春の快メール
1
「かわいそうにねぇ、まだ若いのに……」
繰り返される同情の言葉に僕はとてもうんざりしていた。僕は毎朝決まった時間のバスに乗って登校している。学校のほうに行くバスが1時間に1本しかないからだ。
バスに乗った後、いつもならつり革や手すりに捕まって終点まで揺られているのだが、今日はたまたま乗り合わせたおばあさんが「ここ空いてますよ」と僕に空いている席を教えてくれた。僕にとって空いている席を見つけるのはちょっと難しいので、教えてくれることはとても助かる。「ありがとうございます」とおばあさんにお礼を言って席に座り、終点までの約15分間ゆったりと寛いでいられるはずだった。
席は教えてくれたおばあさんの隣だった。僕が腰掛けるや否や、おばあさんは独り言のように「大変ねぇ」と話し掛けてきた。僕はおばあさんのいる方向にチラリと顔を向け「はあ……、別に大丈夫です」と、曖昧な返事をし顔をそむけた。
「これからどこに行くの?」
「学校です」
「学生さん? 何年生?」
「高校1年生です」
こちらの無愛想な物言いに何も感じないのか、それともただ単に無視しているだけなのか、おばあさんは次から次へと僕のプライバシーに係わる質問を投げかけてくる。
「生まれたときからなの?」
「いいえ」
「じゃ、事故か何かで?」
僕は心の中で小さなため息をつきながら
「小学生のときに病気で失明したんです」
と言ったとたん「あらぁ、そう……、かわいそうに」と感情たっぷりに同情の言葉を投げかけてきた。いいかげんいやになってきたし、面倒くさくもなってきたので、その後の「一人で学校までいけるの?」とか「お父さんやお母さんはついてきてくれないの?」などの質問には適当に生返事をしていたところ、そのうち質問攻めもなくなり、おばあさんはしきりに口の中でもぞもぞと「大変ねぇ」とか「かわいそうにねぇ」と何度も呟いている。僕はこの重たい空気に絶えられなくなり、とにかく早く到着してくれと考えてばかりいた。
バスがターミナルに滑り込み、終点を知らせるアナウンスとともにドアが開いたとたん、僕はすぐさま立ち上がり一目散にドアに向かった。ステップを降りているとき、隣にいたおばあさんから「頑張ってね」と言われたが、聞こえなかったふりをして何も言わず白い杖で段差を確認しながら外に飛び出した。
失明してからというもの、時々このおばあさんのように根掘り葉掘り僕のことを聞きたがる人がいる。世の中には障害者に対してなれなれしく接してくる人も少なくないようで、お互い見ず知らずにも係わらず、どこに住んでいるのかだとか、これからどこに行くのかだとか、どうして目が見えないのかなど、僕のプライバシーを侵害するようなことを平気で聞いてくることは意外と多い。しかも聞いているほうは全く悪気というか、その質問が僕のデリケートな部分を土足で踏みにじるような失礼な発言をしているということなんてこれっぽっちも感じていないのだから、かえって性質が悪い。障害者になってから約4年、この手の質問攻めにも慣れてきたし、僕のように黒目の色が薄くて、常日頃から白い杖を持ち歩いているのだから、今更隠すことは何もないんだけど……。
僕の名前は沢木孝一、横浜市内の盲特別支援学校に通う高校1年生だ。一般的には全盲とか視覚障害者などと言われているが、生まれたときから失明していたわけではない。そろそろ夏に入ろうかという小学校5年生のある日、電気のついていない暗いところでは、いつまで経っても暗闇に目が慣れず何も見えていないことに気づいた。そのときは目が疲れているだけだろうとあまり気にしてなかったが、数日後、景色に関係なく目の下のあたりに泥水のような濁りが見えたとき、初めて自分の目に何か異変が起こっているのではないかと不安を感じるようになった。
地元の眼科医で診察してもらったが、設備の整った病院できちんと検査したほうがいいと薦められたため、都内にある某大学病院で精密検査をしてもらった結果、僕の目は「網膜色素変性症」という進行性の病気であると診断された。この病気は景色や表情など見たものを目の中でスクリーンのように映し出す網膜と呼ばれる部分に黒い色素が付着する病気で、現代の医学でも治療する方法がなく、失明は避けられないとのことだった。
その後、僕の担当になった先生の指示により、毎日目薬を差したり、薬を飲んだり、定期的に大学病院で診察してもらい、できるだけ病気の進行を遅らせようと試みた。しかし、処置もむなしく病気の進行を抑えることはできず、初めは下のほうにだけ見えていた濁りはドーナツのように周囲に広がり、日に日に見える範囲はどんどん狭まっていった。そして、診断から約1年後の小学校6年生の夏、僕の両目は完全に見えなくなってしまったのである。
病気が少しずつ、そして着実に僕の目から光を奪っていくに連れ、僕の心の中はどうしようもない不安とか怒りとか悲しさなどの感情ばかりに支配されてしまい、学校など他人がいる前では特に気にしてない振りをしていたが、自宅にいるときは自分の部屋に引きこもり、とにかく少しでもこの不安感を忘れようと布団にもぐって目をつぶり無理やり眠ろうとしていた。時々自分の感情をコントロールしきれずに、父や母に対していじけたり嫌味を言ったり八つ当たりすることも少なくなかった。
だが、いざ失明してみると思ったほどの感情の乱れはなく、むしろ冷静なくらい「これで本当に見えなくなったんだ……」と、やっと諦めがついたような心地さえ感じられた。失明してから4年近く経過した今だから言えることなのだが、もしかしたら一番感情が乱れることって人生のどん底に突き落とされるまでの間で、いざ本当に突き落とされたとき、どん底で思うことは「絶望」ではなく「諦め」だと思う。中途半端な希望をもてる余裕があるからこそ、影も形もない絶望が見え隠れする。そして、諦めることができるからこそ、自分の置かれた立場を客観的に見ることができ、これから先どうやって生きていこうかと前向きに考えられる新しい余裕が出てくるのだろう。
だから僕も時間はかかったが、諦めることである程度気持ちを切り替えることができ、以前よりはまだ冷静にこれからの学校生活や日常生活をどうやってこなしていこうかと考えられるようになった。それは父や母も同じだったようで、約1年間の猶予があったおかげでそれなりの覚悟はできていたらしく、僕が「全然見えなくなった」と訴えても特にうろたえるような素振りは見せず「そう……」と呟いただけだった。
5年生の3学期から一人で登下校するのが難しくなったので、母はパート先と相談して勤務時間を変えてもらい、朝は一緒に登校し、午後になると教室の前まで迎えにきてくれるようになった。授業では主にクラスメイトがいろいろと助けてくれた。他の教室に移動するときは誰かが必ず手を引いてくれたし、黒板に板書された文字や図などは太目のマジックペンを使ってわら半紙に書き写してくれる人もいた。テストのときは先生の隣に座り、先生が問題を僕の耳元でささやき、回答するときは僕が先生の耳元で答えをささやくことで受けていた。
しかし、失明したことで文字の読み書きができなくなってしまったことから、このまま地元の中学校に進学しても満足に授業を受けることはできないのではないかと担任の先生に言われたことをきっかけに、両親を交えて進学先について検討した結果、市内にある公立の盲特別支援学校の中学部に入学することになった。そして今からちょうど3年前、僕は全盲の視覚障害者としてこの学校へ入学したのだ。
白い杖を左右に振って駅前から学校まで続く黄色い点字ブロックの上を歩きながら
(あのおばあさん、明日も同じバスに乗るのかな……)
とちょっと重たい気分を引きずりながら、僕は学校まで徒歩10分の道のりを急いだ。
2
僕はいつも4番目だった。いつものように「おはよう」と言いながら教室に入ると、いつものように高橋直樹と武田陽一と戸塚直子がすでにいて、これまたいつものように「おはよう」とあまり覇気のない挨拶が返ってくる。僕はバスの関係でどんなにスムーズに着いたとしても8時10分より前に登校することはない。教室に入るとほぼ必ずこの3人がいる。もしいないとすれば、たまたま教室から出ているか、学校そのものを休んでいるときで、彼ら・彼女よりも早く登校することはまずありえない。
ちなみにこの3人は幼稚園・小学校の頃からこの学校に通っており、出会ってからかれこれ10年の付き合いになるとのこと。僕はこのクラスの中ではわりと直樹と武ちゃんとつるんで行動することが多い。2人とも生まれつきの全盲らしいが、直樹には絶対音感があって、たいていの曲ならCDを聴くだけでコピー演奏できるし、武ちゃんは運動感覚がよく、特に球技は得意ときている。楽器には無縁で感の鈍い僕にとってはこの2人の能力は羨ましく感じるとともに、とても魅力的にも思える。そんなすばらしい能力をもった彼らと一緒にいることは僕にとってとても刺激的なことなのだ。失明してよかったことなんて何もないと思っているけれど、もし失明していなかったら彼らと出会うことなんてまずなかったんだろうなと思うとちょっと不思議な気分になる。
僕は机をつたいながら自分の席にたどり着き、とりあえず背負っていたかばんをドサリと机に置いて座った。
「沢木くん」
呼びかけてきたのは戸塚だ。彼女は僕がくる前から後ろの席の直樹と武ちゃんに何やら話していたみたいだったが、急に呼びかけられたため「あん?」と間の抜けた返事をして後ろを振り向いた。
「あのさぁ、今直樹くんと武ちゃんにも話していたんだけど、あさっての土曜日にみんなで映画観に行かない?」
「なんの映画?」と聞くと、戸塚はとあるハリウッド映画のタイトルを挙げた。その映画は全米で大人気のサスペンス映画の最新作で、僕もテレビやラジオを通じてタイトルは知っていたし観たいとも思っていた。しかし
「あれって洋画じゃん。日本語吹き替え版は上映してないだろ」
僕たちの場合字幕スーパーを読むことができないので、どんなに観たくても洋画を映画館で楽しむことはできない。時々日本語吹き替え版が公開されることを除けば、数ヵ月後に出されるDVDソフトをお店でレンタルしなければならないのだ。
「それがねぇ」と、戸塚は「そう突っ込まれると思ってた」といわんばかりに茶目っ気たっぷりな感じで
「たまたま知ったんだけど、東京を中心に活動しているボランティアグループがあってね、視覚障害者が映画館で映画を楽しめるよう副音声をつける活動をしているんだって。そのグループがね、あさっての土曜日に渋谷でこの映画の副音声付映画を上映するの。すごいでしょ!」
戸塚はやや興奮気味に僕に言った。彼女は根っからの映画ファンで、話題の映画には目がない。ただ、戸塚は全く見えないというわけではないが、生まれたときから視力が弱く、めがねやコンタクトレンズを使って強制してもほとんど視力がない、いわゆる弱視と呼ばれる生徒だ。僕はよくわからないが、彼女曰く、いつも白い霧みたいなものがかかっているような見え方で、周囲数メートルしか見えないし、お天気によっては自分の足元ですらも見えなくなるらしい。その程度の視力しかないからだろう、大きなスクリーンの映画館だと、近すぎては全体が見えないし、かといって遠く離れるとぼやけてよく見えない。当然スクリーンの字幕スーパーなんて彼女の目でも読めないと思う。そんな事情もあって、話題の映画を映画館で、しかも副音声付で楽しめるというのは映画ファンの彼女にとってはたまらないことなのだろう。
「副音声付映画って、たまにテレビ番組についているやつと同じようなものなの?」と武ちゃん。
「私も初めてだからよくわからないんだけど、フロア内に電波を発信する装置があってね、それを使うと字幕を読んでくれたり、出演者の動作や情景描写を説明してくれる人の声がFMラジオから流れるんだって」
「なんでわざわざラジオの電波に乗せるんだ? そのままマイク使ってしゃべればいいのに」
「そのまま流すと他のお客さんに迷惑だからじゃないかなぁ。それにラジオならほとんどの人がもっているからわざわざ受信機用意しなくてもいいしね。しかも、そのボランティアグループすごくこっていて、女の子の台詞は若い女性の人が担当して、おじさんの台詞は中年くらいの男の人が担当するらしいんだよ」
「本格的だな」
と武ちゃんは関心したような声で言った。
「でしょ。こんなチャンスめったにないからみんなで行こうよ」
戸塚は僕の右肩をポンポン叩きながら返事を促した。
「じゃ、行こうよ」と武ちゃん。
「悪いけど、オレはだめだな」と今まで黙っていた直樹が呟いた。「あさっての土曜日から一泊で京都に家族旅行なんだ、それで……」
「そっか、残念だな……。沢木くんは?」
頭の中のスケジュール帳を引っ張り出して思い出してみたところ、あさっての土曜日はまる1日何も予定はない。「オレも行くよ」と言った次の瞬間、教室のドアがスーっと開き、無言で誰かが教室に入ってきた。会話がピタリと止まり、みんなが足音に耳をそばだてていると
「あ……林くん、おはよう」
と戸塚が声をかけたが、林秀幸はぼそりと「おはよう」と呟いただけで、そのまま自分の席に座った。
林はほんの2週間前に入学してきた新入生だ。僕が知っていることは、中学までは地元の公立学校に通っていたことと、戸塚と同じく生まれつき視力が弱い弱視ということだけだった。彼はあまり愛想がなく無口で、ノリの軽い直樹や武ちゃんが話しかけてもほとんど反応がない。なおかつ、僕はそんなに積極的に話しかけるタイプではないので、この2週間林とはまともに会話したことがない。それにしても、ここはお互い見えない・見えにくい生徒が通う学校なんだから、せめて「おはよう」の一言くらい言ったらどうなんだ。登校順の法則から僕の次はたいてい林だから予想できないことはないが、やはり無言で教室に入られるとちょっと不気味だ。
「ねえねえ林くん」
一瞬の沈黙もなんのその、人見知りというものを知らない戸塚が林に土曜日の副音声映画について僕たちに話したことを再度繰り返し、そして「よかったら林くんも一緒に行かない?」と誘った。
(林は断るだろうな)
と僕は林の反応をうかがった。彼は戸塚の説明に何も相槌を打たずにただ黙って聞いていただけだったが、「行かない?」との問いかけにワンテンポ間を置いて「ああ」と、肯定とも否定とも取れない返事をした。「ん?」と戸塚が聞き返すと、挨拶と同様ぼそりと「オレも一緒に行くよ」と言った。
僕はすこぶる意外な感じがしたが、戸塚も同じだったらしく「ホント」とはずんだ声をあげた。もちろん誘いに応じてくれた嬉しさから出たものだろうが、いつもの林の無愛想振りを思えば9割方断られるだろうと思っていたに違いない。
「おはよう」
開け放たれたドアから柔らかなソプラノの声が響いた。僕と直樹と武ちゃんと戸塚がいっせいに「おはよう」と覇気のない挨拶を返すと、上原香織は慎重な足音を響かせながらドアから一番近い自分の机に向かい、ゆっくりと椅子を引いた。
「上原さん、今みんなにも話していたところなんだけど……」
と戸塚は今日3回目になる土曜日の副音声付映画について説明し、加えて「よかったら一緒に行かない?」と誘った。
「……行きたいんだけど、土曜日はちょっと……」
「そう……」と林のときとは対照的に明らかに残念そうな声を出した。
「ごめんね。でも次やるときは是非誘ってね」
と上原さんは心の底から申し訳なさそうな、そして戸塚が気落ちしないよう明るい調子で付け加えた。戸塚も「うん」と元気よくうなずいた。
上原さんは林と一緒にほんの2週間前に入学してきたばかりの新入生だ。彼女についても謎が多く、僕が知っているのは中学生のときに事故だか病気だかで失明した全盲で、中学卒業後は生活訓練をしていた関係で高校進学が遅れ、僕たちより2歳年上ということだけだった。上原さん自身は林と違って明るい性格で礼儀正しく、同性・異性問わずに好意的に接してくれる。特に戸塚とは同性で席が隣同士になったこともあり、出会ってからすぐに親しくなり、休み時間などは2人でよくおしゃべりしているのを見かける。
土曜日は午後2時に上映されるということなので、若干余裕をみて12時30分に学校の最寄駅であるJR大口駅の改札口前集合ということになった。僕たちの場合、見知らぬ場所に行くのはちょっと難しいこともあり、全員が問題なく集合できる場所となると、毎日通っている学校の最寄駅が一番集合場所に適している。
「じゃ、12時30分に大口集合ね、みんなFMが受信できる携帯ラジオもってきてね」
話もまとまったので僕は前に向き直ると「ねえねえ」と戸塚が再び僕の右肩をポンポンとたたいてきた。
「私たちはさ、12時くらいに国道のところで待ち合わせて一緒にいかない?」
盲特別支援学校は公立・私立含めても県内に3校しかなく、市内だけではなく他の市から1・2時間かけて通学する生徒も少なくない。そんな広範囲な通学圏にもかかわらず、偶然僕と戸塚は近所ではないまでも同じ区内に住んでいる。戸塚は国道沿いに自宅があり、国道を走るバスに乗って駅前商店街で降りそこから徒歩で学校に向かう。僕は直接JR大口駅へ向かうバスに乗るのだが、方向としては国道とは真反対になる。
「なんで?」と聞くと
「沢木くんがいつも使っているバスって1時間に1本じゃない。待ち合わせ時間にちょうどいいのがあればいいけど、へんな時間だと長い時間待たせることになるかもしれないと思ってさ」
土曜日の時刻表のことなんて全く頭になかったが、確かに戸塚の言うとおり12時30分に到着するバスがあるとは限らない。タイミングが悪ければ1時間近く待つことだって充分ありうる。逆に国道に向かうバスは複数の路線バスが通るので本数は多い。僕は心の中で戸塚の心遣いを感謝しながら「それじゃ、そうするか」と軽く返事をした。
先ほどから廊下のほうが騒がしい。音声の出る腕時計で時刻を確認すると、「午前8時38分です」と聞こえた。うちの学校にはスクールバスがあり、いくつかのターミナル駅を経由して学校まで運転している。しかしマイクロバスのため乗車できる人数に限りがあり、基本的にはうちの学校に通っている幼稚園児・小学生・重複障害児が利用し、その他独力で登校できる生徒は公共交通機関を使うことになっている。今まさにスクールバスを利用している生徒が登校してきたのだ。
「おはよう」と担任の先生3人と一緒に近藤雄介と山本美奈が入ってきた。ここの学校に入学してたくさんのカルチャーショックを受けたが、そのうちのひとつが1クラスに担任の先生が複数いるということだった。盲特別支援学校では視覚に障害をもった児童・生徒だけではなく、重複障害の児童・生徒も通っている。1クラスの人数は少ないが、生徒によっては1対1で指導しなければならない、まる1日、目を離してはならないなど、1クラスに担任が一人だけではとても対応しきれないということらしい。うちのクラスでいえば、体育の川村一先生、同じく体育の清水恵先生、そして国語の原田雅子先生の担任に加え、補助職員が5人もいる。
