真夏の潤い

 無駄なことが必ずしも無意味なこととは思わない。日がな一日ぼーっとしている休日、その場の衝動で財布の紐を緩めてしまったショッピング、テレビ番組等で得たマニアックな雑学。これらは「時間の無駄」とか「無駄遣い」とか「無駄な知識」と揶揄する人がいるかもしれない。確かに、時間だけはどう足掻いても絶対に取り戻すことはできない、自由に使えるお金なんて高が知れている、雑学なんて進学や就職試験には絶対に出題されないなど、マイナスな側面があることは事実だ。
 しかし、見方を変えれば、ぼーっとしながら空想に耽ることで想像力を豊かにしたり、お金を使うことそのものがストレス解消に繋がったり、雑学によって物の考え方や会話の幅を広げるなど、プラスの側面もある。僕の自論のひとつに、一見無駄なことと思われるようなものをたくさん積み重ねることが、人の魅力、心の豊かさ、考えの深さに繋がって行くものだと思っている。
 だが、世の中にはどう考えても無駄以外の何者でもないものも存在することは否めない。あと2・3週間もすれば待ちに待った夏休みになろうとしているある日の体育の時間、僕、沢木孝一が通っている盲特別支援学校も、他の学校と同様にこの時期は水泳が行われる。しかし、僕は先週末に夏風邪にかかってしまい、熱は下がったものの、まだ気だるさが残る病み上がりとあって、本日の水泳は見学している。先生たちからすれば、健康上の理由で授業に参加できないのは仕方ないとしても、一応体育の時間なんだから、授業の様子を見学することで学習しなさいという理屈はあるのだろうが、僕は全盲の視覚障害者だ。目が見えない者に見学しろとはどういうことだ?プールサイドにただ座っているのも暇なので、たまたま一緒に見学している生徒がいると、ついついおしゃべりしてしまうことがある。そうすると、決まってうちのクラスの担任である体育の川村一先生から
「見学者! 無駄話をしない!」
と一喝されてしまう、どっちが無駄なんだよ!
 うちの学校は、公立では珍しく、室内プールが設置されている。だから、雨が降っても気温が低くても、予定通り水泳の授業が行えるメリットはあるが、水着姿でも寒くないように室内の気温が高めに設定されているので、見学者にとってはジャージ姿で蒸し風呂に押し込められているようなもので、とにかく暑くてたまらない。しかも、今日の見学者は僕一人だけなので、こっそりと雑談することもできず、蒸し暑いプールサイドのベンチに腰掛けて、ただひたすら授業が終わるのを待つことしかできなかった。
 いや、厳密には見学者はもう一人いる。クラスメイトの上原香織だ。上原さんは今年の春に入学してきた新入生で、中学生の頃に事故だか病気だかで失明し、中学卒業後に生活訓練を受けてから高校進学した関係で、僕たちよりも2つ年が離れている。上原さんも何がしかの事情で今日の水泳は見学しているはずだが、プールサイドには彼女の姿はなく、なぜか図書館で読書をして過ごしているらしい。こんな蒸し暑いところにじっと座っているよりも、冷房の効いた図書館で点字の本を読んだり録音図書を聞いて過ごしたほうが絶対に有意義に決まっているが、他の生徒には許されていない。どうして上原さんだけなんだろう。
 知り合ってからまだたったの3ヶ月で、僕は同世代の異性と仲良くなることが苦手ともあって、上原さんのことはあまりよく知らないが、水泳の見学のことも含めて、彼女には時折不可解なものを感じることがある。上原さん自身は明るくて礼儀正しく、クラスで一番仲が良い戸塚直子はじめ、口下手な僕、無愛想な林秀幸、お調子者の武ちゃんこと武田陽一、ちょっぴり間の抜けた直樹こと高橋直樹にも好意的だし、重複障害をもつ近藤雄介と山本美奈にも丁寧に接している。
 そんな非の打ちどころのない性格の持ち主なのだが、時折何か物思いに耽るようにぼんやりしていることがあり、そういうときに呼びかけても、なかなか気づいてくれなかったり、反応もやや虚ろな感じで、心ここにあらずといった様子が伺える。そんな姿を目の当たりにする度、僕は彼女が普段表に出さない、心の奥底に潜めているネガティブな感情を垣間見たような気がしてならない。
 僕自身も小学校6年生の頃に網膜色素変性症で失明したという過去をもっているのだが、4年経った今でも、時折進学や就職に対する将来への不安、失明した現実を受け止めなければならない苦しみ、視覚障害者として生きていかなければならない空虚な気持ちを感じることがある。おそらく、上原さんも人生の途中で失明してしまったことについて、まだまだ心の整理がついていないのかもしれない。
 僕の中にそんな思い込みがあるせいで、彼女の明るくて礼儀正しく、誰にでも好意的に接する態度は、健気でしたたかな印象を与えるとともに、うっすらとした切なさが胸の中を駆け抜けることがある。
 授業も終わり、蒸し風呂のような室内プールからやっと開放され、僕は一人教室へと向かった。体育の授業は4時間目で、すぐに給食の時間になる。教室に向かう途中、あちらこちらで食器のふれ合う音を耳にしたり、食欲をそそるいい匂いが僕の鼻をくすぐった。
 教室に入ると「お帰り」と言われた、上原さんの声だ。他の生徒は着替えに手間取っているせいか、教室には彼女しかいない。上原さんは机を回りながらパタンパタンと何かを置いているようだった。
「……お盆配っているの?」
「そう」
僕の唐突な質問に彼女はあっさりと答えた。
「今週の給食当番、オレたちじゃないよ」と僕が言うと
「帰ってみたら誰もいなかったし、一人でじっと待っているのも何だからワゴン運んできちゃった」
盲特別支援学校では給食が出るのだが、1クラスの人数が平均10人前後と少ないので、1クラス分の食器なりおかずはひとつのワゴンに乗せられている。給食の時間になると、各階にワゴンごとリフトで運ばれてくるので、生徒はリフトのところまで行き、自分のクラスのワゴンを教室まで運ぶことになっている。
 うちのクラスは給食当番を2つの班に分け、隔週で担当することになっている。僕と上原さんは今週は当番ではないので、ワゴンを運んで配膳する必要はないのだが、着替えなどで帰りが遅れることを見越して、先に準備しているのだろう。こういうちょっとした気配りができる人を見ると、「大人だな」と感じる。
 上原さんが配膳しているのに、僕だけ座って待っているのも何なので、「オレもやるよ」と僕は牛乳ケースを掴んで配り始めた。間もなく、他の授業を受けていた雄介と美奈ちゃんが担任の原田雅子先生と補助職員の松川佳代先生に付き添われて帰ってきたが、先生たちは僕たちの姿を見るなり「気が利くねー」とか「素晴らしいっ!」と誉めはやした。
 その後、武ちゃんや直樹、林が次々とプールから戻ってきたが、今週給食当番の直樹が、僕が机の周りをうろうろしているのを雰囲気で察知したのか
「沢木ぃ、おまえ給食配っているの?」
「うん」
「どしたの急に?」
「おまえらがおっせえからだよ」
と僕は嫌味を言ってやった。直樹はフンと不満そうに鼻を鳴らしたが、こっちは当番でもないのに手伝ってやっているんだ、文句言われる筋合いはない。
 すると「ごっめーん。すっかり遅くなちゃったぁ」と今週給食当番の戸塚が教室に飛び込んできた。ほんの一瞬だけ帰ってくるのが早かった直樹は、さっき僕に言われた嫌味の鬱憤を晴らすがごとく「おっせえぞ戸塚! 何もたもたしてんだよ!」とやや攻めるような調子で言い放った。戸塚も負けじと
「女の子は身だしなみ整えるのに時間かかるのっ! これでも急いできたんだからね!」
と言い返した次の瞬間、上原さんが配膳をしている姿が弱視の戸塚の目に入ったのか
「上原さん手伝ってくれてるの!」
と素っ頓狂な声をあげ「ごめんね。私が遅くなったばっかりに……」と直樹のときとは対照的にしおらしい声音で謝罪し「あとは私がやるから」と席に座るよう促した。上原さんは微笑を浮かべているような声音で
「いいのいいの。女の子は身だしなみ整えるのに時間かかるもんね」
と言いながらギイと椅子をひいて腰掛けた。せっせとサラダをよそっている僕の姿も目に入ったのか「沢木くんも手伝ってたんだ、悪いね」と軽い調子で言ってきた。上原さんと僕、この差はいったい何なんだ?
 今週の給食当番が帰ってきたので、釈然としない気持ちを引きずりながらも、僕は自分の席に戻ることにした。上原さんの席の前を通りかかったとき、「あっ……」と彼女の声が聞こえたかと思うと、カラカラカラっと何かが床を転がるような音がして、僕のつま先にぶつかった。何かなと屈んで床を両方の手のひらで探ってみると、僕たちが授業中に点字でノートを取るときなどに使う筆記用具、点筆が手に触れた。きっと上原さんが机から誤って落としてしまったのだろう。僕は立ち上がると「落ちたよ」と上原さんに手渡そうとしたが、何分お互い目が見えないのでうまく手渡せないことが多い。「ありがとう」と差し伸べられた彼女の腕に僕の手がぶつかってしまった。次の瞬間にはうまく彼女の手の中に収めることができたが、ほんの一瞬、上原さんの腕に触れたとき、携帯電話のバイブレーションのようなジーンとした振動を感じた。少し違和感はあったが、上原さんに変わった様子がないので、気のせいだろうと思い、僕はそのまま自分の席に座った。

 今日は僕が所属するパソコン部の活動日だ。掃除を済ませた僕は直接コンピュータ室に向かった。室内にはすでに数人の部員がおり、パソコンも数台立ち上がっている。僕はいつものように先輩や後輩と雑談し、いつものように活動前のミーティングが開かれ、いつものように使えそうなフリーウェアやシェアウェアの検証をし、いつものように最後のミーティングで活動内容を報告し、いつものように「お疲れ様でした」と声をかけてコンピュータ室を出て行くつもりだった。
 ドアに手をかけたとき、「沢木ちょっと待って」と僕のことを呼び止める者があった。誰かと思ったら、パソコン部副部長、普通科3年生の滝沢徹さんだ。彼とは僕が入部したときからの付き合いで、部活だけではなくプライベートな友人としても親しくさせてもらっている。滝沢さんから呼び止められることは別に珍しいことでも何でもないが、いつもと比べて声のトーンに張りがないことにちょっと引っかかるものを感じた。そういえば、今日はあまり元気がないような気がする。
「何でしょうか?」
と僕はくるりと振り返って、滝沢さんのほうに2・3歩歩み寄ると、彼のほうからもこちらに近づきながら「ちょっと時間あるか?」と聞いてきた。僕は「はい」と即答したところ、滝沢さんはやや小声で
「ちょっと駅前のハンバーガー屋寄ってから帰らねえ?」
とのこと。つまり、帰りにちょっと一服しようということらしい。部活が終わってからそのままみんなでお茶して帰ることはそれほど珍しいことではないし、たいていの場合滝沢さんがみんなに呼びかけているので、彼から誘われることも珍しくない。ただ、いつもなら数人誘っているにもかかわらず、今日はどうやら僕と2人きりで行こうとしている。
 何となく僕が不思議そうにしているのを察してくれたのか、滝沢さんは「おまえに話したいことがあるんだ……」と付け加えた。僕は「はあ……」とあいまいな返事をすると
「じゃ、昇降口で待ってるぞ」
と言い残してさっさとコンピュータ室を出て行ってしまった。
 教室に戻ると、軽音楽部の直樹とバレー部の戸塚が部活を終えて帰ってきており、2人から「一緒に帰ろうよ」と誘われたが、先約があるので適当に断り、僕はすぐさま教室を出た。
 昇降口に着くと、すでに滝沢さんが待っており、ハンバーガー屋へ向かう途中、僕は「何の話ですか?」と尋ねてみたが「まだ頭の中で整理できてないから、ちょっと待ってろ」と言うだけで何も教えてくれない。いつもなら、わりと陽気に何でも話したがるはずなのだが、今日は何だかやけに口が重い。仕方がないので、僕たちは何もしゃべらず、ただ黙って駅前にあるハンバーガー屋に向かった。
 入店するなり、僕たちはそれぞれ冷たい飲み物だけを注文し、うまい具合に空いていたカウンターの真後ろの席を陣取った。僕はアイスコーヒーに入れたガムシロップをかき混ぜながら、何を話すのだろうかと静かに待っていたが、滝沢さんもオレンジジュースをストローでカラカラとかき回すだけで、一向に話し出す気配がない。痺れを切らした僕は
「話って何ですか?」
と切り出してみたところ、滝沢さんは「うん……」と少々気弱に応じたかと思うと「まあ、沢木には直接関係ないんだけど……」と口の中でもごもごと呟いたかと思うと
「おまえのクラスに上原香織さんっているじゃん」
と言い出した。取りあえず「はい」と相槌を打つと
「……オレどうも嫌われちゃったみたいなんだよね……」
と力なく呟いたので、僕は思わず「はいっ?」と裏返った声を出し、やや大きめな声で
「付き合っていたんですかぁ?」
と口走ってしまった。
「違うよっ、そういうわけじゃないよ。声でかすぎ!」
