Panopticon

Panopticon

タイトルを変更しました。
旧タイトル・Karma's Crescent→新タイトル・Panopticon
読み方はパノプティコンです。
変更理由は覚えにくい、改めてダサいかなと思ったので。
内容自体は変わらないので、これからもよろしくお願いします。

Prologue―神と世界とヴァンパイア―

 それは禁断の果実を食べた二人の神の子の話。 
 神の怒りを買い、楽園を追放された神の子――アダムとイヴは果実から与えられた知恵を携え、辺境の地に隠れ住んでいるヴァンパイア達に楽園に帰れるよう、協力してほしいと頼んだ。初めこそ、耳を貸さなかったヴァンパイア達だったが、アダムとイブの巧みな言葉と積もりに積もった神への不満からとうとう、その手を取ってしまう。

――さぁ、神に鉄槌を。

 アダムの一言で、ヴァンパイア達は楽園へと乗り込んだ。

――我らに久遠の楽園を。

 イブの一言で、神はあっけなく殺されてしまった。
 無事、楽園を取り戻したアダムとイブは協力の褒美として、ヴァンパイア達に人間と同じように暮らせる世界を創り変えた。新たなる世界――エデンは、その名の通り、楽園になるはずだった。
 創り変えられた世界はひょんな事から意思を持ち、アダムとイブに代償を求めた。結果、力の半分を差し出す事となった二人は、神をも殺したヴァンパイア達を恐れるようになった。

――粛清だ。

 アダムの命に人々は立ち上がる他ない。相手は世界の創造主にして、神の子だ。逆らえば、どうなるかなど、考えるまでもない。

――これは運命だ。

 イブの命でヴァンパイアと人々の殺し合いが始まった。彼らは犠牲を厭わない。運命という清らなる言葉で虚飾した、彼らの気まぐれによる殺生は止まらない。

――お前達は神なんかじゃない。

 そんな中、とあるヴァンパイアがその身を擲つ覚悟で単身、楽園へと乗り込んだ。

――楽園は神へ返す。

 そのヴァンパイアは楽園への鍵となるクリスタルをダミーと共に世界にばらまいた。これにより、ヴァンパイア達と人々の殺し合いは収束するかのように思われた。
  だが、再び楽園から追放されたアダムとイブが大人しくしているはずもなく、二人はエデンの人々に呼びかける。クリスタルを集めた者には、褒美として、楽園へ住む権利と一つだけ望みを叶えてやる、と――。
その言葉に目の眩んだ人々は、クリスタルを求め、再び武器を取る。

――誰か、助けてくれ。

 殺し合いは終わったというのに、人々は止まらない。やっと掴んだ平和を壊してでも、叶えたい願いの為に人々は奪い合う。救いを求めて、もがくそれを踏み潰しながら。

――蝕む者に鉄槌を。

 しかし、そんな人々に救いの手は突如として現れた。それは――世界だった。
 世界は人々の心を蝕んでいる、アダムとイブの呪縛から人類を守ろうと、代償で奪った彼らの力を一部の人間に分け与えた。

――人々の心を蝕んでいるモノを取り除いてほしい。

 力を与えられた者は世界の願い通り、その力を行使し、人々の心を蝕んでいたモノを取り除いた。それにより、人々はようやく武器を捨てる事が出来た。
 こうして、世界は平和になった。しかし、アダムとイブの脅威が去った訳ではない。彼らは今も世界を彷徨っている。帰り道の分からない、子供のように。
 それを知っている世界は、粛清を逃れたヴァンパイア達を保護し、誰にも見つからない場所へと隔離した。
 アダムとイブの最大の被害者であるヴァンパイア達は、今も生きている。終わりなき、人生の中で彼らを呪いながら。
 これはそんなヴァンパイア達の悲劇の記憶。そして、今に続く物語。おとぎ話のように人々に語り継がれ、誰もが嘘だと嘲る、真実の物語。
 久遠の楽園を巡り、生みの親さえも手にかけた、哀れで罪深き神の子は果たして、真の神となり得るのか。
――全てはここから始まった。

一・銀髪の天使

 大きな門を抜け、一歩中へ踏み込めば、そこには科学と魔法の生きづく、貿易の街。 道の両サイドには露店が立ち、賑やかな声が飛び交っている。
 その一方で闇色に染まった裏路地では怪しい取り引きが行われていたりする。そんな裏路地に少年は一人、壁に身を預けて立っていた。帽子を深く被り、左手には茶色のトランクを持った少年は右手首に付けている時計を何度も見てはため息をついていた。

「おい」

  少年がまた時計に目をやった時、裏路地の奥からガラの悪い二人組の男が声をかけてきた。

「お前、さっきから誰待ってんだ?」

「つか、待ちぼーけ?超暇そーじゃん」

 ガラの悪い男が少年へと距離を詰める。一人は首や指にジャラジャラとアクセサリーをつけ、もう一人は顔や腕にド派手なタトゥーが刻まれている。よく見れば、上着の裾からはチラチラと銃の入ったホルスターが見える。

「そんな暇人に朗報〜。じゃじゃ〜ん!」

 タトゥーの男が少年の前に小さな箱を出した。中には袋詰めにされた、白い粉とカプセル型の薬が綺麗に敷き詰められていた。

「それは…」

 少年が小さく声を漏らす。その反応にアクセサリーの男はにやりと口の端に笑みを浮かべた。

「何?何?もしかして、知ってる、みたいな?」

「なら、話が早い。一つどうよ?」

 「安くしとくぜ?」。アクセサリーの男が少年の肩に腕を回す。

「楽になれるぜ?嫌な気持ちは吹っ飛んで、心は快楽で満たされる。一度味わってみないか?」

 タトゥーの男が言うと、少年は帽子のつばを少し上げ、鋭い目つきで男達を睨み付けた。

「これが何だか、分かるか?」

 少年はアクセサリーの男の腕から逃れると、上着の内ポケットから一つの小瓶を取り出し、それを二人に見せた。

「これは呪い薬だ」

 少年の言葉に二人は「はぁ?」と訳が分からないというように声を上げる。

「お前らも知ってるだろ?魔女の使う、古代魔法の一つ。最もむごいとされる、病魔の呪いを」

「それがどうした」

「この瓶の中に入っているのは、かの有名な魔女の血だ。しかも、病魔の呪いに長けた魔女のな」

 とぷんっと中に入っている液体が音を立てる。その鮮やかすぎる赤色にさすがの男達も息を呑む。

「その病魔の呪いは魔女が死しても、なお解けはしない。生きているのに死にそうに辛い。死のうとしても、呪いのせいで死ねない。そんな苦しみがずっとループするんだ」

 少年はニヤリといやらしい笑みを浮かべると、言葉を続ける。

「エクスタシーの快楽よりも悦楽で蜜のように甘美。跡も残らないし、一度で事足りる」

 そして、少年はトドメとばかりに低い声でこう言い放った。

「死ぬまで味わえる快楽。一つどうよ?」

「ひぃっ!?」

 二人は情けない声を上げ、ものすごい勢いで走り去って行った。少年の言葉があまりにも効いたらしく、商品である箱をその場に置き忘れている。

「そんなの、ある訳ねぇだろ。バーカ」

 少年――ロック=ペプラムはくつくつと肩を揺らして笑う。彼が持っている小瓶の中身はもちろん呪い薬などではない。ただの血液である。

「何を笑っているんだ?」

 大通りの方から声がして、振り返るとそこには大きなトランクを持った白衣の男が立っていた。

「別に。そんな事より、薬は?」

 ロックに言われ、男がトランクを開ける。中には綺麗に瓶詰めされた薬が入っている。

「…本物、だな」

 瓶のフタを開け、中の薬の匂いを嗅いだ後、ロックは上着のポケットから札を何枚か出した。

「財布くらい持ったら、どうだ?」

「財布より薬だ」

「薬馬鹿が…」

 男はロックから薬のお代をもらうと、自身の財布から硬貨を取り出し、ロックに渡した。

「また薬が切れたら頼む」

「あぁ。じゃあな」

 男はトランクを掴むと裏路地の奥へと消えて行った。ロックは自身のトランクに薬を納めると、その場を後にする。
 騒がしい大通りは人で溢れている。その中でも一際、賑わっている一つの集団があった。

「何だ、あれ……」

 集団のほとんどは野次馬のようで、何をやっているかは分からない。よく見ると、野次馬の半分はすらっとした、綺麗な女達だ。

「レベル、高けぇ…」

 気付けば、ロックの足はその集団の方へと向いていた。恐らく、残り半分の男達はこのようにして集まったのだろう。男とは実に単純な生き物だ。

「キャー!かっこいい!」

「素敵ー!!」

 女達の黄色い声援を一身に受けている少年はカード片手に余裕の表情。一方の相手はカードを握り締め、苦々しい顔をしている。

――相手が悪かったな…。

 今、彼が相手をしている少年の事をよく知っているロックは、相手の男の事を哀れんだ。

「ほら、お前の番だぞ?」

 少年は頬杖を突き、相手の顔を見る。綺麗に整った顔にハーフアップの茜色の長髪、極めつけは今にも獲物を喰わんとする猛獣のようなバイオレット色の瞳。少年・ガドール=クーリッジは超のつくイケメンだ。

「くっ…!」

 カードを握り締めている男の手はブルブルと震えている。木箱の上にあるカードを見れば分かるが、ガドールの勝ち方はある意味、狂っている。
今やっているゲームは大富豪もしくは大貧民。パーティーゲームの定番ともいえるトランプゲームの一つで、場に出ているカードよりも強いカードを出していき、早く自分の手札を無くせば勝ちとなる。

「おい。あいつ、何なんだよ」

 ロックが改めて木箱の上を見ると、カードの山の上に6のカードが三枚、置いてあった。俗にオーメンと呼ばれるモノで6のみの三枚だけで革命出来るというのがルール。しかも、これが出た後は革命は起こせず、特殊札・縛り効果がなくなる。故に666は悪魔の数字と呼ばれている。

「さぁ、どうするよ?」

 ガドールの残りは三枚。ガドールの表情から察するに残りの三枚は同じ数字だろう。恐らく、6よりも強いカードだ。

――この勝負、ガドールの勝ちだな。

 狂ったような強運、人は彼を”狂運のガドール”と呼ぶ。

「くそっ!」

 男の声と共にガドールの手からカードが落ちる。

「す…すげぇ」

「奇跡だ………」

 そして、辺りは歓声に包まれた。

「お……おいっ!ガドールっ!」

「ん?ロックか。遅せぇよ」

 人混みを掻き分け、二人はその場から離れる。あんなにもたくさんの人がいたにも関わらず、誰一人として二人には気付かない。ガドールに至っては、さっきのカードゲームで得た賞金の入った、大きな袋を担いでいる。

「お前、稼ぎすぎだろ」

「負けるやつが悪りぃんだよ」

 ガドールがニィっと笑みを浮かべると、担いでいる袋をわざと音が出るように担ぎ直す。

「それにこれは勲章だぜ?ま、お前には意味のねぇ勲章だがな」

「ガドールみたいに稼げる訳ないだろ。俺に運ないの知ってるくせに」

「貧乏くじ引くプロだもんな、お前」

 ガドールの一言にロックはギロリとガドールを睨んだ。けれど、余裕たっぷりの大人なガドールには一切効いていない。むしろ、こちらが負けているとさえ感じてしまう。

――同い年のくせに。

「ふくれんなって」

「子供扱いすんなっ!」

 ガドールはロックの頭を二、三度軽く叩くと笑みを浮かべた。その一方でロックはガドールの手を振り払い、無駄だと思いつつも再び睨みつけた。

「ほら、奢ってやるから、何か食いに行くぞ」

「お、やった!」

 不意に風が吹き、ガドールの茜色の長髪が靡く。その拍子に左目に付けているスカウターが露になる。

「この風………」

「どうかしたのか?ガドール」

 ロックは風で飛びそうになった帽子を手で抑えた。街では珍しい、強風に大通りの人々は戸惑っているようだ。

「神風か」

「神風?」

 ガドールの言葉にロックは首を傾げた。

「神風ってのは、風の能力者・number6の技の一つだ」

「number6って…確か、消滅したっていう……」

「なんだ、知ってたのか」

 ガドールは左目に付けているスカウターに手を伸ばす。

――血の匂い……。

 風に混じって、血の匂いが微かではあるが、香ってくる。

「行くぞ」

 ガドールはロックに声をかけると、走り出す。しかし、そんな二人を阻むかのように強風が襲いかかる。

「くっ…!」

 距離が近付くにつれ、風は威力を増していく。今にも飛んでいきそうなロックは帽子を抑えたまま、必死に踏ん張る。

「捉えた」

 そんな中、ガドールの落ち着いた声がした。どうやら、number6の居場所が分かったらしい。

「ロック、飛び込め」

 ガドールは右肩に付けているファーの中から、掌サイズの水晶玉を取り出した。あの水晶玉は通称・水晶と呼ばれているマジックアイテムだ。ちなみに先ほど出て来たファーもその一つだ。

「はっ!?ちょっ……」

 ガドールが持っていた水晶を勢いよく、地面に叩きつけた。パリンっという高い音と共に辺りが光で包まれる。

「っ…、仕方ねぇ!」

 風が少しおさまったのを見計らい、ロックが光の中へと飛び込む。

「っ……!」

 ふわっと体が羽のように宙に浮く。初めての浮遊感にロックは驚き、閉じていた目を開けた。その途端、羽のような体は鉛へと変わり、浮遊感は魔法が解けたかのように消えた。そして、体はそのまま降下していく。

「うわーーー!!!!!」

 ロックは絶叫する。耳には自分の叫び声と風を切る音しかしない。

――冗談じゃねぇ!!

 なすすべもなく、ロックは落ちていく。ロックの体を縛っている恐怖が風を切っていく感覚さえ、無くなってしまうのを惜しいと思わせる。

「わっ…ぶっ!!!」

 しかし、突如として降下は止まった。ロックは何が起きたのか、分からずにしばし固まる。

――助かった?

 ゆっくりと顔を上げると、そこには必死に笑いを堪えているガドールがいた。見ると、ロックの下にはガドールのファーがマットの代わりに敷いてあった。

「お……おま……マジヘタレ………」

 くくくっと肩を大いに揺らし、ガドールが笑う。堪えるくらいなら、いっそ盛大に笑ってほしいとロックは穴に入りたい思いだった。

――やべ…、涙出てきた。

 我ながらに情けなく思ったロックは反論すら出来ない。一方のガドールは腹を抱えて、膝をバシバシと叩いている。よほど面白かったのか、目には涙が浮かんでいた。

「あ〜…、ウケたウケた」

 何分かして、満足したのか、ガドールが笑うのをやめた。恥ずかしさで真っ赤になっているロックは帽子を深く被り、顔を隠す。

「……っと、来たか」

 目尻に溜まっている涙を拭うガドール。さっきまでの陽気さはすっかり鳴りを潜めている。

「さてと、やりますか」

 バイオレット色の目が獲物を前にした獣のように不気味に光る。味方であるロックでさえ、恐怖を感じ、一瞬怯んでしまう。

「構えとけよ、ロック」

「お、おう!」

 ロックはトランクから拳銃を取り出すと、素早く弾を込めた。真新しい拳銃は太陽の光で鈍く光っている。

――今日も引かなくて済んでくれ。

 拳銃を握り締め、ロックは心の中で祈る。このトリガーを引けば、人の命をも奪ってしまう。その事を十二分に分かっているからだ。

――来た……。

 裏路地に誰かの足音が響く。走っているのか、テンポが早い。しかも、その足音はロックとガドールのいる道へと徐々に近付いて来る。自然とロックの心臓もバクバクと脈打つ。
 そして、その時は訪れる。目の前の角から、足音の主が現れた。黒いロングコートを着た主はフードを被っていて、顔はよく見えない。見えるものと言えば、フードの下から覗いている口元と銀色の髪くらいだ。

「お前、code numbersのnumber6か?」

 ガドールの問いに主は答えない。動揺もしない。ただ、冷静にロックとガドールをフードの下から見据えている。

「沈黙は肯定とみなす」

 ガドールはファーから一本の短い棒を取り出した。その拍子に棒は一気に元の長さの倍に伸び、一本のキューとなった。

「知ってる事、全部吐いてもらうっ!」

 タンっとガドールが地面を蹴る。先ほどまで15m程あった距離が一瞬の内に縮まる。ガドールはキューを主に向けて、力いっぱい振った。

「なっ…!」

 捕らえたはずだった。けれど、ガドールのキューは勢いよく空を切った。

「ガドール、後ろだ!」

 ロックが拳銃を地面に向けて擊つ。いつの間にか移動したのか、主はガドールの背後にいた。

「はぁっ!」

 振り向きざまにガドールがキューを主に叩きつける。

「っち……!」

 主はガドールのキューを正面から受け止めた。重い一撃にわずかによろめきはしたが、フードの下の口元は一切動かない。
 しかし、そんな事は計算の内だ。ガドールはニィっと笑みを浮かべると、キューをしっかりと握り締める。瞬間、ガドールの体から電気が流れ、キューを伝い、主を襲った。

「っ!?」

 口元が歪む。予想していなかったと言わんばかりに。
 そう、ガドールもまた、number6と同じ、code numbersの一人。number5と呼ばれる能力者だ。
 code numbersとは、世界が与えた能力を持つ能力者の事で全部で十二人存在している。能力は代々受け継がれ、新たなる能力者を生み出す。そんな終わるはずのない連鎖の中で、受け継がれなかった能力があった。その一つがnumber6、風の能力だ。

「くっ…!」

 ガドールの能力・雷の衝撃に主のコートが爆ぜる。

「っ…!!!」

 主はガドールのキューを蹴り上げた。キューはクルクルと回りながら、地面に突き刺さった。

「お前ら、一体何者だ」

 低く、ドスの効いた声で主が問う。被っていたフードは爆ぜて、隠れていた瞳が覗く。殺気の混じったレモン色の目は銀髪によく映えている。

「喋れんのか。てっきり、喋れねぇと思ってたぜ」

「質問に答えろ」

「そっちこそ答えろ」

「……number6は死んだ。そして、その力は受け継がれた」

 主はガドールに言った。無機質な声には余計な感情は一切ない。ただ、事実を伝える機械のような声にロックは酷く驚いた。

「お前らの知っている事が本当の真実であるとは限らない。number6もそうだ。あいつの力は消滅などしていない」

「知ってるのか?number6を」

「お前らには関係ない」

 主はそう言うとポケットに手を突っ込んだ。

「だが、いずれ分かる」

「は?」

 ぽかんとするガドールを他所に主は水晶を地面に叩きつけた。どうやら、脱出用の水晶を持っていたらしい。

「ッチ!」

 ガドールが忌々しいと言わんばかりに舌打ちをする。水晶から溢れた光は数分で晴れ、虚しい風が吹いた。
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 ガヤガヤと昼間だというのに店は酒の匂いと陽気な男共でごった返している。その店の奥のテーブルにロックとガドールはいた。

「あの野郎、気になるような事だけ言って消えやがって……」

 出来立てのラザニアを食べながら、ガドールが言った。香ばしいチーズの匂いが二人の座っているテーブルの周りに漂う。

「まぁ、細かい事は置いとくか。これ片付けたら、別行動でnumber6について調べるぞ」

 ガドールの言葉にロックはこくんと頷いた。number6の風の能力で怪我をした人間がいないか、ロックは病院を当たる事になった。

「俺は直接現場へ行く」

 七皿目のラザニアを平らげ、ガドールは口の周りを手の甲で豪快に拭った。

「じゃあ、また後でな」

「あぁ」

 ガドールはお代をテーブルに置くと、店から出て行った。
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 店を出て、二時間くらいが経った頃、ロックは手帳を手にため息をついた。

「どうなってんだよ…」

 病院には読み通り、number6のせいで怪我をした人が数十名いた。そこでロックはその人達にnumber6について聞いた。すると、みんなnumber6は黒髪の背の高い男だったと言った。

――あの男は無関係…なのか?

 しかし、その男はcode numbersではないと言う。普通、code numbersは何もない所からでも能力を発動させる事が出来る。しかし、その男はクリスタルを用いて、能力を発動させたらしい。
 クリスタルというのは六角形の水晶の事で、花園と呼ばれる楽園への鍵とされている。数が希少なため、戦いの戦利品など高値で取引されている。

「ダミーって事か……」

 前にガドールから聞いた話をふと思い出した。
クリスタルの中には強力な力を持ったダミー(模造品)がある、と。昔、世界が人に力を与える前、その力を所持していたアダムとイヴがクリスタルに力の一部を宿していたからだと言われている。多分、その一つに風の能力もあったのだろう。

「黒髪の…背の高い男…」

 そして、その現場にはもう一人、傷ついた人々を助けたとされる少女がいた。
 怪我人達は「まるで天使だった」、「血で服が汚れても、全然気にせず、助けてくれた」など、誰もがその少女に感謝した。その少女は肩までの銀髪にレモン色の瞳をした、美少女だそうだ。

――コートのやつの知り合いか、それとも仲間か…。

 どちらにしても、その美少女に会ってみるしかない。もしかしたら、何かつかめるかも知れない。しかし、その美少女の居場所を知っている者はいなかった。

「わっ!」

 ロックが歩き出して、すぐに誰かとぶつかり、その拍子に相手の持っていた書類が舞い上がる。

「ちょっと!どこ見てるのよ!」

 相手は女だった。ゆるゆると軽く巻かれたセミロングに真新しいブラックスーツ。それにシャツから覗く、茶色の首輪。ロックは一目見て、彼女がエージェントだと気付いた。

「わ、悪い」

 ロックが慌てて、手を差し出す。
 エージェントとはバウンティーハンターをサポートする人の事だ。情報提供から賞金首の受け渡しや後始末の請け合いまでしてくれる事から、俗に始末屋と呼ばれている。

「君、年下でしょ?敬語、使えない訳?」

「は、はぁ…」

「私、年上だよ?自分で言うのも何だけど」

 ぺちゃくちゃと大声で次々と喋っていく女。しかも、女のせいで通りすがりの人々がこちらをチラチラと見てくる。見世物にでもなったような気分になったロックは今にも逃げ出したくなった。

――つか、こいつ、Eランクかよ。

 女の付けている首輪(リングタイプ)にはランク別に色分けされている。ランクはS〜Eの六つあり、Eはその最低ランクだ。新参者ならともかく、女はどう見てもそうではない。相当、出来が悪いようだ。

――逃げるか。

 ロックはそう決めるとくるりと回り、全力で走り出した。元々、逃げ足の早いロックは猫のように素早く、人の波をぬって進んで行った。

「ハァ……ハァ……」

 久しぶりに走ったせいか、息切れが早い。ロックは帽子を脱ぐと壁に背を預けた。

「ん?」

 その時、不意に誰かの気配がし、ロックがそちらに目をやる。すると、そこには一人の少女がいた。少女は傷を負っている男に手を貸し、ゆっくりと歩いていた。

――肩までの銀髪……。

「す…すまない……」

「喋らなくていい。すぐに連れて行くから、もう少し辛抱してくれ」

 凛とした声がロックの耳に届く。透き通った、その声にロックは息を呑む。

「?」

 柔らかな風が吹いて、おもむろに少女が振り返る。月のような銀髪に透き通るほど白い肌。整った眉に長いまつげ。そして、全てを見透かすような、汚れのない純粋な瞳。

――レモン色の、瞳…。

 少女と目が合う。その途端、ロックの胸が高鳴る。そこには確かに天使がいた。翼も、神の力も持っていないが、少女はまさに天使のよう。
綺麗な顔立ちは教会のステンドグラスのように見とれてしまい、声は楽器のように美しく、聞き惚れる。まさに美少女、いや、超絶美少女というべきか。

――か、可愛い……。

 ロックは少女に恋をした。

二・忍び寄る闇

「で、誰なんだよ」

 ロックに尋ねてきたガドールの視線の先には、先程ロックが出会った、あの少女が凛とした姿で座っていた。
 あの後、ロックは少女に手を貸し、男を病院まで連れて行った。number6にやられた内の一人だった男は、少女の手当てがよかったのか、大事には至らなかった。

「あ、そういえば、聞いてなかった…」

「普通聞くだろ、阿呆」

 呆れた口調のガドールがロックの頭を軽く叩く。

「よぉ、初めましてだな。俺はガドール、ガドール=クーリッジだ」

「あたしはクルッカ。クルッカ=クレセント」

「お、俺はロック!ロック=ペプラム!」

「よろしく」

 少女――クルッカ=クレセントが二人に微笑む。

「さっきはありがとう。おかげで助かった」

「い…いや、別に大した事、してないし」

「大した事じゃなくても、やった事に変わりない。それにあたしが言いたかったから」

 クルッカはそう言うと、口の端に笑みを浮かべた。控えめだが、その可愛らしい笑みにロックの心臓が一際大きく脈打つ。

――か、可愛い。

「ヤベ、鼻血出そう……」

「阿呆」

 鼻を押さえるロックにガドールは哀れむような視線を送る。

「お前、連れはいないのか?」

「今は、ね。ここへは依頼で来たから」

 そう言うとクルッカがジャケットの前を開ける。見れば、クルッカの首にはAランクのバウンティーハンターの証である、紫色の首輪が付いていた。

「Aランクか。すげぇな」

 口笛を吹き、ガドールが言うとクルッカは「大した事はない」と呟くように言った。

「ガドールとロックは?」

「俺達?」

 自らを指さし、お互いの顔を見るガドールとロック。正直、この質問は困った。なぜなら、理由が理由だからだ。軽々しく他人へ言っていいような理由ではないのだ。

「旅してんだよ。自由気ままな男二人旅」

 ガドールがアドリブで嘘をつく。クルッカのような超絶美少女を騙すのは、申し訳ないが、そうしなければいけないっと自分自身にロックは言い聞かせた。

「自由を求めて、西へ東へってな」

「ガドール、ギャンブラーだもんね」

「有名だもんな、こいつ」

「っと、それより、クルッカ。number6の事について、知ってるか?」

 ガドールがクルッカに尋ねる。すると、クルッカの顔からスっと表情が消える。まるで、本題を待っていたかのように。

「number6は死んだって聞いてる。能力者の間では、その力は消滅したって噂になっているけれど」

「お前はnumber6のいた、あの場所にいた。そして、怪我人を運んでた。って事でいいのか?」

 こくんっとクルッカが小さく頷く。

「会ったのか?number6に」

「いや、あたしが会ったのはその能力を使ってる人だった」

 クルッカの言葉にガドールは「Fake numbersか」と呟いた。

「Fake numbersって?」

「code numbersと違って、ダミーのクリスタルを使って、能力者を得た人の事だよ」

 クルッカとガドールの説明によれば、こうだ。
 Fake numbersとはcode numbersの能力をダミーのクリスタルによって得た人の事だ。本来、code numbersは本部と呼ばれる、世界が管理する組織に届けを出し、numberを得るという。Fake numbersはcode numbersが公表されていない事をいい事にその力を悪用しているそうだ。

「個人情報やそいつの普通の生活を守るためにとか何とかで、世界は公表しないと決めたんだと」

「力がある事を知れば、恐る人もいるし、その力を利用しようと近付いてくる人も出て来る。そうなってしまえば、能力者は生きていきにくくなる。世界はそう考えたとされているの」

 二人の説明にロックは頷き、時々相槌を打つ。

「だが、Fake numbersの能力は所詮コピーだ。本物の能力には勝てねぇ。暴走しない限りはな」

「暴走?」

「前に言ったろ。ダミーには強力な力を持ったクリスタルがあるって」

 ガドールの声が真剣みを帯びる。ガドールの纏っている、独特なオーラにロックの体には緊張が走る。一方のクルッカもガドールのオーラを感じ取ったらしく、さっきよりも表情が険しい。

「俺達、能力者には二種類いる。一つは生まれながらに能力を持っている者。んで、もう一つが能力を継承された者」

「継承って言うのは、何らかの理由で能力者がその能力を他人へ譲り渡す事」

 クルッカの言葉にロックは何らかの理由の意味を悟る。

――能力者が、死ぬ時……。

「継承で能力を得た能力者は、生まれながらに能力を持っている人よりも、能力が不安定で一歩間違えば、力に飲まれて、暴走してしまう」

 クルッカがガドールの代わりに言った。ガドールは「悪いな」と苦笑した後、再び説明を始めた。

「Fake numbersもそうだ。大いなる力はそれに見合う代償を求める。つまりは等価交換だ。能力に免疫がない者は代償にその身を蝕まれ、暴走する」

 ガドールの長い前髪からバイオレット色の瞳がギラリと光る。

「そうなっちまう前に止めねぇとな…」

 固く握った拳を左手で受け止め、ガドールが呟く。見れば、ガドールのバイオレット色の目には何かを決意したかのような鋭い光が宿っていた。

「ガドール…」

 何て言っていいのか分からず、言葉に詰まるロック。時々、今みたいにガドールが分からなくなる。何を考えているのか、何を決意しているのか。何一つ、ロックには言ってくれない。答えは自分で探せといつも突き離されてしまう。

――お前は何を知っている…?

 ロックは口から今にも飛び出して行きそうな言葉を飲み込む。言う勇気なんてなかった。ただ怖くて、不安だった。でも、そこから抜け出す術をロックは知らない。
 ロックはただガドールを見つめ、ガドールが話すのを待つ事しか出来ない。しかし、閉ざされたガドールの口は一向に開く気配がない。

「待ってるだけじゃ、進めないよ」

 不意にクルッカがロックに言った。レモン色の目は全てを見透かすように光を帯びている。嘘も真実も偽りなく映す鏡のように。故にロックはビクリと肩を揺らした。

「待っていれば、いつか誰かが気付いてくれる。そんなのおとぎ話のお姫様くらいだ」

 クルッカの顔に表情はない。まるで、ロボットのように本来あるはずの感情が欠片も見当たらない。温かさも、冷たさもない、まさに無。今のクルッカは無機質だ。

「自分から行動しないと前には進めない。世界はロック、君を助けてはくれない」

「クルッカ…?」

「目を背ける事は、知ろうとしなかった事は、自分を臆病にするだけ。それはロックの背中に傷を付けるだけだ」

 クルッカの目がロックの目をじっと見据える。

「知ろうとしない人間に運命の輪は廻せない」

 ロックの心の中で何かが音を立てる。クルッカの言っている言葉の意味は分からない。そもそも、知ろうともしていなかったかも知れない。クルッカの言う通りだ。

――俺は、卑怯だ……。

 目の前にいるガドールは握り締めた拳を見て、黙っている。その表情は何かと葛藤しているように険しく、苦しそうにも見える。ロックはそんなガドールを見て、何かと口を開く。

「うぁ…」

 けれど、震えた唇は言葉を発しようとしない。震えは止まらない。何にこんなに怯えているのかさえ、ロックには分からない。

「いたーーーっ!!」

 そんな時、重苦しい空気を一切無視し、誰かが声を上げた。周りに座っていた人々が一斉にそちらを見る。

「げっ……!」

 ロックはギョッと目を丸くした。みんなの視界の先には、あのブラックスーツのEランクエージェントが立っていた。

「やっと見つけた!捜したんだからね、クルッカ」

 エージェントは親しげにクルッカに声をかけてくる。

「ま、まさか……」

「ん?あんた、さっきの!」

「クルッカのエージェント!?」

 ロックが声を上げる。すると、近くに座っていた男が大きな咳払いを一つした。「すみません」とペコリと頭を下げるロック。一方、エージェントの大声で雰囲気をぶち壊されたガドールはハァっとため息をついた。

「そうよ!私はレイユ。この子のエージェント!」

 「すごいんだからね」。何故か胸を張るEランクエージェントことレイユ。「別にお前はすごかねぇだろ」とツッコむのさえ、面倒だと感じるロック。

「レイユ」

「ん?何?」

 クルッカは席から立ち、レイユの前に立った。レイユはクルッカと真正面で対峙しているせいか、仰け反っている。

「ここがどこか、分かる?」

「病院、だけど……」

「なら、静かにして。そして、速やかに帰って」

「な、何でよー!!」

 レイユが声を上げた瞬間、クルッカの足がレイユの顔を掠める。いわゆる、足ドンという形だ。

「静かにしろって言ったはずだが…」

「あ、あの………」

「早く帰れ。人に迷惑がかからない内に」

 クルッカの低い声にビビりまくりのレイユはこくこくと頷く。さながら、猛獣使いが猫を虐めているようだ。

「な、何で……。私、エージェントなのに……」

 今にも泣き出しそうな声でレイユが言った。

「仕事は自分で取りに行く。お前に任せるとロクな事にならない」

 キッパリとクルッカが断言する。数分前とはだいぶ態度も言葉遣いも違う。もしかしたら、こっちのクルッカが本来の姿なのかも知れない。

「お前、あいつ知ってんのか?」

「まぁ、ちょっとな」

「あいつ、有名だもんな。ある意味」

 クルッカとレイユのやり取りを見ながら、ガドールとロックが話し出す。

「今まで組んだハンターは数知れず。組んだ瞬間、ハンターは人生を狂わせる。ハンター達はあいつを"ハンター殺しの疫病神"って呼んでる」

 ニィっとガドールが皮肉たっぷりの笑みを浮かべる。この上なく面白いと言わんばかりに。人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだとロックは思った。

「落ちこぼれ、面倒の塊。貼れるレッテルは全て制覇する勢いで貼られ、剥がす気なんて更々ねぇ。やる事なす事、常識外れ。ドジはタガが外れたように連鎖していき、最後には全てを人に投げて、知らん顔ときた」

 ガドールの言葉にロックの顔は引き攣る。

「おまけに厚顔無恥でかなりしつこいときてる。ここまで救いようのないやつ、初めて見たぜ」

――何でそんなんで辞めさせられないんだ…。

「お願いだから、話聞いてよ!!!!」

 レイユはそう叫ぶと、クルッカの足にしがみついた。その刹那、クルッカの顔が今までにないくらいに歪んだ。これが大人のする事かと目で訴えるも、レイユは一切気付かない。

「おい、こらっ!何、羨ましい事をっ!!」

「さらっと本音言って、どうすんだ」

「と、とにかく離れろ!!」

 クルッカの足にしがみつき、子供のように大声で泣き出したレイユ。病院にいるという事をすっかり忘れているらしい。周りの人々の痛々しい目線にもそろそろ気付いてほしい。

「おい、ここに銀髪の女とその仲間が来てないか」

 どこからか、男の野太い声が聞こえてくる。見てみると、入口の所にガラの悪い男が五、六人立っていた。

――銀髪の女にその仲間って……。

「おい、逃げるぞ」

 ガドールはクルッカにしがみついているレイユを蹴り剥がす。勢いそのままに、レイユはテーブルの角で頭をぶつけ、気を失う。

「大丈夫ですかっ!?」

 近くにいた看護師が床に倒れこんでいるレイユに駆け寄る。それを他所にロック達はその場からそそくさと退散して行く。

「さっきの、この街で名の知れたヤクザの傘下でしょ?」

 誰もいない廊下を歩きながら、クルッカがガドールに尋ねる。ロックとクルッカの前を歩いているガドールはまえを向いたまま、頷いた。

「確か、薬の売人や強盗殺人紛いの事までしてるって」

「流石」

 不意にガドールが足を止め、こちらに振り返る。

「偉い偉い」

 そして、おもむろにガドールがクルッカの頭を撫でた。

「なっ…!」

 ガドールの指がクルッカの銀髪に触れる。ロックはガドールを妬ましさたっぷりに睨みつけ、その二人の間にいるクルッカは、真っ赤な顔で床を見つめている。

――何で赤くなるっ!?可愛いけど!!

「話逸れた」

 クルッカはガドールの手を避け、歩き出す。「悪りぃ、悪りぃ」と言いながらも、全く悪びれた様子のないガドールに油断も隙もないと拳を握り締めるロック。

「あいつらに目を付けられたら、この街から出られなくなる。その前にこの街から出た方がいい」

 この街で名が知れていて、しかもあんな傘下がいるのだ。となれば、そんなドラマ的展開も十分にありうる。ガドールへの妬みが冷め始めた、ロックの頭が少しづつ冴えていく。

「クルッカは大丈夫なのか?一応、エージェントだろ、あいつ」

「あたしの方は問題ない。むしろ、いない方がありがたい」

 クルッカの声が心なしか、明るい。レイユがいないというだけでこんなにも変わるのだなとロックは思った。

「……っと、お喋りはここまでだ」

 ガドールの一言にロックとクルッカは辺りの気配を探る。ロック達の数メートル後ろから、ものすごい勢いでこちらに迫って来ている者がいた。数にして、五、六人と言った所か。

「いたぞ!!」

 男の野太い声が廊下に響き、その声に反応して、三人は一斉に走り出す。病院の廊下では決してしないであろう、慌ただしい足音が響く。その音に混じって、ガチャガチャと腰に下げている獲物が音を立てる。

「こっち!」

 先頭を走っていたクルッカがロックとガドールの手を掴む。右へのフェイントを上手くかわし、勢いよく左にそれる。フェイントに引っかかった男達はドミノ倒しのように倒れ、仲間同士で諍いを始めた。

「ナイスフェイント!」

「クルッカ、角曲がれ」

 ガドールの指示にクルッカが角を曲がる。そこは行き止まりだった。ガドールは床を蹴ると、天井近くについている窓の窓枠を掴んだ。片手で全体重を支えながら、もう片方の手でファーの中からキューを取り出す。

「はっ!」

 掛け声と共に、キューを窓の鍵穴に刺す。少量の電気がキューを伝い、鍵へと流れていく。電子ロックの掛かった鍵がカチっと音を立て、窓がスライドした。

「よし」

 腕力で上半身を持ち上げ、窓枠に足を掛けるガドール。

「ロック、来い」

 ガドールの手がロックへと差し出される。ロックは軽くジャンプすると、その手に自身の手を重ねた。

「うわっ!」

 勢いよく引っ張られたロックは、そのまま外へ放り出される。

「ぐはっ……!」

 情けない声を上げ、地面に落ちたロックとは対照的にガドールとロックは颯爽と地面へと舞い降りる。

――やっぱ、美形ってズルイ。

 鼻をさすりながら、ロックは地面に落ちたトランクを拾った。

「こっちだ!」

 男達の声が三人の耳に届く。ガドールは辺りを確認すると、行くぞと目で合図を送る。ロックもガドールに続いて、走り出そうとした時、不意に脳裏に何かがよぎる。

「ロック?」

「何だ……これ………」

 ロックの目が右往左往に激しく揺れる。脳裏に浮かびそうになっては消えていく、何かが気持ち悪い。はっきりしない、その何かにロックはデジャヴのようなモノを感じていた。

「ロック!!」

 意識が遠のき、ロックは肩膝をつく。異変に気付いたクルッカがロックに駆け寄り、背に手を添える。

「大丈夫?しっかりして」

「ク…ルッカ……」

 クルッカの肩越しに先頭にいたはずのガドールの顔が見えた。目を見開き、何かに怯えるようにこちらを見下ろしている。

――何に…怯えてるんだ……。

「お……れは………」

――許さない。

 口が勝手に動く。なのに、言葉は出て来ない。自分の体を動かす事さえ、今のロックには出来ない。

「俺は……あいつを……」

「いたぞ!」

 男の声が後ろから聞こえてくる。クルッカはロックを背に回すと、身構えた。この場合、ロックを置いて逃げない限り、逃げ切れはしない。クルッカにはそれが分かっていた。だから、戦うという選択肢を選んだのだ。

「ガドール、ロック連れて逃げろ」

 クルッカの声が鋭くなる。纏っているオーラは殺気を帯び、敵を襲わんとばかりに目を光らせている。いくら姿が美しいとはいえ、彼女もれっきとしたバウンティーハンターなのだなと今更ながらに実感する。

「お前一人でこいつら片す気か?」

「誰かが残らないと、この場合逃げきれない。土地勘がないなら、尚更だ」

 もちろん、ガドールにはそんな事、分かりきっていた。だからこそ、クルッカを残して行く事を躊躇した。その役割にどれだけのリスクがあるか、分かっていたからだ。

「早く行け。迷えば迷うほど、逃げられなくなるぞ」

 立ち上がるクルッカのの背には迷いなど微塵もなかった。彼女の強い意志にガドールはただただ従うしかなかった。

「すぐに追いついて来い」

「……御意」

 ガドールはロックに肩を貸すと、振り向く事なく歩き出した。不安定な意識の中、ロックはガドールの顔を見た。本当は残りたかったと、無理にでも突っ走ってやろうと思っていた気持ち全てが、何とも言えない表情を作り上げていた。

――俺のせいだ…………。

「はぁっ!」

 すぐ後ろでは、男達と戦うクルッカがいる。ロック達を逃がそうと、それだけのために戦っている。そんなクルッカを殺さんとばかりに男達が襲いかかって行く。

――何で……逃げてるんだ。

「…走るぞ」

 ガドールはそう呟くと、全速力で走り出した。プツリプツリと何度も途切れていく意識をロックは、何とか覚醒させようとする。

「ダ…ダメ………だ……」

 瞼は睡魔に襲われたように重い。自由の効かないロックの体は気だるさだけが支配している。今では指一本動かす事さえ、億劫に思える。今までにない感覚にロックは恐怖を感じる。

「ロック!!」

 気が付けば、ロックは地面に倒れていた。足が絡まって、つまづいたらしい。左頬にアスファルトの冷たい感覚が伝わって来る。

――許さない。

 心の中から、誰かの声がした。怒りの混じった、その声は幼い頃のロックの声だった。

――俺は、あいつを許さない。

 脳裏に幼い頃の記憶が浮かぶ。あの時もロックは地面に倒れて、歯を食いしばっていた。涙は底を知らないとばかりに頬を濡らし、小さな水溜りを作っていく。

――殺してやる。絶対に!

 ロックを助けてくれる人はいない。みんな、ちらりとこちらを見るだけで手を差し延べようともしない。ただ、哀れんだ目でロックを見ているだけだった。

「世界はロック、君を助けてはくれない」

 クルッカはまるでその事を知っていたかのようだった。だから、クルッカは自らがすすんで残ったのだ。それが最善の方法だと信じて。

「うっ………」

 ロックは倒れた体を起こそうと力を込める。けれど、体に力は微塵も入らない。立ちたくても、起き上がる事さえ出来ない。誰かに手を貸してもらわないと、何も出来ない。今までの常識がロックの中で非常識に変わっていく。

「大丈夫か?」

 ガドールが心配そうな顔でこちらに駆け寄って来る。唯一自由の効く目でロックがガドールの方を見る。病院からはだいぶ離れたが、まだ油断出来ないというようにガドールは周囲を気にしている。

――クルッカ……。

 ロックはガドールが来るまで、ずっと力を込めていた。自分の力で立って、今すぐにでも戻りたかった。クルッカを迎えに行きたかった。それなのに、体は言う事を聞いてはくれない。
 ほどなく、ガドールがロックの元にやって来た。そして、あっさりとロックを起き上がらせた。何度ロックが挑んでも無理だった事をいとも容易くやってのけた。

「チクショー……」

 それがとてつもなく情けなかった。何も出来ない自分に腹が立った。ロックは心の底から溢れ出していく感情に飲まれていく。頭の中が徐々に真っ白になっていき、再び意識が遠のく。

「ロック!」

 ガドールの声はもう聞こえない。ロックはそのまま、意識を手放し、闇の中へと沈んでいった。

三・追憶の故郷

 これは南の辺境地の、ある村の話――。
 科学にも、魔法にも属さない、人口わずか二百人ほどの、争いなど一度も起こったことのない村はいつも平和だった。
 吹く風は青々とした木々を揺らし、澄んだ水はよい土地を作り、よい人間を育てた。辺境の地だった事もあり、村を知っている者はいなかった。人々はそんな日々が続くと信じていた。
 しかし、そんな平和な日々は一人の男によって、狂わされていった。男の名前はロマノフ=ジョーヴァン。身なりは豪華だが、ヒョロくて背の高い人だった。
 男は道に迷い、行き倒れていた所を村の娘に助けられたという。心優しい村の人々は彼の面倒をすすんで見た。
 男が来てから十日後、村の人々はある異変に気付いた。今まで、一度も荒れた事のない畑が見た事もない、生き物によって荒らされていたのだ。村を守っていたクリスタルの魔障壁がいつの間にか壊されていたのに気付いたのはそれから二日後の事だった。
 実は、この村には大量のクリスタルが保管されていた。ここに住んでいた者はいわば、それを守る護人の一族だった。それ故に村にはクリスタルの力で魔獣が入らないように魔障壁が張られていたのだ。
 人々はクリスタルを守るために、初めて武器を持った。まだ見ぬ脅威に、人々は恐れながらも必死で戦った。相手はクリスタルを狙う人や魔獣だった。
 こうして、清らかで澄んだ村は欲深い人と魔獣の血で汚れていった。しかし、これはまだ序章だった。本当の地獄はロマノフ=ジョーヴァンの手によって引き起こされた。
 血で染まった手を見る度に人々は自分の運命を呪った。そして、汚れてしまった自分達を酷く恥じた。そんな人々の前に彼は現れた。手に大量のクリスタルを握って。

――こいつが…犯人……。

 人々は怒り、ロマノフ=ジョーヴァンに武器を向けた。汚れてしまった自分達でも、まだ村を守る事が出来る。人々の願いは糧となり、力を与えた。

――許さない!

 ロマノフ=ジョーヴァンのせいで多くの人々が死んだ。人に殺され、魔獣に喰われ、汚れてしまった自分自身に失望し、自ら命を断った者。全ての人々の命を奪った、彼を許せる訳もなかった。また血が流れ、傷ついても彼だけはいかしておけない。
 けれど、その願いは儚くも叶わなかった。ロマノフ=ジョーヴァンが反乱の最中、王都へと逃げたのだ。その事により、村の人々は何もかもを失った。
 わすが二百人ほどの人口は半分にまで減り、村はほぼ壊滅状態だった。人々は残された現実をただただ嘆いていた。
 そんな時、一人の少年が言った。

「俺が魔獣から、みんなを守る!だから、みんなで……みんなで村を立て直そう!」

 少年の言葉に人々は再び立ち上がった。今度は血で村を汚すのではなく、村を元のように清らかにするために。
 それから八年が経った今、村がどうなったかを知っている者は誰もいない。
________________

 ポタリ、ポタリと雫は雨のように、後から後から落ちていく。膝を抱えて、泣いている少年はかれこれ一時間、そこにいる。待っていれば、そこに誰かが帰って来ると信じて。
 しかし、彼の待ち人は一向に現れない。それが何を意味しているか、幼い少年にも理解出来た。
けれど、その真実は少年には酷な現実だった。

「いつまでそうしている気だ?」

 一人の老人が少年に声をかける。少年は鼻を啜り、目を擦りながら、老人の方を見た。

「じいちゃん…」

「男の子が簡単に泣くもんじゃないぞ」

 老人は少年を見て、軽く微笑んだ。呆れ混じりの笑顔に少年は溢れそうになる涙を拭った。擦りすぎた、少年の目の下は赤くなっていた。

「ここにいても、お前の両親は帰って来ないぞ」

 少年は老人の言葉に目を見開いた。少年の待ち人というのは、老人が言った通り、少年の両親だった。

「そんな事ない!母さんも父さんも……ちゃんと帰って来るって……」

「そう言って、何日が経った?」

「それは……」

 少年には老人が何を言おうとしているかが分かった。何日も待ち続けて、気付かない訳がない。幼いと言っても少年は十歳だ。何がどうなって、今に至るかくらい、分かっている。だから、それから目を背けていた。何も知らないフリをした。そうすれば、少年はずっとここにいられると、そう考えた。

「さぁ、帰ろう。じきに夜だ」

「…じいちゃんは、悲しくないの?」

 少年の言葉に老人は足を止める。すぐに返事が返って来ると思っていた。けれど、老人は少し考えてから、口を開いた。

「……悲しいと言うより、憎いと言った方がいいな…」

「憎い?」

「そう……私の娘を、お前の両親を殺した、あの男が」

 声に怒りがこもる。それは少年が初めて知った、老人の怒りだった。

「ロマノフ=ジョーヴァン!あの男を……私は許さない……」

「じいちゃん…」

「お前だって、分かっているはずだ!あの男のせいで、私達の全てを失われた!家族も、村も、クリスタルも…何もかも!」

 老人の声はどんどん大きくなっていき、最後には叫びに変わっていた。嘆きや怒りの混じった声は野獣のようで、聞いた者に底知れぬ恐怖を与えた。

「お前も憎いはずだ。両親を殺されたんだからな」

「俺は…俺は……」

 少年の脳裏にあの日の出来事が蘇る。あの日、両親がロマノフ=ジョーヴァンに殺された日の事が。老人の知らない、少年だけが知っている記憶が。

――俺は、あいつを許さない。

 血で汚れながら、少年は心に誓った。両親を殺したロマノフ=ジョーヴァンをいつか、この手で殺すと。
 そうすれば、今抱いている怒りは消えるだろうと、少年は思っていた。けれど、少年は気付いてしまった。憎しみや怒りがある限り、争いはなくならない。そして、争いは何も生まないと。

――殺してやる、絶対に!

 頭では理解出来ているのに、気持ちがついていかない。少年はそれ故にここにいた。あれは夢だったと、待っていれば帰って来ると、心の中でずっと言い聞かせて来た。そうすれば、虚しい日々も生きて行けると少年は信じていた。

「………俺、は……」

 少年は放棄したのだ。未来を見て、歩く明日を。過去に縛られ続ける今を。そして、少年は今、新たなる選択をする。生きるための選択を。

「あいつを許す事は……出来ない。けど、だからって、あいつを憎み続けて生きていきたくないんだ。俺は……ただ、生きたい…」

 ゆっくりと握り締めていた手を開く。妙に汗ばんだ掌を少年は見つめ、言った。

「俺は…この手で、人を救いたい。殺すために、この手はあるんじゃない。そうだろ?」

 少年は老人の手を取り、老人の目をしっかりと見据えた。

「俺はじいちゃんみたいな医者になりたいんだ。ガドールみたいな力は俺にはないけど……」

 ひと呼吸置いて、少年は再び口を開く。

「俺には、この手がある」

「お前……」

「教えてくれよ、じいちゃん。俺、頑張るからさ」

 少年はそう言うと、少しぎこちなく笑って見せた。少年・ロック=ペプラム、十歳のことだった。
_____________

「ん……」

 闇の中にいた意識が徐々に覚醒していく。それと同時に一時的に無くなっていた体の感覚が戻って来る。

「気がついたか」

 ガドールの声にロックの意識は完全に覚醒した。ロックは勢いよく、瞼を開けると、かけられていた布団を蹴り上げた。

「クルッカは!?」

「開口一番にそれか」

 髪を解き、シャツに袖を通すガドールはかなり呆れていた。見れば、ガドールの髪は濡れていた。シャワーでも使っていたのだろう。

「あいつなら大丈夫だ。さっき連絡いれたから、もうちょいで来る」

「いつの間に連絡先を!」

「そこじゃねぇだろ、阿呆」

 バコンっとガドールがロックの額をペットボトルで軽く叩いた。冷たい水にロックの体がビクリと跳ねる。

「ガドール、いつの間に読心術を……」

「お前ごときに使うまでもねぇよ」

 ロックは「悪かったな」と一言ぼやくと、ペットボトルに口を付けた。何だかんだ、気の利くガドールをロックは心の中で称えた。

「これから、どうするつもりだ?」

 手の甲で口の周りを拭いながら、ロックが尋ねる。すると、ガドールは手に持っていたタブレットをロックに投げた。

「えっと……」

 受け取ったタブレットを見ると、画面にはここからだいぶ離れた隣街までの図が表示されていた。恐らく、この街へ行くのだろう。ここならば、先ほどの男達の手も及ばないはずだ。

「お前が気絶してる間にクルッカから情報が来た。number6は俺達の読み通りだ。しかも、そいつはあの男共についてるらしい。まぁ、味方ではねぇみたいだがな」

 ガドールは足を組み、頬杖を突いて、ロックを見据える。絵になる、その光景にロックは若干のイラつきを覚える。

「つまり、そいつはあの男共の組織には所属してないって事か?」

「そう言う事だ」

「で、そいつは今、ここにいるってか?」

「ご名答」

 ガドールが口の端に笑みを浮かべる。そんなガドールにロックは改めて、彼が王子様であると理解する。簡単に言うと、全てにおいて作りが違うのだ。

「さっきの一件で俺達はあいつらに目をつけられた。遅かれ早かれ、出て行かねぇといけないのは目に見えてる」

 忌々しいそうにガドールが外を睨む。性格上、勝負する前から逃げるのはしょうに合わないようだ。

「Fake numbersは前にも言ったが、危険なやつらだ。野放しにすれば、俺達code numbersのメンツにも関わる」

――メンツねぇ…。

「それに、やつらを捕まえりゃ、賞金が支払われんだよ。しかも、かなり高額のな」

 ガドール=クーリッジ、煩悩のままに生きるギャンブラー。彼みたいなイケメンは何をしても許される。煩悩はワイルドに変換され、ガドールを飾る言葉の一部となる。

――セコイよな、本当…。

「人を妬んで、勝手に落ち込むな」

 ガドールが面倒と言わんばかりに眉を顰める。

「とにかく、俺はFake numbersを倒す。な訳でそこに行く。以上!」

「交通手段はこっちに任せて」

「頼む、クルッカ」

 ロックがガドールの横に立っているクルッカに言った。クルッカは「御意」と言う代わりにこくっと頷いた。

「ん?」

 しばしの沈黙、そして――。

「クルッカっ!?」

 ロックが驚きのあまり、ベッドから落ちる。

「い、いつ来たんだよ!」

「さっきだけど」

「さっきって!?」

「いつの間に連絡先を!って辺り」

 当たり前というようにクルッカがさらりと言った。綺麗なレモン色の目がロックを見て、キョトンとしている。

「最初からいたのかよ……」

「細かい事、気にしてんじゃねぇよ。手間省けていいだろ?」

 「時間短縮は大事だ」とクルッカがガドールに賛同する。よく判らないが、クルッカとガドールは何かとウマが合うようだ。

「つー訳でボケっとしてねぇで準備しろ」

「東の門の下に馬車が待ってる。定刻までに行かないと馬車が行ってしまう」

 クルッカは早口かつ聞き取りやすく、ロックとガドールに伝えた。つまりは急げという事だ。

「隣街へは定期的に馬車が出ている。あいつらに気付かれないためには、その馬車に乗って行った方が得策って事」

「空軍もやつらの支配下って訳かよ」

 キョトンとしつつも、状況を理解するロック。ちなみに空軍というのは、領空を取り締まる組織、地上で言う所の警察の役割を担っている。

「つか、クルッカ。怪我とかしてないか?」

「大丈夫。これでもバウンティーハンターだから」

 クルッカはにこっと笑って答えた。その笑顔の可愛さに意識がまたフライアウェイしそうになるロック。外にはねた髪が可愛らしく揺れる仕草にさえ、ロックはメロメロだった。

「とっとと行くぞ」

 ガドールの一言にクルッカの顔から表情が消える。仕事上の癖のようだ。感情を殺す訓練でもしているみたいな、熟練された動きに少し寂しさを覚えるロック。

「行こう」

 クルッカはゆっくりと歩き出す。その背を見つめながら、ロックも部屋を後にした。
______________

――俺がみんなを守る!

 少年は絶望の中の光となった。少年の一言で、人々は再び立ち上がった。大好きな故郷を元に戻そうと。

「うっ……」

 そんな少年はいつも、ある少年を見ていた。その少年は幼馴染でロマノフ=ジョーヴァンによって、両親を殺されていた。

「ロック……」

 少年ことロックはずっと泣いている。両親の帰りを、ずっとそこで待っている。なのに、少年の目には希望の光すら宿っていない。
 聡かった少年はロックが何かを知っていると勘づいた。けれど、それを聞く勇気はなかった。聞いてしまえば、ロックを傷つけると思ったからだ。

――俺が……俺が守る。

 少年にはその力があった。みんなを守れる、人をねじ伏せる事の出来る力が。この力の使い道を少年は知っていた。そして、それが今なのだという事も。

「かかって来やがれ、化け物が!」

 ガドール=クーリッジ、十歳の事だった。
__________________

 馬車の揺れで眠りかけていた意識が浮上する。見ると、周りは闇に包まれていた。

「眠……」

 ガドールはガシガシと頭をかきながら、荷台に乗っている客を見渡した。客はガドール達の三人を除いて、四人いた。四人とも疲れているのが、壁に背を預け、ぐっすり眠っている。

「ん?」

 不意にガドールが右隣を見る。そこには客同様、ぐっすり眠っているロックがいた。上にはクルッカの着ていた黒いジャケットが掛けられている。しかし、ジャケットの持ち主のクルッカはいない。

「ん?」

 荷台口から風が吹き付ける。その風でガドールは閉まっていたはずの出入り口が開いている事に気付く。バサバサと風で揺れる出入り口の布の間から、探し人に見えた。
 月の光がキラキラと銀髪を輝かせ、夜風が髪を靡かす。闇の不気味ささえも、クルッカを引き立てているように感じる。そんなクルッカに見とれつつも、ガドールは荷台口に出た。

「……?」

 気配に気付いたのか、空を見上げていたクルッカがこちらを見る。「よぉ」とガドールは軽く微笑むとクルッカの隣に座った。そして、さり気なく、羽織っていた上着をクルッカに差し出した。

「ありがとう…」

 クルッカは付けていたヘッドホンを降ろし、数秒キョトンとしていた。が、その真意に気付いて、ゆっくりとガドールの上着を受け取った。

「ガドールは大丈夫?ここ、結構寒いよ?」

「俺は大丈夫だ。気にすんな」

 ガドールはそう返すと、あぐらをかき、後ろに手をついた。満天の星が弱々しくもしっかりと輝いている。空気が澄んでいるおかげか、街で見るよりもはっきりと見える。

「星とか好きなのか?」

「うん。どっちかと言うと月の方だけど」

 クルッカは空を見上げた。レモン色の瞳が月の光を受けて、煌めく。

――星なんかガキの時以来だな。

「だからって、見すぎだろ」

 クルッカの腕にガドールがそっと触れる。白く透き通ったクルッカの腕は氷のように冷たい。長時間、夜風に当たっていたせいで体温を奪われたのだ。

「昔からそうなんだ。気が付いたら、朝になってたりとか」

「意外に抜けてんだな、お前」

 ガドールの言葉にクルッカは「うっ……」と言葉を詰まらせる。

「ま、それくらいの方が可愛げあっていいんじゃね?」

「フォロー、いらない」

 クルッカがムスっとする。ガドールは頭の中でもし、ロックがここにいたらと考え、くつくつと肩を揺らし、笑った。

――鼻血で終わりゃいい方か。

「そういや、依頼の方はどうなったんだ?」

 ふと疑問に思い、ガドールがクルッカに尋ねた。

「どこかの馬鹿タレのせいで大失敗。呆れられた挙句、二度と頼まないって」

 クルッカがため息混じりに言った。もちろん、馬鹿タレというのはレイユの事だ。

「つか、何で解消しないんだ?」

「ルールで一年以上経たないと解消出来ないんだ」

 「面倒だな」と言いながら、ガドールはそのまま寝そべる。宙ぶらりんになった足を組み、頭の下に手を入れた。

「恨んだりしねぇのか?」

「恨むっていうのとは違う」

 クルッカが即答する。まさかの返しにガドールは驚く。

「迷惑はしてる。正直、邪魔だとも思う。仕事だって、何回も大失敗してるし、その度に呆れられた。でも……」

 クルッカは一旦、言葉を切り、続けた。

「それを恨む理由にするのは違うよ」

 ぶわっと強い風が二人を襲う。道の両サイドに生えている木々は枝を揺らし、葉を散らしていく。そして、散った葉は風に舞い、闇の中へと消えていく。

「誰かの目を気にして、人を蹴落せる程、あたしは強くない。誰かの目を気にして、生きていくつもりも毛頭ない」

 クルッカが断言する。一言一言、噛み締めるかのように言葉を紡いでいく。

「本人にそのつもりはないらしいけど、誰からも嫌われてる。だから、誰も関わろうとしない。近付くだけで避けられる」

 風にクルッカの髪が靡く。

「人は人と関わって、生きていく。そうしないと、自分の存在すらも分からなくなるから。孤独は、人を狂わせていく。きっと、レイユもそんな一人じゃないかな?」

「人が寄り付かねぇから、狂ったって?」

「人に見ていて欲しいから、失敗してるんじゃないかって、最近思うんだ」

 クルッカが足を引き寄せる。ぎゅっと足を包み込むように腕を抱く。

「とんだご都合主義だな」

 「分かってるよ」とクルッカが苦笑する。

「あたしはあたしの思う道を行く。その生き方は今更変えられない」

 おもむろにクルッカは立ち上がる。その拍子にガドールの上着がバサリと落ちる。

「だから、貫く。誰に笑われようが、間違いだと言われようと」

 上着を拾い、手で全体を払うクルッカ。その目には強い光が宿っていた。誰にも屈しない、信念の光が。

「という訳であたしはレイユを恨まない」

 クルッカはそう言って、荷台の中に戻って行った。すれ違い様にクルッカがガドールに上着を返した。「ありがとう」の一言を添えて。

「ありがとう、ねぇ……」

 ガドールはじぃっと月を見つめる。銀色の月の輪郭が光でぼやけて見える。

――月………。

 月は昔から狂気の源とされている。一説によると満月の夜の犯罪率が高いからだと言う。他にも、狼男説など言い出したら、きりが無い。

――そういや、あの日も満月だったな。

 目を閉じれば、今でも鮮明に思い出す。消したくても、消えない惨状。そして、忘れる事の許されない記憶。全ての元凶が高らかに笑い、大切なモノを壊していく。ほとばしる鮮血。獣のように叫び、血を流し合う村の人々。
 ガドールはあの時、戦場と化した村にいた。力を持った自分なら戦えると、村も、大切な人達も守れる、と。

「ハァ…ハァ…」

 血で汚れた手を必死で拭った。けれど、手に付いた血は取れない。それ所か、ますます血は濃くなっていく。ガドールは狂いそうな血の匂いに噎せ返った。

「月が……赤い……」

 その時見た月は、血のように赤かった。ガドールは全てがロマノフ=ジョーヴァンのせいだと思った。村が壊滅したのも、村の人々が血で汚れて泣いているのも、何もかもを。

――アホくさ。

 追憶にふけっていたガドールが不意に鼻で笑った。
 今なら分かる。それがただ、逃げているだけだと。失意のドン底にいる人々に呼びかけたのだって、そうだ。先導者という大義名分で誰からも責められないようにと考えた結果がそれだったのだ。
 ――自分の力が足りなかったがために、人が死んだ。
 幼心にガドールはそんな罪悪感に駆られていた。実際、子供一人の力で何か変わっていた訳ではない。圧倒的な力の差を子供が埋められるはずがないのだから。

――結局、それからも逃げちまったけどな。

 そっとガドールがスカウターの付いている左目に触れる。スカウターがあるため、手の熱は伝わって来ない。右目だけが月を見つめている。

「もう、逃げねぇ…」

 ガドールはガタガタと馬車の揺れを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。

_______________

 御者台で手綱を握っていた男が眠たげにあくびをしている。手には客から支払われた、金の入った袋が握られている。

――案外、儲かるんだな。

 ロックは帽子を被りながら、そんな事を考えていた。夕方、街を出た馬車は夜、森を抜け、昼頃に隣街に着いた。ロックはほぼ寝ていたが、馬車での移動は思いの外、快適だった。

「ボケっとしてんじゃねぇよ」

 「腹減った」と一言付け足し、歩き出すガドール。その後ろをすかさず、クルッカが追いかけ、ロックも続く。

「クルッカ。ジャケット、ありがとな」

「よく寝てたね」

 クスっとクルッカが笑う。不意の笑顔にロックは慌てて、口に手を当てる。可愛すぎて、変な声が出そうになる。

「阿呆」

 腹が減っているせいか、若干機嫌の悪いガドール。ツッコミにも少々力が入っている。頭を叩かれたロックはあまりの痛さにその場にしゃがみ込んだ。

「美味しいラザニアの店、紹介するよ」

 コソっとクルッカがガドールに言った。小悪魔的な笑みを浮かべているクルッカはずば抜けて、可愛い。しかし、ガドールが反応を示したのはそこではなく、ラザニアの方だった。

「美味いのか?」

「口に合わなかったら、奢るよ」

 クルッカの提案にガドールが乗った。クルッカの案内でやって来たのは、少し寂れたカフェだった。開店しているかさえ、かなり怪しい。

――大丈夫か?

