鏡の中の彼氏

鏡の中の彼氏

 麗奈は、高校2年生。1年生のときから隆司を片思いしている。うまくいかないので、何度も諦めようとしたが、そのたびに隆司に惚れていることを自覚して諦めることができない。麗奈はクラブをバスケット部から音楽部に転部して、ピアノの演奏を隆司に聴かせて、自分に注目させようとしたが、それもうまくいかない。いよいよ2年生のバレンタインデーが近づき、麗奈はこれが最後と思い、チョコを用意した。ところが、その直前隆司は予期せず交通事故にあって瀕死の重傷を負う。 
 その結末は・・・

好きになってしまった

『鏡の中の彼氏』

登場人物  
    豊島 麗奈  (主人公)
豊島 裕子  (麗奈の母)
    安藤 隆司  (麗奈の片思いの彼氏)
    安藤 小百合  (隆司の母)
    
    
プロローグ
 麗奈は、高校2年生。1年生のときから隆司を片思いしている。うまくいかないので、何度も諦めようとしたが、そのたびに隆司に惚れていることを自覚して諦めることができない。麗奈はクラブをバスケット部から音楽部に転部して、ピアノの演奏を隆司に聴かせて、自分に注目させようとしたが、それもうまくいかない。いよいよ2年生のバレンタインデーが近づき、麗奈はこれが最後と思い、チョコを用意した。ところが、その直前隆司は予期せず交通事故にあって瀕死の重傷を負う。 
 その結末は・・・
  
第1章 好きになってしまった
 私は豊島麗奈。17歳の高校生。
高校1年生の時にはバスケット部に入っていたが、2年生になってから、音楽部に転部した。
 私は1年生のときから、片思いの彼氏がいるんだけど、私がバスケット部だと彼は気が付いてくれないんだ。そこで、もしかしたら、ピアノが弾ければ、彼が振り向いてくれるかもしれないと思って、音楽部に転部した。

 それに、ピアノを弾けば、彼のことを思う切ない気持ちが、ピアノのメロディーに乗って、校庭の空気を通じて、彼に届くかもしれないと思ったから。
 それにもしかしたら、音楽室で私が弾く切ないピアノの音を彼が気にしてくれ、彼が音楽室に現れるかもしれないと思ったから。
 もしかしたら、彼も小さい頃、ピアノを習っていて、音楽室で一緒にピアノを弾けるかもしれないと思ったから。もしそうなれば、最高の思い出になるだろうなあ。
 
 彼の名前は安藤隆司君。同じ学年だけど、同じクラスになったことはない。身長は5センチくらいは私よりも高そう。
 1年生の時は、私が6組で、安藤君は5組だった。2年生になったら私が1組で、安藤君は10組と離れてしまった。
 安藤君は、少なくとも同じ高校に彼女はいない。
 女の子からの噂話によると、他校の女の子と付き合っているという情報も聞いたことがある。本当ならショックだなあ。
 でも、私はやきもきするけど、怖くてそれを確かめることができない。
 
 安藤君は私のことを知らないかもしれない。
 でも私は安藤君のことをよく知っている。
 いやあ、話したこともないから、よく知っているとは言えない。
 
 でも一度だけ、言葉を交わしたことがある。一度だけ。
 それは、安藤君から、私がほかの女子と一緒にいるときに、私に声をかけてくれたんだ。
 それは、体育館でのことだった。
 安藤君が、私を含むバスケット部の女子5人に対して
 
 「ちょっと、悪いけど、早くコートの中のバスケットボールを片付けてください。 
 もうすぐに対抗戦を始めないといけないので。」
 「この後僕たちは、ここで他校のチームとのバレーボールの練習試合に使うんで。」
 と少し怒った口調で、私たちに話しかけてきたんだ。
 私はドキドキしながら
 「あっ、すみません。すぐ片付けます。」
というのがやっとだった。
 私たちが、急いでボールを片付けていると、安藤君は遠くに転がっていたボールを3個も抱えて私のところに持って来てくれた。そして
 「はい、これもでしょ。急いでいるんだから早く片付けて。」
と言いながら、私の腕にバスケットボールを渡そうとしてくれた。
 私はさっきよりもドキドキしながら、ボールを受け取ろうとした。
 けど、そのとき、ボールが1個だけ床に落ちてしまい、私も安藤君も屈んで、そのボールを拾おうとした。そして、私と安藤君が同時にボールを拾おうとしたものだから、私の右手に安藤君の左手が触ったんだ。手を触られた瞬間、私は、安藤君の左手は大きくてゴツゴツとしていて、少し汗ばんでいたことに一瞬のうちに気がついた。男の手は女の子の手と違って、ゴツゴツして硬かったことに驚いた。
 
