たとえば私に妖精が見えなかったら

小学校の頃、毎夜のように繰り返された父と母の喧嘩の時間、私は弟と一緒に二人の部屋に隠れて、二人だけの遊びをしていた。怒った父は怖かった。怒った母も怖かった。世の中すべてを憎んでいるような、怒鳴る時のあの表情や声から逃げて、暗い部屋の中で私と弟は空想の物語を話し合った。
階下から聞こえる父と母の罵声や叫び声をバックに、ひそひそと、時には笑い転げ、時には興奮で親の事などすっかり忘れている事もあった。
 弟は宇宙船やエイリアンが暴れまわるSFみたいなのを話した。宇宙船が未知の惑星に不時着し、船団のリーダー、エルムス船長が大活躍して危機を乗り越えていくシリーズものだ。弟の話はオチが効いていて、エルムス船長の下手糞な歌がエイリアンを撃退するシーンは爆笑ものだった。実際に弟が下手糞な歌を小声で歌い、それが見事に下手糞なものだから今思い出しても笑ってしまう。
 私は幻想的な、言ってみれば少女趣味な物語を弟に聞かせた。必ず妖精が登場した。妖精が貧困に苦しめられる村人を助けたり、現実世界に美しい妖精が現れて恋を結んだりする、そんな話だった。弟は時々茶化しながらも、時には感動して涙を流してくれたりもした。
 本当なら暗く苦しい時間を、私と弟はそうやって楽しく過ごしていた。その時間は、二人しか知らない、二人だけの、まったく別の世界だった。
結局、両親は離婚した。私が小学校三年生の頃から始まった不和が、中学二年生の頃に離婚という形で決着がついたのだった。弟は父に引き取られていった。二人の遊びはそこで終わった。
 お姉ちゃん、またお話しようね。泣きながらそう言い残し、父に連れられて別れた弟はその時小学六年生だった。私も泣きながら約束した。
それ以来二度ほど会ったけれど、約束はまだ果たされていない。


私、妖精が見えるの。って言ったら、みんな変な顔をする。不思議ちゃんじゃないんだから、と言って苦笑する。
でも、本当に見えるんだ。たまにさ、洗面所で歯磨きしたりしてると、ふわふわって、妖精が飛んでくる。飛んでくるというより、空中を舞ってるって感じ。私の周りを舞いながら、元気?なんて話しかけてくる。
歯ブラシを動かしながら、元気だよって心の中で言うと、そりゃあ良かったって笑ったりする。ちゃんと歯磨けよ、なんてお節介焼いたりもする。
妖精はいろんな姿をしている。可愛らしい女の子が、ピンクのワンピース着て、背中に小さな羽根を生やしているようないかにもなのとか、木の枝に目玉が幾つも付いたような不気味なのとか、時計の短針と長針みたいなのがぐるぐる廻っているのとか。とにかくそんないろんなのが、時々ふわふわ舞ってくる。
 お風呂入ってる時に限ってやってくるスケベなのとか、勉強してる時にやってきて歌を歌って邪魔するのとか、寝てる時に添い寝してくるのもいる。
 そして妖精たちは、私が誰かと話しているとき、突然相手の頭上に現れる。それはずっと同じ妖精だったり、その相手に会う度に変わったりする。真面目な話をしている時に、突然相手の頭の上をへんてこな形をした妖精がぐるぐる飛び回ったりすると、真面目な話も真面目に聞けないので困ってしまうこともある。
 彼らは幼いときから私の周りに居た。物心ついた時にはすでにあちこちにいたから、私が覚えてないだけで生まれた時からいたのかもしれない。
 私は大学生になって、もう二十二歳になった。妖精はまだいる。どこにでもいる。妖精が見えない人は彼らを、また私を否定するけれど、私には妖精が見えるのだ。


 ねえ、楽しい?
 友達二人とファミレスで談笑していたら、妖精が私に話しかけてきた。掌ぐらいある真っ青な花びらみたいな姿をしていて、空中でダンスを踊っている。
 じっとその妖精を見ていた私を怪訝に思ったのか、愛子が私の目の前で手を振った。
「おうい。どうしたの。また妖精でもいるのかなあ?」
「うん。ほら、いま愛子の上で踊ってる」
 愛子が上を見上げると、花びら妖精はふわっとテーブルのオムライスの上へ降りた。愛子が苦笑した。
「やっぱり見えないよ」
「あ、オムライスに乗ってる。ほら」
「あ、そ」
 千佳が私の言葉を遮って、煙草に火をつける。今日の千佳は機嫌が悪かった。千佳の吐いた煙に花びら妖精が乗り、私の目の前で一回転し、お辞儀した。
 ねえ楽しい?
 楽しいよ。
 花びら妖精は悲しそうに、そう、と言って消えた。
 千佳と愛子は話を再開し、私はオムライスの妖精が乗っていた部分をスプーンですくって食べた。ちょっと美味しくなった気がする。
 顔を上げると、千佳の煙草の上に達磨みたいなのがあぐらかいて座っていた。
 ねえ、何してるの?
 なんもしとらん。ただ座っとる。お前は何してる?
 ご飯食べてる。
 食べ過ぎると太るぞ。
 余計なお世話。
 千佳の煙草が灰皿に押し付けられて、達磨は消えた。
 ふと愛子の方を見ると、愛子の鼻の穴から靴下みたいなのが顔を出してる。思わず笑い出しそうになった。
 ねえ、愛子の鼻で何してるの?
 思い出しているのさ。
 何を思い出しているの?
 いろいろさ。
 ふうん。愛子の鼻は居心地が良い?
 ちょっと鼻毛が多くて困るね。
 ぷっと吹き出してしまい、二人がまた怪訝そうな顔で私を見た。千佳が皮肉っぽく言う。
「何?妖精さんとお話でもしてたの?」
「思い出し笑い。愛子、鼻毛が見えてるよ」
「え?」
 愛子は慌てて手鏡を取り出し、鼻毛を入念にチェックする。また笑ってしまい、愛子は酷い、とふくれる。
 千佳が新しく火をつけた煙草にまた達磨が座っていた。達磨に話しかけようとした時、千佳が突然身を乗り出して、私をじっと見た。
「ねえ、妖精ばっかりじゃなくて、私たちとも話そうよ」
 責めるような口調だった。私は慌て、ごめん、と言って俯いた。
「妖精かなんだかしらないけど、腹立つのよ。見てて」
「そんなふうに言わなくても」と愛子が鼻毛を抜きながら言った。
 私は俯いたまま、千佳の煙草の上で座ったままくるくると廻り始めた達磨を上目遣いで見ていた。なんだか妙に気になっていたのだ。千佳はそれに気付いたのか、煙草を灰皿の中で乱暴に揉み消し、私を直視した。
「あんたね、だから友達も少ないし彼氏もできないのよ。ちょっと直しなよ」
 私はムッとなった。つい、頭で考えるより先に、言葉が出てしまった。
「友達いるし、彼氏だって」
「あんたね、あんなの、一週間で、」
「ちょっと」
 愛子が千佳を止めた。千佳は不機嫌そうな顔で椅子にもたれ、ごめん生理なのよ、と言って黙った。愛子も黙った。私も黙った。
 オムライスを食べようとすると、花びら妖精が踊っていた。一人で楽しそうにケチャップの上を滑っている。
ねえ、楽しい?
花びら妖精が聞いてきた。
 スプーンでケチャップをぐちゃぐちゃに混ぜると、花びら妖精は音も無く消えた。