「すいません……」
と僕は反省の意味を込めてややしょぼんとした声音で謝った。2人が付き合っていると早合点してしまったのは、数ヶ月前のこと、滝沢さんのほうから、上原さんに興味があるようなことを漏らしていたのを覚えていたからだ。
「だったら何なんです? 何か上原さんに失礼なことしたんスか?」
「……いや、別に失礼なことはしてない。……つーか失礼なことって何だよ?」
「……無理やり口説こうとしたとか……」
「アホっ!」
僕のおでこに何かが当たった。テーブルの上を手で探ってみると、滝沢さんが投げつけたと思われる、ストローを包んでいる紙を丸めたものが手に触れた。それを右手でこねくり回していると「何でおまえはそういう発想しかできんのだ?」と言われたので
「滝沢さん、ずっと前に上原さんに興味があるようなこと言っていたじゃないですか!」
と言い返した。滝沢さんは「ああ」と思い出したような声を出し、ちょっと閥が悪そうな感じで「そんなことも言ったな」と苦笑した。
 そして滝沢さんは咳払いをひとつして、「沢木の妄想が広がらないよう、ちゃんと説明するわ」と余計な前口上を述べてから話してくれた。
 僕たちの通う盲特別支援学校にも、生徒主体の自治組織となる生徒会があり、毎年4月には学年を超えた生徒同士の交流も兼ねて、生徒会主催の新入生歓迎会が催される。内容は、新入生の自己紹介、部活動や委員会などの学校紹介に続き、後半は予め決められたグループに分かれてお茶菓子を食べながら歓談するというものだった。そのとき、たまたま滝沢さんと上原さんは同じグループだったらしい。
「……まあー、なんだ、その……、彼女いつもにこにこしてるし、少しだけどしゃべってみて性格もよさそうな感じだったから、何となく興味が湧いてきたんだ」
ちなみに滝沢さんは弱視だ。上原さんは物静かであまり積極的に人に話し掛けるほうではなさそうだが、初対面であろうと彼女持ち前の明るさと礼儀正しさで誰にでも好意的に接してくれる人なので、滝沢さんが彼女について良い印象を受けたのはある意味当然のことだと思う。
「つまり一目ぼれですね」と僕が言うと「まあ、そんなとこだ」と滝沢さんは照れ隠しのつもりか、すました調子で応じた。
 ふと気づいたことだが、滝沢さんと親しくなって3年ほど経つわけだが、こんな風に恋愛に関する話をされるのは今回が初めてだと思った。思い返せば、滝沢さんに限っていえば、どこかのクラスの女の子に片思いをしているらしい、付き合っているらしいというような噂話すらも耳にしたことがない。滝沢さんは、うちの学校には幼稚園・小学部の頃から通っているらしい。
 あくまでも一般論なので一概には言い切れないが、特別支援学校は学校の性質上生徒数が少なく、生徒の中には自宅と学校を往復するだけという者もいるらしいことから、他の同世代の人たちと比べて、出会いが少なく、なかなか好きな異性にめぐり合う機会が限られてしまうのかもしれない。多分、新入生歓迎会での上原さんとの出会いは、彼にとっての初めての恋だったのだろう。
 「で、先ほど嫌われたかもって言ってましたが……、その後何か上原さんにアプローチしたんですか?」
「それなんだけどな」と滝沢さんはやや声のトーンを低くして
「気になるし、仲良くなりたいとも思うんだけど、学年が違ったり、委員会や部活で顔合わせる機会もないから、歓迎会以来全く接点がなくなっちゃったんだ。ほら、オレ小心者だから、おまえのクラスに行って話しかけるなんて大それたことできないじゃん」
自分で自分のことを小心者と言うのはいかがなものかと思ったが、確かに滝沢さんは積極的に女の子にアタックできるタイプではないということには合点がいった。もちろん口には出さないが……。
 滝沢さんの話では、どうにかして上原さんに近づきたい気持ちはあるものの、きっかけがない以上、話し掛ける勇気すら出てこない。もんもんとした気持ちを引きずりながら学校生活を送っていた連休明けのある日のこと、滝沢さんは川崎市内に住んでおり、通学にはJRを使い、途中東神奈川駅で乗り換えて学校の最寄駅まで行くのだが、その日は寝坊してしまい、いつもよりも遅い登校になってしまった。
「遅くなったとはいえ、充分間に合う時間だったからいつもと同じように登校したんだ。でさぁ、東神奈川駅で降りて乗り換えの電車待っていたとき、何気なく周り見てみたら、なんと上原さんがオレのすぐ傍にいたんだよ!」
「はいはい」と僕は頷き
「確か、上原さんは磯子に住んでいるはずだから、方向は真反対だけど、乗り換えのために東神奈川で下車しますからね」
「オレ、マジで驚いちまってさ。まっさか乗換駅で上原さんが、しかも文字通り目と鼻の先にいるとは思わないじゃん。……だけど悲しいかな、彼女全盲だからオレのことなんか全然気づかないんだよね」
「そこで声かけてみたとか……」
「……いや」と滝沢さんはやや奥歯に物が挟まったような言い方になり
「……オレ小心者だからさ、なかなか話し掛けるタイミングが掴めないっつーか、勇気が出なくてさ……。同じ電車に乗ったけど、どう話しかけたものかとずーっと考えちゃって……。結局、上原さんの少し後ろを黙って歩くことしかできなかったんだ」
「それって完全なストーカーじゃないですか!」
「うるさいっ!」と吐き捨てるような調子で言い放ったが、僕はからかい半分で
「しかも、相手が気づかないことをいいことに、全盲の女の子の後追いかけるなんて最悪ですよ」
「失礼なこと言うなっ!」
と滝沢さんはストローの先で僕の額を突っついた。額についたオレンジジュースを紙ナプキンで拭きながら「で、どうしたんですか?」と先を促すと
「……上原さんとの距離を縮められるチャンスかもしれないと思ったから、その日から、わざと登校時間遅らせたんだ。そしたら案の定、上原さんも毎日同じ電車に乗っていたんだ……」
「で、毎日ストーカー行為を続けたと……」
「だからストーカー言うなっ!」
「ということは、今までのストーカー行為が上原さんにばれて嫌われたってことですね。それは自業自得ってもんですよ」
「だから違うんだってば……」滝沢さんの語気が荒くなり、ややイライラしているような雰囲気を感じたので、いいかげん茶化すのもやめて、僕は彼の話を黙って聞くことにした。
 しばらくの間は何も話しかけられずに、ただ黙って上原さんの傍にいることしかできなかったが、今から1ヶ月ほど前のこと、ちょっとしたハプニングが上原さんを襲った。その日もいつもと同じように滝沢さんは上原さんの姿を見つけ、彼女が並んでいる列の後ろについた。1・2分後、いつも乗る電車が入線し、停車するとすぐにドアが開いた。列に沿ってゆっくりと前に歩みだしたとき、「キャッ!」と小さな悲鳴のような声が聞こえた。上原さんの声だと気づくや否や、滝沢さんは反射的に数人前にいる上原さんの元に駆け寄った。
 すると、何かを踏みつけたような感触が足の裏に伝わり、さっと屈んで確かめると白杖が落ちていた。おそらく、電車から降りてきた人に、白杖を蹴飛ばされたか何かをされ、手から離れてしまったのだろう。動揺しているのか、こちらに背を向け呆然と立ちすくんでしまっている上原さんの姿を見るや否や、滝沢さんは白杖を掴んで立ち上がり、「落ちてたよ」と彼女の手に握らせると同時に手を引いて一緒に電車に乗り込んだ。
「あ……ありがとうございます……、助かりました」
まだ動揺が残る上原さんから言われ、はっとした滝沢さんは彼女の手を握り締めていることに気づき、慌てて手を離した。何を言えばいいのかドギマギしてしまったが、取りあえず
「普通科3年の滝沢です……」と名乗ったところ「ああ!」ととたんに明るい声音になり
「上原です。確か新入生歓迎会のとき同じグループでしたよね……」
滝沢さんはこのとき、生まれて初めて「天にも登るような心地」を感じたらしい。
「よかったじゃないですか、話し掛けられるきっかけがあって」
「そうなんだよ」と滝沢さんは得意そうになり
「その後は、学校のこととか趣味のこととか、たわいのないことを話しながら一緒に登校したんだ。そして、その日を境に毎朝彼女の姿を見つける度にちゃんと声かけて、一緒に学校まで登校するようになったってわけなんだ」
 それからの2人はほぼ毎日一緒に登校するようにはなったが、滝沢さんとしては、もう少し親密な関係が作れないかと機会を伺っていた。そんなとき、上原さんは小説やエッセイを読むのが好きで、暇さえあれば学校図書館や市の中央図書館から借りた録音図書を聞いているとの話を聞いた。
「へー、本好きなんだ。どういうの読んでいるの?」
「そうだなぁ……、コバルト文庫とか好きだから、主に恋愛とかファンタジーかな。それとミステリ系も好きだな」
「……ふーん。好きな作家とかいるの?」上原さんが自分の好きな作家の名前を何人か挙げた中に、滝沢さんが知っている作家が一人だけいた。
 僕はこの話を聞いた瞬間、驚きで思わず口の中のアイスコーヒーを吐き出してしまうところだった。僕が知る限り、滝沢さんが愛読しているのは雑誌かコミックの類で、活字ばかりの本を読んでいる姿なんて全く想像ができない。
「滝沢さん、小説なんて読むんスか!」
「……いや、本当のことを言うと、オレが読んだのはその作家の小説をマンガ化したもので、原作は読んでないんだ。でも、原作者の名前知っていたし、そのマンガ面白かったから興味もっていたのは本当なんだぜ」
「なるほど」僕は合点がいった。
 つい勢いで「オレもその作家好きだよ」と言ってしまったところ「ホント」と予想外なくらい食いついてきたので、若干やばいなとは思いつつも、そのマンガのタイトルを言うと「私も好き。あれ面白いよね」と嬉しそうに言った。マンガとはいえ、基本的には原作と同じストーリーなので、どうにか話を合わすことができた。
「好きな人は好きなんだけど、あまりメジャーじゃないから知らない人多いんだよね。初めてだな、知っている人にめぐり会えたなんて」
「ふーん」と滝沢さんは平然を装っていたが、内心は生まれてから2度目の「天にも昇るような心地」を感じていたらしい。
「この前新作が出たんだよね」
と急に突っ込んだ質問をされ、一瞬困惑したがここは正直に
「へえー、新作出たんだ。知らなかった」といかにも初耳といった感じで答えると
「そうなの。早速うちの学校の図書館に入れてもらうようにお願いしたんだけど、購入してから音訳ボランティアに依頼するでしょ。だから録音版ができるのはかなり先になりそうなのよね」
「そっか……」
「早く読みたいんだけど、こればっかりは仕方ないからね……」
「ところで、その新作のタイトルは何て言うの?」
このとき滝沢さんの頭の中には名案が浮かんだらしい。上原さんから教えてもらったタイトルを頭の中に刻み付け、学校に着くや否やコンピュータ室に駆け込み、その小説の価格や出版社などを調べた。下校後、滝沢さんは川崎駅構内にある比較的大きな書店に立ち寄り、例の小説を買い、自宅に帰るとすぐに拡大鏡とポータブルMDを用意した。
 次の日、いつものように東神奈川駅のホームにいた上原さんを見つけると「これ」と言いながら1枚のMDを握らせた。
「……これは?」と上原さんが不思議そうな声音で尋ねると
「昨日言ってた例の新作、まだ最初のほうしか入っていないんだけど、オレが読んで録音してみたんだ。よかったら聞いてみて」
「ええっ、うそ!わざわざ……」
「……オレも新作に興味あったから、読むついでに録音したようなものなんだ。だから気にしなくていいよ。……こういうこと初めてやってみたから聞き苦しいかもしれないけど……」
「聞き苦しいだなんて……、そんなこと気にしなくていいよ。ありがとう、とっても嬉しいよ。帰ったら早速聞くね」
この日から滝沢さんは、週に1・2回のペースで、小説を朗読したMDを上原さんにあげるようになった。恐縮しながらも嬉しそうに受け取る彼女の姿を観るたび、滝沢さんは毎回「天にも昇るような心地」を感じていた。
 「へぇー、やりますね!」僕は心の底から感心した。活字の本を点字にすることを「点訳」、朗読して録音することを「音訳」と言い、本の分量にもよるが、1冊の本を点訳・音訳するには数週間から数ヶ月かかってしまう。僕たち視覚障害者が新刊図書を読むまでにタイムラグが生じてしまうことは、ある意味仕方ないことなのかもしれないが、読書好きの人にとってはいつも歯がゆい思いをさせられていることは否めない。
「いい感じじゃないですか。上原さん本読むの好きだから、それってかなり高感度あがりますよ。全然問題ないじゃないですか」
「オレもそう思ったんだよね……」と今までの快活さが急に引っ込んで、突然弱気な口調に変わった。

 滝沢さんは急に黙りこくってしまった。
「何かまずいことでも起きちゃったんですか……」
