敗者様は幸せを得た

 五時間目が終わるころには、雨もやみ、梅雨の空が久々に晴れ渡っていた。土のグラウンドはぐちゃぐちゃだ。けれど今日は久々にサッカーができる。そう思うと、少しワクワクした。もう雨の日限定特別メニューの筋トレには飽きたのだ。
 掃除当番なんてほったらかして、僕は放課後の学校を駆ける。バリアフリーがどうとか言って最近新しく設置されたエレベーターの前で、我がサッカー部の女子マネージャー、稲森に会う。

「なにエレベーターに乗ろうとしてんだよ」

「文句ある? 私は階段嫌いなのよ」

「エレベーター乗る方が時間かかんだよ。僕は階段で先行くから。じゃあな」

「すべって頭打って死んじゃえ」

 彼女こそがうちの名物毒舌マネージャーである。こんなものまだ序の口だ。けれど仲の良い人間にしか毒舌を出さない。だから彼女のことをよく知らない人からは物静かで、か弱き女の子と思われていることもしばしば。
 そんな人たちに対して僕はこう思うのだ。騙されてかわいそうに。毒を吐く本当の彼女の方が魅力的なのに。



♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪



 部活が始まる。集合して、ウォーミングアップ。グラウンドを走って、二人組でパス。いつも通りのメニュー。だがそれがなつかしい。
 さっき廊下ですべって強烈に打ちつけた頭が痛む。稲森の言うとおりになった。あの野郎、呪いか何かをかけやがったな。その稲森はボトルに水を汲んでいる。仕事熱心なので許そう。
 久々のサッカーなのでみんな気合が入っていた。いつも基礎トレーニングばかりやりたがるキャプテンの渡来も今回ばかりはその例にもれず、「今日は最後までずっとゲームをやるぞー」と言った。ゲーム――試合形式の練習であるために、基礎こそが重要と考える渡来にとっては最大の敵なのだ。しかし今日はさすがの渡来も陥落か。
 三チームに別れたので、不運にも僕のチームはいきなり休憩だった。うずうずして、コートの外でボールを蹴っていたら、稲森が近づいてきた。

「よ。春野。頭打ったんだって? バカだね」
 ニヤニヤしている。嬉しいのか、この野郎。

「なんで知ってんだよ」

「渡来君が言ってた」

「渡来? あいつ見てやがったのか。てゆうか『バカだね』じゃねえよ。心配しやがれ」

「だって私言ったじゃん。それにしても本当に転んだんだ。でも死ななかったんだね。残念」

「てめー、この野郎」

 ストップウォッチのピピピという音が聞こえた。稲森が時間を計っていたようだ。

「終わり―」
 稲森の声でみんなが動きを止める。

「じゃあがんばりなよ」
 そう言って稲森は帰っていく。

 よし。じゃあがんばりますか。

 久しぶりにサッカーをやって色々と思いだす。サッカーは楽しいな。この感覚はたまらない。
 でもサッカーは苦しい。どうしてもどうしても僕は渡来に勝てないのだ。いつも先を読まれる。ドリブルも敵わない。シュートも敵わない。足の速さも敵わない。
 スポーツは実力至上主義だ。もちろんそれが高校の部活であってもだ。うまい奴が上でヘタなやつが下。これほどわかりやすい世界はない。まどろっこしいものがない分、言い訳もできないし、ごまかせない。つらいなあ。だから僕は自分に魔法をかける。「僕はサッカーができるだけで幸せだ」って。

 部室に戻って着替える。汚い部室だが、ここが僕達の城だ。

「おい。お前エロ本持って帰れよ?」
 そう言ったのは雪彦だった。雪彦は基本的にチャラけた奴だが、サッカーはうまい。ピッチの上じゃまるで別人のようになる。

「僕のじゃないって。熟女なんて興味ねーんだよ」

「またまた?。じゃーこれ誰のだ?」
 雪彦は他の部員にも声をかけている。しかし誰が熟女なんて好きなんだ?

 結局、誰のものかわからなかったので、「俺が持って帰るしかないっしょ」と雪彦が持って帰ることに。エロければなんでもいいのか、お前。

 

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪



 帰りに飯食ってこーぜ、と雪彦が言うので僕と雪彦と稲森でラーメン屋さんに行くことになった。僕の家は母子家庭で、その母親は夜のお仕事をしているので、帰っても晩飯はない。都合がよかった。また、家に帰ればあったかい晩御飯が待っているであろう雪彦にとっても問題ないはずだ。つまり僕ら食欲旺盛部活系男子にしてみればそんなの朝飯前、もとい晩飯前であった。
 部活帰りにどこか寄るのは珍しいことではない。雪彦が定期的に誘ってくる。なのでいつもは2人だ。けれど今日は稲森もついて来た。

