小説 エスパー魔美 ~幸せのかたち~

 鼻先から額にかけて鈍い痛みが走った。
 「あいたたた……」
 右手で鼻の辺りをさすっていると、ふいに気配を感じ、顔を上げるとスーツ姿で仁王立ちの男と目が合った。
 「おい、佐倉! 新学期早々居眠りとはな」
 とたんにクラス中から笑いが弾けた。
 「あ……ごめんなさい……」頬が赤くなり、思わず視線を落とす。スーツ姿の男、クラス担任の水谷先生は、右手を腰に当て、鼻からフッと息を吐き出すと
 「春休み気分が抜けきっていないのか? 君は昔っから居眠りが多かったが、今年度から中3なんだから、いい加減生活リズムを整えておかないと、これからの受験を乗り切ることはできないぞ」
 「はい……すみません」
 水谷先生は踵を返すと、ざわめくクラスに向かって「はい、みんな静かに」と促し、そのまま教卓に着いた。どうやら、新学期初日の始業式後のホームルームで、ついうとうとしてしまい、机に顔をぶつけてしまったらしい。居眠りの生徒、佐倉魔美は、視線を落としたまま薄い唇をつんと尖らせ、
 「……だって、真夜中に目が覚めたら、思考波のベルが鳴っているのに気付いて、大急ぎで着替えてテレポートで急行したら、木造のアパートが燃えてて、中に取り残されていた人がいたから、明け方までずっと救出していたのよ。何とか無事に避難させることはできたけど、おかげで服は煤で汚れるし、水はかぶるしで大変だったんだから。……それもこれも、私がテレパシーやテレポートが使えるエスパーだからなんだけど……、いくら世のため人のためとはいえ、まさかそんなこと大っぴらにすることなんてできないし……。はーぁ、これも超能力を身につけてしまったエスパーの辛い宿命よね……」
と、心の中で呟き、そっと溜息をついた。
 教卓では、水谷先生が先ほど配布したプリントについて説明している。魔美は、慌てて机の上の数枚のプリントの中から「進路調査票」と書かれたものを探し出した。
 「今日から君たちは中学3年生だ。3年生といえば、もうみんな分かっている通り、次のステップに進むために自らが選択し、自らが立てた目標に向かって努力し結果を出す、とても大事な時期だ。そこで、来年この中学を卒業したら自分はどうしたいのか、この進路調査票に書いてほしい。これまでの自分自身を見つめなおして、得意なこと、興味のあること、そして将来どんな職業に就きたいかなどを考えていけば、どんな進路を選べばいいのか見えてくると思う。この進路調査票に基づいて、5月中に保護者の方を交えた三者面談を実施するから、提出は4月末まで。締切厳守だ、いいな」
 教室中から「はぁい」との声が上がった。そして、明日以降の日程についての説明が続き、全ての連絡事項を伝え終えたところで、終了を知らせるチャイムが鳴った。ざわめく教室で、魔美も他の生徒と同様、配布されたプリントを鞄に入れ、帰り支度を始めた。
 一人、昇降口に向かいながら、魔美は進路調査票のことについて考えていた。先生は、自分を見つめなおせば自ずとどんな道に進みたいか見えてくると言っていたが、正直今の魔美にはピンとこなかった。そもそも、今日から中学3年生と言われてもいまだにその実感がなく、新しい環境になじめきれていない違和感を感じていることは否めない。違和感の原因は他でもない、魔美にとって大事な親友であり、エスパーである自分の最大にして唯一の理解者である高畑和夫と別のクラスになってしまったことだ。
 魔美の通う明月学園中学では、3年生になるとクラス替えが行われるが、噂によると、クラス分けの基準は、2年生までの成績に基づいて上位から40名前後ずつ振り分けているらしい。ほぼ全ての中学生が高校進学を希望することを踏まえれば、同じ程度の学力を持つ生徒をまとめたほうが、受験に向けて教育しやすいということだろう。学年トップの成績を収めたこともある高畑と比べて、自分の学力が格段に落ちることは重々承知している魔美は、この噂を耳にしたときから、3年生になったら高畑とは別のクラスになるであろうことは十分予想できたし覚悟もしていたが、今朝、掲示板に貼られていたクラス名簿を見て、自分と高畑が別のクラスになっていることを知った瞬間、やはりショックを感じずにはいられなかった。
 一緒に登校し、隣で掲示板を眺めていた高畑は、「別に、学校が変わったわけじゃないんだから、昼休みや放課後は会えるし、一緒に登下校だってできるんだから、そんなにがっかりすることもないよ。……まあ、魔美くんと別のクラスになっちゃったのはちょっと寂しいけど……」との高畑の言葉に「そうね」と軽く受け流していたが、中学生が築き上げる人間関係の中心は学校生活だ。クラスが変われば、新しいクラスメイトたちとの交流を通じて人間関係も組み替えられる。そうなったとき、これまで通り昼休みや放課後に会ったり、一緒に登下校することができるのだろうか。
 幸い、今のクラスには、魔美の親友である「サチ」こと間宮幸子と「ノン」こと桃井のり子がいるが、その他の半分以上が、話したことはないが何となく顔に見覚えがある程度の生徒ばかりだ。魔美自身、人見知りがなく、誰とでも打ち解けられる性格であることは自分自身自覚していることなので、この新しいクラスでもうまくやっていける自信はあるのだが、やはり他の友達では高畑とのような関係が築けるとは思えない。それに、今は同じ学校でも、進学先が違う高校になることは十分にありうる。例え、高畑と口裏を合わせて同じ高校を志望したところで、先生に説得されて進学先を変えさせられてしまうことだろう。高畑は更に上のランクの高校に、魔美は中程度の高校に。
 そう考えると、自分の進路なんて周囲によってすでに決められていて、進路調査票なんて、周りが想定している進路に合致しているか確認するだけの書類にしか魔美には思えなかった。
 「高畑さんのクラスには、あたしとは違って頭のいい女の子がいっぱいいるんだろうな……」

 「ああ、進路調査票ね。僕のクラスでも配られたよ」
 昇降口で高畑と落ち合った魔美は、下校途中に立ち寄ったパーラーで買ったアイスクリーム片手にとぼとぼと歩きながら、ホームルーム中に配られた進路調査票のことについて尋ねてみた。
 「あたしさぁ、取りあえず高校には進学するつもりなんだけど、あたしの成績じゃ行けるところなんて限られているし、特にこれといってやりたい勉強もないのよね。高畑さんはどうするつもり?」
 高畑は左手で頭をポリポリかきながら少しの間考え
 「……そうだなぁ、僕もこれといって特にこだわりがあるわけじゃないから、うちの明月学園高校への進学ってとこかな。あそこなら家か
ら歩いて通えるし、偏差値からしてもそれほど力入れて受験勉強しなくても受かるだろうし……」
 魔美にとっては、明月学園高校も力入れて受験勉強しなければ怪しいところだけに、高畑の物言いが少々嫌味に聞こえてしまう。
 「高畑さんにとっては楽かもしれないけど、あたしにとったら明月高校も難関よ」
 少々魔美の機嫌を損ねてしまったかと慌てた高畑は「あ~、ごめんごめん。そういうつもりじゃ……」と片手にアイスを持ったまま、胸の前でぶんぶんと手を振る。
 「それにー、例え明月高校を志望しても、高畑さんの成績だったら『もっと上の高校を目指せ』って先生に説得されるわよ」と言いながら、魔美はアイスをペロリとなめた。
 「そうかなぁ。仮に、そんな風に説得されたとしても、僕の人生は僕が決めることだから、自分が納得しなければそんな説得に耳を貸すこともないと思うんだけど……。ところでさ、魔美くんは将来どんなことしたいの?」
 「将来?」魔美は、小首を傾げて高畑を見返した。そして、視線を足元に落とし、左手の人差し指を頬に添えながら「将来……かぁ……」と呟いた。
 「別に深刻に考えることもないと思うよ。例えば、自分の興味あることとか、得意なことを挙げてみることから始めたりとか……」
 「そうねぇ……、興味あるのはお料理とかだけど……」料理と聞いて、一瞬高畑の背筋が凍りつく。「将来することとなるとちょっと違うような気がするのよね」ほっとする高畑。「得意なことと言ったら、あたしの場合は超能力だけど、いくらなんでもこの力で将来を考えるわけにはいかないし……」
 「……前にも聞いたことあるけど、魔美くんの夢って何なの?」
 高畑の質問に一瞬頬を赤らめ、躊躇いながら「笑わない?」と問い返すと「笑わない」と即答されたので、再び視線を足元に落とし、はにかみながら小声で
 「……みんなを幸せにしたい……。それが私の夢なの」
 ふいに高畑が足を止めたので、つられて魔美も立ち止まった。振り返ると、無表情できょとんとしたような視線で魔美を見つめる高畑が目に入り、見つめるうちに次第にその表情に笑みが広がっていった。
 「ひっどーい! 高畑さんっ! 笑わないって約束したのに」魔美の抗議に、高畑は顔の前で左手をぶんぶんと振りながら
 「いやいや、決して笑ったわけじゃないよ。何て言うか、魔美くんらしいと言うか、魔美くんにとても相応しい夢だなと思って、つい嬉しくなったんだ」
 「ほんと?」と疑り深げに覗き込むと、高畑の顔に浮かぶ表情は決して嘲笑ではない、魔美の大好きな暖かで愛らしい、高畑のあの笑顔だ。見つめているうちに、魔美の胸の中にジワリと暖かなものが広がり、次第に今までかたくなに閉ざしていた心の部分が徐々に解け、自然と魔美の口から言葉がこぼれてきた。
 「……あたしって、ほら、おせっかい焼きな性格だから、昔っから困っている人を見ると、黙って見過ごすことができなくて、つい声かけたり手を出したりしちゃうのよ。そして、ある日突然超能力に目覚めてからは、その力を使ってたくさんの困っている人の手助けをしてきたわ。……そりゃあ、時には直接悩みを解決することはできなかったこともあるけど、明日を信じて頑張ってみようっていう生きる希望に繋がることはできたと思うの」
 「うん」と高畑が頷くと、「……だからね」と魔美はもじもじと少々口ごもりながら
 「これからもずっと人の幸せになるようなことをしていきたいんだけど、それってあたしがエスパーだからできることであって……、ただの女の子の佐倉魔美じゃ、夢を実現させる自信がないのよね……」
 「そうかな」と、高畑は少々いぶかしげに魔美を見やりながら「確かに、魔美くんの超能力はすごいし、その力を使ってたくさんの人を助けてきたことは僕も知っているよ。でも、テレポートやテレキネシスが使えるからって、それだけじゃたくさんの人に希望を与えることはできないと思うよ。それに、人を幸せにするってのは、魔美くんが思っているほど難しいことではないんじゃないかな」
 「どういうこと?」
 「例えば……」と、高畑は魔美の右手に握られているアイスクリームを指差した。それは、レアチーズケーキ味のアイスにストロベリーソースをかけてミントの葉を添えた、春限定の魔美お気に入りのアイスクリームだ。
 「魔美くんは、そのアイスクリームが好きだよね」
 「うん、大好きよ。これ食べているとき、とっても幸せな気持ちになるの」魔美はにっこりとほほ笑む。
 「でしょ。じゃあさ、そのアイスクリームが魔美くんの口に入るまで、どのくらいの人が関わっていると思う?」
 「えっ……?」
 「まず、販売を手掛けている会社に、そのアイスクリームを考え出している人がいる。次に、そのアイスクリームを作るために必要となる牛乳やフルーツなんかを作っている人がいる。そして、実際に工場で作っている人がいる。更に、工場から各小売店に運搬する人がいる。最後に、それぞれのお店で販売する人がいる……。こんな風に、たった一つのアイスクリームでも、魔美くんの手元に届くまでには、たくさんの人の手を経ているんだ。つまりさ、一見小さくて些細な作業に見えることでも、これらには必ず意味があって、それが回り回った結果、どこかの誰かの幸せに繋がっているんだ。超能力を使って人助けしたような直接的な達成感は味わえないかもしれないけど、少し視点を変えて考えれば、何も特別な力を使わなくても人を幸せにすることはできると思うよ」
 高畑の言葉を咀嚼するように、魔美は無言で2、3度うんうんと頷き
 「何となくだけど、高畑さんの言いたいことが分かったような気がするわ。考える人、作る人、運ぶ人、売る人か……。なんだか、あたしの将来を考える糸口が掴めたような気がしてきたわ。これから帰ってもう少しじっくり考えてみるね! ありがとう高畑さん♪ じゃ、また明日学校でね!」
 魔美は左手を大きく振ると、一目散に自宅目指して走り出した。
 「ホントに分かっているのかな?」
 魔美の後姿を見送りながら、高畑は肩を竦め、右手のチョコミントのアイスクリームを一口食べた。
 「冷た!」
 魔美に付き合って自分もアイスクリームを買ってしまったが、春とはいえ4月上旬はまだまだ肌寒い。
 「……やっぱり、熱い缶コーヒーにしとけばよかったな」

