取り残された二人

 どれだけ走っても追いつけませんでした。さやかは私を置いて、どこか遠いところへ走り去ってしまったのです。
 二人とも陸上を始めたのは中学からでしたが、彼女はすぐさま秘めた才能をあらわし、美しくトラックを駆けるようになりました。中学に入学した頃は二人とも同じような背格好でしたが、彼女の肉体はすぐにしなやかな筋肉質に変わり、私は丸くふくよかになっていきました。女性的なのは私の体でした。けれど大会で映えるのは彼女のすらりとした線の細さでした。スタート地点の低姿勢から、ピストルが鳴り、一気に直線を貫く無駄のなさは、私にないものでした。私がいくら努力しても獲得できない資質を彼女は持っているのだと思うようになりました。私服も、私がふっくらとしたスカートを着るようになる一方で、彼女はタイトなパンツスタイルが多くなりました。彼女の瞳は走る喜びに満ちて快活で、ショートヘアの揺れる笑顔は誰もが心を許しました。三年になると少し目を悪くしましたが、授業中にメガネをかけた彼女は不思議と知的に見え、トラックだけでなく、教室の中でも輝きは消えませんでした。走ってばかりの彼女は勉強に間に合わず、私が教えることも多くなっていましたが、横でシャープペンシルをくるくる回しながら数学の問題を考えている彼女は、すでに私と違う世界の住人なのだと感じざるを得ませんでした。彼女は万事輝いていたのです。しかもその輝きは彼女にしかないものでした。
 さやかのことは幼いころからよく知っていました。それだけに彼女が陸上を熱心にやるようになると、私は取り残された気持ちになり、会う機会は少なくなりました。二人は自然と離れていき、彼女は陸上界に名のとどろく高校へ進学し、私は普通の公立高校に進むと陸上をやめました。
 すでに中学も二年の後半に、私は部活に顔を出さなくなっていました。その頃から代わりに机に向かうようになり、私は詩に傾倒していったのです。私がさやかより輝いた事があるのは、小学生の頃、詩の授業ででした。どれだけ走っても彼女には勝てませんし、あの笑顔にも太刀打ちできません。勝てるとしたらトラックの上ではなく紙の上なのです。小学生の記憶のうちにしか、彼女との距離を埋めるすべを見いだせませんでした。

       *

 それは小学五年生の時でした。私は授業で「雨の運動場」という詩を書きました。

雨がひどくなった
運動場に
水たまりが増えて
くっつきはじめた
どんどん雨が降って
いっこの大きな
海になった
くじらが下を
泳いでいそう

運動場にいる
地底くじらが
しおをふく
くもった空に
にじが出る

 詩を書いてみましょう。先生がそう言ったとき、教室がざわつきました。何を書いたらいいのか、みな戸惑っているようでしたが、私は周囲がそうしている間にこれを書き終わりました。
 帰り際に、さやかも詩の授業の話をしてきました。
「ゆっこ、もう書いた?」
「書いた」
「えー、もう? 何書いたの」
「ひみつ」
「教えてよ」
「いや」
「じゃあ、なんでにやにやしてるの」
「だって。いいのが書けたんだもん」
「なになに」
「えー」
「いいじゃん」
「誰にも内緒ね」
「うん内緒にするから」
 そうして私は彼女にだけ、詩がどんなものか話しました。
 小学校のグラウンドは水はけが悪く、大雨の日は一面に水が張ったような状態になりました。雨がやんでもしばらく水が引かず、体育の授業が図画工作に変更になることがしばしばでした。教室は三階にあって、廊下の洗い場でパレットを洗うとき、グラウンドが一望できました。雲間から射す太陽がぼんやり水面に反射しています。
 私はグラウンド一面にできた大きな水たまりが大好きで、そのときもいつものように眺めていたのですが、ふと、何か水面に動くものが見えました。そして、どういうわけかそれが魚だと、そのとき確信したのです。確かに私には魚に見えたのです。残念なことにそれを見ている人は他にいませんでしたが、私はもしかすると水面の下は雨の日だけ海なんじゃないかと思いはじめました。
 空想はしだいに大きくなります。廊下には誰もいませんでした。目の前の大きな水たまりは、大雨の日だけ不思議な回路で海とつながっているのかもしれません。地下の水中回廊を通ってどこからともなく魚がやってきたんじゃないだろうか。であるなら、くじらもいるかもしれない。くじらがグラウンドの水面に顔を出して私の前で潮を吹いてくれないかと、わずかに期待してしばらくその海を眺めていました。けれどいくら待ってもそんなことは起こりませんでした。他の生徒が洗い場にやってきたので私は恥ずかしくなり、そそくさと教室に戻りました。
 国語の先生は詩を教室に張り出したりしないと言ったので、私はこの時のことを書いたのでした。だれにも言うつもりはありませんでした。空想は自分のなかにあるだけで満足でしたし、それに、人に言えば馬鹿にされるに決まっているからです。けれどさやかはそんなことをする人ではありません。私の話を最後まで聞いてくれました。今思えばそういう彼女の資質もまた、彼女が輝く土台になっていると思えますが、当時はそんなことを思うわけもなく、単純に、私はさやかよりも詩が書けるらしいという誇らしさでいっぱいでした。
「いいなあ、そんなのが見えて。私にはそういうのないから」
 さやかが私の話を聞いてそう言ったのを今も覚えていますが、その言葉は私にとって重く意味を持っています。彼女の持たない才能を私が持っているとしたら、それは詩に関してです。私は醜くも彼女への優越をひそかに温めているのです。

