肌と耳だけで触れ合う世界

 こんにちは、この冊子を作った作者で松江塚利樹(まつえづかとしき)と申します。
 「この冊子を読んでいる皆さんは、どんな風に生活していますか?」なんて聞かれたら、どのように答えますか? もう少し分かりやすく質問すると「どうやって本を読みますか?」・「行きたい場所に行くにはどうしますか?」・「どうやって着たい服を探しますか?」とか、「どんな場面で不便さを感じますか?」・「他の人から自分はどんな風に思われていると思いますか?」・「どんなことで悩んでいますか?」とか……。
 これらは、いつも当たり前のようにこなしていたり、あまり意識して考えたことがないので、急に聞かれてすぐに答えられなくても仕方ないことだと思います。逆に言えば、当たり前のことを当たり前のようにできたり、意識しなくてもいいことを考えたりしなければ、わざわざ言葉にして説明したりする必要はないのです。ボクもそうでした、20年くらい前までは。
 今のボクは、耳に入ってくる人の声や物音、手で感じる物の形、足の裏から伝わる地面の様子などから、今自分がどこにいるのか、周りはどんな状況になっているのか、自分の手の届くところには何があるのかなどを判断しながら生活しています。簡単に言えば、生まれつきの病気ととある事故が原因で、10歳のときに両方の目が全く見えなくなってしまい、本当は目で見なければ分からないことを、耳や手や足など、目以外の部分を使って感じたことを頭で想像しながら生活しているのです。
 本当は絶対に必要なものが何らかの事情でなくなってしまうと、当たり前のことが当たり前のようにできなくなってしまったり、意識しなくてもいいことを考えるようになってしまうものです。それは、勉強したり、仕事したり、外に出たりするなどの普通の生活において、特別な道具を使わなければならなくなったり、自分なりの工夫を考え出さなければならなくなったり、映画やお芝居を楽しむ・旅行をする・何かお買い物をすることの面白さや楽しさを味わいにくくなったり、初対面の人と交流をしたり、友達づきあいを深めるなどの人間関係の部分でもやりにくさを感じるなど、様々な場面で面倒なことが起こってくるのです。
 この冊子では、肌で感じるもの、耳で聞こえるものだけの世界で生活してきたボク自身が、これまでの経験を通じて思ったこと・考えたこと・伝えたいことを文章にしてみました。
 ただし、ボク自身は、いわゆる「目の不自由な人」とか「視覚障がい者」とひとくくりにされて呼ばれている人の代表でも何でもありません、単なる一人の人間です。なので、ここで書かれていることが、全ての「目の不自由な人」とか「視覚障がい者」に当てはまることとは絶対に思わないでください。
 つたない文章ですが、これをお読みになっていただいたことで、何かしらの新しい発見があったり、心に残る言葉があったなど、障がいを持つ人について考えるきっかけになれば幸いです。

                         2008年2月 松江塚利樹

人間だから

 ボクはマンガが好きです、特に藤子・F・不二雄先生の作品が。目が見えていた頃は、毎月発売される月刊マンガ雑誌を欠かさず読んだり、お気に入りのマンガ本を友達同士で貸し借りしたり、お小遣いが足りないときなどは本屋さんやコンビニで立ち読みするなど、とにかく暇さえあればマンガばかり読んでおりました。
 この世に星の数ほどあるマンガ作品の中で、ボクが一番好きなのは「ドラえもん」です。「ドラえもん」って、例えば、何か困った問題が起こったり、または、こうなりたい・こうしたいって自分が夢見ていることなどを、便利な道具を使って解決したり叶えてくれるところが一番大きな魅力なんだと思いますが、大人になった今になって思えば、「ドラえもん」がみんなから好かれる理由ってそれだけじゃないなって考えるようになりました。

 藤子・F・不二雄先生の作品には「キテレツ大百科」や「エスパー魔美」のように、便利な発明品や不思議な超能力を使って問題を解決したり夢を叶えてくれる作品はいくつかありますが、「ドラえもん」と決定的に違うところは、キテレツや魔美ちゃんは発明品や超能力を絶対に金儲けや復讐や楽をするためには使わない、つまりキテレツや魔美ちゃんは悪い心を持たない典型的な「いい子」として描かれています。
 一方、「ドラえもん」においては、ドラえもん自身も基本的には道具を金儲けや復讐や自分が楽をするためには使いませんが、いつも道具を借りているのび太は違います。のび太自身は、臆病者だけど心優しく、弱虫なのに正義感が強い少年として描かれていますが、ドラえもんの道具を使って、必要以上にジャイアンやスネ夫を痛い目に合わせたり、ずるをして学校に遅刻したのをごまかしたり、自分は何もしないでお使いや庭の草むしりなどをやってもらったり、道具の力で商売しようとしたり、時にはしずかちゃんにいたずらしたりする一面も持っています。最終的には道具に頼りすぎて、結局のび太がいつもしっぺ返しをくらうというオチで終わるんですけどね。

 一見、ずる賢いことするなとは思いますが、心のどこかでは「なんか共感できるな」ってところありませんか? 自分がしたくないことや面倒くさいことは他の人にやってもらいたい、何もしなくても自由にお金や物を手に入れたい、好きな子に振り向いてもらいたい、自分に意地悪なことをするヤツをギャフンと言わせたいなど、ボクたちの心の中にはどんなに小さくても怠けたり楽したり仕返しをしてやりたいという黒くどろどろした悪い心は必ず持っているものです。そんな悪い心をストレートに表しているのび太って存在があるからこそ、「ドラえもん」って作品は、子どもだけではなく大人にも愛されているマンガなんだと思います。そもそも、のび太がいなければ「ドラえもん」のお話って成り立たなくなってしまいますからね。

 一般的にボクたち、いわゆる障がいを持っている「障がい者」と呼ばれている人たちは、「障がいを持っていても前向きに頑張っている」とか「障がいを持っていても明るくまじめ」とか「障がいに負けずに努力している」なんてイメージを強く持たれているような気がします。それは多分、障がい者に関する伝記や障がい者自身が書いたエッセイを読んだとか、障がい者の体験談に関するテレビ番組を見たときに感じた気持ちなんだと思います。
 当然、上記に挙げたように頑張っている人はいますが、「障がい者」とひとくくりに呼ばれている人全員が前向きに明るくまじめに努力する人とは限りません。ボク自身も一見頑張っているように思われますが、実際は「好きで努力しているわけじゃない。楽できるものなら楽したいし、手を抜くことができれば抜いてもみたい。だけど、視力がないから仕方なく努力しているんだ。だって他の人以上に努力しないと何もできないんだもん」というのが本音です。だから、時々頑張ることに疲れるといじけたりひねくれたりだらけたりもします。だけど、ある程度時間が経つと「このままではいけない」と気づいて、また地道な努力を続けていくようになる、そんなことの繰り返しです。

