アイスコーヒー

モカ

彼は失恋をしたことがないと言った。

私は手を一瞬だけ止めてしまった。彼に振り回されるのには慣れていた。私が年下というのもあったし、なによりも彼のことが好きだったから。

ある冬の日の午後、彼は私の部屋に来ていた。寒いからという理由で私たちは外出する気にもなれず部屋でだらだらと過ごしている、これといって特に恋人らしいこともしないまま。彼のその言葉を聞いても私はただ軽く聞き流していた。彼がその言葉を口にしたのは、ちょうど私と彼の会話が少なくなってきた頃、私は学校の課題の作品づくりに追われており、そのためのラフスケッチを描いていて、彼はというとソファーに寝転がり本を読んだり時々変な体制のまま、携帯をいじったりしてその後暇になったのか仰向けに寝て力なくぼーっとしていた。
そもそも何故彼が急にそんなことを言い出したのか、理由が知りたい。失恋をしたことがないなんて、自分によほどの自信でもあるのだろうか。そもそも彼はそんな自慢するようなことをあまり言わない人だったから、余計に不思議に思っていたのか。結局、私は彼にその理由を尋ねることはなかった。あのころは、彼にそこまで依存なんてしていなかったから。ソファーに寝ころんだまま、誇らしげに語っていた彼の無邪気な顔は24歳の成人男性とは思えないほど。少なくとも、彼のほうが年上だった。
「ふーん、そんなにモテてたの?」
変わることなく青色をした2Bの鉛筆を軽やかに走らせながら、私はその言葉に少し意地悪を混ぜてみる。今思うとその言葉には少しばかり、謎の嫉妬が含まれていたのかと思う。何故なら、その時は私にとって、昔の彼女の話をされる時と同じくらい嫌な感じがしていたから。彼は分からなかったのだろうか。嫉妬を彼に悟られないように私はあまり興味がないフリをしていた。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼は私のことをかまわずに話を続けた。
「いや、違うんだ。俺は失恋したことはある、でもそのときに負ったはずの心の傷っていうものがないんだ。」
「・・・意味わかんない。」
「だからね、その・・・なんていうかな、俺は心に傷がつかないんだ。」
私にどうしても理解をさせたいのか、だらしなく寝転がっていた彼はソファーから飛び起き、私のほうを向いて、目を見開いた。なんだか、思わず私は目を逸らしてしまった。・・・どういう意味なのだろう。彼は何が言いたいのだろう。少し気恥ずかしかった。
心に傷がつかない人間。それはつまり感情を捨ててしまった人間と同じことなのだろう。感情があるが故に心が傷ついてしまうから、それを恐れてしまって感情をなくしてしまってはただの臆病者になってしまう。心が傷つくからこそ学ぶことだってたくさんあるだろう。もし彼の言うとおり心に傷がつかない人間がいるのなら是非ともこの目で見てみたいと思う。全く成長していない子供のような心になってしまっているのだと、彼は言いたいのか。それが悪いことか良いことなのかは、わからない。
「俺は心が鉄製なんだよ。」
彼は俯いた。私は理解できなかった。いつもならこんな話になると笑いながら茶化すように喋るくせに、この時だけはいつになく真剣な顔をしていて。彼は真面目に話をしているのだと、わたしには言われなくても伝わっていた。それでも彼に相反するように、私は手を休めることなく鉛筆の芯をひたすら消費し続けた。頭では彼のことを考えている、でも私の手は何かに囚われたかのように勝手に動いている。私はまだ彼の話を信じてはいなかった。あまりに支離滅裂で理解不能な彼の話に、ひょっとすると彼はおかしくなってしまったのではないかと、不安を抱いていたのを覚えている。自分を落ち着かせるため、私はあくまで冷静なふりをした。そして乾ききった唇を恐る恐る開いた。
「じゃあ私の心はアルミ製だね。」
「違うって・・・冗談でもなく本当なんだよ、マジで。」
笑い話にするつもりだった。でも、私もきっと笑っていなかっただろう。彼が急にそんな話をしてきて、これは彼のウソであると信じたくて、自分自身を誤魔化すために私はこんなことを言ったのだろう。それでも彼はきっと笑いながら冗談で返してきてくれると思った。それがいつもの流れだったから、安心できると思った。私は彼を信じていたけど、信じていなかった。
それでも私と彼の間には、やけに冷たい空気が流れていたのを感じたので、さすがに手を止め、黙ったままの彼を見つめた。一体彼になにがあったのだろう。彼の笑顔が見たい。
「・・・え?どうしたの?」
彼は小さな溜息を吐いた。
「いや、あのね。冗談でもなく本当に。俺の心は鉄製だから傷がつかないようになってる。だから俺は過去にフラれてきたことは覚えていない。確かに失恋したのは間違いないけど。ある日心を鉄製に取り換えた。それからお前と出会ったから実質俺は今まで失恋したことがないことになるんだよ。」
彼はようやく笑顔を見せた。彼のその時の笑顔が心に焼き付いている。

