春と胡蝶

春と胡蝶

覚めぬ夢、春の微睡。夢は優しい。でも、案外現実も優しいのかもしれないと春風は嘯く。

春と胡蝶

いつまで寝ていればいいのだろうか。いつ目を覚ませばいいのだろうか。
いつになったら会えるのだろうか。いつになったら彼女は笑うのだろうか。
いつになれば。いつまでまてば。あと季節が何回巡ったら。あとどれくらい。


目が覚めると、白い部屋だった。少しだけ窓が開いていて、春の瑞々しい空気が淡いクリーム色のカーテンを揺らしている。ずいぶんと寝ていたのだろう、体の節々が少し軋むように痛い。寝過ごしたときの独特の頭痛が軽くする。まわりを見渡してみると、どうやらここは病室のようだった。状況を整理してはみるものの、どうして俺が病室にいるのかわからなかったし、自分の体を見回してみても特に目立った外傷も手術のあとのようなものもなかった。唯一病人らしいところといえば自分が寝るときに着るような濃い灰色のスウェットらしきものを着ていること、左腕に点滴がつけられていることだろうか。その点滴も何かの薬というよりは透明な、ただの栄養剤にみえるのでたぶんずっと寝ていたが為につけられたものだろう。
 この時点でなんだかどうでもよくなってしまって、窓の外に視線をやる。もともと細かいことは気にしない性質なのだ。春らしい陽気に誘われたのか、どこかから鳥の声がする。空はうす青く、すこし雲があるものの、気持ちの良いうららかな快晴だった。時間は昼を少しすぎたあたりだろうか。少し体を起こして窓の外に顔を出すと、桜が咲いていた。ああ、もう、そんな時期か。
 自分がたいした病人ではないことがなんとなくわかってしまうと、あとは若干ねぼけているのもあって、普通に目覚めたときのように、顔を備え付けの洗面所で洗い、寝癖を治したあと、冷蔵庫をあさり、中に入っていた果物とパンを食べることにした。本当のところなら食事制限とか色々あるのかもしれないが、多分自分はそんなものとは無縁であるだろうし、みつかったときはみつかったときで、あやまりさえすればいいのだから。それにしてもこの病室、個室な上にシャワールームも洗面所もトイレもついている。下手なホテルよりよっぽど暮らしやすいのではないかと考える。窓からそよそよ流れてくる春の風が、非常に心地よい。
 そうして春の陽気にうかれてぼうっとしていると、ぱたぱた、とした足音がひかえめにリノリウムの床を鳴らして近づいてきた。そうしてそのままドアを開ける。そこに立っていたのは少し神経質そうな若い看護婦だった。こちらを見て目を見開く。
「あ、起きてらっしゃったんですね。今先生を呼びます、ちょっと待っててください」
それだけ言うとあわててまた病室をぱたぱたと飛び出してしまった。なんなのだろうか。そんな驚くような要素はないと思うのだけれども。
 しばらくしてその看護婦は鎖骨あたりで髪を切り揃えたうつくしい女医をつれてきた。その女医が何か言うと、看護婦は少しおどおどした様子で目をふせ、ちいさく会釈すると病室を去った。そうして女医は腕時計を確認すると病室の脇にあったパイプ椅子を自分でもってきて窓のそばに座った。
「どうぞ、ベットにお座りになってください。なんなら寝ていても結構です」
そういって、どうぞ、と手を広げてエレベーターガールが案内をするようなポーズをする。
「早速ですが当夜さん、どうしてご自身がこの病院に入院しているかおわかりですか」
寝ぼけた頭で必死に考える。どうも記憶が曖昧で、夢と現実が混合しているような感覚に襲われる。おもいだしても、おもいだしても、普通に仕事をしているとか、友達と飲みに行くだとか、そういう記憶しかでてこない。
「それが、正直なところさっぱり」
「では、なにか思い出したことはありませんか?なんでもいいです」
そういって女医は俺に目を合わせる。整った顔だが、それ以上に、何か懐かしい感じがした。親しげのある顔。俺はこの人の満面の笑みをみたことがあるような気がした。
「いや、普通に。仕事をしていた時のことや、友達との思いでとか。ですね。自分がどうしてここに居るのかはわかりません。ところで、質問を質問で返すようで悪いんですが、俺、あなたに会った事ありますか?」