 私は、ハッとして顔を上げたら、そこに安藤君の目があって、目を目を合わせてしまった。その目がとてもクールで引き込まれそうになった、スーーと引き込まれそうになった。
 私は、その勢いで、倒れる振りをして一瞬だけど、安藤君に私の身をもたれかけさせようとした。ちょうどそのときにもたれかけさせてしまおうと思った。
 夏だったから、安藤君も私も薄手のスポーツシャツしか着ていなかったから、本当にもたれかかったら、もしかしたらお互いの肌の感触もばれてしまうかもしれないと思った。
 
 安藤君は
 「あっ悪い悪い。」と照れたように手が触ったことを謝りながら、すぐに背中を向けて、バレーボール用の支柱を取りに急ぎ足で離れて行った。
 私はその背中をずっと目で追った。その背中は汗ばんでいて、シャツは少し湿っていることが外からでも分かった。男くさい匂いだが、どこか懐かしいような匂いが私の鼻孔まで来てくれて、私は嬉しかった。
 
 私は、向こうに離れていく安藤君の背中を見過ぎた。
 それでバスケット部の山本さんから
 「ほら、麗奈、なにボーっとしているのよ。さっさとボールを片付けなよ。」と少し大きな声で言われた。 
 
 これが高校1年生の夏のこと。
 秋には、私はもう安藤君のことでいつも頭が一杯だった。
 
 そのうちに、私はいつも安藤君に挨拶したいと思うようになったから、思い切って写真を私の部屋に飾ることにした。
 私は縦25センチ横15センチの卓上ミラーを買ってきた。そして、その左上の隅に、携帯で隠し撮りをした安藤君の顔写真を縦横3.5センチに切って、卓上ミラーの左上の隅に貼った。
 こうすると、私が自分の顔を鏡に映すたびに、私は安藤君の魅惑的な目から見られることになった。そして、挨拶もできるようになった。 
 
 今日も学校の体育館で、安藤君に会ったことを、鏡の中の安藤君に報告した。
 「安藤君、こんばんわ。今日も君を体育館で見たよ。君はバレーボールの練習をしていた。ネット付近でジャンプしてアタックしたところがとてもカッコよかったよ。 
 私もバスケットの練習にがんばったよ。今日も麗奈は格好いい安藤君に会えて幸せだったよ。おやすみ、安藤君。」
ってね。
 
 こんなことを1年生の秋頃からずっとやっている。
 こんなことをしてる、私ってもしかしたらストーカーかしら。ちょっと変かなあとは自分でも思うんだけどね。
 それでもそれでも、どうしようもないんだ。
 また、毎日こうしてとてもクールな目をした安藤君に会えるのが、楽しくて楽しくて仕方ないんだ。
 「それにしても、安藤君。君には困ったものだよ、全く。」
と鏡の中に安藤君に愚痴る。
 実は、私は1年生の2月にチョコを用意して上げようとしたんだ。
 かなり勇気がいったんだぜ、廊下で待つだけでも。
 それなのに、それなのに、まったく君って人は。少しは周りのことを見なさいって。
 もう少し詳しく話すと、それは私が1年生のときのバレンタインデーの日のことだった。
 私は廊下で安藤君が通るのを待っていたでしょ。そして、私が、すぐ横を歩いて来た安藤君にチョコを入れた紙袋を押し付けたのに、全然こっちを見ないもんだから、私がチョコを渡そうとしているのに気づかないまま素通りしたじゃない。全く、少しは周りを見ろよ。
 気付けよ。気付けっつーうの、全く、君って人は。
 素通りしていきやがって。
 それで私は、あんなに鈍感な君とはやっていけないと思い、片思いをやめようとしたんだ、止めようと。