弟から久しぶりにメールが来た。
『姉ちゃん元気してる?今度の日曜日、用事でそっち寄るんだけど、会えたらまた飯でも食いに行かない?』
『ごめん、その日はちょっと無理。卒論の追い込みかけなきゃいけないの。だから当分余裕は無いかも』
『そう。分かった。また機会があったら連絡するよ』
『ごめんね』
 携帯を閉じ、少し後悔する。二、三時間、無理にでも空けたら良かったかな。ちょっと会って話がしたかなったな。
父に連れられて地方に行った弟は中学で熱心に勉強しながら卒業したあと、公立高校に入って猛烈にアルバイトをしてお金を貯め、さらに猛烈に勉強して国立大学の経済学部へ入学した。弟の根気は凄まじいものだった。
自分の学費は払ってくれなくて良いから、私を大学に行かせてくれるよう父を説得し、さらに学費を全額出させてくれるよういったのは弟だった。彼は私の為に高校時代をバイトに費やし、なるべく学費のかからない国立大学へ行ったと言っても言いすぎじゃなかった。
弟が大学の話を持ち出したとき、私は行くつもりはないと言った。しかし弟は、これからは女の人も大学出てないといけない、と引き下がらなかった。学費は親父を説得する。姉ちゃんは心配しなくていい。俺の分は自分で稼ぐ。
「そんなにしなくていいよ。私は大丈夫だよ」
 そう言っても、弟は頑として首を縦に振らない。
「いいから俺に頼ってくれよ。姉ちゃんは俺に頼ってれば良い」
 なんていう顔から火が出そうな事をいつも言って、半ば無理やりに私を助けてきてくれた。
 お節介のようでも、嬉しくて、涙を流して、感謝した。泣くほどの事はしてないよ。弟は照れくさそうに、でも誇らしげに電話越しに言っていた。
 全身毛むくじゃらの雪男みたいな妖精が宙を舞うように泳いでいる。雪男はゆっくり私の方へ降りてきて、私を指差して笑った。
 あれ?泣いているのかい?
 泣いてないよ。
 寂しいんだね。
……寂しい。
 雪男はけらけら笑って消えた。なんだい。
 じめじめしてても仕方が無い。机に向かい、パソコンの電源を入れて論文にかかる。
 しばらくして母が帰ってきた。
「お帰り」
「ただいま」
母との会話は、いつもこれで終わる。工場でパートをしている母の夕食は私が作る事になっているから、私は無言のままスープとオムレツと、サラダを作って無言のままテレビを見ている母に出す。ありがと、と言い、無感想のまま食べだす。
 母が帰ってくると、家の空気が濁ってしまうような気がする。テレビの音で論文に出来なくなってしまい、ちょっと出かけてくると言って家を出た。
 喫茶店へ行って論文を書き、きりのいいところまで進めたらもう夜になっていた。
 私が何かに集中しているとき、妖精は顔を出さない。遠慮してくれているかというと、そうでもないような気がする。どちらかと言えば相手にされないから引っ込んでいるだけのようだ。
 自転車で家に帰る途中、母のいる家に帰りたくなくなって公園に寄り道した。ひっそりと静かな夜の公園のあちこちに、妖精がいた。
 夜の妖精は不思議なのが多い。
 ベンチに座っていると深緑の海草みたいなのが寄ってきて、隣に座る。良く見ると身体の色が虹のよう鮮やかで、身体の形が留まることなくずっと変わっている。座っているだけなのに、慌しく動き続けているように見える。
 噴水の周りには眼に見えないぐらいの速さでぐるぐると回っているのがいる。その下で宝石の塊みたいにキラキラしたのが手を生やしたり足を生やしたりしている。樹の幹には、ペットボトルのような形をした灰色のものがびっしりと張り付いている。
 ついでに言うと、夜の妖精は無口なのが多い。
 話しかけても言葉を返してくれるのは少ない。きっと寝ているのだと思う。
 ベンチに座って、じっと空を見つめていた。夜空に浮かぶ星や雲も、もしかしたら妖精だったりして。
 私がにい、と笑うと、隣の海草がぴくっと反応した。
 なんだ、起きて私の顔を見てたのか。助平妖精め。
 そっと隣の海草妖精に手を伸ばした。妖精に触れることは出来ない。これまで触ろうとしても妖精がさっと避けてしまうか、消えてしまう。触られるのが嫌いなのか、触られると何かまずいのかわからないけれど、ずっと彼らに触れることが出来なかった。
 案の定、私の指が海草妖精に触れる寸前、彼はさっとベンチから降りて噴水の方へのそのそと歩いていった。
 私が、危ない、と思ったときには、さっきから噴水の周りをすごい速さで回っていた妖精とぶつかり、海草妖精は噴水の中に飛ばされた。
 公園の妖精たちが一斉に噴水の方を見た。私にはそう感じた。噴水をぐるぐる回っていたのが噴水の池に飛び込み、公園は一瞬だけしんと静まり返った。
 どうなったのかと思い噴水の傍に行こうと腰を上げたとき、噴水塔から吹き出される水が突然、七色に輝いた。宙に吐き出され、瞬く間に色を変えながら落ちる水のカーテンはまるでオーロラだった。
 あたりの妖精たちが歓声を上げた。おおう、とか、うおお、とかいったどよめきが、公園中に鳴った。
「すごい」
 声を漏らしてベンチに腰を下ろしたとき、オーロラはもう消えていた。妖精たちも静まり返って、海草妖精は池に浮かび、噴水の周りをぐるぐると回っていた妖精は同じように回っていた。何事もなかったように公園は夜をしていた。
 自転車に乗って家に向かった。すごかった。と誰かに言いたくて、弟の顔を思い浮かべた。弟に話そうと、一人興奮しながら自転車のペダルを蹴った。


 論文の事をゼミの教授に相談し、学食でうどんをすすっていた。ここのうどん、安いしなかなかいける。
うどんをすくう箸の上で、キャラメル色の小人がシャドウボクシングをしているみたいに動き回っている。動き回りながら、うどんを食べている私を羨ましそうに見上げている。
 うどん、うまいの?
 うまいよ。
 まじで?
 まじ。
向かいの席に誰かが座った。顔を上げると、千佳だった。この前少し険悪な雰囲気になってから会ってなかったけど、千佳は気にする風もなく煙草に火をつけ、突然切り出した。
「愛子が妊娠したって」
「え?」
「一ヶ月だってさ」
 妊娠ってなんだ?
 電池が訊ねる。
 赤ちゃんが、出来たのよ。
 赤ちゃんてなんだ?
 子供の事。
 子供ってなんだ?
「恵子?何ボーっとしてるの」
「大丈夫。ちょっとびっくりしちゃって」
「ほんとね」
「結婚するのかな」
「堕ろすんだって」
「そんな」
「そう聞いた」
「……」
「それだけ。あとは愛子に聞いて」
 そう言って千佳は席を立ち、食堂から出て行った。
 頭の中が真っ白になった。
 小人が箸の上で暴れまわって、おい、おい、と呼びかけてくる。
 おい、子供ってなんだよ?
 子供って、なんなんだろう。
 お前もわかんねえのか?
 判らない。
 へへ、一緒だな。
 そうね。
 うどんうまい?
 まずい。
 まじで?
 まじ。
 愛子に会わなきゃ。会って説得しなきゃ。子供を殺しちゃ駄目だ。
うどんを食べ残し、愛子にメールを入れた。愛子は教授の研究室にいるらしかった。私の嫌いな、男の教授だ。
愛子は研究室でコーヒーを飲みながら、数人の生徒と一緒に教授と談笑していた。教授は、やあ、なんて格好つけて挨拶し、後輩らしい男たちが軽く会釈した。
「どうしたの恵子?慌てちゃって」
 愛子の鼻には相変わらず靴下のような妖精がいた。どうしたんだい?そんなに慌てて?と心配げな顔をしてくれている。
 私は愛子に駆け寄り、彼女にしがみ付くようにして、子供を殺しちゃ駄目、と言った。
 研究室の空気がざらついた。教授は変な顔で私をみつめ、後輩の男子たちは何がなにやら分からず戸惑っていた。でも一番戸惑っていたのは愛子だった。私はもう一度、子供を殺しちゃ駄目、と言った。
「千佳から聞いたの。お願い、堕ろさないで」
「な、なに言ってるのよ。なんの話よ」
 愛子は立ち上がって、しがみ付く私を押し退けた。私はよろめいて、壁に背をぶつけた。
「訳分かんない話しないでよ。迷惑」
「妊娠、したんじゃないの?」
「なんの話よ」
「赤ちゃんできたんでしょ」
「もうしつこい。出て行って」
「だって千佳から聞いたよ。真剣に話してた。嘘であんなこと言わないよ」
 愛子は舌打ちした。
「したわよ。堕ろすつもりよ。だってそれであんな奴と結婚しろっていうの?あんたに指図されたくない」
「子供を殺しちゃ駄目だよ」
「あんただってヤリ逃げされた男の子供堕ろしたじゃない。あんたが言える立場?」
 愛子の鼻の妖精が、悲しそうな表情でゆっくりと引っ込んだ。
「ああムカつく。腹立つ。あんた達、誰にも言わないでよ。傷が付いちゃう。もし言ったらどうなるか分かってる?わたしヤクザと知り合いなんだからね」
 睨まれた男子たちは一言も無く頷いた。さっきから怯えて震えていた。
「ま、まあ、まあ。落ち着いて。愛子君も、それから恵子君かな?これは愛子君の問題だし、もう少し落ち着いて話し合わないと。ははは。生まれてくる子供を殺すのは確かに問題かもしれないけれど、望まれない子供はもっと可哀相な事になるかもしれない。うん。いろんな立場というものがあるからね。うんうん。まあそれにそんなに感情的にならずにね。ね。」
 教授の頭の上を飛ぶ二つ首のアヒルみたいなのが教授を指差しながら、こいつ馬鹿だぜ、と声をそろえて言った。
「早く出てって。邪魔」
 愛子は私に背を向け、コーヒーをがぶがぶ喉へ流し込んだ。
 私は立ち上がり、研究室を出た。
 拭っても拭っても涙が止まらず、顔をびしゃびしゃにしながら、家に帰って大泣きした。  帰ってきた母は泣き続ける私を見て、再び家を出て行った。きっと私の知らない男の家に泊まってくるのだろう。
 その日は一人、朝まで涙を流し続けた。


