松江塚利樹短編集

社会仮病利

 T氏は某大企業の管理職だった。
 管理職とは言っても、大きな組織の中で細分化された末端の部署の数名の社員しかいない小さな係りを統括する係長、いわば中間管理職に過ぎなかった。

 毎日、山のように積み上げられた書類に目を通し、不十分なところがあれば起案した社員に修正を指示し、再度チェックをし、時には自ら修正や作成をせねばならない状況も少なくなかった。
 大企業とはいえ、ライバル社も多く、一分一秒を争う企業競争の中、うかうかしていたらいつ利益を横取りされるか分からない。T氏の日常は多忙を極め、最終電車に駆け込むなんてざらであったし、日付が変わる前に帰宅できればラッキーというような生活だった。
 しかも、T氏の上司が厳格かつ几帳面な性格で、T氏の提出した書類や仕事ぶりに対して、いつも詰めの甘さや進み具合の遅さを指摘されては叱咤され続け、そのたびにT氏はやるせなさや憤りや失望感や不安感の入り混じった気分を引きずりながら、ひたすらデスク上のパソコンをにらみ続けなければならなかった。

 T氏には妻子があった。しかし、帰宅時間が遅いため、自宅のドアを開けても誰も出迎えにこないどころか、妻はすでに就寝、中学生の娘は自室に引きこもっており、リビングの電気すら消えていた。T氏はほぼ毎日、ダイニングに残された冷たくなっているその日の夕食を電子レンジで暖めて、冷蔵庫から出してきたビール肩手に晩酌を兼ねた食事を済ませ、しばらくの間テレビを眺めてから就寝するというのが日課となっていた。
 朝は朝で、家族とまともな会話をする余裕などなく、テレビニュースを横目に妻が無造作に用意したトーストだのコーヒーを胃に押し込み、「行ってくる」と一言呟いてから玄関を出て、ポストに突き刺さったままの朝刊をカバンに詰め込んで最寄の駅に向かうのだった。

 たまの休日であっても、これといって何をするでもなく、T氏はほぼ1日中布団の中で静かに眠っていた。起きたところで、妻と目を合わせれば近所の主婦仲間や学生時代の友達の旦那と比較されて、給料が安いだとか昇進が遅いだの、今月も家計がピンチとかいつまで借家暮らしさせるつもりだなどの愚痴を聞かされるのが関の山だし、中学生の娘は、いつごろからかT氏のことを「冴えない汚い親父」とさげすむようになり、会話どころかまともに目をあわせようともせず、いつもきつい眼差しでT氏のことをにらみつけ、「親父が使った同じタオルで手を拭きたくない」とか「お風呂は絶対に親父よりも先に入りたい」などと毛嫌いもされていた。
 T氏は分かっていた。彼女らはT氏そのものはどうでもよくて、毎月T氏が働いてくることで会社から振り込まれるサラリーのみにしか興味がないことを。
 職場では上司や部下にはさまれ、家庭にも居場所はなく、T氏の心身状態はいつも不安定だった。

 そんなある日の午後、T氏が椅子から立ち上がろうとしたとたん、急に目の前が真っ白になり、手足の力が抜けたかと思えば、手にしていた書類の束を床にばら撒いたと同時に、T氏も仰向けにバッタリと倒れてしまった。薄れ行く意識の中でかろうじて耳にしたのは、部下の「大丈夫ですか!」や、上司の「おい!」という声で、それ以来意識はぷっつりと途切れてしまった。
 職場内に同様と緊張が走る。T氏は救急車に担ぎこまれ、会社の近くにある病院へと担ぎ込まれた。昼過ぎだったので休憩時間中だったが、急患ともあり、ドクターやナースはすぐに診察の準備に取り掛かった。
 当のT氏は搬送中に目を覚まし、すぐさま自分のおかれている状況を理解することはできたが、床に叩きつけられたときの体中の痛みと慢性化した疲労感でもはや起き上がることすらできなかった。

 あまり大きな病院ではなかったので精密な検査はできなかったが、レントゲンや心電図や血液や尿などの一通りの検査を済ませ、T氏はぼんやりとした面持ちで診察室の椅子に腰掛けていた。
 ふいにT氏の前に座っていたドクターがカルテから顔を上げ
 「簡易な検査なので確実なことは言えませんが、倒れられたのは疲労による体力消耗からくる立ちくらみが原因でしょう。気を失ったのは床に頭を打ち付けたことによる軽い脳振盪と思われますので、特にこれといった疾病はありません、今は」
ドクターの言葉にほっとしたと同時に「今は」という言葉にひっかかるものを感じた。不安そうな表情を浮かべるT氏にドクターは続けて
 「血液検査・尿検さ共に数値が高く、心電図も若干なれども乱れている結果が出ています。今は大丈夫としても、今後このような状況が続くと、何かしらの病気に繋がる可能性は否定できません」
 「そうですか」とT氏は落胆の表情を浮かべながら肩を落とした。
 「最近よくあることなのですが、生活環境や外的ストレスが原因で鍼身状帯を悪化させ、心身の病気を引き起こすというケースがあるのですが、もし差し支えなければあなた自身の職場や家庭のことなど生活状況についてお聞かせ願えないですか?」
T氏はちょっと躊躇したが、もしかしたら自分の健康が危うい状況になるかもしれないとのドクターの指摘に押され、職場のことや家庭のこと、T氏を取り巻く人間関係や自分のおかれている立場など、思いつくことは洗いざらいドクターにぶちまけた。ドクターはうんうんと頷きながら熱心に耳を傾け、傍にいるナースは休むことなくペンを走らせ、T氏の話を書きとめ続けた。
 「なるほど」
 T氏が話が終わると、ドクターは少しの間腕組みをしながら考え
 「どうやらあなたは毎日非常に厳しい緊張感の中で生活されているようですが、気分が重たく感じたり、不安感に苛まれるなんてことはありますか?」
 「いつもです」
 「倦怠感は?」
 「……時々あると思います」
 「よく眠れますか?」
 「熟睡はできてませんが、眠れないというほどでもないです」
 「息苦しさや胸の辺りの圧迫桿、口の渇きや冷や汗を流すことは?」
 「……ありますね」
 ドクターは再び沈黙し、思案をめぐらせているような様子だった。「おそらくは……」と、ドクターはT氏へとある病気の名を挙げ、その傾向にあると告げた。その病名は現代の疾病として、特に最近マスコミでも取り上げられるようになり、テレビや雑誌でちょっとした特集が組まれることもあることから、T氏はそれなりに知識は持っていたが、まさか自分がその病気であるなんて信じることができず、おろおろしてしまった。
 「落ち着いてください。先ほども申し上げましたように、今時点は問題ありません。しかしながら、今のような健康状態と生活が続けば、精神が病んでしまう可能性があるということです」
 「もしその病気になってしまったら、仕事どころか生活そのものも成り立たなくなってしまうんじゃないんですか?」
 「症状が重たくなればそうなります。その場合、適切な治療と充分な薬と休息、そして御家族や職場の方々の理解が必要になりますね」
 「それは困る! ただでさえ仕事が立て込んでいるのに休むことなんてできるか! 今だって残された仕事のことが気になって仕方ないのに。休息なんてしようものなら私は真っ先にクビだ。娘もまだ中学生だし、収入がなくなれば食べることはおろか住むところさえなくなってしまうかもしれないんだ!」
 「お気持ちはよく分かります。しかし、今のような状況を続けて悪化させてしまえば本末転倒です」
 「私は八方塞ということですか……」
T氏は完全に動揺し、今にも泣き出しそうな表情になった。
 「落ち着いてください。私から一筆診断書を出しておきますので、あなたの今の状況を職場や御家族の方々にきちんと説明してください。それと精神安定剤を処方しておきますので、隣の薬局で受け取ってください。それから、定期的に受信していただき、状況を私に報告してください」
と言うなり、ドクターはデスクに向かい何やら書き始めた。