そう聞くと、女医は少しかなしげな顔をした気がした。見間違いかもしれない。次には医者らしい尊厳のある顔になっていたから。
「ええ。あります。過去に何度か。あなたは睡眠障害とそれに伴う記憶障害でしばらくこの病院に入院していらっしゃいますので。あなたの病状はひどく特殊で、睡眠障害でほとんど寝ている期間と今のように普通に睡眠と覚醒のサイクルをくりかえした後、また深い眠りばかり摂る期間があって、その期間に眠りにつく前の自分の記憶をほとんど失ってしまっているんです」
そこまで言うと、まるで女医は憐みを含んだような、すこし哀しげな視線をこちらにやった。
「でも俺は現に昔の記憶はありますよ。それこそこの状態になる前のものだと思いますけど。その長い睡眠さえこなければ問題ないことなんじゃあないですか」
まるで自分のことなのに、他人事のようにそう嘯いてみる。
「ええ、まあ、確かにおっしゃる通りです。過去にもなんどか普通の状態になることはあったのです。そうしてその覚醒状態が回数を重ねるごとにすこしづつ伸びているので改善はみられるのですが…」
「待ってください。なんどか、って何回かこの状態を俺は繰り返しているんですか?」
「はい。そうです」
「…具体的に何回くらいですか」
「これで三回目になります」
「期間は、俺がこの病院に入院してどれくらいになるんですか」
「約半年ほど、になります」
驚いてしまった。俺がこの病院で目を覚ますのは三度目だということも、この病院にすでに半年も入院していることも。
「あの、下世話な質問で申し訳ないんですが、その入院の費用ってどこから出てるんですかね」
「詳しくは分かりかねますが、奥様が支払っておられるかと」
「え、俺結婚なんて…」
そういった自分の左手には、確かに鈍く光る銀色の指輪がついていた。
「あ…」
「やはり、今回も奥様に関しては思い出されていないのですね」
そういうと女医は目を伏せなにやらカルテのようなものに走り書きをさらさらとすると、再びこちらをみた。
「とりあえず今回もまた、薬で覚醒時間をのばすような処方と、私による認知療法を行わせていただきます」
「認知療法」
「そうです。簡単にいってしまうと、その途切れている記憶を思い出してもらって、今の自分の状態を自分で確認していただく。そういった過程になります」
「それはどういった意味があるんですか」
「それ自体が脳を活性化させるほか、遠藤さん自身がなぜこういった状況になったか。それを紐解く手がかりになりますね」
「俺が、この状況になった原因」
「そうです」
そこまで言うと女医は手を組んで膝におき、視線を少しずらす。
「今までの検査で既にこの状態にいたる原因が脳や身体上の異常ではなく、心因性であることがある程度特定できましたので」
「心因性…こころ当たりがないんですが」
「ご友人や奥様もそうおっしゃっていました。ある日突然このような状況になられた、と」
そういって、女医は少し困ったような顔でわらう。違う。こんな顔じゃなくて、もっと満面の笑みを、どこかで。
「とりあえずひとまず今日のところはここまで。また明日この時間に伺いますので」
そういって女医は立ち上がるとパイプ椅子を元の場所に片づけ、去ろうとした。
「あの」
そういって呼び止める。我ながらすこし大き目の声をだしてしまったかもしれない。
「あの、へんな質問なんですけど。前、俺に満面の笑みを見せたことはありますか」
自分で言っているのに至極変な質問だと思う。それでも聞かずには、いられなかった。
「あは、おかしな事をおっしゃる」
そういって女医はまた、俺に困った笑顔を見せるだけだった。
「私もそこまで細かくは、残念ながら覚えていません」
彼女は、俺にはどこか嬉しげにみえた。
「あと、名前。名前教えてくれませんか。先生の」
先生、その言葉を聞くと女医に一瞬ゆらぎが見えた気がした。
「失礼しました。私は若松。若松ゆきと申します」
では、失礼。そう言うと女医は足早に病室を去ってしまった。何かこの後用事でもあったのだろうか。
「若松…ゆき…」
病室に残された私は女医の言葉を反芻する。その名前は、春の空気もまざって、どこか懐かしい匂いがする。そんな、気がした。