雄介は先生に付き添われながら僕の左隣の席に座った。彼は聞くところによると小さいころから全く見えない・聞こえない視覚聴覚障害で、知力もあまり高くなく、発する声も唸り声になってしまうので会話を交わすことは不可能だ。時々自分の思いが相手に伝わらないためか、感情のやり場に困るためか、奇声をあげたり手足を振り回してしまうことがあり、僕も数回たたかれたりつねられたりしたが、さすがに3年以上付き合っているとあたりまえのこととして流すことができるようになる。
美奈ちゃんは先生が押す車椅子に乗って教室に入り、そのまま林の右隣についた。彼女は脳の病気とかで、視力は少しあるようだが、手足が思うように動かなかったり、言葉がうまく話せなかったり、知力もあまり高くないなど、かなり重たい障害をもっている。僕が美奈ちゃんと初めてあった頃は言葉にならないまでも声を発することは頻繁にしていたが、最近はほとんど声も出さず、出たとしてもか細い声しか聞こえてこない。あまり考えたくないが、もしかしたら彼女の脳の病気って今も進行しているのかもしれない。
クラス8名全員がそろったところで、日直の直樹が「起立」と号令をかけ朝のショートホームルームが始まった。僕は先生からの連絡事項を聞きながら、さっき戸塚が「FMが受信できる携帯ラジオもってきてね」と言っていたのを思い出し、お調子者の武ちゃんはきっと忘れてくるだろうから余分にもっていってあげようと考えていた。
3
午前中の授業も終わり、給食の時間になった。これも僕のカルチャーショックのひとつなのだが、基本的に横浜市では給食は小学校までで、中学校からはお弁当になる。しかし、盲・聾・養護特別支援学校は全児童・生徒数が100人にも満たない学校も珍しくないことから中学部・高等部にも給食が出る。配膳は先生と生徒が協力しながら行い、僕もスープをよそってお椀に入れたり、ハンバーグをトングでつまんでお皿に入れるなど一人一人の席に配っている。目が見えないとこぼしてしまいそうだが、繰り返しやっているうちにコツがつかめてくるので、今はスープ1滴、キャベツ一切れこぼさずによそうことができる。
食事中、僕の左隣では補助職員の日高治樹先生が
「雄介、それはパンだ、フォークで指さなくても手でつかんでいいんだ。……そのまま丸かじりするより、こうやってちぎって食べたほうがいいぞ。……そうそう」
と雄介に食事指導を、そして同じく補助職員の松川佳代先生は
「美奈ちゃん、次はクリームシチュー食べようか。……ゆっくりかんでね。……じゃあ、次は牛乳にしましょう」
と美奈ちゃんに食事指導をしている。通路を挟んだ右隣では戸塚と上原さんが、そして後ろでは直樹と武ちゃんがそれぞれおしゃべりに興じており、林は一言もしゃべらずに食事している。僕はといえば、時折後ろの2人の話に突っ込むだけで、あとは林と同様ほとんどしゃべらずに食事しているだけだった。
「そうそう」と、僕たちの前の教卓で食事していた川村先生が、まだ口の中に食べ物を含んだままのどもった声で話しかけてきた。先生は口の中の食べ物を全て飲み込むと、改めて「昨日のホームルームの時間に委員を決めてもらったんだけど……」と切り出した。
昨日今年度最初のホームルームがあり、まずは学級委員と各委員会の委員決めが行われた。うちの学校は1クラスの人数が少ないため、一人がひとつの委員を必ず担当することになっているが、この委員決めが毎年難航する。おそらくどの委員も大して変わりないのだから別にどの委員になっても問題ないはずだが、どうせやらされるのだから少しでも楽そうな委員になったほうがいい。厳密にいえば損な役割を押し付けられたくないという損得勘定みたいなものがみんなの中にあるからだろう。
「まずは学級委員から決めちゃいましょうか」
と原田先生が言うと同時に僕はややうつむき加減になって様子を伺った。多分みんなも同じことをしているのだろう。「立候補する人いる?」との問いかけから数秒の沈黙が流れた後、「はい」とかすかな声が聞こえたかと思うと「おおっ」と川村先生と清水先生は感嘆の声をあげた。
「上原さん、学級委員やってくれるのかしら」
と原田先生も嬉しそうな声をあげる。「やります」と彼女は再度意思表示をして、学級委員は異例の速さで決定した。
後は学級委員に司会進行をゆだねて、残りの委員を決めることになった。委員会は、図書・給食・保健・運動会・文化祭の5つだが、学級委員の提案で希望する委員を一人一人言ってほしいとのことだった。この提案にみんなが躊躇していると、「僕運動会委員になります」とすかさず林が立候補した。今年の新入生はみんな積極的だなと思っていると、林はぼそりと「運動会は6月だから、終わっちゃえば後は何もないしな」とのこと。こいつ無口だから何考えているかわからないけど、結構計算高い奴なのかも。
スムーズに決まったのはここまでで、後はいつもの押し付け合いの議論となった。結局、僕は本が好きだからという理由で図書委員を、戸塚は料理漫画が好きだからという理由で給食委員を押し付けられる形になった。直樹については、「おまえは保健委員がいいな」と武ちゃんが推薦した。「なんでだよ」と怪訝そうに聞き返す直樹に武ちゃんは
「だってさ、おまえ村山先生のことかわいいってずっと言っていたじゃんかよ」
村山先生とは今年赴任してきたばかりの養護教諭で、着任式の挨拶のとき僕もかなり若い先生だなと感じた。話し声は丸みがあって優しげで、ちょっと鼻にかかったような声が一昔前のアニメのヒロイン役の声優を連想させる。
「ばっ、バカなこと言うな。オレがいつそんなこと言ったんだよ!」
と直樹は否定するが、声色は明らかに同様して裏返っている。続けざまに武ちゃんは「考えてみろ、保健委員になれば毎月村山先生に会えるんだぜ」との台詞に「へっ!」と素っ頓狂な声をあげるも、それ以上抵抗しないところをみると武ちゃんの提案に直樹はまんざらでもないらしい。2人のやり取りに戸塚もクスクス笑っている。
「じゃ、保健委員は高橋くんってことでいい?」
との上原さんからの問いかけに「まあ、いっか」と軽い調子で応じる直樹、ホント単純な奴。
そしてあまった文化祭委員は武ちゃんがやることになり、美奈ちゃんは林とペアで運動会委員を、雄介は武ちゃんとペアで文化祭委員をそれぞれ担当することになり、無事委員決めは終了したはずだった。
ざわついていた教室も食器の触れ合う音が響くだけになり、みんなは川村先生の話に耳を傾けた。
「今年度だけの委員会になるが、新たに『創立120周年記念事業委員会』ができたんだ。知っている者もいるかもしれないが、本校は今年で創立120周年を迎える。そこで、この委員会では主に120周年の記録をまとめた記念誌の作成と秋の文化祭で予定されている記念イベントの企画をすることになっている」
「うちの学校ってそんなに歴史があるんですか」
と上原さんが質問した。
「うん、明治時代に最初の校舎ができたらしいが、聞くところによると日本で3番目にできた盲特別支援学校らしいぞ」
「ふーん」と彼女は感心したような声をあげた。
「そこでだ、この委員会を高等部普通科・保健理療科・理療科の3科の生徒で運営することになった。昨日のホームルームのときに決めればよかったのだが、すっかり忘れていてな……。できれば委員は全盲と弱視の生徒1名ずつということなのだが……」
うちの学校の高等部は3科あり、ひとつは僕たちがいる普通科で、中学卒業後の生徒を対象に一般の高校とほぼ同じ勉強をし、保健理療科と理療科は高校卒業の生徒を対象に、按摩・マッサージ・指圧・鍼・灸の勉強をする。
何にしても、新しい委員会の担当者を決めなければならないという面倒な状況に、僕は昨日同様ややうつむき加減に周囲の様子を伺った。「どうだ、誰かやってみないか」との先生の問いかけにも今日は誰も反応しない。しばらくの間食器の触れ合う音とストローで牛乳を飲む音、パンの袋のこすれる音だけしか聞こえてこなかった。
「沢木、おまえやれよ」
と真後ろの武ちゃんが言い出した。
「……なんでオレがやるんだよ」
と僕は口の中のパンを牛乳で押し流しながら後ろを振り向き、推薦してきた武ちゃんに詰め寄った。
「だって、おまえ本たくさん読んでいるから」
「意味わかんねえよ」
すると武ちゃんの隣の直樹も
「沢木くんがいいでーす」
と言い出した。うちのクラスで全盲の生徒は僕含めて4人、確立は4分の1だ。多分、自分のほうに矛先が向く前に、よってたかって一人に押し付けてしまおうという腹なのだろう、理由なんてどうだっていい。直樹と武ちゃんの2人から推薦という名の押し付けを受け、沈黙している上原さんに「やってみない」と振る勇気など僕にはなく、先生の「じゃあ、頼むぞ沢木」という一言であっさりと決まってしまった。
残るは弱視だが、うちには戸塚と林しかいないのでどちらかと組むことになる。先手必勝とばかりに戸塚は真後ろを振り返り
「ねえ林くん、やってみない」
と切り出したところ、「やんない」とすっぱりと言われてしまった。武ちゃんの真似をして林に押し付けようとしたつもりが、こうきっぱりと言われてしまったら逆にどう返していいかわからないようで戸塚がどう返答したものかと迷っていると、林は
「戸塚さんはオレよりも長くこの学校にいるんだから、オレよりもこの学校のことよく知ってるんだろ。戸塚さんのほうがいいんじゃないの」
と言われてしまい、戸塚は「はあ……」と明らかに困ったような声音で応じた。
2人のやり取りを見ていた川村先生はここぞとばかり「じゃ、戸塚がやるってことでいいか」と留めの一言を言い、万事休すの戸塚は「あ……、はい」と引き受けてしまった。よって創立120周年記念事業委員は僕と戸塚が担当することになったのである。
僕は振り向きざま
「おまえらのほうがこの学校長いんだから、おまえらのほうがよかったんじゃないのか?」
と悔し紛れの言葉を2人に投げかけたところ
「もう決まったんだから今更そんなのなし」
「そうそう、なしなし」
と一蹴されてしまった。どうして僕って林みたく頭が回らないんだろう……。僕は空になった牛乳パックをクシャリと握りつぶした。
4
下校前のショートホームルームが終わると校内はにわかに活気付く。掃除も終わり、廊下は部活動のために体育館や各教室に向かう生徒で賑わう。雄介と美奈ちゃんはスクールバスで、まだどの部にも入っていない上原さんと林はさっさと帰ってしまったが、軽音楽部の直樹は音楽室へ、卓球部の武ちゃんとバレー部の戸塚は体育館へと向かっていった。ちなみに視覚障害者のスポーツは一般のルールと異なり、バレーボールも卓球もボールは床の上を転がし、選手は転がってくるボールの音をたよりにキャッチしたり打ちかえしたりするのだ。
僕が入っているのはパソコン部だ。目が見えないとパソコンは使えないと思っている人が多いみたいだが、市販のパソコンに「スクリーンリーダー」と呼ばれるソフトをインストールすれば、画面に表示されたメッセージ、キーボードで入力した文字、カーソルが当たっている項目などを音声で聞くことができるので、ワープロもメールもインターネットも他の人とほぼ同じように使うことができる。紙による読み書きが困難な視覚障害者にとって、パソコンのおかげでワープロソフトを使って活字文書を書くことができるようになったし、インターネットを使えば自分ひとりの力で多くの情報を収集することができるなど、僕たちの生活の質を一気に向上させたと言っても決して過言ではない。
この学校に入って最初に興味をもったのはパソコンだった。失明してまだ1年も経っていない時期、毎日がとてもつまらなくいつも空虚な気持ちを感じていた。その原因は失明したという現実そのものよりも、失明したことによって楽しみがなくなった、夢中になれるものを失った、何を趣味にすればいいのかわからなくなったことだ。僕はテレビゲームが好きで、漫画が面白くて、草野球やサッカーに熱中していた。しかし、失明したことで以前のようにこれらの面白さを感じることができなくなってしまった。今の状態で何か楽しみを見つけようとしても、僕は戸塚のように度の強いルーペを使って漫画を読むことはできないし、武ちゃんのように僅かな音と気配でボールを追いかけることのできる鋭い感はないし、直樹のように自由自在に楽器を弾くなんてこともできない。
盲特別支援学校には一般の学校にはない「自立活動」という授業があり、点字の読み書きや白い杖を使っての歩行訓練、重複障害をもっている生徒は発声や運動などのリハビリテーションを行うのだが、僕はこの時間に点字と歩行、そしてパソコンの学習をした。元々テレビゲームが好きだったのでコンピュータの類には興味があったが、パソコンから音声が出るだけでも驚いたのに、操作に慣れればワープロでレイアウトの整った文書を作れる、送られてきたメールを読んだり相手に返事を書くことができる、インターネットで自分のほしい情報を検索することができるなど、失明した僕にとって目の前にかかっていた霧が晴れて新しい道を見つけることができた希望のようなものを感じた。なんてったって失明して初めて「面白い」と感じるものが見つかったのだから。
それからの僕は休み時間のたびにパソコンのあるコンピュータ室に行き、自主的にキー入力の練習やワープロソフトの使い方を覚えた。歩行訓練の結果一人で登下校できるようになったことをきっかけに、僕はパソコン部に入部することを決めた。今ではパソコンの技術もかなり向上し、顧問の先生や他の部員からも一目置かれるほどだ。
コンピュータ室に入るとすでに何台かのパソコンは起動しており、画面の内容を読み上げる無機質な合成音があちらこちらから聞こえてくる。
「おお、沢木くん」
顧問の一人岡部俊彦先生が声をかけてきた。すると岡部先生は誰かに「先生、沢木くんがきましたよ」と言ったかと思うと、もう一人の顧問矢島武先生が「沢木くんきたか、待ってたよ」と言った。矢島先生は高等部理療科で解剖学や生理学を教えている弱視の先生だ。おそらく僕がきたら教えてほしいと岡部先生に頼んでいたのだろう。
「沢木くんに頼みがあるんだ」と矢島先生はこちらに近づきながら話しかけてきた。
「この春に理療科に入学した安藤くんって学生がいるのだが、今日からパソコン部に入部することになった。で、彼は主にパソコンの練習をしたいと希望しているので、沢木くん教えてあげてくれないかな」
との矢島先生の説明に加えて、後ろから
「よろしくお願いします」
との声が聞こえた。多分、今言っていた安藤さんが挨拶してくれたのだろう。りりしいが明るそうで爽やかな声の持ち主は大学のテニスサークルにでもいるような好青年のイメージだ。
「はい、わかりました」と僕は二つ返事で了解した。
パソコン部の活動は大きく分けて2通りあり、ひとつは僕が普段やっているフリーソフトやシェアウェアの検証だ。パソコンから音声が出るといっても、全てのソフトが目が見える人と同じように使えるというわけではない。ソフトのプログラムとの愛称で、画面にメッセージが表示されても全く読み上げなかったり、項目名を正しく読み上げないこともある。また音声は出ても、マウスを使わなければ操作ができないソフトは、マウスポインタの見えない視覚障害者にとっては使えないソフトということになってしまう。どのソフトが使えるかは実際に操作してみないとわからないというのが現状だ。そこで、パソコン部では学校のパソコンに様々なソフトをインストールして、音声は出るか、キーボードのみで操作できるかなどを確認することに加え、正しい音声は出なくても、キーを押す回数を覚えることなどで目的の操作ができるか、マウスを使うことが前提でも、ショートカットキーのように複数のキー入力の組み合わせでマウスを使ったときと同じ操作ができるかなど、何か工夫する余地はないかと検証する。もし使えるソフトや操作方法を発見したら、うちの学校のホームページの「パソコン部のページ」に掲載し、全国の視覚障害者に情報提供をしているのだ。
もうひとつはパソコン学習で、文字入力の練習やメールの送受信など、一人一人が課題を決めて学習するのだが、これは顧問の先生だけではなく、上級者の生徒が初心者の生徒に教えるということも少なくない。僕は比較的パソコン操作には自信があり、顧問の先生からもそれなりの評価をもらっていることから、他の生徒を教えることはこれまでにも何度かあった。
最初のミーティングで本日の個々の活動内容や課題について確認し、本日は新入部員がいるので矢島先生から安藤さんが紹介された。活動が始まり、僕はパソコンの前に座っている安藤さんの隣に座り
「早速ですけど、安藤さんはどういう練習がしたいんですか?」と僕が聞いたところ。
「そうだなぁ」と安藤さんはちょっと考えて「よくわかってないんだけど、表計算ソフトを使えば家計簿ができるって聞いたんだけど」
「ああ、できますよ。簡単な関数を使えばすぐに作れます。……もう基本的な文字入力とかはできるんですか?」
「うん、去年1年間施設に入所して生活訓練を受けていたから、文字入力やメールの送受信、ホームページを見ることくらいはできるよ」
「なら、早速作りましょう」
安藤さんは元々頭がいい人なのだろう。こちらが説明したことはすぐに覚えてしまうし、応用力もあるから自分でどんどん作業を進めてくれる。おかげで安藤さんの希望していた家計簿のファイルは1時間程度で完成してしまった。
「今作った項目は食費と光熱費とその他の3つしかありませんが、新たに列挿入して、その列の合計を求める関数を加えれば項目を増やすこともできます」
「……ありがとう、もう少し項目を増やして今日から早速使ってみることにするよ」
と安藤さんは満足げに微笑みながらお礼を言ってくれた。
「教え方うまいね。パソコンはかなり使っているの?」
「始めてから3年くらいです。安藤さんも基本的な操作はバッチリじゃないですか、昔からやっていたんですか?」
「……いや、僕は中途失明なんだけど、見えていたときはパソコンなんて学校の授業意外ではほとんど使わなかった。さっきも言ったけど、生活訓練でパソコン教えてもらったのが初めてで……」
「なら僕と同じですね」
「え?」
「僕も中途失明で、この学校の中学部に入学した時に初めてパソコンに触れたんです」
「そうなんだ、へぇ……。失明したばかりのときは生活するのに精一杯で全然余裕がなかったけど、訓練のおかげで活字の文書を書くことができたり、インターネットで知りたいことを調べることができるようになって、やっとこの先のことを考えられるようになったんだよね」
人生の途中で失明してしまったこと、パソコンによって生きる希望を見つけたという共通点に加え、誠実そうな話し方から、僕は安藤さんに親しみを感じ始めていた。
家計簿作成も一段落ついたこともあり、僕はだんだんと突っ込んだ質問を投げかけていた。
「家計簿作ったってことは、お金の管理は全部一人でしているんですか?」
「この学校に入学することになってから一人暮らしも始めたんだ。家はここから徒歩2・3分のところにある松見ハイツってボロアパートなんだけど……」
