レイニー・カフェ

 季節に吹き込む風は夏になびくほど潤い、日差しにこだます夏雲はいつの間にか篠を突く雨へと変わる。カフェの窓辺、雨の降るさきで雷鳴の遠音が響く。微かに明滅する窓を背にして、男がカウンターに軽く乗り出すように組んだ腕をのせていた。時折ゴロゴロと雷に音を食われぎみの雨声が否応なしに街へ伸し掛かる。
 目抜き通りから裏手に一歩入った処にあるこのカフェは、商業ビルの連なる一角ということもあり、一見客を引く用意のない店構えからか、それとも雰囲気が程よく巷間の喧騒からはずれるためか、知る人ばかりが集う隠れ家に似た風情だった。常連のなかには超然と世間を闊歩するものも少なくないという話もあったが、それを気にする人もまたここにはいなかった。この男もその一人。
 男の差向いで、凛とした細身のマスターが布巾を片手に、奥のカフェキャビネットにあるグラスを磨いていた。黒を基調とするキャビネットは木目が美しく、ガラスのきらめきによく映えていた。
「降りますね」
磨きかけをカウンターへ置いてマスターがいう。
「うん、降るね。夏は雨の季節だから仕方ないといっても、まぁ降るね」
男は窓を振り返りつつ入口を一瞥(いちべつ)した。重厚そうに見える扉の傍らには銀メッシュの傘立てがある。傘立てにはつい今し方まで雨に吹きつかれていた男の傘があった。紺の生地が若干雨を含み、いかにもくたびれた色を濃くして収まっていた。
「この雨を見ていると、何処か思春期に似ている、そんな気がしてきます」
さりげなくおしぼりを男の前に置きながらも、更にさりげなく話の種を添えるのがマスターの流儀だった。
「マスター面白いこというね。夏の雨は思春期に似てる か。確かにいわれてみればそんな気配がある。それとも季節の変わり目かな」
「変わり目ですか。そうなると年に四度ほど来ることになりますね」
「四度はなかなかだね。しかし、そんなにあったらなんだか無粋だろうね。うん、マスターのいうほうが雰囲気あっていい。季節によくあってるよ」
それから、夏に静けさとか心安さとか似合いっこないよと付け加えた。

「それにしても、マスターけっこうロマンチストなんだね」
「ロマンチストですか?そうですか。私は自分で存外リビドー的だと思っているのですが、どちらかといえば そうですね……ニヒルなほうでしょうか」
「リビドーでニヒルか……難しいな、それ」
「えぇ、でも世のなか単純ばかりでは思考の取っ掛かりもありませんし 下草に隠されたちょっとした窪みに足を取られてもがくことでもいずれの些事ではありません。私が思うに、それが人と人を隔てる境界線であったり、引き付ける要因であったりするのでしょう。
 ところで今日はこの雨のなかどうなさいましたか」
男はそうそれそれといわんばかりに長い溜息をついた。
「今日は、例の工房の下見がてら県南までいく心算だったんだ。午前中で全て用事を済ませる予定で出掛けたんだけど、直前で折悪しくのこの雨なもんでね。まいったよ。けっきょく予定は予定のまま解釈の齟齬なくその意味に留まったというわけ。笑えないよ」といったあと冗談まぎれに
「で、ふて寝したあとこの猛烈な雨をくぐってここにきたんだ。抱えた愚痴を存分に湿らせてね」と笑った。
「しかし凄い雨でね、マスター。いや、いまも凄いけど降り始めはもっと凄くてね。なんというか目前に滝壺を突き付けられたような。遠くの緑に浮かぶ山並みがふっと霞んだかと思ったら、一瞬で見えなくなったんだよ。なんたって、雨に叩かれて車が小躍りするくらいでね。これがゲリラ豪雨かと正直実感したよ」
「えぇ、私もこの雨には驚きました。ビルの壁が雨の勢いを必死に押し返している処を想像しました。
 どうでしょう、落ち着きがてら一つコーヒーでも」
マスターの言葉に、男はおしぼりを手に取りながら頷いた。

「そちらへ通うとなると大変になりますね」
「まぁねぇ」
男は今月中にも二つ目の炭窯の店主になるはずだった。一つ目も順調とは言い切れないなかでの半ば押し付けられたものだったが、その工房は男が見習いの時分から世話になった人の開いた処だった。絶対に“いいえ”とはいえなかった。男は銀行と契約書を取り交わしたとき、これはほかとの契約でなく自らの意地と契約を交わしたのだと強く思った。
「いくだけでも二時間は掛かるから、いっそあっちに移ってしまおうかとも考えてるんだけど。だけどもさ、いざそうしようとなるとこういう慣れた空間が身近にある生活もなかなか捨て難くて。そんなこんなで迷えば迷うほど踏ん切りがつかなくなるといった塩梅でね。人は常に機会を待てども機会は遂に人を待たず。それもまぁ判ってる心算なんだけど」
「緑雨ですか。確かに私のような歳になれば、それを理由に引っ込むこともあるでしょうが」
そういいつつ、素早く手順をこなしコーヒーサイフォンに火を入れた。
「そう当たり。で、マスターお幾つ」
ちらとマスターに目をやりながらおしぼりで手を拭く。
「今年で五十になります」
「なんだ、まだ若いじゃない」
「そうですか。世間では既に初老の身です」
「うん、世間のことはよく知らないけど、初老というのは歴史のある言葉なりの古臭さがある。いい意味でも悪い意味でも。それに初老という見た目じゃないね。若いよマスターは」
「若いですか。少壮の時分よりフケ顔で通っていましたから、そういわれるのは新鮮ですね」
「フケ顔ね。そんなのますます当てにならないよ。フケてるだの若作りだのというのは一種体裁に当てられた表現にすぎない。状況が変われば立場も変わるっていうのと同じだよ。いってみれば危ういんだ。そんな風にしてね、人は見た目に騙されてなおその美学を信じてる。もっといえば、自然との調和を図るよりも人との親和に傾きすぎる。そして、自然との調和ほど頭を悩ますことはないと何処かで信じてるわけで。あるいは薄々気付いてるが信じないふりをしてる。なにせ人類最大のコミュニケーションツールである“言葉”がまったく通じない相手だから。
 それでも自然との対話を成立させようとその様々な変化を解析から数値化し、図案化し、のちにデータ化して、なんとか翻訳しようと努めてきたってわけ。それでいて、まだ独歩あたりを読んでるほうがすんなり理解できたりするんだから、どれだけ難儀なことだろうね」
「感性において調和を図るほうが同調としての精度は高いというわけですか。どこか哲学と心理学との関係のようですね」
「うん。でもさ、それだと効率の面からすると極めてお粗末なんだよね。データ化はなんらかの普遍妥当性を探る行為の一事であって、より多くの事柄を総和して平均化することにほぼ等しい。つまり、データ化するってことは最高と最低をはぶいて残った中間層の質をより向上させようっていう意図があるわけだから。いくら高い精度だからといっても不確かなものは当てにできないのさ。感性の側からすれば相関関係だとしても、解析の側からしてみれば、それは因果関係なんだよね。そこの齟齬がまたなんとも理解し得ない処なわけで。
 まぁ、それはそれとして。
 あまり人のことはいえた義理じゃないけど、いまの時代感覚に生きる人は不確かなものなんて嫌いなんだよ。感度を高めるよりも分析器にかけるほうが早いらしい。心理学などその典型さ。解析に解析を重ねた結果、語意の枝が広がりすぎて、学派を越える議論は互いの解釈を知らないと成立しないまでになってる。それこそ、世間的には専門知識がほかを聞きかじった耳学問に取って代わられてるのが現状さ。解析結果を受け入れろということのほうが 、もはや無理強いなんだよ。色々な解釈があること自体が不確実性を実証してるんだから。まったく皮肉なもんさ」

 一段と激しくなる空模様に聞き入ることと、店内に広がるコーヒーの香ばしい薫りには邪魔する要素はないらしい。男はこの甘い雰囲気を嗅ぐにつけ、店に置かれているイスやテーブル、いまやキャビネットに飾られるだけとなった手挽きミル、壁掛けのアンティーク時計など、このカフェと時を同じくしたそれらがいっせいに深呼吸した気になるのだった。
「コーヒーの匂いは落ち着くね、マスター。荒れ狂う風雨が心にまで染みてくるのをやわらかく避けてくれる」
「まったくです」
コーヒーがカップに注がれると、その勢いを頼りにして湯気が立つ。わずかに昇ってはゆるやかに消えるその動きは、受け皿ごと運ぶ動作によりまったく見えなくなるが、カウンターに置かれると再びゆるゆると立ち昇り始める。男はそれを見て、マスターが仕掛けた魔法のようだと思った。
「それにしても雨の日というとなんでこうも薄暗く感じるんだろう」
「あぁ、はい、それはたぶん照明のせいでしょう」
「照明?」
「はい、今日はカウンターの上だけしか点けていませんので、暗いのはそのためでしょう」
男はいわれて天井を見廻してみた。確かに点灯しているのはマスターの頭上にある三つの備え付けらしい白いインテリア照明のみで、ほかはみな自然光に役目を任せて白昼に暇をもてあましている様子できょとんとしていた。考えてみれば、いつも仄かに店を満たしているはずのBGMも聞こえてこない。男はこのカフェで過ごすときは、決まって音楽のまにまに耳を楽しませていたのだが、雨に気を取られていたからだろうか、こんな迂闊もあるものだと思った。
「点けましょうか。暗がりを気にしている様子がなかったものですからそのままにしていましたが」
「いやいいんだ。こっちのほうが雰囲気あっていい。陰翳に任す情緒はそれを崩す忍びなさをひどく感じさせるものだって、何気に判ったからね」と湧き立つ湯気をふぅっと吹いた。
「それで、なんでまたほかは消してるの。なにかあるの?」
男はコーヒーを一口飲む。男がここで飲むコーヒーはいつもブラックだった。自宅で飲むときなどは気分や体調に応じてミルクや角砂糖の一粒が落とされることもしばしばだったが、カフェではブラックしか飲まなかった。といっても、コーヒーについて特別こだわりがあるわけでもなく、マスターに勧められたからでもなく、自分の味覚に自信があるわけでもなく、単にそのままで美味しいと感じたからそうしているだけだった。敢えてなにかすることの意味さえ考えないらしい男とは概してこんなものだった。そして、ここの客はそんなブラック愛好者が多いのである。しかしてどうしたものか、今日のコーヒーは取り分け色濃い味のようだった。
「いえ、特になにもありません。休店日は外からみて勘違いされない程度に明かりを絞っているのです」
「休店日?」
「はい、やはり気付いておられなかったようですね。今日は休みなのですよ」
「え、あれ、そうだったかな ……なんというか、あれだ、マスターも人が悪い。それならそうといってくれなくちゃ。あんまり普段通りだからすっかりその気でいたよ」
「すみません。一応、扉に休店日のプレートを掛けてはいたのですが、特段触れることもないかと思いまして」
「あ、プレートもね……」
男は溜息をつくようにしてコーヒーを一口すすった。
「雨の勢いに抵抗しながら傘張って下向いて歩いてたから、なかに入るまであんまり前向いてなかったんだよね。そうか休店日か。まったく考えてなかった」

 男は何気なくカップの縁を指でなぞっていた。白地に萌葱でぐるり縁取りされたカップはそこから下へ、螺旋にゆるく太い罫線が引かれていた。その間に店の名である“café de langage”が薄い灰色でいくつも刻印してあった。男はコーヒーをすすりながら光の加減で螺旋のうごめきを見、今日はいつもより強く反応するようだと思った。カップを目線まで持ってくると、縁の萌葱の輪から風になびいて垂れ下がるように螺旋を描いているのがよく判る。男はその帯が終わりまで達しているものとばかり思っていたが、実は底に着くまえに先が剣状葉のような形で途切れていることに気が付いた。この模様のおかげで丸みを帯びた曲線が底のほうで絞り込まれたように見えていた。マスターの魔法はこんな処にまで及んでいたかと考えると、色々な取り落としに気付いたこのタイミングのよさと相俟って、とても面白いと思うのだった。男は思い出したように
「鍵でも掛かってたなら、いくらなんでも大人しく帰ったんだよ」といって笑った。
「もちろん、誰もいないときは戸締まりを忘れずにしておくのですが、私がいるときなどは休店日だとしても入口に鍵を掛けないでおくことにしています。せっかくこの店を目的に訪ねていらっしゃるわけですから、がっかりさせてなお、なにもなしに帰すというのは心苦しいものです。しかし、実際に入ってこられたのは貴方が初めてですが」
「ん、うん、そうだと思った。自分でいうのもなんだけど、こんなうっかりは滅多にないことだろうからね。ほかに客がいないのも珍しいと思ってたんだ。どうりでね」

 雨の日に気まぐれな訪れを思いつつ、鍵の仕掛けをはずす心持はまた夏の吹き降りに通じあい、光彩に控えめな陰翳を引き立てる。仕掛けをはずす仕掛けは施す過程で様々な仕掛けと連動し、無意識裡にマスターへとつながっていた。それとも、すべてマスターの思惑通りだったかもしれない。男はふくみ笑いをコーヒーカップで隠しながらマスターはやっぱりロマンチストじゃないかと思うのだった。そして、空になったコーヒーカップに満足した。
「うん、コーヒーはここで飲むのが一番いい。家で淹れるのとは段違いなんだよね。較べるのもお粗末なんだろうけど、自宅コーヒーは味気なくて。時々飽きちゃうんだよね味気ない味に。自宅コーヒーでも美味しく飲める魔法のひとさじってなにかないのかな」
「ひとさじですか。そうですね……味の違いというのは、おそらく豆の違いからくるのではないでしょうか」
「ほう、そんな特別な豆を使ってるの」
「いえ、豆は少々高めのものを使用していますが、一般に手に入る代物です。違いというのは焙煎のときにバターを加える処です。そうすることで風味にまろやかさとコクが加味されます。ご自宅でも淹れたてのコーヒーに適量を加えることで同様に楽しめると思います。因みに適量というのはお好みに応じてという意味です」
「なるほど。豆にバターを。われ知らずそんな上品な嗜み方をしていたとはね。フフ、どうりでね。雰囲気にしちゃどうも美味すぎると思ってたんだよ。コーヒーにバターか。今度さっそく試してみよう」
「はい、そういう理由から、前もってコーヒーミルクをお出ししていないのです。もっと奥のある深みが欲しいとおっしゃる方や、今日の自分にはまろやかさが必要だといわれる方にのみお出ししています」
「うん、フフ、単純に生クリームだから あまり取り置きしないのかと思ってたよ」
「それも確かにあります。しかし、一番はいかに味わっていただけるかということです」
「流石、こだわってるね」
「えぇ、伊達に長年カフェを営んではおりませんから。しかし、私のこだわりを押し付けることもしたくありませんので、出来るかぎり出された要望に応える心算ではいるのですよ」
「はぁ、その言葉身につまされるね。どんな商売でも顧客がいなければ成り立たないものだし、顧客とじかに顔を合わせることでしか判らないことも多々ある。じかでないにしても、どの方向にむいているかくらいは判ってないとどうにもならない。なにもなくて顧客の目を商売のほうに向かせるのはかなりの力技だからね。それにしても、顧客からの要望と自分らの物へのこだわりというのはどうも相容れ難い存在のようでね」

 窓の外では風雨がさらに激しさを増していた。とびきり大きな電車が、大の大人の背にあまるほどの車輪にものをいわせて行き過ぎたような、そんな音を立てていた。
「なにかに影響しなけりゃいいけど」
「えぇ、交通網は一時的にでも危うくなるでしょう」
「通信網はどうだろう」
「それはまず大丈夫でしょう」
「うん、電力もまぁ問題ないと思うけど、どうも信用の足らない処だから」
「独占寡占は昔から半官営の専売特許ですからね。眼目がもともと国策に向いていますから、民間の尺度に耐える体質にないのでしょう」
「夏の電力需要なんて毎年いわれてるけど、いつも日めくりカレンダーが解決してる印象だからね」
「なにはともあれ、万一の備えは充分にしておいたほうがよろしいでしょう」
男はふむと頷く。

 何気なく途切れた会話も沈黙という意思の疎通なのかも知れない。そして、言葉を継がずともカフェの雰囲気がコーヒーの味わいのように時間を心地よく押し流す。
「この前から気になってたんだけど、あれロウソクだよね。もしかしてあれも備えかなにか?」
男のいうさきにはカフェキャビネット。その一隅にある透明な包みのデザインキャンドルを指していた。
「これは近ごろ店にお出で下さるようになった方からの頂き物です。」
「近くでいい?」
マスターは構いませんと頷き、注意深い手つきで男の前に置いた。
「この方は木版画を趣味になさっているようで、こちらもロウソクから自作したもののようです。ご本人は未熟だとおっしゃって人前に晒すものじゃないと含羞しておられましたが、そこを私が無理をいって飾らせていただいたものです」
「これも趣味の一環なの」
「はい、そのようです」
男は手元に置いてみて驚いた。棚にあるかぎりではちょっとしたデコレーションキャンドルと思っていたが、いま目の前にあるのは見るほどに繊細なものだった。
 キャンドルは六角形、高さにして小振りの缶コーヒーほどの大きさながら、六つの面それぞれが同じようにバラや桜の花びら、銀杏や四つ葉のリーフなどが花火のように模され、それらがつた草にからまる形に配置されていた。しかも、その模様が網状に透かし彫りしてある手の込みようだった。部分部分が白とも薄紅ともつかない淡い紅色にきざし、いしくも造形の綾を形作っていた。それが底から指三つほど、ちりめんの和紙のような白いパラフィン紙で覆われている透明な包みでラッピングされていた。持ち手の部分は細い麻縄状の紐で括られていた。上から落とす照明の光によって照らし出されたキャンドルは、造形の手を離れて自然のうちに陰翳を宿す不思議な光沢があった。未熟というには実に見事な細工物だった。
 男はこのキャンドルに灯と燭台とを結びつける一つの美意識を見た。そしてこれこそが華燭を飾るにふさわしいものだと思った。見詰めるうちに、男はロウソクに灯された炎が見たくなった。マスターにキャンドルを返しつつ、ゆらめく炎を思い、また炎のゆらめきがかもしだす陰翳とそれにかかわる薄暗い光と影を思った。

 外はようやく荒天を払ったのか、蛇口を絞ったように雨脚が弱まっていた。男はそれを気にも留めず、もとの棚に収まったキャンドルを眺めていた。そして、あることをしきりに考えていた。微かにゆれる炎の幻想を瞳の奥に思い描きながら考えていた。炎はなぜ燃えることを躊躇わないのかと。
 思い描くのは、危険な色を立てながら、躍り出るバレリーナのようにすっと背を伸ばしてしなやかにくねる炎の塊。指先を近づけたならば、情熱のまに焦がすほど強く歯を立てるだろう。炎に躊躇いなどあるのだろうか。子飼いにできない野性味を激しくして、剥き出しのなかにあえて身を置くかのように、一心に身を細らせることで存在の証を立てるかのように、そんな風に見える炎にはなんの躊躇いがあるのだろう。男は考える。躊躇いが人に感知できない類のものだから、そう見えるのか。それとも温度の度合いが、そのまま躊躇いとなるのか。いずれにしても答えが知りたいと思った。躊躇うこと自体の意味を知ることがそれではない。客体にとっての事象。炎にとっての躊躇いに、どんな意味があるのかがその答えだった。
 躊躇いはあるのか。諾。それは炎が織り成す推敲がためにあらわれる存在意識だから。躊躇いはあるのか。否。それは炎の燃えることと存在することが同義に定められ得ることだから。男の幻想に映る炎はいよいよ激しくなる。足を後ろ背に吊り上げ、しなやかな帯のように指先から腕を広げ、跳ね上がり、猫背に屈み、胸を張り、足を吊り上げ腕を伸ばして柔靭に飛び上がる。炎は何ものかを追うように激しく狂おしく踊り出でる。
 激しくゆらめく炎のなかで男の掴んだ答えは“否”だった。炎自体がひたすらに消費へ向かって時を刻む存在だったから。いわば炎とは不確実性の存在だった。炎は芯を燃やし続けることのみがその存在理由であり、燃やし尽くした途端にその存在を失うのだろう。不確実性の存在はベクトルが常に不確実の方向に進む。そして、炎は不確実性が極めて高いがために、躊躇う行為自体がその存在を危うくする。逆に、確実性の存在とは殆んど人のことであるといえる。人は生きること自体が成長という名の学習を伴い、そのベクトルは常に確実性を高める方向へと動く。躊躇うことも学習の一理とすれば、存在意義の確約するなにかの事象かもしれないのだから。

 男は一度深呼吸をした。
「帰りにロウソクでも買っていこうかな」
「それはまた。何か思い付きましたか」
「いや、ちょっと神秘に駆られて瞑想にでもふけようか、とね」
男はカップの縁を指で軽く弾いた。
「そうですか。では、その前に一つお酒でもいかがでしょう」
「お、マスター話が判るね」
「アイリッシュコーヒーではいかがでしょう」
「そうくるか。フフ、流石にカフェのマスターだね。うん、せっかくだから、それをいただくよ。アイリッシュを一杯」
「はい、ただいま」
「あ、ついでにミストも入れといてよ」
「かしこまりました」

レイニー・カフェ

レイニー・カフェ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-15

Copyrighted
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