彼のかすれるような低い声が好きだった。囁かれると私は力が抜けていくほど。彼のたまに見せる真剣な表情も、寝癖のような無造作なヘアスタイルも好きで。下手すると女の私よりも細いのではないかと思うほど二の腕が好きで、彼が大好きなバイクに跨る姿も、彼の後ろにいていつも感じていた彼の匂いも好きだった。
あの時、彼のあの話を信じてあげることができなかった理由が今、私でさえ分からないでいた。私は心から彼を愛し、彼のすべてを受け入れることができると思っていたつもりだった。でも、彼の話を信じることに対する不安の原因が分からない。彼を受け入れることができなかった私の、私に対する失望は消えない。今、あの時のことを思い出すたびに後悔と不安と失望の渦の中で混乱が起こってしまい、原因を探ることは不可能であるだと悟った。きっと原因が明らかとなっても、負の感情が消えることはないと分かっている。むしろ増えてしまうのではないか。
彼と離れ20歳を迎えた私は、傷のつかない鉄製の心を執拗に欲している。心についた傷が治らないからである。臆病者だと罵られてもかまわなかった。地獄のような苦しみの負の連鎖の続く心の傷は、塞がるそぶりを見せずにいる。あの冬の日のように冷たく冷え切った、心と頬にちくりと痛みが走る。もし彼の言うように、心を鉄にすることができたのなら、こんな傷もつかずにこんなに彼のことをいつまでも引きずることもないのだろう。
でも、もし彼の言うように、心を鉄にすることができたのなら、彼との思い出は全て消え失せてしまうのだろうか。私はまだ彼のことが好きで、彼を忘れることが怖い。彼を思えば傷は痛む、だが傷がなくなれば彼を忘れてしまう。そして彼は傷のつかない心があるから、苦しむことなく私を忘れてしまったのだろう。私と彼、どちらが正しいといえるのか。

あの子供のように無垢な笑顔は今、私の知らない誰かに向けられているのか。私の知らない笑い声と一緒に笑っているのだろうか。私の知らない手が彼の腰に手をまわしているだろう。彼のすべては私から離れ、知らない誰かに独占されてしまっている。

今私はずっと、磁石をポケットに入れいつも持ち歩いている。彼の心が鉄製であると今では信じている。

キリマンジャロ

「沙紀って指ながいよねー。」
「そんなことないよ、敦美だってそうじゃん。」
「うちは色黒いもん、ホラ見てよ、沙紀のが全然白いし細いし。」
「敦美は運動部だからでしょ。脚とか腕とかお腹もめっちゃ細い。」
「何がよ、脚見てよ筋肉とかかなりついてるから形悪いもん。肩幅とかめっちゃ広いし。」
「メリハリついてるほうがいいと思うよ。私は寸胴だし脚短いよ。」
「えー・・・、あ、風紀検査始まるよ、行こ。」