と、僕はおそるおそるといった感じで尋ねてみると、「うん……」と話し始める前のような調子に戻ってしまった。多分、今まで話してくれたことは前座のようなもので、これから話そうとしていることが僕に聞いてほしいことなのだろう。急にテンションが落ちたこと、最初に言っていた「嫌われちゃったみたい」という発言からして、今までのような明るい話ではなさそうなことは容易に想像できた。
 「先週のことなんだけど……」と、滝沢さんは躊躇いながらも、少しずつ言葉を紡ぐようにして話し始めた。それによると、その日は部活がなく、特にすることもなかったのですぐに下校することにした。すると、昇降口のところに上原さんがおり、ちょうど彼女も下校するところだった。
 この頃にはすでに顔なじみになっていたので、滝沢さんは何も気負わず「一緒に帰ろうよ」と誘った。いつものように他愛のないことを話しながら駅へと向かっていたが、一緒に帰れる機会なんてめったにないとばかりに、ちょっと調子に乗った滝沢さんは
「ねえ、今日暑いし、時間もまだ早いからさ、何か冷たいものでも飲んで行かない?」
と誘ったところ、今まで快活に話していた上原さんが急に黙りこくり、滝沢さんの目には何となく困ったような表情になってしまったらしい。
「……ごめん、今日はちょっと……」
と上原さんはぼそりと言った。誘いに応じてくれなかったのは正直残念だったが、突然だったし、彼女にも都合というものがあるだろうと納得し、その日はそのまま帰った。
「まあ、そういうことはよくあることですよ。別に気にすることでも……」
「これはこれで別にいいんだ。ただな、昨日のことなんだ……」と滝沢さんは話しつづけた。
 昨日の放課後、やはり特にすることもなかったので、滝沢さんはもしかしてと淡い期待を抱きながら昇降口に向かうと、案の定ちょうど上原さんも下校するところだったので、前回と同様一緒に帰ろうと声をかけた。
 下校中、お茶に誘いたい気持ちに駆られたが、理由は何にしろまた断られてしまうのが怖かったため今回は諦めることにした。もうすぐ梅雨明けを迎えようとしている7月の午後、日は傾きかけているとはいえ、初夏の日差しが容赦なく照り付け、滝沢さんは喉が渇いて仕方なかったし、隣の上原さんも暑さにやられたのか、何となく元気がないように思えた。
 ホームに着くなり「ちょっと待ってて」と上原さんを残して、滝沢さんは自動販売機に向かった。一人だけ飲むのも何だしと思い、軽い気持ちでオレンジジュースを2本買うと、すぐに上原さんのところに戻った。
「これ」と滝沢さんはオレンジジュースを上原さんの手に握らせた。きょとんとしている彼女に
「オレ喉渇いちゃったからオレンジジュース買ってきた。お金はいいから飲んでよ」
と言うと、上原さんはすっと手を突き出し
「……私いらない」
と滝沢さんにつき返した。
「えっ……。本当にお金のことなんか気にしなくていいんだよ……」
「……いい」
「……もしかしてオレンジジュース嫌いだった……?」
「いらないっ!」
いつもの上原さんらしからぬ破棄捨てるような言い方に一瞬あぜんとしてしまったが、上原さんが強固なまでにつき返そうとしているオレンジジュースを受け取り、そのままカバンにしまいこんだ。
 それからというもの、上原さんの表情は硬くなってしまい、すっかり無口になってしまったが、当の滝沢さんは何が彼女を不快にさせてしまったのか理由がわからず、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
 「上原さん、かなり遠慮深いところあるから、いくら缶ジュース1本だけとはいえ、そう気軽におごってもらうような人じゃないと思いますよ。だから、そんなに重たく考えることではないと思うんですけど……」
かなり思いつめているような雰囲気を感じたので、僕は励ましの気持ちをこめて軽い調子で言ってみたが、滝沢さんは「それはな!」とやや語調を強めて
「ただオレの話を聞いただけならそう思うかもしれないけど、そのときの彼女はなぁ、何て言うか……、いつもの上原さんらしからぬブスっとした不機嫌そうな声音で、あんまり雰囲気よくなかったんだよ。……オレはただ蒸し暑いからちょっと喉でも潤してほしいなって気持ちだけだったのに、あんな風な態度取られちゃ……気にするよ」
そのときの様子を思い出したのか、話しているうちにだんだんと声のトーンが下がり、最後のほうには消え入りそうなくらい弱々しい声になっていた。もし滝沢さんの表現が妥当ならば、はき捨てるような言い方やブスっとした不機嫌そうな声音というのは、いつもの上原さんの様子からは想像できない。
「つまりなぁ、彼女にとっては、オレは一緒に登下校する程度の友達ならいいけど、それ以上の関係になることは望んじゃいないってことなんだろうよ」と滝沢さんは投げやりな調子で言うので、僕はフォローのつもりで
「……よくわかりませんが、それは被害妄想というか考えすぎなんじゃないですか……」と言ってみたが
「だったら缶ジュースくらいもらってくれてもいいと思わないか? あそこまで拒否するってことは、オレとは一定の距離を置きたいんだよ。……それに証拠だって掴んだもん」
「……証拠って?」
「上原さん、彼氏がいるんだよ」
「ほお!」と僕は思わず驚きの声をあげてしまった。意外といえば意外だが、上原さんの性格とか雰囲気を考えればそういう人がいても決しておかしくはない。勢い込んで「どうしてわかったんですか?」と聞くと「今日たまたま見かけたんだ」と答えた。
「……今日?」
放課後のこと、今日は部活のある日なので、僕と滝沢さんはコンピュータ室にいた。活動が始まってから間もなく、プリンターのインクが切れていることに気づき、滝沢さんは事務室までインクを取りに行った。事務室は昇降口の傍にあるのだが、ふと見ると出入り口のところに立っている上原さんの姿を見つけた。特にどの部にも入っていない彼女は、部活動のある日は、掃除が終わるとほぼ必ずすぐに下校している。実を言うと、滝沢さんは今朝もいつもどおり上原さんの姿を見つけたが、昨日のこともあり声をかけることができずにいたのだ。
 声をかけようかどうしようかと戸惑いながら2・3歩彼女のほうに歩み寄ると、上原さんの前に1台の車が停車していることに気づいた。うちの学校はスクールバスが出入りする関係で、昇降口を出ると駐車スペースがあり、すぐに通りに出られるようになっている。
 すると、上原さんの傍に見慣れない男の人が現れ、とても親しげな様子で彼女の手を引きながらゆっくりと目の前の車の助手席に乗せると、その男の人は運転席のほうに回り込み、数秒後にはそのまま走り去ってしまった。
「その男の人ってどんな人でしたか?」
「……どんな人って言われても……。年齢はオレくらいだと思うよ」
「……言い切れますか?」
滝沢さんは弱気な口調で「……多分」と言った。滝沢さんが見えていると言っても、彼も視覚に障害のある弱視だ。たまたま目に入ったからとはいえ、きっと初めて見かけた人の容姿なんてきちんと把握できるとはちょっと思えないし、親しげな様子と表現していたが、おそらく滝沢さんの思い込みも入っていることだろう。
「ご兄弟とか、家族の方が迎えにきただけじゃないですか?」
「あのな! 上原さんは普段一人で登下校しているんだ。わざわざ家族が学校まで迎えにくる必要なんてないだろ」
言われてみればその通りだ。滝沢さんは続けて
「ご兄弟って言ったけど、彼女お兄さんとかいるの……?」
「……わかりません、聞いたことないです。つーか滝沢さん聞いたことないんですか?」
「……オレも聞いたことない。家族の話なんて全然しないからな……」
この3ヶ月を振り返っても、僕が上原さんとまともな会話を交わしたことなんてほとんどないし、家族構成など彼女のことについてはほとんど何もわかっていないことに気づかされた。
「……あの様子だと、きっとその男とデートしに行ったんだよ、そうに決まってる」
うちの学校では極めて珍しいことではあるが、女子高生が放課後、校門前で待っている彼氏の車に乗ってデートするというのはありえることなのかもしれない。
「……先週から今日くらいまでさ、上原さんに何か変わったことあった?例えば落ち込んでいる様子だったとか、イライラしているみたいとか……」
僕なりに上原さんの最近の様子を思い出してみたが、いつも戸塚と仲良くしているし、授業中もいたってまじめだし、昼休みは図書館で録音図書を借りるなど、これといっていつもと変わったところはないように思える。
「……特に変わった様子はなかったと思いますよ」
「さっきのおまえの反応をみると、上原さんに彼氏がいるとかいないってことについては全然知らないみたいだな」
「初耳です」
滝沢さんはため息をひとつつくと、残りのオレンジジュースを一気に飲み干し「つまらない話につき合わせて悪かった」と言いながらトレイを持ち上げた。
「一応受験生だから、あんまり遅いとうっさいんだ。そろそろ出ようか」
と言われたが、あいにく僕が乗るバスがくるまでしばらく時間がある。
「バスがくるまで2・30分ほどあるんで、オレはもう少しいます。オレに気使わなくても大丈夫ですよ」
「そっか……。悪いな、お疲れ」
 僕は真正面のカウンターで2杯目の飲み物を注文し、再びソファに腰をおろした。アイスコーヒーを口に含みながら、僕は滝沢さんの話について順を追って思い出していた。新入生歓迎会での出会い、白杖のハプニング、滝沢さん朗読のMDなど、甘酸っぱくもほんのりとした温かみを感じさせる前半の話とは対照的に、滝沢さんが差し出したオレンジジュースをかたくなに拒否したり、放課後に見知らぬ男の人の車に乗って行ってしまうなど、いつもの上原さんらしからぬ不可解な点が目立つ。
 しかし、上原さんも一人の人間だ。時には不愉快な気持ちを相手にぶつけてしまうこともあるだろう。それならば、何が彼女を不愉快な気持ちにさせたのかが問題だ。滝沢さんは、上原さんを残してオレンジジュースを2本買い、ごちそうするつもりで彼女に手渡した。今思い出しても、別に不愉快になるようなことなどはなかったように思える。それならば、滝沢さんが上原さんの傍を離れたときに何か起こったのだろうか……。
 見知らぬ男の人の件だが、滝沢さんは上原さんの彼氏と断言していたが、実際は一緒の車に乗って行ったところを見ただけで、彼氏と断言できるものは何もないと思う。うちのような特別支援学校では、家族が車で生徒を迎えにくるということがよくあるのだが、滝沢さんも言っていたように、上原さんは普段一人で登下校しているので、わざわざ学校まで迎えにくるというのはちょっとありえそうにない。それとも、この日だけたまたま何かあったのだろうか……。
 滝沢さんの推理どおり、その男の人は、上原さんの彼氏ということならば、一応筋は通るが、僕としては何となく納得できないものがある。上原さん自身は性格いいし、多分容姿もかわいいだろうから、彼氏がいること自体はさほど不思議ではないが、もし仮に彼氏だとしたら、わざわざ学校の出入り口で待ち合わせるようなことをするだろうか。うちの学校は生徒数が少ないので、他学部の先生や事務職員、調理師など、たいていの生徒の顔と名前は学校中に知れ渡っている。出入り口は事務室からよく見えるし、今日の滝沢さんのようにたまたま通りかかった先生などいたら、場合によっては学校中のうわさにもなりかねない。普段の彼女の様子からして、果たしてそんな真似するだろうか……。
 しかし、結局のところ僕は上原さんのことについてはほとんど何も知らない。僕が知っている上原さんなんて、ほんの一部分だけであって、もしかしたら堂々と学校の前で彼氏と待ち合わせをするような大胆なところも隠しもっているのかもしれないなと思った。

 うだるような暑さとはまさにこのこと、夏とはいえ朝からこの暑さはたまらない。僕は額にうっすらと汗を浮かべながら、学校までの道のりを急いでいた。
(今朝は滝沢さん、上原さんと一緒に登校してくるのだろうか……)
ふとそんな考えが頭を過ぎった。他人事とはいえ、部活の先輩とクラスメイトに関わることだけに、昨夕から何となく心に引っかかっている。気になる女の子から不可解な態度をされた、他の男の人と仲良くしているところを見かけた、そんな心の傷を抱えた状態で、いつものようにホームの上で電車を待っている彼女の姿を見かける。多分、僕だったらいつものように声かける勇気は出ないと思う……。滝沢さんの胸の内を想像すると、僕まで気持ちが沈むような心地を感じるのはなぜだろう……。
 8時20分過ぎ、上原さんが教室に入ってきた。僕は耳を使って、彼女の声色や戸塚との会話の内容から自分なりに観察してみたが、上原さんの態度に変わった様子はないように思える。別にイライラしていないし、特に落ち込んでいる風でもない、まさにいつもの上原さんだ。やはり、一昨日の缶ジュースの件は、たまたま機嫌が良くなかっただけなのだろうか。
