虚妄
昨日私は悲しかった、孤独を感じた。今日だって相変わらず私は孤独だ。長時間テルと話し、いっしょに笑おうと私はやはり誰にも知られぬ孤独を味う。きかれることは答えるし、はけ口となることにも耐えるし、意見も批判もいうけれど、その底には少しも波だたない苦い孤独感が横たわっている。
1
かろやかな一日のはじまりだ。新しい物語の予感を体中で感じて少女の背筋は震える。
八月の中旬、早朝。窓から顔を出すと冷たい風が少女の頬に触れた。その少女―、真弓は小走りで家中の窓を開ける。狭苦しい三LDKにはトイレとリビングにしか窓がない。風が通るように玄関の扉を開け放った。
アパートに溜まっていたむれた空気を風がさらって行く。床に散乱している無数の紙類が風に吹かれてかさかさと乾いた音を立てる。リビングのテーブルには新聞や雑誌、請求書が山のように積まれ、その傍らでコーヒーが零れたままになり、紙が干からびて赤黒く変色している。真弓はそれらを押しやり小さなスペースを作った。冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぎ、冷凍庫で凍っている食パンを一枚だけレンジで解凍して口に咥えた。地層のように堆積する紙くずの渓谷でささやかな朝食をとった。
まだ誰も目を覚ます気配はない。リビングの窓から見える街もまだ夜の青色を残している。真弓はコップをきれいに洗い、食器棚の奥にしまった。
ベランダに足を投げ出して寝ころんだ。汗ばんだ体に気持ちのいい涼風が部屋に吹き込む。天井を見るとそこには無数のしみが広がっていた。屋根裏で鼠でも死んだのか。血が滲んだような無気味な赤茶色のしみがある。真弓は目を閉じた。そして手足を大の字に広げ、長く息を吐いてから耳をすました。すると蛇口から落ちる水滴の音が山奥でひっそりと湧き出る大河の一滴のような霊妙な楽の音に聞こえた。
数十分うとうとしていただろうか。リビングの時計の針は五時三五分を指していた。
「もう行かなくちゃ」
真弓は顔を洗い、歯を磨き、制服に袖を通した。髪をとかして、薄くファンデを塗った。真弓は鏡の前に立って自分を眺めた。そこには清楚な女学生の姿が映っている。紺のスカートから白い二本の脚が畳にまっすぐに伸びていた。棒のような脚が自分の腰や胸、肩、そして重たい頭を支えていることが少し不思議に思える。
「もう出なくちゃ」鏡の自分に向かって言った。
三つの窓に鍵をかけ、水道の蛇口をきつく締め、玄関の蚊取り線香を消した。玄関の扉をそっと閉める。腕時計を見た。デジタルの文字盤は五時五十九分だった。
アパートの外の世界は澄んだ空気で満ちていた。空は雲一つない。
道に人影はない。真弓は美しい一日の始まりを少しでも持続させようと、ときどきスキップをしながら足早に歩く。ついでに『オー・シャンゼリゼ』を口ずさんだ。下り坂で歌をハミングすると体も心も軽くなる。
学校までは徒歩で二十分ほどだった。真弓の住んでいるアパートは切り崩された山の中腹の住宅街にあり、そこから西へ道なりに下っていくと、白塗りの校舎が緑の裏山を背景に浮き立つようにそびえ立っている。
その高校は旧制中学の伝統を色濃く受け継いでいて、現代的な標語を掲げる気はない。―質実剛健、自律自治―。
大昔の教育者の言葉を繰り返しているだけで特徴のないどこにでもある標語だ。誰もこの標語を言い始めた人物なんて知りはしないだろう。中身のない言葉で子どもを育てて、抜け殻みたいな人間を街に送り出していく。結果、道沿いには日に日に沈んでいく街の風景がある。真弓はその変化の機微を見つけることを毎朝の楽しみとしていた。日露戦争後の忠魂碑、今にも朽ちそうな神社、子どもすら立ち寄らなくなった雑草だらけの公園、年々増えていく空き家。かわりに介護老人施設が道にずらりと看板を並べるようになった。
近所のタバコ屋のお婆さんは真弓が中学のときに亡くなり、今では誰も住んでいない。夏になると打ち水がしてあった店先のアスファルトには埃がたまり、乾いた風がそれを巻き上げる。そこを通る人の顔もどことなく寂しい目をするようになった。
一七歳の少女はその小さな変化に打ち震えた。神経に針を打たれたように体に電流が流れ、あるときは退廃的な小説を読んでいるときのような静かな虚しさが胸をしめつけた。
山の中腹から見渡せる麓の市街にはビルやマンションのあいだに緑が石畳のふちに生える苔のように敷き詰められている。その緑は手入れが行き届かずに野放しにされている街路樹のツツジだった。枯れた枝葉と生き生きと膨れ上がった枝葉が共存してみすぼらしい。この街は少しずつ何かを失っている気がした。
街は共同体としての体裁をかろうじて保ちながらゆっくりと衰退している。だがここが世紀末映画のように人が人を殺めるような血生臭い情景は想像できない。街の人間には人を殺せるエネルギーも無い。この街はいずれ森になり、アンコールワットの遺跡群のようになるはずだ。木々の根で壁を割られ、アスファルトは波打ち、雨風に浸食されたビル群は骨抜きになり砂の塔のようにさらさらと崩れ落ち、河川は街を蛇行して氾濫を繰り返す。きっと美しいだろう。そんな光景が見られるなら長生きするのも悪くないと真弓は思う。
その朝、真弓はある空き家の敷地から大きな葉をつけた草が道に飛び出しているのを見つけた。昨日まではなかったから一日で一〇センチ以上は伸びたということになる。錆びた鉄の門を押しやって入るとその庭はカボチャの蔦と葉で埋め尽くされ、小さな眠れる森のようだった。ところどころに大きな黄色いカボチャの花が向日葵のような陽気さで咲いている。真弓はそれを見て両足で地面を叩いた。この空き家が沈んでしまうのに、そんなに時間はかからないかもしれない。
教室の黒板には『夏休み!』と大きく書かれていて、その他に思い思いの落書きがされていた。真弓は自分の席に座り宿題にとりかかった。家では集中できないので勉強は学校でやることにしている。国語科の教師は教科書をほとんど使わず、自分が選んだ小説などを授業で使う。他の教師のマニュアル的な授業よりはましだった。
教室の時計は六時三〇分。窓の外では剣道部が朝練をしている声が聞こえる。こんな気持ちのいい朝にどうしてあんな不快で野太い声を出すのか。
朝の優しい光は薄く伸びるように真弓のつま先に届いている。そろそろ来るはず。と頭の中で唱えから手鏡で前髪を整えた。今日のために十分に睡眠をとったので頭は冴えているし、肌には張りがあってにきび一つない。やっぱり今日はいい日になりそうだ。真弓は笑顔を作った。
教室のドアがゆっくり開いた。それから一呼吸あいて男性教師が顔を出した。
「おはようございます。満島さん」
「お、おはようございます」真弓の挨拶は切れ切れに教室に響いた。
真弓が立ち上がった拍子に椅子が大きく鈍い音を立てた。その音が静まった後に教師は言った。
「すみません、少し遅れました」
教師は少し申し訳なさそうな顔をした後、眠たそうに目を擦った。
「いえ、ちょうどだと思います。こんな朝早く呼び出してしまってすみません。人前で質問するのが得意ではなくて…」
「いや大丈夫ですよ。私も学校で仕事がありましたし。それで質問というのは課題のことかな?」教師は眠そうな声で言った。椅子に体を横に向けて座り、右目を一度ぐるりと回してから真弓を見た。
真弓が黙っていると、教師は机の上に広げられている作文用紙に手を置いた。その太くて血管の浮き出たごつい手や葡萄のような甘い香水の匂いが真弓を落ち着かなくさせた。
「いえ…あのですね」
「どうしました?」
「課題のことではなくて…先生のことについて聞きたいんです」真弓は振り絞って声を出した。「それは」、と言いかけたところで教師が言った。
「どうして?」
その声は明らかな拒絶か、虚を衝かれて思わず感情を塗り込めるのを忘れてしまったような冷たい声だった。真弓は動揺して答えにあぐねた。時間が一秒二秒と刻まれる秒針の音が頭の中で響いているような気がした。教師の「どうして」という言葉を反芻するうちに妙な威圧感で息まで苦しくなり、余計に声が出なくなる。真弓は大きく息を吐いて重たい空気を肺から吐き出すと話し始めた。
「噂で聞いたんです。先生の左目が見えないのは、恋人を交通事故で失ったときの後遺症だって。先生、授業中に言ったじゃないですか。『太宰治のようには、私は生きられない。あのように生きられたら、ある意味人間は幸せなのかもしれません』って」
真弓は教師の首元を見ながら震える声で言った。
「ええ、たしかに言いました。一学期に『人間失格』を朗読したときでしたね」
どうして親しくもない教師にこんなことを撫しつけに訊いているのだろうか。そのことが大切なことのように思えたからかもしれない。その理由までは分からない。
「なぜそのように先生が考えたのか知りたいんです」
教師はうつむいて哀しげな顔をした。そして真弓に目を向けて単調な口調で話し始めた。
「交通事故という話は事実と違うようですが、人を死なせてしまったのは、何とも言葉に言い表せないですね。後悔や悲哀といった言葉はあまりにさっぱりしていて」
二〇代後半の教師の目の下は青黒くたるんでいた。そこには濃縮された悲哀がたまっているように思えた。真弓は、目の端から零れ落ちそうになっている涙を下瞼で何とか受け止めながら言った。不思議と汗は全くかいていない。
「そのことについて、訊いてもいいですか?」
教師は微笑していた。
「私は過去を隠しているわけでも人に話すことが嫌なわけでもありません。あなたが興味本位で聞きたいだけであっても話さない理由はありません。リアルが減っていると言われるあなたたちの世代にとって小説の中のフィクションよりも感性に訴えかけるものがあるかもしれません。まあ、あなたたちの求めるリアルが何なのか分かりませんが」さらに教師は口角を不自然に引き上げて言った。「と言っても、私の人生など取るに足らないものです。それに当時のことを正確に話せるのか自信がありません。言葉にすると色々なことが嘘くさくなる」
真弓は頷いて、教師が話し始めるのを待った。
「私が大学院の二年の秋でした。えっ私には永沢サキという恋人がいました。私たちは就職も決まり、来年からは一緒に住もうと決めていて、ちょっとうかれていた時期でしたねえっ。その日、私たちは予約していたレストランに向かう途中で、彼女は助手席に座っていました。私は婚約指輪を彼女に渡すつもりでいました。えっ緊張のせいで彼女との会話はどこかぎこちなくて、私は黙って運転に集中しようと思いました。ですがしばらく黙っているうちに妙な不安がだんだん胸に垂れこんできました。婚約するのは時期尚早じゃないかと思いはじめていたからです。就職先が決まっていたとはいえ、私たちはまだ学生で社会の厳しさに茫漠とした不安を抱いていました。私はその厳しさのなかでも自分が愛を見失わないという確信が持てませんでした。えっもちろん、そのときは彼女が私にとって大切な存在であることに自信を持っていました。ですがそれは与えられるだけの世界で生きているからだとも思っていたんです。親からの仕送りで衣食住に困らず、好きなだけ知識を吸収できる時間と環境があるからなのではないか。その何もかも満ち足りた世界で、それでも埋められないなにかを埋めるという条件のなかだけで私たちは惹かれあうのではないのか。もしその条件が崩れて空白を埋めることに意味をなくしてしまったら、私たちは何を補完しあう必要があるのか。彼女と私の繋ぎめは砂漠のように厳しい条件下ではまったく不一致になることだってあり得るかもしれない。それを思うとたまらなくなりました。東京のどこに住んで、どんな家具を揃えて、月に一度はデートに出かけようと、そんな表面的な話はいくらでもしました。でも私たちは本当に大切なことは何一つ共有していませんでした。その不一致が二人のあいだに横たわり始めたときにどうするべきなのか、まったく想像すらしていなかったのです。えっ私はそんな不幸せな仮説を窓から捨て去ってしまいたかった。でもそれが明日には実証されてしまうかもしれないと思うと、その考えをいつまでも保留しておきたくなったのです。そしてその日、私は指輪を渡しませんでした。私たちはレストランで新生活に向けての実務的な話しあいを坦々とこなしました。それから大学院を修了して同棲を始めました。話しあった通りにソファやテーブルを新居に並べて、二対の食器で私が作る料理を食べるようになりました。えっ彼女は一度も料理を作ってくれませんでした。どうしてか、彼女には味の感性がまったくなくて、ある食材にどんな調味料で味つけをしたら、食べられる味になるのか想像できなかったのです。彼女自身もそれは自覚していて、『味覚障害なのかしらね』と言ってよく笑っていました。なので、じっさいのところ料理をしないというよりはできないのに近かったようです。料理くらい何度も作っていればうまくなると思いますよね。えっでもダメなんです。彼女は何度やっても何かしらの失敗をするんです。これはもう感性とかセンスだけの問題ではなくて根本的な集中力が彼女に欠けていたのかもしれません。ですが彼女に集中力がなかったのかというと、そういうわけではなかった。彼女は休みの日は半日くらい続けて本を読んでいました。飽きもせずに。彼女はぼおっと何かを待つということには自制がききませんでした。彼女は…、手持ち無沙汰でいることを極度に嫌がった。えっ恥ずかしい話ですが、私はよく待ち合わせに遅れたんです。それで、付き合いはじめの頃はよく彼女に怒られました。もうその日は一度も笑ってくれないほどでした。その頃の私は頑固だったんですね、怒られても時間を守ろうとはしませんでした。私が時間を守る気がないのを悟ると、彼女はデートのときでも文庫本を持ち歩くようになりました。彼女は時間を空白に染めることを極端に嫌がっていた。えっ一人で物思いに耽って時間を埋め合わせることができなかったんじゃないか。あるいは彼女の頭には常に何かしらの不安が一定の圧力を持って存在して、本を読んだりして意識を常に一杯にしていないといけなかったのかもしれない。料理は他のことを考える余裕がないようで、えっけっこうあるんですよね。特に食材を煮たりしているときなんかはね。きっと鍋を見つめる時間が彼女には苦痛だったのでしょう。じつは何度か彼女が料理に取り組んでいるのを見たことがあるんです。料理雑誌を片手に持って、なんだかほほえましかったですよ。気づいたらソファで本を読み耽っていましたけどね。えっ私はそんな彼女を見ても気にも留めませんでしたが、そのことは彼女の本質を理解するにはとても重要なことでした。料理ができない。このことは彼女の精神がいかに複雑でややこしく絡みあった状態であったのかを教えてくれます。話が逸れましたね。それで、同棲をはじめて一週間くらいでした。うまくいかないことに気づいたのは。思ったより早くに緊張が二人のあいだに垣間見えたので少し驚きました。でもそれは単なる生活のすれ違いからではありませんでした。えっそれは彼女の空白が勝手に大きく膨らんでしまったから、だと今は思っているのですが。おそらく彼女はひどい不安感を抱くようになっていました。それは巨大な人生の時間と空間に対して卑小な自分の存在を把握してしまった、ある種の虚無感みたいなものだったんじゃないでしょうか。えっ広がりすぎた空白を本や仕事は満たしてはくれません。私も例外ではありませんでした。私の存在は彼女の心に触れることすらなかった。その空白を埋めることはできるものは一つもなかったのです。埋まらない部分に不安がそっとそそがれていきます。人間の瞳から色が失われるのをはっきり見たのはそれが始めてでした。えっ日々、感情が底冷えしたような冷ややかな瞳になり、彼女の指先はだらしなく垂れ下がっていました。それを見るのは苦しかった。以前は指先にまで意志が行き渡り、彼女の所作は一つのアートのようだと思いながら眺めていましたから……。えっとにかく、私は手当たりしだいに色々なことをやってみましたが、うまくいかず、結局は時間の流れにまかせることにしました。もっと正確に言えば、彼女の頭の中で何かしらの変化や創造が行われるのを待つことにしました。それはつまり諦めたとも言えるでしょう。えっ無情にもそれすら効を奏しなかった。どうすればよかったのか今でも分かりません。そもそも不安というものがどこから湧き出ていたのか分かりませんでしたし、彼女の空白が巨大化してしまったこと原因については見当もつかなかった。一緒に生活をはじめてから半年後に彼女は寝室で眠るように死んでいました」
