バーチャル・リレーション
1
幸せな一日を予感させる要因は、その日どんな目覚めを迎えたかに大きく左右されるものである。どんな疲労感を感じていても、柔らかな羽毛布団に包まれてゆっくりとまぶたを閉じていく瞬間、全身の力が抜けてだんだん意識も遠のいていく。どんなに仕事が行き詰まっていても、恋や将来や人付き合いなどの悩みがあっても、この時ばかりは全てのしがらみから開放されたような心地よさを感じるものである。
主が眠りに落ちた後の部屋は、時が止まったかのように一切の変化がなく、目覚めるまでほぼ同じ状態を保ち続けている。聞こえるものといえば自分の胸から吐き出される深い寝息だけ、動くものといえば時を刻む部屋の壁掛け時計の秒針だけだ。
ある瞬間から東の空の端が白み始め、静止を保っていた街は徐々に動き始める。窓のカーテンの隙間から差し込む陽光がだんだん長くなり、薄暗い自室にほのかな光が広がり始める。その光の帯が少しずつ地面を這うように伸び続け、枕に頭を静めている自分の顔に届いたとき、目から入る僅かな刺激とその暖かさに感覚が呼び覚まされゆっくりとまぶたを開く。
そんな目覚めを迎えた朝はどんなに前の日に疲れや気がかりなことがあっても、よく眠ったという充実感と新しい一日の新鮮な爽快感が、心身にすっきりとした晴れやかな気持ちを与えてくれる。
だが、これが非常識なヤツからの電話や我が物顔で路上に爆音を立てるバイク野郎の集団、自分で用意したにも関わらず無機質な電子音をかなきり立てる目覚し時計の雑音が突然耳に入るのは、まるでゆっくりとおいしいお茶を飲みソファーで寛いでいた喫茶店から何の前触れも無く突然誰かに羽交い絞めにされ、そのまま地面を引きずられて外に放り出されたような驚きとやるせなさ、そして大きな不快感と少しの怒りの気持ちが交錯するという、なんとも理不尽な気分にさせられる。
今日の僕の目覚めもそういった部類のいわゆる「不快な目覚め」にあたるものだろう。どういうきっかけで目覚めたか、それまでどんな夢を見ていたかも覚えていない。気がついたら意識があったというのが今のところ妥当な表現だろう。目覚めたときの僕は左向きに横たわっていたせいだろう、左の肩から肘にかけてしびれが走り、おまけに額や首筋、パジャマの袖口や襟ぐりにうっすらと寝汗の後がある。すでに夏も終わり、むしろ朝夕は肌寒さを感じるくらいの気候になったというのに……。
枕もとの目覚し時計に目をやると、蛍光塗料で青白くぼんやりと光る数字と針が3時50分を指し示している。夜から朝になろうとしている曖昧な時間だ。
僕の場合性質が悪いことに、一度目覚めたらなかなかすぐに眠れない体質ときている。時間に几帳面な性格と、何に対しても心配性な性格が生んだ悲しい習性なのだろう。たいていの場合は布団にくるまってぼんやりと朝が来るのを待つか、ラジオをつけて適当な深夜番組に耳を傾けているというのが僕のパターンだ。
何となく体が火照っていたので、ぼんやりする頭をもたげながら隣の台所へいき、冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出しペットボトルごとくちに流し込んだ。熱っぽい体に冷たいものが入ると、肩の力がスッと抜けて安堵のため息がもれる。気分が落ち着くと、駅から近いことだけが売り物の築20年のボロアパートのサッシを打ち付ける雫の音が耳についた。キッチンの窓をそっと開け格子の間から外を眺めると、暗いながらも細かな雨粒がたまえなく落ち続けているのが目に入り、すぐ傍の木々の葉に水滴が打ちつけられ跳ね返っているのがよく分かる。いつから降っているんだろう、昨日はそんな様子はなかったのに。
雨が吹き込む前にピシャリと窓を閉め、再び僕は布団にもぐりこんだ。寝つきが悪いのは承知の上だが、何もすることがないのに起きていても仕方がない。かといって眠くもないのに布団の中で体を横たえてじっとしているのはわりと苦痛なものである。これが退屈な会議や単調な事務仕事の時なら絶対に思いもしないことなのに。
いやな目覚め方をしたとき、なかなか寝付けないとき、これから必ずやってくる新しい一日を寝不足のままで過ごさなければならないのかと考えるだけで気分がどんよりと重くなる。そして一人静かな部屋でじっとしていると、その隙を狙ったように徐々に頭の中にじわじわと広がってくるものがある。まただ、またいやな想像ばかりが駆け巡る。これは単なる僕の被害妄想なのだろうか……。
社会人になってからろくなことがない。金銭的な余裕は無くても自由で、、ある意味体たらくな生活をしていても十分やっていける学生の頃だったらきっとこんなこと考えなかっただろう。少なくても今は自分の時間ややり方が100%認められる立場ではない、あくまでも自分の所属する組織がいい方向に動くことだけを考え、それを最優先にして自分の生活スタイルを築かなければならない。でも、学生と社会人、自分たちのポジションが変わっただけで、いともたやすくお互いの関係性さえ捻じ曲げられてしまうものなのだろうか。いや、僕自身がヘンに意識しすぎているだけじゃないのか。その自分の意識や先入観に勝手に自分を振り回して、都合が悪くなると無理やりそっちの方向に理由を結び付けているだけではないのか。いや、全く無関係というわけでもないだろう。
…まただ、また考え始めている、ここ最近はいつもそうだ。ヘンな方にしか結論が持っていけない今、できればこんなこと考えたくないのに、どうしても頭から離したり無視したりできない。僕は再び上半身を起こし、サイドボードの上野充電ボックスに刺しっぱなしにしている携帯電話を手に取り、何かメールが届いていないかチェックすることにした。
寝る時はマナーモードに設定しているから着信しても音は鳴らない。朝起きて携帯メールの受信チェックをするのはすでに僕の日課になっている。とは言っても、友達から頻繁にメールが届くというわけではない。受信すればたいてい数通は入っているが、ほとんどは望まないダイレクトメール、通販の情報や店の案内、卑猥な情報も少なくない、いわゆる迷惑メールの類だ。それというのも、僕は某有名メーカーの携帯電話を使用しているのだが、初期設定でそれぞれの携帯電話に与えられているメールアドレスのIDが、自分の電話番号になっている。こういうダイレクトメールを送る側にとってみれば、適当な11桁の番号、いや頭3桁はすでに決まっているので残り8桁の数字とホストアドレスさえ組み合わせれば無作為に送ることができる。これほど楽なことはないだろう。懸命な人ならば、すでに携帯メールアドレスの書き換え登録を済ましているのでそういう心配は無いが、僕は変更届をするのが面倒なこと、友達など電話番号さえ教えれば自ずとアドレスも覚えてもらえること、こういうメールは確かにうっとうしいが、どうしても避けたいというほど不快には感じていないこと、それらの理由が重なっていまだに初期設定のままでメールアドレスを使用しているのだ。
案の定、今朝も例にもれず宣伝の類のメールばかりだった。人目件名を見て、それらを手際よく削除しながら読み進める。今日も特にめぼしいものはないのかと思いかけてたとき、ひとつのメールに目がとまった。ほとんどの場合件名を書かないので、すぐに差出人が目に飛び込んでくる。それまでとは打って変わって、反射的に中身を開き目で内容を追った。
受信日時を見てみると、「3:33」と表示されている、僕が起きる少し前だ。何とも不自然な時間だが、別段驚くことのほどでもない。僕は考えながらすでに手馴れた指裁きで返信を打ち始めた。
2
結局あれから眠ることはなく、そのまま出勤となった。不思議なのは、いつもより早く起きたからといってゆとりを持って準備に取り掛かれるわけはない。中途半端に目覚めた頭では、そんなにテキパキと行動できるものではない。テレビをつけいつもの番組を流しながら、やかんで湯を沸かし食パンをトースターに放り込みフライパンを暖める。熱せられたフライパンに油を引き、その上にハム・卵を次々と落としていく。油の弾ける音に続いて、香ばしいハムとまろやかな卵の香りが嗅覚を刺激し、朝の食欲をそそる。
ハムエッグの焼き加減がそろそろ頃合のころ、「チン」という歯切れの良い音がしてトーストができあがったことを知らせてくれる。その狐色に焼きあがった食パンを手早く大きめの皿に載せ、続けてフライ返しでフライパンの上野ハムエッグを器用に掬い取り同じ皿に載せた。一人暮らしの身、よけいな洗い物は増やしたくないがための横着である。すでにさきほど沸かしたやかんのお湯でコーヒーを入れ、いつものメニューによる朝食が始まった。
朝のテレビ番組というのは便利なもので、ニュースにしろスポーツにしろトレンドにしろ決められた時間に決められた時間内にそれらの情報を流す。特にいちいち時計を気にしなくても、「スポーツが終わった、そろそろ出かけるか」といった具合に自然とどのタイミングで出かける準備をすればいいかが自ずと身についてくる。僕は空になった皿とコーヒーカップを流しに置き、顔を洗い歯をみがき、髭をそり髪を整え、クローゼットのスーツを鷲づかみにするがごとくひったくると即座に袖を通した。