 春の空気は眠気を誘う。春眠、暁をおぼえず。先生と話をした後、また少し眠たくなってしまったが、あんな話を聞いた後だ。少し眠るのが怖い気もする。また眠ってしまったらすべて忘れてしまいそうで。すべてが夢ならいいのに、と思う。この現実が夢ならもっといい。俺は平凡や普通が大好きだから。そうしてそれから外れることは決してないと思っていた人間だったから。
 ぼんやり、窓の外にふたたび目をやる。日はいつのまにか沈みかけていて、すこしずつ春の空気が冷えていくのがわかる。なんだかかなしい気分になってしまった。感傷的になるなんて俺らしくもない。きっと、寝すぎたせいだ。寝すぎてぼんやりしているから思想だけが暴走してしまって、こんな考えなくてもいいことばかり考えてしまうにちがいない。今日はしっかり寝て、しっかり起きよう。明日の事は明日考えればいい。ゆっくり自分と向き合えばいいんだ。そうして早々に夕食とシャワーをすませ、その日は早めに眠りに落ちた。

「あんたはやっぱりスーツが似合うよ」
そういった彼女はきれいな黒髪のロングヘアをなびかせながら煙草をすっている。結婚するならやめるといったのにどうやらヘビースモーカーの彼女にはそんな約束を反故にするのなんて容易かったようだ。
「それ毎日言ってるな」
「いいじゃない、減るもんじゃないし」
そういって彼女は玄関先で柔らかな微笑みを浮かべる。濃い藍色のワンピースふうのタンクトップにうすい灰色のジーンズをはいている。あいかわらず細身だ。
「ずっとスーツをきてくれてもいいんだよ」
そういって彼女は煙草を少々雑に灰皿に押し付け、レモンミント味のタブレットをかじっている。いつかキスをしたときに煙草の味がする、とぼそりと俺が漏らしてから煙草を吸った後には必ずしている彼女の習慣だった。
「べつにそれ食わなくてもいいのに」
ネクタイをしめながらそう返す。
「なによー煙草くさいとか言ったの誰よー」
そういって彼女はやけくそのようにタブレットをがりがり噛み砕く。
「いや、煙草の味きらいじゃないよ。なんかお前の味って感じがする」
「そういうこといきなり言うのやめてくれないかな!照れるんだけど」
彼女は非常に天邪鬼だった。ふだんは一人でも十分生きていけるくらい強いようにみえるのに、それは彼女が自分自身を護るための仮面のようなもので、本当は素直でかわいらしい、普段の見た目とは裏腹の、やさしい女性だった。俺は彼女の決して人に自分以外に弱さを見せまいとする姿勢も、凛とした姿も、俺の前だけでみせるほんとうのかよわい女性らしい部分も愛していた。彼女は照れて俺の腕の中にぐいぐいと顔をおしつけるようにして抱きしめてくる。
「お前に煙草の匂いをつけてやる。新人のカワイコちゃんにきらわれるがいい」
「はいはい」
そういって抱きしめてやれば、彼女は花がほころんだようにぱっ、とわらう。
ああ、これだ。これがみたかった。
俺は確かに彼女を愛していたんだ。


