狸小路1丁目
人生を変える出逢いは、意外と感動的ではない。
…というのは、この物語の冒頭にふさわしいというべきか。
夜のすすきのはさまざまな人種で溢れている。
それは、仕事終わりのサラリーマンかもしれないし、遊びに明け暮れる学生かもしれないし、客を呼び込むメイド嬢かもしれない。
とにかく、毒々しいほどのネオンの中で、人々は絡み合う。
すすきのの真ん中ほどに、狸小路というアーケードつきの大きな商店街がある。
とはいえ、狸小路も端のほうに、つまり1丁目のほうに、いくほどシャッターが下りた店子が目立ち、なんとなく薄暗いものだ。
彼は、市内で生まれ、市内の大学に通う学生で、特別目立つわけでもない19歳だ。
それでも、高校生のときにやり始めたバンドでギターボーカルであり、大学生になってもギターは続けていて、その日はちょっとした気まぐれで狸小路の1丁目でなんちゃって路上ライブのようなものをしていた。
バイトのシフトが終わって夕方5時、演奏は6時ごろからか。
1丁目は夕方から夜にかけて、どこかのダンス少年たちや、修行中の漫才コンビ、アクセサリー売りなんかがたむろしている。
彼がそこについた頃には、もういくつかのグループがおのおのの活動を始めていて、あの独特のすすきのの夜の空気に自分たちを編みこんでいた。
その日はたまたまなのか1丁目で音楽をやっているものがいなくて、彼は少し興奮気味にギターを弾いていた。
9時ごろになると、もともと薄暗かった1丁目がさらに閑散としてくる。
6月とはいえ、少し肌寒い。そろそろ片付けようかと思い始めていた彼は、自分の斜向かいに座る彼女に気がついた。
いつからいたのだろう、彼女は小さな折りたたみいすに座って煙草を咥えていた。
彼女の前には薄っぺらいカーペットの上に並べられたたくさんのポストカード。自分で描いたのだろうか、それは植物であったり、この街の景色であったり。水彩画が主だったけれど、端のほうには小さなキャンバスに描かれた油絵もあった。そして、彼女の横には手書きの『似顔絵も承ります』の看板。
彼女はといえば、6月というのにかなり大き目の長袖の臙脂色のパーカーと、細いデニム。胸下まである黒髪を耳の下で縛って、青みがかった灰色の変わったベレー帽を深くかぶっていた。そしてうつむき加減に細い指で煙草をふかす。
その姿は、とても奇妙なものだったが、何よりもこの空気に自然に溶け込んでいた。
何で気づかなかったんだ、というのが彼の彼女への最初に抱いた感想である。
顔を見てみたくてしばらく目で追っていると、自分の前にミニスカートの女子高生が3人ほどたまっていた。慌ててギターを持ち直す。
彼女たちは最後まで聞いて去っていった。彼は最後まで上の空だった。
彼女たちの相手をしているうちに、風変わりな画家は店をたたんでしまっていた。
なぜだか彼女のことが頭から離れなかった。
同じ時間に狸小路に寄ってみようかとも思ったが、恥ずかしさもあったし、何よりそこまでする理由がないようにも思えた。
だから、彼は3日後にはバイト終わりにギターを持って1丁目に向かっていた。また彼女を見られるかもしれないと思うと、自然と足の運びが速くなった。
彼女はいた、この前と同じ場所に。
紺色の、やはりサイズの大きい、襟口のあいたシャツを着ていた。この前と同じ帽子を深くかぶり低い椅子に腰掛ける姿は、懐かしささえ感じさせた。
彼は彼女の斜向かい、この前と同じ場所に荷物を置いた。彼女はまったく動かない。
観客が来れば明るく話しかけてみる彼とは正反対に、彼女はポストカードを手に取った客とさえ目を合わせようとはしない。
1時間ほど歌った彼は、休憩がてらに彼女のほうを見ていた。
彼女はスケッチブックのようなものを膝の上に載せ、筆で何かを描いていた。そしてたまに、つ、と視線を上にやる。
女性にしてはしっかりした鼻梁と、薄暗い中でぼんやりと白い顔は異国の女を連想させた。