『またこっちに来れない?少し話がしたいんだけど』
 弟にこのメールを送ろうかどうか迷ってる。
弟は大学に入っても猛烈に勉強を続け、アルバイトも連日のようにこなしている。忙しいのだ。私から用事を持ち込むのが申し訳なく感じる。弟の事だからきっと無理をしてでも来てくれるだろうけど、彼の予定を狂わすことは出来る限りしたくない。
結局送れずに、消去した。
少しは一人で頑張らないといけない。
 何言ってるんだ。俺がいるじゃないか。
 話しかけてきた妖精の姿を見て笑ってしまった。弟の物語の、あのエルムス船長そっくりの姿をしていたのだ。
 何かあったら俺に任せな。
 ええ、ありがとう。
 俺は強いぜ。
 本当?
 ああ、最高にクールさ。


 少し前の話。大学二年生の時、人と出会った。バスケット部の男の人だった。
 ある講義でグループ研究があり、そこでたまたま隣の席に座っていたために同じグループになり、少し仲良くなった。グループ研究自体はあまり楽しいものでなかったが、彼と話すのは楽しかった。それが楽しみでもあった。
 友人として何度か彼と会っているうち、好意が芽生えてきた。好き、とは少し違うかもしれないけど、もっと彼の事が知りたくなった、と言ったほうがその時の気持ちに近いと思う。彼の方も私に好意を持ってくれているらしく、度々誘いのメールを送ってくれた。
 二人で食事に行ったり、彼の車でドライブしたりしているうち、彼の事が好きなった。少なくともあの頃は好きだった。
 私妖精が見えるんだ、と言うと、彼は、すごいじゃん、と素直に笑ってくれた。彼の周りには粘土の恐竜みたいなのがふわふわ舞っていた。
 彼は良い人?とその妖精に聞いても、まあいろいろあるんじゃないかな、と答えるだけで、他には何も喋ってくれなかった。
 彼と海に行ったとき、彼に告白された。私も好きです、と答え、そこでそのまま、初めてキスした。彼にとっては知らないが、私にとっては初めてのキスだった。あまりに緊張して固まってしまって、家に帰るまでかちこちのままで、妖精達に馬鹿にされたりした。
 その次の日、ホテルに行こうと誘われた。私は断った。早すぎると思った。彼は不服だったらしく、どうして、なんで、と私を追及した。それでも拒み続ける私に痺れを切らし、何もしないから、という約束でラブホテルに連れて行かれた。
 何もしない、なんて今から考えればまるっきり嘘で、私は半ば犯される形で、その夜処女を失った。
ごめん、つい。我慢できなかった。
精神的な痛みと肉体的な痛みで泣く私に、彼は頭を下げて謝った。
つい、ってなに。何もしないって、約束したじゃない。
本当にごめん。ちゃんと責任は取るから。
彼は私を抱きしめ、ごめん、と耳元で囁いた。
 こんな時、他の女の人ならどうするのだろうか。犯されるような初めてのセックスの相手に、責任を取る、なんて言われたら、その相手に頼る他なにか救いはあるだろうか。傷を抱えて一人で生きる自信のある人間に、私は程遠かった。彼に頼る他は無いと、彼を信じる信じない以前に、その選択肢しか浮かばなかった。
 彼は次の日から私に接する態度を変えた。どこかうやうやしくなったように感じた。私も今まで通りに接するのは難しかった。それでも、彼を信じると決めて少し気は楽になっていた。また時間が経てば、楽しくやっていけると思っていた。
二日後にもう一度会って遊び、それからさらに二日後、彼の家で別れようと言われた。
呆然とする私に、彼はまたごめんと謝った。
 どうして?
 まさか、あんなに嫌がると思ってなかったんだ。
 何を。
 寝ること。
 ――。
 ごめん、俺、君とは会わない気がするんだ。妖精とか、俺良く分からないし。深く入らないうちに、別れよう?
 粘土の恐竜が、いろいろあるだろ?と彼の頭上で呟いた。


 いつものように帰宅して、無言のまま私の作った夕食を食べていた母が、久しく聞いたことのない真剣な声で私を呼んだ。
 食卓を挟んで母の向かいに座ると、母はふう、と神経質な溜息を吐いて口を開いた。
「わたしね、今度結婚しようと思うのよ」
 特に驚かなかった。いつかこうなるだろうと予期していた事だった。
「へえ。いいんじゃない」
「あら、案外素直ね。反対されるかと思ってたわ」
「別に反対する理由は無いもの」
「そうね、そうかもね。あんた私のこと、気付いてた?」
「何を?」
「ううん、別に」
「もう食べたなら片付けるよ」
 食卓から母の食器を奪うように取って、乱暴な足取りで台所に持っていった。静かにしなさい、と母が溜息混じりに私を注意する。
無視しながら皿を洗っていると、排水口から黒い三輪車みたいのが這い出てきた。シンクの中を走り回り、飛び散る飛沫を上手く避けて踊っている。
 邪魔。
 腕を伸ばして三輪車を握り潰そうとすると、突然の攻撃に驚いたのか、三輪車はシンクの隅に逃げ込んで、じっと私を見上げている。私は無視して皿を洗う。
 三輪車は私の顔を窺うように前輪を左右させ、後ろの二輪でシンクの隅を軽く蹴り上げ空中へ浮かぶと、まるで天馬の翼のようにハンドルを大きく拡げ、台所を優雅に右往左往し始めた。
 もう、うるさいよ。静かにして。
 三輪車が再びシンクに帰ってきた時には、天馬の姿に変わっていた。真っ白い翼を自慢げに広げ、ファッションショーのトップモデルのように爪先立ちでシンクの中を闊歩し始めた。
 何?私に自慢してるの?悪いけど私そんな事じゃ羨ましがらないわよ。
 天馬は一声嘶き、さらに大きく拡げた翼で自分の身体を包み込み、ぐるぐると丸まっていったかと思うと、やがてそれは蚕の繭のようなものになった。
 こいつ変わってる、と感じた。夜の妖精は大抵進んで私に干渉してこない。こいつは私に自分を見せたがっているみたいだ。それとも何か言いたいのだろうか。
 繭になった妖精は、それからぴくりとも動かなくなった。疑問に思い、繭に手を伸ばした時、繭が喋った。
 お母さんに、おめでとうと言ってあげなよ。
 私はしばらく黙っていたが、何故か彼と会話がしたくなっている自分に気付いた。やっぱりこいつ、変わってる。
 ……言わないわ。言うもんか。
 どうして?
 あの人が誰と一緒になろうと、私には関係ないもの。
 嫌いなのかい?
 嫌い。
 お父さんと別れたからかい。
 それもあるわ。
 弟さんと離れ離れになったからかい。
 そうね、それが一番の理由。
 でも、君の人生がうまくいかないのは、お母さんのせいじゃない。
 そんな事、判ってる。
 おめでとう、と言ってあげなよ。
 言えないよ。
 言えるさ。
 卵の殻が割れるみたいな音を立てて、繭にヒビが入った。
割れちゃう。
慌てて繭を掴んだ瞬間、キン、という高い音と共に繭が掌の中で砕けた。
「きゃ」
「何?どうしたの?」
 声に驚いた母が、私の背中に声をかける。
「大丈夫?」
「ううん、なんでもない。ちょっとお皿を落としそうになったから」
 お皿やコップを水切り台に並べ、違和感を覚えて掌を広げて見ると、茶色い輪ゴムが一つ乗っかっていた。
 輪ゴムをズボンのポケットに入れ、自分の部屋に戻ろうとして思い止まり、テレビを見ていた母に、小さく、本当に小さく、おめでとう、と言った。
 母に聞こえたかどうか確かめず、走るように部屋に戻って、ベッドに倒れこんだ。
 母がいよいよ結婚する。私たち以外の家族を作る。想像はしていたことだったけれど、いざとなると何がなんだか分からなくなる。私はどうしよう。母についていくべきなのかな。自分独りで生活できるかな。それとも、何か他にあるかな。
机の周りを、時計の長針と短針みたいなのがいつもどおりせわしく舞い踊っている。ベッドの下には平べったい色の塊みたいなのが、ゆっくりとステップを踏んでいる。彼らは私にちっとも関心が無いみたいに、ただ黙々と自分の夜を過ごしている。
 ふと、さっきの繭みたいな妖精の声や喋り方が、弟そっくりだったと気が付いた。
 弟の顔を思い出した途端、無性に弟と会いたくなってきて、何も考えずにメールを送った。
『今度の日曜日、会おう』
 しばらくして、メールが帰ってきた。
『突然どうした姉ちゃん?大丈夫?日曜の夜九時ごろから終電ぐらいまでなら会えるよ。その時間にいけるかい?』
『うん、大丈夫。ありがとう』
 携帯を閉じ、布団の中に潜り込んだ。携帯が震える。弟から返信だ。
『礼なんかいいよ。俺も会いたかったから』
『ありがとう』
携帯がまた震えた。いや、違った。携帯を握る私の手が震えていたのだ。弟に会える。それが身体が震えるほど嬉しいのだ。