「あんたたち、よく二人でどっか行ってるよね」

「まあな。雪彦が誘うからなあ」

「いやいや、お前が行きたそうな顔してるからだって。嬉しいくせに?、このこの?」
 雪彦が肘でツンツンしてくる。

「仲がよろしくてうらやましいことね。カップルみたい」
 意地の悪い顔で稲森が言う。ちなみにこういう顔をしている時の彼女は輝いている。それはもう最高に。

「なんてこと言うんだい、稲森ちゃん。俺はね、女の子が大好きなのさ。証拠を出すからちょっと待って」
 そう言って雪彦はカバンをあさる。

「じゃじゃーん」
 さっきのエロ本だ。熟女だ。断じて女の子ではない。熟女だ。バカだなこいつ。

「あ、あんた! なんてもん見せてんのよ」
 稲森が慌てて顔を覆う。おお。可愛い一面もあるもんだね。……いや演技かもしれない。この女、黒いからな。

「とか言いながら稲森ちゃん?。指の間からしっかり見てるじゃん。ほれほれ?」

「み、見てないわよ。はやくしまいなさい。セクハラで訴えるわよ」
 顔を赤らめながら、エロ本を雪彦の手ごと無理やりカバンに戻そうとする。とすると、この反応は本気だったか。すまんな、疑って。

 はあ。楽しいことこの上ない。僕の高校生活は二人がいる限り、絶対に楽しいものになる。
 がやがや言いながら、僕らはラーメン屋さんへ向かう。



♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪



「メンチカツラーメンが三つですね」
 店員が注文を繰り返す。雪彦のオススメだというメンチカツラーメンをみんなで頼んだ。

「今さらだけどなんなのよ。メンチカツラーメンって」

「うまいんだって。俺を信じて、ね? 一回食べてみなよ。後悔はさせないからさ」

「熟女が好きな人を信じろって言われてもねえ? 春野っち」

「春野っちってなんだよ」

「おや、まあ。お二人は名前に『っち』をつけて呼び合う間柄ってか?」
 嫌な笑顔を浮かべて雪彦がつついてくる。

「『っち』をつけたからって別になにもねえよ。ていうか熟女好きなのは否定しねえのかよ」

「あの熱い夜のこと忘れたの? あんなに私を愛してくれたのに。春野っち」
 稲森がなぜか無駄にのっかってきている。てゆうか自分からそういう話するのは平気なんかい! 

「何それ何それ? 詳しく詳しく」

「冗談に決まってんだろーが―。だーーーーーー」
 そう叫ぶしかなかった。

「ちなみに俺は熟女好きじゃないよ」

 ……どうでもいい。自分からふっといてなんだが、心底どうでもよかった。

 そうこうしている内にメンチカツラーメンが来た。ラーメンの上にカツがまるごと乗っている。
 油。油。油。こってり油のラーメンの上にこてこてのカツが鎮座していた。しかし、部活系男子日本代表の僕らには朝飯前(以下略)

 うまいうまい。箸が進む。僕と雪彦はものの数分でその全てをたいらげて、デザートでも行こうかという具合だった。
 隣で「もう無理……」という声が聞こえる。稲森だ。

「まだ半分も食べてないじゃねえか。僕がふうふうして食べさしてやろっか」
 そう言って自分のお箸で稲森のラーメンを掴み、「はいあーん」と気持ち悪い声で言ってみた。
 稲森は臆する様子もなくちゅるちゅると麺を吸う。……ちっ。恥ずかしがらせたかったのに。こういうのも平気なのか。

「じゃあ次はカツね?。はいあーん」

「カツは無理」
 ぷいとむこうを向いた。

「ずるいずるい。俺もやりたい?」
 雪彦が言う。そして稲森の隣まで来て、ラーメンを掴む。

「はい、ラーメンだよ?」

「あんたは無理」

「なんでだよ!」
 雪彦の叫びが店内に響いた。



♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪



 なんとか稲森はメンチカツラーメンを食べきって、店を出た。稲森はお腹を押さえてぐったりしながら歩いている。彼女がゆっくりゆっくり食べるので、僕はもうすでにお腹がすいていたりする。軽くなんか食べたいなあ。けどそんなこと言ったら稲森に蹴り飛ばされそう。

「吐きそう」
 そのつぶやきは真実味を帯びていた。もうアレが喉元まで出かかっているような声。本当につらそうだ。

「大丈夫か? 家帰れるのか?」
 稲森の家はここから電車で30分ほど。駅降りてから少し歩くらしいけど。どう見ても無理そうだ。

「送ろうか?」

「お、優しいねえ。春野君は?。稲森ちゃん、惚れんなよ。春野は俺のだから」

「あんたたち、やっぱりそういう関け、おえ」

「無理してつっこむなよ……」

 道の途中、「何が『後悔はさせないからさ』なのよ……」とぼやきながら稲森は公衆トイレに何度も行ったが、なんとか駅までたどり着く。かわいそうになあ。
 雪彦だけ家が逆方向なので駅に着くなり、「そんじゃ稲森ちゃんのこと頼んだよ?」と言って帰っていった。僕に稲森を押しつけやがって。僕もかわいそうだなあ。