 夢から醒めるとこめかみのあたりが濡れていて、夢をみながら年甲斐もなく泣いていたことに気付く。起きたときの気分は決して悪いものではなかった。むしろ幸せな夢すらみていた気がする。ああ、そうだ。またあの女の人がでてきた気がする。笑顔がかわいらしい、無邪気な。
「みき」
そうだ、俺の妻の名前。
なんてことを、俺は今まで忘れていたのだろうか。自分が愛した人。唯一この人だけ、と誓った人。みき、みき。寝ぼけたまま忘れてしまわないように、少しでも思い出したことがあったらこれに書き出してください。と先生に言われ渡されたノートに書く。みき、みき。俺の妻。唯一愛した人。なんでこんなに大切な事をわすれていたんだろう。病気だから、と言われてしまえばそれまでかもしれないが。ああ、妻に会いたい。あの花が咲くような笑みをもう一度だけでもいいからみたい。
 そこで気づく、俺は妻の顔が思い出せない。
正直はっとした。あれだけ大好きなのに、愛しているのに。彼女の顔がよく思い出せない。笑ったときの印象こそ覚えているものの、全く思い出せなかった。どうして。
「おはようございます。具合はいかがですか」
ぼんやり夢うつつの中、必死に考え事をしていたものだから全く気配に気づかなかった。入ってきたのは昨日も来た少し神経質そうな看護師だった。
「あ、まあ。普通です」
「そうですか、あれだけ寝ていらしたので体調面で不具合が起きていないか今日は検査させていただきます。MRIと血液検査、尿検査が今日がありますので、朝トイレにいかないで、カップを渡しておきますので一回のトイレで入れたあと、小窓の向こうに出しておいてください。そのあと血液検査を行ったあと、MRIという流れです」
「そうですか。何か準備したほうがいいですかね」
「服装はそのままで結構です。もうすぐ朝食が運ばれてきますので食べれる分だけでいいのでお腹に何かいれてください」
「わかりました。食べたら一階に行けばいいんですね」
「ええ、一階の受付にこのカルテを出してくださればあとは説明されますので。お願いします」
そう言って看護師は尿検査用のカップとカルテを置く。
「あ、あと、当夜さん」
「なんでしょう」
「ご自身のお名前、わかりますか?」
「ええっと、当夜祥太郎、ですよね」
「ご自身の生年月日は」
「1988年6月25日」
「結構です。ありがとうございます」
「あの、今のどういう意味が」
「当夜さんは睡眠障害と記憶障害で入院されているのですが、過眠期に入る前に記憶と月日と曜日の間隔が曖昧になってしまわれるんです。ですので毎日私や若松先生のほうで呼び掛けをします。この部屋にはカレンダーがありませんから、後で私のほうで用意いたします」
「そうですか…今ははっきりしているつもりなんですけどね」
「大丈夫ですよ。きっと治ります」
神経質そうな看護師は笑みを見せたものの、その笑顔は少しやつれているようにみえる。おばさん、と呼ぶには少々失礼な年齢なのかもしれないが、神経質そうな見た目と肌のつやや、髪に白髪が少し混じっているのも原因かもしれない。
「ありがとうございます」
「では私はこれで失礼します。何かあったら近くの看護師に気軽に声をかけてください」
この看護師は声や印象はとても一見して明るいのに、どこか無理をしている感じが拭いきれなかった。精神病院の看護師なんてこんなものなのだろうか。