「学校の目と鼻の先じゃないですか」
「そうそう、だから朝は8時近くまで寝ていても余裕で間に合うよ」
僕の場合はどんなに遅くても7時前には起きないと学校には間に合わない、この朝の1時間の差は大きい。「羨ましいですね」と言うと安藤さんは笑いながら
「メリットなんて朝ゆっくり寝られることとすぐに家に帰れるってことだけだよ。結構面倒だよ一人暮らしって」
親の目を気にせず自分一人の家がもてるのは僕にとってはかなりの魅力に思えるのだが、きっと僕には分からない苦労があるのだろう。「そういうものですか」と独り言のような曖昧な相槌を打った。
「収入も限られているから、きちんとお金の管理もしないとやばいんだ。だからこの家計簿ができてものすごく助かったよ」
「そうですね、パソコン使って管理すればかなりやりやすくなると思いますよ」
「……ただね」と安藤さんは今までの快活さがなくなって、ちょっと気落ちしたような声色になって
「今ちょっと自宅のパソコンの調子が悪いんだよね」
「動かなくなっちゃったんですか?」
「いや、パソコンそのものは動くんだけどスキャナーの調子がね……。昨日家のポストに手紙が入っていたからスキャナーで読ませようとしたんだけど、急にウンともスンともいわなくなっちゃって……。一人暮らしを始めるから一通り買い揃えたんだけど、あまりお金出せないからパソコンもスキャナーもプリンターも安物なんだ。それがよくなかったかもな……」
紙に書かれた文字が読めない視覚障害者でも、ワープロなどで書かれた活字ならばスキャナーを使って活字部分を読み取れば音声で聞くことができる。安藤さんは一人暮らしで傍に見える人はいない。おそらく手紙などの文書を読むためにスキャナーは必需品なのだろう。スキャナーが壊れて途方にくれているのは、彼の気弱で細々とした声色からも充分想像できた。
「あのー……」と僕はおそるおそるといった感じで
「もし安藤さんさえよければ僕にそのスキャナー見せていただけませんか?」
「え?」
「お力になれるかどうかはわかりませんが、実際に見せていただければ直すことができるかもしれないと思いまして……」
安藤さんはちょっと面食らっていた。僕も初対面にもかかわらず少し出すぎたことしたかなと思ったが、彼の困っている姿を目の当たりにしては放っておく気分にはなれない。しかも困っている原因がパソコンとあれば、僕にも何かできるんじゃないかなというささやかな自信もあった。
「……沢木くん詳しそうだから見てもらえれば助かるけど……」
「家は近いんですよね、もしよろしければこの後でも大丈夫ですよ。安藤さんさえご迷惑でなければ……」
安藤さんは2・3秒ほど間をおいてから
「……じゃ、沢木くんのご好意に甘えてちょっと調べてもらおうかな」
僕は「わかりました」と元気よく答えた。
その後、残った時間で家計簿ファイルにいくつか項目を書き加えたところで終了時間となり、安藤さんは出来上がったファイルをメールに添付して自宅のパソコンに送信した。
それぞれ帰り支度が整ったら昇降口の前で待ち合わせしようと約束し、僕はコンピュータ室を出ようとした。そのとき「なあなあ」とパソコン部副部長の滝沢徹さんから呼び止められた。彼は僕より2年先輩の高校3年生で、僕がパソコン部に入部したときからの付き合いだ。部活だけではなくプライベートでも親しくさせてもらっており、休日に遊びに行くときなど弱視の彼が率先して誘導してくれたり、メニューを一生懸命読んでくれたり、商品の説明をしてくれるなど、とても頼りになる先輩だ。急いでいたので「なんですか?」とややつっけんどんな調子で聞き返すと
「おまえのクラスに入ってきた女の子いるだろ」
僕はちょっと考え「上原さんのことですか?」と言うと「その子、その子」とやや声のトーンは下げたもののどことなくうれしそうな感じで
「あの子かわいくねえ、性格もよさそうだし」
(急にそんなこと聞かれても……)
とどう答えたものかとやや返答に困ってしまった。上原さんは礼儀正しいしさわやかな印象を与える人だから、きっと性格はいいだろうし、かわいい子じゃないかなとも思う。でも、こんな風に唐突に同意を求められたところでどう答えればいいのか僕にはわからず
「そうですね、そうだと思います」
と当り障りのない返事だけしておいて「すいません、急ぐので」ときびすを返してさっさとコンピュータ室を出てしまった。
突然あんなこと聞いてきて、滝沢さんは上原さんに興味あるのかな……。
5
安藤さんのアパートは確かに近かった。学校の前の通りを街道に向かってあるくこと数十メートル、路地に入ってすぐのところに松見ハイツはあった。
玄関に入ると湿気を帯びた空気が肌に絡み付いてきた。手を引かれて1・2メートルほどの廊下を抜けると、足の裏に畳の感触を感じる。今の僕の目はよっぽど強い光でない限り明暗すらわからないのであくまでも体感的なものに過ぎないのだが、4月も中旬になり夕方でもまだ太陽は出ていると思われるのだが、どことなく薄暗いような雰囲気があり、ちょっと失礼になるが少しかび臭いような気もする。
そんな僕の心の中を察してくれたのか、安藤さんは笑いながら「少し窓開けよう」と、居室の入り口から見て右手の窓をガラリと開けた。
「ここは北向きでねぇ、ほとんど太陽の光が入らないうえに地区30年の木造アパートときている。こうやって頻繁に空気の入れ替えをしないとすぐに部屋が湿っぽくなっちゃんだよ」
と言った。開け放たれた窓から入ってくる少し冷えた新鮮な空気が、部屋にたまったよどんだ空気をゆっくりと洗い流してくれたので、部屋の中には先ほどまでの絡みつくような湿気がスーっと無くなった。
「ここに決めたのは学校に近いからですか?」と聞くと
「そうだね、それも大きな理由だけど、家賃が激安ってこともあるかな」
「激安?」
「ここは日当たりが悪くて古いアパートだけど、賃料はものすごく安いんだ。共益費の中に水道料金も含まれていて、全部込みで2万円しないんだ」
アパートを借りたことがないので賃料の相場がいまいちわかっていない僕だったが、1ヶ月2万円で部屋が借りられるのは安いほうなんだろうなと思えた。「ふーん」とうなづいていると、「寒くなるから」と安藤さんはピシャリと窓を閉め、パソコンの電源を入れた。
「ここにパソコンがあるんだけど」
と、僕をパソコンデスクの前に座らせてくれた。触ってみるとわりと大ぶりなタワー型のデスクトップパソコンにブラウン管のディスプレイ、それにキーボードとプリンターとスキャナーがきれいに配置されている。型は古そうだが、電源を入れてからすぐにOSが起動するし、キーを押してから音声が出るまでのレスポンスもスムーズなので、そんなに悪いパソコンではないなというのが第一印象だった。
早速問題のスキャナーに適当な活字文書をセットして読み取らせようとしたが、安藤さんの言うとおり何も反応がなかった。こういうパソコントラブルの原因はあっけないほど単純なことがあり、スキャナーの電源が切れているだけ、ケーブルが抜けているだけということも少なくない。まずはスキャナーの電源コードは抜けていないか、パソコンに接続ケーブルが繋がっているかを確認し、それから読み取りソフトの設定項目を一つ一つチェックしたが、特にこれといってトラブルの原因になりそうな症状は見られない。「だめかなぁ……」と不安そうに尋ねる安藤さんの声を聞きながら、僕は黙って考えた結果、トラブルの原因がわからないのならばと、安藤さんに
「安藤さん、このスキャナー買ったときにいっしょにCDロムがついていたと思うんですが、すぐに出ますか?」
とたずねると、安藤さんはちょっと困ったような調子で
「……パソコンのCDロムならまとめて引き出しにしまってあるけど、どれがスキャナーについていたCDロムなのかは……ちょっとわからないなぁ……」
「ここですね」
と僕は引出しを開けて手を突っ込んだところ、10枚くらいのCDロムがケースごと輪ゴムでとめてある束を発見した。おそらくパソコン本体についていたバンドルソフト、スクリーンリーダー、プリンターのドライバーなども含まれているのだろう。僕は自動起動しないよう1枚1枚パソコンに挿入し、CDロムの内容をみて調べることにした。
何枚か空振りした後、スキャナーのドライバーが入っていると思われるCDロムを発見した。
「インストールされているスキャナードライバーを一度削除して、もう1回入れなおしてみますね」
と言ったところ、「はあ……」とあいまいな返事をした。おそらく聞きなれない専門用語にどう答えたものかと迷っているのだろう。かまわず僕はパソコンからスキャナードライバーをアンインストールしてからパソコンとの接続ケーブルを抜き、CDロムに入っているドライバーのプログラムをクリックした。数回キーを押しつづけると、インストール完了を知らせるメッセージが表示されたので、僕は再度接続ケーブルを差し込んだ。
しばらくするとスキャナーからギイッギイッという機会音が聞こえ、安藤さんは「おっ」と嬉しそうな声をもらした。念のため読み取りソフトの設定を確認して読み取りを実行したところ、スキャナーからギイーッと機会音が聞こえ読み取りが開始され、数十秒後活字文書の読み上げが始まった。
「ああー、ありがとう、助かったよ」
安藤さんは心に引っかかっていた重たいものがなくなったような朗らかな調子でお礼の言葉を繰り返した。
「一時はどうなるかと思ったよ。どこが悪かったのかな……」
「何が原因だったのかはわかりませんでした。そういう場合は一度ドライバーを削除して入れなおすと直ってしまうこともあるのでとりあえず試してみました」
「そういうものなんだ」と安藤さんはわかったようなわからないような、狐につままれたような様子だったが、何はともあれ動けばそれでいいのだ。
CDロムを片付けてパソコンの電源を落としていると、キッチンに立った安藤さんが「たいしたものはないけど、お茶でも飲んでいってくれよ」と言ってくれたので、僕は部屋の中央に置かれている折り畳みテーブルの前に座った。安藤さんは慎重な足取りでテーブルに近づき、ゆっくりとお盆を置いた。
「紅茶とクッキーなんだけど」
と言いながら僕の手を取り、お盆の上のティーカップとクッキーと砂糖の位置を教えてくれた。
「どうですか、うちの学校は……」
黙っていても仕方ないので、紅茶を一口飲んだところで当り障りのない質問をしてみた。「そうだねぇ」と安藤さんは少し考えながら
「いろんなものが目新しくて新鮮だから毎日が面白いといえば面白いんだけど、ほかの学生についていけないときがあって、どう対応していいのかわからなくてまごついたり、思い通りにいかなくて歯がゆい思いすることも多いかな」
「わかります!」と僕はすかさず同意した
「僕は小6のときに失明して中1のときにこの学校に入ったんですけど、確かに今までの学校とは全然違った独特な雰囲気がありますよね。ずっと前から通っている他の生徒にとってはそれが普通なんだろうけど、入学したばかりの頃は僕も戸惑ってばかりでした。僕は怖くて廊下を歩くのもおそるおそるって感じだったのに、他の全盲の生徒はまるで見えているようにスタスタ歩いたり……」
安藤さんは「そうそう」と笑いながら頷いていたが、急に真剣な声音になって
「失礼なこと聞くけど、失明したのは事故かなにかで?」
「いえ、網膜色素変性症なんです」
「そうなのか……」と深く息を吐き出しながら
「うちのクラスにも何人かいるよ、網膜色素変性症が原因で失明したり視野が狭くなっちゃった人」
「多いですよね」
安藤さんはコトンとティーカップをテーブルの上に置くと
「僕は交通事故が原因で失明したんだよ」
と話し始めた。それは僕に向かってというよりも、どことなく独り言のようなうつろな声音が含まれているように聞こえた。僕は前歯で噛み砕いたクッキーを奥歯で租借しながら何も言わず安藤さんの話に耳を傾けた。
「僕の実家は川崎市にあるんだけど、7・8年くらい前になるかな、僕は地元の公立高校に通っていたんだ。当時は特にこれといって変わったところなんて全然なくて、他の高校生と同じように生活していたんだよね……。でも、高2の終わり頃のことなんだけど、親父が急死したんだ」
失明の経緯について話すのかと思ったら、何となく予想外な内容に僕はちょっと話の筋が掴めずにいたが、そのまま黙って安藤さんの話を聞きつづけた。
「忙しい部署の責任者だったからかなり疲労がたまっていたんだろうな。親父が社内で倒れたって連絡が入って、慌ててお袋と一緒に搬送先の病院に駆けつけたんだけど、くも膜下出血を起こして意識がなくて、次の日にはあっけなく死んじゃったんだ」
「……そうだったんですか」
「それまでは大学進学を希望していたんだけど、うちはそんなに裕福じゃないから経済的な理由で進学をあきらめて、家計を助けるために就職することにしたんだ。でも、何も資格持ってなかったからなかなか就職先が決まらなくてね……かなり厳しかったよ。それでも何とか運よく1社から内定もらって、高卒の事務員だったから安月給だったけど選択の余地なんてないからね、翌年の4月からその会社で働くことになったんだ」
安藤さんはティーポットから自分のカップに紅茶を注ぎ、「お代わりいる?」と聞かれたので「いらないです」と答え、話の先を促した。
「残業多かったし、決して楽な仕事じゃなかったけど、職場じゃ一番年下ってこともあって上司や先輩にかわいがってもらったよ。いやなこともあったけど、なんだかんだいってあの頃が一番充実していたかもな……。それなりに仕事をこなして、家のほうも経済的・精神的に落ち着いてきていたんだけど……。東京や神奈川に記録的な大雪が降った日があったんだけど覚えているかい?」
僕は記憶の糸を手繰り寄せた。確か一昨年くらいに大雪が降って学校が休校になったことがあったなとぼんやり思い出した。
「あの日も仕事で帰りが遅くなって、自宅の最寄駅から10分くらい歩くんだけど、大雪のせいで歩きにくいし見えにくいから、僕はわりとゆっくり注意しながら歩いていたんだよね。……そしたら後ろから大型のダンプカーが僕のすぐ傍を通り過ぎて目の前の十字路を曲がろうとしたみたいなんだけど、路面が凍っていたせいか、曲がるタイミングがずれちゃったみたいで、すぐ傍を歩いていた僕は後輪に接触して吹っ飛ばされて……」
僕は唾をごくりと飲み込んだ。おなかに力を入れているせいか、なんだか息苦しいものを感じる。
「そのまま気絶しちゃったみたいで気が付いたら病院のベッドの上だった。そして僕はお袋の声や物音は聞こえるんだけど、姿や周りの景色が見えないことに気づいたんだ。先生の話だと、命には別状はないけど吹っ飛ばされて地面にたたきつけられたときに頭を強く打っちゃったみたいで、視神経をやられちゃったんだ……」
「……頭を打って失明しちゃうんですか……?」
僕はおずおずといった感じで質問をはさんだ。
「うん、外傷性視神経障害って言うらしいんだけど、要は目で見たものを脳に伝える部分がだめになっちゃったらしいんだよね。残念ながら今の医学で治療することはできないって聞かされたとき、僕もそうだったけど、お袋の落胆振りは……、とてもじゃないけど傍にいるだけでこちらもより辛くなるほどだったよ」
僕は4・5年前のことを思い出していた。担当医から僕の目は網膜色素変性症という病気にかかっており、しかも今の医学では根本的な治療法はないと聞かされたとき、僕は先生の言っていることの意味が把握できなかったのか、それとも僕の心が把握することを許さなかったのか、しばらくの間ぽかんとうつろな目を先生に向けたままぼーっとしてしまった。ふと母の「そうですか……」というため息にも似たかすれた呟きが聞こえたとき、僕は思わず母のほうを振り向いた。母はどちらかといえば気丈な性格で、僕が物心ついてからそういう機会がなかったからだと思うが、喜怒哀楽のうち哀の感情を露骨にすることはまずなかった。にもかかわらず、母はぎゅっと目をつぶり、頭はうなだれ、握り締めた拳はかすかに震えていた。母の姿が目に入った瞬間、それまで空っぽだった僕の心の中に何か波立つようなものが生まれ、その波が徐々に大きくなるに連れて、叫びだしたい、ここから逃げ出したい、誰かにしがみつきたいようなやり場のない感情があふれてくるのを感じた。僕は感情を殺すため、母から目をそらし見なかったことにしようとぎゅっと目をつぶったが、失明した今でもあの日の母の姿はどうしても忘れることができずにまぶたの裏に焼きついている。自分自身に不幸が降りかかるのもたまらないが、他の人が悲しんでいるのを目の当たりにするのもたまらない。その悲しませている原因が自分に降りかかってきた不幸であればなおさらだ。
「そんなわけで会社をやめることになって、1年くらいかな……、ほとんど自室にこもって日がな一日寝ていたよ。何もできないし何もしたくないし何も考えたくなかったし、寝ていれば少なくても目がさめるまでは失明したって現実から逃げることができるからね。……何ヶ月かして少しだけ気持ちが落ち着いてきた頃、お袋が役所の福祉関係の部署にいって相談してきたらしいんだ。そしたら中途で失明した人に生活訓練をしてくれる施設があることを知って僕に勧めてきたんだ。最初は何もやる気がしなかったからあんまり気持ちは乗らなかったんだけど、しばらく考えてから、いつまでも逃げてばかりもいられないし、このまま引きこもってばかりもよくないと思うようになってさ、思い切って入所することにしたんだ」
「そこでパソコンとか習ったんですね」
「パソコンだけじゃなくて、点字の読み書き、歩行訓練、調理などなど、いろんな機器を使って工夫しながら生活していく術を教わったんだ。訓練できたってこともあるけど、入所して一番よかったのは似たような境遇の人たちと出会えたってことだね。自分と同じような不幸を抱えながらも、みんな前向きに生きていこうって姿にものすごく励まされたな。そういうみんなの姿に刺激されて、僕も今度は手に職をつけてまた自立した生活を送りたいなって気持ちが強くなって、この学校の理療科に入学したんだ」
「そうだったんですか。……なんか僕も似たような気持ちでしたよ、失明したばかりの頃は」
「そっか」と安藤さんは優しい声音で相槌を打ち、クッキーをぽりぽりとかじった。
「……ただ、いくら訓練受けたからといってすぐに何でもできるようになるわけじゃないからね。僕の場合はいまだに一人で外を歩くことに恐怖感があって、まだ遠出することはできないんだ。実家から通学するとどうしても2回乗り換えしなければならないし、そもそも自宅から駅までの道のりも自信ないんだ。……交通事故にあった場所ってこともあるんだけど……。学校とも相談して通学に便利そうなアパート探してもらったんだけど、使えるお金は限られているからとにかく安いところって言ったらここを教えてくれたんだよ」
「仕送りとかはないんですか?」
「お袋はパートで働いているけど自分の生活で精一杯ってことは知っているから、仕送りはしてもらってないんだ」