 それでもさあ、体育館で見る、君の走る姿とクールな目を見ると、私ってやはり君を忘れられないんだなあ、と思うんだ。
 それで、バレンタインデーのあと、少しのショックから立ち直った私は、校内で君にすれ違うたびに、私は通り過ぎた君の後姿を目で追ってしまっていた。相変わらずね。
 
 君の姿ばかり目で追うことに気づいた山本さんとかが
 「ちょっと、麗奈、そんなことやっていると惚れているのがバレバレじゃない。ちょっと考えたほ うがいいよ。」
とか言ってくれたんだ。
 そういわれてもなあ、いいじゃない、後姿を目で追うのって、ついついやってしまったんだから。惚れているのはそのとおりなんだから、どうしようもないの。
 それにチョコを渡せなかったのは、安藤君のせいじゃないんだから、安藤君のせいじゃないんだから。
 
 そう思うとどうしても諦めきれないのよねえ。
 それで、私は決めてしまったんだ。高校を卒業するまではずっと安藤君を好きでいようと、安藤君に彼女ができるまでは、ずっと好きでいようと。
 
 でも、さあ、安藤君は修学旅行で、出発前に私が
 「あのう、修学旅行で一緒に写真とってください。」
って言ったのに、自分じゃないみたいな顔してさあ、本当に君に頼んだのに、自分か?みたいな顔してさあ。「イエスともノー」とも言わずに、私の前から去っていったんだ。
 
 そんなこんなで、ここは心機一転という気持ちで、私はバスケット部を止めて音楽部に転部した。君が関係しているんだよ、私が転部したのは。
 きっとすてきなピアノの音を出せるようになったら、その音で安藤君が音楽室を見上げてくれるんじゃないかと思っているんだよ。
 
 私は高校2年生の春以降秋まで、毎日のように音楽室でピアノの練習をしている。
 だって、体育館と音楽室はすぐ横なんだよ。音楽室は3階だけど、ピアノの音は体育館に届いているはずなんだよ。時々、私はピアノの練習の合間に、音楽室から体育館を見下ろしている。きっと安藤君が音楽室を見上げているのではないかと思って、ときどき見下ろしている。でも、そこに安藤君の姿があったことはない。

 それで、一生懸命学校でピアノを練習して、自宅に帰って寝る前に鏡の安藤君に
 『安藤君、今日もあなたは音楽室に来ることも、音楽室を見上げることもなか
ったですね。でもいいよ、私がもっともっとピアノが巧くなって、バレーの練習をしている安藤君をハッとさせるんだから。』
 『そして、ハッとした安藤君にいつかきっと音楽室に来てもらうんだからね。
 ピアノの発表会はバレンタインデーの後の3月終わりだよ。』
 『安藤君、ピアノの発表会には来てよね、別にあなたの彼女にしてくれなくてもいいから。こうして毎日練習しているのは、君に聴いてもらうためなんだからねえ。』
 
と私が卓上ミラーの左上の隅の3.5センチの安藤君に声をかけて、私の気持ちを打ち明けた。
 私は、今『鏡の中の安藤君』に静かに伝えたいことを口に出して言って見る事にした。
 
 「でも春休みだから、安藤君が音楽発表会に来てくれるはずはないねえ。なんと言ってもバレー部にとって予選を勝ち抜けるかどうかの大事が練習があるでしょうしね。」
 「でも、まあいいや。どうしても君のことが好きだからさあ。高校を卒業するまではずっと好きでいようと決めたんだ。でも彼女は作らないでね、それだけはお願い。」
 「今日は1月30日だね、安藤君。今回はきっと渡すよ、君にチョコを絶対に渡すよ。」
 
 私は、私の祈りが通じるようにと、今の言葉を10回口に出して、鏡の安藤君に誓った。
 
*****
*****

第2章   ラストチャンス
 
 「麗奈、大変だよ。安藤君が交通事故にあったんだ。」
 「なんか街で買い物帰りに、安藤君が歩道を渡っていたら、前を見ていなかったバイクから跳ねられたらしい。どうしよう、重態でお見舞いに行っても面会謝絶らしい。家族以外は、同じクラスの学級委員くらいしか見舞いに行っちゃあいけないらしい。」
とバスケット部の山本さんが、2年1組の教室にいる私に、息せき切って必死で伝えてきた。
 