 朝のショートホームルームが終わると、1時間目の授業が始まる。うちの盲特別支援学校では、各生徒の身体状況や学習能力に応じた4つのコースが設けられており、卒業後の進路を踏まえたカリキュラムが組まれている。僕と上原さんと戸塚と林は同じコースなので、自然とこの4人といる時間が多くなる。
 今日の午前中は、時間割の関係で1時間目から4時間目まで同じ普通科1年生教室で受ける授業が重なっている。室内プールを備えたうちの学校でも、冷房があるのは音楽室やLL教室などの一部の特別教室だけで、一般教室には設置されていない。一応、授業中は窓を全て開け放しているが、ほとんど風が入ってこないどころか、かえってセミの声が耳につくばかりで、先生の話に全く集中できない。暑いのは先生も同じようで、教科書を読み上げたり、開設をする声に、何となく張りのない、やや気だるそうな調子が含まれているように思えた。
 午前中の授業も半分が終わり、2時間目と3時間目の間の15分休みになった。僕は朝からのうだるような暑さにすっかり参ってしまい、点字用紙を団扇代わりにバタバタと扇ぎながら、机の上で伸びていた。すでに武ちゃんと直樹が教室に戻ってきており、誰も出て行った様子がないことを考えると、おそらく林も教室にいるのだろう。林は無口な男なので、すぐ傍にいてもこちらが察知できないことが多々ある。
 机の上でぼんやりしていると、右隣の戸塚と上原さんの会話が自然と耳に入ってきた。
「上原さぁん、今日は何だか元気ないみたいだけど……、大丈夫?」
「……うん、平気だよ。……でも急に暑くなったから、ちょっとばててるかも……」
「暑いよねー。私この時期になると無償にジェラートが食べたくなって、いつも学校の帰りにね……」
戸塚はアイスクリームが大好物で、夏に限らずほぼ1年通してよく買い食いしている。確かに去年の今頃、よく途中のコンビニでジェラート買っては幸せそうに食べていたっけと思い出した。あまりにも頻繁にジェラートばかり食べているので、僕は心の中では「太るぞ」と思っていたが、さすがに女の子にストレートに言うほど僕は非常識な人間ではない。あるとき戸塚から「沢木くんも食べたら、おいしいよ」と言われたので
「太るからいらない」
と言ったら、急に脛に激痛が走ったことも思い出した。
 女の子同士の会話を盗み聞きするような趣味はないが、耳に入ってくる2人の会話を聞いていると、戸塚が指摘したように、相槌を打つ上原さんの声音にはあまり元気がなく、少々大儀そうな雰囲気さえある。体調でも崩したのだろうか。僕の夏風邪が移っていなければいいのだが……。
「……ところでさ、上原さんってバレーボールは好き?」
と戸塚は急に話題を変えた。
「……うん……、好きだけど……」
「ホント! だったらさバレー部に入らない? 今年進入部員が全然入らなくって、秋に先輩たちが引退しちゃうとちょっと厳しくなるんだ。視覚障害者のバレーボールだからちょっとルールが違うんだけど、もし好きなら絶対に楽しいから一緒にやろうよ。上原さんまだどの部にも入ってないでしょ……」
(上原さんにバレー部は向かないだろ……)
僕は心の中で突っ込みを入れた。視覚障害者が行うバレーボールを「フロアバレーボール」と言い、文字通りボールを床に転がすようにして打ち合うのだが、近距離にもかかわらず、力いっぱいスパイクしてくるので、本当に体を張ってブロックしなければならないし、下手すれば顔や足の間にボールが直撃することだってある。僕はこのスポーツがいやで仕方ないのだが、視覚障害者の世界ではかなり人気のあるスポーツで、学生だけではなく、社会人も地元のクラブチームなどに入って、平日の夜や週末に楽しんでいるらしい。戸塚としては、クラスで一番仲の良い上原さんと一緒に部活もしたいという気持ちから誘っているのだろうが、いくら部員確保のためだからとはいえ、あんな痛い思いをする激しいスポーツに上原さんを誘うのは、ちょっと強引すぎやしないかと思う。
 案の定、上原さんもあまり気乗りしないらしく、「うーん……」と口篭もってしまい
「……面白そうだけど……、ルール違うからちょっと馴染まないかも……」
「ルールは違うけど、基本的には一般の6人制バレーボールと同じだよ。……もしかして中学のときとかバレーやってた?」
「……途中でやめちゃったけど……バレーボール部だった……」
「それなら是非入ってよ! 上原さんならきっと戦力になるから」
「……今はいい」
畳み掛けるような戸塚のラブコールに、上原さんの声のトーンはだんだん低くなり、困惑しているというよりも、むしろ迷惑そうな不快な調子を帯びているような気がして、机の上で伸びている僕は思わず体を硬くしてしまった。上原さんの口調の変化に気づかないのか、戸塚が続けて「そんなこと言わずにさ……」と言うや否や
「いいって言ってるでしょ、しつこいな!」
 僕は思わず扇いでいた手をピタリと止めてしまった。僕だけではない、教室内に流れている時間そのものが塞き止められたかのごとく、一瞬みんなの動きや呼吸が止まったような雰囲気を感じた。決して声高に叫んだわけではないが、いつもは静かめで落ち着いた話し方をする上原さんが、戸塚に向かって、威圧的とも取れる履き捨てるような言い方をしたことそのものに驚いてしまい、正直誰が発した言葉なのかすぐには理解できなかった。
 当の戸塚も何が起こったのかとっさに理解できなかったらしく、あれほど陽気に話していたにもかかわらず、一瞬言葉を失ったように黙りこくってしまった。時間にして10秒程度の沈黙をおいて、少しずつ状況が把握できるようになってきたのか、何かしらの感情がむくむくと芽生えてきたのか「……どうしたの急に怒ったりして……」と戸塚はおずおずと、そしてやや怪訝そうな声音を含めて上原さんに話しかけると「うるさいなぁ」と一蹴されてしまった。
「……そんな言い方しなくてもいいじゃない!」
戸塚はいきり立ち、だんだんと語気も強くなってきた。戸塚は根は陽気で快活な女の子だが、時々自分の気持ちをコントロールできずに感情的な言動が現れることがある。上原さんの態度に一種のパニックを起こしたのか、やや声を荒げて詰め寄っている。
(やばいな)
険悪な雰囲気に、僕は机にうつ伏せになりながらどうすることもできずにドキドキしていると、戸塚の真後ろの席に座っている林が
「……喧嘩するなら外出てやってくれよ」
とぼそりと、それでいてはっきりとした口調で言った。とたんに戸塚は不快感剥き出しに「何よぉ!」と、怒りの矛先を林に向けてきた。
 そのとき、タイミングよく3時間目の始業を知らせるチャイムが鳴り響き、間もなく数学の岡部俊彦先生が入ってきた。先生は凍りついたように身動きをしない僕たちを見て不思議に思ったのか
「おーい、もう3時間目始まっているぞー。高橋くんと武田くん、早く次の教室へ行きなさい。……沢木くん、いつまで寝ているんだ、早く準備しなさい」
僕は金縛りが解けたようにガバっと起き上がり、そそくさと教科書や筆記用具を机に並べ始めた。同時に、武ちゃんと直樹は一言もしゃべらず、2人そろってバタバタと逃げるように教室を出て行ってしまった。
(助かった……)
授業が始まったおかげで、戸塚のテンションも急激に下がり、険悪な雰囲気は息を潜めた。 その後は何事もなかったかのようにたんたんと授業が進められ、戸塚も上原さんも、先生の問いかけなどにはいつものように応じていた。しかし、それは上辺だけで、彼女たちの間には、ギクシャクとした不穏な空気が渦巻いている。2人とも、授業中はおろか給食の時間ですらも、隣同士であるにもかかわらず、お互い相手が存在していないように一言も言葉を交わさず、まるで互いを黙殺しているように思えた。
 戸塚はものすごい勢いで給食を食べ終えたかと思うと、さっさと体育館へ出かけてしまった。黙ってもくもくと給食を食べている上原さんは、そんな戸塚の様子を耳や肌で感じとりながら何を考えているのだろう。
 僕はお箸でつまもうと、給食の煮豆と格闘しながら、先ほどの出来事を思い返していた。戸塚は、上原さんにバレー部に入らないかと勧誘した……、ただそれだけだ。捕らえ方によっては、少々強引な誘い方だったかもしれないが、何度思い出しても、上原さんを不快にさせるような発言があったとは思えない。なのに、あのときの彼女の態度は、この3ヶ月間の付き合いで感じていた、明るくて礼儀正しい普段の様子からは全くかけ離れたものだった。会話の内容から、中学生の頃にバレーボール部に入っていたみたいだから、多分バレーボールそのものに不快感を抱いたわけではないはず。それならば、何が彼女の機嫌を損ねてしまったのだろうか……。
 僕は15分休みの件と、昨日の滝沢さんの話を頭の中で重ね合わせてみた。滝沢さんは缶ジュースをご馳走しようとした、戸塚はバレー部に勧誘しようとした。普通に考えれば、どちらも別にどうということもないはずだが、とたんに上原さんの態度が変わってしまったこと、当の本人、いや、おそらく他の人にも何が彼女を不快にさせたのか原因がわからないことが共通している。しかし、どう考えても缶ジュースと勧誘、この2つを結びつける共通点が見つからない。もしかしたら、これら2つは直接は関係なく、彼女を不快にさせている根本的な原因が他にあるのだろうか。もしそうだとしたら、普段からイライラしていたり、始終不愉快そうにブスっとしていてもおかしくないと思うが、そんな様子はほとんどない。ほとんどないからこそ、今回のような態度を見せられると非常に面食らってしまう。やはり、滝沢さんと戸塚の何かに原因があるのだろうか……。
 僕にとっての最大の問題は、戸塚の機嫌がすっかり悪くなってしまったことだ。(放課後までに戸塚の機嫌が直ればいいな……)と思いながら僕は肩をすくめた。

 「もうちょっとゆっくり歩いてくれよ」
「歩いているわよ」
戸塚がブスっとした調子で答えた。放課後、僕と戸塚は駅前商店街を抜けた国道沿いにあるバス停目指して歩いていた。というのも、僕たちは「創立120周年記念事業委員会」の委員をしているのだが、うちの学校が今年で創立120周年を迎えるにあたり、今年の秋の文化祭までに記念誌を作成することになっている。記念誌の内容は、在校生や卒業生、ゆかりの深い先生方などから、現在の学校の様子・在学当時の思い出・これからの視覚障害児教育に求めることなどについて執筆していただき、集めた原稿を冊子にし、文化祭で配布するのだが、この記念誌作成が思った以上に難航した。5月の連休明け、先生たちが名簿等を頼りに執筆してくれそうな人をピックアップし、原稿依頼をした。分量は、スペースやレイアウトの関係もあって、400字詰原稿用紙1枚、点字で提出する場合は600文字程度とし、1ヵ月後の6月上旬までに提出するようお願いしたが、実際は締切日を過ぎても思ったほど原稿が集まらず、催促の電話を入れなければならない、また提出しても分量がはるかにオーバーしているなどの理由で修正や再提出をお願いしなければならないなどのトラブルが重なり、結局全ての原稿がきちんと出揃ったのは、6月の半ば過ぎのことだった。しかしながら、提出された原稿は点字で書かれたもの・手書きで書かれたもの・パソコン入力されたデータ形式になっているものなど、媒体がまちまちなので、それら全てを活字と点字にしなければならない。活字と同様、展示の文書を作成するためのパソコンソフトもあるので、全盲の生徒が点字の生原稿を読んで、点字と活字のデータを、弱視の生徒が活字の生原稿を読んで、同じく点字と活字のデータを作成する。そして、それらのデータを元に製本し、通常の活字版に加え、点訳版・拡大文字版・録音版の4媒体を作成するわけだが、点字の本を作成するとなると、学校にある印刷設備だけでは不十分だし、何よりも製本作業そのものが学生の手にあまる。そこで、製本作業についてはNPO法人ランプの会に依頼することになった。
 「ランプの会」とは、主に横浜市内に居住する一般市民の方たちが運営しているボランティアグループで、視覚障害者への情報保証を目的に、点訳・音訳・拡大などを行っており、数年前には法人格を取得しNPO団体として活動している。
 当初の予定では、夏休み前に、全ての原稿をデータ化したものを入稿することになっていたが、回収が思うように進まなかったことから、急遽原稿を受け取り次第すぐに点字・活字のデータにし、ある程度まとまったところで、順次ランプの会にメールで送ることになったのである。
 メールによる入稿がほぼ完了した頃、ランプの会から学校に連絡があり、原稿の一部を仮点訳及び仮拡大してみたので、レイアウトや文字の大きさなど実際に見て確認してほしいとの依頼があった。ランプの会の事務局はJR鶴見駅の傍、つまり僕と戸塚の地元ということで、僕たち2人はこれからランプの会の事務局に行き、仮原稿を確認しに行くのだ。