       *

 書いた詩は他の作品とともに教師の目にとまり、海達公子という詩人を顕彰した詩のコンクールに応募されました。そのコンクールは毎年小学生を対象に詩を募り、いくつかの作品に賞を贈るものでした。私の詩が賞を受けることはありませんでしたが、作品はすべてひとつの冊子にまとめられ、応募者全員に配布されました。その作品集はいまでも私の机の中に大切にしまってあります。
 作品集は何度も読み、気に入った詩は手帳のメモ欄に書きつけてあります。たとえば試験前の緊張した時に読んだりすると、不思議と心が落ち着きます。その中でも「たんぼ」という詩は特別でした。年が変わり手帳を新しくする時にまず、この詩を書き写します。

黄色い
田んぼ
とんぼが
たくさん
とうめいのはね
きらきら光る

黄色い
いねのほ
みんなで
おじぎ
風がふいたら
ゆらゆらゆれる

黄色い
田んぼを
見ていたら
みんな
ずんずん
あるいていった

夕日のなかに
おいていかれて
あわててぼくは
はしってく

長いかげと
はしってく

 この詩を読むとき、私は、夕焼けに染まる黄金の稲穂やとんぼの群れ舞う情景の美しさに感銘を受けながら、それだけではない、もっと個人的な感情を抱きました。立ち止まった少年が友達において行かれまいと全力で走る姿を、私は自分自身と重ねてしまうのです。
 詩のなかの彼は友人に追いついたのでしょうか。それとも、泣きそうになるくらい友人と離れてしまったのでしょうか。もう追いつかないと思ってしまったら、彼はどうしていたでしょうか。詩の中の少年は友人に追いついたと考えるのが普通でしょうが、私は友人に追いつくことができなかった。さやかに追いつこうと走ることさえせず、こうしてじっと座って詩を読んでいるのです。そんな個人の事情を詩自体の情景に混ぜて読み込むと、私は走ることで彼女に追いつけないところを、別のやり方で負けないようにしなければと思えてくるのです。そんな前向きさを思い出させてくれる、美しい詩でした。
 私はいつか、さやかに胸を張って見せることができる詩を書くことを夢見ています。それが、彼女の輝きに目が眩んで逃げるように別れてしまった人間のなすべきことだと思っています。しかしまだその詩は一遍も完成していません。私の持っている優越は、本当は何の根拠もありません。自分の足元はいつまでも、どこにいっても彼女の輝きに照らされるばかりで、わずかな屈折すら覚えるのです。私は自分の足元を照らすすべを持っていません。もう高校三年生も終わろうとしているのにです。

