再び赤い悪夢
玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、そこにバクがいた。おれはノブに手をかけたまま固まった。バクが言った。
「ども」
おれはドアをバタンと閉めた。背中をドアにもたせて十字を切る。もう一度ドアをそっと開けて、隙間から外をうかがった。なにもいない。
「目の錯覚だな、やっぱり」
おれがふりかえると、バクがぬっと鼻面をつきだした。
「ひええっ」
おれはとびあがった。ドアの前にすわりこみ、バクを指さして、
「な、な、なんだ」
「契約どおりやってきましたよ」
バクはくるりと向きをかえて、家の中に入っていこうとする。
「ま、まて」
おれはバクのしっぽをつかんだ。
「ブヒッ」
バクは電流を流されたようにとびあがった。おれはびっくりして手をはなした。バクはおれのほうにむきなおった。
「なにをするんです」
「そっちこそなんのつもりだ」
「さっきもいったでしょう、契約どおりやってきたって」
「その契約というのがわからない」
「私に見おぼえがないとでも」
「ないね。いっぺんでも会ってたら憶えてるだろうな、あんたは変わってるから」
「なら質問のしかたをかえましょう。私が何に見えますか?」
「なにって、バクみたいに見えるけど……」
「なんだ、ちゃんと知ってるじゃないですか。それならバクがどんなことをするか、なんてことも知ってるんでしょう」
「悪夢を食べるんだろう」
「そこまで知っていて、どうして知らないふりができるんです」
「それとこれとは話がちがう。おれがいってるのは、バクがどんな動物なのかを知っているということであって、きみ自身を知っているという意味じゃないんだ」
「私はバクですよ」
「そういう意味じゃなくて……」
「まあ、いいでしょう。とにかく契約は契約なんですから」
「その契約というのは結局なんなんだ」
「もうわかってるはずでしょう。あなたが悪夢を見たときに、それを私に処理させるという、取決めのことですよ」
「しかし、おれにはそんな契約のことなんかまるで身におぼえがないし、どうもその契約というのがまちがいじゃないかと思うんだが」
「それなら証拠を見せましょう。ほら、これが契約書です」
バクは紙きれを口にくわえている。おれは心の中で、
(いったいどこから出したんだ?)
おれは紙きれをとりあげて、それを読んだ。
「ちゃんとそこのあなたのサインがあるでしょう」
その書類の末尾にはなにかサインがしてある。
「たしかにおれのサインだ。だけど、おれはこんな書類にサインしたおぼえがないんだ」
「こんなはっきりした証拠があるのに、まだとぼけるつもりですか」
「いや、本当に憶えていないんだ。だから、せめていつどこでこのサインをしたか、教えてくれないか。なにか思い出せるかもしれないから」
「そんなこと知るもんですか」
「えっ」
「知らないといったんですよ」
「ふふん、とうとうしっぽを出したな」
「しっぽは生まれたときからついてますよ」
「くだらないことをいって話をそらそうとするな。そういえば、これには日付がないな。こいつは無効だ」
「これが無効ってことがありますか」
「現におれはサインなどしていない」
「でも、ここにあなたのサインがある契約書が存在している以上、契約は有効ですよ」
「だからその契約書がニセモノだといってるんだ」
「この契約書は本物です」
「なら、いつ、どこで、おれがこれにサインしたのかいってもらおう」
「わかりました。そこまでいうのなら教えましょう。といってもそれは秘密でもなんでもなくて、夢の取引をするのは夢の中にきまっているということくらい、わかりそうなものでしょう。夢の中では、いつ、どこで、などということはできませんからね」
「でも、どうして夢の中で結んだ契約に、おれが拘束されなきゃならないんだ」
「これが有効なのは夢の中だけです。私に用があるのはあなたの夢だけなんです。これで納得してもらえましたか」
バクは向きをかえて、また家の中に入っていこうとする。
「ちょっとまってくれ、契約のことだ」
バクはふりむいた。
「無償で悪夢を処理してくれるわけではあるまい。まさか代償として魂をよこせ、なんていうんじゃないだろうな」
「バカなことをいっちゃいけません。私はバクですよ。悪魔じゃありません。魂なんて食えもしないものを、ほしがるわけないじゃありませんか。私は悪夢を食べて生きているんです。悪夢そのものが報酬なんですよ。契約書をよく読んでください」
「わかった。わかったから帰ってくれ。とにかく今のところおれは悪夢に悩まされてないよ」
「まったくあなたって人は……」
バクはそのままトコトコと家の中に入っていった。呆然と突っ立っているおれのところに、奥の部屋から悲鳴が聞こえてきた。おれはハッと気づいてかけだした。
