雪(執筆中)
田口ヨウヘイ 清流高校二年生。関東出身。
津谷シュンペイ ヨウヘイの同級生。東北出身。
中野ツグミ ヨウヘイの元同級生。
中野アズサ ツグミの母。
木下サワコ ヨウヘイの同級生。
早朝
アラーム音が鼓膜を震わす。アラーム音は嫌いだ。もう少し優しい手で人間を起こすことは出来ないのか。スイッチを荒々しく押すと、しゅんとするように音は止む。朝だ。静かなる、聖なる朝だ。くわりと欠伸をしてから頭をかく。そして、一言。
「お早う、ツグミ。」
お早う、ヨウちゃん。そんな声が聞こえる気がした。それに気を良くした僕は勢いよく携帯電話を開く。メール有り。メールボックスはツグミからのもので埋められている。毎朝一通、返信不要のメールが彼女から届く。
『お早う、ヨウちゃん。今日もちゃんと起きてる?こっちは朝から雨で嫌な感じ。だけど―』
こんな調子でメールマガジンの如く届く。仕事で忙しかろう僕を気遣う返信不要に、少し寂しさも感じるが嬉しい気もする。さあと一気に澄み渡ったような空気をすうと吸い込む。鼻の奥がつんとする。まだ空気は冷たい、冬だ。東北のここは凍えるほど寒くて、人恋しくなるほど寂しい地だ。都会にいる彼女は今頃、少し乾いた温かい風を受けているのだろうか。そう思うとなんだか切ない。真っ白いシーツをそっと指先でなぞる。くしゃ、と皺が寄る。その皺が、人面に見えてきて、寒気がする。だけど、その顔が口をきいたら寂しくなくなるのに、と思う自分もいた。
「ツグミ。」
もう一度名前を呼ぶと、皺がなあに、と応えてくれた気がした。
「津谷。」
「…なんだあ、田口。」
端整な顔立ちの、銀縁眼鏡男・津谷シュンペイ。そいつは気怠そうにスマホの画面をいじくっている。酷く大人びているその横顔は見る度に怖いと感じる。驚くほど綺麗なのに、つまらなそうな表情の顔。中野は周りのもの全てがつまらないと思っているらしい。笑えば地球の裏側まで照らせそうなのに。つい、と津谷が視線を僕の目に移した。細い目が僕を映す。
「何だって聞いてんのさ。」
苛々したように銀縁に触れる。津谷の、僕と話すときの癖だ。
「スマホ、便利か?」
「便利だな。買えばええ。」
「考えとく。」
どうでも良い話題を振る。津谷は細い黒髪をわしゃり、かいてから呟く。わあ、と思わず声を上げたくなる。男の僕から見ても、様になってる。まるで今時の若手俳優。中高生からおばさんにまで人気のイケメンって奴。まあ、ここは極寒の地、東北。いるのは少しの若年層と、多すぎる老人だけ。自嘲気味に笑う。
「今日、学校ねえな。きっと。今日、雪ひんでえし。俺たち高校生に大雪の日に中学校まで辿り着く根性さねえわな。」
東北訛りが心地良い。グリーンのベストを着た好青年は、いかにも都会っこという感じだが、実は純粋の東北人。スマートな切れ者も文化には逆らえない。
「僕、雪なんて、去年初めてみたからさ、まだ怖さとか分からない。」
「おっかねえど、雪はよ。視界さ遮るしよ、雪崩だって起こす。まさに一年毎にやってくる、獣だな。獣。俺のじいさんも屋根から振ってきた雪に生き埋めにされて、死んじまった。雪はよ、冷たくて綺麗ってもんじゃねえど。ほら、綺麗な薔薇には棘さある。あれと同じだな。氷柱になりゃあ、人なんかすぐ刺せるし、雪崩になりゃあ、人を生き埋めにするもんな。ま、しばらくすりゃあその怖さも分かるってもんよ。」
「津谷はずっと東北に住んでるの?」
「ああ。ずっと、ずーーーっとだ。じいさんのじいさんのじいさんより前からな。んだから、俺は東北の純血種だろうなあ。」
東北の純血種。黒々として細い蜘蛛の糸みたいな髪に切れ長の目。そして雪で作った陶磁器みたいに白い肌。眉は薄く、鼻はすっと通っててやや高い。唇は薄いけど、血より赤い。まるで紅を引いているかのようだ。これが東北の生み出す美人か。
「んならお前は都会の血だべな。」
「そうかも。家族、みんな関東出身だし。」
うねった髪、曖昧な二重、やけに細い顎。宇宙人みたいだと自分で思う。そんな宇宙人の僕はせわしなく前髪を撫でる。津谷の隣にいると、たまに引け目を感じる。
「それ、やめれ。」
「えっ?」
「髪の毛撫で付けんの、やめれ。おなごみてえだし、みったぐねえ。田口は、んなことせんほうが格好いい。」
「かっこ、いい…」
ふいと津谷が顔を背けた。笑っているんだろうか。僕はため息をついてから携帯を開いた。
「ここってなんだか寂しいよね。」
「寂しい?」
「うん。日本列島の極端だし、人少ないし…山多いし、雪だって。」
「…ホームシックか?」
「…そんなんじゃないけど、ただ。」
会いたい人がいた。
僕がなぜ東北にいるのかというと、中学卒業と同時に、両親のイギリスへの転勤が決まり、僕だけが日本に残ったからだ。母の妹の夫の杉山さんがそんな僕の面倒を見てくれると言い、東北へ僕は来た。だけど、近くにいいアパートがあって、今はここで暮らしているけど。ザ・田舎の高校、清流高校。毎年定員割れが起こり、生徒も少ない。いるのは萎びた先生と、華のない女子と数十人の男だけ。ほとんどがゴリラみたいな奴らで、どうしようかと思っていたときに津谷に会った。津谷はやせ型の僕もびっくりするくらいにスリムで、華奢だった。モデルかと思うくらい格好いいのに、僕への第一声は「何だ、おめえ。モヤシみてえな顔だな。」だった。あと、ちなみに津谷は有名私立に行けるくらいに頭が良い。だけど親の意向で清流に入ったらしい。清流に入れさせる親の気持ちが、僕には分からないが。
