城の中のお姫さま
「澄みきった大気のなかに城がくっきりと輪郭を描いていた。雪が薄い層をつくって積もっており、なおのこと形がはっきりと見えた。」
「幅ひろく横に大きくのびている。せいぜいが三層づくりで、背の低い建物がもつれ合うようにかたまっていた。」「塔が一つあった。」
「単純な円形をしていて、一部はキヅタに覆われている。小さな窓があり、ちょうど陽光を反射して輝いていた――」カフカ『城』池内紀訳(白水社刊)
1
その塔の先端近く、窓辺に一人の少女が立って、外の風景を眺めていた。
「あーあ、退屈だわ」
(そうです。わたしは生まれてから一度も、この城から出たことがないのです。わたしにできることといったら、この窓から外を眺めるだけ。そんな毎日にわたしはあきあきしていました。)
少女は窓から離れて部屋の中を見回した。部屋の隅の電話機が目にとまった。
「電話……どうして今までこれに気がつかなかったんだろう」
少女は不思議そうな顔のまま、なにげなく受話器を耳にあてた。受話器からザワザワという声が聞こえてきた。
「もしもし?」
その瞬間、声がやみシーンとした。少女はしばらく待っている。と、またザワザワという声が聞こえてきた。
「だれかそこにいるんですか。私の声が聞こえますか」
今度はまったく反応がなかった。相変わらず、ザワザワという声が聞こえてくるだけ。
「ちょっと、だれか……」
少女は腹を立てて、受話器を乱暴にたたきつけて電話機にもどした。おちつかなげに部屋の中を歩き回る。ドアのノブに手をかけると、ドアは簡単に開いた。
「あれ? 開いてる」
少女はドアを少し開けて頭を出した。だれもいない廊下をキョロキョロと見回す。少女は部屋を出ると、ドアを注意深く閉めて、パッと駆けだした。
2
少女は、階段を下り、廊下を曲がり、部屋を通り抜け、迷路のような城の内部をさまよう。しかし、外へ通じる通路は見つからなかった。
少女はガラスの覗き窓がついた扉の前にやって来た。中には人の気配がした。そっと中を覗いてみる。そこは事務室らしく、数人の職員がデスクを並べて仕事をしていた。
少女はしばらくためらっていたが、意を決してドアを開け、中に入った。
3
少女が入ってきても、職員たちは書類に没頭していて、顔を上げようともしなかった。
少女は手近な職員の一人に近づいて、おずおずとたずねた。
「あの……」
職員が顔を上げた。まじまじと少女の顔を見つめている。相手が女であることに気づいて、とたんに好色そうな目つきになった。
彼のうしろのほうの職員もそれに気づき、隣にいる同僚に肘でこづいて知らせた。
「どうしました、お嬢さん」
「あの、城の外に出る道を教えてほしいんですけど……」
「それはだめだ」
「どうしてだめなんですか」
「職務以外の城に関する仕事をすることは禁止されている」
「じゃあ、わたし、どうしたらいいんでしょう」
「しかるべき窓口に申請するんだな」
「その窓口というのはどこにあるんでしょうか」
職員は後ろを振り返って、同僚たちに言った。
「このお嬢さん、今度は窓口はどこかときた」
ほかの職員がそれに答えて言う。
「そんなことは案内係できけ」
「そうだ。案内係できいたらいい」
「案内係はどこに……」
「知らんね。自分で探しな」
少女はこの部屋にいる職員のすべてが、自分をじっと見つめていることに気がついた。少女は恐ろしくなって、後ずさりしながらドアにたどりつくと、この部屋から逃げだした。
部屋の外に飛びだした少女の背後から、職員たちのワッと笑いだす声が聞こえてきた。
4
少女は耳を両手で押さえて廊下を走っていた。立ちどまると、荒い息をつきながらつぶやいた。
「こんなことなら、部屋から出るんじゃなかった」
少女の背後から手が伸びてくる。その手がポンと少女の肩にかかった。少女はビクッとして飛び上がった。
「お嬢さま」
女中がふたり並んで立っていた。双子のようによく似ていて、交互に受け応えをする。
「あ、あなたたちだったの」
「どこに行ってらしたのですか。ずいぶん探したのですよ」
「ドアが開いていたものだから……」
「とにかく、勝手に部屋を抜け出されては困ります。私たちはあなたのお父上から、お世話をおおせつかっている責任上どんなに……」
「こんなところでお説教はたくさんよ、マルガレーテ」
「マルガレーテは私ですよ、お嬢さま。そちらはヘルミーネですわ」