 「ここだわ」
 テレポートで急行した魔美は、とある建物の屋上に降り立った。
 「ここから私を呼んでいたはずなんだけど……」
 大きな建物なので屋上も広い。周囲を見渡しても人っ子一人見当たらないが、誰かがここから助けを求めていたことは間違いない。魔美は全ての感覚を研ぎ澄まし、注意深く探ってみた。

 土曜日の午後、学校から帰宅した魔美は、佐倉家でペットとして飼われている愛犬のコンポコにご飯を与えてから、ダイニングで一人簡単なお昼ご飯を取っていると、頭の中で誰かが助けを求めるベルが鳴り響いた。
 「どこかしら!?」
 ダイニングの椅子から立ち上がると、魔美はベルに全神経を集中させた。ベルは遠くから鳴り響いているようだが、とても強く、そして早急に助けを求めている思念を感じる。もしかしたら命に係わる事態なのかもしれない。
 魔美はコンポコに留守番を頼むと、一見ハート型のブローチに見える胸元のテレポーテーションガンを引っ掴み、中に仕込まれているビーズを自分に向けて発射させると、次の瞬間にはダイニングから魔美の姿が消えていた。
 テレポートを繰り返すこと数回、やっと目的地と思われる5階建ての白い鉄筋コンクリート造りの建物が見えてきた。
 「あれは確か……、病院よね」
 向かっている建物は、魔美の住む佐間丘陵地域で最も大きな規模を誇る総合病院の病棟のひとつだった。病院から鳴り響く助けを求めるベル、魔美の胸の中で燻っていた不安が一気に大きくなり、大急ぎで屋上に降り立ったが誰も見当たらない。
 「私が焦っていちゃダメ。心を落ち着けて、気持ちを集中させるのよ」
 目をつぶり、精神を集中させること数秒……、「あっちね!」と、魔美は駆け出した。屋上に設置されている給水タンクや下階に降りる階段室を通り過ぎると、反対側の広い空間に出た。さっと周囲を見渡すと、フェンスに凭れて蹲っている人の姿が見えた。
 「大丈夫ですか!」と、大声で呼びかけながらフェンスへと急ぐ。素足にスリッパ、白のコットン地のパジャマにニット帽を目深に被っている、どうやら女の子らしい。
 「あなた、ここの入院患者さん!?」
 彼女の元に駆けつけると、魔美は相手の肩に手を置き顔を覗き込んだ。おそらく魔美と同世代の14~5歳くらいの女の子、貧血でも起こしたのか、血の気の失せた蒼白な顔をこちらに向け、大きく開けた口からはゼイゼイと荒い呼吸が漏れている。両腕は、自分自身を抱きしめるような恰好になり、肩に置いた手から小刻みな震えが伝わってくる。一目で彼女の容体が思わしくないことは分かったが、顔を覗き込んだとき、魔美は「可愛い子だな」と場違いな感想が脳裏を過ぎった。
 「寒気がするの!? 気分悪い!? とにかく、こんな所にいたら体が冷えちゃうわ。あなたの病室はどこなの?」
 ゼイゼイと喘ぎながらか細い声で「5階の……501号室です」と言うのを聞くと「この下の階ね。分かったわ、じゃ、あたしに捕まって。立てる?」と魔美は自分の肩を貸した。ゆっくりと立ち上がらせたものの、力が入らないのか、足元がふらついて思うように歩けないし、立位を保持するのもままならないのか、そのまま魔美の右肩によりかかってきた。いくら華奢な女の子とはいえ、全体重をかけられては、さすがの魔美でも彼女を支えるのがやっとで動くことすらできない。
 「ええい! こうなったらテレキネシスで」
 気付かれないよう、親指と人差し指と小指を立てた左手をそっと彼女に向け、テレキネシスを使って彼女の体をほんの少しだけ浮かせた。右肩から伝わる重みがなくなり、そのまま魔美は彼女を支えながら階段室から5階へと降りた。
 5階に降りると、院内に騒然とした雰囲気が漂っていることに気付いた。不穏な空気を感じながら、魔美が501号室を探していると、廊下の向こう側から制服を身に着けた看護婦が左右に視線を走らせながら小走りにこちらへ向かってくるのが見えた。
 「あの看護婦さんに聞いてみよ」
 魔美が「すいません」と声をかけると、ふいに呼びかけられたことに驚いたのか、つと足を止め、魔美たちの方に視線を向けた。すると、「あ!」と口走り、こちらを見つめる目がだんだん大きくなり、顔に驚愕の色が広がった。
 「あの……、501号室を探しているんですが……」
 看護婦は、さっと踵を返すと、魔美の質問を無視して「いましたぁ!」と院内中に響き渡る大きな声を発しながら、一目散に来た廊下を戻って行った。
 「何なの……」突然のことに呆気に取られ、呆然と立ち尽くしていると、今度は廊下の向こう側から小走りでこちらへ向かって来る数人の姿が見えた。その数人、白衣と聴診器を身に着けた50代くらいの胡麻塩頭の男性が、2~3人のこれまた白衣を着た女性たちを引き連れている。とっさに魔美は、それが医師と看護婦たちであると察知した。
 「君! 彼女をどこで見つけたんだ!!」
 胡麻塩頭の医師が魔美に向かって詰問してきた。その咎めるような口調があまりにも高圧的だったので、思わず魔美が怯んでしまった瞬間にテレキネシスが解け、支えを失った彼女はバランスを崩しそのままリノリウムの床にペタリと座り込んでしまった。
 突然座り込んでしまった彼女に驚いた一行は、傍らの魔美には目もくれず、蒼白な顔で荒い呼吸を続ける彼女の元に近寄った。医師は片膝立ちになり、彼女の白く細い手首を掴むと手早く脈を取り、聴診器で胸の辺りをポンポンと2~3度当てると、周りにいた看護婦たちを振り返り、あれこれと2~3の指示を出した。
 指示を受けた看護婦たちが元来た方に走り去って行ったかと思うと、すぐに車いすを携えて戻り、手早く彼女を車いすに移乗させると、今度は医師共々再び元来た廊下を戻って行った。その最中、魔美は廊下の壁にぴったりと背中を押し付け、ただ茫然と医師たちの様子を眺めていることしかできなかった。
 「あなた、白石さんのお友達?」
 誰もいなくなったと思い込んでいた魔美は、突然の問いかけに驚き、視線を彷徨わせると、50代くらいの年長の看護婦が目に入った。その口調は鋭く、視線も威圧的で、決して好意的とは言えないその態度に魔美はたじろいでしまい、「しっ……白石さん!?」と口の中でもごもごと呟いていたが、白石というのが彼女のことであると気付き、「ただの通りすがりです」と言ってもややこしくなるだけなので、「ええ……まあ、そんなところです」と答えてから「白石さん、どうしたんですか? かなり体調悪そうでしたけど……」と問い返した。
 「30分くらい前、たまたま病室を巡回した看護婦が、彼女がいなくなっていることに気付いたの。白石さんは絶対安静にしていなければならないのに、お手洗いにも談話室にもいないから、大騒ぎになって看護婦総出で病院中をくまなく探していたのよ。あなた、白石さんとどこにいたの?」
 「この病院の屋上にいるところを見つけたんです」
 「屋上!?」看護婦が素っ頓狂な声を上げたかと思うと、表情が一気に険しくなり「屋上って……、まさかあんたが白石さんを屋上に連れ出したんじゃないでしょうね」と、やや語気を荒げて詰問してきたので「そんなことしてません!」と首を左右に振りながら言い返した。看護婦は、魔美を一瞥すると、そのまま何も言わず、ナースシューズを高らかに響かせながらその場を離れて行った。
 廊下の片隅に一人残された魔美は、ぽかんとしながら去りゆく看護婦の後姿を見つめていた。これ以上魔美にできることは何もない。実際、彼女を5階に連れ戻し、医師たちに発見されてからは、傍で成り行きを見守ることしかできなかったのだから、このまま病院を辞してもいいのだが、元来おせっかいな性質なだけに彼女のことが気になって仕方がない。
 「あの子……、かなり具合悪そうだったわ。お医者様がいるから大丈夫なんだろうけど……なんだか気になるわ……、よしっ!」と、魔美は両の拳を握って病院の奥へと進んだ。
 「501号室……501号室……」
 今は治療中でも、病室の前で待っていればいつか必ず会えるはず。そんな淡い期待を込めて、きょろきょろと辺りを見回しながら彼女の病室を探した。院内を歩き回って気付いたのだが、病院そのものは清潔感のある明るい作りなのに、時折すれ違う患者の多くが室内にも関わらず帽子を着用している患者がいること、魔美にはよく分からない機械やキャスター付きの棒にぶら下げた点滴を体に着けたまま歩いている患者がいること、何かの治療を終えた患者を乗せたストレッチャーが頻繁に行き来していることなど、何となくこれまで魔美がお見舞いで訪れたことのある入院病棟とは少々毛色が違うような違和感を覚えた。
 「あったわ」
 やっとのことで、目的の501号室を見つけた。ネームプレートには「白石まどか」と書かれている。間違いない、さっき屋上で会った彼女の病室だ。ドアの前で中の様子を伺うと、人のいる気配がする。魔美は、気付かれないようほんの少しだけドアを開け、そっと室内を覗き見た。ドアから少し離れたところにベッドが据えられており、誰かが何かの処置を施しているようだが、カーテンが閉まっているので見ることができない。そのカーテンの向こうから、先ほどの胡麻塩頭の医師と思われる男の声で「熱はないようだ」とか「少し血圧が低めだが心配ない」とか「お母さんに連絡が着いたからすぐに来てもらえる」と言っているのが耳に入った。しばらくすると「じゃ、安静にしているんだよ」と、病室を出るような雰囲気を察知したので、魔美は慌ててドアの前を離れ、物陰に身を隠した。間もなく、思った通り胡麻塩頭の医師が一人の看護婦を従えてドアから出てきたので、魔美は息を殺して2人が立ち去るのをじっと待った。
 2人の姿が見えなくなったところで、再び501号室のドアの前に立ち、「コンコン」とノックすると、すぐに「はい」との返事があった。か細いが、先ほど屋上で会ったときよりはしっかりとした声音だったので少し安堵した魔美は、そのままドアを開けて中に入った。
 「こんにちは」
 思いもしなかった来客に驚いたのか、まどかはベッドからガバリと上半身を起こしたが、まだ貧血が治まっていないのか、急な動作をしたせいでフラリとよろめいた。慌てた魔美はとっさにまどかの背中に手を添え
 「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったんだけど、気になっちゃったから様子を見にきたの」
 左腕に点滴を付けたまま、ベッドの背もたれに身を預けたまどかは、にっこりとほほ笑み
 「さっき、屋上にいたときに助けてくれた子ね。一人でいたときに急に気分悪くなっちゃったから本当に助かったわ、ありがとね。……ところで、あなたはなんでこの病院にいるの? 見たところ患者ではなさそうだし、ここに入院している人のご家族かお友達なの?」
 「あ……、いやぁ~、そのぉ~」
 まさか、まどかの思考波のベルを感じ取ってテレポートでやって来たなんて言うわけにはいかない。少々パニックになった魔美は、上ずった声でつい「散歩していたら、たまたま……」と口走っていた。
 「散歩ぉ!? 散歩って、ここ病院の中よ!」
 「いやぁ、あたしっていろんなこと考えたり想像しながら歩く癖があって、夢中になっちゃうと無意識のうちにいろんなところに入り込んじゃうのよね。今日も、お散歩していたら想像の世界にどっぷり浸かっちゃって、気付かないうちにこの病院にフラフラ~って入っちゃったわけよ。……あはっ……、あはははははは……」
 目を泳がせ、両手をひらひらさせながらそんな言い訳を口走っていると、まどかは口に手を当て「あなたって面白い人ね」とくすくす笑い出した。
 「学校の友達にもよくそう言われるわ。……自分じゃ別に面白いことしているつもりはないんだけど……」
 魔美は照れ笑いを返し、ベッドの横のスツールに腰を下ろした。
 「私、佐倉魔美って言います。今中学3年生です、よろしくね」
 「佐倉魔美……魔美ちゃんね。私は白石まどかです。私もこの春から中3、こちらこそよろしくね」
 「えっ! じゃ同い年ね」と喜ぶ魔美に反して、まどかは寂しげに、つと視線を落とし「でもね、学校にはほとんど行ってないんだ……」と呟いた。「え?」と動揺する魔美に向かって
 「ちょうど1年前に病気になっちゃって、いろんな治療をしているんだけど、完全に治すのは難しいみたい。病状が安定したら一時退院できるんだけど、短期間だし体調の優れないことも多いから、中2の時はほとんど学校に行ってないんだ……」
 「そうなんだ……。ところで、まどかさん。何で屋上にいたの?」
 「空を……空が見たかったんだ」
 「空?」思わぬ返答に、魔美は小首を傾げて問い返した。
 「ほら、入院しちゃうとずっと部屋の中にいることになっちゃうから、長引くと空を見ることもできなくなっちゃうんだよね」
 言われて、魔美は後ろの窓を振り返った。大きな窓なので太陽の光は十分に入ってくるが、通りを挟んだ向こう側には、この病院よりも高いビルが建っているので、ここからでは空は見えにくい。
 「今日は日差しも温かいし、ゆっくりと空を見てみたい気分になっちゃったから、病室を抜け出して屋上に上がっちゃったんだけど、しばらく外の空気に触れてなかったし、思ったより肌寒かったせいで具合悪くなっちゃったんだ。だからね、魔美ちゃんが来てくれて本当に助かった。……もし、魔美ちゃんが来てくれなかったら、私……どうなってたんだろ……」
 魔美は、先ほどの騒然とした院内の雰囲気と、まどかを発見した医師や看護婦の様子を思い出した。考えてみれば、ほんの30分患者の姿が見えなくなっただけなのに、あの状況は、事情の全く分かっていない魔美ですら尋常ではないことが起こったのだと感じるものだった。もしかしたら、今のまどかの健康状態では外出すること自体危うい、それこそ命に係わることくらい危険な行為だったのかもしれない。

