桜の恋人
這いよるような寒さで目を覚ます。あたりは暗く、この寒さはまだ冬が完全に終わってないことを示していた。春日 昴は立ち上がる。携帯を開けばもう21時である。暖かいからと日向ぼっこをしながら草原の上に横になったのがいけなかった。疲れていたのかはたまたそれほど心地が良かったのか。
ここはスバルのお気に入りの場所だった。整備された自然公園の中の少し土が盛られているような、小さな丘のような場所に存在感MAXでそびえ立つ大きな木の下。昔から何かあればここに来ていた。両親を早くに亡くしたスバルの駆け込む先はいつもこの木の下だった。何故だかわからないがとても居心地がよかった。優しさが溢れている気がした。ここは人もあまり来ないので学校をサボるにはもってこいだったし、悲しいことがあっても涙を堪える必要はなかった。何故人が来ないのかというと、それには悠然とそびえ立つ桜の木が関係していた。
しっかりとした幹から分かれていく太い枝がまた新たな枝を派生させる。細い枝たちは下へ少し垂れている。品種は枝垂桜。だがこの桜には「おばけ桜」や「咲かずの桜」のような別名がついている。前者は説明しなければわからないかもしれないが後者は名前を聞けばすぐにわかるだろう。この桜はここ何十年か花を咲かせていないのだ。専門家によると原因は分かっていないが枯れてしまったわけではないということらしい。自然の摂理に反したこの桜は一時期話題になったそうだが、やはり咲かない桜に興味はないのか一部のオカルト趣向の人間以外はすぐに気味の悪いものとみなしたようだった。桜が人を化かすなど尾びれ背びれが付き、前者の名前が生まれ、人は近寄らなくなった。少なくともこれまではスバルはこの説を信じていた。人間が流した噂に尻尾がついたのだと。
寝ぼけ頭で考えるのは駐輪場の自転車にいたずらをされていないか、夕飯はまだ残っているのだろうか。思考はまだクリアになってないが、まあともかく寒いし帰ろうと左足を踏み出したその時、声が聞こえた。
「あなた様」
凛とした鈴のような声がスバルの耳に木霊する。そして風がどこからか甘く、優しい香りを運ぶ。驚きのあまり凍りつく。後ろから声が聞こえた。さっきまで誰もいなかった。人の寄り付かない場所なのに夜なんてもっての外だ。なのに声がする。花も咲いてないのに花の蜜のような甘い香りがした。そもそも桜からはそんな甘い香りはしない。
「…あなた様?」
もう一度声がする。――なにがどうなってんだ!? スバルは恐怖で固まった拳を緩め『Cool!Cool!』と自分を落ち着かせる。
「わたくしは、あなた様をずっと、ずっと待っておりました……。雨の日も、風の強い日も。ただただ、あなた様を慕い、あなた様を想い……」
その切なげな声はスバルの心をまた一回転させる。声色はまるで今にも消えそうな蝋燭に灯された火。切実な想いが込められているような気がする。恐怖展開ではなく前世の恋人展開に確変突入したのではないかと、スバルは一瞬惑う。
「あなた様に御願いがございます。どうか、わたくしめと口づけを交わしてくださいませ」
体中が火照るような言葉を今にも消え入りそうな声で語る切迫した少女の言葉にスバルはやはり来たか、と思った。よく聞く話だ。色仕掛けやなにかに釣られて、振り向いたら顔のないのっぺらぼうだったり。呼ばれた声に振り向いたら血だらけのおばけ、なんてものも聞く。もう誰かのいたずら説はとっくに諦めていた。たぶん自分にいたずらをする程暇な人間はいないし、少ない友人たちもこんなに凝って誰かをからかって笑おうとする人間ではない。
「あなた様。どうか……どうかこの想い受け取ってください」
だが、謎の少女の声はスバルの耳にはとても痛く残った。なんども反響して、心の中に入ってきた。これこそが向こうの作戦だったのならば完全にその作戦に引っかかっていた。だが、それでもいいかもしれないと思える程にスバルは心を震わされていた。そして後ろから足音が近づく。そしてスバルの後ろで止まった。『あなた様……』という声と共にスバルの右手に柔らかな感触が伝わる。後ろにいる声の主が両手でスバルの手を包んでいるのだろう。スバルは考える。たぶんここが最後のチャンスだ。この手を振り払い逃げる。ここは大好きだからまたくるとしても夜に訪れることはもうないだろう。はたしてそれでホントにいいのだろうか。……何故かわからないが駄目な気がした。何かわからない感情がここで逃亡するのを押しとどめていた。それがただ単に好奇心なのか、もっと何か人生の大事な分岐点だと悟ったのか、それはわからない。だがこの握られた手を今は離したくなかった。
「よし、わかった。俺は今から騙されるぞ、化かされるぞ!」
大声で叫びながら握られた手が離れないよう右回りに後ろを振り向く。スバルは息を飲んだ。月空の下。桜のあしらわれた浴衣のようなものを纏い。淡い、虹色のような幻想的な光を発しっている。大きな瞳はまるで大輪の花のようで。長く透き通るような黒い髪はその儚さを際立たせた。そんな少女がスバルの手を握って、潤んだ瞳でこちらを見ている。のっぺらぼうでも血だらけでもない。さらには口づけまでもを求められている。だが、スバルはこの少女を知らなかった。待っていた、慕っていた。と言われていたが覚えがない。無論こんなに可愛い少女を忘れることなんてありえない。でも、しかし、だが。潤んだ瞳は愛おしく。握られた右手はそこだけ脈拍が違うようで、漂ってきたあの甘い香りもこの子の香りだと想うとそれだけで心が踊った。
「さあ、あなた様。どうぞ、口づけを…」
「本当に、いいんだね?」
「え? あ、はい…」
背徳感と欲望はせめぎあい、結果彼女が望んでいることをしてあげることこそが道徳なのではないかという合理的な思考に至った。握られていた手を離し、がしっと肩を掴む。少女が一瞬え? この人ホントにしようとしてる? という表情をしたような気がしたがスバルの頭の中を超特急で右から左に流れて消えていった。そしてスバルは瞳を閉じ、タコのように口を尖らせ徐々に近づける。
5…
4…
3…
2…
1…
少女の唇に届くか否や、スバルの額に鈍い衝撃と耳に『ばかものおおおおおおおおおおお』という怒声が入ってきた。そしてそこでスバルの意識は途絶えた。
※※
「あれ……? 俺、確かすっげー可愛い女の子とチューする筈だったのにいきなり火星人が現れて……」
「後半から夢だ、たわけが」
「うおあッ!」
スバルは驚きと共にバッと起き上がる。本日二度目の起床である。まだ痛みの余韻が残っている額をさすりながら声のする方を見る。空は先ほどと変わらず暗い。そこまで時間は経っていないのだろう。
「やっと起きたか。お主はよく寝るな」
「二度目はお前の所為だ!」
「お、お主が本当に私の唇を奪おうとするのがいけないのだ! なにが本当にいいんだね? だ!」
桜の木の下には先ほどの少女が立っている。だが、雰囲気が全く違う。スバルの事を慕っている様子など微塵もない。そして何やら怒ってる。
「お前にだって原因があるだろ! ……ほら、慕ってたとか、口づけを……とか」
スバルからしてみればいきなり好物をどうぞ食べてくださいと目の前に出され、じゃあいただきまーすと食べようとしたら本当に食べる奴があるか! と怒鳴られたようなものである。
「あの後巨大なのっぺらぼうにでも化けてやろうと思っていたのに、本気になったお主が悪い!」
悪びれる様子もなくビシッと指をさす。そしてピリピリとスバルの肌に来る刺激。少女の怒りがまるで風にも伝わっているようだった。理不尽に言い負かされるのは好きじゃないが額の痛みを思い出す。不毛な争いは避けようとスバルは苦笑いをしながら話を変えるため話題を探す。
「ま、まあ、いいや。……とりあえず君は何者? 俺になんか用だったの?」
「わたしはこの桜に宿る精のようなもの、お主よりも何倍もの時を歩いてきた。お主らからしたら、ただの化物だ。用などない。暇だったから、ただからかっただけだ」
自分の事を化物と呼ぶ少女。当たり前のように語るその姿を見てスバルの心は痛んだ。
「名前とかはないの? 俺はスバル、春日昴って言うんだ」
「……名前か。わたしは日和という。ただの日和、だ」
「日和か、いい名前だな」
暖かそうな名前で、言葉にするだけで温もりを感じる気がした。
「そうか、この名前を褒められるのはとても嬉しい。さっきの事は少しだけ忘れてやろう」
遠い目をしながら語る日和は少し微笑んでいた。
「名前に思い入れでもあるのか? 俺もこの名前気に入ってるんだ」
少し笑みがこぼれる。スバルも自分の名前が好きだった。意味など聞いたことはないし、語感が好きとか昴という文字が好きというわけではない。ただ、数少ない父と母から与えられたものだから。スバルにとってそれは亡き両親と自分を繋ぐ絆のひとつのように思えた。
「この名前は昔ある人間が私につけてくれたのだ。私はここでその人をずっと、ずっと待ち続けている」
「いつから待ってるんだ?」
「さあな、この桜が花を付けなくなってからではあるが、そんなのどうでもよかろう」
忘れろと言わんばかりに言葉を濁す日和。触れられたくないのだとスバルは感じた。
「じゃあその人を待ってるから日和は花を咲かせないんだな」
「まあそんな所だ。花にだって見せたい相手がおってもよかろう」