 私は立ちすくんだ。動けなかった。
 今日は2月10日、もうチョコも一昨日までに買ってあるのに。
 「ええ、どうしよう。」と私は思った。チョコを買ってしまったことしか、頭に思い浮かばなかった。
 すぐに安藤君が入院している病院にお見舞いに行きたかった。
 山本さんがいる前で、私の口から出てきた言葉は「チョコ、渡せない。」だった。
 
 「麗奈、なに言っているのよ。それどころじゃないのよ。安藤君が生きるか死ぬかっていう大変なときなのよ、そんなこと安藤君のご両親が聞いたら、きっと怒るわよ。チョコどころじゃあないのよ。」
と山本さんは私に顔を近づけてきて、私に向けて大きな声で言った。
 山本さんは、私に事の重大さを伝えようとした。
 私はまた頭が真っ白になってしまった。
 
 その後の授業は少しも頭に入らなかった。
 授業の合間に、安藤君と同じクラスの生徒から、「安藤君は交通事故で脳が損傷していて、そのための脳の難しい手術をなんとかやり終えて、状態は持ち直したらしい」と聞いた。
 日が変わってからも、クラスの中では安藤君の容態が話題の中心だった。 
 安藤君のクラスの子から持ち込まれる話しによると、安藤君の容態は何とか好転し、家族なら話ができるようになったとか、怪我は脳だけで、手足にはかすり傷くらいしかないだとか、脳の損傷具合によっては記憶障害がある程度残ってしまうだとか、次々によい情報や逆に不安な情報が伝えられてきた。
 
 それから、さらに数日経つと、一日2時間程度なら面会もできるようになったらしく、安藤君と同じクラスの子なら、5~6人くらいづつ面会に行き始めたということだった。私は安藤君の面会に行きたくて行きたくて仕方がなかった。
 
 私は、毎日鏡の安藤君は同君と会っているから、当然面会できる権利みたいなのがあると思った。でもそれは自分勝手な理屈だとすぐに気がついた。
 
 それでも私はどうしても面会に行きたかった。
 でもクラスは違うし、クラブも違う。
 表向き安藤君と私とは何のつながりもない。まったく何もない。
 クラスも違うしクラブも違っていた。ろくに話したこともない。
 これから、何でも話せるようになりたいと私が切実に思っていただけだ、世間的には何のつながりも私と安藤君との間にはないんだ。
 ただ私の机の上の卓上ミラーの隅に3.5センチの安藤君がいつもいてくれるだけなのだ。
 
 「会いたくて会いたくて仕方ないのに、そして安藤君に面会に行くどの子よりも、私の方がずっとずっと安藤君を心配している。それに、これまでだって安藤君と一番多く挨拶して来たのはこの私なのだ。それなのに、私は面会に行けない。私は面会にいけず、私の部屋で切なく安藤君のことを想うしかない。ほかの誰よりも安藤君のことを心配しているし、身体も心も元通りになることを心から祈っているというのに。
 でも会いに行けない、私は会いに行けない、これまでどおり、鏡の中の君に話しかけるだけだ、『早くよくなって、私がずっとここで見ているから』と」
 
 このことを私は改めて分かった。
 いや、その客観的な事実が私に突きつけられた。私は鏡の隅の安藤君は同君の優しい笑顔とクールな目を見ていると、自然と涙が溢れてきた。私はその涙をもう止める気持ちが起こらなかった、少しも。
 私は泣きたくて泣いた。『涙は枯れる』というけれども、枯れない事もあると想った。私は誰にも遠慮せずに、何時間も泣いた。
 下の部屋では、両親が私の泣き声を聞いていることは分かっていた。しかし、お母さんが気を使っていてくれて、だれも私の部屋には近づかないようにしてくれた。だから、私は何の遠慮もせずに、何時間も泣いた。
 
