庭にマグマができました。
「庭にマグマができました」
玄関で出迎えてくれた妻の第一声はこれだった。
私は革靴を脱ぎながら、妻の言葉の意味を考えた。
これは新手のボケなのだろうか、それともマグマが何かを比喩したものなのだろうか。
その真意を汲み取ろうと彼女の表情を窺ったが、氷のように冷え切った表情からは
何も汲み取る事ができない。
「それでどうすればいいのかな」
私はまっすぐに見つめる彼女の瞳をのぞきながら言った。
「とりあえず……」
彼女はもったいぶるように一呼吸置いた。
「洗濯物が干せないの」
なるほど、確かに庭にマグマができれば洗濯物を干している場合じゃないだろう。
しかし、問題は他にもっとあるのではないだろうか。
家にあがってリビングを突っ切り庭に出た。
そこにはいつも通り均等に切りそろえられた芝が、月明かりに照らされていた。
いつもと違うのは、庭の真ん中に赤い円形状のものがあるだけだ。
それはバスケットボールほどの大きさで、グツグツと音を立てている。
その円形状のものに近づいてみた。
そこからはなべみたいに気泡が発生し、手をかざすと焚き火に当たっているかのように暖かい。
確かにマグマだ。しかし、なぜこんなところに、どうやって、誰が、何のために。
質問は山のように浮かんだ。
「いつからなの」
私は振り返り妻に聞いた。
「今朝、あなたが出ていった後に気づいたわ」
「警察に連絡はしたの」
「してない」
「……」
ということは朝からずっと私の庭ではマグマが煮えたぎり続けていたわけだ。
そんなこととは知らず仕事に出かけていた自分を愚かしく思うと同時に、平然と過ごしていた妻の神経を疑った。
「とりあえず、警察に連絡しようか」
「いや」
妻の回答は早かった。
「何で? 僕らじゃこんなもの手に負えないんじゃないかな。急に噴火したら困るし」
「1日中見ていたけども噴火する様子だってないし、それに警察に通報したらこのマグマも
いろいろと検査されて、保険所に連れて行かれるかもしれない」
まるで、買い犬が連れていかれるような言い草だ。
しかし、なんと言われようとここで引くわけにはいかない。
マイホームの危機、いや命にかかわる問題かもしれないのだから。
「けれども、僕らはマグマについて何も知らないじゃないか。いきなり庭に発生した理由だって分からないし。
いつ噴火するかも分からないマグマが庭にある家で、ゆっくり眠れないんじゃないかな」
私が言い終わるやいなや、妻の眉間に、大地の裂け目のような皺が生まれた。
「今日1日、私は図書館でマグマについて調べました。このマグマの色は休止状態で、数年間は噴火する事はないわ。
それに温度についても200度前後、まったく問題ないわ。何も知らないのはあなただけじゃないの」
「すいませんでした」
私は直角に頭を下げた。これ以上、意見したら妻のほうが噴火してしまう。
「それじゃ行くわよ」
「行くってどこへ」
私は彼女の眉間の皺のより具合を確認しながら言った。
「どこって、部屋干し用洗剤を買いに行くに決まっているじゃない」
なるほど。
彼女の脳内では、マグマの噴火よりも、洗濯のほうが優先順位が高いらしい。
私たちは歩いて5分の場所にある薬局に行き、入ってすぐにある洗剤売り場のコーナーに向かった。
妻はそれぞれのメーカーの洗剤を手に取り品定めをしている。
私はその横で買い物かごを片手にボーっと突っ立っていた。
胃袋が空腹を訴えている。時間は九時を回っており、いつもなら食後のいっぱいのビールに手を出しているくらいだろう。
妻は相変わらず、洗剤とにらっめこしていた。
「洗剤なんてどこのも一緒じゃないのかな」
「違うわ。この前、たまたま違う洗剤を使ったら、洗濯機から水が溢れ出したもの」
