イブ
「熊谷由香利」の章
「とし」と付き合うようになってから、今年で5年目だ。
彼と初めて会ったのは、クリスマス・イブの夜の事だった。その事を友達に話すと皆うらやましがるけど、私は最初、変な人って言う印象しか無かった。
当時私は大学生で、クリスマスの時期だけのバイトである、街頭でケーキを売るバイトをしていた。
皆一様に笑顔でケーキを買っていく。家族の為になのか、恋人の為になのか、背景は皆それぞれ違うだろうが、家で待っている人の為に買って行くって事だけは変わらない。ケーキを買って帰った時の待ち人の笑顔を想像すると、自然と笑顔になるんだろうな?って思った。
ラッシュの時間も終わり、そろそろ店じまいをしようと言う頃。20代前半のスーツを着た男性が、白い息を吐きながら私に声を掛けた。
「すいません。ケーキを買いたいんですが、このタイプの物しかないのですか?」
「はい。店にはカットした物もあるのですが、街頭販売では1ホールのタイプだけなんです」
「僕一人でケーキを食べるので、出来れば4分の1のサイズに切って売ってもらえないでしょうか?」
私が返答に困っていると、バイトの先輩が
「申し訳ないのですが、そう言った要望にはお答えできません」 と冷たくあしらった。
でも男性客は、顎に手を置いたまま考え込んでいる。私は思わず
「じゃあ半分にしませんか?半分は私が食べますから」 と言っていた。
いつも引っ込み思案な私に、何故あんな勇気が持てたのか、今でも不思議だ。
男性はにっこり笑って、じゃあそうしましょう。と言って、半分に切ったケーキを買って帰った。半額を支払おうとする私をとどめながら。
次の日のクリスマス。残りのケーキを売っていた私の前に、彼は現われた。
「今夜は昨日のお礼がしたくて。よかったら、バイトが終わった後に食事でも一緒にしませんか」
私は彼の誘いに応じた。普段はガードが固いと言われているのだが、きっとクリスマスと言う特別の雰囲気が私を後押ししたのかも知れない。
あれから5年。色々あったけど、今では彼と付き合って良かったと思っている。
毎年イブの夜は、当時の話をしながら、ささやかなお祝いをする。今年のイブも明日に迫っていた。
私は当日まで待てないので、イブのイブ。つまり23日の夜に彼の家に泊って、当日を迎えたいとわがままを言った。
「23日はちょっと無理なんだ。ほら、次の日の準備もあるし」
「でも準備なら一緒にしようよ。その方が思い出に残るよ」
「でも、ごめん。プレゼントも買いに行かないと行けないしさ」
この時の、彼の何とも歯切れの悪い返答に違和感を覚えながらも、私はしぶしぶ彼の意見に従った。
しかしその日の夜。どうしても彼に会いたくなった私は、自宅から歩いて10分程の彼のマンションに出かけて行った。
「日付が変われば、イブなんだから、別に会いに行っても良いよね」
と勝手な理屈をこねながら私は自宅を出た。
彼はマンションの3階に住んでいる。手前から2番目の部屋が彼の部屋だ。現地に着いた私は、その部屋に電気が付いているのを確認して喜んだ。
が、次の瞬間、私の顔から笑顔が消え去った。
明かりのついた窓には、シルエットが2つ。一方は彼の物で、もう一方は・・・長い髪の女。
「誰?」
私は誰に見られている訳でもないのに、電柱に身を隠した。 もう一度窓に目をやる勇気もなく、私は自宅に走って帰った。
次の日。
私は昼過ぎに彼の部屋を訪れた。笑顔で彼は私を迎えてくれたが、その笑顔も私を嘲笑っているように感じた。
「ねえ。昨日誰かこの部屋に遊びに来た?」
「え?何でそんなこと聞くの?」
彼は驚愕の表情をし、手をせわしなく動かしている。
「私昨夜見たんだ。としともう一人。髪の長い女性が一緒にいる所。ねえ、あの人誰?私の知っている人?」
「由香利は知らない人」
「誰なの?」
「・・・・・・里見」
「里見さんって言うんだ」
自分でしゃべっていながら、冷静な自分が何処か遠くで見ていて、誰かに代わりにしゃべってもらっているような錯覚を覚えた。
「あいつは、由香利が考えているような奴じゃないよ。確か今日は仕事が休みと言っていたから、まだ家にいるはずだ。本人に直接来てもらって、説明してもらった方が納得するだろ」
彼はまくしたてた後、どこかに電話をしていた。
里見と言う女性を彼の部屋で待つ間。二人の間には一切会話は無かった。恐らく数十分ほどの時間だったと思うのだが、その時間は数時間にも感じた。
「ピンポーン」 と言うチャイムの音に静寂だった空間に再び時間が戻ってきた。
