も身を任せました…。
 事故で内蔵が破裂して…、死んで…、しまった事もありました…。
 でも、決して心が満たされる事は…、ありませんでしたの…。
 そして、強く思いました…、わたくしはただ死ねないと言うだけでは無く…、今を生きては居ない人間なんだと…」
 姫は涙を拭き取ると、臍下丹田式呼吸法で心を整える。
「それからは知っての通り、わたくしは自分の人生を取り戻す努力をしました…。
 そして、長い人生の果てに貴方と出会って、免許を取ったらドライブに連れて行って下さると約束して頂いた時です…。
 本当の本当に自分の人生を取り戻す事が出来たんだって…、そう思ったんですの…」
 姫は竜斗の横顔を見て笑う。
「姫…」
 竜斗は胸が高鳴り居ても立ってもいられず、自分の左手を姫の右手に重ねた。
「しかし、世界の再構築を止める事が出来たとしても、わたくしは貴方が免許が取れる年齢になるまで待つ事は出来ません…。
 だから、それは見果てぬ夢だと…、そう思っていました…。
 それなのに…、貴方は人々の心を動かして、その夢を叶えてしまいました…。
 本当に…、本当に…、嬉しくてたまりませんわ…!
 貴方には大アルカナに頼らずとも…、夢を現実に変えられる力が本当にあるのかも知れませんわね…!!」
「うん…、でもね、その力って…、そんなに特殊なものじゃ無いと思うんだ…。
 本当は誰もが自分自身の人生の主人公になって、周囲の人に影響を与えて夢を現実に変えて行ける力を大なり小なり持っている…。
 だけど、みんな力の使い方が解らないだけなのさ…。
 旭陽家に伝わるノウハウもその力を開花させる物で、儀式として形骸化しちゃってるから解りにくいけど、本当はもっと単純で簡単な事なんだと思う。
 周囲の人を大切にしながら生きられる優しさと、どんな事にだって前向きになれる強さを持てば良いだけなんだよ…!
 一生懸命生きれば人の気持ちを動かす事が出来るから…!!」
 竜斗は少し余所見し、姫の膝に手を置いて微笑む。
「そして、僕がその力を発揮する事が出来たのは、姫が一生懸命生きる本当の強さを教えてくれたからさ…! ありがとう、姫…!!」
 姫は顔を赤らめながら言う。
「お礼を言うのはわたくしの方ですわよ…! もう…、本当にお馬鹿さんなんですから…!!」

 淡路島に渡るとビルに囲まれた神戸からは一変し、豊かな緑に覆われた山の谷間を走り続けるような風景に変わる。
 僅かに窓を開けながら走行すると、潮と緑が合わさった自然の香りがした。
 排気ガスが殆ど無い本当に美味い空気を肺いっぱいに吸い込むと、頭が冴え渡り心と身体が癒される気がした。
 神戸淡路鳴門自動車道は島の北から南下しながら西の海側へと大きく湾曲し、そのまま東側へと向きを変える。
 そして、その途中の東西のほぼ中央付近にある津名一宮インターチェンジで一般道に降りる。
 県道66号線と県道86線を使って暫く北西に向い走って行くと、農村の風景が続く中に突然美しい神社が現れた。
「あった、ここだ…!!」
「ここは日本創世の神であるイザナギ・イザナミ夫婦を奉る伊弉諾神宮ですわね…!
 この神社には妻であるイザナミを亡くしながらも創世を終えたイザナギが、余生を過ごす為に構えたとされる幽宮があったはずですわ…!」
「さすが、姫…!! 僕が説明するまでも無く何でも知ってるね…!!」
「ふふふっ、伊達に何度もあの世は見てませんわよ…!!」
 竜斗は車を停車させると姫と共に震災で修繕されたばかりの綺麗な一の鳥居を潜る。
 参道を直進して二の鳥居を潜ると、放生の神池と呼ばれる美しい日本庭園の情景を楽しみながら通り抜け、正門の先にある拝殿でお参りをした。
「なんか、もの凄く強い気に満ちているね…!」
「淡路島は日本創世の際に最初に創られたと言う伝承があり、地脈と呼ばれる自然が持つ気の集中地点になっているんですの。
 その為か自然環境に恵まれた食材の宝庫になっていて、昔は育てた作物を神や天皇に献上し、御食島とも呼ばれていたらしいですわ。
 特に神社と言うのは自然信仰の名残りで地脈の強い場所に作られる物なので、更に力が集中しているのかも知れませんわね」
 そして、二人は拝殿の右隣に奉られている御神木の前に来る。
 それはかなり大きな楠の木で、根元から枝分かれし寄り添うように伸び、天を覆うかのように青々とした枝葉を広げていた。
 夏の温かい日差しが零れ日となって射し込む。
「ここに来たかったんだよ…!!」
「これはイザナギ・イザナミが宿る御神木であり、夫婦円満、安産子授、縁結びにご利益が有る樹齢900年の夫婦大楠ですわね。
 貴方がこれからなさろうとする事にはピッタリな場所だと思いますわよ…!」
「あ、やっぱりバレてた…?」
「ふふふっ、わたくしを出し抜くのは不可能ですのよ…!