それは洗剤のせいなのだろうか。私はその言葉をのどの直前で押しとどめた。
「それよりも、さっきマグマは噴火しないって言ってたじゃないか。じゃあ別に外で干しても……」
「マグマをなめちゃいけない」
彼女はまっすぐにこちらを見つめた。
私は言うべき言葉を見失った。
そうだ、マグマに関しては彼女の方が何枚も上手なのだ。私はただ従うしかない。
それから三十分ほどして、やっと購入する洗剤を決めた。
私も思わず安堵の息をついた。
「あ、そうだ」
妻はレジの直前で180度回れ右をした。
「食用洗剤もちょうど切れてたの」
妻は洗剤売り場のほうに颯爽と戻っていった。
胃袋がギュルギュルと不機嫌な音を立てた。私はこれ以上買い忘れがない事を願った。
「もし、庭にマグマができたらどうしますか」
私は楽器が入れられたショーケースのガラスを拭きながら、店の隅で音楽雑誌を読む店長に話しかけた。
雑誌から顔を上げた店長は、ポカンと口を開けてこちらを見た。
「何言い出すんだ、いきなり。頭でも狂ったか」
「いえ、あの、最近読んだ漫画がそんな話だったので」
「漫画。はあ、良い年した大人がまだそんなもん読んでるのかよ」
彼は薄いブラウンに染められた髪をかきむしった。
彼の年は四十歳、楽器店の店長をやるかたわら、学生時代からのバンド仲間とライブをやったりしている。
あなたこそ、いい歳ですよ。心の中でつぶやいた。
「俺だったらそうだなあ。商売をやるな」
「商売?」
「ああ、マスコミを呼んでテレビにでも出ようなら一躍有名になるだろ。
それで見に来たやつらから見物料をとる。それで名物でも作れば一気に金は入るだろう」
ニヤリと自慢げに笑いかけてきた。
なるほどな。確かに自分の庭にマグマができたら、マスコミも大騒ぎするはずだ。
けれども、人見知りの妻はたくさんの人が家に来るのは嫌がるだろう。
「お前ならどうするんだよ」
「そうですね……」
ショーケースの中に置かれたギターをぼんやり見た。
0が七つもつくほどの値段で、私が働きだした五年前から置かれている。おそらくこれからも置かれ続けるだろう。
「僕なら、いつも通り生活するんじゃないですかね」
実際にいつも通り生活しているのだから、そうとしか答えられない。
「マジかよ。なかなか肝っ玉すわってるな。じゃあ、もしマグマが噴火でもしたらどうするんだ」
「噴火したら、引っ越します」
「そうか……」
店長は煮え切らない表情をして、また雑誌に視線を戻した。
「五右衛門風呂に入りたいです」
玄関で待つ妻の第一声は、またこんな訳の分からないセリフだった。
「なぜ?」
昨日マグマのことを告白されたときに比べれば幾分冷静だった私は、すぐに聞き返した。
「だってマグマが庭にできたんでしょ。じゃあ一番に思いつくのは五右衛門風呂じゃない」
「……」
そうなのだろうか。私は五右衛門風呂なんてこれっぽっちも思い浮かばなかった。
むしろ、マグマから五右衛門風呂を連想するのは世界中で妻ぐらいじゃないだろうか。
「それで、どうすればいいのかな」
私は彼女のまっすぐな瞳を見つめた。
「とりあえず……」
彼女はすっと小さく息を吸った。
「ドラム缶が必要なの」
なるほど、ドラム缶がなければ五右衛門風呂もできない。
ところで、ドラム缶ってどうやって手に入れるんだ。
夕食後、私はパソコンの画面とにらめっこしていた。
五右衛門風呂についてインターネットで検索すると、意外にも多くヒットした。
普通の家庭でも五右衛門風呂をしているところはあるみたいで、家族皆で入っている写真もあった。
けれども、ドラム缶の入手方法について書かれたものは全くなかった。
どうやら、会社で使われなくなったものをもらうのがほとんどのようで、一般むけには売っていないらしい。
どうしようか。腕を組み考え込んだ。