もしかしたらハーフなのかな、だから客と喋らないのかな、等と考える彼を尻目に、彼女の筆はスケッチブックに色を置き続けていた。
そうやって、週に2度の彼の楽しみは何週間か続いていた。
その間も、会話するどころか目を合わせたことすらなかった。それでも彼は彼女に会いたくて、気まぐれにはじめた路上ライブを続けていた。
7月も半ばで、学校は夏休みに入っていた。友人たちがバイトや自動車免許をとるのに忙しい中、彼は日がな毎日を男友達とふらふらしていた。
路上ライブも夏休みに入ってからは疎かになっていて、といっても別にギターで食べていくわけではないけれど、なんとなく後ろめたい気持ちになっていた。
彼女はまだあそこにいるだろうか。
友人と飲んで別れて夜も10時。彼は一人で1丁目にいた。
ぼんやりと橙がかった光。酒かタバコか人いきれか、どろりと重い空気。
彼の20メートルほど先、彼女はそこにいた。7月の薄闇にポストカードやキャンバスがぼうっと浮き上がる。
1丁目には彼と彼女以外、誰もいなかった。いや、酔った彼にそう見えただけかもしれない。
酒の陽気が手伝ってか、彼はポストカードたちを挟んで、彼女の正面に立っていた。
足元に並んだたくさんの絵。近くで見て初めてわかった、それらの生命力。
彼は思わずしゃがんでそれらに見入っていた。
彼女はふと顔を上げた。彼も顔を上げた。
彼らは目が合った。
彼女の異国風な顔立ちは、ポストカードたちより何倍も惹かれるものがあった。
何か言わなくてはならないと焦燥感が彼を襲う。
彼は乾いた唇をなめた。
「あ、あの、学生さんとかですか」
なんか補導みたいになってるぞ俺。
彼女はこっちを向いたまま答えなかった。気に障ったのかもしれないし、本当にハーフだったのかもしれない。
彼は慌てた。
「いやっ、あの、俺いつもそこでギターやって歌ってて…」斜め後ろを指差す。
「だからその、いつもここでお店だしてるなって、あの、下手な歌だけどすいません」
何をこんなに緊張しているのか。噛みまくってるし、初対面でなに謝ってんだ。
「…学生に見えますか」ハスキーな声。でもその中には、かすかな不快感。
高校生にも大学生にも社会人にも見える。年齢を感じさせない、何か。
「いや、俺も大学生なんで。なんか一緒くらいの年かなって…で、すげぇ絵うまいから…」しどろもどろになって答えた。
彼をねめつけながら彼女は言った。
「年的には高校生かもしれないけど、学校には通ってない」
沈黙。
「…なんか、ごめん」年下とわかって、言葉遣いがぞんざいになった彼。
さらにそれに不快感をあらわにする彼女。
「別にいいですよ。あたしたちは赤の他人ですから」
彼が顔を上げる。
「あのっ」
「明日からは場所を移す。またね」彼女は店を畳み始めた。
「ごめん、なんか俺、君の気に触ることいっちゃったかもしれない。無神経でほんとごめん。でも、あの、君は店を移さないで。俺のことが嫌なら、俺がどっか行くから。そうじゃないと、悪いから。ね、ごめん」
彼女は荷物をまとめる作業を続けた。
なにか、なにかいわなくちゃ…
「あの、それに…」
彼女は顔を上げる。
「それに?」
「それに、君は1丁目にぴったりだ」
「…そう」
*
夏休みはまだ半分を過ぎただけだ。彼もようやく教習所に通い始めた。やっぱり免許は暇なうちに取っておこう。
あれから、狸小路にいってない。どんな顔をすればいいのかわからない。
もう1週間も経つ。
彼女はあそこにいるだろうか。
高校生だといった、年だけなら。
不登校なのか、あるいは高校中退か。
それならなぜ、いつもあそこで絵を描いているのか。家が貧しいのか。高校生ではないのはそのためか。
そもそもどこに住んでいるのか。親はなにをしているのか。
彼女とまた話したい。嫌われてなければだけれども。
逢いたい。知りたい。今度はちゃんと話したい。
彼女の不透明な部分が、彼をのめり込ませていた。