 とりあえず、中に入る一同。中は思ったよりも綺麗だった。夜はバーもやっているようでカウンターの後ろの棚には酒が並んでいる。その酒に気付いたガドールが口笛を吹いた。
 そして、肝心のラザニアはと言うと………。

「…ウマ……」

 超のつくイケメン――ガドールが顔を綻ばせる程、超絶美味しかった。

「ね?美味しいでしょ」

 得意気にクルッカがガドールに微笑む。次々と運ばれてくるラザニアをすぐさま片付けていく、ガドール。皿はどんどん重ねられ、ついにはロックの視界は皿だけしか映らなくなった。

「お、おい!食い過ぎだろ!」

「言っとくが、俺だけが食ってる訳じゃねぇぞ」

 ガドールの持っているフォークがロックの隣の席を指す。見ると、そこにはガドール同様、ラザニアを頬張るクルッカの姿があった。

――マジか…。

 思わず、叫びそうになるロック。クルッカの周りにはガドールと同じくらいの皿が重ねられていた。小柄な体のどこに入るのだろうと思う程の量にロックは胸焼けを起こしそうになる。

「どうかした?」

 キョトンとクルッカが首を傾げる。

「い、いや、別に…」

 必死に鼻を押さえ、鼻血が出ないからように務めるロック。ツッコミ役のガドールはラザニアに夢中でロックの事など構っていられない。

「わ……悪い。ちょっと、外出てくる…」

「あんま遠くに行くなよ」

 ロックは返事の代わりに手をヒラヒラと振った。

――危なかった…。

 店から出たロックはほっと胸を撫でおろした。幸い、出かかっていた鼻血は止まった。

「さてと……」

 このまま、中へ戻るのもどうかと思い、ロックは歩き出した。また、クルッカの可愛い仕草でも見ようものなら、今度こそ噴き出る。そんな予感があった。

――ガドールみたいになりたい…。

 余裕があって、かっこいい男。何より、女にモテる生まれつきの顔に身長。
 ロックが憧れてやまないモノをガドールは全て兼ね備えている。そして、その中でも最も憧れているモノが強さだ。

――キューでの攻撃とか、かっこいいじゃん。

 戦闘力に乏しいロックにとって、能力者のガドールはまさに高嶺の花だった。能力が欲しいという訳ではない。ただ、純粋に人を守りたい。そんな思いからだった。

――つか、クルッカも強そうだし…。

 ロックはため息をつく。好きになった子が自分より強いというのは男として、かなり情けない。しかも、守られっぱなしで一人気絶だ。醜態もいい所だ。

「俺にはこの手がある」

 そう言ってから、早八年。ロックは医者になったものの、力のない自分を嫌っていた。みんなが血を流して戦っている中、自分だけが一人、安全地帯にいる事がロックには耐えられなかった。
 もし、あそこで誰かが死んでしまったら………。
 そう思うと、とても怖かった。それを痛感したのは一昨日の、あの出来事だ。

「クルッカも、ガドールも守れる力……か」

 高望みだとロックが一番分かっていた。護身用の銃を撃つ事さえ、躊躇してしまう自分に何かを守れる力など手に入れられる訳がない、と。

――それでも……。

 ロックはふと足を止める。すれ違う人々が不思議そうにロックを見る。
 地面ばかりを見ていたロックがおもむろに顔を上げる。雲一つない、青く澄んだ空は今のロックには綺麗すぎた。綺麗すぎるからこそ、手を伸ばしたくなる。でも、それを汚してしまうのは本意ではないので、手を引っ込めてしまう。俗にヤマアラシのジレンマと言うやつだ。

――力が…欲しい……。

 だから、求めてしまう。けれど、その力には大きな代償がいる。それが等価交換の存在する世界の常識だ。ロックには、その代償を払う勇気がなかった。何かを失う事を、ひどく恐れていた。

「やっぱ、俺は卑怯だ………」

 ズキズキと胸が痛む。その痛みが何からきているのか、なんて分からない。心当たりがありすぎるのだ。そのくらい、ロックは自分が卑怯だと思っていた。ずっと知っていたのに、知らないふりをしていたのだ。

「……戻るか」

 ロックは帽子のつばを掴み、深く被り直した。
そして、歩き出そうとした時、視界にチラリと入ってきたモノにロックは目を疑った。

――風に月のマークの入った…革靴……。

 慌ててロックは振り返り、その革靴の主を捜した。
 ――風に月のマーク。それはロックとガドールの故郷・風月村のマークだった。故郷を出てから、そのマークの付いたモノを見た事はなかった。

――まさか……。

 ロックは革靴の主が行ったと思われる方へと走り出した。風月村の者は生涯、村を出る事はない。故にそれを持っているのは風月村の者だけだ。ただ一人、あの男を除いては。
 どれくらい走っただろう。ロックが肩で息をし、走るのを止めた頃、捜し人は見つかった。

「なっ……!?」

 ひょろりと背の高い男が、そこにいた。あの時と全く同じ服装で、同じ革靴を履いて。
 全ての元凶、村を汚し、逃げた男――ロマノフ=ジョーヴァンはあの時と同じように笑っていた。

四・屈折する光と闇

 男は突然、やって来た。そして、全てを奪っていった。
 何人の人が男のせいで死んだか。何人の人が男を恨んでいるか。何人の人が人間不信に陥ったか。どれ程の人の心が傷付けられたか。
 男――ロマノフ=ジョーヴァンはそんな人々を見て、笑っていた。あの笑顔が頭から消える事はない。
 そして、今、目の前にその男はいた。あの時と何一つ変わらない出で立ちでロマノフ=ジョーヴァンは笑っている。

「ゾフィ、ヴァルゼルド。いるのだろう?出て来い」

 ロマノフ=ジョーヴァンの呼び掛けに物陰から人が現れる。顔を布で覆っていて、見えるのは目だけだ。そのため、性別を判断する事は難しい。

「ご苦労だったな」

「次はいかがいたしますか?」

 ゾフィ、ヴァルゼルドと呼ばれた二人組の内の一人が尋ねる。先程述べたように目しか見えないため、どっちが喋っているかは不明である。

――こいつら、見た事ないな。

 息を殺し、物陰からこっそりと三人を見るロック。心臓は周りに聞こえてしまいそうなくらい、バクバクと音を立てている。生きている心地がしないというのは、まさにこういう事だろうとロックは思った。

「銀の光輪を連れて来い」

「御意」

 二人が勢いよく、片膝をつき、頭を下げた。

――銀の光輪?

 聞いた事のない言葉に首を傾げるロック。ロマノフ=ジョーヴァン側についている誰かの呼び名と言うのは確かだ。

――あれは……。

 不意にロックが膝まづいている二人の足元に目をやる。見ると、地面に突いている拳やマントの裾から覗いている手足には痛々しい痣がついていた。

――こいつら、まさか……!?

 思わず、ロックは後退る。その瞬間、近くにあったゴミ箱とぶつかり、派手な音を立て、倒れる。

「誰だ」

 殺気混じりの鋭い声にロックの体は硬直する。

「後は任せた」

 ロマノフ=ジョーヴァンの声と共に地面を蹴る音がした。ビクリと肩を揺らし、ロックが慌てて銃を構える。

「うわっ!」

 しかし、銃は撃たれる事はなく、宙に飛んでいった。

「ガキか……」

 剣を構え、呟くように言う。よく聴けば、先程から喋っているのは同じ者だ。

「悪いが、死んでもらう」

 剣を振り上げ、勢いよく斬りかかる。反射的にロックは地面を蹴り、跳び上がる。

――今のが声の主か。

 すかさず、そこへもう一人の攻撃がやって来る。空中だというのにその剣術は一切衰えない。むしろ、地上より速い気さえする。

――こいつら、強い!!

 攻撃をギリギリの所でかわしつつ、ロックはキッと相手を睨んだ。とりあえず、喋っている方をA、もう一人をBとしておこう。

「っち!」

 地面に着地すると、すぐにロックは銃を拾い、迷う事なく引き金を引いた。銃弾はBの頬を掠め、壁に小さな穴を空ける。

「ゾフィ!!」

 Aが思わず声を上げる。

――こいつがゾフィなら、喋っている方がヴァルゼルドか。

 ポタリっと切れた頬から血が垂れる。微かに目を見開いたものの、ゾフィは声一つ上げない。一瞬出来た隙をついて、ロックはゾフィをしっかりと見た。

――こいつ、声が……。

 首に巻かれていた主の間から、病人のような白い肌が見えた。そこには深々と真一文字の傷が刻まれていた。医者であるロックは一目見て、その傷が癒えない事が分かった。

――あいつが、やったのか?

 どうして、傷つけられないといけないのだ。何で痛めつけられた相手のために、命を懸けなければならないのか。

「このっ……!」

 再び銃を撃つロック。しかし、銃弾は二人に当たる事なく、ガラスを割った。飛び散った欠片がロックとゾフィ、ヴァルゼルドを映す。

「どこを狙っている」

 ヴァルゼルドの重い一撃がロックを襲う。

「ぐわぁっ!!!」

 ロックの腹にヴァルゼルドの剣の持ち手がめり込む。口の中に血の味が広がる。

「沈め」

 ヴァルゼルドの低い声と共にロックは地面に叩きつけられる。「がはぁっ!」と肺が圧迫され、呼吸が止まる。そのせいでフル回転していた頭がだんだん真っ白になっていく。

――ヤ……ヤベェ……。

 ロックが死を覚悟した、その時。

「なっ……!」

 派手な音を立て、ヴァルゼルドの剣が何かによって、跳ね返される。目を瞑っていたロックが恐る恐る目を開けると、ロックの周りには薄いバリアのようなものが張られていた。

――何で魔障壁が……!?

 ヴァルゼルドとゾフィも大変驚いたように目を丸くしている。もちろん、ロック自身もだ。
 ロックはガドール程ではないが、魔力を宿している。けれど、その力が弱すぎるため、回復くらいの力しか持っておらず、魔障壁など張れるはずがないのだ。

――どうなってるんだ?

 ロックが混乱している最中、ゾフィとヴァルゼルドに襲いかかる二つの影が現れた。

「ロック!」

 ゾフィに蹴りを入れながら、クルッカが心配そうにロックを見る。

「このバカロックが!」

 ヴァルゼルドの剣をキューで捌き、ガドールがロックに怒鳴った。

「クルッカ…ガドール…」

 ロックがホッとしたのと同時にロックの周りの魔障壁が消えた。

「仲間か……」

 忌々しいと言わんばかりにヴァルゼルドが舌打ちをする。一方のゾフィはクルッカの方を見て、こちらも忌々しいと言わんばかりに眉を顰めている。

「さて、どうするよ?」

 キューを肩にポンポンと当て、ガドールが二人を見る。いつもの余裕のある笑みを浮かべているガドールに対し、その後ろに控えているクルッカの顔は険しい。

「どうするかなど、決まっている」

 ヴァルゼルドが言い終わると同時にゾフィとクルッカが動く。ガドールの前に素早く出たクルッカがゾフィの剣を蹴る。一瞬の出来事に目で追うのが精一杯だ。

「お前はそこでじっとしてろ」

 ガドールが立ち上がりかけていたロックに声をかけた。ロックは口元から垂れた血を拭い、こくんと頷いた。

「気をつけて」

「お前もな」

 クルッカとガドールが一斉に走り出す。

「はぁっ!」

 ガドールのキューがヴァルゼルドの剣と十字に交わり、甲高い音が周りに響く。

「くっ…!」

「邪魔だ。とっとと失せろ」

 ガドールのキューに高電圧の電気が流れる。これにはヴァルゼルドも堪らず声を上げ、衝撃で服が爆ぜる。

「あなたの相手はあたしだ」

 ヴァルゼルドの叫び声に、駆け寄ろうとするゾフィの前にクルッカが立ち塞がる。

「よそ見してると……死ぬよ?」

 クルッカの鋭い蹴りがゾフィの足にヒットする。足元を崩されたゾフィは片手を地面につくと、宙に上がった足を鞭のように回転させた。超人並みのスピードのかかった蹴りだったが、クルッカはいともたやすく、全てよけてみせた。

――す、すげぇ……。

「あなたにあたしは倒せない」

 ゾフィの腹にクルッカの拳が入る。こちらも負けず劣らず、超人並みのスピードだ。

「これでもハンターだから」

 クルッカの一撃を受けたゾフィが片膝をつく。すぐには戦えないであろう、その姿にロックは改めて実力差を実感する。

「やっぱ、強ぇな」

「ガドールもね」

 ロックがガドールの方に目をやると、ヴァルゼルドは小さな煙を上げながら、地面にひれ伏していた。何度も電気を流されたらしい、ヴァルゼルドの服はボロボロになっていた。

「ガドール……、クルッカ……」

 やっとの思いでロックは立ち上がる。体の節々が痛むが大した怪我ではない。奇跡的にかすり傷程度だ。

「どうした?」

 肩を掴まれたガドールがいつになく、真剣な表情で尋ねる。

「そいつら……あいつの………」

 ロックはまだ呼吸しづらい中、ゆっくりと言葉を紡いでいく。そして、ひと呼吸置いて、クルッカとガドールに真実を告げた。

「ロマノフ=ジョーヴァンの、奴隷だ……」

 ロックの言葉にガドールが目を見開く。けれど、クルッカは「やっぱり」と言うようにゾフィを見下ろしている。

「あいつの……奴隷…」

 次の瞬間、ガドールの手がヴァルゼルドの胸倉を掴み上げた。傷だらけのヴァルゼルドは抵抗すら出来ない。

「死にたくないなら、あいつの所に案内しろ」

 ガドールは素早く、もう片方の手に持っているキューをゾフィの方に向ける。その感情に反応するようにキューの先端がバチバチと音を立てる。

「ガドール!!」

「こいつは人質だ。俺の能力については……体感したお前が一番、分かってるよな?」

 ガドールの言葉に絶句するロック。

――これじゃ、あいつと変わらないだろうが……。

「これでもまだいい方だ」

 ロックの様子を見て、クルッカが言った。心を読まれているような気がして、ロックはクルッカを見れなかった。

「優しさだって、言うのかよ」

 ロックの言葉にクルッカは答えなかった。ただ、真っ直ぐにガドールを見つめて、黙っている。今のクルッカの目に感情は一切こもっていない。

「まぁ……それじゃあ、あまりにも可哀想だから」

「え?」

 不意にクルッカが呟いた。恐る恐る、ロックがもう一度クルッカの目を見た。すると、さっきまでこもっていなかった目に少しばかり感情がこもっていた。人を哀れむような、そんな悲し気な目だった。

「………っ!」

 その時、ガドールの肩越しにヴァルゼルドが何かを見て、目を見開いた。その事に気付いたロックは視線を辿ると、そこにはゾフィがいた。

――え………?

 ヴァルゼルド同様、ロックも目を見開く。戦闘中に解けたらしい、包帯の隙間からゾフィの隠された顔を見てしまったからだ。

「見るな!!」

 瞬間、ヴァルゼルドの隠し持っていた小刀が飛んでくる。その事にいち早く気付いたクルッカがその小刀を蹴り飛ばし、小刀は孤を描き、地面に刺さった。

「うぐっ……!」

 ガドールの怒りに触れたヴァルゼルドは、抵抗出来ないように勢いよく地面に叩きつけられた。
 そんなヴァルゼルドをちらりと横目で見るクルッカ。おもむろにジャケットを脱ぐとクルッカはゾフィに近付いた。

「っ!」

 ゾフィの顔を隠すようにクルッカがジャケットを掛ける。その行為にゾフィ本人はもちろん、ヴァルゼルドもただただ驚いている。ありえない、どうしてと言うように。

「クルッカ、お前……」

「あたしがしたいから、こうしただけ」

 ガドールの方を見て、そう答えたクルッカは「続けて」と言うように顎をしゃくった。

「……分かった……」

 か細い声でヴァルゼルドが言った。ジャケットで顔を隠されているゾフィがどんな顔をしているかは分からない。けれど、ヴァルゼルドの言った一言に驚いている様子はない。どうやら、二人とも意見は一致しているようだ。

「連れて行こう……我が主の元へ……」

「随分、聞き分けがいいな」

 疑心感たっぷりな目でガドールがヴァルゼルドを見下ろす。もちろん、簡単に信用していい相手ではない。だが、何故か信用していいとロックは思った。根拠は全く無かった。なのに、自信があった。彼らは裏切らないという、確固たる自信が。

「クルッカ、だったか」

 ヴァルゼルドがすっと顔を上げ、クルッカを見る。クルッカのレモン色の目が光を受けて、輝く。凛と咲き誇った花のように、クルッカは強い光を宿している。

「お前に誓う。俺達は決して、裏切らないと」

「……だとよ」

 ガドールが「どうする?」とクルッカに視線を投げた。しばし黙るクルッカ。何かを探るようにクルッカはヴァルゼルドの目を見つめている。

「裏切れば、直ちに殺す」

 しばらくして、クルッカが言い放つ。ロックやガドールに拒否権はない。クルッカに判断を委ねた時点でロックとガドールはそれに従うつもりだったのだから。

「ガドール、解放して」

「あぁ」

 ガドールが上から離れると、身動き一つ出来なかったヴァルゼルドがゆっくりと立ち上がる。

――にしても、酷い有様だな…。

 ボロボロになった服はもはや服というより、布に近かった。二人ともクルッカとガドールの攻撃により、怪我だってしている。特にガドールと戦っていたヴァルゼルドは酷い。

「ロック」

 ヴァルゼルドを観察していたロックにクルッカが声をかける。

「ヴァルゼルドとゾフィの怪我の手当て、頼める?」

「え……、いいのかよ」

「このまま放っておいたら、ヴァルゼルドは歩けなくなる」

 クルッカがそう小声で言うとヴァルゼルドの方を見た。つられて、ロックもヴァルゼルドを見る。爆ぜて、露になった足は大きく腫れ上がっていて、よく動けていたなと思う程に、足の状況は悪い。

――ロクな手当ても受けなかったのか……。

「任せとけ」

 ロックは複雑な気持ちになりながらも、クルッカに笑ってみせた。ぎこちない笑みにクルッカも少しぎこちなく笑い返す。それでもクルッカは可愛いと心の中で思うロック。

「とりあえず、ここから離れよう。傷口が化膿しちまう」

 ロックはガドールを見て、「手を貸してくれ」と協力を仰ぐ。反対されるかと思ったが、冷静さを取り戻したのか、ガドールは素直に頷いた。

「さっさと運ぶぞ。クルッカ、お前はそいつ頼む」

「御意」

 ガドールがヴァルゼルドに、クルッカがゾフィに手を差し延べる貸し、三人と二人はその場から離れた。
_________________

 消毒液の匂いが充満した部屋で一人、ロックが二人の手当てにあたっていた。
 無駄な魔力消費を避けるためにかすり傷などの小さな怪我は原始的な消毒液で対応した。そのせいで若干、吐きそうになるロック。

「窓開けろ!」

 痺れを切らしたガドールが勢いよく、窓を開ける。窓枠に腰掛けていたクルッカが「大丈夫?」とガドールを見る。

「お前ら、何で平気なんだよ。マジありえねぇ…」

 ガドールが空気を入れ替えながら、二人に言う。そういえば、ガドールは消毒液の匂いが苦手だったなと思い出すロック。気の毒な事にガドールの顔は白くなっていた。

「外、出てる?」

「いや、大丈夫だ。何かあった時に対応出来ねぇとマズイしな」

「今のガドールの状況の方がマズイと思うけど」

 「うるせぇ」とガドールがそっぽを向く。何となく、気まずいのだろう。ガドールにもガドールなりのプライドがあるようで、いつもの余裕はどこかへ消えてしまっている。
 そんな二人を眺めつつ、ヴァルゼルドの足の怪我の手当てに専念するロック。淡いピンク色の光がロックの手から溢れ出る。この光が治癒力を促進させるのだ。

――だいぶ、よくなったか……。

 吹き出る汗が頬を伝い、顎から床に落ちる。かれこれ、もう一時間くらいは経っただろうか。

「代わるよ」

 クルッカがロックに声をかける。汗だくの顔を見られたくなかったロックは「頼んだ」と早口に言い、タオルで汗を拭いた。
 「お疲れ様」と優しいクルッカの一言でロックの疲れも吹っ飛ぶ。

「お疲れさん」

 壁に背を預け、風に当たっていたガドールがロックに声をかける。顔色が戻ったガドールはまさに咲いた花のように生き生きとしている。

「悪かったな、ガドール」

「別に。気にすんな」

 ガドールは組んでいた腕を解くとロックの肩に手を置いた。そして、おもむろに顔を近付ける。

「で、どうなんだ?」

「ヴァルゼルドの方は足の腫瘍が特に酷い。まともな手当てを受けてなかったみたいだ。治癒魔法を使ってはいるが、治るまでにはかなりかかると思う」

 クルッカやヴァルゼルド、ゾフィには聞こえないようにロックが囁く。ロックの声に耳を傾けながら、ガドールはヴァルゼルドの方を見た。

「ゾフィの方はかすり傷くらい、だな。あいつ、ゾフィの事かばって戦って来たみたいだ」

 ロックが横目でゾフィの方を見る。ダブルベッドの上で仰向けになっているゾフィは静かに眠っている。
 ピンク色のショートヘアに白い肌、長い睫毛に服とは対照的な細い腕や足。そして、極めつけは大きく膨らんだ胸。ゾフィは女だったのだ。

――それでかばってたのか。

 怪我の違いを不審に思っていたロックはその事を知って、納得した。口には出さないが、正直ヴァルゼルドは男の中の男だとロックは心の中で称えていた。が、それと同時に怒りも感じていた。もちろん、ヴァルゼルドにではなく、ロマノフ=ジョーヴァンにだ。

「あの跡、消せねぇのか?」

「……あぁ」

 申し訳なさそうにロックが目を伏せる。「……そうか」と小さく呟くガドール。肩に置かれていた手がゆっくりと離れていき、肩には手のぬくもりと無念さだけが残った。
 ゾフィとヴァルゼルドの顔の左側には目も当てられない程の火傷の跡があった。痛覚さえも失う程の火傷だった。しかも、二人とも左目の視力を完全に失っていた。医療先進国の科学療法でも、その火傷の跡を完全に消せる方法はない。それに奴隷は主の許可なしに治療は受けられないのだ。

「あいつの声も……か」

 ガドールの声に虚しさがこもる。ズキリとロックの胸が痛む。

「胸糞悪りぃ……」

 忌々しそうにガドールが舌打ちをする。さっきまでの虚しさが怒りへと変わっていく。何も出来ない事がこんなにも苦しい事を改めて痛感する。

「おい、クルッカ」

 ガドールが不意にクルッカに歩み寄る。ヴァルゼルドの足の手当てに専念しているクルッカは目だけをガドールの方に向ける。

「さっさと終わらせるぞ」

 ガドールがクルッカの手に自分の手を重ねる。その途端、光が一回り大きくなる。

――そんなのありかよ!!

 心の中でツッコミを入れるロック。さすがに今、ツッコんでしまうのは不謹慎だと一瞬、言葉がつまる。なので、仕方なく一人でツッコんでいるのだ。

――近いだろ!手を重ねんな!!セコイっ!!!

 ワナワナとロックの手が震える。一方のクルッカとガドールはそんなロックを無視し、手当てに専念している。というより、ガドールは半分くらい狙ってやっているだろう。

「もうちょいか」

「そうだね」

 近い距離にいるガドールにクルッカはいつも通りに返す。一生懸命頑張る姿は見ていて惚れ惚れするし、ぐっとくる。けれど、少しは男の目というものを気にしてほしい。お父さんのような事を思いつつ、ロックはガドールを睨む。

「後少しだ。頑張れ」

 苦しそうに息を荒らげているヴァルゼルドにクルッカが声をかける。ガドールにやられた傷から発熱しているため、熱が高い。見れば、さっき変えた氷のうの氷が溶けていた。

――今はそんな場合じゃなかった。

 嫉妬に狂っていたロックはハッと我に返ると、慌てて氷を取りに行った。幸いな事に氷のストックはだいぶあった。

「まだ熱いな…」

 そっとヴァルゼルドの額に手を添えるロック。さっきよりは下がっているが、それでもまだ熱い。そんなヴァルゼルドを見て、ガドールは居心地が悪そう目を逸らした。

「ガドールは悪くないよ」

 クルッカがぽつりと呟くと、ガドールは苦笑し、「ありがとうな」と返す。ヴァルゼルドの方を見ているクルッカにその苦笑は見えない。なのに、クルッカは嬉しそうに笑っている。

――不思議なやつ。

氷のうを変えながら、ロックは一人思った。
_____________

 ざわざわと夜の街は昼間よりもかなり賑わっている。灯りのついついる店では酒の入った瓶片手に男達が陽気にはしゃいでいる。

「ったく、安酒で盛り上がりやがって」

 「羨ましいな、コノヤロー」とガドールが呟く。夜の闇の中でも、ガドールの美貌は際立つようで昼間同様、女性達の視線を一人占めしている。

「星、綺麗」

 肉まんをかじりながら、クルッカが空を見上げる。手には先程買った物が入った、大きな紙袋が抱えられている。もちろん、中身はゾフィとヴァルゼルドのための薬だ。

「つか、あの阿呆は?」

「薬屋の人と話し中。欲しい薬があったみたい」

 ガドールが「貸せ」とクルッカから紙袋を受け取る。

「またかよ」

 うんざりと言った感じでガドールがクルッカの後ろにある、薬屋を見る。そんなガドールにクルッカは持っていた小さな紙袋の中にある、肉まんを差し出した。

「はむっ……」

 両手の塞がっているガドールはクルッカの持っている肉まんにかじりついた。けれど、熱かったのか、口に入れた途端、口をパクパクとさせる。さながら、餌を強請る鯉のようだ。

「ふぁ……つ……」

――何か、可愛い…。

 ガドールを見つつ、クルッカも肉まんをかじる。フワフワの生地にジューシーな具がとてつもなく、美味しい。寒い夜には格別に美味しく感じる。

「……何、笑ってんだよ」

「別に」

「……あっそ」

 納得していない表情のガドール。紙袋を抱え直すと、再び肉まんにかじりつく。

「ふぁっ…」

「ぷっ…!」

 思わず、吹き出すクルッカ。一方のガドールは頬を赤く染めながらも、口をパクパクさせている。

「ふぁがら、わあうあ(だから、笑うな)」

「ごめん」

「ふぁふ……(たく……)」

 恥ずかしそうに口の端を舐めるガドール。色気ある仕草にガドールを見ていた女性達が一斉に息を呑む。

「悪い!」

 そこへトランクを持ち、嬉しそうにロックがやって来た。どうやら、欲しかった薬が手に入ったようだ。

「遅せぇよ、アホロック」

 ドンっとガドールが持っていた紙袋をロックに押し付ける。

「悪かったって」

「結界張ってるとはいえ、敵が来ないとは限らねぇ。急いで戻るぞ」

 ガドールはクルッカの手から肉まんを奪うと、宿へと歩き出した。「待てよ!」と一足遅れたロックが声を上げる。「早く」と声をかけようとした、その時。

「このクズが!」

 路地の方から男の罵声が聞こえてきた。先にいるガドールにも後ろにいるロックにも聞こえないようだ。

「申し訳ございません!」

 暗がりで誰かが深々と頭を下げている。声から察するに女のようだ。月灯りでその女の腕が照らされる。骨と皮で出来た、小枝のような腕だった。

――奴隷……か。

「黙れ!この死に損ないが!」

 男が女を蹴る。女は頭を勢いよく、地面に叩きつけられる。謝り続けていた女の口が切れ、地面に垂れていく。それでも女は謝り続けている。

――何て、理不尽なんだろう。

 「人類、みな平等」「みんなで仲良くしよう」。大人は子供に言う。子供はそれが世界の常識だと思って、友達と仲良くする。でも、実際はそんな道理は一切通じない。世界は理不尽だらけなのだから。

「お前なんか、いなくなったって、誰も困りゃしねぇんだよっ!」

――本当はみんな、そうして生きていきたいのに。

 誰にも虐げられる事なく、誰とも戦わなくてもいい、そんな世界を望んでいるのは、彼らなのかも知れない。望むから戦って、望まないから虐げる。大きな矛盾をはらんで、彼らは生きている。

「死ねっ!」

 男が持っていた鞭を振るう。バチン、バチンっと女の体に痛々しい跡が刻まれていく。そんな惨劇を月は照らそうともしない。スポットライトを浴びる女優のように、綺麗なモノしか受け付けないといわんばかりに。
 だから、闇にいる人々は月の明るさを知らない。

「っ!」

 シュンっと一陣の風が吹き、男の持っていた鞭が刻まれる。男は驚き、女は涙でいっぱいになった目で男を見る。

「誰だっ!?」

 男が辺りをキョロキョロと見渡す。けれど、鞭を刻んだ何者かはどこにもいない。いるのは、男と女の二人だけだ。

「くそっ!!」

 男が壁を蹴る。怒れる男は女に怒りをぶつけようと、鬼のような形相で女の方へ振り返る。が、そこにあるのは、女を繋いでいた足枷だけだった。

「おい」

 クルッカがハッとして振り返ると、そこには先に行ったはずのガドールがいた。すぐ傍にはロックも来ている。どうやら、来るのが遅くて、戻って来たようだ。

「何、ボーとしてんだ?」

「ボーとなんかしてない」

 クルッカはそう言うと、ロックを見た。そして、「待ってただけ」とガドールに告げた。もちろん、これは口実である。

「え?ま……待っててくれたのか?」

 不意打ちを食らったように、ロックが目を丸くする。そんなロックにクルッカは「うん」と微笑んだ。すると、ロックの顔が一気に赤くなる。

「ヤベ……」

「阿呆」

 くるりとクルッカに背を向けるロック。見れば、鼻をつまんで「止まれ、止まれ」と呪文のように唱えている。一方のガドールは呆れながらも、ロックに何か言っている。小声のせいでよく聞き取れない。

――まだ時間はある。

 一陣の風を纏った何かを手に取り、クルッカは一人心の中で呟いた。

五・女神は不気味にほくそ笑む

 朝の祈りの時間を知らせる鐘が街に響き、人々は教会へと吸い込まれていく。その様子を上から眺めているロックはまだ覚醒しておらず、半ば寝かけている。

「バカロック、起きやがれ」

 バコンっとロックの後頭部を勢いよく叩く。朝1発目にしては、実に爽快だ。

「ぶっ……!」

 ロックは口に入れていた歯ブラシを思い切り噛んだ。あまりの痛さに眠気は吹っ飛び、叫ぶ気力さえ失せた。

「ヴァルゼルド、大丈夫?」

 クルッカの声がして、ロックがそちらに目をやると、半日程ずっと眠っていたヴァルゼルドが起き上がっていた。遠目からではあるが、顔色はだいぶよくなっている。

「あぁ……」

 ヴァルゼルドは一瞬、どう答えていいのか分からないようだった。よく考えれば、ゾフィとヴァルゼルドの置かれている立場はかなり複雑だ。混乱するのも仕方ない。

「普通に話してくれていい。人質と言っても、危害を加えたりはしないから」

 「裏切らねぇ限り、な」とガドールが付け足す。声はいつも通りだが、ガドールの目は鬼気迫っており、「分かってんだろうな?」と脅迫にも似た感覚にヴァルゼルドの表情は険しくなる。

「あたしはクルッカ、クルッカ=クレセント。あっちはガドール=クーリッジとロック=ペプラム」

「俺は……アベク=ヴァルゼルド。で、こいつが……ゾフィ=フランシスカ」

――アベク……フランシスカ……。

 口をゆすぎながら、ロックはどこか覚えのある名前を心の中で呟く。そして、不意に頭の中にある人物の顔が浮かんだ。

「お前……トラムのおっさんの娘……なのか?」

 それはガドールも同じだった。まさかと驚きの視線を向けられた、当の本人は訳が分からないと首を傾げている。

「何で、おっさんの名前を……」

 声の出ないゾフィの代わりにヴァルゼルドが呟く。トラムというのは、ロックとガドールの故郷――風月村の村長をしていた男だ。トラムの名前を知っているという事は、つまり彼ら2人は村出身者であるという事だ。

「トラム=フランシスカ。南の辺境地・風月村の村長にして、number10」

 無機質なクルッカの声が部屋に響く。風月村の事は門外不出で知っている者はいないはずだった。しかし、その禁は一瞬にして、破られた。

「どうして、それを……」

「8年前にクリスタルを大量に入手したという男の記述にそう書いてあった。2人には悪いと思ったけど、調べさせてもらった」

 カチリとクルッカの中で何かのスイッチが入る。感情の排除されたクルッカの声は恐ろしい程に冷淡だ。そして、そのままクルッカは続ける。
ゾフィとヴァルゼルドだけが知っている、8年間の記憶を。

________________

 南の辺境地・風月村のトラムには1人娘がいた。
 母譲りのピンク色の髪に父譲りのオレンジ色の目をした、ゾフィと言う名の少女だった。ゾフィには幼馴染の少年がいた。金に黒の混じった髪に黄緑色の目をした少年・ヴァルゼルドは生まれながらに左目が見えなかった。
 ゾフィが10歳になった、ある日。ゾフィは道で倒れていた、1人の男を助けた。男の名はロマノフ=ジョーヴァン、王都で有名な騎士の名家の生まれだった。

「君、名前は?」

「ゾフィ!」

「ゾフィか。助けてくれて、ありがとう」

 彼を可哀想に思った、村の人々は彼が回復するまで、村で面倒を見る事にした。誰も彼を疑わなかったのだ。彼が、クリスタルを探しにこの村へ送り込まれた諜報部員であると――。

「ここだよ」

「ここに……クリスタルが……」

 そうとは知らないゾフィはヴァルゼルドと共にロマノフ=ジョーヴァンをクリスタルの保管されている社へと案内した。もちろん、ロマノフ=ジョーヴァンの口車に乗せられて。

「すごい!すごいぞ!」

 そして、ロマノフ=ジョーヴァンは本性を露にした。燻っていた欲はタガが外れ、一気に溢れていき、本能のままにクリスタルを奪っていく。

「やめろ!」

 ヴァルゼルドはゾフィをかばいながら、ロマノフ=ジョーヴァンを止めようと襲いかかった。

「馬鹿が」

 ロマノフ=ジョーヴァンがヴァルゼルドを振り払うと、その拍子に持っていたダミーのクリスタルの力が暴走し、2人は顔の左側に火傷を負った。叫び声を上げ、のたうち回る2人を他所にクリスタルを回収していく、ロマノフ=ジョーヴァンは今、絶頂の中にいた。
 その感覚は麻薬にも等しく、何とも言えない感覚にロマノフ=ジョーヴァンは酔いしれていた。

「これさえ、手に入れば、ここに用はない」

 ロマノフ=ジョーヴァンはそう言うとゾフィの目の前にやって来た。手には隠し持っていたナイフが握られている。

「邪魔をした罰だ」

 振り下ろされたナイフがゾフィの首を見せしめと言わんばかりに斬りつけた。

「こいつを助けたかったら、ついて来い」

 ヴァルゼルドに拒否権はない。ほとばしった鮮血がそれを物語っていた。
 こうして、2人はロマノフ=ジョーヴァンと村を出た。大好きだった人や故郷に別れも告げないままに。父親であるトラムがロマノフ=ジョーヴァンに殺された、という事実も知らないまま。
 2人は闇へと堕ちていった。

「これにサインしろ」

 差し出された紙に2人は絶望した。

――以下の者は全ての権利を捨て、ロマノフ=ジョーヴァンの奴隷になる事をここに誓う。

 もちろん、2人は抵抗した。しかし、ロマノフ=ジョーヴァンに完全に逆らう事は出来なかった。何故なら、2人の命は彼の手の中にあるのだから。
 1日に1回の食事と水、拘束された手足、闇の中で閉ざされた視界。そして、足を伸ばして眠る事さえ許されない、箱のような牢屋。
 大人でも狂ってしまいそうな環境に、2人の精神はどんどん削られていった。体は痩せ、村にいた頃の面影は一切ない。そして、2人の心はとうとう折れた。
 村から連れ出されて、2ヶ月が経った頃だった。

「さぁ、行ってこい」

 月日は流れ、2人は18歳になった。布で顔を覆い、体格が分からないように大きめの服を着る。
抵抗する素振りもなく、2人は従順に頭を下げる。

「御意」

 言われるがままに、流されるままに、2人は命令に従う。人を殺せと言われても、厭わない程に2人は汚れていた。

――以下の者を指名手配とする。
主犯・ロマノフ=ジョーヴァン
従犯・ゾフィ、ヴァルゼルド

 顔写真付きの手配書がバウンティーハンターや咎追いの間で配られた。クリスタル絡みの事件のため、賞金は格段に高い。故にそれを目当てにロマノフ=ジョーヴァンを狙う者は多い。
 しかし、ロマノフ=ジョーヴァンに関わって、生きて帰って来た者は1人もいないという。

______________

 淡々と話していたクルッカの口が役目を終えたというように、静かに閉ざされた。どうして、ここまで感情を消せるのかと思う程に、クルッカの声には何もこもっていなかった。

「お前……一体……」

 ロックが驚きで満ちた目でクルッカを見る。すると、クルッカは不意に口の端に笑みを浮かべた。

「ただのバウンティーハンター、だよ?」

 ミステリアスな雰囲気に思わず、ドキリとするロック。

「今の話で間違いは?」

「……ない。全部、事実だ」

 ヴァルゼルドが下唇を噛み締めながら、静かに言った。

「いつからだ」

 唐突にガドールがクルッカに尋ねる。見れば、殺気で満ちた目が鋭く、クルッカを見据えていた。

「いつから気付いてた?俺達が風月村出身って」

「……会って、すぐに」

 ガドールの視線にも負けず劣らずの鋭い光を宿したクルッカの目にロックの体は強ばる。

「ロマノフ=ジョーヴァン絡みって言うのが大きいけど」

「やっぱ、お前…知ってて……」

「ガドールだって、知ってたくせに。というか、ガドールだって、能力者だって黙ってたじゃない」

 「おあいこだろ」とガドールの目から殺気が消える。それを見て、クルッカはホッとしたように軽く微笑んだ。一方のロックはと言うと、状況が掴めず、キョトンとしている。

「えっ……と、つまり、ガドールが追いかけてた、Fake numbersがあいつって事か?」

「そう、だけど?」

「ボケんな、殴るぞ」

 「なぁ?」とガドールとクルッカがお互いの顔を見る。相変わらず、息が合っている。

「つー訳だ」

 ガドールがにっと笑い、ゾフィとヴァルゼルドの方を見る。さっきの態度とは、打って変わったガドールに戸惑いを隠せない2人。

「あいつは俺がぶっ倒す」

「なっ……!」

 ヴァルゼルドが「馬鹿な」と消え入りそうな声で呟く。すると、ガドールは右手の人差し指を振り、舌を鳴らした。

「俺の力は、お前が1番知ってるだろ?」

「……マ……マジで?」

「嘘にしては、タチが悪いと思うけど」

 クルッカがそう返すと、たちまち、ヴァルゼルドは目を開き、ガドールを見た。

「助けて……くれるのか?」

「あぁ」

「殺そうと、したのにか…?」

「あのな、どんだけ器小さく見てんだよ。お前」

 ガドールが呆れたようにため息を吐く。

「1回しか言わねぇから、よーく聞いとけ」

 そう言うとガドールはファーの中からキューを出し、いつものようにキューを肩に担ぐ。

「ロマノフのクソ野郎から、お前ら2人を助けてやる」

 余裕たっぷりのガドールの顔には、不安など微塵も感じられない。どこから、その自信が来るのか、ロックには分からない。それなのに、ガドールを信じてみたいと思えてくるあたりは、ガドールの力量を知っているからだろうか。

「殺そうとした事も、殺すって言った事も全部、水に流そうぜ」

 「いいよな?」とガドールがクルッカとロックに目配せする。クルッカは「もちろん」と笑みを浮かべ、ロックはこくんと頷いた。そんな3人にゾフィとヴァルゼルドは困惑する。

「とりあえず、2〜3日は安静にしてもらうからな」

 ロックがヴァルゼルドの肩に手を置くと、「えっ……」と小さくヴァルゼルドが声を漏らす。

「……あ、ありがとう……」

 ヴァルゼルドが深々と頭を下げる。それを見て、慌ててゾフィも頭を下げる。

「頭上げろって!」

「いちいち、礼儀正しいな」

 「ま、そういうのは嫌いじゃねぇけど」と付け足すガドール。持っていたキューをファーに収めると、2人の頭を軽く叩いた。

「気軽にいこうぜ。ゾフィ、ヴァルゼルド」

「……あぁ」

 ガドールの言葉に、固まっていたヴァルゼルドの表情が緩む。ようやく見れた笑顔にガドール達は心の中でガッツポーズをする。

――よかった。

 ロックがホッと胸を撫で下ろす。正直、人質を取るという状況を息苦しく思っていた。まとわりついて来る、罪悪感で心が荒みそうだった。

「なぁ……」

 不意に手首を掴まれ、ロックの体がビクンっと跳ねる。見ると、ヴァルゼルドがロックの手首を掴んでいた。

「お前、医者……なんだろ?」

「あぁ。そうだけど…」

 何故か、小声で聞いてくるヴァルゼルドに少しばかり警戒するロック。先程、水に流そうと言ったばかりだというのに、頭によぎるのは昨日の出来事だった。やはり、そう簡単に流せる事ではないようだ。

「頼みがある」

「頼み?」

 ロックが小首を傾げる。すると、ヴァルゼルドがロックの腕を引っ張った。後ろのめりに体勢を崩したロックに構わず、ヴァルゼルドは続ける。

「見ただろ?あいつの首の傷」

 ヴァルゼルドの一言にロックは思わず、ゾフィを見る。ゾフィはクルッカと一緒に楽しそうにしており、ロックの視線には気付いていない。

「あの傷が治らないのは、ド素人でも分かる。あの傷のせいで、あいつは声を失っちまった」

 ヴァルゼルドの声のトーンが暗くなる。あの時から、ずっと悔やんでいるのだろう。表情はとても苦々しい。

――それもそうだよな……。

 目の前でそんな事が起きて、平気な人間などいない。ましてや、それが身内なら、それが自分のせいだとすれば、絶対に許せないだろう。もし、ロック自身がヴァルゼルドの立場なら、少なくともそうだ。

「俺は、あいつの声を取り戻したい。……あいつの声が戻る可能性は、あるのか?」

「っ……!」

 ロックの呼吸が一瞬止まる。聞かれたくはない――答えたくはない問いにロックの体は固まる。医者であるロックには、問いの答えが分かっていた。ゾフィの声が2度と戻らない――と。

――また、逃げんのかよ。

 逃げたくはない。けれど、真実を口にする勇気はどこにもなかった。藁にもすがる思いで、ロックに少しの希望を託してきたヴァルゼルドを絶望の淵へと追いやる事など、ロックに出来ない。否、したくはないのだ。

――結局、卑怯なままじゃねぇか。

 一言でも言葉にしてしまえば、後戻り出来ない気がした。だから、ロックは固く口を閉ざしている。助けたいのに、助けられない、そんな情けなさがロックを支配する。

「可能性ならある」

 凛とした声にハッと我に返るロック。声の主はクルッカだった。

「本当かっ!?」

「ただし、それ相応の覚悟と対価が必要だけど」

「何言って…!」

 ロックがクルッカの肩に掴みかかる。

「医療で出来なくても、魔法なら出来る」

「っ!?」

「医者のお前には、思いつかねぇよな」

 ガドールの手が落ち着けと、ロックの頭を優しく撫でる。
 ロックは忘れていた。自分が医療に長けているように、クルッカとガドールも魔法に長けているという事を。

「魔法なら、出来るのか?」

「万能って訳じゃねぇけどな」

「覚悟なら出来てる。あいつの声が戻るなら、俺はどうなってもいい」

 ヴァルゼルドの目に鋭い光が宿る。クルッカやガドールと同じくらいに、強い意志を示す光だ。

「いい覚悟だ」

 ガドールはヴァルゼルドににっと笑ってみせ、「任せろ」と言った。心強いガドールの一言に緊張していたヴァルゼルドの表情が少し緩んだ。

「仕込みは完了だよ」

 クルッカはそう言うと、どこからか、掌サイズの丸い缶を取り出した。蓋を開けた瞬間、香る甘い匂いに中身はキャンディーだと分かる。

「このキャンディーにはあたしの魔力が入ってる。いわば、食べるマジックアイテム。ゾフィにはもう食べて貰ってる」

 クルッカの言葉にロックはベッドで横になっているゾフィに気付いた。眠っているのか、身動き1つしていない。

「噛んじゃダメだよ。拒否反応が起きないように、ゆっくり舐めて」

 恐る恐る、手に取ったキャンディーを口に入れるヴァルゼルド。クルッカの指示通り、キャンディーを口の中で転がしていく。

「すげぇな……」

 ガドールの口から声が漏れる。長い前髪から覗く、左目のスカウターの画面に何かが表示されているが、メカに疎いロックにはよく分からない。

「何が?って顔して、こっち見てんじゃねぇよ」

 状況の掴めないロックにガドールの拳骨が落ちる。鉄拳制裁を礎としている、ガドールの教育方針には手加減というものがない。

「殴られるのが嫌なら、理解しろ」

 それがガドールのスローガン、または教訓だった。もう何百回と殴られているのに、ロックは全く懲りていない。むしろ、子供の頃より殴られる回数がここ最近、増えている気がする。

「……魔力か」

 そして、殴られた後程、頭が冴えるロックであった。

「ご名答。あの飴、すげぇぞ」

 ガドールいわく、ヴァルゼルドの魔力を0にすると、あのキャンディーで100になるという。つまり、魔力自体を持っていない者にも、一時的に魔力を持たせる事が出来るのだ。

「魔力の一時的定着…」

 魔力というのは、ガドールなどの能力者のように生まれながらに宿っている、魔法の源の事だ。能力者は能力を使うために、魔力を使う。故に魔力がその身に宿っている。けれど、魔法の才があれば、ロックのような非能力者でも魔力を持つ事は可能である。
 しかし、元から魔力を持っていない者が魔力を持つ事は出来ない。
 免疫のない体に魔力が流れれば、体が拒否反応を起こす。最悪の場合、死に至る事だってある。ただし、先程ロックが行った回復魔法などは別だ。もちろん、過度の使用は禁止とされている。

「ロックとガドールは離れて……」

「1人で無理すんじゃねぇよ」

 ガドールがコツンっとクルッカの額に指で弾く。不意の出来事にクルッカはキョトンとする。

――何か、扱い違うんですけど……。

「ちょっとは頼れ。少し頼られたくらいで、ぶっ倒れねぇから」

「うん」

 クルッカが素直に頷けば、「分かったならいい」とガドールがクルッカの頭を撫でる。ロックとは明らかに違う対応だ。

――つか、触んなよ!!

「ロック、お前は離れてろ」

「へいへい」

 ガドールの指示に従い、ロックは部屋の隅にある椅子に腰かけた。

――何をする気なんだ?

「それじゃ、いくよ」

 クルッカが目を閉じれば、それに続いて、ガドールとヴァルゼルドも目を閉じる。すると、それを察したのか、クルッカがおもむろに手を上げた。

「?」

 ゆっくりと宙に上げられた手が、重なり合う。

「強き意志と大いなる覚悟の元に、我――クルッカ=クレセントは運命の輪を廻す事を誓約する」

 クルッカが言い終わると同時に、3人が立っている床にまばゆい光の魔法陣が浮かび上がる。複雑に組み合わされ、暗号化された記号の中に一際輝いている扉があった。

「我の声に答え、解放せよ」

――すげぇ…。

 遠目から眺めているロックは、ただ息を呑むばかりだった。実際、何が起こっているかは、よく分からない。
 おもむろに開き出した扉はあっという間に全開となり、解放された光が天井近くに差す。どこからともなく、吹き出す一陣の風にロックの金髪が靡く。

「っ!?」

 そして、光は人となる。
 彼女を表せる言葉はない。何故なら、彼女が美し過ぎるからだ。言葉にしてしまえば、その言葉がくすんでしまいそうなくらい、彼女は美しかった。

「我――アベク=ヴァルゼルドは過去の咎を懺悔する」

「我――ガドール=クーリッジが証人となる」

 光の美女は3人を見下ろすと、妖艶に微笑んだ。それが合図だったかのように、3人が目を開く。

「汝の罪は我が引き受けよう」

 光の美女が柔らかな声で告げる。人懐っこい表情の美女に比べ、クルッカ達の表情は固い。先程から、眉1つ動かしていない。雰囲気は最悪というか、劣悪だ。

――完全にアウェーだ。

「汝の強き意志と大いなる覚悟に敬意を表し、我の力で輪を廻そう」

 しかし、ロックはまだ知らない。善意などで運命の輪が廻る訳がないと。廻すにはそれに見合う、大いなる代償が必要だと。

「ただし……」

 美女の口元が歪に歪む。先程とは打って変わって、美女の上品さはどこかに消えてしまった。纏っていた光は一気に輝きを失い、黒々とどす黒い闇に染まっていく。

「代償として、お前の一部を貰う――!!」

 美女はたちまち、醜い化物と化した。化物は手に持っていた、身の丈程の大鎌を振り上げるとヴァルゼルドを斬りつけた。

「アベク=ヴァルゼルドの名の元において、汝の望みし未来を与えよう」

 化物の声と共に、ベッドの上にいるゾフィの体が光に包まれる。

「廻れ、運命の輪よ」

 カチリっと何かが音を立てる。時計の針が進んだような、そんな音だった。そして、その音が消え入るのと同時に、化物はスゥ……っと消えていった。

「ヴァルゼルド!」

 ロックは慌てて、ヴァルゼルドに駆け寄った。見開いた目は血走り、喘ぎ声を発する口からは血の混じった唾が垂れている。左目を抑えている指の間からは、血が溢れていた。

「代償は左目の眼球か…」

 ガドールが眉を顰め、呟いた。ヴァルゼルドの目はもう治らないと悟ったロックはガドール同様、眉を顰める。

「くっ……」

「ガドール!」

 倒れかけたガドールをクルッカが抱きとめる。クルッカの肩越しに、穏やかに眠っているガドールの顔が覗く。力の使いすぎで眠ってしまったらしい。

「クルッカ。お前はガドールの方、頼む」

「分かった」

 ガドールを起こさないように、クルッカがゆっくりとベッドへと運ぶ。

――ガドールが倒れたのって、なんか久々だな。

 ヴァルゼルドの左目に回復魔法をかけながら、ロックは思った。
 しばらくして、左目からの出血は止まった。喘いでいたヴァルゼルドの呼吸は整い、スースーと寝息を立てている。

――こっちも相当、疲れてたみたいだな。

 ロックは立ち上がると、近くにあった毛布をヴァルゼルドに掛けた。ベッドが埋まっているため、仕方ないのだが、職業柄、床に病人を寝かせているという状況にロックは罪悪感を覚える。

「クルッカ?」

 静かになったのを不気味に思い、ロックが声をかける。しかし、返事はない。部屋を見渡すと、椅子に座り、眠っているクルッカがいた。

「……お疲れさん」

 昼を告げる鐘が街中に響き、人々が再び慌ただしく動き出す。もちろん、向かう先は教会ではなく、飲食店である。

__________________

 本日3度目の鐘の音が消え入る。
 眠っていたガドールの意識がゆっくりと浮上していく。気だるさの残る体は、起き上がる事さえ、億劫に感じさせる。

――魔力、使い過ぎたか。

 運命の輪――、噂には聞いていたが、魔力の消費は半端ではない。

――あいつ、大丈夫だったのか?

 上半身を起こし、ガドールは部屋を見渡す。隣のベッドにはゾフィ、床にはヴァルゼルドが気持ちよさそうに眠っている。ヴァルゼルドの近くには、壁に身を預けて眠っているロックがいた。

「ガドール?」

 ガチャリとドアが開き、クルッカがマグカップ片手に現れる。

「よぉ、大丈夫そうだな」

「うん。ガドールのおかげだよ」

 クルッカはガドールに歩み寄ると、持っていたマグカップを差し出す。暗くて、よく見えないが、甘い香りがして、それがチョコレートだと分かる。

「甘いの、苦手だった?」

「いや、むしろ好きだ」

 ガドールはマグカップを受け取ると、口をつけた。甘いチョコレートの味が口いっぱいに広がっていく。甘さの中にほんのり苦味のある、チョコレートは飲みやすい。

「お前が作ったのか?」

「そうだよ」

 クルッカは1度、部屋から出て、別のマグカップ片手に戻って来た。そして、当たり前のようにガドールのベッドに腰掛けた。

「お前、どこであの術、覚えたんだ?」

「いきなりだね。あの術は、友達の大賢者から教えてもらったの」

「大賢者?」

 「そっ」とクルッカが短く返す。クルクルとマグカップを小さく回し、チョコレートを呷る。両手でしっかりとマグカップを持っている姿は、何とも可愛く見える。

――あいつ、その内多量出血で死にかけるな。

 眠っているロックの方を見て、ガドールがマグカップに口をつける。一方のロックは、「クルッカ……」と寝言混じりに寝息を立てている。

「本人は使った事ないって言ってた。でも、知識だけは持ってて、世間話してる時に教えてもらった」

――会話力、乏し過ぎだろ。

「じゃあ、お前、もしかして……」

「一か八かだった」

 まさかのカミングアウトに流石に固まるガドール。しばし、思考が止まる。が、それを越える速さで1つの気持ちがせり上がってくる。

――こいつ、肝座ってるな。

 狂運と言われる所以か、呆れなどの感情よりも楽しい、面白いという感情の方が強く出てしまう。今、ガドールを襲っている気持ちは快感にも似た感情だった。

「やるだけの価値はあったからね」

 「ちょっと無謀だったけど」とクルッカが付け足す。

「ま、成功したんだ。誰も文句は言わねぇだろ」

 ガドールはそう言った後、マグカップの底にとどっていたチョコレートを呷った。底にとどっていたチョコレートは思いの外、苦い。

「……ありがとう、ガドール」

 口の端をペロリと舐めるガドールにクルッカは満面の笑みを浮かべている。暗い中でも、その笑顔は輝いて見える。

「お前、マジ狡いよな」

 ガドールはクルッカの頭に手を伸ばすと、ガシガシと頭を撫でた。柔らかい銀髪が撫でる度に月灯りで輝く。

「ガドール?」

 不思議そうな目でガドールを見るクルッカ。心なしか、クルッカの顔は赤い。撫でられる事に馴れていないらしい。キョトンとした表情も、男心をくすぐる。故にクルッカは危ない。

「チョコレート、サンキューな」

 ガドールはベッドから立ち上がると、すれ違いざまににっと笑ってみせた。それと同時にクルッカの持っているマグカップを素早く、回収する。

「目覚めちまったから、ちょっと外行って来るわ」

「出入り禁止にならないようにね」

 クルッカが苦笑混ざりに言った。どうやら、クルッカには全て、お見通しのようだ。

「負ける方が悪りぃんだよ」

「狂運のガドールに勝てるカジノって、きっと誰も勝てないよ」

「買い被り過ぎだろ」

 マグカップを洗面台で軽くすすぎながら、ガドールが言った。言われ慣れている言葉だが、毎回聞く度に耳がこそばゆくなる。その感覚がどうにも苦手なのだ。

「照れるポイント、どこなの?」

 クルッカは訳が分からないと言うように、首を傾げている。

「何となくだ」

 ガドールはすすいだマグカップを逆さに置く。

「壊さねぇ程度に暴れて来るか」

「いってらっしゃい」

 ガドールは「行ってきます」と言う代わりに、クルッカにヒラヒラと手を振った。
 光害防止条約のある、この街は他の街よりも暗い。そんな事を改めて思いつつ、ガドールは夜の街へとくり出すのだった。

六・絡めた指に託した思い

 心地のよい眠りについていたロックは、朝の鐘の音と共に目を覚ます。

「あ、起きた」

 クルッカが窓枠に座り、ロックを見下ろしていた。

「クルッカ…、おはよう」

「おはよう」

「おはようございます」

「あぁ、おはよう……って!?」

 聞き覚えのない声に寝ぼけたままのロックは反射的に挨拶を返し、ふとそれが誰であったかを考える。そして、行き着いた答えに勢いよく、そちらに目をやると、嬉しげに笑みを浮かべているゾフィがいた。

「おま……声が……」

「みなさんのおかげです。ありがとうございます」

「俺は別に…。何もしてないし……」

「助けてくれたでは、ありませんか。それだけで十分です」

――いい子だ……。

 ゾフィの一言に、ロックは内心泣きそうだった。それと同時に、今まで奴隷として扱ってきた、ロマノフ=ジョーヴァンを心底殴り倒したくなった。もちろん、そんな事は到底出来ないが。

「やっと起きたか」

「ロック、おはよっス」

 昨日とは打って変わって、元気そうなヴァルゼルドはガドールと一緒にこちらへとやって来る。

「ヴァルゼルド、お前、大丈夫なのかよ」

「ロックのおかげでもう大丈夫だ。ありがとう」

 証拠とばかりにヴァルゼルドが見せてきた足は、腫れも引いており、歩く分には問題ない程に回復していた。痛々しい痣はまだ、当分消えそうにはなく、ロックにはそれがヴァルゼルドの心の傷のように思え、何だか複雑な気持ちになる。

「ガドールの兄貴も、クルッカもありがとう」

「誰が兄貴だ。手のかかるのは一人で十分だ」

 鬱陶しいと言いたげなガドールの一言に「何でっ!?」とヴァルゼルドが迫る。うるうると潤んだ目は、さながら子犬のようで、ガドールは、それを見ないように視線を逸らしている。昔から、こういうのには弱いのだ。

「クルッカ、ガドールさんは本当に心優しいのですね」

 ヴァルゼルドとガドールのやり取りを見て、「平和だ」としみじみクルッカが呟くと、隣にいたゾフィも同意とばかりに頷いている。いつの間にか、場に馴染んでいる二人はとても楽しそうだ。

「おい、こいつどうにかしろ…!」

 状況に耐えかねたガドールがロックに助けを求めてくる。が、ものすごい眼力で訴えかけてくるヴァルゼルドにどうしたもんかとロックは、困り果てていた。無理に説得しても、どうにもならないのが目に見えていたからだ。

「ガドール、折れてあげろよ」

「ふざけんな。大体、俺はお前の面倒見るだけで手ぇいっぱいなんだよ。これ以上、面倒なもん、俺に背負わせんな」

「人をお荷物みたいに言いやがって…!」

「事実だろうが。おら、これからも守ってやっから、こいつ、どうにかし…」

「知るかよ」

 ガドールの言葉に機嫌を悪くしたロックが、そっぽをむくと、今がチャンスとヴァルゼルドが更に距離を詰めて来る。言葉のチョイスを誤ったガドールは、ヴァルゼルドの額を手で抑えながら、「悪かった」とロックに声をかけるも、ロックは聞こえないと両耳を塞ぐ。

「……ったく、好きに呼べ」

 結局、味方のいなくなったガドールが、深いため息と共に渋々、折れる形でこのいざこざは収束へと至ったのだった。
_________________
 遅めの朝食後、今後について話し合う為、一同はリビングに集まっていた。

「まず、あいつがここへ来た目的についてだ。あいつはここで銀の光輪と呼ばれるやつと待ち合わせているらしい」

――銀の光輪……。

 ロックがロマノフ=ジョーヴァンと出くわした時に、一度聞いた言葉だ。あの時の事をふと思い出してしまったせいか、体が不自然なくらいに震えてしまう。

「お前ら、何か知らないのか?」

「一度会った事はあるが、顔は布で隠れてて、見えなかった」

「主の話では、金を払えば何でもやる輩だと」

 独特の空気のせいか、それとも癖なのか。二人の表情や口調は硬く、先程笑っていたはずの顔からは表情が消え去っていた。

「銀の光輪と組んで、あいつはある実験をすると言っていた」

「ある実験……?」

「ダミーの能力実験」

 クルッカの言葉に、ガドール以外の全員が驚き、息を吞む。

「前にも行ったけど、ダミーのクリスタルは暴走する確率が高い。だから、実験したくても、本部の規制に引っかかってしまう」

 code numbersを束ねる組織、通称・本部は、ダミーのクリスタルの保管を担っており、その権利を全て掌握している。ダミーのもたらす力の恐ろしさを知っているからこその厳しい規制は、研究者にとっては障害の一つになるだろう。

「そうか。あいつは実験の結果を売ろうとしてるのか」

「ご名答」

「それと、もう一つ」

 クルッカが人差し指を出し、一同を見渡す。いつものように、感情のこもっていない顔に慣れてきたロックは静かに言葉を待つ。

「ロマノフ=ジョーヴァンは指名手配犯だ。クリスタル絡みって事で、賞金も高い。となると、やつの敵は多い」

 指名手配犯――。その一言にゾフィとヴァルゼルドがビクリと肩を揺らす。ゾフィとヴァルゼルドも、ロマノフ=ジョーヴァンと同じく、咎人であるからだ。膝の上の手が、ゆっくりと拳に変わっていく。

「だから、ロマノフ=ジョーヴァンはこの街を選んだ。本部のある、王都ではなく」

「ここには、咎人を収容する牢獄がある。それに、咎追いの本部、通称・教団もな。あわよくば、咎追いを皆殺しにし、牢獄から出てきた咎人を仲間にしちまおうって魂胆だろう」

 ガドールが壁に身を預け、外を見る。ロマノフ=ジョーヴァンの魂胆が分かったからだろうか。ガドールの表情は険しい。

「ロマノフ=ジョーヴァンが所持している、ダミーの数って分かるか?」

「はい。確か、五つだったと」

「その内の二つが風と炎の能力か……」

 ロックがため息混じりに呟く。code numbersのnumber1、炎の能力は風の能力同様、受け継がれなかった能力の一つだ。故にその能力について、広く知っている者はいない。おまけに風と炎なら相性は抜群だ。

――炎は電気を通すからな。

 そして、最も最悪な事がガドールの能力・雷が炎に不利だという事だ。炎を出し続ける事で、電気を放電し、感電を防ぐ事が出来るからだ。いくら強い能力でも通じなければ、意味がない。
 それから、ロマノフ=ジョーヴァンと組んでいる、謎の人物・銀の光輪。情報が一切ない、銀の光輪は特に要注意だ。code numbersではないという、確証はないのだから。

「銀の光輪については、あたしに任せて。そんな輩なら、データの一つはあると思うから」

「……あぁ、頼んだ」

 ガドールの手がクルッカの頭を撫でる。どこか、救われたようなガドールにクルッカは嬉しそうだ。

――俺に出来る事って……。

「何も……ねぇじゃん……」

 悔しさの滲む、ロックの声は誰にも届かない。誰にも、気付かれない。誰もが前に進もうとする中、ロックはただ一人立ち止まっている。そこにしか、居られないような気がした。

「ロック」

 不意に声がして、顔を上げれば、そこにはジャケットを着たクルッカが出会った時と同じように、レモン色の瞳でロックを真っ直ぐに見つめていた。

「みんなの事、任せた」

「………え?」

「じゃあね」

 クルッカはそう言って、部屋から出て行った。他のみんなには、今の会話は聞こえていないようだ。

「………何で……」

「ロック?」

 焦点の定まらない目のロックに、ゾフィが不思議そうに声をかける。

――何で、あんな悲しそうな顔してんだよ。

『じゃあね』

「――っ!!」

 次の瞬間、ロックは椅子に掛けていた上着を掴むと、勢いよく部屋から出た。背後からガドールの声が飛んでくるが、ロックはその声を無視する。

「クルッカ!!」

 宿を飛び出し、ロックは辺りを見渡す。道行く人々の中に、クルッカはいない。どっちへ行ったのか、なんて分からない。それでも、ロックは走り出した。

「クルッカ!!!」

 何度も名を呼ぶ。いつもの、あの笑顔を捜して、ロックは走る。足がもつれ、転けそうになるが、そんな事はどうでもよかった。追わなければ、絶対に後悔する。そんな衝動に駆られて、ロックは走っていた。その衝動は、子供の頃に感じた、あの衝動と同じだった。

「ロック、あなたはここにいて」

「大人しくしているんだよ」

――父さん、母さん!