流し台のほうに目をやると、食器を洗う妻の後姿が見えた。
黒いTシャツにくたびれたGパン、その上から赤いエプロンをつけている。
二本の手がまるで機械のようにしゃかしゃかと動いている。
結婚してもう三年になる。
特に不自由ない暮らしで、けんかも争いもなく過ごしてきた。
ただ、いまだに妻の考えが分からない時がある。
天然なのだろうか、それともねらっているのかは分からない。
しかし、彼女の言動に驚かされることは少なくない。
私たちが始めて会ったころもそうだった。
5年前、私が楽器屋で働き始めたころ、家の近くにケーキ屋ができた。
甘いものが苦手な私は特に気にもしていなかった。
ある日、たまたまその店の前を通り過ぎたとき、一人の女性が立っていた。五年前の妻である。
今と変わらぬ無愛想な表情で、人形のように微動だにせず突っ立っていた。
何を思ったか、用事も忘れてふらっとケーキ屋のほうに近づいた。
「ショートケーキをください」
彼女はこちらをちらりと見た後、手際よくケーキをパックに入れた。
「二百円になります」
その声はケーキ屋の店員には向かない低い声だったが、はきはきして力強い声が私は気に入った。
百円玉二枚を渡し、ケーキのパックを受け取った。
「ありがとうございました」
その声を後ろでに聞き、少し離れたところでケーキ屋を振り返った。
そこには変わらず、無愛想な顔をした彼女が立っていた。
その日からほぼ毎日、そのケーキ屋に通った。
次の日はチーズケーキ、次の日はモンブラン、一日毎にメニューを変えた。
彼女は変わらず、無愛想な表情を私に投げかけ続けるのだった。
いつしか、ケーキ屋に行く事が一日の楽しみになっていた。
二週間ほどがたったとき、全てのメニューを注文していた事に気づいた。
「どれにしますか」
彼女の言葉に、私は何を思ったかこんな言葉を発した。
「あなたをください」
その瞬間、なんて事を言ってしまったんだという後悔が頭の中を埋め尽くした。
彼女の鷹のように鋭い目が真ん丸くなった。
そして、瞬きを三回くらいしてから、こう言った。
「1000ポンドになります」
彼女の切り返しに言葉を失った。
1ポンドって何円だっけ。
そんな意味のない考えが頭に浮かんだ。
「調子はどう」
その言葉で、意識が回想から現実世界に戻った。
ゆっくりと後ろを振り返ると、そこには1000ポンドの妻が立っていた。
「調べたんだけど、どうやらドラム缶は個人じゃ買えないみたい。
どこかの工場から使わなくなったものをもらうくらいしか方法がないらしい」
「そうなんだ」
彼女の視線が少し伏し目がちになった。
「あ、でも、もしかしたらホームセンターなんかで売っているかもしれないし。
明日、仕事終わりに近所の工場にも行ってみるから安心して」
彼女の視線が再浮上した。
「ありがとう。お願いね」
任せといて。そうつぶやいてから、ひとつ大事なことに気づいた。
このあたりにホームセンターも工場もないよな。
「ドラム缶が欲しいだと?!」
店長の叫び声が、客のいない店内に響き渡った。
平日の昼間、楽器を買いに来る客なんてほとんどいない。
まあ、休日でも客足には大差ないのだが。
「はい、そうです」
「何のために?」
「五右衛門風呂をするために」
店長は呆れたという表情で、こちらを見つめる。
そして、ゆっくりと左右に首を振った。
「昨日のマグマがどうのこうのという話といい、お前どうかしちまったんじゃないか。
なんだ、マグマが庭にできたから、それで五右衛門風呂を沸かそうかとでも思ったのか」
全くもってその通りです、とは言えず、チンピラのような店長の視線を無言で受け止めた。
「それで、どうして五右衛門風呂に入ろうと思ったわけだ。ああっ」
店長がチンピラのような口調でまくしたてる。