彼はそのままふらふらと狸小路まで来ていた。
夕方6時。まだ完全に落ちきっていない日が、アーケードの中まで染めていた。
彼女は先週何もなかったかのように、そこで店を広げていた。
彼女もまた、夕日に染められて、長い影を落としている。
胸に広がる安堵感。
彼は、ゆっくりと近づいて、彼女の前に立った。
「こんにちは」
彼女とばっちり目が合った。
「この前はごめん」
少し戸惑いの色があってから彼女は言った。
「もういいよ、大丈夫だから」
「お店も、移さないよね?」
「まあね」
短い間があった。
「…もう楽器はやってないの?」
そういえば、夏休みの間はここで歌ってない。
「いや、俺はあれで食ってるわけじゃないしさ。今夏休みだからいろいろと…」
「そっか」
話題が、尽きた。
この前のこともあったので、彼は自分から質問できなかったのもあった。地雷を踏みかねない。
でも、もっと話したい。晩飯誘ったりなんかしたら駄目だろうか。
しばらくもじもじしていると、彼女が一枚のポストカードを差し出した。
「…あ」彼は固まった。
ポストカードは、夕方の狸小路を描いたものだった。
オレンジと紺が置かれた画面。
よくみるとそれは1丁目だった。
なぜなら画面の端のほうに、小さくギターを持った男がいた。俺だ。
それが、なんだかとても暖かかった。
「これ、俺でしょ?」
「うん、わかった?」彼女がいたずらっぽく笑った。
はじめてみた彼女の笑顔は、やっぱり高校生で、とても、すごく、かわいかった。
「最初は、そのアーケードに誰も描かないつもりだったんだけど、ためしにかき足してみたらすごくしっくりきた。勝手に描いちゃってごめんなさい。良かったら今度はもっと大きく描いてもいい?」
「俺なんかじゃ様になんないだろうけど…」
「ううん、すごくいいよ。すっごく」彼女の目はキラキラしていて、こんなに彼女が饒舌になったのは初めてだった。
よっぽど、絵が好きなんだろうな。
改めて、足元の絵を見てみると、どれも現地でスケッチしたようなラフさがある。といっても彼は絵にはそれほど詳しくないのだが。
「こういうのって、その場で全部描けちゃうの?」
「そう、写真見て描いても、それはただのコピーでしょ。絵の雰囲気も二番煎じになっちゃう」
そこで、彼はひらめいた。
彼女の足は自転車か交通機関だ。彼にはもう少しで免許が手に入る、はずだ。
スケッチの手伝いと称してドライブデート。よし、これでいこう。
「あのさ」唇をなめる。
「もし良かったら、俺、車使えるからいろいろ回れるよ?スケッチとか、行きたい場所あったらいつでも」
彼が言い終わる前に、彼女は言った。
「行かない」
女の子にデートを約束を断られたことなら数回あった、だけど。
こんなにもストレートに言われたのは初めてだった。
だから彼もその場を取り繕うことも忘れて、彼女に訊いてしまった。
「どうして?」
「どうしても」
食い下がろうとしたところで、ちょうど彼の横に中年のサラリーマンが立ち止まり、彼女の絵を見始めた。
彼女はまた下を向いた、話は終わりということらしい。
彼は一応、じゃあまた、と声をかけては見たが、聞こえてるのかいないのか彼女は無反応だった。
*
ここしばらくでわかったこと、それは彼女にはどうやら踏んではいけない「地雷」がある、ということだ。
あれから何度か彼はしつこく彼女と会話しようとした。
そして彼女が会話自体は拒んでいないらしい、というところまではわかった。
けれど。
彼女は地雷を持っていて、彼がそれを踏むとゲームオーバー、終了。
そして、その地雷が囲んでいるのは、どうやら彼女の家族関係にまつわることらしい。
高校に行っていないのも、金にならないような絵描きをやっているのもそれに関わりがあることだ。
彼は、自分が完全に彼女にほれ込んでいるのに気がついていた。
彼女のことをもっと知りたい、あのはにかんだ顔をずっと見ていたい。
狸小路1丁目