 ロックの頭の中で、あの日の出来事が再生されていく。八年経った、今でも褪せる事のない、消えてくれない、忌まわしい過去が。両親の死に様が。
 そして、そんな両親を前に、あいつ・ロマノフ=ジョーヴァンは笑っていた。
______________
 これは老人も、ガドールも知らない、ロックだけが知っている記憶。
 それは、ロマノフ=ジョーヴァンが村に来て、少し経った日の事だった。

「ロック。ガドール君、呼んでおいで」

「はーい」

 両親を早くに亡くしたガドールは、ロックの家で暮らしていた。同い年だが、しっかりしたガドールをロックは実の兄のように慕っており、ガドールもまた手のかかる弟だと思いながらも、満更ではない様子だった。

「ガドール!」

 部屋に行くと、ガドールがいた。いつものように、父親の形見であるスカウターをいじっている。この頃は、茜色の長髪を三つ編みにしていたせいか、よく女の子に間違えられていた。

「母さんが下に来てって」

「あぁ」

 そう言って、ガドールが持っていたドライバーを置いた、その時――。

「うわぁーっ!?」

 村の人々の叫び声にガドールは勢いよく窓を開けた。

「なっ…!」

 そこには、必死に何かから逃げる村の人々がいた。阿鼻叫喚とはまさにこの事だと言わんばかりの、惨状にロックとガドールは言葉を失う。

「おい、あれ……」

 ガドールの指がゆっくりと前を指す。それに合わせて視線を動かすと、村の入り口に群がっている魔獣が目に入った。

「何で魔獣が……」

「ロック、お前は逃げろ」

 ガドールはロックの肩を強く押した。よろけるロックを他所に、ガドールは素早くマジックアイテムであるファーを肩に羽織る。

「ガドールは!?」

「阿呆。俺はcode numbersのnumber5だぞ。逃げる訳にはいかねぇんだよ」

 窓枠に足をかけ、ガドールは勢いよく飛び降りた。わずか十歳にして、去り方も男前だった。
 ガドールを止める事の出来なかったロックは、急いで階段を下りた。「何事?」という顔の母親に、ロックは先程の出来事を話すと、母親はロックと祖父を連れ、急いで外へと出た。向かう先は村の避難所だ。ロック達が着いた頃には、父親と村の半分の人が集まっていた。

「ロマノフさんがいない」

 誰かが気付いて、声を上げた。見ると、ロマノフ=ジョーヴァンはいなかった。すると、おもむろに父親が立ち上がった。

「捜しに行こう」

「そうね。ガドール君も捜さないと」

 母親も立ち上がる。それにつられて、ロックも立ち上がる。内心、生きた心地がしなかった。それでも、ガドールがいるなら、自分も行かないといけないと思った。しかし、ロックの願いはあっさりと却下されてしまった。

「ロック、あなたはここにいて」

「大人しくしているんだよ」

 ロックにそう言い残し、二人は再び村へと戻って行った。その背を見送りながら、ロックはどこか不安でいっぱいだった。そこで、ロックは祖父の目をかいくぐって、一人村に戻った。震える足を何とかいなしながら、辿り着いた先で見たのは地獄のような現状だった。

「え……?」

 足元に転がっていたのは、血塗れの両親だった。切り裂かれた傷口から、それが魔獣にやられた事は明らかだったが、ロックが驚いたのはそこではなかった。血塗れの両親を前に不気味な笑みを浮かべた、ロマノフ=ジョーヴァンが魔獣を愛おしそうに撫でていたからだ。

「死に目に息子さんが来たようだ」

 ロマノフ=ジョーヴァンは撫でていた手を止めると、持っていたクリスタルを光らせる。その光に、大人しかった魔獣の目がみるみる血走っていく。

「ロック…!」

 母親がヨロヨロと立ち上がる。体からは聞いた事のない音が軋み、大きな傷口からは、止まる事なく血が流れ出している。

「一緒に逝け」

 地面を蹴った魔獣の血塗れの手が、ロックに迫る。けれど、その手がロックに届く事はなかった。

「――っ!?」

 貫かれた体から、血がドッと噴出す。ロックのを庇うように前に立ち塞がった母親は、腹に魔獣の手が刺さった状態で、すでに事切れていた。

「っち……」

 ロマノフ=ジョーヴァンが忌々しそうに舌打ちをする。ブンっと魔獣が手を振るい、母親の体が嫌な音を立てて、地面にバウンドする。血が辺りに飛び散り、何バウンドかした後、母親の体は止まった。

「ぐわっ!」

 感傷に浸る隙もなく、勢いよく、地面に叩きつけられたロックは衝撃で口の中を切る。ジワっと口の中に血の味が広がり、恐怖が足元からせり上がってくる。

「うっ……!」

 ミシミシっと体が軋む。今にも折れてしまいそうな、そんな音にロックの恐怖心が更に増していく。

「ロック!」

 地面に倒れていた父親が何とか起き上がろうとした、その時――。

「………あっ………」

 突如、現れた魔獣が父親の頭を食いちぎった。ほとばしる血しぶきで、地面が赤く染まる。

「あ……くぁっ……」

 言葉の出ないロックに、ロマノフ=ジョーヴァンは満足気に笑った。
 その後、ロマノフ=ジョーヴァンは興が削がれたのか、ロックを殺さなかった。ロックは村の人々が来るまで、ずっと地面に突っ伏して、泣いていた。
母親と父親の死体は、どこからも見つからなかった。老人も、ガドールも知らない、ロックだけが知っている、最期の記憶――。
________________

 どれくらい、走っただろうか。そんな事を思った途端、ロックは転んだ。

「痛てぇ……」

気が付けば、辺りはすっかり暗くなっていた。昼の鐘にも、気が付かなかったようだ。

――ガドール達、心配してるかな……。

 フラフラの足で、立ち上がるロック。喉はカラカラで、まともに喋れない。どれだけ、必死になっていたのだろう。たかが、クルッカがどこかへ行っただけだというのに。

「ったく、何やってんだよ」

 聞き覚えのある声にロックが振り返ると、そこにはガドールが立っていた。

「ガドール……どうして……」

「どうして、はこっちのセリフだ。バカロック」

 ガドールの目はどことなく、呆れていた。でも、何故かホッとしているようにも見えた。珍しい表情についつい見とれていると、ガドールが口を開いた。

「そんなに気になるのか?クルッカが」

「……違う、とも言えないけど……」

 歯切れの悪いロックにイラっと来たのか、ガドールは持っていたペットボトルを投げた。

「医者なら、自分の体調管理くらいしろ」

「うっ……」

 申し訳ない気持ちでいっぱいになるロック。と同時に、ガドールの優しさに泣きそうになる。この頃、涙腺がすぐにゆるんでしまうようだ。

「嫌な予感がするんだ。あの時みたいに……」

「あの時?」

「母さんと、父さんが……殺された時」

 ロックの言葉にガドールが目を付ける見開く。そんな返答が来るとは思っていなかったらしい。

「クルッカ、宿出て行く時、すごい悲しそうな顔してたんだ」

 クルッカの顔と両親の顔が重なり、ロックの心は落ち着かない。もし、クルッカに何かあったら…。そう思うだけで、いてもたってもいられなかった。

「……お前、あいつを……ロマノフ=ジョーヴァンを殺したいか?」

「――っ!?」

 ロックは勢いよく顔を上げると、ガドールを見た。一方のガドールは、声と違って、堂々とロックを見据えていた。いつもの余裕はどこにもなく、どこか覚悟を決めているようだ。

「力とか、そんなの関係なく。お前は、あいつを殺したいか?」

 バイオレット色の目が、ロックに問う。揺らぐ事のない、覚悟で満ちた目はクルッカのように、何でも見透かせそうだ。欺いた所で、ガドールの逆鱗に触れる事は目に見えている。

「俺は……」

 ロックはガドールの目をしっかりと見る。怖いと思う気持ち半分と、逃げたくない気持ち半分の状態で、自らの思いを紡いでいく。

「俺はあいつを一発殴れればいい」

「ぶっ…!」

 言った途端に吹き出すガドール。一生懸命考えて言ったのだが、馬鹿らしく思えてきたロックはガドールを睨みつける。

「お前……アホだろ……」

 クツクツと肩を揺らし、笑うガドール。

「心配して、損したぜ」

「心配?」

「発作、出ただろ。前に」

 ガドールが言う発作は多分、貿易の街での過呼吸に似た、アレの事だろう。そう思ったロックは小さく頷いてみせる。

「お前は覚えてねぇだろうけど、ガキの頃から時々出てたんだよ」

「えっ……」

「ま、その度気絶しちまってたから、無理もねぇけどな」

 ガドールが懐かしそうに目を細める。いい思い出とは言い難いが、ロックも少し懐かしく感じた。必死に村を立て直そうと、頑張っていた日々の思い出はささやかだったが、楽しいものだった。

「だから、お前があいつに復讐しようとしてんじゃねぇかって思ったんだよ」

「なるほど…」

 発作の時、聞こえてきた声は復讐してやりたいと思う、ロック自身の声だったようだ。簡単に言えば、ロックの心に住み着いた悪魔の仕業という訳だ。

「ちなみにもし俺が復讐するって言ったら、どうする気だったんた?」

「力尽くで止める」

――言わなくてよかった!!

 心の底から、ロックはそう思った。ガドールの即答ぶりと目の据わり具合が、その事を物語っている。一瞬ではあったが、尋常ではない殺気にロックの体は硬直した。

「約束、したからな」

「約束って?」

 ロックの問いにガドールは答えない。どこか遠くを見ているガドールは、少し寂しそうに見えた。けれど、ロックの視線に気付いた途端、いつものガドールに戻っていた。

「帰るぞ」

「あ、おい!待てよ!!」

 ガドールは羽織っている上着を靡かせ、歩き出した。その後ろをロックが慌てて追いかける。

「クルッカの事なら、気にすんな。あいつはそう簡単に殺られねぇよ」

「分かってる、けど……」

「大丈夫だ」

 ガドールが強く言った。ロックは小さく声を上げ、足を止める。前を歩いていたガドールも気配を察して、足を止める。そして、おもむろに振り返った。

「俺が絶対守る」

 強い風が吹いて、茜色の髪が靡く。バイオレット色の目が、月の如く輝き、上着は群雲のように揺らめく。美しい――、何て言葉は飾りにすぎない。あまりの美しさに、ロックはただただ息を呑む。そこにいるのが、ガドールではないような気がして、何となく遠く感じた。

――かっけぇ……。

 だから、無性に憧れた。子供の頃から、ずっと追い続けて来た、ガドールに。

「つか、あいつなら心配なさそうだけどな。マジで」

 風が止む頃に、ガドールが言った。ニィっと少年っぽさの残る笑顔が、夜なのに鮮明に見えた。

「……そうかもな」

 つられて、ロックも笑う。不思議と心は安らいでいた。

――やっぱ、ガドールはすげぇや。

「じゃ、行くか!早く帰んねぇとヴァルゼルドがうるさそうだしな」

「誰のせいだ、誰の」

 ガドールがロックの頭を掴む。「痛っ!」と声を上げるロックを他所にガドールは、その手に力を加えていく。

「お前のせいだろ、お前の」

「悪い!悪かったから、離してくれ」

「聞こえねぇ」

 夜の街を歩いていく、二人の背が人の群れに入って、やがて見えなくなった。
_________________
 女の子と見間違う程に、長くて綺麗な茜色の髪は梳く度に、太陽の光を受けて、輝いている。

「こら、動いちゃダメ!」

 ロックの母親に怒られ、ガドールは「へいへい」と生返事をする。朝の日課になりつつある、髪の手入れにガドールはまだなれていなかった。

「せっかく綺麗なのに、手入れしないともったいないよ?」

「そう言われても、俺男だし」

「あ〜、それもそうか」とロックの母親が櫛を置く。

「髪は母さんが結ってたし」

 ロックの母親が髪を分け、ゆっくりと編んでいく。その手の温かさにガドールは安心感を覚え、いつも眠ってしまいそうになる。

「そっか……」

「別に寂しい訳じゃない」

 強がるように言うガドールに、ロックの母親は苦笑いを浮かべた。

「今はロックやおばさん達がいるからな」

「ガドール君……」

 ガドールは少し後ろへ振り返ると、ニィっと笑ってみせた。ロックの母親は一瞬、目をぱちくりさせたが、すぐにつられて笑った。

「ねぇ、ガドール君」

「ん?」

 ロックの母親がくるりとガドールを自分の方に向かせる。突然の事に、今度はガドールがキョトンとなる。

「もし、ロックが間違った道に進んでしまいそうになったら、どうする?」

 いつになく、真剣なロックの母親の問いにガドールは間髪入れずに答える。

「力尽くで止める」

 迷いのない、ガドールの返答にロックの母親は嬉しげに微笑んだ。一方、意味が分からないガドールは「おばさん、何が嬉しいの?」と更に首を傾げる。

「ガドール君、一つ頼んでもいい?」

「ロックの事か?」

 ガドールの言葉にロックの母親はコクっと頷く。そして、おもむろにガドールの前に小指を差し出した。

「ロックの事、守ってくれる?」

「言われなくても、そうするつもりだ」

 ガドールの小指とロックの母親の小指が絡む。いつか聞いた、とある国での約束の儀式は呪文と共に交わされた。絡んだ指が何故か、名残惜しそうに離れると、ロックの母親は潤んだ瞳で改めて、ガドールを見つめた。

「頼んだよ。ガドール君」

「任せとけ」

 ロックの知らない、ガドールとロックの母親との最初で最後の約束だった。
_________________

 この街の夜はとても綺麗だ。他の街よりも、星が綺麗に見える。

――あいつも見てたりしてな。

 そう思いながら、ガドールは手に持っていたマグカップに口をつけた。カップの中身は昨日、クルッカがいれてくれたのと同じ、チョコレートだ。

「兄貴〜……ムニャ……」

 ベッドの上で眠っているヴァルゼルドが寝言が耳に届く。

――寝言でも俺かよ。

 どうにも、ガドールはヴァルゼルドのようなタイプが苦手みたいだ。見ている分にはいいが、慕われている分には何とも言えなくなる。嫌いな訳ではないが、どう接していいのか、よく分からない。それがガドールの本心だ。

「クルッカ……」

一方、椅子に座って眠っているロックは、うなされているかのような寝言だ。おおかた、夢の中にクルッカでも出て来たのだろう。その証拠に所々でニヤニヤしている。

――どんだけゾッコンなんだよ。

 呆れて、何も言えないガドール。昔から、嬉しい事があると顔に出るタイプのロックはかなり分かり易い。

『俺にはこの手がある』

 それ故に、騙されやすい。嘘のつけなかったロックは両親が殺されたのをきっかけに、生きる術として、嘘をつくようになった。

『いいか?これはある魔女の血だ』

 十八番は瓶に入れた血を見せて、欺く事。けれど、よく考えてみれば、それが嘘であると分かる。そもそも、そんな魔女は存在しないのだから。

『ロックの事、守ってくれる?』

 絡めた小指を眺めるガドール。ロックの母親の思いをのせて、ガドールへと受け継がれた意志を改めて痛感する。
 ガドールはチョコレートを飲みつつ、一人夜空を見上げた。甘いはずのチョコレートは、心なしか、苦く感じた。

七・毒を食らわば皿まで

「兄貴、兄貴!」

 肩を誰かに揺すられ、ガドールはゆっくりと目を開ける。焦点の定まらない目で何度か瞬きをした後、ようやく目の前にいるヴァルゼルドがはっきりと認識出来た。

「兄貴。寝るなら、せめて上着着ろよ」

「……今、何時だ」

「まだ九時だけど」

――あのまま、寝ちまったのか。

 手に残っているマグカップに視線を落とし、ガドールは居心地悪そうに頭をかく。口の中に残るチョコレートの味が嫌に濃く感じるのは気の所為か。

「おはようございます」

「おはよう。……あの馬鹿は?」

「ロックさんなら、薬が切れたとかで薬を買いに行きました」

 ゾフィの返事にふと昨日の事が頭を掠める。またクルッカを探しに行っているのではないかと一抹の不安を覚えるも、長い付き合いだ。そこまで馬鹿なら、医者にはなれていないだろうとロックを信じる事にした。

「ちなみにクルッカさんは帰って来てないです」

「……だろうな」

「あの、一つよろしいですか?」

「ん?」

 ゾフィがガドールに尋ねる。さっきとは違い、何故かかしこまっているゾフィに首を傾げるガドール。よく見れば、ヴァルゼルドも少しかしこまっていた。

「ガドールさんとロックさん、どちらがクルッカの恋人なのですか?」

 ゾフィの一言に、流石のガドールもフリーズする。まさか、そんな風に見られているとは思ってもみなかった。というより、どうやったら、その発想に行き着くのかが不明だ。

「やっぱり、ガドールの兄貴だろ!クルッカ、すげぇ可愛いし。お似合いだって」

「確かに、お二人ともお強いです。バランスもいいですし、コンビネーションも最高かと」

 若干、噛み合っていない二人の会話に我に返るガドール。何でこんな話になったのか、誰か説明してほしい。

「ゾフィ。お前だけ、なんか話違うぞ」

「そうですか?」

 キョトンと頭上にはてなマークを浮かべるゾフィに対し、ヴァルゼルドは何故か勝手に盛り上がっている。

「兄貴とクルッカって、マジ最強!」

「一人で盛り上がってんじゃねぇ」

 ガドールの鋭い鉄拳がヴァルゼルドの頭に落ちる。「ぶへぇ!?」と情けない声を上げて、ヴァルゼルドがその場にしゃがみ込んだ。

「脳が…揺れた……」

「んな訳あるか」

 「そんな訳あるっての!」と涙目でガドールを睨むヴァルゼルド。その様が何だかロックのようで、ガドールはふとロックの顔が見たくなった。

「脳が揺れる程の握力っ!流石、ガドールさん」

 その傍らでは、パチパチと拍手をするゾフィがいる。先程から何でか一人ズレまくっているゾフィにそろそろ疲れを感じてきたが、残念な事に今、それを処理出来るのは自分だけという現状に更に疲れは増していく。

「…で、結局どっち?」

「どっちも違げぇよ」

 ガドールの答えに、興が冷めたヴァルゼルドは、明ら様にガッカリした表情で黙って頭をさすっている。勝手に盛り上がっておいて、何でそんな顔をされないといけないのか。

「では、ガドールさんは?」

「あ?」

「ガドールさんは、どう想っているのですか?」

 見事な切り返しに思わず面食らう。先程まで、それ程興味なさ気だったゾフィが、突如食い下がってきた事に正直、驚きだ。

「……嫌いじゃねぇよ。いいやつだしな」

「それは好きっという事ですか?」

「好きっつっても、友好的って意味でのな」

 ガドールの返答が腑に落ちない様子のゾフィが、さらに食い下がって来る。

「では、いつものボディタッチは?」

「スキンシップの一つだろ。ロックとかにもしてんのと一緒」

「ロックさんやヴァルゼルドのように殴らないのは?」

「そこの馬鹿と一緒にすんな。敵じゃねぇ限り、殴んねぇよ」

 ガドールはそう言って、「まぁ、時と場合によるがな」と小さな声で付け足した。このご時世だ。女だから殴らない、などとかっこつけていたら、こちらが痛い目を見てしまう。

「じゃあ、これは?」

 しゃがみ込んでいたヴァルゼルドがガドールの持っている、マグカップを指差す。

「チョコレートの匂いがするな」

「チョコレート?」

 ゾフィはガドールに近付くと、ガドールの持っているマグカップを取った。洗っていないカップの底にはチョコレートが固まっていて、ほのかに甘い匂いがした。

「確か、クルッカも飲んでいたような…」

――あの時、お前、寝てなかったか?

 ふとヴァルゼルドの一言に引っかかりを覚える。それと同時に、何故こんなにも食い下がって来るのだろうと、疑問に思う。

「クルッカがいなくて、寂しかった。という訳ですか」

「ガキか、俺は」

 ガドールは何となく、恥ずかしくなって、ゾフィからマグカップを回収した。しっかりと握っていたのだろう。回収したマグカップは少し温かい。

「兄貴。諦めて、ゲロっちまえば?」

「吐く事なんてねぇよ」

「それは、ガドールさん自身が気付いていないだけでは?」

 再びの爆弾発言にガドールはフリーズする。自分でいうのも何だが、ガドールはそういう事にかなり鋭い方だ。好意を抱かれている事など、目を見れば分かるくらいの力は持ち合わせている。そんなガドールに、ゾフィはあなたが鈍感なだけでは?などと言ってきたのだ。固まらない方がおかしな話だ。

「ゾフィ、お前言い過ぎ」

「はい?」

 しかし、当の本人はその自覚がないようだ。ゾフィは重度の天然だ。もはや、記念物だ。

「ですが、こういう事はハッキリさせておかないと……」

「つか、何でノリノリなんだよ」

「さぁ?」

――やっぱ、おかしい。

 ガドールは話に夢中になっている二人を見据えた。何かがおかしい。そんな気がしてならない。けれど、二人には特におかしい所はない。

――何なんだ、この違和感は……。

 違和感の原因が変わらないまま、ガドールが不意に顔を上げた。そして、そこでふと違和感の正体に気付く。

「!」

 ガドールの視線の先には、壁についている鏡があった。鏡の中には、ゾフィとヴァルゼルドの後頭部が映っている。一見した所、怪しい所はない。

「ガドールさん?」

 ゾフィがこちらを見る。その時、鏡の中のゾフィが一瞬だけ揺らめいた。炎のような、その揺らめきにガドールは全てを理解した。ガドールはファーの中から素早くキューを出すと、鏡を叩き割った。
______________

 朝の祈りの時間を終えた教会は、しんと静まり返っていた。
 太陽の光を受けて、光っているステンドグラスは、誰もいない席を鮮やかに照らしている。どことなく、寂しい風景にロックは一人、黄昏ていた。傍らには、新しく買い揃えた薬の詰まった、トランクが置いてある。いつものロックならば、周りが引く程ニヤニヤするのだが、今日はそういう気分にはなれなかった。

――そろそろ、ガドールが起きたか。

 そんな事を頭の隅で思いつつも、ロックはここから立ち去れずにいた。

「お前、いつまでいる気?」

 不意に誰かに声をかけられ、ロックはビクリと肩を揺らした。恐る恐る、ロックが振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。フワフワとした、少し癖のある水色の髪に、鋭くて、綺麗な紅蓮色の瞳をした少年は少し眉を顰めて、こちらを見ていた。

「そこ、俺の席なんだけど」

「えっ……。あ、悪い」

 ロックはそう言うと、慌てて席を移動した。それを見た少年は「別に移動しなくてもいい」っと呟くように言った。
 少年は、ロックの空けた席に座り、その隣に座るよう、ロックに促す。無言の圧力に負けたロックは、少年の隣の席に座った。
 身長は160cm~170cmの間程で、多分年下だろう。肩が露となっているトップスは青と黒のシンプルなチェック模様で、緩く締めているネクタイからは鎖骨が覗いている。灰色のカーゴパンツの腰部分には、ホルスターが下げられている。よく見れば、ホルスターからは刃物の柄が見えている。

――こいつ、一般人じゃないな…。

「俺はマティアス。マティアス=バルディ」

 不意に少年ことマティアスがロックに名乗る。

「人に名前聞く時は、先に名乗るのが常識って聞いた」

 「違う?」とマティアスが首を傾げる。どことなく、可愛い仕草にふとクルッカが脳裏に浮かぶ。

「マティアスな。俺はロック、ロック=ペプラム」

――何か、可愛いやつだな。

 のほほんとしたオーラのマティアスは少し、幼く見える。こういうタイプが母性本能をくすぐるのだろうなとロックは改めて思う。

「お前、旅人?」

「あぁ。マティアスはこの街の出身なのか?」

 「ん」とマティアスが頷く。小さな子供のような仕草は、本当に可愛い。

「祈りに来た。今の時間なら、人いないから」

 マティアスはおもむろに指を組むと、目を閉じた。マイペースなマティアスに、若干驚くロック。

「……ロックは悩みを晴らすために来た」

 マティアスの言葉にロックはビクリと反応する。「違う?」と再び、マティアスが首を傾げる。さっきまで可愛かった、その仕草は今、少し不気味に感じる。

「教会に来る人は、大抵そうだって聞いた」

――何だ。びっくりした……。

 表情には出していないが、内心ホッとするロック。一瞬、心を読まれているかと思った。マティアス=バルディ、侮ってはいけない。ロックは直感的にそう思った。

「まぁ、そんなとこだ」

 ロックの返答に、マティアスは反応しない。しばしの沈黙の後、マティアスがゆっくりと口を開いた。

「ロックには、大切な人っている?」

「大切な人?」

「ん。すごく大切な人」

 真剣みを帯びた、マティアスの声に自然と身を引き締まるロック。「いる」と短く、けれど、真剣に返す。

「その人がもし、ロックを裏切ったら……どうする?」

 マティアスの言葉にロックの頭の中は真っ白になる。頭が思考を放棄する。そのせいで、言葉の意味を理解するのに数秒かかった。

――裏切る…?

「ロックやみんなを騙してたとしたら?」

「そんな訳っ…!」

「心当たり、あるんだ」

 マティアスの紅蓮色の目がロックを捕らえる。ひどく冷たい、マティアスの目はロックの心を見透かすように、ロックを見据えている。

「ある訳ないだろっ!」

「怒るのは、図星だからっていうのは万国共通の理。特にロックみたいなタイプは分かりやすい」

 クールなマティアスは、先程とはまるで別人のようだ。子供のような可愛らしさは一切なく、大人びた酷薄な少年が目の前にはいた。

――クルッカみたいだ。

 世界の光と闇を知り尽くし、統べる者。クルッカがそんな尊い存在のような気がして、たまらない時がある。自分の知っているクルッカは、本当のクルッカなのか。もしかしたら、騙されているのか。そう思わなかったと言えば、嘘になる。

「この場合の選択肢は三つ。一・その人を殺す又は復讐する、二・その事から逃げ出す、三・何もしない」

「何もしない?」

 ロックが言葉を繰り返す。

「ただ、裏切られたという事実に打ちのめされて、その奥に隠れている真実を見ようとしない、という事」

――奥に隠れている真実……。

「よくある話。訳ありってやつ」

 マティアスの目がロックからステンドグラスへと移る。どこか遠くを見つめる様子のマティアスの横顔は少し寂しげに見える。

「バカだって言う人もいる。他にやり方があったと言う人もいる。けど、その人にとっては、それが最善の方法だった。そうだと、信じてた」

「マティアス?」

「だから、それは違うと、誰かが示さないといけない。毒を食らった人は、その毒が自分を癒してくれると、救ってくれると信じているから」

 紅蓮色の瞳が光を受けて、輝く。よく見ると、マティアスの目は小刻みにたゆたっている。

「悪を貫かないと、裏切った相手の事を最後まで欺けない。虚飾で自分を偽っていないと、心が折れてしまう。だから……」

 ステンドグラスに向けられていた、マティアスの目が再びロックを捕らえる。

「お前が行動する事で、見えなかった道が開けて、選択肢は無限になる」

「俺が……行動すれば?」

 ロックが繰り返すと、マティアスは頷いた。

「その人の事、本当に信じたいのなら」

 マティアスはロックに軽く微笑みかけると、席を立った。役目を終えたと言わんばかりに、その動きは速い。

「俺、もう行く。仕事だから」

「あ、あぁ…」

 呆気にとられるロックを他所に、超マイペースなマティアスは出口の方へと歩いて行く。

「な、なぁ!また……会えるか?」

 マティアスが教会から出ようとした時、ロックが声をかけた。開けられたドアから、勢いよく風が吹き付け、マティアスの髪が靡く。

――何、聞いてんだよ。俺は……。

「心配しなくても、また近い内に会える」

 「ただし」と小さな声でマティアスが付け足す。

「それはロックの行動次第、だけど」

 フッと不敵な笑みを浮かべるマティアス。少し悪戯っぽく、子供のようなあどけなさのある、その笑みにロックはドキリとする。

「……俺も行くか」

 トランクを手に取り、ロックは教会を後にしようとした。しかし、その時不意に火薬の匂いがして、足を止めた。

「火薬?」

「伏せろ、ロック!」

 聞き慣れた声に、ロックは慌てて、その場に伏せた。瞬間、轟く爆発音に、鼻につく火薬の匂いと共に目の前が炎で包まれた。

「キャーっ!」

 阿鼻叫喚の巷と化した辺りは、逃げ惑う人々で溢れ返っている。中には、さっきの爆発に巻き込まれた怪我人が瓦礫の下敷きになっている。

――助けないと…!

 教会を飛び出したロックは瓦礫をどかそうと、必死で力を込める。けれど、思いの外に瓦礫は持ち上がらない。力不足なのか、それとも瓦礫のせいなのか、今のロックには分からない。

「くっ……!」

 ロックが一人、頑張る中、人々は逃げ惑う。助けてくれと懇願するばかりで、助けようという考えは毛頭ないらしい。

――俺、こいつらと変わんねぇじゃん。

 助けたいとここに来たのに、未だに瓦礫すらどかせられない。勢いだけの行動はただの蛮勇だ。靴を隔てて疼きを掻くとは、まさにこの事だ。

『世界はロック、君を助けてはくれない』

『お前が行動する事で、見えなかった道が開けて、選択肢は無限になる』

 クルッカとマティアスの言葉が脳内で再生される。迷いのない、愚直な程に真っ直ぐな言葉がロックの心を揺さぶる。

「また爆発するぞ!」

 誰かの一言に、逃げ惑っている人々がさらに混乱していく。ここから早く立ち去ろうと、人々が瓦礫を踏みつけ走って行く。見れば、瓦礫の下からは人の手が覗いていた。

「やめろっ!!」

 ロックが怒鳴るも、その声は悲鳴でかき消され、誰にも届かない。ピクピクと動いていた指は力なく、地面に踏みつけられていく。

「やめろっつってんだろっ!!!!」

 爆発音がロックの耳を劈く。空からは瓦礫の一部が降り、地上からは火柱が上がっている。ロックがさっきまでいた教会は今や、ただの瓦礫と化していたが、幸いな事に怪我人はいない。

「ぐっ!」

 教会のステンドグラスの破片が頭上から降り注ぎ、その一つがロックの腕に突き刺さる。

「はぁっ!」

 短い掛け声と共に、鞭の如くしなる武器が破片を薙ぎ払った。靡く茜色の長髪でそれがガドールだと分かる。

「ガドール!お前、今まで何やってたんだよ」

「爆弾仕掛けてたヤローをシメてた。爆発の心配はもうねぇから、安心しろ」

 ガドールはそう言うと、ロックの横に並んだ。「せーの」と二人で力を合わせ、ようやく瓦礫をどかす事が出来た。

「怪我はないか?」

 ロックの問いに瓦礫の下にいた男は、コクリと頷く。意識ははっきりしているようだ。目立った外傷もない。

「大丈夫そうだな」

「あぁ。けど、念のために病院へ……」

 ロックが言いかけた、その時、遠くの方から「兄貴〜!」と呼び声が聞こえてきた。振り返ると、そこにはこちらに向かって来ているゾフィとヴァルゼルドの姿があった。

「よかった…。兄貴、幻術から出れたんだな」

「流石、ガドールさんです」

「幻術?何の話だよ」

「あのヤローの仕業で、ちっとばかし足止め食らったってだけだ」

「恐らく、この騒ぎを邪魔させないためかと」

 先程までの表情を殺し、独特なオーラを放つゾフィが辺りを警戒し始める。その空気を察してか、ヴァルゼルドからも表情が消える。

「ったく。あのヤロー、好き勝手しやがって」

 ギリィっと歯を食いしばるロック。一方のガドールはキューを肩に担ぎ、いつもと変わらぬ表情で辺りを見渡している。

「胸くそ悪りぃ……」

 強い風が前髪で隠れたガドールの左目を晒す。はっきりとは見えなかったが、ガドールの目には光が宿っていなかった。冷酷で感情が一切ない目にロックは恐怖を感じた。

――ガドール…。

「ゾフィ、ヴァルゼルド。お前らは、怪我人を頼む。俺とロックはあいつを追う」

「御意」

 ゾフィとヴァルゼルドはコクリと頷くと、素早く散った。引き際をわきまえている分、行動が速い。

「覚悟、決めとけよ」

 ガドールはロックにそう呟いた。覚悟という、たった二文字の言葉がずっしりとした重みを生む。これが命の重さなのだ。

――覚悟、か……。

 似合わない言葉と重さに即答出来ない。そんなロックを他所にガドールは手にしたトランシーバーでロマノフ=ジョーヴァンのアジトを探している。トランシーバーは先程言っていた、爆弾犯の物だろう。
 ガドールの能力・雷は多種多様で、トランシーバーなどの電子機器の探知機器の探知から、人を思いのままに操る事が出来る。もっとも、後者は一度も使った事がない。ガドールいわく、それは自分のポリシーに反するそうだ。

「……分かったぞ」

 ガドールがロックの頭を軽くキューで叩く。半ばうわの空だったロックは、ビクリと肩を揺らした。

「決まったのか?」

「……いや……全然」

 ガドールの顔を見るのが怖くて、ロックは俯いたまま、答えた。いつまでも煮え切らない自分に呆れているだろうと思ったからだ。

「そうか。じゃあ、行くぞ」

「はっ……?」

 面食らったロックが顔を上げると、そこにはいつものガドールがいた。呆れている様子はなく、いつものガドールがロックを見ていた。

「お前の覚悟が決まるの待ってたら、日が暮れる」

 ガドールがキューを肩に担いだ。もう行く準備も、覚悟も出来ているガドールに迷いはない。鋭い眼光は後ろを振り向く事さえない。ただ、一心に前を見つめている。

――ガドールみたいに強くなりたい。

「つーか、覚悟しろって言われて、出来るもんでもねぇだろ」

 ガドールがもう一度、キューでロックの頭を叩くと鈍い痛みが走り、ロックは頭を抑える。

「お前が出来た時でいい。そん時はあのヤローをぶん殴ってやれ」

 ガドールの一言に、ロックは泣きそうになった。だが、ここで泣く訳にはいかないと、必死に堪える。

「あぁ」

 涙声のような情けない声がロックの口から漏れる。

「行こう、ガドール」

「頼むぜ、相棒」

 二人はコツンと互いの拳を交わすと、その場を後にした。
_______________
 薄暗く、人気のない倉庫には靴の音だけが響いている。倉庫には、未開封のダンボールがキャビネットに所狭しと積まれている。どれもこれも、ずっとここに仕舞っているらしく、埃をかぶっている。長居はしたくないと思っているせいか、先程よりも足音が早くなる。

「来たか」

 不意に声がして、顔を上げる。目の前に積まれたダンボールの1番上に、その声の主はいた。埃をかぶったダンボールに座り、こちらを見下ろしている主は見た目二十代くらいだ。

「よぉ、初めまして。大賢者さん」

 声の主はダンボールから降りると、こちらに恭しく一礼して見せた。オールドローズ色の髪にオレンジ色の目をした主・バネッサ=ジンライムは、大賢者・ゼータ=レオニードの事を知らない。一方のゼータもバネッサの事を知らない。二人はある共通の知人からの頼み事で、ここへやって来たのだ。

「僕はバネッサ。あんたはゼータ=レオニードだろ?」

「そうだ」

 短くゼータが返す。不毛な会話はしたくないっと言わんばかりの無愛想な返しに、バネッサが眉を顰める。

「分かったよ。さっさと本題に入ろう」

 バネッサはそう言うと、つなぎの内ポケットから二枚の写真を取り出した。

「あの子から聞いてるだろ?今回の事は」

「ごく簡単にだがな」

 写真には二人よりも若い少年が写っていた。その内の一枚を見て、バネッサは口笛を吹く。

「へぇ〜。いい男じゃん」

 バネッサの見ている写真には、眉目秀麗な長髪の少年が写っていた。赤い髪と紫色の目が印象的である。

「ガドール=クーリッジ、十八歳。身長・180cm。職業・ギャンブラー」

 ゼータが写真の裏に書いてある文字を読み上げる。

「こっちの子は可愛い」

 赤い帽子を被った、金髪の少年の写真を見て、バネッサが「キャー」と声を上げる。映える金髪とは対照的な灰色の目が印象に残る。

「ロック=ペプラム、十八歳。身長・172cm。職業・医者」

「医者か……。ゼータ、あんたはそっち担当な」

 バネッサはゼータの手からガドールの写真を奪い取る。

「……あぁ、そうさせてもらおう」

「聞き分けいいな」

「これ以上、君と話しても不毛だと思っただけだ」

 ゼータは上着のポケットに写真を仕舞うと、バネッサに背を向けた。再び響く、靴の音。先程まで何かとやかましかったバネッサの声は、一切しない。来た時と同じく、周りは静まり返っている。埃っぽい倉庫から、一歩外へ出ると、街の方で鐘が鳴った。気付けば、もう夕方だ。

「全く、無駄な時間を……」

 そう言いかけた刹那、目の前に一人の少年が現れた。フワフワとした、水色の髪に紅蓮色の目をした少年はゼータをじぃっと見る。

「マティアスか。何故、この街に?」

「仕事。そういう、ゼータは?」

 マティアスの問いに「似たようなものだ」とゼータは返した。心なしか、先程よりも心が安らいでいる。

「なら、気を付けた方がいい。今、ロマノフ=ジョーヴァンの傘下がウロウロしてるから」

「ロマノフ=ジョーヴァンというと、あの指名手配犯か」

 「ん」とマティアスが頷く。子供のような仕草とは裏腹に、紅蓮色の目は据わっている。つくづく、掴めないやつだなとゼータは思う。

「心配してくれた事には感謝する。だが、私にそんな気遣いは……」

「ゼータ、いちいち堅い」

 マティアスの一言にズルっと掛けていた眼鏡がズレる。

「約束したんでしょ?恥じない親友になるって」

「そ……そうだったな。私とした事が……」

 ズレた眼鏡を直しつつ、恥ずかしげにゼータが顔を赤らめる。

「心配してくれて、ありがとう。だが、私は大丈夫だ」

 改めて言い直すゼータ。「どうだ」と言いたげな視線をマティアスに注ぐ。一方のマティアスは口の端に笑みを浮かべている。どうやら、今のでよかったらしい。

「ふむ。中々難しいな」

「無理しなくていい。徐々に慣れていこう」

「……そうだな」

 ゼータがぎこちなく笑う。正直、笑えているかも怪しい。生まれてこの方、笑った事は指折り数えるくらいしかない。

「じゃ、俺仕事あるから」

「あぁ。忠告、ありがとう」

 マティアスはそう言うと、一陣の風と共に街の方へと消えて行った。その背を見送りながら、ゼータは指で眼鏡を押し上げた。
____________

 先程まで高かったはずの太陽がもう沈みかけている。道中、沈黙を守っていたロックとガドールは足を止めた時、初めてその事に気付いた。

――クルッカ、戻って来たかな………。

 頭によぎるのは、やはりクルッカの事ばかりだ。連絡用の水晶をチラチラと見るが、変化はない。

『その人がもし、ロックを裏切ったら……どうする?』

 マティアスの声がそれに追い討ちを掛けるように、頭の中で再生される。嫌な予感が胸に渦巻いて、ムカムカする。
 そんなロックの気配を察してか、ガドールは何も言わない。最悪の場合を想定しているのであろう、ガドールの中ではもう、答えが出ているようだった。
目の前にある、大きな鉄製の扉にガドールが手をかける。そして、何の迷いもなく、ガドールは扉を開け放した。
 薄暗い部屋に光が差し、部屋の中に佇んでいる人物の足元を照らす。黒のショートブーツを履いた人物は恐ろしい程に殺気立っていた。

「やっぱり、お前か」

 ガドールが部屋の中央へと歩いていく。手に持っているキューはバチバチと電気を帯びている。ガドールの後ろにいるロックは壁にあるスイッチを押した。震える手で、真実を知るために。パチっと軽い音と共に、部屋に明かりが灯る。

「code numbers、number5。ガドール=クーリッジ」

 ショートブーツを履いた人物は、フードの下から楽しげな笑みを覗かせている。狂気で満ちた目は真っ直ぐにガドールを見ている。

「気安く呼ぶんじゃねぇよ」

 殺気立ったガドールが怒り混じりの目で、相手を睨みつける。互いに一歩も引かない状況で、二人は部屋の中央で止まった。

「どけ。じゃねぇと……」

「引くと思う?この状況で」

 外されたフードから現れたのは美しい銀髪に、透き通る程に白い肌。そして、光の一切宿っていない、レモン色の瞳。

――嘘……だろ……。

 不運な事に、マティアスの言っていた通りになった。あの時にこうなるフラグでも立ったのかとロックは現実逃避に走りたくなった。だが、それは叶わない。というより、許してはくれない。凛と咲く花のように、そこに立っていたのは、クルッカだった。

「言い訳なんて、並べる気もない。ここで朽ちるお前らには」

 クルッカは上着の前を開くと、ガドールに構えて見せた。本気の目には疑う余地もない。

――クルッカ……。 

「そうかよ」

 ガドールもそれに応えて、キューを構える。バチバチっと音を立てる電気は荒ぶる獅子の如く、今にも食いつかんばかりだ。

「なら、来いよ。相手してやる」

 ガドールの怒号を合図に二人は床を蹴った。

八・世界は君を助けてはくれない

 耳を劈く金属音と共に戦いの火蓋は切られた。一気に距離を詰めた二人はキューと腕を十字に交えて、バイオレット色の目とレモン色の目がお互いを睨みつける。

「はぁっ!」

 掛け声を上げたクルッカが、左手でガドールを殴ると鈍い音が辺りに響く。

「効かねぇよ」

 ガドールはキューを素早く手元へ戻すと、クルッカの右肩に先端を突き立てた。その瞬間、バチバチっと高圧の電気が流れる。

「クルッカ!」

 思わず、声を上げてしまうロック。張り裂けそうな胸が、言いようのない痛みで満たされる。

――何でだよ。

 ガドールの電撃を受け続けているクルッカは、苦しげに顔を歪める。それでも、目に宿っている殺気は消えない。むしろ、増している気さえする。

「そのセリフ、そっくりそのまま返す」

 クルッカはニィっと笑みを浮かべる。何か策でもあるのか。そんな予感がした、その時。

「ガドール!?」

 突如として、ガドールが数十メートル先に吹き飛んだ。コンクリートの壁が抉れる程の衝撃にロックは言葉も出ない。

「くっ……」

 壁から床へ落ちたガドールは、口から血を流している。今の一撃がだいぶ効いたらしく、足元はふらついている。一方のクルッカはガドールの電撃を受けても平気そうに立っている。見れば、服が一切爆ぜていない。それに気付いて、ロックはガドールを見る。

――まさか…。

「手加減して、勝てると思っているのか?」

 クルッカには、それが許せなかったようだ。ガドールを見下し、不機嫌そうな表情を浮かべている。どうやら、彼女自身の本質は変わっていないらしい。

「ふざけんなよ、この阿呆が」

 ギロリっとガドールがクルッカを睨みつける。その目には、怒りと同じくらいに悲しみが混じっていた。ガドール自身も悲しいのだ。クルッカの裏切りが――。

「今の一撃、倍返しにしてやる」

 ガドールはパチンっと指を鳴らした。すると、張り詰めていた空気が一気にカラリと乾く。その事に気付いたクルッカは、タンっと床を蹴った。

「無駄だ」

 今までにないくらいの大きな電撃が、空中にいたクルッカを襲う。部屋中に帯電されていた電力は雷並みの攻撃力を誇る。俗に言う所のフラッシュ・オーバーだ。さっきの電撃はフラッシュ・オーバーを起こすための仕込みだったのだ。
 しかし、そんな電撃を受けてもなお、クルッカは声一つ上げない。見ているだけでも、目を背けたくなる光景にロックはただ呆然としている。

「ガドール!」

 ロックがガドールの名を叫ぶ。それと同時に軽い音を立てて、クルッカの黒いジャケットが落ちてくる。本体の方はマジックにかかったかのように消えてしまった。

「そうだ、本気で来い!」

 頭上から声がして、ガドールが顔を上げるとそこにはクルッカがいた。体を小さくして、空中でクルクルと回っている。ガドールの頭目掛けて、クルッカの右足が振り上げられる。人間離れした、クルッカの動きに目が追いつかない。避けられないと思ったガドールは、クルッカの一撃を腕で受け止める。

「憎き男が待っているぞ!こんな所でもたもたしていて、いいのか?」

「クルッカ、お前……」

「何も語るな。聞きたくもない」

 クルッカはもう片方の足でガドールの腕を蹴ると、素早く距離を取った。

「行きたいなら、あたしを倒せ。その覚悟は、もう出来ているはずだ」

 クルッカの言葉にガドールは黙り込む。何を考えているかは、ロックには分からない。ただ、前髪から覗いている目がたゆたっていた。さっきまでの殺気は、すっかりと鳴りを潜めている。

――ガドール、お前……。

 そんなガドールを見て、気付けばロックは拳銃を握っていた。素早くリロードすると、ロックは躊躇う事なく、引き金を引いた。

「クルッカ!」

 ロックの威嚇射撃にクルッカは目の端でロックを捕らえる。ひどく冷めた目には、もう光は届かない。というより、光を拒んでいるように見える。

「ロック、お前は手ぇ出すな!」

 ガドールが声を荒げ、ロックを制す。

「けどっ……!」

「面倒だ。二人まとめて、かかって来い」

 クルッカがパキポキと指を鳴らす。気だるいと言わんばかりに、クルッカはロックとガドールを見ている。ロックは改めて、クルッカが敵であると感じた。

「なめんなよ」

「そっちこそ」

 垂れた血を手の甲で拭い、ガドールとクルッカは対峙する。傷だらけのガドールと無傷のクルッカ。小さな差かも知れない。けれど、それは明らかな実力の差だった。

「もう一発、見舞ってやるよ」

「ガドール!」

 ガドールがクルッカ目掛けて走り出した。この時、ロックは気付いてしまった。気付いてはいけない、現実に。この戦いを終わらせる術がたった一つだけという事に。
 この戦いはどちらかが死ぬまで終わらない、という事を。
______________

 考えてみれば、クルッカには怪しい所があった。
 貿易の街で襲われた時も、Fake numbersの事を尋ねた時も…。疑い出すときりが無い。けれど、ガドールはクルッカの事を信頼していた。ロマノフ=ジョーヴァンと同じく、裏切り者であるクルッカを。戦っている今でも。

――何考えてんだ、クルッカ。

 喉から出かける言葉は、動く度にせり上がって来る。叫びたくてたまらない。今までに味わった事のない感覚にガドールは戸惑う。

『憎き男が待っているぞ!こんな所でもたもたしていて、いいのか?』

 クルッカの言葉が脳内で再生される。皮肉にも聞こえるが、その一方でガドールに言い聞かせているようにも聞こえる。だからこそ、ガドールは本気を出せないでいた。
 何度も蹴られ、何度も殴られる。クルッカは至って本気だ。手加減なんて微塵も感じない。クルッカはガドールを倒そうとかかって来ている。口の中が切れ、血の味がする。そのせいか、気持ちが悪い。ガドールはキューで応戦しながら、床に血の混じった唾を吐いた。どういう訳か、雷の効かないクルッカにガドールは苦戦を強いられていた。

「っ………!」

 ガドールのキューがクルッカの額を突き、そのまま顔をはたく。特殊な金属で出来ている、キューは普通のキューよりも硬い。クルッカが小さく声を上げる。

――胸糞悪りぃ。

 派手な音を立てて、床へと倒れ込むクルッカ。はたかれた頬は赤く腫れ上がっている。敵とはいえ、クルッカのそんな姿を見るのは心が痛む。

「クルッカ……」

 ロックもそれは同じようで、目を伏せている。見れば、握っている拳銃はガタガタと震えている。その姿は見ているだけでも痛々しい程で、ガドールの胸に鈍い痛みを生み出す。一方のクルッカは、床から素早く起き上がると、何事もなかったかのように手を構える。刺々しい程の殺気がガドールの肌を撫でる。

『あたしはあたしの思う道を行く。その生き方は今更変えられない』

――クルッカ……。

『だから、貫く。誰に笑われようが、間違いだと言われようと』

――これが、お前の選んだ道なのかよ。

 ガドールは歯を食いしばると、持っていたキューをクルッカに向けて投げつけた。が、キューはクルッカに弾かれ、無情にも床へと突き刺さる。狙い通りだ。

「魔障壁――五芒星」

 キューを軸として、クルッカの周りに大きな円が浮かび上がる。伝って流れた電流は床を這い、円の中に星印を描く。

「っ!?」

 中にいたクルッカは魔障壁に閉じ込められた。少しでも動けば、電撃の効かないクルッカでも消し炭になってしまう程の電流がそこには流れていた。

「動くな。じゃねぇと、死ぬぞ?」

 ガドールのドスの効いた声に、流石のクルッカも動かない。その様子にホッと胸を撫で下ろすロック。

「……何を遊んでいる。銀の光輪」

 その時、部屋中に一人の男の声が響いた。憎くてたまらない、男の声が。声のした方を見ると、そこにはあの男・ロマノフ=ジョーヴァンがいた。

「やはり、お友達は殺せないか?銀の光輪…いや、クルッカ」

「ハッ…!お前だって知ってるだろう?あたしは金のためなら何でもする、と」

 クルッカの言葉にロマノフ=ジョーヴァンは薄い笑みを浮かべる。どうやら、今の返答が気にいったらしい。

――やっぱ、こいつが銀の光輪か。

 鳴りを潜めていた、ガドールの殺気がロマノフ=ジョーヴァンに注がれる。ガドールの殺気に気付いた、ロマノフ=ジョーヴァンはまるで歓声に答えるかのように、ガドールを見下す。

「久しいな、ガドール=クーリッジ。よくも私の奴隷を奪ってくれたな」

「てめぇにとっては、ただの玩具だろうが」

――命を弄びやがって…。

 「胸糞悪りぃんだよ」とガドールがロマノフ=ジョーヴァンに吐き捨てる。

「お前さえ……いなかったら……」

 ロックが伏せていた顔を勢いよく上げる。両親を死に至らしめた相手が目の前にいるのだ。冷静でいられる方がどうかしている。

「お前が村に来なかったらっ…!」

 怒号と共にロックが握っていた拳銃の銃口を、ロマノフ=ジョーヴァンに向ける。けれど、怒りで震えた銃口はフラフラとして、定まらない。

「自分の無力さ故の結末だろう?」

「何だと……」

「いや、実に滑稽だ。そう思わないか?」

 ロマノフ=ジョーヴァンがクルッカに尋ねる。

「生憎、そんな変態的趣味はない」

 クルッカがバッサリとロマノフ=ジョーヴァンに言った。誰にも媚びない、堂々とした目はいつものクルッカの目だ。

「そうか、それは残念だ」

「何が…残念だ……」

 怒り心頭のロックは歯を食いしばる。殺気の泉と化したロックからは、底知れぬ殺気が溢れ出している。

「ふざけんじゃねぇっ!!!!」

 勢いのままに引き金を引くロック。一発目がロマノフ=ジョーヴァンの足元を抉る。それが更にロックを煽り、引き金を引かせる。続け様に何発もの銃弾がロマノフ=ジョーヴァン目掛けて飛んでいく。

「やめろ、ロック」

 弾が切れてもなお、引き金を引き続けるロックをガドールが制す。感情が溢れ出したロックは目から大粒の涙を流している。

「止めんなよ……。俺は、あいつをっ!!」

「言っただろ。復讐はさせねぇって」

 ガドールの一言にハッと我に返るロック。自分が何をしたのかを思い出し、拳銃が力なく床に落ちていき、涙が止めどなく溢れ出す。

「お……俺……」

 震える小さな肩が今にも壊れてしまいそうで、ガドールは思わず大丈夫だとロックを抱きしめた。苦しんできたのは、ガドールだけではない。ずっと我慢して、平気なふりをしていたのはロックも同じだ。だからこそ、ロックに復讐などさせられない。その手で誰かを救うと、そんな尊い選択をした、ロックの覚悟が間違いではなかったと証明する為に。

「これだけ撃って、一発も当たらないとは……流石は愚者と言った所か」

 ロマノフ=ジョーヴァンの言葉にガドールが勢いよく壁を殴った。拳に帯電していた電力が熱を帯び、コンクリートの壁を貫く。

「黙れよ、殺すぞ」

「随分物騒だな」

 言葉とは裏腹に、ロマノフ=ジョーヴァンは楽しげに口角を上げている。見ている方からすれば、吐き気のする笑みだ。

「だが、こちらには銀の光輪…クルッカがいる。果たして、お前は私に辿り着けるかな?」

「あいつも、てめぇの玩具の一つってか?」

「あぁ。私のお気に入りだ」

――キモイんだよ、このロリコンが。

 ガドールはチラっとクルッカの方に目をやった。クルッカは魔障壁の中でじっとしている。傍から見れば、クルッカは普通の少女だ。普通と言っても、クルッカの場合は希少価値の高い、超絶美少女だが。

『自分から行動しないと前には進めない』

 脳内でクルッカの言葉が再び、再生される。この言葉は確か、クルッカがロックに向かって言った言葉だ。

『目を背ける事は、知ろうとしなかった事は、自分を臆病にするだけ。そして、それはロックの背中に傷を付けるだけだ』

 ガドールは何かが引っかかり、意識を集中させる。

『知ろうとしない人間に運命の輪は廻せない』

――クルッカ、お前は何を伝えたい?

 今までの記憶を遡り、ガドールが探していく。そして、ガドールは辿り着く。

『世界はロック、君を助けてはくれない』

 温かさも、冷たさもない、無の表情でクルッカは言った。絶望している訳でもなく、ただ真実だけを告げるような口調で。

「ガドール=クーリッジ。お前はクルッカが憎くないのか?」

 ロマノフ=ジョーヴァンがガドールに問う。ガドールは殺気を帯びた目で、ロマノフ=ジョーヴァンを睨む。

「私と同じ、裏切り者だぞ?」

「てめぇみたいなクズと一緒にすんな」

 ガドールはロックから離れると、ファーの中から一本のナイフを取り出した。

「そんなナイフで何が出来る?」

「出来るんだよ、これが」

 ガドールは不敵に笑うと、手に持ったナイフをロマノフ=ジョーヴァンに向かって、投げた。ストンっと軽い音を立てて、ナイフが壁に突き刺さる。

「ふん。当たっていないぞ」

「ほざけ」

 タンっと床を蹴り、ガドールが一気に距離を詰める。

「馬鹿が」

 ロマノフ=ジョーヴァンは懐からクリスタルを取り出す。黒い薔薇の刻印の入ったクリスタルは、間違いなくダミーだった。ガドールの拳に流れていた電流がクリスタルから溢れ出した炎により、かき消される。やはり、雷と炎は相性が悪い。

――それでも、やるしかねぇんだよっ!

 炎の攻撃を避けながら、ガドールは壁に刺したナイフを握った。しっかりと壁に突き刺さったナイフを軸に、ぐるんと体を回転させる。間一髪の所で、炎の渦がガドールの頭上を通り過ぎていく。

「がはっ…!?」

 しかし、次の瞬間、ガドールの腹に激痛が走った。何事かと、視線を下ろすと、そこにはクルッカがいた。

――こいつ、どうやって……っ!?

 ガドールの体が力なく、床にバウンドする。二、三回バウンドした所で、床に刺さっていたキューにぶつかった。魔障壁はいつの間にか消えてしまっていた。

「ぐぁっ……」

 口から血が流れ出る。満身創痍のガドールの体は、今までにないくらいに重い。それでも、ガドールは力を込めて、よろよろと立ち上がる。

「よくやった。クルッカ」

 満足げなロマノフ=ジョーヴァンとは対照的に、クルッカはただガドールを見据えていた。
________________

 ぽたぽたと降り始めた何かが、勢いを増していく。熱くて、しょっぱい雫が頬に幾つもの線を描いていく。

――俺、何泣いてるんだろ……。

 途切れそうな意識の中、ロックは視界に映っている拳銃を見つめていた。全ての銃弾を撃ち終えた拳銃は、今やただの鉄の塊と化している。

『あいつを一発、殴れればいい』

 そう言ったのは、紛れもなくロックだった。それで終わらせようと甘んじていた。けれど、ロマノフ=ジョーヴァンを前にし、言葉を裏切ったのもロックだった。全てが甘かった。言葉の責任も何一つ、まともに果たせなかった。

――どうすりゃ、いいんだよ。

 床にへたり込んでいるロックは、大きな音がして、力なくそちらに目をやる。視線の先には、満身創痍のガドールがいた。

「ガ……ドー……ル…」

 医者のロックには分かる。ガドールの体はもう限界に近い。クルッカの一撃一撃はガドールの急所を突いており、通常の攻撃よりも重い。この状況はかなり不利だ。

――決めたじゃねぇかよ。

 拳銃を握っている手に力が込もる。途切れそうになっていた意識かゆっくりとだが、はっきりとしてくる。ただ、純粋に人を守りたい。そう思った事をなかった事にはしたくない。なかった事にするのは、逃げる事だからだ。

『俺にはこの手がある』

――求めてるだけじゃダメなんだ。俺だって、やってやる!

 ロックは傍らにあったトランクを開けた。銃弾を素早くリロードすると、ロックはガドールの元へ駆け寄った。

「お前っ…」

「愚者か」

 不思議と心は落ち着いている。さっきまでブレていた銃口もしっかりとロマノフ=ジョーヴァンを捕らえている。あれ程恐れていたロックは、すっかり鳴りを潜めている。

「クルッカ。俺は、お前と戦う気はない」

 ロックの言葉に背後にいるガドールが呆れたようにため息をついた。それでも、かまわずロックは続ける。

「お前は言ったよな。世界はお前を助けてくれないって」

 ロマノフ=ジョーヴァンの前に立っている、クルッカが冷め切った目でロックを見ている。果たして、クルッカに言葉は届くのか。分からないが、ロックは必死に言葉を紡いでいく。

「お前に何があったか何て、俺には分からない。けど…、俺は信じたいんだ……クルッカを」

 無表情だったクルッカの目が、一瞬だけたゆたった。ガドールもその事に気付いたらしく、息を呑んだ。

「世界がお前を助けないなら、俺が助けてやるっ!だから……」

 そして、ここに来てから、一番言いたかった事をロックは口にする。

「だから、帰って来い」

 精一杯の思いを込めた、ロックの一言にクルッカは驚きの表情を見せた。

「やりゃぁ、出来んじゃねぇかよ」

ポンっとガドールがロックの頭を撫でる。血が滲んでいても、ガドールはとてもかっこいい。こんな状況で改めて、ロックは思った。

「ったく、お前のおかげで計画が台無しだぜ」

「計画?」

「あっ?何でもねぇよ」

 ガドールはロックを押し退けると、床に刺さっているキューを抜いた。どこか吹っ切れた様子のガドールはクルッカにキューの先端を向けた。

「つー訳だ。腹くくれよ、クルッカ」

 ガドールの一言に今まで黙っていたクルッカが口を開く。

「もちろん」

「何っ!?」

 クルッカは言うが早いとばかりに、ロマノフ=ジョーヴァンの腹に肘鉄砲を食らわせた。鮮やかすぎる動きにロックは目を丸くした。

「かはぁっ……!」

 ロマノフ=ジョーヴァンは驚きのあまり、持っていたクリスタルを手放した。それを目で確認したガドールが床を蹴る。

「はぁっ!」

 しなるキューが落ちかけていた、クリスタルを砕く。クリスタルの欠片は黒く変色し、燃え上がった炎と共に消えていった。素晴らしい連携プレーに、思わず拍手を送りたくなるロック。だが、その一方で状況が掴めないでいた。

「くっ…!貴様……裏切ったのか……」

「裏切り者のお前に言われたくない」

 クルッカはロマノフ=ジョーヴァンの前に立つと、ロマノフ=ジョーヴァンに向かって、こう言い放った。

「あたし、クルッカ=クレセントは罪深きお前らを牢獄にぶち込むのが仕事のバウンティーハンターだ」

「バウンティーハンター……だと?」

 ロマノフ=ジョーヴァンが驚いたというように目を見開く。どうやら、ロマノフ=ジョーヴァンはクルッカがバウンティーハンターである事を知らなかったらしい。

「銀の光輪っというのは、衆生の煩悩を砕く智慧の光の事。それをお前は皮肉めいた通り名だと勘違いした。だから、利用させてもらった」

 口の端に笑みを浮かべるクルッカ。役目を終え、ホッとした様子のクルッカの笑みは少しだけぎこちない。

「恨むなら、罠にハマった自分を恨むんだな」

 ガドールはニヤリと皮肉たっぷりに笑みを浮かべた。キューでその体を叩けば、弾みで懐から、残り四つのダミーのクリスタルが飛び出す。

「これでてめぇも終わりだ」

 ダミーのクリスタルをガドールは足で踏みつける。パリンっと甲高い音がして、それぞれの欠片が消えていった。

「まだだ……」

 ロマノフ=ジョーヴァンが呟く。口から垂れる血が喋る度に飛び散る。

「まだだ、まだだ……まだだっ!!」

 呪文を唱えるように、ロマノフ=ジョーヴァンが叫んだ。何かしてくる気かと思い、ロックは拳銃を構えた。

「まだ、私の野望は終わってなどいないっ!今頃、街は……」

「残念だけど、そっちも鎮圧されたよ」

 聞き覚えのある声がして、入口の方に目をやると、そこにはマティアスが立っていた。

「マティアス!」

「ロック。お前の覚悟、ちゃんと見せてもらったよ」

 マティアスが嬉しそうにロックに向かって、微笑む。

「マティアスって、あの咎追いのか…」

――咎追い……、マティアスが?

「遅かった?クルッカ」

「いや。バッチリ」

 マティアスは「よかった」と頬を綻ばせる。少し赤みのさした顔は、少年だというのにとてつもなく可愛い。

「和んでるとこ、悪いんだけど」

「そろそろ、ロマノフ=ジョーヴァンの身柄を拘束したいのですが」

 再び声がして、一同が振り返ると、オレンジ色の髪に緑色の目をした男二人はこちらの様子を伺っていた。鏡写しのようにそっくりな美形二人の登場に一番驚いていたのは、ロマノフ=ジョーヴァンだった。
 男の一人が青いコートを翻し、オレンジ色のセミロングを靡かせる。左耳の上辺りから編んだ三つ編みは歩く度に揺れており、気品に満ち溢れている。

――何者なんだ…?