 次の日、学校があったから、この顔では泣いたことがバレバレになると分かっていたけど、私の心は涙を止めることはできず、私はひたすら泣いた。どうにでもなれと思っていつまでも泣いた。
 でも、いつかは、安藤君は学校に戻ってきてくれて、私のピアノを学校のどこかで聞いてくれるだろうと思った。せめてそれだけでも、私に、とっておいて欲しいと思った。

*****
*****
第3章  急報あり
 3月1日いつも通り、私は午前8時に学校に行き、その日の授業の予習をしていた。しかし、クラス中に、次第にいつもとは違う雰囲気が漂い始めた。
 山本さんが私に
 「なんかはっきりしないけど、今朝安藤君の容態が急に悪くなって、ご家族が病院に呼ばれたらしいの?なんかかなりやばいらしいよ、どうしよう、麗奈。」
 と言った。
 私はまた頭の中が次第に白くなり始めた。
 一時限目の地理の教科書を出したことは覚えている。何にも目に入らなかったし、聞こえなかった。
 地理の教師が出て行ってから、ゆっくりとうつむいて、クラス担当の瀬戸先生が入ってきた。

 3月1日午前10時過ぎ、担任の瀬戸先生がクラスに入ってきて、生徒の誰とも目が合わないかのように気を使って、真剣な顔で、声を低くして
 「今、緊急に連絡がありました。安藤のお母さんからの電話で、入院中の安藤隆司君の容態が急変して、人工呼吸したが、そのかいもなく、亡くなったと連絡がありました。脳内出血だそうです。」
「今から授業を全部中止して1時間自習時間にしますが、教室からは出ないで。」
と言った。

 私はこの後のことを覚えていない。全然覚えていない。
 慌てていたので、私の頭は何も考えなかった。何も受け付けなかった。
 次に覚えていることといえば、翌々日の葬儀の祭壇に飾られていた安藤君の顔写真だ。その写真の中の安藤君は、いつもの優しそうな顔をしているけど、目がクールで、その目を私はじっと見ることができない、あの愛しい目だった。
 葬儀の日は、ずっと山本さんが私の横に付いていてくれた。山本さんのおかげで私は倒れずにすんだ。
 山本さんは私に優しく
 「麗奈、今は何も考えちゃあだめよ。なにも考えちゃあだめ。私が分かっているから、麗奈の気持ちは私が一番よく分かっているから。」
と私のために、悲しい気持ちが湧いてこないようにしてようとして、私を支えてくれた。そして、私の肩を抱いてくれた。
 
 私はなにもかも山本さんに任せていた。私は頭の中が真っ白になるのをそのままにしていた。そうでもしなければ、それこそ頭が変になりそうだった。
 安藤君を好きで、好きで、とても好きで、今年もチョコを用意していたことも考えないようにした。なにも考えないようにしていた。
 もう一度私が安藤君に上げようとしたチョコは、葬儀から帰ったら、いつの間にかお母さんがどこかに隠してくれた。お母さんは、私がまだまだ安藤君を好きなことを分かってくれていた。何も話したことはなかったのに。
 その気遣いが、凍ってしまった私の心が世間から完全に離れてしまうのを止めてくれた。私はお母さんの子供であり、この家にいようと考えさせて引きとめてくれた。
 私は安藤君の49日が過ぎるまで何も考えないことにした。
 私はなるべく楽に過ごすようにしていた。
 「君たちは安藤君の分までしっかり生きていきなさい。」と言ったのが、瀬戸先生だったのかお母さんだったのかもう分からない。それに、安藤君の葬儀から帰ってきたら、私の机の上に置いていた、安藤君の顔写真を左隅に貼った卓上ミラーはお母さんが片付けてくれていた。
 今日は、鏡の中の安藤君に会えなかったことが、私をホッとさせた。なんだか安藤君が死んで私が生き残ったことが安藤君に、申し訳ないような気がして、鏡の中の安藤君に会うのが辛かった。
 それで、お母さんが鏡を片付けてくれたことがありがたかった。
 