 そして、今や「差別はしてはいけない」ということが強く言われてはいますが、ボクたち障がい者でも、他の障がい者に対してさげすむような発言や態度をする人がいることは否定できません。「障がい者」と一言で言っても、体のどの部分に障がいがあるのかによって、できること・できないことが違ってきますし、生まれつき障がいを持っているのか、また、ある程度年齢を重ねてから障がいを持つようになってしまったのかによっても、できること・できないことが違ってきます。
 当然、得意なこと・不得意なことは人それぞれ違います。例えば、視覚障がい者の場合、白い杖または補助犬を使うことで怖がることなく一人で自由に歩ける人もいれば、なかなか勇気が出なくて一人では外を出歩けないとか、通勤や通学など決まった道じゃないと不安で歩けないという人もいます。そういうとき、時として障がいを持っていても自由に歩ける人は、障がいが原因でなかなか出歩けない人のことを「あいつはろくに外も出歩けないダメなヤツ」などと、できる人ができない人に対して、みくびるような発言や態度をしてしまうことがあるのです。

 ボクたちはよく「障がい者」という言葉を使って、ある特定の人たちをひとくくりにまとめて言うことがありますが、これはあくまでも、立場をはっきりさせたり、障がいのある・なしを区別するために使っているだけであって、皆さんと同じ「一人の人間」ということには変わりありません。
 人間だからこそ、障がいのある・なしに関係なく、優しい人もいれば冷たい人もいる、明るい人もいれば暗い人もいる、あたたかい人もいればいじわるな人もいる、努力する人もいれば怠ける人もいるといったように、ボクたち障がい者もいろんな性格の人がいて当然なのです。

 多分、同じ人間なのに「障がい者」とか「健常者」なんてグループを作って、自分たちとは違う存在みたいなイメージを作ってしまっているからこそ、お互いの気持ちや言いたいことが通じなかったり、誤解や勘違いを起こしてしまったり、間違った思い込みが生まれてしまっているのでしょう。このお互いのグループを壊して、一度「同じ人間」として考えれば、誰しもがのび太のような優しさと正義感とちょっと悪い面が入り混じった人間ということがおのずと理解できるのではないでしょうか。

できること・できないこと

 ここでひとつ質問があります。「もし、あなたの目が見えなくなったら、何ができなくなると思いますか?」と聞かれたら、おそらく「本が読めなくなる」とか「テレビが見られなくなる」とか「目的の場所にたどり着くのが難しくなる」など、わりとすぐにたくさんの答えが返ってくると思います。
 では、「もし、あなたの目が見えなくなってしまったとしても、何ならできると思いますか?」という質問に変えたら、おそらく何も答えられなくなってしまうか、答えたとしても、「何ができなくなると思いますか?」と聞かれて答えた数よりも少ない答えしか返ってこないと思います。
 それならば、ボクたち目の見えない人は、全く何もすることができない人、または、できないことばかりで、できることが少ない人ということなのでしょうか?

 ボクが盲学校(今の盲特別支援学校)に通っていた頃、こんなことがありました。盲学校では、中学・高校でも給食があり、おかずをお皿に盛り付けたり、おみそしるやスープをおわんによそうなどの配膳は、当然目の見えない生徒もやっていました。一見見えないとこぼしてしまいそうな気がしますが、おたまを使って汁物をおわんに入れたり、トングを使ってハンバーグやコロッケを掴んでお皿に入れるのは、目が見えなくても安全かつ確実にできることなのです。なので、中学校の3年間はなんの問題もなく給食の配膳をしていました。
 中学を卒業後、同じ盲学校の中にある高校へ入学しました。同じ盲学校といえども、当然中学の先生と高校の先生は違います。ここでも給食があったのですが、高校でボクを担当した先生は、目の見えない生徒にはおかずの盛り付けや汁物をよそうことはさせず、パンや牛乳やお箸やスプーン配りしかさせようとしませんでした。
 ある時、ボクが汁物をおわんによそおうとしたとき、先生から「こぼすといけないから、やらなくていい」と言われました。中学生の頃は毎日のようにやっていたし、一度もおわんからこぼしたこともないのに、ヘンなのと思ったものです。

 ボクが勤めている職場でのことですが、郵便で送る封筒にハンコを押す仕事があります。このハンコは、うちの職場の名前や住所が入っているもので、たて2cm・よこ5cmくらいの四角い大き目のハンコでした。
 これを封筒に押し付けるわけですが、ハンコが大きいので、均等に力を入れないと、右半分が押せてなかったり、左下が欠けてきれいに写ってなかったりするのです。ボクには、ボクの仕事を手伝ってくれる補助アルバイトがいるのですが、その人がきちんと押せていないハンコを見て「椎野さん(ボクのこと)にはハンコ押しは無理ですよぉ、私がやります」と言いました。
 ボクはこの言葉にものすごくカチンときて「ハンコ押しくらいできるよ!」と心の中で呟き、それからおうちに帰って地道に人知れずハンコ押しの練習をしました。そのおかげで、きれいにハンコ押しができるようになり、その後補助アルバイトから文句を言われることもなくなりました。

 人が何かしらの病気や事故で障がいを持つようになってしまった場合、まず最初に思うことは「○○をすることができない」ということです。確かに、障がいを持っていない状態と比べれば、目が見えなければ文字の読み書きができない、耳が聞こえなければ話をしても通じない、足が動かなければ出歩くことができなくなります。しかし、これらはボクたちが勝手に思い込んでいるだけで、本当にできないことなのでしょうか?
 障がいを持たない状態と全く同じようにすることはできませんが、目が見えなくても、「スクリーンリーダー」と呼ばれる、パソコンから音声を出してくれるソフトを組み込めば、ワープロで活字の文章を書くことができるようになりますし、スキャナーを使えば、ある程度の活字の文章を読み取ることもできます。耳が聞こえなくても、ペンと紙を使って、お互いの伝えたいことを活字で書き表せば、ある程度の言いたいこと・知りたいことを理解することができます。足が動かなくても、車椅子を使うことで、ある程度移動することができますし、車の運転免許が取れれば遠くへ外出できるようにもなります。

 「障がいを持つと、できることがなくなってしまう」と考える原因としては、「もし、自分の体のどこかに障がいがあったら」と、自分自身に当てはめて判断したのだろうと思いますが、これは大きな間違いです。
 なぜなら、例えば、あなたが目隠しをした状態で白い杖を持ったとしても、歩きなれた場所でも怖くてなかなか歩けなかったり、見知らぬ場所に目隠しをしたまま一人で行くなんてことは絶対にできないと思います。しかし、ボクは白い杖さえあれば、別に怖がることなくスタスタ歩けますし、見知らぬ場所にたった一人で行くこともしょっちゅうしています。ちなみに、今までたった一人で行った最も遠い場所は、夏に大阪の関西国際空港から飛行機に乗って、北海道の函館と札幌を一人旅したことです。
 実際、障がいを持つと全くできなくなってしまうことがあることも事実です。しかし、一般的には知られていないだけで本当は問題なくできることもありますし、自分自身の努力や工夫でできるようになることもあります。また、特殊な機器を準備したり、周りにいる人たちがちょっと配慮をすることでできるようになることもあるのです。