       *

 センター試験も近く、落ち着きのない日々を過ごしていました。学校の図書館で勉強もするのですが、夜の眠りもここ数日浅く、夕日の差し込む放課後の閲覧室でついうとうとしてしまいました。
 からだが大きくけいれんして目が覚めると、腕が急に動いて、机に広げていた本が全部落ちてしまいました。慌てて拾い、迷惑になっただろうと閲覧室を見渡すと誰もいません。外はすでに真っ暗です。暖房も消えているようで、足元に冷気が流れていました。時計を見ると七時の閉館時間を三十分過ぎていて、ずいぶんと眠りこんだようでした。窓に映る自分の姿を見てため息をつくと、乱れた髪の毛を直し、急いで片付けました。
 帰り際、カウンターにいた白髪の古文教師が、無理しないようにね、と声をかけてくれました。私は一礼して図書館を出て、階段を降りて行きます。すると反対に階段を上る音が聞こえてきて、鍵束をもった男子学生が図書館に向かうのとすれ違いました。
 帰宅後、就寝前に気づいたのですが、どうやら図書館に手帳を落としたままでした。テキストが机から落ちてしまったとき慌てていて、手帳を拾い忘れたのかもしれません。
 次の朝手帳を見つけたくて図書館に行きましたが、時間が早すぎてまだ開館していませんでした。仕方なく図書館前の薄暗い廊下で凍えて待っていると、昨日の男子学生が同じように鍵束を持って現れました。ひとり立っている私を彼は一度見ましたが、何も言わずに鍵を開けてくれました。
「どうぞ」
 図書委員だろう彼は、なんのあいさつもなく、低い声でそう言いました。
「ありがとう」
 彼のあとをついて図書館に入りました。かび臭い空気がせまってきて、彼はすぐに窓を開けて換気を始めました。私は昨日座っていた席の周囲を見て回りましたが、手帳は落ちていませんでした。
「すぐ閉めますから」
 そう言って私のいるところへも図書委員君が窓を開けに来ましたが、床を気にする私に気づいたらしく、立ち止まりました。
「落し物、ですか」
「手帳を落としたんじゃないかと思って」
「ああ、昨日寝てた人ですよね」
 率直な物言いでした。
「昨日はすいませんでした」
「それならありますよ」
「本当に?」
「はい」
 話しながら彼はすぐカウンターに向かいました。ついて行くと、彼がカウンターの下から箱を取り出して、指の中を指さしました。
「これじゃないですか」
「そう、これ」
「昨日閉めるときに見て回ったら落ちてました」
「やっぱり。ありがとう」
「それでその」
「はい?」
「あ、ちょっと寒いんで窓閉めてきます。待っててください」
「え、はあ」
 言い終わらないうちに彼は窓を閉めて回り、壁の暖房のスイッチをすべてオンにしました。
「それで、あの」
 もどってきながら、何か言いたげでした。
「はい」
「すいません。手帳の後ろのほうが見えてしまって」
「うしろのほう?」
「詩が書きつけてありましたよね」
 私は彼が何を言おうとしているのかいぶかしく思い、目をのぞきこみました。彼はそれほど大きくなく、目線の高さは少し上なだけです。
「見たんですか」
「見たというか、その、はい、すいません」
「ふつう見ないと思うけど。これ手帳だってわかるじゃないですか」
「名前を探したんです。誰のかと思って。それで……」
「それで、なに?」
「その、詩は誰のですか? もしかして自分で?」
 彼はひとつ声のトーンを落として聞いてきました。背後から古文教師が入ってくるところで、彼はそれに気遣ったようでした。おはようございます、と言いながら白髪の教師はカウンター奥の給湯室で湯を沸かし始めました。私はなにも言いませんでした。言うこともありません。人の手帳を開く男にあきれて私は立ち去ろうとしました。
「海達公子という人の詩になんか似てて。いやその、いいんです。ほんとすいませんでした」
 その名前を聞いて思わず振り返りました。
「あなた海達公子を知っているの?」
「やっぱりですか? 先輩も、知ってるんですね」
 すると奥から古文教師が顔を出しました。
「立ち話もなんだし、茶でも飲むかね。え?」
「いいえ。もう切り上げます」
「そうか」
「あの、ぼくはいただきます」
「しっとる」
 この時は図書委員君を一瞥して去ったのですが、手帳を見られた怒りは尾を引かず、それよりも、海達公子を知る図書委員君は一体何者だろうかと思うのでした。。普通の人が知る詩人ではないからです。
 次の日は放課後に図書館へ行きました。カウンターに座っているのは知らない女子生徒でした。
「あの、昨日の図書委員の彼、今日は当番じゃないの?」
「葉加瀬くんですか? 彼、毎週火曜日なんです」
「そう。おとといも閉館の時に鍵を閉めに来てたけど」
「月曜は交代してたんです。葉加瀬くんに何か用事ですか?」
 たしかに目の前の女子生徒が言うように、何らかの用事があるべきなのですが、彼女に言付けするようなものではありません。
「いえ、べつに何ってわけじゃないけど」
「はあ」
 彼がなぜその詩人を知っているのか気になるだけで、具体的に話すことがあるわけではありませんでした。週末はセンター試験です。そのことに集中すればいいのです。私は閲覧室で手帳を開き、「朝」という詩を読みました。