彼は急いで玄関のドアを開け、相手の女性と何やら言葉を交わしていた。 私は、重い腰を上げ玄関に歩み寄った。
そこには髪の長い、20歳位の色白でまだ少女の面影を残した女性が立っていた。
「あなたが里見さん?」
「はい。そうです。」
彼女は結託無く答えた。恐らく私の事を姉か妹とでも言っているのだろう。
「昨日里見さんは、加藤さんの家に泊まったの?」
少しの間があいた後
「はい」
と言うはっきりとした、肯定の答えが返ってきた。
「違うんだ。誤解なんだ」
何やら彼は叫んでいたが、私はそれ以上何も聞きたくは無かった。
自宅のベットで一人枕に顔をうずめたまま、私は泣いた。
ひとしきり泣いた後、彼から貰ったプレゼントや写真を、全てゴミ箱に投げ捨てた。
携帯は彼からの着信履歴でいっぱいだった。私は携帯の電源を切り、それも一緒にゴミ箱に捨てた。
彼はあれから度々私のアパートを訪ねてくれていた。しかし応対する気にはなれなかった。言い訳は言い訳に過ぎないのだから。
一度間違いをした人間は、同じ過ちを繰り返すって誰かが言っていた。彼も今回許したとしても又浮気をするだろう。そして私は又みじめな気持になる。
私は会社を辞め、実家に帰る事にした。この街に住んでいると、嫌でも彼との思い出が蘇る。一緒に行ったカフェ。一緒に遊んだボーリング場。初めて結ばれた彼のマンション。
私は彼との思い出達と、そして彼と過ごした街とさよならする。
「じゃあね」
私は小さくそう呟いた。
「加藤俊之」の章
俺が由香利と付き合うようになってから、今年で丸5年になる。そろそろ彼女にプロポーズをしようかと本気で考えていた。
もしプロポーズをするとしたら、二人が出会った記念すべき日。クリスマス・イブの24日しかないと心に決めていた。
だが、自分は奥手でこれまで女性と付き合った経験は皆無に等しい。で、婚約指輪を買うにしても、一体どの程度の物を買うのかさえまるで見当がつかない。ましてや、デザインともなると最初からお手上げだ。 それで、そっち関係に詳しい友人に婚約指輪を一緒に選んで貰う事にした。今日23日に奴と会う事になっている。
そう言えば由香利が今夜家に泊まって、イブの日を迎えたい等と言って来たが、奴と買い物をした後、飲みに行く約束を既にしてしまっていた後だったので、やんわりと断っておいた。
大体家路に着くのが何時になるか分からないし、遅くまで出歩いていた訳を尋ねられた時に、婚約指輪を買いに行っていた事まで思わずしゃべってしまいそうだったからだ。
酔っ払って、プロポーズと言う一生に一度しか無い、大事な告白をその時にしてしまったら、後々何を言われるか分った物では無い。 それで、何とも歯切れの悪い返答になってしまったが、由香利はそれほど気にしてはいないだろうと思う。
奴との待ち合わせは、お互い仕事が終わってから、アルタ前で午後6時の予定だ。僕は足早に待ち合わせ場所に向かった。
「よっ。待ったか」
里見はネイル・アートのショップを経営しているだけあって、俺みたいな普通のサラリーマンとは風貌からして違うなと思った。
長い髪を後ろで束ねて、黒い革のロングコートを嫌味無く着こなしている所は、流石に美を売る仕事に携わっているなと思わせた。
「久しぶりだな。大学以来か」
「そう言えば、そうだな。しかし奥手のお前が遂にプロポーズとはな」
里見はいたずらっ子のような表情で、俺を茶化した。 里見祐樹とは同じ大学のテニス部の同期生で、当時からやたらと女性にもてた、嫌な奴だ。 しかし外見に似合わない熱血漢な所等、話して見ると意外にうまが合った。それで大学卒業後も度々酒を飲みに行ったりしていた。 しかしここ最近は奴がネイル・アートのショップをオープンした関係で時間が合わなくなり、こうして二人で会うのは6年ぶり位だ。
「じゃあ、早速行くか?俺の友人でジュエリー・ショップを経営している奴がいて、そいつが特別価格で上玉を譲ってくれるって言ってたから、大船に乗ったつもりでいろよ」
「そいつは頼もしいな。お礼に今夜はおごるからな」
「そいつは嬉しいね。お前と今夜飲むのを楽しみにしてたんだ。結婚したらこうして男同志で酒を飲む事も難しくなるからな」
里見はそう言って笑った。
ジュエリー・ショップは、普通の男にとってあまり居心地の良い場所では無い。俺は店員と里見の勧めるままに、50万円のダイヤを購入した。しかし普通は80万~100万程はすると言う事だから、お得な買い物をしたのだろう。しかしこんな石ころが数十万、数百万すると言う事が、未だに理解できなかった。