家を出たのはやはりいつもと同じ時間になってしまった。アパートの前の細い通りを道なりに歩き、一軒家やアパート、駐車場やゴミ捨て場を通り過ぎると、右手に滑り台やブランコなどのちょっとした遊具とペンキの剥げ落ちたベンチが2・3客あるだけの小さな児童公園が見えてくる。その角を公園を横目に右に曲がると駅前の商店街にぶつかる。ここを東の方向に歩けばすぐに駅に着く。いつもならアスファルトや商店のシャッターを照り返す朝の白銀の光を浴びながら液への歩みを進めるのだが、今日はあいにくの空模様、そうもいかない。とは言え、季節は秋、もうすでに薄暗くなりつつある時期なのだが。
都心に向かうのぼり電車、毎朝の事ながら乗車率は半端ではない。今朝も電車がゆっくりとホームに滑り込み、今から乗るであろう車内の様子を伺えば、立っている乗客はみなつり革や手すりにしっかとつかまり、両の足でしっかりと地面を踏みしめている。次々と流れ行くドアのガラスには、どれも一応に窮屈そうに人々の肩や後頭部がぴったりと張り付き、ドアが開閉したら飛び出しそうな勢いだ。それに引き換え、窓のガラスから見える後頭部のなんと優雅で落ち着いたことだろう。ある者は新聞を眺め、ある者は宙を見据え、ある者は船をこぐ。こんな狭い車内にも、はっきりと天国と地獄が分け隔てられているのだ。もちろん僕は地獄雪、ドアが開くと共に乗客の隙間に無理やり自分の体を押し込みはじき出されないようにする。僕が降りるのはこの電車の終着駅だから、どんなに奥に入っても降りるのにはなんら問題は無い。ドア付近より奥の方が若干空いてはいるのだが、結局のところはそんなに大差は無い。しかも今日は雨降り、互いの湿った雨傘がももや脛のあたりにはりつく、乗車する前にちゃんと雫くらいきってもらいたいものだ。僕は、カバンの中から今朝方とどいた新聞を取り出し、空いている片方の手だけで持ち読み始めた。
目的の駅に着いた。小さなドアが一斉に開き、そこから一様に次から次へと人を吐き出す。僕もその流れに乗って歩き出す。複数の路線が交差している乗換駅だから、時折流れが崩れて人が縦横無尽に錯綜し、互いに肩をぶつけながら各々の目的に向かってひた歩く。改札を抜ければ、僕の勤めるオフィスまでは後数分だ。自宅と同じで、駅から近いというのが僕の勤め先の唯一の利点だ。その他にいいところはないのかと聞かれたならば、言葉を無くして考え込んでしまうのが正直なところである。
少々くすんだ灰色の外壁を持つ鉄筋のビル。僕はその雑居ビルの小さなエレベーターホールに歩み寄り上のパネルを指で押した。清潔感のある新しい貸しビルで、まだ5年も経っていないとか。僕が入社するずっと前、このビルの新築と同時にうちの会社が事務所ごと引っ越したらしい。だから、うちのオフィスはきれいで清潔感がある。あ、もう一つ利点があったか。
縦に長い金属質の箱に乗り込み、静かに動き始めると出入り口上部のオレンジ色に光る数字ランプを目で追った。今までいた1階は、某有名コンビニエンスストアが入り、朝・昼・夜と時間を問わずまずまずの盛況ぶりを見せている。こういうオフィス街の中に、いつでもおにぎりだのお茶だのサンドイッチだのと買えるのは、始終仕事に追われ自社の発展のために労力を惜しまない企業戦士たちにとってこれほど便利なものはない。確かに僕も重宝している。…とは言え僕は全てを仕事に預けている企業戦士というわけではないが。
2階は英会話スクールで、テレビ等で大々的な宣伝を打ってはいないものの、電車の中ずり広告ではよく見かける名前だし、街を歩けばたまに看板が目に飛び込んでくるくらいだから、おそらくそれなりに各地に展開しているのだろう。こういったカルチャースクールの類には興味が無いのでただ無知なだけかもしれないが。そういうこともあって、この英会話スクールの講師なのだろう、たまに欧米人と乗り合わせることがある。別段言葉を交わすわけではないが、エレベーターと言う特殊な環境上、そこでたまたま居合わせただけでも妙な緊張感が働き、必要以上に相手を意識してしまう。乗り合わせるといっても、1階と2階、もしくはその逆の間だけ。時間にすれば10秒もないだろう。当然、相手はそんな僕の目線はおかまいなしに、さっさと降りてしまうのだが。
そして3階が僕の勤め先のあるオフィスだ。工場に各種部品を受注発注する重化学メーカーで、社員数も20人に見たないほどの中小企業だ。僕は開け放たれたドアにスッと体を潜らせ「おはようございます」とすでに出勤している数人の先輩や上司に向かっていつもの挨拶の一言を投げかける。そのうちの何人からか「おはよう」とパソコンやら書類に目を向けたままボソリと返してくれる。僕はそのままデスクに向かい、カバンを置くとそのまま備え付けのパソコンに電源を入れ立ち上げる。僕は経理と言う任務上、パソコンに向かったままデスクの上に山積みになっている各種伝票に目を通しそれをデータとして打ち込んだり、必要に応じて請求書や領収書の発行するのが主な仕事だ。出社したら、特に勤務中は必要なこと意外ほとんどしゃべらない。別に職場関係がうまくいっていないわけではない、昼休みには一緒に飯を食べるような仲間はいるし、週末のアフターファイブには上司から飲みに誘われることも少なくない。ただ、入社半年で他に似たような世代のヤツがなく、僕以外は全て先輩社員、しかも一番近い都市の人でも30歳ときている。今まで同年代のヤツとしか付き合いの無かった僕にとっては、どういうスタンスで会話なり距離なりを取ればいいのか躊躇してしまい、どうも言葉少なになってしまう。
午前中は突然追加で受注された部品のやりくりに追われ、半分も終わらないうちに昼休みになってしまった。それぞれが午前中の緊迫した空気から開放され、パソコンの電源を落としたり書類を一まとめにバインダーに閉じこんだりと昼飯の準備を始める。僕は切りのいいところで終えたかったので、みなが片付けている間もなおパソコンにデータを入力し、そろそろ切り上げようかというつもりだった。ふと見ると、いつも昼を共にする先輩がこちらの方をチラチラ観察している、どうやら昼食を誘うタイミングを伺っているらしい。
僕はその視線に気付くと、そそくさと電源を落としたが、すぐには応じず「ちょっと待っていてください」という合図の会釈をし、すぐに廊下に歩み出てトイレの更に向こうの非常階段の踊り場に立ち携帯電話を取り出した。今から真理子のところに電話をするのだ。
真理子は僕の彼女だ。別段こそこそする必要なんかはないはずなのに、やはり職場のデスクから堂々とかけるのはいささか気が引ける。目的だってたいしたことはない。ただ、今日の夜にあって一緒に食事するから、その確認の電話を一本入れたかっただけなのだ。
コンクリートが剥き出しの冷え冷えとした踊り場では、電話の呼び出し音がより一層大きく響く。4回…5回…6回…、「ガチャリと電話が繋がる。
「もしも…」
「こちらは留守番電話センターです。お客様のメッセージをお預かり…」
僕は舌打ちをひとすし、即座に電源を切った。時間は12時10分を回ったところ、真理子の会社もすでに昼休みのはずなのに。最近こういう些細なすれ違いが目立ってきたような気がする。単なる僕の考えすぎだろうか。ある意味、この頃では当たり前となりつつあることだけに、再度電話をかける気にもなれず、そのまま背広のポケットにその小さな電話をねじ込んだ。
3
真理子と出会ったのは大学4年の秋のことだった。取りあえず、付き合った期間に差はあれど、高校のときから「ガールフレンド」と呼べる子とは何人かと付き合っている。4年生のころ、もうその頃には、この厳しい就職戦線に何とか生き残り、今の会社から内定をいただき、後は卒業するばかりと、現在の単位数と受講している講義の出席日数の計算に頭を痛めていた頃だった。
真理子との出会いは、僕の少ない恋愛経験ながらも、今までとはちょっと違った形で訪れた。その年の秋、いまだに付き合いのある高校時代の友達から今度ライヴするから是非来てくれと誘われた。そいつは親しくなった高校の時からバンドに熱中していて、学校の軽音楽部だけでは飽き足らず、どこでどうやって知り合うのか積極的にいろんな人とバンドを組んで活動していた。そんな繋がりもあって、大学に進学した頃にはオリジナル曲を作っては都内各所の小さなライヴハウスにも出るようになっていた。
ただ、アマチュアバンドが場所を借りてライヴをする場合、そのライヴハウスに支払う代金として、ある程度チケットをそれぞれが売りさばかなければならないのである。もちろんノルマに満たなければ、自腹を切る割合が大きくなるわけだ。経済的に苦しいアマチュアバンドマンにとっては、かなり重要な問題である。こういうとき、演奏のうまい・下手なんかよりもどれだけたくさんの友達を持っているかが重要になってくる。そこで彼の場合、僕がチケット購入有力者リストの一人に挙げられ、ライヴの度に来ないかと誘われるのである。