「……じゃあどうやって生活を?」
「一番大きいのは国から給付される障害厚生年金。その他には県と市からの手当てが少しと奨学金だから……、月10万円くらいでやっていかなくちゃならないんだよ」
安藤さんは力なくアハハと笑った。彼はあっさりと言っていたが、家賃に光熱費に食費、そしてその他雑多な出費を考えるとかなり切り詰めないとやっていけないんじゃないかなと思った。それに、安藤さんはおそらく20代前半くらい、そのくらいの年ならほしいものは山ほどありそうだし、付き合いだって多いはず。こればかりはどうにもならない問題だとしても、お金がないからという理由でほしいものを諦めたり、誘いを断らなければならないのはとてもさびしくてつまらないことなんだと思う。
「あ、やばい」と安藤さんは恐縮するような感じで「つまらない話しちゃって悪かったね、かなり引き止めちゃったし」と言った。僕は右手を振りながら「いえいえ」と言い「またパソコンの調子が悪くなったらいつでも言ってください」と付け加えた。
「それは助かるな、なんせ僕は文書を書いたりホームページ見るくらいしかできないからとても心強いよ」
と言った。
安藤さんはこれから街道沿いのスーパーマーケットで買い物をするというので、2人一緒に外に出て、アパートの前で別れた。今の時期は太陽が沈んでもあまり寒さは感じないはずなのだが、先ほどの安藤さんの話が心に引っかかっているせいか、僕は身を縮めながら小走りにバスターミナルに向かった。ふと立ち止まると、安藤さんがついている白い杖のカツカツという音がどんどん遠ざかって行くのがわかった。
6
ポンと右肩をたたかれたと思ったら「おはよう」と声をかけられた。
「ああ……おはよう」
もうすぐ12時になるというのに「おはよう」はないだろうと思いながらも僕は戸塚に同じ挨拶を返した。最近特に感じることだが、おはようというのは本来は朝の挨拶であるはずなのに、昼間であろうともその日会った友達にまず最初に交わす挨拶になっている。街中を歩いているときなど、やはり同じような感じで「おはよう」と言い合っているのを耳にすると、これもひとつの日本語の乱れなのかなとふと思ってしまう。
僕は戸塚と2人国道沿いのバス停で先に落ち合い、一緒に待ち合わせ場所に指定したJR大口駅の改札口前に集合し、そこからみんなで渋谷で行われる副音声付映画を見に行くことになっている。再びバスに乗って10分、商店街の傍のバス停で降り、そこから徒歩で向かえば約束の時間には充分間に合う。
2人でたわいのないことをしゃべりながら商店街をてくてく歩いていると、戸塚が急に「あ……」と小声で言い急に立ち止まった。「どうした?」と聞いても「うん……」と呟くばかりでまともな返事をしない。理由がわからず少しじれていると
「ごめんなさい。どうぞお通りください」
と右斜め前方から女の人の声が聞こえてきた。どうやら狭い歩道の真ん中で商品を見ていたのか何かで人が立ちふさがっていたので、戸塚はどうよけようかと迷っていたらしい。戸塚は少し見えているといっても普通の人のようにはっきり見えているわけではない。よけたつもりで陳列された商品などにぶつかったら面倒なことになる。
僕らは声をそろえて「ありがとうございます」とお礼を言いながらゆっくりと女の人の前を通り過ぎようとしたとき、「あ」と今度は男の人の声が聞こえた。
「もしかして沢木くん?」
と男の人から急に名前を呼ばれたので少々戸惑いながら「……そうですが」とおずおずと答えると「やっぱり」と嬉しそうな声が返ってきた。一般的に、顔には見覚えがあるが名前が思い出せないということがあるように、僕は人の声を聞いてすぐに名前が思いつかないということがよくある。僕が返答に困って沈黙していると
「僕だよ、安藤だよ」
思いがけないところで思いがけない人に会い、僕は慌てて「ああ、どうも!」と改めて安藤さんに挨拶した。一緒にいる女の人が「知り合い?」と安藤さんに問いかけている。
「彼は僕と同じパソコン部の部員で、さっき話したスキャナーを直してくれた人なんだよ」
「そうなんだ、へえー」
と女の人は心底関心したような声を出した。声からして安藤さんと同じくらいの年代で、心地よい丸みのあるつややかな声は清楚な印象があり、彼女の髪の毛からだろうか、漂ってくる甘い香りが僕の鼻を刺激した。
「さっき安藤さんが話してくれたんだけど、とてもパソコンに詳しいんだってね、感心しちゃった」
「いや……、そんなに詳しいってほどでもないです」
直したといってもただドライバーを入れなおしただけの単純な作業だ。そんなことで関心されてもかえって恐縮する。
「こんにちは。沢木くんと同じクラスの戸塚直子です」
今まで黙っていた戸塚が自己紹介をした。そういえば戸塚と安藤さんは初対面だった。安藤さんからも
「理療科1年の安藤正和です、よろしく」と自己紹介があり
「ガイドヘルパーをしています岡島朋美です」と女の人も自己紹介をしてくれた。
「ガイドヘルパーって、横浜ライトハウスがやっているやつですか?」
戸塚が岡島さんに質問した。横浜ライトハウスとは市内にある視覚障害者を対象とした福祉施設で、点字・録音図書の製作、用具の販売、スポーツや文化活動などのイベントの開催、市民に視覚障害者への理解を促進するための啓発活動などを行っている。
「ええ、大学2年生のころにガイドヘルパーの研修を受けて、それからずっとさせてもらっているの」
「大学生なんですか?」
「ちょうど先月卒業したばかりで、……今はフリーター兼受験生ってとこかな」
「受験生? 大学院に行かれるんですか?」と僕。
「岡島さんはとっても福祉に関心のある人で、いろんな福祉施設でアルバイトしながら現場の状況について勉強して、来年の1月に社会福祉士の受験をするんだよ」
安藤さんの返答に僕と戸塚は2人口をそろえて「へえー」と感嘆した。
「いやあね、今年落ちちゃったから受験までアルバイトしているだけよ。まあ、いろんな現場見てみたいから福祉施設でアルバイトさせてもらっているってのはあるけどね」
岡島さんは照れくさそうに笑いながら言った。戸塚は岡島さんにかなり関心があるらしく、立て続けに
「じゃ、ガイドヘルパーの他にも何か…?」
「平日は11時から夕方4時まで東横線の東白楽駅の傍にある『やじろべえ』って授産所のスタッフしていて、作業の手伝いや食事介助なんかをしているの。それとボランティアだけど手話通訳も少しやっているから、平日の夜とか土日に以来があればガイドヘルパーとか手話通訳とかしているかな。バイトばっかりで全然勉強できてなくてどうしようもないんだけどね」
「そんなことないです。まだ先の話しですが、私も福祉系の大学にいって資格とって、福祉施設で働きたいと思っているんです」
「ホント! 是非頑張ってほしいな。福祉施設で相談員や指導員として働いている視覚障害者の人もいるからね」
岡島さんはパッと花が開いたような明るい調子で戸塚に言った。
「僕が入所していた施設にも視覚障害をもった職員の人がいたよ。僕はその人から点字やパソコンを教わったんだ」と安藤さん。
「いらっしゃいますよね! でも、ああいう福祉施設って採用されるのが難しいみたいですね……」
「福祉施設はどこも経済的に苦しいから、たくさん人を雇うことができないんだよね。それにお給料もそれほど高くないみたいだし……。私の自給ももしかしたらそこらのコンビニやファーストフードの店員なんかよりも安いかもしれない。交通費だって全然でないから授産所まで自転車通勤しているもん」
「自転車! 大変ですね……」
「家は岸根公園の近くなの。だから自転車でもそんなにかからないのよ」
「ところで安藤さんはこれからお出かけですか?」
戸塚と岡島さんの話が一段落ついたところで僕は安藤さんに聞いた。
「……いや、ただの買い物だよ」
と安藤さんは取り澄ましたような様子で答えた。
「どうしても必要なときは家の近くのスーパーに行くけど、週に1回ガイドヘルパーをお願いしてこの商店街で買いだめしているんだ。ここの商店街はスーパーよりもずっと安いし、ガイドヘルパーと一緒ならゆっくり商品見てもらいながら買い物できるしね」
「確かにそうですよね」と僕は強く頷いた。CDでも本でも、僕たちが一人で何か買い物するときには店員さんに声をかけて探してもらうのだが、ある程度買いたいものが決まっていないと店員さんにお願いすることができない。逆にいえば、漠然と「服が買いたいから何があるか教えてください」とか「食料品がほしいから棚に並んでいる商品を教えてください」なんて頼んでも店員さんはどう対応していいか困ってしまう。こういう場合、気兼ねする必要のない家族とか友達などと一緒にいけば、ゆっくりと自分のほしいものを説明してくれたり、並んでいる商品名を読みながら歩いてくれるので、そのときの自分の気分とかお財布の中身に合わせて買い物を楽しむことができる。
「一人だと自分の好きなように買い物できないから辛いですよね。それなら、もう少し頻繁にガイドヘルパーにきてもらってはどうですか」
と僕がいうと、安藤さんは少しばつが悪そうな感じで
「……いやあ、そうしたいのはやまやまなんだけど、ガイドヘルパー利用するとお金取られるからね……」
「無料じゃないんですか!」
「収入によっては無料で利用できるらしいんだけど、僕は少しだけ自己負担があるんだ、それで……」
僕は一昨日の安藤さんの話を思い出し、すぐに「すいません……」と誤った。安藤さんは全然気にしてないというような明るい調子で
「いいよいいよ、一人暮らしにも慣れればそのうちガイドヘルパー使わなくても買い物くらい自分でできるようになるだろうし」とその場を取りもってくれた。
「それまでは、週1回だけでもガイドヘルパー利用してくれれば私のできる範囲でお手伝いさせてもらうわ」
と岡島さんは安藤さんに向かって言い、安藤さんは「ありがとう」と微笑みながら言った。
「ところで沢木くんと戸塚さんはこれから……」
と安藤さんに聞かれたとき、僕と戸塚は2人同時に「あ!」と叫び、みんなと待ち合わせしていることを思い出した。
「いけない、すっかり忘れていた。沢木くん急がないと遅刻よ」
「ごめんなさいね、すっかり引き止めちゃって」
と岡島さんは謝ったが、元はといえばこちらが引き止めたようなものだ。僕たちは挨拶もそこそこに急いで駅に向かった。
「ねえねえ」と戸塚はにやにや笑いを浮かべているような声色で
「岡島さんってとってもきれいでかわいらしい感じの人だったよ」
と言ってきたので「そうだろうね。オレもそんな感じがした」と同意した。
「あの2人仲よさそうだったよね。付き合っているのかな?」
と言ってきたので「それはないだろ。あくまでもガイドヘルパーと利用者の関係だろ」と否定した。
「そうかなあ。私あの2人お似合いだと思ったんだけどなぁ」
戸塚はそんなことをぶつぶつと言っているが、僕はあまり興味がないので無視することにした。女の子って自分の思い込みだけでカップルを作りたがるところあるよな。
7
「ごめーん。武ちゃん、林くんいるー?」
戸塚が叫ぶと「おっせえな、おまえら」と武ちゃんのぶっきらぼうな声と、「おお」と林のだるそうな声が被った。武ちゃんは音声時計のボタンを押しながら「3分の遅刻だな」と不機嫌そうに呟いた。
「ごめんね。商店街歩いていたら、たまたま買い物している沢木くんのパソコン部の先輩とガイドヘルパーさんに会ってさ……」
「ガイドヘルパー?」
「そうなの。本当に偶然なんだけど……」
放っておくと2人の話が長引きそうな雰囲気を察してか
「とにかくさっさと行こうぜ」
と林が戸塚と武ちゃんの間に割って入り、2人を制した。
「そうだね、さっさと切符買っちゃおう」
「オレ定期あるから大丈夫」と林。
「オレもICカードあるからいい」と僕。
「じゃ、私と武ちゃんは切符買うから待っててね」
と2人は券売機へ、僕と林は改札口の前で待つことにした。
「お待たせー」
と戸塚と武ちゃんの声が重なった。「じゃ、行こうか」と、2人はさっさと改札を通ってしまったので、成り行き上僕は林と一緒に行くことになった。
林は全く愛想のない奴だが誘導は意外と丁寧で、僕の手を取って自動改札機の位置を確認させてくれたり、階段が近づいたら「そろそろ降りるぞ」と教えてくれた。しかし、もともと無口で普段から特に会話らしい会話をしていないだけに、ぺちゃくちゃおしゃべりしながら歩いている戸塚と武ちゃんとは対照的に、僕たちは何もしゃべらずただひたすらホームに向かって歩いていた。
乗換駅までは4人が固まって歩いていたが、渋谷に向かう東横線に乗り換えたとき、たまたま空いている席がバラバラで、戸塚と武ちゃん、僕と林はそれぞれ別の座席に座ることになった。誰かに誘導されているときどうしても誘導する側に従わなければならない。僕としては林と2人きりでいるより、立ったままでも戸塚や武ちゃんの近くにいたほうがいいのだが、席が空いているのに傍に行きたいというのは不自然だし、さすがに林にストレートに伝える勇気もないので黙っていた。特急に乗ることができたので20分もすれば渋谷に着くのだが、この間ずっと僕はお互い何も話さず、何となく気まずいような居心地の悪さを感じていた。
横浜駅の人ごみには慣れているつもりだが、渋谷に比べれば横浜なんて大したことないんだなとつくづく感じる。人の多さもさることながら、一人一人の歩く速度が違うから、少しでも気を抜いたら突き飛ばされる、または自分の杖が相手の足をひっかけて転ばせてしまうのではないかとおどおどしながら歩いている。人ごみと慣れない場所のせいで僕たちはどこをどう行けばいいのかわからず、戸塚も
「道玄坂のほうに行きたいんだけど……」
と不安そうにうろうろするだけだった。
「道玄坂ならハチ公口のほうだろ」
林は急に先導に立ち、僕を連れながら戸塚と武ちゃんを後ろにずんずんと進んでいった。戸塚たちとはぐれないよう注意しながら、それでも確実な足取りでどこかに向かっている。
しばらくして「このスクランブル交差点を渡ると道玄坂だけど……」と林が言った。どうやら道玄坂に着いたらしい。戸塚が「すごーい!」と裏返った歓声をあげるのも無視して「で、ここからどうするの?」と、つっけんどんとも言っていいほどの無愛想な調子で聞いてきた。
「道玄坂沿いにあるシネコンなんだけど……、ちょっと聞いてみるね」
戸塚が「すいませーん……」と傍を通りかかった人に声をかけるが、戸塚の声が小さすぎるのか、なかなか捕まらない。武ちゃんが恥じも外聞も泣く「すいませぇーん!」と大きな声で叫ぶが、かえって逆効果らしく誰一人として見抜きもしない。通りすがりの人に声をかけて捕まえるというのがまた面倒な作業で、足音や気配を頼りに近づいてきたと思われる人に声をかけてみるが、声をかけるのは何となく恥ずかしいものがあり、捕まえるタイミングを逃したり、逆に明らかに聞こえているにもかかわらず無視されることも少なくない。
急に左手が引っ張られたと思うと、林が前に歩き出したようで、僕は慌てて林と一緒に歩き出した。すると、林は今まで聞いたことのないような丁寧かつはっきりとした口調で「すいません」
と言うと、「はい……」とちょっと困惑したような感じの若い男の人が応じてくれた。
「映画館を探しているのですが……」
と林が切り出すと、戸塚のほうに振り返り「聞いてよ」と振った。あとを引き取った戸塚は映画館の名前を言い、「どう行けばいいでしょうか」との質問に男の人は丁寧に教えてくれた。僕たちは4人そろって「ありがとうございました」とお礼を言い、スクランブル交差点に向かった。信号待ちのとき、僕たちの後ろにいた戸塚は林に向かって
「林くんって人捕まえるのうまいね」
と褒め称えると、林はいつものぶっきらぼうな調子で
「みんな他人のことなんてかまっちゃいられないから闇雲に声かけても無視されるだけだよ。さすがに真正面から言われたら断りきれないだろうけど……」
ややとげのある言い方に戸塚は「そっか」と苦笑していたが、僕としては何となく彼の言いたいことがわかるような気がして、「そういうものだよな」と共感させられるものがあった。
映画館に着き、各々チケット料金を支払うとボランティアグループのスタッフと思われる女の人から
「本日2時からの公演は副音声付で上映します。副音声をお聞きになるときは、お持ちいただいたFMラジオの周波数を……」
と説明してくれたので、僕はカバンの中から携帯ラジオを取り出した。すると林は「ラジオないな……」と呟いた。「忘れたの?」と戸塚が言うと「ああ」と別に何事もなかったかのように林はあっさりと答えた。
「オレ2つもってきたから貸すよ」
と僕はカバンからもう1つの携帯ラジオを取り出した。
「準備いいね」と戸塚が言ったので
「武ちゃんが忘れるような気がしたからもってきたんだ」と言うと
「失礼な! ちゃんとあるわい!!」
と武ちゃんは僕の右腕に持参した携帯ラジオを押し付けてきた。
「はい」と僕は林のほうに向かって携帯ラジオを差し出すと、彼は無言ですっと僕の手から抜き取った。別に言ってほしいわけじゃないけど、貸してあげるんだから「ありがとう」の一言くらい言ってもいいんじゃないのか?
座席は指定席ではないのでフロアに入ると戸塚と武ちゃんは手近な席に座ったみたいだったが、林は「階段登るぞ」と言いながら上のほうへと向かった。「どこ行くの……?」と戸塚の声が後ろから追いかけてきたが、どこに行くのか僕が聞きたい。
「ここが椅子」
と林が背もたれを掴ませてくれたので、僕は戸塚たちから数列離れたところに陣取ることになった。無愛想だからって、そこまで露骨に孤立することはないんじゃないのか……? 何となく周囲の様子に耳をそばだててみると、白杖をコツコツ突きながら歩いている人、音声時計で時刻を確認している人がちらほらいる。予想通り、今回の上映を楽しみにしている視覚障害者は少なくないようだ。
予定時間が過ぎ、携帯電話の電源は切ってくださいなどの注意事項を知らせるアナウンスに続き、近日公開予定の映画のコマーシャルが終わると、音量が一気にあがった。僕は慌ててイヤホンを耳に突っ込み、先ほど説明のあった周波数に合わせると、大学生くらいと思われる男の人が淡々とスクリーンに映し出されている情景の説明、登場人物の容姿、テロップなどを説明している。
「上着のポケットに手を突っ込みながら地下へと続く階段を降りる男。ふと何かに気づき、急に立ち止まると首を左右に振って周りの様子を伺う……」
戸塚の言うとおり情景描写を説明する人の他に、配役ごとに台詞を読み上げる人が複数いて、まるで生の日本語吹き替え映画を観ているような気分だ。本格的なサスペンス映画ともあって、僕はすっかりストーリーに引き込まれ、夢中で映画を楽しんだ。
30分くらい経った頃だろうか、急に左腕をツンツンと突つかれ、慌てて左のほうに顔を向けると「これ返す」と林が小声で呟き、僕の手の中に携帯ラジオを押し付けてきた。
(なんだこいつ?)