 ボクが思うに、「できない」と決め付けて押し付けたほうが、健常者にとっては楽なことなんだろうと思います。それは、「できない」と決め付けてしまえば、健常者の側から障がい者について考えたり勉強したりする必要がなくなりますし、何よりも障がい者を社会から仲間はずれにして、健常者にとって都合のいい人間だけを集めるいい理由になるからです。
 「できない」ことを見つけたり決め付けることは簡単です。しかし、「できない」と決め付けることはその人が持っている知識なり能力を発揮する機会を奪うとともに、その人が今後成長する可能性を奪うことにもなります。
 「できない」ことばかりを見つけるのではなく、障がいを持っていても「できる」ことを見つけたり、可能性を伸ばす方法を見つけられるセンスを持っている人が増えれば、もう少しボクも生活しやすくなると思います。

言葉の力

 ボクは音楽が好きです。お好みのアーティストが奏でる歌声や演奏や雰囲気を楽しむということもありますが、歌詞の内容に共感したり励まされるなど、単なる趣味に留まらず、新しい考え方に気づかせてくれたり、自分の気持ちを明るくさせてくれたり、もやもやした心を落ち着かせてくれたりもします。特に、THE BLUEHEARTS(ザ・ブルーハーツ)とMr.CHILDREN(ミスター・チルドレン)と篠原美也子さんの作る歌詞は、ボクの心の支えと言っても過言ではありません。
 例えば、ボクは一時期、朝起きるとなんとなく憂鬱な気持ちになって、あまり職場に行くたくないなと思うことがあったのですが、仕事をしなければならないので休むわけにはいきません。そんなとき、ボクは毎朝Mr.CHILDRENの「終わりなき旅」の歌詞
        難しく考え出すと結局全てがいやになって
        そっとそっと逃げ出したくなるけど
        高ければ高い壁のほうが登ったとき気持ちいいもんな
        まだ限界だなんて認めちゃいないさ
を聞いて、毎日自分を励まして出勤していました。
 言葉って、意味の中に伝えたい思いや励ましたい・頑張ってほしいって気持ちが含まれているから、耳にしただけで自分の気持ちにも影響を与えるのだと思います。逆に言えば、心の奥底に隠している気持ちや思いが、ふいに言葉になって現れるのでしょう。

 ボクが一人で外出すると、たくさんの人から声をかけられます。ほとんどがたまたま通りかかった人なのですが、たまに「○○してあげましょうか」と言う人がいます。見知らぬ人に声をかけるだけでもものすごい勇気がいるのに、しかも助けてくれるのですから、その気持ちにはとても感謝しますし、このような人がいてくれるからこそ、ボクも安心して外出を楽しむことができるのですが、「あげましょうか」と言われると、ちょっと引っかかるものを感じます。
 「あげる」と他の人から言われると、なんとなく大人が子どもに言っているようなイメージと重なって、時として何もできない生まれたばかりの小さな子どもみたいに思われているんじゃないかと思ってしまいます。

 また、ボクが大学生の頃、とある商店街を歩いているときに、白い杖が自転車に引かれて折れてしまいました。自転車に乗っていたおばさんに「弁償してください」と言ったところ、「目が見えないくせに一人で歩いているからこういうことになる」と言われ、警察にもつれていかれましたが、警察官にも同じようなことを言われ、結局弁償してもらえず、泣き寝入りでした。
 「目が見えないくせに」と言われると、「元々できもしないことを無理やりやっている」とか、「障がい者が健常者に文句言うなんて生意気だ」みたいなものを感じてしまいます。「ドラえもん」ののび太も、いつもジャイアンやスネ夫に「のび太のくせに」とわけの分からない文句を言われ、さぞかしボクと同じような悔しい思いをしていることでしょう。

 「差別はしてはいけない」と言われれば、おそらく全員「そうですね」と答えると思います。しかしながら、実際は、明らかに差別するような発言や態度をすると、周りの人から、自分自身が悪く思われてしまうから「しない」というのが正しいような気がします。ボク自身も、いまだに無能扱いされているような発言、ボクのことをさげすむような態度をされることがありますが、そのような発言・態度をしている人自身は、全く悪気がないので、自分の不適切な発言や態度になかなか気づくことができず、かえってやっかいな問題だといえます。

 一方、言葉の持っている意味があまり良くないので、言葉を変えることで周りの人の意識を変えようとしていることもあります。
 例えば、「盲」という字は、「目を亡くす」と書くことから、差別用語の「めくら」のような印象を与えると、いやがる人がいます。そこで、「盲」という字をやめて「ブラインド」とか「視覚障害者」と変えていることがあります。
 そして、「障害者」の「害」という字は、害虫とか損害というように、「いやなもの」という意味合いがこめられているので、いやがる人がいます。そこで、「害」という字をひらがなにすることがあります。

 しかしながら、ボクたちが普段「障害者」と書いているとき、果たして障がいを持っている人に対して「害をもたらす人」のような差別的な意味合いをこめて使っているでしょうか? どちらかといえば、ただ単にこの字が使われているので、あまり意識せずに書いていたので、ボクも「害」という字そのものをいやがっている人がいることは全く知りませんでした。

 ボクは思うのですが、意識や気持ちが変わることで、他の人に対する言葉遣いも変わってくるということはありえますが、言葉遣いを変えることで、他の人に対する意識や気持ちが変わるというのはなかなかないんじゃないでしょうか。
 「盲」や「害」という字を使わないことで、障がいを持っている人がいやな思いをしないようになるのなら、それはひとつの改善といえます。しかし、これは単に障がいを持っている人が個人的に満足しているだけであって、実際には何の解決にも結びついていないのではないでしょうか。

 ボクたちは、別に自分たちにとって丁寧な言葉遣いで話してもらったり、こちらが不愉快になるような言葉を使わないでほしいということだけを望んでいるわけではありません。普段どんなに丁寧な言葉を使おうとも、その言葉を発している人の意識や気持ちの中に、障がいを持っている人について間違った思い込みがあるのならば何の意味もありません。

 ボクたちにできることは、言葉の見た目を変えることではなく、自分たちの言葉を使って、周りにいるたくさんの人たちに、自分たち障がいを持つ人の立場、困っていること、改善してほしいこと、知っておいてほしいことを伝えることを重ねて、少しずつ周りの人たちの意識や気持ちを変えていくことではないでしょうか。

瞳に写るグレイ

 10数年前、THE BLUEHEARTS(ザ・ブルーハーツ)というロックバンドがいました。このバンドの代表曲のひとつに「青空」という歌があるのですが、この歌に出てくる歌詞
          生まれたところや皮膚や目の色で
          一体この僕の何が分かるというのだろう
ボクはこの歌詞が大好きです。

 ボクは10歳のときに、生まれつきの病気ととある事故がきっかけで、目が悪くなってしまい、病院に入院して、数回の手術を受ける中で何度も目にメスを入れましたが、結局治ることはなく、ボクの目は両方とも見えなくなってしまいました。
 他の人に聞いてみたところ、今のボクの目は、黒目の部分が薄くなって灰色のようになり、一見すれば「この人は目が悪いんだな」と分かるそうです。
 そういう目になってしまったため、通りすがりの人などがボクの目を見ると違和感があるらしく、時々小さな子どもから「ヘンな目」とストレートに言われたこともありました。
 また、言葉には出しませんが、大人でも、わざわざ覗き込むようにしてボクの目をじろじろ眺める人もいるようです。ボクは見えないので、そういうことをされていることそのものが分からないのですが、一緒に歩いている友達なんかから「自分じゃないけど、ああいう失礼なことをするヤツを見ると、こっちまで不愉快になる」と言う人もいました。

