Stigma-スティグマ-
Long dream
夢を見ていた。気の遠くなる程、長い夢をーー
少年は、深い海の底にいた。無限に続く青の世界と、その身に感じる、確かな浮遊感。
上方から屈折し揺れ動く光が、少年の身体を淡く照らし付けている。
このまま何処へ流れ着くのか、自分は何故この場所にいるのか、その意味も分からないままに。
少年は、ただ己の身を、流れに委ねる事しか出来なかった。
ーーこの上ない、孤独。
どうすればこの場所から抜け出せるのか、何処に辿り着けば終わりが見えてくるのか、その答えが見つからないまま。
少年は、ひたすらその孤独に堪え続けていた。無心に。強く。
ーーしかし、ある時。唐突に、それは起きた。
少年の目前に、一人の少女が姿を現す。その顔は朧気で確かには映らなかったが、こちらへ向け、微笑みかけている事だけは理解出来た。
ーー不意に。少女が少年へ向け、静かに右手を伸ばす。
その瞬間、少年は悟った。この少女は、きっと。自分をこの場所から連れ出してくれる、天よりの使者なのかもしれない、と。
少年は、躊躇う事なく少女へその手を伸ばす。刹那、目の前は純白の光に覆われていった。優しく、ゆっくりとーー
Awakening
「ねぇ君、大丈夫? ねぇ……ねぇ!」
体を強く揺さぶられて、少年は徐に目を開く。目前に、淡い水色のロングヘアー。透き通った青眼の、端正な容貌が映った。
眼が、未だに重い。長い眠りから、覚めたような気分だった。
「……良かった、気付いて。こんな陸地のど真ん中なのに、びしょ濡れで倒れてるからびっくりしちゃった」
「びしょ……ぬれ?」
目前の少女の言葉に反応して、少年はゆっくりと半身を起こし、自らの身体を確認する。
見ればその体は異常な程に水分を含んでおり、同時に極度の肌寒さも感じた。
まるでつい先程まで、水に浸かっていたような。
それが何故なのか、自分の身に何が起こったのか、少年は全く分からなかった。そもそも少女の言葉の意味も、半分以上理解する事が出来ない。
「ここ、どこ? 君、誰?」
あまりにぼやけた少年の問い掛けにも、少女は丁寧に答えを返した。
「えと、此処は港町、サルの郊外。私はマーヴィって言うの。君、この辺に住んでる子じゃないの?」
「すん、でる……?」
そう言いかけて、瞬間的に、少年は込み上げてくる”何か”を唐突に露わにした。
「ーーくしゅん!」
所謂、くしゃみというもの。酷く体も濡れている為、条件反射的なものだ。
「……話は後、だね。私の家、此処から近いの。行こ」
そうして少女、マーヴィは穏やかに立ち上がった。
それから少年へ向け、徐に右手を伸ばす。瞬間、その手が、姿が。夢の中に出てきた、一人の少女と重なった。
もしかすれば、あれは彼女だったのかもしれない、と。少年はそう、密かに確信を持つ。
やがて躊躇いなく、少女の手を掴んだ。それは強く、しっかりと。
Illegal Android
「……あ~あ、やっぱし見失っちまったな」
それから数時間後。サル町郊外の、同じ場所にて。
青い瞳を持つ、異質な空気を身に纏った四人組の姿。
その一人、橙髪のセミロングにバンダナを巻き付けた青年が、そうして小さく溜め息を吐いていた。
「なぁティピ、本当にこの場所で合ってたのか?」
「……可笑しいにゃ、さっきまで確かに聞こえてたはずにゃのに……」
橙髪の青年に問われ、明らかに作り物である猫耳を頭部に持った少年が、そうして悩み声をあげた。
「ティピの約立たず~。鈍感、のろま、まぬけ! ティピがちゃんと探さないから!!」
人形のように整った容姿を持つ幼い美少女が、その顔に似つかわしくない罵倒を浴びせる。
その言葉に少年、ティピは半分涙目だった。
「うにゃあーっ! 本当にごめんなさいにゃあーっ!!」
すると一台のバイクに跨がっていた、年齢の割に低身長な銀髪の青年が端的に答える。
「ティピを責めるな、セリン。元々”あれ”は俺がした事だ、仕方ない」
そうしてゆっくりとバイクから降り、ティピの傍へと歩み寄る。それからその頭を、労わるように優しく撫でた。
彼は悪くないと、まるでそう口にしているかのように。
「セル様っーー!」
「……つまんない」
不貞腐れた様子で目線を外す美少女、セリンを前に、橙髪の青年がすかさず指摘する。
「セリン、女の子がそんな汚い言葉を使ったら駄目だぞ。折角の可愛さが台無しだ」
「うんっ、クラウが言うなら!」
「んにゃあっ! 僕の時とあからさまに態度が違うにゃっ!」
橙髪の青年、クラウに目を輝かせるセリンと、その対応の差異により涙目を強めるティピ。
「ーーみんな、必ず取り戻すぞ。”あれ”をいつまでも野放しにしておく訳にはいかない」
そうして発された潔い一言には、皆即座に真剣な眼差しを向け。そして、深く頷いた。
「捕まえるんだ、必ず。あの違法アンドロイドをーー」
力強くその決意を述べ、青年、セルは胸元に存在しているペンダントを見つめる。
巻き貝の形をした、小さなペンダント。
それを愛おしそうに、切なそうに。セルは、自らの掌の中に収めた。そっとーー
The name "yağmak"
「君、本当に何も覚えてないんだね。もしかして記憶喪失かな?」