きっと若いころもこんな風に弱いものをいじめていたのだろう。
「妻が五右衛門風呂に入りたいと言い出しまして」
「奥さんが? 」
はい。
店長は顎鬚をなでながら、天井をゆっくり見回した。
「奥さん、何歳だ」
「27です」
「お前は?」
「28です」
「結婚して何年だ」
「3年です」
ふーん。今度は視線が床を這うように移動する。まるで小銭でも探すように。
「奥さん、甘えたいんじゃないか」
「甘えたい?」
「結婚して3年、こんなくそつまらん夫と二人っきりで暮らして、退屈な日常に飽きてきたのかもな。
だから夫に無茶難題を仕掛けてみようと思ったんじゃないか」
「はあ」
「もしかしたら、これがラストチャンスかもよ。ドラム缶ひとつ手に入れられない夫とは別れよう、と思っているかもしれない。
もし手ぶらで帰ったら離婚届を突き出してくるかもよ」
「そんなばかな」
「そうならないためにも、必死でドラム缶を探すんだな」
そう言って、タバコの箱を片手に店の外へと向かった。
そんなまさかな。
店長が今言った事を頭の中で繰り返し、一人苦笑いを浮かべた。
一瞬、離婚届を無言で突き出す妻の姿が思い浮かび、ぞっとした。
薄暗い電灯が立ち並ぶ夜道を一人歩いていた。この辺りは夜九時を過ぎると、ほとんど人通りがなくなる。
7時に仕事が終わり、2時間以上歩き続けていた。
ここから近くはないホームセンターにも行った。しかし、ドラム缶はありますかと聞くと、店員は苦笑いして首を振るだけ。
5キロ以上離れた河原にも行って捨てられたドラム缶がないか探したが、そんなもの一つもなく、通行人に白い目で見られるだけだった。
どうしようか。家に近づくたび足取りが重くなっていく。
ドラム缶が見つからなかった事を知れば妻はどんな反応を示すだろうか。
まさか離婚届を突き出される事はないだろうが、昨日あれだけ大見得を切った分、がっかりされるのは間違いないだろう。
ドラム缶一つ手に入れられない男として、呆れられるかもしれない。
ふと今日の店長の言葉が頭に浮かぶ。
結婚してから3年、旅行も行かず、というよりも二人で出かける事も皆無で、1日のうち二言三言話すだけという日も多く、
何一つ夫らしい事をしてやれてなかった。
妻は毎日表情も変えず家事をこなし続けていた。
妻の笑顔を最後に見たのはいつだろうか。
間違いなくあの日しかない。ちょうど今から3年前だ。
妻と付き合い始めてからちょうど2年が経ったとき、私は妻をディナーに誘った。
場所はビルの最上階にあるフランス料理店、いつも二人で行く定食屋とは桁一つ違う値段の料理が出るところだ。
いつも冷静沈着な妻でさえ、少し緊張しているように見えた。
その数百倍緊張していた私は、震える手で料理を口に運び、全く味のしない高級料理を胃袋に流し込んでいった。
全ての料理が運び終わったところで、私は小さな箱を彼女に差し出した。
「開けてみて」
彼女は大きく頷き、慎重に小さな箱を開けた。
中身を見た瞬間、彼女の目はビー玉のようにまん丸になった。
中には給料3か月分の婚約指輪と、小さく折りたたまれた1000ポンドのお札が入っていた。
「今度こそ君をもらいにきた」
腹の底から声を出したつもりだったが、ミミズのような声しか出なかった。
彼女は視線を上げ、潤んだ瞳をこちらに向けた。
「ありがとう」
白い歯を見せて、ニコリと笑った。私が見た、彼女の初めての笑顔だった。
あの頃は彼女を喜ばせようと毎日必死に考えていた。
今はどうだろうか。
今の暮らしに満足し、何の努力もせず、単調な毎日を過ごしている。
そして、今日もドラム缶一つ持って帰ることができないという、なんとも情けない結果だ。
そんな事を考えているうちに、我が家が見えてきた。