その後里見と落ち着ける居酒屋で一息ついた。お互い話したい事は沢山あった。大学時代の事。仕事の事。そして恋人との話で盛り上がった。
楽しい時間はあっという間に過ぎる物で、気が付けば終電も無くなりかけていた。
「困ったな。今からだと最終に間に合わんかもしれん」
「そうか。な、良かったら家に泊まって行くか?まだ話したい事もあるし、お互い飲み足りないだろ」
「そうだな。お前が結婚したら、気軽に泊まりに行く事も難しいだろうしな」
「な、そうしろよ」
この日自宅のマンションに辿り着いたのは、深夜1時を回る頃だった。 里見も俺も次の日は休みだったので、2人でターキーをやりながら、3時頃迄色々な話をした。
「なあ、彼女を紹介するから、もう少しいろよ」
「ん。まあそれは今度にするよ。お邪魔虫は退散。退散」
里見はそう言って、午前10時頃に自宅に帰って行った。
その後、昼過ぎに由香利は俺のマンションに来た。心なしか表情が硬いのが気になったが、俺はプロポーズの事で頭がいっぱいだったため、その事には特に触れなかった。
「ねえ。昨日誰かこの部屋に遊びに来た?」
由香利はソファに腰を下ろすなり、無表情にそう言った。
「え?何でそんなこと聞くの?」
「私昨夜見たんだ。としともう一人。髪の長い女性が一緒にいる所。ねえ、あの人誰?私の知っている人?」
里見だ。と俺は思った。由香利は奴の長い髪を見て、女性と勘違いしたようだ。しかし里見が泊まった事を言うと、昨日指輪を買いに行った事まで話さなければならないような気がする。 だが、まずこの誤解を解かない事には話にならないような気がした。
「由香利は知らない人」
「誰なの?」
「・・・・・・里見」
「里見さんって言うんだ」
自分で言っておきながら、失敗した。と思った。
里見は苗字では無く、名前だと由香利が受け取れば、それはそのまま女性名になってしまうじゃないか。
「あいつは、由香利が考えているような奴じゃないよ。確か今日は仕事が休みと言っていたから、まだ家にいるはずだ。本人に直接来てもらって、説明してもらった方が納得するだろ」
とりあえず俺は自分で弁解するよりも、本人に直接来てもらって説明してもらった方が良いと思った。 里見が男性で、大学の友達だと言っても、女性だと思い込んでいる由香利には、下手な言い訳としか映らないだろう。
「里見か?悪い。昨日お前が泊まった所を由香利に見られていたんだ。で、ちょっと彼女に説明してもらいたいんだ。今すぐに来れるか」
俺は一気にまくしたてた後、電話を切った。
里見を待っている間、由香利との間に会話は無かった。せめて里見が男だと言う事だけでも伝えようかとも思ったが、何と無く言いそびれてしまった。奴を待っている間は、恐らくほんの数十分の間だったと思うのだが、俺には数時間にも思えた。
「ピンポーン」
来た。やっと里見が来た。
俺は足をもつれさせながら、玄関へと急いだ。
「遅かったじゃないか」
そう言いながらドアを開けると、そこには見知らぬ女性が立っていた。
「あの。すいません。兄は二日酔いで起き上がれなくて、代わりに私が来ました」
もっとちゃんと説明するべきだった。 これでは余計に説明が付かないではないか。
俺はしばし思案にくれていると、奥から由香利が近付いて来る気配を感じた。
「あなたが里見さん?」
「はい。そうです。」
確かに彼女は嘘はついていないが、これでは益々誤解されてしまうのは目に見えていた。
「昨日里見さんは、加藤さんの家に泊まったの?」
彼女は少し考えた後、
「はい」 と答えた。
何とか弁明しなければ、取り返しのつかない事になる。
「違うんだ。誤解なんだ。これには訳があって、最初からきちんと説明するから」
由香利には俺の言っている事は全く聞こえていない見たいだった。
そのまま急いで奥に引き返し、上着を羽織ったかと思うと、里見の妹を押しのけて、外に駆け出して行ってしまった。
「あの、何かまずい事でも言ってしまったでしょうか」
「いや、もう良いんだ。ごめんね。わざわざ来てもらって」
里見の妹さんを帰してから、俺はとりあえず、由香利の携帯に何度も電話をかけた。しかし何度か電話をしていたら電源を切られてしまったようだ。それから何度かかけて見たが、いつも電源が切られている状態だった。
俺は仕事が終わってから、毎日彼女の住んでいるアパートに赴いた。
中にいるのは分っていたが、インターフォンから由香利の声を聞ける事は無かった。
それから数日後。その日は休みだったので、昼前に由香利のアパートに行って見ると、彼女の部屋から引っ越し業者が忙しく出入りしている様子を見た。