 男が近付くにつれ、そのシャツの襟で光っているバッジが徐々に鮮明に見えてくる。白い刃の剣2本と蛇と、アダムとイヴが食べたとされる禁断の果実のシンボルマークの入ったバッジは、王立騎士団員の証だ。

「ロマノフ=ジョーヴァン。貴方の身柄はこちらで拘束します」

「妙な考えは起こさない方がいいぜ?」

 もう一人の男がハンドガンを構えて言った。目の前にいる男とは対照的に若干露出度の高い男は、艶めかしいオーラを放っている。

「くっ……」

 男によって、ロマノフ=ジョーヴァンに拘束魔法がかけられる。両手足を拘束されたロマノフ=ジョーヴァンは生気を失ったみたいに黙って、項垂れている。
 あまりに呆気ない終わり方に、ロックは言葉が出てこない。八年間の思いが心の中で混ざりあって、何とも複雑な気持ちになる。

「終わった……のか…」

「あぁ。終わったんだよ」

 ロックの肩を掴んで、ガドールが答える。終わったという実感のないロックは未だに信じられない。

――あ…、あれ忘れてた。

 ロックはロマノフ=ジョーヴァンの前に立つと、腕を引き、力任せにロマノフ=ジョーヴァンを殴った。無抵抗な相手にいきなり殴りかかったロックに男二人は驚いたようだった。

「そうか……。終わったのか……」

 ロマノフ=ジョーヴァンを殴った拳を見つめ、しみじみとロックが言った。涙は一切出ない。恨んでいた気持ちは、どこか遠くへ飛んで行ってしまった。

「クルッカ」

 ロックはマティアスの隣にいる、クルッカに目を向ける。名前を呼ばれたクルッカは、ビクリと肩を揺らす。

「帰ろう、一緒に」

 ロックの言葉に今まで堪えていたのか、クルッカのレモン色の目から涙が溢れた。涙は次々と頬を伝って、ぽたぽたと床に落ちていく。

「さっさと来ねぇと置いてくぞ」

 ガドールが少し意地悪く、クルッカに声をかける。クルッカは涙を拭いながら、ロックとガドールの方を見た。涙でぐちゃぐちゃな顔でも、クルッカは可愛い。そんな事を思っていたロックは、不意に腕に温かなモノが飛びついて来たのに気付く。見ると、ロックとガドールの間にクルッカがいた。小刻みに震える手でロックとガドールの腕をひしと抱きしめているクルッカ。泣きじゃくりながらも、必死で言葉を紡いでいく。

「あ……りが……とう……っ」

 こうして、ロックとガドールのロマノフ=ジョーヴァンとの因縁の対決は幕を閉じた。

九・確かな思い

 ふわふわとした心地の良い眠りから意識がゆっくりと浮上していく。重い瞼を開けば、目に飛び込んで来たのは太陽の強い光だった。

――そういえば、騎空艇に乗ってたんだった。

「よぉ、ロック。よく眠れたか?」

 ロックがベッドから上半身を起こしたと同時に部屋のドアが開く。聞き覚えのある声に視線を向ければ、そこにはこの騎空艇の持ち主である、チェイスが立っていた。

「あ……、おはようございます」

「敬語はいいっつったろ?堅苦しいのは、苦手なんだよ」

 チェイスは人懐っこい表情を浮かべたまま、ロックを見ている。それは今まで出会って来た騎士の誰からも見た事のない表情であり、ロックは少し困惑してしまう。

「食堂まで案内するから、着替えてもらえるか?」

「お、おう」

 まだ覚醒していないロックは何とか返事をすると、ベッドサイドに置かれていた服に着替え始める。

――昨日の事は夢じゃないんだよな……。

 手を動かしながらも頭の中は昨日の事でいっぱいになっていた。長かったような、短かったような、根の張った因縁にやっと終止符が打たれた。しかし、その実感がロックには未だに湧いてこなかったのだ。

「ごめん、待たせた」

 着替えを済ませ、部屋から出たロックは外で待っていたチェイスに声をかける。が、そこにいたのはチェイスではなく、いつもと変わらない様子のガドールだった。

「遅せぇぞ、ロック」

「ガドール!」
  
 昨日の満身創痍な姿とは違い、傷一つないガドールにロックはホッと胸を撫で下ろす。一方のガドールは「あれくらいでどうにかならねぇよ」と呆れ顔だ。

「よかった、本当に……」
 
「大袈裟」

「まぁ、そう言いなさんなって。心配してくれる奴は大切にしないとだぜ?」

 チェイスはガドールの肩に腕を回すと、同意を求めるように「な?」と首を傾げてみせる。その様子にガドールも一瞬困惑したように見えたが、それを誤魔化すようにチェイスの腕を振りほどいた。

「朝から何を騒いでいるんです?」

 不意に背後から不機嫌そうな声がかかる。この声はジェイドだったか。チェイスと容姿は瓜二つだが、その声は鋭く、ロックとガドールは思わず眉を顰めてしまう。

「ジェイド、そんなに睨むなって。ごめんな、こいつ、朝苦手でさ」

「……別に?気にしてねぇよ」
 
 ガドールはジェイドから顔を背けると、ロックに目配せをする。ロマノフ=ジョーヴァンの件で世話になっている手前、相手が苦手な騎士でも友好的にいかなければ――。

「騒いでた俺達が悪いし」

 名家であるミラー家の次期当主と名高い騎士――ジェイド=ミラー。兄のチェイスとは違い、フランクさなど微塵も感じさせない気迫はさすが騎士と言わんばかりか、その目はロックとガドールが忌み嫌う者と酷く似ていた。

「え、何。この重苦しい空気……。朝からキツいんだけど?」

 ジェイドの登場にあからさまに警戒の色を見せる二人にチェイスは額に手を当て、眉を寄せる。申し訳ないとは思いつつも、やはり長年抱いてきた騎士への不信感は胸にわだかまりを残したまま、簡単には消えてくれない。

「喧嘩、よくない」

 そんな空気を切り裂いたのは、どこかマイペースなマティアスの声だった。ふわふわとした髪はいつも以上に柔らかそうで、眠そうに目を擦る姿は小さな子供のようで幼い印象を受ける。

「……マティアスが寝落ちする前に行くか」

 チェイスはマティアスの両肩に手を置くと、「マティアス、こっちだぞ〜」と声を掛け、食堂へと押し始める。

「行こうぜ、ロック」

「お、おう」

 ロックはチラリとジェイドの方を見た後、ガドールと共に二人を追いかけた。

「おはよう、みんな」

 食堂に入ると、先に来ていたクルッカがみんなに挨拶をする。ガドール同様、傷一つないクルッカの姿に、やはりあれは夢だったのではないかと再びロックは思ってしまう。

「おい、ロック」

 ガドールの声にロックが我に返ると、みんなの視線がこちらに注がれていた。ロックとガドール以外の一同は既に席についており、二人の着席を待っていた。

「ごめん、ボーッとしてて」

 ロックは目に付いた空席に座ると、続いてガドールはロックの隣の席についた。それを確認した一同は、テーブルに並べられた朝食を取り始める。

「やっぱ、夢じゃなかったんだな……」

 そんな中、ロックの目には朝刊の映ったタブレットがあった。

"ロマノフ=ジョーヴァン並びに従犯二名、逮捕。ロマノフ=ジョーヴァンは昨日、王立騎士団大佐・ジェイド=ミラー氏の手により、逮捕された。その後、騎士団員により、従犯二名も逮捕。従犯二名はロマノフ=ジョーヴァンの奴隷だった事が判明した。本部は三人を裁判にかけるとし、護送船にて、王都に向かっている。"

――ゾフィ、ヴァルゼルド……。

 タブレットを持つ手に力が入る。奴隷だったとはいえ、彼らのした事は決して許されるものではない。よくて終身刑、最悪死刑が妥当だろう。

「どうにか出来ないのかよ……!!」

 ガドールとクルッカが治療を受けている間、ロックは自身の非力さを嘆いていた。裁判というのは、本部や教団などの統制機構だけが行えるものであり、この裁判は罪の重さを改めて審理する事はなく、裁判官の独断と偏見によって、処される――。チェイスの口から発せられた言葉にロックは絶望するばかりだった。

「なかった事には出来ないが、減刑くらいならどうにかなるかもな」

 そんなロックを見兼ねたチェイスがある提案をする。それは二人の経緯をまとめた審理状を裁判官に提出するというものだった。

「審理状一つで減刑されるなら、誰でもやっていますよ」

「だよな……」

「でも、お前の名前があれば、どうにかなるだろ?」

「は……?」

 悪戯っぽい笑みを浮かべるチェイスに対し、ジェイドは片眉を釣り上げたまま、表情を曇らせる。同郷の誰とも知らない人の審理状よりも、騎士の名家であり、次期当主のジェイドの審理状ならば、裁判官も無視は出来ないはずだ。

「ふざけないでください。そんな事に名前を貸せと?」
 
「話は聞いてたろ。人の人生かかってんだぞ?」

「事情はどうあれ、罪は罪です。犯した分だけ罰せられるのが筋というものでしょう」

 ジェイドの酷く冷めた態度にロックは鋭い目付きでジェイドを睨み付ける。何を勘違いしていたのか。自分の知っている騎士という存在はいつだって、こうだったではないか。

「人の人生踏みにじって楽しいか?」

「なっ……」

 鋭い目付きと共に放たれた言葉にジェイドは面食らったかのように目を丸くする。自分は間違っていないとばかりの態度にロックは腹の底からフツフツとせり上がって来る怒りを感じていた。

「お前には頼まねぇよ」

「おい、ロック!」

 その場を後にするロックにチェイスの声が飛んでくる。が、ロックは足を止めず、怒りでワナワナと肩を震わせるのだった。

______________

 朝食後、様子のおかしいロックから昨日の事を聞いたガドールは、ロック同様、ジェイドに怒りを覚えながらも、チェイスの案に乗る事にした。

「俺がnumbersだって名乗れば済む話だろ」

 騎士という肩書きこそないが、ガドールは世界の御使いであるcode numberの一人だ。下手をすれば、ジェイド以上の効力が期待出来るだろう。

「ごめんな、俺のせいで」

「アホロックが気にしてんじゃねぇよ」

 俯くロックの頭をわしわしと乱暴に撫でるガドール。一難去ってまた一難とはよく言ったものだが、こうもロックの精神をズタボロにされてはたまったものではない。

「お前、部屋で休んでろ。これ以上、ウジウジされてても迷惑だ」

 動物を追い払う如く、ヒラヒラと手を振れば、ロックは申し訳なさそうに力なく笑った後、部屋へと戻って行った。

「これでみんな、前に進めりゃいいんだけどな……」

 ロックを見送った後、一縷の希望を胸にガドールは自室へと足を向ける。あの日に囚われ続けた同郷や幼馴染、そして何より自分自身をあの出来事から救い出す為に。

「……よし、こんなもんか」

 机に向かう事、数時間。慣れない作業に凝り固まった体を解しながら、ガドールは出来上がった審理状を誇らしげに見やる。ゾフィとヴァルゼルドの運命を背負った審理状は辞書並の厚さとなり、そこにはロマノフ=ジョーヴァンの悪行の数々が事細かに記されている。 

「死刑確定だな、クソ野郎」

 資料に添付されているロマノフ=ジョーヴァンの顔写真を指で弾くガドール。本当ならガドール自ら手を下してやりたい所だが、ロックや亡くなったロックの両親がそれを望まない事は十二分に分かっている。だからこそ、奴にはちゃんと罰を受けさせる。それがガドールなりの死者への弔い方だった。

――ゾフィとヴァルゼルドの方も上手くいけばいいんだが。

 別れ際に見た二人はどこか晴れやかで、どこか諦めたようだった。決して許されない罪を犯してしまったと心から懺悔しているような、だから殺されても仕方ないと達観したような、悲哀に満ちた目が脳裏に焼き付いて離れない。  

「やっと、助けてやれるんだ……」

 背もたれに身を預け、仰いだ顔に手を添える。小さなガドールが取りこぼしてしまった、二つの大切なピースがようやくあるべき場所に帰って来たのだ。小さな達成感に左目が僅かに疼くのを感じる。

「ガドール?大丈夫?」

 不意に影が差し、するはずのない少女の声が耳に届く。聞き間違えかと我に返ったガドールが閉じていた目を開くと、至近距離にクルッカの綺麗な顔があった。昨日、散々傷付けたそこに痛々しい跡は一つもなく、ガドールは心底安堵する。

「ごめん。声かけたんだけど、返事がなかったから、勝手に入っちゃった」

「いや、ちょっと考え事しててな。気付かなくて悪かった」

「ロックは一緒じゃないの?」

「あいつは休ませた。昨日の今日だしな」

 ガドールの返答にクルッカは「そっか」と目を伏せる。赦されたとはいえ、良心の呵責に苛まれているクルッカは酷く苦しそうだ。

「ごめん。あたしのせいで……」

「それは言わない約束だろ。それにお前のおかげでもあるんだぜ?」

 ガドールはそう言うとテーブルに置いていた資料をヒラヒラと振って見せる。これはクルッカがロマノフ=ジョーヴァンに雇われていた際、秘密裏に調べてくれていたもので、審理状を書くと話していたのを聞いていたようで、部屋に戻ると置いてあったのだ。

「ありがとうな、クルッカ」

「――!」

 ガドールの言葉にクルッカの瞳が潤む。普段は揺るぎなく、強い光を宿しているレモン色の瞳はしおらしく、年相応な雰囲気を放っている。

「お礼なんて、言わないでよ。あたしは……!」

 クルッカはキッとガドールを睨むと、おもむろに自身の手を頬に添えた。すると、傷一つなかったそこに痛々しい赤紫の痣が浮かび上がる。ガドールがキューでクルッカを殴った際に出来たものだろう。痣の出現に面食らうガドールを他所にクルッカは言葉を続ける。

「あたしは罪を犯した。この痣はその証で、けじめ。あたしが傷付けてしまったものへの!」

「クルッカ……」

「だから、ガドール、お礼なんて言わないで。あたしの罪をなかった事にしないで」

 いつだったか、馬車の中で話をした事をふと思い出す。誰にも必要とされず、誰からも疎まれたせいで狂ってしまったレイユをクルッカは恨まないと言った。恨んでしまえば楽だというのに、クルッカはそれを受け入れ、彼女と対等であろうとした。それに似た姿をガドールは知っている。

『俺にはこの手があるから』

 復讐に囚われず、自分の為に生きると決めた――そんな尊い選択をした、小さな少年を。

「お前みたいに綺麗なままに生きられたら、最高だったんだろうな。きっと」 

 とうの昔に汚れた手を伸ばし、ガドールはクルッカの頭を撫でる。血塗れだったその手は天使を汚す事なく、心地良さだけをクルッカに与えている。汚れを知っているからこそ、天使は汚れないのだなとガドールは一人納得しつつ、どこか悔しかった。

『それは、ガドールさん自身が気付いていないだけでは?』

 ゾフィの言葉が脳裏を過ぎる。あの時は状況のおかしさに呆気に取られていたが、色恋沙汰に疎いゾフィにも分かる程、態度に出ていたのだろう。まさか、ロックの初恋相手にそんな感情を抱くとは。

――否、だから俺は……。

 この天使に惹かれてしまったのか――。
 

十・新たなる脅威

 コンコンとドアを叩く音がして、ロックはふと我に返る。もう何時間そうしていたのか、机の上に広げられた紙には、医学用語がびっしりと綴られていた。達筆とまでは言わないが、綺麗な字である。

「ロック、俺」

「よぉ、お疲れ」

 ドアを開けると、少し疲れているのか、眉間に皺が寄っている、マティアスがいた。それでも、ロックに「ん」っと頷いて返すあたりは立派だ。

「これ」

 マティアスがズイっと紙袋をロックに突き出すと、その拍子にコツンっと何かの当たる、聞き慣れた音がした。

「ロックの知り合いって人から。渡してくれって」

 マティアスから紙袋を受け取ったロックは、念のために中身を確認する。中身は思った通り、薬の入った瓶だった。前に頼んでいたが手に入らなかった物と新作の物がそれぞれ入っている。

「ありがとな、マティアス」

「……部屋、入ってもいい?」

「え?あ、あぁ」

 てっきり、このまま去って行くものだと思っていたロックを他所に何となく嬉しそうな表情のマティアスは、迷う事なくソファに座った。

「食べるか?」

 生憎、この部屋にキッチンはなく、お茶を出せる用意もしていなかったロックは、テーブルの上にあった紙袋から覗いているオレンジをマティアスに見せた。

「うん。貸して」

 マティアスはロックからオレンジを受け取ると、ロックが果物ナイフを差し出す前に持っていた刃物でオレンジを切り分けた。

――すげぇ…。

 華麗な技術にただただ、舌を巻くロックに対し、マティアスは美味しそうにオレンジを食べている。刃物を使って食べている事以外を除けば、上品なのだが――。

「美味しい」

 ホッとしたようにマティアスが薄く笑う。こうしていると、マティアスが年下なのだなとロックは改めて思う。まだ出会って日は浅いが、ロックにとってマティアスは弟のような存在になりつつあった。

「お前、仕事大変じゃねぇのか?」

「思った事ない。ロックはないの?」

「俺?俺は……時々」

 不意にオレンジの匂いが漂ってくる。何となく、安心出来る甘酸っぱい匂いにいつの間にか、気持ちよくなってくる。一種のアロマセラピーというやつだろうか。

「俺はエイトがいるから平気」

「エイト?」

「ん。code numbersのnumber8。だから、エイト」

 マティアスいわく、そのエイトはマティアスの直属の上司らしい。実戦には立っておらず、情報提供や後始末を担当している、エージェント的ポジションを担っているそうだ。ちなみに、属性は水だ。

「エイトはすごくいい人。クルッカ達みたいに」

 マティアスはそう言うと、無邪気で可愛い笑みを浮かべる。

――すげぇ大切なんだな、エイトってやつの事。

「ロックの大切な人は、ガドールとクルッカ、でしょ?」

「ぶっ…!?」

 マティアスの言葉に飲んでいた水を吹き出しそうになるロック。確かにそうだが、はっきり言われてしまうと、何となく気恥ずかしくなる。

「図星」

「ニヤッとすんな!ニヤッと!」

 そんなロックをからかうようにマティアスがニヤッと笑みを浮かべる。何でも分かっているかのような、紅蓮色の目がロックをじぃっと見据えている。

「……なぁ、マティアス」

「何?」

「どうやったら、俺はクルッカ達を守れる?」

 ロックの問いに、マティアスの目が少したゆたう。

「ロックのやりたいようにやればいい」

 数秒の間の後、マティアスが微笑んで言った。たった一言だが、随分と重い言葉にロックは苦笑した。

――結局は、自分次第って事か。

「大切だと思ったら、絶対に離しちゃ駄目だ。離してしまったら、きっと後悔するから」

 「分かった?」と言わんばかりに、マティアスの視線に、ロックは黙って、コクンと頷いた。

「ありがとな、マティアス」

「ん。俺はロックの味方だから、いつでも頼って」

 何故だろう、年下だというのに、マティアスの存在がロックには大きな救いになっていた。だからだろうか、マティアスの一言一言が心に響いてきて、泣きそうになる。現に今がそうだ。

「そろそろ、部屋に戻る」

 マティアスは刃物を刃物用のホルスターに仕舞うと、立ち上がる。部屋を訪ねて来た時よりも、よくなった顔色にロックはホッと胸を撫で下ろす。

「マティアス?」

 そんな事も束の間、ドアへと伸ばしたマティアスの手がピタリと止まる。何だと様子を伺えば、先程とは打って変わって、冷たい目をしたマティアスが何かを感じ取っていた。

「お、おい!」

 突如、音もなく、マティアスが廊下へと飛び出して行く。不意をつかれたロックは慌てて、その後を追う。向かう先は甲板だ。

「うわぁっ!」

 甲板に向かう途中、艇がグラリと揺れ、ロックは床に尻もちをつく。何かが艇にぶつかったのか。確認する為に窓から外を覗けば、ギロリとこちらを睨む、大きな瞳と視線が絡む。

「ド……ドラゴン!?」

――どうなってんだよ……!!

 訳の分からない状況に混乱しながらも、ロックは甲板へと駆け出した。数分後、甲板にやって来ると既に艇に乗っているメンバーが揃っていた。
 目線の先にいるのは、黒い翼を羽ばたかせ、血のように赤い瞳をギラつかせているドラゴンだ。口からは息を吐く度に炎が吹き出しおり、まるで、蛇の舌のようだ。

「ドラゴンは希少価値の高い、神聖獣です。傷付ける事は、騎士団員の私が許しません」

 一番ドラゴンに近い場所にいるジェイドが後ろにいる一同に冷静に言い放つ。「この生真面目バカ」と呆れた顔でチェイスが呟くも、ジェイドには聞こえていない。

「とりあえず、艇からあいつを引き離さねぇと」

「なら、任せて」

 ガドールの言葉に隣にいたクルッカが返す。片膝をついた状態からスクっと立ち上がったクルッカの手には一枚のカードがあった。不思議な紋章の描かれたカードは、不気味な程に魔力を帯びている。

「ジェイド、チェイス。サポートは任せて」

「分かりました」

「頼むな」

 クルッカは手首のスナップをきかせて、カードを投げた。ドラゴンへ向かっていく途中、一枚のカードからもう一枚のカードが生まれ、それが連鎖していく。

「wild cardか……」

 wild card――、それは、code numbersの枠組みから外されたlast numberと呼ばれる者のみが使える、全ての属性を宿したカード。代々last numberに受け継がれてきた、無限の力を持った無双の兵器。
 100年に1度、神と同等の力を与えられる者。code numbersはその者をlast numberと呼ぶ。

――クルッカが……last number……。

 気が付けば、1枚のカードは今や、十二枚に増えていた。カードはドラゴンを囲むように、円を描いて、宙に浮いている。

「crash!」

 クルッカの凛とした声が辺りに響く。その声が引き金となり、十二枚のカードが一斉に爆発する。劈く音と熱風に流石のドラゴンも驚き、素早く距離を取る。

「行くぜっ!」

 チェイスは甲板を蹴り、宙に跳び上がった。掌から溢れだした光を両手で挟むと、一気に腕を振り上げる。すると、光は一本の線となり、やがて大鎌へと変化した。

「構えて」

 マティアスの声と共にドラゴンの咆哮が辺りに轟、口から大量の炎が吹き出す。

「ジェイド!」

「分かっています」

 黒い影を纏ったコートをジェイドが翻せば、ドラゴンの吐いた炎を自ら取り込んでいく。全てを喰らう影に炎は効かないと言わんばかりだ。

「ロック」

 マティアスの声と同時に、ロックの前に二つの影――クルッカとマティアス、が飛んで来た。ロックに向かって、飛んできた炎を二人が薙ぎ払う。

「ボケっとしてたら、怪我するよ」

「わ……悪い」

 クルッカはロックを背に庇うと、「離れないで」と念を押す。好きな子、しかも女の子に庇われるとは男としてはなかなかに情けない。

「……ごめん」

 俯いていたロックの前から、泣いているみたいに弱々しい声がした。とても小さな声だったが、それは間違いなくクルッカの声だった。

「力の事、黙ってて……ごめん」

「謝ってんじゃねぇよ」

 ロックが口を開こうとした時、いつの間にかやって来ていたガドールが言った。

「その話は後だ。今はアレに集中しとけ」

「クルッカ、来るよ」

「……御意」

 クルッカは向かって来る炎目掛けて、カードを投げた。カードは水を帯びて、炎を相殺する。
 ぎこちなさは残るものの、クルッカが戦闘に集中し始める。その気配を察したのか、ガドールがマティアスの肩越しに笑みを浮かべているのが見えた。
 一方、ドラゴンとの接近戦真っ最中のジェイドとチェイスは、影と光のコンビネーションで炎を相殺している。

「この!」

 チェイスの大鎌が炎を薙ぎ払う。慣れた様子は鮮やかで、無駄に色気がある。

「一気に決めるぞ」

 チェイスはそう言うと、ジェイドの右肩に片足を乗せた。影を纏ったジェイドは、降り注ぐ炎を取り込みつつ、空中で踏ん張る。一気に膝を曲げたチェイスは、バネのような跳躍力で跳び上がった。しなやかな動きに思わず、目を奪われるロック。

「もらった!」

 チェイスの長い柄の大鎌がドラゴンを捕らえた、その時、キィィンと耳を劈く金属音が辺りに響いた。

『こちら、code numbersのnumber8。code numbersに告ぐ』

 ドラゴンの口から、人の声が発せられる。しかも、number8とはさっき話していた、マティアスの上司――エイトだ。どうやら、このドラゴンはエイトが用意した、通信用ホログラムのようだ。

『至急、本部に向かえ。世界より、招集がかけられた』

 エイトの言葉にガドール、ジェイド、チェイスが小さく息を呑んだ。

『なお、number2とnumber3、number7とnumber11は王都の門前にて待て。以上』

 早口に語り終えると、ドラゴンはボンッと爆発した。証拠を残さないためとは言え、少し荒い。

「至急ねぇ……」

 チェイスが大鎌を光に戻すと、意味深に呟いた。

「急ぎましょう、チェイス」

「へいへい、分かってるっつの」

 チェイスはジェイドよりも短いコートを翻し、操舵室へと向かった。程なくして、ゆったりと動いていた艇がスピードを上げて、空を走った。向かう先はもちろん、本部のある王都だ。
___________________

 静かな廊下にガドールの靴音だけが響く。重苦しい空気の漂っている、煌びやかな廊下にはあるはずの色は失せ、あるはずの音は消え去っていた。よくもここまで色をなくせたなっと呆れ半分に思う。故に、ここに好んで来る者はいない。
 ここは王都の本部と呼ばれる建物の某フロアだ。人の気配はなく、ただ無駄に広い廊下がずっと続いている、何もない空間だ。

――何年ぶりだ?ここに来たの。

 ガドールは昔、村長――トラム=フランシスカに連れられて、ここに来た事があった。幼心に植え付けられた傷は深く、ここには来たくないと激しく嫌悪したものだ。招集などなかったら、二度とここには来なかっただろう。しかし、相手が相手である以上、逆らう訳にはいかない。
 この世界――エデンは意志を持っている。意志と言っても、人の持つ意志とは違う。全てにおいて無干渉、つまり傍観者でいないと、人と人とが成り立たない。だから、世界は意思を示さない。

『世界の御使いとなり、汝の命を世界に差し出せ』

 そのためのcode numbersだ。世界の命に従い、時には命を擲ち、人々のために秘密裏に事を終わらせる、世界の御使い――。
 世界の意志に背く事は、すなわち死を意味する。もちろん、この事はcode numbersだけの重要機密だ。表向きは自由にしているように見えるが、裏では信じられない程に束縛されている。

――胸くそ悪りぃんだよ、全く。

 無性にイラついてきたガドールは、唯一ある両開きの扉を荒々しく開けた。
 中は薄暗く、よく見えない。ただ、ぼんやりと円卓のテーブルの周りに人影が見えるくらいだ。ガドールは壁に掛けてある、黒いフード付きのコートを羽織ると、静かに席に着いた。

「これより、世界の意志を示す」

 パッと円卓のテーブルの上だけが明るくなる。席は全部で十二席あり、その内の五席だけが埋まっている。

「第五の力、雷帝」

「ここに」

「第九の力、雪雲」

「ここに」

 進行役の男が次々と名を呼んでいく。おそらく、この男がnumber8だろう。

「そして、第八の力、水獣。我ら、御使い。世界の意志により、ここに集いし者」

 今回の招集でこの場に集まったのは、ガドール、水獣、雪雲、草紅葉、泡沫の五人だ。ここでは、本名を明かさない。その代わりに、肩書きを名として呼ぶのだ。

「今日集まってもらったのは、他でもない。第四の力、氷柱の消滅の事だ」

 number8改め水獣が言った。

「消滅した力は、これで三つ目だ」

 草紅葉が悔しげに言った。皆、会議が始まったと同時に感情を押し殺してはいるが、あまりの内容にボロが出てしまう。草紅葉の言葉をきっかけに、残りのメンバーが喋り出す。

「氷柱程の能力者が……」

「どうして、力が継承されないのだ」

「考えられる事はただ一つ」

 混乱気味の一堂を落ち着かせるために、ガドールが口を開く。

「アダムとイヴが能力を取り返そうと動いている、という事だ」

 元々、code numbersの持っている力はアダムとイヴの力の一部だ。いくら力が半分になったとはいえ、彼らは仮にも神の子だ。力の全部を把握しきれていない能力者を殺す事など、たやすい事である。
そうやって、彼らがもう三つの能力を取り戻したのだと考える方が自然だろう。

「アダムとイヴが……」

「水獣よ、世界は何と言っている?」

 メンバー内で唯一、驚かなかった水獣にガドールが尋ねる。進行役をかっているくらいだ。世界から何かしら告げられているのは明らかだ。

「世界はアダムとイヴを捕まえろ、と」

「殺さないのか?」

「それは隠者達の仕事だ」

 水獣がガドールの方を見て言った。フードの下から覗いている水獣の目が光を受けて、不気味に光る。

――隠者って呼ぶあたり、見下してんな。

 アダムとイヴに加担し、終わりなき人生を狂わされた、闇に生きる者――。多くの人々はその者達が世界に存在している事すら知らない。人々はその者達をこう呼んだ。
 隠者――、またの名をヴァンパイアと――。

「アダムとイヴが関わっている以上、みな気をつけろ、と」

「御意」

 code numbersが一斉に立ち上がる。

「世界の意思は今、受け継がれた」

 五人の復唱と共に、部屋から光が消えた。それと同時に三人分の気配が消える。

――やっと終わったか。

 ガドールはフードを外し、コートを脱ぎ捨てる。

「よぉ、number5」

 不意に声がして、ガドールが振り返る。開きかけた扉の間から漏れた光で声の人物が見える。ガドールと同じくらいの背丈で年上の男は声からして、number8だと分かる。

「俺はnumber8、名はエイトだ。お前は?」

「ガドール=クーリッジだ」

 エイトは気さくそうな雰囲気でガドールに手を差し出す。ガドールはそれに応えて、エイトの手を握った。

「マティアスが世話になってるんだってな」

「マティアスの知り合いなのか?」

 部屋を出たガドールとエイトは廊下を歩きながら、話し始めた。

「一応、あいつの上司」

「って事はお前も咎追いか」

 ガドールの問いにエイトは「お前って言うなよ。一応、年上だぞ?」と返す。はっきりとは答えてはいないが、ガドールは肯定だと受け取る事にした。

「で、俺に何か用か?」

「ん?あぁ。えっと、俺がホログラムで通信したの、覚えてるだろ?あの時、あの艇にいた子。あいつには気を付けろ」

 エイトの口ぶりから、ガドールは頭の中にクルッカを思い浮かべた。

「あいつがlast numberだからか?」

「それもある。けど、問題はそこじゃない」

 もったいぶるような言い方にガドールはイラッとする。「何が言いたい」という代わりに、エイトを思いきり睨みつける。

「問題は彼女の持っている、wild cardの方だ」

 wild cardは世界同様、意思を持っている。自らの主を選定し、認めた相手にしか力を貸さない。しかし、一度認めた主は己の身をていしてでも、守り抜く。まさに無双の兵器だ。
 だが、無双である程、その主の支払う代償は大きい。無限であるが故に、身体を蝕まれる。

「wild cardがあいつを…クルッカを取り込むって、言いてぇのか?」

 自然と声に感情が込もる。エイトにぶつけたものは、明らかに怒りだった。

『あたしは罪を犯した。この痣はその証で、けじめ。あたしが傷付けてしまったものへの!』

 クルッカは誰よりも、何よりも美しい。汚い所を隠そうともせず、自分を一切偽らない。何事にもいつも一生懸命で、自分よりも他人の事ばかり考えている。そんなクルッカが、新たなる脅威になりえるだろうか。

――んなもん、決まってんだろ。

「させねぇよ。つか、あいつが取り込まれるとかマジありえねぇし」

 ガドールはそう断言すると、ファーから水晶を出し、床に叩きつけた。
____________________

 会議を終え、帰って来たジェイドとチェイスは難しい顔をしていた。

「おかえり」

 甲板にいたクルッカは、ジェイドとチェイスに声をかけた。その途端、チェイスの顔がパァッと明るくなる。

「よぉ、クルッカ。どした、こんなとこで」

「風に当たってた」

 クルッカは靡く髪を押さえる。思いの外、風が強く、髪が乱れる。

「風、強いですけど」

「まぁまぁ、そう言いなさんなって」

 ジェイドの一言にクルッカは黙り込む。実はクルッカは、ジェイドを待っていたのだ。どうしても、気になる事があったからだ。

「しょうがない。邪魔者は退散するか」

 空気を察して、チェイスが艇内へと戻って行く。少し悪い事をしたっと思いつつ、クルッカは心の中でチェイスに感謝した。

「相変わらず、嘘が下手ですね」

「前よりは進歩したよ。ちょっとくらいは」

 クルッカはじぃっとジェイドを見据える。一方のジェイドもクルッカを見据えている。傍を見れば、きっと対峙して見えるだろうと頭の片隅で思うクルッカ。だが、そこはあえて置いておく事にした。

「ジェイド、疲れてるんじゃない?」

「いきなり、何ですか」

 不意を突かれ、ジェイドが目をぱちくりさせる。

「さっき、立ったまま寝てたから」

「クルッカ。人は立ったまま寝れる程、器用ではありませんよ」

 生真面目な返答に、流石のクルッカも嫌気がさす。残念な事に、ジェイドは自分がその器用さを持ち合わせている事を知らない。というより、そんな事をしたという記憶自体、ぶっ飛んでいるのだ。

「……とにかく、ジェイドは休んだ方がいいよ」

 ここで口喧嘩になるのを避け、クルッカは言葉を選んだ。納得のいっていないジェイドが訝しげにクルッカを見る。

「会議で何があったかは分からないけど、ストイックすぎるよ」

「私は大丈夫です。自分の体調管理も騎士の仕事ですから」

――いつもそうだ。

 ジェイドは生真面目でストイックで、おまけに朴念仁だ。周りがどれだけ心配しても、自分は大丈夫の一点張りだ。そのせいで、周りにはあまり人が寄り付かない。だから、人一倍に頑張ってしまう。何とも、皮肉な連鎖である。

「クルッカ?聞いているのですか?」

「……ん………」

「はい?」

 クルッカの言葉を聞き取れず、ジェイドが顔を近付けた。その瞬間、クルッカの目が鋭い光を宿す。

「この朴念仁が!」

 クルッカの怒号に面食らったジェイドは、思わず一歩後退る。けれど、クルッカが一歩前へ進んだ事により、二人の距離は変わらない。

「クルッカ……?」

「お前はロボットか?年がら年中、四六時中稼働してるのか?あぁっ!?」

 柄の悪い不良みたいな口調のクルッカに、ジェイドは目をぱちくりさせている。

「つか、自分がやった事くらい覚えとけ!もう何年間やってると思ってんだよ」

「立ったまま、寝るというやつですか?」

 ジェイドが尋ねると、クルッカは大きく頷いた。

「疲れてるから、立ったまま寝れんだろうが。馬鹿」

――頭きた……。

 だいぶ口調が荒くなった頃、クルッカは突如として、口を閉ざした。あまりのアップダウンに、ジェイドは恐る恐るクルッカの顔を覗き込む。

「貴様。何故、我が主を怒らせる?」

――wild card…。

 クルッカの体は今、自身の力――wild cardによって支配された。頭の中でクルッカがwild cardに呼びかける。

――何をする気だ。

「主、心配なく。ただの折檻を…」

「wild cardですか」

 冷静さを取り戻したジェイドは、モスグリーン色の目を光らせる。wild cardが表面に現れた事により、一気に緊張した体は就職病なのか、自然とレイピアの柄を掴んでいる。

「主は貴様の身を案じているだけだ。なのに、貴様は…」

 wild cardが忌々しいと言わんばかりに、ジェイドを睨みつける。殺気立つ二人を客観的に見ているクルッカは、何とも変な気分だ。

「ストイックと言えば、格好がつくとでも思っているのか?このドM」

 超絶機嫌の悪いwild cardは、次々とジェイドに毒を吐いていく。何度か、wild cardと話した事はあったが、こんなにも忠義を尽くしてくれているとは知らなかった。

――ジェイドを刺激するな。

「しかし、主……」

 不服そうに声を上げるwild card。そんなwild cardにクルッカは命じる。

――それはあたしの体だ。返せ。

「……御意、御主人様(イエス・マイロード)」

 クルッカの体に再び感覚が戻る。不思議な違和感も、今はもうない。それを確かめるために、クルッカは手を握って、開いた。普通に駆使出来る事をしっかりと確認して、ようやくホッとするクルッカ。だが、すぐにクルッカの体に緊張が走る。

「え……」

 クルッカの目の前を銀色に揺らめく、細身の刃が通り過ぎる。先程まで、クルッカの顔があった所を刃が迷う事なく、斬りつけていた。

「ジェイド……」

 ジェイドの行動で全てを理解するクルッカ。頭は驚く程に冴えている。

――世界に疎まれたか。

 クルッカの持っている力は神と同等の力だ。つまり、世界の次に強い力を持っているという事になる。そんな存在を世界が許す訳がない。
 クルッカには分かっていた。いつか、世界の御使いであるcode numbersに存在を抹消されるという事を。

――それでも……。

 クルッカの周りに十二枚のカードがゆっくりと回る。握りかけていた手を拳に変え、素早く構える。

「来いよ、number2」

 迷えば、死ぬ――。
 直感的にそう感じたクルッカは、こみ上げてくる感情を押し殺す。喉から出ていきそうな言葉をぐっと呑み込む。

――それでも、生きたい。

 生きるために、目指す場所に向かうためにクルッカは戦うと決意した。たとえ、身内が敵になったとしても、自分の意思を貫くと。自分に嘘はつかないと。
 クルッカとジェイドは得物を携え、決意に報いるために床を蹴った。

十一・決意に報いるために

「君、一人なの?」

 不意に声をかけられ、顔を上げると、そこにはオレンジ色の長髪の少年が立っていた。利発そうな顔に綺麗な服装の彼は、ここらで一番有名な騎士の名家の生まれだった。

「もう遅いから、送って行くよ」

「いい」

 道端に座り込んでいた少女は、少年の差し出した手を払い除けた。幼心に少女は分かっていた。この少年と自分は違うのだと。

「でも、女の子が一人でいるのは危ないよ?」

「あたしの居場所はここだ。貴方には関係ない」

 少女には、帰る家も待ってくれている家族もいなかった。生まれた時からずっと、少女は一人だった。

「あんたこそ、帰れよ。ジェイド=ミラー」

「何で僕の名前を……」

 少年――ジェイドは驚いて、目を付ける丸くする。あどけなさの残る顔は、実年齢よりも幼く見えた。

「そんな事、どうだっていいだろう」

「……とにかく、ここにいたら駄目だ」

 ジェイドはそう言うと、少女の手を掴んだ。綺麗なジェイドの手が薄汚れた少女の手と重なる。

「離して」

「嫌だ。悪いけど、僕の家まで来てもらうよ」

 少女がいくら嫌がっても、ジェイドはしっかりと手を掴んでいて、離す気配はない。何をやっても不毛だと思った少女はとうとう観念した。すると、ジェイドは勝ち誇ったような顔で少女に尋ねた。

「君の名前は?」

 クルッカ=クレセント、六歳の事だった。

________________

 カラカラッと軽快な音を立てながら、円盤の上を球が駆けていく。賑やかなカジノで一時の静寂。小さな球一つで誰かは幸福になり、誰かは不幸になる。たった一瞬、瞬きをしている間に今までの人生がひっくり返り、狂わされる。そう思うと、途端に愉快だと笑みが零れる。
 ルーレットの横には、うず高く積まれたチップの山々が並んでおり、それを囲む人々は回る球相手に一喜一憂している。

――ギャンブルはこうでなくちゃな。

「俺も賭けさせてくれよ」

 テーブルを囲む人々の後ろから、ガドールが声をかけた瞬間、その場にいた者はぎょっとした目で一斉にガドールに視線を投げる。

「ガドールだ……」

「出禁じゃなかったのかよ!」

 ガヤガヤと騒がしくなる周りを無視し、ガドールは席についた。さて、どう掻き乱してやろう。不敵に笑うガドールに対し、周りの人々からは血の気が引いていくのだった。

「……帰るか」

 数時間後、散々稼いだチップを換金したガドールは、一仕事終えたような達成感と共にカジノを後にする。
王都は夕方だというのに、昼間のように騒がしい。沈みかけた夕陽は誰の眼中にもないらしい。何となく、感傷的になったガドールだけが夕陽を見つめていた。

「久しいな、number5」

 聞き覚えのある声に、ガドールの体に緊張が走る。そっと盗み見るように後ろに目をやると、そこにはいつかのあの黒いロングコートの男がいた。

――何でこいつが……。

「否、ガドール=クーリッジと呼ぶべきか」

「……お前、何者だ」

 ガドールが夕陽を見たまま、男に問う。

「さぁな。己で考えろ」

 男はガドールの問いに曖昧模糊な返答をした。無論、ちゃんとした返答をしてくれるとは、これっぽちも思っていなかったのだが。

「我が名はエヴァンだ。覚えておけ」

「エヴァン……」

 ガドールが小さな声で繰り返す。正直、名を明かすとは思っていなかったので、ガドールは内心驚いた。

「お前に忠告しておく。今すぐに自分のアジトに戻れ」

「忠告?敵だろ、お前は」

――んな奴の言う事なんか聞けるかっての。

 ガドールの一言に男――エヴァンは苦笑にも似た笑みを浮かべた。少し寂しげな表情に何故か、複雑な気持ちになる。最近、こういうものに弱くなったなと切実に思う。

「それも己で考えろ。しかし、今は急げ。手遅れになるぞ」

「手遅れって何だよ。……って!」

 ガドールがエヴァンの方に振り返った瞬間、エヴァンが水晶を叩き割った。

「おい、言い逃げかよ!」

「クルッカを守りたいなら、急げ」

 意味深な言葉を残し、エヴァンは去って行った。

――何であいつがクルッカの事を……?

「ッチ!訳分かんねぇ」

 エヴァンの言葉を疑問に思いつつも、ガドールは騎空艇に向かって走り出した。
___________________

 甲板の方が騒がしい。図書室に寄って、部屋に入りかけたロックが不意に顔を上げる。よく聞けば、金属音と人の声がした。明らかに戦闘中だった。

「あの馬鹿っ……!」

 その音を聞きつけて、ロックの横をチェイスが走って行く。あまりの慌てぶりにロックは本を床に置くと、甲板に向かった。

「はぁ!」

 掛け声と火花の散る甲板には、クルッカとジェイドの姿があった。それぞれの得物を手に本気で戦っている二人の目は殺気で満ちている。まるで、親の敵を見ているかのような形相にロックはゾッとする。

「ロック、お前は手ぇ出すなよ」

「手ぇ出すなって、何だよ……。何で二人が戦ってるんだよ!?」

 状況の分からないロックは訳知り顔のチェイスに詰め寄る。が、チェイスは苦虫を噛み潰したような顔をするばかりで、話す気は毛頭ないらしい。

「朴念仁がはやまりやがって……」

「説明しろよ、チェイス!」

「ロック、落ち着いて」

 チェイスの胸ぐらを掴みかけた手をマティアスが制する。騒ぎを聞きつけたらしいマティアスは、いつも通り嫌に冷静で、その紅蓮の瞳は相変わらず何を考えているのか読めない。

「止めよう、二人を」

「マティアス!」

 チェイスがキッとマティアスを睨み付ける。けれど、マティアスは屈する事なく、真っ直ぐにロックを見据える。

「ロックの声ならクルッカに届くから」

「でも、俺には……」

 あの二人の間に割って入る勇気も度胸もない、とは言えなかった。否、マティアスがそれを許しはしなかった。何を期待しているのか、マティアスはロックに希望を見出している様に見える。

――お前はガドールとは違うのに……。

 誰かの希望になどなれない。いつだって、ロックを見る目はそれとは対象的な暗いものばかりだった。そんなロックがあの殺気をどうにか出来るというのか。過大評価にも程がある。

「何で、お前は俺を……」

「俺にもよく分からないけど、そんな気がするんだ。ロックなら大丈夫って」

「やめろ、怪我するだけだぞ」

「なら、説明してよ。じゃないと、納得出来ない」

 マティアスの強い口調にチェイスの肩が小さく揺れる。その肩越しには尚も戦い続けている二人の姿が見え、ロックはぐっと拳を握りしめる。

「……悪い、チェイス」

「おい、ロック……!?」

 一瞬出来た隙をつき、ロックはチェイスを押し退け、甲板へと駆け出す。後ろからは待てという声と共にチェイスの手が伸びてくるも、その手はマティアスに払われ、ロックには届かない。

「やめろよ、二人とも!!」

 甲板にやって来たロックとマティアスに気付く事もなく、戦いを続けている二人にロックは叫ぶ。が、声は武器のぶつかり合う音で掻き消され、二人には聴こえない。

「やっぱ、ダメか。仕方ない、なら……」

 万が一にもと持って来ていた拳銃を手にすると、ロックは中から銃弾を取り出し、銃口を空に向ける。パァンと乾いた空砲が甲板に響き、それは二人の耳にも届く。

「ロック……」

 クルッカの目が真っ直ぐにロックを捕らえる。先程ジェイドに向けていた殺気は少しばかり薄れたように見えるが、未だその戦闘心が消える様子はない。

「邪魔しないで。あたしは……!」

 クルッカの声に周りを漂っていたカードが一斉にロックへと飛んでくる。

「ロック、避けて」

 背後から聞こえた声にロックが身を翻すと、数本のナイフが勢いよくカードを貫いた。あと少しでも動きが遅れていたら、貫かれていたのは自分だったかも知れないと思うとロックの背筋に悪寒が走った。

「ロックには関係ない」

 甲板に落ちたカードがクルッカの意志に応えるかのように再び、彼女の周りに集まり始める。どうすれば、クルッカを止められるのか。考えながらもロックは先程取り出した銃弾を素早く拳銃へと戻す。

「関係あるよ。言っただろ、俺がお前を守るって」

「うるさい!」

 クルッカの声と共に再び、カードがロックを襲う。が、何度も同じ手を食らう程、馬鹿ではない。ロックは拳銃を構えると、冷静にカードを撃ち落としていく。

「ロック!」

「なっ……!?」

 マティアスに手を引かれ、よろけた瞬間、ロックの顔があった場所にカードとは違う、銀色の得物が斬りかかってきた。ジェイドのレイピアだ。

「あっぶな……」

「他人事に首を突っ込むものではないですよ」

 冷たい視線でロックを見下ろすジェイド。瞳の奥に闇を感じさせるモスグリーンはつい最近、対峙したロマノフ=ジョーヴァンを彷彿とさせ、ロックの体は強ばる。

「喧嘩は止めるのが当たり前。違う?」

 その場にしゃがみ込んだロックを庇うように前に立つマティアスはいつも通り、ジェイドに問いかける。しかし、ジェイドはゆるゆると首を振り、レイピアを構える。

「これは喧嘩ではありません。故に止められる筋合いもない!」

「くっ……!」

 ジェイドの鋭い一撃にナイフで応戦するマティアス。普段のマティアスならスピードでジェイドに負ける事はないが、今はロックを背に戦っている為、ジェイドの一方的な攻撃に耐える他なかった。

――俺はまた、誰かに守ってもらうのか。

 クルッカに守ってやると言っておきながら、結果このザマだ。いつまでも過去に縛られて、恐怖で動けない、そんな自分からは卒業しようと決めたばかりなのに――。

「ぐはっ……!!」

「マティアス!」

 ジェイドの攻撃を受けたマティアスがよろよろと後退りをする。見れば、手からは血が出ており、床に小さな水溜まりを作り始めていた。

「ジェイド、やめてくれよ……。こんなの、おかしいだろ。俺達、仲間じゃないのかよ!」

「邪魔をするなら、仲間だろうと容赦しません」

「……マティアスに何かしてみろ。絶対に許さないからな」

「元より許される気などありません。それに非力な貴方が吠える以外に何が出来ると言うのです?」

 不敵に笑うジェイドにロックは震えが止まらない。騎士の家系が嫌いだと、心底その存在を呪いたくなった。いつだって、騎士はロックから大事なものを奪っていき、非力なロックを嗤うのだから――。

「ジェイド、もうやめろ。これ以上は俺が許さない」

 ロックへの罵倒についに痺れを切らしたチェイスが割って入る。しかし、ジェイドが止まる事はなく、レイピアを構えたまま、チェイスと対峙する。

「マティアス、ロックを連れて中に戻れ」

「今更、何?」

 止めるチャンスならいくらでもあったと言いたげに視線を投げるマティアス。対して、チェイスはこちらを見ず、ただ一言ごめんなと呟くのだった。

「……分かった。でも、ちゃんと後で説明して」

「あぁ、約束する」

 チェイスの返答にマティアスは納得したのか、ナイフを収めるとロックの手を引き、立ち上がらせる。 

「待ちなさい」

 中に戻ろうとした二人をジェイドの影が邪魔をする。意図の読めない行動にロックとマティアスが目をやれば、ジェイドがこちらに殺気を向けていた。

「貴方は自分の非力さを身を持って知るべきです」

 次の瞬間、ロックの右肩に焼けるような痛みが走った。咄嗟に右肩に手を置けば、ぬるりとした嫌な感触と独特な鉄の匂いが鼻を掠める。

「え……?」

 手に付いた血と深々と刺さったレイピアを見て、ロックはようやく自分がジェイドに刺されたのだと理解した。

「ロック!!」

 マティアスが駆け寄って来ると、見計らったようにレイピアが抜かれ、傷口から血が流れ出す。倒れそうになるロックを受け止めたマティアスは、止血をしようと傷口を手で力いっぱい抑え始める。

「あ……あぁっ!!」

 遠くでクルッカの小さな悲鳴が聞こえる。幻聴か、兄さんと口走っているように聞こえるが、クルッカに兄はいただろうかとロックはぼんやりと考えていた。

「ジェイド、お前……!!」

 チェイスがジェイドに掴みかかった、その時、見慣れた茜色がジェイドを思い切り殴り付けた。余程勢いがあったのか、数回跳ねた後、ジェイドは床に倒れ込んだ。

「ガ、ドール……?」

 霞んだ視界の中、何とか茜色の長髪を捕らえたロックが名前を呼ぶ。すると、ガドールはすぐ様傍にやって来て、ロックの手をぎゅっと強く握りしめた。

「ごめん、ガドール……。俺、また……何も、出来な……」

「しっかりしろ、ロック」

「強く、なりたい……お、れ……。もう、誰にも……あんな目で、見られ…」

「……分かったから、喋るな」

 ガドールの手が小刻みに震えている気がした。否、これは自分の震えだろうか。出血のせいか、身体が妙に寒い。感覚はとうに麻痺しているはずなのにおかしな話だ。

「用があるのはクルッカだけです。後のみなさんはどうぞ、お引き取りください」

「……後で覚えてろ」

 ガドールはジェイドを鋭い目付きで一瞥すると、ファーの中から転移用の水晶を取り出した。

「待てよ……」

 どこへ連れて行かれるかは明白だ。だが、まだやらなければならない事がある。薄れゆく意識を何とか繋ぎ止め、ロックはクルッカを見る。

「待てってば……。また……一人で…お前は……」

――戦うって言うのかよ。

 クルッカはこちらを見ない。固く握り締められた拳は何の迷いもなく、構えられたまま。勇ましすぎる、その背中を見ている事しか出来ない自分がとても情けない。

「ふざけんなよ……」

 ガドールが水晶を持っている腕を振り上げる。ゆっくりとスローモーションのように動きの一つ一つがよく見える。それなのに、言葉は喉から出て行ってはくれず、口だけがパクパクと虚しく開閉する。

――守ってやるなんて、傲慢だった。

「待てっつってんだろ!!!」

 水晶の割れる音が空に響き、クルッカとジェイドを残して、ロック達は光にのまれた。

__________________

 それは、今から十二年前。王都の某所の事。
 王都の大通りの道端に少女は暮らしていた。親のいない少女は、六歳ながらも必死に生きていた。周りから何と呼ばれようとも、どんなに惨めだろうと、少女の心は折れなかった。
 少女には、夢があった。それは、クリスタルを集めて花園へ行く事だった。そこに行けば、自分の知らない真実を知る事が出来る。少女はそう信じていた。
 凛とした少女は何者にも染まらない、純白の心を持っていた。その輝きは薄汚れてもなお、汚れる事はなかった。彼女の決心は、意思は、どんな壁さえも砕いた。

「楽園に行けば、あたしが誰だか分かるはずだ」

 少女は自分が分からなかった。知っているのは、名前と年くらいで、その他は全くと言っていい程に知らなかった。
 少女――クルッカ=クレセントには、記憶がないのだ。
 生まれてから、ここにいるまでの六年間の記憶がごっそりと消えてしまっているのだ。

「……寒い…」

 身内も、心を開ける相手もいないクルッカは孤独だった。差し伸べられる手はなく、いつも哀れんだ目でクルッカを見る人々。
 温かな手のぬくもりも、迎えてくれる家族のありがたみも、クルッカには羨ましかった。
 思い切り、甘えてみたかった。クルッカの願いは、とてもささやかで、当たり前にあるべきものだった。

「星、綺麗だな……」

 クルッカは星を見て、思った。あんな風に輝けたら、きっと幸せなんだろう、と。けれど、憧れてみて、それは無理だと痛感した。

「あたしは星じゃ、ないもの……」

 それでも、クルッカは星になりたかった。自分なりに輝きたいと、幸せになりたいと。そんな自分を見て、誰かが幸せになれるように。誰に邪魔されても、クルッカは意志を貫こうと決意した。
 不毛だろうと言われても、人に笑われようとも、全てをありのままに受け入れたい。それがクルッカが自分自身を認める事になるからだ。
 偽りのない、真っ白な心のまま、クルッカは大人になった。彼女のなりたかった、理想の大人に。

――――――――――――――――――――――

 静まり返った甲板には、睨み合うクルッカとジェイド、そして二人の間に陣取るチェイスの三人だけがいた。かつての幼馴染の情などないとばかりの殺伐とした雰囲気にクルッカはぐっと拳を握りしめる。
 
――いつから、こうなったんだろう。

 純粋に綺麗な大人を目指していた。なのに、どうして、こんなにも上手く生きれないのだろう。傷付けないと前に進めないのだろう。

『お前みたいに、綺麗なままに生きれたら、最高なんだろうな。きっと』

 世界に抗ってでも、生きたいと願う事が綺麗な訳などない。

――単なるエゴだって、分かってる。

 目の前にいるジェイドが世界の命により、クルッカを殺そうとしている。それが何よりの証拠だ。世界はクルッカを抹消しようとしている。

「はぁっ!」

 殺伐とした雰囲気を切り裂くように、先手を打ったクルッカのカードがジェイドを襲う。が、カードはチェイスの大鎌により、あっさりと防がれてしまう。

「邪魔しないで!」

 先にチェイスをどうにかしなければと、クルッカは床を蹴り、チェイスと距離を詰める。しかし、チェイスは素早くクルッカから離れると、武器の大鎌でクルッカの足元をすくう。

「ぐぅっ!」

 足を取られたクルッカは何とか受け身を取るものの、上からチェイスに抑え付けられ、身動きを封じられてしまう。

「お前も大人しくしろ」

「……分かりました」

 降参とレイピアを床に放るジェイドの首元には、チェイスの大鎌が構えられていた。変幻自在な光の大鎌に今更ながらに敵には回したくないとクルッカは思った。

――ジェイド……。

『君、一人なの?』

 込み上げて来る感情が目の奥をじんとさせる。殴りつけた拳も、蹴り飛ばした足にも何か分からない、変なモノがへばりついているみたいで重たい。

――揺らぐな。もう、決めたじゃないか。

 クルッカがキッとジェイドを睨む。全ての感情を無理矢理押し込める。

『待てっつってんだろっ!!!』

 頭の中でロックの言葉が甦る。顔はあえて見なかったが、絶対に怒っていた。

『言っただろ!俺が……お前を助けるって!』

 ロックの言葉一つ一つが、クルッカの心の中で響く。汚れを知らない、綺麗な言葉は固く閉ざされた決意さえも揺らがせてしまう。感情が一気に溢れて来る。

『お前みたいに綺麗なままに生きられたら、最高だったんだろうな。きっと』

 ガドールの声と共に撫でられた頭が熱を帯びる。小さな頃に知らなかった、人のぬくもりが今はここにある。あの頃に憧れていたモノが手に届く場所にある。
 温かい手のぬくもりも、迎えてくれる家族もそのありがたみも、クルッカは知っている。

――あたしは……。

 世界がこんなにも温かい事をクルッカは知らなかった。この世界を見ようと、旅する気になったのは、クルッカに世界の一部を見せ、誘ってくれたジェイドがいたからだ。

――ジェイドがいたから、あたしは……。

 ボロボロと溢れ出した涙が止まらない。不毛すぎる戦いに虚しさばかりが募っていた心は、もう限界だった。

「なっ……!」

「クルッカ……」

 クルッカの変わりようにジェイドは小さく声を上げ、チェイスは慈しむように目を細める。ジェイドだって、分かっている。世界の御使いである前に、彼も一人の人間なのだ。感情を完全に消す事など出来はしない。

「あたしは……戦いたくない……」

 パラパラとクルッカの周りに浮いていたカードが力なく、甲板に落ちる。wild cardはクルッカの意志によって、力を得る。戦う気がない事は明確だった。

「最初は戦おうと思った。世界に疎まれても、生きていくって……、そう決めたから」

 涙を流しながら、クルッカは言葉を紡いでいく。

「けど……違うって気付いたんだ。だって、ジェイドのおかげであたしは生きてるから」

「私のおかげ?」

「ジェイドがあたしを連れて行ってくれた、あの日から……ずっと……」

 クルッカは顔を上げると、涙まみれの顔に精一杯の笑みを浮かべて見せた。

「ずっと……感謝してる。ジェイドがいなかったら、きっと今のあたしはいなかった」

「っ……!」

 クルッカが再び口を開こうとした時、ジェイドがチェイスを押し退け、気が付けば、ジェイドの腕の中にすっぽりと収まっていた。状況が把握出来ていないクルッカは、目をパチクリさせる。

「ジェ…ジェイド?」

「全く……。何を勘違いしているのですか?」

 ジェイドの声は心なしか、呆れているように聞こえる。「勘違い?」とクルッカが首を傾げ、ジェイドを見る。

「貴方が命をかける必要など、どこにもありません」

「けど、殺そうとした……」

「私に貴方が殺せる訳ないでしょう」

 ジェイドの一言に心底驚くクルッカ。この一言により、さっきまでの戦いは完全に不毛となった。

「よく、分からないんだけど……」

「それは後で詳しく説明します」

 ジェイドはそう言うと、クルッカの肩に顔を埋めた。ひどく疲れた様子のジェイドは深いため息をつき、それを見ていたチェイスは更に疲れた表情をしている。

「おい、愚弟。お前、後でガドールに半殺しにされるの、分かってる?」

 いつもの飄々とした口調でチェイスがジェイドに尋ねると、ジェイドの身体がピクリと分かりやすく跳ねる。どうやら、頭から抜けていたらしい。

「私は騎士として、何という事を……」

 ガドールに殴られた頬を抑え、冷や汗を流し始めるジェイド。余程必死だったのか、そういえばジェイドはこうと決めたら頑固一徹で周りが見えなくなるのだったとふと思い出す。

「騎士を辞めた俺が言うのも、なんだが、あれは最低だったぞ」

「はい」

「でも、やっちまったもんは取り返せねぇし、死ぬ気で謝るしかねぇよ」

「もちろんです」

 ジェイドはロックの血で濡れたレイピアの剣先を見やると、今更込み上げてきた罪悪感に顔を歪ませる。

「俺も謝るからさ。二人で許してもらおう」

「チェイス……」

 チェイスの手が慰めるようにジェイドの頭を撫でる。

「あたしも謝る。だから、三人だよ」

「そうだな。そんじゃ、怒られに行きますか」

 二人はチェイスに頷くと、ロック達の転移先である病院を目指す。犯してしまった罪を罰せられる為だというのに、三人の顔は晴れ晴れとしており、それはいつかの幼馴染の三人の顔そのものだった。

十二・ High risk High return

 王都の病院の一室、今回の事を弁解しようと訪れたジェイドは、額に青筋を立てているガドールと鋭い目付きのマティアスと対峙していた。

「私達四人は世界からlast numberを守れと命じられました。その際、もしクルッカが力に飲まれるようなら、wild cardの力を封じるようにと……」

 あくまでクルッカを殺す気はなく、クルッカを助けようと必死だった事をつらつらと並べ立てるジェイド。幼馴染故の盲目的な行動にベッドの上のロックは、無表情のまま、口を真一文字に結んでいる。

「……よし、お前、肩貸せや」

 一方、怒りの収まらないガドールは言うが早いか、バチバチと火花が散るキューを構えると、ジェイドの方に向ける。これには、流石のチェイスも慌てて、二人の間に割って入る。

「ガドール、気持ちは分かるが、ここ病院だし、それで貫かれたら、ジェイド死んじゃうから!」

「こっちだって、こいつが死にかけたんだぞ?むしろ、釣りがくるくらいやらねぇと気がすまねぇ」

「目がガチだぁ……、って言ってる場合じゃねぇな。本当、申し訳ない!!」

 ガドールを何とか制しながら、チェイスが勢いよく頭を下げると、後ろにいたジェイドもそれに従い、頭を下げる。

「本当に申し訳ありませんでした」

 並べられた二つの頭をロックは黙って見つめている。その顔からは表情が読み取れず、怒っているのか、呆れているのかさえ分からない。

「あたしも、ごめんなさい」

 普段のロックらしからぬ表情に改めて、犯してしまった罪の重さを知る。罪悪感からクルッカも頭を下げるも、ロックからは何の反応もない。

「顔、上げてくれよ。俺は……大丈夫だから」

 どれくらいそうしていたか。一呼吸置いて発せられた言葉にクルッカ達が恐る恐る顔を上げると、ロックはガドールに武器を収めるように促した。

「……次はねぇからな」

「ありがとう、ございます……」

「阿呆、勘違いすんな。許した訳じゃねぇ」

 ガドールはそう返すと、本当にいいのかと言わんばかりにロックに視線を投げる。すると、ロックはガドールにいつものように柔らかい笑みを浮かべてみせる。

「笑ってんじゃねぇよ」

 ぶっきらぼうに呟かれた言葉とは裏腹にロックの頭を撫でる手は優しく、重い空気が一転、和やかになる。

「よぉ〜し、ジェイド。下がってしまった好感度上げの為にお兄さんが任務を授けよう!」

「一言余計ですよ。全く、貴方という人は……」

「はい、つべこべ言わない!」

 すっかり調子を取り戻したチェイスは、コートの内ポケットから見覚えのある封筒を取り出した。この騒ぎで忘れかけていた審理状の入った封筒だ。

「ロック達の大事なもんだ。頼んだぞ?」

「……分かりました」

 ジェイドはチェイスから封筒を受け取ると、凛とした表情でこちらを一瞥する。任せてくれと言いたげな顔にロックとガドールは一瞬、互いに視線を投げた後、ジェイドに向かって頷いてみせる。

「ロック、本当に大丈夫?」

 ジェイドが病室を後にしてすぐ、傍にいたマティアスが声をかける。ロマノフ=ジョーヴァンの一件から、仲良くなった二人は傍から見れば兄弟のようだ。

「みんな、心配しすぎ。傷跡だって、ちゃんと消えるって言ってたし、大した事ないよ」

「どの口が言ってんだよ。パニクって死にかけたくせに」

 グニッとガドールの両手がロックの頬を摘む。柔らかい頬はガドールのされるがままで、本人は愉快げに笑っているが、ロックは止めろと足をバタバタさせている。

――ロックはガドールの特効薬だ。

「失礼します」

 そんな空気を突如切り裂いたのは、聞き覚えのない声だった。続いて、病室に一人の小柄な男が入って来る。男はジェイドとチェイスと同じコートを身に付け、騎士団の証であるバッジを光らせている。

――何で騎士団員が……。

 クルッカは無意識の内にチェイスに目をやると、チェイスの顔からは表情が消えていた。

「チェイス=ミラー中尉でありますか?」

 小柄な男がチェイスに尋ねた瞬間、ライトグリーンの瞳がギロリと男を睨み付ける。今までに見た事のない恐ろしい殺気にロックとマティアスは息を呑み、男は一歩後退る。

「わ……私は、王立騎士団王都支部所属のルイス=カルニタスと申します。階級は少尉であります!」

 男――ルイス=カルニタスが名を告げる。

「元帥の命により、チェイス=ミラー中尉をお連れするために参りました」

 元帥という単語にその場にいたメンバーがピクリと反応する。元帥直々の命――。しかし、チェイスを迎えに来たのは、元帥の側近ではなく、一介の少尉だ。それが意味する事はただ一つ。

――事を公にしたくないって事か…。

 直感的にそう感じたクルッカ、ガドール、マティアスの視線がチェイスに注がれる。元騎士団員のチェイスなら、クルッカ達よりも事の重大さを分かっているはずだ。

「ッチ……」

 ルイスがビクリと肩を揺らす。ピリピリとした空気はルイスを萎縮させると同時に恐怖を植え付け、目に涙を浮かべている。傍から見れば、蛇に睨まれた蛙のようだ。内心、とてもビクビクしているのだろう。ルイスの心中を察し、クルッカは少し気の毒に思う。

「んな、ビビんなよ。別に取って食ったりしねぇよ。……連れてけよ」

 チェイスは荒々しく椅子から立ち上がると、ルイスは背筋を伸ばし、敬礼をする。

「と言う訳だ。ちょっと行って来る」

 チェイスの声は先程よりも柔らかかった。けれど、無理して作っている笑顔がクルッカの胸にズキリと鈍い痛みを与える。

――チェイス……。

 病室を出て行く、その背中にジェイドのそれと同じものをクルッカは感じていた。
__________________

 王立騎士団王都本部――。
 そこには、証であるコートを翻し、細身の剣を携えた騎士団員がぞろぞろと集まっている。特に今日はイベントでもあるのか、色々な支部から騎士がやって来ている。

――チェイスはどこ?