 皆さんの様子からも察する事は出来ましたし、宝塚さんからその箱を渡された時の耳打ちも聞こえてましたわよ…!」
「だったら話は早いね…!!」
 竜斗は箱の中から指輪を取り出す。
 中央部分のダイヤがそれなりに大きく、プラチナリングの外周には小さなダイヤが散りばめてあった。
「うわっ…、結構高そうじゃないか…!!」
「0.4カラットのダイヤとプラチナで、おそらく35万円ぐらいの物でしょうか?
 仮に一人頭で1000円を集金したとしたら、350人の協力を得られたと言う計算になりますわね…!」
「数字で聴くとますます凄いな…!!」
「でもそれは貴方が勝ち得た信頼の証であり、皆さんの貴方に対する気持ちですので、有り難く思いましょう…!」
「そうだね…!」
 竜斗は涙を拭きながら姫にそれを差し出す。
「姫…、僕と結婚してくれないかな…? 
 僕はまだ法的に結婚が認められる年齢じゃないけど、夫婦としての本質って籍を入れる事じゃなくて、家族として力を合わせて生きる事だと思う…!!
 だから、僕は姫と一緒に共同作業をしたいんだっ…!!」
「ふふふっ、わたくしこそ喜んで貴方と夫婦に成らせて頂きますわ…!!」
 竜斗は跪くと姫の手を優しく握り、その白く細い指に輝く指輪をはめ込んだ。
 そして、姫の目ににじむ涙をハンカチで拭う。
「でも、改まって共同作業って何をするんですの…? 先ほどのキスの続きでしたら大歓迎ですわよ…!」
「度肝を抜くような事さ…! そう、姫だって出し抜けるぐらいのね…!!」

 竜斗達が次に向かった所は淡路島の北西…、神戸淡路鳴門自動車道の北淡インターチェンジの近くにある育波と呼ばれる地区だった。
 夕焼けに包まれた周囲は綺麗に区画された農地が何処までも続いている。
 肥料の臭いや蜩の鳴き声と合わさり、遠い記憶の中に戻ったかのような懐かしい雰囲気で、御食島と呼ばれた淡路島の原風景を思わせた。
「あらあら、こんな所でなさるんですの…? 時と場所を選ばない衝動は若さ故の過ちですが、それはそれで悪く有りませんわね…!!」
「ほんっと、姫ってトコトン・スケベだよなぁ…!!」
「ふふふっ、それは貴方も同じじゃなくて…?」
「まぁ、それは否定しようが無い事実だけど、今回の目的はちょっと違うのさっ…!!」
 竜斗と姫はトタン屋根の細長い小屋が立ち並ぶ一角にある店舗に入る。
「あら、これは養鶏所の直売所みたいですわね…!」
「ここは何時も聖蘭さんが配達を御願いしている養鶏所さ。
 ここで育てられている、さくらともみじって言う二種類の純国産の鶏から産まれる卵は、料亭とかでも使われている淡路島の名産品らしいよ。
 どっちも良さそうだから、とりあえず両方買って帰るとするか…!」
「それで何するんですの…?」
「卵を使ってする事と言えば決まっているでしょ…?」
「流石のわたくしでも、そんな上級な変態プレイは想像も付きませんわね…!」
「だから違うってばぁ…!!」

「やりたい事ってお料理だったんですね…!」
「そうさ、何時もは聖蘭さんに任せっきりだったし、今朝安室さんが用意出来なかった淡路島の卵を使って、姫と一緒にご飯を作ってみたかったんだ…!」