 電車の中でも、稲森はぐったりしていた。

「なんで全部食べたんだよ」

「……だっておいしかったのよ」

「まあそれは同意するけどさ。吐いちゃったら元も子もないだろーが、バカ」

「バカって言うな」

「……ねえねえ春野。あの……もしかして私、ゲロくさい?」
 うつむきながら訊いてくる。気にしてるんだな。さすがに女の子ってところか。

「ああ。すげーくさい」
 すると稲森は泣きそうな顔をした。ええ? ギャグなのに。

「嘘だよ。嘘。全然全くこれっぽっちもくさくないよ」
 僕は慌てて言った。ああだこうだと誹謗中傷を巻き散らかす僕だけど、傷つけたりはしたくない。稲森の毒舌だってそうだろうよ。

「ほんと? 嘘だったら蹴り倒すわよ」

「嘘じゃねえって。ほんとほんと」
 実際嘘じゃない。どっちかっていうと女の子っぽくてドキドキする香りがする。まあそこまでは言わないけどね。

 自分の降りる駅を過ぎて、二つ向こうの駅まで行く。僕の家は帰っても誰もいないのが常だ。母親は朝起こすと機嫌が悪いから起こさない。つまり、ほぼ一人暮らし状態だから、門限も何もない。家に帰ってもすることないし、稲森を送っていくぐらいどうってことなかった。
 それにしてもだ。僕の家から少し離れただけなのに、ここはだいぶ都会だ。まあ都会と言ってもたかがしれているが、駅前にショッピングセンターがあったり、映画館があるのはすごくうらやましいなあと思う。稲森はここに住んでいるのだ。シティガール稲森だ。

「僕、お前の家知らねーぞ」

「あっち」
 稲森は指差す。ショッピングセンターや映画館がある方とは逆の出口だ。いわゆる裏。てゆうかまだ僕は帰れないのね。まあいいけどさ。

 駅から出ると、そこはラブホ街だった。ここで動揺してはいけない。男としての底が知れるぞ。
 
「お前さ、いつもここ通ってんの?」

「いつもは表の方から出て、遠回りして帰ってるのよ。私の家はこのラブホ街の向こうだから」

「そりゃ災難だな。今日は僕がいるから平気ってか」

「まあね。1人で歩くと危ないってお父さんが言うし。あんただったらまあ大丈夫でしょ」

「わからないじゃん。弱ってるお前に欲情して襲うかもよ」

「欲情してるの?」
 そう言って突然稲森は腕を組んできた。

 おい。本気でドキドキするからやめろ。やばい。間違い犯しちゃいそう。

「私、春野だったら……いいよ?」

 なんてこと言うんだ。冗談にも限度がある。……本当に冗談なのか。稲森は僕のこと好きなんじゃなかろうか。しかしだな、なんと言うかアレとかそういうのはできればゲロってない日がいいな、なんてね。僕は思春期だ、許せ。

「いい加減離れろよ。お父さんに怒られるぞ」

「ふーん。まあいいわ。てゆうかあんた汗臭いわよ」

「なっ。うっせ」
 稲森を腕から振りほどいた。

 危なかった。稲森の胸があと三センチ大きかったら僕は即座に間違いを犯していたことだろう。



♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪



 ここ三日ほどは晴天が続いた。予報によれば明日も晴れるらしい。もうあの涙の屋内筋トレ週間に戻るのはうんざりだ。本当によかった。教室の窓から見えるグラウンドの土はさらさらで、今が世間的に梅雨であるのを忘れそうだ。

「それでは、球技大会のエントリーを決めます」
 学級委員長の声が聞こえる。はきはきと良く通る声で議題を進める彼女は兎にも角にも、まさに学級委員長であった。きれいな長い黒髪に細いフレームのメガネをかけている。ひそかに男子のファンが多いのは言うまでもなく、勉強も良くできて誰とでも気軽に接する彼女は女子からの人気も高い。もう一度言うが、彼女は兎にも角にも、まさに学級委員長であった。

「男子の出る種目と女子の出る種目が別れてるから、男子と女子が別々に集まって、その中で話しあって決めましょう。じゃあそっちが男子。こっちが女子」
 相変わらず手際のよい委員長の一声でクラス全員がぞろぞろと席を立ち、男女に別れ始めた。僕も席を立つ。するとすぐに雪彦が近づいてきた。

「もちろんサッカーに出るよな」

「ああ。サッカー部はみんなそうだろうな」
 うちのクラスにはサッカー部が僕と雪彦を含めて三人いる。残る一人はサッカー部キャプテンの渡来だ。
 なんとなくクラス全員が渡来の周りに集まった。僕の敵であるこの男はサッカー部のキャプテンであるだけでなく、クラスでもキャプテンだ。そして渡来も渡来で、さも当然のように偉そうにメンバー決めを始める。少し遠くに僕と雪彦は陣取った。
「まあ俺と春野と雪彦はサッカー決定だな。他は誰がサッカーやる? 俺は本気で優勝狙ってるから、真面目なメンツでいこうぜ」