 自宅に戻った魔美は、自室のベッドに腰掛け、愛犬のコンポコを膝に「かわいそうよね……」と、まどかのことを思い出していた。
 「1年間、空も見えない部屋の中にずっとこもりっきりかぁ……。あたしだったら、我慢できないな、そんな生活。あんただってそうでしょ?」
 「フャン!」とコンポコ、同意しているらしい。魔美はコンポコを抱き寄せ頬ずりすると
 「病気のことはよく分からないから、あたしには何にもしてあげられないけど、せめてまどかさんが少しでも楽しい気分になれるようなお手伝いができないものかしら……?」
 「フャン……」
 「口で言うことは簡単だけど……難しいことよね」と溜息をひとつついた。元気がないことを感じ取ったのか、コンポコは魔美を慰めようと頬をぺろぺろと舐め始めた。ただ頬を舐められているだけなのに、コンポコにしてもらうと少しずつ気持ちが和らぐのを感じるから不思議だ。
 「でも、まどかさんのように病気で悩み苦しんでいる人こそ助けてあげるべきよね。病気があることで体調を崩すだけじゃなくて、できることも限られちゃうし、やりたいことも禁止されちゃうんだもんね」
 しばらくの間物思いに耽っていた魔美は、「そうだわ!」と顔いっぱいの笑みを浮かべて、両手でコンポコを自分の顔の前に持っていき視線を合わせると
 「あたし、将来お医者様を目指してみようかなぁ♪」と言い出した。「フャン?」と気のない返事をするコンポコにもお構いなく
 「将来、美人女医になって、いろんな病気で苦しんでいる人を治してあげるの。それにさ、あたしなら訓練次第で透視能力が身に着くかもしれないじゃない。そしたら、わざわざレントゲンなんて撮らなくても患者を観ただけでどこにどんな病気があるかたちどころに分かっちゃうのよ。そんなことできたらとっても素敵なことだと思わない? 名付けてエスパードクター! なんちゃって♪」
 「……」
 「でもなぁ……、医者になるには大学院まで進まなきゃいけないし、試験もものすごく難しいっていうからなぁ……。だったら看護婦さんなんてどうかしら! 導体テレパシーを使って患者さんの悩みを察知して辛い気持ちに寄り添ってあげたり、体の大きな患者さんを支えたり移乗させたりなんかもテレキネシスを使えばちょちょいのちょいだもんね。エスパーナースなんてのもいいかも♪ それにさぁ、『白衣の天使』ってあたしに相応しいと思わない? ね、コンポコ♪」
 魔美の独白を終始ぽかんと聞いていたコンポコだったが、あまりにも突飛な内容に我慢しきれず「フヒャヒャヒャヒャヒャヒャ」と両手足をジタバタさせながら笑い出した。そのうち、魔美の両手からするりと床に落ちてしまったが、それでもなおおなかを抱えてカーペットの上で笑い転げている。コンポコの態度にすっかり腹を立てた魔美は、ベッドからすっくと立ち上がると両手を腰に当て
 「何よ! 人が一生懸命将来について話しているのに、その態度は! いいわよ! あんたなんて、もしおなか壊したりしても絶対に看病なんてしてあげないんだから!」
 まだカーペットの上で笑い転げているコンポコに「ベーだ」と舌を出し、ドアをさっと開けて廊下に滑り出ると、勢いよくバタンと閉め自室を出て行った。

 午後8時、魔美は自宅のダイニングでママと夕食を取っていた。半年前、魔美が中学2年生の秋、画家である魔美のパパは油彩画の勉強のためフランスに絵画留学した。以来、佐倉家は魔美とママとコンポコ、2人と1匹の生活を送っている。留学してしまったばかりの頃は、パパのいない寂しさや2人と1匹しかいない不自然さに、時折少しだけ気持ちが揺れ動くことはあったが、今の生活でも笑いが絶えることはないし、フランスにいるパパとは頻繁にエアメールでお互いの近況を報告しているし、時々パパから国際電話が掛かってくることもある。
 新聞社に勤めるママが帰宅すると、2人そろって夕食の支度をするのが、ここ最近の佐倉家の日課となっている。元来、天性の料理音痴である魔美だけに、ジャガイモの皮むきですらまともにできなかったものが、ママの熱心且つ根気強い料理指導の甲斐あって徐々に改善の兆しが見え、今では味噌汁やお浸しなどの簡単なものにしろ、魔美の作った手料理が食卓に上がることもある。自分が作った料理がおいしく食べられるのも嬉しいが、自分が作ったものをママがおいしそうに食べている姿を見るのはもっと嬉しい。今夜も2人で作った夕食を囲んで、魔美は夕方コンポコに話して聞かせた自分の将来について、ママに話していた。
 「今日たまたま知り合った子、あたしと同じ中学3年生の女の子なんだけど、1年前から病気でずっと入院治療しているの。病気のせいですぐに具合悪くなっちゃうし、なかなか外に出ることすらできないみたいで、とっても大変な思いしているのよ。……でね、彼女と出会って考えたんだけど、あたし、将来いろんな病気で苦しんでいたり、その病気が基でやりたいことができなくなっちゃった人を助ける仕事に就きたいなって思ったの。できれば医者、それがダメなら看護婦。そうなったら、たくさんの患者さんを治療したり、気持ちが楽になるように寄り添ってあげたりできるじゃない。それってとっても素敵なことだと思わない♪」
 魔美の話にじっと耳を傾けていたママは、箸を止め「うーん」と小さく唸ると、少々浮かない顔をした。自分の提案に諸手を挙げて賛同してくれるとばかり思っていた魔美は、ママの意外な反応に虚を衝かれ、きょとんとした顔で見返した。
 「そうねえ……、魔美ちゃんがそういう目標を持ったことは、とっても素晴らしいことだと思うわ。でも、ちょっと安易というか、考えが足りないような気がするな、ママは」
 「足りないって?」
 「まず、医者がダメなら看護婦って考え方は良くないわ。両者を比べたら医者になる方が難しいんだろうけど、看護婦も医療に携わる仕事なんだから、ちゃんと看護学校に通って、一生懸命勉強しなければ成れないし、そもそも医者と看護婦って役割が全く違うんだから、比較してどうこうなんてことはないはずよ」
 「あ……」ママに指摘され、思わず頬が赤くなる。
 「それにね、魔美ちゃん。お医者さんにしろ看護婦さんにしろ、医療に携わるお仕事に就くということは、人の命と真正面から向き合わなければならないのよ。正直、今のあなたの話を聞く限りじゃ、そこまで深く考えているようにも、覚悟ができているようにも思えないのよ」
 「うーん」と、今度は魔美が右手に箸、左手にお茶碗を持った姿勢のまま俯いてしまった。しばしの熟考の後、ふいに顔を上げた魔美はママに向かって
 「……一応あたしなりには考えたつもりなんだけど……。例えば、パパやママやコンポコ、学校の友達、あたしの周りの人はみんな元気だからそれが当たり前だと思っていたんだけど、あたしと同じ中学生でも、なかなか治らない病気になっちゃったら、あたしが当たり前だと思っていた生活そのものができなくなっちゃうってことに気付いたのよ。今のあたしにできることは何もないけど、医学を勉強して知識や技術を身につければ、彼女のような人を元気にしてあげることができるし、あたしが当たり前だと思っている生活ができるようにしてあげたいなとも思ったの」
 「魔美ちゃん」と、ママは魔美を諭すように、穏やかな声音ながらも毅然とした態度で呼びかけた。
 「少し厳しいこと言うけど、魔美ちゃんがお医者さんや看護婦さんを目指そうと考えた切っ掛けは、重い病気で苦しんでいる同世代の女の子を助けてあげたいっていう、あなたの優しさが動機になっていると思うんだけど、優しさだけで医療に携わりたいっていうのは間違いよ」
 「間違いって……、困っていたり苦しんでいる人がいたら助けてあげたいって思うことは自然なことじゃないの? それが何で間違いなの?」魔美はママに問い返した。
 「そういう気持ちを持つことそのものは決して間違いではないわ。困ったり苦しんだりしている人を見て、その辛さに胸を痛めて、何かしてあげられないかと心を砕く、そんな優しい気持ちを持っている魔美ちゃんがママ大好きよ。でもね、病気を治すのに必要なのは医学なの。そして、医学は決して万能ってわけじゃないわ。どんなに『この人を助けてあげたい』って気持ちを持っていても、今の医療技術でも治療できない病気ってのはまだまだあるはずよ。これはママの想像だけど、医療に携わるってことは、時として救えない命とも向き合わなければならないことがあると思うの。もし、魔美ちゃんにそこまでの覚悟ができていなければ、お勉強のできるできない以前に、魔美ちゃんには合わないと思うな」
 「救えない命と向き合わなければならない……」魔美は胸の中で反芻した。

 月曜日の朝、魔美は高畑と一緒に学校に向かっていた。
 「……へえ、そんなことがあったんだ」
 「そうなの」と、魔美は土曜日にまどかと出会った一部始終を高畑に話して聞かせた。「根本的な解決に結び付くようなことは何もできないって分かっているんだけど、なんだか放っておけないというか、彼女のためにどんな小さなことでもお手伝いしてあげられることはないかなって思っちゃうのよ」
 「……魔美くんの話を聞く限り、かなり重たい病気を抱えているように思うんだ。1年もの間、何度も入退院を繰り返しているっていうし……。これは僕や魔美くんがどうこうできる問題ではなくて、病院で適切な治療を受けて回復するのを見守ることしかできないと思うんだけど……」高畑は眉間にしわを寄せながら独り言のように呟いた。
 「そんなことは分かっているわよ。そこでよ」と、魔美は右手の人差し指を立ててにこにこと微笑みながら「学校が終わったら、彼女のところにお見舞いに行こうと思うの、お菓子とか果物とか持って。ずっと一人で部屋にこもりっきりだと、気が滅入っちゃって治るものも治りにくくなっちゃうと思うの。そこで、お見舞いに行っていろんなこと話したり一緒に笑ったりしていれば、きっと気分も楽になるはずよ。どう、高畑さん。早速今日行ってみようと思うんだけど、一緒に来てくれない」
 「そういうことなら。……でも、お見舞いのお土産にお菓子や果物ってのはどうかな? 体の具合によっては食事制限をしているかもしれないから、必ずしも喜ばれるとは限らないよ」
 「そっか……」と魔美は思案顔になり「じゃあさ、本なんてどう? これならベッドの上でも楽しめるし」
 「本か」
 「例えばね……」と、魔美は自分の鞄をゴソゴソと探ったかと思うと、中から1冊の文庫本を取り出した。一目見た高畑は「あ」と声を漏らすと顔に笑みを浮かべ
 「魔美くんも読んでたんだ。偶然だな、僕も昨日図書館で借りて読み始めたところなんだよ」
 「え、高畑さんも読んでいるの♪ あたしはノンに薦められてこの春休みに買って読んだんだけど、本当に面白いミステリー小説なのよ」
 「みたいだね。聞くところによると、古典ミステリーの名作って呼ばれている作品らしいから、僕も読んでみることにしたんだ」
 「まっさか、物語を進めている語り手の人が犯人だなんて、全く想像できないわよね、あたし読んでて本当にびっくりしちゃったわよ♪ こういうの叙述トリックって言うんでしょ♪」
 とたんに高畑の笑みが凍りついた次の瞬間、徐々に目が吊り上り、両手で自分の頭を抱え込んだかと思うと「しゃ……しゃべったなぁ~!!!」と叫び、キッと魔美を睨みつけた。「あ……」と思わず魔美は自分の口に片手を当てたが、時すでに遅し。憤怒の高畑は魔美に向かって
 「魔美くん! 前からあれほど言っているのに、君はいつもいつもいつもいつも……! ミステリーのネタばらしはしちゃいけないって言っているのにぃ……!」
 「ご……ごめんなさい……。あの……その……つい……」魔美はおろおろしている。
 「もう君とは絶対にミステリーの話はしない」高畑はすっかりへそを曲げてしまった。「それにね、魔美くん。どんなに面白い小説でも、本の好みは人それぞれだから、お見舞いに持っていくのならもう少し慎重に選んだ方がいいよ」と平坦な声で魔美に言った。
 「そ……そうよね」と、魔美は作り笑いを浮かべて何とかその場を取り繕い、再びあれこれと思案すると「だったら、写真集なんてどうかしら?」と提案した。
 「写真集?」
 「うん。そもそも彼女が屋上に上がったのは、空を見たかったからなの。きっと、空とか雲とか、自然の景色が好きな子だと思うの。だから、そういう風景を集めた写真集なら喜んでくれるんじゃないかしら」
 「ああ、それならいいかもね」高畑の表情が柔らかくなった。「それなら、書店に寄ってから病院にお見舞いに行こうよ」