 竜斗と姫は風見鶏の館に帰り、普段入った事が無い地下の厨房に来ていた。
「ふふふっ、それも良いですけど、一度もお台所に立った事の無いわたくし達に出来ますでしょうか…?」
「聖蘭さんが簡単なレシピ帳を作ってくれたから大丈夫さ…!」
 竜斗の取り出したノートには聖蘭の字で、馬鹿にも出来る簡単料理レシピとデカデカと書かれていた。
 聖蘭は竜斗と姫を見送った後、風見鶏の館に来てレシピを書いたり、食材の用意をしたり様々な準備を進めていたようだ。
「それはありがたいですけど、なかなか凄いタイトルですわね…!」
「僕が馬鹿なのは疑いようの無い事実だけど、さり気なく姫も僕と同じ部類にカテゴライズされているよね…?」
「ふふふっ、お馬鹿さんなのはお互い様ですわ。でも、だからこそ一緒に学んで行けるのですから、決して悪い事では無いと思いますわよ…!」
「じゃあ、今回はこのレシピの中から馬鹿にも出来るオムライス…通称馬鹿ライスを作ってみよう…!」
 馬鹿にも出来るの横には、お嬢様にも出来ますと書かれていた。
「もはや名指しで馬鹿にするとは聖蘭さんもやりますわね…! こうなったら、見事成功させて見返してやるしかありませんわ…!!」
 姫は両の拳を握りしめて闘志を滾らせる。
「その意気や良しっ…! さっそく手分けして取りかかろうっ…!!」
「わかりましたわ…!!」
「まずはバターライスから作って行こう。
 二人分で必要な材料は、ご飯360g、鶏肉60g、たまねぎ50g、ピーマン1/8個、トマト50g、塩ひとつまみ、こしょう少々、トマトケチャップ大さじ1、ウイスターソース小さじ1/2、白ワイン小さじ1、バター15gってなっている。
 既に聖蘭さんが用意してくれているから、それを手分けして切っていこう。
 僕はタマネギとピーマンを7mmぐらいに平べったく切るから、姫はトマトを1cm角ぐらいのサイズに切ってね…!!」
「解りましたわ…!!」
 姫はプルプルと震えながら包丁をトマトに押し当てるが、誤って押し潰してしまい周囲に赤い果肉を飛ばす。
「なんとっ、破裂しましたわっ…!!」
「白い筋の部分は硬いらしいから、そこを避けて真っ直ぐ引きながらやると良いかも…!」
「そんな事言っても恐いんですもの…!」
「頑張れっ…!! ぐわぁーっ!! 目がぁーー!! 目がぁーーーーーーっ!!」
 竜斗は作業をしながら姫にエールを送ろうとするが、突然涙を流しながら苦しみだす。
「突然どうしたんですの…!? ぐっ…!! なんですのこれ…!? 急に目と鼻が痛くなりましたわっ…!!」
 姫も突然、鼻と目を刺激されて涙を流す。
「ぐっ、これが噂のタマネギの威力と言うヤツか…!?」
「まさか催涙ガスに匹敵するとは…、あまりにも恐ろしい代物ですわね…!」
「よしっ、いったん中断して注釈を読んでみよう…!
 な、なんだとっ…!? タマネギは皮を剥いてラップでふんわり包み電子レンジで加熱しろだって…!? しかも、美味しくなって目も痛く無くなるとは…!!