きりのかかった

山の方で
男の子が
大きなこゑで
わろた

 この詩は九十年ほど昔、海達公子が書いたものです。トラックの音もテレビの音もしない朝の静寂に響いた男の子の笑い声、その朗らかさにきっと彼女も笑顔になったはずです。その笑い声を私は九十年後に受け取って、同じように笑顔になります。そして揺れたり固くなったりした心をほぐして平常心を取り戻すのでした。
 こんな詩が書けるなんてうらやましい、と思いつつ、いつものように何も書かぬまま、センター試験も過ぎていきました。

       *

 週が明けて火曜日の朝、私は先週と同じ時間に図書館へ行くと、葉加瀬くんが鍵束をもって図書館に現れました。
「おはよう」
「え、あ、おはようございます」
 彼は私に驚き、かすれた声でそう言いました。
「この前は、すいませんでした」
 手帳を見たことへの引け目をまだ感じている様子でした。
「もういいよ、それは」
「よかった」
 彼は鍵を開けながら小さな声で言いました。
「センター試験明けなのに、こんなに早く来なくても大丈夫じゃないですか」
「国立があるから」
「なるほどたしかに。大変ですね」
 そういいながら彼は窓を開けてまわります。
「あの、それで、葉加瀬くんって、下の名前、智樹であってる?」
「え、あ、はい。というかまだ名前言ってませんでした」
「水曜日の女の子に聞いた」
「そうですか。でなんで下の名前なんですか」
「葉加瀬くん、詩のコンクールに小学生のとき応募してない? たんぼ、っていう詩」
 彼の表情が固くなりました。
「なぜそれを知ってるんです」
「私も同じ年に応募してて、葉加瀬って名前がずっと引っかかってたんだけど、昨日気づいてびっくりした」
「じゃあ、先輩はその賞で海達公子を知るように?」
「そう。葉加瀬くんもでしょう?」
「いや、ぼくの場合は親が知ってたんです」
「へえ。私、あのたんぼっていう詩、結構好きなのよね」
「あの詩をですか? あんな適当な詩を?」
「適当なんかじゃないよ。いい詩だよ」
「あの詩は、気に入ってないんです」
「そうなの?」
「もうこの話はいいですか」
「今は詩を書いてないの?」
「書いてません」
「なぜ」
「いいじゃないですか」
「じゃ、最後に」
「なんです」
「私の詩、よんだことある?」
「どんな詩ですか」
「くじらが出てくるやつ」
「くじら?」
「そう、これ」
 私は書き写している自分の詩を見せました。
「どう?」
「海達公子は写実を旨としてるわけで、こういうものは書いてないですよね」
「たぶん」
「そういう意味で、オリジナルだと思います」
「それは率直に言うと、海達公子的には無しってこと?」
「そうではなくて、先輩の色があるってことです」
 彼はそこまで言うとカウンターを離れ、奥でお湯を沸かし始めました。
「もし葉加瀬くんが詩を書いているなら、書き方を教えてほしいと思ってたんだけど」
「やっぱり自分で書くんですか? 手帳のは書き写しだと言ってましたよね」
「あれはね。でも自分で詩を書いてみたいと思ってて」
「へえ、そうなんですか」
 彼はカウンターに椅子を持ってきてくれて、あたたかいお茶まで出してくれましたが、反応は白けたものでした。窓が開いたままでひどく寒気がしました。葉加瀬くんは思い出したように窓を閉めて回ります。朝の図書館には誰も来ません。
「葉加瀬くんなら、話をまともに聞いてくれると思ったんだけど。迷惑ならごめんなさい」
「そんな」
「詩を書いたことのある人に会う機会は二度とないと思って。ふつうならこんな、初対面で話には来ないです」
「確かにぼくも詩を書く人に直接会ったのは初めてです」
 彼はすこし考えて、また話し始めました。
「ぼくはあのたんぼという詩を書いたとき、海達公子のまねしかできないと思って書くのをやめたんです。それ以来一つも書いてません。書けないんです。ですから詩を語る資格もないです」
「まねでもなんでもいいじゃん」
「でも、本当にまねしかできないし、それも全然評価されないので、嫌になりました」
「そう」
「ぼくに、くじらの詩は書けないんですよ」
 彼はそう言ったのですが、さやかに同じことを言われた時と違って、私は全くうれしくありませんでした。彼の言葉からはあきらめしか聞こえてきませんでしたし、私はなんだか悔しくなりました。
「私からすれば、これを書けるというのは結構だけどね。嫉妬するくらいなんだけど」
 そういうと、手帳に書きつけてある彼の詩を見せました。
「ぼくの詩まで書きつけてあるんですか」
「そうよ。だから好きだって言ってるじゃない」
 彼は一瞬次の言葉を探すような表情をしました。
「この詩は親がぼくに書かせたんです」
「親が」
「うち、両親揃って国語教師で、そういう才能を開花させようといろいろ詩をぼくに読ませたんです。海達公子はあまり知られていませんが、両親は賞狙いででしょうけど、彼女の作品をぼくに勉強させました。それでこれを書いたんです。ぼくはたんぼのことも知らなければ、友人とろくに外で遊んだこともないような子供でした」
「じゃあ、これは全くの想像だってこと」
「そうです。だから、そういうのは読む人に伝わるんですよ。ぼくは机の上で海達公子をまねしただけです。それは子供ながらに自覚してましたから、詩を書くのが嫌いになりました。あれは自分の言葉ではありません。なのに周りの人間はぼくの詩を読んでなにかしらほめるわけです。でもこんなのは、ほめられるものでもなんでもない。それだから、ぼくが話すことはなにもありません」
 私はいらだっていました。
「あの、初対面でこういうことを言うのも失礼だとは思うけど」
「え」
「もう親も海達公子も関係なく好きに書いたらいいんだって。本当にもったいないよ。あなたは私という読者をひとり持ってるんだから。これってすごいことだとは思わない?」
 彼はなにも言いません。
「まあ私に詩を見る目があるかどうかは別にしても、いいと思ってるんだから。そんなこと言われると、なんだかがっかりするよ。葉加瀬くんが書いたもの、私、読むから」
 彼が黙って茶をすする音が響きます。機嫌を損ねていそうでした。
「なんだか言いにくくなったけど、その、私が葉加瀬くんの詩を読むかわりにと言ってはなんですが、私に詩の書き方を教えてくれませんか。それが言いたかったことです」
 彼は私に目を合わせようとはしませんでした。