帰りたくない。まるでテストで赤点を取った中学生のような気分になった。
「ただいま」
大声で言うと、パタパタとスリッパが床をたたく音が聞こえ、リビングから妻が姿を現した。
「おかえり、ドラム缶は見つかった?」
妻の顔はまるでクリスマスプレゼントをもらう前の子供のような顔をしていた。
こんな顔をする妻に真実を告げるのは胸が苦しかった。
「実は……」
ピンポーン。
私の言葉をさえぎるようにチャイムが鳴り響いた。
こんな時間に誰だろう。
ドアを開けるとそこには息を切らした店長の姿がいた。
「よお、久しぶり」
「いったいどうしたんですか。こんな時間に」
「どうしたもこうしたもねえよ。お前の嫁さんのためにこいつを届けにきてやったんだよ」
店長の横には古ぼけた青いドラム缶が置かれていた。
「どうしたんですか、これ」
「どうせお前じゃ探せないだろうと思って、知り合いに頼んどいたんだよ」
「あ、ありがとうございます」
まさか店長がここまでしてくれるなんて。
今までは店長の事をただのチンピラとしか思っていなかったが、実は結構いいチンピラだったみたいだ。
「じゃあ、帰るわ。奥さんによろしく」
「あ、せっかくなんで、五右衛門風呂でも一浴びどうですか」
「……いや、いいよ」
店長は暗い夜道を一人寂しく去っていった。
「誰?」
妻が玄関から顔をのぞかせた。
「店長、僕が働いている楽器屋の」
「あのチンピラの人? それで何の用事だったの」
「僕らのためにドラム缶を持ってきてくれたの、ほら」
家の前にたたずむドラム缶を指差した。
すると妻の目が瞬く間に輝きだした。
「すごい、嬉しい。あの人、ただのチンピラじゃなくて、結構いいチンピラだったのね」
私は思わず笑みをこぼした。
さすが夫婦、考える事は同じなのだな。
早速、五右衛門風呂の準備に取り掛かった。
まずマグマの両端に薪を置き、その上にドラム缶を置いた。
薪は妻が昼のうちに買ってきてくれたみたいだ。
そして、ドラム缶に水を入れていった。
お風呂場と庭を10往復ほどしたところで、ドラム缶に8割ほどの水が満たされた。
10分ほどたって、ドラム缶から湯気が立ち始めた。
「じゃあ、私から入るね」
すると妻はおもむろに来ている服を脱ぎ始めた。
「え、ちょっと待てよ」
私が止めるのも気に留めず、1枚1枚服を脱いでいく。
しかし、私の不安とはよそに、妻はきちんと服の下に水着を着ていた。
水着といっても小学生が水泳の授業で着るスクール水着で、27歳の女性が着るにはかなり無理があった。
私は周りを見て、のぞきがいないかを確認した。
大丈夫、誰もいない。もちろん、人のいいチンピラも。
「じゃあ、お先」
妻はドラム缶の横の脚立を登り、足先からゆっくりと湯の中に入っていった。
やがて肩までつかり、ドラム缶からは妻の頭だけがちょこんと出ていた。
「湯加減はどう?」
「んーいい感じ」
「気持ちいい?」
「うん、気持ちいい」
妻の姿を見ると本当に気持ちよさそうだった。次第に自分も早く入りたいという欲求が出てきた。
「ねえ」
いまや顔だけの姿となった妻が言った。
「どうしたの」
「色々ありがとう」
妻の顔を見てドキリとした。それは婚約指輪を渡したときの笑顔と同じだった。
たまたま湯気によって表情が緩んだだけかもしれない。
でも私には、とびっきりの笑顔に見えた。
ドラム缶から出た湯気が黙々と立ち昇る。その白い煙ははるか上空で闇の中に溶けていく。
「ねえ」
今度は私が、顔だけの姿となった妻に言った。
「どうしたの」
「そろそろ変わらない」
妻はしばらく黒目を上に向けた後、言った。
「あと30分」
「……」
まあいいや、30分でも1時間でも待ってやる。
こうやって妻の気持ちよさそうな顔を見るのも悪くない。
庭にマグマができました。