 1個分150gで500wで6分が目安…、って事は50gで2分ぐらいって所だっ…!!」
「様々な秘技を駆使しなければならないとは、料理と言うものは侮れませんわねっ…!!」
「だが、僕達は負けるわけには行かないんだっ…!!」
「そうこうしている間にトマトはぶった切りましたわっ…!!」
「よしっ、次は鶏肉を親指の先ぐらいの大きさに切って、軽く塩こしょうするんだっ…!!」
「親指の先ぐらいって言いますけど、わたくしの可憐な親指と、お相撲さんの図太い親指ではかなり大きさが違いますわよ…!?」
「確かになんて曖昧な表現なんだっ…!!」
「こうなったら、大河さんのポークビッツの先ぐらいにしておきますわ…!!」
「お、おうっ…!?」
 竜斗はピーマンとタマネギを切り終わり、次にフライパンを用意してバターを熱する。
「鶏肉を切ったらバターを熱したフライパンで白くなるまで炒めるんだ…!!」
 姫は竜斗の持ったフライパンに鶏肉を入れる。
「くっ、油が跳ねますわねっ…!! これでは裸エプロンで料理したら悲惨な事になりますわっ…!!」
 慌てて手を引っ込めて露出した腕をさする姫。
「あれはハードなSMプレイの一種だったと言う事かっ…!!」
「さて、次はどうするんですのっ…!?」
「僕の切ったタマネギとピーマンを炒めるんだっ…! そして、タマネギがしんなりした所でトマトを投入だっ…!!」
「ちょっと待って下さいな…! しんなりって…、しんなりってなんですのっ…!?」
 姫はタマネギとピーマンをフライパンに入れながら竜斗に聴く。
「解らないっ、僕には解らないよっ…!!!」
「馬鹿にも出来るって書いてあるけど、わたくし達は馬鹿以下って事ですわねっ…!!」
「そう言う事は気にしたら負けだっ…!」
 そうこうしている内にタマネギが柔らかくなり、姫は続けてトマトをフライパンに投入する。
「よしっ、次はご飯を加えて、途中でワインを振り入れて解しながら良く炒めるんだっ…!!」
 竜斗がある程度ご飯を解すと姫がワインを振りかける。
 その一部が熱せられたフライパンの露出部分にかかり蒸発して音を立てる。
「この音っ…! なかなか恐ろしいですわねっ…!!」
「最後にトマトケチャップとウスターソースを入れ、塩こしょうで味を整えるんだっ…! 更に砂糖をひとつまみ加えると、まろやかな味になるらしいぞっ…!!」
「では、お砂糖を投入ですわっ…!!」
「これでチキンライスは完成したから、とりあえずお皿に盛りつけてアルミホイルで保温しておこうっ…!!」
「なんか、このまま食べても良いような気もしますわね…!」
 姫はゴクリと喉を成らす。
「それは同感だけど、折角卵を買って来たんだから最後まで作ろうよ…!
 次はいよいよ半熟オムレツの部分に取りかかるんだけど、一人分ずつ作る必要があるから、僕が姫のを作って、姫が僕のを作って、互いに交換する事にしよう…!」
「互いの愛情が試される時ですわねっ…!!」
「そう言う事だっ…!! じゃあ、まず僕から行かせてもらおうっ…!!
 まずボウルに卵2個を混ぜ解かし、牛乳大さじ1杯を加えて軽く塩コショウするんだっ…!!
 卵は二種類買って来たから、僕がもみじを、姫がさくらを使ってみよう…!!」
 竜斗は淡路島で買って来た深い色をしたもみじの殻を割り、その中身をボウルに投入する。
「ぷりっとした黄身のハリが凄いですわね…!!」
「ううっ、なんか料理で使うのが勿体ない感じだ…! しかも、黄身を箸で刺して混ぜても崩れにくいっ…!!」
 竜斗は卵を混ぜながら牛乳を投入し、塩こしょうで味付けする。
「ひょっとしたら、もみじは生で食べるのが向いているのかも知れませんわね…!」
「それから、フライパンを暖め過ぎないようにしながらバター5gを溶かす。
 これからがスピード勝負で、卵を流し入れながら箸で大きくかき混ぜ半熟にしたところで、滑らせるようにしてチキンライスの上に乗せれば取りあえず完成だっ…!!」
 しかし、竜斗は半熟卵を乗せる際に若干形を崩してしまう。
「しまった…! 姫の分なのに失敗するとはなんたる様だ…!!」
「少しぐらい形が悪くても味は変わらないんですし、貴方の気持ちは伝わっていますから、あまりお気になさらないで下さいな…」
 落ち込む竜斗の肩を叩く姫。
「ありがとう…」