僕は少々林の態度に不快なものを感じたが、今は林にかまっている暇はない。受け取った携帯ラジオをポケットにねじ込み、僕は再びイヤホンから流れる生の副音声を頼りに映画を楽しんだ。
「ありがとぉーございましたぁー」
フロアを出たところで副音声をつけてくれたと思われるスタッフの人たちから挨拶され、僕たち4人もそろって「ありがとうございます」と返した。戸塚は立ち止まったままスタッフの人たちに向かって
「ホントに素敵でした! 副音声もわかりやすくてとっても楽しかったです」
と、まさに「満面の笑みを浮かべて」という形容がピッタリなほど喜びを声いっぱいに響かせながら言い、「またきてね」とのスタッフの言葉に「はいっ!」と元気よく応じていた。どうやら戸塚はすっかり副音声付映画が気に入ったらしい。
僕たちはそのまま同じビル内にある喫茶店に流れ込み、コーヒーだの紅茶だの飲みながら一服することにした。
「結構よかったな」
と僕はアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら誰にともなく呟いた。
「やっぱり映画館は音響設備が整っているから、自宅のテレビとは比べ物にならないくらい迫力あるよな」と武ちゃん。
「内容もよかったよね。まっさかあの人が……」
僕たち3人は先ほど観た映画について自分なりの分析や率直な感想などを話していたが、林は相変わらず何もしゃべらず、グラスの中の氷をカラカラとかき回しているだけだった。
「林くんはどうだった?」
だんまりを決め込んでいる林を見かねたのか、戸塚が会話に加わってもらおうとばかりに林に振った。林はズルズルと飲み干し
「映画は面白かった」とポツリと呟いた。
「面白かったよねー。台詞は全部字幕だから普通に観るだけだったら何がなんだかわからなかっただろうけど、副音声付だから充分映画の面白さを味わえたよねー」
戸塚は相変わらず満面の笑みを浮かべているような調子で話していたが、林が「オレ副音声は聞かなかった」との返答に「え?」と真顔に戻ったように小さな声をもらした。
「沢木くんから携帯ラジオ借りていたよね……?」
「借りたけど返した」
「なんで?」
「少しくらいなら離れてもスクリーン見えるし、単眼鏡使えば字幕読めるし……」
「すっごーい! 林くんってかなり視力あるんだね」
戸塚曰く、弱視でもほとんどの人が遠く離れた景色がぼやけて見えない、または見えたとしても現れてはすぐに消える字幕を追うことが難しいので、林みたいなケースはかなり珍しいとのこと。
「それに……」と林は小声で呟くように
「最初は副音声聞きながら映画観ていたけど、何となく違和感を覚えたんだ」
「違和感? なんだそれ」と武ちゃんがすかさず突っ込みを入れる。
「……例えば、ヒロインの台詞を読んでいる人の声は少し幼すぎて実際の女優のイメージとは違う感じがするし、黒幕の俳優はもっと渋い声の人が読んだほうがいいと思った。登場人物の説明も『清楚な顔つき』とか『クールなまなざし』みたいにスタッフの人の主観が入っていたし、情景描写も不十分な感じしたところあったし……」
「おっまえ捻くれてんなー」と武ちゃんがケタケタ笑いながら言う。
「そうだよぉー。俳優と声のイメージが合わないのは限られたスタッフの中で振り分けているんだからそういうことあるかもしれないし、主観が入るのもより私たちにイメージしやすくしている工夫なんだろうし、情景描写は台詞のない僅かな間に入れているんだから不十分になっちゃうのも仕方ないじゃない」と戸塚が反論する。
「でも、副音声がないと映画を楽しめない人にとっては、この副音声で映画のイメージが左右されるわけだろ。いくらイメージを膨らませるためだからって説明する人の主観が入ったら、映画を作った人の伝えたいこととは違ったものになるかもしれないだろ。……そもそも見た目を言葉に置き換えて表現することは難しいことなんだ」
珍しく林が熱を入れて話すのを見て、戸塚や武ちゃんは「厳しすぎる」とか「細かいなぁ」とはやしたてているが、僕は林の考えを軽視することができずにただ黙っていた。確かに映画を観ているとき、僕が抱いていたヒロインのイメージは20前後の女の子だったが、今思えばイヤホンの外から聞こえてくる生の台詞はそれよりもう少し年上だったかもしれないと思った。もちろん副音声をつけてくれる人たちは、僕たちにストーリー展開や目で見なければ伝わらないしぐさなどを説明することで、映画の面白さを表現しようとしているが、果たしてそれが映画を作った人の意図を正しく伝えているのか、ストーリーの流れだけを把握できれば充分かと聞かれたら、それはちょっと違うかもしれないと思う。副音声とはいえ、他の人が作品世界に手を加えることには変わりない。本来ならば映画を製作した段階で、監督なり演出者なりがその場面場面に相応しい副音声を最初からつければ林のような不満は解決できるのだろうと思う。林の言い方はとげとげしくてやや攻撃的なニュアンスが含まれているけど、考え方そのものは僕も賛成するところだ。僕自身、物事を斜めから見るようなややひねくれた部分があることは否めないから、もしかしたら僕と林の考え方は似ているのかもしれないなと、ちょっとだけ彼に親近感を覚えた。
「でもさぁ、そんなにこだわりがあるのなら林くんって映画好きなんだね」
と戸塚が明るい声音で話しかけると「まあね」と林はいつもの調子に戻ってぼそりと呟いた。
「そうなんだぁ、全然知らなかった。映画はよく観るほうなの?」
「まあね」
「じゃ……じゃあさ、先週公開されたばっかの……」
と武ちゃんの質問に林はしぶしぶと、でもしっかりとした口調で映画のあらすじについて話し始めたのを機に、僕たち4人は映画をはじめ好きなテレビ番組や音楽アーティストの話で楽しんだ。
帰り道、僕は林と一緒に渋谷駅目指して歩いていたが、突然林のほうから
「昼に言っていた……」
林のほうから話しかけてくるなんて初めてのことだったので「あん?」と間の抜けた返事をすると
「昼に言っていた商店街を買い物していた先輩って、もしかして理療科1年の安藤さんか?」
林の口から安藤さんの名前が出てきたので
「おまえ知ってるの?」
と僕は素っ頓狂な声をあげた。
「まあね」
「なんで知り合ったんだ」
「ちょっとね……」
あまり細かいことを話す気がなさそうなので、これ以上は聞かなかったが、ふと
「あの人も苦労してるよな」
と独り言のように呟いていたのを僕は聞き逃さなかった。
8
「……何言っているんだ、おまえ?」
僕は戸塚の顔をまじまじと見るようなつもりで彼女のほうを向いた。
「事件のにおいがするわね」
と戸塚は僕のそっけない一言には気も止めず、同じ言葉を繰り返した。
「ちょっと変なことがあったってだけじゃんかよ」
「それが怪しいんじゃない!」
戸塚はふざけるでもなく、まじめな調子で言い返してきた。
「風俗関係とか債権回収業者からってならわかるけど」
「あのねっ!」と僕の言葉をさえぎって、戸塚はやや強い調子で
「今はね、あの手この手を使っていろんな方法でお金巻き上げようとしている悪い奴がうようよいるの。風俗とか債権回収なんて古い手もう誰もひっかからないから、一見普通そうなものを装って騙そうとしているんじゃない」
「戸塚さぁ、おまえこの間の映画の影響受けすぎなんじゃないか?」
「わかるっ」と、戸塚はあっけらかんとした調子で
「私ああいうサスペンスとかミステリー物って好きなんだよねっ」
「おまえなぁ……」
僕は大げさなため息をひとつついた。
戸塚が勘違いしている原因は昨日の放課後のパソコン部での出来事だった。僕は前回と同様、安藤さんに表計算ソフトの使い方を教えることになっていたので、今回は別のシートに食費や光熱費など各項目の1年間の合計と平均を求める関数について教えた。
家計簿作成もほぼ完成し、一段落したところで安藤さんから唐突に
「あのさ、メールアドレスって変更できるの?」
と聞かれた。突然表計算ソフトとは全く関係のない質問に僕はきょとんとしてしまい
「……それって、プロバイダーから提供されているメールアドレスのことですか?」
「そうなんだけど、無理かな……」
「プロバイダーによっては自由にユーザー名の変更ができるところもあるので絶対に無理ということはありませんが、おそらく認証IDとかパスワードがないと変更手続きができないので、今すぐにはできないですね」
「そっかぁ……」と安藤さんはため息混じりに呟き
「そういえば設定したときにそんなのがあったな。IDとパスワードは契約書に書いてあるから誰かに見てもらわないとだめだな……」
「そうですね。お母さんがきたときにでも見てもらえばすぐに手続きはできますよ」
「いや、お袋は無理だよ。いまだに携帯電話も使えないくらいアナログな人だから……。何とかスキャナーで読み取ってみようかな」
大切なIDやパスワードは通常郵送されてくる契約書のみに記載されているが、当然僕たち視覚障害者は読むことができない。スキャナーを使っても正確に読み取ってくれる保証はないし、電話やメールで問い合わせをしても情報保護の観点から教えてくれない。他の人には知られたくない個人情報だけに、むやみやたらと誰かに読んでもらうわけにもいかないので、けっこうこのID・パスワードの管理には苦労させられる。
「どうしたんですか急に、メールアドレスを変更したいだなんて」
「うん……」と歯切れのよい安藤さんには珍しく、少々口篭もりながら
「……実は、変なメールがくるようになっちゃったんだよね……」
「……変なメールって……、出会い系とかですか?」
「いや、そうじゃなくてさ……。うまく説明できないんだけど、宣伝メールみたいなものなんだよね」
安藤さんはどうにか話の内容が伝わるよう、一つ一つの言葉を選ぶように話していたが、僕にはどうも話の筋が見えてこない。
「一昨日の日曜日なんだけど、メールを受信してみたら1通届いていたんだ。確認したら、題名が『ライトマーケットのお買い得情報』と書いてあって、差出人がなかったんだよ。メールアドレスにも心当たりないし……」
「で、どんな内容なんですか……?」
「それがさ、本文読んでみたら『果汁100パーセントオレンジジュース1リットル入り100円』とか『無糖ヨーグルト500ミリリットル入り118円』みたいに、商品名と価格がずらずらっと書かれているんだ」
ライトマーケットとは南関東を中心にチェーン展開しているスーパーマーケットで、主に食料品や日用雑貨を取り扱っている。我が家の近くにも1店舗あり、母はいつもそこで買い物をしているので僕にとってもなじみのあるお店だ。
「それって単なるライトマーケットの宣伝メールなんじゃないですか」
と僕は軽い調子で安藤さんに返したが
「ちゃんとした宣伝メールならそれなりの体裁を整えていると思うんだ。でも、そのメールはレイアウトはめちゃくちゃだし時々誤字もあるから違うと思うよ……」
僕がどう答えたものかと戸惑っていると、安藤さんは続けて
「それだけならただの変なメールとして削除しておしまいなんだけど、その日たまたまシャンプーが切れていたことを思い出して、家の近くのライトマーケットに買いに行ったんだ。そこで詰め替え用のシャンプーだけを買ったら何となくいつもより安いような気がしたから、もしかしてと思って例の変なメールを確認してみると、僕が買った詰め替え用のシャンプーが安売りしているってことがちゃんと書いてあったんだよ」
「……なるほど」
「で、昨日の月曜日にも同じメールがきてたんだ。半信半疑だったけど、今回は一応全部読んで、気になる商品を覚えて買いに行ったら、メールのとおりいつもより安く買うことができたんだよ」
僕はちょっと首を捻りながら
「確かにちょっと変ですけど……、内容はいたって普通ですよね」
「まあ……そうなんだけどね。単にお買い得情報が書いてあるってだけだから、これといって取り立てて不思議がることではないんだけど……、でもちょっと気持ち悪いんだよね」
「そうですね」と僕は愛想笑いを浮かべ、「あまり気にしないほうがいいですよ」とこの話を打ち切った。
そして今朝、バスが渋滞に巻き込まれていつもより遅い登校になった戸塚と通学路でばったり出会い、一緒に学校に向かっている途中で
「そういえば、先週会った安藤さんは元気? 昨日部活で会ったんでしょ」
と唐突に聞かれたので、「そういえば安藤さんこんなこと言ってたな……」と話をしたところ、突然「事件のにおいがする」と言い出したのだ。
「別に怪しい内容じゃないだろ、ただ安藤さんの家の近くのスーパーのお買い得情報が書いてあるだけじゃん」と僕は突き放すような調子で戸塚に言うと、彼女は急にピタリと立ち止まった。僕は戸塚の右腕の肘のあたりに捕まって一緒に歩いていたので、前につんのめり一瞬バランスを崩したが、すぐに体勢を戻し「なんだよ!」と彼女をキッと睨みつけた。
「じゃあ聞くけど」と戸塚も負けずに声色を強めて僕に挑戦するような態度で詰め寄ってきた。
「メールを出した人はなぜ安藤さんがいつもライトマーケットで買い物しているって知っているの? 一見どうでもいい内容かもしれないけど、少なくても広告を読むことができない安藤さんにとっては貴重な情報になるわけでしょ、なんでそういうこと知っているの? そのメールが仮に純粋な親切心から情報提供されたものならなぜ差出人がないの?」
矢継ぎ早に出される戸塚の疑問を僕は黙って聞いていたが、言われれば不振な点は確かに多いと思う。
「でもさ、確かに怪しい点はあるけど、安藤さんに何か不利益があるわけじゃないじゃん。そう取り立てて怪しむことも……」
「今は」と戸塚は僕の言葉を途中でさえぎった。
「単にお買い得情報を提供しているだけかもしれない。でも、考え方によっては、最初甘い蜜を吸わせて安心させておいて、後からとんでもないこと吹っかけられるかもしれないじゃない……」
「……とんでもないことって?」
「例えば情報提供することで恩着せておいて、ある日突然『相談があります。実は今ちょっと大きなお金が必要になりまして……』なんて借り入れのお願いしだすとか。安藤さん優しそうだから、今まで情報提供してもらったって恩義も感じているかもしれないし、ついつい乗っちゃうかもしれないでしょ」
「あのなぁ」僕は完全に呆れた。
「それは悪意をもっている人がいるって前提での話だろ。そこまで話広げたら、それはもはや戸塚の妄想だ」
「悪意があるかないかは今の時点でははっきりしていないじゃない。悪意があるってわかったときには遅いかもしれないでしょ。もしものことを考えて手遅れにならないうちに今からこのメールの差出人とか安藤さんに送った理由とかを調べて相手の意図を突き止めたほうがいいじゃない」
「……調べるって……、どうやって?」
「そうねえ」と彼女はちょっと思案するように数秒間沈黙したあと
「まずは問題のメールを見る必要があるわね」
と言い出した。
「沢木くんの気が進まないのなら私一人でやるから」
とも言った。3年間の付き合いで僕なりに戸塚直子という人間を理解しているつもりだが、これと決めたら一直線に突っ走る、比喩的な意味で周囲が見えなくなるほど無鉄砲なところがある彼女のこと、ここで放っておいたらほんの数日前たまたま出会っただけの間柄に過ぎない安藤さんのところに押しかけて、今僕に話してくれた根も葉もない推論を披露したあげく、メールを見せてくれとか何とか言い出すことは容易に想像できる。そんなことされたらきっと安藤さんは面食らうだろうし、もしかしたら彼女の友達ということで、僕との関係にも何か影響を及ぼすかもしれない。それに戸塚は少々感情的になって物事を冷静に考えることができなくなる欠点はあるが、基本的には純粋で他人にもよく気を使ういい奴なので、例え安藤さん一人だけとはいえ変な誤解を与えたくない。
「……そこまでいうならオレも行くよ。安藤さんのところへ行くんなら戸塚一人で行くよりもオレがいたほうが話が進みやすいだろ」
と僕がしぶしぶ言うと、戸塚は明るい声音で「そうだよね!」と嬉しそうに頷き
「じゃ、今日の昼休みにでも安藤さんのところへ行こうよ」
と言い、「面白くなってきた」と弾んだ声でつけたした。「事件のにおいがする」とか何とか深刻なこと言っていたくせに、どことなく楽しそうなのは僕の気のせいだろうか。
給食を食べ終え、僕と戸塚は安藤さんのいる理療科1年生教室に向かった。高等部理療科と保健理療科は様々な事情で視力が落ちてしまい今までの仕事を続けるのが難しくなった人も通っているので、学生の中には僕の両親と同じくらいの年代の人も少なくない。いつも以上に礼儀を弁えたつもりでノックし
「高等部普通科1年の沢木と申しますが、安藤さんはいらっしゃいますでしょうか?」
と呼びかけると「ああ、こんにちは」と安藤さんが応じてくれた。理療科1年生もすっかり給食を食べ終えたみたいで、安藤さんの他に数名の人がおしゃべりしながら食後の休憩を楽しんでいる様子が伺える。安藤さんがゆっくりとドアのほうに向かってくると
「こんにちは。先日商店街でお会いしました戸塚です」
と戸塚が安藤さんに挨拶した。
「……ああ、この間の」
と安藤さんはちょっと意外そうな様子だったがすぐに気を取り直し
「どうしたの2人して」と気さくに話しかけてきた。
「昨日話してくれた例の変なメールのことなんですけど……」
と僕が話を切り出すと、安藤さんは「ああ」と気の抜けたような返事をし
「あれね、昨日もうちに帰ってメールを受信したら、またきていたんだよ」
とそっけなく言った。
「それじゃ、3日連続で送られてきたことになりますね!」
と戸塚がやや興奮気味に言い出したので、僕は彼女を制するつもりで無理やり口を挟んだ。
「実は昨日安藤さんから聞いた変なメールの話を戸塚にしたんです。彼女が言うには、差出人が不明でメールを送った人の意図がわからないなど、気になる点がいくつかあるって興味もったみたいなんです。戸塚に言われて僕も何となく気になってきたので、あつかましいお願いではありますが、もしよろしければその問題のメールを見せてもらいたいんですけど……」
安藤さんは僕の突然の、しかもやや強引な要望にもかかわらず「いいよ」と笑いながら了承してくれた。
「……できればすぐに見たいんですけど、安藤さんのご都合さえよろしければ今日の夕方あたりにおじゃましてもよろしいでしょうか」
一応遠慮がちに戸塚は申し出たが、明らかに「いいよ」と了承してくれることを前提にしたお願いだ。期待どおり「じゃ、下校の準備をして4時に昇降口で待ち合わせしようか」ということで話はまとまった。
理療科1年生教室を出てから僕は戸塚に
「なあ、メール見たら何かわかるのか?」との質問に
「わからない」
とあっけらかんと答えた。「おまえな!」と突っ込みを入れたが彼女は怯まず
「やっぱりこういうことは実物を見ないことには始まらないからね。何も手がかりが見つからなかったら、また別の角度から考えるわよ」
と言った。僕は変な遊びに巻き込まれてしまったのではないかとの後悔を感じ初めていた。
9
1週間ぶりに安藤さんの部屋を訪れた。
「女の子には一番相応しくないところだけど」
と安藤さんは笑いながら先週と同じように窓を開け放した。僕たちは居室の入り口の前に立っていたが
「でも、きちんと整理整頓されているから、とってもきれいです。掃除もちゃんと行き届いているし」
と戸塚は言った。安藤さんは少々照れくさそうに
「ありがとう。家具らしい家具なんてほとんどないし、そんなに広い部屋じゃないから掃除もしやすいんだ」
「なんだかこの部屋、シンプルで誠実そうな安藤さんそのものみたいで、とてもいい雰囲気ですよ」
安藤さんは「そうかな」と今度は本当に照れたみたいだった。