       *

 それなのに、次の週、葉加瀬くんは私に一枚の折りたたんだ紙を渡してきました。
「あの、これ読んでもらえませんか」
「なに」
「書いたんです」
「詩を?」
「声でかいです」
 彼は慌ててなだめるようなしぐさをしました。放課後すぐで、図書館にもちらほら人影があったのです。
「はずかしいよね、まあ普通は」
「ですよ先輩。だからここじゃなくて、帰ってから読んでください」
「はいはい。了解」
 それで私はすぐに学校を出ると自転車を飛ばして帰りました。家について自分の部屋に入ると、かばんを投げ捨て、立ったまま彼の紙を開きます。それは原稿用紙に手書きで書いてありました。

一人夜道を歩きゆく
年の暮れも近くなり
寒さが地面に蓋をして
締め付けられん冷たさに

うつむきがちにため息が
不意に一筋尾を引いた
息白くなりのぼりゆき
うつむく顔より上に舞う

その白きものの消ゆるのを
顔を上げて見つめれば
星と三日月輝く冬空
天仰ぐ我この小ささよ

 寒さが地面に蓋をする。その言い回しが私は一度で気に入りました。いまこれを読んでいる自分の部屋も、外の通りも、どこにいてもつま先から体の奥まで寒さがとらえて離さないのです。蓋は圧力鍋のようにしっかりと閉まる仕組みだろうと思いました。圧力が鍋の中で高まり固いものをやわらかくして、うまみをその中へ押し込んでいくように、寒気が濃縮されて私たちの体の毛穴という毛穴をこじ開けて中に染み入ってくる様子を思い浮かべました。
 ただそれ以外は全体的に堅苦しく、ぎこちない調子です。私はもっとリラックスして書くと彼の言葉が自然と出るような気がして、それを伝えようと思いましたが、彼の携帯の番号やメールアドレスを知りませんでした。
 もう日が沈み始めていました。私は来た道を急いで自転車で戻りました。まだ葉加瀬くんは図書館のカウンターにいるはずです。連絡先を知らないのなら直接言いに行くほかありません。明らかに私は、彼が金輪際書くことはないと言っていた詩を読むことができた高揚感に満ちていました。あれが彼の言葉であり、詩なのです。寒さが地面に蓋をしている街を、私は自転車で駆け抜けて行きました。
「あれ? 桜井さん、帰ったんじゃないの」
 図書館のカウンターまで息を切らして駆けあがると、そこにいたのは白髪の古文教師でした。
「葉加瀬くんはいないですか?」
「さっきちょっと代わってほしいといって、出て行ったよ」
「どこに?」
「さあ、戻ってくるみたいだし、校内にはいるだろうけど」
「ありがとうございます」
「どうしたの、慌てて」
「彼が帰るまえに言いたいことがあって」
「そう。その辺にいると思うよ」
 教師の声を背中に聞きながら図書館をでました。しかし彼が行きそうな場所は図書館以外に思いつきません。彼の教室のある二階をのぞきましたが、数人がおしゃべりをしているだけです。その生徒たちも彼の居場所は知りませんでした。彼らも葉加瀬なら図書館じゃないですか、と言います。
 せっかく来たのにすぐ伝えられないとなるとじれったく、私はそのまま三階の、自分の教室へ行きました。廊下は夕日にあふれてまぶしいばかりでした。彼が三階にいるとは思えませんが、探してみるよりありません。
 教室には誰もいません。その上夕日に染まって、からっぽの教室はいつもと違う場所に見えます。そう言えば海達公子はよく夕日を詩に詠んだな、などと思っていると、ふとやり残したことを思い出しました。海達公子の詩に次のようなものがあります。