「まぁ、わたくしは無様に失敗するような真似は致しませんけど…!」
「酷いよ、姫ぇ…」
 しかし、姫が笑いながら言った最後の一言で竜斗は泣き崩れた。
「では、わたくしはこっちのさくらと言う方の卵を使いますわ…!」
 さくらの殻は先ほどのもみじに比べて色が薄く、黄身は大きいものの強い弾力があるわけでは無さそうであった。
 牛乳と混ぜるともみじとの違いは明らかになる。
「この卵は白身の粘りが強く、牛乳との混ざりが非常に良いですわっ…!!」
「さくらの方がより料理向けなのかも知れないね…!」
 そして、竜斗と同様にバターを溶かした熱したフライパンで半熟状態にし、一気にチキンライスに流し込むがやはり形が崩れる。
「あれっ…? 失敗しないって言った人は誰だったっけ…!?」
「ドンマイですわ…!!」
「あ、自分でそれ言っちゃうんだ…!」

 二人は自分が作ったオムライスを持って夕食の間の食卓に運んだ。
「オムライスと言えば食べる前にもう一つ残されている事があるよね…! それはこれさっ…!!」
 そう言うと竜斗はさっとトマトケチャップを取り出した。
「ついでだし、自分の作ったオムライスにケチャップを使ってお互いに相手へのメッセージを書こうよ…!!」
「ふふふっ、随分乙女チックなんですわね…!」
「まぁね、僕ってば男にしておくのが勿体ないぐらい可愛い奴でしょ…?」
「ならば、いっそのこと女の子にしてしまうと言うのも有りですわね…!」
「それは勘弁ね…!!」
 そして、二人は互いにケチャップを持って一生懸命書き込む。
「出来たっ…!!」
 竜斗の作ったオムライスには、姫大好き!!と角を丸めた字がケチャップで書かれていた。
「あら、可愛らしいですわね…! でも、わたくしの作品には敵いませんことよ…!!」
 姫が作ったオムライスには丸顔でみすぼらしい毛を生やした、落ちぶれた狸のような生物が描かれていた。
「こ、これは…!?」
「見ての通り貴方を描いたんですのよ…! ただ、そのまま描いても面白く無いので、猫ちゃん風にディフォルメしてますが、我ながらそっくりだと思いますわよ…!!」
「あ、ありがとう…! 嬉しいよ…!?」
「あら、なんで疑問系なんですの…?」
 竜斗は汗を流してぽりぽりと頭を掻いた。
 そして、互いに自分の作ったものを相手の席に置くと着席する。
「じゃ、いただきます…!!」
「いただきますですわ…!!」
 二人はスプーンでオムライスを掬って口に運ぶ。
「うおっ、美味しい…!」
「本当に…、本当に美味しいですわ…!」
 姫は思わず涙を零す。
「わたくしはお腹を満たす素晴らしい味のお料理を沢山食べて来ましたけど、こんなにも心を満たす幸せな味のお料理を食べたのは初めてですわ…!」
 ゆっくりと味を噛み締めるように食べる姫。
「良かったね、姫…! 夕鶴が料理の秘訣は愛情だって言ってたけど、本当にそうかも知れないね…!!」
「ふふふっ、洋の東西、価格や品格に関係なく良いものを愛する、真の美の探求者であるわたくしが最後に辿り着いたものが愛情とは…、本当に素敵ですわね…!!」
 姫は涙を拭きながら竜斗に向かって笑いかけた。
「しかも、その言葉はわたくしが聖蘭から聴いて、夕鶴さんに教えて差し上げた事ですけど、まさか自分に還って来るとは思いもよりませんでしたわ…!」
「もしかしたら、聖蘭さんにそれを教えたのはお義父さんだったりしてね…! なんだか感慨深いものがあるよ…!!」
「人の気持ちが人から人へと伝わり、やがては巡り廻って還って行く…。因果応報とはそう言うものかも知れませんわね…!」
「うん、きっとそうだね…!」
 そして、二人はオムライスを食べ終えて手を合わせる。
「ごちそうさま…! お腹いっぱい、心いっぱいさ…!!」
「ごちそうさまですわ…! 本当に美味しかったですけど、鶏肉は少し大き過ぎましたわね…!!」
「それは忘れておきたい所だったけどね…! じゃあ、一緒に後片付けしたら踊ろうよ…!! もちろん、曲は月下の夜想曲でね…!!」

 神戸の空から日が沈み、少し欠け始めた月が浮かんでいた。
 ゆるやかに回り続ける観覧車や、天に向かって伸びるビル群が色鮮やかな光を放ち、海上にその姿を映し出す。
 まるで人生の最後に自分の生きた証を残すために自ら光を放つ蛍のように、一日の終わりにひと際明るく輝き人々の心に思い出を残すのが神戸の夜だった。