 安藤君が亡くなってから、私は何にも手につかなかった。
 勉強も授業も、家族との会話も、ピアノの練習も何もかも。こういうのをうつ症状というのだといつかテレビで聞いたことがある。うつ症状であろうがなかろうが、どちらにしても、安藤君とはもう会えないことに変わりはなかった。
 私は「どうしてこんな気持ちで何かができるというのだろう、それなりに勉強したのも、安藤君に見てもらいたかったから、ピアノの練習をしたのも、安藤君に聞いて欲しかったから、化粧をしてみたのも、もしかしたら、バレンタインデーの後に、安藤君とデートできるかもしれないと思ったから。私にとっては、安藤君がすべてだった。安藤君がなくなるまでは、そのことに気づかなかった。 
  よりによって、安藤君がなくなってから、安藤君が私の全てだったと気づいてしまうとは。
 だから、本当に私はうつ病のようになってしまい、何もする気が起こらず、何もしなかった。
 
 4月7日日曜日の午後、私は自分の部屋にいて、ぼーっとしていた。
 ふと気がつくと、お母さんが玄関で誰かと話しているのが聞こえた。
 相手は女性でなにかお母さんに頼み事をしていた。
 「えええ、分かっていますけど、あの子の気持ちなんでなんとかお願いします。」

*****
*****

鏡の中の彼氏

 「ですけど、麗奈も安藤さんがお亡くなりになってから、ショックを受けているもので、そんなものを見せても、うちの子がどう思うか・・・」
 私は、安藤君のお母さんが来ているのではないかと思って、何か安藤君のことが聞けると思って、急いで着替えて、玄関に向かった。
 けど、私が着替えるのに時間がかかっていたので、お母さんが
 「とにかく今日のところはお引き取りください、またの機会に。」
 「そうですか、それなら仕方ありませんねえ。。」と玄関に来ている人を追い返そうとしていた。
 私は、その人が帰ってしまう前に
 「ちょっと待って、待ってください。安藤君のお母さん、わざわざ来てもらってありがとうござます。
 安藤君はなにか残してくれたんですか。」
 「あら、あなたが麗奈さん。可愛いわねえ、やっぱり。
 実は隆司はこんな手紙を残してくれていたんですよ。」
と言いながら、安藤君のお母さんは手紙をバッグから差し出した。
 
 「いえねえ、隆司が一時持ち直したときがあったでしょ、そのときに私にこう言ったんですよ、『お母さん、この手紙を出してくれよな。どうしても自分で出したかった手紙なんだ。でももうバレンタインディーデーを過ぎちゃったから遅いかもしれないけど。でもなんとか届けて欲しいんだ、頼むよおふくろ。』てね。」
 「私は『元気になってから自分で渡したらいいじゃないの。』って言ったんですけど、それが結局、こんなことになってしまって。あの子はそんな直感があったんですかね、自分では渡せないって。
この手紙は結局あの子の遺言みたいなものですから、読んであげてくださいな。」
と言って安藤君のお母さんは、封のされていない手紙を私に渡してくれた。
 私はどきどきしながら、中から便箋を取り出した。
    
    こんにちわ、豊島玲奈さん。
    はじめましてって言ったほうがいいかな。
    これまでちゃんと話したことはなかったから。
    僕は安藤隆司といいます。バレーボール部に入っています。
    僕のほうではずっと前から君のことを知っていました。
    君は、1年生の時、バスケット部に入っていましたね。そして、体育館で
   活発に走り回っていました。
    その姿がとても素敵でした。とても素敵でした。
    ところで、バレンタインデーまであと4日になりました。今日この手紙を
    出しておかないと君がほかの誰かにチョコを上げるのではないかと思っ
  て、急いで出しちゃいました。
    ほかの男の子にチョコを上げるなら、それはそれで仕方ないけど。
    君は覚えていないかもしれないけど、僕は君と話したことがあるよ。ほ
ら、1年生の夏、バレーボール部の練習試合があったときに、君たちバス
   ケット部がボールを片付けるのが遅かったじゃない。
   そのとき僕が君たちバスケット部の女子に『早く、ボール片付けてくださ
い。」と言ったんだよ。
   そしたら、君は緊張した顔して「あっすみません、すぐに片付けます」って  言って慌ててボールを集めていた。
    僕もボールを集めて上げたじゃないか。
    それだけじゃなくて、修学旅行前に、確か君が僕たちバレーボール部員
  が集まっているところに来て「一緒に写真とってくれませんか。」って言って
  いた。そのとき、僕に言っているどうかはっきりしなかったので、「ええ」と思
  ってね。本当は誰に頼んでいたでいたの?
    まさか僕じゃなかったよね。
    その後、君はバスケット部を辞めて、音楽部に入部した。そして、音楽
   室でよくピアノを弾いていた。
    どうして辞めたのかなあと思ったんだ。君がよく練習していたのは、そう
   あれ「冬のソナタ」の 『初めて』って曲だろう。僕も弾けるかなあ、と思って
   今日その楽譜を買いに行こうと思っている。
    そのうち一緒に弾けたら、なんて思ったけど、ちょっと厚かましい?
    この手紙がバレンタインデー前に届けばいいなあ。
    でももし君が誰かにチョコを上げたんなら、そのときは潔くあきらめちゃ
    うから、心配ないよ。
    それから、この手紙を読んでもらったら、しばらくしたら、ちゃんと君に挨   拶に行くので、そのときはよろしく。
             前から君のことを気にしていた人から。    安藤隆司
 