 地元とはいえ、下校ルートとは全く外れてしまうので少々面倒な思いを感じていることは否めないが、依頼内容はただ原稿を読んで読みやすい・読みにくいなどの感想を伝えるだけ。作業としては楽なものだが、僕にとっての最大の問題は、同行する戸塚の機嫌が非常に悪いということだ。15分休みの一件があってからというもの、昼休みや5・6時間目の授業、そして掃除の時間でさえもほとんど口を開かず、動作もどことなく荒々しいものを感じる。このような不のオーラは目が見えなくても伝わるもので、僕や武ちゃんや直樹は、この件については無関係であるはずなのに、いつものように気軽に声かけられない空気を察知し、3人とも戸塚とは距離を置いている。
 また、掃除が終わって、特別教室の鍵を返しに職員室に向かっている途中、15分休みのことなど全く知らないはずの中学部の後輩から
「昼休みにみんなでバレーしてたとき、戸塚さん何だかイライラしているような気がしたんですけど……何かあったんですか?」などと聞かれる始末。
「どうしたんだろうな、あいつ」と適当にお茶濁しておいたが、そのあいつとこれから2人きりで出かけなければならないと思うと少々うんざりする。
 教室に戻るや否や、「そろそろ行くわよ」と、カリカリプリプリした感情を凝縮したような声音で呼びかけ、僕の準備が整うとすぐに教室を飛び出してしまった。正直、ここまで自分の感情を、周囲の目も気にせずに、ストレートに表現できる人も珍しい。
 一応右腕を捕まらせてくれたが、歩くスピードが異常に速い。あまり話しかけられる雰囲気ではなかったが、さすがに歩きにくいので「ゆっくり歩け」と言ったところ「歩いている」と、完全に僕のお願いは無視されてしまった。女の子とはいえ、普段から体を動かしている戸塚の早足に、机にへばりついてパソコンや読書ばかりしている万年運動不足の僕の足が追いつくわけもなく、僕は彼女に振り切られないよう必死に足を動かしていた。
 彼女に出会って3年経つが、こんなに不機嫌な戸塚を見るのは初めてかもしれない。戸塚は、何かいやなことがあると、ほぼ必ずといっていいほど僕や武ちゃんや直樹に愚痴をこぼしたり、一人でぶつぶつと文句を言っている。おそらく、心の中の不快感を言葉にして体の外に吐き出すことで、自分の気持ちを静めているのだろう。実際、昼休みにぶつぶつ文句言っていたと思えば、放課後には何事もなかったかのようにケロっとしていることも珍しくない。
 しかし、今の戸塚は、15分休みに起こった上原さんとの一件については一言も口にしていない。あくまでも僕の想像だが、おそらく今心の中に渦巻いている感情をそのまま言葉にするということは、上原さんに対する怒りとか憎しみといった誹謗中傷が飛び出すことは想像に難くない。しかし、それを口にしてしまうと、彼女の中で大切に積み上げてきた上原さんへの信頼感なり友情を自らが踏みにじることになり、結果として自分で自分を傷つけてしまうことにもなりかねない。
 戸塚は、生まれつき視力が弱かったため、幼稚園の頃からうちの盲特別支援学校に通っている。入園当時、戸塚の他に直樹と美奈ちゃんがおり、小学部に上がったときに武ちゃんと雄介が入学してきた。そして、中学部に上がったときに僕が入学してきたわけだが、9年間の義務教育時代、戸塚たちはほんの5・6人しかいないクラスで学校生活を送ってきた。戸塚と同性のクラスメイトに美奈ちゃんがいるが、彼女には大変失礼な物言いになってしまうが、視覚以外にも障害をもち、会話など、コミュニケーションを取ることそのものが難しい美奈ちゃんとは、戸塚が望むような友達付き合いはできないと思う。小学生の頃から武ちゃんや直樹とは仲良しだったが、多分同じクラスに自分と気の合う同性の友達がいないことに、寂しさを感じることがあったに違いない。
 中学生の頃、戸塚は登校してカバンを机に置くや否や、すぐに他学年のクラスの女の子のところへ遊びに行っていた。昼休みには体育館でバレーボールをし、部活のない放課後にも他学年のクラスで他の女の子たちと群がり、そのまま一緒に下校することもあった。
 しかし、この春に上原さんが入学してきたことで戸塚の学校生活はガラリと変わった。昼休みのバレーボールは相変わらずとしても、朝は教室で上原さんが登校するのを待っているし、放課後には2人きりまたは僕たち男子も交えて他愛のないおしゃべりに花を咲かせたり、どちらかが休んだときには、上原さんが点字、戸塚が活字のノートを読み上げて書き写していることもあった。きっと、戸塚にとって上原さんは10年近く待ちわびていた気の合う同性のクラスメイトと言っても決して過言ではないだろうし、掛け替えのない友達でもあるはずだ。その掛け替えのない友達から浴びせられた威圧的な発言と不機嫌な態度……。創造すらもしていなかった上原さんの言動に、戸塚は深く傷ついたことだろうし、何が上原さんの気に障ったのか、その場に居合わせた僕ですらもよくわからないのだから、当の戸塚は、なぜあんなこと言われなければならないのか困惑していることだろう。そして、自分の中にある不快感をどう発散すればいいのか、気持ちを落ち好ける術がないことに戸惑っているはずだ。
 「なあ……」と僕はおそるおそるといった感じで戸塚に声をかけたが、彼女からは何も反応がない。かまわず僕は「……15分休みにさぁ……、オレたまたま戸塚たちの話聞いていたんだけど、別におまえは上原さんに対して何も失礼なことは言っていないと思うぜ……」
「あっそ。人の話盗み聞きしないでよね」
と戸塚はこちらの方には目もくれず、真っ直ぐ正面を見るような調子で言い放った。盗み聞きも何も、あれだけ大きな声で話しているのだから、同じ教室にいればいやでも耳に入ってくる。戸塚の物言いにちょっとカチンとくるものがあったが、僕まで不機嫌になってしまっては話が進まない。ここは少しだけ大人になって気持ちを落ち着けて
「……オレ思うんだけど、今回はお互いの気持ちというか、伝えたいことがちゃんと届かなくて、すれ違いが起こっちゃったような気がするんだ……」
戸塚は何も答えない。僕は慎重に言葉を選びながら
「傍で聞いていても、戸塚の言葉に何か上原さんを怒らせるようなニュアンスなり意味が含まれているようには思えないんだ。でも、自分は普通に会話しているつもりでも、聞き様によっては相手を不愉快にさせたり、傷つけてしまうことだって充分ありえるんだ。だからって、それを口にした人が悪いというわけじゃなくて、こちらの言葉に対して相手がどんな感情を抱くかなんてわかりっこないんだから、お互いの気持ちがすれ違っちゃったとしてもある意味仕方のないことなんだよ……と思うよ。今はイライラしているから冷静に考えることができないかもしれないけど、お互いの気持ちが落ち着いたところで、あのときの自分の気持ちなり伝えたかったことを改めて話してみれば、わりとすんなり誤解が解けるかもよ」
「別にイライラなんかしてないもん。大きなお世話だよ!」
 今の戸塚には何を言っても無駄らしい。ここまで心を砕いても、肝心の戸塚が聞く耳をもっていなければ意味がない。少々投げやりな気分になった僕は、心の中で「もう知らん、勝手にしろ!」と毒づいた。そのとき、ガスッと右ひざに鈍い痛みが走ったかと思うと、戸塚の「あっ!」という叫び声が耳に入った。次の瞬間、僕のすぐ前でガッシャーン……ボトボトと聞こえ、「大変!」と戸塚は状態を屈めてしまった。ひざの痛みは大したことはないが、突然のことに何が起こったのか状況を把握することができず、ぼんやりと突っ立っていると
「馬鹿野郎!」
と怒鳴り声が聞こえ、ドタドタと誰かが近寄ってくるような気配を感じた。声の調子から推測すると、おそらく50前後くらいの男の人で、怒鳴りつけてきたせいもあり、恐持てのいかつい親父のような印象を受けた。更に降りかかってきた出来事に、僕はすっかり動揺し、戸塚は屈んだ姿勢のまま「……ご……ごめんなさい」とおたおたしている。
「何ぼんやり歩いているんだよ! 荷台のもの全部道にぶちまけやがって! これ今買ってきたばかりなんだぞ!」
「すいません……」
先ほどのブスっとした態度はどこへやら、戸塚は神妙ながらもはっきりした口調で再度謝罪した。僕にもだんだんと状況が飲み込めてきた。通学路は途中から駅前の大通りに入り、そこには様々な商店が並んでいる。おそらく、この男の人は自転車を使って買い物をしており、お店に入っているときに駐輪していたところ、たまたま通りかかった僕がぶつかって倒してしまい、今まで買ったものを全部ひっくり返してしまったのだろう。いつもなら、体がぶつかる前に戸塚が気づく、または僕のもっている白杖で察知することができるのだが、戸塚の心が乱れていたことで注意力が散慢になり、加えていつもよりも速い速度で歩いていたことで勢いがつき、僕たちが気づく前に倒してしまったのだろう。少しずつ事の重大さを認識するに連れ、背中にスーっとしたものが走り、僕の顔はだんだんと青くなった。
 取りあえず「すいませんでした」と頭を下げたものの、男の人の怒りは収まらず「おまえらなぁ」ときつい口調でなおも迫ってきた。
「どうするつもりだよ! 狭い歩道をぼんやり並んで歩くんじゃねえよ!余所見しながら歩くな!」
「……申し訳ありません」
僕と戸塚は声をそろえて誠心誠意誤ったが、男の人はバンと足を踏み鳴らし、忌々しそうに舌打ちした。
「ちゃんと前見ていないからこういうことになるんだよ、馬鹿野郎! どこに目つけているんだ! だいたいなぁ……」
突然男の人は言葉を切り、数秒間黙りこくってしまった。
「……おまえら目悪いのか……」
今までの勢いが急に衰え、気の抜けたような声音で呟いた。どうやら僕たちの目の色、または僕がもっている白杖に気づいたらしい。「目悪いのか?」と聞かれても、どう答えたものかと僕たち2人が躊躇していると、思わず出てしまった自分の失言に動揺したのか、言葉にならない声を2・3度呟いたかと思うと
「もういい。さっさと行け」
と小声ながらも吐き捨てるような調子で言い、黙ったままあたふたと散らばった荷物をかき集めるような雰囲気を察知した次の瞬間には自転車に乗ってどこかへと行ってしまった。
 男の人がいなくなってからも、僕はぽかんと突っ立っていたが、今まで屈みこんでいた戸塚がすっくと立ち上がり「なあに、アレ!」と先ほどのようなブスっとした声音で呟き
「自転車倒したのは私たちのせいだけど、何が『ちゃんと前観ていないから』よ! こっちは元々見えにくいっつーの。知らないからって言っていいことと悪いことがあるわよ! しかも私たちが視覚障害者だってわかったとたん急に逃げ出して、感じ悪いったらありゃしない!そもそも通学路の点字ブロックの上に自転車止めとくなっつーの!非常識もいいとこよ!」
今日は戸塚にとって厄日なのか、15分休みの一件で不機嫌になっているところに加え今のハプニングだ。「行くよっ!」と戸塚に怒鳴りつけられるような声音で言われ、僕は腫れ物にでも触るような手つきでこわごわと彼女の右腕を掴んだ。僕は戸塚に引っ張られながら一緒にバス停目指して歩いていたが、道々彼女は「たくもぉー!」とか「あったまくんなぁ!」とか「むかつくなぁ!」など、苛立ちながらぶつぶつと言い続けている。ここまで気持ちが乱れてしまうと、もう何も言うことができない。僕はできるだけ彼女の神経を逆なでしないよう、口を真一文字に結んで、黙ったまま彼女に着いて行った。
 国道沿いを走るバスに揺られること30分弱、終点で下車した僕たちはランプの会の事務局がある駅前の雑居ビル目指して歩いた。区内に住んでいる視覚障害者には有名な団体なので、ほとんど迷わずにたどり着くことができ、僕はやっと緊張の糸を緩めることができた。彼女には悪いが、今の戸塚と一緒にいると、こちらまで不愉快な気持ちにさせられる。僕はさっさと依頼を済ませ、彼女の傍を離れたかった。1階の自動ドアを抜け、エレベーターホールに入ると、突然戸塚は「あ!」と小さな叫び声をあげた。また何か起きたのかと、僕はうんざりしながらも身をすくめていると、前方から「おや?」という、優しげでのほほんとした中年くらいの男の人の声が聞こえてきた。
「どこかで聞いたことのある声だな」
と記憶の糸を手繰り寄せていると、戸塚がその男の人に向かって叫んだ。
「お父さんじゃない!」

 数分後、僕たちはランプの会の事務局に通された。パーティッションで区切られただけの応接室のテーブルには僕と戸塚、そして戸塚のお父さんと……
「こちらにいらっしゃるのは宮城実先生。すでに定年退職されているが、お父さんが理療科の学生だった頃に解剖学や生理学を教えてくれた恩師だ」
と戸塚のお父さんが紹介した。戸塚のお父さんは全盲で、聞くところによると、30数年前に僕たちと同じ盲特別支援学校の小学部に入学し、高等部専攻科理療科であんま・マッサージ・指圧・鍼・灸の資格を取るまで通っていたらしい。卒業後は自宅開業し「うぐいす治療院」という治療院を経営している。また、横浜市では各区ごとに視覚障害者を対象とした当事者団体が活動しているが、戸塚のお父さんはうちの区の会長をしている。