 そんな情景を一望する風見鶏の館のベランダ。
 その開け放たれた窓からは涼しい風が吹き抜け、月明かりを透過するレースカーテンを揺らし、柔らかい光と闇が混じり合う幻想的な空間を作り上げていた。
 その中で二つの身体を重ねた小さな影が踊る。
 蓄音機が奏でるノイズ混じりの月下の夜想曲のリズムに乗りながら。
 繋がれる手と手。
 互いの腰に腕を回し。
 後ろに。
 前に。
 ステップを践み。
 引き離す。
 廻る。
 廻る。
 廻る。
 銀色に煌めく二束の髪を。
 レースの付いた黒いスカートを。
 月下に咲く美しい華のように広げながら。
 互いを引き寄せ。
 肩を抱き。
 頬と頬。
 下腹部と下腹部。
 燃えさかる身体を擦り合わせ。
 手と手。
 脚と脚。
 解け合うように絡み合わせる。
 肩を。
 背を。
 腰を。
 秘所を。
 互いの全てを愛でるように、全身の稜線を撫でて行く。
 そして、曲のフィナーレと共に唇を重ねる。
 虫の音だけが聞こえる静かな空間に、舌と舌が絡み合う音が、熱く熟れた秘所を弄る音が、二つの呼吸が漏れる音が響く。
 こうして、二人きりの夜が更け、この物語に終わりの時が近づいて行く。
 
 月明かりが照らし出す寝室。
 アンティークな家具や沢山の人形達に囲まれ、二人は産まれたままの姿でクイーンサイズのベッドで寄り添っていた。
 姫は竜斗の少し逞しくなった傷だらけの腕を枕にし、竜斗は姫の小さな頭を抱えるようにして下ろした髪を撫でる。
 時間を置いて残った体液が零れ出る感覚を味わい、互いの感覚を心と身体に刻むように最後の余韻に浸る。
 匂い立つ火照った身体を冷ましながら。
 それがどれだけ続いただろうか。
 時計の針が真上へと近づき、間もなく物語の終わりを告げようとする頃。
 姫が沈黙を破る。
「恐い…、恐いですわ…」
 姫は大粒の涙を流し、嗚咽を堪えながら竜斗の胸に縋り付いた。
「人生の最後に貴方に愛され…、祝福されながら旅立てる…、こんなにも…、こんなにも幸せな事は無いはずなのに…。
 この時を迎える為に…、長い…、本当に長い時を生きて来たはずなのに…。
 もう…、思い残すことなど無いはずなのに…。
 いざとなると貴方と別れるのが…、寂しくて…、恐くて…、涙が止まらないんですの…」
「姫…」
 竜斗は震える小さな裸体を抱き締める。
「もっと…、逞しく成長して行く貴方と…、力を合わせて…、仕事をしたいんですの…。
 ちゃんと…、免許を取った貴方に…、色んな所にドライブに…、連れて行ってもらいたいんですの…。
 形だけじゃない…、本当の夫婦になって…、しっかりと…、お料理を勉強して…、 一緒に生活して…、もっとエッチして…、家庭を築きたいんですの…」
 すすり泣く姫の姿は弱々しく、まるで小さな子供のようだった。
「まだまだ…、これから…、沢山の幸せな日々が続くはずなのに…、ここで終わってしまうなんて…。
 そんなのって…、そんなのって悲し過ぎますわ…。
 まだ…、まだ、死にたくない…。死にたくないんですのぉ…」
 姫はゴスロリ服と共に嘘を脱ぎ捨て、心の底から、魂の底から静かな叫びを上げていた。
 だが、竜斗は止まっていた時が動き出す何かを感じていた。
 竜斗は臍下丹田式呼吸法によって陰陽の気を練り込み、走馬灯のように浮かんでは消える記憶の欠片を辿って答えを探し出そうとする。
 そして何時か姫が聴かせてくれた悟りの話が脳裏に浮かぶ。
「人はどんなに足掻いても過去は変えられないし、何時かはその結果である現実に苦しめられる事になる。
 それが因果応報であり、この世の理なんだと思う。
 だけど、過去を受け入れて今ある現実と向き合えば、永遠に続くような苦しみから抜け出して、それから先の未来は幾らでも変えて行ける。
 姫はまだ死んでなんかいないから、生き続けられる未来だって創れるはずだよ」
 竜斗は数々の経験を経て今まで理解出来なかった話を、自分なりに解釈して人に伝える事が出来るようになっていた。
「悲しくなるので…、そんな気休めの嘘は言わないで…下さい…」
 姫は声を擦らせながらも言う。
 そんな姫を宥めるように頭を撫でながら竜斗は言う。