教師は『えっ』というどもりの口癖を挟みながらよどみなく話した。その口ぶりには古い記憶を探るような態度は見受けられない。それは見慣れた景色について語るのと同じようだった。あるいは、その記憶の群れは従順に飼いならされた羊のようで必要とあれば徹底的に解剖してみせることができるのかもしれない。彼が手際よく一頭の羊を解体していくとただの羊が多くの神秘をその身に隠していることがあらわになる。すなわち、ありふれた記憶を紐解けば、そこには複雑な事象が絡み合っていることが理解できると同時に、その記憶を取り巻く幾重もの小さな記憶の繋がりからなる巨大な記憶の全貌を把握することは極めて困難であると思い知るのではないか。話し終えた教師の顔は、一気に皺が増え、瞳に力が無くなっているように見えた。
「そんなことが…」真弓は何か他に言おうとしたが、どんな言葉も不適切なような気がした。
「もう六年がたちますね」
「結局、婚約はしなかったんですか?」
「ええ」
真弓は教師の言葉の端々に後悔の念があるのを感じた。それはつまり、やはりこの教師にとってこの出来事に終止符が打たれていないことを意味しているのではないか。
「先生、こんなことを訊くのはとても失礼なことかもしれませんが、まだその人のことを好きなんですか?先生はまだ独身ですよね。そのことを引きずっているんじゃ?」
「いえ、そんなことは。もう六年も前のことですから。もちろん忘れたわけじゃないですが、私が独身なのは自身の性格のせいだと思いますよ」教師は苦笑いした。
「じゃあ、先生には暗闇がないんですか?」
「くらやみ?何のことです?」
「暗闇の中を彷徨っているような気持ちのことです。あてもなく不安で孤独で世界を憎むような」
真弓は自分でも何を言っているのかよく分かっていなかった。しかし友人達の自作自演の安っぽい悲恋の話ではなくて大人の哀しみについて知りたかった。
「さあどうかな。それはもう過去の中にだけあるような気がするんです。あのときにもっと自暴自棄に生きていたら、もう少しまっとうに他の誰かを好きになれたかもしれない。辛い時期にただ黙って生きていたので、あらゆる感情が心の底に沈んでいくのをただ見ているだけだった、そんな気がします」言い終わると教師の喉がごくりと動いた。
「どういうことですか?」
真弓はいつの間にかひどい手汗をかいていた。
「サキが死んだときの感情のスパークは愛や温もりと、あなたの言う暗闇の中にいるような感情を溶かして一つにしてしまうほどの熱を出しました。もう彼女を愛していたのか憎んでいたのか分からない。愛と憎しみはコインの裏と表と言いますが、そのコインが私の手のひらで溶け出して価値の無い鉄塊になり果てたんです」
高校二年生の真弓には愛や憎しみという言葉は浅はかに感じられ、真実を正確に語るうえではあまり適さないように思えた。
「どういうことなのか、わかりませんが…」真弓は言った。
「つまりですね、」教師は大きな咳払いをした。その絡まった音が教室に反響した。「人は辛いことがあると人に悩みを打ち明けることで心の安定を保とうとします。それがアルコールで酔った勢いであろうが何でもいいのです。そうすることで光と影が癒着して修復不可能になるのを防げるのだと思います。でも私はそういった分かち合うことを一切しませんでした。両親にも、親友にも、誰にも。五か月、誰にも会うことなく部屋に閉じこもっていました。はじめのうちは生きていることが苦痛で意味のない声を上げて気を紛らわせていました。『クソ!』とか、『ああ!』とか。私の中にも空白が広がっていました。が、そこに不安はもれ落ちてきません。ずっとからっぽのままでした。その空白とは、今まで彼女が住んでいた土地であって、その場所は主を失い、荒れ果て渇いていくだけでした。
私は母が運んでくる食事を一口だけ食べ、水でむりやり固形物を流し込みました。砂のような味がしたからです。トイレにもいかず、ペットボトルに尿を溜め、ときどき思い立っては適当な小説の文字をぼんやりと眺めました。一か月もすると声すら出さなくなりました。それからは気ままに窓の外の風景を見ている生活でした。右の尻が痛くなれば左の尻を下にして寝返りを打つだけでの時間の使い方です。ベッドの横の窓からは公園の桜の木が見えました。そこに集まる鳥の鳴き声だけが、私の部屋に響く唯一の音でした。実家の周りは空家で人も通らない田舎で、両親も日中は仕事でいません。夜も私に気を使ってほとんど物音は立てませんでした。春、ある暖かい日でした。私は妙な鳥の鳴き声を聞きました。それは一定の間隔で同じ場所から聞こえ、家の中を歩き回っていたら聞き逃してしまうような小さな鳴き声でした。鳥の鳴き声だけはよく聞いていたので何時にどういう鳴き声が聞こえるかまで把握していました。私はそれがいつもと違うことにすぐ気づきました。五か月の間にすっかり細くなった手首や足首に力をこめて起き上がって見てみると、家と公園の間の道路に雀が一匹うずくまっていたんです。いくら、車の通りが少ないとはいえ父の車が帰ってきたら気づかずに潰されてしまいます。不思議なことに善意だけは私を突き動かしました。何の迷いもなく裸足で玄関から出ると、私はその雀を優しく拾い上げ公園まで運びました。雀を木の雨露に置き、傷ついた羽が治るまではじっとしているんだぞと囁きました。その木から去ろうとしたとき、それが桜の木だと気づきました。花が満開に咲き誇り、盛大に花びらを散らしていたんです。私はやっと、自分が外の出たのだと軽い感動を覚え、少しのあいだ公園のベンチに座り桜を眺めました。これは更生の第一歩なのだと、回復の兆しなのだと思いました。しばらくそうして眺めていると、花びらがくるくると回りながら落ちてきて、私の右目に覆いかぶさりました。次の瞬間、静かに音もなく、全身の筋肉が規律を失い、私は地面に軟体動物のようにへたり込みました。桜を少しも美しいと感じていないのです。それは本当に初めての感覚でした。桜は美しい、それは一般論としてある。でもいったいどこの器官でそれを感じたらいいのか分からない。目か、耳か、匂いか、それとも脳のずっと奥深くにある本能か。私は自分の心を探しました。心は胸にはありませんでした。心は入り口も出口もない頭蓋のなかにありました。そこでただ沈黙していたのです。視界が歪んできました。左目がひどく濁っていました…」
真弓は鼻頭がじんわり熱くなり、それがすうっと頭に上っていくのを感じた。
「左目が見えなくなった原因は何なのですか?」
「さあ、病院では心因性の視覚障害ではないかと言われました。まあ端的に言えば、原因不明なのかもしれません」
真弓にはこの教師が本当のことを言っているのかは判断できなかった。よくできた作り話のようじゃないか。だいたい、この男の言うように愛と憎しみがいっぺんになくなってしまうようなことがあり得るのか。それでどうやって生きていけるのか。ただ教師の言う心の波打たない水面を思い浮かべることしかできなかった。
「感情が一時的になくなったということ、なんですか?」
「そうですね。そういった状態に近いかもしれませんね」
「それって、虚無感とかそういうのとは違うんですか?」
「違いますね。明らかに違います」教師は確信を持って答えた。
真弓は顔を教師に近づけ、その皺の一本一本を見つめた。彼の頭のなかにいったいどんな世界が広がっているのか不思議でならなかった。
「先生はどうして何も感じていないと言い切れるのですか?だって今、私と話しているじゃないですか」
教師は真弓から目線をはずし、廊下の窓から見える中庭の菩提樹の方を見たまま黙り、何かに思いをめぐらしているように目を眇めた。
朝の冷たい空気はいつもの粘ついた熱い空気に変わろうとしていた。
話せば話すほど違和感を味わった。以前、友人にこの話をしたときには何も感じなかった。「本当に何も感じないのか?」この女生徒にそう問われると分からなくなる。感情の起伏を無くした?それが何を意味しているのか、自分でもよく理解できていないのだと知也は思った。
知也は女生徒のすい込まれそうな瞳に何かを暴かれるのではないかと一瞬ひやりとした。思わず右目を逸らして教室をぐるりと見回した。校内は相変わらず生徒の気配はなく静まり返っている。知也は女生徒が言ったことには触れずに答えた。
「きみは何を知りたいのですか」
それから女生徒は手をそっと胸にあてて言った。
「じつは、私も中学のときに幼馴染の男の子を死なせてしまったんです。まだ私たちは今よりもずっと子どもだったけど、確かに恋人と呼べる人でした」
そう言った女生徒の頬は赤く高揚し、瞳は潤み、まるで懺悔でもしているかのような切実な表情だった。その瞬間、知也は胸がちくりと痛むのを感じた。自分の話したことが女生徒にとっておそらく、あまり良い話でなかったと思ったからだ。
「そうだったんですか」知也は小さく息を吐き、足を組み直した。
「あの、私はまだ彼のことを忘れられないんです。どうしても毎晩寝る前には顔が浮かぶし、教室で授業を受けていると彼が同じ教室にいるような気がするんです。このまま彼のことを好きでなくなるのも嫌ですし、他の誰かを愛せずにいるのも良くないことだと思うんです」女生徒は惚けた顔で言った。
「きみをよけいに悩ませてしまったかもしれません。すみません」しかし知也は女生徒への助言が適切でなかったことへの後悔よりも、自分が動揺していることに妙な気持ちを抱いた。「話してくれませんか。先ほども言った通り、人間は誰かに自分の想いを話して分かち合うことで愛と憎しみの独立性を保つことができる。話を聞くだけなら私にもできると思います」
女生徒は小さく頷いた。
知也は生徒の話を聞くことには慣れていた。話を聞く以外のこと、つまり励ましたり慰めたりすることはなかったけれど進学先などの確かな情報をあらかじめ調べ上げて、彼らに伝えることはした。だが生徒たちは理想的な進路選択を提示されても納得はしない。一方、生徒は進路について真面目に考えることも調べることもしない。それは単に怠惰であるのか、自分の将来に無関心であるのかと、はじめはそう思っていた。でもそうではない。彼らは新しい可能性を知ることで寧ろ迷いが生じて、自分が本当にしたいことを考え始めなければならないことが嫌なのだ。本当にしたいことなんてあるはずもない。そこまで何となく分かっているのだ。それを考えるのは辛い。だからその問題を先送りにしたくて納得しないのだ。「ハイ」と言わせることは知也にはできない。この女生徒に対しても同じだ。
「こんなこと話すのは先生だけです。私も先生と同じように、まだ誰にも話したことがないんです。でも、やっぱり辛くても話すべきなんでしょう」
「そうですね。私の経験から言わせれば。話すことで哀しみが一時的に増すかもしれません。それは覚悟しなければなりません。ここまで話をすれば嫌でも頭の中で辛い記憶が再生されているかもしれませんが」
すみません。と知也は付け加えて言った。
「相手が先生でよかったです。ちょっと長くなるというか、彼と私がどんな関係だったのかってところから話してもいいですか?」
「好きなところからどうぞ。余すことなく話してみたほうがいい」
女生徒は胸の前で手を組み、ぎゅっと力を込めた
「彼のことは、幼稚園に入る前から知っていました。親同士の仲が良くて、家族ぐるみの仲だったんです。彼の家は私の家から三軒隣にあって、同じ町内では彼が唯一の同級生でした。小学生に入るまでは本当に毎日のように遊んでいました。街中を探検して歩いたり、テレビゲームをしたり。こんな昔からですけどいいですか?」
知也は小さく何度か縦に首を振り、優しい目を見せた。
「でも、小学校に入る直前に彼は引っ越していきました。それほど遠くではありません。同じ小学校の学区内でしたから。それまでの家は借家だったので別のところに新しく家を建てたんです。それでもまだ五歳の私には、彼がとても遠くに行ってしまったように感じました。小学校に入学すると同じクラスに彼がいました。それで昼休みに彼の傍に駆け寄って廊下で話しかけたんです。でも、彼はなかなか私の顔を見てくれません。私がどうしたの?と聞くと、彼は黙って他の男の子たちと外へ遊びに行ってしまいました。それがとても悲しくて、ぐっと熱いものが体中から目に集まってくるのを感じました。その時は我慢しましたが、家に帰ってからむせび泣きました。私にはどうして彼に無視されたのか分かりませんでした。後になって思ったのは私が女の子だから一緒に遊ぶには物足りないと思ったんじゃないでしょうか。小学校には新しい同級生がたくさんいて、その中で私よりもっと気のあう遊びができる相手を見つけたんだと思います。それから彼と私はただのクラスメイトとして過ごしました。小学校以前のことは彼とは一度も話しませんでした。中学生になってからです。彼が小学生以前の私の存在を認めてくれたのは。先生は『タッチ』っていうマンガを知っていますか?」
「ええ、知っていますよ」
女生徒は話しているうちに身を乗り出して、身振り手振りをふんだんに盛り込んで話をしていた。それを見て知也は少し安心した。
「そのマンガを男子たちがクラスで回し読みしていたんです。『自分もこんなかわいくて面倒見のいい幼馴染がほしーな』なんて言いながら。で、彼が訊かれたんです。『お前は幼馴染とかいないのかよ?』って。私は廊下側の席で本を読みながらその話を聞いていました。すると、彼が黙って私の方を指差したんです。それから教室で『えー、満島かよ!なんだよ、全然知らなかったよ』とか『満島って、ちょっとかわいいじゃん。付き合ったりしないのかよ』なんて声が聞こえたんです。私は恥ずかしくて黙っていました。でも、本当はすごく嬉しくて、彼のもとに駆け寄って、これまでどうしてろくに話もしてくれなかったの?とか、あの頃はあんなことして遊んだよねとか、とにかく七年間溜まっていた私の想いを全部吐き出してしまいたかった。きっと彼と最後に遊んだ日にした睨めっこがまだ続いていて、やっと今終わり、私たちはまた一緒に笑いあえるのだと、そんなふうに思いました。でも、その数日後でした。彼は死にました。母親に殺されたんです。彼の弟も一緒に。深夜寝ているところを包丁で首を刺されて。その包丁は発見されるまで首に刺さったままだったそうです」女生徒はプリントに当時の状況を書いて整理しながら話を進めた。「不思議に思いました。彼の母親はとても穏やかで優しい人だった記憶しています。彼と話さなくなってからも母親とはときどきすれちがって長々と話をしたこともありました。とても自分の子どもを殺すような人には見えなかったです。新聞に〈動機は借金が重なっての一家心中〉と書かれていました。また彼の父親は出張中だったそうです。それもおかしな話でした。当然、子どもの私には見て話しただけでは相手がどのくらい思い詰めているのか気づくことはできなかったのかもしれません。そうだとしても納得のいかない材料が多すぎるんです。彼はなぜ死ななければならなかったんだろうか。もし昔みたいに平気で彼の家に上がれるようだったらどうだったろう。彼の家に降りかかっていた不幸をはらうことができたんじゃないか。彼の母親に会ったときにもっと家庭について訊きだしていたら、予感のようなものがあったかもしれない。そういうことばかり考えました。それで考えれば考えるほど、私にも責任があるような気がするんです」
女生徒の目は何かを探し求めるように見開いて動き回り、焦点を失っていた。
「だから私が死なせたようなものなんです」
そう言った彼女の動きは完全に止まった。耳にかけてあった髪がはらりと頬に落ちた。
この子はまだたくさんのことを整理できていないのだろう。不可解な偶然の連続が持つ悪魔的な魔力にとりつかれてしまったんだろうと知也は考えた。偶然というのはいつだって人の心をまどわす。運命を信じない者だとしても偶然は信じられる。些細な偶然は彼らを知らず知らずのうちに別の世界に押しやってしまう微細な力がある。
「きみは彼への執着が強いあまりに勘違いをしている、ということはありませんか。中学生の頃、すでにきみは彼のクラスメイトでしなかった。きみに何かできたとは思えない」
人間を憎む野犬のように純粋な憎悪の視線が知也の眼に飛び込んできた。下を向いた女生徒の前髪に隠れた眼は凶暴な光を放っていた。はじめは笑おうとして失敗したのかと思った。でもそうでないようだった。その憎悪はしっかりと彼女の瞳孔に宿っていた。