 王都本部に忍び込んだクルッカは気配を消し、物陰に隠れながらも確実にチェイスに近付いていく。見つかれば、捕まってしまうだろうか。そんな事を頭の隅で思いつつも、クルッカは足を止めなかった。
 王都本部へ潜入して、数分後。ようやく、チェイスの姿を見つけたクルッカは、後を追って部屋の中に入ろうとした。

――指令室…。

 不思議と緊張してきたクルッカは、拳を握り締める。独特な雰囲気に息苦しく感じる。これが騎士団元帥のオーラなのか。

「おい」

 不意に声をかけられ、クルッカはビクリと肩を揺らす。

「……ガドールっ!?」

 恐る恐る振り返ると、そこにはガドールがいた。先程よりもだいぶ落ち着いた様子のガドールは、口元に指を当てる。

「ロックからお前を頼むって言われたんだよ。ったく、人の心配してる場合じゃねぇくせに」

 「お前も勝手に何やってんだよ」。ガドールの指がクルッカの額を軽く小突く。ロックにツッコむ時とは違い、加減されたそれにクルッカは何でかホッとしてしまう。

――よかった、いつものガドールだ。

「さっさと片付けて、ロックのとこに戻んぞ」

「御意」

 クルッカは短く返事をすると、ジャケットの内ポケットから虫サイズの超小型の盗聴器を取り出す。
それをチェイスの入っていった、ドアの隙間から投げ入れれば、準備は万全だ。

「チェイス中尉、ここへ戻って来る気はないか?」

 鮮明すぎる第一声にクルッカとガドールは息を呑む。

「残念ながら、元帥。私には騎士でいる資格など、ないのです」

 普段の陽気さなど、すっかりなりを潜めている、チェイスの悲しげな声が二人の耳に届く。

「あの事をまだ引きずっているのか」

「……あの事を忘れる訳にはいきません。これが、私なりのけじめです」

 あの事――。恐らく、それがチェイスが騎士団を辞めたきっかけなのだろう。クルッカ自身、触れてはいけない話題である事は分かっていたので、詳しくは知らないのだが。

「だから、そのコートをまだ着ている、と……」

「これは……単なるエゴです」

「そうやって、七年間も生き続けているのか」

 チェイスが騎士団を辞めたのは、十六歳の時だ。つまり、辞めてからずっと、その事を引きずっていたという事になる。

――ずっと傍にいたのに、気付かなかった。

 気付けば、クルッカはガドールの手を握っていた。手から伝わる体温で何とか落ち着こうと思ったのだろうか。そんなクルッカを気遣ってか、ガドールはその手を握り返してきた。

「ジェイド大佐もお前が戻って来る事を望んでいるはずだ」

 「大佐はお前が目標だからな」。呟いた後、フーっと元帥が息を吐いた。おそらく、煙草か葉巻でも吸っているのだろう。

「私は、弟に……大佐に憧れられるような者ではありません」

 「それに…」。ひと呼吸置いて、チェイスは口を開く。意を決してと言わんばかりに。

「私はもう、ミラー家の人間ではありません。ここに戻る理由など、何もないのです」

――ミラー家の人間じゃない、って……。

 クルッカの全神経が流れて来る音に注がれる。一言も聞き逃すまいと、必死で耳を傾ける。
 固く閉ざされた、チェイスの口が心の奥に仕舞い込んでいた、自身の過去について、ゆっくりと語り出した。
_________________

 騎士の名家・ミラー家には鉄の掟があった。
 掟はミラー家を縛り付け、破る事を決して許しはしなかった。掟が世界の理だと信じていた、ミラー家の人々は騎士道に反して、時にはその手を自ら汚す事も厭わなかった。
 そんなミラー家には、当時子供がいなかった。ミラー家に嫁いできた女との間に子供が出来なかったのだ。男は、鉄の掟を守るために、女を捨てた。男にとって、女とは子供を生む道具にしかすぎなかったからだ。
 男は代わりに嫁をテキトーに見繕い、女に子供を生ませようとした。
 けれど、子供は一向に生まれる気配がなかった。
 困り果てた男は掟を守るために、生まれたばかりの赤ん坊を奪う事にした。親には大量の金を持たせ、決して口外しないように脅迫紛いの圧力をかけて。
 その赤ん坊に男はチェイスと名付けた。
 これで、掟は守られた――。男はそう思った。
 しかし、ここで思わぬ誤算が生じた。代わりに見繕った女がいつの間にか、子供を生んでいたのだ。男は、女の生んだ赤ん坊にジェイドと名付けた。
 二人の子供は実の兄弟のように仲がよく、髪や目の色もそっくりだった為、誰にも疑われる事はなかった。

――掟その一、騎士の輩出を止める事なかれ。

 汚れた名家は名誉を守るためには、犠牲を厭わない。

――掟その二、何事においても優秀であれ。

 目の前に広がっている屍を踏み、鞭打つ事が正しいと信じている。

――掟その三、いらないモノは切り捨てろ。

 歩いて来た道の端で燃えている焔にも、涼しげなモノでも見るかのような目で愛でる。狂いきった血は、欲望のままに動く。血塗られた鎖はちぎれる事なく、体に絡みつき、蝕んでいく。
 これが、呪われた名家の鉄の掟である。
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「おい、大丈夫か?」

 ガドールに肩を掴まれ、ハッと我に返るクルッカ。見ると、そこは王立騎士団王都本部から少し離れた場所だった。

「ごめん。ちょっと混乱してて……」

 額から流れ出る汗を手の甲で拭うクルッカ。走って来たせいか、顔中汗まみれだ。

――チェイスとジェイドが義兄弟だったなんて……。

 いつも陽気で笑顔の似合うチェイス。長い間、一緒にいたにも関わらず、何で気付けなかったのか。クルッカは無力感から、拳を握りしめる。

「話から察するにジェイドはこの事を知らねぇんだよな?」

「……知ってたら、今頃騎士なんてやってないよ」

 誰よりも騎士道を重んじているジェイドがこの事を知れば、どうなるか。想像するだけでも、心がズキズキと痛み出す。

「だから、お前は普通にしてろ。急に態度が変わったら、怪しまれる」

「………分かってる。けど………」

 普通にしていたいのに、心はグラグラとぐらついてしまう。こんなにも自分は弱かったのかとクルッカは自嘲的な笑みを浮かべる。

「チェイスの気持ちもくんでやれ。お前とジェイドには知られたくなかったから、ずっと隠してたんだろうぜ」

 ガドールの言葉は妙に真剣みを帯びていた。まるで、自分も体験した事があるかのような言い方に引っかかりを感じながらも、クルッカの頭はジェイドとチェイスの事でいっぱいになっていた。

「……ガドール」

「あ?」

「ちょっと付き合って」

 クルッカは勢いよくガドールの手を取ると、おもむろに駆け出す。

――チェイスには、笑ってて欲しい。

「チェイスが何で騎士を辞めたのか、調べたいんだ」

「ハァ……。言うと思った」

 ため息混じりにガドールが返す。ガドールの言いたい事は十分に分かっているつもりだ。これ以上、踏み込んでしまったら、もう知らん顔など出来ない。それ所か、お互いが傷付く場合だってある。

「ま、俺も話聞いちまった時点で共犯だがな」

 頭に柔らかい感触がして、クルッカがゆっくりと頭を上げる。すると、先程まで後ろにいたガドールがクルッカの方を見下ろして、頭を撫でていた。

「中途半端なままってのも、後味悪りぃし、付き合ってやんよ」

 ニィッと少年っぽさの残る笑みで微笑むガドール。嬉しくなったクルッカは、思わずガドールに抱きついた。

「ありがとうっ!ガドール!」

「なっ……!?」

 不意打ちを食らったガドールは、カァーッと一気に真っ赤になると、体を硬直させた。女慣れしているガドールにしては、らしくない態度にクルッカは笑ってしまう。

「笑ってんじゃねぇよ。……いいから行くぞ」

 ガドールはぶっきらぼうにクルッカの額を手で押し、素早く離れる。よっぽど恥ずかしかったのか、口元を手で塞ぎ、そっぽを向いている。それでも、繋いでいる手は離さない。

――そういえば、ずっと繋いだままだ。

 もう繋いでいる理由はないのだが、何となく離す気にはなれない。名残惜しいという感情に近い何かが、クルッカの中で動いているらしい。

――まぁ、本人が気にしてないし、いいか。

「で、どこ行くんだ?」

 まだ赤みの差した顔でガドールがクルッカを見る。クルッカは、口の端に笑みを浮かべると力強く言った。

「ガドールの大好きな場所だよ」
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「ん……」

 窓から光が差して、眠っていた意識が覚醒する。

――そういえば、クルッカは……。

 右肩からの鈍い痛みを感じつつ、ロックがベッドから上半身を起こそうとすると――。

「駄目」

 凛とした声と共に左肩を押され、起き上がりかけていた体がベッドに逆戻りする。

「起き上がっちゃ、駄目。医者が安静にって」

 マティアスがロックの顔を覗き込む。相当、心配をかけていたのか、マティアスの顔が今までにないくらい、ホッとしているように見える。

「クルッカなら、まだ戻ってないよ」

「……そっか。ま、ガドールがいるんだから、大丈夫だろ」

「ん、そうだね」

 柔らかい笑みを浮かべるマティアスにつられ、ロックも小さく笑ってみせる。

「ただいま戻りました」

 僅かに和んだ空気を切り裂くように現れたのは、ジェイドだった。病室を出て行った時よりも、暗い表情のジェイドは二人を見るなり、眉を顰める。

「……おかえり」

 一応、挨拶はするものの、マティアスの表情はまだ許していないと言わんばかりだ。振り出しに戻った状況にロックはどうすればいいのか、分からなくなる。

――誰か、助けてくれ……。

「……改めて、申し訳ありませんでした」

 何の前触れもなく、深々と下げられたジェイドの頭を見つめて、数秒――。ロックは目をパチクリさせた後、「その事はもういいって……」と呆れたように返す。

――本当、馬鹿真面目というか……。

「俺、こういう貧乏くじはしょっちゅう引いてるからさ。何て事ないよ、平気平気」

「そういう訳にはいきません」

 「騎士ですから」と真っ直ぐにこちらを見据えるジェイド。モスグリーンの瞳に射抜かれたロックは、何だか落ち着かなくて、視線を逸らす。

「アレは、騎士にあるまじき行為でした。私は、クルッカの事になると、盲目的になるようで……」

「分かったから、大丈夫だって!」

「……一発殴らないと終わらないんじゃ」

「平和的解決がいいんだけど!?」

 人を殴った時のあの感触は、ロマノフ=ジョーヴァンの一件で十分だ。それに以前にも言ったが、ロックの手は人を救う為の手だ。平和的解決が出来るなら、そちらの方がいいに決まっている。

「ところで、チェイス達はどこへ行ったのです?」

 不意に気になったのか、ジェイドが話題を変える。が、話題が話題の為、二人の眉間には皺が寄るばかりだ。

「チェイスはルイスっていう少尉に連れてかれた」

「ルイス少尉?」

 ロックの言葉にジェイドの顔が一気に曇る。その変化を察したマティアスの紅蓮色の目が光を宿す。

「王立騎士団王都支部所属のルイス=カルニタス。階級は少尉」

「支部の人間がチェイスに用、ですか」

「元帥の命でって言ってた」

 元帥という単語にジェイドははっと息を呑んだ。やはり、何か大変な事になっているようだ。一難去ってまた一難とは、まさにこの事か。

「クルッカとガドールはチェイスを追って行った」

「何故止めなかったのですか」

「俺も、心配だったから」

 マティアスが俯いて、申し訳なさそうに呟く。これには、ジェイドも何とも言えなくなり、口を真一文字に結んでいる。

「ま、言った所でクルッカには無駄だろ」

 助け舟を出そうとロックが口を挟むと、ジェイドは苦笑いにも似た笑みを浮かべる。

「……それもそうですね」

 ジェイドは自身の額に手を当て、眉間に深い皺を刻む、その顔は怒っているというのに、何とも美しい。これだから、美形はずるい。

「ごめん、俺、仕事行かなきゃ」

「あぁ、こっちこそ、ごめんな。いってらっしゃい」

「ん、いってきます。ロックは、安静にね?」

 マティアスはロックに念を押すと、病室を出て行った。二人きりとなった病室は人がいるにも関わらず、しんと静まり返っている。何か話してくれとジェイドの方を見遣れば、何かを考え込んでいるジェイドの姿があった。チェイスの事でも考えているのだろうか。

――……放っとこう。

 一人考えを巡らすジェイドを他所に、ロックはふわっと柔らかい眠気に襲われ、静かに目を瞑るのだった。
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 王都のとある裏路地を進み、地下へ潜ると、そこには洒落たバーがあった。看板も何もないのに、中は人がごった返している。知る人ぞ知るっという感じの店なのだろう。

――バーなのにあんな高いドンペリにシャンパン……。

 カウンターの後ろの棚にズラリと並べられている酒のボトルに、ガドールは思わず口笛を吹く。

「っと……」

 ドンっと酒に酔った客がクルッカにぶつかりそうになり、ガドールは繋いでいた手を引いて、クルッカを自分の腕の中へ引き寄せた。

「あ、ありがとう……」

「気ぃつけろ。酔ったやつはタチが悪りぃからな」

「分かった」

 クルッカは腕から脱出すると、人に注意しながら、また歩き出す。どこを目指しているかは皆目見当もつかない。
 店にいる人々はどいつもこいつもガラが悪い。中には騎士団員の下っ端も何人か混ざっており、「いつか元帥になってやる!!」っと叫んでいるあたりはかなり救えない。

「お前、何回か来た事あんのか?」

「昔ね。チェイスがよくここに来てたから」

――一体、いつから酒飲んでんだよ。

「賭けをしに、ね」

 クルッカは意味ありげに微笑むと、バーの奥の行き止まりで足を止めた。そして、おもむろに壁に手を置くと――。

「ようこそ」

 壁が動き、扉のように開き始める。扉の向こうからは、男達の歓声と悲鳴が聞こえてくる。

「隠しカジノへ」

――騎士道もくそもねぇじゃねぇか。

「ん?おい、お前」

 騎士団員の一人が入口につっ立っている二人に気付き、声をかける。他の騎士団員は賭けに夢中でこちらには気付いていない。

「やっぱ、そうだ!お前、ミラー兄弟のお気に入りのクルッカじゃん」

 「王立騎士団司令本部所属のワーカー=コペルニクス。階級は中佐」。クルッカがガドールに耳打ちをする。

「どうも」

「今日は何の用だ?つか、この色男は?」

「俺はガドール=クーリッジだ」

 ガドールが名乗るとワーカーは、一瞬目を丸くしたが数秒経ってから、口笛を吹いた。だが、口笛がひっくり返っているため、強がっているのがバレバレである。

「"狂運のガドール"か……」

「言っとくが今日は勝負しに来た訳じゃねぇよ」

「ワーカーさん、あなたに聞きたい事がある」

 クルッカはワーカーを見て言った。クルッカよりも背の高いワーカーは、クルッカを見下ろしている。気のせいか、頬が赤い。

「チェイスがどうして騎士を辞めたのか。あなたなら、知っていると思うんだけど」

 チェイスの事で頭がいっぱいのクルッカは無遠慮にワーカーに近付いていく。一方のワーカーは下心丸出しのいやらしい目つきでクルッカの顔を見つめている。

「おい」

 ワーカーの頭を力任せに掴むガドール。クルッカしか見ていなかったワーカーは不意を突かれ、足元がぐらつく。その勢いを利用して、ガドールが手を離すと、ワーカーはその場に派手に尻餅をついた。

――ざまあみろ。

「知ってるなら、さっさと話せ。知らねぇなら、とっとと失せろ」

 ギロリと睨みを効かせ、ワーカーを脅すガドール。殺気の混じったオーラに流石の騎士団員も縮み上がる。さっきまで口笛を吹いていて、強がっていた人とは到底思えない。

「わ……分かった。俺が知ってる事は全部教えてやる」

「ありがとう、ワーカーさん」

「なら、場所変えるぞ。ここじゃ話も出来やしねぇ」

 ガドールはそう言うと、バーの方へ戻ろうとした。しかし、扉に手を当てた瞬間、後ろから殺気を感じ、ファーからキューを素早く取り出し、構えた瞬間、高い金属音が鳴り響く。キューと十字に交わっているのは、ワーカーの腰に差してあったレイピアだった。

「どういうつもりだ。てめぇ」

「誰がタダで教えるって言った?教えてほしいなら、表出ろや!」

「殺すぞ、てめぇ」

――丁度むしゃくしゃしてんだよ、俺は。

 バーを出て、裏路地で戦闘を開始するガドールとワーカー。狭い裏路地で器用に立ち振舞うガドールに対し、一糸乱れぬ連続攻撃を繰り出すワーカー。中佐という肩書きは伊達ではないようだ。
 ワーカーからの攻撃をキューで防ぎ、ガドールは一度距離を取る。独特な構えをしているワーカーの剣筋は中々読めない。けれど、勝てない相手ではない。

――独学にしては上出来だが、動きにムラがある。

 ジェイドのように代々受け継がれた構えや剣筋は、基礎がしっかりとしており、ムラが出る事は少ない。だが、独学の場合、こだわりを譲れないため、他が疎かになってしまう事が多い。故にムラができ、弱点が浮きぼりになってしまうのだ。

「たぁぁっ!」

 ワーカーのレイピアがキューを弾く。弾かれたキューは竿の如くしなり、ガドールが仰け反る。間一髪、ワーカーのレイピアがガドールの前髪を掠めていく。

「ガラ空きなんだよ」

 ガドールの足がワーカーのレイピアを蹴り上げると同時に体を起こす。ガドールの言った通り、ガラ空きとなったワーカーに容赦なく、キューの重い一撃を喰らわせる。

「ぐっ……!」

 力なくワーカーがその場に崩れる。キューで殴られた腹を両腕でしっかりと抱いて、こちらを睨みつけている。

「おら、さっさと吐けよ」

 「じゃねぇと、ここで暴れた事バラすぞ」。脅し半分にガドールがキューでワーカーの頬を軽く叩く。ガドールの強さを身を持って知ったワーカーは顔を硬直させる。

「……この事は、他言無用で頼む。騎士団の中でも禁断とされてる話だからな」

 ワーカーの声に真剣みが帯び、ガドールと傍に控えていたクルッカに緊張が走る。

「あれは、今から七年前。チェイスがまだ騎士だった時の話だ」

 それは、かつて白騎士と呼ばれた少年が犯した、罪の話――。

十三・白騎士年代記(クロニクル)

 真っ赤な絨毯の敷かれた廊下を騎士団員のコートを着た少年は歩いていた。

「チェイス」

 声をかけられ、少年――チェイスが振り返ると、そこには、少し疲れた顔をしたジェイドがいた。
 騎士団に入って四年、王族直属の騎士――王族騎士団に所属する事となったジェイドは、久々に見るチェイスの顔にホッとしたような表情を浮かべた。

「よぉ、忙しそうだな」

「忙しいと言っても、やっている事は雑用ですけどね」

「そう言いなさんなって。平和なのはいい事だろ?」

 チェイスの言葉に「それはそうですが」と不服そうに眉を顰めるジェイド。騎士道を重んじ、騎士になったというのにジェイドはどうも顔に似合わず、血の気が多い。

「お前、本当戦うの好きだな」

「別に、そういう訳では……」

「いや、顔に書いてあるぞ」

 チェイスがからかい半分にジェイドの顔を指差す。すると、生真面目なジェイドは、近くに取り付けられている窓を鏡代わりに自分の顔を覗き込んだ。

「あ〜…、マジで書いてある訳ないだろ」

「分かっていますよ」

 「冗談です」とジェイドが意地悪く笑う。ジェイドの場合、どこまでが本気なのか、理解に苦しむ。元より、ジェイドにそういう事を期待してはいけないのだが。

「そういうチェイスはどうなのですか?」

「え、我?我はジェイドよりも格下だから、戦闘はしょっちゅう参加。そのせいで白騎士とかいう肩書きをもらったよ」

 少し皮肉っぽくチェイスが言うと、ジェイドがクスクスと笑った。

「白騎士……ですか。これはまた……」

「似合わないだろ?」

 白騎士とは、チェイスの能力である光からきている。騎士だというのに、剣を使わず、光で出来た大鎌を用いて戦う事から、騎士団の誰かがそう呼び始めたのがきっかけだった。

「そういえば、お前、クルッカには会ったのか?」

「いいえ。何分、忙しい身ですから。私もクルッカも」

 この頃のクルッカはバウンティーハンターになって、まだ一年も経っていなかった。幼馴染のチェイスとジェイドからすれば、クルッカは実の妹のような存在で、心配の種でもあった。

「たまには息抜きしないと、体がもたないぞ」

「いつも息抜きしているチェイスに言われたくありません」

 弟からの厳しい一言にチェイスは何も言い返せない。

「あらら…、怒られちゃった」

 チェイスは片目を瞑り、ペロっと舌を出した。話を茶化してしまうのは我ながら悪い癖だと思う。しかし、そうでもしないとジェイドとまともに話せそうになかったのだ。
 ジェイドは兄のチェイスよりも優秀だった。ストイックな性分のジェイドはいつも、チェイスの先にいた。決して傍にいる事はない。チェイスがジェイドの先を行く事がないように――。

「………と、俺、そろそろ行かねぇと」

「そうですか。呼び止めてしまい、申し訳ありません」

「気にすんなって。またな」

 ジェイドに手を振りながら、チェイスはみんなのいる食堂へと向かった。
 チェイスが食堂に着いたのとほぼ同時に、夕方を告げる鐘が鳴った。先程まで静かだった食堂に人が流れ込み、食堂はカオスな状態となる。

「おーい、チェイス!」

 聞き慣れた声に、チェイスはそちらへ向かおうと人の流れに逆らっていく。

「大丈夫か?」

「何とかな」

 少々疲れた表情のチェイスに声をかけたのは、チェイスの相棒の少年――モルドレッド=マローネだった。名の通り、栗色の長髪をした中尉だ。明るい性格でみんなから好かれていた彼はモロと呼ばれていた。

「というか、今日は遅かったな」

「ここに来る途中でジェイドに会ってな。ちょっと話してたんだ」

 チェイスが言うと、モルドレッドは「ふ〜ん」と興味なさげに返した。前から思っていたが、モルドレッドはジェイドの事が嫌いなようだ。
 人当たりのいいチェイスとは裏腹に朴念仁のジェイドを理解してくれる者は少ない。おまけに、言葉がキツイため、嫌っている人間も多い。

「あ、悪りぃ……」

「別に気にしてねぇよ」

「そうは見えねぇけど……」

「そんな事より、明日の事考えろ」

 チェイスはテーブルの中央に置いてあるポットを手に取り、湯呑みにお茶を注いだ。

「明日はお前が俺達を束ねるんだからな」

 チェイスは湯呑みのお茶に息を吹きかける。底に溜まっていたお茶の葉が湯呑みの中で、ゆっくりと回っていく。

「プレッシャーかけんなよ」

「多少のプレッシャーはあった方がいいんだよ」

 ニヤリと悪戯っぽく笑うチェイスに対し、モルドレッドは暗い表情を浮かべている。

「お前なら出来る。な、モロ」

「チェイス……」

 チェイスがその背中を鼓舞するように叩くと、モルドレッドは僅かに頬を緩ませる。まだ少しぎこちないが、先程よりはだいぶマシだ。

「お前がいてくれて、よかった。ありがとな、相棒」

「どういたしまして」

 コツンっと二人が拳を合わせる。二人は騎士団の中でも特別、仲がよかった。コンビネーションもよく、戦場ではいつも背中を預ける程に信頼しあっていた。

「チェイス、モロ!イチャついてんじゃねぇぞ」

 騎士団の一人――ワーカーが二人のやり取りを見ていたのか、いつものように茶化してきた。すると、食堂は決まって、笑いで満たされた。

「男とイチャつく趣味なんてないっての」

「ワーカー、お前、毎回懲りないな」

 日常茶飯事なやり取りにチェイスとモルドレッドは肩をすくめた。

「みんな、明日はよろしく頼む」

 笑いが止むのを見計らい、チェイスは立ち上がり、食堂にいる一同に向かって言った。

「よっ!白騎士」

 ワーカーが口笛を吹き、再び茶化す。それに便乗して、お調子者が次々と声を上げる。気付けば、食堂は猿山の如き騒がしさとなっていた。
 騎士といえば、大半の人がジェイドのような人を思い浮かべるであろう。しかし、残念な事に時として、このような幼児的知能の大人も混ざっているのだ。

「レベル低いな、あいつら」

 お茶を啜り、冷ややかな視線を送るモルドレッド。これでも肩書きは騎士だと言うのだから、驚きだ。

「あ〜……、もういいです。はい」

 収集のつかなくなった食堂をチェイスは、半ば逃げるように立ち去る。バカ騒ぎにまで発展した食堂は、もはや動物園だ。

「ったく、明日がどれだけ重要か、分かっちゃいねぇな」

 続いて、食堂から出てきたモルドレッドはチェイスの隣に並んで歩き出す。こう並ぶと数センチの差とはいえ、モルドレッドが自然と上目遣いになる。

「なぁ、お前って何で騎士になったんだ?」

「何だよ、急に」

 チェイスの質問にモルドレッドが驚いたように声を上げる。

「いや、ちょっと気になってな。俺は、騎士になる道しかなかったからさ」

 物心ついた時から、チェイスは大鎌を振っていた。大人相手に殺し合い紛いの戦闘だってした。生きていく道など、選ぶ権利さえなかったのだ。

「後悔、してんのか?」

「……さぁな。それすらも、分からないんだ……」

 自嘲気味に笑みを浮かべたチェイスは、沈みかけた夕陽を見つめた。こうやって、クルッカも夕陽を見ているのだろうか。この頃は、よくクルッカの事を思い出していた。
 生きていく道を自ら選定し、歩んでいるクルッカ。まだ十一歳だというのに懸命に働いている、小さな女の子。その生き様がかっこよくて、羨ましく思えたのだ。

「俺は後悔してねぇよ」

 モルドレッドが独り言のように呟く。夕陽を見ていたチェイスが視線を落とすと、モルドレッドがこちらを見上げていた。

「お前に会えたからな」

 ニィッとモルドレッドが満面の笑みを浮かべた。告白紛いの一言に流石のチェイスも茶化す気にはなれず、照れ隠しに目線を逸らし、頬を指でかく。

「俺、元々騎士とかなる気なかったんだ。というか、夢がなかった」

 モルドレッドはそっぽを向くチェイスを他所に話を進めていく。

「騎士になったのも、単なる偶然ってやつだ。試験でヤマ張ったとこがドンピシャで出て、筆記は合格しちまうし、腕っ節が強かったから、実技も合格ってな」

「お前、それはもはや運命だぞ」

 騎士団への試験を勘で合格出来る訳がない。あのジェイドでさえ、血反吐を吐くぐらいの努力をした程だ。モルドレッドの運は超絶にいいらしい。

「けど、すぐに分かったんだ。遊びじゃねぇって」

 モルドレッドの声に真剣みが帯びる。普段のノリのよさからは想像もつかないくらい、悲しげな表情をしたモルドレッドは目を伏せ、なおも続ける。

「支払われた金が命の価値って思ったら、何か釈だった」

「モロ……」

「さっきまで生きてたやつが、数分後には何も言わなくなって……。邪魔だって言われて、踏みにじられて……」

 モルドレッドは騎士団に入ってすぐに、親しかった友を亡くしていた。気丈に振舞ってはいるが、モルドレッドの心には深い傷となって、今も存在しているのだ。

「俺は、あいつの分まで生きなきゃなんねぇ。だから……」

 意を決したようにモルドレッドがチェイスを見て、言い放つ。

「俺は死なねぇ。どんな手を使ってでも、生き延びてやる」

 沈みかけた夕陽に照らされ、モルドレッドの顔がオレンジ色に染まる。揺るがない決意を宿した瞳は、真っ直ぐにチェイスを見据えている。その瞳はどこか、クルッカの瞳に似ていた。

「なら、俺が守ってやる」

「アホ。お前もだよ」

 モルドレッドに言われ、チェイスが自身を指差し、首を傾げる。「当たり前だろ」と何故かキレだすモルドレッド。

「お前は俺の相棒だからな」

 モルドレッドの指がチェイスの方に向けられる。

「頼むから、お前は俺より先に逝かないでくれ」

「……俺だって、お前の死に様なんか見たくねぇよ」

 チェイスが腰に差していたレイピアを抜いた。騎士団に入団した時に贈られたレイピアは真新しく、チェイスにとってはただの飾りでしかなかった。けれど、今、これが役に立つ――。
 レイピアの剣先がモルドレッドに向けられる。何をするのか分からないモルドレッドは、剣先を見つめている。

「俺の命、お前に預ける」

 チェイスは持っていたレイピアを放る。クルクルと弧を描くレイピアは柄を向け、モルドレッドの手の中に収まる。
 どこぞの世界の武士というものの命が刀のように、騎士にとっての命は剣だ。騎士の中では、信頼している相手に自身の剣を渡す事が何よりの信頼の証とされている。

「ま、半分だけどな」

 チェイスが申し訳なさそうにこぼす。本来、チェイスの使っている武器は大鎌だ。けれど、光で出来た大鎌はチェイスにしか触れない。故に、預けられる命も半分という事になる。

「十分だ」

 モルドレッドが嬉しげにレイピアを見つめる。そんなモルドレッドを見て、チェイスは改めてモルドレッドがクルッカに似ていると思った。
 思った事をストレートに言える所、すぐに表情に出る所、気丈に振舞っているが弱い所。だから、チェイスは放っておけないのだ。誰よりも一生懸命で誰かのために頑張れる、二人の事が。

「モロ」

「ん?」

「ちゃんと、帰って来ような」

 チェイスの一言にモルドレッドは静かに頷いた。
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 ジェイドが帰って来て、かれこれ二時間程。途中眠っていたロックが目を覚ますと、ジェイドはまだ考え事をしていた。

「……起きましたか」

「お、おう……」

 急に声をかけられ、ロックはビクリと肩を揺らす。

「……傷は痛みますか?」

「まぁな」

「そう、ですか……」

 ロックの返事にジェイドは目を伏せる。一連の責任でも再確認しているのか、その目は珍しく揺らいでいる。

「……いい勉強になったよ。自分の非力さを知れて」

「――ッ!!」

「感謝してるよ、騎士様」

 心にもない、皮肉の効いた言葉にジェイドは返す言葉もなく、黙りこくっている。その姿は可哀想ではあったが、騎士という存在自体に嫌悪感のあるロックには関係のない事だ。

「君は、そんなにも……騎士が嫌いですか」

「あぁ、嫌いだね。特にお前みたいな他人を見下してるような傲慢チキはな」

「傲慢……」

「大体、こんな事しておいて、騎士が好きなんて答える訳ないだろ?」

 不信感は嫌悪感へと変わり、ロックの中で凝り固まっていく。騎士なんて所詮はみんな、こうなのだと。そこに取り付く島はなく、再び傷付けられたロックへの弁解ももう許されない。

「俺は、俺から何もかもを奪っていくお前らが大嫌いだよ」

「ロック……」

「……分かったら、どっか行ってくれ。また刺されでもしたらたまったもんじゃない」

 そう吐き捨てるとロックは布団を被り直す。もう話したくないという意思表示にジェイドは何か言いたげに口を動かすも、声は一向に出てこず、やがて諦めたように立ち上がる。

「最後に一つだけ、君に聞きたい」

 ドアに手を掛けて数秒、思考を巡らせていたジェイドが再びこちらに顔を向ける。

「そこまで恨んでいるのに、どうして君はロマノフ=ジョーヴァンを許せたのですか?」

「……許す訳ないだろ。あいつの事も、お前の事も」

 答える義理はなかったが、何も分かっていないジェイドを少しばかり憐れだと思ったのだ。非力故にそうせざるを得なかったというのに、それを広い心で許したと勘違いされては自分も報われない。

「俺は復讐しないって決めたんだ。だから、医者になった。誰かを殺すよりも生かしたいと、そう思った事を喜んでくれた人がいたから」

 言葉にすれど、ジェイドにロックの苦しみや悔しさの全てが伝わる訳ではない。だが、言わずにはいられなかった。どれだけの不幸に見舞われようと、自分は決して折れなかったのだと嫌悪の象徴である騎士に知らしめてやりたかったのだ。 

「俺の手は誰かを救う為の手だ。だから、あの一発で気は済んだ。ただ、それだけだよ」

「なら、私の事も殴ればいい」

 言うが早いか、ジェイドが布団を捲り上げる。いつの間に戻って来ていたのか。ロックの目とジェイドの目が真っ直ぐに互いを見やる。 

「ガドールの電撃を喰らえというなら、それでもいい。それで君の気が済むのなら、私は何だってしましょう」

「そんな事したら、俺がクルッカに怒られるだろ」

 ロックの事でガドールがキレたように、ジェイドに何かあればクルッカが黙っていないだろう。それにジェイドが欲しいのは許しだ。騎士であると名乗る為には今回の事をロックが許さなければならない。だから、こんなにも必死になっている。

「悪いと思ってるなら、俺に許されようなんて思わない事だな」

「しかし、それでは――!!」

「言ったろ。俺はお前が嫌いで、許さないって。どんな事があろうと、どんな事をされようと」

 ロックは怪我をした肩を掴み、ジェイドを睨み付ける。その気迫に今までの勢いはどこへやら、気圧されたジェイドは一歩後退する。

「それでも、許してほしいなら、俺に"騎士はいいもの"だと思わせてみろ」

「それが贖罪、ですか」

「そう。だから、もう謝るな」

 許す事は簡単ではない。ロマノフ=ジョーヴァンを前に復讐心に駆られたロックは身を持って、それを知っている。許しは加害者側の免罪符だが、被害者側からすれば、今までの苦しみ全てを忘れろと言われている事に等しい。そんな重みも知らないくせに軽はずみに許してくれと懇願してくる輩は心底軽蔑する。けれど、ジェイドはガドールの電撃を喰らう覚悟を見せた。それが口先だけではないと直感的に感じたロックは、もう一度だけジェイドを信じてみようと思ったのだ。

「ありがとうございます、ロック」

「はいはい。せいぜい頑張れよ?」

 ロックが悪戯っぽく笑ってみせると、ジェイドの口の端に薄らと笑みが浮かぶ。わだかまりはまだあるものの、一歩進めた事が嬉しいのか、否かはロックには分からない。

「ロックさん、包帯取り替えますよ〜」

 ガラガラとドアが開き、病室にカートを引いた看護師が入って来る。

「あら、お取り込み中でしたか?」

「いえ、大丈夫ですよ」

 ジェイドがにこやかに返すと、看護師はよかったと笑い返す。こういう時だけ愛想がいいのだなとロックは心の中で毒づく。

「あっ――!!」

 その時、看護師の引いていたカートがサイドチェストに当たり、上に置いていた医学書が床に落ちる。

「ごめんなさい、大切な物なのに」

「いや、大丈夫ですよ」

「私が拾います」

 看護師の次にサイドチェストに近いジェイドが、床に落ちている医学書を拾い上げる。落ちた拍子に裏返ったのか、ジェイドの視線の先にはロックの祖父である、シュネル=ペプラムの名前があった。

「シュネル……ペプラム」

「じいちゃんの名前がどうかしたのか?」

 ジェイドのモスグリーン色の目がゆらゆらと揺れる。いつも凛としているジェイドにしては、かなり動揺しているように見える。

「あなたが……チェイスの命を救った医師の……孫……」

「どういう事だよ」

 状況の掴めないロックがジェイドに問う。
 ロックの祖父が亡くなったのは、今から四年前。その間、祖父はずっとロックの傍にいた。
 チェイスが騎士団に所属していたのは、今から七年も前の事だ。どう考えたって、計算が合わない。第一、村でずっと暮らしていた祖父が王都に行けるはずがない。

「では、あなたは……」

「説明しろよ、ジェイドっ!」

 混乱しているジェイドの両腕を掴み、ロックが声を上げる。ゆらゆらと絶えず揺れているジェイドの目にロックは映らない。

「ジェイドっ!」

 ロックの叫び声だけが虚しく、病室に響いた。
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 無機質な電子音が、規則正しく鳴っている。はっきりとしない意識の中、医師と誰かの声が聞こえてきた。

「落ち着いたかい?」

 医師の優しい声に相手も安心したのか、「大丈夫です」と落ち着いた声で返す。声の主はジェイドだった。

「チェイス君の方は心配ない。今は眠っているが、時期に目を覚ますだろう」

――そうか、俺は………。

 チェイスの頭の中で、戦場での記憶が走馬灯のように思い出されていく。

「ただ、彼はかなりの重傷だ」

「ICUにいる彼、ですか」

 二人の会話を聞きながら、徐々に覚醒していくチェイス。固く閉ざされた瞼をゆっくりと開くと、そこは病院の大部屋だった。
 鴇色のカーテンを引いているため、二人はチェイスが目覚めた事に気付いていない。

「かろうじて、命は繋ぎ止めている状況だ。切り落とされた腕からの出血量が半端じゃなかったから」

 医師の言葉にチェイスは全てを思い出した。

「モロっ!」

 チェイスは叫んだと同時にベッドから飛び起きた。口に付けられている呼吸器を荒々しく外し、腕に刺してある管を引っこ抜く。

「チェイスっ!」

 ようやく、チェイスが起きている事に気付いたジェイドがカーテンを開ける。

「どけ!!」

 チェイスがジェイドを押しのけ、病室を出て行く。管の外された穴から、ポタポタと血が垂れて、道しるべのように床に印をつける。

「っ!」

 目覚めて、間もない体は思うように動かず、チェイスは派手に転んだ。

「くそ……」

 体に力が入らない。それでも、チェイスはやっとの思いで立ち上がる。すぐそこまで来ているあろう、ジェイド達の足音が徐々に近付いて来る。

――モロ、どこにいる…!

 チェイスは走る。

「モロっ……」

 そして、チェイスは見つけた。ベッドの上でたくさんの管に繋がれて、かろうじて生きながらえているモルドレッドを。
 心電図の電子音だけが唯一、モルドレッドが生きている事を教えてくれた。

「嘘……だろ……」

 痛々しすぎて、直視出来なかった。戦場で受けた一撃のせいで、モルドレッドの左腕は肩からなくなっていた。

「モロっ……!!!!」

 チェイスはその場に崩れ落ちた。壁に握り締めた拳を叩きつけ、肩を震わせる。ボロボロと目から零れていく涙が床に小さな水たまりを作っていった。

「出ていけっ!この愚か者がっ!」

 チェイスの頬を殴り、ジェイドの父が怒鳴った。
チェイスは退院後、仲間に何も言わずに騎士を辞めたのだ。

「二度と戻って来るなっ!ミラーの名を汚しよって……」

――元々汚れてんだろうが。

 汚れた掟のせいでミラー家に入れられ、汚れた掟に従い、ミラー家を追い出された。何ともおかしな話に笑えもしなかった。

「何故、騎士を辞めたのですか」

「……けじめだ」

 チェイスは持っていたレイピアでコートを切った。そのレイピアはモルドレッドの物だった。

「お前だけをあの家に縛り付ける形になって、悪い」

「私が聞きたいのは、そういう事ではありませんっ!」

「分かるだろ。もう子供じゃねぇんだよ」

 切ったコートに袖を通すチェイス。ライトグリーンの目がしっかりとジェイドを捕らえる。

「モロの件は、俺の責任だ。ミラーの力でもみ消される訳にはいかねぇ」

 なかった事にしてしまいたくはない。騎士を辞めて、償えるものではないけれど、チェイスにはこうする他なかったのだ。

「お前は俺みたいになるなよ」

 チェイスは精一杯に微笑んでみせた。自分が情けなくて、気を張っていないと泣いてしまいそうだった。義理とはいえ、弟のジェイドにそんな姿は見せたくない。

「馬鹿ですよ、本当……」

 軽蔑された、あの日から決めた事がある。たとえ、誰かに必要とされなくなっても、生きると。死よりも重い罪を背負い続けると。そして、決してそれを悟らせないと――。

十四・禍福は糾える縄の如し

 ワーカーと分かれた後、クルッカとガドールはロックの病院に向かっていた。
 クルッカの表情は険しく、先程からずっと口を閉ざしている。今にも泣きそうな子供みたいに、ガドールの手をしっかりと握ったまま、離さない。

「おい」

 らしくないクルッカに少し苛立ちながら、ガドールが声をかけた。クルッカの気持ちが分からない訳ではない。けれど、こんなクルッカを黙って見ているガドールも辛いのだ。

「泣くか、笑うか。どっちかにしろ」

「……選択肢、極端じゃない?」

 我ながらに横暴だとガドールも思う。

「……分かった」

 俯いていたクルッカが意を決したとばかりに顔を上げた。いつもの凛とした表情のクルッカにホッとしたのも束の間、繋いでいた手が強引に離された。

「ガドールはロックの所へ戻って」

「お前は?」

「……後から行く」

 クルッカはジャケットを翻すと、走り出した。向かっていた方向とは、逆の方へ。

「おいっ!」

 ガドールの声にクルッカは振り向きもしない。慌てて、ガドールが追いかけようとした、その時。

「ダメ」

 目の前に突如、どこからともなくマティアスが現れた。大きく広げられた両腕がガドールの視界からクルッカを消し去る。

「これ以上、クルッカを苦しめないで」

「お前……聞いてたのか」

 ガドールの一言にマティアスは広げていた腕を下ろした。悲しげな紅蓮色の目が揺らぎながらも、しっかりとガドールを見据えている。

「クルッカにとって、ジェイドとチェイスは大事なんだ。ガドールがロックやクルッカを大切に思ってるように」

 「だから……」と今にも消え入りそうな声でマティアスが言った。見れば、マティアスの肩は小刻みに震えていた。

「今はそっとしてあげて」

「マティアス……」

 感情をあまり表に出さないマティアスにしては、かなり珍しい。それ程にクルッカを大切に思っているのだ。だからこそ、ガドールの心は更に傷んだ。

――馬鹿だな、俺は。

 クルッカはずっと一人だった。誰にも思われず、気付かれないまま。孤独の中、それでも必死に生きてきたクルッカ。甘えたくても相手がいなかったクルッカが、初めて自らの意志で求めたモノをガドールは拒否してしまった。

"泣くか、笑うか。どっちかにしろ"

 求めていたのは、そんな言葉ではなかった。クルッカが求めていたのは、ガドール自身だった。ただ、誰かに傍にいてほしかった。それだけだったのに。

「何やってんだよ……。俺は……」

「ガドールは……悪くないよ」

 マティアスがガドールに近付く。下唇を噛み締め、俯いているガドールにそっとマティアスは手を伸ばす。

「心配、してたのは分かってるから」

 ガドールの肩にマティアスの手が置かれる。その感触にガドールはゆっくりとマティアスを見た。不思議な事に自然と心も落ち着いて来る。

「行こう。ロックが待ってる」

「……あぁ」

「大丈夫。クルッカは戻って来るから」

 マティアスが口の端に笑みを浮かべる。

――不思議な奴。

 ガドールもマティアスにつられて、微笑む。ぎこちなく上がった口の端に違和感を感じるが、満更悪い気もしない。先程までの憤りは綺麗さっぱり消え去っていた。

「今、クルッカに近いのはガドールだと思う」

 マティアスが右手の人差し指でガドールを指差す。「僅差だけど」とガドールの気にしている事をズバッと言い放ったマティアスはどことなく、大人びて見える。

「みんな、クルッカの事を大切に思ってる。俺も含めて」

 ガドールよりも十二cm程小さいマティアスがガドールを見上げる。見上げられるのは慣れているはずなのに、何となく落ち着かない。紅蓮色の目とバイオレット色の目がしばし、互いを見合う。

「ガドールはクルッカの事、好き?」

「……あぁ、好きだ」

 ガドールの返答にマティアスは満足気に笑った。

「なら、もう何も言わない」

 「ガドールなら分かるはずだから」と付け足し、マティアスが歩き出す。子供っぽいのか、大人っぽいのか、よく分からないマティアスにガドールは首を捻る。

――大人と子供が同居してるみてぇ。

「ガドール」

「へいへい」

 マティアスの隣にガドールが並ぶ。妙に物足りない左手に少しだけ残っているぬくもりを握り締め、ガドールは病院に向かった。
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 ふわふわとした心地のいい眠りから、ロックは目を覚ます。確か、病室で寝てしまったんだったかと目を擦りながら、ロックはふと違和感に気付く。

「静かすぎないか……?」

 静か所か、音が一つもしない。ぼやけた目を何度か瞬かせ、ようやく状況を確認出来たロックは驚いて目を見開く。そこは病室ではなく、どこかの森の中だった。鉛色の空にはぶ厚い雲が詰まっていて、大粒の雨が降っている。と言っても、雨粒は宙に浮いたまま、微動だにしていないのだが。

――どこだよ、ここ……。

 理解の出来ない状況にロックが首を捻っていると、突如、ザァーッと大量の雨粒が降り注ぐ。急に鳴り出した音にロックはビクリと肩を揺らす。

「何なんだよ、ここ」

「うっ……」

 音が戻ったと同時に足元から誰かの呻き声が聞こえてくる。恐る恐る、視線を落とすとそこには見知らぬ男が息も絶え絶えな状態で転がっていた。

――さっきまで人なんていなかったはず……。

 右肩から腹まで深々と斬られた傷口からは、鮮血が流れ出し、水溜まりを赤く染めている。傷口は泥水やらで汚れたまま、放置していたのか、化膿しており、恐らくもう助からないだろう。

「こいつ、騎士か?」

 男の着ている服には見覚えがあった。泥や血の汚れが酷く、気付く事に遅れたが、襟元に付いている騎士の証であるバッジだけは一切汚れていなかった。

「あっちに誰かいる!」

 ロックは男を一瞥した後、人の気配のする方へ走り出した。道中には、無残な死体がゴロゴロと転がっており、そのほとんどが騎士団員だった。

「誰か――。誰かいないのか!?」

 声を上げながら叫ぶも、返ってくる声はない。これは悪夢だろうか。あまりの惨状にロックはその場に蹲り、冷静になろうと目を閉じる。

「夢なら覚めろよ。頼むからさ……」

 しかし、その願いは届かず、聞こえて来るのは雨の音のみだ。何故、こんな夢を見ているのか、ロックには訳が分からなかった。

「……そういえば」

 そんな時、脳裏にある事が過ぎる。あれは確か、今から七年前。王立騎士団と理想派と呼ばれる人々との間で大きな戦いがあったらしい。理想派というのは、おとぎ話に出てくる楽園を崇拝し、楽園へ行く為の鍵とされるクリスタルに異常な執着を見せている人々の事だ。彼らは楽園を崇拝するあまりに過激な行動が目立つようになり、騎士団が鎮圧に成功したと言われている。人々はその戦いを物語の登場人物から取って、マッドハッターと呼んでいたはずだ。

「殺せっ!クリスタルのために」

 名前の由来は理想派のリーダーが帽子を被っていたからだそうだ。彼のやり方は狂っていて、文字通りいかれていた。クリスタルに執着した彼の心はクリスタルを得る事でしか、満たされなくなっていた。

「ぐぁっ!」

「チェイスっ!」

 次にロックが目を開けると、そこは先程の森とは違う、どこかだった。夢ならありがちな事だが、そんな事よりもロックは目の前に広がる光景に目を奪われていた。チェイスと呼ばれた少年は斬り付けられた肩を抑え、敵の男をギロリと睨み付けている。

――何でチェイスが……。

 その傍らには栗色の長髪に青い瞳をした少年がおり、チェイスを庇うように前に立っている。

「諦めろ。お前らのような若輩者にこの俺は倒せない」

 二人と対峙している男が刀についた血を舐める。大きな帽子を被った男は、二本の刀を持ち、楽しそうに笑みを浮かべている。彼がいかれ帽子屋――マッドハッターと呼ばれた男だろう。

「大人しく、俺に殺されろ」

 マッドハッターが二人との距離を一気に詰める。チェイスは栗色の長髪の少年――モロを押しのけ、片手で大鎌を振るった。

「くっ……」

 大鎌と刀が十字に交わり、火花を散らす。深手を負ったチェイスに二刀流のマッドハッターはどう考えても不利だ。

「チェイスっ!」

「行け、モロっ!こいつの相手は、俺がするっ!!」

 チェイスは大鎌で刀を弾くと、柄を両手で掴み、マッドハッターを斬りつけた。レイピアよりも重い大鎌は振るうだけでも一苦労だ。それなのに、チェイスはモロを逃がすためにあえて、攻撃したのだ。

――このままじゃ、二人とも……!?

「行けっ!」

「甘いわ、若造が」

 マッドハッターの刀の一本が大鎌を弾き、もう一本の刀でチェイスを斬りつけた。電光石火の如く、鋭い刀の一撃にチェイスが苦痛で声を上げる。

「行ける訳……ねぇだろうがっ!」

 モロがレイピアを握り締め、マッドハッターを斬りつけた。細身のレイピアは今にも折れそうな程しなっている。

「死に損ないが」

 マッドハッターの二本の刀がモロを襲う。少しでも気を抜けば、首が飛んでしまう。そんな緊張感の中、レイピアで刀の攻撃を受け止めるモロ。チェイスには劣るが、モロもかなりの実力者だ。

「まずはお前からだ」

マッドハッターが不気味に笑う。心から人を殺す事を楽しんでいると言わんばかりの表情に、だからこそ、彼がリーダーになったのだとロックは痛感した。

「モロっ!」

 ロックが叫んだ瞬間、マッドハッターの二本の刀がモロを斬りつける。大量の血が傷口から噴き出し、血の雨が降る。

「かはっ……」

「モロっ!!」

 モロの体が力なく、地面に倒れる。そんなモロをニヤつきながら、見下ろしているマッドハッターは一本の刀を地面に刺した。

「まだ落ちるなよ?ここからがいいとこなんだからよ」

「お前っ……」

 チェイスの目に今までにない殺気が込もる。ぐっと拳を握り締める度に肩から血が流れていく。これ以上戦えば、命の保証はない。チェイスが先に倒れるか、マッドハッターが倒れるか。まさに命懸けの賭けだ。

「チェイス……」

 届く訳もないのに、口に出さずにはいられない。見ているだけなのに、こんなにも胸を締め付けられる。辛いなどという言葉では表せない、この感情が鋭い痛みを走らせる。

――こんなにも苦しいのか。

「モロから離れろっ!」

 チェイスが叫ぶと同時にマッドハッターを光の球が襲う。球は線となり、目にも止まらぬ速さで次々とマッドハッターへと降り注ぐ。

「ぐっ!?」

「調子にのるな。いかれヤローが」

 チェイスが大きく大鎌を振るう。その度に光がマッドハッターの元へと飛んでいく。

「っ……」

 マッドハッターがガクリと膝をつく。光の攻撃をもろに食らったマッドハッターは、血まみれだ。

――これが、number3の力……。

 桁が違いすぎる。さっきまで一方的だった流れが、一気に逆転して、相手をここまで追い込んだ。元々、五分五分だった二人の実力が今は天と地まで差がひらいたのだ。
 能力を持たない人間が能力者には勝てない。そうまざまざと言われているような気がした。

「動くんじゃねぇ!」

 しかし、時として運は悪戯を仕掛ける。このままではつまらないと。今回の場合、マッドハッターが目をつけたのはモロだった。

「っ!」

 モロの左手を掴み上げたマッドハッターは、一本の刀をモロの左肩に当てた。大量出血のせいで、モロの意識は朦朧としているのか、目は焦点が合わずに小刻みに揺れている。

――早く助けないと……!

「動けば、こいつの命はないぞ」

「……外道が」

 チェイスの大鎌がスっと光になって、消えていく。人質がいる以上、下手な事は出来ない。故にチェイスは武器を収めた。マッドハッターの目には、そう映ったに違いない。

「電光石火」

ザシュッ――。

「……は?」

 バシャンっと水たまりに何かが落ちた。マッドハッターが恐る恐る、水たまりを覗き込めば、水たまりには濁った水と共に赤い鮮血が混じっていた。もちろん、その血はマッドハッター本人の血だ。

「う……腕がっ!?」

 マッドハッターの腕は刀を持ったまま、根元から斬り落とされていた。

「ざまあみろ」

 チェイスが大鎌の柄を肩に当て、ベーっと舌を出した。訳の分からないマッドハッターは目を丸くし、チェイスを見ている。

――力の象徴化か。

 チェイスを始めとする、code numbersは各々自らがその身に宿している能力を操る事が出来る。風のように見えないモノを具現化させ、武器にしたり、装備したり出来るのだ。その一方で、自らの体を象徴化させたりも出来る。それを力の象徴化と言う。
 チェイスの場合、自らを光に象徴化させ、マッドハッターの腕を切断したのだろう。

「お前、能力者なめすぎ」

 どこまでも抜け目ないチェイスは余裕たっぷりにマッドハッターを見下ろしている。涼しげな表情のチェイスは、恐ろしくもあるがとても美しい。

「光に抱かれて、逝きな」

 パチンッとチェイスが指を鳴らせば、シュンっと風を切る音が辺りに消え入り、マッドハッターは倒れた。

「マッドハッターを終わらせたのは、チェイスだったのか」

 ロックはマッドハッターをじっと見据えた。光の刃で貫かれたマッドハッターは、目を見開いたまま、死んでいた。ロックはマッドハッターの目の上にそっと手を添えた。

「逝って来いよ、楽園へ」

 ゆっくりと閉じていく瞼を見送るロック。手向けとして送った言葉に、精一杯の皮肉を込めて。マッドハッターが行く先は楽園とは呼べない、闇の世界であるとロックには分かっていた。
 ようやく、全てが終わった。
 そうロックが思った、その時――。

「ぐわっ……!!」

 突如、チェイスがその場に崩れ落ちた。うめき声を上げ、のたうち回るチェイスは心臓を抑えている。

「チェイスっ!」

 慌てて、ロックがチェイスに駆け寄った。美しく整った顔は苦痛で歪み、痛みのせいで生理的な涙が流れている。

――何かの発作か?

「チェ……イス……!?」

 モロがチェイスの異変に気づき、ゆっくりと頭を上げる。栗色の長髪には所々に血が固まって、こびりついている。

「モロ……近付くなっ……!」

「っ!?」

 チェイスの目がモロを捕らえる。いつものライトグリーンの目がだんだんと透明になっていく。

――光の暴発っ!?

 能力は能力者の感情に左右される。例を挙げれば、ガドールが怒るとキューの先端がバチバチと音を立てるように、感情を糧に能力は威力を増す。しかし、能力が負の感情に侵されすぎると、能力者自身がコントロール出来なくなってしまい、暴発してしまう事があるのだ。

「チェイスっ……!」

 モロが名前を呼んだ瞬間、辺りが白一色に染られる。耳を劈く爆発音と共に光が弾けた。

「っ……!!」

 ロックの体に感覚はない。思えば、先程から雨が降っていたというのに体は一切濡れていない。

「チェイス君っ!」

 不意に聞き覚えのある声がして、ロックは目を開ける。すると、視線の先には先程までいなかったはずの男がいた。

「……じいちゃん」

 じいちゃんと呼ぶには、あまりにも若い男は確かにロックの祖父・シュネル=ペプラムだった。おかしい話ではあるが、今から七年前、シュネル=ペプラムはここにいたのだ。

――ジェイドが言ってた事は、マジだったのか。

「来るなっ――!!!」

 チェイスの叫びが辺りに響く。ロックはその声に混じった、誰かの悲鳴をしっかりと聞いていた。その声は、モロのものだった。

「ロック、しっかりしろ!!」

 誰かに呼ばれている。振り返ろうとすると、景色が一瞬ぼやける。数回の瞬きの後、見慣れた茜色とバイオレット色が見え、呼んでいたのがガドールだったと理解する。

「あれ………」

――戻って来れた………。

「大丈夫?」

 心配そうに顔を覗き込んでいるマティアスにロックは「大丈夫だ」と微笑んだ。何だかよく分からないが、声が届く事、ちゃんと自分を認知してもらえている事にひどく安心する。

「ったく、心配させんなよ」

「ごめんな、ガドール」

「……無事ならいい」

 ガドールはそう言うと、ぶっきらぼうにロックの頭を撫でる。その手の温かさにロックはあの謎空間から帰って来れたのだと実感出来、一人安堵する。

「それで、クルッカは?」

「ちょっと用事。すぐ戻って来るって」

 「ね」とマティアスがガドールの方を見る。「あぁ」と頷いたガドールは、窓の外に目をやる。相変わらず、立ち姿が絵になる超絶イケメンだ。つくづく憎い。

「そうですか。では、君達には先に言っておきましょう」

「何だよ、一体」

「ロマノフ=ジョーヴァンの裁判が明日、行われるそうです」

 ジェイドの一言にロックはガドールが眉を顰める。

「裁判には私が出席します。心配でしょうが、判決が出るまで大人しくしていてください」

「別に暴れる気とかねぇよ。誰かさんと違ってな」

「……念のためです」

 まだ許していないと言いたげなガドールの突き刺さる視線にジェイドは複雑そうに眉を顰める。

「自業自得だぞ、ジェイド」

「……分かっています」

 ジェイドを励まそうとわざと茶化すチェイスに対し、その件にはもう踏ん切りを付けたジェイドはいつもの涼し気な顔で返す。

「あれ?何で元気なの?ちょっと前まで落ち込んでたくせに」

「何の話ですか?」

「いつの間に逞しくなったんだよ、お前」

 チェイスはやれやれと肩を竦めながら、いつもの調子を取り戻しつつあるジェイドにどこか安堵しているようだ。

――……アレは、結局何だったんだろう。

 そんな二人を眺めながら、ロックは先程見た白昼夢のようなモノについて考えていた。アレがチェイスの過去ならば、何故それを自分が疑似体験のような形で見る事が出来たのか。

――考えても分かる訳ないか……。

「おい、ボーッとしてどうした?」

 不意に視界にガドールが入って来る。ロックの様子がおかしい事に気付いたらしく、視線が肩に向かっている。

「痛むのか?」

「いや、そうじゃなくて……」

「違うならなんだよ」

 ベッドに腰掛け、ガドールがロックを見下ろす。茜色の前髪から覗く、バイオレット色の瞳が何故だか不気味な光を宿している。

――ガドール……?