 学校が終わり、一度帰宅した2人は駅前の書店で落ち合った。一緒に写真集の棚をあれこれと物色した結果、世界中様々な地域の空や海を写した『空と海の写真集』という写真集を選んだ。
 「こうして見比べると、時期や場所によって空や海の色って全然違うんだね。空も海も全部ひとつに繋がっているのに」と、写真集をパラパラと捲りながら高畑が呟く。
 「本当にきれい。これならきっとまどかさんも喜んでくれるわ」と、隣で魔美が感嘆の声を上げた。
 そして、魔美と高畑は写真集を手にまどかの入院する病院へと向かった。電車に乗り、最寄駅と思われるところで下車したが、なんせテレポートで来たところだけに、たどり着くまでに少々時間がかかってしまい、やっと見覚えのある白い外壁を見つけたときには、太陽が西の空に傾きかけていた。
 501号室のドアの前でノックをすると「はい」と聞き覚えのある声が帰ってきた。「こんにちは」と2人揃ってベッドの上のまどかに声を掛けると、「あ、魔美ちゃん」とまどかの顔に笑みが広がり、魔美の後ろにいる高畑を見つけると一瞬驚きの表情が浮かんだものの、すぐに笑みを取り戻し、高畑に向かって会釈した。
 「突然お邪魔してごめんなさい。どうしているかなと思って来てみたんだけど……」と魔美が言うと「お邪魔だなんてとんでもない。一人でベッドに釘付けにされて退屈していたところよ。来てくれて嬉しいわ」と、まどかは気さくに応じた。
 「良かった♪ それでね、今日はお友達も連れてきたの。私と同じ学校に通っている高畑和夫くん」
 「初めまして」と、高畑が軽く頭を下げると「こちらこそ初めまして、白石まどかです」と、まどかも笑顔を浮かべて軽く頭を下げた。相変わらず、彼女の顔色は悪く、左腕に刺さった点滴が痛々しいが、今日のまどかは薄い桜色のパジャマにクリーム色のカーディガンを羽織り、パジャマの色に合わせたニット帽を被っている。色白ではかなげな雰囲気のあるまどかには、寝間着ながらもとても似合う装いだ。
 「ごめんなさい、立たせたままで。そこにもう一脚折りたたみ椅子があるから……」
 魔美は前回と同じベッド脇のスツールに、高畑はまどかが指差した壁際の折りたたみ式のパイプ椅子を広げて魔美の隣に座った。
 「今日はねぇ……」と、魔美は「ジャーン」と胸の前で抱えていた写真集を高々と頭の上に掲げると、そのまままどかの方に差し出した。「え?」と、まどかはきょとんとしながらブルーの大判の表紙を見つめた。
 「これ、私と高畑さんから。いろんな国の空や海の風景写真を集めた写真集なんだけど、まどかさん空を見るのが好きみたいだったから選んでみたの。受け取ってもらえますか?」
 「元気になるまでの間、それでいろんな空や海を楽しんでもらえればいいなと思ってね」
 それまできょとんとしていたまどかは、魔美や高畑の言葉をきくと「ええっ!?」と驚嘆の表情を浮かべ、徐々に笑みが広がり「本当にいいの?」と問い返すと、魔美はにこにこしながらコクリとひとつ頷き、まどかに写真集を手渡した。
 「ありがとう、すごく嬉しい! 見てもいいかしら?」
 魔美と高畑が頷くと、まどかはゆっくりとページを捲り始めた。まどかの手の中でインディゴブルーの空やエメラルドグリーンの海が広がるたび、彼女は眼を輝かせながら「きれい……」と喜びの呟きをもらした。
 まだ知り合って間もないが、これまで魔美に時折見せた彼女の笑顔は、にこやかではあるがどこか陰のある笑みで、寂しげな印象を感じさせるものであったが、今のまどかが見せる表情は、顔いっぱいに満面の笑みを湛えた、心からの笑顔のように見えた。この笑顔を見ることができただけでも、今日お見舞いに来て良かったと、魔美の胸の中に暖かなものが広がった。
 「まどかくん」と、ふいに高畑がまどかの枕元の横のサイドボードを指差した。
 「あれはスケッチブックだよね。病室で絵を描いたりしているの?」
 高畑が指差した方に魔美が目をやると、そこには画用紙をリング閉じにしたスケッチブックと60色の色鉛筆が置いてあった。「ああ」と、まどかは写真集を膝に置くと、スケッチブックを手に取り
 「うん、絵を描くのが好きなの。昔はよく水彩画を描いていたけど、入院してからは病室に絵の具を持ち込むわけにはいかないから、色鉛筆で風景や物なんかを描いているの。ここ最近は描きたいものがなくなっちゃったから、この写真集の風景を模写してみようかなって思っていたところなの」
 「そうなんだ。見てもいい?」との魔美の申し出に「そんなに大したものじゃないよ」と照れながらまどかは魔美にスケッチブックを手渡した。スケッチブックを捲る魔美の隣で高畑も覗き込む。
 「うわぁ……」
 スケッチブックの中には、まどかが描いた花や果物、院内やこの部屋の窓から見える風景が収められており、魔美と高畑は1枚1枚じっくりとそれらの絵を眺めていた。
 「素敵な絵ね」
 「色使いもいいよね。どの絵も忠実に再現されているけど、柔らかで暖かな雰囲気を感じるよ」
 魔美と高畑の賞賛に「そんな、……いやだな、お世辞なんて」と照れ笑いするまどかに「お世辞なんかじゃないわよ。あたしの父は油彩の画家なの。その画家の娘が褒めているんだから、この絵は素敵なのよ」と、魔美は毅然と言い放つ。
 「へぇ、魔美ちゃんのお父さんってプロの画家なんだ。じゃ、自宅にアトリエがあったり、個展なんかも開いているわけ?」
 「うん。もちろんおうちにアトリエもあるし、今はフランスに絵画留学しているからここ最近はしていないけど、以前は時々個展を開いたりしてたわ。あまり売れていないから無名なんだけどね」
 パパのことを話す時の魔美は、いつも誇らしげで深い敬意の念に溢れているなと、隣で聞いていた高畑は思った。それだけ魔美は、パパの描く作品を愛し、素晴らしいと感じているのだろう。
 「すごーい! 私、絵を描くのも見るのも好きなんだけど、実はまだプロの画家が描いた油絵を生で見たことないんだよね……。いいなあ、魔美ちゃんのように身近にプロの画家が傍にいれば、そういう絵をいつでも間近で見ることができるんだもんね……」
 「それなら!」と、魔美は身を乗り出し「今度、父が描いた絵を持ってくるわ」と提案した。「そんな……わざわざ……」と恐縮するまどかに「いいのいいの、絵を持ってくることくらいなんてことないし、それに父の絵を見てもらえるのはあたしにとっても嬉しいことだし」との魔美の返答に「……じゃ、お言葉に甘えて。楽しみにしてるね」と、まどかはにこりと微笑んだ。

 そろそろ診察の時間になると言うので、魔美と高畑は「お見舞いに来てくれてありがとうね、魔美ちゃん、高畑くん」とまどかに見送られて病室を後にし、そのままエレベーターに乗った。
 「とっても嬉しそうだったね。お見舞いに来て良かったね」との高畑の言葉に「うん、まどかさんに喜んでもらえて本当に良かったわ。絵が好きだって共通の趣味も見つかったし、なんだかまどかさんとはいいお友達に成れそうな気がするわ。高畑さんもそう思わない? ……ねえ、高畑さんってば! ……高畑さん……?」
 エレベーターを降り、1階のエレベーターホールで何度呼びかけても返事がないので振り返ると、高畑はエレベーター前のパネルをじっと凝視していた。何だろうと思い、魔美も覗き込むと、この病院の1階から5階までの診療科目が記されていた。「これがどうかしたの?」と不思議に思いながら高畑の方を見ると、彼はとても険しい顔つきをしていた。

 1枚の油彩画を真剣な眼差しでじっと見つめ、しばらくすると元の場所に戻し、今度は別の油彩画を手に取った。魔美は自宅の2階、パパのアトリエにいる。このアトリエの主、パパがフランスに旅立った後も、いつでもパパが帰国してここで創作活動ができるようにと、魔美とママが毎日換気と掃除をしているので塵一つ落ちていない。
 ここにパパがこれまで書き溜めた油彩画も保管しているのだが、先日、まどかにパパの絵を見せると約束したので早速その準備に取り掛かったのだが、15号以上の大きなものは持っていけないし、一度にたくさんのカンバスを持っていくと、運んでいる途中で絵を傷つけてしまう恐れがある。そこで、数多くの油彩画の中から、これぞというものを数枚選ぼうとしているのだが、どの作品もまどかに見てほしいものばかりでなかなか選びきれない。
 「……やっぱりパパの絵ってどれも素敵よね。眺めているだけで、胸の中が温かくなるような、心が癒されるような、そんな気持ちになるのよね。こんなに素晴らしい絵なのに、なんで世間の人たちは理解してくれないのかしら。ねぇ、そう思わない? コンポコ」
 アトリエの隅っこで丸くなっていたコンポコは「……フャン?」と首をもたげて魔美を見返った。
 「そんなところで丸くなってないで、あんたも選ぶの手伝ってよ」と、魔美は数枚の絵を取り出すとコンポコに向け
 「どれも素敵だから、あたしには選びきれないのよね。まず風景画だったら……、これなんてどうかしら? 夏に別荘地に行って描いた作品。ほら、高畑さんも来てくれたじゃない」
 「フャン!」
 「これは? みんなでフェリーに乗って訪れた島で描いた冬の海の作品」
 「フャン!」
 「あら懐かしい! パパの知り合いの北海道の牧場に行ったときのだわ!」
 「フャン!」
 「もぉー! 判で押したように同じ返事ばっかり! あなたも画家の飼い犬なら、もう少し絵に対する審美眼があってもよくなくて!」
 魔美の叱咤にすっかり機嫌を損ねたコンポコは「フャンフャンフャン!」と抗議の声を発すると、魔美に背を向け再び丸くなってしまった。
 「まぁー、可愛くないの。いいわよいいわよ、あたし一人で選ぶから」と、ふくれっ面になりながら、いじけるコンポコを無視して、再度絵を物色し始めた。
 「やっぱり、パパの代表作『連作・少女』は外せないのだ」
 魔美は、自身の裸体を描いた一連の作品群を取り出した。魔美自身がモデルなのでどうしても主観的な見方にならざるを得ないが、けっこう可愛くきれいに描かれていると魔美は思っている。
 「きっとパパは、あたしの見た目だけじゃなくて、あたしの中に秘められている美しさも表現しているんだわ」
 一人悦に浸りながら1枚1枚眺めていたが、ふいに
 「……考えてみれば、もう半年も『連作・少女』は描かれていないのよね。こうして見ると、なんだか当時のあたしがそのまま絵の中に閉じ込められているみたい」
 魔美は壁の方の姿見に目をやり、今の自分の姿と、絵の中の自分の姿を見比べた。少々絵の中の自分の方が幼いような印象を受ける。やはり、ほんの半年とはいえ、成長期真っ只中の魔美の容姿は日に日に変化しているのだ。
 「もし……もしも、パパが今の中学3年生になったあたしを描いてくれたら、どんな絵になったんだろう……」
 そんなことを思うと、久しぶりに胸の奥がキュッと押し付けられるような心地を感じた。