 私はなにも言えなかった。身体が自然と震えていた。ただただ身体が震えていた。今起こったことが分からなくなっていた。
 これって安藤君が私にくれたラブレターということ?全然実感がしなかった。 これって本当に私に宛てられた手紙なの?
 
 私が、安藤君からの手紙を読み終わった頃、安藤君のお母さんが手提げバッグから、シルクに包まれた何かを出してきた。
 「あのう、これ隆司の机の上にあったものなんですけど、麗奈さんにもらってもらった方がいいだろうと思って持ってきました。」
と言いながら、シルクの包みを解いた。すると中から
    縦横20センチくらいの鏡
    右隅に麗奈の写真が貼ってあるもの
が出てきた。
 「麗奈さん、よかったらもらってもらえませんか。その方があの子も喜ぶと思うので。」
とお母さんは言った。私は気が遠くなりそうだった。確かに気が遠くなりそうだった。けど、なんとか言葉を繋がなくてはと思って口を動かした。泣かずに、答えたかった、絶対に泣きたくなかった、このときは。

 「はい、安藤君のお母さん、私この鏡をもらいます。絶対に大事にしていきます。」
 鏡の右隅に張ってある私の写真は、バスケット部で対抗試合があったときに、皆で記念に撮った写真だ。
「ああ、あのときだ。1年生の夏の対抗試合だ。バレーボール部の対抗試合の前に、私たちバスケット部の対抗試合があって、その記念写真を撮ったんだ。安藤君はバレーボール部の誰かからこの写真をもらったんだ。」と分かった。
 私は嬉しくて悲しくて、涙を止めることができなかった。
 私が好きで好きで仕方がなかった安藤君が死んでしまった、それも私が私の気持ちを伝える前に。
 それはとてもとても悲しいことだ。それなのに、死んでしまった安藤君から、よりによってラブレターをもらうなんて。
 ああ、なんてことなの、こんなにも悲しいこととこんなにも嬉しいことが同時に起こるなんて。
 安藤君ずるいずるい、せめてお互いに打ち明けたかった。私の気持ちはもう安藤君に届けることができない、絶対に。
 「お母さん、私も安藤君をずっと好きでした、ずっとずっと好きでした。去年も今年もバレンタインデーに私がチョコを上げようとしたんです。
 私、安藤君をとても好きでした、とってもとっても好きでした。」
と私は今打ち明けるしかないと思って、泣きながらそして、恥ずかしくて嬉しい気持ちを隠さずに、思っているままを安藤君のお母さんに打ち明けた。
 