それから、同じくサル町郊外付近に位置する小さな小屋にて。
箪笥の中をまさぐりながら、少女、マーヴィはそうして疑問符を浮かべる。
「びしょ濡れだった事と言い、ほんと謎が多いなぁ、君」
その事実を訝りながらも、マーヴィは唐突に衣服を取り出した。
「あった、これ。良かったら着て」
そう口にしながら少年へと向き直り、黒を基調とした、一枚の男物の衣服を差し出す。
それを両手で受け取り、見つめ、静止する少年。綺麗に洗われている為か、とても触り心地が良かった。
「どうしたの? 遠慮しないで。そのままだと風邪ひいちゃうから」
そうして微笑むマーヴィを前に、少年は漸く気付く。
この衣服は、どうやら自分に与えられたものらしいと。
「ちょっーー待って! だからっていきなり此処で脱がなくても!」
「?」
言われるがままに着替えをしようとして、即座にマーヴィから停止を促される。
華奢な外見からは想像も出来ない、程良く引き締まった腹部の肉付き。まるで、よく訓練された何処かの兵士のようだ。
「……あれっ、これ何かな?」
すると服の隙間から覗いた少年の腰元付近に、何やら小さく文字が記されている事実に気付く。
指でなぞりながら、マーヴィはその言葉をゆっくりと読み上げた。
「ーーyağmak、かぁ。雨が降るとか、そんな意味の言葉だよね」
「やーまく……」
その単語を復唱し、考え込む少年。何か、それは意味のある言葉であるような。そんな不可思議な感覚を覚える。
「……そだ。これ、君の名前にするのはどう? いつまでも"君"って呼ぶのも、何か変な感じだから」
「やーまく……やく……」
「ヤクーーうん、良い響き。そうしよ」
納得したように頷き、マーヴィは小さく微笑んだ。
ーーヤーマク。自分に与えられた、確かな名前。それを理解し、少しだけ、少年の心が温かくなる。
「とりあえず、着替えするのがまずは先だね。私、台所の方に行ってるから。着替え終わったら、また声掛けて」
そう指示されて、少年、ヤクは真っ直ぐに頷きを返す。
「うん、分かった」
そんな了承の意思を確認し、台所へ向かうマーヴィ。
その後ろ姿を見送り、少年は徐に、手渡された衣服へと着替えを始めるのだった。
Blue eyes, blue hair
「サイズぴったりだね! 良かった」
それから無事に着替え終えたらしいヤクの元へ、意気揚々とマーヴィは歩み寄る。
その衣服のかつての持ち主を連想し、彼女は不意に表情を緩めていた。まるで”彼”が自分の家に戻ってきたかのような、そんな不可思議な感覚に陥っていたから。
ヤクが小首を傾げていれば、マーヴィは改めて話題を仕切り直す。
「髪の毛、ちょっとボサボサだね。そこに座ってて。とかしてあげるから」
「……うん」
言われるがまま、その場に存在していた椅子へと腰掛けるヤク。
人の世話をするのは、マーヴィにとって初めての事ではなかった。
慣れた手付きで、部屋の墨にある小さな箪笥から、鏡と櫛、輪ゴム、それからドライヤーを持ち出し、ヤクの傍にある机の上へと置く。
そうして改めて、ヤクの髪へと穏やかに手を触れ始めた。
まずはドライヤーを使用し、湿りきっていた髪を丹念に渇かす。
指先で優しくドライヤーの風を通してやれば、やがてヤクの髪が持つ本来の柔らかさと艶を取り戻していく。
十二分に髪の水気を取り除いたところでドライヤーの電源を切り、今度は櫛を使用して丁寧に毛先を整えていった。
特別な整髪剤を使わなくとも、ヤクの髪はとても櫛の通りが良い。肩に届く程度の滑らかなセミロングが、中性的なヤクの女性的要素を際立たせる。
少しでも男らしく見えるよう、そして邪魔にならないように、マーヴィは髪の毛束を持ち上げヤクの左頭部に小さく結い上げた。
一通りの工程を経て、最後にヤクの前髪を器用に整え直す。
そうして櫛をテーブルの上へと置き、マーヴィは小さく伸びをした。
「完成っ! 大分良い感じ、かな?」
ずぶ濡れだった頃と比べれば、十分過ぎる程の仕上がりとなったその容姿。
以前の状態でも端麗な容貌が垣間見える程だったが、今の彼はまさしく、世間一般的に言う”美少年”としての輝きを強く放っていた。
ーー澄んだ青髪に、よく映える青眼の瞳。
「……?」
長らくマーヴィに見つめられていた事実に気付き、小首を傾げるヤク。微かに赤らんだ頬を背けながら、マーヴィは咄嗟に口走った。
「珍しいね、その瞳! もしかして他国の人なのかな?」
「たこく?」
「あっ、えぇとね、この国では青い瞳の人ってそうそう見ないの」
「でも、マーヴィも青い」
「私はーー私は、特別。一般的にはとても珍しいの」
自らの瞳の色を指摘され、歯切れの悪い返答をするマーヴィ。
「そうだ、お腹空かない? 丁度材料も揃ってるし、マカルナ作ってあげる」
「まか……るな?」
「この国の家庭料理よ。待ってて、今から準備ーー」
そうして慌ただしく、マーヴィが台所に向かいかけたーーその時。
唐突に、扉のノック音が響く。小さく、マーヴィは肩を震わせた。
その来訪者が彼女にとってさほど喜ばしいものではないと、それとなく理解出来ていたから。
Stigma-スティグマ-