 「こんにちは、まどかさん」
 病室を訪れた魔美はベッドの上のまどかに声を掛けた。相変わらず点滴はしているし、それに今日のまどかは体調が思わしくないのか、少々疲れているように見える。
 「いらっしゃい、魔美ちゃん」まどかはもそもそとベッドから上半身を起こしたが、何となく動作が緩慢で声にも張りがない。
 「……まどかさん、今日は調子悪い? もしあまり気分良くないようだったら、あたしまた改めて来ようと思うんだけど……」と魔美が言うと
 「ううん、今うとうとしかけていたからちょっと眠いだけ。でも、大丈夫よ。……もしかして、お父さんの絵持ってきてくれたの? ごめんね、重たかったでしょう」
 まどかは魔美の両手にぶら下がる手提げ鞄を見て労いの言葉を掛けた。
 「ううん、全然平気よ。本当はもっとたくさんあるんだけど、どの作品を見せようか迷っちゃって。取りあえず今日は6枚だけ持ってきたけど、また次回別の作品を持って来るわね」
 魔美はスツールに腰掛けると、手提げ鞄から1枚の絵を取り出し、まどかに手渡した。まどかは「うわぁ」と歓声を上げながら、その絵を捧げ持つように両手で受け止め「すごい! プロの画家が描いた本物の油絵だ」と頬を紅潮させながら油彩画を眺めた。
 「間近で見ると、絵の具を塗り重ねた部分の立体感とか、微妙な色彩のグラデーションがよく分かるわ。……それに、見ているとだんだんと気持ちがほぐれるような……優しい雰囲気を感じるの」
 うっとりとした眼差しでパパの絵を眺めるまどかを見て、ここにもパパの絵の良さを分かってくれる人がいたと、魔美は心の中でそっとほくそ笑んだ。
 1枚、また1枚と絵を手渡す度に湧き上がる歓声、魅入られたようにパパの絵を見つめる眼差し、そんなまどかの様子をベッド脇から魔美は眺めていたが、ある1枚を手渡した時、つと彼女の動きが止まり、ぽかんとした表情になっていることに気付いた。「あれ?」と思っていると、まどかが呟くような声音で「これ……、魔美ちゃんだよね」と問い掛けてきたので覗き込むと、案の定それは『連作・少女』の1作品だった。
 「ああ、これね。父が日本にいる時に、あたしをモデルにして描いた連作の一つなの。あたしはけっこう気に入っているんだけど、どうかしら? 学校の友達からは『実物より可愛い』なんて言われちゃったりするんだけど……」
 魔美は「あはは」と笑っているが、まどかは先ほどとは打って変わって真剣な眼差しで、絵と魔美を交互に見比べている。
 「すごい……。まるで……、まるで魔美ちゃんをそのまま絵の中に閉じ込めたような快活さと生気に溢れている……」
 「あら、ホント♪ 実はね、あたしも久々にこの絵見て同じようなこと感じたのよ。そんな風に言ってもらえてとっても嬉し……」
 「魔美ちゃん!」と、突然まどかが声を張り上げたかと思うと「お願いがあるの」と切り出した。「へっ……? お願いって……?」とへどもどする魔美に向かって
 「あなたのお父さんに描いてほしいの、私の絵を……。魔美ちゃんからお願いしてもらえないかしら。もちろん、描くのに掛かった材料費とか日本への輸送費はちゃんと払うから」
 「パパに、まどかさんの絵を……」突然の申し出に、魔美は少々困惑した。まどかの願いなら叶えてあげたいと思うのだが、
 「せっかくのお願いだけど……、今父は絵の勉強のためにフランスに留学中なの。いつ帰国するかも分からないの。……でもね、帰国したら描いてもらうように頼んでみるわ。そのころにはきっとまどかさんも元気になっているだろうから、うちのアトリエに来てもらって……」
 魔美の言葉をさえぎって、まどかは激しくかぶりを振った。
 「……できれば、今すぐ描いてほしいの。……例えばだけど、私の写真をフランスにいるお父さんに送るとかすれば……、何とかならないかな。私ね、この絵の魔美ちゃんのように生き生きと、今の私を描いてほしいのよ」
 どちらかと言えば、控えめでおとなしく、あまり自分の欲求を表に見せない子だと思っていた魔美は、まどかの熱心且つ真剣、むしろ必死とも言える懇願にどう答えていいものかと戸惑ってしまった。パパに写真を送って絵を描いてもらうことはお願いすれば何とかなるかもしれない。しかし、今のまどかを生き生きと、というのはどうだろう。病床に伏してはいるものの、まどかは色白で清楚な印象を与える可愛らしい女の子だと思う。しかし、長期間の入院生活のせいか、顔は色白を通り越して青白く、体もすっかりやせ細ってしまい、お世辞にも健康的な生き生きさを感じるとは言えない。そして、パパはまどかに会ったこともない。仮に、今のまどかの姿を写真に撮って送ったとしても、パパがまどかの望むような絵を仕上げてもらえるとは思えなかった。
 「……ごめんなさい」まどかは肩を落として呟いた。
 「無理言ってごめんなさい。……そうよね、こんなこと急にお願いしても、魔美ちゃんを困らせるだけだもんね。ごめんなさい、今私がいったことは忘れてちょうだいね」
 先ほどまでの勢いから一転、がっくりと肩を落としたかと思うと、その表情がみるみるうちに曇っていった。もしかしたら、魔美が考えていた以上に、絵を描いてほしいというのは、まどかにとってはそれこそ必死な願いだったのかもしれない。まどかの落胆した顔を見つめるうち、思わず「いいわ!」と宣言していた。
 「いいわ! まどかさんの絵、フランスにいるパパに描いてもらうよう頼んでみる」
 「でも……」と恐縮するまどかに、魔美は首を左右に大きく振って「大丈夫よ。あたし、パパに描いてもらうよう交渉してみる。……ただ、送る写真については……」
 魔美が言いよどむと、意図を察したまどかはコクリと一つ頷き「母に頼んで、入院する前の写真をもってきてもらうわ」と言ってくれたので、魔美も黙ってコクリと一つ頷いた。
 「ありがとう魔美ちゃん。とっても嬉しいわ、ありがとう」
 まどかの右手が手に触れた。魔美はまどかの手を握りしめ、手の中で彼女のぬくもりを感じていた。

 自宅の時計が午前0時を告げた。すでに就寝しているママを起こさぬよう、魔美はそっと受話器を持ち上げ、間違わぬようメモを見ながら慎重に長い番号をプッシュした。帰宅後、早急に伝えたいことがあるから、フランスのパパの連絡先を教えてほしいとママに頼んで、下宿先の電話番号を教えてもらった。しかし、フランスとの時差は8時間、パパは聴講生としてパリの某美術学校に通っているから、今かけてもパパは出ないとママに窘められた。それから数時間、日本が午前0時ならフランスは午後4時、帰宅しているかは微妙な時間だが、パパが出ることを祈って受話器に耳を当てた。
 パパの方から電話をもらうことはあっても、魔美の方から電話をするのは初めてだ。日本とは違う呼び出し音を聞きながら待つこと数コール、「ガチャ」と電話が繋がると同時に「アロ(もしもし)?」と聞こえた。言葉はフランス語だが、聞き間違えるはずがない、魔美のパパの声だ。魔美は飛び上がらんばかりに嬉しくなったが、今は深夜なのであまり声が大きくならないよう注意し、「もしもしパパ。あたしです、東京の魔美です」と告げると、息を飲むような気配が電話の向こうから伝わった次の瞬間「おぉ~、マミ公じゃないか! 久々に魔美の声が聞けるとは嬉しいねぇ~。みんなは元気にしてるか?」と、魔美の大好きな柔らかで愛嬌のある優しい声が返ってきた。
 「うん、あたしもママもコンポコも、みんな変わりなく元気よ」
 「そうかそうか!そりゃけっこう。そうそう、昨日魔美からの手紙が届いていたぞ。3年生から高畑くんとは別のクラスになっちゃったんだって? クラスがバラバラになっちゃったのは寂しいかもしれないが、同じ学校に通っているし、家も近所なんだから、そんなに……」
 「パパ、今日はパパにお願いがあって電話したの」久々にパパと募る話がしたい欲求をぐっと堪え、魔美は切り出した。「お願いって……? どういうことだい?」と問い返すパパに、魔美はまどかからのお願いを伝えた。
 「う~ん」一通り魔美の話を聞いたパパは低い唸り声を上げた。「彼女の望みなの。こればっかりはパパにしか頼めないことなのよ。お願いできないかしら?」と必死で懇願する魔美に
 「もちろん、その子がパパの絵を気に入ってくれたことはとても嬉しいことだし、描いてほしいって望んでいるのならその気持ちに答えたいとも思う。……でもね、写真を見てというのがね……」と、パパは言葉を濁した。
 「……無理かしら」
 「できないことはないし、その写真のとおりの絵を仕上げることはできるよ。ただね、その方法じゃ、その子が望むような絵が完成するとは、パパ思えないんだよ……」
 「……どういうこと?」
 「いいかい」と、パパは咳払いを一つすると「風景にしても事物にしても、画家が絵を描くということは、必ずしも目で見たままの状態をそのまま描き出すというわけじゃないんだよ。例えば、パパの場合は、描きたい風景や事物に対して、全く同じ色使いや模写をしているわけじゃない。温かさとか優しさとか懐かしさ、時には厳しさや冷淡さなど、その対象物が醸し出している雰囲気を感じ取って自身の中にイメージとして取り込み、時としてパパの理想や思いが加わり、それを『絵』という表現方法を用いて形にしているんだ。人物ならなおさらのこと、モデルと向き合うことで、その人が発しているオーラをパパは感じ取り解釈して絵にしているんだ。写真じゃ、そのオーラを感じ取ることはできないよ。もし、写真で事足りるのなら、わざわざ魔美にモデルのアルバイトを頼まなくても、一度ポーズを取ってもらって、それを写真に撮れば済むということにならないかい?」
 「つまり……、写真を元にして描いたのでは、単に写真そのものを絵にしているだけってことになるの……?」
 「まあ、そういうことだね」パパはあっさりと答えた。「だからね、その女の子そっくりな絵は出来上がるだろうけど、魔美を描いた時のような感動を与える作品には仕上がらないと思うよ」
 パパの言っていることは正しい。画家の娘として、そして長年パパの絵を見てきた魔美だからこそ、パパの説明に納得できるし合点も行く。そう思うものの、「そうね、パパの言うとおりだわ」と言うつもりにもなれない。これはパパにしか頼むことのできない、まどかからの切望なのだ。
 「パパの言っていることは筋が通っているし、この方法では彼女が望むものを描くのはとても難しいことも理解したわ。でも、でもね……、それでもパパに頼みたいの」
 「魔美」とパパは呼びかけた。「その子は、魔美にとってとても大切な友達なのかい?」
 パパの問いかけに「うん、あたしにとってとても大切な友達なの」と答えた。とたんにパパは黙ってしまった。受話器の向こうからはパパの息遣いだけが微かに伝わる。魔美は次第に大きくなる自分の心臓の鼓動を感じながら、受話器をぎゅっと握りしめた。
 「……分かった。じゃ、その友達の写真をパパのところに送りなさい」
 「ありがとう! パパ大好きよ!」深夜にも関わらず、魔美は思わず叫んだ。「おいおい、そっちは真夜中だろ、そんな大きな声出したらご近所迷惑だぞ」お小言を言われたが、それには幾分かの照れ隠しも含まれているように感じた。
 再度、パパへの謝辞の言葉を告げてから受話器を置いた。電話を切り、パパとの会話を思い出しながら一人冷静に考えてみると、パパに引き受けてもらえて安心している一方で、パパに言われた『そっくりな絵はできるけど、感動を与える作品には仕上がらない』という言葉が魔美の心に引っ掛かり、果たしてこれで良かったのだろうかと、戸惑いにも似た感覚が胸の中で渦巻いていることは否めなかった。