チケットもそんなに高いわけでもないから、僕のほうでも、特にこれといった用事がなければたいていの場合買っているので、彼にとって見れば格好のお得意さんになるのだろう。ただ、僕自身音楽は嫌いではないが、彼が好みやっている音楽が少々趣味に合わない、パンクロックなのである。あの耳を劈くようなギターの音にしろ、下っ腹を突き抜けるようなベースの音にしろ、後頭部を直接打ち付けられているようなドラムの音にしろ、どうも聞いているだけで霹靂してしまう。ヴォーカルの口から飛び出す歌詞も、なんかただ単に今の社会に対する不満とか愚痴とか反発ばかりで、何かついていけない自虐的なものを感じてしまう。元々派手なものや騒がしいものが好きではない性格なので、この手の音楽は理解できないのは自然なことなのだろうが…。だから、僕は純粋に彼のバンド・音楽を楽しむというよりも、単なる彼の友人として付き合っているだけにすぎないのだ。
ライヴが終われば、お約束の打ち上げ。もちろん打ち上げにも誘われるのだが、彼のバンドだけではなく複数のバンドが集まっているオグニバスライヴなので、打ち上げ会場はかなり人も集まり活気付いている。ただ、会場には大勢いるが、結局のところはバンドごとにいくつもの人の輪ができているので、限られた人との交流しかない。そんなに積極的に人の交わりを求めるようなタイプではないので、こういう形のほうが僕としては居心地がいい。
しかし、その日だけはいつもと違っていた。ライヴが終わり、確か下北だったと思うがみんなで駅前の某居酒屋へ打ち上げとしゃれ込んだ。前もって予約をしておいたので、あっという間にお座敷二部屋は満席になり、僕もみなに習って着席した。今回は二つの部屋のふすまを外し、大きな長テーブルを繋げただけのセッティングであったこともあり、いつもの固定メンバーが崩れて各々がバラバラに入り乱れていた。僕の左右前方に並ぶ顔ぶれはあまりなじみはなかったが、一緒にライヴをする対バンはすでに定着している連中ばかりなので、今まで直接口を聞く機会はなかったものの、お互い見かけている顔なのであまり初対面という感じは無かった。
生ビールやサワーで乾杯し、お互いそこそこ酒が入ると口も軽くなり「どうだった?」とか「誰の友達?」なんてフランクに会話を挟める雰囲気ができてきた。こういう時、酒とはホントにありがたい引き立て役である。周りの雰囲気が砕け始めると、友達同士なのだろう、それまで僕のまん前で2人きりでしきりに話していた女の子たちも徐々に意識がこちらに向き、僕らの輪に混ざるようになってきた。真正面にいる女の子だけにしゃべる切っ掛けはないかとずっと気になっていたから、彼女らがこちらに興味をよせてくれたことは実は嬉しかったのだ。
こうなれば進行は早い、会話の中で片方が名前や形態番号やメルアドを教えてくれれば、もう一人からも芋づる式に教えてもらえる。一人の女の子のガードを崩すのはかなり難しいが、ひとつの女の子のグループのガードを崩すのはわりと容易なのである。彼女たちは2人とも、別のバンドのメンバーの友達らしく、やはりよく誘われるそうだ。彼女たちの友達のバンドと彼のバンドはよく対バンするので、彼ら自身は面識があるのだろう。どおりで、何となく顔に見覚えがあると思ったら、前にも見かけていたのだろう。
一頻り話が弾み、解散後まだ時間に余裕があることと帰る方向が一緒ということもあり、僕と誘ってくれた彼と彼女たちの4人で喫茶店でコーヒーでも飲むことになった。始めは4人で和気藹々と話していたが、だんだんとお互いの真向かい同士で話が弾むようになっていた。
彼女は元来話し好きらしく、こちらの話に対して表現豊かに内容を脹らませて返してくれる。その人見知りの無さと明るい態度と発言にとても好感が持てた。彼女も僕の返答に、ショートカットの髪をゆらゆら動かしながらケラケラとよく笑った。
その後は特に連絡をすることも無かったが、一ヵ月後に行われたライヴに彼女もいた。「お久しぶり」と向こうから声をかけてきて、少々戸惑いつつも嬉しくなったのをよく覚えている。その日のライヴ亜もちろん、終演後の飲み会の席でもほとんどずっと2人きりでたわいの無い話に花を咲かせていた。
今回の再開を切っ掛けに、僕らは個人的に連絡を取り合ったり、時間が合えば夕食を共にするようにもなっていた。この頃から、薄々は感じていたが、彼女も僕もだんだんと互いを意識するような関係になっていた。それが真理子だった。
「今までとは違った形」というのは、僕がこれまで付き合ってきた子たちは、クラスメイトであれ部活動であれ、サークル・ゼミ仲間と、いつも限られた集団の関係の中でお互い長い時間を共有する中でお互い関係を深めていく。つまり、別に関係を持つ持たないに関わらず、相手がどう言うヤツかを知る猶予期間がある。この期間、馬が合えば友達からより親しい関係へ、そして更に一歩踏み出してお互いの気持ちが一致すればいわゆる「恋人」となるのだ。順序をしっかりと踏まえている分、お互いをそれなりに熟知もしているしどういうスタンスを図ればいいかも判っているつもりだ。逆に言えば、こういう風にある程度プラトニックな関係の積み重ねが、結果として「恋人」なんて呼ばれるのではないかとも思う。
そういう僕なりの恋愛美学もあって、真理子のようなケースは、「出会い」→「恋人」と一足飛びした感があったので「違った形」と表現したのだ。
単なる僕の考えすぎか、そんな僕の理屈なんかお構いなしといった感じで真理子はとてもあっけらかんとしている。まあ、恋愛を通じてお互いを知るということもあるから、もしかしたら、「出会い」→「友達」→「恋人」という順序の図式があるとしたら、「出会い」→「恋人」は関係を飛び越しているように見えるが、実はただこちらがそれぞれの間柄に名前を付けているだけで、言葉の点から飛び越しているように見えるが、実際の関係としては全く同じ順序を辿っているのではないかとも思い直したりもしている。
真理子も僕も、翌年には卒業を控えた社会人予備軍だ。次の春がくれば、それぞれ学生から社会人へと、飛躍的な変化を遂げる時期になる。そんな人生の狭間、転換期に僕らの交際が始まったのだ。
曇天模様だが、午後には雨はやんでいた。僕は待ち合わせに指定したショットバーで、ペルシアーナ・ハイボールで軽くちびちびとやっていた。アルコール分が少なく、ミントの清涼感溢れるカクテルだ。時間は7時前、飲むには少々早い時間かもしれないが、僕も真理子もお酒が大好物で、お互い一時期バーテンダーぶって自宅でシェイカーを振っていたこともあった。カクテルは僕たちの共通の話題の一つなのである。
この店「bar中沢」も、僕らが見つけた秘密の場所だ。繁華街の大通りから路地を一本隔てたところにあるのでちょっと見は目立たないところに位置しているが、こじんまりとした店内には、いつも僕らのようにカクテルをちびちびなめながら楽しいひと時を送る人たちがいる。マスターも店の繁盛には無頓着な人らしく、店の宣伝をすることは無い。よって、ここに通う常連客は、自分たちだけが知っている「隠れ家」的なスポットとしてカクテルを楽しみ、またそんな秘密を持っていることを心のそこでほくそえんだりしているのだ。
腕時計に目を落とすと、約束の時間を少々過ぎている。ペルシアーナは、もうグラスの半分ほどいただいてしまった。手持ち無沙汰も手伝って、再びグラスを口元に持っていったとき、斜め後ろの法から「カランコロンン」と軽やかなブリキの音がして一瞬夜気が店内に割って入ってきた。
4
「ごめーん、お待たせ」
と、真理子は白い肌に頬を赤く上気させながら店内に入ってきた。そんなに広い店でもないので、躊躇することも無く真っ直ぐ僕のほうに歩み寄り隣に腰掛けた。きっと走ってきたのだろう、息が若干乱れている。目元に掛かった長い前髪をかき上げながらそっと笑みを浮かべたが、その微笑みはどことなく不健康的で不自然な印象すら抱かせた。
「マルガリータ」
メニューから目を上げた真理子はカウンターの奥のマスターにそう注文した。マスターはコクリと頷くと、キッチンペーパーの上に塩をしき、淵にしぼりレモンをつけたグラスをその上におき、テキーラだのコアントローだのをシェイカーに入れ振り始めた。その一連の作業と流れが何とも華麗で無駄がなく、その手さばきたるや、舞の名手のようなしなやかさと上品さがあって、単調な動作ながらもつい見とれてしまう。
「マルガリータです、どうぞ」
差し出されたグラスを満足げに口元に寄せる。熱心にメニューを見ていたわりには、いつも同じ者を注文する。どうやら、最近の真理子のお気に入りらしい。
「あんまり寝てないみたいだね、なんか疲れ気味らしいし」
「そうなの、ちょっと遅くまでね」
グラスの3分の1ほど飲み干し、カウンターに戻しながらそう呟くように言った。口をつけたあたりの淵の塩が剥げ落ち、かわりに真理子のローズ系の口紅が残っているのがうっすらと見える。
「仕事、忙しそうだね。特にここのところは」
「うん、そうね。それでもだいぶ慣れてはきたんだけど、基本的にやること多いから」
「どう、少しはデータベースくらい作れるようになった」