 ある友達は「不思議な色したきれいな目」と嬉しいことを言ってくれる人もいますが、おそらく多くの人は、「自分とは違うな」とか「ヘンだな」とか「珍しいな」とか「気持ち悪いな」と感じることでしょう。人間は、美しいものを好み、汚いものをいやがるものであり、なおかつ、自分自身で「それが普通」とか「これが当たり前」と思い込んでいるものと違っていると、なんとなく興味が芽生えて珍しく思ったり、自分とは関係ないものとして遠ざけようとするものです。

 目が他の人に与える影響はとても大きいと思います。なので、ボクの目を見て「ヘンな目」とか「気持ち悪い目」と思われることは、ある意味仕方ないことだと割り切っています、思われてあまりいい気持ちはしませんが。
 しかし、きっかけはあくまでも「目を見たときの印象」だったにもかかわらず、その印象がどんどん変わっていって「ヘンな目」→「ヘンな人」とか「気持ち悪い目」→「気持ち悪い人」というように、いつのまにかボク自身の性格とか人柄なんかを勝手に判断されてしまうことがよくあるのです。

 目の色だけではありません。確かにボクのように目が見えない人は一般的には「ヘン」と思われるような行動や態度をしてしまうことがありますが、これは目が見えないことが原因で、何かを探していたり、何かを分かろうとしていることが勘違いされていることも少なくないのです。

 ある日のこと、ボクが一人で電車に乗り、つり革につかまろうとしたときです。たいていの場合は、真上に手を上げればつり革またはバーに手が触れるので、特に問題なく探し当てることができるのですが、このときは真上に手を上げても何にも触れることができず、何度も空振りを繰り返してしまいました。
 すると、同じ車内にいた大学生くらいと思われる人たちがクスクスと笑い出しました。周りから見れば、いい大人が電車の中で片手を上げてフラフラしているのですから、それは奇妙な光景に思えたことでしょう。ボクとしてはつり革につかまりたかっただけなのですが、残念ながらボクのしたいことはこの姿を見ただけでは伝わりません。結局、恥ずかしさに耐え切れず、つり革を探すのはあきらめて、何もつかまらないままひたすら電車のゆれに耐えていました。

 もうひとつ、ボクはとある施設のロビーにいました。そのロビーにはたくさんのソファがあったので、ボクは座ろうとして、白い杖を使って空いているソファを探しました。
 ちょうど誰も座っていないようなところが見つかったので、手で触って位置を確認しようとしたとき、誤って他の人の太ももに触れてしまい、お兄さんから「なんですか!」と言われてしまいました。
 相手がすぐにボクの目が見えていないことを分かってくれたので、あまり大事にはいたりませんでしたが、相手にしてみれば、突然自分の体を触ってきたヘンなヤツとして驚いたでしょうしいやな思いをしたと思います。不幸中の幸いは、相手の人が女の人じゃなくてホントによかったということです。

 これらの2つの話にも出てきましたように、実際の行動としては、ボクは確かにヘンなことをしています。しかし、それぞれ「つり革につかまりたいんだけど、どこにあるか分からない」・「誰も座っていないと思ったので手で触って確認しようとした」という、ボクにとってはきちんとした理由があってしたことなので、ボクの事情も知らないで、たまたまそういう行動を見ただけで「ヘン」と思われるのは、正直あまりいい気持ちはしません。
 おそらく、こんな風に、他の人の思い込みによって「この人はちょっとヘン」という判断が少しずつ積み重なっていくことで、いわゆる誤解とか偏見とか差別なんてものに繋がっていくのじゃないかなと思っています。

 ボクたち人間は、どんなちょっとしたことでも、頭を使っていろいろなことを想像することができる生き物です。この想像する力があるからこそ、他の人の立場や気持ちや痛みを分かろうと頑張ることができたり、何か解決する方法はないかと考えることができるのです。しかし、この想像する力も、時として「思い込み」や「勝手な判断」のきっかけとなり、ゆくゆくは誤解や偏見や差別に結びついてしまう危険性も含んでいるのです。
 少ない材料で考えるよりも、できるだけたくさんの材料を使っていろいろなことを想像する力がある人が多くなれば、もしかしたら、ボクももう少し生活しやすくなるのかもしれないです。

ダメ人間

 ボクのように目が見えなくなると、例えば、テレビドラマや映画を見ていても、台詞や声による説明がないとどんな風に話が進んでいるのか分からなくなることがありますし、仕事してお給料もらいたくても、就職試験すら受けさせてもらえないこともありますし、使いたい電化製品があっても、液晶画面を見なければ使いこなせないこともありますし、テーマパークなどで絶叫マシーンに乗ろうとしても、安全上の理由から乗車を拒否されることもあるなど、いろいろな場面で他の人と同じように楽しめなかったり、仲間に入れてもらえないことがあります。
 このように、目が見えないということは不便になるだけではなく、使いたくても使えない・やりたくてもさせてもらえないなど、他の人と比べて「損している」という思いを味わうことになるのです。
 だからといって、社会はボクのような障がいを持った人を完全に無視しているわけではありません。例えば、一部のテレビ番組に「副音声」と呼ばれる声の説明をつけてくれたり、映画館では、障がい者の場合、チケット料金を半額にしてくれたり、電化製品には、ボタンの部分に点字をつけたり、音声が出るようにしてあるものがあったり、生活に必要な機器や道具ならば、役所の福祉サービスを使って無料または少ないお金で買うことができたりと、できるだけ「損している」という思いを減らすために、会社や役所などが頑張ってくれています。
 しかし、残念ながら、ボクはごく一部の障がい者だけと思いたいのですが、このような障がい者に対する割引サービスを悪用したり、「特別扱いされて当たり前」と勘違いして調子にのっていたり、一人の人間としてちょっと情けないことをする障がい者もいるのです。

 鉄道会社によって違いますが、例えばJRでは、乗車距離が100kmを超える場合は運賃が半額になりますが、100km以内ならば他の人と同じ運賃を支払うことになっています。ただし、一人で外出するのが難しく、どうしても家族や友達などに介助をお願いしなければならない場合、乗車距離に関係なく、障がい者本人と介助する人がそれぞれ半額に割引されます。
 しかしながら、乗車距離が100km以内で、たった一人で電車に乗るにもかかわらず、半額の運賃しか払わず、そ知らぬ顔で自動改札機を通って運賃をごまかす障がい者がいるらしいです。

 多くの電車やバスには「優先席」と呼ばれる席があり、主に立っているのが難しい障がい者・足腰の弱いお年寄り・妊娠中の女の人などがいたら、優先的に座れる席とされています。
 それなのに、例えば、白い杖を持っているけど、別に足腰は丈夫で立ちっぱなしでも問題なさそうな人が「ここ優先席なので、どいてください」と言い、無理やり座ろうとする障がい者がいるらしいです。

 駅やお店の前など、たくさんの自転車が止めてあることがあります。ボクのように目が見えない人が歩いていると、時々体や白い杖がぶつかって倒してしまうことがあります。このとき、明らかに自分が倒したと分かっているにもかかわらず、知らん振りしてさっさと歩いてしまう障がい者がいるらしいです。