 二年前の夏、喫茶店でとある中編小説を読んでいた。ストーリーや設定は冷静に見れば大したものではなかったのだけれど、その時は面白くもないドラマを最後まで見てしまうように、ついつい読み続けてしまっていた。
容姿や生まれ育ちが完璧の主人公、でも彼女は性格が悪く、捻じ曲がっていた。彼女には弟がいた。弟は彼女が十七歳の時に生まれた腹違いの兄弟で、とても愛らしい男の子だった。男の子はやがて可愛い少年になり、美しい青年になり、非の打ち所が無いぐらいの男性となった。
嫉妬深い彼女は弟の美貌に嫉妬した。弟には愛情を一切見せず、あらゆる嫌がらせさえした。だが弟はまったくめげず、それどころか年を追うごとに魅力的になっていく。彼女の嫉妬はやがて恋に似てきていた。だが弟が二十歳になった時、彼女はもう三十七歳だった。徐々に美しさから遠ざかる彼女。弟は対照的に衰えを見せるどころか、まだまだこれからなのだ。彼女は異常なほど、弟に固執するようになる。嫉妬と、恋心の狭間で、彼女は心が乱れ始める。
私は文字を追うごとに熱中し、そして終盤のある件で、小説から目が離せなくなってしまった。だいたい、こんなふうに書かれていた。
『もうどうするべきか、どうすればこの悩みから解き放たれるのか、その事だけに私の全ての想いが注がれ、自分で自分がおかしくなっているのが熱くたぎる頭の中でぼんやりと浮かび、恐慌に震えながら、もうどうしようもないところまで追い詰められたとき、あるアイディアが浮かんだ。「アイディア」などという言葉を使ってしまった自分に、また震えた。弟を殺せばいい、殺して自分の物にしてしまえばいい、という陳腐な「アイディア」。
私はどうかしている。どうかしている、と自嘲しながら、悪魔的な魅力に溢れた「アイディア」は、何度も私を震わせた。この身震いは恐怖なのだろうか、それとも解決策が見つかって、喜んでいるのだろうか』
 彼女は「アイディア」を実行して弟を殺す。殺して、死体が腐るまで部屋に隠し、泣きながら懺悔し、死体をばれないよう、こっそりと庭に埋める。そして
『あなたの事が好きだったらしいの』
 と弟の墓に言い残して自害し、小説は終わる。
 私は固まっていた。弟を殺す、という選択肢が、現実的なものとして私に響いてきたのだ。そうか、と心中で頷いてしまい、冷静になって自分を激しく責めた。
 私は弟を憎んでなんかいない。憎むどころか頭が上がらないほど感謝しているじゃないか。殺すなんて、一体何を考えているんだ。一笑に付そうと思ったが、どうしても笑いが出てこなかった。
 私は弟に感謝している以上に、弟に想いを寄せすぎている。その想いは異性への想いに似ていた。いや、そのものだった。この時、晴天の霹靂のように、弟への想いが表象した。
 私は弟の事が、姉弟としてではなく、異性として、好きなのだ。今までもやもやしていた気持ちが、初めてしっかりとした言葉になった時、単純になった気持ちはその分重くなる。私は胸の鼓動が際限なく高まり続けるのを聞いた。想いの重圧によって、眩暈を覚え、本を閉じた。
 着信を知らせる携帯電話の音で、我に帰った。弟と待ち合わせしていた時間を、とうに過ぎてしまっていたのだった。慌てて通話ボタンを押すと、不機嫌な弟の声が私を咎めた。
「姉ちゃん、何してた?何度も電話したのに。俺もう帰るよ」
「ごめん。ちょっと待ってて。今すぐ行く」
 急いで席を立ち店を出ようとしたが、弟は冷たい声で、もう今日はやめよう、と言った。
「そろそろバイトの時間だし、もう駅まで来た。またにしよう」
「そう……。ごめん、忙しい時に。呼び出したのは私なのに」
「別にそれはいいけど、一体何してたの?」
 ずっと、あなたの事を考えてたの。
「姉ちゃん?」
「ううん。突然用事が出来ちゃって。ごめんね」
「いいよ。また暇が出来たら連絡するから。その時に会おう」
「……うん。気を付けて」
喫茶店を出て、家に帰ろうと思ったが足が動かず、目に付いた別の喫茶店に入った。レモンティーを頼んで窓側の席に座り、夕焼けに照らされ行き交う人々の列を眺めた。人々の頭上や肩の上、腕や足に、様々な形の妖精が付きまとっている。手を繋ぐカップルの頭上には、二人の妖精が睨み合ったり、抱き合ったり、中には殴り合っているにもいる。いつも通りの光景なのに、何故かいつもと違って見えた。
携帯の着信履歴に弟の名前がずらっと並んでいるのを見て、弟に『ごめん』というメールを送る。
送ってから、今日は弟に会わなくて良かったかもしれないと思った。彼が私のいる街に来るのに、お金を節約するため普通列車に乗るから片道三時間近くもかかる。私が行くと言っても弟は自分が行くと言って聞かないし、私が無断で行っても多忙な弟には会えないか、もし会えても不機嫌にさせるだけだろう。 
弟は今日帰ってすぐ夜勤のアルバイトがあるはずだ。それを考えるとますます気分が落ち込む。でも、今日は彼と会わなくて良かった。もし会えていても、彼の目を見ることなんて、とても出来そうにない。
子宮が痛みだした。吐き気が込み上げてきて、トイレに駆け込んで少し吐いた。時々お腹がぴくりぴくりと動くような気がするのだ。僕は順調に成長しているよ、と言っているようで、便器に腕をついたまま今度は涙が込み上げてきた。
 妊娠してしまったことを、弟に相談するつもりだった。当たり前だが、私を叱るだろうと思う。私は叱ってほしかった。叱ってもらって楽になりたかった。自分ひとりで自分の子供について悩んでいるのはおかしいと思いながら、一ヶ月前に分かれた彼氏にも話せず、友人にも話せず、結局弟しかいなかった。
 そんな風に弟を頼りにしておきながら、子供の事を忘れて、弟を殺すなんて考えて、彼との待ち合わせをすっぽかして、弟に対する恋心に愕然としている。まったく自分が情けなくて馬鹿馬鹿しくて、胸が割れそうなぐらい惨めだった。
 自分の吐瀉物が、ゆっくりと漂うようにトイレの水と交じり合っている。赤ん坊もこんなわけの分からないものだったら、吐いて、終わらせてしまえるのに。どうして子供はこんな簡単に命をもって、こんなわけの分からない世界で成長していこうとするの。どうして必死に生まれたがるの。きっと生まれないほうが良い。きっとそうだ。
 水を流すと、大量の水と一緒に嘔吐物が流されていく。ぐるぐると円を描いて、無色透明な水だけがそこに残った。
子供を殺して、こんなにさっぱりと何もかもが透き通るだろうか。下水管を通っていった嘔吐物は、消えてなくなるだろうか。
 違う、赤ん坊はこんな風に流されちゃいけないんだ。綺麗に何事も無かったように消されちゃいけないんだ。あなたは望まれることなく生を手に入れてしまったけど、あなたは望まれて生まれてこなくちゃならないんだ。
 私は顔を上げた。目の前で長い尻尾を巻いた空色の猫が澄み切った目で、私をぢっと睨んでいる。
 僕は何も言わないが、何でも言うことが出来るよ?
 私は猫を無視してトイレから出て、喫茶店を後にした。
 その時私は子供を生むことを決心していた。弟への恋心も押し殺すことにした。そう決意すると迷いが晴れて少し気が楽になった。
 でも子供は生まれなかった。弟への気持ちも殺される事はなかった。この時の決意はほんの気休めだった。精神論だけで子供を生むことは出来なかったし、弟への思いはそう簡単に我慢できるほどのものじゃなかった。
 私はそれから、弟を殺さずに、自分の子供を殺したのだった。