「どう、したんですか?」知也は言った。
「はい?」
知也は何度もまばたきをして女生徒の顔を見直した。
答えた女生徒は、青白く、清純な笑顔を浮かべていた。
○
枕から香水の匂いがした。それは葡萄のように甘く芳しい香りだった。
「こうやって、私のこといつまでも好きでいてくれる?」
本郷美奈子は知也の耳元で囁いた。
「他に好きになるあてもないからね」と、知也は答えた。何それ、と美奈子が言う。
美奈子と付き合い始めてから一年が過ぎているが、他に一緒に生活していこうと思える人と出会える気がしなかった。同時に知也は女性を心から愛することはないと思っていた。
美奈子は知也をありのまま愛してくれていたし、とても生活力のある女性だった。彼女が作る料理はどれも味にすきがなかった。それは何十年も台所に立ち続けた母親の料理のように変わらない安心感があり、ある種の郷愁さえ覚えるほどだった。若い女性の作る料理にはおさまりの悪い味であったり、居心地の悪さを感じさせるものではないか。
彼女はよく気がついてくれるし、それでいて怠惰な姿も見せない。知也が部屋に頻繁に訪ねてきても嫌がらない。顔立ちは派手気はなく化粧も薄い。骨折もしなさそうな頑丈で短めの手足、短く刈りが上げられた髪型は闊達な行動力と母性的なものを知也に感じさせた。それはつまり永沢サキとは正反対だと言っていい。
「私もさ、他の人は恋愛の対象で見られなくなった」
どうして知也を好きになったのだろうと美奈子は思う。これまで自分が好きになってきた相手とは明らかに違うタイプの男だった。例えば、こう、彼の耳元で吐息を交えて囁いてみても、彼は感じるどころか、よりいっそう眠りの中に落ちていくだけなのだ。彼には性欲というものが存在しないのではないか。いつも舌や指で丹念に愛撫してくれるばかりで、まだ繋がったことはない。でもそれは美奈子にとっても都合のいいことだった。美奈子もほとんど濡れなかったからだ。いつもプラトニック特有の温かな快感が静かに美奈子を包むだけだった。それは動物的な肉欲よりも人間の生活に必要な温もりだと美奈子は思った。
「それはよかったよ。きみが色目なんて使うのを見たら気絶するかもしれない。だって、そういうのはきみには似合わない」
知也はいつも美奈子を『きみ』と呼ぶ。名前で呼んでくれることはほとんどない。普通の男はもっと優しく名前を呼んでくれたりするのではないかと美奈子はじれた。「ねえ、私の名前」そう美奈子が言うと「美奈子」と知也は誠実な声色で言った。何か重大な告白をするときに女の心を自分に向けさせるみたいに。でもそれに続く言葉はなかった。時折、知也の声色は美奈子をはっとさせた。何か悟りきってしまったような人生観と同時に矮小に思える彼の世界観は美奈子には理解しがたい。しかしそれが彼に惹かれた理由なんじゃないかと思った。未知に惹かれるのは誰にでもあることだけれど芸術家や作家たちの退廃した、あるいは耽美な思考回路には興味もない。彼の中にある未知はいったい何か。そこまで考えて自分はそれを知りたくて彼の傍にいるのだということに美奈子は気づく。
「今日、ずいぶん早くに学校にいたよね。めずらしい」
「ああ、剣道部の朝練できみを見かけたよ。毎朝、あんな大変そうなことをしているんだね。ずいぶん熱心だけど、どうして?」
「汗と涙、それこそが青春。そしてあの子たちには青春を謳歌する権利があるもの。徹底的にしごいてやるのが、大人のつとめだと思うわけよ」
「たしかに僕にもあんな青春があったよ。みんなで大声出して体を鍛えて、有り余るエネルギーを昇華させていくんだよね。大会なんて暫定的な目標もあったけど目的なんてなかったように思う。みんなで何かに向かって行進していくのがただ楽しかった。でも今僕が思うことはそういうことをしない若者はどうやって思春期を過ごしているんだろうってこと。恋愛、部活、趣味、勉強、いろいろあるけど、何もしない人はどうやって生きているんだろう。どこにエネルギーを変換していけばいいんだろう。あるいはエネルギーを使わない生き方というのが可能なのだろうか。なかには不良と言われるような反抗的な態度をとる者もいるだろうけど。もっと従順で羊のように生きている生徒たちはいったい何者になろうとしているんだろう。たしかにあの羊たちは集団のなかで不個性に見えるけど彼らの精神にはまったく違った宇宙が広がっている気がするんだ。でもそれは当たり前といえばそうだ。みんな違う環境で生きていて違うきっかけで羊になったんだから。みんな何者でもないという点では同じなのに、絶対的に違うんだ。僕はどちらかというとそういう羊たちの価値観に可能性を感じているのかもしれない。でも大半の羊はあの世まで問題を先送りにしているんだと思う。だからその中に潜んでいる羊の亜種に僕は会ってみたい。その毛色の違う羊は人生における問題を先送りしないで生きている存在だと思うから」
「あなたはいつも急に話が長くなるのね」美奈子は笑っていた。
「今日、女生徒から相談を受けていたんだ。でもあまり簡単なものじゃなかった。それで少し考えてしまったんだ。難しい年頃に解決不能な体験をしてしまった子どもは出口のない迷路に迷い込むことになる。僕にできるのは迷路の外から声をかけてあげることくらいかもしれない」
「大人でも解決不可能な体験か…。そういう壁に早くにぶつかったら子どもにはやりようがないかもしれない。壁の前に立ったら、右と左を見比べて良さそうな方に歩いていくしかないと思う」
「でも、そこで壁の向こう側を夢想するのが、子どもなんだよ」
「うん、そうかもしれないね。私だってそういう時期がなかったわけじゃない。本当よ。でも思いかえしてみると、私は右か左かに舵をきった覚えはない。気づいたら景色が変わっていたもの。壁は壁じゃなくなっていたもの。でもめずらしいわね。知也が生徒のことを考えるなんて。その子はお目当ての羊だったの?」
「さあ、よく分からない」
知也は美奈子に背を向けて眠ろうとした。すると美奈子が知也の首筋に顔を押し当ててきた。窓の外にぼんやり浮かんでいる月を知也は見た。月明かりがベランダの手すりを銀色に輝かせている。その光は部屋に滑り込んでくると濃紺に変わる。知也はふと、自分が暗い海に沈み込んでいくような錯覚をした。体に力が入らず、美奈子の寝息も、シーツが肌を擦れるこそばゆい感覚も薄れる。意識が暗い海底に沈んでいく。そのままどこまでも沈んでしまいそうだった。やがて知也は海底に自分の体が漂っていることに気づいた。そこでは「黒」だけがひっそりと知也を取り巻き、堆積した泥を掴むことだけに安心感を得ることができた。途端に胸に少しの不安が湧いた。頭上に光が見える。海面から射す一点の光に向かって闇雲にもがく。呼吸や心拍の存在を忘れ去る。畏怖だけがある。このままいつまでも暗くて息もできない海底に永遠に留まることが怖い。その畏怖はじんわり胸の内に広がっていく。重い海水を押し退けて進んでも畏怖はどこまでも横たわり、それが肺を通して体中に増殖した。それでも光を求めて体中に力を込め続ける。…
知也は体が錆びた鉄のように重たいことに気づいて目を覚ました。暗い部屋で暗澹たる気分で過ごしていたときですらこんなに体がだるかったことはない……。朝は絶望とは無縁のところにあるべきだろうと思う。知也はしばらく指先を動かしながら、体が冬眠から覚めるのを待った。手先が少し温まると、枕の横に投げてあった文庫本に手を伸ばして活字を目で追った。知也は酒やたばこをやる変わりにひたすらに小説を読む。ここ数日にわたってはアンデルセンの即興詩人を読んでいた。その活字には人間を現代社会に適応させていくためのあらゆる有効性や機能性が排除されているように思えた。そこの言葉は読む者をしばらくのあいだ本のなかに住まうようにと静かに取り囲み壁を作り上げてしまう。その本は教養のために急いて読んでも、役立つ教えを見出そうとしてもしようがない。その土地は周りから閉ざされていて、どこへも行けないし、仕事もない。その世界を味わうことで生を営むしかない。
文章を十分も読んでいるうちに知也の体に居座っていた気怠さは掻き消されて、頭はいつも通りにすっきりとしていた。キッチンでは美奈子が朝食を用意しながら動き回り、洗濯機を回す音も聞こえる。知也はその音を聞きながら実家を思い出した。小さい頃は、早朝から喧しく洗濯機や掃除機などの音をたてる母親を自分勝手だと思いこんでいた。でも大人になりその生活音が心を癒してくれる心地よいリズムだと思うようになった。
キッチンからバターとコーヒーの匂いがして空腹を刺激した。そのおかげで手足にまで血がめぐり始めた。知也はベッドからのそのそと起き上がりバスルームに向かった。薄手の寝巻がやけに重く感じられ、脱ぐのに無理やり肩を上げたら関節がぎりぎりと鈍く軋んだ。
蛇口をひねり熱いシャワーを浴びた。脊柱の一つ一つが眠りから覚めて起き上がる。しだいに姿勢が良くなってきた。
「あれ、朝にシャワー浴びるなんて」脱衣所から美奈子が言った。
「体が冷えちゃってさ」
「昨日、冷房が効き過ぎちゃったかな」
「そうかもしれない。きみはどうだった?」
洗濯機のスイッチを押す音が聞こえ、返事はなかった。
「昨日、女生徒と話してから調子がおかしいんだ」知也は一人ごちた。
二十六歳を超えたあたりから、知也の平静な心とは裏腹に体に異変が現れることがあった。自分には把握できない精神の機能が心の空洞の水底にあって、それは知らないうちに外の世界と共鳴し始める。原因は明らかに昨日の女生徒だった。知也は女生徒のあの凶暴な顔を思い出していた。あの顔は永沢サキと似ていた。でもそれが何だ。左目を失明しているせいで相手の顔が歪んで見えたりすることはままあることだ。知也は美奈子が置いてくれたバスタオルで体を拭いた。柔軟剤の匂い。それは美奈子の匂いの一つでもあり、知也はかろうじて昨日の記憶から逃れることができた。
「朝ごはんできてるよ」美奈子が顔を出した。
「すぐ行くよ」
知也は寝室に戻りスーツに着替えた。シャツは綺麗に洗濯されてアイロンまでかけてあった。
広々としたリビングのテーブルに美奈子が座って待っていた。知也は向かいの椅子に座った。
「さっぱりした?」
美奈子はよく通るやわらかな声で言った。
「もう大丈夫。それから、今日は学校が終わったら自分のアパートに帰るよ」
「そうよ。たまにはそうしてもらわないと迷惑よ」と口をとがらせて言う。
知也は首から深く頷いた。
「冗談だよ。じょーだん。本気にしないでよ?」
「分かってるよ」知也は静かに言った。
知也の顔は青ざめていた。こんな知也を見たのは初めてかもしれないと美奈子は思った。知也は無口だが、冗談にはそれなりのユーモアを持って返してくれる。
「コーヒーの味はどう?今日はインスタントじゃなくて、豆を挽いてみたんだけど」
知也はまだコーヒーに口をつけていなかったことに気づいて、それを少しだけ口に含んだ。
「ああ、そうだね。いつもより、酸っぱいな」
「モカなんだけど?」
「へえ、そうなの。あんまり詳しくないから分からないけど。香りが全然違うね」
美奈子はテーブルの真ん中にあるサラダボールのレタスにフォークを刺すと、そのままの恰好で知也を見て言った。
「ねえ、どうしたの。元気ない。やっぱり何かあったの?」
「いや、昨日うまく眠れなかったせいだよ」
本当の事情を話したところで、彼女を困惑させるだけなのは分かっていた。永沢サキに関係することは彼女には話さないと知也は決めていた。
「そうなのね。分かった。じゃあ、今はそういうことにしておく」
「僕が昨日見た夢の話ならいくらでもしてあげられるけど、聞く?」
「やめとく。知也の見る夢って私の知らない人ばかり出てくるんだもん」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
知也は少し口元をほころばせて笑った。
彼を笑わせること。それがたとえ半分は作り笑いだったとしても、そうさせることが美奈子にとって今を生きるための唯一の救いだった。
●
美奈子のアパートを出て駅まで歩いたが、満員電車に乗ることが躊躇われてタクシーで学校に行くことにした。市街にある美奈子のアパートから山の麓にある学校までは電車で三〇分、車なら二〇分ほどだった。市街は通勤のサラリーマンや学生であふれていた。みんなこのせわしなさのなかに身を置きながら懸命に生きている。振り落とされないように誰かの後ろ髪を引っ張ってでも生活を保とうとしている。もしそんな人々の連なりが目に見えて分かったらさぞ滑稽なのだろうと知也は思った。
タクシーの窓から見える九月十日の空には数種類の雲が制空権を争うように、それぞれが折り重なって浮かんでいた。学校の近くのコンビニでタクシーから降りるとできたての積雲が手の届きそうなところにあった。思わず、手でかき混ぜて散らしたくなる雲だった。
学校は二学期が始まって二週間がたっていた。生徒が続々と学校に向かって歩いている。校門の手前で、生徒指導の美奈子と目があい、「宮森先生、おはようございます」と挨拶をされて、「ええ、おはようございます。朝からご苦労様です」と返事をした。まじめな校風で地域からも信頼されているこの高校の正門では、朝から生徒指導を受けるような生徒は見当たらなかった。生徒たちは華麗に校舎に歩みを進めていった。知也も何人かの生徒と挨拶を交わしながら校舎に向かって歩いた。知也は職員会議が始まる五分前に自分の机に辿り着いた。
朝の職員会議では、近ごろ地域で頻発している交通事故についての意見がいくつか交わされた。あの狭い市街の道を町中の人が一斉に通勤と帰宅をすれば事故は避けようもないことだと知也は思った。結局、その話は各クラスに担任が注意喚起をするということで意見の一致を得た。それは事実上なんの対策もしないということだった。
知也が大学時代にどんな職業につくか考えていた頃、教師にだけはならないと決めていた。学校という空間が小さい頃から好きではなかった。どこかに勤勉に通わなくてはならないことを苦痛に感じた記憶は幼稚園に入る時からずっと続いていた。
狭い教室にたくさんの人間が押しこまれて、授業のたびに「起立、礼、着席」の集団的儀式に参加しなければならないのも嫌だった。さらに言えば、その繰り返すという行為に苛立ちを覚えた。その繰り返しから日に日に何かが抜け落ちていくのに耐えられなかった。それは学校生活のいろいろな場面にあり、学校空間に退屈さを押し広げていくことになった。そんな学校空間を作り出す手伝いをする気もないうえに、変えてやろうという野心も知也にはなかった。
でも結局は教師になることにした。永沢サキがいなくなり、知也の人生観が変容したのがきっかけだった。心の中にできた純粋な空洞は何も考えないように知也に働きかけた。そしてそれは勤勉に生きていくことにはとても役に立った。自分ついて考える必要がないのは楽だった。統合された心身は颯爽と日々を生きた。どのような形であれ、心に形を持つことは大切なことだろうと知也は思った。
そして人間教育にとって、暗黙の裡に思考停止を規律してやることは複雑な人間性が生み出す卑しい社会をやり過ごす唯一の手段であるのだと思うようになった。だから気怠そうに挨拶をする生徒に説教をすることはない。でも、挨拶をしない生徒には注意を促した。形骸化に無頓着でいることが生きていくうえでのある種の進歩性に必要なのだというのが知也の一つの教育思想であった。
じっさい、学校教師というものはそれを無意識に実践している人間の巣窟だった。もちろん、一見それとは対称的な行動をしている教師はごまんといた。でも、帰するところはみな同じで、教育の二文字の上で足踏みをしているのが教師という人種だった。みんなが知也にとって理想の教師像のように映った。誰も彼もおかしいくらい似ていたのだ。
しかし夏休み中に知也がとった行動はそれとは違った。あの女生徒に言ったことは知也が教育とは関係なくそうしたいからしたことだった。どうしてあんな個人的なことをだらだらと話してしまったのだろう。あの女生徒からどのように思われただろうか。知也は後悔していた。あれから感情がふつふつとわいてきた。それはあまり良くないことが起こることを予感させる。いつ何が起きるのかと知也をいつも落ち着かない気持ちにさせた。