 ボクは自分自身が障がいを持っているので、わりと障がいを持った人と話したり、話しているのを聞いたりする機会が多いのですが、たまに彼ら・彼女らの発言の中に、「障がいを持っているんだから割引されて当然」とか「障がいを持っているんだから特別扱いされて当たり前」とか「障がいを持っているんだから他の人が助けてくれるのが普通」というようなことを感じるのですが、これは大きな間違いです。
 最初にも書きましたが、障がいを持つことは、生活していく中で、不便さを感じたり、損をしたという思いをする場面がたくさんあります。そんな状況を少しでも良くしていくために、社会に訴えていく活動は必要ですが、調子にのりすぎて「障がい者なんだから」と、自分たちの持っている「障がい」を武器にして相手に振りかざしてしまうと、結果として自分たちの首を絞めてしまうことにもなりかねません。
 例えば、先ほどの自転車の話について、人が歩く道の上に自転車を止めているほうが絶対に悪いとは思います。しかし、人様の持ち物を倒しておいて知らん振りしてもいいという理由にはなりません。考えてみてください、もしあなたの持ち物が、他の人によって落とされたり倒されたりしてしまい、なおかつ、知らん振りされたらどうでしょうか。路上駐輪のように自分のほうに悪いところがあったとしても、やはり落とした・倒した相手に対して腹が立つと思います。
 また、その現場にたまたまいた人は、知らん振りして立ち去る人を見て「あの人は自分が倒しておいて何もしないで行っちゃった」と飽きれてしまうかもしれません。

 ボクも歩いているときに自転車を倒してしまうことがあります。正直「面倒くさいな」とは思いますが、知らん振りをせずにちゃんと元通りにしようとします。そうすると、ほとんどの場合、たまたま近くにいた人が駆けつけてくれて「私が直しておきます」と言ってくれたり、時には「こんなところに止めておくほうが悪いんだよね」と言ってくれたりと、ボクに悪気がなかったことを分かってくれるのです。

 ボクのように目が見えない人は、時々、周りにいる他の人は見えていて、自分のことを見ているということを忘れてしまうことがあります。半額の料金で電車に乗ったり、無理やり優先席に座ろうとしたり、自転車を倒しておいて知らん振りできるのは、自分のしていることは、周りの人は見ていない・気づいていない、または、他の人から注意されたりしなければ大丈夫と勝手に思い込んでいるからだと思います。
 一番怖いのは、本当は周りの人は気づいているのに、見て見ぬ振りをされていることです。人としておかしなことをしているのに何も言われなければ、その人のためにならないだけではなく、もしかしたら「障がい者はルールも守れない」とか「障がい者はわがまま」などと、一人の障がい者のしたことによって、全ての障がい者の印象が悪くなる危険性もあるのです。そう思われてしまったら、ボクたちはますます生活しにくくなるでしょう。

しまなみ海道から見た景色

 突然ですが、ボクは人の容姿を見分けることのできる耳を持っています。「ウソつけ!」と突っ込まれそうですが、持っているんだから仕方ないじゃないですか。(笑)

 ボクが大学生だったときの話です。ある日のこと、ボクは友達と2人で、とあるアマチュア劇団のお芝居を観に行きました。ちなみにその友達は健常者です。
 受付でチケットを渡してフロアへ入場。オリジナルの脚本による2時間のお芝居を楽しみました。帰り道、ボクと友達は、先ほど観たお芝居について話していたのですが、ふいにボクは
 「でもさぁ、お芝居に出ていた女の子たちよりも、受付にいた女の子のほうがかわいかったよね」
と言ったところ、その友達は「どうして分かるの!?」と、ものすごく驚いていましたので、「オレの耳は、人の容姿を見分けることができるんだ」と言ってやりました。「ふ~ん」と、友達は分かったような、分からないような、キツネにつままれたような顔をしていました。

 友達がものすごく驚いていたことから、きっとボクの言うとおり受付にいた女の子はかわいい人だったのでしょう。もちろん、ボクとしても当てずっぽうに言ったわけではなく、心の底から「この人はかわいい」と思ったからそう言っただけです。
 では、なぜ目が見えないボクが分かったのでしょうか。おそらく、ただ単にボクと友達の女の子の好みが同じだった、または、かわいい人は見た目だけではなく、目には見えない魅力をかもし出している、または、実際の容姿とは関係なく、その人の声色とか言葉遣いとか態度とか雰囲気など、見た目以外の部分でボクが「かわいい」と判断した、これら3つのどれか、または全部なんでしょうね。

 別の話ですが、2003年の春に一人でしまなみ海道を旅行しました。しまなみ海道とは、本州と四国を結ぶ橋で、広島県尾道市から、瀬戸内海に浮かぶ島々を経由して、愛媛県今治市まで通っています。
 以前、しまなみ海道を旅行した友達から話を聞いていたので、機会があればぜひ行ってみたいなと思っていました。ボクが一人で旅行するときは、安全で面白い旅にするため、目的地までの行き方・目が見えなくても楽しめる観光スポット・おいしい料理を食べさせてくれるお店・その地域のおみやげ物など、インターネットやガイドブックを使って徹底的に調べるのですが、最初はしまなみ海道を歩いて渡ろうと考えました。しかし、調べてみると、しまなみ海道は全長約60kmもあり、とてもじゃないけど一人で歩いて渡るのは難しいので、しまなみ海道を走るバスを使うことにしました。

 そして当日。天気は快晴、目の前に広がる瀬戸内海、ボクはバスに乗ってしまなみ海道に入りました。しかし、一応目的のしまなみ海道を渡っているものの、窓を開けることもできないので、実際はただ単にバスにゆられているだけです。このままでは何も面白くないし、しまなみ海道の雰囲気も味わえないので、思い切って終点のひとつ手前の停留所で降りることにしました。事前の調査では、その停留所は橋の上にあり、陸地まで約1.2kmと歩ける距離で、なおかつ、欄干を伝っていけば安全にたどり着けると考えたからです。
 下車後、なんとか歩行者専用道路を見つけることができました。あたたかな日差し、吹き抜ける風、遠くから聞こえてくる船の汽笛、どれもただバスに乗って通過しただけでは感じることのできないものばかりです。ボクは欄干の上から首だけを出し、遠くを見るようなかっこうになったとき、自然と「きれいだな」って思いが湧き上がってきました。

 もちろん実際の景色を見てそう感じたわけではありません、なんたって元々目が見えないのですから。おそらく、普段生活している都会を離れ、瀬戸内海の真上といういつもとは違う環境で、お天気に恵まれ、周囲には人の気配がなく、海風に吹かれることで、普段は味わえない開放感と、この大自然がおりなす雰囲気が、目の見えないボクに「きれいだな」と思わせてくれたのでしょう。

 「きれい」とか「美しい」とか「かっこいい」と感じるのは、人や物や景色などを目で見てはじめてそう思えるものです。それならば、ボクのように目が見えない人は、「きれい」とか「美しい」とか「かっこいい」と感じることができないと思われるかもしれませんが、それは大きな間違いです。あくまでも、ボクたちは目が見えないだけであって、「きれい」とか「美しい」とか「かっこいい」と感じる気持ちや心は他の人と同じように持っているのです。
 確かに、目が見えないので、本当はきれいなのにうまく感じ取ることができなくて、つい見逃してしまっていることはたくさんあるでしょうし、逆に、見た目はそんなにきれいではないのに、何かを感じ取って「きれいだ」と思い込むこともあるので、必ずしも他の人と同じような感想を持つことができず、「本当に分かっているのかな?」と誤解されることがあります。