「じゃあ俺だな」

「磯田。てめえはバレーでもやってろ。体育のサッカーでどんだけ足引っ張ってたんだよ。お前にはフルタイムオフサイドの称号をやるよ」

「だからこそだろ?」

「いや、意味わかんねーよ」

「なあなあ、じゃあ山田と加藤と小林は決定じゃね」

 みんなが意見を出し合いながらメンバーが徐々に決まっていく。客観的に見ると、非常に良いクラスだと思う。このクラスはまとまりがあって良いですね、なんていろんな先生から言われるらしい。担任がそう喜んでいた。だけど、僕はこの雰囲気をなんとなく好きにはなれなかった。その原因はもちろん、称賛に値する雰囲気の中心に彼がいるからだろう。けれど、その理由だけで楽しい高校生活を捨て去るほどに僕は強くなかったので、ある程度うまく付き合ってきたはずだ。僕は渡来を嫌っているが、かといってクラスからのけものにされているわけではないのだった。ただストレスは目に見えて溜まってきている。いつか見てろよ、僕はいつもそう思う。

「絶対勝とうぜ」
 男子全員のエントリーが決まり、渡来の周りでみんなが団結していた。スクラムを組んでいる。

「おい、春野。お前も手を抜いたりしたら張りたおすぞ」
 渡来が耳につくほどの大きな声で僕を激励する。

「でも渡来だけで、どこのクラスにも勝てるんじゃね」
 調子のいいことを言うのが得意な山田が、ここぞとばかりに調子のいいことを言う。

「いや、俺は最初、ディフェンスする。お前らが点取ってこい」
 こういうことを言うから僕は渡来が嫌いなのだ。お前がはじめから攻めて点をとりゃ勝てるじゃないか。球技大会でディフェンスするなら、部活の方でもディフェンスしやがれ。そうすれば僕は試合に出られるんだ。お前なんかとポジション争いしなくてすむんだ。
 話を聞いていると腹が立ってきたので、僕は教室を出た。今日はとことん腹の立つ日だな。
 今は一応授業中なので外は静かだった。どこへ行こうかと考えていると後ろから声がした。

「春野君。どこへ行くの?」
 委員長だ。授業中にも関わらず教室を出た僕を咎めに来たんだろう。仕事熱心なことだ。ただ僕は無性に腹が立っている。

「別に。何か用かよ?」
 僕はとげとげしく言い放つ。けれど委員長は動じない。

「わかってると思うけど、まだ授業中よ。男子はもうメンバー決めが終わったようだけど、だからって出て行っていいことにはならないわ」

「さすが委員長さんだな。関心する。でもお前も外出てきてんじゃねえか。それはいいのかよ」

「そんな屁理屈こねて、どこまで子供なの? 何が気にいらないの? それともそういうことするのがかっこいいと思ってるわけ? ほんとバカね」
 この女。どこまで強気なんだ。僕はいらいらした。ただでさえ、渡来のことで腹が立っているのにこれ以上は我慢ならない。そもそも同じクラスってだけで僕は特別に委員長と仲がいいわけではない。それなのになぜそこまで言われないといけないのか。

「お前はどういうのがかっこいいと思うんだよ」

「……かっこいいかどうかはわからないけれど、渡来君のような人間を少しは見習ったらどうなの? あなたも同じサッカー部でしょ?」

 そう言われた途端、僕の頭に血がのぼるのがわかった。

「ふざけんな」
 僕はそう言って、委員長に掴みかかった。今まで女子相手にこんなことをしたことはない。でももう止められない。何が渡来君だ? ふざけるな。僕とあいつを比べるな。 委員長のおびえた顔が見えた。と、ほぼ同時に僕の視界が突然ぐらりと揺れて、世界が真横になる。肩に激痛が走る。

「この最低野郎が!」
 渡来の声が激痛を切り裂いて、僕の耳に響く。どうやら彼にタックルをかまされたらしい。
 
 胸ぐらを掴まれながら、僕は何も言い返せなかった。冷静になってみろ。誰が見ても悪いのは僕だ。わかってる、そんなことわかってる。
 でもな、渡来。お前に言われるとむかつくんだよ!

 僕は僕の思いを実現すべく、ありったけの力で右手をふるった。



♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪



 自分の部屋。その壁にはヨーロッパで活躍するサッカー選手たち。偉大な彼らに見下ろされながら、僕はまだ痛む頬をなでる。
 
 あの後、渡来から顔面に数発もらった。僕も仕返しに数発やってやった。委員長が呼んできた先生によって、それは終わりをむかえた。僕と渡来は職員室横の応接室に連れて行かれ、説教をくらった。ある程度委員長から事情を聞いていたらしい先生はすぐに渡来を解放し、僕への説教は続けた。

「人として恥ずかしくないのか」

「女性に暴力をふるい、それを止めようとした渡来にまで手を出すなんて何を考えているんだ」

「お前の暴力と渡来の暴力は全然違うぞ」

「こういうことは成績にも出てくるんだ」

「渡来の成績を見てみろ」

「お前はどうだ」

「今後の内申にも響くと思え」

 僕は悔しかった。先生は明らかに僕を悪とし、渡来を善とした。僕が悪いのはわかっている。けれども一応暴力をふるった渡来にも説教をするという体裁に腹が立った。自分は道理をわきまえているという大人に嫌悪した。成績とか内申とかどうでもいいと思えない自分が情けなかった。そしてそのことを言われて、焦った僕を殴りたかった。
 悔しくて悔しくて涙が止まらなかった。先生はそれを反省と受け取ったようで、僕を解放した。部活に出ることを禁止されたので家に帰って、その後はずっとベッドに転がっている。