五限は二年三組の国語の授業だった。毎週水曜日のこの時間だけ、知也は満島真弓の顔を見ることになる。
窓際の席に満島真弓は座っていた。昼食後の眠そうな生徒たちが作る教室の空気のなかでも彼女は背筋をぴんと伸ばしてまじめに知也の話を聞いている。艶のある黒髪がすっと肩にかかり、綺麗なゆで卵のような満島真弓の顔を、知也は右目に映した。そして満島真弓もまた知也を見つめていた。
知也は夏休み中の課題の読書感想文の中で優秀な作品を読み上げている。これらの作品を読み上げる前に知也は、二日間、読書感想文だけを読み続けなければならなかった。その中に満島真弓の読書感想文もあった。知也は彼女から相談を受けていただけに彼女がどのような本を読み、どのような感想文を書いたのか気になっていた。
知也は眉根を寄せておそるおそるその感想文を読み始めた。
『摩耗』 安達邦之 著
二年三組 満島 真弓
たとえば私に子どもができたなら、一五歳の誕生日を迎える時にこの本を贈ることにしよう!この小説は瑞々しく私の心にぴたりと張り付いて、もはや引き剥がすことができないくらいの深い同情と悲哀に満ちている。親にとって最も重要だった小説を子供にも読んでほしいと願うのはおかしなことだろうか。一方で、子供がどこまで作品を理解できるかが気がかりだ。それはまず安達邦之という人物のほとんどが謎だからである。栃木県の日光市に生まれ県内の有名高校を経て、大学にわずか十個月だけ在籍し、明治三六年に華厳の滝で投身した藤村操にならい、実家の近所にある小さな滝で投身自殺した。著者は唯一の作品『摩耗』だけを残した。彼は死ぬ直前に自らの遺品や他の作品を全て処分してしまった。それ故この作品は彼の内面的性格、あるいは反社会的な人格を唯一顕している資料であると同時に、彼の存在を確信させる不滅の墓標でもある。彼の物語はある意味でカフカ的で迷宮的な陶酔に満ちている。それ故に読者を惹き付ける。そして私もままならない羽虫の一匹としてそこに引き寄せられ、著者との交歓にふけったのだ。言葉の羅列に閉じ込められている思想のなかで彼は未だに生きていた。その世界に踏み入った瞬間に、私は疾風にまかれ、初歩で衝撃に打たれた。道中、彼が仕掛けた幾重もの叙述的トリックの罠を這って避けながら私は進んだ。読者を選り分け、篩に落とそうという彼の息遣いが聞こえてくるようであった。彼の言葉は常に何かの比喩を持たせてあり、作品の構造を予想することはできず、安直な絵空事を書き綴ってあっても、次の瞬間には鋭利な刃物がページを突き破り読者の瞳を抉り出してしまう。彼の厭世観はあらゆる現実社会の理を拒否する。結果、現実から引き摺り下ろされる恐怖に耐え、無理解な大衆が導き出した易い見解に振り向かなかった数人の読者だけが彼の描いた芸術的結末を知ることになる。私はそこにあらゆる感情の混沌を見た、と言えばいいのか、単なる白紙であったと言えばよいのか。未だに彼の魔術に冒されているようだ。だが、その意識の状態こそが彼の作品の誠実な読者であった証なのである。では、この作品を読んで私の中に残ったものは何か。それは「希望」だ。これに尽きるのである。激しい怒りや憎しみ、虚無的な催眠状態、そして愛情。私はまさにそれらの感情の行き着く先に希望を見出そうとしている。そして、その行為自体が希望の一部になっているのだと、今は信じるほかない。この小説の中で安達邦之は読者に厳しくも温かい眼差しを送り続ける。そこはいつでも私を迎え入れてくれる場所であり、粗削りな言葉は私の心を摩耗し美しく輝かせ、現実へ踏み出すための希望を与えてくれるのだ。
知也は『安達邦之』の名前も『摩耗』という題名の小説も知らなかったし、最近流行りのネット小説の著者かと思い検索してみたがヒットしなかった。しかし、満島真弓から異常なまでの賞賛を受けた小説を国語教師の知也が知らないというのも妙である。ごく最近、高校生のあいだで流行っている小説なのだろうか。その本を読まなければこの感想文を評価することはできない。しかし、これを高校二年生の女生徒が書いたと考えれば、とても純度が高い文章のように思われた。知也はこれをクラスで読み上げることに決めた。
教師が真弓の感想文を読み終えると生ぬるくて汗臭い空気が漂っていた教室に冷ややかな緊張が張り詰めた。内容の意味が分からず首を傾げる者、真弓の顔を転校生を見るような物珍しげな目を向ける者もいた。生徒たちの中に一度だけ読み上げられた感想文を正確に理解した者はいないだろう。真弓はそれらの目線を撥ね退けるように、教師だけに視線を向け、彼の視線を捕まえることに躍起になっていた。
「この安達邦之という作家を知っている人はいますか?先生はあいにく知らなかったですが。最近の高校生の間で流行っている作家なのかな?」教師が言った。
誰も手をあげなかった。
真弓はこの恋文が教師に届いたことに有頂天になっていた。勿論、彼がそれをきちん理解しているとは思えなかったが、この手紙が教師に強烈な印象を与えたことは間違いなかった。事実、教師は作家の名前も知らずに、教室で感想文を読み上げてしまったのだから。
授業が終わると真弓は教師のもとへ歩いていき、教師に感想文についての評価を聞くと見せかけ、周りの生徒に分からないように手紙を渡した。教師はそれに気付くと真弓の顔をただ見つめ返し、それではまた、とだけ言って出て行った。
満島真弓に渡された手紙には街の西方にある『……公園 八時』とだけ書かれていた。知也はたったそれだけでいつ来るかもわからない満島真弓を待っている自分に慄いた。知也は彼女が重大な「密書」を持っているのではないかと思った。それは永沢サキから届いたあの世からの手紙である。知也はもはや病的ともいえる妄想に憑りつかれていた。そのせいで現実的な思考から遠のき満島真弓について調べることもしなかった。家族構成や交友関係、学力レベル、部活動、進路など、学校の教師であれば本人に悟られることもなく知ることができたはずである。知也はそれを満島真弓の顔を見た後で思い出し、自分が少なからず正常でないことを知った。そして穏やかな頭蓋のなかの水面の底に静かな潮流が生まれ始めていることを感じ取った。公園の前の通りには数台の運転代行やタクシーが客待ちをしている。その公園の前にはバーや風俗店が並び、時代遅れのピンクや赤のネオンサインが取りつけられ、この勤勉な街で唯一の背徳的な旗を揚げている。そしてどこから現れたのか、いつの間にか私服姿の満島真弓が知也の左隣りに立っていた。
『……』という店の名前が書かれている看板がある。地下への階段を降りると防火扉のような愛想のない鉄の扉が待ち受けていた。満島真弓はなんの躊躇もなくその扉を押し開けた。すると隙間から、ココナツの甘い香りがしてきた。
店内は窓一つなく抑えられた照明で薄暗い。ロウソファで作られた五、六個のボックス席があり、それぞれのテーブルの上には古びたオイル ランプが置かれていた。人がいるところにだけにそのランプは灯され、上から吊るされている七角形の細長いランプシェードが客の頭を照らしていた。店内には二組のカップルがいて、一組は退屈そうに女が煙草をふかし、男はその女の肩を抱きながらショットグラスでウィスキーを飲んでいる。もう一組は帰り支度を始めていた。誰もいないテーブル席はまるで墓場のようにひっそりしている。店内には小さな音量でジャズが流れ、モダンな雰囲気であった。カウンターに立っている白髪の老人が一言もなしに、めしいたような空ろな瞳で知也をじっと見つめてきた。知也が軽く会釈をしても、その老人は同じ鋭い眼光を向けたままグラスを磨いている。
満島真弓は知也が右目で店内を見渡せるように、左側が壁の席を選んで座った。その席にはすでにランプの灯がつけられていた。彼女は擦り切れた男物のジーンズに少しよれた黒と白のボーダーのTシャツを着ていた。知也はそれを見て少し安心した。キャバクラ嬢のような恰好をしてくるのではないかと思っていたからだ。今日の彼女はほとんど喋らず、伏せ目がちな彼女の顔は暗い照明の下で見ても化粧がほどこされているとは思えなかった。
「ここまで来て何を?未成年の来るところじゃない」
咎めるような言い方ではなかった。これから何が始まるのか分からないといった期待と不安の入り混じった言い方だ。優等生が生まれて初めて生徒指導室に呼ばれ、ここでいったい何をされるのか見当もつかないが、今まで生きてきて味わったことのない本能が身構えて止まない、前衛的な体験と肉薄している感覚だった。
「なんだか、うろたえていませんか」その声は低く、小さい。
まさに満島真弓はその体験に誘おうとしている調停者であり、体験の内実そのものなのかもしれない。そこには知也を試す威厳も欺くための偽善も彼女には無いように思えた。純粋な悪だけが彼女の顔を歪ませている。それには不思議な誘惑がある。純粋なものに触れてみたいと思う人間のありふれた、もう百年も前に社会の中で抹殺されたはずの古い欲望が、知也の背筋を勢いよく通り抜け、がくっと体をしならせた。
「すぐ慣れるよ」
知也は満島真弓に合わせて低い声を出したが、それが満島真弓に聞こえたかどうか分からない。彼女の声が頭の中で反芻し、他の音域の声は全くはじき出されてしまっていたのだ。すると彼女はいきなり示唆的な一言を放った。
「誰のものでもないんです」
誰のもでもない?知也は繰り返して言った。
「理解できない言葉を繰り返すのは正しいと思います。間違ってない。でも、私は嫌いです」
「それで、誰でもないってのはどういうこと?」
知也は彼女のささやかな攻撃を無視の世界に放り込んだ。
「私は誰のものでもないってことです」
満島真弓は顔の中心に集まった皺を弛めて、優しい声で言った。
「そうか。でも、どうしてそう思うの?」
「吐き気がするんです。ひな鳥みたいに騒ぐ同級生や、『俺はこうだからとか』『こうじゃなくちゃいけい』とか思い込んでる人たちとか、目的もなく電車の中で本を読んでる人とか、利害関係の中でしか生きられない人とか、神仏の前で祈る人とか、質問しなきゃ生きられない人とか、珍奇な処世術をたくさん抱えて生きている人とか。つまり、もう後戻りできない人たちに見られるだけで、記憶されるだけで気持ちが悪くなる。今、あいつの中に私が保存されたのかと思うと、自分が死ぬか、相手を殺したくなるんですよ」
「少し分かるよ。たしかに、みんな間違ってはいないんだ。限りなく正解に近い生き方をしている。だけど、どれこれも偶然の産物でしかないという点では変わらないのかもしれない」
知也が続けて言おうとした時に、白髪の老人がグラスに透明な液体と氷を入れて運んできた。その老人は思いのほか真直ぐな背筋をしていた。毎朝、山に登ることを習慣にしているのではないかと思えるほど精悍な顔つきをしていた。遠くから見て老けて見えたのは登山家特有の山風に削り取られたような深い皺と、乾いて厚くなった肌のせいだった。知也は登山をよくするのか、と老人に訊ねた。
「いや、山なんて。この店を始める前は海で漁師をしてたんで。ほらあすこに写真があるでしょ」
白髪の老人は反対側の暗がりの壁を指差した。そこには大きな額縁に入れられた写真が飾ってあった。しかし知也にはその写真に何が映っているのか見えなかった。
「そう。漁師ですか」
知也が視線を戻すと、老人はすでにカウンターの方に背を向けて歩いていた。
「先生に少しでも分かってもらえてよかったよ」真弓は老人のことなど気にせずに言った。
「ああ、それで、あの読書感想文のことなんだけど」
「あれね。どうでした?」
「よく書けていた」
「それだけ?」
「授業でも言ったけど、あの小説を知らないんだよ。だからうまく言葉が見つからなくて」
「じつは、本なんてあまり読まないんです。学校で読まされる教材くらいしか。カフカだって、『審判』って小説のはじめのところしか読んでいないんです。だからほとんど書くばかりなんです。ちなみにあれは全部うそなんですよ」
「そう。それを聞いて納得がいったよ」
「どうして?」満島真弓は興味芯々の顔で訊き返した。
「だって、中身が全然なかったから。文章にとって最も大切なものが少しも感じられない。人は自分の体験を誰かに伝える時には、自然と相手に分かる言葉を選ぶものなんだよ。だってほとんどの場合、きみたちが体験したことなんてありふれたことばかりだからね」
「さすがですね」真弓は声を抑えて言った。
教師の言ったことはほとんど真弓の期待した通りの答えだった。事実、真弓には限りなく正解に近い生き方ですら、体験から何一つ得られていないのだから。でもそれをどうにかして掴み取ろうとする意欲はぽっかり空いた虫食い穴みたいに無い。そこに教師の言葉は気持ちよく吹き抜けていった。
「今さら書き直そうとは思いませんよ」
「いいんじゃないかな。あれはあれで完結しているから」
「先生の言うことは、どれも薄荷みたいに冷ややかですね。話し方のせい?」
「君は私にどうしてほしいの」
「さあ。ただもっと知りたいだけです。私は先生に憧れているんです」
「また夏休みに教室で話をしたみたいにきみにふさわしくないことばかり言ってしまうかもしれない。私が話すより、まずは君の話を聞きたい」
「それは…、嫌です。話せば話すほど変に歪んでいくんですよ。先生に話してからそう思いました。話すほど記憶や思い出が曖昧になってきて、立ち直っているという実感が持てないんです。だから、話したり書いたりしたら自己理解が進むなんて言うのは、私には軽薄に聞こえます。そんな簡単なことじゃないだろうって思えます。話したらすっきりするかもしれないけど、解決できるなんて誰が保証してくれるんですか」
「そうだね。気が紛れるだけかもね」
「そうでしょう?」真弓は語気を強めて言った。
それから教師は黙りこくったままだった。真弓が話し始めるのを待つみたいに目を落として気まぐれにグラスを揺らしたり、ランプの光を透かしていた。だが本当に、真弓は話すことはもう何もなかった。教師から目線を外し暗がりの壁の方を見た。大きな額に入った写真には小舟に乗っている笠をかぶった男が黙々と縄を編んでいる姿が映っていた。真弓は漁師の仕事をする単調な日々を想像した。
「自分の死の問題については解決できても、愛する人の死についてはあまりにも無力だ」教師は言った。
真弓はびくっとして視線を戻した。
「はい?」
「自分という小さな存在の死についてしか人は解決できない。他のことについて考えるにはあまりにも愚鈍すぎる」
「そりゃあね」
満島真弓は自分の足元に視線を落として、手のひらを見つめた。
知也が店内を見回すと、最後の一組の男女がカウンターで老人と何やら話をしていた。そして老人から何かを受け取ると、禿げかかった金髪の中年の男は若い女の腰に手を回し、カウンターの奥にある白いカーテンの向こうへ消えていった。どういうことだろうか。あそこには厨房があるだけではないのか。数分の間、知也はそのカーテンの向こうを気にしてみたが、相変わらず店内は静まり返り、ピアノの音が水滴みたいにいくつか聞こえるだけだった。満島真弓が口を開いた。
「気になります?あのカーテンの向こうに何があるのか」
満島真弓は手のひらに向かって声を発した。
「さあ、個室でもあるのかな」
「カーテンの向こうにはいくつか部屋があるんです。それで、あの二人がこれから何をするのか分かります?」
知也は右腕をきつく握りしめている自分に気づいた。手首に血管が浮き立っている。目の焦点の範囲は針の先ほどになり、かろうじて満島真弓の顔が像としての形を成していた。夜なると疲労で視力が落ちるのはいつものことであるし、それにここは暗い。しかし視力が落ちれば落ちるほど、足先から血が泡立つような痺れがやってきた。もしやこのグラスに何か薬でも入れられていたのかもしれない。
「どうして、ここへ連れてきたんだ」
「まだ分からないんですか?」
どういうことなのか見当もつかない。好意があるということなのか。知也は「何を言っているんだ」と言い返したつもりだが、声に出して言えたのか自信が持てなかった。心はひどく動揺していた。知也は昨日の暗い海底の夢を思い出した。一点の光だけが知也を誘惑した。それ以外には畏怖が広がる。もし光を見失ったら押し潰されてしまいそうな重苦しい世界。知也は必死に像を映した。そこにもはや満島真弓はいなかった。そこに映っていたのは永沢サキだった。海面に揺れる彼女の顔は幾通りもの表情をした。ひしゃげた笑顔浮かべたと思ったら、哀しそうに眉根を寄せた。変化の乏しかったサキの顔とは思えない。知也は酷く吐きそうになったが、それを涎で飲み下すと、今度は快感で息が荒くなった。感情の再生か。感情の火を満島真弓が焚き付けてくれるのか。