「學校」

學校へきたら
たつた一人であつた
机たたいたら
教室一ぱいひびいた

 誰もいない教室で机を叩いたらどんな音がするのだろう。とても気になっていたことで、急にわくわくしてきました。
 自分の机の前に立つと、右手でおもいきり机の上を平手打ちしました。二度目は両手でたたきました。力の限りたたいたのです。響いた音は思っていたよりも無骨で、詩情の欠片もない音でした。夕日の残光が尾を引いて、教室は薄暗い朱色に染まっていましたが、響いた音は鉄と鉄がぶつかるくぐもった騒音でしかありませんでした。誰もいない教室は底冷えして、机の上も氷のようでした。手がひりひりしましたが、それでも、もう教室でこんなことをできる機会もないだろうと思うと、記念にもう一度だけ力いっぱいたたいてみました。勢いがありすぎて机がわずかに床から浮いて、がたがたと音をたてました。慌てて机を支えると、入り口で葉加瀬くんが私を唖然と見ていました。
「なにしてるんですか」
 逆光で彼の表情をとらえることはできませんでしたが、怪しむというより、笑いたさそうなことはよく分かりました。私は恥ずかしくなり、動揺して、立ったまま机の両端に手をついて顔を上げることができませんでした。
「ずっと見てた?」
「はい」
「うそお、やだー、もう」
 私は腰砕けになって、椅子も引かずに床に座り込みました。手はまだ机の上にあって、ばんざいをして座り込んだような格好でした。ごつんと椅子の背に頭があたります。
「ストレスでもたまってるんですか?」
「いやちがう。ちがうから」
「だって、ひたすら何回も机たたいて、それも全力で、それだけでも普通じゃないのに、顔は笑ってましたよ」
「ああ、もうそれ以上言わないで。恥ずかしいから」
 私は立ち上がり、スカートのすそを直しました。
「他には誰も見てない?」
「だれも。ただすごい音してましたから、誰か聞いてるかもですよ」
「音はいいの。姿を見られるのはちょっと。葉加瀬くんでよかった」
「ぼくならいいんですか」
「だって、詩が好きで書いてみたい、なんてすごい恥ずかしいことを知られてるんだから、いまの見られても問題ないし」
「別に詩は恥ずかしいことでもなんでもないですよ」
「十分恥ずかしいよ。さっき自分で言ってたじゃん」
「それだから詩が書けないんですよ」
 彼は平然として言った。
「いやいや、言ってることが一時間くらいで変わってるけど」
「桜井先輩に詩を渡してからそんな気になりました」
「へえ」
 そこに至ってやっと、ここにいる目的を思い出しました。
「そういえば、この詩、読んだよ」
 ブレザーのポケットから折りたたんだ原稿用紙を出して見せます。
「感想を言いに図書館に行ったんだけど、いなくて探してた」
「探してて、なんでここで机をたたいてるんですか」
「それはね、この詩を読めばわかる」
 私は手帳に記してある先の詩を見せました。
「これ、先輩が書いたんですか?」
「ちがう、ちがう。海達公子の」
「それでまさか」
「ちょっとやってみたくなって」
「たしかに、この詩は興味そそられますね。たたく、なんて言葉は彼女の詩に見ないですもん」
「でしょう」
「でも、ふつう、もっと優しくたたくでしょう」
「え」
「あんなに全力なわけないでしょう? ぼくはこれ、そう読みますけど。先輩、無意識にいらいらしてたんですよ」
 葉加瀬くんは私をあざわらった。
「だからちがうって。ちょっとやってみたかったんだよ。彼女にしてはこの詩だけ暴力的でしょう? ちょっと他の詩とは一線を画している気がして、起こったことを確かめてみたかったのよ」
「それは分かるとして、でもですよ、その頃は机だって全部木で出来てただろうし、校舎だっておそらく全部木造でしょう? 音は再現できないですよ。響きが違うんじゃないですか」
「そんな冷静に言わなくても」
「実際そうでしょう」
「えー。身も蓋もないじゃん」
 そんな話をしながら私たちは図書館に戻りました。教室の夕日もとうに失われ暗くなり、寒かったからでした。
「それで、葉加瀬くんどこにいたの、いつも図書館にいるのに」
 薄暗い階段を降りながら、話しました。
「屋上にいました」
 たしかに彼は鍵束を手にしています。
「屋上? なにしに」
「夕日がきれいに出そうだったので、それを見に行ってました。海達公子は夕日が大好きですからね」
「なるほど」
「彼女の好きなものがどんなだか見たくなって」
「私もそれ。どんな響きだったか聞きたくなって」
「あんな野蛮じゃないです。ぼくは」
「ひど。でももう書かないとか言ってたのに、書く気まんまんだしね」
「それは」
 彼は恥ずかしそうな声で言います。
「でね、あの詩の、地面に蓋をする、って言い方が結構いいと思う」
「ありがとうございます」
 非常灯の緑の光が彼の笑顔を照らします。
「やっぱなんだかんだ言って、書くのが好きなんでしょう?」
「そうみたいです」
「それは十分わかる。ただ全体的に固いよ。かしこまってる」
「それは思いました。あとタイトルですね」
「そう、タイトルがついてない」
「何がいいですかね。なんか名案ないですか」
「うーん」
 その時は二人もすぐに思い浮かびませんでした。
「ところで先輩も書くんですよね」
「私?」
「書きたいんじゃなかったですか?」
「書きたい。確かに」
「書き方なんて、もう分かってるんでしょう? ぼくにさんざん言うくらいなんですから」
「そうかな」
「そう思いますけど? ぱっと書いてみたらいいんですよ」
「自分が書けたんで、その自信ですか。やな感じ」
「実際そうですよ。まずは書いてみないと」
「詩を固く拒んでいた人間とは思えない」
「書いたら読ませてくださいよ」
「はいはい」