「先生、娘の直子と同級生の沢木くんです。2人とも盲特別支援学校の普通科1年生です」
「はじめまして」と僕たち2人は声を揃えて宮城先生に挨拶した。
「こちらこそ、はじめまして」
すでに定年退職されているということだから、おそらく70歳くらいだろうと思われるが、低音の効いた凛々しい声音は精悍で力強く、きっと外見も実年齢より若く見えるのではないかと思われた。
「2人はランプの会にはよくきているのかな?」宮城先生の質問に、僕は「いいえ」と答え、創立120周年記念事業委員会のこと、記念誌作成のこと、製本をランプの会に依頼したこと、仮原稿の確認にきたことをかいつまんで説明した。
「私のところにも原稿依頼があったよ。そうか、記念誌は君たちが作成してたのか。うちの学校が創立100周年を迎えたときに最初の記念誌が作られて、それから10年おきに発行するようになったんだ。10年前書かせてもらったときは、確か定年後の非常勤講師の最後の年じゃなかったかな……、あれから10年が経つのか、実に感慨深い」
10年前を思い出したのか、宮城先生の声は一言一言かみ締めるようなゆっくりとした声音になった。
「この記念誌は、これから先本校の歴史を語る上で重要な資料になることだろう。編集作業大変だろうけど、頑張って素晴らしい記念誌を作ってください」
「ありがとうございます」と、戸塚は中腰にでもなったのか、やや状態を前のめりにしながらお礼を言った。すると戸塚は僕の右腕のあたりをツンツンとつつきながら小声で「沢木くん、宮城先生が握手だって」と教えてくれた。僕はやや腰を浮かせ、声の方向から斜め前にいるであろう宮城先生のほうに手を伸ばした。しかし、宮城先生も全盲なのか、お互いうまく相手の手が掴めず、触れたかと思ったら宮城先生の手首だった。僕はそのまま手をスライドさせてうまく握手することができたが、このときジーンというような震えが手に伝わってきたような気がした。
 「驚いちゃったわよ。だって思いがけないところでお父さんに会うんだもん」
戸塚がお父さんに向かって言うと、「こっちもだよ」と苦笑いしながら出されたお茶をズズっと飲んだ。
「ところで、お父さんたちがここにきたのは……」
「それはな」と、戸塚のお父さんはコンとテーブルの上に湯飲みを置きながら
「宮城先生は、東京都内で視覚障害者の啓発活動や運動、ボランティア育成に尽力されておられるのだが、近々点訳やガイドヘルプなど、視覚障害者を対象としたボランティア団体を立ち上げる計画があるんだ。そこで、前準備として他の地域で活動しているボランティア団体を回って、運営の方法や活動形態などを聞いて、今後の参考にしたいとおっしゃっている。先日、お父さんのところに宮城先生から、うちの地元で活動しているボランティア団体があったら是非紹介してほしいとの依頼があったので、今日ランプの会にお連れしたわけなのだが……、まさか直子もくるとは思わなかったよ」
「こちらには5時にお伺いする予定だったのだが、電車の乗り継ぎ画よかったのか、約束の時間よりも早く戸塚くんのところに着いたのでそのままきてしまったんだ。まさか先約があるとは思わなかったので、大変失礼なことをした」
宮城先生は申し訳なさそうな口調で謝罪してきたので、戸塚は慌てて「いえいえ」と言い
「私たちは仮原稿の確認をするだけなので、そんなに時間かからないと思いますよ」
と戸塚が言うと「そう言っていただけると……」と安堵したような柔らかな声音で応じた。
 「ところで、ちょっとお聞きしたいんですけど……」戸塚はまるでいたずらっぽい微笑を浮かべているような声音で
「うちのお父さんってどんな学生でしたか? ちゃんとまじめに勉強してましたか?」
と聞いた。とたんに戸塚のお父さんはむせ返り、宮城先生はアッハッハと豪傑笑いをした。
「戸塚くんかぁ、いやぁ、授業中はよく居眠りしてたなぁ。でも、不思議なことに質問には的確に答えられるし、試験もいつもいい点取っていたから、勉強はよくできていたよ。それと、よく教科書やノートをどこにしまったのか忘れることがあって、授業前によく『あれ……ないなぁ……ないなぁ』ってぶつぶつ言っては由起子さんに探してもらっていたっけ」
「先生! そんな昔のこと掘り返さないでくださいよ……」
戸塚のお父さんは少々弱ったような、閥が悪そうな調子で言ったが、娘の戸塚は「へー」とややからかうような調子で
「お父さんって、昔からお母さんの世話ばかり焼いていたんだね」
由起子さんとは戸塚のお母さんだ。聞くところによると、戸塚のお母さんは弱視で、戸塚のお父さんとは小学部の頃からずっと一緒らしい。戸塚のお父さんは咳ばらいをひとつすると
「お母さんにはよけいなこと言うなよ」
「よけいなことって? 授業中寝てばっかりいたこととか?」
「お父さんは器用なんだ。授業中眠たくなっても耳は起きているから、ちゃんと先生の話は聞いていたんだ」
とわけのわからないことを言ってきたが、戸塚はすかさず
「どうせ放課後にでもお母さんからノート見せてもらっていたんじゃないの」
図星だったらしい。戸塚のお父さんは「うっ……」と絶句してしまい、戸塚と宮城先生は愉快そうに笑っている。傍らで戸塚親子の会話を聞いていた僕は、戸塚って家でもこんな感じでお父さんとコミュニケーションとっているんだと、新たな彼女の一面を垣間見たような気がした。と同時に、このお父さんと一緒に暮らしていればさぞかし楽しい家庭を築いていることだろうし、快活で陽気な娘が育つのもある意味当然だなと一人納得していた。
 そのとき、「お待たせしましたぁー」と元気のいいはつらつとした女性の声が飛び込んできた。NPO法人ランプの会代表の田場義美さんが入ってきたのだ。
「ごめんなさい。急に対応しなければならない案件が入りまして……大変失礼しました」と少々息を弾ませながら言った。
「相変わらずお忙しそうですな」と戸塚のお父さんが労いの言葉をかけると
「ええ。これまでは主に官庁を対象に、視覚障害者への情報保障ということで広報やら制度案内のパンフレットなどの点訳以来や音訳依頼を受けてきましたが、今はユニバーサルデザインの思想もかなり浸透してきて、高齢者や障害者を意識した商品やサービスを提供している企業が増えてきたんですよ。そこで、ユニバーサルデザインに積極的に取り組んでいる民間企業にも働きかけて、点訳や音訳、そして視覚障害者の視点から、適切な商品またはサービス提供ができているかチェックしたり、改善点を提案するなどのコンサルティングも受注しているんです」
「ほおー」と宮城先生は感嘆したような声をあげた。
「かなり戦略的に活動されておりますな」
「私たちにはNPO法人になる前から点訳や音訳のボランティアとしての技術がありますし、主に区内の視覚障害者の方たちと接する機会も多いので、視覚障害者に関する知識も蓄積しているつもりです。そのような技術なり知識を社会に提供することが私たちの仕事でありますし、しいては視覚障害者の社会参加の礎にも繋がると考えております」
「そういう団体がうちの地域でも活動してほしいと思っているんですよ」
「ランプの会は我が地元が誇る横浜一の団体ですから」
大人3人の話が盛り上がり、僕と戸塚は黙ったまま蚊帳の外にいるような疎外感を感じていると
「あら、ごめんなさいね。あなたたちのほうが先だったわね」
と田場さんはやっと僕たちの存在に気づき、戸塚のお父さんと宮城先生は「ごめんごめん」と言いながら強縮していた。
 「これなんだけどね」と、僕たちの前にバサリと何かを置いた。手を伸ばすと、例の仮原稿があり、僕は点字、戸塚は拡大原稿をそれぞれ手に取った。点字の原稿には表紙と目次、そして学校長の挨拶とほんの2・3人分の原稿が点訳されていた。
「こんな感じで作成しようと思っているんだけど、どうかしら?」
「点字はいいと思いますよ。レイアウトも整っているし、適当なスペースもあるから読みやすいし……」
戸塚は「うーん」と唸りながら
「……私は読みやすいんですけど、他の弱視の人はどうかなって。人によっては文字の大きさや字体を変えたほうがいいという人がいるかもしれないし……」
「そうね。弱視の人の見え方は個々それぞれだから、拡大については一人の意見で決めるのはちょっと難しいわね」
「もしよければ、これ学校にもって行ってもいいですか? 他の弱視の生徒や先生にもお見せして、その結果を後日伝えたいんですけど」
「そのほうがいいわね」と田場さんは了解してくれた。
「それ差し上げるから、2・3日くらいでお返事いただけないかしら?」
「ありがとうございます」と戸塚はゴソゴソとカバンの中に仮原稿をしまいこんだ。
 「ご面倒おかけしますが、どうぞよろしくお願いします」と僕は挨拶し、これで失礼しようと準備をしていると、束さんは急に「あら?」と言い
「宮城さん、右手の前のほうにお茶お出ししていたんですけど、お気づきでしょうか?ちゃんとお伝えしなくて申し訳ありません」
と謝罪した。田場さんが言っているのは、応接室に通された時に出してくれた緑茶のことで、どうやら宮城先生はまだ口をつけていなかったらしい。
「いえいえ、ちゃんとわかってますよ。お気遣いいただきありがとうございます」
「そうですか。いや、時々こういうちょっとしたことがきちんとお伝えできないことがあるんで、つい……」
「ちょっと今は水分を控えなければならないので」
と宮城先生が言うと「どうかされたんですか?」と戸塚のお父さんが尋ねた。宮城先生は少々言いにくそうに
「……実はね、去年から……」
宮城先生の話に、戸塚のお父さんは「そうだったんですか!」と驚き、田場さんは「それはそれは、大変ですね」と労い、戸塚は「そうなんですか……」と胸をつかれたような弱弱しい声音で応じていた。
 瞬時に僕は先ほどの宮城先生との握手のことが脳裏を過ぎり、僕の中に衝撃が走った。戸塚のお父さんや田場さんはしきりに「大丈夫ですか?」とか「ご自愛ください」と言い、宮城先生は快活な調子で「そんなに心配することはないですよ」と笑って応じていたが、僕は身震いするような動揺を覚え、何も言葉が出なかった。
「どうしたの沢木くん?」
ぼんやりしていたせいか、戸塚が心配そうに声をかけてきた。「いや、何でもない」と生返事をし、僕は席を立った。
「それでは失礼します。お父さん、私先に帰ってるね」
僕たち2人はエレベーターホールに向かって歩いていたが、空ろな表情を浮かべてぼーっとしていたせいか、再度戸塚は「どうしたの急に……」と怪訝そうな声音で聞いてきた。心の動揺が落ち着くに連れ、記憶の中のいくつもの情報が浮かんでは消えていく。僕の頭の中で、バラバラだと思っていたいくつもの点が、ゆっくりと繋がり合ってひとつの線を作ろうとしているが、僕の心が線になることをどうしても許さなかった。信じられない、信じたくない、できることなら杞憂に終わってほしいと切望するが、一度頭に浮かんだ推測はそんな僕の気持ちとは裏腹に、僕の頭の中に、そして心の中にどっかりと居座っている。
 駅前で戸塚と別れ、彼女は東口、僕は西口のバスターミナルに向かった。帰宅するなり母から「すぐできるからカバン置いたら食堂にいらっしゃい」と言われたが、あまり食事する気分にはなれず「調べ物があるから、2・30分したら行く」と言い残し、僕は自室に入るや否やパソコンの電源を入れた。

 翌日、僕はとても憂鬱だった。こんな気持ちで登校するのは定期試験のときくらいだ。昨日の夕方のこと、僕は自宅に着くなりパソコンを立ち上げ、インターネットを使って自分の考えが正しいのか否か調べてみた。できることなら杞憂に終わってほしいという僕の願いが完全に打ち砕かれた瞬間、僕が取るべき行動は何なのか、僕は僕自身に辛い選択を迫らなければならなくなった。一瞬、今回の件については僕一人の胸の中にしまいこんでしまおうかとも思ったが、今ここで僕が口を噤んでえば、おそらく半永久的に、少なくても僕たちがうちの学校を卒業するまでの間は真実は伝わらないと思う。そして、幾人もの人が抱いている疑問や誤解は解かれぬまま、釈然としない思いだけがいつまでも心の中にくすぶり続けることだろう。しかしながら、僕の口から真実が明かされれば、誰かの疑問や誤解は解かれるかもしれないが、同時に誰かを傷つけてしまうことは想像に難くない。
 今回の件で誤解が生じてしまった原因は、僕たちが上原さんのことについて何も知らなかったことにある。……いや、むしろ彼女自身が知られることを望んでいなかったと言ったほうが正しいだろう。人は誰しも大なり小なり他人には絶対に知られたくない秘密を抱えているものだと思う。もし仮に、秘密を隠し通すことで生じる誤解と、秘密を明かすことで失う何か、この2つを天秤にかけたとき、相手との関係を円滑にするために後者を犠牲にすることが簡単にできるのだろうか。上原さんの場合、秘密を知られないために前者を犠牲にしたことで今回のような気持ちのすれ違いが生じてしまったわけだが、僕は彼女の言動を責めるつもりは全くない。なぜなら、上原さんが隠している秘密は、僕がどんなに想像したところで、彼女の置かれた立場や苦しみ、そして心の傷はそう簡単に理解することができないくらい重たいものだからだ。