 結果、検査には何も問題はなかった。長い間で寝ていたことで少し筋肉が落ちていたようだが、日常生活に問題はないらしい。MRIも血液も尿も、俺の体の中からはどこも異常性は発見されなかったらしく、以前から変わらず、身体上は健康そのものであるが故にこの現象の原因の特定が難しいらしい。
「お疲れ様です、当夜さん」
病室に帰ると既に若松先生が椅子に座っていた。この人は医者の割に暇なのかもしれない。
「先にいっておきますけど、私暇人な訳じゃないですからね。18時過ぎると通院の患者さんの診療が大体終わるので、そこからはある程度の引き継ぎをしたら大体終わりなんですよ。入院患者さんもさして多くはありませんし」
「大体どのくらいの人が入院されているんですか」
「ざっと…10人程度ですかね。この病院は確かに精神疾患の方も外来でいらっしゃられるですが、睡眠外来と呼ばれていて、睡眠障害が専門なんです。それ以外の方は近くに評判のいい大き目の精神科がありまして、そちらの方に行かれる方もいますし、私をご贔屓にしてくださる方も居るんですが、入院されている方はすべて睡眠障害での入院ですね」
「そうなんですか」
「ああ、そうだ。当夜さんは最近私にあったような感じですが、私は貴方との付き合いが結構長いんですよ。どうぞ軽く接してください」
先生はなんだかすこし嬉しそうに見える、何かいい事でもあったのだろうか。なんにせよ、人が嬉しそうにしているのをみるのは不快ではない。
「そうですか、ちょっと、時間がかかるかもしれないですね」
そういって俺も思わず表情を崩してしまう。
つられて、先生も笑った。綺麗な笑顔だった。美しい人だった。やはりこの人と居ると空気がやわらぐ。もしかしたらそういったところが先生の人気なのかもしれない。
「そういえば先生、今日の夢で思い出したんですが、俺の妻は、みきは今どうしているんですかね」
そういった途端、少し先生の顔が曇った。
「奥様のことを思い出されたのですね。…みきさんですか。最近お仕事が忙しいようでなかなか病院にいらっしゃいませんね」
そういった先生の顔をさっきとうって変わってひどく陰鬱で、俺は何か妻の身に良くない事があったのでは、といらぬ心配をした。無論そんなものは杞憂だったのだが。
「奥様に昨日当夜さんの目が醒めたことを伝えたら、今月中に暇を見ていらっしゃるそうです。お忙しいらしいですが、必ず今月中にいらっしゃるらしいので」
よかったですね、と笑った先生はやはりどこか不自然であった。
「あの、つかぬことをお聞きしますが、妻と先生は何か…」
「あ、すみませんまだ言っていなかったですね。…幼馴染なんです。仲が良くって。小学校から高校まで一緒なんですよ。まだ、思い出されてなかったですか?一緒に何回かお会いしたことがあるんですが」
「ええ、今言われるまで全く」
「そうですか」
そういった先生はどこか落ち着いていて、先ほどの暗いような雰囲気は多少なりとも緩和されたようである。
「奥様についてどこまで思い出されましたか?」
「…名前と、一緒に暮らしていた頃の会話をすこし…煙草を吸っていたことと、そのあと必ずレモンミントのタブレットを噛んでいたとか、そういったささいなことで…」
「あと他には何か思い出されましたか?」
「残念ながら夢で見たのでおぼろげで…恥ずかしい話ですが髪が長かったことくらいしか。顔すらおぼろげで思い出せないんです」
「そうですか」
先生は膝の上で組んだ手に目をやっていた。
「変な質問で申し訳ありません。あの子を…みきをまだ愛していますか?」
「もちろんです。何故今まで忘れていたのかと思うくらい。顔が思い出せないのがもどかしいです。早くあって顔をみたいです」
「ふふ。よかった。きっとみきも喜びますよ。あの子に連絡しておきますね」
「何だか不思議です。俺の妻と先生が幼馴染だなんて」
「もうあの子とは腐れ縁みたいなものですよ。切っても切れないというか。今もこうしてみきの夫である貴方が入院されてますしね。あの子、当夜さんがこの病院に入院する事が決まったとき、またお前か、なんて笑ってましたから」
「そうですか」
「今日は検査でお疲れでしょう。この位でお話しはやめておきますね。みきが早く来るといいですね」
そう言ってその日は終わった。
それから二か月たって俺の病状は今までよりずっといいらしく、このままいけば薬で様子を見ながら退院し、自宅療養と通院という形になるらしかった。それと同時になぜか若松先生は焦っているかのように見えた。俺は何か嫌な予感がしたが、あえて知らないふりをしていた。せっかくこの意味の分からない病気が治ってきたのだ、早く妻の待つ家に帰りたかった。
 ある日、俺が起きると窓際に真新しい花瓶と今さっき活けられたであろう花、それに手作りのお菓子と手紙がおいてあった。妻からであった。中には仕事で忙しくてこの時間に無理を言って幼馴染のよしみでこっそり見舞いにきたこと、すぐ帰らなくてはならないこと、次いつ来れるかはわからないがまた来ること、そういったことが書いてあった。俺は少し、疑問を感じていた。確信が何もないのでただの馬鹿な妄想かもしれなかった。だがそれにしてはひっかかる物が、いささか多すぎる気がした。
 毎晩ぐっすりと眠っているはずなのに、夢をみた。ほとんど妻との幸せな記憶だった。だが、その状況と今の状況でありえない祖語が起こっていた。思い出せば思い出すほど、おかしくなっていった。妻の顔は相変わらず思い出せなかったが、一つの仮説を立てた時、その原因が自分でもわかった気がした。そうしてまた一か月ほどして妻が俺の寝ている間に花と手作りの菓子と手紙を置いて行ったときに、それは確信に迫っていった。
「遠藤さん、少し質問があるんですけれど」
「はい、なんでしょう」
俺の部屋に朝食を運んできた看護師をよびとめる。最初は神経質そうにみえた遠藤さんだが、話してみると意外ときさくで、いろいろなことを教えてくれた。俺は先生に聞けないような質問はこの人にしていたので、結果うちとけ、遠藤さんもいろいろと話してくれた。
「若松先生に、よく似たお姉さんや妹さんはいますか」
瞬間、遠藤さんの顔が険しくなった。
「…当夜さんがどこまで思い出されているのか私にはわかりかねます。先生に直接聞かれたほうが、いいのでは」
「それもそうですね」
「…夢で、みたんですか」
「夢がヒントになったのと、俺自身の記憶と、現実で少しおかしいことがありまして、もしかしたら、と思ったんです。でも、あれが過去の記憶なら、俺はあの人に聞かなくちゃいけないことがある」