知也の目が焦点を失うと真弓は部屋に行くかと訊いた。知也は「行こう」と答えた。真弓は知也のふらつく体を支えながらカウンターに向かった。そこで鍵を受け取ると二人は白いカーテンをくぐり抜けた。切れかけた蛍光灯の白い光が薄汚れた白い壁に反射していた。途中の部屋からわずかに女の悲鳴のような声が聞こえた気がした。真弓は鍵の番号を確認すると、四番と書かれた扉の取っ手に鍵を勢いよく差し込み、鍵を回したまま、扉を押し開けた。その間、ずっと横顔を知也に見つめられていたが気にしなかった。知也を起こさないようにゆっくりベッドに寝かせると、真弓は一緒に横になった。そして教師の顔を見つめた。
「先生の唇って、やわらかそう」真弓は甘い声で言った。
知也は目をつむり、寝息と寝言を交互に繰り返していた。何を言っているかは聞き取れない。一方、真弓も今にも眠りそうだった。その前に知也の赤いネクタイを弛め、グレイのスーツとシャツを死人の服を脱がせるように丁寧に脱がした。それから教師のわきで自分も優しい眠りについた…。
○
本郷美奈子は、知也と同じ高校で体育教師をしていた。知也と一年前に知り合ったのもこの高校に赴任してきてからのことである。月曜日と水曜日は知也をアパートに残して先に学校へ行き校門の前に立つ。これは生徒指導係の仕事で、三人の体育教師の持ち回りの当番になっていた。職員会議に時間が迫った頃に知也の姿が見えた。美奈子は教師同士の挨拶を交わした。
登校してくる生徒は元気よく挨拶をしてくれる子もいれば、ぼそっと何か呟くような声だったり、なかにはこちらの存在をまるで無視して通っていく子もいた。いろんな生徒がいるのは当たり前と言えばそうなのだけれど、美奈子にはそれが不自然でならなかった。制服で没個性的になった生徒を見ていると、ついみんな同質のものと思いがちなのだ。彼らの面が全て追憶の中の住人と重なる。美奈子が憎んだ同級生たちと同じく不完全な自我を瞳の裏に隠している分裂症患者たち。そんな恐れにも似た感情が常に付きまとっていた。彼らがいつその目をぐるりとひるがえして狂喜を見せるかを監視する機能が美奈子の瞳の奥でサーチアイのように律動していた。
教師になって一年しか経っていない美奈子には学校現場は慣れないことの連続だった。その日の校内の体育大会で起きたことも釈然としない出来事の一つだった。
「先生!加須脇が倒れました!体育館です!」
そう言われたのは体育大会の二日目の十一時頃だった。美奈子は教官室で早目の昼食を食べていた。そこに男子生徒が数人駆け込んできた。たしかこの時間はバレーボールの準決勝が行われているはずで、審判として唐沢先生がいるはずだった。それなのにどうしてわざわざ体育館からは少し離れた武道場のわきにある教官室に自分を呼びに来たのだろう。美奈子が体育館に入るとコートの中央付近で生徒が蟻のように群がっていた。
「どきなさい。いったいどうしたの」
近くにいた何人かの生徒がそれぞれ勝手なことを口走りながら状況を説明した。その支離滅裂な説明を解釈するとこうだった。
・加須脇さんは二組のバレーの選手でセッターだった。
・二セット目の途中で彼女の様子がおかしくなった。目が充血してふらつき始めた。
・彼女は三セット目のはじめにトスを上げるとそのまま床に崩れた。
彼女の真っ青な頬に手の甲を当てると、不釣り合いなほど熱があり、汗はぴたりと止まっていた。
「唐沢先生はどうしたの?」
「さあ、体育館にはいないですよ。審判をバレー部の生徒に任せたきりいなくなっちゃいました」人だかりの中のバレー部らしき生徒が言った。
美奈子は一人で女生徒を抱え、何人か付いてくるように指示し教官室に向かった。教官室にはこういう時のための製氷機が設置されていた。美奈子は氷をビニール袋に詰めると女生徒の首や脇、大腿に氷を手早くラップで巻き付けた。冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出すと少しだけ口に流し込んだ。女生徒はこくりとわずかに喉を鳴らしてそれを飲んだ。その後、保健の安田先生が来てくれ、一緒に保健室へ運んだ。
女生徒を寝かせると美奈子の胸に黒い怒りが灯った。
「あの糞畜生が」美奈子は小さく毒づいた。
これは管理責任だと美奈子は思った。美奈子は職員室に行き校内放送で唐沢先生を保健室に呼んだがいっこうに現れる気配がない。仕方なく、美奈子は職員室の窓際を見た。知也は体育大会など特に関心もない様子で、自分のクラス以外は見る気もないらしい。美奈子が「宮森先生」と手招きすると、彼は訝しげな表情で近づいてきた。「ちょっとしばらくの間、体育館の試合を見ててくれない?」と美奈子は頼んだ。知也はいつもの優しい顔をして「分かったよ」と言い、何も事情は聞かずに体育館の方へ歩いて行った。救急車のサイレンが近づいてくる音が聞こえると美奈子はひとまず安心した。
しかし状況はちっとも好転しなかった。それから病院に連れ添い、詮方の母親に散々、ヒステリックな文句を言われた。勿論、学校側としても説明責任は果たさなければならないが、その母親の言うことは事故の内容から逸脱して美奈子の個人的な追求にまで至った。「どうせスポーツしかしてこなかったんでしょ」とか、「子どもを生んだこともない女が」など、美奈子にとって耐えがたい悪態をついた。だんだん目が回ってきた。いったいこの女は私を傷つけてどうしようというのだ。たしかに自分はスポーツしかしてこなかったからスポーツで使う以外の脳は溶けてなくなっているかもしれない。たしかに子どもを産むどころか、女としての喜びすらほとんど分からない。だが美奈子は自分が育てられたようには絶対に生徒を育てないと決めていた。それだけが教師という仕事をこなす美奈子にとっての信念だった。崇高な教育思想があるわけでもなく、ただ自分とは違うように、と、そうしさえすればよかった。親が子どもの所へ去ると、美奈子はその男子生徒に後でどんな言葉をかけてやろうかと考えた。管理責任を謝罪するか、彼の自己管理の不徹底を責めるか、試合の結果をまず報告してやるべきか、あるいは、あなたのお母さんは子ども思いの素敵な人だねと言えばよいのか。
考えるほど、どれもくだらないなと思った。
美奈子が学校に戻る頃には閉会式が行われていた。体育館の端に並ぶ教職員の列に混じった。するとその横に唐沢が何食わぬ顔で立っていた。美奈子の胸で黒い炎が再燃する。 この男の汚らしい顔に唾を吐きかけたいくらいだった。が、その怒りもすぐに萎んだ。これから彼に責任を問うて疲れたくなかったのだ。あの男子生徒に対しては不誠実かもしれないが、次の会議のときにでも軽く話をすることにしよう。
美奈子はぼうっと閉会式で校長が話すのを眺めていた。
その放課後のことだった。
夜に数人の教師たちと打ち上げをする予定があり、まだ時間があったので一度アパートに帰ろうとしているときだった。校門の前で女生徒に話しかけられた。
「本郷先生、ちょっといいですか」
振り返るとそこに一人の女生徒が立っていた。
「ちょっと、話があるんですけど」
二日間の体育大会の期間中は生徒のほとんどはジャージで登下校し一日を過ごすが、その女生徒は綺麗に髪を整えて制服に着替えていた。美奈子は生徒に気づかれないように鼻から熱い疲労のこもった息を吐いた。
「どうしたの?」美奈子は声に張りを持たせて答えた。
美奈子はその生徒が二年生の「満島」だということを思い出した。
「えっと、ここじゃあ話しづらいんですけど」
美奈子は頷くと、とりあえず二人は駅前に向かって歩いた。その途中、満島はこちらを全く見ようとしなかった。美奈子が、「ちなみにどんな話なの」と訊いてみても、黙ったまま首を横に振った。美奈子は駅に繋がるいつもの下り坂がとても長く感じた。教師にはこういう時間外労働というものが果てしなくある。これが労働と呼べる質にあるかは別だが、部活動にしても早朝と放課後、試合や合宿があれば土日も潰れてしまうことを考えると、ほとんどボランティアと言ってよかった。夕焼けが目に染みた。
二人は適当な喫茶店を見つけて入り、コーヒーを頼んだ。
「それで話っていうのは」
美奈子が先に切り出した。
「本郷先生は、付き合っている人はいるんですか」
「ええ、いるけど。どうして?」
満島の頬が赤く高揚していることに美奈子は気付いた。夕焼けが彼女の白い頬にそのまま暮れずに取り残されたのだと思うほどだった。
「宮森先生とですよね」
美奈子は思わず「えっ」と声を出してしまったが、別にやましいことがあるわけでもなく、平静になろうとした。しかしその落ち着きかけた心はやわで脆いものだと美奈子は次の言葉で思い知った。
「私も宮森先生と付き合っているんです」
「どういうこと」美奈子は女らしい上ずった声を出した。「いったいいつから」と驚いて訊きだそうとした。しかし次の瞬間には、美奈子はまだ本当に信じてはいけないと思い息を吐いた。生徒が嘘を付くのはそんなにめずらしいことではないからだ。
「ごめん、どうぞ、話をしたいのは満島さんなのだから、ゆっくり順を追って話してみて」
「先生と仲良くなったのは、夏休みに色々と相談に乗ってもらってからでした。私の悩みは宮森先生にしか話せないことだったんです。それからもう一度話を聞いてもらえないかと私のほうから頼んだんです。それで先生にバーに連れていかれたんです。そこが未成年が入れるお店じゃないことは分かっていました。でも先生だって仕事で疲れてお酒くらい飲みたいだろうし、話を聞いてもらうのは私だからと勇気を出して付いて行ったんです。でもそこはただのバーじゃなくて男性と女性が飲んだ後に、そのまま奥の部屋で……するようなお店だったんです。そんなことも知らないで先生とそのまま奥で。嫌とは言えなくて。それに私も宮森先生のことが好きだったから。それからは宮森先生の部屋にも行くようになって、今は付き合っていると思っています」
生徒が思いのほかべらべらと話したので、美奈子は返す言葉を考えるゆとりがなかった。それに自分の彼氏の浮気相手と思われる女、しかも女生徒から、こんな話をされてどう答えろというのだ。
「宮森先生がそんなことをするなんて想像もつかないけど。それで満島さんは私にどうしてほしいの。別れてほしい?」
「はい、簡単に言うと」
「とにかく、宮森先生の話を聞いてみないと、私も何が何だか分からないな。この話はまたその後でもいい?」
「はい。でもできれば明後日の月曜日までには、お願いします」
何だか仕事を頼まれたような気になったが、そうではない、これはもっと自分の気持ちと向き合わなければならない厄介な事柄だと自分に言い聞かせた。美奈子はまだ飲んでいないコーヒーを一口飲むと、会計を済ませた。
「じゃあ、また月曜日に、何かしらの報告はするから」
喫茶店に入ってからほんの十五分くらいの出来事だった。
二人はそのまま別れた。
駅に向かって歩いていく間、美奈子は自分の体にひやっとした血が流れている気がした。汗もかかないのに体温がどんどん下がっていく。美奈子は電車に乗り込むと、空いている座席を横目で見ながらドアに正面からもたれかかった。座ってしまったらもう立ち上がれないと思った。足と額から伝わる電車が線路を刻む振動が美奈子には心地よく感じられる。機械的であれ何であれ自分の体にかかる外力を愛おしく、剰え、励まされているような惨めな気持ちにすらなった。
美奈子は電車の中でさっきの満島の話を思い出していた。そしてすでに話の中の嘘に気づいていた。知也としたですって、ありえないわよ、そんなこと。だってあの人は不能者なんだから。美奈子は窓に映る自分の顔を見て血の気が引いた。暗いガラス窓の向こうから、めしいたような空ろな目をした黒々しい老婆が美奈子を見つめていた。どうしても、それが自分だと認識できない。認めたくなかった。あの満島のように若々しい白い肌や澄んだ瞳、艶のある髪は自分にはない。
どうしてだろうか。女らしさが平等に与えられないのは。いつからだろうか。セックスで濡れなくなったのは。美奈子にはもう知也の浮気の真意はどうでもよくなっていた。この二年間、知也の存在だけを抱き締めて、自分自身からは目を逸らしてきたことが今になってむなしい。まだ閉経を迎えるには遠い年齢であるのに急速に女としての弾力を失っていく体がただ疎ましかった。根が枯れた女にはセックスから若さを汲み取ることはできないのだろうか。
「ほら、こんなに胸が苦しいのに瞳は渇いたまま…」
小さな声だった。美奈子はその乾いた瞳を夜の闇に沈めた。
●
「どうも、宮森さん。どうですか、右目は?」
暗い診療室で医者の声は冷たく響いた。
「ええ、視力は相変わらずです。悪くはなってないです」
「そうですか。左目はどうですか?」
「こちらも見えないですね。回復の兆しはないです」
「すみません。こちらとしても大学病院での精密検査で原因が分からない以上、手の打ちようがありません」医者はただ毎度の同じ台詞を述べた。
知也は、おそるおそる訊いた。
「目を見えなくする手術というのはできますか?」
「はい?」
医者はずるりと持っていたペンをカルテの上で滑らせた。
やはりこんな反応かと知也は思った。
「あのですね。正確に言いますと、光だけを感じる程度に視力を悪くすると言いますか。顔を近づけても人の顔が判別できないくらいにですね、盲目になるための手術というのはできるものなんですかね。」
医者は呆れたように言った。
「宮森さん、当然ながらそのような手術を私は経験がありませんし、誰かがそれをしたというのも聞いたことがないです。最近はレーシックっていう近視手術が流行っていまして、視力を良くしたいという人は山ほどここに来ますが、悪くしたいなんていう人は来たことがありませんね」知也は、でしょうね、と相槌を打った。「訳を教えていただけますか?あなたは左目を失明してから目が不自由なことに人一倍苦しんでいたじゃないですか」
医者は知也の目を診察するようにじっくりと見つめた。知也は訳は話さずに訊いた。
「不可能ではないんですか?」
「分かりません。そんなことを想像したこともないので。私は十三年間、眼科医をしていますが、特別なケースは大学病院の専門医に紹介して、機械的に平凡な患者の症状を捌いてきただけですから。ここだけの話ですが、原因がよく分からない患者も何人かいたのは事実です。でも、それは私の仕事じゃないと割り切ってきました。でも、あなたの話はあまりに突拍子もない。これは大学病院に紹介するといわけにもいかない」
医者は視線をそらして小さい声で、そう、突拍子もない、と繰り返した。
知也は「えーとですねえ」と言いながら、腕組みをして悩んでいるふうに装ってみせたが、はじめから答えは決まっていた。
「すいません。やっぱり、できるという保証がないなら、理由はお話しできません。どうしたって変な話になるんです。それにもしあなたが私の話を聞いたなら、きれいに要約されて理解されるでしょう。きっとつるんとした引っ掛かりのないありきたりな内容になってしまいます。それがどうにも堪えられないんです。私の経験してきたことはざらざらした、へたに撫でたら掌が傷ついてしまうようなことのはずなんです。」
「たしかに。医者は基本的に患者に感情移入はしません。先ほども説明しました通り、現代社会の生活習慣からくる眼病の患者たちに対して、診察に必要のないことを聞きこんで、社会学者がするようなエスノグラフィーを作成したりはしません。当然ながら同情もしない。ですが、患者をいいかげんな態度で見捨てたことはない。これだけは分かってもらいたい。そうですね、後日改めて、その手術が可能かどうかを検討した結果を説明します。もし、不可能だとしたら何も話さなくて結構です」
「それでいいです。こんな厚かましいお願いを聞き入れてくださりありがとうございます。世の中の医者がみんなあなたのような方でしたらと思います」知也はいつもの感情のこもらない声で言った。
ではまた、と医者は言い、背を向けカルテを書き始めた。
知也は精算を終えて外に出た。雨上がりの街路樹の葉が光っている。二月の太陽に春の気配を感じて、大学時代の思い出が一緒にやってきた。すれ違った女性の顔に永沢サキの顔が重なる。知也はそのまま地面にうずくまり、足先にまで溜まった嗚咽を草叢に吐き出した。