人が誰かの為に何かをしたいと思うように、この花の精も誰かの為に何かをしたいと思うのだ。そんな風に思える者は決して化物などではないとスバルは思う。尖がってはいてもどこか優しさを感じる日和を嫌いになれなかった。
「それよりお主いつまでここにいるつもりだ、早く帰れ。」
「な、なんだよいきなり」
「私は眠い。お主がおってはゆっくり休めんだろうが」
しっし、と欠伸をしながらを手を振りスバルを急かす。
「マイペース過ぎるだろ……」
「この木は私の家も同然。周りは庭だ。わたしの庭で自分のルールが適用されるのは当たり前だろう?」
「わかったよ……じゃあ、また明日な」
「明日も来るのか……まあいい、すぐに飽きるだろう」
やれやれ、と言った感じで日和が嘆息をもらす。そうして、スバルはすっかり暗くなった小丘を下り帰っていく。そのスバルの背中を見て、日和は少しだけ微笑むのだった。
誰もいない遊歩道を小走りで駆け、ログハウスのような便所の前を多少怯えながら駐輪場につく。無事な自転車に安堵しつつ鍵を開けスタンドを蹴りサドルに跨る。そしてゆっくりと駐輪場を抜け自動ライトの点灯を確認しながら家路につく。家に帰って祖父に話しても絶対に笑って信じてもらえないような一日だった。桜の精にからかわれ、何故か怒られ。でもなんだか良い奴そうで。誰かを待っていて。また話がしたくなって。結構可愛い。最後のは若干に訂正しようと心の中の自分に恥ずかしがりながら自転車を漕ぐスピードを上げる。自転車であれば公園からスバルの家はさほど遠くなく、いくつかの交差点を超え小学校を左に曲がり住宅地に入ってしまえばすぐである。車の通りも日中よりも少なく感じられる。夜の小学校はどこか不気味で見るものを圧倒する。そして左に舵を取り交番の前の横断歩道を渡る。住宅街の路地に入った、家はもうすぐである。道なりに進みようやくたどり着く。自転車を車の奥のスペースに起き、玄関を開ける。
「ただいまー」
「おう、スバル。遅かったな、女か?」
スバルの声に祖父が居間のドアからちらりと顔を出す。スバルは現在母方の祖父母の家で暮らしている。陽気な祖父と静かな祖母は幼かったスバルを優しく受け入れてくれた。ニヤニヤと笑う祖父を横目で見ながら靴を脱ぎ居間に移動する。
「じいちゃん、俺が遅くなるといつもそれだよなあ。なに、女だったら赤飯でも炊いてくれんの?」
「挨拶みたいなもんだからな。それに女なんかいたら楓ちゃんが黙ってないだろう」
「だから楓はただの幼馴染だって言ってるだろ。このやり取りも相当やってるよね、じいちゃん」
はいはい、と興味のない声色で返すスバル。
「まあ、これも挨拶みたいなもんだからな」
祖父もいつもの流れの如く半分興味のないといった返答をしながらテレビを見ている。
「そういやさ、じいちゃん。今日の夕飯は?」
ちゃぶ台の前の座布団に座り肘をつきながら祖父に尋ねる。
「エビフライ」
「おおおー。いいね、エビフライ。俺の分どこ?」
「尻尾までじいちゃんの腹ん中」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
スバルの叫びが夜空に木霊した。
※※
「昨日は散々だったよ、外で寝ちまうわ、帰ってきたら俺のエビフライじいちゃん食ってるわで……」
「まあまあ、そんなこともあるよ。スバル君」
スバルは弁当に入っている玉子焼きを食べながら隣の机に座った幼馴染、大輪 楓に前日起こったことの愚痴をこぼす。楓はゆったりとした笑みを浮かべながらスバルを宥める。栗色の髪にはカチューシャがしてあり、瞳の下のホクロがチャームポイントでそのゆったりとしていて誰にでも優しい人柄と共にクラスの皆からの人気が高い。スバルの通う綾道東高校は至って普通の公立高校といった感じで、偏差値は中の上程度、特徴があるとすれば理由はわからないがグランドの乾きが早いことぐらいである。学校の4階にある1-2と書かれた教室の一角、少し前までは設置された古い灯油式のストーブが一番遠く、今は春が近づきストーブが撤去され少しずつ差し込む日差しの恩恵を受け始めた窓際の最後尾に座るスバルと楓。そして遅れて一人男子生徒が訪れる。
「遅かったな、謙次。弁当の時間なんてお前の一番好きな時間なのに」
スバルに謙次と呼ばれた青年、松山 謙次は金髪に染めた髪をタテガミのようにセットした風貌で、体はスポーツでもやっているのかスバルよりも締まっている印象を受ける。父親が大工であり謙次も仕事を手伝っているうちにがっしりとした体格になったそうだ。
「いやさ、職員室に寄って来たんだけど、先生達に絡まれちまってね」
苦笑いをしながらスバルの前の席に座る謙次。その表情には疲労の色が見え隠れしている。
「そういえば松山君、さっき放送で呼び出し受けてたね」
楓の言葉に確かに呼ばれていたとスバルも思い出す。だが謙次は見た目とは違い友人思いの好漢である。職員室に呼び出される理由がスバルには見当たらなかった。
「いや、職員室に呼ばれた理由自体はただの恥ずかしい話なんだ。忘れた弁当を姉貴が届けてくれたってだけだったんだけどさ。俺には敵が多いみたいねで」
「また、変ないいがかりつけられたのか」
スバルの表情が少しきつくなる。謙次を知っているスバルにとっては見た目でしか判断をしない一部の教師の態度がとても腹立たしかった。
「まあ、しょうがないことさ。お前が怒ることじゃないだろ」
「俺は怒ってなんかないさ。ただ、なんかムカついただけだ」
「それを怒ってるっていうんだよ」
ビニール袋に入っていた紙パックの飲料にストローをさしながら謙次が笑う。ムッとしながら口の中に米を放り込むスバルは釈然としていない。
「俺はお前のそういう所が好きだよ」
「ッムゴフ!」
謙次の言葉に危うく口に含んだお米を吹き出しそうになるスバル、必死に堪え持ってきていた水筒に入っている麦茶で流し込む。
「……謙次、覚えてろよ」
「お前は最高に面白い奴だな」
力のない声で言うスバルにまた謙次が笑う。
「楽しそうだね、二人とも」
楓も笑顔で二人を見る。
「ああいうキモチワルイ発言は控えて欲しいけどな」
横目で謙次を睨みつつスバルは楓に話を振る。
「そういや楓、小学校の先にある自然公園の咲かない桜って知ってるか?」
スバルは唐突に話を変える、んーと首をかしげ少し考えた後楓は話しだす。
「去年うちの新聞部が取り上げてたやつかな? 専門家の調査でも何も原因が解らなくて、これは宇宙人の仕業だ! とか書いてあったけど」
「たぶん宇宙人は関係ないと思うけどそれだ。その感じだと特に知ってるわけでもないか。まあ咲かない桜なんてみんな興味ないよなあ」
スバルが特別なのだ。いつもの人気のなさがあの桜に興味を持っていない人の数を物語っている。
「宇宙人なんかじゃねえが、あそこはやばいぜ」
「なにがだよ」
謙次は両手にを胸の前に移動させ手首をだらしなくブラーンと下ろす。
「でるんだよ」
「だからなにが」
「おばけだよおばけ」
「んなもんでるわけないだろ。今度は脅かすつもり―――」
脅かすつもりか? と言いかけたところでスバルは押し黙る。でるわけない、わけでもない。他の人間は知らなくてもスバルだけは知っている。桜の木に宿る少女がいることを。運が悪ければスバルも巨大なのっぺらぼうが出たと騒ぎ立てていただろう。スバルが静かになると自ずと謙次が話を続ける。
「お前らに言ってなかったかもしれないが俺、霊感あるんだ。前に親父と喧嘩してさ。家飛び出して、行くあてもないから野宿でもしようと思ってあの公園のでっけー木思い出してよ。そこの下で寝ようと思って木の下で横になったらさ、木の後ろの方から聞こえてくるんだ。足音と……立ち去れ……立ち去れって声が」
隣で楓が唾を飲む。楓は怪談話が苦手で3年くらい前までは話を聞いた後風で窓が揺れればそれだけで目の端に涙をためていた。
「最初は夢かなって思ったんだけどだんだん声が近くなってきて。頭の後ろくらいで足音が止まって。でも勇気を振り絞って振り向いてみたんだ」
スバルとは違い最初からノンストップで恐怖体験をさせられている。スバルの場合結局恐怖(物理)が額にダメージを与えただけだったが。
「そしたら誰もいないんだ……でもここはやばいと思ってさ。駆け足で公園を出ようとしたら、突風が後ろから物凄い勢いで吹いてきて。風の中で何かの視線を感じてさ。風で転んで履いてた靴も脱げたけど裸足で逃げたよ。あれは怖かった」
「へ? それだけ?」
「ああ、それだけだが?」
隣で楓がホッとしている。
「巨大なのっぺらぼうは?」
「どうしたスバル? 頭でも打ったか?」
日和は相手によって怖がらせ方を変えるようだ。中々食えない奴である。
「俺の求めてたのは怪談話じゃないんだって。あの木についてだよ」
「ごめんね、力になれなくて。でも少し思い出したんだけど結構古い木で、昔おじいちゃんにあの木の昔話聞いたことがあったような気がするから、もしかしたら市立図書館に行けばそういう本が置いてあるかも」
申し訳なさそうにスバルを見る楓。だがスバルからすれば図書館に行けば何かあの桜について、いや日和についての情報が知れるかもしれないとわかっただけで大満足である。
「あいつと違って十分力になってるよ、ありがとな」
「えへへ、そうかな」
少し恥ずかしそうに笑う楓は嬉しそうで、それを見てすかさず謙次がつっこみを入れる。