「あ、平気平気。和樹のおかげで少しは使いこなせるようになったわ、ありがとう」
和樹とは僕のことだ。真理子は卒業後、某生命保険会社に就職したのだが、どうやら顧客情報のデータを管理することが彼女の仕事らしい。しかし、そのデータを管理するために使う端末の操作で躓いてしまった。元来、真理子はコンピュータの類はほとんど無縁な生活を送り、大学の卒業論文ですらも百数十枚の原稿用紙にせっせとペンを走らせていたほどだ。携帯電話にメール機能がついているのだろうが、僕の前で誰かにメールを送ったり着信をチェックしているところなんて一度も見たことはない。もちろん、僕は一度も真理子にメールを送ったことなんてない。それくらい、ITには無縁な女なのである。
彼女曰く、やれば便利なのだろうが、そこまで必要性を感じないと言う。物を書くならノートとペンがあれば十分だし、情報だってテレビや新聞・雑誌で事足りる。別段、急ぎの用がそう頻繁にあるわけないし、むしろすぐその場で返事が返ってくる電話のほうが便利だということだった。真理子の物の考え方・価値観が独特というよりも、今の彼女にとって実際にそういうものを必要としない生活スタイルが形成されているのだろう。
でも、この春からその生活スタイルがガラリと変わってしまった。そのひとつが、コンピュータの必要性に迫られたことだ。「ガラリと変わった」とは言っても、単に表計算ソフトに予め用意されているシートの項目にデータをインプットするだけなので、この一人一大、いや複数のコンピュータを使いこなしているような昨今においては、それこそ文字を書く一つの手段として当たり前となりつつある。しかし、なんせまともにキーボードにも触れたことのないような人である。自分に与えられた業務がこういうことだと知ったとき、さぞ青くなったことであろう。
そこで真理子は僕に助けを求めた。僕もそんなにコンピュータについて明るいわけではないが、当時から日常的に使っていたし、経済学部だったこともあって簡単なマクロの組み方くらいは知っている。あまり高いお金は出せないという要望もあって、一緒に中古取扱店で適当なパソコンを買ったり、テキスト代わりになりそうな本を探しにいったことを覚えている。元々飲み込みが早い方なのだがかなりの努力もしたのだろう、連休を迎える前には必要最低限のことはすっかり習得してしまった。だが、自宅に自分専用のパソコンを持ったのにも関わらず、別にインターネットをひくわけでもなく家に持ち帰った仕事以外では使っていないみたいだ。本当に必要最低限でしか使わず、後は相変わらず真理子なりのアナログな生活を送っている。冷静に考えれば、彼女は単に今必要なことが欠けていたからそれを補っただけで、別段興味が無ければそれ以上のことをする必要はないのである。いろいろなことができるからといって、こんな小さな箱に何でもやらせようとすること、そして全てを委ねてしまうこと事態が間違いなのかもしれない。
この頃だろうか、真理子が僕の手を借りなくても自分ひとりで仕事がこなせるようになってから、何となくお互い疎遠になりつつあった。今思えば、これが最初の兆候だったのだろう。
「この間さ…」
と唐突に真理子の口が開く。
「うちの営業に小阪さんっているんだけど、その人がね…」
と自分の職場について話、僕は「うんうん」とか「で、どうなった?」などと適当な相づちを打ちながら会話を運ばせる。
「なんか私もあっけに取られちゃってさあ…、結構信じられないことするんだよね」
と、ひとしきり話す。僕は「ふ~ん、すごいね」などとこれまた適当なことをこぼし、その場繋ぎにグラスを傾ける。先にいただいていたこともあって、僕のグラスは2敗目のサイドカーになっていた。なんとも返答や先の話の展開に困ったとき、目の前のグラスや料理に手が伸びるのが僕の癖だ。今日はそのペースが速い、サイドカーですらももう残りわずかだ。
「どう、最近和樹の方は…」
「そうだなぁ、ぼちぼちだよ」
会話の返答としては最悪極まりないのだが、実際にそうなのである。単調な仕事の内容に不満がないのかと聞かれれば無くはないのだが、それは何となくの欲求不満であって具体的にどうこうというのはない。職場との人間関係だって、可もなく不可もなくそれなりにうまくやっているし、基本的にみんなまじめに仕事に取り組む人たちなので、真理子の会話に出てくるような個性的な人も話も別にないのである。
そもそも真理子が勤めているのは外資系の保険会社だ。僕のように、一つの部屋の中で社員全員が収まり、同じ部屋の中でそれぞれのデスクごとに役割が分担されているような中小企業とはまるで違い、社員数や建物といった規模からして桁違いなのである。交わる人が多ければ、個性的な人・自分とは異なる価値観の中で生きている人と遭遇する機会も多くなることであろう。
「でさ、近いうちに研修の機会を設けて、私にも顧客管理だけじゃなくて外回りもやってほしいみたいなの。会社としては、一人にいろんなことやらせたいみたいなんだけどね、できれば営業ってやりたくないんだよね。うちの場合営業がメインになるわけだけど、どうも会社の利益とかビジネスなんてものに執着がないから、商品を売り込むためにあの手この手を使っていろんなこと言って契約結ぼうってのに、なんか抵抗感あるんだよね。なんか、ちょっとだけ泥臭いもの感じちゃうし。…そもそも、私そんなにうちの会社に愛着ないし」
真理子はケラケラと笑った。僕は再び「ふ~ん」と頷き、グラスを傾けた。ついに2敗目もなくなり、僕は真理子と同じマルガリータを注文した。
「3杯目?ペース早いのね、今日は」
「うん、なんか喉乾いちゃってね。真理子は全然飲んでないね」
「違うよ、和樹が早いだけだよ。それにまだ明日も仕事があるんだもん、そんなにガブガブ飲めないわよ。あんまり夜通しのんびりできるわけじゃないし」
と、不服そうにぼそりと言う。…これだ、こういう少々言葉の端々にとげとげしいというか、相手、つまり僕を突き放すような発言が目立つ。僕が聞き逃していただけなのだろうか、昔はこういうこと言わなかったような気がする。一緒に食事していても、どことなく発言や態度の中に自己本位なニュアンスが含まれ、とても自分のことで精一杯という印象を受けてしまう。真理子自身、僕と会えばしきりにしゃべり続けるが心底会話を楽しんでいるとは思えない。これは僕の主観だが「会ったから何か取りあえず話す」なんて考えてしまう。正直、僕もここ最近は真理子と会っても昔ほど楽しいとは思えなくなっているのは事実だ。
「ちょっと失礼」
と席を立った、トイレに行くのだろう。僕は「そろそろか」と心の中で呟いた。彼女がトイレなどで席を立った後、もう帰ろうと告げられる。話の端を折るきっかけなのだろう、これもここ最近のことだ、意図的なのかそうでないのかは知らないが。僕はすぐさま手持ちのカクテルを飲み干した。
案の定、今日はここで帰ることになった。時刻は9時30分になろうとしている頃、帰るにはまだ早い時間に当たるのだろうが、別段引き留める気にもならなかった、どうせ断られるのは目に見えているんだし。そのまま夜風の吹きすさぶ繁華街を駅の方に向かい、僕は地下鉄、真理子はJRの方に消えた。「またね」とお互い手を振りながら。
地下鉄のホームで、僕は暗闇の中で薄ぼんやりと光に照らされている線路の方に目を落としていた。真理子がいなくなるとなんか寂しくなる。これは会えない寂しさとはまた違う、さっきのことを思い出して、なんとなく楽しくなれなかったこと、うまく運ばなかったこと、そんな後味の悪さからくる寂しさなのだ。最近、俺たちはうまくいっているのだろうか、どうもお互い気持ちがすれ違ったりはしていないか、そして真理子との間に溝を感じちゃいないか…。そんなネガティブな想像ばかりが頭の中を支配する、考えたくないことなのだが。
僕なりに考えるのだが、やはり学生から社会人になって、お互いの環境が変化したせいなのだろうと考えている。勤めている以上、どうしても仕事中心にならざるを得ない、そうでなければ食べていけない。それゆえに、今まで抱え込むことがなかったストレスとかいらだち、それにそもそも環境が変化したことによって人付き合いや役割などに適応するための労力は計り知れないものがある。そう考えれば、自分本位な発送になっても不思議ではない。でも、もう一つ捨てきれない想像として、僕らはひょんなきっかけから交際が始まった。お互いそこそこフランクに接していたとしても、やはりどこかで気を遣ったり、相手に対して気を引いてほしいという努力もあった。時がたつにつれ、そんな気遣いがなくなり、いい意味でも悪い意味でもお互いの存在が当たり前となってきている。そうすれば、相手の今まで見えなかったところ、悪く言えばぼろも出てくるだろう。今まで僕が知らなかっただけで、真理子は元々ああいう風にどことなく粗野でとげとげしい態度の持ち主だったのかもしれない。ある型にはまった関係ができている、もしくはそういう風に表現されるようになった後にこういうことに気づくのはかなり戸惑うものがある。