 一週間の停学とする。夜になってそんな通知が自宅に来た。先生から事情を詳しく聞いた母は僕に説教を始めた。
 もう飽きたよ。大人の言うことには。僕を立派な大人に育てるという大義名分の下、僕のアイデンティティを削り落し、個性のなくなった丸い僕を見て安心する。もううんざりなんだよ。でもここで家を飛び出してお腹が空いたら帰ってくるなんていう可愛い家出をするには僕はもう大人すぎて、家を出て遠くの町で一人で暮らすには子供すぎた。行く場所のない僕は、わずかな勉強道具とサッカー選手のポスターしかない我が城に帰るほかない。出口のない世界に閉じ込められた気分だった。
 明日からの僕のいない教室で僕はなんて言われているのだろうか。渡来は僕のことをどう思っただろう。委員長は僕を恨んでいるに違いない。
 その晩は不安であまり眠れなかった。

 朝起きると、雪彦と稲森からメールが来ていた。なにバカなことやってんだよとか、反省しなさいとか、そういう内容だったけれど、待ってるからと最後に添えられた文章を見て、僕は少し安心した。
 停学期間中はケータイ電話を使うのもだめらしい。母がケータイを取り上げようとしたが、それだけは拒否して自分の部屋に閉じこもっている。それだけが僕のライフライン。取り上げられたら僕はきっと潰れてしまう。
 
 悔しいけれど、僕は反省していた。考える時間がこうもたくさんあると、人間というのは嫌でも自分の人生を反省するような仕組みになっているのだろうか。
 あの時なぜ、委員長に掴みかかってしまったんだろう。確かに彼女の物言いには悪いところがあった。そこまで言う必要はなかったはずだ。でもそれは僕を暴力に走らせた直接的な原因ではない。もともと僕は素行が悪い生徒として先生から見られてはいたが、実際に人を殴る蹴るなどしたことがなかったし、あえて言えば遅刻や欠席が多いだけで、不良と呼ぶにも足らぬ存在だった。しかし今回のことで決定的だろう。若さゆえの暴走と世間から評される部類に入ったみたいだ。先生からはそう思われるだろう。
 ともかくあの時、委員長に掴みかかってしまったのは間違いなく自分と渡来を比較されたからだった。これは謹慎期間中何度も自問し、自答したものだ。
 僕の今までの高校生活はどこに行っても渡来、渡来、渡来だった。サッカー部でポジションを奪いあい、負けている。勉強なんて天と地の差だ。渡来は学年の中でも5本の指に入る程の秀才で、先生からも信頼を置かれている。渡来君のメアド教えて、とすり寄ってくる女子は払い除けても湧いてくる。クラスの中心にいるのはいつも渡来で、あの良く出来た委員長にも渡来を見習えと言われる始末。
 あいつなんていなければ。
 そういうことがあるたびに僕はそう思った。あいつが僕の幸せを奪っていく。僕の高校生活の輝きを吸い取っていく。
 けど本当は、あいつがいなくなっても何も変わらないのではないか。自分が変わることが大切なのではないのか。そんな疑問が浮かぶ程度には僕も真面目な善人であった。
 とはいえ、ヤツの偉大なる地位と名誉は、もはや不良となり果てた僕というみじめな敗北者の上に成り立っていることを理解してほしい。
 
 今後自分がどうすべきか、なにも思い浮ばないままに停学期間が過ぎていった。



♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪



 一週間ぶりの学校に行くのには少し勇気がいった。電車の中で無意味にきょろきょろしてしまったし、人が少ない道を選んで登校してしまった。そんなことをしてもたどり着く場所は同じだと言うのにな。
 雪彦がいて、委員長がいて、そして渡来がいる教室。気が重い。けれど、まずは委員長と渡来に謝ろう。そこから僕は再出発しよう。
 
 僕が教室に入ると凍りついたかのように空気が固まった。予想はしていた。けれど僕は動けなかった。
 一番最初に口を開いたのは、渡来だった。

「久しぶりだな。元気してたか?」

「いや、元気じゃねえよ」

 それを皮切りにみんなが口を開く。

「何やってんだよ」

「あの時のことくわしく聞かせろよ」

「委員長に欲情したんだろ」

「それは噂だって」

「まだ顔の傷治ってねえなあ」

「渡来のパンチはどうだったよ」

 ああ。渡来に救われてしまった。悔しいけれど、今は感謝するほかない。あのことを水に流し、軽い調子で話しかけてくれた。
 
「すまんな、渡来」

 だから、その言葉が簡単に出た。

「ああ。もういいさ。……俺のパンチ痛かったか?」

「へっ。全然だぜ」

 今後も相変わらず僕は渡来に対して、みじめで汚い感情を抱き続けるのだろう。しかしこの一瞬だけは、渡来と対等に話せた気がした。

 残る問題は委員長だ。

 委員長はいつもと変わらぬ様子で自分の席に座っていた。来たるべき授業に備えて、彼女は準備を欠かさない。一時間目が始まるまで、あと一分少々だ。あまり時間はないけれど、なんとかしてそれまでに僕は一言謝っておきたかった。