 冷たい雨の降る土曜日の午後、魔美は傘を片手に足早にまどかがいる病院を目指していた。前回に引き続き、パパの絵を持参するつもりだったが、雨の中油彩画を手提げ鞄に入れて持ち歩くわけにはいかない。今日は写真だけ受け取って帰ろう、絵はまた次回お見舞いに来たときにでも持参すればいい。
 いつものように501号室のドアをノックする。が、返答がない。赤々とした灯りがドアの小窓から見えるので、消し忘れでなければ誰かいるはずだ。
 「失礼しまーす……、まどかさーん……」
 ドアをそっと開け、首だけ突っ込んで呼びかけたが返事がない。だが、カーテン越しに見えるシルエットから、ベッドの上に誰かが横たわっていることが分かる。もしかしたらお休み中なのかもしれない、それならば少し待たせてもらって、目覚めそうもなければまた日を改めて来ることにしよう。
 魔美はそっとベッドに近づき覗き込むと、案の定まどかはベッドにいた。「寝ているのかな?」と思ったが、少し様子が違う。横にはなっているが、ぼんやりと薄目を開け、心なしか呼吸も荒いような気がする。相変わらず点滴を続けているし、少し前に比べて痩せたようにも見える。なんだか、疲れて眠っているというよりも、気力がだんだん萎えてしまい、起き上がることすらできなくなってしまったように思えた。
 「まどかさん」
 枕元でそっと囁くと、ビクリと瞼が動き、それまで虚ろだった瞳が魔美を捉えると「あ」と掠れた声が漏れ聞こえた。上半身を起こそうとしたが、あまりにも動作が緩慢で気怠そうだったので
 「ごめんなさい。休んでいるところを邪魔しちゃって……。疲れているみたいだから、また日を改めて来ましょうか?」
 魔美の提案にまどかは首を横に振った。「……そう。でも、無理しないでね。横になったままでいいわよ、あたしはちっとも気にしないから」
 「ごめんね……」と、再びかすれた声で呟くと、そのままドサリと枕に頭を落とした。
 「さっき治療を終えたばかりだからちょっと疲れちゃって……。ごめんなさい、せっかく来てくれたのに……」
 「ううん、突然来たあたしの方が悪いのよ、気にしないで」
 「治療」と言うが、果たしてまどかはどんな治療を受けているのだろうか。そもそも、まどかはどんな病気で長期入院しているのだろうか。そんな疑問がふと魔美の脳裏を過ぎったが、病名や治療内容を尋ねたところで魔美に理解できるはずもないし、そこまで踏み込むべきではないとも思っている。いくら人の問題に首を突っ込みたがるおせっかいな魔美でも、必要以上に他人のプライバシーには介入しない、そのくらいの分別は弁えているのだ。
 「絵のこと、パパにお願いしてきたわ」と魔美が言うと「引き受けていただけたんだ、嬉しいわ」と微笑んだが、あまりにも弱弱しい笑みだったので、かえって魔美には痛々しく感じてしまう。
 「写真なんだけど、そこのサイドボードに……」と、まどかが指差す方向を見ると、スケッチブックと一緒に革表紙のアルバムが目に入った。「アルバムごと持ってきてもらったの。魔美ちゃんがいいと思ったものを選んでくれないかな」
 「見せてもらうわね」と、魔美はアルバムを手に取った。ここ4~5年の写真を収めたアルバムなのだろう、一番最初のページには小学校3~4年生くらいのまどかが写されていた。着物を纏った初詣のまどか、友達らしき女の子たちと戯れている普段のまどか、校庭を駆け抜ける運動会のまどか、中学の制服を身に着け照れ笑いを浮かべるまどか……、どのまどかも色白で、赤みのさしたふっくらとした頬は健康的で、肩まで伸びたセミロングの黒髪は艶やかで、改めてまどかはきれいで可愛らしい女の子だなと感じた。最後のページには旅行先で撮ったものなのだろう、どこかの湖をバックに、ジャケットにジーンズ、スニーカーといったカジュアルな装いのまどかが写されている。真正面を向き、目鼻立ちもはっきりと写されているし、見たところこれが一番新しく、今のまどかに近いものだろうと思い、この1枚を選び取った。
 「これにするわ。しばらくの間お借りします」と、魔美が選んだ写真を一目見たまどかは
 「それ、一昨年の秋に家族で富士五湖に行った時の写真なの。……富士山がすぐ傍にあって、湖もとってもきれいだったな……」
 「ええ、とっても素敵よ。景色も、まどかさんも」
 「これがあの素敵な油絵になるんだ、とっても嬉しいな……」
 「うん、楽しみに待っていてね。完成したらすぐに持っていくわ」
 「ううん。絵ができたら、私の自宅に直接送ってほしいの、いいかしら?」
 「もちろんよ。じゃ、まどかさんの住所教えてくれない?」
 魔美は、まどかが教えてくれた住所を手帳に書き取った。伝え終えたとたん、まどかはぐったりと枕に深く頭を埋め、目を閉じてしまった。
 「まどかさん、お疲れみたいだから、今日のところはこれで失礼するわね」と、写真を手に椅子から立ち上がろうとした時、「魔美ちゃん」とまどかがすっと右手を延ばし、にこりと微笑みながら
 「魔美ちゃん、本当にありがとうね」と、強く固く魔美の右手を握りしめた。瞬間、電気が流れるように右手からまどかの思念が伝わり、魔美ははっと息を飲んだ。その瞬間、微笑みを浮かべ右手を固く握りしめているまどかの姿を直視できなくなり、魔美はぎゅっと目を瞑ってしまった。右手を通じて感じ取ったまどかの思念、彼女は泣いていた。

 降りしきる雨の中、魔美は中央郵便局目指して走った。「なぜなの? なぜ泣いていたの? まどかさん……」まどかの思念が、魔美の胸の奥深くにどんよりとした暗い影を落とす。出会った時からそうだった、まどかは病に苦しんでいた、いつもベッドの上にいた、顔色も冴えなかった……。でも、病院にいるのだから、入院しているのだから、治療をしているのだから、いつか必ず治る。そんな風に思い込んでいたから、あまり深く考えることはなかったが……。魔美は一瞬脳裏を過ぎった考えを振り切るように、頭を大きく左右に振り、そのまま中央郵便局に飛び込んだ。
 全速力で駆けてきたせいで、しばらくの間荒い息が止まらなかった。パパに私信を送るときは通常の航空便で済ましているが、それではパパのところに届くまでに1週間は掛かる。カウンターで、できるだけ早くフランスに送りたいと伝えたところ、料金は高くなるが、国際スピード郵便なら遅くとも3日後の火曜日には着くと言われたので、迷わずそれで送ることにした。
 魔美は中央郵便局を後にした。できることは全てやった、後はパパの絵が完成するのを待つだけだ。しかし、魔美の胸の中に生じた黒い影は消えることなくいまだに居座っている。まどかから預かった写真。写真の中のまどかは確かにきれいで可愛らしく、そして元気そうだった。だが、あれは一昨年の秋、つまりまどかが中学1年生だった時のものだ。成長期真っ只中の中学生にとって、この時間の差は大きい。どう見ても、写真の中のまどかは、今のまどかと比べて数段幼くあどけない印象を抱いてしまうことは否めない。また、パパに指摘されたこともあってより意識してしまうのだが、やはり写真は景色や事物をただの記録として残すのみであって、被写体から受ける印象はどうしても薄っぺらく感じてしまう。プロが撮影したものなら一味違うのだろうが、素人が撮った単なる記念写真では、感じ取れるものはほぼ皆無に等しい。これではパパの言うとおり、まどかが望んだ油彩画にはほど遠いものができてしまうのではないか。そんな不安が魔美の中で渦巻いている。
 もう一つ。遅くとも3日後に写真が届くとのことだが、そこから描き始めて、完成後に日本に届くまでは更に3日掛かる。パパにも都合があるだろうから、すぐに取り掛かることができないかもしれないし、創作そのものにも日数を費やすことになる。……でも、それでは遅すぎるような気がしてならない。何かそう思わせる確証があるというわけではないが、魔美が受け取ったまどかの思念が得体のしれない恐怖へと変わり、その恐怖が魔美を追い詰め焦らせる。
 「本当にこれでいいのかしら? あたしができることはもうないのかしら?」魔美は家路を急ぎながら、同じ疑問を繰り返している。
 「まどかさん言っていたわ。『生き生きと今の私を描いてほしいの』って……。それなら、多分この方法自体が間違っている……。あの写真を元に描いたのでは、出来上がるのは中学1年生のまどかさんの姿になってしまう……。でも、今のまどかさんは……」
 そんなことを考えると、とたんに気持ちが沈み込む。そもそも、なぜまどかは自分の絵を描いてほしいと魔美に頼んだのだろう、しかもあれほどの強い意志で。
 「……あたしは今のまどかさんを知っている。アルバムで以前のまどかさんのことも知ることができた。……パパは言っていたわ。絵を描く時は、描きたい対象の雰囲気を感じ取ってイメージとして取り込み、理想や思いを加えるんだって……。それなら……。あたしだって画家の娘よ、それくらいの想像力がなくてどうする! 直接相手の体に触れることでしかやったことないけど……どうにかしてパパに伝えないと!」

 フランスのとあるアパートの一室。時間は午前9時を少し回ったところ。魔美のパパは愛用のパイプを片手に真っ白いカンバスを見つめ、次の創作の題材について思いを巡らせていた。
 ふいに電話が鳴った。思案している最中にこのような横槍が入ると正直むっとする。椅子から立ち上がりカンバスの前を離れると、けたたましく鳴り響く電話に向かって「はいはい、今出ますよ~」と急いで受話器を掴み、「アロ(もしもし)?」と呼びかけた。
 「……なんだ、マミ公か。なんだい、こんな朝っぱらから……あ、そっちは夕方か。電話してきてくれるのは嬉しいが、パパ今ちょっと忙しいんだ。それに、国際電話料金だってばかにならないんだから、そうしょっちゅう掛けると……」
 「パパ! お願い!」魔美の切羽詰まった嘆願に少々気圧され
 「お願いって……、この間言っていた友達の絵のことかい? それなら、まだ写真がこちらに届いてないんだが……」
 「そうじゃなくて! お願いパパ、しばらくの間黙っていて、心を穏やかにして」
 「心を穏やかにって……」
 電話してきて黙っていろだなんて、おかしなこと言うなと訝しく思いながらも、魔美の言うとおり黙ったまま受話器の向こう側に耳を澄ました。聞こえてくるのは回線が発するノイズと微かな物音だけ、そして同じように受話器を握りしめているであろう魔美の気配しか感じ取れない。
 「おい魔美! いつまでこんなこと……」
 声を発した瞬間、受話器を当てていた左耳の辺りにじんわりと温かいものを感じたかと思うと、とたんに電気が流れたような刺激が頭の中を駆け巡り、一瞬目の前が真っ白になった。言うならば、視覚を使わず、直接脳に映像が流れ込んできたような、何とも言えない奇妙な感覚だった。
 「お、おい! ま、魔美! マミ公! 今、君は何をしたんだ!」
 送話器に向かって叫んでみたが、電話はすでに切れており、受話器からは「ツー……ツー…」という音しか聞こえてこなかった。
 半ば放心状態のまま、パパは電話をフックに戻した。頭には先ほど感じた痺れのような感覚が残っている。
 「今のは何だったんだろう……」
 誰もいない部屋の中で一人呟く。たった今、日本の魔美から電話があって、黙って受話器を耳に当てていたら突然……。そもそも、電話の相手は本当に魔美だったのだろうか……? それとも、初めから電話なんて掛かってこなかったのではないか……? そんな疑いですら抱いてしまうが、たった一つだけ確かなことがある。
 「……これはもしかしたらインスピレーションの一種なのかもしれない」
 パパは、電話の前を離れ、カンバスの前の椅子に腰かけると、傍らの絵筆を手に取った。

 1日の授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り響き、グランドや体育館では部活動に勤しむ者、廊下や教室では友人との語らいを楽しむ者、昇降口では帰宅を急ぐ者、それらの生徒たちの喧騒で満ちていた。
 魔美は授業が終わるや否や高畑のクラスに飛び込み、彼の手を引いて廊下を駆け抜け、そのまま校門を後にした。
 「ど……どうしたんだい魔美くん、いきなり……」魔美に引っ張られ、足を縺れさせながら混乱した頭で高畑は尋ねた。
 「できたのよ!」足を緩めず、真正面を向いたまま魔美は叫んだ。
 「で……できたって!?」
 「絵よ! まどかさんの絵よ!」

 今朝、魔美が寝ぼけ眼で2階の自室から1階へと降りて行くと、ママが電話に出ているのが目に入った。
 「ちょうど起きてきたわ、ちょっと待っててね」ママは階段を下りてくる魔美に向かって「パパからよ。急ぎの用らしいわ」と受話器を差し出した。
 パパからの電話と聞いて瞬時に覚醒した魔美は、受話器に飛びつき「もしもし」と呼びかけた。
 「おっ……おい! 魔美っ! マミ公か!」いつもの穏やかなパパらしからぬ、興奮した早口が耳に飛び込んできた。
 「絵は……絵はできたの!?」パパに釣られて魔美の口調も興奮気味になる。
 「そ……それがな、魔美。この間、君から電話をもらった時に僕の頭の中に突然イメージが湧き上がってきたんだ。そして、この湧き上がったイメージをどうしても絵にしなければとの気持ちに駆られて、僕は何かに取りつかれたように寝る間も惜しんで必死に絵筆を動かしたんだ。……で、さっき絵が完成したんだが、作品に没頭してほったらかしにしていた魔美からの手紙を開封して同封されている写真を見たら、今描き上げたばかりの女の子ととてもよく似ているんだ! 君が描いてほしいって言っていたのは、この女の子のことなのか!? 一体どういうことなんだ!? 電話してきた時、君は何を……」
 「それよ! その絵よ、パパ! お願い、すぐに送って!」まくしたてるパパを遮り、魔美は叫んだ。
 「無茶言うなよ、描き終えたばかりで表面ですらも乾いていないんだぞ。……それに、この絵にずっと没頭していたから、パパ疲れているんだ……」
 時計を見ると午前7時を回ったところ、フランスは真夜中の午後11時くらいだろう。魔美は、自分の思考やイメージを相手に送り込む超能力を持っているが、大抵は相手の身体に触れるなど、接触した状態でなければ成功しない。単なる思い付きだったが、電話を使えば、回線を通じてフランスにいるパパに、魔美が知るまどかの容姿、彼女との交流を通じて感じ取ったまどかの雰囲気、そしてパパに描き出してほしい魔美の思い、それらの思考を送ることができるかもしれないと、一か八か試してみたが、どうやらうまくいったようだ。
 「……ごめんなさい、無理なこと言っちゃって。パパ、この絵を描き上げるために徹夜で頑張ってくれたのね、本当にありがとう。彼女もこの絵の完成を楽しみにしているの、きっと喜んでくれると思うわ」
 疑問は残るものの、愛娘から優しい声音で謝意を表されると、先ほどまでの勢いが削がれ、つい照れ笑いが出てしまう。
 「……まあ、準備ができたらすぐに日本に送るよ。その子に喜んでもらえるといいな」
 魔美は電話にも関わらず、「うん」と大きく頷いた。