「お前らはホントに仲が良いな」
「まあ、幼馴染だからな」
楓も楓の家族にも小さい頃からよくしてもらっている。昔から楓の優しさと笑顔にスバルは救われてきた。
「そうだね、幼馴染だもんねー」
ふふふ、と楽しそうに笑う楓は食べ終わった小さなお弁当を片づけながら時計を見る。
「そろそろ授業始まっちゃうね。松山君、教室戻った方がいいよー」
「そろそろお暇するかな」
いつの間にか食べ終えていた菓子パンのゴミをビニールに纏めゴミ箱に捨て教室を出ていく。
「あ、俺弁当まだ食い終ってない……」
「頑張れ、スバル君!」
小さくガッツポーズをする楓に励まされ『お、おう』とスバルは授業が始まる寸前まで弁当をかきこんだ。
※※
放課後。スバルは学校から直接図書館へ向かう。スバルの住む綾道市は数十年前までは大手自動車会社の製造工場があり工場地帯。として有名だったが、現在は事務所としてしか機能していない。だがその名残が多く残っているため今も工場地帯という認識は変わらない。学校の正門を出て右に曲がり直進。道なりに進み赤い小さな陸橋を通り、夏はとても綺麗なひまわり畑なる畑の周りを抜ける。綾道市の市の花はひまわりであり、なんの特産もない貧乏市である綾道市の再興の鍵としてプッシュされている。スバルの祖父は商工会に顔を出しており、ひまわりクッキーからひまわりシュークリーム。果てにはひまわり焼酎まであるそうだ。無論未成年であるスバルは飲んだことはないがスバルの祖父も二杯目からは水でも酔う為その味は不明である。綾道市は起伏が激しく高台には工場地帯があり低地にいくにつれ自然が増えていく。綾道特有の地形なのかスバルの前には大きな橋が架かっている。自転車を漕ぎながら橋の下を見ると貯水池や野球グラウンド、牛小屋まで見える。ここまでくると高台の灰色の住宅地や工場群の面影はなくどこか懐かしさを感じる風景が広がっている。スバルも昔は祖母に散歩と称して様々なところへ連れてってもらった。大抵の芋掘りは体験したし、食べれる草と雑草を間違え苦い経験をしたのも良い思い出だ。母親や父親と共に楽しそうに笑う他の子供を見て、心の優しい祖母がいつも代わりを演じようとしてくれた。誰かが誰かの代わりになることはできないが、スバルは祖母から祖母として愛情を感じていた。橋を渡り上り坂になる。緩やかな傾斜を上りきれば市役所や市民ホールなどの施設が集中して立ち並んでいる。その中にスバルの向かう図書館も存在する。まだ冷えた空気が残っているようで昼下がりの日差しの中でも暑さをあまり感じない。逆にとても過ごしやすいといってもいいだろう。最近は季節の移り目に存在する快適な世界が極端に減っており、寒さと暑さが全てを支配しているような気分になる。坂を上りきり青になった信号を渡り左へ、自転車から降り、スロープを進む。図書館の入り口の左手にある駐輪場に自転車を置き鍵をかける。そして自動ドアを潜り中へ。
図書館の中は日差しが無い分なのかひんやりとした空気が流れている。入るとすぐ左に階段があり赤い文字で展示室という文字が見えた、二階に用はないだろう。右手にはインターネットや新聞が置かれ年配の人たちで賑わっている。正面にカウンターが存在し、カウンターの左から開けたスペースに本棚が並んでいる。とりあえずフラフラ回ってみようと図書スペースへ進んでいく。低い本棚には絵本が並んでおり子供向けに出来ているんだなとスバルは感心する。そしてキョロキョロとあたりを見回していると特集スペースを見つける。『綾道を歩こう』と銘打たれた特集は本棚の上段に綾道の地図が張られており中段、下段には郷土資料が入っている。本のタイトルを流し見しながら楓の話を思い出す。昔話に何か書いてあるかもしれないと言っていた。『ひまわりと綾道』『綾道の発展とこれから』『戦後の綾道』どれも目ぼしいものではない。中段から下段に移り、スバルはしゃがみながら本を探す。『綾道むかしむかし』これだ、と思い手に取る。ぺらぺらと本を捲る。どうやらこの本は郷土歴史や小さな出来事、昔話などを市民から寄せられた情報をもとに編集してあるらしい。スバルがとったのは第5集で本棚を見ると5,6,7,8と続いて15集まで存在する。1から4集はどうやら持ち出し禁止のスペースにあるらしい。ここにある本だけでも目を通そうとスバルは目次に桜の文字を探す。5,6とそられらしきものは見当たらず、7集目の目次に差し掛かったときようやく桜の逸話を見つける。『咲かずの桜と入谷様伝説』咲かずの桜、日和のいるあの桜で間違いないだろう。題の横に記された32項へとページをめくる。どうやら楓の言った通り昔話のようで、スバルの2代程前の世代には良く聞かされていた話のようだ。入谷様とは昔綾道付近を治めていた偉い人のようで、この入谷様の悲しいお話しなのだそうだ。入谷様は花が好きで特に桜には目が無かったらしく、その中でも群を抜いて美しかった桜を気に入り宴を開くのはいつもその桜の下だった。だが入谷様の統治を良く思わない者たちがいたらしく。遂には入谷様の領地にまで戦が広がってきたらしい。民と桜や自然を愛した入谷様は戦が人里へと入る前に決着をつけるために自ら腹を裂き、それと引き換えに民と自然を守ったそうだ。そして次の年春から入谷様の愛した桜はその枝に花をつけることはなくなったらしい。まるで桜が入谷様の死を悲しみ、花を咲かせなくなったようだった。と記されている。
スバルは本を閉じ棚へ戻し立ち上がる。夢中になって本を探していたせいかしゃがみこんだままだったのを忘れていて少々膝が痛い。ぎこちなく歩き、用事の済んだ図書館を出ながら考える。日和は入谷様と呼ばれた男を待っているのだろうか、たぶんそうなのだろう。自動ドアを出て自転車の鍵を開け押しながらスロープを降りる。この季節の暮れはまだ早く、空の色は切ない。自転車に跨り元来た道へと帰っていく。入谷様の守った自然は人間の文化の発展と共に徐々に消えていっている。この町の自然を"少なくない"と思っていたが"多くない"のだ。少し感傷的になっている。悲しい昔話を聞いたからって揺らぐほどセンチメンタルなお年頃ではない。ただ、スバルには他人事には思えない事情がある。咲かずの桜に宿る少女は何百年もの間、自分を好いてくれた人の守ったものが消えていくのを見てきたのだろうか。高台にあるあの木の上からなら見渡せるだろう。もしかしたら川の向こうまで見えるかもしれない。坂を下った推力で自転車は進んでいく、だがスバルは自転車のペダルを回す。力いっぱい回す。自分の中に梅雨のような湿った風が吹いてきたらその中を嵐のように駆け抜けるしかない。日和が何を思っていたかはスバルにはわからない。もしかしたらケラケラと笑いながら『なんだ、その話。私は知らんぞ』とか言ってくるかもしれない。それはないにしろ。もしかしたら日和はもうそれを乗り越えていて勝手に感傷に浸るスバルを笑うかもしれない。ともかく疲れるまで走ったら日和の元へ向かおうと一層ペダルに力を込めた。
※※
「なんだ、その話。私は知らんぞ」
「えええええええええええッ!?」
自転車で街の中を爆走し、疲れ切った体で日和の元へやってきたスバルは今日知ったことを話した。力なく話すスバルを見て最初は普通だったのだが徐々に堪えきれなくなったようで、現在腹を抱えて大爆笑中である。
「それで切なさを振り切ろうと力尽きるまで体を動かしていたと……お主は阿呆か」
なお日和は笑う。芝生に大の字に寝転がるスバルは魂が抜けたかのように口を開け意気消沈としている。日和は桜に桜に背をもたれ地面に腰を下ろしている。どんなに清楚ではない笑い方をしていようとその美しさは健在で、スバルはなんだか悔しくなった。
「しかたないだろ、誰だってあんなの見つけたらそう思う筈だって……」
空を見上げながらボソボソと漏らす。風はやはり冷たいが今のスバルには心地よい。身体を動かしたおかげでポカポカとしている。汗の所為で冷えてからが怖いが。
「この桜はわたしであってわたしでない。桜が相当長く生きてきていることは確かだが、わたしが生まれたのはそうそう昔ではない。たぶんその話は相当昔のものだろう」
背にした桜を愛おしそうに見上げながら日和は言う。
「確かに、戦国時代がどうとか書いてあったかも……」
「そんな話にここ何十年の間に咲かなくなった桜が出てくるはずがなかろう。作り話か、また違う桜の話だ」
「もし、さ。そんな桜が本当に存在したらさ、そいつは入谷様のことをどう思ってたのかな」
「そんなことわたしにはわからん。だが、愛してくれれば、愛してしまう。愛しくなれば忘れることはできない。それは人間のお前が一番よくわかるのではないか?」
「……そうだよな」
自分が祖父や祖母を。記憶の陰にしか存在しない母や父を忘れないように、たぶん誰もが愛してくれた誰かを忘れない。スバルはため息をつきながら話の流れを変える。
「それにしても騙されたぜ。あの本をじっくり読んでしまった俺の時間を返せ。この疲労を返せ」
虚空に向かってぼやく。誰のせいでもない。むしろスバルの早とちりの所為である。
「まあよい、私を楽しませてくれた礼だ。私の待ち人の話を少しだけしてやろう」
スバルはゆっくりと上半身だけを起き上がらせる。てっきり日和は自分の話をしたがらないと思っていた。
「その人は、甘い香りのする人だった。いたずらばかりするわたしを愛してくれた。姿を現さない私にも優しさを教えてくれた。いつも満開の花のような笑みでわたしを包んでくれた。」
とても優しい微笑みを浮かべながら語る日和。こういうときの日和はとても清く正しいものに見える。その笑顔はどこか儚ささえ漂うのだ。
「私たちはいつも、この桜を隔てて表と裏で話をした。良い思い出だ」
「その人は今。どうしてるんだ?」
「それはわからない。あるときからその人は桜の下に訪れなくなった。また明日、と言ってな」
「そんな……」
「だから実を言えば待っているのだってわたしが勝手にやっていることだ」
「なんで、なんで待っていられるんだ? その人がまたやってくる保証なんてどこにもないじゃないか」
「さっきも言ったろう。愛しくなれば忘れることは出来ない。ただそれだけだ」
――それももう限界かもしれないがな。といった日和の声はスバルには届かない。
「また来るといいな。その人」
スバルは考える。甘い香りのする人で優しくて。それだけではさすがに探せない。何かもう一つくらいヒントがあれば、自分でも日和の力になれるかもしれないと。
「その人の名前はなんて言うんだ?」
「ん? その人は『かよ』さんという人だった」
情報を聞き出した。これだけでは全く足りないがこれ以上聞けば日和も察してしまうだろう。
「そっか、ありがと。なんだか冷えてきたし今日は帰るわ。またな明日な」
「今日はやけに去り際が潔いな」
『ギクッ』と足が止まる。
「ま、まあ昨日みたいに日和が眠くなって機嫌悪くなっても困るからな。ハハハ」
乾いた笑でごまかす。ごまかせてるかはわからないがそれしか方法がない。
「ふん。まあいいだろう。何を企んでいるかは大よそ察しがつくが、今お主の手元にあるものだけでは何も見つけることは出来まい」
『やっぱりばれてたッ!』心の中で叫びながら逃げるように桜から離れていく。
こうしてスバルの待ち人探しが始まった。
※※
「スバル君、なんだか元気だね」
「そうか? 俺はいつもと変わらないけど」
次の日の学校、昼休み。スバルは楓と謙次と昼食を食べている。スバルの祖母の弁当は格別に美味しい。どうにかこうにか難癖をつけるとしたら少し若者からすれば塩分が足りない、くらいだろうか。毎日早くに起きて冷凍食品などを使わずに弁当を作る祖母には頭が上がらない。
「楓ちゃんが言うんだから間違いないだろ。お前の事ずっと見てきてるんだからさ」
「まあ、幼馴染だからなー」
謙次は昨日、姉が忘れた弁当を届けてくれたので買ってしまった菓子パンを学校で食べ、家に帰り弁当を平らげたそうだ。スバルより体が大きいこともあってか謙次は良く食べるなあとスバルは感心する。
「なんだかね、とっても気合に満ち溢れてる気がするよ。スバル君、好きな子でもできた?」
「ッムゴフ!」
スバルは盛大に咽る。だが昨日と同様必死に口を開けずに収束させ謙次の飲み物をふんだくり、それを飲み荒い息を吐く。
「謙次に続いて楓まで俺をいじめるとは……」
「そ、そんなつもりじゃないよ。スバル君、大丈夫?」
楓がそんなことをするタイプの人間ではないことは知っている。予想通りのワタワタと慌てた反応を得られたので仕返しも程々にしておこうとスバルは楓を宥める。
「冗談冗談。楓はそんなことしないって知ってるよ」
「俺の飲み物飲んだんだ。で、好きな子がいるかくらい応えてくれるよな、スバル?」
ゲヘヘと憎らしいくらいに腹の立つ笑みで言う謙次。
「別に、そんな奴……」
といって何故か思い浮かぶのは日和の顔。そんなわけないだろうと思うが、だったらなぜこんなにも日和の事を知りたいと、日和の力になりたいと願ってしまうのだろうか。自分でもわからない感情に思考回路が上手く動作しない。
「春日君、なんか先輩が呼んでるよ」
そんなとき助け舟のように廊下の方からクラスメイトの声がする。そちらを向くとドアの奥、声の主であるクラスメイトの横に見覚えのない大柄な男子生徒が立っている。知り合いではないが向こうはスバルを呼んでいる、何の用だろうか。
「悪いな、なんか呼ばれてるから行ってくるわ」
だがこれを好機と逃さず、スバルは立ち上がり廊下へ移動する。謙次の『逃げんな!』という声が聞こえたがそういわれて立ち止まる者はいないだろう。スバルが男子生徒の前まで来るとクラスメイトは友人の元へ戻っていく。先輩らしいその人物は謙次よりも大きく、高校生らしからぬ貫録のある彫りの深い顔立ちをしており、目の下には隈が強く見られた。
「ここじゃ話しづらい、ついてこい」
スバルの返答を待たず一方的に述べた後、廊下を歩いていく。呼び止める暇もなく、スバルは男を追う。そして昼休みには人気のなくなる廊下の端までくると足を止める。
「えっと、俺、男には興味ないっすよ」
「そんなことを言いに来たわけではない」
「……ですよね」
アハハ、と笑うが男は顔色一つ変えずスバルを射抜くように見つめる。
「それで、俺になんの御用ですか?」
男は無言のままで、スバルの言葉が聞こえてないかのようである。ここまでくると若干不気味さまで漂う。目的は一体何なのだろうか。
「桜……づくな」
上手く聞き取れない。
「はい?」
「桜に近づくな。桜神が弱っている。もう一度言う、桜に近づくな」
どういうことだ、と聞く前に男はスバルの横を通り去っていく。桜神とはつまり日和のことだろう。だが弱っているとはどういうことなのだろうか。スバルは立ち尽くす。今の男はスバルが日和の元へ通っていることを知っているようだった。何かがスバルの知らないところで動いている。思えばずっと通ってきたあの場所に日和が現れたのもつい最近だ。自分は知らないことが多い。だからこそせめて少しでも力になりたい。日和の待っている人を探し出す。それくらいにしかスバルには思い浮かばない。あの桜には世話になっている。自分が辛いとき苦しいとき、いつもあの場所は何も言わずにスバルを迎えてくれた。その桜に宿っていた精なのだ、恩返しをしたって罰は当たらないはずだ。弱ってる云々は気になるがそれはここで考えていても埒があかない、日和に直接聞くしかないだろう。スバルは廊下を戻り自分の教室へ戻る。
「スバル君、大丈夫だった?」
楓が心配そうにスバルを迎える。確かに先ほどの男は無愛想で大柄な体格で中々強面な顔つきだった。
「俺は人畜無害だから、人違いだったよ」
桜の事を話すわけにもいかない。しかし、かといって楓が心配するようなことも言えない。楓に嘘をつくのはとてつもない罪悪感を感じるが仕方がないことだった。楓はよかったよかったと笑顔で頷いている。
「あいつ、確か黒岩 聖仁って奴だったよな。あんま良い噂聞かないぜ。なんか変な宗教に入ってるとかで」
笑顔で頷いていた楓の表情が曇る。謙次の所為で作戦が台無しである。憎々しげに謙次を睨みつけた。
「ま、まあ大丈夫だったって、謙次も心配してくれてありがとな! だから気にすんな楓! 」
「うん、それならいいんだけど……」
勢いでごまかせたようだ、とスバルは一安心する。
「まあ、何かあったら言えよ。一応、友達だしな」
憎まれ口をたたいているがやはり謙次も心配してくれているようだった。その心配に背くようで悪いが日和の元へ向かうのを止めることは出来ない。黒岩聖仁という男は中々不気味だが、怖がっていても仕方ない。楓に余計な心配をかけないためにも早く待ち人を見つけよう。そう決意したところで昼休みの終わりを告げる五分前のチャイムが鳴る。
「あ、俺また弁当……」
「スバル君、ファイト!」
※※
――と言っても、あれだけじゃどうにもならないのが現状だよなあ
あれから必死に探しあぐねて早一週間。心身ともに疲弊したスバルは現在4限目の地理の授業を机に蹲りやり過ごしている。1日目は探偵作戦だった。閃きと勘を駆使して犯人……もとい待ち人を見つけるつもりだったが、情報が少なすぎて断念。パズルもピースがなければ考えることに意味は生まれない。それからは自らの足を使い必死に探した。祖父や祖母にも『かよ』という名前の人について心当たりがないか尋ね、候補に挙がった人間に片っ端から会いに行ったがあの桜にも日和という名前にも心当たりはなかった。その間にも毎日日和に会いに行きどうにかもっと情報を手に入れられないかと策を練ったが、やはり日和の方が一枚も二枚も上手でありその度に『馬鹿者ッ!』と突風がスバルを襲った。日和はスバルの行動に賛同してくれないのか、徐々に眠るから出ていけ、という時間が早まって行った。だがまた明日も来ていいか? と聞くと『勝手にしろ』と言ってくる。弱ってるのか? と聞いた途端『私は元気だ!』と怒鳴られる始末。日和の事は解らないことだらけだ。そして待ち人についてもわからないことだらけだ。色々と詰まってしまった。たぶん、だんだん日和に冷たく接されていくのが辛いという理由も相まって、スバルは疲弊していた。自分が勝手に始めたことだが、少しは頑張れとか言ってほしいものである。はあ、と嘆息をもらしたそのあと四限目の終わりを告げるチャイムが鳴る。やっと弁当の時間まで漕ぎつけた。スバルはいそいそとリュックの中から弁当を取り出し、ナプキンを解き弁当の蓋を開ける。今日はエビフライが入っている。一週間前食べ損ねたエビフライが遂にスバルの胃の中に入るときが来たのだ。スバルは軽く感動を覚えながら朝から揚げ物を作ってくれた祖母に手を合わせ感謝する。だがその隙を見せたのがいけなかった。
「いいねえ、エビフライ。いただきまーす」
略奪はいとも簡単に行われた。
「おおッ! これは美味い。さすがスバルのばあちゃんの飯はいつも美味いな」
いきなり現れた謙次はもしゃもしゃとスバルのものだったエビフライを頬張っている。やはり美味いのだろう。そしてエビフライはもう自分の胃袋に入る運命ではないのだろう。スバルとエビフライの運命は平行線にあるのかもしれない。どこまでいっても交わることはないのだろうか。
「お、おいスバル。どうした、そんな燃え尽きたかのような生気のない目は。やめろ、エビフライはないぞ。それは漬物だ。漬物にソースかけてるぞッ!」
エビフライというエネルギーを補給しようとしたのだ。疲れた体に染みわたるそれはまたスバルが動き出すための動力になっただろう。だがそれは消えた。大きな大きなエビのフライは謙次という名の略奪者によって奪われてしまった。正気を失ったスバルは動転して漬物にソースをかけようとしていたようだ。だがそれもいいかもしれない。ソース味の漬物でも食べればエビフライの事を忘れられるかもしれない。荒治療というやつだ。
「俺の……唯一の希望が……」
「悪かった! 俺が悪かった! よしこのプリンをやるよ。購買で人気なとろけるプリンだ。な! だから元気出せって」
「俺は、そんなものじゃ許さない」
といいつつも、スパッと謙次の手からプリンとスプーンを奪い取り蓋をあけ流し込むように食べきる。その姿にはどこか哀愁が漂っている。そうだ、こんなことをしてもエビフライは帰ってこない。最近は何かと事が上手く回らない。そんな甘い世の中ではないと知っているつもりだったが、それ以上に厳しさが上回ったのだろうか。
「はあ……最近ついてないな」
「スバル君、何かあったの? 最近なんだか疲れてるみたいだね」
「そう見えるか。疲れて、ないとは言えないな。楓には隠せないみたいだ」
楓は良く自分を見てくれている。たぶん楓のような母親がいたら全国の少年はとても真っ直ぐ育つだろう。
「幼馴染、だからね」
エヘヘと笑う楓。楓の笑顔には癒されるが、それで待ち人が見つかるわけではない。やはり世の中とはそんなに甘くない。
「楓さあ、『かよ』って名前の人に心当たりないか?」
ぼけーっと宙を見ながら何ともなしに呟く。
「んー。私のおばあちゃん、とか?」
「そうかー、楓のばあちゃんはかよさんっていうのかー」
「ッ!?」
危うく流しかけてしまった。楓があまりにも普通に言うためスバルも普通に流しかけたようだ。
「ホントなのかそれはッ!」
「うん、ホントだよー」
楓はぱくぱくと玉子焼きを食べながらスバルの返答に答えた。
「楓、今日。お前の家に行ってもいいか?」
暗闇の底に降りてきた一筋の綱だ。希望は薄くても逃してはいけない。もし、あてが外れても久々に楓の弟とキャッチボールでもすればいいだろう。
「なんだスバル。大胆だな」
「これは真剣なことなんだ。そういう邪なものじゃないんだよ」
「え、うん。大丈夫だよ? 急だから汚いかもしれないけど平気かな?」
「俺がいつ楓の家にいきなり遊びに行ったって汚かったことなんてなかったよ」
「うん、じゃあ学校終わったら一緒に帰ろ?」
「よしわかった。そうしよう」
楓は『真剣……邪じゃない……』と反復しながら嬉しそうに微笑んでいる。
「お前も罪作りな奴だよな、まったく」
やれやれとため息をつく謙次。
「エビフライを盗み食ったお前の罪を俺は忘れない」
「だから悪かったって!」
楓の祖母のかよさんは日和の待ち人なのだろうか。であれば何故日和の元へ行ってあげないのだろうか。聞きたいことはいっぱいある。日和の好きなもの。日和の喜ぶこと。まあそうじゃないことも考慮して過度な期待はしないでおこうと自分を諌める。
物語は静かに加速を始める。
※※
「楓の家。久しぶりだな」
「そんなことないよ。なんだかんだ言ってスバル君はちょこちょこ遊びに来てくれるから」
『そうだったか?』と返答しつつ楓はただいまーと玄関の扉を開け中に入る。そしてそれに続いてスバルもお邪魔しまーすと楓宅へ入っていく。作られたのは古いようだが立派な家で、玄関の横には『小春日和』という暖簾。風と共に餡子の匂いが漂ってくる。楓の家は昔から和菓子屋を営んでおり母方の祖父は和菓子職人でスバルも良く話す。
「でもさ、ひとつ思ったんだけど。俺、昔から楓の家に出入りしてるけど楓のばあちゃん見たことないけど。かよさんってもしかしたお父さんの方のおばあちゃんなのか?」
「ううん。そっか、スバル君には言ってなかったね」
楓はいつも通してくれる部屋ではなく、一つ奥の部屋へスバルを案内する。そして障子戸をあけ中へ通す。六畳程の部屋でぽつん、とひとつ。仏壇が置かれている。
「おじいちゃんが寝るときに使う部屋なんだけどね。ほらスバル君。あれが『かよ』おばあちゃんだよ」
楓は仏壇の前に移動しマッチを擦って蝋燭に火を灯す。そして線香を火にかざし煙の上がった線香を線香立てに立て、手を合わせる。
「ただいま、おばあちゃん。スバル君もお線香あげてくれるかな?」
スバルは何も言わずに楓の横に膝を立て同じ様に線香を立てる。仏壇に置かれた遺影には古い写真だがとても美しい人が写っており、その笑顔は楓と同じくとても優しい。
「おばあちゃんはね、身体が弱かったみたいで私が生まれるずっと前に亡くなったんだって。綺麗な人だよね」
辻褄が合っている。辻褄が合ってしまうのだ。正直言えば自己満足だった。内心では日和の情報提供がもっとないと見つからないだろうと半ば諦めていた。だがバラバラに伸びていた線が絡み合う。甘い香りは和菓子の香りだったのかもしれない。楓の祖母ならば優しい人だったのだと確信できる。そして日和の元へ現れなくなった理由。日和という名前の由来。勝手に生きてると思っていた。日和が待っている。というものだからどこかにいるのだと、そう思っていた。現実はそう甘くない。その言葉を反復する。
「かよさんのこと聞きたいんだよね? おじいちゃん呼んでくるからちょっと待ってて」
「悪いな楓。何から何まで」
スバルの表情を察したのか楓は心配の色を見せるがすぐにそれを消し笑顔を見せる。
「いいんだよ。幼馴染だからね」
そう言い残し、戸の向こうに消える。楓はとても出来た人間だ。心優しく誰にでも暖かく接せる。謙虚さも持ち合わせていて自分を驕らない。いつか楓にも何か恩返しがしたい。だがもはやそれは返せる量ではないだろう。楓も出会ったころはスバルにびくびくと怯えていた。だがいつだったか、まだたぶん小学校の頃、楓の失くしたおもちゃを泥だらけになりながら探し出した時から楓はスバルについてくるようになった。そういえば進路についてあまり深く考えていなかったときに今の高校へ引っ張って行ってくれたのも楓だった。一度聞いたことがあった、自分と一緒にいて楽しいかと。すると『幼馴染だから、辛いときも楽しいときも一緒にいるもの』と押し切られてしまった。幼馴染というのはそこまでするものだろうか。楓はたぶんスバルの事を家族のように思ってくれているのだろう。でなければやはり説明はつかない。スバルが考えていると廊下から足音が聞こえてくる。そしてスバルのいる部屋の前で止まり障子戸が開く。
「やあスバル君。久しぶりだね」
「利秀じいちゃん、久しぶり」
楓の祖父、利秀は上下白い調理服のようなものを纏っている。
「ごめんね、仕事中だったかな?」
「今日はもう平気さ、楓も店番してくれてるみたいだしね」
利秀はにっこりと柔和な笑みを浮かべながら端に置いてあった座布団を取り出しそれをスバルにも渡し、座る。スバルもそれを受け取り座布団を敷きその上に腰掛ける。楓には今度ケーキでも奢ろうと決意する。
「それで、香代のことだったか」
「うん、ちょっと思い出してほしいことがあるんだ。香代さんは咲かずの桜に通っていた?」
「咲かずの桜? ああ、あのおばけ桜のことか。そういや香代はあの桜を大層気に入っていたね。とても懐かしいことだ」
利秀は仏壇の方を眺めながら思い出を見つめているようだった。利秀の回答により楓の祖母の香代が日和の待ち人であることは強く確定されていく。ここに来るまでは早く見つけたい、と思っていたが実は見つからない方が良いのではないかと思い始めた。何も知らない方が幸せなこともある。今はそんな気持ちだった。だが、それでも聞かなければいけない。それは軽々しく首を突っ込んだ自分への覚悟であり戒めである。日和も薄々わかっていたのかもしれない。そしてスバルが勝手に傷つくことも想像が出来たのかもしれない。だから止めたのだ、知らずに良い思い出にすれば美化される。思い出は長い時間で風化されて傷つくことはないのかもしれない。
「日和って名前に聞き覚えは? 香代さんの友達とかで聞いたことはない?」
「日和、日和……」
利秀は悩んだ末何かを思い出したようでおもむろに襖の戸をあける。そして襖の中にある寄木細工の大箱を開け中身を漁る。
「これだ」
そう言って利秀が取り出したのは一通の封筒。
「これは?」
スバルが尋ねると利秀はその封筒を裏返す。するとそこには『日和へ』という宛名が記されていた。
「香代は身体が弱くてね、もう長くないと医者に言われてから家族や友人、世話になった人に手紙を書くようになったんだ。だけどその便箋だけは相手が誰だかわからなくてね。生前は自分で渡すと言っていたのだけど、その前に眠っちゃったから」
利秀はにっこりと笑う。だがその笑顔には消えない儚さが張り付いていた。愛していた人の死はいくら時間が経とうと忘れる事などできないのだ。スバルは自分の考えに苛立つ。そんなことわかっていた筈なのに、傷つくことを恐れて、大切な人の死さえ知らなければ傷つかないと言っていたのだ。
「俺さ、その日和って人知ってるんだ。絶対届けるからさ。その手紙、俺に託してくれないかな」
この手紙は必ず日和に届けなければならない。日和は傷つくかもしれない。だがそれでも渡すべきなのだ。でなければ香代さんの想いまでが消えてしまう。それは一番よくないことだとスバルは思う。
「その人をここに連れてくることは出来ないのかな? 香代の友人ならば私も礼を言いたい」
「ごめん、それは出来ないんだ。たぶん利秀じいちゃんに会わすことも出来ない……」
日和が言っていた。普通の人間には日和を感じることも出来ないと。毛虫を落とすので精一杯だと笑っていた。
「だけど、絶対届ける。だからお願いッ!」
スバルは頭を下げる。低く低く、願いを込めて。
「頭をあげてスバル君。こんなとこ楓に見られたら今日の夕飯のおかずが餡子になっちゃうよ」
スバルが顔をあげると柔和な笑みで利秀は微笑んでいる。
「これはスバル君に託すよ。だけど、ひとつだけお願いがあるんだ」
「日和さんって人に、ありがとう。って伝えてくれないかな?」
「約束する。必ず伝える」
「じゃあ、よろしく頼んだよ」
そういって利秀は窓側の障子戸を開ける。その先には縁側がありたぶん縁側を左に渡ればいつもの広間がある筈だ。そして冬晴れの日差しが差し込む庭の木々を眺めながらポツリと呟く。
「そういえば、おばけ桜は香代が眠った次の年から咲かなくなったんだ」
利秀は目を瞑り、頭の中で桜を描く。
「あの桜、泣いてるみたいだったなあ」
小さな呟きが、小さな部屋を木霊した。
※※
日は陰りあたりは暗い。いつものことなのだが何故か今日は暗闇を感じる。風が吹いていない所為かもしれない。自分の気持ちの所為なのかもしれない。自転車を止め公園の奥へ入っていく。公衆便所を通り過ぎ、遊歩道を進み、小丘を登る。そして桜の元へ。
「お主も飽きないのう。何度言ってもこの口は何も語らんぞ」
桜の枝の上に腰を掛けている日和。最初にこの光景を見た時は驚いたが桜の精のやることだ多少人間の理から外れていてもおかしくはない。
「今日は渡したいものがあって来たんだ」
「なんだ? ぷれぜんとを渡して懐柔するつもりか? 殊勝な心がけだな」
日和は相変わらずと言った感じでケラケラと楽しそうに笑っている。
「プレゼントなんてもんじゃないさ。これはもしかしたら日和を傷つけてしまうかもしれないものだから」
スバルの雰囲気を感じ取ったのか日和は笑うのを止め、何も言わずスバルを見つめる。
「俺さ、日和に止められてたのに待ち人探しとかしてたんだ。たぶん自己満足で、勝手にちょっとでも日和の力になれたって満足に浸りたかっただけなんだ。でも見つけたんだ。日和、君の待ち人を」
空気が変わる。日和は何も言わずスバルを見つめたままだ。
「だけどその人はもう亡くなっていた。だから俺はその人を連れてこれない」
「でも手紙を預かってきた。自分で渡したいって言ってたけどその前に亡くなったらしい。中身は見てないから内容はわからない。だけどこれを読めば日和は香代さんを待つことを辞めなければならない。香代さんの死を受け止めなければいけない。だけど受け取ってほしい。これは日和の大好きだった香代さんの想いが籠っているものだと思うから」
スバルは桜の枝に座る日和に向かって手紙を差し出す。するとスバルの元へ一陣の風が吹く。その風は優しくスバルの手から手紙を受け取る。そして導かれるように日和の元へ手紙は飛んでゆく。
「風で飛んできたんだ。お前に言われたからでもわたしが読みたいと思ったわけでもない。ただ風で運ばれてきてしまったから、仕方なく読むだけだ」
日和はいたずらに、そして静かに微笑む。そして手に取った封筒を開け中に入っている便箋を取り出す。日和は一瞬目を通しただけで封筒に便箋を戻した。そして笑う、腹を抱えながら大きな声で笑う。スバルにはその意味が解らなかった。スバルがポカンとしていると、スバルの元へ封筒が降りてきた。
「読んでみるといい、読めるものならな」
日和はまだ笑っている。日和の言葉の意味が解らずスバルも封筒から便箋を取り出し目を通す。だがそこには文字などひとつも書かれていない。白紙だ。罫線の上には何も乗っていない。
「忘れておった。あいつは体は弱いのにわたし以上にいたずら好きだった。たぶんその手紙を渡す時に現れるであろうわたしを捕まえようと思ったのだろう。確かに感じる。これは香代が準備したものだ」
日和は目尻に溜まる涙を拭く。『泣いてるのか?』と聞けば笑い過ぎたせいだ、と怒鳴られるだろう。だからスバルは聞かない。
「だが、これでひとつだけわかったことがある。私は一人で待っていたわけではなかった。勝手に待っていたわけではなかった。香代はまた私の元へ参ろうとしていたようだ。白紙の手紙でも伝わることとはあるものだな、スバルよ」
「そうだな」
たぶん、それは日和と香代の間だったから伝わったのだ。日和は桜の木から遠くを見ている。どこを見ているかはわからない。だがどこかスバルには見えないものを見ている気がした。
「香代さんの旦那さんが言ってた。日和にありがとうって伝えてくれって」
「そうか、あいつにもそんな相手がいたのだったな。男とは見た目に騙されやすいと言うことか。お主の様にな」
「……俺は別にっ!」
スバルの反応を見て日和は笑う。そして日和は桜の枝から降りる。縛り付ける重力など存在しないのかふわりと地上へ足をつける。そしてスバルの前へ移動する。その瞳いっぱいにスバルが映し出される。
「スバル。ありがとう」
いつもとは違う、おしとやかな朝露に濡れる花のような笑みで言うのだった。
スバルは急に恥ずかしくなる。そんな無防備な笑みを見せつけられて、絶対に日和には勝てないなと感じる。顔が赤くなっているのを隠すためにも今日はもう退散しようと決める。
「また、明日来るから」
「うむ、待っているぞ」
初めて再来を期待された。それは日和にとっては小さな変化かもしれないがスバルにとってはとても大きなことだった。途端に気持ちが弾む。今日は良い夢が見れるかもしれない。なんてことを考えながら帰路に立つのであった。
少なくともこのときはまだ、スバルは知らない。『また明日』その約束が果たせなくなることを。
※※
スバルは自室にいた。今日は学校の帰りに楓の家に寄り、無事手紙を届けたことと伝言を伝えたことを楓の祖父、利秀に報告をしに行った。楓には色々と助けてもらったので今度ケーキを食べに行く約束をした。そして『小春日和』で団子を買って帰ってきた。日和と共に食べようという魂胆だ。食べ物で釣るというのは生物共通のコミュニケーション技術である。それを昔から知っていたスバルには手懐けられない近所の犬はいなかった。時刻は19時前、そろそろ日和の元へ向かってもいいかもしれない。たまには格好つけた服装で行ってみようか、なんて考えつつ準備を始める。
結局変に格好つけてもセンス×がセンス××になるだけで、悪い方への相乗効果しか見込めない。自転車を漕ぎながらスバルはシュミレーションを重ねる。どうやったら日和から一本取れるか。どう頑張っても結局日和を出し抜くことは出来ず、ケラケラと笑われてしまう末路しか見えない。がっくり肩を落としながらも、まあ今日は二人で団子でも食べられればいいや。という結論に至る。住宅街を走っていると向こうに人の集団、のようなものが見える。"のようなもの"と称したのはその集団が皆黒いローブのようなものを纏っており不明瞭な存在だったからだ。住宅街の道路は広くない。左右は存在する家の塀によって囲まれているため大型の車、トラックなどが前後から来れば通り抜けは厳しいだろう。目の前の集団も10人ほどであるが道を塞ぐには十分な数だった。スバルは自転車の速度を緩め集団の3メートル程手前で止める。
「あのー、すいませんそこ通りたいんですけどー」
声をかけるがざわざわと集団が揺れるだけで道は開かない。なんだこいつら。と不信感を抱くには少し遅かった。
「忠告したはずだ。桜神の元にはもう行くなと」
集団の中でも体格の大きい黒ローブから声が発せられる。どこかで聞いたことのある声、言われたことのあるセリフ。スバルは記憶を遡る。
「お前は、黒岩 聖仁……か?」
スバルの投げかけた声に聖仁だと思われる黒ローブは答えない。そして一人、木の枝のようなものを持った黒ローブが前に出る。何かぼそぼそと呟いているが良く聞こえない。そして他の黒ローブたちもじりじりとスバルと距離を詰めてくる。何が起こっているかはわからないが異常な状況だということは理解が出来た。自転車は初速が遅い。自転車を捨てて逃げるべきなのかと思案していると後ろから声が聞こえてくる。その声はやけに野太い声ばかりで、違う意味で危ない集団が来たのか、スバルは危機を感じるがその中に聞き覚えのある声が聞こえた。
「あれ、スバルじゃないか。楓ちゃんの家にお泊りじゃなかったのか」
この状況を見ても平然と軽口の叩ける男、松山 謙次だった。謙次は作業着を着ており、肩にはタオルがかかっている。父親の仕事の帰りなのか後ろにもぞろぞろと同業者らしき集団が歩いてくる。二つの集団がスバルを起点にいがみ合う。黒ローブの集団はざわざわとどよめいており、大工集団の到来に驚いているようだ。
「俺、もしかしてピンチに参上しちゃった?」
「たぶんな、今までで一番お前が頼りに見えるよ」
大工集団は雰囲気で察していたのかすでに臨戦態勢を整えている。枝を持つ黒ローブ以外は後ずさりを始めている。そして枝を持つ黒ローブの声が次第に大きくなっていく。パキンッ、という音と共に黒ローブが枝を割る。そしていきなりぐったりと隣にいた黒ローブに倒れこむ。その刹那、スバルの頭の中にもパキンッという何かが割れる音が聞こえ痛みと共に視界がぐにゃりと歪む。立っていることすら困難になったようでスバルは支えていた自転車を手放し倒れこんでしまう。そして意識が途絶える前に聞こえたのは聖仁と思われる男の声『お前の所為で桜神は弱っている。お前はもう行ってはならない』謙次の声も聞こえた気がしたが、それはもうスバルの耳には届かなかった。
※※
目を覚ましたスバルの目に映ったのは自室の天井だった。暗くてあたりが確認できないが確かに何年も見慣れた自分の部屋の天井である。自分で移動した記憶がないということは謙次あたりが運んでくれたのだろう。起き上がろうとするが頭痛が酷い。身体もだるく、フルマラソンでも走って来たかのような負荷が体にかかっている気がする。身体は痛むが一刻も早く時間が確認したかった。『また明日』と言ったのだ。待っていると言われたのだ。その約束だけはどうしても果たしたかった。携帯を探す。必死の思いで上半身を起こし、小机に置かれた携帯の時間を確認する。時刻は3時。……すーっと体から力が抜ける。ぱふんとベッドに迎え入れられ、沈んでいく。約束をしたらこのざまだ。少しでも心を開かれたらこのありようだ。虚無感が体を支配する。もう一度眠ろうとしたとき、自室の扉の開く音がした。だがスバルは体の所為か心の所為か目を開けることすら億劫になっていた。その足音はスバルのベッドの横で止まり、スバルの手に柔らかな感触が伝わる。
「スバル君、起きてるでしょ。解っちゃうよ、幼馴染だから」
手を弱弱しく握り返し、返事をする。言葉を交わすには少し力が足りない。気力を失った体は強く休息を促す。
「小学校の頃、スバル君がうちに泊りに来るといつもこうやってたんだ。起きてるでしょって。そういうとスバル君は絶対に『寝てる』って言うんだよね」
そんなこともあったかもしれない。起きていると楓が笑うから。大体楓の家にいるときは寝不足になった。
「最近スバル君がなんだか遠くに行っちゃってるみたいで。凄く怖かったんだ。うちにきてもおじいちゃんとばっかり話すしね」
確かに、最近必死に四方八方大忙しだったからか楓とのんびり過ごすことが少なくなっていた。
「スバル君は大変なことがあっても絶対に私を巻き込むことはしないよね。それは凄く嬉しいけど。でも少し寂しいよ」
「お医者さんなんて言ってたと思う。過労だって。しかも急に負荷がかかった形跡があるって。命に別状はないって言ってたけどスバル君がこのまま起きなかったらどうしようって。ケーキ食べに行くって約束したのに。って」
楓の声は徐々に弱弱しくなっていく。スバルの身体も限界が近づいていた。何にせよ、それを保つ意志はなかった。
「スバル君と私の約束だから。大切な人との約束だから」
スバルの意識は遠のいてく。約束は大事だ。でも自分は破ってしまった。だからもういい、疲れた。この荒々しい睡魔の波に流されて、今は眠ろう。
――ぼんやりとした世界が広がる。ここはどこだろうか。大きな木が見える。あれは桜の木だ、知っている。日和という憎たらしいいたずら好きの少女が宿っている。そんな木だ。たぶんこれは夢だ。夢でくらい日和の元へ向かおうとしたのだろうか。だったら幸せな夢を見たい。笑顔の日和の姿が見たい。だがどうだろうか。桜の木の下に少女が見える。ぼんやりしてるためよくは見えない。だが聞こえる。泣いている、泣いているのだ。なぜこんな悲しい夢を見せるのだろうか。あの子が悲しいとスバルもとても悲しい気持ちになる。自分はあの子の元へ行かなければならない。
再び意識が戻ったとき、当たりはまた暗かった。楓はスバルのベッドに腰を掛け瞳を閉じている。起き上がり携帯を見る。身体は昨日とさほど変わらず悲鳴をあげている。デジタル時計には20時と記されている。日中はずっと寝ていたようだ。スバルは楓の横を静かに抜け部屋を出ようとする。行かなければならない。あんな夢を見せられたのだ。何が何でも行かなければならない。約束を破ったら謝るのが筋というものだ。スバルは謝りに行かなければいけない。
「スバル……君? どこに行くの?」
楓は起きていたようで、スバルの足を止める。
「……約束、したんだ。ちっぽけなものだけど、大切な約束なんだ。俺はそれを破っちゃった。だから、行かないと……」
「……そっか」
楓はそのあと一呼吸置く。
「スバル君のおじいちゃんとおばあちゃんは私が何とかするから。スバル君は行って」
「……楓」
「私はね、幼馴染だから。スバル君が言っても聞かないってことくらいわかってるよ?」
楓は笑う。自分が楓の立場だったら心配するにきまっている。それでも笑って見送ろうとする楓にスバルは何も言えない。そして楓に先導され外に出る。
「じゃあ、絶対帰ってくること。約束だよ?」
「ああ、約束だ」
そしてスバルは自転車に乗る。気力勝負だ、諦めたら辿り着けない――。覚悟と共に、ペダルを力いっぱい踏み込んだ。
※※
自転車は駐輪場の茂みに置いてきた。自転車の鍵を閉めスタンドをする余裕はスバルにはなかった。一刻も早く日和の元へ向かいたかったから。勇む心とは裏腹に身体はやはり言うことを聞いてくれない。歩みは遅い、だが着実に前へ進む。ログハウス型の公衆便所の前をこんなにゆっくり歩いたことはなかった。電燈に集まる羽虫が立てる音を感じることなどなかった。遊歩道は相変わらず何もない。だが何もないことが決して悪いことではないと感じさせる静寂があった。この道を何度歩いたことだろう。最初はただ迷い込んだだけだった。寂しくなって飛び出して、苦しくなって逃げ出して。ここを見つけた。遊歩道までは人がいるが、小丘のある芝生には大抵人はいなかった。そこに一本の木があって自分と同じだと思った。この木も一人なのかなと。そう思うと自然に気が緩んだ、ここでは強がらなくてもいいのだと。だからここが好きになった。スバルは遊歩道を超え小丘を登って行く。桜の木の下に辿り着いた時にはもう地面に座り込んでしまっていた。。桜を背もたれに息を整える。体中の痛みは増す一方で、だがここまで来たスバルがそれに屈することはない。日和の姿は見当たらない。拗ねてしまっているのだろうか。だがどこからか音が聞こえる。ちょうど後ろから。桜を挟んで後ろから。
「何をしに来た」
日和の声だ。日和の声がした。
「ここはわたしの庭だ。ここに来るまでの間にお主の体調がおかしいと言うのは分かっておった。何故立ってられない程に疲弊しているにも関わらずわたしの元へ現れた!」
日和は怒っている。日和の怒鳴り声は良く聞くが、その声を聴くと何故か安心する。そしてスバルの周りには何故か心地良いそよ風が漂っている。こんなことを出来るのは一人しかいないだろう。怒っていてもこちらを気遣ってくれているあたりがスバルには愛おしく思えた。
「不調を押してくる必要などないだろう。明日だって、その次の夜だってあった筈だ。そんなお前を見てわたしが喜ぶと思うか?」
「夢を見たんだ、誰かが泣いてる。それ見たら急に日和に会いたくなった。日和が悲しんでいる気がして、いてもたってもいられなくなったんだ」
途切れ途切れに語るスバルに日和は呆れたようで嘆息をもらす。
「お前の阿呆加減には呆れたわ……だが、それがお主の良い所なのだろう」
姿が見えなくともスバルには見えた。日和が笑ってくれている。それだけでもう、スバルの心に活力が湧く。
「……ん?」
日和は何かに気づいたようで、先ほどから流れていたそよ風が止まる。
「お主、何をした? それはただの体の不調ではない。他人の災厄がお主に被らされておる」
「……なんかこう、枝が折れるパキッて音を聞いたら俺の頭の中でも何かが割れる音がして。そしたら俺……ぶっ倒れちゃって」
「……まさか。お主、黒い集団に出会ったか?」
「ああ、あったよ。変な奴らだった。日和が弱ってるって言うんだ。俺がお前に会いに行くから。お前は弱っているって」
日和は何も答えない。まさか、本当に弱っているのか。どこか悪いところがあるのだろうか。
「全て……わたしの責任だ。黒い奴らはわたしを勝手に崇拝している。昔にもおった。バカな奴らだ」
「ここ何十年と私の元へ現れないので忘れておったが、つい最近また現れるようなった。どうやらあの中に私が見えるものがおるようでな」
「奴らは私の弱体化を危惧していた。それが偶然お主が来るようになってから重なるように始まったから、見当違いをしてお主の元へ現れたのだ」
「あやつらは妙なまじないを使う。お前の不調もそれが原因だろう」