「おはよう、委員長。あのことを謝りたい。本当にごめん」
 僕は頭を下げた。クラスの全員が僕を見ていた。恥ずかしさを吹き飛ばすかのように僕は深く深く頭を下げた。
 けれど、委員長は何も言わなかった。結局チャイムがなるまで僕は床を見つめ続けることになった。

「委員長も許してやりゃあいいのに」
 一時間目が終わってすぐに、隣の席の加藤が話している。

「そうだよね。別に怪我もしなかったんだし」
 今登校してきたらしい雪彦が話に加わる。

「あ、じゃなかった。久しぶりだね、春野。元気そうでなにより」

「お前もな」
 普段通りの雪彦だ。僕はこの教室に帰って来たんだなあ。こいつの顔を見ると実感が湧く。

「でもやっぱり、僕が悪いから」
 そうなのだ。僕が悪い。許されないとしても、ちゃんと委員長と話をしたい。

「行ってくるよ」

「おう。がんばれ」
 雪彦も加藤も僕を応援してくれている。



♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪



 委員長はやはり口をきいてくれなかった。授業が終わるたびに委員長のところへ行ったが、毎回無視された。

「もうやめとけよ」
 みんなは僕にそう言った。その通りかもしれない。もはや委員長にとって迷惑なだけだ。

 だから、これが最後だ。僕はそう思って、委員長の前に立った。

「委員長。ごめん」
 もう何度目かわからないが頭を下げる。

「もういいだろ」
 聞こえたのは渡来の声だった。

「委員長のことを考えてやれ。お前とは話したくない。そういうことだ」
 そんなことお前に言われなくてわかってんだ。だからこれが最後って決めたんだ。そしてこれは僕と委員長の問題だ。お前は口をはさむな。そうは思いながらも僕は顔を上げた。弱い僕は彼の仰せの通り、謝罪をやめたのだった。

「あんたに言われたくないわよ!」
 委員長が突然怒鳴った。しかもその矛先は僕ではなく、渡来だった。

「私は渡来君のことを尊敬していたわ。けれど、違ったみたい。なんで私を助けようとなんてするの。私のことをふったくせに! 私をふって稲森さんと付き合ったくせに!」

 渡来は黙っている。僕も何も言えない。というか混乱していた。
 ふった? 渡来と稲森が付き合った? なんのことだ? 僕のいない間に何があったというのだ。

「分け隔てなく接して、誰にも優しいあなたはさぞ立派な人でしょうね。でもあなたは私の気持ちなんてわかってない。わかろうともしないわ。本当に私のことを考えられていないのはあなたよ、渡来君!」
 途中から委員長は泣いていた。誰も何も言えなかった。こんな取り乱す委員長を誰も見たことがなかったし、ただ立ち尽くすだけの渡来なんてのも今まであり得なかったことだ。今思えば、「渡来君を見習いなさい」という委員長の発言は恋心から出てきていたのか。僕に対して必要以上にきついことを言ったのも、渡来を嫌う態度が露骨な僕に腹が立っていたからか。そしてあの事件を機に彼女は渡来に告白した。そしてそれは受け入れられなかった。彼女の失恋のとばっちりで僕は何度頭を下げても取り合ってもらえなかったということなのか。
 そうならば僕は失望するぞ。委員長にも。渡来にも。

「さあ授業始めるぞー」
 数学の先生の場違いな声で、一応僕達に平常が戻った。



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 委員長も敗者だった。そういう意味で彼女の痛みはわかる気がした。彼女はそんな気持ちを僕なんかにわかられたくはないだろうけども、僕は心の中で彼女の幸福を祈らずにはいられない。渡来なんて最低野郎さ。きっとキミならもっといい恋ができる。
 授業が終わり、みなが散り散りになる。部活へ行く者、帰宅する者、学校へ残る者。委員長はもう教室にいなかった。彼女は部活に入っていないので、帰ったのだろう。帰って、家で泣くのだろうか。みじめな敗者にはそれがお似合いなのさ。
 僕は部活に行く。渡来も来るだろう。そして、稲森も。
 渡来と稲森が付き合っている。もちろん驚いた。稲森は僕のことを好いていると思っていたからだ。けれど委員長が抱いたような感情は抱かない。別に僕は稲森のことが好きなわけではないんだと思う。ただ僕の大切な友人が渡来に奪われた気がして少し寂しい気がしただけだ。
 とにかく確かめなければならない。僕のいない間に起こったことを。

 部活はほぼいつも通りだった。僕が久々に部活に参加したことで人数が一人増えた。みんなにとってはただそれだけのように見えた。
 渡来はひそかにチラチラと稲森の様子をうかがっていたが、稲森はそれに全く気付かないようなそぶりを見せていた。そして僕が渡来のことを観察していると、どうもバツが悪そうな顔をしてうつむくのがおもしろかった。これは本当だな。けれど、稲森が渡来を好いているふうにはどうしてもみえなかった。
 六時になるといつも通りにストレッチをして、いつも通りに部室へと戻った。