「本当だよ、だって僕は姫の死を否定して大アルカナの力に逃げ込んだ因果を受け入れて、その応報である繰り返される世界やトーナメントと向き合って来た。
 だから、ここまで辿り着く事が出来たんだからさ。
 でも、それは姫が今まで一生懸命頑張って来たお陰だよ。
 だから、明日へと続く本当に幸せな未来を夢見れるようになったと思うんだ。
 でも、あと一歩なんだ。
 最後に残された因果を受け入れて応報と向き合って、その夢を現実へと変えて行こうよ!」
 そう言うと竜斗は笑いながら姫と向き合った。
 姫には竜斗の背後に後光が射しているかのように見えた。
「ふふふっ…、貴方ならば何時か悟りの境地に辿り着くと言いましたが…、まさかそれを信じて現実にしようとは…、まさにお馬鹿さんの極みですわね…!」
 涙を流しながらも何時もの調子に戻った姫に竜斗は安堵する。
「お褒めの言葉ありがとう!」
 竜斗は戯けながら言う。
「いいですわ…、残された時間は少ないですが、最後まで諦めずに自分自身と向き合って行きましょう…!」
 姫は臍下丹田式呼吸法で陰陽の気を練り込み、心と身体の状態を整えて行く。
 それは竜斗の放つ気と混ざり合い、インスピレーションが高まって行く。
「姫が記憶を保ち続けながら生と死を繰り返して来たのは、僕の前世を庇って自分から命を落とした事が原因だったよね。
 そして、姫は一生懸命その現実と向かい合って、毎日を大切にしながら生きて来たけど、本当の因果を受け入れる事は出来なかったと思うんだ」
 竜斗は姫から聴いた過去の話を思い出しながら言う。
 自分自身の前世の記憶を見た事で、何か違和感を感じるようになっていたからだ。
「何故…、そう思うんですの…?」
 姫は自分も意識していなかった図星をつかれ思考が停止するような思いだったが、陰陽の気を練って精神が強化された為に一瞬にして冷静さを取り戻す。
「姫は自分から死を望む気持ちを克服出来たと思う。
 でも、その後も自分の命を捨ててまで僕を守ったり、老化する前に解放されたがっていた事に何か違和感を感じていたんだ。
 もしかしたら、その理由に答えがあるんじゃないかな?」
 竜斗の中にはもう既に確信じみたものがあった。
「ふふふっ…、貴方はわたくし以上に、わたくしの事をご存知なんですね…」
 姫も自分自身の記憶を辿り、答えに近づきつつあった。
「僕は姫の事が大好きだからね」
 そして、その言葉を聴いて確信する。
「そう…、わたくしは生き続ける事が…、貴方に嫌われてしまう事が恐かったんですわ…」
 時を刻んで行けば良くも悪くも万物は流転して行きます…。
 容姿や性格が変わって行きます…。
 人との関係が変わって行きます…。
 世間も生活も変わって行きます…。
 時代や風景も変わって行きます…。
 辛い事も、悲しい事もあります…。
 一寸先が闇で先が全く見えない事もあります…。
 落ちぶれて人生の敗者となってしまう事もあります…。
 自分自身のアイデンティティを失ってしまう事もあります…。
 どんなに足掻いても大切な人と別れが避けられない事もあります…。
 わたくしは自分自身の完璧な世界が崩れて行くのに耐えられなかったんですの…」
 そして、姫は無意識に秘めた思いを呟くように吐露し、その白い頬に一筋の涙を流す。
 竜斗は姫を優しく抱き締め、より深い真理を読んで行く。
「姫は生きている限り美化する事の出来ない、絶対に避けては通れない事が沢山ある事を誰よりも知って、一人で背負い切れない不安を抱えてしまったんだと思う。
 孤独になって押し潰されるのが恐いから、強くて不思議な女の子で…、僕から好かれる自分であり続けたかった…。
 本当に辛い思いを沢山しながら、頑張って生きて来たんだね…」
 竜斗に看破され、姫は声も無く涙を流し続けた。
「僕はそんな姫と出会えて…、本当に良かったと思うよ…」
 その竜斗の言葉は柔らかくなった姫の心を勇気づける。
「竜斗さん…、本当は弱い…、こんなわたくしでも好きでいてくれますか…? 残された時間は長く無いかも知れませんが、最後まで一緒に居続けてくれますか…?」
 姫は竜斗に抱き締められながら、上目遣いをしながら甘えた声で聴く。
 優しく笑いながらも、頷いた。
「生きていれば色々な事があると思う。
 だけど、互いに支え合いながら歩める人がいれば、どんな困難だって乗り越えて行ける。