 T氏は受付で診断書をもらい、薬局で薬をもらった。診断書にはあくまでも「軽い」としているが、病名が記載してあり、放置しておくと重度化する可能性があることと休息が必要な旨の内容が記してあった。
 薬は1週間分で7錠の小さな錠剤が入っており、夜寝る前に飲めとのことだった。それらを交互に見ながらぼんやりと考えていたが、急に遣り残した仕事のことを思い出し、急いで会社へと戻った。

 職場に戻ると何人かが「大丈夫ですか?」と声をかけたものの、基本的にはいつもと同じような雰囲気だった。T氏は仏頂面で書類を眺めている上司のところに例の診断書を差し出しながら、迷惑をかけたことへの謝罪とこれまでの敬意について説明した。
 診断書に目を落とした上司は、とある病気の名前が記載されていることに気づき、マスコミで取り上げられていることから一種の社会問題化していることも知っていたので、若干なれども気に留めずにはいられなかった。診断書から顔を上げた上司は
 「今日はもういいから、自宅に戻ってゆっくり休め」
とのことだった。意外な返答に当惑したT氏は
 「しかし、医師からも今は特に異常はないとのことでしたので、さほどのことでは……」
 「いいから帰れ、これは命令だ」
 「命令」と言われたらT氏としては従うしかない。やや後ろ髪引かれる思いはあったものの、上司の命令どおり、その日は真っ直ぐ自宅に帰った。
 自宅では、あまりにも早いT氏の帰宅に妻や娘が驚き、更にT氏が差し出した診断書を妻が見て更に驚いた。そこには、とある病気の名前があり、精神が病むことによって生活そのものがなりたたなくなり、時として自ら命を絶つこともあるということをワイドショーなどで報じていたことを聞かされていたからだ。
 娘はその場の状況を理解することはできなかったが、青ざめる母の顔を見て、父の体に何かしらの異変が起こっていることを感じ取った。

 次の日、出勤するなり上司から呼び出された。話の内容は、一部業務分担を変更し、T氏の担当業務を若干軽減したということだった。
 が、一番変わったことは上司のT氏に対する対応だった。それまではきつい口調で妥協を許さない完璧で迅速な仕事を要求していたが、態度そのものが目に見えて柔らかくなり、T氏の仕事振りについてもあまりけちをつけなくなった。
 また、家庭でも、それまで無造作と言っても過言ではないような態度で接していた妻が、食事の内容に気を配り、以前よりも比較的早く帰宅するようになったT氏に対して気遣うような発言が出るようになった。もう以前のような愚痴をぶつけるようなことはなくなったし、娘も心なしか父への態度が丸くなったような気がする。
 これら周囲の対応の変化と、ドクターから処方してもらった薬のおかげで、T氏は少しずつ緊張感がほぐれ、あまり不安感を感じないようになってきており、定期的に通院したときにドクターへも、体調が改善に向かっているような気がするとも報告できるようになった。

 ある日、ドクターはT氏の診断結果を見ながら
 「数値も平常値になりましたし、心電図の乱れもなくなりました。どうですか、御気分のほうは?」
 「ええ、はじめてこちらの方に担ぎ込まれたときに比べて、だいぶ気持ちも落ち着いたと思います。」 「今の状態を継続しておけば全く問題はないと思いますね。もう薬を使う必要もなさそうですし、こちらへの通院も今日で終わりで大丈夫ですよ」
とのドクターの言葉にT氏は若干表情を曇らせた。
 「終わり……ということは、もうこちらへはこなくていいということでしょうか?」
 「ええ、具合がよくなれば受信する必要はないですからね。」
 「はあ……」とT氏は奥歯に物の挟まったような返答を返した。
 診断書を提示してからというもの、明らかに職場や家庭の雰囲気、具体的にはT氏に対する態度が変わった。担当業務は軽減されるし、部下は気を使うようになってくれたし、上司も頭ごなしにしかりつけるようなことはなくなった。家庭でも妻や娘にぞんざいな扱いをされることはなくなったし、優しい言葉をかけてくれるようにもなった。
 それもこれも、みなT氏に「病気」という肩書きがついたおかげだ。この病気になることがどんな意味を持っているかははっきりとは理解していなくても、この肩書きのおかげで、今のT氏の生活環境や人間関係はとても居心地のいいものになっている。
 もし今、この肩書きがなくなれば、また昔のような厳しい職場、冷たい家庭に逆戻りになるかもしれない、いやきっとそうなるに違いない。T氏が以前のような病気なしの体になれば、今のような対応をする必要も意味もなくなるからだ。
 冗談じゃない。せっかく手に入れた安楽な生活をそうやすやすと手放せるものか、もうしばらく、いやできればこのままずっと周囲が自分を甘やかしてほしい、オレは病人なんだからな。少なくても、ここに通院していると言う既成事実さえあれば、自分はずっと病人として世間から認識される、別にオレは嘘を言ってないんだからな。
 「いや、それでも時々とてつもない不安感や緊張感を感じたり、眠れなくなったりすることもあるので、もうしばらく通院が必要と思うのですが……」
 「そうですか? 検査結果からしても特に問題のあるような兆候はなくなっていると思いますし、あなた自身も以前に比べて顔色も表情もよいように思えるのですが……」
 「いや、それは今先生の診察を受けて気分が落ち着いていますし、毎晩飲んでいる薬が効いているせいもあると思いますよ。ただ、まだ根本的なところが治っていないような気がするので、ここで通院や薬をやめたら、以前先生がおっしゃっていたような重たい状帯にならないとも限らないじゃないですか」
 T氏の強い希望により、ドクターは処方箋を出し、次回の予約も受け付けることにした。