「俺、今日先に帰るわ」
 そう言って、急いで部室を後にしたのは渡来だ。
 稲森と一緒に下校だろうか。僕は一瞬そう勘繰ったが違うようだ。稲森から僕にメールが来ていたのだ。今日一緒に帰ろう、と。



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「本当に渡来と付き合っているんだな」
 そう僕が尋ねても、稲森は焦った様子もない。

「うん。ショック?」

「まあなんというか、びっくりした。何の兆候もなかったじゃねえか。で、その彼氏さん放っといて、僕に何の用だ?」

「まあまあ」
 ラーメンでも食べようよ、と言って前を歩いていく稲森に僕はついていくしかなかった。

 少し前に僕と稲森と雪彦で行ったあのラーメン屋。メンチカツラーメンがとてもおいしかったあのラーメン屋。でも今日は二人だ。

「メンチカツラーメン二つね」

「ちょ、おい」
 店に入ると目にもとまらぬスピードで稲森が注文を完了する。

「なんでまたメンチカツラーメン頼んでんだよ。また気持ち悪くなっても今度はしらねーぞ」

「あんたに助けてもらわなくても、渡来君に助けてもらうわよ」

「……はいはい、そうでしたね。で、その王子様は今日はどこに行ったんだ?」
 部活が終わるとすぐに帰っていった渡来。これはとても珍しいことなのだ。先生に注意されるまで学校の筋トレルームにこもったり、学校周辺で走りこみをするほどの努力家であるのが渡来だ。

「ああ。私の誕生日プレゼントを買いに行ったわ」

「ええ? そんなの二人で買いに行けよ」

「なんかね、私の誕生日が昨日だったんだけど、彼はそれを知らなかったらしくて。たまたま今日、クラスの誰かから聞いて慌てて買いに行ったみたい。用事があるから一緒に帰れないっていうメールを私に送ってね」
 へー、と思った。あの渡来がねえ。恋愛とは恐ろしいものよ。委員長もそうだったけど。

「結構可愛いところあるね。お前にベタ惚れじゃないか」

「そうかもね」

 お前はどうなんだ? と聞こうとしたがそれを言う前に注文の品が来た。

「お待たせしました。メンチカツラーメンです」

「わー。やっぱおいしそう」

「そうだな」

 稲森と僕は他愛のない話をしながら、ずるずると麺をすすった。
 こいつと食べる飯はうまい。話もあうし、惜しい人材をなくしたな。
 今日もやっぱり稲森は半分でギブアップ。残りは僕が食べた。



♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪



「あんた、よく食べれるわね」

「まあな。食欲だけは負けねえよ」
 帰りの電車に乗る頃にはもう、何か食べたくなっていた。恐ろしや、我が胃袋。

「あんたの家ってお母さんと2人だっけ?」

「そうだけど。つっても母さんは夜仕事で、僕は部活で朝が早いからほとんど会わねえよ」

「じゃあ帰っても晩御飯ないんだ」

「ん? あ、まあそうだな。つーか今日はさっきのメンチカツラーメンが晩飯だけど。まあいつも腹減るんで晩飯の後、コンビニ行ってなんか食うけどさ」

 稲森はふーん、と言いながら何か考えているようだった。僕自身は自分の家庭について不幸だなんて思わない。ただ、学校の先生や近所の人たちはそうは思っていないようであった。女手一つでなんやらというのはもういい加減聞き飽きたし。

「じゃあ今日は私がお夜食作ってあげよう」
 稲森はにこにこしながら僕に言う。

「おーサンキュー助かるぜ……なんて言うと思ったか。そんなの渡来にばれたらどうすんだよ。二人でラーメン屋に行くのでもアウトだと思うぜ、僕は」

「まあそう言わないで、私の好意に甘えなさい。別に悪いことしに行くわけじゃないんだから。夜食作ったらすぐ帰るわよ」
 楽しげな声色でそう言った稲森だったが、表情は妙に必死だった。何があるのだろうか、と僕に思わせるほどに。
 もしかして悪いことをしに来るのか。
 
 悪いこと。帰っても誰もいない僕の家に、彼女は行きたいと言ったのだ。つまりはそういうことだ。
 そして僕の疑問は確信に変わる。稲森は渡来のことが好きなのではない。僕の気を惹こうとして、渡来と付き合ったのだ。僕がなかなか振り向かないから、そんなことをした。たまたま渡来に告白されて、たまたま渡来と付き合った。男なら誰でも良かったのだろう。
 しかしこれはなかなかどうして面白いことになった。
 渡来の彼女である稲森と。
 僕の頭にその言葉が浮かび上がった瞬間に、僕はひとつの汚れた欲望に支配された。

「そこまで言うなら僕の家に来いよ」

 稲森は驚いた顔をしたが、すぐにいつもの意地悪そうな顔に戻って笑った。この女は黒いなあ。惚れそうなくらいに。

「じゃあスーパーで材料買って帰るね」


♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪



「台所借りるね」
 そう言ってから稲森はずっと何かを作っている。料理できるんだな。少し関心する。しかし、あれだ。エプロンをして台所に立つ女性の後ろ姿は絵になる。そそられるものがあるね。
 まな板と包丁が奏でる小気味良い音をバックに聞きながら、テレビを見る。それは予想以上に良いものだよ。