僕としては後者よりも前者の想像であってくれと切望する反面、どうしても後者の考えも捨てられないものがある。それにもう一つ、第3の想像として、流れとしては前者の通りなのだが、これは単なる一過性のものではなく、確実に僕たちの間の関係性が変化しているのではないか。真理子がああいう態度であるのも、僕が何となくすれ違いを感じているのも、結局はそういう方向に流れているのではないだろうか。そんな考えにたどり着いたとたん、僕は変な脱力感を覚えた。どれも想像だが、元々否定的な方向に走りがちな僕は最後の想像が妥当なような気がしてならない。果たして真実は…。
列車の到着を告げるアナウンスがホームに木霊する。それにはっとした僕は俯いていた頭を上げ、乗車の準備を始めた。その時、背広のポケットからブルリと振動を感じた。
5
徐々に減速する電車を気にしつつも、僕はポケットから電話を取り出した。「やっぱり」とディスプレイに表示されている差出人を一目見るやそう確信した、ヒカルからメールがきたのだ。差出人だけを確認すると、僕はそそくさと形態をポケットにしまい込み、目の前の電車に飛び乗った。さすがに、社内における携帯電話のマナーがうるさく言われている昨今において、今ここで内容を確認するにはちょっと気が引ける。実際には通信するわけではないので大して迷惑にはならないと思うのだが、携帯電話の印象がよくない空間では取り出して手に持っているだけでも周りが白い目で見るような被害妄想に襲われる。まあ、そのくらい気をつけた方がいいのかもしれないが。だから、内容を確認するのは数駅先の乗換駅までお預けとなった。
この携帯電話は僕にとって2機目になる。大学入学とほぼ同時期に購入したのだが、当時はまだ電話機能だけで、差なんてものはどれくらい小さいか、通信は快適か、着信メロディが作れるかなんてところにしかなかった。しかし、自分専用の電話機が持てたこと、そしていつでもどこでも目的の相手にかけることができ、逆にどういう状態でも相手に連絡が取り付けるというのはなかなか魅力的だった。しかし、携帯電話は従来の音声から文字情報の伝達へとその幅を広げた。このころあたりからだろう、いわゆるショートメールやらグラフィックなんかがもてはやされた頃は。いつでもどこでも相手にメッセージが伝えられる魅力に加え、相手に気を遣うこともなく、また自分もいつでも好きなときに受け取れるという気軽さが更に和をかけて、身近な僕の友達連中も次々と機種変更や新規購入をして形態メールが使える電話に変えていった。わりと周囲の雰囲気に流されやすいタイプの 僕も、まだ2年しか使用せず特にどこも故障していないという後ろめたさはあったものの、思い切ってみなと同じものを購入した。それが今使っている携帯電話だ。
最初は限られた友人同士の間柄で、どうでもいい内容から、遊びの約束や待ち合わせの時なんかに利用してきたが、ある日を境に見知らぬ相手からのメールが届くようになった。登録した覚えのない宣伝らしくメールが週に2・3通ほど入るようになっていた。はじめは訳が分からなかったが、友達によれば数字の組み合わせによる単純なアドレスだから、発信元は適当に組み合わせて無作為に送っている、また意図的にアドレスを収集しているところもあるとか。防止するには複雑なアドレスに変更した方がいいと勧めてくれたが、何分無精なたちなので特にこれといった対策を講じることはなかった。
そのうち、宣伝メールだけではなく、見知らぬ個人からも来るようになった、いわゆる「メル友」というやつである。これも、相手は誰でもかまわないからとにかくまずは送ってみて、その後は成り行き次第という、無作為な発信に他ならない。これもきっと思いついたでたらめな数字を組み合わせて送ってきたものだろう。
初めてきたのは「友達になろうよ」という、冷静に考えれば何とも奇妙かつ無神経極まりないものだった。そもそも友達なんて、そう簡単にできたり誘えるものではないだろう。何分、何も知らなかったので少々気味悪く思えたが、いたずらな好奇心もあって、僕の方からもほんの一言だけメッセージを返した。返事はすぐにやってきた、これには正直驚いた。きっかけは相手からにしても、こちらのレスポンスに対してきちんと意思表示を示してくれた。しかも、どこの誰だか分からない見知らぬ人から。
僕は少なからず、この「未知の相手」とのやり取りに、沸き立つ興奮と喜びにも似た感動を覚えたものだ。この時を境に、僕はすっかり「メル友」とやらに嵌ってしまった。この時に得られた感激なんてものは、ただ単に知らない相手との交信がうまくいったというもので、おそらく小さな子どもが手作りの糸電話の紙コップから、遠く離れた友達の声がはっきりと聞き取れた時の感激と同じ種類のものだろう。
だから、お互い送り会う内容なんてたかが知れているもので、単なる「おはよう」や「おやすみ」といったどうでもいい挨拶から、今日は何があったかとか明日は何するつもりだなんて、これまたどうでもいい個人的なことを伝える。不思議なのは、ほとんど見ず知らずの相手なのに、わりと自分のスケジュールといったプライベートなことまで書けてしまうことだ。そして、相手によってはメールの内容から何となく親しみが沸いてきて、メール交換を重ねるうちにどんどん自分の中での相手に対する信頼感や親密さなんかが高まってくる。こうなると、だんだんメールの内容も深くなってきて、自分の身の回りに対する不満や愚痴をぶつけ合ったり、時には悩みをうち明けたり相談を持ちかけるなんてこともあった。
「見知らぬ人」、「自分以外の周囲の人間は全く面識のない相手」、このスタンスが僕にとって都合がよく居心地のよいものであった。人との関わりなんてものは、とかく自分の行動できる生活範囲内で形成されるものである。家族・親類・地域・学校・趣味・アルバイト先等々、そこには必ず集団があって、そこに自分自身がうまく組み込まれることによって人付き合いが生まれる。だから、たいていの場合自分の知人・友人は、同じグループ内の他の人も知っていて、結局のところは小さな人間集団の中に生きているのである。
それに比べて「メル友」とは奇妙な関係である。本当に偶然が呼び起こした出会い。きっと、自分の生活範囲なんか軽く飛び越えた人間と意志の疎通が取れる。他の誰もが知らない、僕とそいつだけの関係。そんな孤立した関係の中に親密感が生まれると、かえって身近な友達よりも率直にうち明けられる気持ちになる。いや、正確に言えば、身近な友達関係だからこそなかなか話せないことが話せる開放感がある。例えば、周りのヤツに安易に「恋の相談」なんて持ちかけたら、どっから話が漏れ広がるか分からない。関係のないヤツまで野次馬根性丸出しで首つっこんでくるだろうし、何よりも気になる彼女の耳に入ったりでもしたら最悪だ。そんな心配のない、ある種の共通の秘密が抱ける間柄だからこそ、気兼ねなく開放的になれるのかもしれない。だから、僕の「メル友好き」は、友人知人、誰一人もしらない秘密なのである。
お互い、そんな「会話だけの関係」を楽しんでいるだけだから、メル友から一歩踏み出して直接会おうなんてことを臭わす発言は、暗黙の了解としてタブーになっている。世の中には、メール交換をきっかけに直接会ったりして関係を深めているケースも少なくないようだが、基本的に僕はそこまで求めない。「メル友」として関係を深めることには賛成だが、それをきっかけに実際に会ったりしようとは思わないし望んでもいない。基本的に、僕はこの「見えない関係」が好きなのだ。曖昧で不可思議で、時として形のない虚像に向かって話しているような感覚もあるけど、ディスプレイの向こう側、目で見るよりも遙か遠くのメッセージだけが実像として残る。重要なのは、お互いのやり取りについて、どれくらいフィーリングが合うか否かであって、乱暴な言い方をすればどういうヤツでもかまわないのである。先ほど、「メル友から一歩進んで」と表現したが、これは「進む」ではなく、関係性の「変化」と言った方が妥当かもしれない。
僕も、相手には自分の肩書き・性別・年齢、そして「カズ」というハンドルネームしか伝えていない。もし、相手が更なる変化を求めてきた場合、たいていの場合早いうちに縁が切れる。まあ、長続きしたと言っても2・3ヶ月くらいで自然消滅してしまうのが関の山である。自分から誘ったことは一度もないが、昨今においてこのようなメル友募集はわりと頻繁にあるので、とっかえひっかえしながら今まで何人とも通信してきた。
そして、今僕の形態にメールしてきた「ヒカル」も、そんなメル友の一人だ。頻繁に誘いがあると言っても、そうやたら滅多らにやっているわけではない。一度に交換するのはせいぜい一人か二人、そして今はヒカルが唯一のメル友である。ヒカルとメール交換をするようになったのは、確か2週間ほど前、まだ20日は経っていないと思う。特に無効は何もいってないし、名前(?)からでは安易に結びつけられないが、柔らかな言葉遣いや感受性の強そうな表現からして、多分女性だろうと僕は思っている。こちらはもう長年の経験を積んでいるから、それなりの距離の取り方や話題の振り方なんてものも心得ているつもりだが、ヒカルの方も慣れっこらしく、250文字というとても少ない数の中に、とても感性豊かで鋭い返信をいつもくれる。時にはわざわざ数通に分けて、自分の思いや考えなんかを一生懸命伝えようとする人だ。その言葉たちが、僕にはとても的確で、メールから非常に頼りがいのある心強さのようなものを感じさせる人だった。