 T氏が帰った後、傍にいたナースが
 「先生、あの患者さん、本当にまだ具合が悪いんでしょうか?」
 「いや、もう以前のような不安定な状況は改善した、全く問題ないと言ってもいいくらいだ。薬だってごくごく軽い精神安定剤で、別に飲まなければどうということもないはずだ」
 「だったらなぜわざわざ時間とお金を使って通院したいとか薬を出してほしいなんて言うんでしょうね」
ナースの問いかけに、ドクターはため息をひとつつき
 「病人という甘い蜜の味を覚えてしまったらしいな」
 「はぁ? なんでしょうか、それは?」
 「彼が私のところに運ばれてきたとき、確かに彼の心身状態は不安定で、放っておけば身体を壊すだけではなく精神を病んでしまい、社会復帰そのものが危ぶまれる状帯になってしまったことだろう。そして私は診断書を出し、彼の職場や家庭に彼が危険な状態であることを示し、理解が進むように仕向けた」
 「嘘を書いたんですか!?」
 「おいおい、まさか公文書に嘘なんか書けるはずないだろ。診断書には「軽い鬱傾向が見られる」とか「十度化する恐れがある」としただけだ。今はこのような精神疾病も注目されつつあり、マスメディアでも比較的取り上げられ、原因として激務などの厳しい労働環境や人間関係の困難さなどが挙げられている。会社とすれば、このような情報が流れている昨今において、自分の会社でそのような病人を出してしまうのは不名誉なことでもあるし、しいては企業の信頼問題にも関わる。この情報化社会において、いつ誰がどういう形で情報が流出するかなんて予測がつかないからな」
 「はあ」
 「それに、家庭だって一家の大黒柱が仕事をなくして社会復帰できないとなれば艪盪に迷うことになるし、家族にそのような病気を持っている者がいることそのものを拒む人もいなくはないからな。多分、今の彼はそういう病気を持っていることで体節にされ、結果的には体調もよくなったが、今の生活を手放すのがおしくなったってところなんだろう」
 「お言葉ですが」とナースは遠慮がちに
 「それならば、結果としてあの患者さんのためにはならなかったんじゃないのでしょうか。病気でもないのに病人のふりをして、甘やかされた生活に浸ってしまうというのは」
 「確かに君の言うとおりだ。でも、私は医者として、放置しておけば悪化するような患者を目の前にして、そのままにしておくことはできない。少なくても、彼に対しては適切な処置をしたつもりだ。ただ……」
 「ただ……」
 「人間とは元来、楽な生活に味をしめてしまうと抜け出せなくなってしまうものなんだ。病気があるのならば治療して元の状態にしなければならない、しかし、病人と言う肩書きを利用して自分に都合のいい理屈を並べて、無理を通そうとする人間も少なくないようなんだ。確かに、今は明確な病気ではなくてもそのままにしておけば重度化するようなボーダーライン上にいるような患者はかなり多い。そして我々はそれらの状況に対して何かしらの病名をつけた上で適切な処置をしなければならないが、そのこと事態また新たな社会病利を生み出しているような気がするんだ」
 ドクターは再びため息をつき
 「差別や偏見が社会的な弱者を生み出す一方で、その弱者を擁護するような考えも生まれる。しかし、中途半端な知識だけで擁護に入れば、それを逆手にとって都合のいいような解釈を持ち出すヤツも出て来るんだ。本当に治療しなければならない人も大勢いるが、医学的な立場からではなく、別の視点から治療しなければならないケースも増えて困っているのが今の私の悩みなんだ、あの患者のようにね」

ドラえもんの裏秘密道具 自白みそ

※本作は二次創作物であり、ドラえもんの原作者はじめ関係者には一切関係ありません。

 ある日、ジャイアンが空き地の土管の上で玉ねぎを使ってお手玉遊びをしていました。ところが、勢い余ってその玉ねぎが手からすっぽ抜けてしまい、カミナリさん家のガラスを割ってしまいました。
 「いけねえ…」
とジャイアンはあせりました。突然ひらめいたジャイアンは、いつも持ち歩いているドラエフォンを取り出し、のび太の家に電話をかけました。「ちょっと空き地までこいよ」とのび太を誘い出しました。
 何も知らないのび太は、のこのこと空き地にやってきました。ところが、空き地にはジャイアンの姿がありません。「あれえ…」とその場に立っていると、真っ赤になって起こっているカミナリさんがやってきました。
 「うちのガラス割ったのはおまえだな!」
 「えっ、僕知らないよ…」
 「嘘をつくな!ここにはおまえしかいないじゃないか、けしからん!!」
とのび太はそのままカミナリさんにこっぴどくしかられてしまいました。
 ドラえもんが家出おやつのドラきを食べていると、のび太が泣きながら帰ってきました。「どうしたの?」と事情を聞くと、ドラえもんは憤慨して
 「それはひどい!ジャイアンのやつめ、のび太くんに濡れ衣をきせるなんて、なんてひどいやつなんだ!もう頭にきた、これを貸してあげる」
とドラえもんはポケットから「自白みそ」を出しました。
 「このみそに入っている粒々は、第2次世界大戦中にドイツのヒトラーがナチスに作らせた強力な自白剤なんだ。このみそで作ったみそ汁を飲ませれば、ジャイアンはカミナリさんのところに謝りにいくよ。」
のび太は早速、このみそを持ってジャイアンのところに出かけました。ジャイアンはのび太を見ても何食わぬ顔をしていました。
 「やいジャイアン
!さっきはよくも僕のせいにしたな、ちゃんとカミナリさんのところへ謝りに行け!」
 「何のことだ知らねえな、でたらめ言うとぶんなぐるぞ!」
 「どこまでもしらばっくれるつもりだな、よーしそれなら…」とのび太は自白みそを出汁
 「ところでジャイアン、みそ汁でもどう?」
 「おお、心の友よ感謝する♪」
とジャイアンは受け取り、そのみそ汁をおいしそうに飲み干しました。ところが数十秒後、突然ジャイアンの体がガタガタと震えだし、目が空ろになったかと思うとすごい勢いで走り出していきました。
 「どうだ、この僕に濡れ衣なんかきせるからだ、ハッハッハ」
とのび太は上機嫌でした。しかし、このみその副作用で、以後ジャイアンは無生物にしか心を開かなくなるという精神的に不安定な少年になってしまいましたが、のび太はそのことは全然知りませんでした。
 すっきりした気分で返ってきたのび太は、うっかり自白みそを台所におきっぱなしにしてしまいました。そんなこととはつゆ知らず、翌朝ママはこのみそで朝食に出すみそ汁を作ってしまいました。朝ごはんの席で、このみそ汁をはじめに口にしたパパは、急に体がガタガタ震えだしたかと思えば立ち上がって叫びました。
 「ママ!実は僕、酒と博打と女遊びで会社のお金を使いこんじゃったんだ、2億円も!!」
 「エー!!」
ママはこのことを聞いてへにゃへにゃとなって倒れてしまいました。
 「このことを正直に社長に言って謝ろう、そしてこの家を担保にお金を変えそう」
とパパは飛び出していってしまいました。
 この様子を見ていたドラえもんとのび太は、ゆっくりとお茶をすすりながら
 「もう、おきっぱなしにしちゃだめじゃない、のび太くん」
 「ごめん」