「取りあえずまずはパソコン立ち上げていただけますか」
と先を促すために僕が言うと「そうだね」と安藤さんは窓を閉めていそいそとパソコンに電源を入れ、僕たちが居室に入ると、安藤さんはすれ違いにキッチンのほうへと消えた。
「おかまいなく」
と僕たち2人が声をそろえて言うと「大したものじゃないから」との返事があった。
僕たちが折りたたみテーブルの前に座っていると、安藤さんがキッチンから戻ってきた。戸塚はスッと立ち上がり「私が運びます」とお盆を受け取りテーブルにポットやティーカップを並べ始めた。
「メール見ていいんだよ」
と安藤さんは言うが、いくら了承してもらったとはいえ、さすがに他の人のメールソフトを勝手に操作して内容を読むのは失礼なので
「安藤さんが操作してくれますか。僕たち横で内容を確認させていただきますから」
と言うと安藤さんはパソコンデスクの前に座った。戸塚は画面が見えやすいように隣に立ち、僕は聞こえればいいので安藤さんの真後ろについた。
「これなんだよ」
無言でキーを打っていた安藤さんはおもむろにパソコンのボリュームを上げた。聞いてみると、件名が「ライトマーケットのお買い得情報」とあり、差出人名のところは未記入のため大手検索エンジンのメールアドレスが表示されている。日時を確認したところ、日曜日の11時33分であった。そして本文は昨日の話のとおり、日曜日のお買い得情報と思われる商品名と価格がずらずらと並べられており、メールの末尾にはフリーメールの広告が表示されて終わっている。
「すいません」と戸塚がディスプレイに思い切り顔を近づけながら
「ちょっと見えにくいので文字を拡大していただけませんか……」
と言った。安藤さんのパソコンに入っているメールソフトは視覚障害者が使うことを前提に作られているので、弱視の人にも読みやすいよう拡大機能がついている。僕が拡大の方法について説明し、安藤さんが操作したところ文字が拡大表示されたらしく、戸塚は「ふむふむ」とディスプレイに表示されている文字を一生懸命目で追っていた。
「これって……」と戸塚が何か不振な点を見つけたらしく、探るような調子で
「本文はひらがなとカタカナと数字だけで漢字が全く使われていませんね」
と指摘した。僕はただ聞いているだけだったので全く気づかなかったが、安藤さんはすでに知っていたらしく
「そうなんだよ。ただ流して聞いているだけじゃわからないけど、こうやって……」
と安藤さんは右カーソルキーを押して一文字ずつ読ませると、戸塚の言うとおり本来なら「無洗米宮城産ササニシキ5キロ1880円、冷凍食品全品4割引……」と表記すべきところを「むせんまいみやぎさんササニシキ5キロ1880えん、れいとうしょくひんぜんぴん4わりびき……」と書かれているのがわかった。ちなみにひらがなとカタカナと区切りに使われている読点は全角文字、数字は半角文字だ。続けて月曜日・火曜日に届いたメールも読ませてもらったが、2つとも日曜日のメールと比べて商品が異なるだけでこれといった手がかりは見つからなかった。
……いや、ひとつだけ見つかった。
「すいません、今日はまだメールチェックしてないですよね」
と僕は安藤さんに尋ねた。
「……まだだけど」
「じゃ、今受信してくれますか。もしかしたら……」
安藤さんは最後まで聞かず、すぐにメールチェックしてくれた。数秒後、1通のメールが届いている旨のメッセージがパソコンから聞こえてきた。僕たち3人は押し黙ったまま、息を呑んで今届いたメールを確認すると、案の定これまでと同様「ライトマーケットのお買い得情報」という題名で、差出人はなく、なおかつ本日の特売品と思われる商品名と価格がひらがなとカタカナと数字だけで書かれていた。
「なるほどね」と僕が呟くと
「何かわかった?」
と戸塚が興味津々といった感じで聞いてきた。
「いや、大したことじゃないんだけどメールの日時がね……」
「日時?」
安藤さんと戸塚の声が重なった。
「相手がメールを送信した時間なんだけど、日曜日のメールには11時33分となっていたけど、月曜日が13時10分、火曜日が13時14分、そして今日が13時13分なんだよね」
「そっか。平日については送信した時間がほぼ同じって共通点があるわね」
「うん、でもそれだけだな……」
「他に何かないかなぁ……」
と戸塚はメールの内容を読みながら何か思案するようにパソコンデスクを指でコツコツと叩きながら考えていた。数秒後、コツコツという音が止まったかと思うと「すいません……」と安藤さんに向かって
「もう1度昨日のメール見せていただけませんか?」
と言い、安藤さんは再度昨日のメールを表示した。「何か気づいたの?」との僕の問いかけにも「うん……」と言うだけで彼女は一生懸命メールの内容を読んでいる。すると「やっぱり……」と呟き。
「このメールにはビールが載ってない」
と言い出した。僕が「なにそれ?」と突っ込むと
「うちの近所にもライトマーケットがあって、お母さんはいつもそこで買い物しているの。で、うちのお父さんは毎晩お酒飲んでて、いつもは値段が安い発泡酒を飲んでいるんだけど、昨日に限ってはお父さんビール飲んでいたの。それはね、ライトマーケットで昨日ビールが安売りしていたからなんだけど、このメールにはお買い得情報としてビールが入ってない。ちょっと不思議じゃない?」
と戸塚が言うと、安藤さんははっとしたように
「そっか。松見店はアルコール類を取り扱ってないんだよ。だから……」
「戸塚の話を踏まえて考えると、安藤さんが利用しているライトマーケットの広告には初めからビールがお買い得情報として載ってなかったと考えられますよね」
「じゃ、僕が使っているライトマーケットが松見店ってことを知っているんだな……」
僕はそれ以上何も言えずに黙ってしまった。戸塚は何か考え込むように時折「うーん」と唸ったり、安藤さんは途方にくれたように頭をポリポリとかいている。考えても仕方ないと踏んだのか、安藤さんは
「……とにかく、これ以上メールを見ても新しい発見はなさそうだから、お茶にでもしようか」
と言ってくれたので、パソコンの電源を落としてから僕たち3人はテーブルの前に座った。
テーブルに着くなり「私がやります」と戸塚は紅茶のポットを手に取り、それぞれのカップに注いでくれた。
「それにしても……」と僕はお茶請けに出されたチョコレートの包み紙をむきながら
「スーパーの広告なんて全然興味ないから意識してなかったんですけど、改めて読んでみるとものすごい情報量ですよね。商品名と価格だけでも2・30種類くらいありそうだし……。それをいちいちメールにするのはちょっと面倒ですよね」
安藤さんと戸塚は「うんうん」と頷いた。
「だからひらがなとカタカナばかりなのかな……」と安藤さん。
「いちいち変換して正しい漢字選んでいたら面倒だし時間もかかりますもんね。多分そういう意味でひらがなとカタカナだけになったんだと思いますよ」と戸塚。
「じゃあさ、考え方によっては……」と安藤さんは何か思いついたように、やや興奮した調子で
「僕が視覚障害者ってことを知っている人が送っているってことだよね」
「どういうことですか?」と戸塚が問いかけると
「ひらがなとカタカナばかりのメールって普通に目で読んだんじゃかなり読みにくいと思うんだ。でも、音声でメールを読んでいる視覚障害者なら全く問題ないじゃない……」
「ああー、なるほど」と戸塚は頷いた。
「僕も相手は安藤さんが視覚障害者であることは知っていると思います。ひらがなとカタカナのメールはおそらく入力する手間を省いたってのが大きな理由だと思うんですけど、それ以前にメールの内容がスーパーマーケットのお買い得情報なんだから、見えている人は織り込みチラシなんかを見れば済むじゃないですか。わざわざメールで送っていることを考えれば、安藤さんが視覚障害者ってことを知っているという可能性は高いと思いますよ」
と僕が言うと、安藤さんは独り言のように「いったい誰が何のために……」と呟いた。
「いくつかお聞きしたいことがあるのですが……」
紅茶のカップをテーブルに置きながら、戸塚が落ち着き払った様子で切り出した。
「まず、安藤さんのメルアドを知っている人は……」
「そうだな……。インターネットの契約を済ませてメールアドレスの設定をしてからまだ1ヶ月も経っていないからほとんどの人が知らないはずなんだ。例えば、前の高校や職場、訓練施設で親しくなった人達には教えたし、今の学校のクラスメイトの何人かとはメルアド交換したかな。それでもせいぜい10数人ってところだよ」
「それと安藤さんがライトマーケット松見店でお買い物しているってことを知っている人は……」
「うーん……。そんなことほとんどの人が知らないんじゃないかな……。クラスメイトには昼休みなんかの雑談のときには話したかもしれないけど……」
「ということは、この2つの条件を満たしているのはクラスメイトの方たちってことですね」
「戸塚さ、その考え方だとちょっと辻褄が合わなくなるよ」
と僕は口を挟んだ。
「だってさ、もし安藤さんのクラスメイトの誰かだとしたら、そもそもなんでこんな回りくどいことするんだって疑問が出てこない?」
「そうだよね……。なんでこんなメールをわざわざ安藤さんのところに送ってきたのかが一番大きな謎だよね……」
戸塚は「わからないな」と言いながらふうとため息をついた。
「それにさ、なんで内容がお買い得情報なんだろうね……」
と安藤さんが呟く。考えれば考えるほど不可解な点ばかりが出てくる。僕たちはしばらくの間黙ったまま紅茶やお菓子を味わっていたが、ふいに安藤さんが「そうそう」と何かを思い出したように
「僕がライトマーケットで買い物していることを知っている人、もう一人思い出したよ」
と言い出したので、僕と戸塚は安藤さんに注目した。
「普通科に林くんって男の子いない?」
「えっ!」僕と戸塚は意外な名前に2人そろって素っ頓狂な声をあげた。
「どうして林のこと知っているんですか?」
「林くんって私たちと同じクラスなんですよ」
僕と戸塚がまくし立てたせいで安藤さんは少々面食らった様子だったが、少し間をおいてからゆっくりと記憶を呼び起こすように話し始めた。
「僕が一人で買い物に出かけたときのことなんだけど、ライトマーケットの前まで行ったんだけどお店の出入り口がわからなくてうろうろしてたんだ。そしたら『入り口を探しているんですか?』って声かけてくれた人がいて、その人に誘導をお願いしたんだ。僕はいつもサービスカウンターで店員さんに案内をお願いしているからそこまででいいと言ったんだけど『時間あるから、もしよろしければお買い物手伝いますよ』って言ってくれてね。お言葉に甘えてそのまま買い物も手伝ってもらったんだ。商品や価格をきちんと読んでくれるから、僕はてっきり晴眼者だと思っていたら『僕も盲特別支援学校の生徒なんです』って言われてすごく驚いた。それでお互いに自己紹介して知り合ったんだけど……」
林の意外な一面に僕はぽかんとしてしまった。沈黙しているところを見ると多分戸塚も僕と同じようにぽかんとしていることだろう。
「林に会ったのはいつのことなんですか?」と僕が聞くと
「……先週の金曜日……そうそう先週の金曜日だった」
「何時頃ですか?」
「夕方の4時30分前後だったかな、5時にはなっていなかったはず」
林は帰宅部なので授業が終わったらさっさと帰ってしまうはず。そんな時間まで学校の傍にいるのは不自然だ。それに……
「確かライトマーケット松見店って街道沿いにありましたよね。だとしたら林くんの下校ルートとは真反対になるんですよ。偶然とはいえなんでそんなところにいたんだろう……」
僕も戸塚と同じ疑問を抱いていた。僕たちの通う学校はちょうどJR大口駅と東横線妙蓮寺駅の中間にあり、使っている路線によって下校ルートが変わる。ちなみにうちのクラスは美奈ちゃんが東横線側、その他の7人は林も含めてJR側の路線を利用しているが、ライトマーケット松見店があるのは東横線側なので、戸塚の言うとおり彼はいつもの下校ルートとは反対側にいたことになる。
「だったらぁ!」と戸塚は急に大きな声を出し
「このメールって林くんが書いたんじゃない」と言い出した。
「林くんって一見無口でいつもブスっとしているけど、何となく根は優しい人のような気がするの。ただ、それを表現するのが下手なだけで……」
「なるほど。それで戸塚の推理としては……」
「なぜその時間にライトマーケットの傍にいたのかはわからないけど、林くんは偶然安藤さんと出会って、お買い物のお手伝いをすることでいつもここを利用していることを知る。で、彼は彼なりに安藤さんの手助けになることをしたいと考え、広告の内容をメールで教えることによって間接的に助けてあげることを思いついた……。メールの送信時間が13時過ぎなら、昼休みは13時15分までだから、コンピュータ室のパソコン使えば時間的にも辻褄が合いそうな気がするんだけど……」
「なるほど」と僕は頷いた。
「林が根は優しくて表現するのが下手というのは普段のあいつの様子と今の安藤さんの話を合わせればそう思えなくもない。でも、ひとつ大きな問題がある」と僕は安藤さんのほうに向き
「安藤さんは林に自分のメールアドレスを教えましたか?」
「ないない」即答だった。
「沢木くんが林くんに教えたんじゃない?」と戸塚が言ったが
「ない」と即座に断言した。
「だってオレ安藤さんのメールアドレス知らないもん」
安藤さんはアハハと笑いながら
「そうだったね。いい機会だからアドレス交換しよっか。僕もパソコンのことで困ったらいつでも連絡できるし」
「あ、それなら私にも教えてください。私もつい最近やっと自分専用のパソコンもらえたばかりなんです」
と戸塚が言った。僕は父のお下がりを2年前にもらったので、中2の頃からマイパソコンを使っているし、当時から自分だけのメールアドレスももっている。僕と戸塚は安藤さんからメールアドレスを教えてもらい、僕たち2人のメールアドレスは今夜にでも安藤さん宛にメールを送るのでそれをアドレス帳に登録してとお願いした。
話がそれたので僕は本論に戻すため
「今の段階で整理すると、まずメールは今週の日曜日から送られ、今日まで毎日1通ずつ届いている。時間帯は日曜日を除いていつも13時過ぎに送信されている。メールは誰でも取得できるフリーのメールアドレスを使い、内容はひらがなとカタカナと数字だけを使っている……。ここから想像できることは、送信した人は何かしらの方法でライトマーケット松見店のお買い得情報を手に入れ、毎日13時前後に安藤さんのパソコンに送信している。そして送信者は少なくても安藤さんが視覚障害者であること、ライトマーケット松見店を利用していること、安藤さんのメールアドレスを知っている人ということになる」
戸塚と安藤さんはただ黙って僕の話を聞いている。僕は覚めた紅茶を一口飲んで喉を潤し
「そして不明な点は、メールアドレスも含めてなぜ安藤さんのことをよく知っているのか。それは近しい人なのか、そうでないのか。どうやってライトマーケット松見店のお買い得情報を手に入れているのか。なぜ名乗らないのか。そしてなぜこんなことをするのか……」
ここまで言うと僕はすっかり冷えてしまった紅茶を一気に飲み干した。話を整理して冷静に考えると、正直言って不可解なことは多いが、特に取り立てて考える問題でもないような気がしていることは否めない。果たして3人が頭を寄せ合って考える問題なのだろうか……。
「……ごめんなさい。急に変なこと言い出して、おうちにまで押しかけてメール見せろとか言っちゃって……」
戸塚が小さく呟いた。多分安藤さんへの謝罪のつもりなんだろう。安藤さんは慌ててその場を取り繕うように「いいんだよ、全然気にしなくって」と言ってくれたが、戸塚はぼそぼそと
「沢木くんから話を聞いたとき、私は悪意のある人が安藤さんを騙そうとして仕掛けたものだと直感的に思ったの。でも、実際にメール見たらそんな悪意のかけらなんてこれっぽっちも感じなかった。むしろ、何ていうのかな、不器用な親切心みたいなものを感じちゃって、そしたらなんだかわからなくなっちゃって……」
「最初からそんな深い意味なんてなかったんだよ」
と僕が言うと戸塚は急にいきり立って
「ううん、それは違うと思う!」
と言い出した。僕はちょっと向きになって
「だったら何なんだよ! 悪意があるとか不器用な親切心とか、それは全部戸塚が勝手に想像したことじゃんか。送った人は何かしらの意味なり理由なりがあってしていることかもしれないけど、そもそも第3者のオレたちが探りまわることじゃないし、わかったところで何になるってもんでもなさそうだろ」
戸塚はちょっと泣きそうなくらいに弱気なトーンになって
「そうなんだけど、どうも私には単なる気まぐれとか思いつきでやっているようには思えないんだよね。なんか本当は直接助けてあげたいんだけど、何かしらの事情でそれができなくて、こういう形になっちゃったみたいな。……ごめん、これも私の勝手な想像だね」
「まあまあ」
やや険悪になりかけていた空気を安藤さんが取り持つように話し出し
「どちらにしても今のところはこれ以上の発見はなさそうだから、一旦お開きにしようか」
「そうですね」
僕と戸塚は同時に言った。
「そうそう、僕これからライトマーケットに買い物に行くんだ。よかったら一緒に行ってみない? お店に行けば沢木くんと戸塚さんなら何か気がつくことがあるかもしれないし」
「それなら私がお手伝いします。林くんみたいに視力よくないけど、時々お母さんのお買い物手伝っているから大丈夫だと思いますよ」
と戸塚が言うと「じゃ、お願いしようかな」と安藤さんは空になったカップをお盆に乗せ立ち上がった。
10
安藤さんがドアに鍵をかけるのを待っていると「あら」と声がした。
「お友達?」
物腰の柔らかそうな声の持ち主で、創造するに「おばさん」と言うにはちょっと年上な感じだが、「おばあさん」よりはずっと若いと思われる女性が安藤さんに話しかけてきた。
「あ、こんにちは山下さん」
と安藤さんはいつもの朗らかな調子で話しかけてきた女性に挨拶し
「この2人は同じ学校の後輩で、今日はちょっと用事があってうちにきてもらったんですよ」
「まぁー、そうなの」
山下さんはまるで甥っ子にでもするような親しげでやや大きめな声で答え、「こんにちは」と僕たちに向かって挨拶してきた。
「こんにちは。安藤さんの後輩で戸塚と申します」
「……沢木です」
戸塚は愛想よく、僕はギクシャクしながらそれぞれ名乗った。初対面だろうと何だろうと誰にでもすぐフレンドリーに接することができる戸塚のこういう態度、正直人付き合いの下手な僕は見習いたいと思っているが、こればっかりはどうしようもない個人の性格の差なんだろうなとやや諦めているところがある。
「これからどこかにお出かけ?」
「ええ、沢木くんと戸塚さんと一緒にライトマーケットまで」
「あら大丈夫? 私も一緒についてってあげようか?」
「いや大丈夫です。僕は行き慣れているし、2人ともしっかりしてますから……」
山下さんが本気で心配しているような低いトーンで言ってきたので、安藤さんはすかさず丁寧にお断りした。
「でもね、お隣同士なんだから困ったときはいつでも遠慮なく声かけてね。目が見えなくて一人暮らしなんて大変でしょう」
「いえ、そんな大変なことはないですよ。ここに引っ越してきてから2ヶ月くらい経つんですけど、一人暮らしもかなり慣れましたし……」
そのとき、どこからともなく電子音が流れてきた。僕はいつもの癖で反射的にカバンに手を伸ばしかけたが、よく聞けば自分の携帯電話の着信音とは違うことに気づいた。
「ごめんね、今の私なの」
と山下さんはガサゴソと探ったかと思うと携帯電話を確認したらしく