 「そ……そうなんだ。そりゃ良かったね。……でも、そんなに急がなくても」高畑はゼイゼイと息を切らしながら叫んだ。
 「なんだか……なぜだか分からないけど、何かに急き立てられているような気がするの。……でも、とても怖いものも感じるのよ! だから……だから高畑さん、一緒に来て!」
 魔美はぎゅっと高畑の手を掴んだ。そして、人気のない路地に駆けこみ、胸元のテレポーテーションガンを掴んで自分に向けて発射させた次の瞬間、2人はどこかの家の屋根に躍り出た。屋根から屋根へ、テレポートを繰り返すこと数回、魔美たちは5階建ての白い鉄筋コンクリート造りの建物の前に降り立った。
 エレベーターに飛び乗り、5階で降りると真っ直ぐ501号室に向かった。ドアの前に立ち、いつものようにノックしようと魔美が右手を上げた瞬間、ふと違和感を感じ、思わず右手を止めた。ドアの小窓から透かし見ると部屋が暗い、それどころか人の気配ですら感じない。
 「魔美くん。これ……」と、高畑が指差す方向を見ると、ネームプレートからまどかの名前が消えていた。「部屋が変わったのかしら……」と、魔美が困惑の表情を浮かべていると、「どうしました?」と突然後ろから声を掛けられ、ぎょっとした2人はさっと振り向くと、以前見かけた覚えのある50代くらいの年長の看護婦が立っていた。高畑がその看護婦の方に一歩歩み寄り
 「僕たち、この部屋に入院している白石まどかさんに会いに来たのですが、彼女転室したんですか?」
 高畑に尋ねられた看護婦は、一瞬顔を強張らせたもののすぐに真顔に戻り「数日前に容体が急変しまして、集中治療室に移りました」と静かな声音で応じた。
 「集中治療室……」魔美は息を飲んだ。「どこですか、そこは!」と勢い込んで看護婦に尋ねる魔美を、高畑は「魔美くん! 集中治療室は家族以外は面会できないと思うよ」と制し、見返ると看護婦は静かにコクリと頷いた。
 「それで……、まどかさん! まどかさんは大丈夫なんですか!」
 看護婦は姿勢を正し、じっと魔美たちを見据えると「白石さんは今朝息を引き取りました」と平坦というよりも、むしろ冷淡なくらいの落ち着いた声音で答え、すっと視線を反らして地面に落とした。
 「え?」
 何かとても重大なことを言われたような気がするのだが、言っていることの意味が理解できず、魔美は緊張感の抜けたような呆けた顔になった。いや、意味が理解できないのではない。ドラマや小説などで時折見聞きする言葉、知識としてはその言葉が意味することは理解できるのだが、面と向かって身近な人のことを指して言われたのは初めてのことだったので、頭がついていかない。
 「息を引き取ったって……、まどかさんが……? それって、つまり……、つまり……」
 じわじわと心に意味するものが染み入るに連れ、魔美の顔から表情が無くなり、徐々に体が震え始めた。
 「ま……魔美くん」
 茫然としている魔美の肩に手を置くと、震えが高畑の手にも伝わってきた。どう声を掛けたものかと、高畑がおろおろとしていると、みるみるうちに魔美の瞼から涙の粒が盛り上がった次の瞬間、ぎゅっと目を瞑り、何かを振り払うように大きく一度頭を振ると、高畑の手を振り払って脱兎のごとくその場を走り去った。
 「待つんだ!」
 魔美の後を追いかけて高畑も走り出したが、いかんせん魔美の方が足が速いのですぐに見失ってしまった。「どこだ……」と、魔美の姿を探して周囲に視線を走らせていると、「非常口」と表示されているドアが開け放たれていることに気付いた。瞬間、ピンとひらめくものがあり、踵を蹴って階段室に飛び込むと、そのまま階段を駆け上がり、屋上に躍り出た。
 「聞こえる……」
 高畑が向かった先には、フェンスの前でこちらに背を向け、膝を落として両手で顔を覆って泣き崩れている魔美の姿があった。魔美の姿が見えるや否や、高畑は歩を緩め、2、3メートルほど手前で立ち止まり、肩を大きく揺すって号泣する魔美の背中をじっと見つめた。魔美は感受性が強いので、彼女が泣くところは何度も見てきたが、それは感情の高ぶりに心が乱れて、思わず涙がこぼれて嗚咽が漏れてしまうというものだった。今の魔美は、湧き上がってきた悲しみや悔しさ、怒りといった負の感情全てをあらん限りの声と涙で吐き出しているように見える。
 しばらくの間、魔美の後姿を見守っていた高畑は、ゆっくりと魔美の方に歩み寄ると、そっと肩に手を置いた。魔美はいやいやをするように2、3度頭を振ったが、かまわず置いた手を「ポン……ポン……ポン……」と優しく穏やかに叩きつづけた。肩から伝わる高畑の手のぬくもりと響きが魔美に落ち着きを与えたのか、声の限り泣き叫んでいた魔美の声は徐々に小さくなり、啜り泣きながら顔を上げると、瞼を腫らした赤い目を高畑に向けた。
 「高畑……さん」
 魔美の潤んだ瞳を見つめながら、高畑は優しい眼差しでうんうんと頷いた。魔美はしゃくり上げながら
 「遅かった……、間に合わなかった……」と、途切れ途切れに胸の内に秘めた思いを言葉にした。
 「まどかくんのことはとても残念だけど、魔美くんは精一杯やったよ。その頑張りは、きっとまどかくんにも伝わっていたと……」
 「ダメなの!」魔美は叫んだ。「それじゃダメなの! まどかさんに完成した絵を届けてあげられなかったら意味がないわ! まどかさん楽しみにしていたのに……、それなのに……、それなのに」魔美は再び嗚咽を漏らした。
 「高畑さん……、もしかしたらあなたは何か気付いていたんじゃないの……」
 「……うん」高畑は眼を曇らせ俯いた。「この病院に来るまで知らなかったけど、5階は血液内科の入院病棟なんだよ。……具体的なことは全く分からないけど、ここに入院しているってことは、重篤な病気に掛かっているんじゃないかって薄々感じていたよ」
 「あたし……本当にバカだ。そんなことにも気付くことができないなんて……。あたしはエスパーなのに……、もっとまどかさんの苦しさや悩みを感じ取っていれば、もしかしたら……」
 「魔美くん、そうやって自分を責めるのは良くないよ」
 「だってあたしはエスパーなのよ! あたしがエスパーに目覚めた時、この天から与えられた力を有効に使おうって誓ったの。……それに、高畑さんだって言っていたじゃない、『大きな力をもつということは、同時に大きな責任をおうことにもなるんだ』って……」
 それまで俯いていた高畑は、キッと顔を上げたかと思うと、険しい表情で魔美を見据えながら低い声音で
 「君は何か勘違いをしてないか?」
 「勘違い……って?」
 「魔美くんはすぐ『あたしはエスパーなんだから』って言うけど、少し自分の超能力を過信してやいないか」
 「過信って……、ひどい!」魔美も涙で濡れた目で高畑を睨み返した。「高畑さんからそんなひどいこと言われるとは思わなかったわ! あたしは唯この超能力で困っている人の手助けがしたいだけなのに」
 「だってそうじゃないか!」高畑の鋭い一声が飛んだ。「魔美くんの持っている力はすごいと思うよ。僕も、魔美くんのような力を持ちたいって憧れているし。そして、君の超能力でたくさんの人を助けたり希望を与えてきたことも僕は知っている。……でもね、エスパーだからって、できることと言えば、一瞬で遠くに移動することができる、手や道具を使わず物を自由自在に操ることができる、相手の考えていることや感じていることを読み取ることができる……、せいぜいその程度のものだろ。そんな力だけで、飢餓に苦しむ人の空腹を満たしてあげることができると思うのかい? 天災や人災の被害にあった人の生活を援助してあげることができると思うのかい? ……そして、病気を患っている人を治療してあげることができると思うのかい?」
 鋭い視線で高畑を睨みつけていた魔美の眼元がスッと緩み、視線を地面に落とした。
 「それにね、魔美くん……」高畑はいつもの優しく穏やかな声音に戻り、魔美の隣に並んで片膝立ちになって目線を合わせると
 「とても残念なことだけど、この世に生まれた者は、いつか必ず死ぬんだよ、僕も、君も。これはどんなに科学や医学が発達しても、絶対に変えることのできない定めなんだ。……でも、僕たちはいつか必ず死んでしまう存在だからこそ、命の貴さを痛感したり、生きていることの素晴らしさを実感したり、自分自身や相手を大切に思えたり愛おしく感じることができるんじゃないかな。大切に思えるからこそ、人が亡くなって悲しい気持ちになることは当然のことなんだよ。だから泣いていいんだ、たくさん。亡くなった人がどれだけ自分にとって大切な人だったか再確認するために、そして僕たち自身が悲しみを受け入れて、明日を強く生きていくために」
 高畑の話を聞いているうち、目から新しい涙の粒が生まれ、魔美は再び声を立てて泣き出した。

