落下する男

ビアスの「アウル・クリーク鉄橋での出来事」(一瞬の中身)とディーノ・ブッツァーティ「落ちる娘」(ビルから落下する女)とヒッチコックの「白い恐怖」(記憶喪失症)に触発されて書きました。

 真夜中。熱帯夜を切り裂くように、一匹の蝉が鳴いた。ジジジジ……。靖雄は目を覚ました。べっとりした汗を首筋に感じた。汗をぬぐおうとしたが、思うように手が動かない。全身がベッドに縛られているようだ。水を飲みたいと思った。「誰か水を……」と、かすかに言ったが虚しかった。家には誰もいない。妻は三年前に亡くなり、娘は嫁いでいた。
 また蝉が闇をつんざき、不気味に鳴いた。ジジジジ……、その瞬間、ベッドが揺れ、体が浮き、気が遠くなった。
   * * *
 気がつくと靖雄は六十階建てのビルの屋上に立っていた。フェンスを乗り越えて、今まさに飛び降り自殺をしようとしている。強い風が耳にあたり、うなっている。白い雲が紺色の空に流れ、夕陽が山陰に沈もうとしている。
 なぜ投身自殺するのか、と自問しているうちに、靖雄は不可解な力に押されてビルから落下していく。
 まっ逆さまだ。猛スピードで落下しているはずなのに、体全体がスローモーション映画のようにゆっくり動いている。宇宙飛行士のようだ。怖くない。落下ではなく浮いている感じだ。風は横殴りなのに、身体はビルの壁と平行に垂直に落下している。
 周りの景色がよく見える。遠くに見えるのは港だ。海が夕陽に照らされてオレンジ色に輝いている。米粒のような汽船が見える。反対側では、真っ赤な夕陽が、紺色の山のシルエットにかかり、今日最後の光を眩しく放っている。二羽の鳥が夕陽を横切って飛んでいく。目の前のビルの白い壁は夕陽に赤く染まっている。
 落下するつれ、ビルの窓が次から次へと上昇していった。どのガラス窓にも数字が書いてあり、今何階を落下しているのかが分かった。
 五十七階を落下していく時、窓の中を見た。喪服を着た二人の中年の男が布団のそばでうな垂れて座っていた。二人ともほぼ同じ年齢だ。布団に横たわっている人の顔には白い布がかぶせてあった。
 あの二人の親が亡くなったのだろう、と靖雄は思った。二人の内の一人は知り合いのような気がしたが、誰か思い出せなかった。もう一人の方の顔はぼやけていた。
 夕陽が山に沈んだ。静かだ。風がいつの間にか止んでいた。全ての長い影が一斉に消え、夜の帳が下りた。次第に空全体が黄色く染まり、山並みの上には黄金の雲がかかっていた。
 五十三階の窓を覗くと、結婚披露宴が見えた。新郎新婦が雛檀に座っている。マイクを持った男がお辞儀をし、皆から拍手を浴びていた。祝辞が終わったところらしい。
 たった今五十七階で喪に服す光景を見て悲しくなったのに、今度は披露宴を見て気も晴れやかになった。客は飲んだり、食べたり、笑ったりしていた。客のうちの一人の中年男は見覚えのある男だ。しかし誰だか思い出せない。その男の隣にも同じような年格好の男が窓に背を向けて座り、二人は談笑していた。
 あたりが暗くなった。地上を見ると、ビルの明かりがあちこちに灯り、黒々とした地上が星空のように輝いていた。車の黄色のヘッドライトや赤いテイルライトの流線が縦横に走っていた。ゴマ粒のような車が音も立てずに走っている。先ほどまで眼下に見えた山々は、靖雄が落下している高さより高くなった。海はビルの陰に隠れて見えなくなった。
 今や大小、正方形、長方形等さまざまな形をしたビルの屋上が見えてきた。落下するにつれ屋上が近づき、屋上にある水槽や、広告看板や、入り組んだ換気用ダクトも見えてきた。建設中のビルの屋上に備えてあるクレーも見える。丁度着陸寸前の飛行機の窓から下界のビル群を見ているようだ。
 四十階まで落ちてきたとき悲痛な叫び声が下の方から聞こえてきた。三、四階下を見ると男がベランダ越しに手を下に差し出し、今まさに落ちようとしている別の男の手をしっかり握り、必死で引き上げようとしていた。靖雄は三十五階まで落下して二人の男のところを通過する時「頑張れ!」と叫んだ。三十階まで落下した時、上を見ると、ぶら下がっていた男は丁度引き上げられるところだった。良かった。一体何があったのだろうと思った。
 二十八階から雅楽のような音楽が流れてきた。神前結婚の最中だ。和装の新婦を見たが、後ろ姿しか見えなかった。髪をアップに結い、金色の髪飾りをつけ、真珠のように真っ白な結婚衣装を着ている。
 落下速度が急に速くなった。見下ろすと蟻のように小さな人間が道路を歩いていた。歩行者の一人が空から降ってくる靖雄を発見し、目と口を大きく開いて何か叫んでいるようだ。叫び声は車の雑踏にかき消されてよく聞こえなかったが、「人が降ってくるぞぉ!」と叫んでいるようだ。他の通行人が驚いて一斉に顔を上げるのが見えた。人だかりが増えてきて靖雄を見ている。もう少しであの群集の真ん中にたたきつけられるのだ。これで終りだ。
 靖雄はこれが窓の中を見る最後だと思って、十階の窓を覗いた。兄弟らしい男の子が二人、割り箸で作ったピストルで輪ゴムを飛ばして遊んでいた。三メートルぐらい離れた円卓の上に立ててあるマッチ箱を狙っている。兄は的に当たらなかったが、弟はうまく当てた。兄の方はよく知っている子で、どこかで見たようだが、弟の方はよく分からなかった。
 今や墜落死まであと九階分しかなかった。道路を見ると、先ほどまで集まっていた群衆は靖雄が落ちる地点から飛び散っていた。「危ない! 落ちるぞ!」と絶叫するのが聞こえた。
 靖雄が急降下するにつれ、窓に書かれた階数の数が減っていった。
 九階… 八階… 七階… 六階…
 今にも頭蓋骨が紛々に割れ、血まみれになって死ぬのだ。
 五階… 五階… 五階…………
 落下が止まった。止まって宙に浮いている。空を見上げていた群集も狐につままれたような顔をして、靖雄を見上げている。
 五階の窓を見ると、窓は閉じられ、黒いカーテンが引かれていた。今までの窓はすべてカーテンが開かれていたのに五階だけが閉じられている。
 分かった。多分、カーテンが閉じられて中が覗けないから、落下がここで止まったのか。五階はどうなっているのだろう。どうしたらカーテンが開くのだろう。
 靖雄は五階のベランダを見た。子供のころ住んでいたアパートのベランダに似ていた。子供時代を思い出した。