お姫様と羊飼い

 むかしむかしのとある国でのお話。その国の東の方の小高い丘の上にきれいな琥珀色の立派なお城があり、そこには優しくてかわいい年頃のお姫様が両親と一緒に暮らしておりました。お姫様はお父さんとお母さんの愛情をいっぱいもらってすくすくと育ち、身の回りのものは何でも恵まれていました。高価な布でできたきれいなドレス・きらきら光る宝石・金でできた髪飾り・立派な毛並みの馬を持つ馬車・美しい音楽・おいしいお料理…、傍目には何不自由なくなんでも手に入っていました。
 しかし、そんなお姫様にも満たされないものがありました、それは心です。ある時ふいに寂しさでいっぱいになったり、理由の分からない不安に襲われたり、いつでも「何かいいことないかな」と心の中で呟いたりしていました。そんな彼女を見て、夜空に青白く浮かぶお月様はそっと言いました
「お嬢さん、あなたは今ほんとうに大切なものを探そうとしているんだね」
 お姫様の住むお城からさらに東へ数里離れたところに、羊飼いの少年がいました。少年は決して貧しいわけではありませんが、これと言って何のとりえも財産も持っていません。小さな家に数匹の羊を飼い、きままに笛を吹き、詩を書きながらほとんど人とは会わずにひっそりと暮らしていました。
 少年はずっと前から琥珀色のお城に住むお姫様に恋していました。しかし、容姿も身分も財産も、何もかもが不釣合いであることから近づくことすらためらっていました。自分になんか振り向いてもらえるはずがない、自分と一緒になったって幸せになるはずがない、 いつもそんな否定的なことばかり考えていました。だけど、履かない恋心を抑えられるわけもなく、ただただいつも瞳の奥にお姫様の姿を映してはため息ばかりついていました。
 どうにも気持ちをおさえられなくなった少年は、1枚の便箋に気持ちを書き連ね、それをお姫様の元に届くよう伝書鳩に託しました。その日の夜、お姫様の部屋のある窓から一枚の手紙が舞い込みました。もちろんあの少年からのです。手にとって読んでみたお姫様は突然のことに動揺してしまいました。どう気持ちを受けとめればいいやら、思わずぽっと赤くなった頬を手で隠しなんとなく困ったような気持ちになりました。でも、心のどこかでは嬉しさもこみ上げていたんですよ。お姫様は羽のペンを取り羊飼いの少年へお返事を書き、同じ伝書鳩にそれを括り付けました。すぐに変時が返って来たのを見て驚きもありましたが、嬉しさもあり、ちょっと怖いような気持ちもありました。内容は、挨拶とお礼の言葉が綴ってあって、少年の望んだような言葉はありませんでした。がっかりもしましたが、なんとなく気持ちの落ち着きも感じていました。
 それから数ヶ月間、お姫様は毎日のように窓のあたりを眺めていました。あんまり率直には欠けなかったけれども、心のどこかでは何かしらの答、できればお姫様が望んでいる答えがやってくることをずっと待っていました。でもそんな気持ちとは裏腹に、なんの音沙汰もありません。お姫様は、星空の輝くバルコニーの下で、そして一人ベッドの上に寝転んで、「ばぁーか…ばぁーか…」と白い頬をぷっと膨らませながら、気の弱い頼りなさげな少年に愚痴をこぼしていました、そして時よりその頬に一粒の雫がほろりと流れ落ちるのでした。
 ある日、お城で町の人々を招待して食事会が開かれました。もちろん少年も招待状を受け取りました。行きたい気持ちは十分あるのですが、なんとなく気まずいような居心地の悪さも感じていました。でも会いたい気持ちに嘘はつけません、思い切って行くことにしました。
 真っ赤なじゅうたんが張り巡らしてある大きなホールには、白くて丸いテーブルがたくさんあって、その上には様々な料理とお酒がのっていました。あるテーブルにつくなり、少年はお姫様の姿を見つけました。彼女も少年に気付きました。彼女の赤みが買ったクリ色の髪の毛から風にのって香水のいい香りが鼻につき、なんとなく照れくさくなってしまいました。彼女も目があった瞬間、急に言葉がなくなって赤くなってしまいました。2人は軽く会釈をしただけで、お互い目をそむけて、少年は照れ隠しにワインを飲み、お姫様は照れ隠しにお友達とおしゃべりを始めました。どんな結果でもいい、2人の気持ちがうまくかみ合えば、もっと素直になれたのに…。気持ちのすれ違いは、汽車の線路のように、どこまで行っても平行線で、いつまでたっても決して交わることはないのです。
 ずっとこの様子を見ていた森のふくろうはホオホオと呟きました。
 「人間とは賢き生き物なり。そしてその賢さゆえに自分の心をもぼやかすことを覚えてしまった。人間、時には非常に愚かなり。」

ノアの箱船

 遥か上空の雲の上、この世をお作りになった神様は今日も下界を映し出す泉のほとりで人間たちの様子を見ていました。ここ最近、とは言っても神様の「最近」は私たち人間にとっては何十年もの年月になってしまうのですが、神様にとっては100年も200年もたいした時間には感じないのです。最近の人間の様子を見て思わずため息ばかりついていました。
 「人間は、私が作った動物たちの中で最も賢く器用な動物になった。しかし、ここ最近の人間たちの様子には目に余るものがある…」
その時、おやつの時間なのでしょう、背中に大きな翼、白い衣、頭に輪をのせた天使がお茶とお菓子をもってやってきました。
 「どうしたんですか神様、浮かない顔をして?」
 「おお、ご苦労。ちょっとな…」
 「ははあ、下界の人間たちの様子を見ていたんですね。また何か悲しいことでもあったんですか?」
神様はお茶を一口すすってから
 「そうなんだよ、このところは特にひどい。大きな戦争を2度も体験しておきながらも、まだ世界のあちらこちらでは戦いが続いている。やっかいなのは、科学が進歩したおかげで核兵器とか毒ガスとかを使うようになった。戦いには使っていないが、核実験も頻繁に行われている…、これでは地質や大気ですらも安全とは言えない…」
 「でも脾肉なことですが、戦争のおかげで人間たちは科学や技術を発展させることができたんですからね。そのおかげで便利になっていることもたくさんありますよ。」
 神様は渋い顔をして頬杖をついて黙り込んだ。戦争と言う特殊な状態に限らず、人間たちの社会そのものが歪んでしまったような、そんな不安が頭から離れないのである。
 確かに科学技術は目覚しい発展を遂げ、今までできなかったことや想像すらもできなかったようなことが現実に起こるようになってきた。しかしそれは、数々の悪影響も齎したし、第一「何でもできること」が果たしていいことなのかと言うとそれもはなはだ疑問である。大量に吐き出される煙や廃水、大量に生産されてもすぐにゴミとして捨てられる、これらが自然を破壊し、生態系や自分たちの住む環境ですらも脅かされている。
 「それは…」天使に向かって神様は口を開いた
 「やはりお金のことばかりに目が行っていることが根底にあるのか…」
天使は少し上目遣いに考えてから
 「一概にそれだけとは思いませんが、大きな原因でしょうね。今の世の中、極端な話お金がなければ生きることはもちろん、過程や趣味や遊びや心の豊かさなんかも左右されますしね。悪いことに、経済状態もあまりよくないようで、霊界に来る死者に40~50歳の人間が多くなってきたんですよ。理由は会社の経営なんでつぶれたりクビになってしまって、それで自分の居場所みたいなものがなくなって自分から命を落としてしまうらしいのですよ…」
 「ふむ」
 「おそらく、その他に糧になるようなものがないんですよ。なんだか、この間聞いた話によりますと、ただ仕事だけして生活したり、同じ毎日の繰り返しに息苦しさを感じたらしく「癒し」とか「自分探し」とか「域外」なんかに拘る傾向にあるみたいで、けっこう流行っているらしいんですよ。なんだか淋しいですね…」
 「そうなのか…」
神様は最後の一口を飲み終え、再び沈黙に入った。泉の下に写る人間たちの営み。一人一人は存在しているのだが、多様化した価値観や思想を抱き、一見たくさんの人間がぎゅうぎゅうに押し固められているようだが、その一人一人の間に存在する壁は分厚くて固い。
 「心が…心が凝り固まってしまったと言うか貧しくなったと言うか、一点しか見えなくなってしまったように思える。だから…」
 「まあまあ…」神様の言葉を遮って天使が口を挟んだ
 「すみません、でも人間たちはそんなに悪い人ばかりが社会を動かしているわけではないですよ。ちゃんと平和とか幸せの追求に、前向きに取り組んでいる者だってちゃんといます。悪いことばかりに目がいっていると、見落としてしまいますよ。」
 「分ってる。ただな、その「平和」とか「幸せ」の追求の仕方が個々それぞれ違うのだから、うまくかみ合わずに不具合が生じているのではないか。悪い者が一握りなら良い者も一握りだ、そのどちらにも着かずにどちらへも流れていく宙ぶらりんな人間が多いのだ…。」
 再び静かな時間が訪れた。今回はいつもよりもずっと長く長く、そして目をつぶったまま額にしわを寄せて悩んでいる神様を微動兌にせず天使はじっと眺めていた。
 「よし」突然神様はスックと立ち上がる。
 「ノアの箱船を出そう」
天使は大きく目を開けて、早口に聞き返した。
 「え…箱船を出すんですか?!じゃあ、人間界に大洪水を起こして全てを流し尽くしてしまうのですか?!」
ノアの箱船とは、何千種類もの動物や植物を、そして人間も乗せて、大洪水を起こす。水は世界のあらゆる建築物はもちろんのこと、文化や歴史までも飲み込み流してしまう。生き残った動植物は、そこからまた何千年もかけて新たな文明を築き上げて、新しい世界を作り出すための方法である。
 「ほんの一握りの優秀な人間たちを乗せて、後はこの水甕の水お白色上皮下界に流し込めばいい。大量の水は雨となって地上に落ちる、その水が世界の終わりを導き、そして始まりを齎してくれる。」
 「で、でも…そこまでしなくても。第一もう人間たちは後戻りできません、また文明を生み出すのは無理です。」
 「もしそうなったら、そこまでだったんだよ。このままにしても自ら滅び行く運命なのかもしれない…」
 とその時、この話をずっと聞いていた真っ黒いコウモリがパタパタと飛んで来ました。このコウモリは悪魔の化身です。
 「いやいや、そんな神様が手をお下しになることはないですよ。人間たちはそんなに愚かではありません、ちゃんと自分たちの手でノアの箱船は用意してますよ。どんなことがあっても、必ず生き残りますよ。
 「ただね」コウモリは2人を見ながらニヤリと不気味な顔をして
 「その箱船に、神様が望むような人間が乗っているとは限りませんけどね。」

究極のメニュー

 ある大きな会社の経営者がいた。この不況にも関わらず経営は順調、今年春にははれて念願であった東照一部上場企業への仲間入りを果たしたほどの実力を持ち。この業界では名前を知らない者はいないほどの大企業である。
 現在の経営者は3代目、現会長である親父の後をついで企業の発展に全ての情熱と努力を傾けて今日までやってきた。妻子はいるが、専ら仕事一筋できたため、家庭のことは完全に無関心である。それどころか、仕事に関する経済・経営のこと以外は無関心…何も知らない・できないと言ったほうが正しいだろう。
しかし、そんな仕事バカのこの経営者にも唯一の趣味と言うか楽しみがあった。それは、こと食べ物については拘りを持っており、いつでも「美味」なる食材や料理を求めて、様々なものを口にしてきた。物心ついたときからの楽しみで、舌は大変肥えており、するどい味覚の持ち主であった。
 大企業の経営者であるため、金には不自由しない。世界中から最高の腕を持つ料理人を招いたり、貴重な食材を手に入れたり、珍しい料理も情報を得てはすぐさま手に入れたものである。だが、特に最近どうもこの男が納得するような料理に出会えない。男の美味への欲求は日ごとに高まるばかりで、精神的にも荒れてくるほどのストレスとなってくるのである。
 「…そういうことで、私はおいしいものには目がなくて…ただおいしいだけじゃもうだめなんです、いろいろと食べ尽くしてきましたからなぁ」
男はある店で酒を飲みながら、知り合ったばかりの友人とと会話をしていた。ある株主会議で、男が親しくしている友人から紹介された老人で、話してみるとなかなか気の合う人手、以後はプライベートでも飲み仲間として付き合っている。この友人もある企業の代表取締役で、男よりも10歳ほど年上で、胡麻塩頭と太い黒ぶちの遠近両用めがねが印象的な男である。
 「そうですか、なかなか食べ物についてはうるさいと見える。食べ尽くしたと言いましたが…」
 「ええ、和食なら会席料理・郷土料理・精進料理・琉球料理、洋食ならフランス・イタリア・ドイツ・スペイン、中華なら北京・嵌頓・上海・四川、…エスニックなんかも食べているし昆虫や爬虫類といった普段食べないような食材を使った料理も食べてますな。そうそう、中国に行ったときに万漢全席なんてのも食べました、ありゃあすごかったですぞ」
男は少々自慢下に、しかも興奮気味に言葉を並べた。
 「もちろん今挙げたのはほんの一部分。他にも何か情報を見つけてはありとあらゆるところへ出かけては食してます。日本でも中華料理・フランス料理の類を出す店は星の数ほどありますが、やはり現地でないと…雲泥の差ですよ。食は文化です、その土地土地の気候・風土が生み出したものですからね、そうじゃないと『本当の味』には出会えませんよ。」
 「ほほお、それはすごい!それならもうさぞご満足されたことでしょうな。」
友人の言葉に男は九章混じりに行った。
 「いやいや、人間の欲求とは尽きることはありません。特に最近、『美味』に対しての欲求がますます強くなりましてな。それと言うのも、どうもおいしいものに巡り合える機会がなくなっている。感動できるような料理に出会えなくてですな。」
 「それだけお食べになってもまだ…。でも、そんなにたいそうな物でなくても、ほらこの鯛の兜焼だっておいしいじゃないですか、よく油がのっててとろりとしてる」
と友人は満足げに一口放りこんだ。
 「ふむ…たしかに悪くはないですがね、心が震えるような感動するものが欲しいんですよ。名高い料理や物珍しい食材を口にしたときは、今まで出会ったことない味に満足していたんですがね…」
男は箸を置き、ジョッキの生ビールをぐいと飲んだ。
 「告ぎ方がよくないなあ…粟が経ちすぎている…」
細かいことを言わなければ、たしかに酒も料理もうまいのである。でも、ただ「うまい」だけではもう満足できないくらい欲深くなっている自分がいた、もしかしたらもうこれは「美味への追求」ではなく単なる我侭なのではないだろうか…。
 「…もしかしたら、もう私は本当にこの世のうまいものは食べ尽くしてしまったのかな…。それはそれで最高の幸せではあるが、ちと淋しいですなぁ…」
 「いやいや、そんなことはありませんよ」
友人はちょっといたずらっぽい、何かたくらんでいるような少年のような笑みを浮かべながら言った。
 「実はですね、私もおいしい物には目がない達でしてね…、この間地元で非常にうまい食材を見つけたんですよ。おそらくあなたも口にしたことはないはずですよ」
それを聞いて男はハハハと笑った。
 「いや失礼、地元とは日本ですよね。先ほども言いましたように私は日本国内の有名な料理、その地方に伝わる珍しい料理なんかもすでに食べております。どんな物かは存じませんが、今更…」
今度は友人のほうがハハハと笑った。
 「いやいや、あなたが言っているのはある程度名が知れ渡っているものでしょう。『灯台下暗し』という言葉もあるように、案外と見落としている部分は多いと思います。私の今言ったものは、きっとあなたは絶対に食べたことないでしょうし、しかも感動すること間違いない、そんな美味なる料理ですよ。」
内心聞き流そうと思ったが、あまりにも自信ありげに、そして余裕たっぷりに言うものだから、ただでさえ食に興味がある男の感心は一層強くなった。
 「もしよろしければ、是非あなたにも食べていただきたい。ご馳走しますよ。」
 「ううん、あなたがそこまで言うのならば是非食べてみたいですな、『百聞は一見にしかず』とも言いますからな。で、それはなんと言う料理なんですか?」
 「それは言えませんな、私の実家にあるので是非お出でください。」
 「ははん、来てからのお楽しみと言うわけですな。もちろん行きますよ、うまいもののためならどこへでも行きますよ。」
 「そうですか、それじゃあ今度の休みの日なんかはどうですか、ご都合は?」
 「けっこうです、こちらとしても早く食べたいですからな。」
友人は何やら手帳の切れ端にペンを走らせ、男に手渡した。
 「簡単ではありますが、私の家の地図を書きました。私は実家で待っていますので、是非お出でください。」
男はその紙切れを受け取り、ちらとそれを見た。
 「ふむ、けっこう遠そうですな、山の中みたいだし…。」
 「田舎なんですよ、緑豊で空気もうまいんですが、どうもね遠いのが難点でして…。あ、電車でお出でくださいね、山道は車が通れないので。」
 「ええ、せっかくのきれいな空気を排気ガスで汚すなんてことはしたくないですしな」
 それから2人は別れ、男は期待とちょっとした疑惑を抱きながら今度の日曜日を楽しみに待った。改めて地図を眺めてみると、最寄駅からけっこう遠そうである、ちょっと不安になった。
 「こりゃあ、朝早く出かけにゃならんな…。ま、仕方ないか」
男もけっこうな年齢である、あまり運動もせずに年がら年中机の上で書類を眺めているので、体力に自信があるわけでもない。しかし「今までに食べたことない物」・「美味」という言葉が、彼にやる気を与えているのである。
 当日、東の空が白み始めた頃に起きだして、朝一番の電車に乗る。電車に揺られること数時間、何度乗り返したかは分らないが、お昼を少し過ぎたあたりでやっとこさ最寄駅に到着した。普段は車手の移動が当たり前になっているので、ここまででもヘトヘトの状態であった。そうとうな田舎だとは聞いていたが、下車してあぜんとするくらい何もない。店どころか、駅長室の駅員を覗けば人っ子一人いない無人駅である。
 「こんなところに、そんな素晴らしいものがあるのだろうか…」
一瞬不安が過ぎる。
 「いやいや、こういう一見何もないようなところに、実は素晴らしい食べ物とはあるものだ」