「孫娘の写真なの」
と嬉しそうに言った。
「お孫さんいらっしゃるんですか?」
戸塚が興味津々といった感じで尋ねると
「そうなの。私の一人娘が東京にいるんだけど、この1月に3人目の子どもが生まれてね。それが初めての女の子だったのよ」
「へえー、それはかわいいでしょうね」と戸塚が笑顔満面といった感じで言うと
「そりゃあもちろんよ」
多分「とろけそうな笑顔」とは今の山下さんの様子を表現するのに相応しい言葉なのだろう。感情を込めて自信たっぷりに言い切るところなんか、もうかわいくてかわいくて仕方ないというオーラが体中から溢れているのを感じる。
「もともと私はこの近くに住んでいたんだけど、娘が結婚したり主人が亡くなったりして一人になっちゃってね。いろいろ考えたんだけど、結局住んでいたおうちを処分して今はここでひっそりと暮らしているの。結婚した娘は葛飾のほうだからなかなか会いに行けないんだけど、今は便利なものができたから、こうやって毎日孫娘の写真をメールで送ってもらっているのよ」
携帯電話が一般的になってから10年くらい経つのだから、山下さんくらいの年代の人がもっていても全然おかしくないのだが、写真付きメールを日常的に使いこなしているところを目の当たりにするとちょっと意外というか、何となくミスマッチなものを感じてしまう。
「……ごめんなさい、僕たちそろそろ行かなければならないので……」
適当な頃合を見て安藤さんが話を切り上げてくれた。このまま立ち話をしていたらきっと暗くなるまで孫娘の自慢話を聞かされるところだったろう。
安藤さんは戸塚の右腕に捕まり、僕は戸塚の左肩に捕まって真後ろにつき、徒歩数分のところにあるライトマーケット松見店目指して歩き出した。
「親切そうな人でしたね」と戸塚が言うと
「ああ」と安藤さんはぼそりと言い
「確かに親切な人だよ。僕のこと見かけると、いつもああやって声かけてくれるんだ。……でも、いくら親切心があっても実際はそれだけじゃ何の役にも立たないからね……」
安藤さんらしからぬちょっととげのある発言に驚いていると、戸塚も似たような感想を抱いたらしく
「ちょっと厳しい意見ですね」
と言うと、安藤さんは苦笑しながら
「この立場になってたまに感じるんだけど、親切な人って本当に僕のことを助けたいから声かけたり手を差し伸べたりするんじゃなくて、人から感謝されたいがためにやっている人もいるんだなって思うことがあるよ」
「それは……」と戸塚。
「うまくは言えないけど、僕が望んでいることよりも助けてくれる人の気持ちとか都合ばかり優先されることがあって、なかなか僕が望んだ結果に繋がらないことがあるんだよね」
「ありますよね!」すかさず僕は同調した。
「時々『どこ行くんですか?』って声かけられることがあるんですけど、『……に行きたいんですけどどう行けばいいでしょうか?』って言うと『ええっ……そこはわからないな……』なんて言われて結局案内してくれないことがあるんですよね。僕がどこに行くのかなんてわからないはずなのに、そういう人って予めこちらがどう答えるか勝手に想像しているようなところがあるから、予想外の答えが返ってくると面食らったようなそぶりするんですよね」
安藤さんはしみじみと「そうだよね」とため息にも似たような声で言い
「利己的な人が多いよね。……それに比べたら、例のメールのほうが不信なところは多いけど、ああいうささやかな援助のほうがよけいな気を使わなくて済むし助かるんだよね……」
謎が多いだけにあのメールが「ささやかな援助」に当たるのかはわからないけど、もしそうだとしたら変に恩着せがましくされるよりもずっとさりげないし、援助を受けるこちらとしてもよけいな気を使わずに済む方法かもしれないと思った。そう仮定すると、あれは安藤さんに対する影ながらのサポートって意味も出てくるのかな……。
ライトマーケットに行ってみたが、これといった発見はなかった。サービスカウンターで店員さんを捕まえ、念のため本日のお買い得情報をメールで提供しているかと尋ねたが、そのようなサービスはしていないとのこと。特売商品は店舗によって若干内容が異なるので、前日までに各店舗が独自の広告を作成し、店舗近辺の住宅を対象に新聞の折り込みチラシとして提供する他は、店内の掲示とサービスカウンターに平積みするだけと言われた。ついでにホームページにお買い得情報を掲載しているかと質問したが、それもやっていないということだった。
結局これといった成果はなく、戸塚のサポートで安藤さんのお買い物を済ませて店を出た。安藤さんの自宅の前で別れて、僕と戸塚はお互い黙ったまま通学路を駅のほうに向かって歩いた。
「あのおばさん……」
戸塚がふいに呟いたので僕は「ん?」と聞き返した。
「……山下さんっていったっけ。あの人なのかな……」
「メールを送った人ってことか?」
「うん……」と戸塚はやや自信なさげな口調で言った。
「山下さん、安藤さんのこととても気にかけていたからもしかしてって思って。それに携帯電話だってちゃんと使いこなしているくらいだから、パソコンくらいもっていても不思議じゃないなって……」
「会ったばかりだからなんとも言えないけど、山下さんはどっちかといえばメールで教えるような回りくどいことするよりも、もっとストレートな方法でやろうとするんじゃないのか? オレはそんな気がするぞ」
僕の意見に対してあまり賛成ではないような戸塚は、もごもごとなにか口の中で言葉を転がしていたが
「ほら、安藤さんかなり遠慮していたじゃない。いつも声かけしているけど、なかなか助けてあげる機会がないから、ああいう方法で助けてあげようと……」
「そうなのかなぁ……」
確かに山下さんならメールアドレスの件を除けば安藤さんのことはよく知っているし、近所なんだから同じライトマーケット松見店のチラシだって簡単に手に入る。しかし、なぜか引っかかるものがある。正直最初はどうでもいいと思っていたメール事件だが、メールそのものを見て僕なりに考えをめぐらせた結果、「誰が」ということよりも、「なぜ」こんなメールを送ったのかという動機を知りたいと思い始めていた。取りあえず明日林に探りを入れてみるかと思いながら、僕は黄色い点字ブロックの上を歩いた。
11
林は登校すると、一人で机の前に座ってぼーっとしていることが多い。朝教室に入ってきたところを見計らって安藤さんのことを聞いてみようと思ったのだが、今日に限って登校するや否や、カバンだけ机に置いてどこかに出かけてしまうし、2時間目と3時間目の間の15分休みにもどこかに行ってしまった。
(意外と捕まえにくい奴だな)
と思ったが、別に急ぐようなことでもないので給食を食べ終えた昼休みにでも捕まえようと考えた。
昼休み、またもや林がどこかに出かけようとしている雰囲気を察したので、僕は慌てて彼の机に近づいた。給食を食べ終えた戸塚は体育館でバレーボール、上原さんは図書館で録音図書を返却しに出て行ったが、他の生徒に加え先生もいる前で話すのは何となく躊躇われたので、廊下にでも呼び出そうと僕は「なあ林」と声をかけた。案の定林は何も言わず黙ったままだった。おそらく僕の呼びかけは聞こえているのだろうが、こちらとしては何か反応してくれないと話を進めていいものなのかどうか躊躇する。本当に盲特別支援学校にはふさわしくない態度をする奴だ。
一応彼なりに何かを察してくれたらしく、僕が黙って突っ立っていると数秒送れてやっと「何?」と反応があった。
「ちょっと聞きたいことがあるから廊下にきてくんない?」
と小声でささやくと「すぐ終わる?」と聞いてきたので「うん」と答えると、さっさと廊下に出てしまった。おそらく彼なりの了解のサインなのだろう。あまり人がこない突き当たりのところで立ち止まり
「あのさあ」と僕は単刀直入に切り出した。
「安藤さんから聞いたんだけど、先週の金曜日の4時30分頃、ライトマーケットで安藤さんを見かけたらしいな……」
「見かけたけど……」
だから何? みたいなニュアンスを感じたが、ここは怯まずストレートに「なんで?」と質問した。答えるのが面倒なのか、どう答えたものかと思案しているのか林は黙ったままだ。僕はもう少し質問の内容を絞って
「おまえいつも学校終わったらさっさと帰っているみたいだから、なんでそんな時間に学校の傍にいたのかなと思って……」
「ああ」と林は呟き
「あの日は運動会委員会があったから残ったんだ」
合点がいった。運動会は6月だから4月・5月はわりと頻繁に委員会が開かれているんだった。
「じゃあさ、なんで街道のほうにいたんだ? あっちは帰り道の真反対じゃないか」
林は面倒くさそうに
「あの日は渋谷で家族みんなで夕食食べることになってたんだ。東横線なら1本で渋谷に行けるだろ」
僕はふとひらめいたことがあったので、思いついたことをそのまま林にぶつけてみた。
「みんなで夕食を食べたお店って道玄坂のほうじゃない?」
「そうだけど……」
と訝るような態度の林に僕はちょっと気分がよくなって
「この間みんなで映画観に行ったとき、渋谷駅の改札口から道玄坂までの行き方知っていたから……」
「そういうことか……」
と林はいかにも肩をすくめたようなという表現が似合いそうな態度でフンと鼻を鳴らした。そして僕は例のメールについて聞いてみようと思ったとき
「あ、いたいた」
と聞こえてきた、担任の清水先生の声だ。
「どしたのー? 2人そろって隅のほうでコソコソと」
と先生はからかい半分の口調で聞いてきたので、僕は「なんでもないっスよ!」と適当にあしらった。清水先生は比較的他の先生より若く、時折今のような軽いノリで生徒に接してくるので先生というより女子の先輩、特に運動部にいそうなイメージがある。ノリが軽い上に言葉遣いについてそんなにうるさくないので、ついついこちらもため口になってしまう。
「ところでさ林くん」
先生は林に用事らしい。きょとんとした様子で「はい」と林が応じると
「さっき言えばよかったんだけど、今度の土曜日に練習会があるんだ。自由参加なんだけど、林くんは参加する?」
「行きます」と林は即答した。
「おっし。じゃ9時30分に学校の校門前に集合ね。もし雨だったら練習は中止で、そのときは8時までに連絡網回すから、よろしく」
「練習会って?」
2人のやり取りがよくわからない僕はどちらともなく聞いてみた。
「林くんね、ジョギング部に入ったの」
清水先生の返事に僕は「ほお!」と驚きの声をあげた。
「おまえいつ入ったの?」
「……今日」
「そうなの、今朝入りたいって言いにきてくれたのよ」
清水先生はジョギング部の顧問の一人だ。視覚障害者が長距離を走る場合「伴走者」といって、視覚障害者を誘導するために一緒に走る人がいなければならない。ジョギング部の場合、この伴走を先生たちがしているので、他の部よりも顧問の先生の数が多い。
「なんでまた急に?」と僕が聞くと
「……別に。オレ中学の頃陸上やってたし」
「ふーん」林が中学生の頃に陸上やっていたというのは初耳だった。
「土曜日って休みじゃん。わざわざ学校にきて部活すんの?」
「普通運動部は休日でも練習するもんなんだぜ」
一般の中学校の雰囲気を知らない僕にとって、林の「普通」って言い方はちょっととげがあって何だか馬鹿にされたような気分になる。
「毎月第4土曜日に練習会開いているの。参加自由なんだけど、毎回10人くらい集まるのよ」
運動がからきし苦手な僕に言わせれば、わざわざ土曜日にきて走るなんてご苦労なこったとしか思えない。
「でも、土日ってうちの学校のグラウンドを地域開放しているから練習しにくいんじゃないですか?」
と僕が言うと清水先生は
「土曜日の練習会は学校じゃないの。学校に集合して、そこから歩いて……」
ピンとひらめくものがあり、僕は林たちと別れ一人で理療科1年生教室に行った。もし僕の考えが正しければ……。その前にどうしても安藤さんにひとつ確かめなければならないことがあった。僕ははやる気持ちを抑え、慎重にドアをノックし安藤さんの所在を尋ねた。
「やあ、こんにちは」
安藤さんはいつもの朗らかな調子でドアの前までやってきた。
「突然なんですけど」と僕は早速切り出した。
「安藤さんは一人暮らしをしてから初めて自分専用のパソコンをもったんですよね?」
「……そうだけど」
唐突な質問に安藤さんの声色はちょっと怪訝そうな色を帯びたが、僕はかまわず
「だとしたら、どうやってデスクトップパソコンの組み立てやインターネットの接続設定をしたんですか……?」
12
土曜日、僕は戸塚と一緒にライトマーケット松見店のある街道に立っていた。ここから街道を背にしてまっすぐ歩けば安藤さんの住む松見ハイツにぶつかる。
時間はもうすぐ午後1時。来週には5月に入ることもあって日差しが強く、半そででも充分なくらいの陽気だった。
「ホントにここにいればわかるの?」
戸塚の不安そうな声が尋ねる。木曜日の放課後、僕は戸塚に「例のメールの件、多分わかった」と言うと「誰がやったの?「とか「なんでそんなことしたの?」とすごい勢いで浴びせかけてきたが
「今はまだ確実なことが言えないから、土曜日の昼ちょっと付き合ってくれ」
と言った。もちろん「なんで?」としつこく聞いてきたが「理由が知りたければきてくれ」の一点張りで押し切った。戸塚に教えなかったのは別に出し惜しみしているわけではなく、これまで知りえた状況証拠を元にひとつの可能性を導いたというだけで確信は全くない。僕としては事前によけいなことは伝えず、本人を交えながら事の真相を戸塚と一緒に確かめたいと考えたのだ。
「安藤さんには言ったの?」
「何も言ってない」
「じゃ、今日一緒にきてもらえばよかったじゃない」
「オレの予想が正しければ、今は安藤さんはいないほうがいいと思うんだ」
「予想って……。じゃ、間違っている可能性もあるってこと!」
「……ああ」
戸塚は明らかにへきへきとした様子で大きなため息をついた。12時30分過ぎから待っているわけだから30分近く立ちっぱなしということになる。何も知らされていない戸塚はさぞうんざりしていることだろう。きっとイライラしているに違いない。
「いつまでここに立っていればいいのよ!」
「1時過ぎくらいまで」
「本当にここにくるんでしょうね」
「……多分」
「多分って……。じゃ、こないかもしれないの!」
「……そのときはまた別の方法を考える」
「もぉー!!」
戸塚が切れかかったとき、キィーっという金属音が響き「こんにちは」と聞こえてきた。戸塚は弾かれたように声のほうに向かい「あ!」ともらしたかと思うと、すぐに「こんにちは」と返した。
「戸塚さんと沢木くん……だよね。どうしたのこんなところで?」
「ちょっと聞きたいことがあって」と僕が言うと数秒の間があり
「……私に?」
と少々怪しむような口調で言った。僕はすかさず
「安藤さんにメールを送っていたのは岡島さんだったんですね」
と僕は断言した。隣にいる戸塚は一言も言わずにただ黙って突っ立っているだけだった。
僕は岡島さんがどういう反応をするか静かに待っていた。すると
「ねえ、喉渇いてない?」
と言い出した。予想外の反応にどう答えていいのか躊躇していると
「すぐ傍に小さな児童公園があるの。立ち話もなんだから、そこで……。缶ジュースくらいならおごるわよ」
「捕まって」と岡島さんが言うと、戸塚が「後ろからついて行きます」と言ったので、岡島さんは自転車を押しながら前を歩き、その後ろを僕たち2人がついて行った。
児童公園で木陰のベンチを見つけた僕たちは腰を下ろし、先ほど岡島さんが買ってくれた缶コーヒーのプルタグを開けた。
「よくわかったね。やっぱり沢木くんって頭いいんだ」
一息つくと岡島さんはそんなことを言った。僕は自分の立てた推理を説明するため、頭の中を整理しながら少しずつ話し始めた。
「安藤さんにライトマーケット松見店のお買い得情報をメールで送るためには、まず松見店の広告と安藤さんのメールアドレスを手に入れなければならないんですよ。まず広告ですけど、これは松見店が独自に作っているもので、主にこの近所に住んでいる人のおうちに新聞の折り込みチラシとして提供されてます」
「なるほど」と岡島さん。
「でも直接お店に行けばサービスカウンターに同じ広告が置いてあります。これなら近所の人だけではなく来店した人全てが広告を手に入れることができます」
「……ちょっと待って。だとしたら岡島さんは毎日ここまできたってこと? だって岡島さんは平日は授産所で働いているはずよ」
戸塚が質問した。
「うん。オレも最初は全然思いつかなかったけど、2つの情報を合わせると岡島さんが毎日松見店に立ち寄って授産所に通勤することは不可能なことじゃないんだよ」
「2つの情報?」
「たまたま知ったんだけど、今日ジョギング部は練習会をしているんだ。9時30分に学校に集合して練習場所まで歩いて行くんだけど、その練習場所っていうのが岸根公園なんだよ。ここは神奈川区で岸根公園は港北区、区がまたがると遠いような気がするけど、岸根公園は港北区の端っこにあって神奈川区に隣接している。実際、うちの学校から歩いて30分もあれば行けるらしい。もうひとつは、この間商店街で会ったとき、授産所では交通費が出ないから自転車通勤していると言っていたこと……」
「そっか、あのとき岡島さんは岸根公園の近くに住んでいるって言っていたよね。徒歩で30分ってことは、自転車使えばもっと早く楽に行ける……」
戸塚は目の前の霧が晴れたような快活な声音で、自分に言い聞かせるよう一言一言確かめるように言った。
「それに松見店は東横線の妙蓮寺駅が最寄駅だ。岡島さんが働いている授産所は東白楽駅、妙蓮寺駅からたった2駅先。お仕事が11時からってことを踏まえても、時間的に難しいことはないと思ったんだ」
「それならこういうこと?」と戸塚は僕の説明を元に推理を組み立てた。
「岡島さんは自宅から自転車に乗って一度ライトマーケット松見店に行き、そこで今日のお買い得情報が載っている広告をもって行く。そして……授産所にあるパソコンで送信した……ってこと?」
最後のほうはかなり自信なさそうだったので、僕は助け舟を出すつもりで
「岡島さんは食事介助をしているって言ってましたが、もしかしたらお昼休みがずれているんじゃないですか?」
との僕の問いかけに「ご明答」と岡島さんは言い
「利用者の方たちのお昼休みは12時から1時間なの。その時間は私が食事の介助をしたり見守りしているから私のお昼休みは13時からなのよ」
「それに……」と僕は戸塚のほうを向いて
「戸塚は授産所のパソコンから送ったと推理したけど、オレはパソコンじゃなくて岡島さんの携帯電話から送信したと思うよ」
「え! だって安藤さんからメール見せてもらったけど、あれって携帯電話のメルアドじゃなくて普通のフリーメールだったよ」
との戸塚の反論を聞きながら
「いいかい。安藤さんのところに送られていたメールアドレスは大手検索エンジンが提供しているフリーメールだ。このフリーメールは登録さえしてしまえば自分の携帯電話からも送信することができるようになるんだよ。もちろん表示されるメールアドレスはフリーメールのままでね」
「でも、なんで携帯電話から送っているってわかったの?」
「あのフリーメールはちょっと前からメール末尾の広告が表示されなくなったんだ。でも、理由はよくわからないけど、携帯電話から送信すると末尾に広告が表示される。安藤さんに送られたメールには広告が表示されていた。ちょっと前に広告表示がなくなったって聞いたことがあったから何となく違和感があって調べたらそういうことだったんだよ」
「うちの授産所にはパソコンが2・3台しかなくて、いつも正職員の人が使っているの。私的なことで勝手に使うわけにはいかないから私の携帯電話から……」