 教室に入ると、いつものように武ちゃんと直樹、そして戸塚がすでに登校していた。一夜明けて気分が落ち着いてきたのか、さすがに昨日のように不快感を露骨に表すような様子はなかったが、まだ本調子とまではいかないらしく、僕と武ちゃんと直樹が他愛のない話をしていても会話に参加しようとはせず、ムスっとした態度で黙って机に座っているだけだった。こんな戸塚を見るのは初めてだ。
 「おはよう」
8時20分過ぎ、上原さんの柔らかなソプラノの声が教室に響き渡った。僕は会話を途中で打ち切り、よけいなことは考えず、ほとんど勢いに任せて上原さんの席に向かった。
「登校してきたばかりで悪いんだけど……」
と話しかけると、突然呼びかけられたことに驚いたのか、「ん?」とやや裏返ったような声を出した。
「……ちょっと話したいことがあるんだけど、ここじゃ言いにくいから、突き当りの特別教室まできてくれないかな……」
一瞬の沈黙の後、「いいけど……」と上原さんは怪訝そうな様子で立ち上がった。
「戸塚も……」
隣で黙って座っている戸塚にも声をかけると、「……私も」と呟き、一瞬躊躇したような雰囲気を感じたが、しぶしぶといった様子で黙って椅子から立ち上がった。
 特別教室に入ると、上原さんは出入り口に一番近い席に、戸塚は教室の奥の窓側の席にそれぞれ座った。僕は彼女たちのちょうど中間に当たる教卓に腰掛け、2人と向き合った。
 呼び出したまではよかったが、いざ彼女たちを目の前にすると、どう切り出していいのかわからず、僕は言葉に詰まってしまった。もしかしたら、僕はとんでもない間違いを犯してしまったのではないかとの後悔が、心の中で芽生え始めていた。僕としては、戸塚が抱いているであろう上原さんに対する誤解を解くことばかりに心が奪われ、肝心な上原さんの気持ちを思い図ることを疎かにしていたような気がしてきた。本来なら、まずは上原さんと2人きりでこの件について僕の私見を述べ、彼女の意志なり気持ちなりを確認した上で、戸塚を交えて真相を伝えるなどの段階を踏まなければならないところだが、気持ちばかりが先走り、冷静な判断を欠いてしまったばかりに、順序を誤ってしまった。しかし、2人を呼び出してしまった以上、今更後戻りはできない。
「……何なの?」
戸塚が不機嫌そうな呟きを漏らした。僕は覚悟を決め、小さな深呼吸の後、ゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。
 「ここにきてもらったのは他でもない、昨日の15分休みのことで聞いてほしいことがあったんだ……」
2人に向かって話しかけたつもりだが、彼女たちからの反応はない。僕は上原さんのほうに顔を向け
「今から話すことは、あくまでもオレの推測で、もしかしたら上原さんのデリケートな部分に土足で踏み込むようなことをしてしまうかもしれない。上原さんの気持ちを考えずに先走ったことをしてしまったことについてはとても申し訳ないと思っているんだ。……ただ、オレとしては、昨日の一件で2人の間に起こってしまった誤解をできるだけ早く解いてあげたいって思ってのことなんだ……、だから、そのオレの気持ちだけは信じてほしい。……それと、もしオレの言っていることが間違っていたら、そのときは遠慮なく指摘してほしい……」
僕なりに上原さんの気持ちを尊重して心を砕いて言ったつもりだが、彼女からは何も応答がなく黙り続けている。
 僕は沈黙に耐え切れなくなり、このまま本論に入ってしまおうと、戸塚のほうに顔を向けた。
「昨日の15分休み、戸塚は上原さんにバレー部に入らないかと勧誘した、ただそれだけだ。……でもな、戸塚、上原さんはバレーボールはしちゃいけないんだよ」
「……でも、中学生の頃はバレーボールやってたって言ってた」
戸塚がむっつりと不快そうな低いトーンで反論した。
「中学生の頃はできても、うちの学校に通うようになってからはできなくなっちゃったんだよ」
「それって顔にボールが当たっちゃいけないとか、そういうこと? ……それならそうと言ってくれればいいじゃない……」
視覚障害者の中には、顔面にボールが当たるなど、目に強い衝撃を与えてはいけない人がいる。衝撃を受けることで網膜が剥がれたり眼圧が上がってしまう危険性があるからだ。
 僕は戸塚の疑問は少し横に置き
「……多分、いつもの上原さんだったら君に対してあんな態度はしなかったと思うんだ。上原さんの言い方がきつくなってしまったのは、ここ最近気温が上がって蒸し暑くなったせいなんじゃないかと……思うんだ」
「……どういうこと……」戸塚は虚をつかれたようなかすれた声音で聞き返した。
「……この時期、気温が上がって蒸し暑くなって、喉が渇きやすくなっても、オレたちならすぐに冷たい物でも飲んで涼しさを感じたり喉を潤したりできるけど、……上原さんはどんなに暑くても、どんなに喉が渇いても、あまり水分は取っちゃいけないんだよ……」
上原さんは沈黙したまま、僕の話を否定してくれなかった。彼女は僕の話を聞きながら、どんなことを思い、何を感じているのだろう。今まで隠してきた、誰にも知られたくなかった秘密を暴かれることへの抗議の眼差しを向けているのか、それとも聞きながら悲嘆にくれているのか、上原さんの姿を視覚で確認できない僕には何も察することができない。
 僕はおずおずと上原さんのほうに再び顔を向け
「滝沢さんから聞いたんだけど……、月曜日の放課後、滝沢さんがおごってくれた缶ジュースを着き返したのも、同じ理由……なんだよね」
「……うん」
上原さんは力なくぼそりと呟くように応じた。ここまで話したところで思い当たることがあったのだろう、戸塚は「……えっ!」と驚きの声を漏らしたかと思うと、上原さんのほうに向かって
「上原さん、人工透析受けているの……!?」
「……うん」
 昨日の夕方、僕と戸塚はランプの会の事務所で偶然宮城先生と知り合った。そのとき宮城先生は出されたお茶には手をつけなかった。理由を聞くと、宮城先生は日頃の食生活に加え、過労やストレスが引き金となり、10数年前から糖尿病を患っていた。発症後は食事療法や運動療法を取り入れるなどして積極的に治療に専念してきたが、去年病気が悪化してしまい、人工透析をするようになってしまった。
「昨日のことなんだけど、オレと戸塚が委員会の関係で出かけた先で、たまたま出あった人が人工透析を受けていたんだ……」
「……そうなんだ」
「その人も、人工透析を受けていることを理由に、出されたお茶に手をつけなかった。そして、その人と握手しようと手を伸ばしたとき、手首から携帯電話のバイブレーションのような振動を感じた。一昨日の昼休みに上原さんの手首に触れたときにも同じ振動を感じたから、もしかしてと思って、昨晩インターネットを使って調べてみたんだ……」
「……手首の振動って……何?」と戸塚が旨が押しつぶされたような弱弱しい調子で質問した。僕は昨晩勉強したばかりの知識を元に
「腎臓は、血液を濾過して、溜まっていた汚れを排泄する働きをもった臓器なんだ。人造が機能しているおかげで、体の中にはいつでもきれいな血が流れている。……しかし、病気など何かしらの原因で腎臓が機能しなくなった場合、人工透析治療が必要となる。人工透析は、何時間もかけて体の中の血液を機会で濾過して再び体内に戻す治療なんだけど、通常の血管では充分な血液流を確保することができないから、シャントといって、動脈と静脈を縫い合わせることで、大量の血液を体外に出すことができるようになる。このシャントには常時大量の血液が流れているから、手首に触れると振動を感じるんだ」
狭い特別教室の中に僕の声だけが響き渡る。上原さんも戸塚も黙ったままだ。何も反応がないから、話していても彼女たちがどういう気持ちで受け止めているのか全く理解することができず、不安感ばかりを募らせていた。せめて表情だけでも分かれば気持ちを察することができるのに、それができないのが歯がゆくてたまらない。無反応のプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、僕は話し続けた。
「シャントは皮膚のすぐ下にあるから、絶対に手首に強い衝撃を与えてはいけないんだよ。……バレーボールは、向かってくるボールを受け止めたり、思い切りスパイクしなければならないから、上原さんは戸塚の誘いを断らざるを……」
 「私はね……」
突然、上原さんの小さいながらもしっかりとした声音が耳に飛び込んできた。話すことばかりに心が向いていた僕は、ふいに聞こえてきた上原さんの声に思わず口を噤んでしまった。
「私はね……、小学校6年生のある日、突然体調を崩して1週間くらい学校休んだの。40度くらい熱が出てちっとも下がらないし、体中痛いし、横になっても眩暈がして落ち着かなくて、とっても辛かった。……それでも、お医者さんとお母さんたちの看病のおかげで数日後には熱が下がって、痛みや眩暈もなくなって、またいつものように学校に通えるくらい元気になれたの。でもね……」
上原さんの声のトーンが急に下がった。きっとこれから話すことについてはまだ気持ちの整理がついていないのだろう。ほんの数秒の沈黙が、彼女の心の中の動揺を表しているように思えた。
「なんだかとても喉が渇くようになっちゃったの。今までそんなこと全然なかったのに、無性にお水が飲みたくなって授業に集中できなくなったり、夜中に喉の渇きで目が覚めて、その都度お茶とかジュースを飲むようになっちゃったの。それに……、水分を取りすぎるせいでお手洗いにもよく行くようになっちゃって……。最初のうちはまだ完全に治りきっていないだけで、放っておけばそのうち治るだろうって楽観的に考えていたんだけど、何ヶ月経っても一向に喉の渇きは治まらなくて……。頻繁にお手洗いに行ったり、毎晩夜中に起き出してお茶やジュースばかり飲んでいる私を見て、さすがにおかしいと感じたお母さんに促されて、病院で再検査を受けることになったの。……、そしたらね、私がかかっていた病気ってウイルス性の感染症だったんだけど、そのウイルスに抵抗するための免疫が私の膵臓に悪影響を及ぼしちゃって、血液中の糖分をコントロールするインスリンが分泌されなくなっちゃったの……」
「……その感染症にかかると、みんな膵臓が悪くなっちゃうの……?」と戸塚が遠慮がちにか細い声で尋ねると、上原さんは「ううん」と否定し
「感染症そのものが原因ってわけじゃないの。体の中にウィルスが入ってきたとき、そのウイルスに抵抗するため免疫が作られるんだけど、時々その免疫がウイルスだけじゃなくて、体にとって必要な組織にも影響を与えてしまうことがあるらしいの。私の場合は、インスリンを分泌するために必要なランゲルハンス島って組織に免疫が悪影響を及ぼしてダメにしてしまったの……」
 このとき、8時30分を知らせるチャイムが鳴った。本来なら教室に戻らねばならない時間だが、僕も戸塚も立ち上がる気にはなれず、途切れ途切れながらも話し続ける上原さんの声を一心に聞き続けた。
「……それから毎日インスリン注射をしたり、食事制限をしたり、私の生活はガラリと変わってしまったの。……でも、情けない話、私甘い物大好きだし、面倒くさがりなところもあるから、誘惑に負けてこっそりケーキとかクッキー食べちゃったり、インスリン注射も適当にやっていたの……。それがお父さんやお母さんに見つかると『もっと自分の体を大切にしなさい!』ってとても厳しく怒られるんだけど、食べたいものを我慢しなければならない辛さにストレスを感じていたし、インスリン注射で毎日痛い思いしなければならないことに憤りを感じてもいたから、当時はお父さんたちの忠告をあまり真剣に聞いてなかったの。『お菓子食べたくらいでそんなに怒ることないじゃない。注射だってちょっと体調悪くなったときにすれば平気だよ』みたいな……。そんないい加減な気持ちでいたから、思うように治療の効果が上がらなくて……、中学3年生のときに合併症で網膜と腎臓もダメにしちゃって……」
当時のことを思い出して感情が不安定になったのか、それまで小声ながらもしっかりした口調で話していた上原さんの声が震え始めた。感染症を引き金に、膵臓疾患による糖尿病の発症、インスリン注射や食事制限、そして失明と透析治療……。いくら推測していたとはいえ、彼女自身の口から語られる生々しい事実にすっかり動揺してしまい、僕も戸塚もかける言葉がなく、しばらくの間上原さんの鼻をすする音と微かな嗚咽が聞こえるのみだった。
「腎臓ってね……」と上原さんは鼻をすすりながらもどうにか落ち着きを取り戻した声音になり