●
遮光カーテンが閉め切られたうす暗い部屋、ガラスの灰皿の上でロウソクの火が揺れる。ソファに知也がいる。ジャケットの内ポケットから万年筆を取り出した。ペンの腹を濡れたハンカチで包み、ペン先をアルコールに浸す。正確で迷いのない手つきでペン先を火にあてる。一瞬、青い炎があがった。その後、ロウソクの火は何色にも染まらず淡々と十四金のペン先を熱していく。丸いテーブル鏡に顔が映っている。距離を推し量るように鏡の中の顔と鏡の外の万年筆を交互に眺める。ペン先を目に近づけると空気を伝って瞼に熱が伝わる。それが眼球に触れそうになると、目の奥に潜む何者かがすくみ上るのが分かった。それだけのことを幾度も繰り返した。結局その万年筆を机の上に置く。火を見ながら顎髭をむしる。目の奥に宿り女がいるような気がした。つぶしたらどうなるのだろうと知也は思った。
ロウソクの火を吹き消すと、窓際のベッドの方に向かって「もう帰りなさい。駅まで送っていくから」と疲れた声で語りかけた。
「泊まっていきます」
知也は、小さく首を横に振った。この子は一度言ったら絶対に考えを変えない。もう何も言うまいと思い、諦めて真弓が寝ているベッドに座った。
「門限は大丈夫なのか?」
「友達に頼んでありますから」毛布を被った真弓のくぐもった声がわずかに聞こえる。
「そうか。じゃあ、明日の朝にはちゃんと一度家に帰るんだぞ」
言い終える前から、すーっと真弓がベッドに息を吐き出す音が聞こえる。嫌な予感がした。長い息を吐き終えると、真弓は不意にヒステリックな声を上げた。次にまるで彼女の善良な少女の部分が叫びと共にマットレスに吐き出されてしまったのかと思うほど低い男のような声で喚いた。
「どうしてそういう保護者ヅラするんですか?恋人だったら、もっと、私のことを一番に考えるはずでしょう!寮のことなんてどうでもいいじゃない。もう、何でなの。もう、ああもう…」細い腕がギュッと毛布を握りしめている。言い終わった後もゆらゆらと体を揺らし、ベッドが軋む。
今は何を言ってもどうしようもない。教室では美麗優秀な彼女がこのように他人に汚い言葉を投げかけるのはクラスの男子生徒には想像もつかないだろう。真弓は夜の八時くらいになるといつもこうなる。どうしてなのかは分からない。
知也は教職員免許の単位取得のために行った介護体験を思い出した。その介護施設の一階はデイサービスの老人たちがおり、二階は特別養護老人施設になっていた。職員は四六時中忙しなく動き回っていた。金髪の二十代後半の女が知也の指導係をしてくれていたが、その女は常に不満を口にしながら仕事をしていた。老人が余計なことをしようものなら「頼むから黙ってベッドに寝てて」と吐き捨てるように言った。知也は女の少し小さめの尻を眺めながら仕事を見学していた。一日に数回、加湿器の水を入れる仕事だけを任されていたので、それを済ませて、指導係の女も帰ってしまうと、知也はラウンジでテレビの相撲を見た。そこから同時に暮れていく夕日が射しこむ特別養護老人施設をただ眺めた。そして夕方の五時くらいなると老人たちが部屋から出てきてうろうろし始める。この時間になると決まって勝手に歩き出す。太った女の職員は「皆さん毎日夕飯の支度をしていた時間なのよ。だから落ち着かなくなるみたいよ」と言いながら、転ぶと面倒なことになるので徘徊し始めた老人たちを部屋の中に連れて行った。
誰にもそんな時間があるんじゃないのか。体が疼いて仕方なくなる時間が。
生徒がどんな悩みや不安を抱えているのかは実際のところ教室だけを眺めている教師などには知ることもできないのだと真弓を見て思う。 知也は固く握られている手にそっと手を置いた。冷たい手をゆっくりと温め、解きほぐしていく。数分すると真弓は落ち着いた。
「先生…」
気を抜いていたら聞き逃してしまうほど小さな声だった。
「どうした?」
「帰ります。シャワー借りていいですか?」
「落ち着いてからでいいから。もう少しこうしていなさい」
真弓は毛布の中で頷いた。
真弓を駅まで送り部屋に帰ると、知也は頭を抱えてソファに座り込んだ。
なぜ、永沢サキの顔をしているのだろうか。
見る女すべての顔がすげ変わっていく。それは日に日に増殖した。一人二人と身近な女の顔が永沢サキに変化していった。初めは電車でいつも同じ時間に乗り合わせる女子大生らしい小奇麗な服を着た女だった。座席の向かい側から何となく見つめていると、妙に女の顎が気になった。どことなく見たことのある細い顎だった。それに注視していると、その上の唇が斜めに傾いた。その顔に見覚えがあった。それが誰であったのか分かりかけると、割れた液晶画面のように視界が滲み、数分間、その状態が続いて、少しずつその紫の滲みをまばたきで拭い取ると、女の顔は見事なまでに変化していた。
その変化はいつも同じような順番で起こった。顎から目が離れなくなって唇が傾き、紫の滲みが広がり、顔がすげ変わる。見る度に恐怖が頭の中で堰を切ったように下腹部まで流れ込んできて知也はトイレに駆け込んで胃が空になっても嗚咽し続けた。
さいわい、視力の落ちる夜中にだけ平静を取り戻すことができた。何も見ない方がいいのだ。その方がよっぽどいい。昔の女の記憶は眠っておくべきなのだと知也は思う。知也はふと、美奈子の顔も変わるのだろうかと思った。
美奈子とは三か月くらい話していないうえに、ちゃんと顔も見ていない。電話やメールにも反応がなかった。彼女はずっと仕事を休んでいるのだ。勤勉で元気なのが取り得である美奈子が仕事を数か月も放り出している。だが彼女のアパートを訪ねていくわけにはいかない。もし彼女の顔まですげ変わってしまったらそれこそ世界の終りなのだ。他のどんな女を抜きにしても生きていけるが、彼女の牧歌的な眼差しが失われることだけは耐えられない。それに目隠しをして彼女に会ったとしても何をどう説明すればよいのだ。満島真弓と会っているのは事実であるし、永沢サキのことを美奈子には絶対に話さないという決意は知也にとって揺るがないものだった。
まずすべきなのは満島真弓とこの珍奇な現象との結ぶ目をよく観察することだった。いったい何がどのようにもつれているのか把握しておく必要があった。
勿論、知也には満島を抱いたことなど記憶にない。
その日のことはほとんど何も覚えていなかった。店のオイルランプと白髪の老人、それと満島真弓だけがちらつく。目覚めた時には自分の安アパートの汚いシーツの上に寝ていたのだ。そして次の日には最悪の状況に陥っていた。
知也は満島真弓といるときのことを想った。
彼女と話していると湿った井戸の底にいるような気分になる。そこには先代の人々が打ち捨ててきた古い精神性が白骨化して転がっていて、知也はそれらを拾い集める。二度と一つになることはない、生きて鼓動することのない愛や憎しみの欠片たちを両手一杯に抱えながら頭上に助けが来るのを待つのだけれど、決まって井戸の水が溢れ出し、強い流れの中で息もできず、その流れは両手から何もかも奪い去ってしまう。気づくと井戸の外に放り出されて、手にはあの無残に打ち捨てられていた骨の感触だけが残っている。満島真弓だけが知也の古い感情の存在を思い出させるのだ。彼女は、知也の中にある空洞を揺さぶり、水底に溜まっていた記憶と感情のヘドロを浮き立たせ、透明な水を濁らせる。
そこで大切なのは、なぜ永沢サキの存在が記憶と感情の突端として現れるのかということだが、それ以前になぜ知也の心のイメージが空洞と水面なのかという問題もあった。ただそのイメージばかりは自然現象としかいいようがない。
ここまで考えて当たり前の事実に知也は気がついた。
「感情を無くしたなんて、思い込みだった」
昔の恋人の顔を見て取り乱すなんていうのは誰にでもあることじゃないか。知也は舌打ちした。サキの顔を見ると吐き気がする?それはどういうことだ。ふられたわけでもなく、喧嘩した思い出もない、愛しかった恋人の顔を見て気持ち悪くなるというのはいったい。彼女を死なせた罪の意識のせいなのか。だが、死んだ彼女は水底で日に日に美化されていく。
結局のところ現象を正確に捉えてみせることは問題を解決するための絶対条件ではない。知也はカーテンと窓を開け放って、部屋の空気を入れ替えた。そして電話を掛けた。スピーカーから抑揚のない涼しい声が聞こえる。
「夏見さん、やはり早急に手術をしてもらうしかないという結論になりました。あなたの言うとおり原因を探ってみましたけれど駄目でした」
「やはりそうなりますか。話を聞くかぎりですね、あなたは本当に盲目になることを望んでいるようです。そしてそうなることで生活が自由に闊達になると確信している。ここまで話を聞いたら精神科医を紹介するのが筋でしょうね。じつはあなたの症状に合うような精神科医を探しました。時間はかかりますが症状が改善するかもしれません。どうでしょうか?」
知也は薄ら笑いを浮かべた。夏見さんが精神科医を紹介する気などないこと、その紹介を知也が受け入れないことも分かったうえで言っているのだと思ったからだ。
「いえ、夏見さんが手術をしてくだされば済むことです」
知也はすでに何度もこの医者と電話で話をしていた。あの暗い診察室でしか会えない理由を事細かに話すために。医者はいつもの落ち着いた調子で説明を始めた。
「手っ取り早いのは眼球を摘出することですね。義眼にしてしまうことです。もう一つはインストラレーザーという機械で可能かもしれません。この機器はレーシック手術のためのものなんですが、これで角膜を削り取ってしまうというのも一つかもしれません。これはレーシック手術の失敗例としてまま起こる過矯正というものなんです。通常、網膜の後ろで光の像を結んでいたのを矯正しすぎてしまうと、網膜を通り過ぎ、網膜の前で像を結んでしまう、すなわち近視になってしまう。これを行うことであなたの言うような、光を感じるが視力はゼロに近いという状態に近づけると思います。勿論、そんなことはやったことがありませんので、あなたの目がどんなことになるか分かりませんが」
「なんだってかまわないですよ。ゴッホみたいにはいかないので誰かにやってもらうしかありません」
受話器からくすくすという笑いが聞こえた。
「はじめは、あなたの話を嘘だと思っていました。普通の医者なら、あなたのような倫理観に反する患者はオミットしますよ。でも、どうしてですかね。あなたには同情してしまうんです。私も夫を亡くしているからかもしれません。偶然にも私は精神的な異常はありませんが、あなたを見ていると分岐した私を見ている気がするんです」
「そんなふうに見られていたなんて変な気分ですね…。いや嬉しいのかな」
知也は玄関に腰を下ろし、そのまま寝そべった。
「あなたのことはもう五年前から患者として知っていたのに、おかしいですよね。今になってこんな想像をしてしまうのは」その声は麗らかに知也の耳に響いた。
「僕のほうこそ、夏見さんのことを冷たい人だな、くらいにしか思っていませんでしたよ」
少しの沈黙の後、夏見は元の抑揚のない声で言った。
「では、再来週の日曜日の休診日に来てください」
じゃあ、と言うのが聞こえると知也は言った。
「手術が終わったら」
「はい?」
「会ってくれませんか。どこか、公園で」
かすれた吐息の音が三回ほど聞こえた後に、「ええ」と彼女は言って電話を切った。
親しげな会話に真弓は耳を疑った。
知也に駅まで送ってもらったが、真弓は電車に乗る気がしなかったので、そのまま知也の後をつけるようにして引き返した。しばらくドアの前に佇んでいると、声が聞こえてきた。楽しげな声だった。いったい相手は誰だろうか。
『夏見さん』という名前が聞こえた。さらに、手術、過矯正と言うのが聞こえた。
そして知也が最後に「会ってくれませんか。どこか、公園で」と言う切実な声がはっきり聞こえた。
真弓はそのまま駅に歩き、電車に乗って帰宅した。
そして次の日、真弓は電話の相手が誰であるのかを調べることにした。それを突き止めるのは簡単なことだった。彼の行動パターンはだいたい頭に入っていたのだ。平日はほとんど学校とアパートを往復するだけで(たまにスーパーで買い物をするくらいはしたが)、休日は市立図書館本かアパートで本を読む。特別なことと言えば、第二土曜日に彼は必ず決まった眼科医へ足を運ぶ。目の定期検査のためだ。
●
大きなおたまじゃくしのような遮眼子で左目を隠す。ランドルト環の不完全な円が示唆的だなと思いなぜかしんみりした。空から落ちてきた天使の後輪が地面に叩きつけられて割れたのを誰かが見てこの形を思いついたのだと想像した。その欠けた円を使った視力検査で、「見えません」と嘘を告げるのは玩具の不良品のような生来の劣等性で、それは小さい穴のようなものだけれど、成長するにつけ修復されるどころか、小夜啼鳥【ナイチンゲール】のように夜な夜な不規則な風音を鳴らした。それは彼女にとって自分の不完全さの象徴のように思えた。いつからだろうか、その劣等性を何とか埋めたいと思い嘘をつくようになったのは。でも、それを自覚するたびに真弓の小夜啼鳥は狂ったように鳴いた。誰か鳴いているのに気づいてくれないだろうか。そして舌を切り落として声を出せないようにしてくれないか。小学校を卒業するときにはもう夜が苦痛でしかなかった。
小学三年生くらいの頃、真弓は眼鏡に憧れたことがあった。それは人間の比較的上流に生きる人たちの勲章のようなものだと思った。同級生の頭のいい人や育ちのいい人たちは残らず眼鏡をかけていたのだ。どうしてそんなことに夢中になったのか今でも分からない。とにかく眼鏡がほしくてならなかった。真弓は、遅くまで本を読んだり、ゲームをして目が悪くなるように努力した。だがいつになっても朝に目覚めたときに見える天井がくっきりとしているので苛立たしかった。
真弓は母親に嘘をついた。「目が悪くて黒板が見えない」と。母は「それなら急いで眼鏡を作らなきゃね」と言ってくれ、自分もあの同級生たちと同じようになれるのだと、そして満島家も品のいい家柄であるのだと思えて満足感に浸った。しかしいざ眼科に行くと、息が苦しくなった。これから自分がしようとしていることは、あの無邪気な同級生たちと決別する儀式だと思ったからだ。
真弓は嘘をやめなかった。それは異端諮問のようだと思った。行き詰まった社会は私のような嘘つきを曝したくてうずうずしている。「キミは将来どんな仕事をしたいの?」、「そのためにどこの大学へ行きたいの?」、「そのためにどのくらい努力をしているの?」、「そもそもどうしてそんな仕事に就きたいの?」、「たいした想いもないんじゃない?」、「無理に生真面目になることはないんだよ」、「もっと好きなように生きれるんだよ」、「辛い労働をするだけが人生じゃないよ」、「でも、自由なんてないよ」、「どこまでいっても窮屈だよ」、そんなのはわかっているんだ。眼科医院で「これは?」と何度も真意を問われ、真弓はわずか数秒で五回も嘘をついた。そのとき全身の血が流れるのが止まり、心は肉体から離れて、まるで感覚のない監獄、小さな頭蓋の中に存在が閉じ込められたような錯覚に陥った。何も感じない世界とは自由でも何でもない。真弓は佃煮の瓶に詰めこまれた蝗【いなご】を想った。黒い液体の中で絡まる無数の肢、触覚、羽。同じように頭蓋の中で滅茶苦茶になる指、脚、首。頭蓋の表面をぬめりながらもがき、余計にしんどさを増していく私、それを見ている私、瓶が私、蝗が私、嘘をついている私。暗い診察室に入る頃には、すっかり真弓の目つきは悪くなっていた。
真弓は医者の名札に『夏見 高子』と書かれているのを確認した。
「今日はどんな症状ですか」しごく医者らしく女は言った。
「ここ数日で右目の視力が急に悪くなってしまって。そのせいで頭がくらくらして、頭痛もするんです」
「他に何か思い当たる原因はないですか?」
真弓は一回だけ首を振った。
「とりあえず視力検査ですね。外の椅子に座ってお待ちください」
真弓は慣れたように嘘をついた。機械を使う度数検査では嘘をつかずに、通常の視力検査では見えないふりをした。そんなことはままあることらしいので、「ちょっとおかしいな」と思われるくらいで、嘘をついているなんて勘ぐる人はいない。
「おかしいですね。機械では視力が出ているんですが」
暗い診察室で医者は言った。だが困った様子はなかった。
「ええ、おかしいですよね」真弓は調子をあわせて言った。