 文学概論の講義の最中、隣に千佳が座ってきた。千佳は私の顔を見ようともせず、黙ってノートを取りだし、そのまま講義を聴き始めた。
もう大分歳をとった男の教授は、熱心にジイドについて語っている。彼の頭上にはいつも細長い円筒のようなものが回転しながら舞っていて、時折身体を折り曲げたりしている。
 教授が講義を中断してプリントを配り始めたとき、隣の千佳がノートの端切れを私の方へ差し出してきた。そこには、「一粒の麦も地に落ちて死ななければ一粒のままであるが、地に落ちて死ねばやがて実を結ぶのよ!」と書かれていた。
「良い考え方よね」と千佳が小さく呟く。
 突然で千佳の真意が判らなかったが、言葉自体はいいものだと思っていたので、ええ、とだけ答えた。
「抜け出さない?」
「……何かあるの?」
「ちょっと話したいことがあるの。出ましょう」
 言うが早く千佳は立ち上がり、私も彼女を追って立ち上がった。
 二人で大学裏手にある中庭に行き、ベンチに座った。午前中の講義時間だったから、辺りに誰もおらずひっそりとしている。千佳がコーヒーを買ってきてくれたので、私はそれを飲みながらぼんやりと空を眺めた。もうじき寒くなる、冷ややかな秋の風が雲と共に流れていった。
「あんたまだ単位取らなきゃいけないの?」
 煙草に火をつけながら千佳が言った。その煙草の上にまたあの達磨があぐらをかいて座っていた。
「うん、二回生の後期に随分休んじゃったから」
「あ、そうか。あの時ね。それにこの前聞いたわね」
「何回も話してるよ」
「ほんとに?忘れちゃった」長い黒髪を撫でるようにかき上げ、千佳は続けた。
「愛子に直談判したんだって?びっくりしたわよ。愛子もう怒り心頭で暴れまわってたんだから。もうきいぃぃっ!て感じで」
 私は苦笑した。千佳は煙草の煙を空中に吐き出し、それをしばらく眺めてから口を開いた。私にはその煙に乗っかって、あぐら達磨が飛んでいくのが見えた。
「愛子そのあと本気で悩んでね、最近まで学校来てなかったのよ」
「ほんとに?知らなかった」
「やっぱり連絡取ってなかった?」
「私はメール何度か送ったけど、愛子からは全然」
「だろうね」千佳は微笑しながら煙草を携帯灰皿に押し付けた。「あの子頑固だし」
「愛子もう来てるの?」
 千佳は私の質問に答えず、少しためらってから二本目の煙草を咥え、火を付けながら言った。
「あんたなんで私を咎めないの?」
「咎める?どうして」
「だって、愛子の妊娠をあんな酷い形で伝えたの私だよ。私あんたに嫌がらせのつもりでやったのよ」
「嫌がらせ?」
「……イライラしてたのよ。生理でね。私生理のとき駄目なのよ。とんでもなくイライラしちゃって」
「知ってる」
「言ったっけ?ならいいけど。いや、そうじゃなくて、ようは謝りたいの」
「私、千佳が親切で伝えてくれたんだと思ってたから」
「あんた本当にお人好しね」
 千佳は煙交じりの溜息を吐きながら、煙草を灰皿に入れた。
「そういうところは好きよ。もうちょっとしっかりして欲しいんだけどね。ごめんね混乱させちゃって」
「ううんいいよ。もう大丈夫。謝りたかったの?」
「あと二つ。今度はちゃんと伝えるわ。愛子ね、子供産むらしいの」
 思いがけない言葉に驚いて、ほんと?と思わず大声で叫んでしまった。
「本当。決めたんだって。彼氏と相談して、もうお互いの両親にも話したらしいよ。卒業したら結婚もするって」
「すごい」
「すごいって何よ」
千佳は笑い、愛子のことを説明してくれた。
 彼女は私が研究室に乗り込んでいったあとの数日間は怒り狂っていたものの、しばらくすると悩み始め、しばらく学校を休んで彼氏と話したり、両親に相談したりしているうち、産むことを決めたのだそうだ。彼氏が結婚しようと言ってくれたのが大きいらしい。あとね、と千佳は三本目の煙草を吸いながら言った。
「あんたの言葉が大きいんだって。あれ、結構効いた、って言ってたわ」
「良かった。何にも伝わってないかと思ってた」
「一粒の麦も地に落ちて死ななければただの一粒だが、地に落ちて死ねばやがて実を結ぶ。さっきこれが言いたかったんだけど、ちょっと無理やりかな」
「私の死んだ子供が、愛子の子供を救う実になったのかしら」
「その考え方とてもナイスよ」
 二人で笑い、コーヒーを啜った。とても優しい気持ちになれた。もしかしたら本当に私の子供は誰かを救えたのかもしれないと思った。
「最後の一つ。その愛子が会いたいんですって。会って詳しく話して、それで謝りたいんですって。きっと今頃神妙な面持ちして食堂で待ってるわ」
 会ってやる?と千佳が聞いたので、私はもちろん会うと言って、二人で学食に向かった。
「生理中はイライラして、もう生理なんて嫌、なんて思うのに、生理が来なかったら来ないで不安になって、子供が出来たら堪らなく不安にさせられるなんて、女は本当に面倒くさいねえ。男なんてやるだけなのに。生まれ変わるなら私は絶対男にしてもらうわ。気持ち悪いチンポコ無しでね」
 千佳の言葉に頷きながら、千佳の咥える煙草にどこからともなく戻ってきた達磨を見ていた。達磨は珍しく楽しそうににこにこしていた。
 何が楽しいの?
 何も。ただ楽しいのだ。
 そういう事って、あるね。
 ああ。
 千佳も私がちょっと学内で言えないような言葉を連発して男を愚痴りながらも、どこか嬉しそうだった。私も、愛子に会って話を聞くのが楽しみだった。

 二年前、私が子供を堕ろすと決めた一番の理由は、子供のためだった。別の、あまり誇らしげに言えない理由は、自分のためだった。つまり、子供のためにも自分の為にも、私は子供を堕ろしたのだ。
 とても傲慢な理由だというのは判っていた。でも一番現実的な理由でもあった。
 子供の父親になる元彼氏にも勇気を奮って話したが、彼は汚いものを見るような目で私を見て、二も無く、おろせ、と言った。俺には君と子供を養っていく自身も無いし、愛情もないんだ。頼むから堕ろしてくれ、と私にすがるように言った。彼がやすやす頷いてくれるとは思っていなかったが、ここまで拒絶されるとは思ってなかった。私は泣きながら家に帰り、思い切って母に相談した。泣き声交じりの私の話を聞いて、母はとても驚いてしばし言葉を失ったあと、堕ろしなさい、と言った。
「あなた一人で育てるのは無理よ。きっと不幸な子になるわ」
 つまり、私の子供は誰にも望まれていなかった。私が子供を産むことも望まれていなかった。私自身もそうだった。こんな気持ちを抱えたまま、子供を生んで、育てていくことなんて出来そうになかった。
 大学にも行かず一週間悩み、泣き続けたあと、病院に行った。とても簡単に、私の子供は死んでいった。
 それから二ヶ月近く、私は部屋から出なかった。出られなかった。どこかに子供の姿をした妖精が、私の前に現れると思ったからだ。目の前にひょっこり現れて、私の前で大泣きするんじゃないかと考えると、私のしてしまった事がどうしようもない、取り返しの付かない一生続く悪夢なんだと思い知った。
 自責に耐え切れなくなって、自殺しようと首をくくった。でも意識が遠のいた瞬間、私は必死になって縄から逃れようともがいているのだ。こんな馬鹿馬鹿しい事があるだろうか。なんにも抵抗できない子供を殺した私は、一生懸命になって生きようとしているのだ。こんなむちゃくちゃなことがあっていいのか。本当にむちゃくちゃだ。
 その間、妖精たちはとてもおとなしく、暗い表情をしていた。私から話しかける元気も無く、彼らも話しかけてこなかった。私は独り、暗い部屋の中で死ぬことばかり考えていた。でもやっぱり死ねなかった。死ねないままただ生きていた。
 年末になって、弟が家に来た。母の制止を振り切り、私の部屋に入ってきた弟は驚いて、私から何があったのか聞きだそうとした。まだ彼には何も話していなかった。
 私は床を見ながら、ゆっくり、ひとつひとつ宝石を取り扱うみたいに慎重に、それでいて半ばヤケクソになっていて自虐的に、これまでのことをすべて説明した。話を聞いた弟は唖然としたようで、何も言わずに私の前に座った。彼がそのまま黙っているので顔を上げると、彼は俯いて涙を流していた。
「辛かったろ、姉ちゃん」
 あの時、本当に枯れるんじゃないかと思うぐらい、どっと涙が溢れ出た。そういうおもちゃになったみたいだった。目から水が流れ出るだけの安っぽいおもちゃに。
 私は十年ぶりぐらいに声を上げて泣き、弟にすがり付いた。弟も涙を流しながら、黙って私を抱きしめてくれた。壊れたように泣く私に、彼は、大丈夫、と繰り返した。
 しばらく泣き続けた私は、その後泣き疲れて、少し安心して、眠ってしまった。弟がベッドに運んでくれたらしい。
昼ぐらいになって目を覚ますと、弟の姿は家になく、ベッドの横に便箋が一枚置いてあった。しっかりとした綺麗な文字で、手紙は綴られていた。