と気を取り直し、地図を頼りに歩き始めた。歩いている途中、どんな物だろうといろいろな想像を巡らしていた。「この地方に伝わる古くからの郷土料理かな、それとも水がきれいそうだから川魚とかを食べさせて…。いやいや、山ばかりだからここにしかない山菜とかを食わせてくれるのかな…」
男の想像は膨らむばかり。しかし、この渡された地図はそうとう簡略化されており、男の予想では1時間も歩けば着くとふんでいたのだが、駅前を離れ舗装されたアスファルト道路から山道に差し掛かってしばらく歩くのだが、一向に着く気配がない。それどころか、どんどん山奥に入っていくようだった。
 男の頭には、楽しい想像よりも不安が芽生え始めてきていた。もともと歩きなれていないので疲れはたまる一方、9月だというのに太陽の日差しは強く、体中からポタポタと汗が雫となって吹き出し、男のシャツやズボンに染み込んでいった。
 「本当にこの道でいいのか?」
何度も地図を見るが、一本道で途中に分かれ道もない。間違いはないのだが、いつまでたってもその友人の実家とやらは見えてこない。戻りたくとも今から引き返しても時間がかかるし、何のために来たのか分らない。たまに木々の間を吹きぬける風が何よりも気持ちよかった、それが唯一の助けになった。
 暑さで頭がボーっとする、膝や足の裏が痛い…、ここはどこなんだ…。吐く息も荒く、気力体力共に限界にきていた。日も沈み始め、徐々に西の空が志都美暗さが増していくと、だんだん怖くなってきた。…その時、ふいに小さな灯りと一筋の煙が目に入った。
 「あれか…?」
男がそれらを目指して近づいていくと、だんだんと覚信尼変わっていった。街がいない、あれは家だ、そしてあれが目指すべき家なんだ。ほっと安心し、徐々に近づいて行った。今時珍しい木造平屋建ての古い家、表札もかかっていない。普通なら「空家」だと思ってしまうところだが、ただひとつ窓の隙間から上る煙が、人がいるという何よりの証拠である。
 「こんにちは」
男が戸を少し開け、その隙間から頭を突き出して呼びかけると「はい」という聞き覚えのある変時が返ってきた。目の前に現れたのは、例の友人である。
 「遠路はるばるご苦労様でした、お疲れでしょう、どうぞご遠慮なくお入りください。」
 男が軽く会釈し、家に上がりこむと、友人は男の心中を察したように
 「例の料理ももちろん用意してあります。もうすぐできますので、どうぞ座って待っていてください。」
 そうそう、この料理のためにはるばるこんな田舎まで、しかも山道を何時間も歩いてきたのである。はげかかった畳に薄い座布団、粗末なちゃぶ台の前に座り、今か今かと待ちわびていた。先ほどまでの不安は一気に吹き飛び、今は料理のことで再び期待を膨らませていた。
 「お待ちどうさま」
友人が部屋に入るなり、パッと笑顔を浮かべながら首を上げた。
 「どうぞ、お召し上がりください」
男は面食らった…というよりも目を疑った。友人が盆に載せて差し出したのは、塩ものりもない握り飯とグラスに入った水だった。
 「これが…」
 「どうぞお食べください」
バカにされているのかとちょっと狐につままれたような気持ちで、手にとったおにぎりを一口食べてみた。口に含むと、なんとも言えない安堵感と幸福感があって、夢中になって食べた。中継ぎに飲んだ水も絶品である。夢中になってほおばる様子を友人はにこにこと眺めていた。握り飯と水を全て食べ終えてから
 「いや、素晴らしいですな。確かにあなたのおっしゃるように今までに味わったことのない握り飯と水だ、うまい、うまいですなぁ。この米と水はなんですか、是非教えていただきたいのですが…」
 「米は知人から送ってもらったもので、農薬や除草剤を一切使っておりません。刈り入れ後も機会は使わずに手作業でやっているらしいですよ。水は、この家の井戸から組みました。この山の地下水でしょうね。」
 「はあ…」と男は不満だった。そんなものならば、とっくの昔に男だって口にしている食材である。
 「じゃ、じゃあ作り方に何か秘密があるんじゃないんですか?」
 「そうですね、水はこの井戸の水を使いました。後は御釜を使って焚き火で炊き上げました。炊き上がった後も注意深く蒸らして、よけいな水分がつかないようにしました。」
 「はあ…」それでも納得ができない、そんな作り方は男にとっては何の珍しさもない。
 「あなたは何か隠してますね、そのような材料や作り方なら私も以前食べたことがある。でもこれらの握り飯や水は、そのとき食べたときとは雲泥の佐だ。それだけでこんなにおいしいわけがない、きっと他に何かあるはずだ…」
男の問いかけに友人は黙ったまま満足げににこにこしている。その時、ガタンガタンという音が家の裏から聞こえた。男ははっとして部屋を飛び出し、家の裏手の窓をガラリと開けると、そこに小さく男が始めにたどり着いた駅が見えた。
 「なんだ、駅からけっこう近いじゃないですか。ひどいですね、あんな遠回りさせて…。私がどれだけつらい思をしたと思っているんですか」
男が憤慨すると
 「種あかししましょうか」
とにこにこ顔で話し始めた。
 「あなたは経営者の息子ですよね」
 「ああ」それが何の関係があるのだとちと無愛想な返事をした。
 「ならば、幼い頃から食べ物…、食べることそのものに困ったことは…」
 「ないですね」
 「そうでしょう、そうでしょう」
友人はハハハと笑いながら、なおも続けた。
 「私が生まれてからまもなく、日本は太平洋戦争に突入しました。父の安否もわからず、母や兄・姉と命からがら逃げ出してきたので、何一つ財産も持たずにきました。幼い頃の記憶ですが、はっきりと覚えています。」
 「ふむ」
 「いつもひもじい思いをしましてね、食べるものと言ったらイモだの高粱だの稗だの…米なんかは配給でやっと一人に茶碗一杯食べられるくらいだった。もちろん、何も食べずにいたときもありましたよ。」
男は彼が言わんとしていることが薄々分かり始めてきた。
 「戦争が終わってもすぐに豊になったわけではありませんからね。…でもね、いつも青臭いものばかりたべているとね、たまに配給される米で炊いたごはんだとか、粗末な粉で作った水団なんかもご馳走だった…。生まれて初めて干し柿を食べたとき、こんなに甘いものがこの世にあるのかと感動しましたよ、ごらんのとおりこんな田舎ですから砂糖なんてものもなかなか入ってきやしませんからね。」
 「…そうですな」
 「あなたは生まれたときから食べることに不自由するような環境ではなかったし、そこそこいい物もお食べになっていたのでしょう。時間がくれば、もしくはちょっと原がすけばすぐに食べるものが手に入る。だから、食べられて当たり前だし、『さらにうまいもの』と選ぶこともできた。どうですか、この炎天下の中で数時間とはいえさんざん山道を歩かされてひもじい思いをしたことなんて、もしかしたら希手からなかったんじゃないですか?」
 男は苦笑した。この飽食の時代、食べられて当たり前だし自分の好みに合わせて選ぶことができるようになっていることもしごく自然なことである。それ自体は何も悪くはない、日本が豊かな証拠である。だが、ある意味において「舌が肥える」というのは、味覚が鈍感になってしまったことなのかもしれない。新鮮だとか貴重だとか、そんなブランドばかりに目がいってしまい、本来なら食べることそのものに「喜び」が見出せていたはずなのに、近頃のグルメブームも手伝ってだんだんと思考をこらしたものばかりに目がいってしまうようになってしまっていた。
 「絶対的なおいしさなんて存在しないんですよ。だって、うますぎる料理はいつか必ずあきがきます。それよりも、食べる人の気持ちとか状況とか、その相手の気持ちになって作ってくれたものというのが、その人にとっての究極のメニューなんですよ。…ほんとに曲論的な例えですが、砂漠に放り投げられてしまったのなら、たとえ水道の水でもおいしく感じるものなのかもしれませんよ…」
 友人はハハハと笑った。

