時の空

空は晴れていた。少しの雲がゆっくりと流れていた。青く輝いて月が微かに見えている。まるで海のような空だった。目をつぶってその青さを網膜に焼き付けると新鮮な空気を取り込んだように脳が覚醒した。
石神井公園駅から電車に乗って池袋まで行くと本屋に入って三階まで上がった。海外文学の棚まで行って英国文学コーナーを探していると、僕の隣で十六歳くらいの少女が本を取って読み始めた。その慄然とした綺麗な姿勢が好印象を与えた。僕も本を手に取って読もうとしたけど少女が気になった。
「その本、面白いですよね」突然少女に語りかけられてびっくりしてしまった。
「ああ、この本のこと?」
「ええ、主人公がとてもチャーミングですよね」
まだ読み始めたばかりでなんと答えてよいか分からなかったけど、とりあえず相槌をうった。
「うん、主人公は可愛いと思う」
「劣勢を跳ね返す能力がとてつもないんですよね」少女はそういってから持っていた本を戻した。
「へえー、まだ若いのに海外文学に興味があるなんて珍しいね」
「そうですか?たぶん両親の影響があると思います。大好きなんです、本が‥」
「そうなんだ。僕の両親なんか本のほの字も読まないからな」
「遺伝ってわけじゃないんですね。あの、突然だけどお友達になってくれますか?」
彼女の積極性に驚いてなんといったらよいか困ってしまった。
「う、うん。メールアドレス教えようか?」
「はい、ありがとうございます」
僕は鞄からメモ帳を取り出してメールアドレスを書いて手渡した。
「名前を聞いていなかったね。僕は芹沢(せりざわ)って言うんだけど」
「わたしは田中美咲って言います」
「田中さんか。よくある名前だけど美咲って名前は素敵だ」
「ありがとう、芹沢さん。わたしのメールアドレスも教えときますね」
メールアドレスを教えてもらってから椅子に座ることにした。
「ここの書店にはよく来るの?」
「ええ、学校帰りによく来ます。ほとんど毎日かな。なんせ、読みたい本が沢山あるから。海外文学に興味があるんです。一人っ子だから本が友達みたいなものですね」
「そうなんだ。僕には兄弟がいるけど本を読むのは僕だけだ。小説は想像力を喚起するからほんと面白いよね」
「芹沢さんが一番好きな小説はなんですか?」
「そうだな、ウォーターシップダウンのうさぎたち、かな」
「わたしもその小説大好きです」
「へえー、読んだことあるんだ。あの冒険物語は飽きさせないよね、なんていっても最後が泣かせる」
「ええ、わたしも泣きました。指輪物語もいいですけどウォーターシップダウンは最高ですね」
「うん、目の前に映像が浮かんでくるようだ。中古本で買ったんだけど、あの紙の甘い匂いがさらに読書欲を湧きあがらせる。あんな物語は他に無いよ」
「よかったら、どこかの喫茶店でゆっくり話し合いませんか。本屋で立ち話もなんだし」
「そうだね。ここの隣にスタバがあるから行こうか」
そうして喫茶店で話をしているとあっという間に時間が過ぎていった。こんなに本について話し合うのは初めてだった。
「それじゃあ、もうそろそろ帰ることにしようか」
「はい、けっこう語り合いましたね。こんなに話したのってわたし初めてかもしれないです」
「僕もだよ、楽しい時間をすごせた気がする。また会って話そう」
「ええ、メールもしますね」
「それじゃあ」

アパートに帰ってからゆっくりとソファに沈みこんで今日起こった出来事に思いをめぐらした。先ほどの事柄がまるで夢を見ているような感じがしていた。
コーヒーを淹れて、ゆっくりと飲む。彼女が幻のように思えてくる。いったい彼女は何者なのだろう、そうだ、メールを送ろう。

『こんばんわ。芹沢です。きょうはとても楽しかったです。ウォーターシップダウンのうさぎたち、再読することに決めました。また、あの感動を味わいたくて‥、楽しみです。それじゃあ、またメールします』

少ししてからメールの返信がきた。

『こんばんわ。今日はお会いできて、とても嬉しかったです。芹沢さんに出会えたことはわたしにとって一服の癒しとなりました。またお会いできることを楽しみにしています。ウォーターシップダウン、わたしも読んでみようかな。では、また』

夜の八時。もうあたりは真っ暗だ。俺は一人で目を閉じて意識を集中する。深呼吸をして大きく息を吐く。心地よい寂しさが身を包んだ。孤独であることがなんとも気持ち良い。僕はたった一人でソファに座ってテレビを見ている。ブラウン管に映るニュースキャスターはまるで、原稿を読み上げて僕の方を見ているみたいだ。
歯を磨いてからベッドに潜り込む。目をつぶって今日の出来事を思い返す。田中美咲は今頃どうしているんだろうか。今は十時だ。多分、俺と同じようにベッドに入って眠り込んでいるのだろう。彼女は両親と仲良くやっているのだろうか。兄弟はいるのだろうか。数々の疑問が頭に浮かぶ。なんだかまるで彼女に恋をしたみたいになっちゃったな。しかしこれは恋愛ではない。俺にはもう恋なんてものは代価を払っても買えないものなのかもしれないな。
お休み。そう、呟(つぶや)くと俺は知らぬまに眠りに包まれていた。

仕事を終えてアパートに帰ってくると、携帯電話にメールの受信が入っていた。
『こんばんわ。美咲です。お仕事でしょうか?今度よかったらお会いできないでしょうか。またお話できたら嬉しいです』

時の空

時の空

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-19

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