「どっちだっていいじゃない。それより今日はもう疲れたわ。部屋で休みたいの。連れていってちょうだい」
「部屋なら、それ、お嬢さまのうしろですよ」
少女が驚いて振り返ると、そこはたしかに少女の部屋である。もうひとりの女中がドアをあけた。少女はおとなしく部屋に入った。
5
少女が部屋に入ってくる。背後でドアが閉められ、ガチャリと鍵のかけられる音がした。
少女はうつむいたままベッドのほうに歩みよった。と、いきなりうしろから何者かに抱きすくめられた。少女はそれをつきとばして逃れようとした。
「だ、だれなの?」
見たことのない男だった。
「あなた、どうやってこの部屋に入ったの? 鍵は女中しか持っていないはずなのに」
「おれはここに招かれた客さ。きみがその接待役というわけだ」
「なにを言ってるのかわからないわ」
男は肩をすくめてみせた。
「あの女中たちがきみを売ったんだよ」
「なんですって!?」
「おしゃべりはこれくらいにしようぜ。さあ……」
男は少女に近づいてきた。
6
男が帰った後、少女は全裸でベッドの上に泣き伏していた。女中たちが部屋に入ってくる。女中のひとりが少女の肩に手をおいた。
「さあ、お嬢さま、服をお着けになって」
少女はその手を払いのけた。
「触らないで! おまえたち、許さないから。お父さまに言いつけてやる」
ふたりの女中は顔を見合わせた。
「お嬢さま、そんなことはなさらないほうがよろしいですよ。自分の恥を公表することになります」
「絶対に許すわけにいかないわ。お金のためにわたしを売るなんて」
「なんということをおっしゃるのです、お嬢さま。お気持ちはわかりますわ。けれども、私たちにありもしない罪までなすりつけられては困ります」
「よくもそんな白々しいことが言えたものね、ヘルミーネ」
「ヘルミーネは私ですよ。そちらはマルガレーテ」
「じゃあ、おまえたちを二人ともマルガレーテと呼ぶことにするわ。二人とも大嘘つきであることに変わりはないんだから」
「まあお嬢さま、お聞きください。私たちは前まえからこんなことになるのではないかと心配していたのです。だからこそ、お嬢さまの部屋に鍵をかけて、人が出入りできないように気を配っていたのです。ねえ、ヘルミーネ」
「そうなのです。ところが今日はうっかりして鍵をかけ忘れてしまったのです。お嬢さまは部屋を抜け出して城の中をうろつき回られた。その姿を見かけた者もあるはずです。こんな時にお嬢さまが自分の部屋に男を連れこんだなどという噂がたちでもしたら」
「なんてことを……」
「若いみそらで男あさりなどと」
「それこそお嬢さまの名誉に傷がつきます」
「おまえたち、わたしをはめたのね」
「とにかく、私たちはこの件については沈黙を守りますわ。あとはお嬢さまさえ先走ったマネをなさらなければ……」
「それから、今日からお嬢さまにはこの部屋でお食事をとってもらいます。しばらく謹慎してもらわなければなりません。お父上にはご病気だと伝えておきますわ」
「……」
少女はうつむいて唇をかんだ。
7
(そのつぎの日から、毎日、わたしは客をとらされるようになりました。)
ベッドの上で、少女が男に犯されている。開いたドアの陰では、女中たちが順番を待つ客から金を受け取っていた。
8
最後の客が帰りがけに捨てゼリフを残した。
「なかなかよかったぜ。また来るよ」
ドアがパタンと閉まった。少女はベッドの上でぐったりしている。突然、電話のベルが鳴った。
少女が受話器を取り上げると、事務的な声が聞こえてきた。
「本部事務局ですか?」
少女は驚いて、思わず返事をした。
「え、ええ……ハイ」
「問い合わせが入っております。執事の息子シュヴァルツァーからです。今夜、村で不審な男を発見し、尋問したところ、その男は村の外からやって来た者で、滞在許可を持っていないことがわかりました。退去せよとの勧告をいたしましたが、その男は自分は城によって招かれた測量技師だと主張しています。男はKと名乗っております」
少女は興奮していた。
「その男は本当に村の外からやって来たんですね」
「それは間違いありません」
「その男は城によって招かれた測量技師です。丁重に扱うよう伝えなさい」
少女は窓辺に立って外の風景を眺めた。
「K……どんな人だろう。村の外からやって来たって……。わたしが待っていた人に違いない。きっとわたしを救い出してくれるはずよ。いつかきっと、わたしのところに……」
少女は窓辺に頬杖をついて、Kの到来を夢想した。
城の中のお姫さま