ネコの集会

 3匹のネコがいた。彼らはみな野良猫で、住宅街の南側にある神社の軒下をねぐらにし、気が向いたら一人(一匹?)軒下を抜け出してぶらぶらと街を闊歩して暇をつぶす生活をしていた。
 日も落ち、あたり一面が闇に包まれたとき、2つの小さな光がどこからともなく、そしてあちらこちらから現れて、それは6つの光になった、ここに住むネコたちが帰ってきたのである。3匹は夜集まっては昼間見た出来事や手に入れた情報を話すのが彼らの日課になっていた。今夜も神社の片隅でニャアニャアとしきりに何か話し込んでいる。
 「そうそう、今日さあちょっと足伸ばして3丁目の方まで行ってみたんだよ」
と黒く薄汚れている白ネコが話し始めた。仲間内では「シロ」と呼ばれている、なんとなく不機嫌そうである。
 「あそこの交差点にさ、ガラス張りのきれいなペットショップがあるじゃん。なんとなくそこ眺めていたらさ、ショーケースの中に…なんだぁ「アメリカンショート…」なんたらって種類のネコがいてのんびりと毛づくろいしててさ、下の値札見たらよ15万円だっていうじゃねえか!目ん玉飛び出るかと思ったぜ」
 「そんなにするの!」
口を挟んだのは「チビ」と呼ばれている茶色のネコで、3匹の中で一番小さいので、そう呼ばれている。
 「ペット屋で売られてるんだから、まあそんくらいはするわな」
最後に口を出したのが、3匹の中でも親分的存在の「ブチ」と呼ばれる黒い模様が入っているネコだった。シロは続けて話し出す
 「よく見たらさ、その隣のショーケースにはメスのペルシャネコもいて、これまたバカ高い値段がついているのよ。」
 「それで」とブチ
 「店の中から人間が出てきて、おいらのことおっぱらおうとするのよ。まあ野良猫なんかに店の傍うろつかれたんじゃ、あんまり気分よくないかもしれないけどよぉ。踵返すときにふとさっきのショーケース見たらさ、その2匹がものすごーくいやーな目で見るのよ、まるで糞か腐った食べ物見るときみたいに。『私たちはその辺でうろついているあんたたちみたいなネコとは違うの。その証拠にちゃあんと人間からそれ相応の評価をもらっているのよ、あんたなんか1円でだって売れはしないのよ、ふん』みたいに言っているように見えてさ、メチャクチャそいつらに原立ったね!!」
ここまで話すと、シロはもう怒りで身を震わせて爪でカリカリと地面を引っかいた。
 「それはひどいや、同じネコ同志なのに!」とチビ
 「なあ、ちょっと高い値段だからってお高く止まりやがってよぉ」
 「ばぁーか、そんなことでガタガタ言うな。同じネコだからってみんな同じように扱われているわけじゃねえんだよ。」ブチが髭をピンとさせながら、ちょっとさめた調子で言った。
 「だってよぉ、悔しいじゃねえかよ。血糖症があるかないかでこんなに扱いが違うなんて。しかもネコたちにもバカにされてさぁ」
 「そうだよ、俺たちは雑種だよ。雑種だから捨てられたんだよ」
ブチ・シロ・チビにはそろって共通していることがありました。それは以前は人間たちに変われていたけど、ある日突然捨てられた「捨て猫」であるということです。なぜ捨てられたか、理由なんかは分かりません、別段ネコたちにとって理由なんかないのです。引越しとかなんかで飼えなくなったとか数が増えたとかあるのでしょうが、それはあくまでも人間たちの理屈。ネコたちにとっては「捨てられた」の何者でもないのです。
 「でもさあ、それってヘンじゃない?」
チビがニヤニヤしながら話し始めた。
 「血糖症があうRかないかは、生まれてみなきゃ分らないけど、それはさ単に人間が決めたルールにのっているだけでしょ。そのルールがたまたまいいように長保がられているだけでしょ、人間に。」
 「それが重要なんじゃねえか!誰が決めたかは知らないけど、何かルールとか基準とかがあって、それにうまく乗れたり適応できたりするヤツがよくて、その基準から外れたヤツはダメだって札貼られるのよ。」ブチが相変わらずのさめた調子であっさりと言い放った。
 「う~ん…でもね、そんな生まれたところや皮膚や目の色で、一体この僕の何が分かるって言うの?足の早さとかいろいろな裏道知っていることに関したら、シロの方が全然すごいじゃない、そんなショーケースにずっと閉じ込められているようなネコたちなんかより。」
 「それは負け猫の負け惜しみだぜ。『ごはんには不自由しないけど、狭いショーケースに閉じ込められているキミたちよりも、広々とした世界でゆっくりと休めるし体も動かせるし観賞もされない自分たちだって充分幸せよ』って言うのは聞き苦しいし言いたくもないね。どんなこと言っても、所詮野良は野良なのよ。」
ブチはよっぽど人間に捨てられたのが悔しかったのでしょう、傷ついたのでしょう、そして裏切られたと思っているのでしょう。「価値はない」と評価されて捨てられて、自分自身を「価値の内負け猫と開き直っていました。
 「それにさ」と今まで黙って聞いていたシロが口を開いた。
 「すばしっこいとか裏道を知っていることはすごいことかもしれないけど、それを周りのたくさんのヤツに、そして影響力の大きいヤツから評価されないと意味ないじゃん。それなりに運動できるヤツとか頭のいいヤツはたくさんいるけど、そういう実力なんかよりどれだけのヤツに誉められたり長方されるかが重要なんじゃねえの…」さっきの興奮気味とは違い、わりと落ち着いた態度でシロは話した。話し終えると得意そうにしっぽをピンと立てた。
 「負け猫なのよ、所詮は…」
 「まだ負けたわけじゃないよ、だって今日も明日もあさってもずっと生きていくんだから。今幸せだって、いつ不幸になるか分からない、いま不幸せでもいつ幸せがやってくるかも分らない。たったひとつの出来事とか場面だけを見ていいかどうかなんて判断できないよ。本当によかったかどうかなんて、死ぬまぎわになって初めて感じるんじゃないの?」
 「おまえって、ほんとおめでたいくらい楽天的なヤツだなぁ」
とシロが言うと、今までしかめっ面をしていたブチの顔も緩んで、3匹はゴロゴロとのどを鳴らして笑った。
 なんでもそうだ、自分の経験してきたこと・感じていること・頭の中に抱いている先入観があって、ある場面や出来事を目の当たりにした時、「~は…である」というステレオタイプが出来上がる。一度染み付いた思い込みはなかなか抜け出せないものである。餌にありつける日もあればひもじい日もある、ごはんを与えてくれる優しい人間もいれば通りかかっただけで水をぶっかける猫嫌いの人間もいる、暖かなお日様の下で眠れる日もあれば冷たい雨に身が震える日もある、どんなにがんばっても報われない猫もいれば楽して甘い蜜をもらっている猫もいる。たいていの場合、こんなことの繰り返しで毎日が過ぎていくものなのである。
 自分と他のものを比べて「自分は…」となげく必要はないし、他のものを見下してはいけない。大切なのは、どれだけ自分の生き方に自信が持てるかじゃないかなと、ぼんやり軒下のねぐらで思うのである。