僕はここで一息つき、手の中で弄んでいる缶コーヒーの空き缶を見つめるような格好で
「安藤さんのメールアドレスの件ですけど、これは本人から聞きました。安藤さんの自宅にはタワー型のデスクトップパソコンがあった。晴眼者なら説明書を見ながら配線を繋いで組み立てることができるけど、僕たちがたった一人でやるにはちょっと難しい。組み立てたとしてもスクリーンリーダーをインストールしなければ何も作業できないし、インターネットに接続するためにはプロバイダーから郵送されてくるIDやパスワードを確認する必要がある。安藤さんの場合も、きっと誰かに頼んで組み立ててもらったり、インターネットの接続設定をしてもらったと思ったんです。手伝った人がいればその人は安藤さんのメールアドレスがわかりますからね」
「それを岡島さんが……」
戸塚の意見に僕は黙って頷いた。
そして僕はゆっくりと岡島さんのほうに向かって
「今説明したとおり、安藤さんにメールを送っていたのは岡島さんだということまではわかりました。でも、どう考えてもわからないことがあるんです。……なんでこんなことしたんですか?」
岡島さんは何も答えず、ほんの数秒僕たちの間に少々気まずい沈黙が流れた。そして
「2人はどう思った?」
と岡島さんから逆に聞かれた。僕たちが答えるのに躊躇していると
「突然名乗りもしないで近所のスーパーのお買い得情報をメールで伝えるなんて変なことする人だなって思わなかった?」
「いえ」と僕は即座に否定し
「変とは思いませんが、ちょっと回りくどいかなって……」
「私は不器用な親切だなって……」
戸塚が言った。
「回りくどいに不器用か。確かにそうだよね、決してスマートなやり方じゃないし、かえって安藤さんや君たちを困らせてしまったわね、……ごめんなさい」
「いいえ、そんなことないです」と戸塚は慌てて
「この前安藤さん言ってました。不振なところはあるけど、あのメールみたいなささやかな援助のほうが助かるって」
「そう」と岡島さんはか細い声で呟き
「ガイドヘルパーをはじめホームヘルパーや手話通訳みたいに1対1で利用者にサービスを提供するお仕事で大切なことのひとつはね、お互いのプライベートに踏み込むような個人的な関係を結んではいけないってのがあるの」
か細いがしっかりした口調で話す岡島さんに向かって僕は黙って耳を傾けた。
「つまりね、例えばガイドヘルパーなら視覚障害者を目的地まで誘導したりお買い物を手伝ったり外出先で書類を読んだりと、一見簡単なことしているって思われがちだけど、誘導するときは相手の速度に合わせたり、自分だけじゃなくて段差や障害物はないかって相手の足元や正面にも気を配らないとならないし、お買い物するときだって相手がどんな物を希望しているかきちんと理解しないといけないし、書類の読み上げだって書いてあることをただ読めばいいってもんじゃなくて、相手が知りたいことを把握して必要な部分を的確に見つけたり、ときには要点をまとめて説明しなければならないの。だって、本来なら自分自身の力で確認しないと気が済まないのが人間なのに、それを他人に委ねなければならないんだもん。地味な仕事だけど責任は大きいし、相手から信頼されなければ成り立たない仕事なのよ」
僕は目からうろこが落ちるような思いだった。福祉の仕事に興味をもっている人が多いようだが、ガイドヘルパーなら誘導するだけ、ホームヘルパーなら調理や掃除をするだけと、特別な知識や技術を必要とせず誰にでもすぐできると思われがちだが、それは仕事の内容そのものであって、実際は僕たち身体障害者のニーズに応じたサービスを提供することが重要なのだ。果たして今福祉の仕事に携わっている人の中で、岡島さんのような意識をもって働いている人はどれくらいいるのだろう。
「だから私たちはきちんと研修を受けて視覚もらったし、実際にこれでお金いただいているんだから、誰がなんと言おうとプロの仕事なの。プロならば利用者が誰であれ、わけ隔てなく平等なサービスを提供しなければならないし、個人的な感情をもつことは許されないの。……君たちの前でこんなこと言うのは失礼になるけど、障害をもっている人は私のような健常者と比べればどうしてもできないことはあるし、誰かを頼らなければならない場面がたくさんあると思うの。仕事柄いろんな立場の障害者と接することがあるけど、どんなに『力になってあげたい』って気持ちがあっても、それは単なる私個人の感情だし、見方によっては単なる私のエゴに過ぎないのかもしれない。ガイドヘルパーって立場で、気持ちや感情だけでガイドヘルパーの仕事以上のことをしてしまうと、それは利用者の生活そのものに首を突っ込むことになるし、時と場合によってはトラブルの原因にも成りかねないの」
「でも、それは福祉に携わる人の倫理みたいなもので、必ずしも自分の感情を押し殺せるものでもないですよね……」
突然戸塚が詰め寄るような調子で言い放ったので、岡島さんは虚をつかれたように一瞬言葉を失った。僕はやや険悪な雰囲気を感じ思わず体を縮めてしまったが、岡島さんはそのまま話しを続けた。
「安藤さんと知り合ったのは今から2ヶ月くらい前、彼がガイドヘルプを横浜ライトハウスに初めて依頼してきたときだったわ。横浜ライトハウスに登録しているガイドヘルパーって比較的専業主婦の方が多いから、土日って依頼を受けられる人がとても少ないの。私は土日は特に決まった予定を入れてないから自然と安藤さん担当みたいになっちゃって……。一番最初の依頼は『パソコンを買いに行きたい』ってことだったから、一緒に横浜まで行って、いろんなお店回って、そこそこ性能がよくてリーズナブルなもの買って……。翌週には届いていたんだけど、安藤さんが言うにはお母さんはこういうの苦手というし、高校時代の友達も忙しくて月末にならないとこられないと聞いて、ちょっとでしゃばっちゃったけど組み立てるの手伝ったの。安藤さんものすごく喜んでいてすごく嬉しかった。その後プロバイダーから郵送された契約書を読んでほしいと言われたんだけど、安藤さんどうやって設定したらいいのかわからなくて困っているみたいだったから、これも私が手伝ったの。沢木くんの言うとおり、このときメールアドレスを知ったの。でも、そのときは別にこれを使ってどうこうなんてことは全然考えなかったわ」
缶コーヒーで喉を潤すためか、岡島さんは一息つき、そのまま缶をベンチの上にコトリと置いた。
「ガイドヘルプしているときって歩きながら利用者の方といろんな雑談するんだけど、ある日安藤さんのほうから高校生の頃のこととか失明した経緯について話してくれたの……」
本人のいないところで安藤さんの個人的な話をするのに躊躇したのだろう。岡島さんは言ってもいいものかとちょっと口篭もったが、「オレ知ってます、安藤さんから聞きました」と僕は言った。何も知らない戸塚が「なんのこと?」と不安そうに尋ねてきたので、岡島さんの話を理解するためには必要だろうと判断し、僕のほうから安藤さんが高校生の頃お父さんが亡くなって大学進学を諦めたこと、交通事故で失明したこと、引きこもっていたが施設に入って訓練を受けてきたことなどをかいつまんで話した。
「そうだったんですか……」
僕の話が終わると戸塚は胸をつかれたような掠れた声で言った。
「たくさんの視覚障害者と接してきて、安藤さんのように失明した敬意や身の上話をする人はわりといるのよ。中には何年経ってもなかなか立ち直れなかったり、もちろんその人のせいじゃないんだけど、障害をもったことで考え方が屈折してしまった人もいるの。安藤さんの場合、家庭の事情で進学を諦めなければならなかったり、うまくいっていた職場も失明したことで退社せざるをえなくなったり……。僅か20歳そこそこで挫折を味わったり心の傷も受けてきたわ。まだまだ割り切れないことはたくさんあると思うんだけど、彼なりの方法で気持ちを整理して、今のままでも自立した生活が送れるよう、生活訓練を受けたり、理療科で勉強して、鍼灸師として働きたいって意欲に感銘を受けて……。それに彼自身いつも朗らかで、どんなにつらい思いしていても決して捻くれることなく、私にも気を使ってくれる。そういう誠実な姿に……とても引かれて、この人のためにもっと力になりたいって……本気で思っちゃったんだよね」
「それで例のメールを」と僕。
「ほら、商店街で君たちと会ったときに一人でお買い物するのは厳しいって話をしていたじゃない。あれ聞いて思ったの。安藤さんがあまりお金にゆとりがないってことは知っていたから、私がいないときでも経済的に効率よくお買い物できるようにと思ってね……」
急に岡島さんはふふっと苦笑しながら
「でも、今思えば君たちの言うとおり回りくどくて不器用なやり方だったよね。しかも、偶然知ったメールアドレスを黙って使っちゃったんだから、私はガイドヘルパー失格なんだろうね……」
「そんなことありません!」
戸塚は勢い込んで岡島さんに言い放った。あっけに取られているような岡島さんにはおかまいなく
「好きな人を助けてあげたいって気持ちは、自分がガイドヘルパーだからとか、相手が利用者だからなんて全然関係ないです! 一人の人間として当たり前の感情だと思います。……そういう気持ちをもってくれる人がいるから……私たちのような障害者も明るく元気に生きていけるんです。だから……」
最後はほとんど叫ぶような口調だった。はっとしたのか戸塚は急にしぼんだ風船のようになって「……ごめんなさい……。少し言い方がきつくなっちゃって」と小声で付け足した。
「でも私思うんです。いくら全盲で一人暮らししているからってインターネットのIDやパスワードを他人に読んでもらうのは抵抗があるはずです。人によってはメール覗いたり悪用するかもしれないし……。ガイドヘルパーなら大切な書類を代読する機会はたくさんあるだろうから岡島さんにとっては何でもないことかもしれないけど、さっき岡島さんがおっしゃったように信頼がなければ絶対にお願いできません。きっと安藤さんは岡島さんのこと信頼しているはずだし……。それに……私は岡島さんにはもっと素直な気持ちを安藤さんにぶつけてほしいと思っているんです」
戸塚の言葉に岡島さんは「えっ……」と呟き、そのまま力なく
「それは……無理よ」
と呟いた。すると戸塚は先ほどのような感情的な口調になり
「お仕事には守らなければならないルールやモラルがあって、決められたとおりにしないとトラブルや混乱の原因になることはわかっているつもりです! ……でも、そんなルールやモラルじゃどうしても割り切れないことはたくさんあるはずなんです。私は……私はそんなことで素直な気持ちを押し殺してしまうのはおかしいと思っているんです!」
戸塚の説得するような訴えが終わると、僕たちの間にまた沈黙が流れた。僕は何て言えばいいのかうまい言葉が見つからず、ただ黙ってもじもじと手の中の空き缶をもて遊ぶことしかできなかった。
「もうお互い話すことはないみたいね……」
と岡島さんは僕の手から空き缶をすっと抜き取り
「戸塚さんも空みたいだからちょうだい、私捨ててくるから」
と立ち上がりゴミを捨てに行ってしまった。残された僕と戸塚は何も言えず、ただ黙ってじっと座っていた。
「行きましょうか」
と岡島さんが言い、僕と戸塚はベンチから立ち上がった。そして僕たちはきたときと同じように自転車を押す岡島さんの後ろにつき、お互い何もしゃべらずにもくもくと歩いた。
「ここが君たちと出合った交差点。この道を点字ブロックに沿って真っ直ぐ行けば学校のほうにいけるわ。あとは大丈夫?」
との問いかけに僕だけ「はい」と答えた。
「そう。じゃ私ここで失礼するね。……迷惑かけてごめんね……。……ありがと」
岡島さんは自転車に乗って走り去ってしまった。残された僕と戸塚はしばらくの間ただその場に立ち尽くしていた。
「……私、岡島さんに失礼なこと言っちゃったかな……」
と戸塚が独り言のように呟いたので、僕はすかさず
「失礼じゃないと思うよ。でも、ちょっと岡島さんを困らせちゃったかもしれない……」
戸塚は何も答えず、ただ細く長いため息をついた。
13
ゴールデンウィーク明けの月曜日の放課後、僕と戸塚は第1回目の創立120周年記念事業委員会の会議に出席した。会議では各クラスの委員の自己紹介から始まり、担当の先生から委員会の趣旨説明、そして委員長はじめ各自の役割分担が決められた。僕と戸塚は記念誌作成担当になり、秋に行われる文化祭までに在校生や卒業生、そしてゆかりのある先生などから原稿をいただき冊子にまとめなければならないのだが、原稿の執筆依頼に回収、そして点字・活字・録音版の編集作業と、会議が進むに連れて僕はだんだん憂鬱な気持ちになってきた。
会議終了後、僕と戸塚は口々に「貧乏くじ引かされたな」と愚痴りながら支度をし、そのまま一緒に外に出た。帰り道、5月にしてはやや生ぬるい風が強く頬を打ち付ける。連休明けなのに、さわやかな新緑というより、梅雨の訪れを感じさせるような気候だ。
「今年は暑くなりそうだねー」
「天気予報じゃ明日は雨らしいぞ」
と僕が言うと戸塚はややむくれたように
「えー! 明日のバレー部は体育館使えないからグラウンドで練習することになっていたのに、ついてないな……。そしたら機能訓練室でひたすらトレーニングかぁ……」
戸塚はいかにもがっかりしたような様子で肩を落とした。うちの学校には上肢や下肢に障害をもっている生徒もおり、生徒によってはリハビリテーションを目的とした運動の授業が組まれている。その授業で使われるのが機能訓練室で、筋力をつけるための各種トレーニング機器をはじめ、ルームランナーやエアロバイクなども設置されており、ちょっとしたトレーニングジムのような雰囲気だ。戸塚が所属しているバレー部は主に体育館で練習するのだが、他の運動部との兼ね合いでグラウンドで練習することがある。そのときに雨が降ってしまうと、その日の練習内容はただひたすらトレーニングするだけになるらしい。戸塚はバレーボールは大好きだが、ランニングや筋力トレーニングは大嫌いなのだ。
「そういえば安藤さん元気?」
と戸塚が急に話題を変えた。10日ほど前の土曜日に例のメールの件については一応の決着は見たが、僕も戸塚も何か煮え切らないような後味の悪い思いを引きずっており、あの日を境にこの件についてはお互い話題にしなかった。
「知らない」と僕はそっけなく答えた。
「なんで! 部活で会ったりしてないの?」
「先週の火曜日は眼科の定期健診でオレ休んだろ。その後すぐに連休に入ったから、明日2週間ぶりに会うんだ」
つまり、僕は安藤さんにこの件の真相を話していなければ、本人にも全く会っていない。
「……やっぱり私、岡島さんによけいなこと言っちゃったよね」
戸塚はまだ気にしているみたいだった。3年間クラスメイトとして戸塚直子という人間に付き合ってきて僕なりに分析したことだが、彼女はとにかく真っ直ぐで純粋な性格の持ち主だと思う。よいことは積極的に自分の中に取り入れようとする、合点のいかないことは納得するまで追及する、悪いことはどんな理由があろうとも許さない。そして自分の気持ちに嘘をついたりごまかすことができないし、そういうことをする人を理解することができない奴だ。そんな自分の思いを伝えようと、つい感情的になって、岡島さんに詰め寄ってしまったのだろう。これは他の人には真似することのできない彼女の長所のひとつではあるが、世の中純粋な気持ちだけで他の人とうまく付き合っていけるか、正論だけで全てを丸く収めることができるかといったらそれは絶対に違うと僕は思う。
おそらく戸塚はこれから先、本音と建前を使い分けなければ円滑に進まない人間関係、個人の意志よりも組織のやり方を優先しなければならない社会、誰かの幸せの影には必ず誰かの不幸がある現実にぶつかることで、今まで自分が信じてきた大切なものだけでは通用しないことにもがき苦しみ学習していかなければならないと思う。
今回の件にしても戸塚は「もっと素直に自分の気持ちを伝えて」と岡島さんに言いたかったのだろう。戸塚の気持ちはとてもよくわかるが、ある意味それは岡島さんの気持ちを無視した戸塚の一方的な押し付けにもなりうる。岡島さんは軽視されがちなガイドヘルパーの仕事について、社会的に果たす役割や重要性を充分に認識し、プロとしてのプライドをもってこの仕事にあたってきた。
しかし安藤さんに出会ってそのプライドが揺るいでしまった。ガイドヘルパーと利用者という立場がある限り、自分の気持ちに素直になればなるほど、岡島さんが信じてきたプロとしてのプライドがどんどん自分自身を傷つけていく。素直な気持ちとプライド、そのジレンマに対して、何とか自分自身を納得させるために見つけた方法が、回りくどくて不器用なメールによる情報提供だったのだろう。
「仕方ないと思うよ。戸塚の言うことだって間違いじゃないと思うし。ただ、仕事上規則を破ることはできないからな……」
戸塚は何も言わなかった。多分彼女の中で今まで大切にしてきたものが揺らぎ始め、どう整理をつければいいのか自分なりに苦悩しているのだろう。あと数メートルも歩けば商店街のほうに渡る横断歩道があり、そこで戸塚は商店街の中へ、僕はそのまま駅へと向かうことになる。
「こんばんは」
突然呼びかけられ僕と戸塚は2人同時にピタリと立ち止まった。続けて「沢木くんと戸塚さんよ」という声に「ああ」と別の人が応じた。
「岡島です。安藤さんもいるわよ」
僕たちは2人とも一瞬呆然としてしまったが、すぐに気を取り直し「こんばんは」と2人に向かって挨拶した。
「……お買い物ですか?」
と僕が尋ねると「ええ」と岡島さんが応じ
「ただし、ガイドヘルパーとしてではなく、私的な友人としてね」
「え?」と戸塚が驚きの声をもらし、僕は岡島さんが言っていることの意味がわからずにぽかんとしてしまった。僕たちの困惑振りを察したのか、岡島さんはそっと
「私4月一杯でガイドヘルパーやめたの」
と言い、今度は僕が「え?」と驚きの声をもらした。
「いろいろと迷惑かけて悪かったね」と安藤さんが僕たちをいたわるような口調で言った。
「岡島さんから全部聞いたよ、理由も含めてね。でもそんなに意外に思わなかったな。メールの内容から悪意のあるようなものには思えなかったし、かえって岡島さんに余計な気苦労かけちゃったかなって……」
「そんなことないよ。あれは私のやり方がまずかっただけで、もっと素直になるべきだったんだよ」
と岡島さんは言い、続けて戸塚に向かって
「それを教えてくれたのは戸塚さんのおかげよ」
「はいっ……? いや、私は別に……。かえって岡島さんに失礼なこと言っちゃったんじゃないかなって……」
「そんなことないよ」
と岡島さんは小さいながらも優しい声音で言った。
「言われたときはちょっと動揺したけど、少し時間が経ってゆっくり考えてみると、あなたの真っ直ぐさが伝わってきてね。今の立場じゃ中途半端だしあまりスマートなこともできないから、ガイドヘルパーって立場を抜きにして一人の人間として付き合ってみたいって決心ができたの。……ガイドヘルパーをやめるって安藤さんに言ったときかなり反対されたから説得するのにかなり骨が折れたけどね」
安藤さんは苦笑した。
「安藤さん」
と戸塚は安藤さんに向かっていたわるような暖かな声で
「これまでにいろんなものを失ってしまったかもしれませんが、今度はとっても素敵なものが手に入りそうですね」
と戸塚が言うと、照れ隠しのつもりか「ええっ!」と安藤さんは素っ頓狂な声をあげたが、その声に混じってそっと「そうだね」と岡島さんが呟いたのを僕は聞き逃さなかった。
そして戸塚は僕の左腕をぎゅっと握り締め「本当によかった」と心の底から吐き出すような安堵のため息と一緒に呟いた。
春の快メール