『姉ちゃんに同情してるんじゃないけど、とても辛かっただろう。僕には、男には判らない辛さがあったと思う。でも、そのまま暗い気持ちの渦に巻き込まれててもいけない。自殺なんて絶対にいけない。姉ちゃんが生き続けることを望む人はたくさんいる。これからも限りなく増えていく。生まれなかった子供は、もう生まれない。姉ちゃんは次の事を考えて行かなくちゃいけない。例えば、次に生まれる子供の事を。
こんな当たり前のことしか言えないけど、しかも行うのがほんとうに難しい当たり前のことしかいえないけれど、この当たり前なことは、大切なんだ。すごく大切だと思うんだ。この当たり前なことをやっていけるのが、人間の、命の素晴らしいところなんだろうと思う。頑張って、姉ちゃん。傍にいたかったけれど、今日はどうしても外せない用事があるからひとまず帰るね。明日少し時間があるから、また飛んで帰る。それまで待ってて。
第三者が、ごちゃごちゃと説教してごめん。どうしてもそれだけ言いたかったから。俺が死ぬまで死なないでくれよ。                       
直太』

 弟に『本当にありがとう』とメールを送り、思い直して、もう一度弟に『私はもう大丈夫だから、無理して帰ってこなくていいよ。本当に、ありがとう』と送った。愛してる、と付け加えたかったけど、やめた。
 外に出たくなって、家を飛び出した。家を出る時に母が何か言った気がしたけど、聞こえなかった。
 公園まで走って、噴水の前のベンチに座りいろいろと考えた。長い時間、空を見上げたまま、じっと考えた。長い時間考えて出た結論は、冬休みが終わったら学校に行こう、という、ただそれだけのものだった。とりあえず、大学に行ってみようと思ったのだ。大学に行って何かあるわけじゃないだろうけど、それだけで充分な気がした。
 噴水の周りを転がるように踊っていた水色の柔らかそうな丸いのが、元気出た?と言う。
 ええ、ほんの少しだけれどね。
 それでまったくもって、完全すぎるぐらい良いじゃないか。
 本当ね。その通り。
 一瞬、その丸いのが赤ん坊みたいな姿に変わった気がしたが、瞬きしたあとには妖精は消えていた。
 冬休みが終わって、私は大学に通い始めた。単位はほとんど落とした。でも私はそれから挽回し、問題無く四年生になった。
 ただ、それから何度か、赤ちゃんの姿をした妖精を見かけた。その妖精は笑いもしなければ、私を睨みもしなかった。ただ私をじっと見つめた。私も見つめ返すと、その妖精はふっと消え去った。

 愛子は食堂の一番端に座って、落ちつかなそうにそわそわとしていた。私たちの姿を見ると、さっと窓の方を見て、知らん顔をした。千佳はそれを見て、面倒くさいやつ、と言って苦笑いした。私も笑った。
 席に着くと、愛子はしばらく黙って窓の方を見ていたが、千佳が一喝して、この前は、ごめん、と言いにくそうに言った。
 愛子はあれからの事を話してくれた。
「あの時は堕ろすつもりだったんだけど、恵子の話を聞いて、少し迷ったの。恵子、すごく悲しんで落ち込んでたでしょ。あれ思い出しちゃって。私悩んだわよ。すごく悩んだのよ。生まれて初めてよ、あんなに悩んだの。だってテレビも新しいドラマも何も見ないで、ずっと頭抱えてたのよ。ずっと。それで、彼に相談したらね、彼改まって、結婚しようって言ってくれたの。あんまり好きでもなかったのに、なんだかその一言で、見直しちゃって。まさかそう言ってくれるなんて思わなかったのよ。あの浮気ばっかりする遊び人がよ?」
「彼は良い人よ」私は言った。
「うん。そう思う。いや、でも何考えてるか判んないけど、ううん、でも、そう言ってくれるのはいいことよね?」
「私が男だったらあんたと結婚しようとは思わないけどね」と千佳が言った。
「何よ。そんな事ないわよ。とにかく、彼がそう言ってくれてるんだし、両親に話して、彼を挨拶に来させて、私も挨拶に行って、結婚することにしたの。それで、赤ちゃん産むことにしたのよ。恵子のおかげでもあると思うの。だから、その、ありがとうね」
 愛子は恥ずかしそうに頭を下げた。千佳が煙草に火をつけ、まあ、良かったわね、と言った。
「うん、ホントよ。恵子が言わなかったらあたし生んでなかったかもしれない。今幸せよ」
「やっぱり、一粒の麦も、ね」と千佳が言った。
「何それ?」と愛子。
 私は笑って、おめでとう、と愛子に言った。
「うん。ありがとう」
 そう言って、愛子が泣き出した。
「やめてよ、湿気で胸が腐っちゃう」
 それでも優しそうに、千佳が言った。
 私はおめでとう、と何度も心の中で繰り返した。愛子の鼻から、また靴下みたいなのがひょっこり出ていた。
 おめでとう、と、靴下が言った。
 千佳の煙草の上に乗っかった達磨みたいなのも、おめでとう、と言った。
 どこからともなく、姿の見えない妖精たちから、おめでとう、という言葉が聞こえてきた。
 おめでとう愛子。あなたの子供は、みんなから望まれてるよ。きっと幸せな子になるよ。