「できたよ」
 30分ほど経っただろうか。稲森の嬉しそうな声が聞こえた。
 これはなんだっけ。パエリアと言うのだっけか。とにかくおいしそうな香りが漂っている。

「おーすげーじゃん」

「食べて食べて」

「んじゃ、いただきます」
 
 一言で言うと、絶品であった。コンビニで買えるものがいかにまずいか僕は知った。走り出したスプーンはもう止まらない。



♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪



「おいしかったよ、すげーおいしかった」

「ふふ。すごいでしょ。もっと褒めなさい」

「ああ、すげーわ。本当に」

 そこで会話が途切れた。妙な緊張感が漂う。
 しかし恋愛とは所詮惚れさせた方が勝ち。稲森の緊張をほほえましく見ている程度に僕は落ち着いていた。
 晩御飯を食べ終わったら、稲森は帰る。一応そういうことになっていたはずだ。まあそうはさせないが。

「あ、私、洗い物しておくね」

「おー。助かる」
 稲森は少し慌てて台所に向かった。そんなに洗うものもないだろうに。僕は再びテレビを見ることにする。

 洗い物にたっぷり時間をかけて、稲森が戻ってきた。

「ありがとうな」

「うん」

 また会話が途切れる。

「あ、私、あんたの部屋見てみたい」
 稲森が沈黙を切り裂く。

「ああ別にいいぞ」

 階段を上がった正面が僕の部屋だ。別に何もない。わずかな勉強道具とサッカー選手のポスターだけだ。

「へー。意外と片付いてるのね」

「まあ物がないからな」

 再び沈黙だ。僕の部屋には何もないから話題も何もない。

 もうさすがに時間稼ぎをするものはない。本題に入るしかないだろう。お前はなぜ今日僕と一緒に帰ろうと言った? メンチカツラーメンを食べるため? 僕に夜食を作るため? 違うな。僕はそう確信している。前々から感じていた。お前は僕のことが好きなんだろう、と。だから渡来と付き合ったのには驚いた。けれど、僕がそれを知った日、お前は僕の家に来た。終わりだ、稲森。いや渡来。僕の勝ちだ。
 これから僕は渡来の大切なものを奪う。

「じゃ、じゃあ私は帰るね」
 帰るのか、この女。あんな必死な顔までして僕の家に来たくせに。まあいい。僕はこう言った。

「好きだ」

 稲森は困惑している。

「え?」
 数秒たって稲森が発した言葉はそれだけだった。

「だからお前のことが好きだ」
 僕は稲森を抱きしめた。強く強く抱きしめた。

「痛いよ、春野」
 稲森は苦しそうだ。けれど離れようとはしない。

「今日私があんたの家に来た理由はね」

「もういい。わかってる」
 僕は稲森の口をふさいだ。そのままベッドに押し倒すと、稲森がせつなげな声を上げた。僕の心臓は高鳴る。

「これだけは言わせて。渡来君なんてどうでもいい。私は春野が好き。……だから、好きにしていいよ」


♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪


 目が覚めると、そこに稲森の顔があった。

「僕の顔を見るのがそんなに幸せか?」

「幸せだわ。夢みたい。ねえ。もう一度言ってよ」

「何を?」

「私のこと好きって」

「ああ。好きだよ、稲森」
 
 ふふっと幸せそうに笑って彼女は僕にキスをする。

 僕は稲森が好きなのではない。渡来の恋人である稲森だから価値がある。
 彼女の向こう側に敗者たる渡来の顔を見据えて、僕は笑顔になる。その笑顔は稲森に伝染し、二人で笑いあう。美しいな。

「幸せね」
 稲森は言う。
「そうだな」
 僕は渡来に勝った。ついに勝利を得た。
 大人たちは言った。「うまくやれ」と。嫌いな人間ともうまく付き合って、円滑に進めよう。傷つくのは怖いから、表面上だけにしよう。それが上手な生き方だそうだ。
 僕はそんなことしない。闘ってやる。勝ち取ってやる。
 
 失ったものに気付かない僕は、幸せ者だ。それに気付くまで僕は大人にはなれないんだろう。大切なものを失わないためにうまく生きようとはしたくない。大人になろうともしない僕は高校生失格だろうか。それとも人間失格だろうか。けれども僕は幸せで、目の前の彼女も幸せと言っている。それでいいじゃないか。

 僕はもう敗者なんかじゃない。

 

敗者様は幸せを得た

敗者様は幸せを得た

僕は春野蒼。サッカー部に所属する高校生だ。 バカだけどサッカーだけはうまい雪彦。おしとやかそうに見えて実は毒舌のマネージャー稲森。 みんなと過ごす僕の高校生活は最高なはずだ。 そうだ、彼さえいなければ。 彼――渡来は何をやっても僕の前に現れる。 僕から幸せを奪っていく。

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更新日
登録日
2011-06-20

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