 ボクは最初に「人の容姿を見分けることのできる耳を持っています」と書きましたが、相手の声色や言葉遣いなどで、その人の髪型とか顔の形とか目・鼻・口などの大きさとか肌の色を見た目通りにイメージすることができるということではありませんし、そんなことは絶対に不可能です。
 人や物や景色などの「きれいさ」・「美しさ」・「かっこよさ」などは、大部分は目で感じるものではありますが、それらが持つ魅力は、わずかかもしれませんが目以外の部分でも感じることができるものだと思っています。きれいだと思えたり、美しさを味わったり、かっこいいと感じることのできる気持ちや心があるならば、そう思える感覚そのものを大切にしていきたいと思っています。
 そして、できる限り、音や声や匂いや手触りや雰囲気などから、そういう感覚を感じられるよう、本を読んだり、映画を見たり、音楽を聞くことで、ゆたかな想像力と磨かれた感性を持てるようになりたいです。

ボクなりの幸せ

 山田洋次監督の映画「学校」にも出てきましたが、「幸せ」ってどういうものなのでしょうね。
 映画「学校」は、都内のとある夜間中学を舞台にした物語で、長年この夜間中学で教えている先生と、いろいろな事情を持った生徒たちとの触れ合いを描いた作品で、ボクのお気に入り映画のひとつです。
 映画の中で、クラスメイトの死をきっかけに、「幸せってなんだろう?」と話し合うシーンがあります。その中で、家庭環境が原因でグレてしまった女の子が「幸せってお金じゃないと思う。苦労していたとき、幸せなんて感じなかった。それが、この学校へ入ったときから私は生きる望みを感じるようになったんだ。これが幸せっていうんじゃないのかな」と言うのです。

 ボクは10歳のときに目が見えなくなってしまいました。それからのボクは目を使わないで、手や足や耳を今まで以上にフル活用して生活してきました。しかしながら、この世の中は新聞や雑誌などを読んで情報を得たり、色合いやデザインや値段なんかを確認してお買い物をしたり、車や段差や電柱に注意しながら街中を歩いたりと、目を使わなければならない場面がとても多いです。
 大人になった今でもボクは時々周りから「かわいそうにねぇ」とか「見えないと大変だねぇ」とか「目が見えていればそんな苦労しなくていいのにねぇ」なんて言われます。どうやら周りの人はボクのことを不幸だと勝手に決め付けているみたいです。
 もしボクが不幸な存在ならば、盲学校(今の盲特別支援学校)に通っている人や、街中を白い杖や補助犬を使って歩いている人全てが不幸な存在と決め付けていることにもなるのではないでしょうか。

 確かに目が見えなくなったとき、ものすごく落ち込みました、楽しみも減りました、面倒くさいと感じる場面も多くなりました。でも、目が見えないことが不幸と決め付けるのは大きな間違いです。
 例えば、自分で車を運転してドライブすることが好きな人が、ある日突然、事故か何かで目が見えなくなってしまい、もう二度と車を運転することができなくなってしまったら「不幸である」と考えるかもしれません。しかし、この考えはただ単に「車を運転すること」と「目が見えないこと」のみを結びつけて「不幸である」と決め付けているだけであって、もしその人が車を運転すること以外に、好きになれたり、夢中になれたり、面白さを感じられるものを見つけることができれば、その人は決して不幸な人とはいえないと思います。

 ボク自身、マンガ本を読むのが大好きだったので、目が見えなくなったときは、楽しみがひとつ減ってしまったとへこみました。しばらくの間はずーっとへこんだ気持ちを引きずっていましたが、人間どうにもならない立場に追い込まれたとき、意外とあきらめがつくもので、その後時間が経つにつれ、目が見えなくても楽しめる音楽への興味が芽生え、ロックやパンクやメタルやポップスなど好きなアーティストのCDを買い集めたり、友達と一緒にコピーバンドをするようにもなりました。また、目が見えていた頃はあまり小説や物語を読むことがなかったのですが、暇なときに聞いていたカセットテープの録音図書を聞いたり、図書館でやっている対面朗読サービスで本を読んでもらったり、覚えたての点字で読書をするようになってからというもの、小説・物語・エッセイ・学問書の面白さに気づき、それがきっかけで、自分が想像したことや考えたことを文章にする楽しさにも目覚めました。

 正直、ボクだって目が見えないよりも見えたほうがいいに決まっているし、もし見えるようになるのなら何百万円出してもいいと思っています。でも、残念ながら今の医学では、ボクの目を見えるようにすることは不可能なのです。
 それならば、目が見えないという変えることのできない事実を受け入れて、この状況で幸せな人生を創っていくしかないと思いました。「幸せ」とは、どんな立場であろうとも、生きている間は「幸せになるための努力」を続けなければならないし、障がいがあっても「幸せになるための努力」は他の人と同じようにできると思っています。

 そもそも、他の人が自分のことを「あなたは幸せな人だ」とか「あなたは不幸せな人だ」と決め付けることそのものがバカげていると思いませんか。
 他の人はたいていの場合、ある一人の人間のことについて、その人がどういう人なのかあまり知らないくせに、ほんの一部分だけを見て、「この人は○○だ」と決め付けることが多いように思えます。障がいを持ってしまったことそのものは確かにいやなものです。しかし、そのことばかりに目がいってしまうと、その人自身がどういう気持ちでいるのか、何を考えているのか、どんな良さを持っているのかなど、分からないまま見逃してしまいます。そして、結果的にお互いの気持ちがすれ違ってしまい、誤解や勘違いを招くことにもなりかねません。

 何か限られた物事だけを取り上げて「○○だから幸せ(または不幸せ)」という決め付けは絶対にできません。何をもって幸せと感じるのか、不幸せと感じるのかは人それぞれに違いますし、毎日の生活の中でも、昨日はいやなことがあったけど、今日はいいことがあったというように、ちょっとしたことで感じる気持ちも変わってきます。
 生きてくってことは、そんな幸せな気持ちと不幸せな気持ちの繰り返しではないでしょうか。

 ボクは今でも幸せになるためには、どんなことを勉強していけばいいのか、いろんな人たちとの出会いの中でどうやって自分のことを知ってもらおうかなど、小さな努力を積み重ねています、時々いやになって怠けることもありますが。
 大切なのは、どんな立場でも、どんな状態になろうとも、自分自身で努力したり、他の人に助けてもらうなどして、「生きる望みを感じることができる」というのが幸せの第一歩なんじゃないかなと、映画「学校」を見て思いました。