お掃除

 「キャッ!」
 ドサドサっと数冊の本が、サイドボードから陽子の足元に落下した。漫画に教科書、文庫本に雑誌と、無造作に積み重ねられたあらゆる種類の本の山は、多すぎる量と忙しく動き回る陽子が起こす振動によってバランスを失い無残にも崩れ落ちた。やれやれと本を拾い集め、まずは本棚の整理に取り掛かることにした。
 本の整理をすると言っても、本棚のスペースには限りがある。しかも具合の悪いことに、もうすでに本棚の許容量を超える量の本がある、CDに関しても同じなのだが…。
 そこで問題になるのは「何を捨てるか」である。たくさんある書籍の中から、丹念に吟味して「これはもういいかな」とか「これは取っておく…」などと、なかなか決断できない。陽子にとって「本を捨てる」というのは、おそらく国会で憲法を改正しようかしまいかと議論するくらい悩むことなのである。取りあえずの打開策としては、「取りあえず取っておこう」と思った雑誌のバックナンバーや文庫本をダンボールにつめ、下の押入れなどにしまい込んでおくことであるが、そろそろそれもやばくなってきた。
 数日前の恋人と過ごしたイブの夜の楽しいものとは正反対に、今は服やらぬいぐるみやらアクセサリーやらが散在している狭いマイルームにいる。これらを何とかしなくちゃと思うたびに「はぁ」とため息が出てしまうのである。
 陽子はきれい好きな女の子である、物を片付けたりするのはあまりいやとは思わない。しかし、陽子の2つの短所が重なって、こういう大掃除はなかなかはかどらないのである。それは、まずむやみやたらに物を買い集めてしまう癖がある。高校生になってアルバイトをするようになって、ある程度収入が得られるようになってから、生まれつきのショッピング好きもあって、どんどん部屋の中に貯めてしまうようになってしまったのである。もうひとつは、あきっぽいのである。特にこういう場合、棚やら何やらからいろいろな物を引っ張り出していくうちに、懐かしい品・お気に入りの品・無くしたと思っていた品などが見つかると、ついつい手を止めてそれに見入ってしまう。録画したビデオテープなんか見つけてしまったときには、もうその時点でおしまいである。これだから長続きしないし、なかなかはかどらない。
 だけど今日は違う。心を鬼にして手際よく本を分け、はみ出した本の処分方法は取りあえず後回しにして、次は服だとばかりにクローゼットの前に立った。
 壁に直接取り付けてあるクローゼットで、奥行きがあってなかなかのものである。左右の観音開きの扉を開けると、きれいに掛けられた余所行き用のスーツやらパステルカラーののワンピースやら、来年の成人式のために祖父母から買ってもらった桜色の晴れ着に混じって、丸まったTシャツやら脱ぎ捨てたままのスカートやジーンズがクローゼットの床面に転がっている。取りあえず何があるのかと物色してみることにした。よくもまあ、古着屋とかユニクロが安くていい物を提供しているとはいえ、こんなにも買い込んだのかと1着1着触れるたびにしみじみと思う。
 たくさんの衣類を書き分けている陽子の手がふいに止まった。
 「うわぁ」
まだあったんだ、そうだよね捨てるはずないものねとばかり、奥から引きずり出したのは中学校のときの制服である。陽子は私立中学校に通っていたのだが、この征服のデザインが気に入っていて、入学するときなんかはこの征服に袖が通せることに心躍るような嬉しさがこみ上げてきたものだった。ちょっと防腐剤くさかったが、ビニールカバーをかけてあったので、塵ひとつついていないし、しわもない。おそらく高校に入る前にクリーニングしてもらったのであろう。
 じっと眺めているうちに、ふつふつと「着てみたい」という欲求が芽生えてきた。別段ノスタルジックに中学生時代を懐かしんでいるわけでもない、ただ久々に見つけた衣服を身に着けてみたい、ただそれだけのものであった。部屋に鍵をかけ、着ているセーターとジーパンを脱ぎ捨て、ちょっとドキドキしながらスカートに足を入れる。胸のあたりがちょっときつかったが、切れないこともない。そろそろと自分の姿を姿見で映してみる。何年ぶりだろう、この姿になるのは。顔つきや体つきはだんだんと大人の女性に近づきつつあるのに、そのアンバランスな格好になんだか照れ笑いを浮かべてしまう、ちょっと不思議な自分。「もう子どもじゃないんだな」とちょっと誇らしくもあり、ちょっと寂しくもあり。
 何気なく上着のポケットに手を入れる。何の気なしにとった行動であるが、指先に硬く小さなものが触れた。何だろうとゴソゴソ探って引っ張り出し、ゆっくりと手を広げてみると、それは少し表面が禿げかかった金色の第2ボタンだった。陽子ははっと息を飲んだ。錆付いた重たい扉が急に開け放たれたような、ほろ苦い感情が胸いっぱいに広がる。いつもらったんだろう、憧れの先輩からか、それともひそかに思いを寄せていたクラスメイトか、それとも…。金のボタンはそれ以上、何も陽子には教えてはくれなかった。でも、なんだか嬉しい、思わず笑みがこぼれるような。もうあの頃には戻れない、そして戻れないあの頃の自分を、この征服は全て知っている。卒業して、もうすっかり会わなくなってしまった人も多い、みんなはどんな気持ちで、そしてどんな人になっているのかな。陽子は、しばらくの間、鏡に映る自分と金色のボタンを見つめつづけていた。

松江塚利樹短編集

松江塚利樹短編集

十数年前に執筆した7つの小説を集めた短編集です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 社会仮病利
  2. ドラえもんの裏秘密道具 自白みそ
  3. お姫様と羊飼い
  4. ノアの箱船
  5. 究極のメニュー
  6. ネコの集会
  7. お掃除