男が部屋にとびこむと、そこにバクとベッドの上に裸の少女がいた。少女は身を起こし、シーツをつかんで体をかくした格好でおびえている。
バクはおれのほうをふりかえって、
「ほーら、やっぱりこんな夢を見ていた」
「よせ、それは悪夢なんかじゃない」
「これが悪夢でなけりゃなんだというんです」
「これが夢なら……いい夢にきまってるじゃないか」
「いや、これは悪夢ですよ。それもたちの悪い淫夢(スキュバス)というやつです。朝、気がかりな夢から目覚めたとき、自分の下着が気味悪く濡れていることに気づいた、ということになるんです。こいつは不条理ですよ」
「そんなことはどうでもいい」
「どうでもよかありませんよ。とにかく悪夢は食っちまわなけりゃ」
バクベッドに近寄ろうとした。
「まて!」
おれは足をふみだしたが、そのままの姿勢で動作が凝固してしまった。
「う、動けん」
「あなたはそこでそうしててください」
バクはベッドの縁に前足をかけて、上にあがろうとしながら、
「スキュバスめ、今やっつけてやるからな」
「い、いや」
バクは少女に襲いかかった。
「や、やめろおっ。いや、お願いだからやめてください。その娘だけは……」
おれは涙を流して懇願した。
少女を押さえつけたバクは興奮して、いきなり少女の肩に噛みついた。少女が悲鳴をあげた。
バクは少女を食べつくしてしまうと、まわりにあるものすべてを、舞台の書割みたいに、バリバリと食べはじめた。
何もない空間に、おれとバクだけが残った。
「どうもごちそうさま。どうです、すっきりしたでしょう。悪夢に悩まされたときは、いつでも私を呼んでください。私はすぐに現れますから」
バクはしっぽから自分の体をひと呑みに呑みこんだ。バクは消滅した。おれは虚空に宙づりになっていた。
「うああああ……」
おれは絶叫した。
*
「なるほど」
医師が言った 。病院の診察室。医師は手をうしろで組んで、窓の外をながめている。おれは寝椅子に横になっていた。窓から射しこむ光がまぶしかった。
「それは悪い夢を見ましたな」
おれは自分にいいきかせた。
(そうだ、あれは全部夢で、ぼくは今それをこの医師に報告したところなのだ)
医師はこちらにむきなおった。
「しかし、この夢にはあなたのかくされたコンプレックスを解明する鍵が含まれています。バクの口はあきらかに女性性器の象徴です。しかもそれはあなたの性行為の妨害者として現れている。ここに私はあなたのコンプレックスが存在していると考えます。
おそらく、あなたは幼児期に両親の性行為を目撃したのでしょう。その原光景は夢の中でバクと少女によって再現されています。あなたは無力にもそれを見ていることしかできなかった――それは両親の性交を目撃したときの幼児の状態なのです。
そのさい、あなたは女性性器にペニスが没入するのを見て、女性性器がペニスを食べてしまったと解釈した。それを去勢の威嚇と結びつけて、性行為と去勢を同じものとみなしたのです。女性性器はあなたにとって欲望の対象であると同時に、その欲望の充足に対する罰つまり去勢を与えるものなのです。
そこであなたは性行為を行うために、女性性器を二つにわけて考える必要があった。性交の対象である良い性器とペニスを食べて去勢してしまう悪い性器です。これは少女とバクによって表象されています。あなたは悪い性器を遠ざけて、良い性器である少女と性交しようとします。しかしそれは悪い性器=バクにみつかってしまう。
バクはあなたに「契約」という言葉で原光景を思い出させようとします。これは性行為と去勢とを結びつけた最初の出来事にあなたをつれもどすことになりますから、あなたは受け入れることができません。あなたは契約書にサインしたことを否定することによって、自分がそれを目撃したことを否認します。
ところがバクはあなたの目の前で原光景を再現することで、あなたの主張をうちくだいてしまいます。結局、良い性器=少女は悪い性器=バクに食べられて、そこには悪い性器しか残りません。もちろん、悪い性器とは性交することができません。悪い性器もいなくなってしまいます。そしてあなたひとりが残った、というわけです」
おれはしばらく、医師の言葉を頭の中で反芻した。
「わかりました。先生の分析をうけいれましょう。しかし、そうすれば、わたしはバクをおそれる必要がなくなり、悪夢を見ることもなくなるんでしょうか。ここから出ることができるんでしょうか」
医師はおれに近づきながら、
「それはむずかしいかもしれません。しかし、悪夢についてはてっとりばやい方法がありますよ」
「どんな方法ですか」
医師はおれの背後にまわっていた。
「そんな夢は食べちまえばいいんですよ」
「えっ」
おれはおどろいて背後をふりむいた。尖った小さな歯が並んだその向こうに、バクの真っ赤な口腔が見えた。
再び赤い悪夢