「ただ?」
「…何でもない。」
「…そうか。なあ、田口」
「ん?」
「おめえ、女、いるんか?」
ぱちん。携帯の音が響いた。
「…なんで?」
「いんや、別に。」
うっすらと桃色になる白い肌。ああ、そうか。清流の男たちは女子に免疫がない。どんなに野獣みたいでも、イケメンでも。
「いないよ。」
会いたい人がいた。
あくまでも過去形。本当はもう、会えないし会いたくない。それに恋人でもない、曖昧な距離感。手を伸ばせば届くのかもしれない距離。だけど手を伸ばせば指に棘が刺さる気がしてこわい。そう、薔薇や雪みたいに。
「そうか。」
「津谷は?彼女とか…、好きな人とか?」
「んー…」
「いるのかよっ」
「いるけどよ…諦めてんだ、俺。」
「何で?津谷、イケメン過ぎるのに。」
「馬鹿言うな。」
津谷は目を細めて笑った。つまらなさそうな顔が剥がれたイメージ。堅い卵の殻の中身、って感じ。
「なあ、田口ィ…」
か細い声だった。紡ぎ方がなってない奴が紡いだ生糸みたい。ギシイ、とベッドがきしむ。津谷が寝転ぶ。なんだよ、という間も与えずに津谷は僕の手を握った。ぞわり、鳥肌。津谷の睫が揺れる。うわ…まずい、綺麗。不覚にも高鳴る胸が情けない。顔と顔とが接近する。え、ちょっと待てよ。
「つ、津谷」
「…てな」
「は?」
「なんてな。俺が野郎のことば好きになるとでも思ったか、馬鹿め」
はあ。男相手にときめいた僕は馬鹿か。からかうように笑い、津谷はまたスマホをいじくり出す。
「…メール。」
「誰から?」
「木下から。」
木下サワコ、農家の一人娘。清流の数少ない女子で、その中でも可愛い方。下膨れ気味の白い顔で、東北美人という感じ。農家出身だから中々気立てもよかった。
「なんて?」
「今日学校あんのかだと。そんくれえ自分で考えれよな。」
「木下、津谷のこと好きだし、しょうがないよ。」
「あんな大根に好かれても、嬉しくねえべ。」
大根。津谷は人を野菜に喩える習性がある。まあ、真っ白くて少し太い木下は大根に見えなくもないが。
「…いくか?今日、学校。」
「ん…いこうか?」
「そうだな。出席日数稼ぐべ。」
しゃなり、と立ち上がる。まるで猫みたいな身のこなしで津谷は準備を始めた。その間に携帯を開く。ピクチャーフォルダ、ロック解除。すると視界いっぱいに彼女の姿が映る。
朝。雪の妖精にもう一度お早うを告げた。
朝
清流は僕らのアパート・メゾン山中から徒歩三分のところにある。今日みたいな大荒れの日はそんな短い道のりもおっくうだ。ざくざくと新雪を新しいブーツで踏む。風が頬の皮を剥がすように痛めつける。ヒリヒリとする指先でそっと触れると氷みたいに冷たかった。向かい風が強く、息もできないし苦しい。東北の冬は厳しい。秋頃からどんどん寒くなっていって、冬には極地みたいな気候になる。冬将軍は日本列島の、特に北側がお好きらしい。そこに城を建ててしまう。それで東北の冬はこんなにも寒いのだ、と思う。津谷の横顔はまたもやつまらなさそう。眼鏡が雪で覆われている。深緑のマフラーも、お洒落なピーコートも真っ白だ。その中で唯一、真っ赤な頬が浮きだつ。
「津谷は白いから、頬が赤くなるんだね。」
そう言っても津谷はそっとマフラーを巻き直すだけだった。びゅおお、びゅおおうと風が唸る。清流の門が見えてくる。そこはまるで、屯田兵を収容する残酷な施設のごとく冷たい。鈍い灰色のコンクリート製。二年も通うが、いつ見てもいい印象は持てない。
「お早う。」
後ろから声をかけられる。やけに澄んだ声だった。
「ああ…お早う。」
「津谷君も、お早う。」
その女子は、薄紅色のリュックサックをポンポンと跳ねさせて去って行った。びゅおお。また風が呻く。
「…木下の奴、学校さ来るなって言ったのによ。」
津谷が腹立たしげに言った。
「そんな意地悪、しなくても良くないか?」
円らな瞳がさっき、僕を捕らえた。それに捕らえられると、妙に彼女を庇いたくなってしようがない。津谷は上履きを履いて顔をしかめる。どうやら冷たかったらしい。下駄箱はほとんどが白で統一されている。上履きの色が多い。みんなは家で冬眠するつもりらしい。
「大根は嫌えなんだ。」
確かに津谷は大根が嫌いだった。二人で炊事は交代でしているが、津谷はいつも大根を使わない。毎回やたらと美しい、日本料理みたいなのを作る。僕が作る、不味い料理を旨そうに食べるのに、なんだか変だ。
十四人しかいない三年生が卒業を控えたこの季節。関東はもう春かあ、とため息交じりに思う。窓際の席から見渡すこの教室には数人しかいない。読書する津谷、津谷を見る木下、豆みたいな小野、獣みたいな利部。携帯の画面がぴかぴかと光る。新規メール、母。
『』
雪(執筆中)