「あの、あそこに住んでいる女の子。引っ越すんですか」
と俺は近くで井戸端会議をしていたおばさん達にそう尋ねた。
最初彼女達はいぶかしそうに見ていたが、同じ職場の者で、最近彼女が会社に出社しないので、上司から様子を見てくるように言われたと言った所、あっさりと教えてくれた。
「何でも、急に田舎に帰る事にした見たいよ。家にも昨日挨拶に来たもの」
「それで、彼女はどうしたんですか」
「もう今頃は電車に乗っているんじゃないの?午後の新幹線に乗るって言ってたから」
「ありがとうございます」
俺は彼女達にお礼を言うと、そのまま駆け出していた。
上野の駅はいつも大勢の人でごった返している。でも私はこの光景が好きだ。自分が上京して来た時、ちょうど同じ場面を見ていたせいか、上野駅に来ると、自分が東京に初めて来た時のドキドキした感覚を思い出すからだ。
思えばあの頃は夢を抱いていたな。と由香利は思った。でも自分の夢が、いつしか俊之と結婚する事に変わっていたのを、由香利はこの時初めて気が付いた。
でもその夢も、単なる夢に終わってしまった。私はもう東京には来ない。
由香利の生まれ故郷である岡山行きの列車の出発時間が迫っていた。彼女は足早にホームに向かった。
俊之は大通りに出ると、運良く走って来たタクシーに飛び乗ると、上野駅まで行ってくれるように頼んだ。
「頼む。間に合ってくれ」
祈るように俊之は両手を握りしめていた。
離れて見て初めて分かった。やはり俺には由香利しか居ない。もし彼女を失ってしまったのなら、俺は一生後悔する。
だが俊之の祈りもむなしく、東京の交通事情は、俊之の乗るタクシーの行く手を阻むのだった。
俊之が上野駅に着いた頃、既に4時を回っていた。
「流石にもう旅立ってしまっただろう」
俊之は彼女の実家の住所も電話番号も知らない。携帯電話も解約してしまったようだし、彼女と連絡を取るすべは残されていなかった。
由香利は2時出発の岡山行きの新幹線に乗るつもりだった。だが時計を見るとまだ2時までには少し時間がある。そう言えばお腹も減った。朝から何も食べていない事を、由香利は思い出した。
「としと最初に行ったカレー屋さんが、駅構内にあったな」
由香利は最後の思い出に、そこで食事をする事にした。
「そう言えばとし、鳥肉が嫌いだからって言って、ランチサービスがチキンカレーだったのに、わざわざポークカレー頼んでいたな」
私は当時の頃を思い出して、クスクスと笑ってしまった。思えばあの頃はこんな風になるなんて思いもしなかった。でも今は向かいの席にとしは居ないのだ。由香利は当時と同じ味のチキンカレーを食べながら、ぼろぼろと泣いた。
カレー屋を出て、ホームに向かう。すでにホームには岡山行きの新幹線が到着していた。
この電車に乗ってしまったら、もう二度と、としには会えないな。そう考えると由香利は乗車口に足を踏み入れる事が出来なかった。でも岡山行きは自分で決めた事。待っていても、としはここには来ない。
由香利は少しの躊躇の後、重いスーツケースを車内に運び込んだ。
折角ここまで来たんだから。と言う気持ちで俊之は一駅分の切符を購入し、改札を通った。
岡山行きの新幹線は、3番線から出ているようだ。足早に3番線に向かうと、4時ちょうどに新幹線は出てしまった後だった。今出て行ったばかりと言う事もあり、ホームには人影は無かった。
「遅かったか」
俊之はがっくりと肩を落とし、ホームのベンチに腰を掛けた。
「あの、ケーキいりませんか?」
聞き慣れたその声に、俊之は弾かれた様に顔を上げた。 そこにはスーツケースを抱えた由香利の姿があった。
「あ、でも自分一人ではワンホールは食べきれないんです。他のタイプの物は売っていないんですか」
「本店に行けばカットされた物もあるのですが、今日はこのタイプの物しか無いんです」
「それは困ったな。もし良かったら、半分にカットして頂けませんか」
「当店ではそのようなサービスは残念ながらしていないんです。でも私の夢だったら、半分売ってあげても良いですよ」
「夢?それはこれで買えますか」
俊之はそう言って、ポケットから婚約指輪を取り出した。
「はい。それで結構です」
由香利は大粒の涙をボロボロとこぼしながら、そう答えた。 俊之は人目もはばからずに、彼女を強く抱き寄せ、キスをした。
「やっぱり、としが居ないと私駄目みたい」
「俺も由香利が居ない人生なんて考えられない」
二人は強く抱きしめあっていた。 まるで離れていた時を取り戻すかのように。
イブ