       *

 私は机に座り、まっさらのレポート用紙を前に集中しました。夜も深く、まもなく日付が変わろうとしていました。エアコンの音が静かに響く以外、なにも音はしません。明日は積もると予報が告げていました。横のカーテンをあけて外を見ると、まだ雪になりきれない小さな雨が降っています。
 結露した窓に私の顔が淡く映りこんでいました。海達公子はついに十八歳を迎えることなくこの世を去りました。彼女は自分の十八歳の顔を見たことがありません。
 さやかの十八歳の顔も、私は見たことがありませんでした。彼女を最後に見たのは中学の卒業式の時です。その時の写真を取り出して久しぶりに見てみました。写真は彼女が撮ろうと言い出したのですが、そのとき彼女は陸上部の面々と一緒にいました。私は彼女たちと一緒に記念写真を撮るのに気後れし、みんなとは写りませんでした。けれどそのあとでさやかが一人で来て、二人だけの写真を撮ろうと言いました。カメラは体育館の外にある洗い場のコンクリートの上に置いて、ふたり並びました。後ろはプールの金網の柵が写っています。
 卒業式の日も彼女は、うるんだ瞳を別にすれば、いつもと同じ生気にあふれた笑顔でした。それに比べて私は、確かにカメラのレンズを見てはいますが、その視点は定まらず曇っていました。彼女の隣にいると計り知れない距離を感じ、うろたえたのです。
 けれど今日は、写真を見ても当時の気持ちを感じませんでした。さやかの隣に映る私は笑いさえ誘いました。あの日感じた彼女との距離を今日は感じなかったのです。彼女は走っていて、私はこうして詩を書き始めた。その事実で十分だったのです。それをいつかさやかに見せる。それに今では、私に詩を書けと言ってくれた葉加瀬くんにも、その完成をなんとか報告したいのです。

       *

 三月一日は卒業式でした。式のあと友人との歓談も終えると、三年生を送るために生徒会で動員されているはずの葉加瀬くんを探しました。胸にコサージュをつけ卒業証書の入った筒をもったまま図書館に向かいましたが、彼はいませんでした。屋上に行っても鍵がかかっています。
「どこにいるのよ」
 思わず声に出たその言葉を言い終わらぬうちに、階下から足音がして鍵束のなる音が聞こえました。
「あれ、桜井先輩」
 葉加瀬くんは私の顔を認めるなり、顔が明るくなりました。
「なんでここにいるんです?」
「葉加瀬くんこそ、どこにもいないし」
「鍵をとりに職員室に。屋上からは先輩たちが最後に校門を出て行く姿が見えますからね。これは詩になりますよ」
「図書館にいないし、屋上も鍵がかかってるし慌てたよ」
「なんで慌てるんです?」
 鍵が開いて屋上に出ると、そこにはいくつかベンチがありました。昔屋上が開放されていた時の名残のようでした。
「見せたいものがあって」
「何をです?」
 葉加瀬くんはわざとらしく言います。
「ほら。私も詩を書いたんだよ」
 ポケットから一枚の紙を取り出し、まっすぐ差し出します。
「そういえば、そんなこと言ってましたね。もう書かずに行っちゃうのかと思いましたよ」
 空には少し雲がでていました。ゆっくりと風に運ばれて、その影が時折屋上を覆います。階下では生徒たちの声が響いています。
 葉加瀬くんは紙が飛ばないようにしっかり握ると、少し先のベンチに座りそれを読みました。そのベンチだけ塗装しなおされていました。ほかは鉄の骨組みだけになったり、木製の背もたれが朽ちたりしていました。私は彼の隣にすこし離れて座りました。彼は真剣に詩を読んでいました。

「これから」

暗くなっても
運動場を走る彼女は
輝いていた
私はその横を
彼女に照らされて
歩いた
いつも目がくらみ
彼女と距離をとってしまう

いつしかそれは
本当の距離になり
彼女はいつまでも走り
私は走ることをやめ
取り残されたまま
私は光を失い
闇をさまよった

すると博士は言った
あなたが光ればいいのだと

たしかに

面倒だから
意気地がないから
私は照らされることを
いつも待ち望んでいた
もう何年も

これからは
やめよう

「桜井先輩」
 しばらくして彼はようやく言葉を発しました。
「博士っていつも図書館にいるんでしょう。時々屋上にも?」
「そうね」
「そんな博士の言うことをきいたらだめですよ。けどまあ、その、えーと、あれですね」
「なに」
 私は身を乗り出します。
「率直に言うと、へたくそですね」
「えー、そんなはっきり言わないで」
 期待を込めて聞き返した私は顔を覆って太い足をばたばたさせました。となりの葉加瀬くんはそれをみて声高に笑います。
「最後のこれなんです? 『これからはやめよう』って。なんかもっとうまいこと言いましょうよ」
「難しいんだって」
「まあぼくも人のことはあまり言えませんけどね。それで、輝く彼女って実在してるんですか」
「してる。その彼女に詩を書いてることを自慢したいんだけど、これじゃあ当分無理だわ」
「続ければうまくなります。大学に行っても書くんでしょう」
「書く」
「そういうサークルありますよね。入るといいですよ」
「うん」
「大学はどこに決まったんです」
「京都。地元の国立はだめだったけどね」
「あそこに受かったんですか? じゃあもう引っ越し?」
「もうちょっとしたらね。遊びに来なよ、京都に」
「いや、ぼく金ないですし、無理かもですよ」
「じゃあ、電話するから。携帯おしえてよ」
 そう言われて彼はおもむろに携帯を取り出し、操作し始めますが、なにか珍しい生き物に恐る恐る触れるような手つきです。
「ああ、ええと、これ、どうするんです?」
 葉加瀬くんは私に携帯を渡してきました。
「わかんないんで、やってもらえますか」
「うそお。まあ、いいけど」
 私が操作をすると、何をしているのか見ようと彼が近づいてきました。彼の肩がそっと私に当たります。風がふたりをなでて、雲間から陽光が屋上に降り注ぎました。
「これで、完了」
「どうもです」
 携帯をポケットに入れると、葉加瀬くんは思い出したように柵越しに眼下の校門を見ました。生徒たちの姿はすでにありませんでした。
「もうみんな帰ってしまったし、図書館でお茶飲みましょう。屋上、まだ寒いですね」
「うん」


(終)



(作者注……作中の詩「朝」「學校」は海達公子の作品であり、トライ出版「海達公子童謡集」2010年より引用しました。上記二編以外は作者の創作であり、海達公子の作品ではありません)

取り残された二人

取り残された二人

どれだけ走っても追いつけませんでした。さやかは私を置いて、どこか遠いところへ走り去ってしまったのです。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-24

Copyrighted
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