そんなメールを毎回よこしてくれるヤツはとても面白いし、僕の中での信頼感はぐんぐん上がっていったことは言うまでもないだろう。
そして昨晩、おそらくちょうど昨日の今頃、僕は今までくすぶっていた思い、送っていいかどうかとても躊躇していたことを思い切ってメールにしたためた。それは
『突然だけど、込み入った個人的なことだけど聞いてほしいことがある。相談に乗ってとまでは言わないけど、君さえよければ聞いてくれないかな。 カズ』
というものだった。あまりにも唐突すぎるから行き過ぎかなと少々気になりながらも送った数時間後、ヒカルからの返信が返ってきた。それが今朝の早朝3時半過ぎに着信していたメールだ。
『大したことは言えそうもないけど、私でよければお話を聞きます。 ヒカル』
それから一時間もしないうちに僕はヒカルにメールを送っている。
『実は、僕にはつき合っている彼女がいます。もうすぐ1年になるけど、学生から社会人になってからというもの、何か以前とは変わってしまったような、特に最近は強く感じます。うまくは言えないけど、すれ違いを感じるのです。今晩その子に会います。そうすればもっと具体的に言えるかも知れません。そしたらまたメールします。 カズ』
限られた文字数だからと言って、そして目覚めたばかりの頭とは言え、もう少し簡潔に筋の通った文章にならないものかと後々になって反省した。だが、おそらくこれが当時、いや今の僕の率直で簡潔な表現なのだろう。こんな不躾なメールを受け取ったヒカルはどう思うだろう、愛想を尽かしてしまうだろうか。それならそれで仕方がない。
だが、そんな僕の心配にお構いなく、ヒカルは返事をよこしてくれた。僕は目的駅で下車し、連絡通路口につながる改札には向かわず、目の前のホームのベンチに座り、再びポケットの中の携帯電話を取り出した。
『デートはどうでした?かなり微妙な関係らしいですね、ちょっと返事に困ってしまうのが正直なところです。でも、もしよろしければどんな風に変わったのか、どんな時にすれ違いを感じるのか、差し障り無ければ教えてください。 ヒカル』
まあ、あんな内容のメールならばこれが誠心誠意を尽くした内容と言えよう。少なからず、僕はヒカルが無視したり変にはぐらさなかったこと。そして、おそらく単なる興味本位ではなく(と信じている)、ヒカルなりに相談に乗ってくれようとしていることが嬉しくて、ヒカルでよかったと正直胸をなで下ろすような安心感と心強さを感じた。
「どんな風にか…」
と僕はヒカルからの返信を眺めながら、自分と真理子との関係にどんな悩みを抱いているのかをゆっくりと整理し始めた。「教えてくれ」という言葉に甘えて、こちらとしてもできるだけ詳細に伝えねばと思い、複数になってしまうかもしれないが、できるだけ簡潔に、そして詳細な内容を伝えるべく、僕は電話の上に指を走らせた。
6
ヒカルは、最寄り駅から自宅までの十数分の道のりを小走りに向かっていた。左右に広がる折り目正しい一戸建て住宅の群から、それぞれ室内の灯りやテレビの音声がもれている。ひとつひとつの箱の中には、そこで暮らしているという生活感や人のぬくもりに溢れているが、ヒカルが今歩いているこの通りそのものには、人の気配すらも感ぜられない鬱蒼とした静寂と闇に覆われている。聞こえるのはサラサラと鳴く秋の虫の声と、自ら発しているカツカツという靴音だけ。
人っ子一人見あたらない物寂しい住宅街だ、家路への足取りも自然と速まるというもの。ヒカルは、大きく左に曲がりながら傾斜するなだらかな坂道を登り、少々砂埃にまみれて黒ずんでいるフェンスの間を縫ってエントランスに入った。歩みを勧めながら、エレベーターホールの上部の回数を示すランプを仰いだところ、2台のエレベーターは何れも7と9を表示していた。ゆるめていた足取りを再び速め、ヒカルはエレベーターホールを突っ切りそのまま奥手の階段に足を向けた。どうやらじっと待つよりも、階段を使った方が早いらしい、せっかちと言えばせっかちなのだろうが。
1階から2階、そして3階に上がるとそのままフロアの方に進んでいった。左右に同じような間隔でいくつもの金属質のドアが並ぶ。ヒカルは右に曲がり、一番手前のドアの前で立ち止まった。305、どうやらここが自宅らしい。
ドアの前に経ち、鍵を取り出そうと鞄を持ち上げる。すると、「ピロピロ」っと奇怪な電子音が鞄のそこから聞こえだした。もうすぐ10時半になろうとしている時間、こんな静かな夜に、しかもマンションのフロアという場所ではよりいっそう甲高く聞こえるものだ。ヒカルは一瞬ふいを付かれたように動作が止まったが、次の瞬間には鍵を探すのをやめて音の犯人であるところの携帯電話を鞄の奥底から取り出した。ここには非常灯くらいしか灯りとなりそうなものはないが、かまわず形態のバックライトを使ってディスプレイの文字表示を目で追うと、ヒカルは人目確認してそのまま鞄の中に放り込んだ。続けて、手早く鍵を取り出しドアノブにねじ入れ、ドアをさっと開け、できるだけ音がしないようにゆっっくりと閉めるとそのままドアをロックしチェーンをかけた。
靴を脱ぐとすぐ右手は洗濯機、そしてキッチンである。流し台には、朝食の時に使ったお皿やらマグカップやらフライパンがほとんど無造作に放り込まれている。傍らの三角コーナーには、二日分の野菜の皮やら切りくず、卵の殻などの生ゴミがぎっしり詰まっているのを見て、そういえば明日はゴミの日だなと薄々思い出す。
左手は壁で、途中にたたみ半畳ほどのスペースがあり、突き当たりがお手洗い、向かって右側が洗顔ルーム、左手の扉がバスルームになる。玄関から数歩直進すると、フローリングの部屋にはいることになる。たたみに直せば8畳ほどになるだろうか、一人暮らしのワンルームマンションにしては大きめな間取りと言えるだろう。入り口そばのスイッチが押され、室内はパッと明るくなった。
いつもなら、この部屋の主は鞄をベッドの上に放り投げ、堅苦しいスーツから身軽なかっこうに早変わりしそのままテレビのスイッチを入れる。そこからは、ベッドに腰掛けテレビを見るか、留守番電話のメッセージをチェックするか、はたまた流しにため込んでいる洗い物を片づけるか、それはその日の気分によりけりである。だが今日はスーツも脱がずにそのままベッドの上に腰掛け、枕元の灰皿を横に置きくわえたタバコに火をつけた。そして、先ほど鞄の中にしまった携帯電話を引っ張り出し、数回ボタンを押した。
差出人はカズからだった。ドアの前で鍵を探しているとき着信音を聞いた瞬間にもうヒカルには分かっていた。受信日時は10:25、ヒカルはこれより30分以上前にカズへのメールを送っている、きっとその返事が返ってきたのだろう。早速中身を見てみようと思った瞬間、再びメールの着信音が響いた、これにはちょっと驚いた。見るとまたカズからである。きっと、1通じゃ書ききれなかったのだろう。結局、その後のメールも含めてカズから4通のメールが続けて届いた。
『メールをありがとう。まずは出会った時に遡ります。友達つながりで知り合った子なんだけど、すぐにお互いうち解けて仲良くなって、間もなく交際が始まりました。その頃はまだ二人とも学生で、それなりに時間にも気持ちにもゆとりがあったせいか、すごくお互い気兼ねなくつき合えていたと思います。わりと頻繁に会っていたし、二人で過ごした時間はすごく楽しくて分かれる時間になるとすごく後ろ髪引かれるような気持ちがしたし、実際にそんなことを素直に口にしていました。ごめん、続きは次のメールで。 カズ』
『でも、卒業して社会人になり、それぞれが新しいスタートを切ったあたりから、僕らの関係が希薄になったような気がしてなりません。具体的には会う機会が少なくなったり、彼女の態度や発言がどうもとげとげしく感じられて、以前よりもそっけなく思えて鳴りません。僕自身も、何となく自分のことで精一杯になって相手のことに以前よりも気遣えなくなっているって己を振り返って反省するところもあるのですが。3通目に続きます。 カズ』
『環境が変わって慣れていったり、その中で自分の居場所を作るのはとても労力のかかることです、それは僕も同じです。単にこれは、お互いの生活が変わったから起こる一時的なものに過ぎないのでしょうか。でも、ある程度親しく交際していた関係が、こんなことで変貌してしまうものなのだろうか。以前との関係のあまりにも大きなギャップに、単なる一過性のものと割り切れないのが正直なところです。つまり、僕が悩んでいるのは、環境の変化をきっかけに関係が希薄化しているのではないかということです。』