しばらくして、部屋で待っていると、先生が来た。険しい顔をしている。
「…どこまで思い出しましたか」
そういっていつものようにパイプ椅子には座らずに、腕を組んで壁に凭れ掛かりこちらを見つめる。
「いつまでゆきのフリをしているんだ、みき」
「…やっぱりばれてたか」そういって俺の妻だった人は眼鏡を外し、胸ポケットに入れる。
「どこからどこまで思い出した?しょうちゃん。いつから気づいてた?」
「大体。幼馴染ってところが違うのはすぐに気づいたけど。記憶が戻ってくるとさ、視覚情報が一番思い出しやすいんだけど匂いとか聴覚情報とかもだんだん蘇ってきたんだよ。俺の前だと気づかれないようにしてたんだろうけど、一階ですれちがった時があったんだよ。その時にお前の吸ってたタバコの匂いがしたのと、ポケットに丸いふくらみがあった。あれ、レモンタブレットだろ。それに、俺の部屋に来るときは襟元を髪で隠してただろう。髪を結んだらネックレスのチェーンがみえるから。最初の頃はまだブラウスの第一ボタンだって閉めてなかったのに、俺が妻の夢を見たと言った翌日から閉めるようになっただろう。最初は首筋にキスマークでもあるのかと思ったさ。でも、隠したかったのはネックレス。ネックレスというより、それについてる…」
「そう、これ」
そういってみきはブラウスの第一ボタンを外し、ネックレスをたぐりよせて出してみせた。そこには俺とお揃いの婚約指輪が光っていた。
「最初におかしいな、と思ったのは手紙をみた時だった。手紙の筆跡がカルテの筆跡と似ていたんだよ。お前は変えたつもりかもしれないけど、ひらがなに特徴があるからな。あと、お前からいつも同じ匂いがしていた。医師という職業柄、香水なんてつけれないだろうから、同じ消臭剤と制汗剤の匂いがしていたんだ。最初は匂いに敏感なのかな、なんて思ったんだけど、それでも煙草の匂いが完全にきえてなかった。あと、眼鏡が度なしだって気づいたとき。最初はお洒落でかけてるのかとおもったけど、そうでもなさそうだったから何か変だと思ったんだ。妻の顔を思い出せないといったのは最初は本当だったけど、このあいだすっかり思い出したよ。お前はそれをなるべく避けたかったから、眼鏡にしたんだな」
「そう。そうよ。鼻がいいのは相変わらずだねしょうちゃん」
壁に凭れていたみきはゆっくりとベットに歩み寄り、そっと腕をのばしてきた。どちらともなくゆっくりと抱きしめあう。
「髪、切っちゃったんだな。あんなに綺麗だったのに」
「それが約束だったの、ゆきとの」
ゆっくりとみきは顔を上げる。
「でも、なんでお前がゆきのフリをしているんだ。ゆきは…お前の双子の妹で」
「そう、双子の妹で、この病院の医者。私は別の病院で働いていた」
「それがどうして」
「思い出せない?私とゆきが車で事故にあったでしょう。二人で実家に帰るとき。その時死んだのは『みき』ってことになってる。でもほんとは『ゆき』なの」
「そんな…」
「思い出せないのも無理はないよ。しょうちゃんはあの時私が死んだと聞いてこの病気になったんだから。いつも二人で車を運転するときは私が運転だって決めてたし、実家に帰るのはひさしぶり、服装の系統も持ち物も似ているものが多かった」
「なんで、そんなこと」
「…ゆきはね、私より先にしょうちゃんを好きになってたんだ。でも、私気づいていたのに、しょうちゃんをとっちゃった。いい子だったし、今までずっと仲が良かった。いつも私にさりげなく欲しいものをくれるような子だった。そんなゆきがね、死ぬ間際にね、こういったの」
『ねえ、おねえちゃん。最後にお願いがあるの。私はもう助からないと思う。お願い。お姉ちゃんが死んだってことにして。そうしておねえちゃんはわたしのふりをして。わたしの残したものはお金もなにもかもぜんぶあげるから。それでね、祥太郎さんがおねえちゃんだって気づいたらおねえちゃんの勝ち。気づかなかったら私の勝ち。たぶん、すぐきづかれちゃうだろうけどさ』
