幸福

「そんなに死にたければ、死ねばいい」


夕日に染まった暮時の病室で君は、

そう言い放ちました。

君も僕も、部屋中すべてがオレンジに塗り込められたあの時、

燃えるような瞳をまっすぐ僕に向けて、震える声でそう言いました。



君はあの頃看護婦で、

アル中で入院していた僕の担当でしたね。


隠れてまで、酒を飲もうとする浅ましい僕に、

業を煮やしていたんですね。

やがて、なんとか酒を断つことができた僕の、

奥さんに、君はなってくれました。



私鉄沿線のモルタル2階建てのアパートで二人は、

暮らし始めました。

僕がアパート近くの鋳物工場に就職できたとき、

君は本当に嬉しそうでした。

君も駅前のスーパーでレジを打ち、

つましいけれど、二人だけの生活が始まりました。


夏の暑い日には、僕の安全靴がアパートの階段を駆け上がる音を聞きつけ、

氷を沢山浮かべた麦茶を差し出してくれました。

そして君のパートの給料日には、

それが冷たいビールに変わりました。



冬の凍える日には、残業の僕のために、

カイロを山ほどもって迎えに来てくれました。



僕のジャンパーのポケットで手を握り合い、

一つのマフラーを二人で巻き、寄り添い帰りました。



君には、何も贅沢させられず、旅に出かけることもできなかったけど、

君はただ二人一緒に暮らせることが幸福だと言ってくれましたね。


あれは、冬の始まりの頃、

アパートのドアの前で鍵を探して腰をかがめて

カバンを覗き込んでいた君が、

ひどく年寄じみて映り・・

それは、僕のせいで老け込んだような気がして

、思わず駆け寄って抱きしめました。



僕は、軋むほど抱きしめながら、無性に君に謝っていました。


「なに謝っているの?私は十分幸せよ・・

それより、今夜はおでんにしたの、今買い忘れたものがあったから、

ちょっとでかけたのよ」



君は、僕の腕をそっと振りほどくと、ドアを開き、

僕を部屋に押し出しました。



蛍光灯が青白く照らす、

食卓の上には、

優しく湯気をあげる鍋がぽつんと一つ、


だけど誇らしげに置かれていました。

幸福

幸福

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-25

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