『もしそうだとしたら、僕たちは結局そうなる運命にあったのだろうか。もしそうなら、どうしても打開したい。もし事実がそうなら、それを受け止めることができない。それでこんなメールを出しました。今日のデートもそんな感じでした。あくまでも僕の主観だし、限られた文字数でしか表現できないから、僕の意図していることが言葉足らずで不適切なものだったかもしれません。でも、最後まで読んでくれてとても感謝してます、ありがとう。 カズ』
メールはそこで終わっていた。ヒカルは一気に4通のメールを読み終えると、加えていたタバコを灰皿でもみ消した。すでに吸い殻が一本あるから、これは2本目ということになる。形態をベッドの上に置き、そのまま続けて3本目のタバコに火をつけて、ふうと紫煙を細く吐き出した。しばらくの間、タバコをくゆらせながら天井を見つめて物思いに耽っていたが、タバコをもみ消すやいなや、再び携帯電話を手に取り数十分前のカズと同じように電話の上に指を走らせた。
僕はオフィスにいた。まだ昼休みまでには1時間ほど早いが、どうも目が疲れて仕方がない。少し目を休めようと、今まで打ち込んだデータを保存し、そのまま事務所を出た。目の疲れと共に、どうも頭がぼんやりするので、事務所脇にあるレストルームの洗面台で顔を洗った。ハンカチで顔を拭い、正面の鏡に自分の顔を映すと、案の定頬が赤らみ目の下にうっすらと隈ができている。元々平日は十分な睡眠時間が取れているわけではないが、今日の体調は最悪だった。別に前日の酒による二日酔いではない。
結局、僕が家についたのは11時半近くになってしまった。それというのも、地下鉄のホームのベンチで30分近く時間をつぶしてしまったせいだ。メル友に形態メールを送ったせいなのだが、何せ内容が内容だけに言葉を選び出すまでに一苦労だし、どうしても複数にわたる長いメールになってしまう。また、僕の持っている形態はわりと小さいものなので、長時間チマチマと指を動かすのはかなり辛い作業になる。
それでも、自分なりにはその時に伝えたいことは伝えて、そのまま真っ直ぐに家路を目指した。自宅に着き、風呂だ着替えだとなんだかんだと休む支度をしていた深夜0時頃、ハンガーに引っかけておいた背広のポケットからバイブレーションにしたままの形態の振動が耳に入った。急いでポケットの中の携帯電話を取り出すと、案の定先ほど送ったメールの相手、ヒカルからだった。やはりヒカルも数通に分けて返事をよこしてきた。まあ、ヒカルの場合長目のメールをくれることは珍しくはないのだが。
そのメールを読んで、あまりにもヒカルの指摘が僕の胸に突き刺さるものであり、考えさせられるものだったので、すっかり眠る気分にはなれなくなった。正確に言えば、布団の中で目をつぶってもずっと頭から離れないのである。明け方あたりになって、やっとうとうとと眠り書けたが、すぐに起床時間となり、結局はほとんど無睡状態での出勤になってしまった。
ヒカルのメールの返答に対する僕なりの解釈と、これからすべきことはまだ完全には整理がついていないのが正直なところだ。少々躊躇するところはあるものの、僕は洗面所の前で背広のポケットに手を突っ込んだ。
7
『私の率直な意見です。こういう深い話をするとき、メールって不便ですね。丁寧に状況を書いていますが、それでもまだ真意をつかみきれないところがあります。だから、今回の返事は私の理解したところ、想像するところによりますことを予めご了承ください。まず、とても一方的な見方、ものの捉え方だという印象を強く持ちました。それと同時に、とてもカズ自身が彼女の関係の変化に動揺して、前向きな方向に転じたいという強い気持ちも伺えます。』
『それはきっと、あなたが相手のことを強く思う、好きであるからこそ陥りがちな解釈とも言えます。お互い気持ちをうち明け会った同士でも、必ずしも互いを尊重試合、全く同じスタンスでの関係を保つことは、おそらくありえないものだと思います。恋愛関係だからこそ、相手のことが好きだからこそ、相手にはいつまでも自分の好きな形であってほしいという一種エゴイスティックな欲求もはらむものなのです。むしろ、こういう感情は起こって当たり前だし、この自分のエゴとの葛藤が恋愛を辛くさせている要因とも思います。』
『恋愛感情は独裁欲のようなものとリンクするところがあるのかもしれません。そして、前回のメールの内容に戻りますが、外的な要因、環境の変化が影響しているというのは事実かもしれません。が、ある意味そこに責任を押しつけてばかりではありませんか。前回のメールで一番気になったのは、カズ自身の信条や言動について一切記述がなかったことです。あなた自身一切変わらず彼女との交際を続けていると言えますか。そして、そんな変化に対して積極的に相手へのアプローチを試みましたか。』
『特にそういうことが書かれていなかったので、私の方でそう判断しました。お互いどんなスタンス・距離感でつき合っているかは図りかねますが、カズはとても受け身で「なりゆきのまま」みたいに、自然の流れに任せっきりにしてはいませんか。それは一見寛容的な大らかな態度なのかもしれませんが、それは大きな間違いで、時と場合によっては単なる逃げの手段にしかないのです。もしかしたら、少々強引でも意志を押し通さなければならない場面が時には必要なのかも。』
『彼女との関係が希薄になっていると感じている割には、自然に自分の意図するようないい方向に向かわないかと切望しているのでは。それが、最初に述べた恋愛と独裁欲求の関係に当たるのです。私の指摘が的を得ているのかどうかは分かりませんが、何かしら心に引っかかる節があるのなら、一度整理して相手の子と話す機会を作っては、できるだけ早く。私の意見は以上です。いろいろとお説教臭くなってしまってごめんなさい、それでは。 ヒカル』
「恋愛は独裁欲求…」
「自然にいい方向に向かうように…」
そんな言葉を胸の中で反芻する。言われてみればそんな風にも思える、いや、実際そうだったんじゃないかと指摘されてつくづく感じる。
会う回数が減ったってのは、確かにお互いが多忙になったという事実はあるけど、僕は真理子が仕事に追われているから誘ったりするのは遠慮しようと考えていた。そんな変な気を遣ったりするから、だんだんと疎遠になって躊躇するようになる。その雰囲気が真理子にも伝われば、きっと彼女の方にだってお互いの間に壁を感じさせてしまっていたに違いない。結局は、僕が蒔いた種のような気がする。
「昔ほど楽しくない」と思っていたけど、真理子のとげとげしくなった発言や態度を自分は大らかに受け止めていただろうか。そして、自分も楽しくさせようとする努力や心遣いをしただろうか。それがたまたま、会社に就職したからというタイミングをうまく利用して自分なりに勝手に納得していた。すべては自分をごまかすための言い訳、そして受け身、受け身、受け身…。
そんなことをグラスを傾けながら考えていた。常連客ではあるけど、さすがに2日連続で来たことは今まではない。店に入り僕の顔を見るなり「今日もかい」とマスターは意外そうな顔をして言ったものだ。時間はもうすぐ7時。
「どうしたの急に」
真理子は疲れているのか突然の呼び出しに不服なのか、そんなそっけない態度で僕の隣に座った。昼休み前、僕は真理子のところに電話をかけた。留守電になるかと思いきや、意外なことに繋がり真理子が出た。
「何?まだ仕事中なんだけど」
と小声で冷たく言い放った。僕は今晩会えるか、もしくは今日じゃなくても近いうちに会えないかと彼女を誘った。少々の沈黙の後、「今晩でいいわよ」と了承してもらえた。声色はそんなに乗り気というわけでもなさそうだったが、取りあえず了承してくれたことに僕は安心した。「何で」と繰り返し問いかける真理子に、「その時に」と言ってごまかした。電話南下よりも、直接会って話がしたかった。そうじゃなければ、きちんと伝わらないような気がしてならなかった。
「マスター、マルガリータね」
と今日はメニューも見ずに昨晩と同じパターンで注文した。カウンターにグラスが置かれ、ひょいと手に取りながら「で?」と訪ねた。
「うん…」
と、僕も真理子に習ってカクテルを口に注ぎ込んでごまかした。合うなりこんな話を切り出すのはどうだろうと、いささか躊躇してしまう。わずかな沈黙でも、真理子の機嫌がだんだん損なわれていくような気がする。それはそうだろう、突然呼び出されてこちらがなかなか本題を切り出さないのだから。
「あのな、今日来てもらったのは他でもない、オレたちのことなんだ」
「はあ…」
真理子は気の抜けた返事を返した。
「なんかさ、ここ半年ばかりさ、オレたちどうもギクシャクしているように感じてならないんだ」
「ギクシャク…?」
僕も真理子もお互いを見ていない。二人とも手にしたグラスを揺らしながら、中で揺らめく氷をじっと見つめながら話している。
「いや、ギクシャクって言っても別に関係が破綻しているとかじゃなくて、何て言うのか、すれ違いを感じることが多くなったような気がするんだ、最近」
「すれ違い…」