 当時、靖雄の家族はアパートの四階に住んでいた。靖雄には隆司という名前の弟がいた。しかし隆司は靖雄が五歳の時、ベランダから落ちて死んでしまった。
 ある時靖雄はどのようにして隆司が死んでしまったか母に聞くと、母は「悲しくなるから聞かないで」と涙ぐんで言った。だからそれ以来聞くのを止めた。ただ分かっているのは、靖雄の五歳の誕生日に隆司が死んだということだ。何かこの日に起こり、そのため隆司は死んだらしい。何が起こったか靖雄は記憶になかった。
 隆司が死んだ日に靖雄は突然熱を出し、熱は丸二日続いたと、母が言ったことがあった。熱が下がったとき、靖雄は記憶喪失症になり、その日まで起こったことを何も思い出すことができなくなっていた。四歳と五歳の二年間、幼稚園に通ったが幼稚園のことも何も思い出すことができなかった。しかし靖雄の親は、靖雄の生活に何の支障もないので記億喪失のことは気にしなかった。忌まわしい日以降のことは通常の記憶があったからだ。

 靖雄は子供の頃を思い出しながらベランダを見ていると、突然カーテンが開いた。中を見た。
部屋には二人の男の子が遊んでいた。一人は靖雄自身だった。もう一人は隆司だ。靖雄は玩具のパトカーで遊んでいる。「ハーホー、ハーホー」と言ってパトカーを動かしている。
「あっ、あれは五歳の誕生日にもらったパトカーだ」
 突如、靖雄の記憶がよみがえってきた。
 母が「靖雄、台所手伝ってよ」と言った。靖雄はパトカーを畳の上に置いて、立とうとした。
 隆司が近づいてきた。パトカーを取ってベランダに走って行った。
 ベランダの隅には洗濯機が置いてあった。靖雄は隆司の後を追いながら言った。
「隆司、何するんだ、パトカー返せ、隆司!」
「いやだ」
 隆司は洗濯機によじ登った。
「隆司、それはお兄さんのだ。返せったら」
「いやだ」と言って、隆司はパトカーをベランダから放り投げた。
 靖雄は隆司を押した。
 隆司はベランダから落ちていった。
「靖雄、台所に来なさいといっているでしょ」と言いながら母がベランダに来た。
 母は靖雄の茫然とした姿を見た。
「隆司が……落ちた」と言って、靖雄はその場に倒れた。
 母はベランダの下を見た。悲痛な叫び声をあげた。
 弾の鳴き声が聞こえた。ジジジジ……。