 私のほほを伝う涙はいつまでも止まらなかった。さっき無理して泣かなかったから、余計に泣けた。もう止めることはできなかった。目の前にいる安藤君のお母さんがバッグから白いハンカチを優しく私に差し出してくれ、私に渡してくれた。
 私は黙って白いハンカチを受け取り、ほほを伝う涙を少しだけ拭いた。ほほを伝う涙は温かくて、私と許してくれているような、私を励ましてくれているような天使のプレゼントのような気がしてを拭くのが惜しかった。
 ハンカチを差し出してくれた安藤君のお母さんの手に触れたとき、柔らかくて温かくて優しいお母さんだなあと思った。
 私がハンカチを持っていない手をそっと握ってくれた。私もその手で安藤君のお母さんの手を握り返してあげた。安藤君のお母さんも少し涙ぐんでいた。
 私と安藤君のお母さんが手を握り合って立っていると、私のお母さんが、どこからか捨てずにとってあったあのチョコを出してきた。 
 そして、私に手渡してくれたので、私はそのチョコを安藤君のお母さんに差し出した。安藤君のお母さんは、左手でそのチョコを受け取ってくれた。
 私は、途方もない悲しさの中で、やはり途方もない嬉しさを噛み締めて噛み締めて、心の奥底から溢れてくる涙をもう止めなかった。
 安藤君のお母さんも、私の涙を見て泣いてくれた。
 「隆司、よかったね、あんたにチョコをくれたよ。麗奈さんもあんたのことが好きだったって。あんたが欲しかった、麗奈さんからのチョコも私が代わりにもらってあげたからねえ。よかったねえ、隆司、本当によかったねえ。」
 
 私はやはり高校を卒業するまでは、安藤君をずっと好きでいようと決めていたことをよかったと思った。安藤君は天国に行ってしまったけど、好きと打ち明けられなかったけど、安藤君を好きでい続けたことは、本当によかったと思った。
2年生になっても安藤君を諦めなかったことを誇らしい気持ちで、私自身の心を見つめることができた。
 『安藤君、ありがとう、会えてよかったよ。』
と小さな小さな声でつぶやいた。私はつぶやきながら、私もう一度安藤君のお母さんの手を取って今度は私が優しく包み込むように、お母さんの手を触ってあげた。
 私が安藤君のお母さんの手を握ってあげていると、私のお母さんが2枚の鏡、つまり私が使っていた鏡と安藤君が使っていた鏡を向かい合わせにした。
 すると、鏡の中で、私の写真の顔が安藤君の写真の顔を見て、安藤君の写真の顔が写真の私を見てくれた。
 2枚の鏡は向かい合わせにしたから、何重にも向かい合わせの鏡の間で、まるで光線と光線のこだまのように、見つめては見つめ返すのを繰り返していた。
 この顔写真の二人は永遠に見つめあうんだろうと、私は気づいた。
 写真の二人は、永遠に誰にも邪魔されずに、見詰め合うと分かり、私は、切なさよりも、悲しさを超えた嬉しさが、小さな竜巻のように私の胸の奥で舞い上がっていった。
 それが私の胸の中で舞い上がったことから、私の周りの風景も、私の胸の中で起こっていることと同じことを起こし、光り輝くような竜巻となって、私の周りを飾り立てた。踊りたいほど嬉しくなり、見えているものがすべて美しく輝いた。
          
                                                   THE END

鏡の中の彼氏

 読んでもらって切なくなってもらえば、一応の成功かなあと思っています。
 小説を書くのって、本当な自分のためというのが第一かなと思います。
 どうしてかというと、書く事で、また推敲することで、この判断が普通なのか、異常なのか、また登場人物のために、その判断はためになるのか、などを考え直すことができるから。
 それだけでなく、小説は完全な虚構ではなく、作者の思い出の一部である可能性が高い。
 それならば、小説を書くという形式を借りて、実は作者の思い出を思い出すことの手伝いをしているにすぎないのかもしれないしねえ。
 

鏡の中の彼氏

麗奈は、高校2年生。1年生のときから隆司を片思いしている。うまくいかないので、何度も諦めようとしたが、そのたびに隆司に惚れていることを自覚して諦めることができない。麗奈はクラブをバスケット部から音楽部に転部して、ピアノの演奏を隆司に聴かせて、自分に注目させようとしたが、それもうまくいかない。いよいよ2年生のバレンタインデーが近づき、麗奈はこれが最後と思い、チョコを用意した。ところが、その直前隆司は予期せず交通事故にあって瀕死の重傷を負う。 その結末は・・・

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-18

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Copyrighted
  1. 好きになってしまった
  2. 2
  3. 鏡の中の彼氏