「……お前、"何"を"観た"?」

「え……」

 ギクリと体が反応する。答え次第ではガドールがこちらに何かする気なのは明らかだった。それがいつものチョップや蹴りではない事も。

――この"眼"、どっかで……。

 ロックの脳裏に何かが引っかかりかけた時、チェイスが遠慮がちに声をかけてきた。

「あ〜、今大丈夫か?」

 チェイスが遠慮がちに声をかければ、頭上から小さな舌打ちが聞こえてきた。何か察して、やって来たチェイスを邪魔だと思ったのか、何なのか。ガドールは髪をかきあげながら、ベッドから立ち上がる。

「……あぁ」

――助かった……。

 いつもは頼もしい背中が何故だか、怖いと感じてしまった事に罪悪感を覚えるも、ロックはひとまず安心と息を吐く。それを見ていたチェイスは「お前も大変だな」と苦笑を浮かべる。

「何か空気が空気だったから、放っとけなくてさ」

「そっか、ありがとう。俺は大丈夫だよ」

 チェイスの視線がそろりとロックの肩に向けられる。今日、何回その視線を向けられてきたか、数えるのも億劫な程だ。

――怪我した俺より、周りが気にしてどうすんだよ。

「本当、ごめんな。クルッカとジェイドの事、止めようとしてくれたのに」

「もういいって。と言うか、もう謝るの止めようぜ。な?」

「ロック……」

 おもむろに伸ばされた手がロックの頭で止まったかと思えば、慣れた手付きで撫で回された。ロックよりも一回り大きいチェイスの手は見た目の細さからは想像出来ない程、男らしい。

「……何か、お前……小型犬みたいだな」

「小型犬っ!?」

「そう。撫で心地いいし、髪も犬の毛っぽいし」

「褒めてねぇからな、それ!!」

 ロックの頭を撫でるチェイスの頬は緩みっぱなしだ。本当に小型犬でも撫でているかのような表情に、「あ〜、癒される」などと呟く始末だ。

――男の頭撫でて、癒されるって……。

 複雑な反面、ロックはチェイスのもう片手をぼんやりと眺めていた。誰もが、人には言えない過去がある。ずっと一緒にいても、知らない過去がある。知ってしまうと、何で笑っていられるのだろうかと考えてしまう。

――強いな、みんな。

 だけど、過去があるから今がある。やってしまった事は、もう取り返せない。二度と、同じ時間へは戻れない。だから、悔いのないように今を一生懸命生きようと足掻くのだ。

"自分から行動しないと前には進めない"

 未来で、こうして笑っていたいから。そのために、ここにいる自分達が未来を守らないといけない。他の誰でもなく、自分自身で。

"世界はロック、君を助けてはくれない"

 ロックの頭の中でクルッカの言葉が再生される。ロックが困った時、道を示すように勇気づけてくれたクルッカの言葉の真意をロックは理解した。

――クルッカ……。

「チェイスっ!」

 ロックがクルッカを想ったのとほぼ同時に、勢いよくドアが開いた。息を切らせて、病室に入って来たのはクルッカだった。

「ん?どうしたんだ、そんなに急い……で……」

 ロックを撫でていた手を止め、チェイスがクルッカの方へ振り返る。すると、そこにはどこか見覚えのある栗色の短髪の男が立っていた。

「よお、七年ぶりだな。相棒」

「モルドレッド――ッ!!」

 チェイスよりも先に反応するジェイドは、モルドレッドを鋭い目付きで睨み付けている。対して、モルドレッドもジェイドを見るなり、眉間に皺を深く刻んでいるあたり、仲はよくないらしい。

「クルッカ、何故彼を――!?」

「はいはい、騎士様はこっちな」

 冷静さをかいたジェイドを羽交い締めにし、病室の端へと追いやるガドールとそれを手伝うマティアス。ジタバタと暴れているが、二人がかりではジェイドも大人しくなるだろう。

「……何だよ、お化けでも見たって顔しやがって。片腕がなくなったくらいで俺が死ぬ訳ないだろ」

 ジェイドに中指を立てた後、男――モルドレッドは失ったはずの左手の拳をチェイスの胸に軽く当てる。僅かにした機械音から、それが機械鎧であるのだという事に気付く。

「違う、そういう事じゃ――ッ!」

「違わねぇよ、俺は死んでねぇ」

「死んだんだよ、お前は!!」

 チェイスの叫びが病室に響く。いつものチェイスらしからぬ言動にチェイスとモルドレッド以外の一同は小さく息を呑む。

「俺が、お前を……騎士としてのお前を殺したんだよ!!」

 チェイスはモルドレッドの左手を掴むと、鬼気迫る表情でモルドレッドを見る。一触即発、そんな空気にモルドレッドを連れて来たクルッカは不安気に二人を見つめている。

「違います、あれはどう見ても事故だと何度も――!」

「……ジェイド、少し黙ってくれないか?」

「しかし!!」

「黙れよ」

 強い口調に背筋に悪寒が走る。関わって来るなとあからさまな拒絶に何か言いたげなジェイドは納得出来ないと顔を歪める。

「ハッ――、笑わせんな。お前が俺を殺せるかよ」

 チェイスの固く握られた手を払い、モルドレッドは自身の腰に携えていた武器の一本であるレイピアを無造作にチェイスの方に放り投げる。

「俺は死なねぇ!そう言ったのを忘れたのか?」

 咄嗟にレイピアを受け止めたチェイスは、それを見て、目を見開く。新品のように綺麗なレイピアにはチェイスの名前が刻まれており、昔モルドレッドに託したものらしかった。

「……正直、片腕がなくなった聞いた時は終わったって思ったさ。でも、んな事より、俺が傷付いたのは相棒だと思ってたお前が勝手にいなくなった事だ」

「――ッ!!」

「だから、まぁ、そういう意味じゃお前の事は許せねぇよ。けど、ジョックも言った通り、左腕の件は別だろう。アレは俺が逃げ遅れたせいで、お前のせいじゃない」

 諭すように優しい口調で告げるモルドレッド。ジョックというのはジェイドの事らしい。しかし、チェイスがそれで納得する訳もなく、眉を顰めた顔はとても苦しそうだ。

「じゃあ、俺はどうしたらよかったんだ……?相棒面して、お前の隣に立ってればよかったのか?そんな事、出来る訳……」

「それでも俺は……、いて欲しかった」

「なっ――」

「お前と……一緒に生きたかったんだよ、チェイス」

 モルドレッドの声が微かに震える。七年越しの思いの丈をぶつけられたチェイスはどう返すのか。チラリと視線を向ければ、そこには驚いた表情で目から一筋の涙を流すチェイスがいた。

「チェイス……?」

 涙を流すチェイスに一番動揺しているのはジェイドだった。双子だから、何でも分かると誰かが言っていたが、今のジェイドにチェイスの気持ちは1ミリも分かっていないようだ。

――ずっと苦しかったよな。

 あの日からずっと罪の意識に苛まれ、苦しみ続けてきたチェイス。過去の一部を盗み見したロックがその全てを知る事は出来ないが、悟られないように飄々とした態度を取り続ける事は簡単ではないだろう。

「ごめん……。今更謝っても意味ないかもしれねぇけど、本当にごめんな……」 

「いや、それを言うなら俺の方こそ、ごめん。もっと早くに会いに行けばよかった」

 堰を切ったようにボロボロと涙を流すチェイスにつられ、モルドレッドも薄らと目に涙を浮かべている。相棒が泣いている手前、泣く訳にはいくまいと堪えているように見える。

「――仲直りしようぜ。七年越しのさ」

「あぁ」

 ぶっきらぼうに涙を拭い、差し出された手にチェイスが自身の手を重ねる。充血した目はまだ潤んでいるが、どこかすっきりしたように見える。

「おかえり、チェイス」

「……ただいま、モロ」

 モルドレッドの愛称を口にしたチェイスは、七年間のしがらみからようやく解放されたのだった。

十五・秘めたる思い

「じゃあ、改めて自己紹介な。俺はモルドレッド=マローネ、モロって呼んでくれ」

 無事仲直りを果たしたモルドレッドは、人懐っこい笑みを浮かべ、その場にいる一同に挨拶をする。

「よろしくな、モロ。俺はガドール、ガドール=クーリッジだ」

「俺はロック=ペプラム。で、こっちが……」

「マティアス=バルディ。よろしく」

「ガドールにロック、マティアスな。OK、覚えた」

 ジェイドの時とは違い、モルドレッドにはロックとガドールも警戒を見せていないようで、すぐに打ち解けた四人は和やかな雰囲気のまま、話に花を咲かせ始める。そんな様子を少し離れた場所から見ていたクルッカはホッと安堵したと同時に、彼らを鋭い目付きで見ているジェイドをどうするべきかと眉を顰める。

――犬猿の仲とは聞いていたけど、こうも酷いとは……。

 モルドレッドの姿を見てから、ずっと不機嫌なジェイドの眉間には深い皺がくっきりと刻まれており、どれだけの因縁があるかが伺える。元々、朴念仁で人と付き合う事が苦手なジェイドだが、それ故に他人にはあまり関心がなく、こうも人を嫌っているのは珍しいくらいだ。

「ジェイド、お前なぁ……」

 ジェイドの態度に見かねたチェイスが声をかけるも、ジェイドはチラリとチェイスを一瞥しただけで、またモルドレッドの方に視線を戻してしまう。

「そういえば、モロは今何してるの?」

「ん?あぁ、今は騎士団ギルドの団長をしてるんだ」

 騎士団ギルド――。その単語に分かりやすくジェイドの肩が震える。

「騎士団って言っても、まだ自警団程度だけどな。俺みたいなスラム街の奴らでも騎士になりたいって奴を応援したくてさ」

 モルドレッド曰く、王立騎士団は騎士の登竜門だが、騎士の名家でもない限りは敷居が高く、志はあれど、チャンスには恵まれず、夢を諦めるしかないのだという。スラム街出身者で何かと苦労してきたと語るモルドレッドはそんな人達のチャンスの場になればと、王立騎士団を辞めた後に仲間を募り、騎士団ギルドを結成したらしい。

「おかげで昔よりはだいぶ治安もよくなったんだぜ?機会があれば、案内してやるよ」

「ん。楽しみにしてる」

 口の端に笑みを浮かべるマティアス。出会った当初は他人に無関心で無表情なせいで、機械人形なんて呼ばれていたのが嘘のようだ。

――マティアスだって元はそうだったんだ。なら、ジェイドも変われるはず……。 

「……そっか、お前また騎士になったんだな」

「だから、言ったろ?俺は死んでねぇって」

「そうだな。……なぁ、一つお願いがあるんだけど、聞いてくれるか?」

 妙に真剣な顔つきでチェイスがモルドレッドを見る。お願いというのが何なのか、検討のつかないモルドレッドは首を傾げながら、何だよとチェイスに続きを促す。

「都合のいい話だとは思うんだが、俺を――そのギルドに入れてくれないか?」

「え――?」

「な――!?」

 突然の言葉にモルドレッドはもちろん、話を聞いていたジェイドは思考が止まったかのように固まってしまう。

「チェイス、本気なのか?」

 そんな二人に対し、冷静なガドールがチェイスに尋ねる。

「あぁ、本気だよ」

「……一応聞いとくけど、それはモロへの罪滅ぼしとかではなく?」

 和解したとはいえ、チェイスの罪の意識が消えた訳ではない。いつもは飄々としているが、根はジェイド同様真面目な分、そういう気がないとは言い切れない。しかし、それはモルドレッド自身望んでいる事ではないし、そんなつもりで騎士に戻るのであれば、ジェイドが黙っていないだろう。ただでさえ、王立騎士団を選ばなかったのだ。その怒りがどれ程か、幼馴染のクルッカに分からないはずがなかった。

「違うね。俺がモロの隣であいつを支えたいからだよ」

 はっきりと告げられた一言に理解の追いついたらしいジェイドがツカツカとチェイスに詰め寄る。

「何故……何故ですか、チェイス!どうして、こんな未熟者の――キトゥンブルーを選ぶんですか!?貴方の戻るべきは王立騎士団でしょう!」

「確かにお前の言う通り、本当なら俺はそっちに戻るべきだ。でも、それじゃ七年前と一緒なんだよ。一緒に生きたいって言ってくれた、モロを俺はもう一人にはしたくないんだよ」

「チェイス……」

 和解したからこそ、今度はちゃんとモルドレッドの隣にいて、支えてやりたい。そんな気持ちを吐露するチェイスだが、ヒステリックを起こしているジェイドには一ミリも聞こえてはいない。

「……それが、理由?そんなくだらない事で貴方は」

 ジェイドはそう言うと目の前のチェイスの胸倉を掴み上げ、顔を歪めながら声の限り叫ぶ。

「貴方は、私を……何だと思っているんですか!!」

「おい、ジョック。落ち着けよ!ここ病室って忘れてんのか」

 すかさず、モルドレッドが止めに入るもジェイドの力が強すぎるのか、なかなかチェイスから引き剥がせない。

「クッソ、馬鹿力が――!!」

「どうして、どうしてどうして!!」

「ジェイド、お願い。落ち着いて!」

 初めて見るジェイドの変貌ぶりに頭がおかしくなりそうだった。他人に厳しい分、身内には盲目的になりがちだが、これは明らかに異常だ。

「ッチ、これだから騎士様ってのは嫌いなんだよ」

 ガドールは呆れたように吐き捨てると、おもむろにジェイドに近付いて行く。

「ちょっと落ちてろ」

 スッとガドールの手がジェイドの首筋に当てられた瞬間、バチッという音と共にジェイドがその場に崩れ落ちる。

「どうして……、どうして、貴方は私を選んでくれないのですか……」

 意識を失う直前、呟かれた声は弱々しく、酷く悲しげだった。

「大丈夫か?」

 気絶させたジェイドを病室のソファーに寝かせ、ロック以外の全員が廊下に出る。騒ぎを聞きつけた看護師に他の患者に迷惑だとしこたま怒られたからか、ジェイドの件で疲れたのか、誰も彼も暗い表情を浮かべている。

「ガドール、さっきはありがとう。助かったよ」

「別に。あのまんま、騒がれちゃロックが休めないからな」

「そう、だね。ロックにも謝らないと」

 ただでさえ、因縁相手のロマノフ=ジョーヴァンの事で頭がいっぱいだろうにこれ以上気苦労を増やしては、ロックの身が持たない。

――騎士嫌いに拍車がかからないといいけど。

「ま、時間稼ぎはしてやったんだ。せいぜい、どうするか考えるこったな」

 ガドールはソファーから立ち上がると、すれ違い様にチェイスの背中を軽く叩く。

「騎士に戻るにしろ、何にしろ、あいつが納得出来るように言ってやらねぇとまた大事なもん、失っちまうぜ?」

「あぁ、肝に銘じとくよ」

 「くれぐれも騒ぐなよ」と釘を刺し、ガドールはその場から離れていく。外の空気でも吸いに行くのだろうか。

「あたしもちょっと外すね。すぐ戻って来る」

 ふと昼間の件で謝っていなかった事を思い出したクルッカは、廊下にいる一同に断りを入れるとガドールの後を追いかける。

――ガドールは……いた。

 病院を出てすぐのベンチにガドールはいた。茜色の髪をかき上げ、天を仰いでいる姿は絵のようで、クルッカは思わずドキッとしてしまう。

「隣、いい?」 

 控えめに声をかけると、普段は隠れている左目がクルッカに向けられる。右目よりも色素の薄いように見えるヴァイオレット色の瞳は美しく、宝石を彷彿とさせる。

「どうぞ」

 クルッカに気付いたガドールは髪を直しながら、少しズレ、自身の隣を空ける。ありがとうと隣に座ったまではよかったが、特に話題もないのでクルッカはどうしたもんかと思考を巡らせる。気分転換に外に来たであろうガドールに頭痛の種になりそうなジェイドの話は避けるべきだろう。しかし、そうなるとどう切り出せばいいのか、悩んでしまう。

「……昼間はごめん」

 結局、回りくどいのは性分に合わないと単刀直入に本題に入る事にした。すると、ガドールはこちらに向き直り、俺こそ悪かったとクルッカに謝った。

「ロック相手にゃ慣れてんだけどな。誰かを励ましたりすんのは、どうにも苦手らしい」

「ガドールでも苦手な事、あるんだね」

「そりゃ、能力者っつっても人間だからな」

 バチバチと掌で電気を流してみせるガドール。その顔はどこか影を感じさせ、ガドールも何かしら抱えているのだろうとクルッカは思った。

「……じゃ、俺達も仲直りだな」

「うん」

 照れ臭そうに笑うガドールにつられて、クルッカも笑う。ジェイドの件はまだ片付いてはいないが、とりあえずガドールと仲直り出来た事を素直に喜びたかった。

――ガドールがいれば、大丈夫。

 いつからそう思うようになったのか。気付くとその背を頼もしいと思い、重ねた手を心強いと感じていた。それがどういう気持ちから来るものなのか、今のクルッカには分からなかったが、それでもガドールの存在に救われていると実感すると胸が温かくなる。その心地よい温かさに今は酔いしれるのだった。

―――――――――――――――――――――

 病室に残されたロックは未だにソファーで眠っているジェイドに目をやる。普段、冷静沈着すぎて冷酷だと感じる程感情を顕にしないジェイドがあれ程豹変するとは、誰が想像出来るだろうか。

"どうして……、どうして、貴方は私を選んでくれないのですか……"

――まぁ、気持ちは分からなくもないけど。

 モルドレッドのせいで騎士を辞めたチェイスが、今度はモルドレッドの為に騎士に戻ると言った。ジェイドの性格からして、今までもずっと騎士に戻るように説得していたはずだ。しかし、チェイスはそれに頷いてはくれなかった。だというのに、こうもあっさり騎士に戻ると宣言されては腹が立たない方がどうかしている。

――ジェイドはチェイスの相棒になりたかったんだよな。

 チェイスがジェイドをどう思っているかは分からないが、チェイスを見るジェイドの目をロックはよく知っている。口にも態度にも出さないし、ジェイドはチェイスに憧れを抱いてる。ロックがガドールに向けている眼差しとジェイドのそれはよく似ていた。

「俺もガドールの隣に他の奴がいたら、嫌だな……」

 頭の中で一瞬想像してしまい、ロックは眉を顰める。我ながらに女々しいと思いつつも、やはりガドールの隣には自分がいたいという気持ちがある。傍から見れば、依存しているのかも知れない。けれど、ロックにはガドールのいない日々は考えられないし、いるのが当たり前の存在なのだ。その認識を変えるのは並大抵の事ではない。

「ガドール離れしないとなぁ……」

 そんな事を考えていた時、控えめなノック音と共に病室のドアが開いた。

「ロック、今いい?」

 ドアから顔を出したのはマティアスだった。他のみんなはどこかへ行っているのか、廊下から気配は感じない。

「あぁ、大丈夫だよ」

 手招きされたマティアスは病室に入って来ると、ソファーで眠っているジェイドの方にチラリと視線を向ける。

「ジェイド、まだ眠ってる」

 穏やかな表情で眠っているジェイドだが、その眉間には深い皺の跡が残っている。いつもしかめっ面をしているからだろうか。マティアスはジェイドの傍にしゃがみ込むと、指で眉間を軽くつつき出す。

「俺はまだジェイドの事、ちゃんと許せない。ジェイドがモロを許せないみたいに。でも、俺はジェイドを仲間だと思ってる。だから……」

「だから、心配?」

「ん。起きたら、またああなる?」

「どうだろうな……。眠って冷静になってくれれば、ありがたいけど」

 ロックの返答にマティアスはそっかと小さく声を漏らす。またヒステリックを起こされたら、たまったものじゃない。幸い、ロックのトランクの中には睡眠薬もある。いざとなれば、それを使うしかないが、あくまで最終手段であり、出来る事なら平和的に解決したい。

「ジェイドは頭がいいくせに、何も言わないから勘違いされるんだと思う」

「そうだな。そのせいで怪我した訳だし」

「でも、チェイスも悪い。チェイスは伝わらないだろうってはなから諦めてる」

 幼い見た目に反し、よく人を見ているマティアスにロックは素直に感心してしまう。確かにチェイスはジェイドに迫られようといやに冷静だった。最初はジェイドを落ち着かせようとしていたのかと思っていたのだが、マティアスの言葉でそれがジェイドが理解してくれるという事への諦めから来ていたものだと気付く。説明を求められたから答えた、ただそれだけだったのだ。

「どうしたらいいんだろうな……」

 巻き込まれたとはいえ、これは当人達の問題だ。仲間とはいえ、他人であるロック達が踏み込んでいい事ではないだろう。しかし、心配なものはやはり心配であり、どうしたものかとロックは頭を抱える。

「ん………」

 くぐもった声と共にジェイドが身じろぎする。どうやら、目を覚ましたらしい。マティアスはロックの隣まで移動して来ると、固唾を呑んでジェイドを見つめている。

「ここは……」

「俺の病室だよ」

 ロックが声をかけると、ジェイドは上半身を起こし、こちらに視線を向ける。起きたばかりでまだ完全に覚醒していないらしいジェイドはとろんとした目で辺りをキョロキョロと見ている。

「私は、確か――」

 次第に色々と思い出したジェイドはサァーと顔を青くし、終いには顔を覆ってその場に疼くまってしまう。

――こいつ、酔ってやらかした事覚えてるタイプだな。

「本当に申し訳ありません。つい、カッとしてしまい……」

「癇癪で人が死ぬんじゃないかって心配になりましたよ、騎士様」

 皮肉混じりにロックが言うと、ジェイドは指の隙間からこちらを申し訳なさそうに見てくる。その姿に毒気の抜かれたロックはジェイドが二重人格者ではないかと疑いの眼差しを向ける。

「ジェイド、カッとなっても女の子は殴っちゃダメだよ?」

「DV予備軍みたいに言わないでください。しませんよ、絶対に」

 どうだかなと心の中で一人呟くロック。とりあえず、会話は出来るくらい冷静さを取り戻したようで一安心だ。

「頭が冷えて何よりだよ。で、どうするつもり?」

「どうすると言われても、今の私には合わせる顔がありません」

 失態続きの日々にジェイドは深い溜め息を吐く。自業自得だから、同情はしないけれど、こうも生き辛そうな姿を見ては何だか複雑な気分になる。

「今は大丈夫ですが、きっと二人を前にすれば、またヒステリックを起こしてしまう……。それが怖いのです」

 ジェイドは頭を抱えると、自身の肩を震わせ始める。その弱々しい姿はロックの知るジェイドとは掛け離れており、彼も人間だったのだと今更ながらに痛感する。

「……俺はまだジェイドの事、許せない。けど、ジェイドがどうしてあんな事をしたのか、分かったから、もう責めるつもりはない」

「マティアス……」

「ちゃんと言葉にしなきゃ、すれ違ったまま。ずっと、その気持ちを抱えてかなきゃいけない。それって、辛いんじゃない?」

 マティアスの一言にジェイドは伏せていた顔を上げる。不安げに揺蕩う瞳は小さな子供の様で、どうしたらいいのか分からないと縋り付く先を探している。

「さっさと仲直りして来いよ。兄弟なんて日常茶飯事ってくらい喧嘩するもんだからさ」

「……そう、ですね。分かりました」

 ロックとマティアスに背中を押され、重い腰を上げるジェイド。幾分、顔色はよくなったものの、チェイスと向き合うと決めたからか、その表情はいつも以上に凝り固まっている。

「君の騎士への固定観念をよいものにする為にも、私が前に進む為にも、チェイスとちゃんと話をして来ます」

「いってらっしゃい」

「ご武運を、騎士様」

 病室から見送られたジェイドは扉を閉める間際、こちらに軽く会釈をする。心做しか、その表情は柔らかく見え、ロックとマティアスは互いを見やる。

「ジェイド、笑ってた」

「そうだな」

 ジェイドにつられたのか、ロックとマティアスも笑みを浮かべる。仲直りが上手くいきますようにと願いを込めながら――。

―――――――――――――――――

 同日、ジェイドは王都の森の中にひっそりと佇むログハウスの前までやって来ていた。誰かの別荘だったらしいログハウスは手入れがされておらず、所々古びており、庭の片隅には長年使われた様子のない遊具が乱雑に仕舞われている。落ち着いた様子のジェイドはログハウスに刻まれた思い出を振り返りながら、目を細めてみせる。

「懐かしいな……」

 そんなジェイドを数メートル離れた場所から見守っているクルッカもまた、その懐かしさから目を細める。ここはミラー家の所有する森の一角であり、ジェイド達の秘密基地だった場所だ。ジェイドと知り合って以降、ここで暮らしていたクルッカは思わず昔を懐かしむ。その傍らに控えるガドールは時計に視線を落とし、辺りの気配を探っている。
 何故、クルッカ達がここにいるかと言えば、遡る事一時間前。病室にいるロックとマティアスからジェイドがチェイスと話をするとクルッカに知らせが入ったからだ。あのジェイドがちゃんとチェイスと向き合うとしている。幼馴染として結末を見届けなくてはとクルッカは待ち合わせ場所である秘密基地へと先回りしていたのだ。ちなみにガドールは兄弟の秘密を知っている共犯者として、クルッカが一緒に結末を見届けて欲しいと連れて来ていた。

――ガドールがいれば、あたしは冷静でいられる。

 胸に手を当て、クルッカは深呼吸する。ジェイド程ではないが、幼馴染の事になると感情的になってしまう自覚はある。これからの話し合いを冷静に見届ける為にも、感情の抑止力となりつつあるガドールの存在がクルッカには必要なのだ。

「やっとお出ましかよ」

 ガドールの声にクルッカが視線を向ければ、そこには神妙な顔付きのチェイスと数歩後ろを歩くモルドレッドの姿があった。

「……チェイス、モルドレッド。昼間は申し訳ありませんでした」
 
 開口一番、謝罪と共に頭を下げるジェイド。対し、チェイスは口を真一文字にし、下げられた後頭部を見つめるばかりだ。

「私は、貴方に対していつも言葉足らずでした。貴方が騎士を辞めた時も――いえ、それ以前から、ずっと。聡明な貴方なら言わずとも分かってくれると勝手に思い込んでいました」

 頭を下げたまま、ジェイドは言葉を続ける。

「でも、それは間違いだった。私の思いは貴方に一ミリも伝わらず、その事で貴方に当たってしまった……。本当に、申し訳ありませんでした」

 緊張で震える体が更に下を向き、肩からオレンジ色の髪が垂れ下がる。普段凛としているジェイドとは違うその様にクルッカの胸は締め付けられ、口元に自然と手が伸びる。

「ジェイド……」

 いつもいがみ合っているモルドレッドでさえも、思う所があるようで居心地が悪そうにジェイドを見つめている。

「私はただ……」

 固く握られた拳に更に力を込めると同時にジェイドが顔を上げる。瞬間、ジェイドとチェイスの視線が絡む。

「ただ――、貴方の隣にいたかっただけなんです」

 声は震える事なく、長年溜め込んだ思いをはっきりと言い放つ。たった一言、けれどとても大切な思いの丈を。

「モルドレッドではなく、兄弟である私を頼って欲しかった。……私だけが貴方を支えられると、本気で思っていた。自惚れていたのです、惨めなくらいに」

 ジェイドは眉を顰めながら、情けないだろうと言いたげに肩を竦めてみせる。

「貴方と向き合う事もせず、貴方にただ選ばれる事だけを願っていた。私の怠惰を、どうか許して下さい」

 再び頭を下げるジェイド。そんな姿にチェイスの後ろにいたモルドレッドがおもむろにジェイドの前へと歩み出る。

「頭上げろよ」

 モルドレッドはチラリとチェイスの方を一瞥した後、ジェイドに向き直り、そう言った。何を言う気なのだろうか。不安になり、クルッカがガドールに目をやれば、ガドールは見守ろうと言う代わりにモルドレッドの方へ顎をしゃくる。
  
「元はと言えば、俺が全ての元凶だ。だから、お前が謝る必要はねぇし、むしろ俺は責められるべきだと思ってる。人一人の人生を台無しにしたんだ。償っても償いきれねぇよ」

「モルドレッド……」

「謝るべきは俺だ。お前の憧れの――騎士だったチェイスを奪ってしまって、申し訳なかった」

 モルドレッドは言うが早いか、勢いよく頭を下げる。いつも顔を合わせれば、喧嘩ばかりしていた相手からの真摯な態度にジェイドはどうしていいか、分からずにその後頭部を見つめている。

「恨んでくれて構わない。許してくれなんて言える立場にいない事も分かってる。けど、チェイスが騎士に戻る事は許してくれ」

 「俺にはこいつが必要なんだ」。真っ直ぐに告げられた言葉に動揺するかと思いきや、ジェイドはどこか吹っ切れたような清々しい表情を浮かべていた。思いの丈をぶつけたからか、誰かの影響なのか、ジェイドの中にあったわだかまりはもうなくなっているようだった。

「顔を上げてくれ、モルドレッド」

 二人の思いの丈を聞き終えたチェイスはモルドレッドの前に一歩踏み出すと、固く閉ざしていた口を開ける。

「…悪い、ジェイド。俺に勇気がなかったばかりにお前をずっと傷付けて。お前と向き合うのが…、お前に拒絶されるのが、怖かったんだ」

「拒絶…?貴方が何をしたと言うのです?…絶縁された事は貴方の落ち度ではありません。貴方は貴方の騎士道を重んじただけではないですか!」

「そんなかっこいいもんじゃねぇよ。俺は理由が欲しかっただけだ。あの家から離れる、真っ当な理由がさ」

「チェイス…?」

「俺は、お前達を利用した…。モルドレッドの怪我を理由にミラー家の事を全部お前に押し付けて、逃げたんだ」

 チェイスの告白にジェイド、モルドレッドはもちろん、遠くから盗み聞いていたクルッカとガドールも呆気に取られてしまう。長い沈黙は自身の犯した罪の重さに苦しんでいたのか。そう思うと、チクリとクルッカの胸に痛みが走る。

「私は押し付けられたなんて――」

「お前がどう思ってるかは関係ない。これは俺の犯してしまった罰なんだ。例え、お前達に許されたとしても、俺の罪悪感は一生消えないし、忘れる事も絶対にない。それが俺なりの贖罪だ。だから、どうか俺を許さないでくれ」

 空気が再び重くなる――、そう思った時、誰かの吹き出したような笑い声が耳に届いた。

「…ふっ、はは。俺達、謝ってばっかだな」

 笑っていたのはモルドレッドだった。友達の冗談に笑っているような穏やかな表情には、裏表を感じさせず、純粋にこの状況がおかしいと言いたげだ。すると、普段なら開口一番嫌味を言い放つジェイドが同調するように口の端に笑みを浮かべる。

「そうですね。これではまた堂々巡りです」

「珍しく意見が合うじゃねぇか、ジョック。ま、今日だけは一時休戦で仲良くしてやんよ」

「……何でしょう、肌がゾワリとしました」

 ジェイドは自身の腕を擦りながら、目を伏せる。対して、モルドレッドは「ちょっとは大人な対応しろや」とジェイドを睨み付ける。

「空気が変わった…?」

 いつも通り過ぎるやり取りに状況の読めないクルッカ。しかし、チェイスだけは俯いたまま、重苦しい空気の中に佇んでいる。どんな言葉を掛けた所でその空気を取り払う事は出来ないだろうと容易に分かる状況に二人はどうするつもりなのか。不安からガドールを見上げると、ヴァイオレット色の瞳と視線が絡む。目が合っただけ、だというのに不思議と抱いていた不安がフッと消えていく。それ所か、胸が温かくなっていく感覚さえしてくる。

――何なんだろう、この感情は…。

「おい、いつまでそんな顔してんだよ」

 バシンッと強い音に視線を戻せば、チェイスの背中を叩くモルドレッドの姿があった。その傍にはジェイドもおり、仕方ないとばかりに肩を竦めている。一方のチェイスは突然の事に流石にびっくりしているようで、叩かれた背中に手を回しながら、モルドレッドを見やる。

「言いたい事、言わなきゃいけねぇ事がまだあんだろ?だから…、飲みに行くぞ!」

「……は?」

 モルドレッドの言葉にチェイスはポカンと口を開けたまま、間抜けな声を漏らす。

「腹割って話すなら酒場って決まってんだろ?いいとこ知ってんだ」

「え?何でそうなるんだよ。だって、俺は…」

「貴方こそ、何でこういう時ばかり生真面目なんですか。いつもみたいに飄々としていればいいのに」

「そんなの、出来る訳…」

「私は今度こそ、貴方と向き合いたい。私の妄想が生み出した貴方ではなく、私の兄である貴方と」

 ジェイドの真っ直ぐな言葉にチェイスの息を呑む音が聞えて来る。

「騎士に戻りたいのでしょう?ならば、戻ればいい。それで文句を言う輩がいるのなら、私の持てる全ての権限を使って黙らせます。だから、貴方は貴方の思うままに生きてください。何にも縛られず、自由気ままな、そんな貴方が私の憧れなのですから」

「ッ――、ありがとう、ジェイド…」

 掠れた声が今までどれだけ苦しんで来たかを想像させる。一生背負っていく罪だとチェイスは言った。きっとこんな場がなければ、これから先も知る事はなかっただろう。誰にも知られず、誰にも悟られず、ずっと一人で苦しみ続けていた。そんな未来を防げた事に心の底から安堵する。

「……よかったな、チェイス。アンタが羨ましいよ」

 そんな中、ポツリと上から降って来た言葉は酷く落ち着いていた。何処か違和感のある発言にクルッカが声を掛けると、ガドール自身口から付いて出たものだったらしく、指摘されるまで気付かなかったようだ。

「ッチ、いいとこ持っていきやがって…。今日、お前の奢りだからな」

「別に構いませんよ。この中で一番稼いでいるのは私ですし、貴方に奢られても気分悪くて飲めないです」

「お前、本当にムカつくな。つーか、お前死ぬ程下戸で空気だけで酔うって聞いたぞ?飲む以前の問題じゃねぇか」

「な――!?」

 恥ずかしさから顔を真っ赤にしたジェイドは元凶であろうチェイスへと顔を向ける。すると、チェイスは「だって、みんな、お前を完璧人間扱いするのが面白くなかったんだもん」といつもの飄々とした態度だ。

「前言撤回です。今日はチェイスに奢ってもらいましょう。キトゥン、高い酒をジャンジャン頼むといい」

「おっ、じゃああの馬鹿高い酒頼んでみてぇな。何ってったっけなぁ…」

 ワイワイと遠退いていく三人の背を見送るクルッカとガドール。ふと最後尾にいたチェイスがこちらを振り返る。声には出していないが、口を何回か動かした後、何事もなかったかのように前へと向き直る。動きから察するに「ありがとな」と言っていたのではないだろうか。隠れていた事がバレていた事に気付いた二人は苦笑いを浮かべるのだった。

十六・Welcome to the party

 ジェイドとモルドレッドの喧嘩騒動の翌日。ゾフィとヴァルゼルドの裁判を見届けるために、ジェイドが病室を出て行って、かれこれ一時間が経った。

「ロック、落ち着いて」

「うっ……、悪い……」

 ロックは病室でソワソワしていた。怪我をしていなければ、裁判所まで行ってしまいそうなくらい、いてもたってもいられない。

「ジェイドが帰って来るまで大人しく待つって、約束しただろうが」

 ベッドから上半身を起こしかけたロックの額をガドールが指で軽くつつく。

「そりゃ、そうなんだけど……」

「なら、大人しろ。つか、今は肩治さねぇとだろ?」

「ん。クルッカも言ってた」

 「クルッカの言った事は守らないと」とマティアスがロックをベッドに戻す。無邪気なマティアスに言われてしまうと、ロックが言い返せない事を知っているガドールはロックを見て、悪戯っぽく笑う。
ちなみにクルッカはロマノフ=ジョーヴァンの件で組織に行っている。

「お前ら、本当に仲いいな」

 椅子の背もたれを前にして、座っていたモルドレッドが感心するように呟く。チェイスをパシリに使い、帰りを待っているのが退屈になったのか。モルドレッドはロック達の様子を眺めていたようだ。

「特にロックとガドール。傍から見てると兄弟みてぇ」

「そうか?まぁ、兄弟同然に育てられたからな」

「そうそう。全く、手のかかる弟だ」

 ガドールがロックに視線を投げると、「だね」とマティアスも賛同した。正直、年下に弟扱いされてしまうと立つ瀬がない。というか、情けなくなってくる。

「ガドールとチェイスは兄って感じだよな。んで、ロックとマティアスが弟」

「ジェイドは?」

「犬」

――おいおい……。

 モルドレッドの返しにロックとマティアスは固まり、ガドールはケラケラと笑っている。茜色の長髪が息を吸い込む度に大きく揺れる。

「せめて、母親だろ」

「あのジョックが?ハッ、こっちから願い下げだ」

「じゃあ、モロは?」

 マティアスが可愛らしい仕草でモルドレッドに尋ねる。傾げた首から水色の柔らかそうな髪が垂れ、紅蓮色の目が興味津々にモルドレッドを見つめている。

「俺も仲間に入れてくれんの?」

「面白い奴は歓迎するぜ」

「モロは中間くらいがいいんじゃないか?兄貴でも弟でもいけそうじゃん」

 いつの間にか盛り上がる会話にロックも便乗する。

「男五人兄弟とおまけに犬って、どんだけむさいんだよ」

「……クルッカは?」

 マティアスの言葉に一瞬考え込むロック、ガドール、モルドレッドの三人。よく考えれば、この家族構成にクルッカをぶっ込んでしまうと大変な事になる。架空とはいえ、家族に恋愛感情を抱くのには少し抵抗がある。

――絶対、姉貴だろうし。

「クルッカは……いとこな」

「いとこ?」

「そ。訳あって一緒に暮らしてる設定で」

 もはや、架空というより本気で考え始めたモルドレッドが設定まで作ってしまった。しかし、いとこでその設定付きなら、かなりおいしい。いとこなら、恋愛感情を抱いてもオーケーだろう。ロックがそんな事を考えていると、突然――。

「いとこって、結婚出来る?」

 マティアスが爆弾を放ってきた。まさかマティアスから聞かれるとは思っていなかった、一同は固まるばかりだ。ロックに至っては、開いた口が塞がらず、間抜けなカバのようである。これをガドールやチェイスあたりが言えば、怒ったり、ツッコんだり出来る。それ以前にあの二人が言うとセクハラだ。けれど、聞いて来ているのはマティアスだ。深い意味は考えていないはずだ。

「出来るけど……すんのか?」

「俺じゃないけど。というか、俺まだ結婚出来ない」

 マティアスの言葉に心底ホッとするロック。マティアスが恋敵になってしまったら、勝てる気がしない。正直、クルッカとマティアスの癒し&可愛さは半端ではない。絶対にお似合いだ。

「だよな。つか、クルッカってガドールの彼女じゃねぇの?俺、てっきりそうだと……」

「はぁーーーっ!?」

 ベッドから勢いよく起き上がったロックが大声で叫ぶ。

「大人しくしてろっ!」

 ガドールの腕がロックの胸にぶつかる。見事なラリアットを食らったロックが力なく、ベッドへと戻っていく。

「で、どうなんだよ。ガドール」

「別に付き合ってねぇけど」

 半分意識のないロックの頭を軽く叩きながら、ガドールがそっけなく答える。その傍らにいるマティアスは先程、ロックが蹴り上げた布団をロックにそっと掛け直した。

「マジかよ。あんなに可愛いのに」

「可愛いだけじゃねぇぜ。あいつ、ものすごい強ぇんだ」

 バイオレット色の目が光を受けて、輝く。生き生きとした、ガドールの表情にロックの目は釘付けになる。

――ガドール、まさか……。

「あいつ、マジですごいんだな。俺んとこもこいつの登録コード見つけて、捜しちまうしさ」

 モルドレッドはおもむろに左腕の袖をまくった。露になったのは、機械で作られた義手――機械鎧(オートメイル)だった。クルッカはこの機械鎧の登録コードを調べ、モルドレッドに行き着いたという。

「……好きなら捕まえとかねぇと、誰かに取られちまうぜ?」

「……あんたもな」

 「生真面目に負けても知らねぇぞ」と余裕たっぷりにガドールがモルドレッドに言った瞬間、モルドレッドの顔が一気に真っ赤になった。

「あれ、図星か?」

「俺はホモじゃねぇっ!!」

「じゃあ、ゲ……」

「黙れ!!」

 モルドレッドの拳がものすごいスピードでガドールに向かったかと思うと、拳は乾いた音を立て、ガドールの手の中に収まっていた。あまりのスピードに瞬きさえも忘れてしまうロック。

「速っ……」

 流石のガドールも面食らっている。けれど、モルドレッドの拳を受け止めたガドールにはその軌道が見えていたはずだ。それを悟ったモルドレッドが悔しそうに眉を顰めている。

「お前、動体視力よすぎ」

「あんたは瞬発力よすぎ。速ぇし、痛てぇし」

 ガドールがモルドレッドの拳を受け止めた手を軽く振る。一方のモルドレッドは握った拳をじっと見つめている。

「モロ、すごい」

 空気を察してか、マティアスがパチパチと拍手した。少し赤みのさした頬が少年ながらにかなり可愛い。

「マティアス、お前は天使か」

 モルドレッドがマティアスの頭を撫でる。フワフワとした、少し癖のある水色の髪がモルドレッドの指によって、梳かれていく。

「いいよな、お前ら。癒し要員いてさぁ」

「なら、犬やるよ」

「いらん」

――ジェイドが不憫だ……。

 犬キャラが定着してしまった上に雑に扱われているジェイドに同情するロック。多分、この場にジェイドがいたら、キレていただろう。

「つか、ここ病室だから、静かにな」

「へーい」

 ガドールとモルドレッドの声が綺麗にハモる。

――なんだかんだで仲いいよな、二人とも。

 ロックがそんな事を思っていると、パシられていたチェイスが戻って来た。抱えている紙袋の中にはモルドレッドやみんなが頼んだ物が入っている。

――あれ……?

「おかえり」

「ただいま。あ〜、疲れた」

 「ほらよ」とチェイスが紙袋の中に入っている物を各自に手渡していく。テキパキとした動きは流石というか、手馴れている。

「サンキュー」

 ガドールはチェイスからビンに入った炭酸水を受け取ると、ナイフで器用にビンのフタを開けた。プシュッという音と共に柑橘系の爽やかな香りが漂ってくる。

「マティアスは……カメラのICカードな」

「ありがとう」

 マティアスがチェイスから受け取ったのは、カメラ用の超小型ICカードだ。

「マティアス。お前、カメラ持ってるのか?」

「ん。持ってる」

 「見る?」と少し首を傾げるマティアスの手には、いつの間にかカメラがあった。立派な一眼レフのカメラは窓から入ってくる光で鈍く光っている。
何だ何だと興味津々にガドールとモルドレッドもこちらに近寄って来る。

「おーい。見せるなら、ロックにも見せてやれよ」

 起き上がろうとしたロックをベッドに押し戻し、チェイスが言った。心做しか、力のあまり入っていない手にロックは怪我を気にしているのだと察する。

「大人しくしとけって」

「あのさ、起き上がったくらいで傷口開いたりしないから。魔力使ってるし」

 押し戻され、いささかイライラして来たロックが早口で返す。

「何だよ。みんなに心配されるの、迷惑なのか?」

「そうじゃない。……心配してくれるのは、嬉しいよ」

「だろ?なら、大人しくしてろ」

 にこやかなチェイスの笑顔にこれ以上、何も言い返せないロック。何故、こんなにも口が達者な人間が勢ぞろいしているのだろうか。今更ながら、ロックは疑問に思う。

「これ」

 ガドール達がロックのベッドの周囲に集まると、タイミングを見計らって、マティアスがカメラの画像を見せた。それは、人の行き交う市場を上から撮った写真だった。

「可愛い!」

 ロック達が同時に声を上げる。

「ミニチュアみてぇ」

「マティアスっぽいな」

「これって、ティルトシフトレンズか?」

 ガドールがカメラのレンズを覗き込む。レンズを見ただけで分かるのか。ロックが驚いていると、マティアスがこくんと頷いた。
 ティルトシフトレンズとは、撮ったモノがミニチュアのように映るレンズの事だ。そのため、写真に映っている人も馬車も露店も、全てがおもちゃのように可愛らしい。

「マジで欲しいわ。癒し要員」

「やらねぇぞ。つか、マティアスはモノじゃねぇし」

「なら、クルッカを……」

「ついでみたいに言うな」

 ガドールがモルドレッドの額を叩く。「ちぇ」と本気で残念がるモルドレッドにガドールは続け様にデコピンを食らわせた。

「あれ〜?いつの間に仲良くなったんだよ、二人とも」

 ニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべるチェイス。心なしか、その笑みはぎこちなく感じる。

――……チェイス?

「別に」

「普通だろ」

 モルドレッドが頭をかき、ガドールが腕を組んで言った。先程からよくハモる二人は不思議そうに互いの顔を見ている。

「ジェイドもガドールみたいに社交的だったら、仕事に活かせるのに……」

 マティアスはそう呟くと、残念そうに遠くを見た。寂しげな背中が何とも言えないくらいにシュールだ。

「お〜い、戻って来〜い」

 チェイスがマティアスに声をかけるが、マティアスは心ここにあらずで全く反応がない。

――つか、ジェイドの奴、まだかよ。

 壁に掛かっている時計を見上げ、ロックは深いため息を吐いた。守秘義務という事で裁判については、詳しい事は教えてもらえせず、裁判が何時から始まって、終わるかさえも分からず、それが余計に不安を煽る。

「ゾフィ……ヴァルゼルド……」

 あの時、もし二人と出会っていなければ、こうやって思う事もなかったはずだ。そう考えると、つくづく運命とは残酷だ。

"みなさんのおかけです。本当にありがとうございます"

"お前のおかけだ。ありがとう"

 どんなに手が汚れても、二人の心は綺麗なままだった。生きるために人を殺す事は美徳かと聞かれれば、二人は口をつぐんでしまうだろう。頷けば、大義名分は立つが、頷かなければ、自分達の生き方を否定する事になってしまうという事を分かっているからだ。
 二人は多くのモノを失った。手を伸ばしたら、すぐそこにあったはずの幸せを。温かな家族を。今という、二度と返らぬ時間を。
 その上で明日までも奪われてしまうのか。

「おい」

 物思いに耽っていたロックがビクリと肩を揺らした。見ると、空のビンを片手にこちらを見下ろしているガドールがいた。

「何だよ」

 昨日の白昼夢のようなモノの一件が頭を過ぎり、口から出た言葉は思いの外、ぶっきらぼうになってしまう。

「しけた面してんじゃねぇよ。言ったろ?ジェイドを信じろって」

「……なぁ、信じるって何なんだ?」

 ロックの目がガドールの目を見据える。昨日のソレとは違う、いつものバイオレット色の瞳に少しだけ安心感を覚える。

「俺はジェイドを信じてる。けど、もしもの事を考えると……怖いんだ」

 布団の中の手が拳へと変わっていく。分からない感情がロックの中で吐き気のようにせり上がって来て、気持ちが悪い。

「これって……俺が信じてるって思い込んでるだけなのか?信じてるなら、怖いとかって思わねぇの?」

 ここにいないクルッカも、目の前にいるガドールも怖がっている素振りはない。だから、ロックは余計に怖くなった。元々、人よりも何倍も強いクルッカとガドールは、信じる事に迷いなどないのだ。

「俺は……おかしい」

 ひっくり返った声が我ながらに情けなくなる。

――何で、俺は強くなれないんだろう。

 ロックは目から流れた涙が枕を濡らしていく。幸いな事にガドール以外の三人はこちらを見ていなかった。多分、この会話も聞こえていないはずだ。

「おかしくねぇよ」

 ガドールがロックの涙を指で拭う。

「怖ぇのは、みんな一緒だ。俺だって、クルッカだって、人間なんだ。感情がない訳じゃねぇ」

 ガドールは前髪をかき上げると、チェイス達の見ている窓の方を見た。

「誰かを信じるってのは、そういう自分の感情も相手に託す事なんじゃねぇの?」

「相手に……託す?」

「あんま上手く言えねぇけど、信じるとかって難しく考えなくていいだろ。重要なのは、人を見る目だと俺は思うけど?」

 ガドールはこちらに向き直ると、口の端に笑みを浮かべた。綺麗で整った顔立ちのガドールは、超絶にかっこいい。

「おっ!何かすげぇ事やってんな」

「サーカスか。へぇ、王都ではまだやってるのか」

 モルドレッドとチェイスが外を見て、はしゃいでいる。おそらく、下でサーカスが客寄せのパレードでもしているのであろう。

「サーカス?」

 はしゃぐ二人の傍にいるマティアスはカメラを持ち、キョトンとしている。

「色々な曲芸や動物の芸を見せたりする、見世物の事だよ」

 ロックがマティアスに向かって言うと、マティアスは興味を示したのか、カメラのシャッターを切り始めた。連写でもないのにマティアスの指は忙しなく動いている。

「すげぇ。何もねぇとこで梯子上ってるぜ」

「あ、おいっ!」

 三人のはしゃぎぶりにつられて、ガドールも窓の方へと行ってしまう。ベッドに寝かされている状態のロックには窓の外の景色など、当たり前だが一切見えない。

「俺も見たい!!」

 起き上がると、怒られるため、ロックは精一杯に首を伸ばす。
 実はロックもガドールもサーカスというモノは知っているが、生まれてから今まで見た事がない。
 出身が南の辺境の地という事もあるが、サーカス自体が珍しいモノだったからだ。今では王都で公演している一座はたった二つだけという。それ程にサーカスは希少価値が高いのである。

「くそっ………」

――貧乏くじ引くプロだよ、マジで。

 いっそ、怒られるの覚悟でベッドから飛び出してやろうかとロックが思った、その時――。

「っ!?」

 ゾクッとロックの背筋が凍った。病院で感じるはずのない、ものすごい殺気に体は硬直して動かない。ロックは唯一、動く目で恐る恐る視線を感じる方に目をやった。目に映ったのは病室のドアだ。

「っ……!」

 ドアの外にいる人物と目が合う。ココナッツブラウンの瞳にパールグレイの髪がチラリと見える。相手は体格からして、かなり長身の男だ。
 男はロックと目が合っているにも関わらず、取り乱す様子はない。それどころか、涼しげな表情で紫色のフレームの眼鏡を指で押し上げている。まるで、わざと気付かせたと言わんばかりの態度だ。男はロックをしっかりと見据えると、ゆっくりと口を開いた。

――オールマイティー……。

 男はそれだけ言うと、後ろで一つに結った長髪を靡かせ、どこかへと去って行った。

「……何だったんだ。あいつ……」

 ロックは硬直した体から力が抜けていくのを感じながら、一人呟いた。顔に見覚えはなかった。しかし、初対面の相手にいきなり殺意など抱けるものではない。ロック自身に覚えがないだけで、相手はこちらの事をよく知っているというのはよくある話だ。

――それにオールマイティーって何だ……?

「どうかした?」

 ロックが黙り込んでいる事を不審に思ったマティアスが声をかける。一通り、写真を撮り終えたマティアスは満足そうだ。

「いや、何でもない……」

「……本当?」

「本当だよ。あ、さっき撮った写真、見せてくれないか?」

 ロックが言うと、「ん」といつものようにマティアスが短く返事をした。

「起きていい。その体勢じゃ、見づらいでしょ?」

「ありがとう、マティアス」

 マティアスがロックに手を貸し、上半身を起こした。右肩の傷は完全に塞がっているため、痛みはない。ここの設備がいいおかげか、医者のロックも驚くべき回復力だ。この調子なら、あと二、三日安静にしていれば、退院出来るだろう。

「……一分前」

「ん?何か言ったか?」

 マティアスが何か呟くが、小さすぎてロックには聞き取れない。すると、マティアスは左手の人差し指を唇に当て、静かにするように促す。よく見ると、先程まではしゃいでいたチェイスもマティアス同様に時計を見ている。

「ロックはじっとしてて」

「来るぞ!」

 チェイスの一言でこくんとマティアスが頷く。その一方で、訳の分からないロック、ガドール、モルドレッドの三人はキョトンとするしかない。

「っ!?」

 カチリッと時計の針が動いた瞬間、病室の床からまばゆい光が溢れ出した。

「これって……瞬間移動の……!」

「はぁっ!?何、おっぱじめようと……」

 まばゆい光がロックとモルドレッドの視線を眩ませる。目を開けていられなくなったロックが思わず目を閉じた。それと同時に独特な浮遊感が体を襲った。

「わぁっ!?」

 パァンという突然の爆発音にびっくりしたロックは声を上げ、目を開く。すると、そこはチェイスの騎空艇の食堂だった。目の前にはクラッカーを持っているクルッカ、ジェイド、チェイス、マティアスの四人が並んでいた。

「なっ………」

 そして、天井近くに吊り下げられた紙には、大きな字で"ロック、ガドール、モルドレッド 歓迎会"と書かれていた。

「歓迎会……?」

「ん。色々あって、長引いてたから」

「悪いな、ロック。まだ怪我完治してないのによ」

 クラッカーを回収しているチェイスにクラッカーを渡したジェイドがロックに向かって言った。

「え、ジェイド……?」

「何かあるっぽいから、合わせてたが……。ジョックよぉ、化けるなら上手くやれよな」

「……うるさいですよ、キトゥンブルー」

 ジェイドもといチェイスは素早く髪を結うと、着ていたコートをチェイスもといジェイドに返した。

――何で入れ替わってたのかはよく分かんないが、にしても似てるなぁ………。

 オレンジ色の長髪に緑色の目をした、ジェイドとチェイスは双子という事もあり、本当によく似ている。見分けるのは容易ではない。

「じゃ、改めて」

 マティアスがパァンッとクラッカーを鳴らした。その様子は可愛く、ロックもガドールもモルドレッドも嬉しげに微笑んだ。

「お前、また嘘吐いたのか?」

「前科持ちみたいに言わないで。今日呼ばれてたのは、本当」

 ガドールの言葉にムッとするクルッカ。少し尖らせた口が子供みたいで可愛い。

「おい、イジメんなよ」

「イジメてねぇよ。ふくれんなって」

 ガドールの手がポンポンッと軽く、クルッカの頭を叩く。羨ましいなと思いつつ、声をかけようとしたロックに誰かが声をかけた。

「ジェイド」

「ちょっといいですか?」

 騒がしくなる食堂の一角に移動した二人は、チェイスとモルドレッドが楽しげに話している姿を眺めている。

「裁判の件ですが、従犯のアベク=ヴァルゼルド、ゾフィ=フランシスカは執行猶予付き終身刑だそうです」

「それって、いいのか?」

「彼らの行動次第です。ちなみに主犯のロマノフ=ジョーヴァンは死刑です」

 ロマノフ=ジョーヴァン――。嫌でも反応してしまう名前にロックの体に自然と緊張が走る。あれ程憎んでいたはずなのに、いざ死刑と聞くと変な気分だ。死んでも当然だと思っていた相手だったのに、今のロックは何も感じない。

「やはり、喜べませんか」

「一応、医者だしな。それに、俺もガドールも気は済んだ」

「おや。あの時、殺してやると殺気立っていたのは、どこの誰でしたっけ?」

 ジェイドのモスグリーンの目が悪戯っぽくロックを見て、笑う。「俺ですよ、はい」とロックが腕を組み、ジェイドを見上げている。

「けど、俺は医者だ。だから……殺すとか本当は言っちゃ駄目なんだ」

――誰よりも、命の尊さを知っているのに。

 目の前で大切な人が苦しんでいても、何も出来ない不甲斐なさ。助ける術を知っているのに、救えない時の絶望。医者であるロックは嫌という程知っている。故に安易に口走ってしまった自分が許せない。

「俺、早く大人になりたいんだ。ガドールやクルッカに守られっぱなしじゃ、かっこ悪いし」

「……君の才能は、これから開花するはずだ」

 ジェイドがロックに向かって、柔らかく微笑んだ。

「私が保証しましょう。君は、今よりも強くなると」

「ジェイド………。ありがとな」

 ロックもジェイドに向かって、ニカッと笑った。ジェイドに認められた事がロックにとっては、とても嬉しかった。そして、心強かった。

「ですが」

「ん?」

「このままでは彼に負けてしまいますね」

 ジェイドが指差す先には、ガドールとクルッカがいた。二人は長テーブルの上に置かれている、クラッカーなどをつまんで楽しげに笑っている。本来なら微笑ましい光景なのだが、ロックの心は複雑だ。

「それを言ってくれるな。悲しくなる……」

「いいのですか?このままで」

「……よくないけど」

 ロックはゴニョゴニョと口ごもる。すると、何を思ったのか、ジェイドがトンっとロックの背中を押した。

「なら、さっさと行って来なさい。愚痴なら、後で聞いてあげますから」

「……お前、まだチェイスだったり……」

「殴りますよ」

 丁寧な口調とは裏腹にジェイドの顔は怖い。

「冗談だって。冗談」

 「いってきます」とロックは言うと、ガドールとクルッカの元に駆け出した。

「話、終わったのか」

 戻って来たロックに気付いたガドールが声をかける。いつもよりも少し上機嫌なガドールは、笑顔が最高に爽やかだ。

「あぁ、詳しくは後で話すよ」

「ロック、はい」

 クルッカが炭酸の入った紙コップをロックに差し出した。少し見上げる、レモン色の目がとても綺麗でロックは数秒見とれてしまう。

「ありがとう」

 ロックはクルッカから紙コップを受け取った。トクントクンッと心臓の鼓動が早くなる。少し触れた指先に全神経が注がれ、ロックの頬が熱を帯びる。

「ジェイド、酒出せ。酒」

「つまみも持って来い」

「いい加減にしなさい」

 酒の入ったチェイスとモルドレッドを見かねたジェイドが二人を一喝する。ダメな大人達をまとめるジェイドはさながら、母親のようだ。

――お前も負けたくないよな。

 ロックはジェイドの姿を見ながら、炭酸水に口を付けた。なんだかんだ言って、ジェイドもロックと同じだ。このままで終わりたくないから、必死に足掻いているのだ。大切な人に振り向いて欲しい、ただその一心で。

「へぇ〜……。あの二人、酒強いのな」

「チェイスは今まで、酔った事ないんだって」

「強すぎだろ、それ……」

 感心するガドールに呆れるロックの間でクルッカは無表情のまま、三人を眺めていた。そんなクルッカを自然と見ていたロックが不意に視線を上げると、そこにはロックと同じようにクルッカを見ているガドールがいた。

"負けねぇからな"

 ガドールが余裕の表情で口を動かした。正直、ガドールが恋敵だというのは心細い。けれど、ロックは不敵に微笑む。足掻けるまで足掻くと決めたからだ。

"こっちこそ"

「ガドール、手伝ってください」

「へいへい」

 チェイスから酒を取り上げるジェイド。その傍らでは、酒を飲みすぎて熱くなったモルドレッドが服を脱ぎ始めていた。

「阿呆、こんなとこで脱ぐな!」

「ガドール、はい」

「マティアス、服はいい。クルッカ、避難させろ」

 露出狂と化したモルドレッドを抑え、ガドールが言った。見事に関節をきめているため、モルドレッドは身動き一つ出来ない。酒が回っているせいか、モルドレッドの動きは鈍い。

「行こう、クルッカ」

「俺も行く!」

 クルッカの手を引いて、マティアスがキッチンへと避難する。嫌な予感を感じたロックは巻き込まれない内にクルッカ達同様、キッチンに逃げ込んだ。

「ちょ、やめなさい!!」

「あ?って……、何やってんだっ!それ、めっちゃ度数高けぇ酒……」

「いいから、飲め!」

「やれ〜、チェイス!」

 歓迎会はジェイドの悲鳴と共にお開きとなった。ちなみにジェイドはチェイスとは対照的に酒にめっぽう弱く、一発でのびてしまった。

十七・道化師の悪戯

 歓迎会から、数日が経ったある日、チェイスの騎空艇に久々に戻って来たロックの部屋にジェイドがやって来ていた。肩の怪我は今や影も形もなく、ロックはいつもよりはるかに元気だ。

「サーカスのチケットっ!?」

 椅子に座っていたロックが思わず、ジェイドの方に前のめりになる。

「ロックの退院祝いにと思いまして」

「気を遣うなって言いたいとこだけど、サーカスのチケットなら別だ!俺、サーカス見たかったんだよな」

 大はしゃぎのロックを見て、ジェイドは心底嬉しそうに目を細めている。この頃、ジェイドは表情が豊かになったなとロックはしみじみ思う。

――なんか丸くなったよな。

 正直、第一印象は頑固で無愛想という感じだった。口調もキツく、協調性のないジェイドをロックは何となく苦手だと感じていた。けれど、今のジェイドは少しづつではあるが、柔らかくなって来ている。

「何です?急に黙って」

「いや。ジェイド、丸くなったなって」

「そうでしょうか。私は別に」

 ジェイドがキョトンと首を傾げる。

「その調子でいけば、モロとも仲良く出来るんじゃないか?」

「私はあのキトゥンブルーと馴れ合うつもりはありません」

 キッパリと断言したジェイドの表情があからさまに不機嫌になる。歓迎会の時も一言も言葉を交わしていなかった二人は相変わらず、仲が悪い。というか、相容れないようだ。ちなみにキトゥンブルーとはモルドレッドの青い瞳と子猫の青い瞳をかけた皮肉めいた呼び名で、ジェイド的には未熟者といった意味合いらしい。

――とか言いつつ、チケットは用意してんのな。

 何だかんだでジェイドは優しいのだなと改めて、ロックは思った。

「ロック、チェイスがご飯、出来たって」

 コンコンとノック音の後にマティアスが部屋のドアを開けた。寝起きのマティアスの髪はいつも以上にクセっ毛になっている。意識がまだ完全に覚醒していない、紅蓮色の目がじぃっとジェイドの方を見る。

「ジェイド、それは?」

「サーカスのチケットです」

 ジェイドの言葉にマティアスが分かりやすく、目を輝かせた。あどけなさの残るマティアスの顔がいつものように可愛く、ロックは不覚にもドキッとしてしまう。

「いつ?」

「今日です」

「そう。じゃあ、みんなにも伝えてくる」

 フワフワとした寝癖混じりの髪を靡かせ、マティアスは部屋から出て行った。足取りの軽いマティアスの背中からは嬉しそうな雰囲気が漂っている。

「彼はもう少し冷めていると思っていましたが、意外と子供っぽいのですね」

「そうか?まぁ、大人びてんなとは思うけど……」

 ジェイドと一緒に部屋を出たロックは、マティアスに言われた通り、食堂へと向かった。汚れ一つない、綺麗な廊下は清潔感があり、清々しい朝にはピッタリである。

――前々から思ってたけど、いつ掃除してるんだろ。この艇内……。

「おーす。お二人さん」

 ロックがそんな事を考えていた時、モルドレッドがいつになく陽気に声をかけてきた。「おはよう」と返すロックに対し、ジェイドは少し困ったように「おはようございます」とぎこちなく返した。

「んだよ。別に喧嘩売りに来た訳じゃねぇよ」

「……分かっています」

 言葉とは裏腹にモルドレッドに疑惑の視線を向けるジェイド。仕事のせいか、自然と手がレイピアの柄を掴んでいる。何とも分かりやすい、警戒体勢にロックはため息を吐く。

「いや、分かってないだろ。つか、朝からやり合うつもりはねぇって言ってんだろうが」

 モルドレッドがライオンのようなボリュームのある、自身の髪をわしゃわしゃとかいた。

「ジェイド、手」

「……失礼」

 ロックに言われ、ようやく事態に気付いたジェイドが柄から手を離す。

――やっぱ、無自覚だったのか……。

「ったく。お前、いっつも気ぃ張ってっと、その内倒れんぞ」

「平気です。これくらい何て事ない」

「そーですか。そりゃ、悪うございました。これだから、ジョックは……」

 モルドレッドがベッと舌を出す。一方のジェイドはモルドレッドの態度にムカついたのか、ムッと眉を顰めている。

「茶化さないでくれますか?」

「短気すぎ。すぐキレんなって」

「貴方のせいでしょう」

 ジェイドの言葉に「そうだったか?」とはぐらかすモルドレッド。どうやら、本当に喧嘩をする気はないらしい態度にジェイドは更に警戒の色を見せる。

「……いきなり何ですか?少々気味が悪いのですが」

「…別に。いい年した大人が喧嘩ばっかってのも、かっこ悪りぃなと思っただけだ」

 真剣みを帯びた、モルドレッドの声にジェイドの目が揺らぐ。

「ま、慣れねぇ事はしねぇもんだな。さっきからむず痒いわ」

 「つー訳で、お先に」と一方的に会話を終わらせると、モルドレッドがジェイドの傍を通って行った。

「モルドレッド」

 ジェイドの声にモルドレッドが足を止める。まさか、呼び止められるとは思っていなかったという表情のモルドレッドがジェイドの方を見た。

「この間は、本当に申し訳ありませんでした」

「………はぁ?お前、いつの事言ってんだよ。つか、謝ってくんな。気持ち悪りぃ」

 先程とは打って変わって、早口でジェイドに毒を吐くモルドレッド。らしいと言えばらしいが、何とも早い切り替えにあ然とするロックとジェイド。折角、まともに話せていたような気がしたのにと少し残念に思う。

「おいおい……」

 そこに一部始終を見ていたであろう、チェイスが現れた。頭を抱え、呆れた顔をしているチェイスは「何でそうなる」と言わんばかりにモルドレッドを見ている。

「諦めろ、チェイス。あの二人はこのままでいいじゃん、な?」

 微かな希望を打ち砕かれたチェイスの肩に手を置き、ロックが慰める。そんなロックにチェイスは薄らと涙を浮かべた目で柔らかく微笑んだ。

「朝っぱらから騒がしいな」

 茜色の長髪を靡かせ、いつも通りかっこよく登場するガドール。スカウターの付いていない左目が鬱陶しそうにロック達を見ている。

「おっす、ガドール。聞いてくれよ、こいつがさ……」

「分かった分かった。後で聞いてやるから、先に飯食おうぜ」

 くわっと大きなあくびをして、ガドールは食堂へと入って行った。その後に続いて、廊下にいたメンバーも食堂へと入っていく。

「おはよーさん」

「おはよう、ガドール」

 食堂にはクルッカとマティアスがいた。少し眠た気に目を擦り、ガドールを見上げているクルッカに朝からロックはときめいてしまう。

「おーす。お前ら、朝から癒しだな。何か和むわ」

「そう?何もしてないけど」

 首を傾げるマティアスを愛おしそうに眺めつつ、モルドレッドがマティアスの隣の席に座った。今ではそこがモルドレッドの定位置となっている。

「しっかし、いつも思うがここの食事はちゃんとしてるよな。おまけに美味いし」

 モルドレッドが目の前に置かれている皿をまじまじと見て、言った。本日の朝食はポーチドエッグにキャベツと玉ねぎのサラダマリネ、かぶとベーコンのミルクスープだ。
 ちなみに今日の食事当番はチェイスである。

――みんな、料理上手だな。

 ロックはナイフでポーチドエッグを切り分けると、フォークを使って、それを口に運んだ。
 食事当番は一週間で交代制となっていて、ジェイドを始め、ここにいるメンバーは料理の腕が半端ないのだ。

「ちなみに来週はお前だからな、ロック」

 一仕事終えたチェイスが淹れたてのコーヒーを優雅に啜りながら、ロックに言った。マグカップの端からちらつく瞳がイジワルそうにロックを見ている。

「こいつはやめといた方がいいぞ。ダークマターしか作れねぇから」

 ロックの隣に座っていたガドールがフォークの先をこちらに向ける。

「料理が出来ない……のですか?」

「……はい」

 ジェイドの「ありえない」と言わんばかりの刺さる視線に耐え切れず、ロックは顔を伏せた。帽子を持ってくればよかったとこれ程後悔したのは初めてだ。

「仕方ないですね。君の当番の時は私が手伝いましょう」

「俺も手伝う」

 パンを頬張っていたマティアスがニコッとロックに微笑む。

「ありがとう、二人とも」

 優しい二人にロックは頭が下がる思いだった。

「へぇ〜、あの堅物が手伝い……。ロック、お前相当気に入られてんだな」

 皮肉混じりにモルドレッドが言った。しかし、先程とは違って、ジェイドは食ってかからない。それが気にくわなかったようでモルドレッドはバスケットの中のパンを勢いよく取った。

「けっ。気取りやがって」

「別に気取ってなど……」

「うっせぇし」

 ご機嫌ななめなモルドレッドはパンにかじりついた。その様子は肉を貪るライオンのように荒々しい。

――仲良くすりゃいいのに。

 ロックは火花を散らし、睨み合っている二人を眺めて、短いため息を吐いた。

―――――――――――――――――

 朝食後、ロック達は王都の一角の広場へとやって来ていた。

「おい、前見て歩け。危ないぞ」

 辺りをキョロキョロと見渡しているクルッカにガドールが釘を刺す。その後ろでは、チェイスとマティアス、モルドレッドがジェイドに注意されていた。普段落ち着きのある三人が浮かれるのも無理はない。

「すっげぇ!!」

 目の前に広がる、赤々とした大きなテント。あちこちから流れてくる、軽快な音楽。そして、これから何が始まるのかとキラキラと目を輝かせている人々。

「ロック、君も落ち着きなさい」

「わ、悪い」

「まぁ、喜んでくれたようで何よりですが」

 ジェイドは独り言のようにボソッと呟くと、先頭にいるクルッカとガドールの方に目をやった。楽しそうに頬を赤く染めているクルッカにクールにきめているガドール。傍から見れば、まるでカップルのようだ。

――……超絶美男美女カップル。

 そんな二人を見て、楽しかった気持ちは一気に消えていき、ロックの胸はズキリと傷んだ。負けないと意気込んだクセに負けっぱなしな自分が情けなくなってくる。

「ロック?」

 不意に声がして、ロックが顔を上げるとそこにはクルッカがいた。綺麗なレモン色の瞳とロックの灰色の瞳が互いを見合う。

「何、ボーっとしてんだよ。とっとと行くぞ」

 キョトンとしているロックにガドールがぶっきらぼうに言った。それを聞いたジェイドは「いってらっしゃい」と一声だけ残し、後ろにいるマティアス達の方に行ってしまった。

「ほら、行こう」

 クルッカの手が迷う事なく、ロックの手を掴んだ。あまりにも自然な行動にロックの思考回路は停止しかける。

「だらしねぇ面」

 色々な感情が入り混じって、ロックはどういう顔をしていいかが分からなかった。今、自分がどういう顔をしているかさえ、分からない。が、ガドールの呆れ顔を見て、ロックはようやくどんな顔をしているかを理解した。

――嬉しいんだから、ニヤつくだろ。普通……。

「えっと、席は……」

「貸せ。……おっ!すげぇいい席じゃねぇか」

 ガドールはクルッカの持っていたチケットの座席を見ると、口笛を吹いた。チラッと見えたチケットには最前列の座席が書かれていた。

「こっちか。はぐれんなよ」

「御意」

「久々に聞いたな、それ」

 人の群れをかき分けながら、三人の会話は進んでいく。

「にしても、大人ばっかだな」

「そりゃそうだろ。サーカス見に行く暇なんて、普通の奴らにはねぇよ」

「マティアス達、大丈夫かな」

「ジェイドがいんだから、大丈夫だろ」

 そうこうしている内にロック達は自分達の座席に辿りついた。サーカスを見るためだけの席にしては少々豪華な座席に三人は目を丸くした。他の座席は長椅子の中、最前列のここだけに王座のような椅子が並んでいる。