「今は別に具体的にどうこうってことはないんだけど、なんかこのままほっといてすれ違っていたり考えていることなんかが平行線をたどっているままじゃ、いつか本当に破綻しちまうような気がするんだ、オレたち」
「…」
「そうなったのはさ、オレ、学生から社会人に変わって環境が変わって、それに適応するために忙しくなったじゃん、それは事実だとは思うんだけど。でもさ、そんなことばっかり気を取られて変な気を遣うようになったらさ、なんとなく関係が離れたように感じられて差」
「そっっけなくなったよね、和樹」
「うん。会っていても、なんだか昔とは違うようで差、なんか楽しくなくて。また昔みたいに心の底から楽しくなればいいと思って入るんだけど、自然ななりゆきにばっかり任せているからさ、どうも何にも変化がないとだんだんとそっっけなくなってさ、それは悪いと思っている。真理子には、ずっとオレが気に入る姿であってほしいってエゴもあったし。それに…」
「恋愛は独裁欲求が絡むもんね」
真理子は急にこちらを見やり、そんなことをふっと言った。今までの不服そうな顔色はすっと消え、どことなく勝ち誇っているような笑みすら浮かべている。それはきっと、この言葉に対する僕の反応、同様を見てのことだろう。 「はあ…」
今度は僕が気の抜けたような返事をした。
「どっかで聞いたことがない、この言葉。あ、読んだことないって聞いた方が正しいかな」
僕の動揺は更に大きくなった。
「おまえ…」
「メ・エ・ル」
と口調も明るくリズムを刻みながらささやいた。
「おまえ、あれはおまえの友達だっったのか…」
「なんでそんな回りくどい想像をするのよ」
確かにそうだ。もっとストレートな手段があるし、別に難しいことではない。ただ、僕の気持ちが動揺してすぐには受け止めきれないのだ。真理子は真っ直ぐに僕の顔を見ながら
「ヒカルって、あたしよ」
と、何の躊躇もなくそう言った。僕はぽかんとしてしまい、目の前にいる真理子と、どこの誰かも知らないはずだったヒカルの虚像が頭の中で混乱してなかなか整理がつけられなかった。
「おまえ、メールなんか使えたっけ?」
こんなことを聞くのがやっとだった。
「まあね、登録も操作も簡単だしね」
「なんでこんな真似を」
僕は少々語気を荒げて言った。
「…ごめんなさい。決して和樹を騙したりからかうつもりなんか全然ないの、それだけは信じて」
「じゃあ…」
今までの笑みがすっと消え、真顔で、そしてどことなく悲しげな表情で続けた。
「きっと、あたしも和樹と同じように不安だったんだと思う、あたしたちのことに。確かに多忙に任せて流されるままの生活を送っていたし、疲れていて何となく優しくできなかったりしていた。あたしにもそういう引け目みたいなものを自覚しているつもりだったから、会ったり遊んだり食事したりする機会も減っちゃって、なんか和樹の態度もそっけなくて、昔に比べて冷たいなって思うようになったの。そしたら、なんかあたしのこと嫌いになっちゃったのかなって思うようにもなっちゃって」
「…」
「そしたらね、すごく不安に鳴っちゃって。本当なら、こうして向かい合って話したりするのが筋の通ったやり方だと思うんだけど、なんか怖くてね。ほら、あたしたち本当に出会ってすぐつき合うようになったじゃない。だから、ほとんどお互いの考えていることとかどういう性格なのかってのは全然知らなくて、本当に出会ったときのフィーリングみたいなものから始まったじゃない。実際、つき合いながら知っていくって感じで」
「うん」
「だから、こういう話に持ち込んだとき、どういう反応するのかってのが分からないから不安だったのよ。…それに」
「それに?」
「…それに、真正面から嫌いになったって言われるのがとっても怖かったし…。でね、あたし和樹がいろんな人とメール交換しているの思い出して」
「知ってたのか、それ…」
「まあね。前からよく誰かにメール打っているの見てたし、それにちょっとだけ肩越しに見たことあるんだから「おはよう」だけのメッセージ。あんな挨拶だけなんてメル友以外の何者でもないじゃない。友達にわざわざおはようの挨拶だけのメール出すなんて変だし」
「そっか」
「それで思いついちゃったのよ、あなたのアドレス形態と一緒だって知っていたし。メールで別の人になりすまして、そこそこうまくいったら聞いてみようって。「彼女とかいるの?」ってね。でも、一か八かって賭けみたいなものだったけどね。そしたら、うまい具合に親しくなって、昨日みたいにあたしの聞きたい話が出てきたってわけ。もちろん、こんなに早く都合よくいくなんて思ってなかったからね。私も恋愛に関してはあんまり自信ないけど、それはお互い様みたいね」
真理子は再び一口飲み、僕は頭をかいた。
「こんな姑息なことをして本当にごめんなさいね。他にもいろんな方法はあったと思うんだけど…。そういうつもりじゃなかったんだけど、結果としては騙していたことになるもんね。もし怒ったり傷ついたりしていたら本当にごめんなさいね…。でも、正直昨日のメール見てすごく嬉しかったのよ。あたしだけじゃなくて、和樹も、お互い同じことで悩んでいたんだって分かって。だから、これやってよかったって思ったのも本音よ」
そこまで話すと、真理子はハンドバッグからタバコを取り出し一本口にくわえた。真理子は喫煙者だ。彼女曰く、学生時代酒と一緒に覚えてしまった悪い癖だとか。僕はタバコだけは全くやらないので、これが僕たちの大きな違いのひとつである。
僕は怒っちゃいない、傷ついてもいない。むしろ、真理子の話を聞いていてとても嬉しくなった。今まで心を痛めていたのが僕だけだと思っていたけど、それはとんでもない思いこみで、真理子も僕たちの関係が変わりつつあることに悩んでいたことが分かったからだ。だが、結局はこれもすれ違いの一種なのだろう。お互い同じ悩みを抱えていながら、直接会ってもお互い気づきもしなかった。真理子の思いつきがなかったら、きっといまだに僕たちは同じ悩みを抱きながら分かり合えることもなくずっとすれ違っていただろう。そう思うととても馬鹿らしく、同時にぞっとする感がある。
「きっとね」
とタバコを灰皿でもみ消しながら真理子が続けた。
「以心伝心とか目と目で通じ合うなんてことは、単なるきれい事って言うか、空想の世界みたいにあり得ないことだと思うんだ」
「うん」
「だからさ、気になる人、大切に思う人なら、よけいに口から言葉を出して自分の胸にため込んでいること、頭の中でぐるぐると考えていることを言わないとだめなんだよね、きっと。好きなんだからとか、恋人同士だからなんて思いこんでいたら、何かの弾みで頭で思っている好きとか恋人のイメージとは違うことを相手が起こしたら、そこから亀裂が入っちゃうんだよね、何も言わなかったら。そこで、ちゃんと口に出して言わないと「いけないんだよね」
「うん、そうかも…、いやそうだよね」
真理子はふふんと笑った。
「で、それでなんなの?」
「はあ!?」
「さっき何か言いかけたでしょ。私がメールの相手だって言う前にさ」
「ああ」
と僕は記憶の断片を探り出した。
「いいよ、今更。もう言う必要はないよ」
「ほらぁ!」
真理子は声高に突っぱねた
「今言ったばかりじゃん、何でも言い合わなきゃだめだって」
「ああ、そっか…」
「で、何?」
「多分な、オレ昨日の真理子からのメールを見てからいろんなこと考えたんだ。そしたらさ、オレって以外と嫉妬深い人間なのかもって思ったんだ」
「嫉妬深い?」
「うん。ほら、会社勤めしてからすれ違いを感じるって言ったじゃん。それに、真理子だってオレの態度が冷たくなったとも言ったよね」
「うん」
「今までさ、真理子はすぐオレの近くにいたような気がしてたんだ。気兼ねなく話せて、気兼ねなく会ったりしてさ。でも、社会人になってから、話すことはほとんど職場のことばかりで、正直オレうんざりしていた。そしたらさ、こんな風に真理子が変わったのはきっとあの会社に入社したせいだって思って差」
真理子はアハハと笑った
「ばっかみたい」
「馬鹿みたいだけど、実際そんな風に感じたんだぜ。もし、まだずっと学生のままだったら同じように楽しくいられたはずなのにってさ。もしかしたら、オレは中小企業、真理子は一流企業にいるって劣等感を感じていたのかも知れない、真理子が自分のところの仕事の話をするたびにさ」
「ばっかみたい」
今度は笑ってはいなかった。真理子は僕から目を背け、俯きながら言った。
「ホントに和樹って、嫉妬だらけの焼き餅焼きなんだから」
真理子は顔を上げ笑みを浮かべながら越えたからかにいい、僕の方をポンとたたいた。好きだからこそ、そんなどうでもいい対象にでも嫉妬の気持ちを抱いてしまうのだ。それはきっと、どんなものにも大切に思うものは自分のそばに、そして自分に思いを寄せてほしいと願う独裁欲求、エゴイズムそのものなのかもしれない。
僕らは店を出た。昨晩と同じく夜気が冷たい。僕は隣にいる真理子をちらと見て、そういえばいつからだろうか、僕らはお互い手すら繋がなくなってしまったんだなと思い出した。
僕は少々照れながらも、真理子の右手を握った。真理子が一歩僕の方に寄り添うように近づいてきた。
バーチャル・リレーション