障がいと人付き合い

 ボクたち人間は、普通は目が見えて当たり前なのです。しかし、ボクのように、病気や事故で両方の目が見えなくなってしまったらどうなってしまうのでしょうか。
 分かりやすい例のひとつとして、アイマスクを使って目隠しをした状態といわれることがありますが、これはあくまでも例であって、普段目が見えている人が、アイマスクを使って目隠しをしても、病気や事故で両方の目が見えなくなってしまった人と同じというわけではありません。
 確かに、アイマスクをすれば、本が読めなくなる、怖くて歩けない、行きたいところにたどり着けないなどの経験をすることはできるかもしれませんが、アイマスクさえはずしてしまえば、また目が見える状態に戻ることができるのです。しかし、病気や事故で両方の目が見えなくなってしまったら、ほとんどの場合もう二度と目が見える状態に戻ることはなく、目が見えない状態で一生過ごしていかなければならないのです。

 目だけではなく、人が体のどこかに障がいを持つということは、今までできていたことができなくなってしまったという悲しみと苦しみを感じなければなりません。人によっては、その悲しみや苦しみによって、ものすごく落ち込んだり、部屋に閉じこもりきりになったり、家族や友達にやつあたりするなど、とても気持ちが乱れてしまいます。そして、時間をかけて悲しみや苦しみと正面から向き合ううちに、少しずつ気持ちも落ち着いて、障がいを持ちながら生活していこうと思うようになるのです。
 しかし、障がいを持ったことによる悲しみや苦しみは、いつまでも心の中に残っており、普段は落ち着いていても、ちょっとしたきっかけで、再び悲しみや苦しみを感じてしまうことがあります。ボクも障がいを持ってから20年近く経ちましたが、いまだに悲しみと苦しみを感じることがあります。悲しみや苦しみの原因が、本が読めないとか、怖くて歩けないとか、行きたいところにたどり着けないというのなら、はっきり言ってそんなものは大した問題ではありません。そんなものなら、頑張って点字を覚える、図書館に行って読んでもらう、白い杖や補助犬を使って一人で歩く訓練をする、通りすがりの人に案内してもらうなど、いくらでも解決する方法があるからです。

 ボクが一番苦しんでいることは、他の人との付き合い方、つまり、どうやったら仲良くなれるのか、お互いの状況を分かり合うことができるのかということなのです。
 ボクは目が見えないので、耳で聞いたもの・手などで触れたものから周りの状況を判断しています。逆に言えば、触れていない・音や声が聞こえなければ、どんなにボクの近くにいても、ボクにとってはそれは「いない」と同じことなのです。
 時々、近くに誰かがいるような気配は感じますが、それが目的の相手なのか分からず、もじもじしてしまうことがあります。本当に誰もいなければ、声をかけても独り言を言っているだけになるし、見知らぬ相手だった場合、お互い気まずい雰囲気を感じてしまうこともあります。
 逆に、ボクの友達などが傍にいるのに、ボクが黙って何も反応しなければ、相手にはボクの機嫌が悪いのか、それともただ単に愛想がない人なのかと思ってしまうことでしょう、それは全くの誤解なんですけどね。

 ボクが一人で歩くとき、今どのあたりを歩いているのか、白い杖がぶつかったものは電柱か、それとも段差かというように、必ず頭の中に自分で作った地図を想像しながら歩いています。また、パソコンを使って仕事しているときも、音声を聞きながら、きちんと正しい漢字に変換されているか、カーソルはどこにあるのかなど、レイアウトを想像しながら書類を作っています。なので、ボクが何か作業をしているときは、ものすごく集中しており、頭の中は今やっていることでいっぱいの状態なのです。
 そんな状態なので、道端や仕事中に突然友達なんかが声かけてきても、心の準備ができていないので、すぐに応対できないことがあります。相手にしてみればごく自然に声をかけたつもりかもしれませんが、ボクにしてみれば、突然予想もしていなかった声が、何の前触れもなく自分の耳に入ってきたという状況になります。そして、ボクは声と友達の名前が一致しないことがあるので、時々誰が話しかけてきたのか分からず、戸惑ってしまうことがあります。

 たくさんの人と付き合っていると、時として、自分が気づかないうちに人の心を傷つけてしまうことがあります。特にボクのように障がいを持ってしまった人は、相手にしてみれば何気なく発した言葉や態度にしか思っていないかもしれませんが、それが原因で傷つけられてしまうことがあります。
 相手が「よかれ」と思ってしたことが、ボクにとってはよけいなお世話だったり、迷惑だったり、「バカにしてるのか?」と思ってしまうことがあります。逆に、「障がい者なんだから」とか「甘えている」とか「努力が足りない」など、必要以上のお説教をもらうことがあります。

 残念ながら、世の中にはどうしてもボクのような目の見えない人の立場を理解できない、もう少し突っ込んで言えば、本人は理解しているつもりでも、間違った思い込みをしていて、それを改めようとしない人がいるということが、たくさんの人と付き合ってきて分かりました。そういう人には、こちらがいくら言っても聞く耳を持ってくれないので、ボクは傷つかないための予防線を張って、できるだけ自分の心が乱れないように自己防衛しています。
 「傷つかないための予防線」とは、「この人はちょっとな……」と思った人とは、できるだけ関わりを持たないよう、無口になって必要以上の会話をしないことで、よけいな発言をさせない方法です。できることならば、ボクだって、こんなバカげた予防線なんか張らず、全ての人に対して素直な気持ちをぶつけていきたいと心から思っています。しかし、障がいを持った状態で自立しようとしたとき、まだまだ社会はボクのような目の見えない人を受け止めきれる力がないなと感じる場面がたくさんあります。今思えば、社会人として仕事についたときから、この予防線を張ることが多くなったような気がします。
 皆さんも、自分の心が壊されないように、何かしらの予防線を張って、心を守ることはないでしょうか?

こころの傷

 転んでひざをすりむいたり、誤って刃物などで皮膚を切ってしまうと傷ができます。体のどこかに傷ができると、血が出たり、じんじんと痛んだりと、とてもいやな思いをしますが、薬を塗ったり、ばんそうこうを張ることで、いつしか痛みも治まり、傷口もきれいにふさがって、傷があったことすらも忘れてしまいます。
 しかし、一度心についた傷はなかなか忘れることができず、いつまでも自分の中に重たくのしかかってくるものです。そもそも、心に傷ができるとはどういう状態で、どういうことをされたらついてしまうものなのでしょうか。

 ボクは生まれつきの病気と、とある事故がきっかけで、10歳のときに両方の目が見えなくなってしまいましたが、このことが原因で心の傷ができるようになったのは、盲学校(今の盲特別支援学校)を卒業して、一般の大学に入った18歳のときからでした。
 もちろん、目が見えなくなってしまったことでへこんだり、どうやって生活していけばいいんだろうって不安もありましたし、この先どうなってしまうんだろうって恐怖感もありました。しかし、そんな気持ちを盲学校という特別な環境が忘れさせてくれたのです。

 学校は、1日の大半の時間を過ごす中で、クラスメイトなど多くの人と付き合い、日直や係など自分に与えられた役割を果たしたり、学校やクラスで決めたルールを守ったり、時には学級委員長や班長を中心に団体で取り組んでいかなければならないなど、学校に通っている生徒にとっては生活の中心となる場所であり、ひとつの独立した社会といってもいいと思います。
 盲学校という社会は、「目が見えない・見えにくい」ということが当たり前とされています。通っている生徒は全員目が見えない・見えにくい人ばかり、学校内は廊下などに点字ブロックや凹凸のついたシートが張ってあるので、白い杖や補助犬がなくても迷うことなく安全に一人で目的の教室などに行くことができる、教科書や図書館にある本はもちろん点字、理科の実験などで使う温度計や電圧計は音声が出る、社会科の時間などに使う地図帳や地球儀は立体になっているので触って分かるなど、目が見えないことで損をしたり、仲間はずれにされたり、不愉快な思いをするということはなく、ともすれば、自分が障がい者であることですら全く意識していませんでした。
 つまり、盲学校のように、自分が暮らしている社会が「見えない人」を受け入れてくれれば、目が見えないことでいやな思いをするということはないのです。