「腎臓ってね、血液の中の老廃物を取り除くだけじゃなくて、体の中の余分な水分を排泄する働きも持っているの。……でもね、透析治療を受けるようになると、腎臓の機能が完全に停止しちゃうから、……おしっこが出なくなるの。……排泄することができないから、必要以上の水分を取りすぎると、どんどん体の中に溜まって、場合によっては肺や心臓に水が入り込んで危険な状態になるの。だから……夏になって蒸し暑くなると昔のように思う存分お茶とかジュースが飲めなくてイライラしちゃって……、全部私が悪いんだけど、ちょっとしたことでも過敏になっちゃってついきつい態度になっちゃうの、……私が悪いの……、本当にごめんなさい……」
「上原さんは悪くないっ!」
ほとんど叫び声のような口調で戸塚が言い放ち、僕はビクッと身を硬くした。上原さんも戸塚の言葉に驚いたのか、言葉を失ったように黙りこくってしまい、聞こえるのはわなわなと震えるような声音で「私……私……」と呟く戸塚の声だけだった。
「……私、上原さんにひどいこと言っちゃった……。そんな辛い状態なのに……私ったら感情的になって頭に血が登っちゃって……、全然配慮がなさすぎた……、悪いのは私のほうなのに……」
「そこまで自分を責めることはないよ」と僕は口を挟んだ。
「戸塚だけじゃなくて、オレだって昨日までは上原さんの状態なんて何も分かっちゃいなかったんだよ。結果として上原さんに不愉快な思いさせちゃったけど、戸塚は知らなかったんだから……」
「違う!」と鋭い声が飛んだ。もはや戸塚は涙声だ。
「知らなかったからって言っていいことと悪いことがあるの! 自分の障害のことなんて他の人に言いたくないじゃない! ……私だって、自分が弱視ってハンディ持っていること他の人に知られたくないもん! 今までだって、私が弱視だって分かったとたん、掌を返したように急に私への態度が変わって、同情されたり、よそよそしくされたことがあって、ものすごく不愉快だったし、とても傷ついたもの……」
 一瞬の沈黙を挟んで声のトーンは急激に下がり、「ごめんね……ごめんね…」と戸塚は泣きじゃくりながら謝罪の言葉を繰り返した。きっと戸塚は、いくら知らなかったこととはいえ、上原さんに対してあまりにも不用意で無知な発言をしてしまった自分自身が許せないのだろう。もしかしたら、僕たちは単に気づいていないだけで、不十分な認識や思い込みが元で、知らず知らずのうちに相手の心を傷つけるような言動をしているのかもしれない。知らないことが誤解やすれ違いを生み、知らないことが思い込みやステレオタイプを作り、知らないことが差別や偏見に繋がる……。
 時折、「伝えないほうが悪い」・「事前に教えてくれれば」と言う人がいるが、これは自分の無知さから出てしまった言動を正当化するための開き直った言い訳に過ぎない。上原さんや戸塚、そして僕が抱えている心の傷なんて他人には知らせたくないし、知らせなかったことで他人に攻められる筋合なんてないはずだ。
 左斜め前から「ガタリ」という音が聞こえたかと思うと、続けて「直ちゃん」と上原さんは戸塚に声をかけた。
「……泣かないで。私、あなたのその気持ちに気づくことができてとっても嬉しいの」
「……えっ……?」
「直ちゃんの言うとおり、私も自分が透析患者なんて絶対に誰にも知られたくなかった。透析って、ほぼ1日おきに病院に行って3~4時間かけて治療しなければならないから、時間的な制約は大きいし、食べ物や飲み物についても厳しい制限があって、それを疎かにしたら命そのものが危なくなるから、私くらいの年で『透析やってます』なんて知られたら、なんだか一人の人間として当たり前な付き合い方をしてくれないような気がして怖かったの。……でもね、沢木くんのおかげでこうして話す機会に恵まれて……、どんな反応されるかすごく不安だったんだけど、あなたは動揺したり引いたりせずに真正面から受け止めてくれた。真正面から受け止めてくれたから、ちょっと感情が乱れちゃったんだよね……。そんな直ちゃんの真っ直ぐ差を感じることができて、私とっても嬉しかったの……、だから泣かないで……」
「うん……」と鼻をすすりながらも戸塚は徐々に落ち着きを取り戻し始めた。
「触ってみて」
上原さんの言葉に戸塚は「……でも」とやや躊躇しているような声音で応じた。
「私のシャントを触ってみて。これは私が透析患者だって証拠みたいなものだけど、このシャントから伝わる響きは私の体に流れている血液なの。この響きは私が元気に生きているって証でもあるのよ、だから……」
数秒の沈黙の後「ありがとう」と柔らかな声が響いた。
 おそるおそる教室のドアを開けるとすでに朝のショートホームルームの真っ最中だった。僕たち3人が入るや否や「君たち!」と原田先生の厳しい声が飛んできた。
「どんなに早く登校しても、8時30分に教室にいなければ遅刻したのと同じなのよ」
との叱責にどう返答したものかとおろおろしていると「ごめんなさい」と上原さんが割って入り
「私のことで2人に相談に乗ってもらっていたんです。いろんなこと話していたらつい長くなってしまいまして……、すいませんでした」
上原さんの言葉に原田先生は「……そう」と呟き、何かを察したらしく「とにかく席に座りなさい」と促した。
 僕が自分の席に向かいかけたところ、原田先生は「上原さんと戸塚さん」と彼女たちを呼び止めた。
「あなたたち目が赤いわよ。席に着く前に顔洗ってらっしゃい」

 終業を知らせるチャイムが鳴り響き、廊下にはいそいそと昇降口に向かう生徒たちのはずんだ声があちらこちらから聞こえている。授業の終わった放課後は、張り詰めた空気が緩んで開放的な雰囲気を感じさせるが、今日で1学期も終わり、明日から待ちに待った夏休みが始まるとあって、いつもの開放感に加え、無邪気なくらい高揚した空気が流れている。僕は夏休み中に読みたい本があったので、途中図書館に立ち寄ってから昇降口へ向かった。
 昇降口の前までくると、下駄箱の前で熱心に話している女子生徒2人の声が耳に入り、「あ」と思った次の瞬間、一方から「沢木くん」と声をかけられた。例の一件の後、戸塚と上原さんとの関係は快復し、今もこうして2人仲良く立ち話をしている。むしろ、あの一件を経て、彼女たちの友情はより深まった感さえある。
「ねえねえ」と戸塚は僕の腕をつんつんとつつきながら
「香織ちゃん、軽音楽部に入ったんだよ」と笑みをたたえたような声音で言った。僕は「え?」と思い
「……部活動があるのは火曜日と木曜日だから、上原さんは……」
と奥歯に物の挟まったようなもごもごした声で呟くと、上原さんはやや声を潜めて
「主治医の先生にお願いして、透析の日を月・水・金に変更してもらうことにしたの」
「変更してもらったんだ」と僕が言うと
「今すぐってわけにはいかないけど、夏休み中に日程調整してもらって、9月から活動するつもりなんだ。最初はできるだけ平日に重ならないように火・木・土にしていたんだけど、もっと高校生活楽しみたいなって気持ちが強くなって、部活動にも参加して好きなこと思いっきりやろうと思ったの。……お母さんにはちょっと負担になっちゃうけど了承してもらえたから、担任の先生にも相談して今さっき顧問の先生に入部届け出してきたの」
「負担って?」
「透析した後って体力が消耗してものすごく疲れちゃうの。だから、透析のある日は学校まで車で迎えにきてもらって、そのまま病院で透析してもらってから車で帰っていたんだ。今までは大学生の兄がたまたま火曜日と木曜日の午後は授業がなかったから学校まで迎えにきてくれたんだけど、月・水・金だとお母さんしかこれないの、それで……」
滝沢さんが昇降口で偶然見かけた男の人というのは、迎えにきた上原さんのお兄さんだったのかと、僕は心の中で頷いた。
 「パートは何? 香織ちゃん声きれいだからヴォーカルとかいいんじゃない」
「そうかな……」と上原さんはやや謙遜するような調子で言い
「……歌うのも好きだけど、私小学生の頃にエレクトーン習っていたから、キーボードがいいかなって思ってるんだ」
「そっかぁ。軽音楽部って毎年文化祭でステージ発表しているから、私絶対に観に行くね」
「ありがとう」
彼女たちの会話を聞きながら、僕は心の中で「滝沢さんとはどうなったんだろう」と考えていた。滝沢さんとは部活で頻繁に顔を合わせていたが、彼の口から上原さんのことは聞いていない。今回の件についての真相は知っているが、上原さんのデリケートな部分に関わることなので、僕のほうから伝えるのはどうかなと思い何も話していない。できれば上原さんが直接滝沢さんに話してくれるのが一番望ましいのだが、まだ自分から積極的に打ち明けるところまで心の整理ができていないのかもしれない。
 「……なんか今回の件で少し考え方変わったかもしれない」と、ふいに上原さんはしみじみと呟いた。
「今まではいこじなくらい病気のこと隠していたの。……私ってどちらかといえば負けず嫌いでプライド高いほうだから、透析受けてることで友達から心配されたり同情されることがいやだった。……失明して透析受けるようになってから、中学のときの友達が様子見にきてくれたの。でもね、みんなには私が糖尿病だってことは言ってなかったし、他の人と同じような生活しているように振舞っていたから、突然障害者になった私の姿見たらきっと面食らうに決まってる、そう思ったら怖くて会うことすらできなくて、いつも居留守使ったりして避けていたの……。……でも、それって友達のこと全然信用していないってことだし、嘘ついてまで隠そうとしていることそのものにもいやな気持ちを感じていたの。結局、私は自分のプライドを守ることばかり執着していて、相手が私のことを気にかけてくれる気持ちそのものを理解しようとしていなかったんだよね。……今回の件をきっかけにいろいろ考えちゃってさ、私に必要なのは、自分の状況にきちんと向き合うことと、相手の気持ちに歩み寄る姿勢なんだって気づくことができてね……、ああいう形だったけど2人に私のこと知ってもらえたら、なんか今まで重荷に感じていたものが少しだけ軽くなったような気がするんだよね。……まあ、直ちゃんや沢木くんみたいに受け止めてくれなくて不愉快な思いするかもしれないから、踏ん切りがつくまでまだまだ時間掛かりそうだけど……」
たんたんと話す上原さんの言葉を聞きながら、僕の判断は決して間違っていなかったと確信した。多分、心の傷を相手に示すことは、今まで自分ひとりで抱え込んでいた悲しさ・心細さ・不安感などの不の感情が詰まった荷物を相手に差し出すことに似ているのだと思う。差し出された荷物をしっかりと自分の手で受け止めてあげれば、その人の気持ちは支えてあげた分だけ軽くなる。受け止めてあげたからといって、逆にこちらが重荷に感じるということはない。むしろ、同じ荷物を支え合っているという連帯感のようなものが生まれ、より一層お互いの親密さが増すのだと、今回の経験を通じて強く感じた。
 「滝沢くんも受け止めてくれたよ」
との上原さんの言葉に、滝沢さんの件については何も知らない戸塚が「え?」とあからさまな疑問の声をあげた。
「直ちゃんのときと同じ理由で、滝沢くんにも不愉快な思いさせちゃったことがあったの。私と彼、偶然同じ電車に乗るから少し前から一緒に登校していたんだけど、私のせいで気まずい思いさせちゃってね……、次の日から一人で登校していたんだけど、後ろから黙ってついてきていることは気配で分かっていたの」
これでは本当のストーカーではないかと、僕は心の中で苦笑した。
「……ちょっと怖かったけど、ある日勇気出して後ろからついてくる滝沢くんに声かけてね、そのときのこと謝って、私が透析受けていることを話したの。ちょっと驚いていたみたいだけど、『打ち明けてくれてありがとう。大したことはできないけど、俺でよければいつでも相談に乗るし、何か手伝えることがあれば遠慮なく言ってよ』って言ってくれたの。少し前から、私の読みたい本を朗読してMDに吹き込んでくれたり、私のためにいろいろ気を使ってくれていたから、そう言ってくれて本当に嬉しかったな。……そんなこと言ってもらえたら、少しくらい彼に甘えちゃってもいいかなって思っちゃって、……透析の日程変えたのもそのあたりのことがあるんだ」
「どうして?」と戸塚が聞くと、上原さんははにかみながら
「だって……、土・日空けておけば、デートしやすいじゃない」

真夏の潤い

真夏の潤い

この春に転校してきたクラスメイトの上原さん。いつもは明るく礼儀正しい女の子なのに、ここ最近様子がおかしい。そしてある日、ついに彼女が切れて……。 全盲の男の子と弱視の女の子、盲特別支援学校に通う2人の高校生が、聴覚と触覚と直感で小さな謎を解き明かす日常ミステリ。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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