「さっすが、ジェイド」

「よっぽど喜んでほしかったんだね、ロックに」

 座席を眺め、呆れたような声色のガドールは迷う事なく椅子に座った。王座のような椅子にガドールが座っただけだというのに、周りの空気はガラリと変わる。先程からガドールを見ていた女達がさらに熱い視線を送る。

――ハーレムだ。

 ガドール本人も気付いているくせにあえて、気付いていないように振るまっている。長年の経験から、ああいうのは相手にしないと決めているようだ。それ以前にガドールはクルッカにしか興味がないのだ。

――……同じ人種なはずなのに、何でこうも違うんだ。

「ロック、さっさと座って下さい」

「うわっ!?」

 ボーっとしていたロックはビクリと肩を揺らした。見ると、そこには心做しか、不機嫌そうなジェイドが立っていた。何となく心当たりのあるロックは「すいません」と謝る事しか出来ない。

「謝りすぎ」

 そんなロックを哀れに思ったのか、ジェイドの左側に座っていたマティアスが言った。先程とは打って変わって、落ち着きを取り戻したマティアスはロックを見て、微笑む。

「ロックはロックなりにやればいいよ」

「マティアス……」

「貴方、意外とませてますね」

「意外とって?」

 ムッと不服そうにマティアスが眉を顰めた、その瞬間。パチンっと小さな音と共に辺りから光が消えた。いよいよ、サーカスの始まりだ。

「Ladies and gentlemen!ようこそ、夢の世界へ」

 スポットライトの降り注ぐリングの中央にいるピエロが大きく両手を広げる。白塗りのピエロの仮面をした、その人物はピエロには珍しく、とてもスレンダーだ。

「ここは魔法も科学もない世界。ありえない事が当たり前に起きてしまう、まさに夢のような世界。さぁ、忌ま忌ましい現実はほっぽいて、我らと一緒に楽しみましょう」

 オールドローズ色の髪を靡かせ、ピエロはリングの端へとはけて行った。

「まず、ご覧にいれますのは、猛獣使いと猛獣による曲芸です」

 ピエロが目の前にある紐を引いた瞬間、リング上に一匹のライオンが飛び出して来た。牙をむき出し、ギラつく瞳で客席の方を見ている。最前列のため、迫力が半端ではない。

「猛獣使い――獣王の登場だ!」

 先程、ライオンの出て来たカーテンの紐をピエロがもう一度引いた。勢いよく開かれたカーテンの向こうにはピエロ同様、仮面を付けたスーツ姿の男が立っていた。
 身長は190cmくらいだろうか、かなりの長身だ。腰まで届きそうな程の長い灰色の髪は獣王が動く度に揺れている。

「お集まりの皆様方、ご安心を。あの猛獣は私の支配下にあります。皆様方に危害を加えるような事は決してありません」

 低く、通った声で獣王が言い放つ。その声に反応して、低く唸り声を上げているライオンが獣王の方を見た。「獲物が来た」と言わんばかりの目に観客は小さく声を上げる。
 鞭も何も持っていない獣王は仮面越しにライオンを見ると、恐れる事なく、自ら歩みを進める。コツコツと観客の不安を煽るように獣王の靴音が響く。

「Let's play!」

 ピエロがパチンと指を鳴らしたのは、ちょうど獣王がリングの中央にやって来た時だった。それが合図だったかのように身構えていたライオンが獣王に飛びかかった。
 ライオンの爪がリングの床を抉る。獣王はライオンの爪から逃れるため、宙へと跳んだ。華麗な獣王の動きはまるで舞でも舞っているかのようだ。

「かっこいい……」

 ガドールに熱い視線を送っていた女達の目が今度は獣王に釘付けになる。女達は悲鳴を上げる素振りも見せず、黄色い声援を送り始めた。これではサーカスというよりも、コンサートだ。

「うるさい」

 マティアスが紅蓮色の目で後ろを睨み付ける。けれど、暗がりのせいで女達は全く気付いていない。その事にイラッとしたマティアスはホルスターの中から一本のナイフを取り出し、後ろへ投げた。
 ロックとジェイドが止める暇もなく、鮮やかすぎるナイフ投げに飛んで来たのは、声援でも悲鳴でもない、沈黙だった。

「やっと静かになったな」

「そうだね」

「そこ、スルーすんなよ!ツッコめって!」

 ロックが右隣にいるクルッカとガドールにツッコんだ。その一方でジェイドもチェイスとモルドレッドにツッコんでいた。
 そんな二人を当の本人であるマティアスは愉快そうに眺めている。

「お前の事だからな」

「貴方の事ですよ」

 マティアスを指差し、ロックとジェイドが同時に言った。最近、息の合う二人にマティアスは嬉しげに微笑む。無邪気で悪気のない笑顔にロックとジェイドは何も言えなくなる。

――分かっててやってるだろ、こいつ。

 言いたい事はまだまだあったが、ロックはぐっと言葉を飲み込んだ。今はマティアスの件よりも、サーカスを楽しもう。ロックがそう自分に言い聞かせていた時、突如として観客から悲鳴が上がる。
 何事かとリングの方に目をやると、そこにはライオンに押し倒された獣王がいた。先程まで軽快に動いていた足は、二、三度痙攣した後、力なく床に落ちた。

「なっ………!」

 ロックは驚きのあまり、椅子から立ち上がる。その拍子にふわりと香る、血のニオイ。そして、リング中央に広がる鮮血――。
 それを見た途端、会場は阿鼻叫喚の巷と化した。観客は席を立ち、我先にと出口に向かって走っていく。

「胸くそ悪りぃ……」

 リングを見つめていたガドールが不意に呟く。茜色の長髪のせいで表情は一切見えないが、声色から怒っている事が分かる。

「よく見ろ、この節穴共が!!」

 ガドールの怒号が雷を起こし、テントに付いている照明に当たった。バチバチっと音を立て、照明が一斉につく。キューを出すのも馬鹿馬鹿しいと言わんばかりのガドールを一瞥し、改めてリングの方に目をやった。
 リング上には、獣王が何事もなかったような様子で客席を見て、立っていた。その足元には、ピクリとも動かなくなったライオンが転がっている。

「何で……」

 ワァーッと会場中が歓声に包まれる。出口に向かっていた人々はその場で拍手をし始めた。獣王は長身を曲げ、恭しく頭を下げている。

――武器も何も持ってないのにどうやって……。

 ロックはリング上で片付けられているライオンに目をやった。特に目立った外傷はない。

「ふんっ……」

 ドガッとガドールが席に着く。先程の一件から不機嫌になった様子のガドールにロックは違和感を覚えた。いつものガドールなら「面白い」と言うはずの演出に、何故不機嫌なのだろうか。
 しかも、それはガドールだけでなく、クルッカ、ジェイド、チェイス、マティアスの四人も少し様子がおかしい。
 ロックは席に着くと、まじまじとリング上にいる獣王を見た。

――どっかで見た気がするんだよな……。

「………」

「っ!!」

 不意に獣王と目が合い、ゾクリと背筋が凍る。仮面の下から覗いている、ココナッツブラウンの瞳は数日前、病室で見た男のものだった。

――――――――――――――――

「ロック、どこへ行く気ですか」

 テントから出ようとしたロックの腕を、追って来たジェイドが掴んだ。

「分かってるくせに聞いてくるのかよ」

「何の事ですか?」

 キョトンとしているジェイドに拍子抜けするロック。

「私はただ、リング上にいる知り合いに腹を立てていただけですが」

「知り合い?」

「あのピエロですよ。チェイスもクルッカも気付いています」

 ジェイドの言葉にロックの脳裏にスレンダーなピエロの姿が浮かんだ。

――てっきり、ジェイドもあいつの事かと思ってた……。

「全く、いつまで経ってもチャランポラなんですから」

 腕を組み、ため息を吐くジェイド。話によると、ピエロはジェイド、チェイス、クルッカの幼馴染でトレジャーハンターをしていたそうだ。

「それでロックはどこへ?」

「俺は獣王のとこだ。あいつに聞きたい事がある……」

「ほぉ。それは手間が省けるというものだな」

 不意に誰かの声がして、ロックが振り返ると、そこには長身の男――獣王が立っていた。先程着ていたスーツとは違い、真っ白な服に身を包んだ獣王がゆっくりとこちらに歩み寄って来る。

「初めましてっとでも言っておこうか、オールマイティー」

 紫色のフレーム眼鏡を押し上げ、獣王がロックを見据える。ロックは不躾にこちらを見てくる獣王の瞳に威圧的なものを覚えた。

「何なんだよ、そのオールマイティーって」

「知らないのか。どんな教育を受けてきたんだか……」

「私の友人を罵倒する事は許しません」

 ジェイドは腰からレイピアを抜くと、剣先を獣王に向けた。

「ジェイド=ミラーか。貴様に用はない」

 獣王がパチンッと指を鳴らした、その瞬間、シュンッと風を切る音と共に見覚えのあるナイフが飛んできた。

「……マティアスか」

「どういうつもり?ゼータ」

 ドスの効いた、低い声でマティアスが獣王――ゼータに尋ねた。普段のマティアスからは想像もつかない、恐ろしい程の殺気を帯びた瞳がギロリとゼータを睨み付ける。
 ゼータ=レオニード、最年少で国家試験に合格したという大賢者だ。

――こいつが、ゼータ=レオニード……。

「ロックに何する気?」

「悪いが君に言う義理はない」

「なら、聞き出すまで」

 マティアスはタンッと地面を蹴る。小さなマティアスの体は弾かれたボールのようにゼータに迫り、ゼータの頭上で足を振り上げた。マティアスのブーツの踵から鋭い刃が飛び出す。

「実力行使か、面白い」

 マティアスの攻撃を軽くかわし、ゼータが言った。そこへすかさず、ジェイドのレイピアがゼータに斬りかかる。軽快なリズムでジェイドがゼータに鋭い突きを御見舞いする。華麗な動きに靡く髪が綺麗でロックは思わず見入ってしまう。
 二人の同時攻撃に流石のゼータも焦り始めた。どこからともなく飛んで来るナイフとレイピアの凄まじいコンボの末、マティアスとゼータが対峙する。

「マティアス、やはり強いな」

「嬉しくない。というか、余裕なのが腹立つ」

 マティアスの紅蓮色の目がゼータを見上げる。上目遣いというには目つきが鋭く、目に宿っている光には先程よりも強い殺気が込められている。

「ロックに何かしたら、許さない」

「そんなに気に入っているのか。それはそいつがオールマイティだからか?」

「違う。ロックは俺の親友、だから」

――マティアス……。

 はっきりとそう言い切ったマティアスにロックは嬉しくなって、泣きそうになった。そんなロックに気付いたジェイドが「もちろん、私もですよ」と小さな声で囁いた。優しい声と眼差しにロックの目が潤む。

「貴方、バネッサと組んでいるのですか?」

「バネッサの知り合いか」

「腐れ縁なだけです」

 バネッサというのは多分、あのピエロの事だろう。バネッサの名前が出た途端にジェイドはムッと眉を顰めた。あまりいい思い出がないみたいだ。直感的にロックはそう思った。

「酷いなぁ、ひさしぶりの再会なのに」

「……バネッサ、何の用だ」

 不愉快そうにゼータが見た先には、オールドローズ色のセミロングをしたバネッサ=ジンライムがいた。身長はロックより少し低めな170cmくらいだろうか。

「ゼータも酷くない?仲間でしょうが」

 赤橙色の瞳は言葉とは裏腹に嬉しそうに輝いている。

「おっ!初めまして、ロックん」

 ニカッと屈託のない笑顔を浮かべ、ロックに手を振るバネッサ。殺伐としていた空気をもろともしないバネッサにロックは「はい?」と間抜けな声を上げてしまう。

「へぇ〜。写真よりも可愛いじゃん。こりゃ、もう1人も期待大だわ」

「バネッサ、邪魔をしに来たのか?」

「あんたがチンタラやってるから、ヘルプに来てやったんだよ」

 バネッサはそう言うと、地面を蹴った。次の瞬間、ロックのみぞおちに痛みが走った。金属で殴られたような、重い一撃にロックの視界は眩む。

「ロックんはもらっていくよ」

「ロック!!」

「待て、バネッサッ!!」

 ジェイドの言葉を最後にロックは意識を失った。

十八・Catastrophe

「うっ……」

 鈍い痛みにロックは目を覚ます。焦点の定まらない視界はぼやけ、ロックは数回瞬きをした後、ハッと我に返った。

――そうだ、俺……。

「目が覚めたか」

 壁に寄りかかり、こちらに視線を向けるゼータ。見れば、一緒にいたはずのバネッサの姿はない。

「ゼータ=レオニード…!」

 イスに縛り付けられ、自由の効かないロックは、代わりとばかりにゼータを睨みつけた。バネッサに殴られたみぞおち辺りが酷く痛み、自然と目つきは鋭くなる。

「そう睨むな。オールマイティー」

「何なんだよ、そのオールマイティーって!」

 ロックの怒号が部屋に響く。訳の分からない単語に、どうしようも出来ない状況に、ロックはイラ立ち始めていた。

「落ち着きなよ、ロックん」

 そんな雰囲気の中、一人鼻歌混じりに現れたのは、タオルを首にかけたバネッサだった。シャワーでも浴びていたらしい、その格好にロックはふと違和感を覚える。

――こいつ……。

「ちゃんと教えてやるからさ」

 上機嫌なバネッサは、二十cm差はあるゼータに向かって、「じゃ、よろしく」と言った。始めから、自分で説明する気はなかったようだ。
 そんなバネッサに呆れたような表情を浮かべたゼータが、仕方ないといった感じでこちらに歩み寄って来た。長身のせいで見上げているこちらは首が痛い。

「ロック=ペプラム。貴様に見せてやろう」

 ゼータの大きな手がロックの頭を鷲掴みにする。掴まれたと言っても、痛みはなく、ほとんど力は入っていない。

――何が始まるんだ……?

「お前の……過去の記憶を」

 グラリと視界が揺れ、頭が真っ白になっていく。

――これは………。

 重くなっていくまぶたに抗う術もなく、ロックは意識を手放した。
_______________

 ギィ……ッと重い鉄製の扉を開けると、そこには地下へと続く階段があった。扉を開けたクルッカとガドールは、互いの顔を見合うと、地下へと降りて行った。
 ロックが拐われた後、クルッカ達の元に戻って来たジェイド達の手には、バネッサからの手紙があった。手紙には、ここの場所と『クルッカとガドールの二人だけで来い』と一言だけ添えられていた。

「クルッカ、どいてろ」

 ガドールはファーの中からキューを取り出すと、壁にある配電盤に突き立てた。バチバチッという音がした後、辺りの明かりが一斉についた。

「行くぞ」

「御意」

 コンクリートむき出しの廊下に二人の靴音が響く。いつになく、緊張した空気を纏った二人の間に会話はない。

――バネッサ……、ゼータ………。

 クルッカはよく知る二人を思い浮かべ、口をきつく閉ざした。表情には出さないが、クルッカは混乱していた。バネッサとゼータ、二人が何故こんな事をしたのかが、どうしても分からなかったからだ。

「……おい」

 ドンッと前を歩いていたガドールの背中に思い切りぶつかるクルッカ。物思いにふけっていたせいで、ガドールが止まっていた事に気付かなかったようだ。
 ガドールのバイオレット色の目がクルッカを見下ろす。不機嫌な表情のガドールに、クルッカは「どうかした?」と首を傾げた。

「何で俺が不機嫌か、分かるか?」

「ロックが拐われたから?」

「それもある。けど、そうじゃねぇ」

 素直にそう答えると、ガドールは呆れたようにため息を吐いた。何かしただろうかと、回想に入りかけたクルッカを引き戻すかのようにガドールは自身の腕の中に引き入れた。

「……ガドール?」

 ギュッとガドールの腕に力が込められる。体格差があるせいで、腕の中から抜け出す事は不可能に近い。それを悟ったクルッカは、大人しくしている事にした。

「一人で悩むんじゃねぇよ。バカが」

「別に悩んでなんかない」

「はい、嘘。つか、本当の事言うまで離さねぇから」

――何でこうなってるんだ……。

 クルッカは状況が少し飲み込めないまま、閉ざしていた口をゆっくりと開いた。

「悩んでるってより、混乱……してるんだ」

 幼馴染で兄弟のように仲のよかった、バネッサ。友達で兄のような存在のゼータ。賢い二人がこんな無意味な事をするはずがない。悪戯にしてはタチが悪い。

――それに、嫌な予感がする。

 手遅れになれば、絶対に後悔する。そんな気がして、堪らない。だから、余計にガドールには言えなかった。ここで感情的に動く事がどれ程危険か、クルッカには分かっていたからだ。

「……大丈夫。あの二人に会えば、解決する事だから」

「お前の大丈夫は信用なんねぇ」

「ひどいなぁ……」

 ガドールのバイオレット色の目がクルッカを見据える。目を逸らしてしまうと、負けのような気がして、クルッカも真っ直ぐにガドールを見上げる。

「……分かった。信じてやる」

 少し残念そうにガドールがクルッカから離れた。開放感の戻ったクルッカはホッと胸を撫でおろした。

――あ……、ガドールの匂いだ。

 不意にフワッと香った匂いにクルッカはドキリとする。自分のモノとは違う、男モノのシャンプーの香り。抱きしめられていたせいで残り香がついたようだ。

「ただし、無茶したら容赦しねぇからな」

 クルッカに釘を刺したガドールは、キューを肩に担ぎ、先へと進んだ。ゆらりと揺れる茜色の長髪からは残り香と同じシャンプーの匂いがした。

「無茶なんてしないよ。ガドールがいるんだから」

――ガドールと一緒なら大丈夫だよね。

 クルッカは胸の辺りで渦巻く、黒々しい何かを振りはらうように、ガドールを追いかけた。
_______________

「来たか、ガドール」

 ロックの祖父――シュネル=ペプラムが入口付近に立っているガドールに言った。茜色の長髪をハーフアップにし、左目にスカウターを付けているガドールは、今よりも少し幼く見える。

「起きてていいのか?」

「あぁ、だいぶ楽になったからな。心配してくれて、ありがとよ」

 シュネルが柔らかな笑みを浮かべる。その懐かしい笑みに傍から見ていたロックは泣きそうになった。ここは今から約四年前。ロックが国家試験を受ける、一ヶ月前の事だ。

「んで、何の用だよ」

「おぉ、そうじゃった。ガドール、ロックの奴と遊んでくれないか?」

「遊ぶって……もうそんな年じゃねぇだろ」

 この頃のロックは試験に向けて、ずっと勉強をしていた。村の立て直しに精を出していたガドールの助けになりたい。その思いでただただ無我夢中だった。

「この日……だったよな。じいちゃんが死んだのって」

 壁に掛けてあるカレンダーを眺め、ふとロックが呟いた。持病の心臓病が原因だった。

――変えられるもんなら、変えたい………。

 そんな事を思っていた時、奥の部屋から赤い帽子を被った少年――ロックが出て来た。今よりも少し長い金髪はガドールに憧れていた証だ。

「では、ガドール。頼んだぞ」

「へいへい」

 ガドールはロックの腕をガシッと掴むと、訳の分からないロックを連れて、外に行ってしまった。二人の背中を眺めていたシュネルは大きくため息を吐いた。

「ロック……すまんのぅ………」

 まるで何かを懺悔するかのように、シュネルは呟いた。

「じいちゃん?」

 ロックが眉を顰めたのと同時に景色が切り替わる。そこはロック達の家ではなく、ロックの両親が殺された、村の外れだった。
 シュネルはロックの作った石の墓に手を合わせていた。墓の下には、ロックが毎日替えている花が供えられていた。

「じいちゃん、ここにいたのか」

「ロックか」

 シュネルはスクッと立ち上がると、ロックの方を見た。肩につく程のセミロングの金髪が月の光を受けて、輝く。その姿にシュネルはハッと息をのんだ。
 そして、思い出したかのようにゆっくりとロックの手元に目をやった。

――………えっ?

 ロックの手元には、拳銃が握られていた。冗談であって欲しかった。が、ロックにはこれが紛れもない真実だと分かっていた。

「捜したよ?じいちゃん」

「ロック、今日は楽しかったか?」

 しかし、シュネルはいつも通り、ロックに優しい笑みを浮かべていた。そんなシュネルにロックも笑みを浮かべる。狂気に満ちた瞳がシュネルを捕らえて離さない。

「うん。楽しかった」

「そうか。それはよかった」

 一歩一歩、距離を詰めていくロック。ガチャリと安全装置を外した拳銃の銃口がシュネルの心臓を撃ち抜かんとしている。

――何してんだよ、俺……。

 ロックはシュネルに歩み寄っていく、幼き日のロックの前に立ち塞がる。が、幼いロックはロックの体をすり抜けていく。無駄だと分かってはいたが、胸を抉るような虚無感にロックはじっとなどしていられなかった。

「やめろ………」

 届くはずのない声でその歩みを止めようとしても、ロックは進んでいく。掴めるはずのない手を必死に伸ばす。

「やめろっつってんだろ!!!!」

「ロック、これでいいんだよ」

「っ!?」

 叫び声の後、微かに聞こえた声にロックは目を見開いた。視線の先には、こちらを見て、微笑んでいるシュネルがいた。見えないはずの、何もないはずのここを見て。

「大きくなったな、ロック」

「じいちゃん!」

 何でかは分からないが、シュネルにはロックが見えていた。その事に驚きつつも、ロックは必死で口を動かす。

「じいちゃん、逃げろ!このままじゃ………」

「さっきも言っただろう?これでいいんだよ」

「よくねぇよ!」

 ロックは溢れ出す涙を拭いながら、叫んだ。

「いい訳ないだろ!!死ぬんだぞ!?」

 頭の中に過ぎるのは両親の顔だった。自分に力がなかったがために、守れなかった命。温かかった体からなくなっていく体温が怖くて、何度も温めたシュネルの手。死ぬ事がどれ程怖い事か、ロックには痛い程に分かり切っていた。

「嫌だよ……、じいちゃん」

「………すまんのぅ、ロック。お別れじゃ」

 拳銃がシュネルを射程距離に捕らえる。残された時間はもうない。ロックは目に涙を浮かべたまま、シュネルに向かって言った。

「俺……結局、何も出来なかった………」

 「ごめん………」。消え入りそうなロックの声は、ロックの放った銃声によって、かき消された。
______________

 ピクリと指の動く感覚と共に再び、目を覚ます。目から溢れ出した涙は頬を伝い、自らのズボンに小さな染みを幾つもつけていく。

「おっかえり、ロックん」

 目の前にいる上機嫌なバネッサは、愉快げにロックを見て、笑っている。反応を返す事も疲れたロックは黙って、床を見つめている事にした。

「大丈夫?生きてる〜?」

「やめろ、バネッサ」

「何だよ、邪魔するなよ」

「悪趣味だ」

 ゼータはバネッサをロックの前からどかせると、ロックの手を縛っていた縄を解いた。キツく縛られていたため、少し赤くなっていた。
 ロックは自由になった手で涙を拭った。光の宿らない、灰色の目はゼータの方を一切見ない。

「お前の祖父――シュネル=ペプラムはあの日、お前に殺された。しかし、その事により、シュネル=ペプラムという男が死んだ事にはならない」

 ゼータの話し出した内容が理解出来ず、ロックはゆっくりと顔を上げた。自分よりも二十cm程身長の高いゼータは、自然的にロックを見下ろしていた。

「お前の知っているシュネル=ペプラムは、二人いるはずだ。一人は小さい頃からよく知っている老人の姿。そして、もう一人は………」

「王都で医者をしていた、若い時の姿」

「バネッサ。口を挟むな」

「チェッ……。はいはい、分かりましたよーだ」

 バネッサはムスッとすると、奥の部屋へと消えて行った。その背中を見送ったゼータは、咳払いをしてから、また話をし始めた。

「シュネル=ペプラムは本来あるべき器と魂を二つずつ持って生まれたのだ。厄介な呪い付きでな」

「……呪い?」

 ようやく出せた声は掠れていて、聞けたものではなかった。だが、ロックから反応があった事にゼータは少し機嫌がよくなったようだ。

「年を取らない呪いだ。生まれた時から、あの二人はあの姿のまま、今まで生きて来たという事だ」

 ゼータの説明を簡単にするとこうなる。
 シュネルは年を取らない呪いともう一つ、呪いをその身に宿していたという。それがゼータが口にしていた、オールマイティー――全知全能の呪いだ。
 オールマイティーは、世界が与えたとされる能力を無力化出来る力の意だったが、長い時の中でオールマイティーに変化が起きた。世界の与えた、もう一つの力――過去を見透かせる目の能力の混入だ。故に本当の意味でオールマイティーとなったのだ。
 そして、その力のせいでオールマイティはこの世界に二人しか存在出来なくなってしまった。数が増えれば、その者を殺し、均衡を保ってきた。
 だから、あの日、ロックは自分が生きるためにシュネルを殺した。つまり、ロックはシュネル同様、オールマイティだったという事だ。

――って事は、若い方のじいちゃんは生きてるって事か……。

 混乱している頭をゆっくりと整理していくロック。正直、どの話が本当かは分からない。しかし、どこか信憑性の高い話に嘘だと言い切れないでいた。

――俺がオールマイティー………。

「……じゃあ、俺にもあるのか?もう一つの呪いってやつが………」

 不意に気になり、ロックはゼータに尋ねてみた。ゼータは、紫色のフレームの眼鏡を指で押し上げると、ロックの質問に答えた。

「お前の場合は、"愛する者をその手にかけてしまう呪い"だ」

「えっ………」

 思わぬ言葉にロックは声を漏らした。

「ゼータ、そろそろ来るよ。ロックんのお友達が」

 奥にいたバネッサがふと戻って来て、ロックはハッと我に返る。パラッと何かが落ちる音がして、ロックは足を縛っていた縄が解かれた事に気付いた。

――何かさせる気か?それとも、逃げる気か?

 二人の様子を見ると、逃げるというよりも、俄然戦う気満々に見える。元より、バネッサの性格を考えれば、逃げるという選択肢はないに等しい。

――逃げれそうにもないか……。

 逃げ足が速いとはいえ、能力者相手に逃げ回るのは至難の業だ。おまけにゼータは神経系の毒を扱える。それを使われてしまえば、アウトだ。
 薬にはある程度、抗体のあるロックだが、ゼータの扱う毒は様々だ。全てに抗体がある訳ではない。
色々考えた結果、今は大人しくしている方が得策だと思い、ロックは様子を見る事にした。

「さてと………ロックん。アンタには、働いてもらうよ」

「働く……?」

「大丈夫。簡単な事だから」

 次の瞬間、バネッサに前髪を掴まれ、自然と開いた口に液体が流し込まれた。妙に甘ったるい味に体がビクリと震えた。
 第六感が言う。飲んではいけない、と――。
 しかし、口の中に広がる甘ったるい味に耐え切れず、ロックはその液体を飲み込んでしまった。

「っ!?」

 液体はロックの中で熱を帯び、内にある何かを呼び覚ますように回り出す。味わった事のない感覚にロックはその場に崩れ落ちた。

「心置きなく、戦いな」

 バネッサは笑う。オールドローズ色の前髪から覗く、赤橙色の目は恐ろしい程に輝いている。

――悪趣味な奴……。

 削れていく理性を必死に保とうとするロック。握り締めた手のひらに爪が食い込み、小さな痛みが走る。

「なぁ?オールマイティー」

 プツリとロックの中で何かが切れた。
_____________

「はぁっ!」

 鉄製の扉を二人で蹴り飛ばし、中へ入った途端、ゾワリと肌を撫でる殺気に体が強ばった。部屋の中には、バネッサとゼータだけがいた。

「バネッサ……ゼータ………」

 ギロリと二人を睨み付けるクルッカ。ぐっと握られた拳は相手を殴り倒したいと言わんばかりに怒りで震えていた。
 そんなクルッカを前にバネッサは、「いらっしゃ〜い」と陽気に声をかけた。

――ナメてんのか、こいつ。

 ガドールはロックの姿を捜しながら、スカウターで部屋を見渡した。仕掛け扉などはない。しかし、ここにロックがいないというのはあまりにもおかしい。考えを巡らせていると、不意にスカウターのマップに赤い印が浮かび上がる。

――下か……。

「ガドール、行って」

 スカウターの反応に気付いたのか、クルッカが小声で言った。戦闘の意を示した、クルッカの周りに十二枚のカードが宙に浮き出す。

「早く」

 クルッカは構えたと同時にカードをバネッサ、ゼータに向かって投げた。淡い光を放つカードは強く輝き、目の前を眩ませた。
 ガドールは開いていた右目を閉じ、スカウターで隠していた左目を開いた。地下への道はガラ空きになっている。

「任せた」

「御意」

 ガドールは床を蹴ると、二人の間を抜け、地下へと続く扉をこじ開けた。キューの先端で火花を起こし、中を照らすとそこには長い通路があった。

――待ってろよ、ロック。

 上にいるクルッカの事を気にしつつ、ガドールは走り出した。カツカツとガドールの靴音だけが響く通路は、かなり不気味だ。

「……ったく、あいつ。マジで悪趣味だな」

 どれくらい進んだろうか。周りが変わらないため、どこまで来たかがさっぱり分からない。それでも、ガドールは止まる事なく、走り続ける。
 頼みのスカウターは、バネッサのせいか、上手く作動しない。

――あいつ、わざと俺をここにやったのか。

 チッと舌打ちをし、ガドールは足を止めた。上がる息を整え、改めて辺りを見る。むき出しとなったコンクリートの壁は少し崩れていて、かなり脆そうだ。

「よし」

 ガドールは壁にキューを突き刺すと、一気に電気を流した。いつもの倍の電気は熱を帯び、やがてコンクリートを溶かした。すると、壁の向こうに部屋らしき空間があった。
 どうやら、この部屋の周辺をずっとグルグルと回っていたらしい。イラッとしたガドールは、後に残った鉄筋を粉々に砕いた。

「おい、ロック。いるんだろ」

 ガドールは自らがあけた穴から中へと入ると、声を上げた。ここまでコケにされて、黙ってなどいられない。一刻も早く上に戻り、バネッサを倒してやりたい。殺気立つガドールはパキポキと指を鳴らす。

「っ……!?」

 ゾワリと背筋に寒気が走る。ガドールの殺気よりも鋭い殺気の満ちた、何か危険な者がいる。ガドールは直感的にそう思った。
 そして、ガドールはその危険な者を見つけた。部屋の真ん中で、黙って立っている男のフードの下からは帽子のつばと金髪が覗いている。

「……ロック!」

 それがロックだと気付くのに、数秒、時間がかかった。ロックはガドールの声に反応して、顔を上げた。灰色の目が一瞬、ギラリと光る。
 ロックと目が合った途端、ガドールの中で作られていた電気がフッと消える。能力源の消滅に体は虚無感を覚えた。

「ッチ!オールマイティーかよ」

――しかも、覚醒してやがる…!?

 ガドールは握っていたキューを構える。能力が使えないとはいえ、ガドールは充分すぎる戦闘力を持っている。普段のロックなら、力でねじ伏せる事は簡単だ。しかし、今回は違う。
 オールマイティーとして覚醒したロックにガドールが味方だと認識されてはいない。ロックの意志はオールマイティーのせいで出来た、もう一つの人格によって支配されているからだ。

「手加減しねぇから、覚悟しろ」

 本気で挑まなければ、負けてしまうかも知れない。ガドールは半歩、足を後ろにやると、キューをしっかりと握り直した。
 一方のロックはいつもの拳銃とは違い、自分の身の丈程あるバズーカを肩に担いだ。ロックの細い腕でよく持っていられるなとガドールは思う。
 バズーカの大きな銃口がこちらに向けられる。食らえば、ひとたまりもないだろう。

――面白い。

 スリル狂なガドールは臆する事なく、笑う。バイオレット色の目は愉快そうにキラキラと輝き始めてさえいる。

――クルッカ、悪ぃがちょっと待っててくれ。

 床を蹴り、ガドールが先制を仕掛ける。派手な爆発音を轟かせ、バズーカから弾丸が撃たれる。弾丸は地面を抉り、痛々しい跡を残す。そこに人がいれば、確実に死んでいただろう。

「はぁっ!」

 力いっぱい振り下ろしたキューがバズーカで防がれる。ジリジリと十字に交えた武器同士が火花を散らす。

「たぁっ!」

 重いバズーカを払い除け、ガドールのキューがロックの手を叩く。普通の人間なら声を上げるくらい痛いはずの一撃にもピクリともしない。

「バカロックのくせに生意気なんだよ!」

 ブンッと頭の上をバズーカの筒身が掠めていく。すかさず、身を屈めたガドールはロックのガラ空きの足元を崩そうと、キューを叩きつける。が、全く効いていない。

「厄介だな。オールマイティーってのはよ!!」

 細い体のくせにキューで叩けば、腕が痺れた。ガドールはキューを持ち変えると、休む暇もなく攻撃を仕掛けた。

――このままじゃ、俺がもたねぇ………。

 次々と放たれる弾丸をギリギリの所でかわし、何とか体力を消耗しないように気をつけているが、それも時間の問題だ。

「ハァハァ……。くっそ………」

 乱れた息を整えながら、ガドールは頭の中で考えた。あくまで目的はロックを正気に戻す事であって、倒す事ではない。だが、持ち前の負けん気のせいでロックを殴り飛ばしたいという衝動に駆られていた。

「あはは。負けん気は相変わらずだな」

「……何の用だ。シュネル」

 ガドールが振り向くと、そこには若者姿のシュネル=ペプラムがいた。ロックと同じ金髪に灰色の目をした、シュネルは愉快そうに笑っている。

「オールマイティー相手に戦うのは大変だと思って、手助けしにやって来たのさ」

「……そうかよ」

 ガドールが素っ気なく言うと、キューを構えた。「つれないなぁ……」と呟きながら、シュネルも隣で構える。武器はツインダガーだ。

「さて、行こうか。ガドール君」

「あぁ」

 ガドールとシュネルは床を勢いよく蹴ると、一気に距離を詰めた。

十九・禁断の果実

 クルッカとガドールがアジトに向かって、約一時間。チェイスの騎空艇で待機している、マティアス達は操舵室に集まっていた。

「チェイス、このままじっとしていても時間の無駄です」

 沈黙を破り、ジェイドがチェイスの前に立つ。イスに座っているチェイスは足と腕を組み、ジェイドを見上げた。
 バネッサとゼータを逃してしまった事を気にしているのか、ジェイドは焦っているように見える。何より、ジェイドにとってロックは大切な友達だ。落ち着けと言う方が無理な話だ。

「お前だって、あいつの性格は知ってるだろ。あいつは殺るっつったら、殺る奴だ」

「ですが……」

「ジェイド、気持ちは分かるが、今は動くべきじゃない」

 ジェイドの欠けた冷静さを補うかのように、チェイスが言った。

「俺も同感だ。……ムカつくがな」

 二人から少し離れた場所に座っていたモルドレッドがキッと遠くを睨んだ。仲間思いなモルドレッドだ。落ち着いていられるはずもない。

――ゼータ、何を考えてるの?

 窓にそっと手を当て、マティアスは外を眺めた。先程まで明るかった外は陽が傾き、暗くなり始めていた。

「ねぇ、俺……助けに行きたい」

 三人の視線がマティアスに集まる。

「焦ってる訳じゃない。この状況で動くべきじゃないって事も分かってる」

 マティアスは立ち上がり、三人を見据える。

「それでも、行きたいんだ」

 普段、あまり感情を表に出さないマティアスの言葉に三人の目が小さく揺れる。動けば、ロックに危害が加わる。そんな事は分かりきっている。だからこそ、ここでじっとしていたくなかった。自分が行けば、助けられるかも知れないという可能性にマティアスは賭けてみたくなったのだ。

――クルッカ、ガドール。ごめん。

「珍しいですね。あなたがそんな事を言うとは」

「自分が思ったように行動するのが一番だって、クルッカが教えてくれたから」

 マティアスが柔らかい笑みを浮かべると、3人もつられて笑みを浮かべた。

「ジェイド、お前、あの場所覚えてるか?」

「えぇ、もちろん」

 チェイスは「上出来」と親指を立てると、操舵桿を掴み、迷う事なく回した。

「モロ、俺らの武器持って来てくれ」

「そう言うと思って、もう準備済みだ」

 モルドレッドは自身が座っていた宝箱のフタを開け、中から武器を取り出した。

「一緒に行こうぜ、マティアス」

 マティアスよりも背の高いモルドレッドがマティアスの頭を撫でた。ごつごつとした手の感覚が何となく嬉しくて、マティアスは頬を綻ばせる。

「全速力出すから、掴まっとけよ!」

 チェイスはそう言うと、操舵桿の下にあるレバーを引き、ギアを最大にした。それと同時に騎空艇は勢いよく空を切って進み出した。

「あの大馬鹿に灸を据えてやらないとですね」

「だな。容赦はしねぇぜ」

 どこか迷いの晴れた面々にマティアスは静かに微笑むのだった。
_______________

「もう終わり?あっけない」

 バネッサが床に散らばったカードを踏みつける。

「ぐっ……」

 小さなうめき声を上げ、床に突っ伏していたクルッカはふらふらと立ち上がる。

――強い……。

 バネッサに殴られた箇所は動くだけで痛みを上げ、傷口から血が溢れ出す。
 ガドールと分かれた後、先制攻撃を仕掛けたクルッカ。しかし、部屋に充満していた神経毒の前にあっけなくやられてしまった。言うまでもないが、毒を仕込んだのはゼータだ。

――気を付けていたのに……。

「カードが使えない今、お前に勝機はない」

 壁にもたれ、腕を組んでいるゼータが言った。諦めろと。その言葉にクルッカはギロリとゼータを睨み付けた。

「だからって、それを理由に引く訳にはいかない」

「さっすが、クルッカ。いい根性してるわ」

 バネッサはニヤリと笑みを浮かべた。パキポキと指を鳴らし、ゆっくりとこちらに向かってくる。

――主。

 wild cardがクルッカに語りかける。

「wild card、早く起きろ」

 クルッカの声に応えるように、カードが宙に浮き始める。神経毒のせいで感覚が狂っているため、上手くカードが操れない。体だって、立っているだけで精一杯の状況だ。

「さぁ、覚悟は出来たか?」

 ドクリッと心臓が大きく脈打つ。

――この言葉、どこかで……。

 そう思った刹那、頭にフラッシュバックのようにある光景が見えた。一瞬の事ではっきりとは見えなかったが、クルッカにはそれが恐ろしく思えた。
 石を敷き詰めた床の上に転がっていたのは、見た事もない、たくさんの拷問器具。壁には血で錆びたアイアンメイデン。そして、部屋の中央には大きな水槽があり、中には鎖が入っていた。

――あそこは……。

「ボケっとしてると、殺しちゃうぞ!」

 バネッサの拳が床を抉る。能力で鋼と化した拳に自然と殴られた箇所が疼く。
 咄嗟に跳んでよけたクルッカは床に着地すると、バネッサを見た。すると、そこにはバネッサではなく、ある女が立っていた。知らない顔だが、クルッカの体は女を見た途端、怒りで震えた。

「……お前!!」

 クルッカは床を蹴ると、バネッサの顔に拳を叩きつけた。あまりのスピードに面食らったバネッサは勢いよく、壁に激突する。

「バネッサ!?」

 ゼータは慌てて、腰に下げているトランクを開け、薬のビンを取り出した。フタを開けようとしたが、クルッカのカードにより、ビンは粉々に砕けた。

「まさか、毒が効かないと言うのか!?」

 ビンの中身は考えなくても分かる。それを迷う事なく砕いたクルッカを見て、ゼータは目を丸くした。
 一方のクルッカは、毒の充満している部屋の空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。殺気で満ちている瞳が見ている先のバネッサは咳き込み、血を吐いている。

「どういう事だ……」

「こっちが聞きたいよ。痛っ……」

「鋼も効かない……という訳か」

「何?クルッカもオールマイティーだったの?」

 困惑した二人はクルッカを見ながら、言った。

「そんな事、あるはずがない」

「じゃあ、何なんだよ。急に強くなるとか、ありえないでしょ」

「来るぞ!!」

 クルッカは再び、二人と対峙する。感覚を取り戻したクルッカは、カードを指に挟み、スナップを効かせて投げた。激しい爆発音に混じり、誰かの高笑いがこだました。
_______________

 コンクリートの壁が吹っ飛び、大きな風穴が空く。その様を見たガドールは忌々しく舌打ちをした。

「おい、シュネル!」

 ガドールはロックの弾丸を避けながら、ロックに接近しているシュネルを呼んだ。

「ガドール君、君はそこにいろ」

 シュネルのツインダガーがロックのバズーカーと十字に交わり、火花を散らす。

――何する気だ、あいつ……。

 乱れた息を整えつつ、ガドールはシュネルを見た。ツインダガーを巧みに操り、ロックと対等に戦っている様はとても医者には見えない。

「はぁっ!」

 掛け声と共にシュネルのツインダガーの持ち手がロックのみぞおちに入る。鈍い音がした後、ロックはその場に倒れた。といっても、本当に倒した訳ではない。回復するのも、時間の問題だ。

「ガドール君、今から言う事をよく聞いてくれ」

 シュネルは踵を返すと、ガドールの元へとやって来た。

「これが何か、分かるよね?」

 シュネルが差し出した手の中には、鈍く光るカプセルの錠剤があった。雰囲気からして、普通の薬ではないと思ったガドールは、頭に浮かんできた薬の名前を口にした。

「Forbidden fruitか」

「流石だね、正解だよ」

 シュネルはにこやかに笑う。

――物騒なもん、持ってんな。

 笑うシュネルとは対照的にガドールの表情は堅い。シュネルがこれから何をするのか、ガドールには分かっていたからだ。
 シュネルの手のひらにある薬はcode numbersなら、誰でも知っている劇薬だ。決して手にしてはいけないという理由から禁断の果実――Forbidden fruitと呼ばれている。

「なら、分かるよね。これを飲んだら、どうなるのか……」

 シュネルの灰色の目がガドールを見据える。ガドールはシュネルの目を真っ直ぐに見て、静かに頷いた。

「この薬を飲めば、ロックを正気に戻せる。覚醒したとは言え、ロックの力は不完全だからな」

「力でねじ伏せろってか」

「そうなるね」

 オールマイティーの力を上回る力を与える薬、それがForbidden fruitだ。しかし、それには大きなリスクが伴う。副作用というやつだ。自身の能力のリミッターを解除するという事は、下手をすれば、能力が暴走し、命を落としてしまう可能性が高まるという事だ。

――ロックの事、守ってくれる……?

 ガドールは少し黙った後、シュネルの手のひらから薬を取った。不気味に光るカプセルに自然と手が汗ばむ。

――やってやろうじゃねぇか。

「暴走した時は頼むぞ」

「あぁ。……ロックを頼む」

 ガドールはシュネルに「頼まれた」とニカッと笑うと、薬を口の中に入れた。
 不安がないと言えば、嘘になる。だが、それ以上にロックを助けたいと思った。たった一人の大事な家族を。かけがえのない相棒を。
 ドクリと大きく心臓が脈打つ。全身が熱を帯びだし、頭がボーっとしてくる。足元がおぼつかなくなったガドールは、その場に崩れた。ガタガタと体は震え出し、意識が飛びそうになる。

「うぐっ……!」

 ガドールは意識が飛ばないように必死で意識を繋ぎ止めた。ポタポタと顎を伝って落ちていく汗がコンクリートの床に小さな水たまりを作っていく。
 心臓は今までにない程、早く脈打ち、大量の血を全身へと送り出す。それと同時に体の奥で眠っていた力が溢れ出してくる。
 体のあちこちからは電流が流れ、バチバチと音を立てている。普通の人間が触れれば、体が燃える程の電流に流石のガドールも悲鳴に近い声を上げた。

「あああぁぁっ!?」

 あまりの激痛にガドールの感覚は麻痺していた。生理的な涙と汗でガドールの顔はもうグチャグチャだ。

「ガドール君、気をしっかり」

 シュネルはガドールの肩を掴んで言った。ロックと同じ灰色の目が心配そうにこちらを見ている様にガドールの脳裏にロックの顔が浮かんだ。

――あの馬鹿を……止めてやんねぇと……。

 心臓を掴んでいた手を緩め、ガドールは両手をついて立ち上がった。ふらつく足にぐっと力を込め、体にまとわりつく電流をキューで薙ぎ払う。

「……来るよ」

 シュネルの声にガドールはロックを見た。復活したロックはゆっくりと立ち上がり、こちらを睨み付けていた。
 ざわざわと騒ぎ出す力をガドールは押し殺す。数分前の力など比ではない程の力に、内心驚いていた。けれど、その反面、わくわくしている自分がいる事にガドールは少し呆れた。今までにないスリルが味わえると、体が勝手に疼き出す。

――これが、禁断の果実か。

 ガドールはキューを握り、構えた。一方のロックもバズーカを構え、標準をこちらに合わせている。

「シュネル、お前は手ぇ出すなよ」

「言われなくても」

 シュネルはツインダガーを仕舞った。そして、「任せたよ」と念を押し、部屋の隅に避難して行った。それが合図だったかのように、ガドールとロックはほぼ同時に床を蹴った。
 バズーカの弾丸が走っているにも関わらず、正確にガドールに向かって放たれる。

「はぁっ!」

 ガドールはみなぎる電流をキューに流し、弾丸を弾いた。

「ちょっ!?ガドール君、こっちに飛んできたじゃないか!!」

 「危ないでしょ!」。部屋の隅にいるシュネルがガドールに叫んだ。チラリとそちらに目をやると、シュネルの真横の壁には風穴が空いていた。

「お前なら避けれるだろうが!」

 ロックのバズーカをキューで捌きながら、ガドールがシュネルに言った。
 バチバチと体にまとわりつく電流が空気を焦がすように、威力を増していく。底を知らない力はガドール自身を飲み込もうとしてくる。

――厄介なもんに手ぇ出しちまったな……。

 ロックのバズーカとガドールのキューが十字に交わる。正気のないロックの目に光は一切ない。死んだ魚のような目にガドールは忌々しく舌打ちをした。

「戻って来やがれ……」

 ガドールはロックのバズーカを力尽くで押し返す。それと同時に床を蹴り、素早く後退する。

「聞こえてんだろ、ロック!」

 ガドールの怒号と共に体から大量の電流が溢れ出す。漂っていた空気は一気に乾燥し、所々でバチバチと電流が弾ける。

「ガドール君!」

 シュネルの焦った声にガドールがピクリと肩を揺らす。感情が高ぶったせいでどうやら、タガが外れたらしい。溢れ出した電流がガドールの体の自由を奪う。

――しまった……!

 思いの外に早すぎる能力の暴走にガドールは、能力を抑え込もうとする。分かっていたはずなのに、あの薬を飲めばどうなるかくらい。感覚のなくなった体で必死に意識を繋ぎ止める。
 ユラユラと焦点の定まらない目でガドールはロックを見た。こちらの様子などお構いなしのロックは、バズーカの銃口をこちらに向けている。

「ガドール君!くそっ……」

 シュネルがガドールの元へと走る。それと同時にロックは引き金を引いた。ガドールは自由の効かない体を動かそうとするが、指一本すら反応しない。
 弾丸がスローモーションのように回転しながら、迫って来る。直撃すれば、ただでは済まない。下手をすれば、死ぬ。唯一自由な頭がフル回転する。
 距離からして、シュネルが間に合うはずがない。抑えつけている力を解放すれば、直撃は避けられるだろう。だが、力の暴走でここにいる三人ともが無事でいられる保証はない。
 ガドールはギリッと歯を食いしばると、目の前まで迫って来ている弾丸を睨んだ。

――こんな所で死んでたまるかよ。

「はぁっ!」

 聞き慣れた声がした瞬間、現れた光の壁がロックの弾丸を防ぐ。

「チェイス君!」

「何でお前が……」

 ガドールは目の前で大鎌を担いで、こちらを見ているチェイスを見た。

「俺もいるぜ」

「モロ……、お前もか」

 チェイスの後ろでレイピアを構えたモルドレッドがガドールに向かって手を振る。

「ロックは俺とモルドレッドが抑える。その間にお前は力を解放しろ」

「チェイス、お前……」

「暴走なんかさせねぇよ。俺達がついてるんだからな」

 ニカッと自信満々にモルドレッドが笑う。

――分かった、賭けてやるよ。

 ガドールは口の端に笑みを浮かべると、二人に言った。

「止めてやんねぇとな、あの馬鹿を」

 バチバチと体から溢れる電流を再び、薙ぎ払い、ガドールはロックを睨んだ。
 焦点の定まらないロックの目とガドールの視線が絡む事はない。バズーカのスコープ越しに見える目は、本能のままに獲物を狙う、獣のような殺気を放っている。

「弾丸は俺に任せろ。モロ、お前は回り込んでロックの動きを止めてくれ」

「了解」

「なら、私も加勢しよう」

 三人はそれぞれの武器を構え直すと、殺気立っているロックへと向かって行った。

「にしても、すげぇ殺気だな……。同一人物には思えねぇな」

 モルドレッドがロックに勢いよく斬りかかる。が、ロックは怯む事なく、冷静にモルドレッドのレイピアを薙ぎ払う。

「ッチ……!来るぞ、チェイス!」

「はいよ」

 チェイスはモルドレッドと入れ替わるようにスッと前へ出ると、迫って来ていた弾丸を光の防御壁で防いだ。

「ぐっ……!」

 絶え間なく飛んでくる弾丸が防御壁を揺らし、ピキピキと嫌な音を立てていく。あまり長くは持ちそうにないのは明らかだ。

――早くしねぇと、みんな殺られちまう。

 ガドールの頭に突如として、浮かんできたのはあの村での惨劇だった。自分に力がなかったがために、幼かったがために守れなかった、あの惨劇を繰り返してはいけない。大切な人を失う悲しみが、傷付く辛さがどれだけ人の心に深い傷を刻みつけるのか、ガドールには嫌という程分かっていた。

「お前は俺が守ってやる……。絶対に」

 溢れ出てくる力をゆっくりと解放していく。チェイス達のおかげか、心はひどく落ち着いていて、暴走する気配すらない。ガドールはチェイス達と戦っているロックに視線をやると、床を蹴った。

「ロック!」

 ガドールがキューを振るう。力を解放したおかげで、オールマイティーの力の影響は受けていない。これなら、いつものように戦える。ガドールは不敵な笑みを浮かべると、キューにありったけの電流を流す。

「っ………!」

 バチバチと体を流れていく高圧電流に、今まで無反応だったロックが僅かに眉を顰める。その反応に手応えを覚えたガドールは、更に攻撃を繰り出す。
 ガドールと戦いつつ、チェイス達の相手もしているロックはバズーカを振り回し、どうにか反撃を試みる。しかし、チェイスとモルドレッドの絶妙なコンビネーション、予想もつかないシュネルの攻撃の前ではなす術もなく、防御に徹する事しか出来ない。
 袋叩きにしているような、多少の罪悪感に駆られたものの、それでも攻撃の手を緩める訳にはいかない。

――さっさと正気に戻れよ、ロック……!

 ガドールの電流のせいでロックの服は所々爆ぜている。よく見れば、ロックの毛先は少し焦げており、茶色く変色していた。

「ガドール君、大丈夫かい?」

 チェイスとモルドレッドが戦っている最中、シュネルがガドールに声をかける。その心配そうな表情から自分がどんな表情をしているのか分かったガドールは、顔に手を当て、「大丈夫だ」と返す。

「頼む……。元に戻ってくれ、ロック!」

 チェイスの声にガドールがそちらに目をやると、シュネル同様、心配そうにロックを見ているチェイスとモルドレッドの姿があった。その悲痛な様は見ている方も胸が苦しくなる程だ。

「……君達には辛い思いをさせてしまっているな。すまない」

「謝んなよ。確かに辛いが、あいつがこのまんまの方が俺達は嫌なんだよ」

 「だから、何が何でも戻してみせる」。ガドールは気合いを入れ直すと、チェイス達に加わった。

「はぁっ!!」

 ガドールのキューとロックのバズーカが十字に交わる。そこでふと、ロックの変化に気付く。金髪の間から覗いている口元が不敵な笑みを浮かべていたのだ。

「ロック……?」

 ガドールが名前を呼んだ瞬間、ロックはこれまでに聞いた事のない不気味な笑い声を上げた。壊れたおもちゃのような、普段のロックからは想像もつかない様子にその場にいた全員の背筋が凍る。

「ガドール君、離れて!そいつは……」

「……何だよ。口を開けば、ロックロックって。お前ら、必死すぎんだろ」

「お前は……!」

 ガドールは身の危険を感じ、素早く後退する。

「よぉ、下等生物共。安心しろ、ロックならちゃ〜んとここにいるぜ」

 ロックはニヤリと笑うと、自身の胸の真ん中を親指で指した。

「オールマイティー……!」

「ん?何だ、お前もいたのかよ。確か、シュネル……だっけか?」

 ロックもといオールマイティーは首を傾げながら、言った。姿も声もロックのものだが、口調はいつもと違うせいでまるで別人のようだ。

「ロックをどうする気だ」

「どうするって、どうも」

 オールマイティーの返しに睨みを効かせていたシュネルの目つきが更に鋭くなる。それに対し、オールマイティーは愉快とばかりに不気味な笑みを浮かべたままだ。何を考えているのか分からない、その態度に一同の警戒心は高まる一方だ。

「何を勘違いしてんのか知らねぇが、俺はあの悪趣味な奴に目覚めさせられただけで、ロックを消そうとしてる訳じゃねぇ」

 バズーカを肩に担ぎ、オールマイティーは言うが、その言葉を鵜呑みにする訳もなく、ガドール達は怪しいと疑いの眼差しを向ける。もちろん、あちらもそんな言葉で納得するとは思っていなかったようで、やれやれと見え透いたリアクションを取っている。

「なら、今すぐロックを返せ」

「……お前がそれを言うか、ガドール」

 ガドールの言葉に今まで口元に浮かんでいた笑みが静かに消える。その途端、鳴りを潜めていた殺気が再びオールマイティーの目に宿り、その視線がガドールをしっかりと捕らえた。

「こいつが何も知らねぇとでも言いたいのか?」

「何の事だ」

 キューを構え、ガドールが返す。すると、オールマイティーは肩に担いでいたバズーカをおもむろに下ろした。何を始める気だと様子を伺っていると、オールマイティーは懐から見覚えのある拳銃を取り出した。

――あの銃は、じいさんの………。

「お前が揉み消した、こいつの罪の話さ」

「っ……!?」

 ガドールが小さく息を呑む。

「揉み消したって……。お前……、ロックの記憶を弄ったのか!?」

 ガドールの能力を知っているチェイスは、目を見開き、ガドールに詰め寄る。その様子からただならぬ事だとモルドレッドは悟っているようだが、イマイチ状況が掴めないままでいた。

――あいつには、知られたくなかったってのに……。

 一方のガドールとシュネルは、ロックがその事を知ってしまった事実に下唇を噛み締めていた。

「ずっと隠せるとでも思ってたのかよ。バッカじゃねぇの?こいつにゃ、オールマイティー……全知全能の力があるんだぜ?」

 トントンと自身のこめかみを突くオールマイティー。その目は名の通り、全てを見透かしているようでガドールは正直気味が悪いと思った。

「俺はお前らの全てを知っている。だが、お前らは俺、いや、ロックの事を少しも理解出来ていない」

 オールマイティーはその場にいる者に視線を巡らせる。不敵に浮かべられている、口元の笑みはさながら蛇のようだ。

「これは忠告だ。ロックに殺されたくなきゃ、二度とこいつに関わるな」

「なっ……!?」

 オールマイティーの言葉にガドール、チェイス、モルドレッドの三人は小さく声を上げる。

「んな事言われて、はいそうですかって納得出来る訳ねぇだろ」

 モルドレッドがキッとオールマイティーを睨み付ける。冗談にしては笑えないと言わんばかりの表情にオールマイティーはわざとらしく、ため息を吐く。

「あ〜ぁ、せっかく言ってやったってのに。つくづく、バッカだな下等生物」

「……御託はいい。さっさとロックを……俺の家族を返しやがれ!」

 怒号と共にガドールの雷がオールマイティーを襲う。力任せの一撃ではあったが、その攻撃は強力だった。けれど、オールマイティーはそれを片手だけで制してしまう。まるで蚊を払うかのような動作にガドールはギリッと歯を食いしばる。

「落ち着け。また力に飲まれるぞ」

 今にも飛びかからん勢いのガドールをモルドレッドが制す。この状況において、冷静さを失ってはいけない。相手の思うつぼだ。モルドレッドの言葉に冷静さを取り戻したガドールは「サンキュー」とモルドレッドに言った。

「ロックに殺されるってどういう意味だ」

 チェイスがオールマイティーに尋ねる。すると、オールマイティーは「そのまんまの意味だが?」と首を傾げながら言った。

「……オールマイティーには能力の代償みたいな呪いがかけられているんだ」

 不意にシュネルが話し出す。

「私は一つの魂に二つの体で生まれ、年を取らない呪いを。そして、ロックは……」

「愛する者をその手にかけてしまう呪い」

 口ごもっていたシュネルの代わりに、オールマイティーが言った。

「何だよ、それ……」

 訳が分からないと言いたげなモルドレッドの声色にオールマイティーは突如、高らかに笑い始めた。狂気めいた笑い声に再び、背筋が冷たくなる。

「分からねぇよな。分かる訳ねぇよな!」

 怒号にも似た叫び声に空気が震える。その声がどこか切なそうに聞こえたのは、きっと気のせいだろう。

「誰かに愛されているという自信があいつにゃねぇ。だから、それを確認しねぇと不安になって、相手を殺しちまう……。そんなみっともねぇ呪いだ」

 オールマイティーはニヤリと笑い、胸に手を当てると「なぁ、ロックよ」とロックに向かって呟いた。心做しか、ロックに対してだけは声色が若干柔らかい。そうやって、ロックを乗っとろうとしているのだろうか。

「みっともないなんて、そんな事……」

「……やっぱりよぉ、お前を愛してやれんのは俺しかいねぇよ」

「………は?」

 オールマイティーの言葉にチェイスは間の抜けた声を上げる。

「何を……」

 呆気に取られる三人を他所に何故か焦った様子のシュネル。そんなシュネルを見て、オールマイティーは恍惚そうに目を細める。

「俺が、俺だけがお前を愛してやる。死ぬまでずっと、永遠に」

 胸に手を当て、オールマイティーは告白のような甘い言葉をロックに向かって紡ぐ。乗っとるのではなく、共に生きていこうと。聞こえはいいが、その実、オールマイティーの愛は一方通行であり、狂っている。

「ダメだ……。そんな事になったら、ロックはロックでなくなってしまう!」

 ただ一方的に愛されるだけの人形になってしまう――。絞り出すような弱々しい、シュネルの一言にガドールの中でプツリと何が切れた。

二十・愛した分だけ締まる首

 昔、おとぎ話で神はいないと聞いた事を不意に思い出す。

――嘘だったら、どれだけ楽だったか。

 暗い部屋の中央に佇む少年は、突きつけられた言葉に下唇を噛み締めた。そんな少年を値踏みするように見据える人々の視線は、どれも不愉快極まりなく、何故こんな所に連れて来られたのだろうかと運命を呪った。

「ガドール=クーリッジ、お前にオールマイティー監視の任を与える」

 オールマイティー、そう呼ばれたのは小さい頃から一緒にいた幼馴染だった。人々は語る。奴は我々の脅威になりかねない存在であり、もし奴が反逆者となりえた場合は殺してしまえ、と――。

「失敗は許されない。もちろん、この事は他言無用である」

「……御意」

 拒否する事など許される訳もなく、少年――ガドールは声を絞り出す。明日からどんな顔をして、ロックの隣にいればいいのか。こんな事が知られてしまったら、ロックに嫌われてしまう。不安が頭にまとわりつき、気分が悪くなる。

「……どうして、ロックが」

「ロック?あぁ、あの子供の名か」

 ガドールの呟きに興味がないと言わんばかりに誰かが返す。彼らにとって、ロックの存在がいかに瑣末な事であるのか、それがまざまざと分かり、ガドールはキッとその人物を睨み付ける。オールマイティーは確かな脅威ではあるが、ロックという人間自体に恐れる必要はないといった所か。

「奴は現オールマイティー……シュネル=ペプラムの孫だ。オールマイティーは遺伝性ではないが、あの子供にはその特徴が見られる」

「特徴……?」

「金髪銀眼だ」

 誰かの言葉にガドールは違和感を覚える。確かにロックは金髪だが、眼は灰色だ。

「銀というには、黒みがかってはいるが、例の事件で魔獣を倒した事実が何よりの証拠だろう」

 例の事件というのは、数日前に村を襲ったロマノフ=ジョーヴァンが引き起こした災厄の事だ。幼心に冷酷にも焼き付いた惨状は今思い出しても、胸を抉り、自身の無力さを痛感させる。

――俺にもっと力があれば……。

 ロックの両親も、村の人々も死ぬ事はなかった。不毛だとは思いつつも、考えずにはいられない。残された者の傷は計り知れないが、ガドールはそれ以外にズタボロだった。目に浮かぶのは、両親を亡くし、墓の前で泣き続けているロックの姿ばかりだ。

「その子供がオールマイティーとして完全覚醒すれば、老いた方のシュネルを殺すはずだ」

「そんな事、させる訳……!」

「ならば、その子供が死ぬだけだ」

 吐き捨てられた言葉にガドールはきつく拳を握りしめる。オールマイティーは世界に二人しか存在出来ない。それはこの世界が出来た時からの理であり、覆る事のない連鎖だ。つまり、ロックがシュネルを殺さなければ、逆にロックが殺されてしまうという事だ。

――俺は……、どうすれば……。

 告られた結末に抗う術もなく、数年後、ロックはシュネルを撃ち殺した。血に塗れたロックは不気味な笑みを浮かべたまま、放心状態だった。覚醒してしまった――。そう絶望しかけた時、ロックの口から悲鳴が上がる。

「ガドール、俺……俺、じいちゃんを……!」

 涙で顔を汚しながら、ガドールにしがみつくロック。その様を達観的に見据えていたガドールはロックにバレないようにニヤリと口の端を上げて笑っていた。

――ロック、俺はまだ……お前を救ってやれる。

 完全にオールマイティーとして、覚醒していないのなら――、ロック自身の人格が残っているのなら――、処理は簡単だ。

「忘れろ」

 ガドールは能力を使い、ロックの記憶の一部を書き換える。シュネルの死体は、エージェントに任せ、死因は病死と偽った。

――俺が守ってやるんだ。

 託された想いがあった。守りたいという意志があった。しかし、例の命令が邪魔をする。知られたら最後、ロックはガドールから離れていくだろう。俺はお前を断罪する為に生きているのではない、と。

「ぐあっ……!」

 村の人々の哀れんだ目や気遣いにロックの心は疲弊し、度々原因不明の発作を起こすようになった。誰もがロックをあの事件の象徴としていた。それを感じ取っていたロックはストレスから料理さえも出来なくなっていた。

「ロマノフ=ジョーヴァンの野郎をぶっ倒しに行くぞ」

 ロックを連れ出すための口実になれば、何だってよかった。あの元凶をぶっ飛ばしてやりたい気持ちは確かにあった。しかし、それ以上に思っていたのは、ロックの事だった。本人の知らぬ所で自身の運命が左右されているなど気付かずに、幸せになってくれと心から願っていた。だから、ガドールはロックと共に故郷を出たのだ。

「ガドール?」

 その声で名前を呼ばれる事が心地よかった。肩を並べて、冗談を言いながら歩いて行ける日々が楽しかった。偽りだらけの中で唯一、真実だと信じられたモノ。いつか失ってしまうであろう、当たり前のロックとの日常がガドールには眩しく、愛おしく思えたのだ。

「お前みたいに綺麗なまんまに生きられたら、最高なんだろうな。きっと」

 些細な幸せで満たされていた心がひょんな事から欲を出す。クルッカに出会って、ガドールは自分も誰かを愛してもいいのだと、許されたような気がした。元より誰かに禁じられていた訳ではないが、ガドール自身、自分は誰も愛せないだろうとどこかで思っていた。何故なら、ガドールが愛していたモノはすべからく、その手から零れ落ちていってしまったからだ。ただ一人――ロックを除いては。

――何度だって、欺いてやるよ。

 能力を使わずとも、上手くやれる自信があった。何たって、自分には嘘つきの色とされる紫の瞳があるのだから。

「雷帝、オールマイティーの様子はどうだ?」

「相変わらずだ。奴が脅威になるとは思えない」

 他にやり方があったのなら、教えてほしい。誰も傷付けず、誰も苦しまない守り方があったのならば、今も相棒として、純粋にロックの隣にいられたというのに。

――……苦しいな。

 胸に秘めた思いを全てぶちまけられたら、どんなによかったか。助けてくれと伝えられたら、仲間は手を差し伸べてくれただろう。しかし、そんな事を考えても、もう後の祭りだ。

「よぉ、下等生物共」

 ニヤリと浮かべられた笑みにガドールは全てを悟る。シュネルを殺したのは、ロックではなく、こいつであると。何故かは分からないが、オールマイティーはロックとは別人格として、その体に宿っていたのだ。

「俺が、俺だけがお前を愛してやる。死ぬまでずっと、永遠に」

 狂った告白じみた言葉にガドールの全身からバチバチと電流が流れ出す。それと共にだだ漏れる殺気を隠す様子もないガドールは、オールマイティーを殺さんとばかりにキューを振るう。相手が誰であろうと、ロックであるなら、自分が負ける訳にはいかない。これ以上、格好悪い姿など見せてなるものか。

――ロック、俺は……!

