ただいまの場所


 「またお越し下さいませ」と最後の客を見送り、ガラス戸の向こうが宵闇に染まっているのを確認すると、そろそろ店じまいの時間だなと思い至る。
 暦の上ではとうに夏が終わり、日の落ちる時間も段々と早くなってはいるものの、仕事帰りのお客さんが店に立ち寄る時間帯にはまだ夕日が街に溶けていた。
 レンガ造りの建物や、古い家屋の建ち並ぶどこかレトロな雰囲気のこの街には、夕焼けのオレンジ色がよく馴染む。
 少し離れた先から聞こえてくる電車の音もノスタルジーな気持ちを掻き立て、店を構える立地として気に入った点の一つであった。

 学校を出て必死に働きお金を貯め、やっとのことで独立しパン屋を開いたのがもう5年前のこと。
 初めこそ大量の売れ残りや赤字経営に悩まされたものであるが、段々と街に馴染み常連のお客さんも増え、3年目に入る頃には儲けは少なくともなんとか黒字で安定させられるようになっていた。
 店内を見回してみると、閉店間際のタイムセールの甲斐あって、ほとんどの商品が売り切れている。
 売れ残った商品は翌日の朝食になるのがお決まりだ。昔から朝はパンで育ってきたので、それほど苦でもない。
 (甘い菓子パンばかりが余ると、流石に胸やけする歳にはなってきたが…)

 一度店の奥に戻り手に取るのは、“明日あります”と書かれた分厚い木の札。
 これを扉の外側に吊すのが、この店の閉店の合図だ。
 板を抱え、ガラス張りの扉を開くと、先程まで紫色だった空もすっかり夜の様相を見せていた。
 輪っかにして札に括り付けた紐をドアノブにひょいとかける。
 木とガラスがコンコンとぶつかる音を聞きながら、店先に出しているブラックボード――本日のオススメ商品が書かれている――を片付けようと屈んだところで、不意に後ろから呟くような声がした。
 「なんだ、もう店じまい?」
 振り返りながら、「すみません、今日は終わりで…」と顔を上げる。
 明日もあるので、と続けようとしたところで焦点の合った目が余りにも懐かしい姿を映し出し、思わず息を呑む。
 一呼吸置き、しかし言葉は自然と口をついて出た。かつてのように。
 「夕暮れから夜明けまでは、店を閉めるんだ」
 「それじゃあ俺たちは買いに来られないな」
 「人間は普通、夜に眠るものだから」
 「まあ、そりゃそうだけど…」
 「だから売れなかったんじゃないの――父さんの店は」
 黒いスエットのポケットに両手を突っ込んだままの姿勢で、夏彦は一瞬気まずいような照れ臭いような表情を過ぎらせる。
 しかしすぐに「相変わらず厳しいなあ、マリオは」と苦笑した。
 今や自分の名として呼ばれることのなくなった、久しぶりに響くその名前と夏彦の声に、くすぐったい気持ちになる。
 「大きくなったな」
 「背はそんなに伸びてないよ」
 「老けたんじゃないか?」
 「父さんと同じくらいかな」
 狭い路地、自転車がベルを鳴らしながら横を通り抜ける。
 秋の匂いを乗せた涼しい風が、向き合う二人を撫でて行った。
 「残り物で良ければ中にまだいくつかあるよ。一応専門学校にも通ったし、父さんのパンには負けてないと思う」
 「オススメは?」
 「ガーリックトーストかな」
 「ガーリック…」
 悪い冗談はよせと心底嫌そうにうなだれる夏彦に、ブラックボードを畳みながら笑った。
 “明日”を掲げたドアを押す。先に入りドアを押さえたまま、迎え入れるように振り返った。
 後に続こうと夏彦が一歩踏み出すタイミングと同じくして、「あ、そうだ」と声を上げる。
 不思議そうな顔をした夏彦と目が合った。

 「おかえり、父さん」

 スエットの背中を見送るようにドアが閉まる。
 『アットホームベーカリー Mario』と書かれたガラス扉に、“明日”がコトンと音を鳴らした。


END.
12.09.18

ただいまの場所

ただいまの場所

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-21

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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