 靖雄は凍りついた。今、五階の窓で見たのは一体何だったのだろう。
「俺が隆司を押すのを見たが……」
 この瞬間、靖雄の記憶を五十五年間閉ざしていた黒い雲が晴れた。靖雄はその日にベランダで起こったことを全て思い出した。そうだ、俺が隆司を押したのだ。母がベランダに来た時、「隆司が……落ちた」と母に言ったのだ。
 靖雄は驚愕した。たった一人の弟に対して自分がしたことが信じられなかった。あと何分の一秒かで地面にたたきつけられるという刹那に、おぞましくも記憶の重い扉が開かれ、ベランダから落ちていく隆司の姿がスローモーションとなって今くっきりと靖雄の眼前に現れた。
 靖雄は隆司に謝った。許してくれ。涙が流れてきた。涙は靖雄の体と同じスピードで落ちていった。
 お母さん、僕が靖雄を押したんだ。だって、お母さんは僕に、「悪い子ね、お兄さんの癖に。お兄さんだから我慢しなさい。隆司をいじめるんじゃないの」としょっちゅう言っていた。隆司が憎らしかった。あの日も隆司が、僕の大事なパトカーを取って逃げて行き、ベランダから投げてしまったのだ。もう我慢できなかった。だから押したんだ……。
 靖雄は母と隆司に詫ぴた。お母さん、僕が隆司を押したんだ。ごめんなさい。隆司、許してくれ。大粒の涙が頬を伝って空中に落ちていった。 
 落下しながら次々に窓から見た部屋の意味が解き明かされた。
 五十七階で遺体のそばに中年の男が二人座っていたが、一人は私自身で、もう一人は隆司だ。隆司が生きていればあんな年恰好になるはずだ。布団に横たわっていた人は母だ。母は私が五十七歳の時亡くなったから。
 五十三階の結婚披露宴は娘が結婚した時のものだ。私は五十三歳だった。私が談笑していた相手は隆司だ。
 三十五階のベランダで身体を乗り出してぶら下がっている男を必死で引き上げていたのは私自身だ。あれは隆司を助けたいと言う願望の現れだ。でも、どうして三十五階なのだろう。そうだ、三十五歳の時、槍ヶ岳で崖から転落しそうになったことがあった。友達が私の手を掴んでいなかったら、滑落死しているところだった。
 私は二十八歳で結婚した。だから二十八階で結婚式を見たのだ。あの純白の花嫁は妻だ。
 十階で玩具のピストルで遊んでいた二人の男の子は私と隆司だ。隆司が生きていればあの子ぐらいだ。
 それから、あの五階……、
 そうか、母は全て知っていたのかも……。知っていて一言も私を責めなかったのか。
 しかし、もう遅い。今にも地面にたたきつけられて血だらけになって死ぬんだ。胸が苦しい。
 隆司、お前はずっと俺と一緒に今日まで生きてきたなあ。私はこの五十五年間ずっとお前と一緒だったんだ。だから飛び降り自殺をするのだ。お前と同じ痛みを感ずるためだ。そちらに行つたら、一緒に玩具のピストルやパトカーで遊ぼうな。お母さん、そうとは知らずに、ごめんなさい。もう時間がない。死が目前だ。


 涙が頬を伝わった。靖雄は涙を拭おうとした。
   * * *
 靖雄は心臓麻痺で死んだ。ベッドから床に落ちていた。頬が涙で濡れていた。

                           完

落下する男

最初の部分を読んで、もう結末を予測できる人は、よほど小説を読みなれている人かと感服します。

落下する男

主人公の靖雄は、気がつくと高層ビルの屋上から飛び降り自殺をしていた。どんどん落下していくときに、窓を通して、部屋の中の様子が見えた。 コメントをください

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2010-08-09

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