 正気に戻して、言わなければならない言葉がある。例え、許されないとしても、ただ一言――ごめんと言いたかった。
_____________

「ガドール君!」

 シュネルの声にガドールは乱れた息を整える。その下には馬乗りにされ、身動きの出来ないオールマイティーがおり、口にはガドールのキューが突き立てられている。

「ガドール……」

 心地よかった声がガドールの名を呼んだ瞬間、突き立てられたキューからバチバチと火花が散る。

「くくっ……。また欺くのか?じいさんをぶち殺した時みたいに隠してくれるんだろう?」

「黙れ」

 ガドールのキューの先端がオールマイティーの喉の奥に当たる。これにはさすがのオールマイティーも嘔吐き出し、生理的な涙が頬を伝う。

「殺されたくなきゃ、関わるな?それはこっちのセリフだ」

 これがロックの体でなければ、嬲り殺していただろう。それ程にガドールの怒りは頂点に達していた。あの日、何も守れなかった時から、ガドールは穢れているのだ。今更、何かしたくらいであの頃以上に傷付きはしない。

「うげぇっ……」

「今すぐ、ロックの中からいなくなれ。じゃねぇと、ぶっ殺すぞ」

 オールマイティの耳元に口を寄せ、低い声で言い放つ。すると、数メートル先で見守っていた三人の空気が張り詰める。

「ガドール、お前……!」

「勘違いすんな。書き換えたりはしねぇよ」

「じゃあ、どうするつもりだ?ロックを殺さずにそいつだけ殺すなんて事、出来るとも思えないが」

 チェイスがガドールを真っ直ぐに見据える。一方のガドールは、キューを突き立てたまま、視線だけをシュネルに動かした。

「一時的に封じ込めるくらいは出来るけど、彼だけを殺すなんて事は出来ない。残念だけど、彼もロックの一部だからね」

「……だろうな」

 目を伏せるシュネルにどこか分かりきっていたと言わんばかりの表情のガドール。しかし、やる事に変わりはない。ガドールはオールマイティーに視線を戻すと、もう一度耳元に口を寄せる。

「おい、ロック」

 ビクリとオールマイティーの体が震える。余程気持ち悪かったらしい、オールマイティーはバタバタと手足をばたつかせる。

「俺はちゃんとお前を見てる、お前だけを見てる。何があっても、俺はお前の味方だから」

「あがっ………ぐぇっ……!?」

「大好きだぞ、ロック。他の誰よりも、愛してる」

「っ……!!」

 目を見開いたオールマイティーは、不愉快とばかりに口に突き立てられたキューを退かせ、ガドールを突き飛ばす。耳元で囁かれた事が酷く気に入らなかったようで、オールマイティーは耳元を手で摩っている。

「野郎に囁かれる趣味はねぇんだよ!クッソ気持ち悪ぃ……」

「ッチ。これくらいじゃ、戻ってこねぇか」

「お前、バッカだろ!?これだから、下等生物は……」

 ふとそう言いかけた、オールマイティーの口元が不気味に歪む。悪巧みでもしているような表情にガドールはぞわりと悪寒を感じた。

「お前も大変だなぁ。思ってもねぇ事を口にしねぇといけないなんてよ」

「あ?」

「いや、殺す度胸がねぇだけか。大事な家族だもんなぁ?いくら命令でも殺せないよなぁ?」

 あからさまな挑発にガドールは何だとオールマイティーを見る。今は先程よりだいぶ冷静だ。そんな挑発に乗る程、馬鹿ではない。

「殺せるぞ。お前だけなら」

「お〜、怖い怖い……。でも、それは間接的にこいつを痛めつける事になるって忘れてないか?」

 指で焦げた髪先を弄るオールマイティ。瞬間、カッと頭に血が上る。我が物顔のオールマイティが心底気に入らなかった。

「誰よりも信じてた幼馴染に裏切られて、しかも体までズタボロにされて……。挙句、口から出る言葉は嘘だらけ」

――誰のせいでそうなったと思ってる……。

「騙してたんだよな、ずっと」

 ギリィっと食いしばった歯から嫌な音がする。

「お前だけは……違うって信じてたのに」

 わなわなと震える肩を諌める手も払い除け、ガドールは声を上げる。

「ガドール!!」

「お前さえいなけりゃ、俺は……っ!?」

――あいつの相棒でいられたのに。

 続くはずの言葉は声にならず、ガドールの心臓は一気に熱を失っていく。まるで心から凍っていくような感覚だ。

「…………ロック」

 いつの間に入れ替わったのか。ガドールの目の前には眉を顰め、苦しげに涙を流しているロックがいた。最悪の形での再会にガドールは唇を噛み締める。

「俺は……、お前の罪の産物じゃないっ……!」

 発された言葉にガドールの体は強ばる。俯いていたロックは、垂れた前髪越しにこちらを睨み付けていた。覚悟していた事とはいえ、実際にそんな視線を向けられた事へのショックは想像以上のものだった。

――嗚呼、これはきっと罰だ。

 築いてきた絆がガラガラと崩れていく、そんな音がガドールの頭の中で嫌に響く。

「ロック、ガドール君は君を……!」

「みんな……みんな、俺をそんな目で見てきた!あの事を忘れろって言うくせに、俺をあの日からずっと縛り付けてくる!!」

 「誰も俺を見てくれない……。俺越しに違うものばかり見て……」。顔を両手で覆い、その場に膝をつくロック。震える肩はいつも以上に華奢に見え、今にも壊れてしまいそうだ。見ているだけでも胸が痛くなる光景にガドールは何も考えられなくなる。

「俺が、オールマイティーだから……ずっと傍にいたんだろ?馬鹿みたいにお前に憧れてた俺は、滑稽だったか?」

「ロック、やめるんだ。それ以上は……」

「俺は……俺はっ……!!」

「ロック!」

 シュネルはロックに駆け寄ると、その背中を優しく撫でる。過呼吸のようなおかしな呼吸音が耳に付いて離れず、やがてロックは意識を失った。色のない頬は死んでいるかのようだった。

――こいつを欺き続けた、罰なんだ。

「……ガドール、大丈夫か?」

 控えめにかけられた声にガドールは生気のない声で何とか返事をする。振り返れば、そこには心配そうな顔をしたチェイスとモルドレッドがいた。

「モロ、お前はガドール達と艇に戻ってくれ。俺はクルッカ達と合流する」

「……了解。無理すんなよ」

「あぁ、そっちこそ頼んだぞ」

 チェイスはガドールを一瞥した後、その場から駆け出した。一方のモルドレッドはロックを診ているシュネルに声をかけ、状態を確認しているようだった。

「よいせっと……!あ〜……、バズーカーどうする?」

「私が持って行こう」

 テキパキと撤収作業に入る二人に対し、放心状態のガドールは焦点の定まらない目で立っているのがやっとだった。

「ガドール、お前が過去に何してたのかなんて、俺は知らねぇし、こんな事言われるのは癪だろうが、今だけはシャキッとしてくれ」

 「まだ敵地なんだよ、ここは」。強い光を宿す青い瞳にガドールはハッと我に返る。そうだ、今はここから離れなくては。

「……悪い。先頭は俺が行く」

「あぁ、頼んだ」

 ガドールは武器であるキューを握り直すと、艇の停めてある外を目指し、歩き始めた。
―――――――――――――――――――――――
 一方、クルッカに加勢しようと上に残ったマティアスとジェイドは目の前に広がる惨状に息を呑んだ。

「何、これ……」

 コンクリートの壁はボロボロと脆く崩れており、中の鉄骨は熱で溶かされたのか、原型を留めていない。部屋のあちこちには幾つも瓦礫の山があり、よく見ればそこから人の手らしきものが覗いている。

「ジェイド、手伝って」

「えぇ」

 二人がかりで瓦礫を何とか退かすと、中から出てきたのはバネッサだった。満身創痍で気絶しているようだが、命に別状はなさそうだ。

「バネッサ、しっかりしなさい。バネッサ!」

 バネッサを膝に抱え、声をかけるジェイド。ペチペチと軽く頬を叩くも、バネッサから返ってくるのは呻き声のようなものばかりだ。

――クルッカとゼータは?

 バネッサをジェイドに任せ、マティアスは瓦礫の山を崩しにかかる。人の気配がしない分、気を付けなければならないが、悠長にしている場合でもない。

「クルッカ、ゼータ。聞こえてたら、返事して」

 声をかけながら、人がいそうな場所を手当たり次第に見て回っていると、物陰から微かに低い声が耳に届いた。ゼータの声だ。

「ゼータ!」

 壁に開けられた穴から隣の部屋に入ると、壁に凭れているゼータを見つける。バネッサ同様、満身創痍だが意識はあるようで、マティアスを見るなり、困ったと言わんばかりに眉を顰める。

「ゼータ、大丈夫?」

「敵の心配をしている場合か」

 呆れた口調のゼータは話す事もしんどいのか、ヒューヒューと変な息をしている。こういう時、ロックがいれば心強いのだが、ロックもロックで大変な時だ。回復魔法の一つでも覚えておくんだったとマティアスは軽く後悔する。

「敵でも友達、だから」

「……そうか。まだ、そう言ってくれるのだな」

 口の端に笑みを浮かべ、嬉しそうなゼータ。おもむろに手を上げたかと思えば、その指先は更に隣の部屋へと向けられた。

「クルッカならあちらだ。今は落ち着いているとは思うが、気を付けろ……」

「ん、ありがとう。すぐ迎えに来るから」

 マティアスはゼータから離れると、ゼータの指した隣の部屋へと足を踏み入れる。荒らされた形跡のない部屋は、無機質でひんやりとしている。思わず、マティアスが身震いしていると、部屋の中央に佇んでいたクルッカがゆっくりとこちらに振り返る。

「マティアス……?」

 レモン色の目がマティアスを捉える。意識があるのか、ないのか。その目はたゆたっており、焦点が合っていない。

――wild cardの暴走とは違う……。

 部屋の惨状から、wild cardが暴走したのかと考えていたマティアスは、様子の違うクルッカを真っ直ぐに見据える。wild cardが暴走したのなら、クルッカの意識は奴にのまれているはずだ。

「マティアス、下がれ」

 クルッカに近付こうと一歩踏み出そうとした時、マティアスの肩をチェイスが掴む。ロックの方は片が付いたのだろう。その事にマティアスはホッと胸を撫で下ろす。

「……ロック、は?」

「あいつなら無事だ。ガドールもな」

 そう語るチェイスの顔は笑ってはいたが、マティアスは直感的に何かあったのだと悟る。元々、何かしら抱えていそうな二人だ。特にガドールは不器用ながらもロックを大切にしている反面、たまに苦しげに眉を顰めている時がある。何かない方がおかしい。

「そっか……。よかっ……」

 チェイスの言葉に安心したのか、クルッカの足から力が抜けた。ゆっくりと床へと倒れ込む直前、チェイスが滑り込んでクルッカを抱き留める。バネッサやゼータ以上に傷だらけのクルッカは、綺麗な銀髪を血で赤く染め、痛々しい有様だ。

「……チェイス、バネッサとゼータはどうするの?」

 クルッカを抱え、その場を後にしようとするチェイスをマティアスが呼び止める。今回の元凶とはいえ、二人はクルッカ達と浅くない間柄だ。このまま、ここに置いていく事は簡単だが、今回の事についての真相も分からないままというのは後味が悪い。

「もちろん、連れて行くさ。王都に着き次第、騎士団に身柄は拘束させてもらうがな」

「……ありがとう、チェイス」

「お前が礼言う事じゃないだろ?」

 「本当、いい子だよな。お前は」と笑うチェイスにつられて、マティアスも笑みを浮かべる。

「チェイス、あいつらどうする?」

 不意に壁の穴から顔を出したモルドレッドがゼータのいる方に親指を向ける。「艇に運んでくれ」とチェイスが返すと、モルドレッドは頷いてみせた。

「おい、ゼータとか言ったか。お前、歩けるか?」

「あぁ、大丈夫だ……」

 よろよろと立ち上がるゼータにモルドレッドが肩を貸してやる。身長差があるせいで互いに歩きづらく、重いだのと愚痴りながらもゼータを気遣っている辺りがモルドレッドらしい。

「よし、それじゃ戻るぞ」

「へいへい」

 クルッカを抱え直したチェイスは、モルドレッド達と一緒に艇へと向かう。その背中に安心感を覚えつつ、マティアスも後を追うのだった。

二十一・ジンに溶けたライムの行方

 "俺はお前の罪の産物じゃない"――。そう言い放った、あの泣き顔が頭に焼き付いて離れない。泣き顔なんて、小さい頃から見慣れているはずなのに思い出す度に罪の意識に苛まれる。

「ガドール君」

 俯いていた顔を上げると、そこにはあの泣き顔に瓜二つのシュネルが柔らかい笑みを浮かべて、こちらを見下ろしていた。

「身体は平気?」

「……あぁ」

 廊下のソファーに長い事座っていたらしい。そろりと視界を動かせば、シュネルにガドールを任せたらしい看護士の姿が見える。

――そういや、入院してたんだったな……。

 あれから、二週間。劇薬の副作用云々の経過を見る為、王都の病院に入院中のガドールは決まった時間になるとここに来ていた。

「あいつ、まだ目ぇ覚めないのか……?」

 ICUの中、規則正しく呼吸しているロックは、あれ以降目を覚まさないままでいる。医者が言うには、精神面から来るものらしいがガドールにはその理由が分かっていた。

「恐らく、オールマイティーがロックを閉じ込めてるんだろうね。彼は元々、ロックのトラウマから出来た人格……オルターエゴだから、こういう方面には影響力が強いんだと思う」

 それは一種の防衛本能――。これ以上傷付くまいと、傷付くくらいなら目覚めたくないという、ロックの意思にオールマイティーが力を貸しているのだ。

――どこまでも忌々しい奴……。

 "俺だけがお前を愛してやる"。狂気じみた告白紛いの甘い言葉にガドールは奥歯を噛み締める。不愉快にも程がある。ロックはちゃんと愛されていた。母親にも父親にも、祖父であるシュネルにも。それをガドールは身を持って知っている。故にそれを失わせてしまった自分が心底許せなかった。罰だ、罪だとロック自身に断罪された方がどれだけよかっただろうか。

「……君には本当、辛い思いばかりさせているね」

 シュネルの伏せられた目にガドールは内心、自嘲気味に笑っていた。自業自得だから、覚悟していた事だから仕方ないと――。

「でも、少し羨ましいよ」

「は……?」

 馬鹿にしているのかとガドールがシュネルを見ると、シュネルは不謹慎だと思いながらも、笑っていた。慈しむような、柔らかな視線にガドールは訳が分からないと眉を顰める。

「私はオールマイティーで、ずっとこの見た目だから、気味悪がられるわ、忌み嫌われるわでね。人なんて寄り付かなかったんだ」

 若さの秘訣は処女の生き血を飲んでいるからだ、彼はお伽噺のヴァンパイアなんだ――。そんな根も葉もない噂もあったと茶化すように言うシュネル。理解者もいなければ、気を許せる人もいない。それがどれだけ辛い事か、ガドールには痛い程分かっていた。

「だから、私は君達が羨ましい。心から信頼し合っていて、本気で喧嘩して、仲直り出来る君達が」

「……お前もそういう奴を見つければいいだろ」

「簡単に言ってくれるね。難しいって分かってるだろうに」

 世界に二人しか存在出来ず、理から外れた彷徨い人。不老不死で全知全能、それ故に彼らは孤独であり、過去のオールマイティー達の大半は、シュネル同様、傍観者を決め込んでいた。どう生きようが、どれだけ抗おうが、最後には同族であるオールマイティーに殺されるのだ。その生涯について、語られる事は少ないが、どれも悲惨な末路である事に変わりはなかった。

「……私のオレンジは、幸せだったのかな」

「幸せだったろう。……笑ってたぞ、あのじいさん」

 ロックに殺されると分かっていて、抵抗もせず、死んでいったシュネルは痛みに顔を歪ませる所か、安らかに笑っていた。幸せだと言わんばかりの顔にガドールは胸がいっぱいになったのを今でも鮮明に覚えている。

「そう……、それはよかった」

 短く返された声は微かに震えていた。

「……世の中、不思議なもので私にも手を差し出して来る物好きが何人かはいたんだ」

 ――でも、私はその手を取れなかった。成長もなく、老いる事のない自分にシュネル自身、怯えていたという。こんな不気味な自分を理解出来る人も、好きだと言ってくれる人も、一生現れないと勝手に決めつけた結果、シュネルはまた独りぼっちになっていた。

「傍観者なんて、聞こえがいいだけで、実際はただ臆病だっただけだ」

「シュネル……」

「だから、余計に願ってしまうんだ。みんなには幸せになってほしいって」

 力なく笑うシュネルにガドールはふと嫌な予感を覚える。何かを告げようと動くシュネルの口が不自然な程、ゆっくりと見えた。

「……君は十分、ロックに尽くしてくれた。だから、もし……」

 「もし、君がロックから解放されたいと言うのなら、私が引き受けよう」。シュネルの言葉にガドールは目を見開く。言葉が理解出来ない。解放とは何だ。そもそも、ガドールはロックの事を守るべき対象としている。約束だから、任務だから、そんなものは関係なしに。それが分からない程、シュネルと言葉を交わさなかった訳でもない。だというのに、何故そんな事を言い出すのか。

「君は色んなモノに縛られてきた。自由に、自分らしく生きる権利を剥奪されたに等しい毎日は、もう取り戻す事は出来ない」

 「でも、今なら変えられる。何かにビクビクしながら生きる日々はもう、終わりにしよう」。ワナワナと肩が震え出す。確かにこれまでの日々は、内心ビクビクしていた。嫌われてしまう事が恐ろしくて、敵視される事が絶望と等しかった。それでも、後悔した事はなかった。出会わなければよかったと思った事など一度もない。

「ふざけんじゃ……!!」

 ガドールが勢いよく、シュネルの胸ぐらを掴む。バイオレット色の目に、映る目はロックのそれよりも銀色であり、何もかもを見透かしていると言わんばかりに不気味な光を宿していた。

「私に隠し事は出来ないんだよ?」

 全てを見透かす銀色の目がガドールを見据える。この居心地の悪さは、小さい頃に訪れた、王都の会議場に似ていた。

「ロックにはロックの、君には君の人生があるんだ」

「…………」

「だから、よく考えて。ロックの前から姿を消すと言うなら、私が全力で君を助けよう」

 そんな事する訳ないだろ――。そう言いたいのに、声が出ない。その事にガドール自身、ひどく驚いた。どこかで少しでも考えてしまったのか。ロックから解放されたいと――。

――あいつがいなくなったら、俺は……どうなるんだろうな。

「……さて、病室に戻ろうか。これ以上ここにいたら、看護士さんに怒られてしまう」

 シュネルはそう言うと、ガドールの手を引いて歩き出す。されるがままのガドールは、働かない頭を何とか動かそうと思案を巡らせるも、モヤモヤとした気持ちは晴れる所か、一層酷くなるのだった。

――――――――――――――――――――――――

「長い事閉じ篭ってるみたいだね、ロックん」

 閉ざした意識に呼び掛けて来た声は、親しげに笑みを浮かべている。何故、ここにバネッサがいるのか。考える余裕のないロックは気だるげに顔を上げる。
 白一色の世界――。そこはロックの意識の中で、何人たりとも冒せない深層心理の底の底。オールマイティーの力により、作られたここはさながら、目覚める事の出来ないロックが繋がれた牢獄だ。

「酷い顔だねぇ。ま、仕方ないか」

「何の用?」

「暇だろうから、話をしに」

「友達でもないのに?」

 意図の読めないバネッサにロックは眉を顰める。バネッサの性格はあの時で多少、把握している。気を許せば、何をされるか、分かったものではない。こんな所まで来たのだ。理由がないのなら、バネッサは余程の暇人なのだろう。

「うっわ、傷付く……。って、嘘嘘!確かに僕らは友達じゃないけど、だからって話しちゃいけない理由にはならないよね?」

 バネッサはロックの視線をものともせず、隣に腰を下ろすと現在の近況について話し出した。
 あの後、チェイス達に助けられたバネッサとゼータの二人は騎士団の監視下にある、病院に入院したのだが、それも最初から計算に入れていたらしく、あっさり脱走し、今に至るという。ちなみに、今の状態については、バネッサ自身もよく分かっておらず、「まぁ、夢だと思ってよ」と軽く流された。

「ロックんはそん時から眠ったまんまだからぁ……、二週間はここにいるって事だね」

 指折り数えた後、バネッサが明るい調子で言った。時間の感覚のないロックはその言葉に目を見開く。そんなに経っているとは思ってもみなかった。

「……目覚めるのは怖い?」

 バネッサの一言にロックの肩は分かりやすく跳ねる。それを見たバネッサは緩く口の端に笑みを浮かべると、楽しげにまた話し出す。

「ロックんはさ、ガドールに憧れてるんだったね」

 「僕もね、憧れてる人がいるんだ」。少し顔を上げたバネッサは懐かしそうに目を細めた。その仕草にその人が故人なのだろうとロックは悟る。

「……語るより見せた方が早いか。ちょっと失礼」

 不意に伸びてきた手がロックの頭を引き寄せ、自身の額とロックの額を合わせる。すると、いつぞやの謎の浮遊感に襲われる。また過去を見せるつもりなのだろう。

――この力は、オールマイティーの力なんだろうな。

 ぼんやりとそんな事を考えていると、白一色だった世界が緑色に染まっていく。どこかの森らしい、そこを一人の子供が走り去って行く。

――あれは……。

 子供は泣いているのか、走りながら、しきりに目元を袖口で拭っていた。

「うぅ……」

 やがて、走り疲れたのか、切り株に腰掛けた子供はボロボロと泣き始める。その姿が両親を亡くし、毎日泣いてばかりいた自身と重なり、ロックは思わず声を掛けそうになる。

「声、届かないんだったな……」

 伸ばしかけた手がどうする事もなく、元の位置へと戻っていく。もどかしいとはまさにこの事だ。

「何、泣いてんだよ。こんな所で」

 突然、誰かが子供に声を掛けてきた。誰だと顔を上げる子供につられ、ロックもそちらを見れば、そこにはオールドローズ色のポニーテールを揺らしながら、こちらを見ているボーイッシュな女の人が立っていた。

「馬鹿にされたくらい何だ。殴り返すくらいの度胸もない訳?」

「だって、メルダ……」

「だってじゃない。ったく……、泣き虫め」

 女の人――メルダは豪快に頭をかくと、仕方ないとばかりに子供の頭を撫でる。ぶっきらぼうだが、その手つきは優しく、子供の口元には笑みが浮かんでいる。

「で、今日は何て言われたんだ?」

 切り株の空いているスペースにメルダも腰を下ろす。

「……お前は普通じゃないって」

「普通じゃない?」

「僕、男の子でも女の子でもないんだって。お医者さんが言ってたのを、周りの子達が聞いて……」

 子供曰く、生まれた時から自分には性器がなかったという。染色体から身体が男であると判別はされたが、その性別に違和感を覚えたらしい。自分の性が分からない――。そう両親に打ち明けた事で医者に相談した所、子供はXジェンダーだと診断されたのだ。

「よく聞け、マリオン」

 メルダが子供――マリオンの前に回り込み、真っ直ぐに目を合わせる。涙でぐちゃぐちゃな顔を見られたくないのか、マリオンは数回顔を逸らしていたが、メルダの力技により、渋々目を合わさせられる。

「性別なんてのは生きてく上で大したもんじゃない。あんなのはアクセサリーみたいなもんだ。分かりやすく区別する為のな。名前だってそうだ」

 メルダはマリオンの手を取り、切り株から立たせる。

「性別がなきゃいけないマリオン=ライリーが嫌なら、私が名前をやる。お前が自分らしく生きられる名前を」

「自分らしく生きられる名前……」

「そうだなぁ……。バネッサ、なんてのはどうだ?」

――え……?

 メルダの提案した名前にマリオンはキラキラと目を輝かせる。気に入ったと言わんばかりの目にメルダは嬉しげに笑ってみせる。

「じゃあ、決まりだな。今日からお前は……」

 ザワザワと風が木々を揺らし、太陽の光がマリオンに降り注ぐ。光を受けた瞳が見るのは、風をその身に浴び、愉快そうに笑っているメルダだ。

「バネッサ=ジンライムだ」

 ジンライム――、その意味は"色褪せない初恋"――。

――――――――――――――――
 メルダはその界隈では有名なトレジャーハンターだった。難攻不落な罠の数々をものともせず、彼女が通った後は何も残らない――二つ名は"破壊神メルダ"。その名の通り、罠だろうが貴重な遺跡だろうが情緒もなしにぶっ壊していくスタイルのメルダは、同業者からも遺跡マニアからも異端児扱いされていた。

「よし、バネッサ。今日はここに行くぞ」

 仲間もなく、いつも一人だったメルダは、その日もバネッサと一緒に宝探しへと向かっていた。例の如く、遺跡の壁やら罠やらを一心不乱に壊しまくったメルダは金属のように硬化した、自身の腕を誇らしげに見つめていた。

――あれが鋼の能力……。

 code number7、鋼の能力者。それがメルダのもう一つの顔であり、破壊神たらしめた元凶でもある。メルダは生まれつき、能力を有しており、そのおかげか、喧嘩は負け知らずだったという。

――僕にもあんな力があればな……。

「止まれ、バネッサ」

「え?」

 メルダに手で制され、我に返るバネッサ。どうしたのかとメルダに目をやると、眉間に皺を寄せ、辺りを警戒していた。同業者か遺跡マニアか、どちらにしてもメルダがこのような態度を取るのは珍しかった。

「今、何か音が……」

 遠くの方で小さな音がしたかと思った途端、地面がグラグラと小刻みに震え出す。天井からはパラパラと砂が落ち始め、揺れが酷くなると嫌な音を立て、壁に大きな亀裂が入る。

「走れ、バネッサ!!」

 メルダはバネッサの手を掴むと、踵を返す。呆気に取られたバネッサが一歩出遅れた瞬間、背後スレスレに天井から大きな岩が降って来た。

「ひっ……!?」

 遺跡が崩れ始めている、とその時ようやく気付いた。恐らく、原因は先程の小さな音だろう。誰かが爆弾でも仕掛けたのか。否、そんな事を考えている場合ではない。

「バネッサ!!」

 震える足に何とか力を込め、バネッサとメルダは崩れ始めた遺跡から脱出しようと出口へと走る。落石で塞がってしまった道は迂回する余裕もなく、メルダの能力で壊して進むしかなかった。

「メルダ、もう少しだよ……っ!?」

 ようやく出口が見えた時、人影が二人の前に立ち塞がる。格好からして、傭兵であろう男は銃口をこちらに向け、立っていた。

「お前か。爆弾仕掛けたアホンダラ野郎は」

「破壊神に言われたかねぇな。悪いが、こっちも雇われてる身なんでね。子連れだろうが、手加減はしてやらねぇぜ?」

 男が話している間にも、遺跡は勢いよく崩れていく。早く脱出しなければ、全員生き埋めだ。嫌に働く頭にバネッサは恐怖で支配される。

「ま、命乞いするってんなら、考えてやらなくもないが?」

「死んでもごめんだっての!」

 メルダは床を蹴ると、男との距離を詰める。硬化した腕で男の銃を薙ぎ払おうとするも、男が咄嗟に後ろへ距離を取ったため、空振りに終わる。が、焦る様子のないメルダは、体勢を素早く整えると、もう一度男に襲いかかる。

「このっ!!」

 銃口がメルダの額の前に構えられ、銃声が辺りに響く。一瞬、男の口元に笑みが浮かぶも、それも次には消え入り、眉間に深い皺を刻み付ける。

「ザーンネン」

 額を硬化させたメルダは額にめり込んでいる銃弾を手で弾くと、男の額にお返しとばかりに拳を叩き込んだ。

「ぐはっ……!?」

 倒れた拍子に後頭部を打ち付けた男は、銃を手放し、そのまま動かなくなった。死んだのかと恐る恐る、顔を覗き込むと息はしており、気を失っているだけだった。

「ん……?」

 男から離れようとして、ふとバネッサが男の懐にある小さな袋に気付く。鈍い光を放っているそれは、宝石らしい。

――メルダが喜ぶかも知れない。

 戦利品にとバネッサは男から袋を奪うと、中にある宝石を取り出す。六角形の水晶は袋から取り出すや否や、輝きを増し、中に刻まれている不思議な紋章が濃くなっていく。

「バネッサ!!」

 メルダの声にバネッサが振り返れば、そこには鬼気迫る表情で手を伸ばすメルダがいた。喜んでもらえると思っていたバネッサは最初こそ、その輝きに目を奪われていたが、急にそれが恐ろしいものなのだと気付く。

「うわぁぁ!?」

 光はみるみる内に大きくなると、バネッサの身体を飲み込んでいく。

――僕、死んじゃうの……?

 死期を悟った身体からは力が抜け、目から光がなくなっていく。こんな所で死んでしまうなんて、誰が想像出来ただろうか。迫るメルダと死、どちらが早いかなど、考える事さえ億劫だ。

――まだ、メルダに「ありがとう」も言っていないのに――。

 メルダの指先がバネッサに触れかけた時、けたたましい爆発音と共に辺りは白一色と化した。

――――――――――――――――――――――――

 開けた視界に映ったのは、瓦礫の山だった。バネッサの過去を見せられているロックは、あまりの惨状に言葉を失う。光の能力の暴走は、チェイスの騎士団時代に一度見ていたが、その破壊力に今更ながら身体が震え出す。

「バネッサは……?」

 辺りを見渡すも、見えるのは遺跡の残骸ばかりで、どう考えても人が生きているとは思えない。

「バネッサ!メルダ!!」

 無駄だと分かっていても、ロックは声を上げ、二人を探し始める。瓦礫を退かせればよかったのだが、今のロックは幽霊のような状態であり、叫ぼうが誰にも届かず、触れようとしてもすり抜けてしまう。ただ二人の無事を祈る以外に、出来る事など何もなかった。

「うっ……」

 不意にロックの背後の瓦礫が小さく音を立てる。微かに聞こえた、今にも消え入りそうな声はバネッサのものだった。瓦礫と瓦礫の間に出来たスペースに上手い事収まっていたらしく、大きな怪我もなく、元気そうだ。しかし、そのスペースにロックは不気味さを覚えた。まるでバネッサを守るかのように出来た、不自然さに。

――メルダはどこだ……?

 爆発前、バネッサの元に駆け寄って行ったメルダの姿がどこにも見当たらないのだ。

「メルダ……?」

 バネッサもその事に気付いたようで、不思議そうに辺りを見渡している。だが、メルダらしき人物はおろか、人の気配さえしないそこはまるで墓地のような静けさで満たされていた。

「まさか……」

 ロックがバネッサのいるスペースを凝視すると、今まで岩だと思っていたそれが、人間の腕であるという事に気付く。瓦礫から身を呈して子を守る母親を思わせる、そんな体勢をした人間は間違いなく、メルダその人だった。
 恐らく、鋼の能力で全身を硬化したのだろう。その身体は文字通り鋼のように硬く、指の一つも動きはしない。バネッサを守ろうと必死だったのか、メルダは力を使い切り、全身硬化したまま、事切れていた。

「メルダ……、何で。嫌だよ……、こんなの!!」

 バネッサの悲痛な叫びに答える声はない。それでも、バネッサは諦めずに鋼と化したメルダにしがみつく。人の温かさ、柔らかさを失ったそれはバネッサが強く抱きしめる度にバネッサの肌に傷を付けていった。

「バネッサ……」

 その様はいつかの自分自身のようで、ロックは無駄だと分かりつつも、バネッサの隣に寄り添っていた。触れる事も、声をかける事も出来ない無力さは変わらないが、何もしないよりはマシだろう。
 そんな事を考えていた時、不意に誰かの足音がした。男だろうか、複数の足音に混じり、銃が服に擦れる音が聴こえてくる。

「おい、いたぞ」

 遺跡の崩落に気付いて駆け付けて来た、という様子でもない男達にバネッサは警戒の色を見せる。

――さっきの傭兵の仲間か。

「メルダがいないぞ」

「そこら辺にいるはずだ、捜せ」

 男達の言葉にメルダが狙いだと気付いたバネッサが、腕の中にいるメルダを強く抱きしめる。すると、バネッサを見張っていたリーダー格の男がそれに目敏く気付くや否や、携えていた銃を構える。

「死にたくなきゃ、そいつを渡せ」

「嫌だ!」

 怯む素振りのないバネッサに、リーダー格の男は面倒とばかりに眉間に皺を寄せた。瞬間、バネッサの体が宙に浮く。何だと視線を下げれば、脇腹を銃で撃たれていた。

「ぐあぁぁ!!」

 脇腹を抑え、地面をのたうち回っているバネッサを尻目に、男達はメルダを回収しようと近寄って来る。なす術のないバネッサは目に涙を溜めたまま、メルダを見つめるばかりだ。

「メルダ……」

――私が名前をやる。お前らしく生きられる名前を。

「僕は……、バネッサ……。泣き虫の、マリオン=ライリーじゃない……!」

 メルダの言葉に意を決したバネッサは、脇腹を抑えながら、何とか立ち上がる。何をする気だとロックがバネッサを見れば、その手には傭兵の持っていたダミーのクリスタルが一つ握られていた。先程の暴走で欠けたのか、普通のクリスタルより小ぶりなおかげで隠し持っていたようだ。

「暴走させる気か!」

 目的に気付いたロックとほぼ同時に男達が動き出す。素早く銃を構え、バネッサを狙う男達に対し、バネッサは何を思ったか、手に持っていたダミーのクリスタルを口に放り込んだ。

「え!?」

「何やってんだ、こいつ」

 予想外の行動にロック含め男達は唖然となる。が、当の本人はそんな事お構いなしにそれを飲み込もうと口を動かしている。

「血迷ったか。可哀想に」

 バネッサの必死さに男達は口の端に笑みを浮かべ、楽にしてやるよと引き金に指を這わせる。

「んくっ……!」

 ゴクンと音が聞こえそうな程、大きく喉が動く。ここからどうする気なのか。不安気なロックを他所に不敵な笑みを浮かべたバネッサは、男達を眼光鋭く睨み付ける。

「あばよ」

 這わせた指が引き金を引き、銃声が辺りに響く。バネッサの額を狙った銃弾は、見事にそこを撃ち抜いた――はずだった。

「何っ!?」

「はぁ!!」

 動揺した男に距離を詰めたバネッサが蹴りをくり出す。華奢なバネッサの、どこからそんな力が出てくるのか。男の体は宙に浮き、地面に数回バウンドした。

「何だ、このガキ!!」

「撃て撃て!」

 バネッサに恐れを抱いた男達は、銃弾の雨を降らせる。が、その銃弾はバネッサの肌に弾かれ、辺りの瓦礫に被弾していく。異様な光景にロックは驚くばかりだ。

「鋼の能力…!」

 強い光をその目に宿したバネッサは、鋼と化した拳を振るう。それはつい先程までメルダが使っていた鋼の能力そのものであり、リーダー格の男は目を見開く。

「メルダは渡さない」

「ひっ……!?」

 拳を返り血で染めたバネッサに流石のリーダー格の男も怯え出す。銃を捨て、降参とばかりに手を上げる男にバネッサは恍惚そうな笑みを浮かべている。

「聞かせてもらおうか。アンタらの目的ってのを」

 男の顔を覗き込む、その顔にかつての泣き虫マリオンの面影はない。この瞬間、バネッサはバネッサ=ジンライムという人格を獲得したのだ。

二十二・セプテンバー・モーンを探して

 メルダを襲った謎の男達は何故か、揃って口を割ろうとはしなかった。口から出る言葉は命乞いばかりで、家族がいるから見逃してくれ、死にたくないと譫言のように繰り返すだけだった。

「あのさ、アンタらの目的って自分の命よりも大事なもんなの?」

 死にたくないなら、目的を話せばいい。だというのに、男達はどちらも嫌だと喚いている。その様子は何かを守ろうとしていると言うよりは、口を割れば死よりも恐ろしい何かが待っているとでも言わんばかりの不可解さを孕んでいる。

「た、頼む……!!殺さな……ぐっ!?」

「命乞いはいいっての」

 呆れたバネッサは血の付いた手をヒラヒラと振り、失神しかけている男に冷たい視線を向ける。このままでは埒が明かない。そう判断したバネッサは、別の方法で口を割らせようと男の一人に手を伸ばす。

「いっ……、嫌だぁぁ!!」

 バネッサの手が触れた瞬間、その部位がゆっくりと金属に侵されていく。銀色の足はもう動かす事も出来ず、感覚もなくなってきたのか、男は涙を流しながら絶叫し始める。

「うっ…」

 拷問場と化した惨状に傍から見ていたロックは、思わず目を背けてしまう。が、それで状況が変わる訳もなく、悲鳴はロックの耳を劈く。

「死にたくなきゃ、喋りなよ」

 ガツンと意識を飛ばしかけた男の頬を殴り付けるバネッサ。精神的に追い詰められた男は失神する事も許されず、ただ悲鳴を上げる事しか出来ない。

「そこまで恐れているものって、何なんだ……」

 普通の人なら口を割っていてもおかしくない程の拷問にも関わらず、悲鳴を上げる口は真実を語ろうとはしない。一人、また一人と金属の像と化していく仲間を見て、残った仲間達はガタガタと体を震わせている。

「さてと、残るはアンタだけか」

 最後の一人はリーダー格のあの男だった。涙や鼻水、汗でぐちゃぐちゃになった顔には絶望が見え、目は焦点が合わず、忙しなく動いている。

「頼む、殺さないで……。俺には小さな子供が……」

 震える唇から漏れた言葉にバネッサの肩が僅かに揺れる。動揺したのかと一瞬思ったロックだったが、バネッサの纏う雰囲気からそれが杞憂であったと思い知る。

「俺がいないと、あの子は……あの子は」

「命乞いの常套句ってさ」

 バネッサはリーダー格の男に近寄ると、その場にしゃがみ込む。

「大義名分だと思うんだよ、僕」

 ガシッと男の前髪を掴み上げ、バネッサは目線を無理やり合わせようとする。が、男の目にバネッサが映る事はなく、深い闇が増すばかりだ。

「アンタの犯した罪が子供に関係ないように、僕がやる事もアンタの子供には関係ない」

 「子供を盾に命乞いする事自体、間違ってるんだよ」。バネッサの言葉に男は反応しない。完全に絶望したそれはもはや人間の形をした何かであり、バネッサは舌打ちと共に地面に叩きつけた。

「ぐっ……!?」

 不意に眉間に皺を寄せたバネッサがその場にへたり込む。何だとロックがバネッサに駆け寄れば、先程まで振るっていた拳が紫色に染まっている事に気が付いた。いつから鋼ではなくなっていたのか、痣だらけの拳は腫れ上がり、血が滲んでいた。

「……やっぱり、メルダみたいには出来ないか」

 目に涙を浮かべ、丸まった小さな背中は痛みに耐えるように小刻みに震えている。その姿がどれだけ必死に虚勢を張っていたかを物語っており、ロックの固く握られた拳に更に力が入る。

「メルダ、ごめんね……」

 血塗れの手でバネッサがメルダの頬を撫でる。溜まった涙は堰を切ったようにボロボロと目から零れ落ち、地面に小さな染みを幾つも作っていく。

「メルダは最後まで僕を守ってくれたのに、僕は……」

 「また、泣き虫になっちゃったよ」。呟く声に交じる嗚咽が辺りに消え入る。バネッサからマリオンに戻った少年はメルダにしがみつき、ごめんねと言葉を繰り返す。

「何でこうなるんだよ、クソッ!!」

 何も出来ないもどかしさにロックは拳を壁に叩き付ける。が、幽霊のようなロックの体に痛みはなく、そこにいないという事実だけが虚しさを募らせる。

「こんな力、悪趣味だ……」

 全知全能の力は何もかもをロックに観せる。人に知られたくない過去を、犯した罪を、無くした記憶を。ロックの中に植え付けては何も出来ないロックを嘲笑うのだ。

「駄目だよ、ロックん」

 不意に背後から軽い調子の声がした。ちらりと目を向ければ、そこには何故か大人のバネッサがいた。過去の記憶を見てきた中で当事者が出てくる事は初めてで、ロックは目をパチクリさせる。

「何でお前が……」

「ちょっとした裏技ってやつだよ。詳しくは言えないけどね」

 凄惨な光景とは裏腹にバネッサはいつも通り、飄々としており、ロックにウインクをしてみせる。そんな様子に何を考えているのかと一瞬、警戒の色を示したロックだが、自分の深層心理まで潜り込めたのだ。今、目の前にいたとしても、そう不思議ではないかとどこか納得してしまう。

「……言っとくが、俺に過去を変える力なんてものはないぞ」

 傍観するだけで過去に干渉する事は許されていない。その事実がロックの心に小さな痛みを走らせる。観ているのに何も出来ない。それは知ろうとしなかった無知だった事より、よっぽど重い罪だろう。

"お前さえいなけりゃ、俺は……っ!?"

 悲痛な声と共に飛び込んで来たのは、今までに見た事もない、幼馴染の苦しげな表情だった。だが、その時のロックにはガドールの真意を読み取れる程の余裕などなく、向けられた目がいつかの哀れみの目と重なり、気付けばガドールに罵声を浴びせていた。

――最低だ……。

 ガドールの嘘にも苦しみにも気付かず、当たり前のように隣にいた自分に今更ながらに腹が立つ。憧れを抱く事さえおこがましかったのだ。恨まれたって仕方ない、それ程の罪を知らない内にロックは犯してしまったのだから。

「変えられるもんなら、俺が変えたいくらいだ……」

 顔を伏せ、ロックは喉から絞り出すように呟く。

「お前が何を企んでるかは知らないが、俺は……もう目覚める気はない」

 白い世界で思考を巡らせた末、ロックは目覚めない事を選択した。それに同調しているのか、オールマイティーも力を貸してくれており、意識が何回か浮上しかけても完全に目覚める事はなかった。

「ガドールが待ってくれてるのは、知ってる。知ってるからこそ、俺は目覚めたくない。目覚めて、また傷付けてしまう事がたまらなく怖いんだ」

「でも、それじゃガドールは苦しいままだよ?」

「そうかも知れない。けど、だからって目覚める訳にはいかないんだよ。俺は、ガドールには誰よりも幸せになってほしい」

 何も知らなかった罪の重さを知ってしまった今、その罪に報いるべく、ロックは自らに枷を掛けた。孤独の檻での終身刑――、それがロックが考え抜いた末に辿り着いた罰だった。

「だからこそ、俺はいなくならなきゃいけないんだ」

 口に出して、言葉の重さがロックに圧し掛かる。散々悩んだ末に出した答えだというのに、今更ながら揺らいでしまう辺り、きっとまだ未練があるのだろう。我ながらに情けない事だが、何処かで救いを待っているのかも知れない。

――神様なんて疾うの昔からいないってのに。

「真面目だなぁ、ロックんは。僕なら、何が何でも一緒にいられるように頑張るけどね」

 バネッサは頭の後ろで腕を組むと、悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見た。対してロックはそんなバネッサの真意が読めず、眉間に皺を寄せる。一体、何を企んでいるのかと言いたげな視線もお構いなしにバネッサは言葉を続ける。

「もし、もしの話だよ?何でも願いを叶えてくれる神様がいたら、ロックんはどうする?両親を生き返らせる?あぁ、そんな事しなくっても世界を丸ごと作り替えちゃえばいいだけか。そうしたら、ロックんの罪も帳消しだし、僕天才では…?」

「…お前、神様とか信じるタイプじゃないだろ?」

「あれ、バレた?ロックん、僕の事分かってきたじゃん。いや~、嬉しいな!」

「……俺達、敵同士だって分かってるか?」

 あまりの緊張感のなさに思わずロックは脱力してしまう。性格故の好意的さなのか、こちらを油断させる為の演技なのか。後者だとすれば、ロックはバネッサの術中に嵌った事になるが、バネッサの様子からどうもそうではないらしい。友達と話に来たというフランクさまで感じてしまうのだから、正直不気が悪い。

「大体、神様なんてろくな奴じゃないって知ってるだろ?自分達が楽園に帰りたいが為に人を騙して、争わせて…。そんな神様に何かを願う気には俺はなれないけどな」

「そっかぁ…。なら、僕達はどうあっても敵同士って訳だ」

「どうもこうも最初から――」

「違う、違う。やっぱり前言撤回、アンタは僕の事全然分かってないや」

 心底不愉快とばかりに眉間に皺を寄せ、バネッサはゆるゆると首を振って見せる。

「僕が選んだんだ。アンタ達の敵になる事を」

「何で…。お前、ジェイド達の幼馴染だったんだろ?なのに、何で――」

「そんなの決まってんじゃん。神様に願いを叶えてもらうんだよ!」

 冗談だろうと思った。そう言えればよかった。けれど、バネッサの顔はとても冗談を言っているようには見えない。

――でも、神なんている訳…。

「あらあら、見て、――。あんな所に子供が」

 不意に聞き覚えのない声が耳に届く。その声はまるで子供のような無垢さを思わせるが、それよりもその声が呼んだ名前にロックは思考が止まりかける。同じ名前の他人であってほしいと願いながらも、そんな事はないと頭では分かり切っていた。何故なら、それは忌み嫌われた神の子の名前――アダムなのだから。

「おやおや、イブ。あんな所に子供だ。しかも、怪我をしているね」

 恐る恐る、ロックが声の方に目を向ければ、そこには白い服を着た男女が小さなバネッサの前に立っていた。纏う雰囲気から人間ではないと分かる、そんな神々しいオーラに泣きじゃくっていたバネッサは小さな悲鳴を上げる。が、当人の本人達はそんな事など気にも留めず、感情の宿らない目でバネッサを見下ろしている。

「ねぇねぇ、アダム。この子、クリスタルを飲み込んでるわ、可哀想に」

「ねぇねぇ、イブ。可哀想だから取ってあげようか」

「あらあら、アダム。それは素敵ね!ぜひ私にも手伝わせて」

 イブは無邪気に笑うとバネッサの方に伸ばしていたアダムの手に自身の手を重ねる。陶器のような白い手は傍から見れば、繊細で触れれば壊れてしまいそうな危うさを感じる。しかし、同時に嫌な予感が背筋を走り抜け、ロックはその様子から目が離せなくなっていた。

「うッ!?あぁ…ああああああああ!」

 瞬間、劈く悲鳴が辺りに響く。先程の男達から聞いた悲鳴とは比にならない程の絶叫に恐怖を覚え、身体が勝手にガタガタと震え出す。

「アハハ!アダム、見て。血がこんなに…」

 二人に手をかざされたバネッサは口から血を吐きながら、枯れた声で尚も絶叫している。こんなのただの拷問ではないか。だというのに、イブは手に掛かる血を恍惚の表情で眺めている。

「ハハハ!イブ、なかなか取れないねぇ。このままじゃ、この子が死んでしまうかも知れない」

 言葉とは裏腹にアダムは手加減する訳でもなく、不思議な力でバネッサを苦しめる。死んでも構わないとそう言わんばかりだ。

「あらあら、それは可哀想。では、死なない程度に加減しないと」

「あぁぁ…。やめッ…やめてぇ…、あぁああ。やめて…、グフッ。僕から…僕、からぁ…」

 とうとう声も張れなくなったバネッサは満身創痍な身体を更に血塗れにされながら、必死に二人に何かを伝えようとする。どうせ無視するのだろうと思っていたが、アダムはそんなバネッサに気付くとイブに視線を向ける。

「ねぇねぇ、イブ。この子、何か言いたいみたいだよ」

「あらあら、アダム。何かしら。最後の言葉くらい聞いてあげないと可哀想よね」

 二人はかざした手を一旦離すと、息も絶え絶えなバネッサの言葉を聞こうとその場に屈んでいる。それが優しさ故の行動なのか、愉悦故の行動なのか、ロックはただただ後者でない事を祈るしかない。

「はぁ…はぁ…。ゲホゲホッ!お、願い、します…。僕…から、メルダの……力を、奪わないで」

「まあまあ、アダム。聞いた?この子、クリスタルを取らないでって言っているわ」

「おやおや、イブ。これは驚きだ。でも、クリスタルは必要だ。どうしようか」

 アダムとイブは困ったと互いの顔を見やり、数秒考え込むような素振りを見せる。

「何回見ても、本当不愉快だなぁ。あいつら、いい趣味してるよ」

 バネッサの声にハッと我に返る。他人のロックでさえ、この有様だというのに当の本人は言葉に不愉快さを交えながらも声色はいつもの陽気さを取り戻している。

「ロックん、大丈夫?あぁ、吐くなら隅でしてよ?僕、処理したくないし」

「吐きたくても吐くもんがねぇよ」

「そりゃよかったねぇ。僕なんか強烈すぎて、この日から夢で毎晩見るくらいなのに」

 また冗談かとバネッサの顔を一瞥すると、今までに見た事がないくらい冷めた表情がそこには張り付いていた。どうやら、今のは本当だったらしい。ロック自身、強いトラウマを持っているし、子供の頃はフラッシュバックする事も多かったが毎晩悪夢に魘されるような事はなかったと思う。その大半はオルターエゴのおかげなのだろうと今では分かるが、バネッサはずっと苛まれていたのかと思うとどうにもやるせない気持ちになる。

「んん?イブ、見て。これはクリスタルではないね」

「んん?アダム、それはダミーじゃない。汚らわしいわ」

 バネッサと話していたロックが再び視線を向けると、アダムがバネッサの足元に残っていたダミーのクリスタルの欠片を指す。すると、イブは眉を顰め、口元を手で覆う。その手に付いたバネッサの血などお構いなしだ。倫理観の破綻ぶりが異常すぎて、頭痛がして来る。

「でもでも、イブ。この子は鋼を使っていた。ダミーの力だけど、一瞬だけど、使えていた」

「ならなら、アダム。この子は脅威だわ。今すぐ殺しましょう!ねぇ、そうしましょう!」

「いやいや、イブ。折角、会えたんだ。もうちょっと愉しもうよ。殺してしまっては愉しみも一瞬だ」

 物騒なイブをアダムが制すもやはり倫理観は壊れていた。アリの巣穴に水を流し込もうか、殺虫剤を撒こうか。そんな些末な違いにどう転んでも地獄じゃないかとロックは二人を睨む。

「…そうだ、そうだ!ねぇ、鋼の君。君の願いを一つ叶えてあげよう!」

 アダムが唐突にバネッサに声を掛ける。が、息をするのもやっとなバネッサに返事をする余裕はなく、酷く咳き込んでは血を口や顔から垂れ流している。

「ねぇねぇ、鋼の君。答えて、教えて。じゃないと、僕はつまらない」

「さあさあ、鋼の君。教えてよ、答えてよ。でないと、私は君を殺してしまう」

「ぼ…、僕の、願い…?」

 焦点の定まっていない目が無意識的に背後のメルダへと向けられる。

「ぼ、僕の…願いは……メルダ、を…生き返らせて…」

「メルダ?メルダ?その石像、人間だったのかい」

「メルダ?メルダ?あぁ、何て素敵な事でしょう!好きな人を助けたいだなんて」

 アダムはメルダを興味深そうに眺め、イブは頬を染めてバネッサを見ている。先程の殺す発言は何だったのか。温度差でかいた汗が一気に引いていく。

「じゃあじゃあ、鋼の君。僕達に協力してくれる?」

「きょ…協力…?」

「そうそう、鋼の君。私達は奪われた力を返してもらう代わりに、君はメルダを。その為に君は鋼を鍛える必要がある」

「そうそう、鋼の君。ダミーはいつか暴走する。ダミーは偽り、本物には勝てない。だから、僕達に見せてほしい。偽物が本物に勝つ所を」

「そ…、そんなの…」

 続く言葉を言い掛けたバネッサは一瞬、キュッと唇を結ぶと自身の後ろのメルダに視線を向ける。メルダを助けたい気持ちはある。けれど、それ以上に提示された条件の過酷さに身体が無理だと言いたげにカタカタと震え出している。そもそも、ダミーの力を制御するなど本当に出来るのかも分からない。そんな時限爆弾を抱えたまま、これから生きていかなければならない現実がバネッサを精神的に追い詰めていく。

「……分かった。分かったよ、協力する」

 どれくらい経っただろうか。泣き腫らした目で真っ直ぐにアダムとイブを見上げ、バネッサは力強く返事をした。すると、二人は形容し難い美しい顔を歪め、口の端を釣り上げて笑ってみせる。その様は神というよりも悪魔そのものだ。

「はい、ここまで」

 パチンッと指を鳴らす音と共に辺りから色が消え、景色がまた白一色へと変わっていく。どうやら、最初の場所に戻って来たらしい。

「これで分かったっしょ?僕が選んだって」

「…そんな事を言う為だけにこんなとこまで来たって言うなら、とんだ暇人だな」

「うっわ、傷付くなぁ…。でも、実際そうだから何とも言えないんだよね」

 バネッサはいつもの調子でおどけながら、ロックの顔に自身の顔を近付ける。性格は言うまでもなく最悪だが、悔しいかな、顔は中性的で整っている為、ロックは何だか居心地が悪くなる。

「僕さ、アンタに途中退場してもらいたくないんだよ」

「――ッ!」

 ギラギラと強い光を宿した目がロックを鋭く射抜く。言葉とは裏腹に途中退場など絶対に許さないという気迫に思わず一歩後退ってしまう。

「だって、つまんないじゃん?これから楽しい事が起こるっていうのに、寝てるなんてもったいない!」

「楽しい事って…」

「numbers狩りだよ!numbers狩り!知ってる?僕、アンタが寝てる間に二人も殺しちゃったんだよ!?」

 バネッサはロックの両肩を掴むと、自慢話でもするような、誇らしげな顔でロックに迫って来る。が、当のロックはバネッサの言葉がすぐには理解出来ず、数秒その顔を眺めていた。しかし、脳裏に仲間の顔が浮かぶと弾かれたようにバネッサの手を振り払い、勢いそのままにバネッサの胸倉を掴み上げる。

「それを俺に言って、お前はどうしたいんだよ!?俺に何が出来る事なんて、何もないんだよ!!」

「だろうね。だって、アンタはあの中の誰よりも弱いもんねぇ!」

「だから、ずっとそう言ってんだろう!!馬鹿にするのもいい加減にしろ」

 積もりに積もった怒りが爆発し、ロックはバネッサを怒鳴り付ける。けれど、バネッサはそんなロックを先程とは打って変わって、冷め切った目で見下しているだけで一瞬たりとも怯みもしない。一体、何がしたいのか。意図の読めないバネッサの言動にロックは言い知れぬ不気味さを覚える。

「アンタさぁ」

 今までに聞いた事のない低く、冷めた声に胸倉を掴んでいた手の力が緩んだ時、バネッサの手が素早くロックの胸倉を掴み上げ返す。気を抜いてしまったロックはいきなり首を絞められ、息苦しさから眉を顰める。

「その頭は飾り?頭いいなら、ちょっとは考えなよ。どうすれば何か出来るかってさぁッ!」

 言い終わると同時にバネッサの拳がロックの左頬を殴り飛ばす。能力を使っていないというのにその威力は凄まじく、ロックは勢いのまま数メートル吹っ飛ばされる。白い世界に赤色の雫が飛び散る様がスローモーションの如く、ロックの目に映る。

「痛ぁ…、歯折れたらどうしてくれんだよ」

 痛みを堪え、口から滴る血を手の甲で拭う。幸い、歯は大丈夫だが口は盛大に切ったせいで血の味が広がり、殴られた頬は紫色に腫れ上がっている。

「折れたって、現実に問題ないんだからよくない?」

「よくないわ、このイカレサイコ」

 殴られたおかげか、先程よりも冷静になったロックは癪ではあったが頭を使ってみる事にした。バネッサは俺に目覚めてほしいと言った。けれど、バネッサの願いを考えればロックが目覚める事はデメリットでしかないだろう。

『私達は奪われた力を返してもらう代わりに、君はメルダを。その為に君は鋼を鍛える必要がある』

 能力者を倒して、能力をアダムとイブに返す。それがメルダを生き返らせる為の条件なのだから、むしろ病院で眠っているロックを殺した方が効率的だ。

『ダミーは偽り、本物には勝てない。だから、僕達に見せてほしい。偽物が本物に勝つ所を』

――偽物が本物に…。

 おとぎ話ではアダムとイブから代償として奪った力の半分、それが今のnumbersの能力。そこまで考えて、ふとロックは思い至る。そもそもの話、アダムとイブは完全なる神ではない。だとすれば、彼らの能力も偽物という事にならないだろうか。

――……いや、流石に極論すぎるか。

 不意に前にいるバネッサに目を向けると、バネッサは自身の左側に編まれた三つ編みを指先で弄っていた。

「なぁ、それって何か意味あったりすんの?」

 そういえば、前に三つ編みについてチェイスに聞いた事を思い出す。あの時、何て言っていたか。

「あぁ、これか?これは――」

 思い出した瞬間、ロックはハッと顔を上げる。そうか、そういう意味だったのか。だから、バネッサはこんな所まで来たのか。全てを理解したと目を見開くロックを見て、バネッサはニヤリと不敵に笑ってみせる。

「さて、ロックん。僕と協力、しない?」

二十三・

 あれから、また一週間が経った。何度聴いたかも忘れた心電図は変わらず、今日も同じリズムを刻むばかりだ。

「…お前、このまま起きねぇつもりじゃねぇだろうな」

 ガラス越しにガドールはベッドの上で眠るロックを睨み付ける。安らかな顔をしたロックはまるで死んでいるようで、ピクリともしない様は何度見ても心臓に悪い。そこまで追い込んでしまった事実もそうだが、このまま目覚めないのではないかと考えるだけでその場に崩れ落ちてしまいそうになる。

「頼むから、起きてくれよ。じゃないと、謝れねぇだろ」

 額をガラスに当て、きつく目を閉じる。厚いガラスを挟んだ独り言は誰もいない廊下に虚しく消え入るばかりで誰にも届かない。こんな所ではロックに何かあっても誰にも気付かれないのではないのか。そんな恐怖心が付きまとって離れない。

「まだ目ぇ覚めないんだな」

 不意に聞き慣れた声がして、目を開けると隣にはいつ来たのか、モルドレッドが立ち並んでいた。その目は真っ直ぐロックを見つめており、何処か愁いを帯びて見える。

「よっ!迎えに来たぜ。退院おめでとさん」

 ガドールの視線に気付いたモルドレッドはいつも通りの人懐っこい笑みを浮かべて見せる。対し、ガドールはその顔に少し安堵するも、上手く笑えず、固い表情のままモルドレッドを見返すしか出来ない。

「っつっても、素直に喜べないよな。俺も退院するなら二人一緒でって思ってたんだが」

「…いや、迎えありがとな」

「気にすんなって。でも、本当にいいのか?正直、今のお前を一人にするのは危ねぇと思うんだが」

「……シュネルに言われたんだ。ロックに縛られずにお前はお前の人生を生きろって」

 ポツリと零した言葉にモルドレッドが小さく息を呑む音がする。あの日からずっと考えてみたが、ロックのいない人生というのがガドールには想像が付かなかった。生まれてからずっと一緒にいるのだから、そう簡単に切り離せる存在ではないとは分かっている。だというのに、ふと考えてしまうのだ。もし、ロックがいなかったら、どんな人生を歩んでいたのかと。小さい頃になりたかった科学者になっていた未来があったのかも知れないと思うと、胸の奥に何かが燻る感覚がある。

「だから、考えたいんだ。これからの事とかロックとの事とか」

「そうか…。なら、ロックの事は任せろ。目ぇ覚ましたら、一番に知らせてやるよ」

「あぁ、ありがとな」

 ガドールは小さく笑って見せると、再びロックに目を向ける。恐怖心はあるけれど、この先どう生きていくかを決めない限り、いつまで経っても堂々巡りだ。だからこそ、覚悟を決めなければならない。数日ここを離れるだけだというのに一生の別れのような名残惜しさにガドールはしっかりとロックの姿を目に焼き付ける。

「……大丈夫だ。行こう」

 重たい足をどうにか動かし、その場を後にするガドール。廊下にはガドールとモルドレッド、二人分の足音だけが響いている。

――待ってろ、ロック。

 騎空艇の甲板でガドールは数時間前の事を思い出しながら、目指す場所を見下ろす。木々の生い茂る深い森は何処も同じように見え、歩いて向かえば何日掛かっていただろうと少しゾッとしてしまう。

「見えた」

 森の上を幾らか進むと森の一部が開けた場所が見えた。周りに集落らしいモノもない、断絶された辺境地、そこがガドールとロックの故郷――風月村。しかし、そこに以前の面影はなく、廃村と化した荒れ放題っぷりにガドールは思わず眉を顰める。

「ここがお前達の故郷、なのか」

 騎空艇を止める場所をどうにか見つけ、甲板にやって来たモルドレッドが廃村を見下ろす。何て言えばいいのか、言葉を探しているような様子に「見る影もないけどな」と自嘲気味に言ってみせる。

「…心の準備は出来たか?」

「当たり前だろ。何時間経ったと思ってんだよ」

 ガドールは甲板から飛び出すと、軽やかに地面に着地する。見る影もないとは言ったけれど、不思議なモノで改めて目にすると脳の奥に仕舞った記憶がここぞとばかりに蘇って来る。もちろん、全部が全部いい記憶ではないがそれでもガドールは懐かしいと感じてしまう。

「ありがとな、モロ。帰りはマジックアイテム使って、勝手に帰るから」

「いーって事よ。じゃあな」

 モルドレッドは元気よく手を振ると、騎空艇で飛び去って行く。ガドールはその姿が見えなくなるまで見送ると、一呼吸置いて、誰もいない廃村へと向き直る。
 村に入った手前にあった庭は村のみんなで手入れをしていたのだが、今では無法地帯で雑多な草で溢れている。伸びた草を踏みつけながら、廃村へ入って行くと草の独特な匂いが鼻に付く。確か、何かの薬草だったか。シュネルの診療所で嗅いだ、この匂いが苦手だったなと思い出す。

「こんなに小さかったんだな…」

 小さい頃は世界の中心だった村も今となっては、世界の一部でしかないのだとまざまざと思い知らされる。進む度に脳裏に浮かぶのはどれも楽しかった日々ばかりで、その中には必ずロックがいた。

Panopticon

Panopticon

楽園を追い出された神の子・アダムとイヴの創った、魔法と科学が共存し合う世界・エデン。そこは、神不在の、意思を持った世界が治める場所だった。そんな世界で1人の少年は自らの罪と向き合うために、歩み始めていた。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-03-18

Copyrighted
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  1. Prologue―神と世界とヴァンパイア―
  2. 一・銀髪の天使
  3. 二・忍び寄る闇
  4. 三・追憶の故郷
  5. 四・屈折する光と闇
  6. 五・女神は不気味にほくそ笑む
  7. 六・絡めた指に託した思い
  8. 七・毒を食らわば皿まで
  9. 八・世界は君を助けてはくれない
  10. 九・確かな思い
  11. 十・新たなる脅威
  12. 十一・決意に報いるために
  13. 十二・ High risk High return
  14. 十三・白騎士年代記(クロニクル)
  15. 十四・禍福は糾える縄の如し
  16. 十五・秘めたる思い
  17. 十六・Welcome to the party
  18. 十七・道化師の悪戯
  19. 十八・Catastrophe
  20. 十九・禁断の果実
  21. 二十・愛した分だけ締まる首
  22. 二十一・ジンに溶けたライムの行方
  23. 二十二・セプテンバー・モーンを探して
  24. 二十三・