 高校卒業後、ボクは都内の一般の大学に通いました。今までは障がい者として障がい者の通う学校に行っておりましたが、大学からは、障がい者として健常者が通う学校に行くことになったのです。当然のことですが、普通の大学なので、この大学に通っている学生の多くは体のどこにも障がいを持っていない人ばかりです。学生への連絡はほとんど掲示板、授業中に配られるプリントは全部活字の文書、学生食堂はセルフサービス、広くて分かりにくい校舎の造りなど、何も障がいを持っていない人にとっては特に問題はないことばかりなのですが、大学に入ったことで「ボクは目の見えない障がい者だったんだ」ということをまざまざと思い知らされたものです。
 特に苦労したのは他の学生との付き合い方なのですが、一応「差別はしてはいけない」ということはみんな知っていたので、ストレートにいやがったり、明らかにバカにするようなことは決してありませんでしたが、ボクのことを他の人とは違うものとか、自分とは関係ない立場の人みたいに扱われることがありまして、一人の人間・一人の男・一人の大学生として他の人に受け入れられるまでかなりの時間がかかりました。
 一番辛かったのは、サークルやゼミなど、何かの集団に入れてもらおうとすると、どことなく他人行儀な振る舞いをされてしまい、よく言えばお客様扱い、悪く言えば望まざるよけいな人みたいな扱いをされているような気がして、居心地の悪い思いをしたことです。ボク自身、目が見えていない自分がいることで迷惑をかけるんじゃないのかなって引け目みたいなものも感じていたし、実際に足を引っ張ってしまう場面もありました。

 しかしながら、出会ったばかりの頃は他人行儀で、どんなに不愉快な思いをしても、毎日顔を合わせて、無理やりでも一緒に活動していけば、そのうちボクと相手の気持ちがほぐれて、お互いの心を開くきっかけが生まれてくるものなのです。
 そして、足を引っ張っていた自分が、何かしらの役割を果たせるようになったり、他の人の力になれたときはとっても満ち足りた気持ちになり、いやな思いもしたけれども、諦めずに一緒にいてよかったと心から思えるのです。

 ボクにとっての心の傷とは、「目が見えない」という障がいを持ちながら、見えていることが当たり前の世の中で、何とか頑張って生活していこうとしているのに、なかなか自分の思いが他の人に伝わらなかったり、不公平な扱いをされて泣き寝入りしたり、時には他の人の態度や言葉でいやな思いをすることでできているのだと思います。

 残念ながら、今の医学では、ボクの目を見えるようにする方法が全くなく、この目が見えないという状態で一生過ごしていかなければなりません。おそらく、これからもこの社会で生活し続けていく限り、たくさんの心の傷ができてしまうと思います。傷つくことはとてもいやなことですが、傷つくことを怖がって、何も挑戦しない、外に出ようとしない、他の人と交わることをやめてしまったら、多分喜びも満足感も得られない、つまらない人生になってしまうと思います。
 ボクはこれまでにたくさんの人と出会い、いろんなことに挑戦してきたつもりです。そして、この社会の中で他の人と同じように生きていこうとすればするほど、たくさんの心の傷ができました。心の傷に負けてへこたれたり、いじけたり、ひねくれたことも少なくありません。でも、それに耐え抜いたときに得た嬉しさや人間関係は、ボクの人生にとって何にも変えることのできない大切なものとなりました。
 これからも自分のペースで地道に生きていくつもりですが、もしも、この社会にいる障がい者が、「障がいがあっても他の人と同じように生活したい」と思っていることをたくさんの人に知ってもらえたら、心に傷をつけられることもだんだんと減っていくのだろうなと思っています。

肌と耳だけで触れ合う世界

 ボクが大学生だった頃、当時新たに設けられた「総合的な学習の時間」を使って、福祉教育に取り組む学校が増えてきました。その中で、「今度、視覚障がい者をテーマに授業を行うのですが、できたら当事者の方に来ていただいてお話していただけないでしょうか」というような依頼が、地域の社会福祉協議会に寄せられるようになりました。
 そんなきっかけから、ボクは地元の小学校・中学校・高校などにおじゃまさせてもらい、児童・生徒の皆さんに、目の見えないボクがどんな生活をしていて、どんなことを考えて、どのような問題があるのかなどについて話してきました。
 このような活動を続けていくうちに、ボクが話してきたことを文章にまとめて、できるだけ多くの人に見てもらい、皆さんと同じこの社会に生きている障がいを持った人について、考えるきっかけができればいいなと思うようになりました。そして、その思いから数年、やっと形にすることができました。

 この冊子は、9つの文章から構成されており、ひとつひとつは独立した内容になっていますが、ボクが一貫して伝えたかったことは、例え体のどこかに何かしらの障がいがあろうとも、ボクたちは間違いなく一人の人間として、この社会に生きているということです。
 本来ならば、五体満足であることが当たり前とされている人間が、何かしらの障がいを持ってしまうことは、その人にとってひとつのマイナス要素が加わるということになります。そして、このマイナス要素は絶対に無視したり、軽く見ることができないもので、将来の夢が壊されたり、性格が変わったり、新しい世界に飛び込まなければならないなど、人生そのものが予想もしなかった方向に変わってしまうほど、とても大きなものなのです。

 しかし、どんな悪い状況になろうとも、ボクたちはいつだって他の人と同じような生活をしたいと努力しているし、この社会に生きる一人の人間として何かしらの役割を持ちたいし、責任も果たしたいし、仲間にも入れてもらいたいと望んでいます。

 そんな気持ちが通じればと思い、心の赴くままに書き続けました。できるだけ率直な思いをしたためたので、時には前向きに、時には後ろ向きに、時には攻撃的に、時には楽観的にと、様々な感情が入り乱れておりますが、まだまだボク自身、自分が障がいを持ったまま、この社会でどうやって生きていこうか悩み苦しんでいる最中なので、結論を出すまでには至っていないというのが正直なところです。

 一般的に見て、ボク自身他の30歳程度の人と比べると、まだまだ未熟で不出来なところが目立ちます。もし機会があれば、新たにこのような冊子を作らせていただき、その時その時の自分の考えを整理してまとめることができればいいなと思っております。
 その日が来るのを楽しみに、取り合えず今回はここで筆を置きたいと思います。

                         2008年2月 松江塚利樹

肌と耳だけで触れ合う世界

小・中・高校の福祉授業の副読本として執筆したエッセイ集です。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 人間だから
  2. できること・できないこと
  3. 言葉の力
  4. 瞳に写るグレイ
  5. ダメ人間
  6. しまなみ海道から見た景色
  7. ボクなりの幸せ
  8. 障がいと人付き合い
  9. こころの傷