 自分自身の本質を見失わずに、良い方向に変わって行ける。
 そうやって変わり続けながら歩んで来た道のりを、自分自身のアイデンティティとして大切にして行こうよ」
 時計の針は日付変更に向けてカウントダウンを始める。
 竜斗は自分の胸の中で、姫の心臓の鼓動が高鳴って行くのを感じていた。
「だから、姫…、これから続く日々を一緒に生きて行こう…!! 今そこにある日々を大切にしながら精一杯楽しんで生きて行こう…!!」
 そして、時計の針が日付変更を、新しい日々の到来を知らせると同時に唇を重ねた。
「これからも…、ずっとずっと大好きだよ…、姫…!!」
「わたくしも、大好きですわ…!!」
 そして、二人は再びベッドへと飛び込み激しく身体を重ねた。
 こうして、1999年7月の物語は終わりを告げる。
 だが、これからも彼らの人生は続いて行く。
 本当の強さを…、前向きに生きる気持ちを失わない限り、ここでは語られない様々な物語を綴り続けながら。

Soma x Soma

一年間に渡って書き続けたこの作品ですが、ようやく完結させる事が出来ました。
作中でも触れられている事ですが、この作品のテーマは日々の積み重ねです。
作者自身も主人公達と一緒になって毎日を一生懸命生きて、ふと振り返った時に浮かび上がって来る走馬灯のような作品を目指しました。
その為に普通だったらカットしてしまうような日常的な描写や、仲間達との関わり合いを遠回りしながらもしっかり描き、一見他愛も無いような場面にこそ重要なヒントを散りばめて来ました。
後半は伏線でがんじがらめになり、自由な発想が出来なくなって辛い事もありましたが、最後の戦いや日常の場面で今まで巻いて来た種が華をさかせた瞬間は嬉しくてたまりませんでした。
そして、書き終わった時にどんな景色が見れるのかなぁ、と楽しみにしていたんですけども、実際には疲れから放心状態になって振り返る余裕すらありませんでした。
それから数日間が経過し、ようやく落ち着きを取り戻して来たので、後書きを書いている次第です。
そして、今まで見る余裕が無かった、頂きからの景色も見えて来ました。
それは、また新しい頂きを目指して旅立つ事…、そうこれからも小説を書き続けようって事です。
次回作は1979年の東京を舞台にした作品にしようかと思います。
1997年はガンダム、ヤマト、スタートレック、銀河鉄道999,ズームイン朝、西武警察、金八先生、ドラえもん、ウォークマン、PC88など伝説級の作品が大量にリリースされた年で、 その時代背景を活かした作品を作れるように頑張って行きます。
では、本当に長くなりましたが、最後まで付き合い頂きありがとうございます。
次回作も是非とも宜しくお願いします。
よろしかったら、Twitter等でご感想を頂けると嬉しい限りであります。

https://twitter.com/yusuke512

Soma x Soma

西暦1999年7月…兵庫県神戸市にある県立高校で特別授業が行われようとしていた。 それはブラフマンと言う男の暗示によってアルカナと呼ばれる超能力を与えられた生徒同士が神の座を賭けて戦うトーナメントだった。 何の力も持たない少年「走馬竜斗」は武術の達人である謎のゴスロリ少女「香夜姫」に誘われ、本当の強さを求めてその戦いへと挑んで行く。 だが、それは神となる事を仕組まれた少年「青海奏真」との対決を意味していた。 当時流行した世紀末的で謎に満ちた雰囲気。 初代のiMacやi-Mode、ポストペットやICQ等のガジェット。 初代ロードスターやインテR等のスポーツカー。 風見鶏の館、海岸ビル、有馬温泉等の名所。 AOIAや長田区等の地震の傷跡を残す廃墟。 そば飯やぼっかけ、神戸たこ焼き、高坂養鶏所の卵等のご当地グルメ。 舞台設定を活かす様々な要素が登場します。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-30

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 序章
  2. 第一章
  3. 第二章
  4. 第三章
  5. 第四章
  6. 第五章
  7. 第六章
  8. 最終章