放課後、沙紀と敦美は近くの雑貨屋にきていた。誘ってきた敦美に沙紀は不思議に思い、部活は?と尋ねると敦美は笑うだけで何も言わなかった。半ば強引に腕を引っ張られ、着いたのは300円均一の小さな雑貨屋『swan』である。看板に描かれているのは、白鳥の後ろに子供の白鳥が並んでいるというなんとも愛らしい図だった。白鳥の子供の頭には小さな王冠がのっかっていて、沙紀はこの白鳥がお気に入りだった。沙紀もこのお店は好きでよく来ていたのだが、敦美と来るのはこれが初めてだった。
「何か買うの?」
「うん、今度のね、週末、猪野くんとデートだから新しいアクセサリー欲しいなって思って。」
敦美は店に入るなりきれいに並べられたアクセサリーを片っ端から手に取り、あてがっては戻していた。沙紀もなんとなくアクセサリーを手に取り、買うつもりは微塵もないがただ見つめていた。部活で忙しくなかなか会えない彼氏との時間を少しでもいいものにしたい、敦美が思っていることはなんとなく理解できる。沙紀はよさげなアクセサリーを見つけると敦美に見せ、一緒に選んでいた。
「見て見て沙紀、これ超よくない?」
「かわいいけど・・・敦美、それ指輪だよ?敦美指輪なんてしないじゃん。」
「違うよ沙紀に。なんかこれ沙紀に似合いそうじゃない?」
「えっ?私に?」
敦美が見せてきたのはこのお店の看板に描かれていた、王冠をつけた白鳥の子供がついた銀色の指輪だった。
「かわいい・・・。」
「でしょ?買いなよ、300円なんだし安いよ。」
沙紀は迷うことなくその指輪を買うことを決意した。

カバンを床に放り投げるとドンっという想像以上に大きい音がした。音にびっくりして思わず振り返る。一階にいる母に聞こえただろうか、と沙紀はびくびくしながらカバンを机に置いた。ふと姿見を見る、高校に入ってからは部活はせずに比較的暇な高校生活を送っていたとはいえ、こうも体系は変わるものなのかと沙紀は驚愕した。ストンとしていて直線的な身体のラインを見て、昼間の敦美の言葉を思い出す。外にあまり出なくなり、日焼けも全然しないのだから確かに色白になっているかもしれない。沙紀は制服のシャツの袖を捲り、腕を露わにしてみた。あまり生気が感じられないようなひょろっとした腕を見た沙紀はおもむろに眉間に皺を寄せる。確かに、敦美の言うように一般的に見たら白くて華奢な身体というのは羨ましがられるものなのかもしれないが、それが沙紀はあまり好きではなかった。敦美のように健康的な肌で、適度に身体も引き締まっているほうが魅力があると思っていたからである。そんな敦美とは正反対な自分の身体が気に入らない、沙紀は捲っていたシャツの袖を戻した。姿見をマフラーで覆い、隠した。
沙紀は机の上に置いたカバンを手にし、ふと思い出した。カバンを開け、指輪一つ入れるには大きすぎるくらいの紙の袋を取り出し、中から銀色の指輪を取り出した。沙紀の好きな王冠をかぶった白鳥の子供が彫られたモチーフのついた指輪。サイズも確かめずに買った指輪を、恐る恐るはめてみる。中指にフィットするように、おさまった。自然に沙紀の口角があがり、沙紀はずっと指輪を見つめていた。すると、誰かが階段を上る音がする。その音に沙紀はハッとして慌てて右手を隠すように後ろにまわした。
「沙紀ちゃーん、昂一帰ってきてないけど、会わなかった?」
「えっ、昂一?知らないよ、会ってないし。」
「こんな時間まで何やってんだか・・・。沙紀ちゃんちょっとその辺見てきてくんない?」
「えぇー・・・分かったよ。」
不自然に、後ろに手をまわしたまま沙紀は返事をした。

アイスコーヒー

アイスコーヒー

人の好みによって、甘かったり、苦かったり。 それでも人々はそれらを好み、飽きることなく延々と続けていく理由は分からない。ただ好んでいるだけだから? 人々の甘く苦い日常を連ねたSS(ショートショート)です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-24

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