その医者はお世辞にも美人とは言えなかった。窪んだ瞳、白衣からひょろりと出る骨のような白く細い腕、薄い髪、小さな耳、癌患者のように萎れた首の皮。
「子どもや高齢者の方などにたまにあることなんです。私などが聞くのもなんですが、何かお悩みなどがありましたら、診察の一環だと思って話してくれませんか?」
真弓は医者の瞳の色を窺がうように視線をあわせながら、恋人が浮気をしていると話した。人間の口から出た嘘がいつどのように真実に変わるのか。真弓は分かっている。そのためには取りに足らない偶然を添えていくことだった。それが本当に些細なことであるほど嘘は真実の衣を纏うことになる。真弓は簡潔に嘘を話した。そして最後にこうつけ加えた。
「私にはあの人だけが希望なのに」
医者は相槌も打たずに、坦々と話の要旨をカルテに書きとめた。
「そうですか」医者は真弓の話を聞いても何の共感も示さなかった。
「あの質問してもいいですか?」
「ええ」
「子どもはいますか?」
「六歳になる娘がひとり」
「かわいいですか?」
「もちろんかわいいけど、それだけじゃないわね。子どもって」
「いなくなったら、悲しいですか?」
「きっと驚くでしょうね」
「驚く?」
「ええ、悲しむのはずっと先のことでしょうね」
「私にはわかりません。子どもがいないから」
「あなたの経験不足のせいじゃないわ。人の感情は均質なシステムではないの。みんな違う。私のばあい悲しみがやってくるのが人より遅いのよ、たぶんね」
「だったら、私が病んでいるのもそのせいですか」
「それはわからない。たしかにみんな違うけど、同じ部分もあるわ。私は思うのだけれど、誰しも平板な鉄板みたいなものを胸に抱えて生まれてくる。けど、それをうまく綺麗な形に曲げられる力はそれぞれが生きながら身につけるしかない。それは一度でも変な形に折り曲げてしまったら修正するのに苦労するものだから慎重に扱わないといけない。正確に言えばそれは完全には元には戻らない、と私は思うわ。直そうとしてもっとひどく変形してしまうことだってある。誰しも理想の自分とは違うものを内に抱えているものよ。それはある意味で普通のことで、ただその歪な鉄の塊があなたにはどう見えるかしら。それはあなたが決めればいいのよ」
「ようは自分しだいですか」
「そんなに単純じゃないわ。あなたは無意識を信じているか知らないけど、それがいろいろなこと決定していることだってあると思うわ。私が言ったこともそれにあたると思う」
「それじゃあ、どうしようもないです」
「ええ、そのとおり。あなたがどうして嘘をつくのか、私には分からないように」
「私の言葉が嘘だなんて、本当にあなたに分かるんですか。私は真実に向かって歩いているつもりなのに、いつまでたっても同じ橋の上を歩いている気分なんです。いつになったら向こう岸に着けるんですか…」
真弓は診察室を出た。待合室の蛍光灯がひどく眩しくて、瞳を閉じたまま椅子に座った。
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その胸は柔らく優羽を包み込んだ。
洋服からは化学的な洗剤の匂いではなく、甘い苺の匂いがして、何度も大きく息を吸っていると、女の人の汗の匂いもしてきた。母親に抱きしめられたのとは違って、安心と興奮が螺旋状に交わり、優羽の体はまるで太陽にみたいにぽかぽかとし始めた。女性は「優羽くんってあったかいね」と言い、さらにきつく優羽の頭と背中を抱き締める。すると、女の人の腕の骨が肩にごつごつと当たり、あっやっぱりこの人も自分と同じ人間なんだと少し寂しくなったが、女の人が優羽の耳の上にキスをしたので、そのささやかな弾力がいったい何だったのかはすぐには理解できなくても、その感触は忘れてはならない啓示的なものだと思い、しっかりと記憶に刻んだ。
「急に抱き締めちゃってごめんね。私は満島真弓といいます。家は北山の方にあるんだけど、ほらこの公園の近くの高校に通っているのよ」
「何で名前を知っているの?」不思議そうに言った。
「だってほら、名札が付けっぱなしだよ」
あっそうか、と優羽は一回頷いた。
「一人で遊んでるの?」
「うん。お母さんの仕事が終わる六時くらいまでは。本当はね、家にいなさいって言われているんだけど、公園にいたほうがいろんな遊びができるから」
「じゃあ、これからの平日は私が一緒に遊んであげる。私は四時くらいにはここに来れるよ」
「本当に!」
やっぱり天使なんだと思った。お母さんが読んでくれたキリストという本の挿絵であった白くてキラキラした、いつでも傍にいてくれる優しい天使なんだと優羽は思った。
「うん!」
「何して遊ぼっか?」
「いつもはあの木の下の泥でお団子作るんだけど、お姉ちゃんはそういうのしないよね」
「とりあえず今日はいいよ。でも日替わりで交互に何して遊ぶか決めようよ」
「うん。それでいいよ。それが平等だね」
「ありがとう。ああ、優羽くんは優しくてかわいいなあ」
女の人は優羽の両手を握って、肩が痛くなるくらい大きく上下に振りながら「よろしくね!」と何度も繰り返して言った。
実家は園芸農家だった。祖父の代まではほうれん草やパセリなんかを作っていたけれど、父はそういうものを一切やめてしまいシクラメンやコスモス、水仙など花を作ることに専念していた。最初の数年は上手くいかないことが多かったようだが、今は順調らしい。
家は祖父が立てた二階建ての小さな木造住宅だった。その家は花や木々であふれていた。リビングには祖母が生けた季節の花がいつも飾られて、広い庭にもこぼれた種から勝手に季節の花が咲き乱れていたのを覚えている。
門の脇に、ベコニアの赤い花とニスを塗ったように光る緑葉が見える。
「ここが私の家よ」真弓は手を繋いでいる優羽に自慢げに言った。
「北山のほうって言わなかった?」
「それは高校に通うために一時的に住んでいるのよ。ここが本当の私の家なの」
半年ぶりに見た庭は相変わらず綺麗だと真弓は思った。門から入ると石畳が川のように緩やかな曲線を描いて奥に続き、途中の木々に玄関は隠されていた。真弓の背の二倍ほどはある紅葉が石畳を挟むように左右に一本ずつ植わり真赤な葉が石畳の上に敷きつめられていた。
門から一歩中に入ると、すぐ右手に、はぜた乳房のようにぱっくりと割れた柘榴の実がいくつも枝に吊られていて、優羽がめずらしそうに見つめている。その下には黄色い薔薇が無造作に咲いていた。それを囲い込むようにハート型の葉をしたカタバミがぎっしり生えている。そして柘榴の後ろには金柑の木や柿の木、キウイの木がぼさぼさに枝葉を広げ、鬱蒼としていた。
趣のある形をした石畳をさらに三つほど歩くとまた景色が変わる。紅葉の根本には丸い葉状の銭苔が椰子の木みたいな突起をいくつも突き出しているのと、白いダイモンジソウが大きく手足を広げて咲いている。それと交叉するように彼岸花の葉だけがにょきっと鞭みたいに地面から出ている。もう三歩進むと苔がなくなり、紫と黄色のホトトギスが姉妹のように咲いている、真弓は玄関の方に人の気配を感じて、ぎくりとしたが、それが祖母だと気付くと安堵した。玄関先で植木をいじっていた祖母は真弓に気付くと、ゆっくり何度も足踏みをして振り返って言った。
「あらっ、マユモじゃないの。よく来たわ。あら、そちらの坊ちゃんは?」
「久しぶりね、お婆ちゃん。こっちの子は最近友だちになった夏見優羽くんよ。今日は我が家を紹介したいと思って。いいでしょ?」
祖母は温かく迎え入れてくれた。彼女は真弓の唯一の理解者であった。この家を離れると決まったときも祖母と暮らせなくなることだけが寂しくてならなかった。
「ええ、お上がんなさい。この時間は縁側が気持ちいいから、そこでお茶とお菓子食べるといいわ。マユモ、手伝ってくれる?」
「もちろんよ、お婆ちゃん。さっ、優羽くんどうぞ」
優羽は訝しげに真弓を見た。
「マユモってなんなの?」
「あだ名よ。優羽くんの家にはないの?」
「ないよ、そんなの。恥ずかしい」優羽ははにかんだ。
優羽は人の家に遊びに行くのが久しぶりで嬉しいのだが、それを顔に出すのを必死で我慢していた。この庭でかくれんぼでもしたら楽しそうだなと早くも考えていた。
真弓は久しぶりに訪れた家を眺めた。和洋折衷の特徴的な外観を持った古民家。小さい頃はこの古い家が大嫌いだった。友だちのミサワや積水なんかの新しい工法で建てられた家が羨ましかった。けれど中学生に入る頃にはそんな不個性で庭のない家よりもずっとこのぼろ家のほうがいいと思うようになった。
「縁側っていいね」優羽は大人ぶってしみじみと言った。
「そうだよ。少し顔を出すと涼しい風が鼻先に当たるの。植物の葉の匂いや土の匂い、秋の雨上がりなんかは金木犀の匂いが庭中に立ちこめて、まるで中国の寺院にいるみたいになるわよ」
「あら、中国の寺院と言えば庭の隅に生えている和白檀の木なんて、寺院らしいでしょう?」
そう言いながら祖母は急須で湯飲みに緑茶を注いだ。
「わびゃくだん?あの細い木は杉じゃないの?」真弓は首を傾げて言った。
「白檀と言ってね。昔は寺院なんかで昔は珍重されていたみたいよ。それにあれでも樹齢百年超えているのよ」
「あんなに細くて弱そうなのに?」優羽が言った。
「そうよね。細くて、なかなか成長もしないしね。でも、あの枝を燃やすといい匂いがするんよ。お線香の原料なんかにも使われるんだから」
「なんでそんなのが家にあるの?」
「さあ。お爺さんがここに家を建てる前からあったらしいからね」
祖母は湯飲みと黒と白の胡麻団子がのった皿を二人の間に置き、自分の部屋に引っ込んでいった。二人は黙ってお茶を啜り、胡麻団子を一口で食べ、芳ばしい胡麻の匂いが鼻孔を抜けるのを味わった。
食べ終わると、「さて、何して遊ぼうか?」と真弓はうずうずしながら言った。優羽は「なんか気持ち良くて眠くなっちゃった」と庭に足を突き出して寝そべった。真弓は「なんだ」と言ってから、しばらく庭を眺めてから優羽の顔を見た。優羽の頬は床に落ちそうなくらいとろんとしていて、肌はトイレットペーパーみたいにふんわりしていた。ほのかな桃色が肌の内側に広がっている。馬尾のようにしなやかな前髪が七三に分けられている。長い睫がすうっと蝶の口のようにひるがえり、その間をかわいい丸い鼻が通る。鼻の下のうぶげが鼻息で靡き、血色のいい唇が濡れている。真弓の体を支えている手が床を叩くのが分かった。その振動が徐々に大きくなって肩まで伝わった。それが首元まで来ると、肩甲骨の方へ廻って止まり、今度は後ろから金槌で打たれたみたいに心臓がどっどっと肋骨にぶつかる。その波は抑えようもなく幾度もやってきた。もう真弓の顔は優羽の顔に触れそうなくらい近くにある。子どもの息っていうのはいい匂いがすると真弓は思い、優羽の唇に触れた。それは忘れられない感触となった。沈むような軟らかさと、抱き着かれるような弾力の感触だった。
真弓は何度も口づけをした。優羽のおでこや鼻、頬、そして透き通るような耳たぶに。その行為は長い時間続いた。不意に「ねえ」と呼ばれると、間抜けな恰好で真弓の瞳から欲望が引っ込んだ。優羽は真弓をずっと見ていた。初めの口づけのときからずっと彼女のすることを見ていた。
「なに、するの?」と、優羽は囁くように言った。真弓は優羽の髪をかき分けて「キスだよ」と口にした。すると、優羽は真弓の胸に勢いよくぎゅっと抱き着いて泣き出した。真弓も優羽の背中に手をまわしてぎゅっと抱き締めた。真弓は思った。みんな寂しいんだ。それは変えられやしないんだ、と…。
「優羽、お風呂一緒に入る?」真弓は言った。優羽はあっさり承諾した。二人で浴室で服と下着を脱いだ。優羽の毛の生えていない滑らかな女性器の膨みが見えた。真弓はそれを見てうっとりした。優羽は女。それは思いがけないことだった。可愛らしい声と顔立ちをした子どもをどうして真弓は少年だと勘違いしたのか。真弓はそのまま黙って浴槽に浸かったが、そのうちおかしくて狭い浴室で声をあげて笑った。優羽はただあっけにとられていた。誤解をしていたことを優羽には言わなかった。このことは真弓にとって自分だけが知っておくべき出来事のように思えたからだ。それは優羽を気づかってのことではない。真弓の世界が一気に色を変えてしまったからだった。自分の『劣等性』に臆病になって『嘘』をつくことが滑稽に思えた。
誤解や嘘は真実と肉薄している。そのあいだにある薄い膜状のベールを一枚取り払えばそこには現実がきちんと鎮座しているのだ、いやおうなく。現実世界でリアルを求めて嘘を重ねることがどんなに矛盾した行為か。虚栄心を満たすための嘘なんてものはもっとバカらしい。それは自身を際限なく拡張していくことなのだから、そんなものが手におえるはずもない。そう考えるといろいろなことが笑うべき対象として浮上してきた。真弓は数々の嘘を想いだしては胸をくすぐられた。誰かに嘘をつくことを通して、自分に対しても幾つもの楔を打ちつけてきた。その楔は細かく真弓を解体していたのだ。
真弓はその細かく砕けた本当の記憶の破片の一つ一つを丁寧に拾い上げ、それらが真実になるように繋ぎ合わせようと決心した。真弓は目も悪くないし、恋もしていないし、幼馴染は死んでもいない。幼馴染の男子は同じ高校に進学して、同じクラスで授業を受けているし、ときどきは適当な冗談だって言いあえる。自分には生まれてきてから、人生観を変えてしまうような出来事は何一つ起きていない。徹底して勤勉な生き方をしてきた。テストの成績は大学の選択には困らないレベルだし、友だちと呼べる人だっていないこともない。その生活で嘘だけが幸せな現実を捻じ曲げて、自身を混沌に満ちたダッシュボードへと突き落とそうとしていたのだ。たしかに周りにある世界はしばしばとても退屈に感じられるし、自分の不完全さを常に指摘してくる厄介なものかもしれない。でもそれはそれで真実で虚構よりは幾分かはましな世界なのだ。少しでもマシである以上、それを選択する方が普通の人間にとって有意義なのだ。真弓は数分間、笑い続けた後に惚けた顔をした。自分のなかの劣等性の穴から静かに熱い液体がしみ出てくるのを感じた。それは涙だった。
涙が止まり、少し落ち着いた後に、真弓は心に気色の悪いものがどこからともなくやってきて寄生するのがわかった。そしてこれが生きることなのかと思った。身から祓ってはまた別の何かに憑りつかれる。それの繰り返しなのだ。真弓は優羽の顔を見て言った。
「私ね、ずっと妹がほしかったの。だからこうしているとすごく嬉しい。そう、今の感情は愛しいとか、恋しいとか、安堵感というより、ただ嬉しいのね」
優羽は、真弓の不恰好な表情に不思議に親近感がわいた。それまで、年上の女性が冷たい存在に感じられていたからだ。
「どういうこと?」優羽は首を傾げた。
「優羽に会えてよかったということよ」
真弓は火照った頬をきゅっとひき上げて笑った。
○
美奈子は、胸の内に霧のように冷ややかな湿り気を帯びた何かが広がるのを感じた。美奈子はそれが大切な感情の高まりだと知りながら、その霧の中に入っていこうとは思わなかった。感情に身を焦がすよりも何かを冷静に考えたかったのだ。だが、彼女の思考回路は切れかかった街灯のように不規則で弱々しく力のある言葉を生み出しはしない。
まただ。またなくなってしまった。これから、いったい何に救いを求めたらいいのか分からない。生きていて楽しくない。これからずっと日々弾力を失う肌と心に絶望をするだけなんだ。何の気力もないまままに高校時代と同じ土の上を歩こうとする自分がむなしい。やり直そうと決意したのではなかったのか。
美奈子は実家へ帰るために電車に揺られていた。電車を二回乗り換え、ローカル線の座席に座っている。都会の人混みは薄れ、乗客はまばらになってきた。乗客の立ち居振る舞いも生活感が滲み出ているような気がした。
車窓から見える景色はレールを刻むごとに、見慣れた風景に変わっていった。ビルが減り、電線が減り、田んぼが増え、山が増えた。太陽の光は植物の根元にまできちんと届く。電車が駅に止まる度に、開いたドアから土の匂いのする風が車内に吹き込んできた。この電車に乗っていろいろな所へ遊びに行った。初めてできた彼氏と隣町にデートに行くときにもこの電車に乗っていった。そういえばあの男も自分勝手だった。高校生の分際で、私とセックスがしたいだの、しないなら別れるだの。結局は他に都合のいい女を作ってしまった。知也も本当のところは同じだったのだろうか。私などには欲情もしないということだったのだろうか…?