 机の引き出しの奥から写真が出てきた。少し色が褪せていた。家族が並んで写っている、数少ない写真の一枚だった。
私が小学二年生の時、動物園で写した写真だ。父と母の前に、私と弟が手を繋いで並んでいる。後ろに写っているのは大きな二頭の象だ。弟は象を見てとても興奮していた。
「すごい鼻だあ!って騒いでたの覚えてる?」
「覚えてないなあ」
 弟は写真をじっと眺めながら言った。
「この時、姉ちゃんと一緒にソフトクリーム食べながら歩いてて、僕が躓いて姉ちゃんのスカートにクリームをべっちゃり付けて、めちゃくちゃ怒られたのは覚えてる」
「そんな事あったっけ?」
「あったよ。姉ちゃん大泣きして、お気に入りだったのに、ってその場でスカート脱いで水飲み場で洗いだそうとしたんだよ」
「覚えてないなあ」
 弟は気持ちの良い声で笑った。
 私も笑った。どうにかなっちゃうんじゃないかというほど、私の胸は高鳴っていた。冷静を装ってはいたけれど、心の中はまったく冷静じゃなかった。
 弟は落ち着いていた。肉体労働のアルバイトをしているせいで以前より更に逞しくなっていた。去年も着ていた皮のジャケットが逞しくなった身体には窮屈そうだった。髪は短めに揃えられて、顎には髭が薄っすらと生えている。随分変わった。“男”っぽくなった、と思った。それでいて、たまに子供のような表情で笑うのと、顎に手を置く癖は変わっていなかった。
 先に待ち合わせ場所のファミレスに着き、少し後に来た弟を見て私はしどろもどろになってしまった。何から切り出していいか分からず、掃除していて見つけた写真を弟に見せたのだった。
 弟は写真をテーブルに置き、コーヒーをすすって言った。
「姉ちゃん、調子はどう?」
「うん良いよ。話したい事がいっぱいあるのよ。でも、今日は終電までだよね」
「朝まで続くような話があるの?」と弟は笑って言った。
「実はさ、明日のバイトなくなったんだ。良ければ泊めてくれない?母さんはいるの?急にじゃ迷惑かな」
「そんな事ないよ。泊まっていきなよ」
 私の声は嬉しさのあまりに上ずっていた。
 不思議だった。弟と一緒にいると、妖精がまったく見えないのだ。弟にも妖精はいないし、弟と一緒にいる間はあたりの妖精もまったく見えない。それがずっと不思議だった。でも、最近どうしてか分かってきたような気がしていた。
 家に帰ると、母は居なかった。きっと今日も誰かの家に泊まっているのだ。
 弟に事情を話すと、弟はそうなんだ、とだけ言い、それ以上は母に触れなかった。でもきっと少なからずショックを受けているはずだった。もっと早めに母の事を伝えておけば良かったと思った。
 私が先にお風呂に入り、自分の部屋でシャワーを浴びに行った弟を待った。ベッドに腰を下ろし、深呼吸をした。
 妖精はどこにも居なかった。私一人だった。でも、独りじゃなかった。
 しばらくして、弟が帰ってきた。私の隣に座り、ペットボトルのジュースを飲んだ。弟の喉の鳴る音だけが薄暗い部屋の中に響いた。
「さっき言ってた話って何?何か良いことあった?」
「うん、少し長くなるけど、聞いてくれる?」
「いいよ」
 私は順を追って丁寧に、愛子との事を話した。弟は真剣に聞いてくれた。
「それで、愛子、子供を産むって決めてくれたの。もちろん愛子や彼氏の決心が第一なんだけど、私や、私の子供が少しでも力になれていたと思うの」
「うん、僕もそう思うな」
「あと、あなたのおかげよ。ありがとうって言いたかったの」
「僕はなんにもしてないよ」
「ううん、そんなことないの。ありがとう」
「そうかな。なんか恥ずかしいな」と笑い、立ち上がろうとした。
 とっさに、彼を抱き止めた。待って、と言いながらベッドから浮いた彼の腰に腕を回した。がっしりとした骨が腕で感じられた。
「姉ちゃん。どうしたの」
「少し傍にいて」
弟は少し困ったような素振りを見せたあと、分かった、と言ってベッドに腰を下ろし、空になったペットボトルを両手で弄んだ。私は彼に抱きついたまま、しばらく自分の胸の鼓動を聞いていた。不思議と、もうすっかり落ち着いていた。
「ねえ」
「うん?」
「私ね、妖精が見えるの」
「うん、知ってるよ」
「妖精ってね、小説から生まれたのよ。誰かは知らないけど、その誰かが小説に妖精、ってものを書かなかったら、妖精なんていなかったのよ。調べたの。中学校の時に。初めて知ったときはショックだった。だって、私の見てるものは誰かが創った嘘だったのよ。そんなもの、いないって、思いっきりナイフで突き刺されたみたいだった。でも私は見えるの。じゃあこの見てるものは妄想なのかしら?幻なのかしら?私って気が狂っているのかしらね」
「姉ちゃん」
 弟は私の腕を離そうとした。
「お願い。少し聞いて」
「……狂ってるなんて言わないなら」
「言わない」
「なら聞くよ」と言って、弟はペットボトルを床に置いた。
「私だけ、なのよ。少なくとも、私が今まで出会った人で、妖精が見えるなんて人はいなかった。幽霊が見える、なんて人はいたけど」
「幽霊とか、例えば妖怪とかと妖精は違うの?」
「分からない。でも、違うんだと思う」
 私は黙った。弟も動かず、じっとしていた。外からバイクのエンジン音が近づいてきた。一瞬部屋の音を支配したエンジン音は家の前を通り過ぎるにつれ小さくなり、やがて聞こえなくなった。
「何かに集中しているときや、あなたといる時、妖精は見えないの。どうしてだと思う」
「……どうして?」
「妖精のことなんか忘れているのよ。だから、見えないの。寂しいとき、はっきり見えるのよ。そう、結局幻なのよ。私が望んで、勝手に見てるの。最近、気付いたの」
「……」
「でもね、幻でも、私には見えるのよ。見えちゃうのよ。それで良いの。子供をね、堕ろして、だいぶ経った後に気が付いたの。多分ね、きっと、子供を産んでたら妖精なんか消えちゃってたと思うの。自分一人でも、子供が出来たら私は独りじゃなくなってた。子供を殺して、私は独りを背負っていかなくちゃならなくなった。だからもう少し妖精と暮らしていくの。ううん。これからずっとかもしれない」
「子供を殺した罰だってこと?」
「うん。私は、妖精が見えるの。それは、私の生まれつきの特権であって、これからは子供を殺した罰なの」
「まるで宗教みたいだ」
「そうかもしれない。私、教祖になろうかしら」
 そう言いながら笑いたかったのに、涙が出てきてしまった。弟の身体から離れ、ベッドにうつ伏せになって声を殺して泣いた。
「ごめん姉ちゃん」
 弟は私の背に手を置いた。暖かい、大きな掌が私の背を撫でた。
 私は顔を上げた。弟は私の肩に手を置き、しばらく寄り添ってくれた。
「姉ちゃん、話をしないか。ほら、約束したろ。僕が家を出るとき、また二人だけの話をしようって。あの後の話、いろいろ考えてあるんだよ」
 そう言うと弟はしばらく頭をひねったあと、演技がかった低い声で話しはじめた。
「エルムス船長は誰にも言えない秘密があったんだ。そう、あの極悪非道のエイリアン、ゾルドゥーク星人たちを撃破したあと、エルムス船長を襲った悲劇だった。それは何か。エルムス船長の恋人のミーラも知らない秘密だった。だとするともちろん、エルムスが誰よりも信頼を置く操縦士ソントも知らないんだ。となると、船内の情報屋ボックスも知らない。そして、いや、もったいぶるのはよそう。そう、船長は痔だったのだ。それもかなり大き目のイボ痔だったのである」
 私は涙を拭きながら、少し笑った。
「船長、痔だったのね」
「ああとびっきりのイボ痔だ。船長はずっと隠していたのさ。彼自身の美学に反していたからね。だがそうも言ってられなくなった。ゾルドゥーク星人はとんでもない置き土産をしていたのさ。地底を徘徊する能力を持ったゾルドゥーク星人を倒すとき、船長はうっかり自分が小型戦闘機に乗り込んで奴らが地中から現れるのを待ち伏せしたろ?船長は五時間ぐらい操縦席に座りっぱなしだったのさ。よって、イボ痔が激しく再発してしまった」
「船長はどうしたの?」
「船長は隠したさ。美学に反するからね。だが、そうも言ってられなかった。次に現れたエイリアン、ドドボ星人たちはとても頭の良い奴らだった。綿密な作戦を立て、それを忠実に遂行するチームワークの良い奴らだったんだ。それに対抗するには、こちらも綿密な作戦で向かわなければならない。ところがだ、船長は作戦会議に集中できないんだ。椅子に座ってるだけで激痛が走る。会議中、ずっとそわそわしている船長に、みな疑問を持った。そして唯一面と向かって船長に質問が出来る副船長のヴァリィに問い詰められ、とうとう痔だって事がみんなにばれてしまったのさ」
「あら大変」
「船長は皆に無理やり引っ張られて、痔の手術を受けさせられる事となった。船長は恥ずかしさと情けなさで胸が一杯だった。それに、船長は手術が怖いんだ。手術台に寝かされ、船医のタッドーにズボンとパンツを脱がされながら、もう船長は泣きそうだった。タッドーが船長のイボ痔に触れようとした瞬間、船長は怖さのあまり、『俺のイボ痔に触れないでくれ!俺のイボ痔に触れるな!イボ痔に触れるな!』と叫んだ。その声が船内スピーカーを通じて、船内にいた全員へ聞こえてしまった」
 船長が手術台にうつ伏せになり、お尻を出して喚いている姿を想像して笑った。
「みんな、その声を聞いて笑いを隠せなかった。でも、手術が終わったとき、船長とどう接して良いのかを考えると、笑えなくなった。ただがこんな事で船長の信頼を失うような船員たちではない。しかし、船長のプライドはボロボロのはずだ。手術が無事終わった、という船内放送が入った。船員たちは緊張した。会議室のドアが開き、船長が帰ってきた。
『やあ、待たせたねみんな。手術は無事、何事も無く成功した。多大な心配をかけてすまなかった。私はこの通り大丈夫だ。さあ、クールに会議を始めよう』
 完璧だったよ。まるで自分は癌を克服したみたいな言い草だ。イボ痔の手術だったなんてみじんも感じさせない調子で、彼は淡々と会議をはじめた。これで船員たちは、船長を改め尊敬したんだ。彼は過去の自分を恥じないんだ。過ぎた事は、もう気にしないんだよ
 やがて作戦会議を終えたエルムス船団は見事ドボボ星人を撃破し、また未知の惑星を、やがて帰れるはずの故郷を夢見ながら、飛んでいったのさ」
 弟は話を止め、ふう、と溜息を吐いた。
「ちょっと短いけど、ここで終わり。どう面白かった?」
「うん。楽しかった」
「じゃあ、次は姉ちゃんの番だ」
 私も弟のように、昔のように何か話そうとした。でも何も口から出てこなくて、押し黙ってしまった。
「……無理かい?」
「ごめん」
「ううん、良いんだよ」
 私と弟はしばらく黙った。私はただ弟の腕を眺めたまま、ぼんやりと妖精を思い浮かべてみた。でも妖精は現れなかった。
「私が寂しくなくなったら、妖精には二度と会えないのかしら」
「一生寂しくない人間なんていないさ」
 そうしてまた黙った。
 私は弟の腰にしがみ付いたままだった。幼い頃、痩せて骨ばっていた弟の身体の面影はもう無かった。弟からは私と同じシャンプーの香りがする。弟の服からは彼の匂いがした。私の胸はまた高鳴り始めていた。このままじっとしていたいと思った。このまま、何もしなくて良いから、二人が灰になるまでこうしていたかった。
「姉ちゃん、あの穴は何?」
 天井を見上げていた弟が、天井の隅を指差しながら言った。顔を上げて見てみると、天井の隅にコブシぐらいの穴が開いていた。そしてその穴から、たくさんの目が覗いていた。私と目が合うと無数の目は慌てて引っ込んだ。妖精たちだ。私は何故か突然、一つの光景を思い出した。
 弟の腰から離れ、ズボンのポケットをまさぐった。輪ゴムが一つ出てきた。再び天井を見上げたが、もう穴は無かった。
「どうしたの?」
「……ねえ、天井の穴が見えたの?」
「え?うん。見えたよ」
 と言って弟は天井を見上げた。
「あれ?無いや。見間違いかな」
 私は弟の顔をじっと見た。まさか、という思いで、頭がいっぱいになった。
「ねえ、あなたは妖精を信じる?」
「ううん……、どうだろう」
「あのね、私は、妖精が、見えるの。でもね、その妖精って、私が見たくないとか思ったら、消えちゃうの。会いたくないって思ってるときは、大抵現れないの。でも、この前不思議なやつに会ったわ。晩御飯のあとに食器を洗ってたら、ふと台所のシンクに出てきたの。天馬、ペガサスみたいなやつだった。そいつがね、変な奴で、私がもう消えて欲しいって思ったって、消えないのよ。しばらくしたら、そいつが繭みたいになったの。なんだろう、って思って見てたら、繭にヒビがはいったの。割れちゃうって思って手を伸ばして繭を掴もうとしたら、音をたてて割れちゃって、掌にこれがあったの」
 私は手に乗せた輪ゴムを弟の前に出した。弟は輪ゴムを手に取り、まじまじと眺めた。
「これが?」
「そう」
「普通の輪ゴムにしか見えないなあ」
 と言って、弟は輪ゴムを両手で引っ張り、そこから穴を覗いた。私は弟の横顔を見ながら言った。
「あなたも、寂しい時がある?」
 弟は突然、わっ、と言って輪ゴムを投げ捨てた。
「どうしたの」
 床に落ちた輪ゴムが、電灯のように明かりを放った。その光の中から一斉に妖精たちが飛び出してきた。達磨のようなやつ、靴下のようやつ、小人みたいなやつや、七色の海草、小人、まだ見たこともないようなやつ、あの天馬もいた。
 彼らは部屋の中に飛び散り、部屋中が妖精でいっぱいになった。慌てているみたいにみなあちこち飛び交って、ぶつかって喧嘩したり、逆に落ち着き払ってダンスをしていたり、輪ゴムに引っかかっている妖精を引っ張り上げていたり、ベッドの周りをぶんぶん飛び回っているのもいた。
 弟はぽかんと口を開け、目を擦ったりして、目の前の光景が信じられないようだった。私も信じられなかった。嬉しくて堪らなかった。弟は妖精が見えているのだ。私は弟と一緒に妖精を見ているのだ。
 ベッドから飛び降り、妖精達が群がる輪ゴムを拾い上げ、力いっぱい両手で伸ばした。部屋中が黄色い光で満たされ、妖精達が洪水のように溢れ出てきた。
「ねえ、見てる!」
 私は弟に向かって大声で言った。部屋の中はもう妖精達の声で弾けそうになっていた。弟は口を開けたまま頷いた。
「これがね、私がいつも見ている妖精達なの!」
 天馬が私の肩に乗り、嘶いた。達磨が雲の形をした妖精に乗り、弟の顔を見てにやにやしている。二つ首のアヒルが、お祭りだお祭りだ、と騒いでいる。エルムス船長がキザなポーズのままふわふわと舞っている。雪男みたいなのが空中で盆踊りをしている。
 今まで、こんなにたくさんの妖精達に囲まれたことなんて無かった。妖精達はいつの間にかみんな一緒になって同じ歌を歌っていた。聴いたことのない歌だった。
 私も一緒になって歌おうとしたとき、七色の海草が私の足元で転んだ。それをきっかけに、妖精達が出てきた時と同じように、私が手に持っていた輪ゴムの中へ一斉に、吸い込まれるように消えて行った。
 部屋が急に静かになった。弟はベッドに手を付き、まだぽかんと口を開けていた。弟の傍に行こうと思ったとき、弟が私の横を指差した。そこには空色の猫がいた。長い尻尾を空中で左右させ、黄色い目をくるりと一回転させ、言った。
 僕は何も言わない。ただ、君が、僕たちのことを君の子供の罰なんていうのは、よしてくれよな。君の生まれなかった子供は―
 そこまで言うと、猫は尻尾で私の持っていた輪ゴムをぱっと奪った。
 そしてゆっくり消えていった。赤ん坊の顔になって、笑いながら。
 私はその場に立ちすくんだ。ただ、胸の奥が縛られているかのように、締め付けられた。
 二人ともしばらく何も言えずにじっとしていた。少し経って、弟が気持ち良さそうに笑い、言った。
「姉ちゃん、さっきの猫が言う通り、これ、絶対罰なんかじゃないよ」
「ええ、ほんとう。わたし、失礼なこと、言っちゃった」
「これで僕も妖精を信じなくちゃ。見ちゃったもんな。すごかったよ」
 私は弟の隣に座った。肩が震えていた。いろんな考えが、頭の中をぐるぐると回っている。
「姉ちゃん。大丈夫?」
「ねえ、驚かないで、聞いてくれる?」
「なに?」
「私ね、あなたの事が好きだったの」
 弟は軽く笑い、僕もだよ、と言った。
「ううん、違う。あなたを、異性として好きだったのよ」
 弟は無言になった。私は続けた。
「大好きなの。本当に」
「姉ちゃん」
「ごめんなさい。こんなこと言って。でも好きなの」
 私はベッドから立ち上がり、弟の方へ向き直った。
「お願いがあるの。キスして。一度で良いの」
 私は泣いていた。自然と涙が流れていた。自分が惨めで、情けなかった。こんなことを言って、きっと弟を苦しめている。でも、言わなければならなかった。
「お願い」
 弟は立ち上がり、そっと私を抱きしめた。
そして何も言わず、唇に軽いキスをしてくれた。
 彼は優しかった。本当に優しい人だった。私は泣きながら、彼にありがとうと言った。