 夏の訪れを感じさせるくらいに良く晴れた日曜日の午後、魔美と高畑はそれぞれ中学校の制服を身に着け、とある住宅街を訪ねていた。まどかが亡くなったことを知った数日後、フランスのパパから航空便で絵が届けられた。まどかからは、直接自宅に送ってほしいと頼まれていたが、魔美がパパに伝え忘れていたため、魔美の家に送られてきた。
 正直、まどかが亡くなった衝撃の大きさに、絵のことは魔美の頭から抜け落ちてしまっていたので、絵を受け取ったとき「そういえば……」と驚きもしたし、「今更……」と虚無感を抱いてしまったことは否めない。表面上は落ち着きを取り戻した魔美だが、やはりいまだにまどかが亡くなったことを受け止めきれず、短い間だったが、生前の彼女のことを思い出すだけでも、胸の中や目の奥が刺激されてしまう。
 届けられた絵について高畑に相談したところ、やはり生前のまどかが望んでいたとおり、彼女の自宅に持っていって両親に渡すべきとの結論に達し、次の日曜日に自宅に届けに行こうということになった。それまでは魔美が預かることにしたが、まだ心の整理がついていないので、どんな絵に仕上がっているのか見る気になれず、そのまま日曜日を迎えた。
 「あれじゃないかな?」
 まどかから教えてもらった住所を頼りに捜し歩いていると、高畑の指差す方向にそれらしきこじんまりとしたモルタル塗の一軒家があった。駆け寄って確認すると「白石」の表札が出ている。初めて訪れた家だが、まどかが住み、そして亡くなっていることを知っているせいか、何か大切なものを失った喪失感のような寂しさが、家から漂っているような雰囲気を感じる。
 2人は黙って顔を見合わせると軽く深呼吸をし、魔美がインターホンを押した。しばらくの間待ってみたが、インターホンは沈黙している。「留守かな」と思った瞬間、家の中からドアノブを回す音が聞こえ、直接ドアが開き、中から40歳前後と思しき色白で細面の女性が顔を出した。多分まどかの母親だろう。
 「初めまして。あのー……」
 魔美がおずおずと切り出すと、みるみるうちに女性の目が大きくなり、「魔美さん!?」と向こうから切り出してきた。
 「あっ! ……はい、私が魔美です、佐倉魔美と申します。……どうして私のことご存じなんですか?」
 その女性、まどかの母親はにこりと微笑むと
 「まどかから『魔美ちゃんっていう新しいお友達ができた』と伺っておりました。お会いできてとても嬉しいわ」
 「そうだったんですか。……こちらは高畑和夫くん、私と同じまどかさんの友達です」
 「高畑和夫です、初めまして」高畑はペコリとお辞儀をした。
 まどかの母親はドアを大きく開け放つと「高畑さんも、わざわざお越しくださいましてありがとうございます。まだ全然片付けが終わっていないんだけど、上がっていただいて、是非まどかにも会ってくださいな」と2人を招き入れた。
 「失礼します」と2人はまどかの家へと入った。まどかの母親に先導され、廊下を進みながら魔美は「伺っていたって言うけど、会ったのは今日が初めてのはずなのに、なんであたしの顔を一目見て分かったんだろう」と不思議に思っていた。
 通された茶の間に入ると、板の間の仏壇が目に入った。少しの間席を外したまどかの母親は、40歳前後と思しき銀縁メガネに短髪の男性を連れて茶の間へ入ってきた、多分まどかの父親だろう。4人が代わる代わる挨拶を済ませると、「まずはお線香を上げさせてください」と高畑が切り出し、2人は改めて仏壇の前に座り姿勢を正した。
 仏壇には、真新しい白木の箱と、魔美が以前見せてもらった、入学式の時に撮られた中学校の制服を着て照れ笑いをするまどかの写真が飾られている。白木の箱と遺影を見て目の奥がじんわりと熱くなったが、あの日、屋上で魔美は十分心行くまで泣いた。これ以上悲しみを引きずっていては、まどかに申し訳ない。おなかにぐっと力を入れ、ゆっくりと目を閉じて両手を合わせると、魔美は心からの冥福をまどかに捧げた。目を開け顔を上げると、ちょうど遺影のまどかと目が合った。そして魔美は、照れ笑いを浮かべるまどかの遺影に向かって、そっと微笑みかけた。
 「実は、今日お伺いしたのは、ご両親にお渡ししたいものがあるからなんです」今度は魔美が切り出した。
 「お渡ししたいものって……私たちにですか?」まどかの父親は不思議そうな表情で尋ねた。
 「はい。私の父は画家で、今はフランスで絵の勉強をしているのですが、まどかさんからのお願いで、父に自分の絵を描いてほしいと言われていたんです」
 「まどかがですか……」まどかの父親は静かにそっと呟いた。
 「あの子は、とても絵の好きな子でした」続けて、まどかの母親がしんみりと、何かを思い出すように目を細めて言った。
 魔美は、傍らに置いた包装紙を掛けたままの油彩画を取り上げ
 「……フランスにいる父に私からお願いして、まどかさんからお借りした写真を元に描いてもらったんですが、完成が少し遅れて、残念ながらまどかさんにお見せすることができなかったんです。その絵、ご両親にご覧いただいて、是非ともお受け取りいただきたいと思って今日お持ちしました。受け取っていただけますか?」
 魔美は、まどかから借りた写真と一緒に、15号ほどある油彩画を両手で掲げ、まどかの両親に差し出した。
 「そうだったんですか、わざわざご丁寧に、ありがとうございます」
 「是非受け取らせていただきます。そして、この絵はここに飾って、まどかにも見てもらえるようにします。本当にありがとうございます。
 まどかの両親は深々と頭を下げ、父親が両手を差し出して油彩画を受け取った。
 「早速ですが、拝見させてもらってもよろしいでしょうか」との父親の申し出に「はい」と答えたものの、魔美自身まだ見ていないので、どんな絵が描かれているのか分かっていない。電話を使って、フランスのパパにイメージを送ることはできたし、完成した絵を見たパパから「写真の子にそっくり」とも言われていたので、全く見当はずれなものが描かれてはいないと思うのだが、果たしてどんな絵に仕上がっているのか、不安な気持ちがあることは否めない。
 丁寧に包装紙を剥がし、絵が傷つかないよう貼られた保護カバーを取り除いているまどかの父親の手先を、魔美は息を飲んで見つめていた。やがて現れた油彩画をまどかの父親が取り上げ、隣にいるまどかの母親と一緒に眺めた瞬間、「これは……」と呟き、2人揃って息を止めたかのように表情が固まった。じっと油彩画を凝視しているまどかの両親を見つめていた魔美は、2人のあまりの変化に痺れを切らし「あたしにも見せていただけませんか」と口走っていた。
 まどかの父親が黙って油彩画を差し出すと、まどかの母親は両手で顔を覆ってすすり泣き出した。魔美が受け取ると、隣にいた高畑も覗き込んだ。受け取った油彩画には、艶やかなセミロングの髪を流した、頬の血色のいい色白の女の子の肖像が描かれている。しかし、送った写真に写されているまどかと比べると、やや大人びているような、むしろつい最近のまどかに近いような気がする。
 「こんな絵に仕上がるなんて……」と、魔美は心の中で呟き、信じられない思いで絵を見つめていた。
 「……まるで、元気に成長したまどかを想像して描いたような油絵です。……見ているだけで、こちらに話しかけてくれるような……、微笑みかけてくれるような……、そんな不思議な温かみを感じさせてくれます」涙で声を詰まらせながら、まどかの母親はハンカチで目元を拭った。
 「……こんな素敵な絵を描いていただいて……、私たち両親にとって最高の贈り物です、本当にありがとうございます」魔美と高畑の手を握りしめ、まどかの父親は再度深々と頭を下げた。
 「実は、私たちからも魔美さんにお見せしたいものがあるんです」
 「私にですか?」と、魔美がきょとんとした表情で問い返すと、まどかの母親は、傍らに置いてあったものを取り上げ、魔美の方に差し出した。
 「まどかが入院中に書き溜めていたスケッチブックなんです」
 差し出されたスケッチブックには見覚えがある、高畑とお見舞いに行った時に見せてもらった、まどかが色鉛筆を使って風景や事物を描いていたものだ。魔美が受け取ると「ご覧になっていただけますか?」と言われたので、スケッチブックを開いた。
 中からは、見覚えのある、まどかが描いた花や風景などの絵が次々と現れた。パラパラと捲っていると、とある1枚の絵のところで手が止まり、魔美ははっと息を飲んでその絵に釘付けになった。それは、まどかのタッチで描かれた、魔美の似顔絵だった。下書きは完成しているようだが、色塗りが途中らしく、赤毛の部分以外は白いままだ。更にもう1枚めくると、そこには何も描かれていない白紙のページが表れた、つまり、この絵がまどかが生前最後に描いたものなのだろう。
 驚愕の眼差しで絵を見つめていると、突然魔美の手に、温かく、優しく、そして慈愛に満ちたものが伝わり、魔美の体を駆け巡った。
 「これは……、生前のまどかさんの思念だわ!」
 そう心の中で呟くと、まだ思念が残っていないかとスケッチブックを撫でてみたが、伝わるのは画用紙のざらざらとした手触りだけで、もう何も伝わってこなかった。
 まどかが残した最後の思念、まどかが描いた魔美の似顔絵、そしてもう2度と塗り足されることのない魔美の似顔絵……。
 「決めたのよ、あたしは泣かないって……。もう泣かないって……」
 そう思う間に、みるみるうちに手の中の似顔絵が滲んできて……、魔美は声を立てて泣いた。

 「多分……」まどかの家を辞してから高畑が言った。
 「魔美くんのパパに頼んだ絵、あれはご両親のために描いてほしかったんだと思うよ」
 「うん……あのご両親の反応を見ていると、あたしもそんなような気がするわ」
 魔美は軽くため息をつくと「……想像することしかできないけど、きっと子どもを亡くしてしまった親って、とっても悲しくて、悔しくて、どこにもぶつけようもない怒りを感じながらも、その気持ちを受け止めて心の整理をしなければならないのよね。……先に死んじゃった人も辛いけど、残された人も同じくらい辛い思いをするんだわ、きっと」
 「……とても悲しいことだけど、もしかしたらまどかくんは、あまり長く生きていられないことに気付いていたのかもしれない。そんな時、偶然魔美くんと出会って、君のパパが描いた温かみに満ちた生き生きとした絵を見て、せめて絵の中だけでも元気な自分を残して、自分が亡くなったことで傷つくであろう両親の心を慰めてあげたいと思ったんだろうね。だからさ、魔美くんはまどかくんの望みをちゃんと叶えてあげることができたんだよ。きっと、まどかくんは魔美くんのこと感謝していると思うよ」
 高畑の暖かな言葉に「そうね、そうだったら嬉しいわ」と軽く応じたが、魔美はちゃんと分かっていた。あの魔美の似顔絵に込められていたまどかの思念、あれは魔美を描いている時に抱いていたまどかの魔美に対する気持ちなのだろう。まどかは逝ってしまったが、その気持ちを受け取ることができて、魔美はとても満ち足りた思いをかみしめていた。
 「でもね、あのまどかさんの絵だけど、あたしはあそこまで具体的なイメージをパパに送ったつもりはないのよ。どちらかと言えば、写真の中のまどかさんと今のまどかさん、それぞれの容姿を漠然と思い浮かべて、健康的で生気に溢れた、まどかさんが望んだような絵をパパのタッチで描いてほしいと念じていただけなんだけど、まさかあんな素敵な絵になるなんて……」
 高畑はふと口をつぐみ、しばらくの間考えていたが、
 「思うんだけどさ、テレポーテーションとかテレキネシスを自由自在に使いこなせることもすごいんだけど、魔美くんの一番すごいところは、誰かを幸せにしたい、笑顔にさせてあげたいっていう、深い思いやりの気持ちがあることなんじゃないかな。今回は、まどかさんを大切に思う気持ちがモチーフとなって魔美くんのパパに伝わって、そこに君のパパの画風と技術が加わって、あの絵になったんじゃないかな。この『深い思いやりの気持ち』があるからこそ、君の超能力が最大の効果を発揮して、誰かに幸せを齎しているんだと思うよ」
 「ありがとう、高畑さん」
 魔美はスッと目を細め、顔を上げて空を見つめた。まどかが好きだった青く澄んだ空を。

 新学期が始まり、約1か月が経った。入学・進級したばかりの頃は、新しいクラスメイトや先生に囲まれ、慣れないクラスの雰囲気に違和感を覚えていた生徒たちも、すっかり今の生活に溶け込み、それぞれが新しい日常を築き上げつつある。
 ある日の放課後、校内の図書室の一角、窓際の席を陣取っていた魔美は、窓から降り注ぐ陽光を背中に受け、一心不乱にシャープペンシルを走らせていた。ふいにテーブルの上に影が差し、背後に気配を感じたので振り向くと、そこに穏やかな笑みを浮かべた高畑が立っていた。
 「あら、高畑さん」魔美もにこりと微笑み、手を止めて高畑の方を振り返った。
 「いやぁ、ごめんごめん。あんまり夢中になっているようだったから声掛けそこなっちゃって……。一体何を書いていたの?」高畑は魔美の手元を覗き込んだ。
 「あれ? これ進路調査票じゃない。魔美くん忘れていたの? これ、提出は明日までだよ」
 「まぁー、失礼ね!」魔美はふくれっ面になり「忘れていたわけじゃないわよー。それどころか、この数日はこれのことで頭がいっぱいだったんだから」
 「へぇ。……それで、書きたいことはまとまったのかい」
 「うん、まあね。……まだ結論は出ていないけど、あたしの夢に近づくために進むべき方向が何となく見えてきたかなってところ」
 「方向って?」
 「そんな大したもんじゃないわよ」魔美ははにかみながら「……いろいろ考えたけど、やっぱりあたしは、『みんなを幸せにしたい』って夢は叶えたいの」
 「うん」高畑が魔美の目を真っ直ぐ見て、優しく頷く。
 「……これまでのあたしが描いていた『幸せ』って、その人が望んでいるものを与える、もしくは困っている原因を取り除くことばかりしか頭になかったわ。……でも、それってとても単純で浅はかな考え方よね。最近になって、やっとそのことに気付いたの」
 「……それって、まどかくんのことかい?」高畑の問い掛けに、魔美は静かに頷いた。
 「まどかさんの気持ち、あたしなりに考えてみたの。もし、あたしが重い病気になってしまったら、まず最初に病気を治して健康になることを望むはずよ。でも、もしそれが治療できない病気で、しかも命を落としてしまうような病気だったら、せめて残された大切な人たちを悲しませたくないって考えると思うの。だってそうでしょ、病気を治したいと思うのは、一番は自分自身が健康になりたいってことだけど、心配したり悲しんでいる周りの人たちを安心させたいってのもあるんじゃないかしら」
 「魔美くんの言うとおりだと思うよ」
 「きっと、人ってどんなに辛い状況に陥ったとしても、時間をかけてその辛い状況を受け入れて、その時その時で自分にとって一番相応しい幸せを見つける強さを持っていると思うの。……まどかさんともう会えないことはとても辛くて悲しいことだけど、あたしは彼女から幸せには様々な形があることを教えてもらったような気がするわ。だから、具体的にどんな職業に就きたいというよりも、まずはどんな幸せの形があるのか、それを知っていくことから始めようと思うの」
 少々照れながらも自分の進むべき道を堂々と語る魔美を、高畑は眩しいものを見るように目を細めながら見つめていた。そんな魔美に彼なりの最大の敬意を込めて
 「魔美くんの夢を実現させる、大きな一歩になると思うよ。……微力ながら僕も応援するよ。何か困ったことがあったら是非相談してよ。……その夢、一緒に叶えたいな……」
 だんだんと顔が赤くなり、最後の方は声が尻すぼみに小さくなってもごもごと口ごもってしまった高畑を見て、魔美は再びにこりと微笑み「ありがとう高畑さん」と彼の手を握った。そして魔美は再びシャープペンシルを手に取った。

小説 エスパー魔美 ~幸せのかたち~

小説 エスパー魔美 ~幸せのかたち~

中学3年生に進級し、卒業後の進路・将来を意識するようになった魔美。彼女が思い描く「幸せ」とは……。 藤子・F・不二雄先生の名作「エスパー魔美」のテレビアニメ最終回の半年後を描いた二次小説。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-23

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