○
手術をしてから一週間後のことだった。知也は彼女が失踪したことを知った。夏見さんがはいなくなった。あまりにも不可解だ。何かの事件に巻き込まれた痕跡もなく、車とハイヒール以外のものはすべていつも通りに家に残されていた。彼女の娘まで置き去りにして。
三人は必死で彼女の消息をつかもうとした。でも見つからなかった。彼女の家には生活の跡がそのまま残されていた。リビングのソファには彼女が読みっぱなしにした週刊誌や文庫本が置かれていた。玄関の泥もシンクにこびりついた水垢も床に落ちている彼女の細い髪の毛もしっかりと彼女の生活ぶりを教えてくれた。主のいない家はがらんとしていて物悲しかった。二階にある彼女の部屋にはほとんど物がなくて、ブルーのカラーボックスに彼女の日記が大量に残されていた。その日記は部屋の中で異様な存在感があった。机の脇の安物のカラーボックスに無造作に詰め込まれている。それはまるで読まれてもかまわないというように誰の目にもつくように置かれていた。日記の紙は擦れて少し茶色に変色し古書独特の匂いがする。三人はそこに彼女の行方の手掛かりをつかもうとした。日記は彼女が中学生のときから始まっていた。そして彼女がいなくなった三日前で途切れていた。それまでの二十五年間のほとんど毎日書かれていた。しかしそこからは最近の彼女が何を抱えて生きていたのかという感情のほとんどが抜け落ちていた。日記は出来事だけが坦々と綴られているだけだったのだ。二人がリビングで眠ってしまった後も、知也は引き寄せられるように日記に向かい続けた。日記には多くのことが書かれていたけれどいったい何が重要で何がとるに足らないことなのかよく分からなかった。ある日はその日の夕食の献立について書かれ、違う日は誰かの葬式について事細かに描写がされていた。それでも読み続けていくうちに、断片的にではあったけれど彼女の身の回りに何が起きて、いったいどんなことを瞳に映して生きて来たのかという輪郭が静かに浮き上ってきた。そして知也はおそらく彼女の初恋について書かれている文章を見つけた。そこには彼女の感情が抑えきれずににじみ出ていて、他の備忘録的な文章とは違って叙情的だった。それはまるで初めて感情というものの実体を本人が捉えたかのようで、同じブラックのペンで書かれているにもかかわらず、紅く滲むように知也には見えた。そして、そのときの初恋の相手は死んだ夫のことであろうことは後の日記まで見ればすぐにわかった。
六月二十七日 朝は雨、夜は星が見えた。
今日はじめて彼の手を握った。彼の手は温かくて、私のはつめたかった。
私の中に流れる血は何の意思もなく私を生かしつづけている。だからつめたいのかな…。
抱き寄せられた腕の中で彼の温もりをかんじていた。この温もりをもう二度と失いたくない。たとえ彼からはなれたとしても、肉体がこの熱いものを宿しつづけるにはどうしたらいいのだろうか。お母さん、お父さん、あなたたちの居場所はもうないのよ。小学四年の夏、私が十歳を迎える八月十日。両親は私を残して死んでしまった。十歳の私には何の理解も許容もなかった。それでもこの事件が人生に何がしかのドラマを与えたというのはわかった。それまで両親の愛を一身に受けて溺愛されていた。現実の中にうまく溶け込んで癒着していた心が、これを機に現実とは違うドラマチックな世界へと遊離していった。外科医の父と専業主婦の母。二人のあいだにどんな会話が交わされていたのか。今となっては想像するしかない。いったいどんな過程で死に向かっていったのか。病院のベットで薬物自殺をした両親の顔は眠っているようで死んでいるとは思えなかった。そこには両親の死のメッセージというものはなにもなかった。それは死体ですらなく「死」という古びた記号のようなものだった。この出来事のあと、自分でもふしぎなくらい悲しむことをせず家に引きこもったり一日中涙を流しつづけるということはなかった。ただ、何かに突き動かされるように自分の人生に没頭していった。それまでは内向的で世間知らずの箱入り娘だった私が、先生やクラスメイト達とよく話すようになり人との付き合い方もわかるようになってきた。勉強や運動にも積極的に取り組んだ。それまでも学校の勉強の成績は良かったが、学んだ内容の意味なんてものには無関心だった。あれから、どんなことでも学び、血肉にして私は私をひろげた。一方で、急激に変化する自分を外から傍観している自分を強くイシキするようになった。地元の中学に入り陸上部に入った。私は細く青白い肌の手足から連想されるような、いかにも運動が苦手そうな女子だったと思う。陸上部に入った動機は母が大学で短距離の選手だと叔父から聞いたからであった。虚弱にも近かった体も三年間で血色のある肌になり輝きが満ちた。その影響もあってか、私はますます行動的になる。学級委員や生徒会長、あらゆる学校行事の執行委員で中心的に活動していった。でも、活動をしながら自分の求めているものとのミゾが日に日に深く心を浸食していたんだ。叔父に懇願して県内トップの私立高校に進学することに決めた。それはもっと頭のいい人たちと話してみたい。私の感じているような違和感を頭のいい同級生も感じるのかを知りたかった。動機はそういう安易なものだった。高校に入学して、そんな期待はあっさり裏切られた。同級生たちは男も女も過保護に飼いならされたひな鳥のようだった。自分の置かれている状況すらのみこめずに与えられたものを頬張る。高校生活はたくさんの友達に囲まれながらも、自分だけが違う時間軸を生きているような孤独ですらない絶望感があった。それとともに私を傍観し続けるもう一人の自分との距離が遠くなるのをかんじた。そんな時に彼を見つけた。そう、まさしく知り合ったのではなく見つけたのだ。高校二年になりクラス替えをしてクラス委員になった。私は教壇からクラスを眺めながら、彼を盗み見た。いつも本ばかり読んでいる。クラスの役割分担や授業の時ですら周りのことなど存ぜぬといった態度で窓際の前から五番目の席で本を読みふけっている。私は意地悪く彼に話をふった。「飯田くん、何か意見はありますか?」すると彼は開いた本を手に持ったまま、すくっと立ち上がると、面倒だ、という態度を全面に押し出して溜息まじりでいう、「勿論、何もかも、それで問題ないよ。委員長」。クラスの皆は彼が教室の空気を不快にするのを知っているらしかった。私が話を振ると小話が止み、皆の視線が硬直した。教壇からの景色では彼だけあきらかに次元の違う場所にいるみたいで、そこには何の交流もなかった。ある日、どんな本を読んでいるのか気になってそっとのぞいてみた。そして、思わぬことにわずかな文章の断片を見ただけでその本のタイトルが分かった。私は繰り返しなんどもその本を読んだからだ。三島由紀夫の潮騒。三島文学の中でも独特の光を放つ作品。彼の凄惨な死とはとても結びつかない。そこに描かれているのは人と人の生きる世界の純然たる自然美だった。そう、だから私は彼の人物像をうまくイメージできなくなってしまったんだ。嫌味なクラスメイトである彼と潮騒を読んでいる彼。そこには解消しきれないへだたりがあった。ただ、彼は深いミゾを心の中に持っていて、それが私のものと似ているからこんなにも気になるのかと思った。それから彼に少しずつ近づいて知れば知るほど、彼がいかに繊細で丈夫な心の持ち主であろうということを知った。彼の体温は重厚におりかさなった絶望に近い孤独を丁寧にときほぐしていた。彼の少し湿った温かな手をとってわかった。両親は、私に愛する自由をくれたのかもしれない。私が私の人生の中だけで選択できる愛を。両親からの愛が無くなった後、ずっと空白だった場所に彼が現れて満たされたのかもしれない。死ぬことの価値は分からないけれど、ただ茫々と生きていたい。そんなことはたぶん無理なのだろうけど。
彼女の字は美しかった。何が美しいのか分からないくらい美しかった。ここから少しだけ彼女を理解できた気がした。それは想像をめぐらせる飛び石くらいにはなった。つまり彼女は生まれながらに愛で満たされていたが、両親の死による空白が別の愛を見つけ、それすら失ったのだ。彼女は死んだのだろうか。今の知也には分かるはずもなかった。もし彼女の顔を一度でも見ていたら分かっていたような気がした。だがそれはもうどうしようもないことだった。彼女は知也の視力をそのままにして手術をした。そしてそれを悟られる前に姿を消した。
知也は美奈子のアパートに向かって歩いた。一時間以上も歩き続けた。帰りたかった。郷愁への渇望が、胸に渦巻く。正体不明の欲望は甘い郷愁のある場所へと知也を運び込もうとする。
美奈子はいなかった。しかしドアの鍵は開いたままになっていた。アパートの中は以前と変わらずに小奇麗に整頓されていた。ほとんど匂いさえしなかった。
知也は誰もいないリビングに寝そべった。部屋はしんと静まり返っていた。傍にある冷蔵庫からだけ、かすかにコンプレッサーが唸る音が聞こえた。その音は知也の心と共鳴する。知也はその音を聞いているうちに空洞が歪な形に変形していくのを感じた。それまでは均一な円を描いていた空洞がより扁平な楕円に変わり、不必要に内圧を高めていった。それはまるで胃から咀嚼物を吐き出す衝動と似ていた。ただしその衝動は頭蓋骨の中から来ていた。頭蓋の中心にある空洞の中身が膨張して破裂する。知也の声がリビングに響いた。その声にはエクスタシーを迎えた男の急速な欲望の衰退と同じようなあてのなさと静謐さがあった。その後、知也の胸はすっかり平板なものになってしまった。自分自身を確認するものが失われてしまったように知也には感じられた。
相変わらず、部屋にはしんとした沈黙が溜まっていた。だが冷蔵庫の唸るような音の背後に違う音がするのに知也は気づいた。水が上から下へ流れ落ちるような軽快で捉えどころのない涼しげな音だ。それは確かに聞こえた。その音に知也は水琴窟を想った。まだ永沢サキと知り合う以前に京都へ旅行に行き哲学の道を歩いた。真夏であったので体からは粘質のない汗がひたひたと流れ出て指先にまで伝った。軽い熱中症になりかけながらも、水一滴飲まずにただ歩き続けた。哲学の道を歩き終えたところの寺に水琴窟があったのだ。喉の渇きより好奇心がまさった。そこに柄杓で水を注ぎ、耳をそばだてると涼しげな音が地下からはね返ってきた。きん、きん、と知也の脳髄に気持ちよく響いた。そして乾いたスポンジのような脳の隅々までその音がいきわたるように何度も水を注いでその音を聞いたのだった。その音に耳を傾けながら知也は眠ろうとした。知也の脳裏に永沢サキの姿が映った。永沢サキは死んだ日の朝に、まだ寝ている知也の唇にぶつけるように唇をあわせた。それで目を覚ました知也は彼女の顔を見ようとしたがぼやけて見えない。焦点が合うまもなく彼女は出かけてしまう。彼女の顔に浮かんでいただろう死相を見てとることはできない。そこにはきっとそれがあったはずだ。その判別のつかない女の表情が知也をずっと苦しませてきたのだ。永沢サキの顔に貼りついた死を何度も想った。その想像は雲のように浮き上り脳裏を漂っていた。雲は時には笑っているように見え、時には悲愴な皺で老婆のようだった。
雲は雨を落として深くに沁みわたり頭蓋の中心に空洞を作り上げた。それを朽ちないものだと知也は信じようとしていた。徹底したドグマ的な信仰心を持とうとしたが、それは幾人かの女性の野蛮な握力によってたやすくつぶされ、無価値な残骸になってしまった。もう誰を見てもそこに永沢サキの影を重ねることはない。今はただサキの笑顔が思いだされた。その笑顔は以前までの苦しみとは違うせつなさを連れてきた…。
○
数日後、教室に入る皆が真弓に視線を向けた。担任教師が教室に入ってきて出席をとり始める。真弓の名前が呼ばれる。
「はい!」
思った以上によく通る声が教室に響いた。それから窓の外に目を向けた。青い空がある。ふと真弓は心を檻のように囲んでいた虚妄が消え去っていることに気づいて、あれはいったいなんだったのだろうかと思う。
不思議だな、と赤い唇が動いた。
虚妄