 大学を卒業して、私は絵本の原作を書き始めた。まだ一本も書き終えてないけれど、良いものにするつもりだ。
弟は海外へ行った。今経済的に成長している国を自分の目で見ておきたいのだそうだ。外国へ行っても、彼は猛烈に仕事をしている。
 弟への想いは、まだ完全に振り切れていない。弟に告白したあと、私はもうこれで弟への想いを断ち切れると思っていた。でもそうはならなかった。やっぱり、弟が好きなのだ。でも、それで良いのだとも思えるようになった。弟はもうじき結婚するらしい。心から祝ってあげようと思う。彼ほど素敵な人は、きっと他にいない。
 私がもし弟を好きにならなかったら、私は誰かと結婚して、幸せな人生を送っていたかもしれない。私がもし子供を堕ろしていなかったら、私は幸せな母親になっていたのかもしれない。
 でもそれは関係ない。私は、それらの事が全部不幸な事だと思っていた。違うんだ。そうじゃないんだ。
 たとえば私に妖精が見えなかったら、私はただ妖精が見えない人だっただろう。
 私は、妖精が見える。私はその妖精達の物語を書くんだ。書いて、弟に贈るんだ。弟との約束を果たすために。私には妖精が見える。私には弟がいる。

たとえば私に妖精が見えなかったら

たとえば私に妖精が見えなかったら

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted