紺碧の雫

書きたいところまで書いて終わりました。

私の上にはいつも空がある。私が住んでいるのは周囲四方を全て壁に囲まれた四角い部屋で、頭上には流れる雲や青い空がまるで切り取られたように常に浮かんでいた。空は高い高い壁の、更に上にあるのでとてもじゃないけれど手を伸ばしても届く訳が無い。だから私は、余計にその空に憧れていた。
私の食事は一日三回で、あれが食べたいなあとか、これが食べたいなあとか、そういうことを口に出すと私の食べたいものがトレイに乗って壁の一番下にあるちっちゃなドアから差し出された。食べたいものが無いときには何も言わない。何も言わなくても、栄養のたっぷり摂れる食べ物が何かしら、朝の七時と昼の十二時と夜の七時にドアから差し出される。そのドアは本当に小さくて、私の頭が入るかどうかというぐらいだ。だからトレイを出し入れするだけで精一杯で、私はトレイの向こう側を見ようとするのにいつも失敗する。
雨が降った。水の粒が叩きつけられる音が耳に煩くて、私は無造作に床に転がした大きなクッションになだれ込んだ。柔らかいそれは私の眠気を誘い、私は何時の間にか眠ったようだった。雨の音が遠くに聞こえて、まるで子守唄のようだ。でも唄っているのは私以外の誰かではなくて、ただの雨。私はその部屋に一体何年暮らしているのか、もう忘れていた。何年?何ヶ月?何日―ひょっとして何時間?その記憶は曖昧で、昨日からと言われれば納得するし、もし生まれたときからと言われても私は納得しただろう。すっかり目に馴染んだ壁のクリーム色を見上げて、私は考えることを止めるのだった。考えても分からないのだから。
部屋の中には退屈しのぎの為の大量の本が入った本棚と机と椅子、ベッドとクッション、トイレとバスに繋がるドアがあった。トイレとバスは真四角の真っ白な部屋にあって、そこほどつまらないところはなかった。シャンプーが入っている容器も、リンスもコンディショナーもトリートメントもボディーソープも、トイレットペーパーも、それらが入っている容器は白く、ダストボックスも生理用品が入っている箱もタオルでさえも全部全部真っ白だったからだ。白以外の色は無い。唯一全身を映せる鏡だけが、私と、私の後ろの白い空間を無言に反射させている。私の体は鏡で見る限り成熟しているらしかった。大人の女ということになるのだろう。乳房が膨らんでいて身体全体が丸くて、ペニスというものが無いから私は女という種類になるのだと本を読んで知った。生理が来るのも頷ける。ただ分からないのは、私以外の男と言う生き物がどこにもいないということだ。ただ食事が出されるのだから私以外の人間がこの空間の外側にいるはずだった。でも、どこにいるのかは知らない。
私の一日はシャワーを浴びた後本を読んで歯磨きをしてベッドに入って終わる。仰向けに寝転ぶと真っ暗な空に星が綺麗な銀色の点になってたくさん浮かんでいるのが目に入る。私はたまにベッドを抜け出して、クッションにもたれかかって空を見ながら眠った。ベッドの中よりもクッションの上の方が私は好きだったから、それはとても幸せな時間だった。ベッドで寝なかった次の日の朝は、私は必ずベッドの中で起きた。誰かが私をベッドの中に運ぶらしい。私は誰がそれをするのか知りたくて寝たふりをしてずっと起きていたことがあったけれど、そういうときは私は朝までずっと起きているはめになり、誰かが私を運ぶということもなかった。きっと私が起きているのか眠っているのかということも、彼らには分かるのだろう。
私はいつからか、部屋の外側にいるはずの私以外の人間を彼らと呼び始めていた。彼らは私よりも色々なことを知っている。私の欲求を全て叶えてくれる。私に何かしらを与え、そして自由という最も大切なものを奪っている。
自由という言葉は私にとって空とイコールだった。空は無限に広がっていて、空を渡ってゆけばどこにでも行けるのだ。つまりそれは私の、この部屋からの解放を意味していて、私がそれをすることは彼らの手から逃れることを意味した。私はそれを熱望した。恋焦がれるように空を見上げては涙を流し、いつかはあの胸元へ飛び込むのだと想像する。胸の痛みは初めて味わったようで、昔から知っているような感情だった。
ある日、鏡に映った私の後ろに大きな白いものがあった。ただ私の背景のように無機質な白ではなく、温かみのある生きた色だ。手を伸ばして触ると、柔らかい。一枚一枚小さなものが集まって大きなものになり、それはどうやら私の背中から生えているようだった。私は首を傾げて、濡れた身体を拭いて裸のままドアを開けて、本棚の中から色々な本を漁った。頭の中で自分の背中から生えていたものを想像しながらページを捲っていると、ある挿絵に目が留まった。『鳥』そこにはそう書いてある。確かに鳥というものの手には私の背中にあったものと同じものがくっついている。それは羽というらしく、私の背中には羽が生えてしまったらしい。本を読み進めていくと、『鳥』は『羽』を空を飛ぶときに使うらしく、つまり私にも空を飛ぶ為の羽が生えてしまったのだ!
嗚呼、と私は空を見上げる。漸くあの大きな空間へゆける。しかし飛ぶためにはどうすればいいのか?私は自分の意思でそれが動くのかどうか試してみた。左の羽を動かそうとすると、不器用にゆっくりとそれははためく。私はまたページを捲った。『鳥は飛ぶために幼い内からその練習をする。』とある。ということは、私も飛ぶ練習をしなければならないだろう。次に、『羽を動かすにはそれ相応の力が必要であるが、それは羽を動かす内に自ずとつくので―…』とあった。
私はその日から一生懸命羽を動かした。五日目に、身体は少し宙に浮いた。二週間後、私は両方の羽根を同じように動かして大分高いところまで行けるようになった。一ヶ月もすると私はもう、今すぐにでも空にゆける程にしっかりと宙を飛べるようになっていた。
あとは私が決心をするだけだった。この部屋を出た後には何が待っているんだろう。それは不安ともいえたし、何より私はこの部屋以外のことを何も知らないということが一番の問題だった。けれどこの自由を求める欲求には何者も逆らえない。せっかく羽があるのだから、私は空を目指すしかないのだと、そう心に決めた。羽を動かして、私は上へ上へと登った。大分筋力がついたので、長い時間羽ばたいていても何も苦にはならない。そうしてもう、空は目の前となったとき耐え切れず私は思いっきり羽を動かして猛スピードで空に、追突した。
頭を割られたような衝撃と、真っ赤に染まった視界。遠のく意識の中で、私は、バラバラと散っていく綺麗な星の破片を見ていた。

紺碧の雫

よろしくお願いします。

紺碧の雫

  • 小説
  • 掌編
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  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-18

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