「日和の所為じゃない。俺が勝手にバカをやって勝手に引っかかったんだ」
「それより……日和が弱ってるって本当なのか?」
それが一番知りたかった。自分の体調などどうでもいい。予兆はあった、眠るのが早まっていったのだって冷静に考えればそういうことだったのかもしれない。
「もう、隠し立ては出来ぬな」
そう言うと、日和はスバルの前へ現れる。
「……日和、おまえ……!」
いつも通り日和は美しかった。まるで、月の淡い光でも溶けて消えてしまいそうなほどの儚さを携えて。だがその美しさよりもスバルの目には信じられないものが映っていた。日和の体が半透明に透けているのだ。
「元々この木は限界が近かった。私がたくさん無理をさせてしまったからな」
日和は桜を愛おしそうに見上げる。
「他に憑代のない私はこの木と一心同体。この木が弱れば私も弱る。この木が枯れれば私も消える。それは当たり前のことだろう?」
「そんなことって……俺たちは知り合ったばかりじゃないか! 俺の所為なのか!俺が日和の傍にいたから……!」
スバルは痛みを忘れて吠えるように叫ぶ。
「スバルの所為ではない。この木はもう朽ちる。それを私が無理やり引き延ばしてきただけだ」
「それに、ずっと傍にいたではないか。わたしはお主をずっと見てきた。泣き虫だったころからな」
日和が俺を見てきた――?。スバルは気づく。ここには優しさが溢れている気がした。誰もいないのに何故だろうと思った。だがそんなことはなかった。ずっとそばにいたのだ。
「だがお主はもう一人ではない筈だ。私の心残りを解消してくれるまでに成長した。もうここに来る必要はないだろう」
「そんなの、そんなのずるいじゃないか……。俺は、じゃあ俺はどうすればいいんだよ! 日和が消えたら……意味がないじゃないか!」
せっかく日和と知り合えて。距離が縮まって。実は昔から傍にいてくれたことがわかって。なのに、別れなければ行けない。必ず別れは訪れる。
「お主が私の心残りを解消してくれたから。私はもう一度花を咲かせたいと思った。お主にこの桜を見てもらいたいと思った。だからお主に御願いがある。桜を咲かす儀式を手伝ってほしい。この木は花を咲かす準備が出来てないのでな。荒療法が必要なんだ。花が咲けばお前の不調黒い奴らの頭の中も春の陽気のようにポカンと消し去ることができよう」
「なに、儀式と言っても簡単だ。この桜の下で、私に口づけをしてくれればいい。桜は愛を持って花を為す。淡く染めあがる桜色は、桜が抱いた愛の色」
スバルは応えられない。何も言わずとも日和は消えてしまうという。だがここで日和と口づけを交わして。もっと愛おしくなってしまっても。日和はどこにもいない。
「どうかわかってほしい。愛しい人へ花を見せたいという桜の想いと。花は散るから美しいということを」
「……ひとつだけ、条件がある」
「なんだ?」
「俺は日和がいなくなることを認めない。俺には何もできなくて。日和と一緒にいる方法が見つからない。だけど、認めたくない。だからさよならじゃない。また明日、だ」
スバルは小さく、だが決意の籠った声で日和に告げる。交わした言葉は少なかったがスバルは日和を忘れないだろう。その想いからの決断だった。
「そうか……わかった。じゃあ今からは辛気臭いのは無しだ。お主は私の唇を奪う。さしずめ桜の恋人と言ったところだろう」
「……日和は俺の事、好きなのか?」
「馬鹿言え。そういうことは乙女に聞くものではない。"あなた様"」
「そ、それはやめてくれ。おでこが痛くなる……」
「なんだと、失敬な。まあよい。今だけは許してやる」
笑う日和はどこからか酒瓶を取り出しスバルと日和の周りに円を描く様に流す。そして残った酒をスバルへ渡す。
「さあこれで口を漱げ。一応神聖な儀式なんでな」
スバルは手で酒を受け、それで口を漱ぐ。酒は苦い。この苦味を好むころには自分も成長しているのだろうか。そしてそこにはやはり日和はいないのだ。だが振り払う。酒の苦みと共に忘れる。スバルがここで悲しめば、日和も悲しむだろう。そんなことはしたくなかった。
「わたしは、その。初めてなんでな。手柔らかに頼む」
日和は心なしか頬を上気させ、スバルを見つめる。夜空は雲一つなく、月は輝き。儀式は段階を踏んだのか桜の木も徐々に光を帯びている。そして日和は目を瞑る。ここで口づけを交わすことをスバルは絶対に忘れないだろう。日和に逢えなくなろうとも、春が来れば風が思い出させるだろう。スバルは日和の肩に手を置き、日和を見つめる。日和は美しい。幾度も思ったことだ。だが決して口には出さなかった。そして口づけを交わす。永遠とも思える刹那をスバルは体験する。そして桜は光り、日和も光の残滓を振りまきながら少しずつ消えていく。フラッシュのような輝きにスバルは目が眩む。光が収まったそこには、この世のものとは思えない程美しく咲く、枝垂れ桜の姿があった。
「桜、綺麗だな」
満開に咲く桜は風に乗り、花の雨を降らす。花は淡く、優しく色づいて。この光景に心を奪われない者はいないだろう。
「それが一番の褒め言葉だ」
消えゆく姿で微笑んでいる日和の姿を、スバルは目に焼き付ける。
「俺は日和を絶対忘れない」
「こんなに美しい桜なのだ。忘れてもらっては困る」
最後までいたずらに笑う日和に、スバルも笑ってしまう。気が付けば体の痛みも消えている。黒づくめの集団も桜のこのなどきれいさっぱり忘れているのだろう。
「じゃあわたしは行く」
自分の限界を察したのか日和はスバルに告げる。
「また明日。お主に逢えて良かった」
「ああ、また明日。俺も日和と出会えて本当に良かった」
日和は消える。跡形もなく。桜も急激に萎れ、最後に残ったのは舞い落ちた花弁とスバルだけだった。
※※
あれからどれくらいたったのだろうか。スバルは久しぶりに綾道に帰ってきた。家で花見をやるから来いと言う楓の電話に押し切られ、久しぶりにこの町に戻ってきた。どこもあまり変わっていないようで。久々に色々な場所を回っていたがどうしてもあの公園には行けなかった。あの後桜はちょっとしたニュースになった。今まで咲かなかった桜の下に花弁だけが大量に落ちているのだ。そしてまた専門家に調べられ、遂に枯れていることが判明し元々気味悪がっていた周りの住民は伐採することに反論はしなかった。スバルが見慣れた路地を懐かしみながら歩いていると携帯が鳴った。着信を見ると楓からである。
「もしもし、スバル君? もうみんな集まってるよー。おじいちゃんなんてもうお酒飲んじゃって大変なんだから」
「うん、わかった。もうすぐ着くから」
早く来てねーという声の後スバルは通話を終え、楓の家をめざし歩いてゆく。暖かい陽気が続いてる。また、春がやってきた。
スバルが楓の家につくころにはスバルの祖父や楓の祖父はもう顔を真っ赤にしており他にもがやがやと様々な人間が集まっていた。
「よお、スバル。ひさしぶりだな」
座敷の端で謙次が手をあげている。スバルは謙次の元へ向かい。その横の座席へ座る。
「謙次、その子は?」
謙次は小さな赤ん坊を抱いている。
「こいつか、聞いて驚け。楓ちゃんの子供だ」
「楓は毎月のように俺の家に現れるんだぞ。子供がいたらわかるさ」
謙次は相変わらずのようで、子供のような笑みを浮かべている。
「まあ察しはついてると思うけど、俺の子だ。嫁も見るか? たぶん台所だ」
「一年前の結婚式、俺がスピーチしたんだ。忘れるわけないだろ」
それもそうか、と笑う謙次にスバルも自然と笑ってしまう。
「それにしても楓ちゃんは綺麗になったよなあ。昔から綺麗だったけど、また一段とって感じだな」
「楓は昔からモテモテだからな。俺の傍にいるせいで誤解されて彼氏ができないらしいけど」
「お前、まだそんなこと言ってんの? そろそろわかってやれって、楓ちゃんの気持ちをさ」
「あいつがいつも言ってるだろ。幼馴染だからって。そういうことだよ」
「スバル君、もう来てたんだ。行ってくれればいいのに」
後ろから楓の声がする。お膳の上になにやら料理を乗せやってきた。
「おう、楓ちゃん。美味そうだねーそれ」
「桜餅だよ。せっかくのお花見だしね」
「そういえば楓、花見のメインの花はどこなんだ?」
「縁側に出れば見れるよ。うちの桜、綺麗なんだから」
楓に促されスバルと謙次は縁側に出る。すると小柄ながらも、しっかりと花が咲いた桜が見える。
「枝垂れ桜、なんだな」
あの木と同じ、枝垂れ桜。
「ごめん、俺ちょっと」
スバルは楓たちを座敷に戻る。春になると思い出と共に切なさが湧きあがってしまう。座敷に戻ると顔が赤い楓の祖父。利秀がスバルに話しかけてきた。
「スバル君、知ってるかい。うちの桜はね、香代が植えた桜なんだ。枯れたり色々とあって三代目なんだが。やっと花を咲かせてくれたよ」
香代さんが植えた桜、そしてあの木と同じ枝垂れ桜。それが結びついた途端スバルは縁側へ駆ける。
「あれ、スバル。戻ってきやがった」
謙次の言葉など意を介さず、靴下のまま庭へ降りる。――この桜があの桜と同じなら、それならばもしかして。スバルは若い桜に手を当てる。だが桜はただ咲き誇るだけだ。わかっていた。そんなことはないと。スバルが縁側へ戻ろうとしたとき、後ろから一陣の風が吹いてきた。
その風はどこか優しく、甘い香りがした。
fin
桜の恋人
2013年3月 テーマ 【ツンデレ】の作品です。ご意見ご感想お待ちしております。