「びっくりした。あの子があんないじわるな事言うなんて。本当にいじわるよ。でもね、双子って、一卵性だからなおさらかもしれないけど、自分の半身みたいに思うの。なんかさ、あの子の顔みてたらさ、手に取るように考えてることがわかっちゃって。私がしょうちゃんと結婚しても、きっと、ずっとゆきはしょうちゃんのことがすきだったのよ。たぶん私と同じくらい、すごい好きだった。それでも私の幸せを願って身をひいてくれたの。いっつもそうだった。あの子、わたしと欲しいものが一緒だと『しょうがないなあおねえちゃん』っていっていつもゆずってくれた。ちょっと困ったような顔で。その顔してたの、死ぬ間際に。小さい頃さあ、二人で服とっかえたりして学校いってたの。それで誰にも気づかれなかったら勝ちっていうゲームやっててね。お互い上手だった。しょうちゃんだけだよ、二人の違いに気付いたのは」
そういったみきの目からはぼろぼろと涙がこぼれていた。
「あの子にいままでよくしてもらった。大切な妹だったの。そしてわたしのはんぶんだった。最後ぐらいお願いを聞いてあげたかったの。でもまさかあなたがこんな風になってしまうとは思わなかった。本当はすぐにでも私があなたの妻よ、って言いたかった。でもね、あの子を裏切る気がしてどうしてもできなかった。わたし、ひどいやつでしょう」
ぼろぼろぼろ、きれいな雫が両の目からどんどんこぼれおちる。右手でそれをすくうと、ほんのりとあたたかかった。あいかわらず綺麗に泣く人だった。
「何を今さら。いいか、今思い出した事を言う。お前は俺をゆきちゃんから取ったって言った。それは違うよ。俺がゆきちゃんからお前を取ったんだ。お前は気づかなかったのかもしれないけど、ゆきちゃんは俺よりお前の方が好きだったんだ」
「…そんなはずない、ゆきは」
「お前には黙ってたけど、結婚式の時に控室にゆきちゃんが来たんだ。その時言ったこと、今でも覚えてるよ。『私は本当はお姉ちゃんが一番好き。純粋に一番大切な人なの。だけど、私じゃおねえちゃんを幸せにできない。くやしくて最初は邪魔してやろうと思ったけど、無理だった。おねえちゃんも祥太郎さんもお互いが一番大切なのがわかってしまったから。だから、わたしのぶんまでおねえちゃんを幸せにしてやってください、お願いします』最後は泣きながら土下座してたよ。ゆきちゃん。多分最後に入れ替わりを提案したのも、そうしたらみきが永遠に自分のものになると思ったんじゃないかな。本当最後まで、みきは愛されていたね。そうして守られてるんだよ」
「…え」
「ゆきちゃんから相談されていたんだけど、前にみきが働いていた病院。かなり裏であくどいことしていたらしい。実際いろいろ嫌なことされてただろ。ついさっきニュースでやってたよ。あの病院の系列まるごと潰れたそうだ。それを見越して自分と立場を入れ替わらせればこれ以上みきがつらい思いをしなくてすむと思ったんだろう。他にもいろいろやっていたよゆきちゃんは。自分名義でお金を貯めてたのも、俺らの結婚祝いに寄越そうとしてたんだ。断ったらさ、じゃあ子供が産まれたらそれに使ってくださいって。大好きなおねえちゃんが大好きな人と結婚して、子供が産まれたらその子供もきっと溺愛しちゃうから、なんて言っててさ」
「う、ううう…」
酷く嗚咽を上げ、みきが泣く。
「決して恨まれてたわけじゃないんだよ。いじわるされてもいなかった」
「俺たち大きな勘違いをしていたんだな。ずっと。俺は妻が死んだと思って病気になって、みきは恨まれていると思って、気づかなかった」
「これから、また幸せになろう」
腕の中の妻を、やさしく抱きしめていた。
どこからか季節外れの春の風が優しく香った気がした。

春と胡蝶

春と胡蝶

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-29

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