金魚鉢

不思議な先輩との、ささやかな交流

 僕と金魚の違いは何か。それは金魚鉢を外から抱きしめるか、金魚鉢の中に入るか、というものだろう。
 僕、金子一樹は現在高校一年生。歳は十五。性別は男。クラスは二組で出席番号は八番。部活は陸上部で、短距離をやっている。
 陸上部はまごうことなく運動部である。したがって上級生による理不尽なしごきがある。だがうちは強豪でもないため、他校ほどの厳しさはないだろう。それでも夢を持って高校生になった十五歳には苦痛ばかりであり、夏休みに入ることにはそれなりの人数が部活から消えて行った。それでも残っているのは真面目に陸上をやる人間か、友達が残るからついでに残るか。一番ひどい理由は女子の生足が近くで拝めるからというものだったが。僕の場合は中学からやってきたからという立派な理由だ。そこは勘違いしないでもらいたい。
 言い忘れていたが、陸上部では男子と女子は一緒に練習する。高校生にもなれば体力差がはっきりしてくるが、陸上とは柔道のようにぶつかり合う競技ではない。練習内容が似たようなもので場所も狭ければ、それは男女混合で練習をする十分な理由になる。一年生の最初の頃は種目が決まっていないから、全員まとめて同じメニューをこなす。その時の指導は二年生の仕事だ。六交代制くらいでやってくるその中に彼女、土屋千鶴はいた。
 はっきり言ってしまうが、彼女は一年生から不人気だった。まず指導が厳しい。ストレッチ中に軽く無駄話をしようものなら即座に雷が落ちる。そして親しみやすさがない。他の二年生は部活に馴染みやすいように積極的に話しかけてくるが、彼女はそういうことをしない。男子ならば気難しい先輩程度の印象で済むだろうが、これは女子から特に不評だった。またこれは陸上をやっている以上仕方ないことだが、彼女はがっしりとした体格だ。太っているのではない。必要な筋肉をつけた結果女性らしい深みのある柔らかさでなく、サラブレッドのような細さと力強さを合わせ持った足腰になったのだ。そして最も下らない理由は彼女のバストが小さいことだ。本当に下らないと思うが、男子からの人気が地に落ちるには十分すぎる理由だった。
しかし、僕の彼女に対する印象は周囲と少々違っていた。中学の頃の顧問が彼女のような厳しい人間で慣れている。また彼女は無駄話をしないものの、必要な話はするし真面目な質問ならちゃんと答える。部活でしか会わないから何とも言えないが、彼女はとてもまじめな人間だと、そう記憶していた。それを確かめる機会もあった。
 期末試験も間近に迫ったころだ。試験一週間前で部活は休みになっていたものの、長い休みは長期間のリハビリを必要とすることを教わっていた僕は朝だけでも、と朝練のために普段より一時間も早く学校に来ていた。満足のいく練習には時間が足りないが、体を維持することは可能だ。そのために眠い目をこすって学校へ来た。荷物を抱えたまま部室へ行き、着替える。部室には当然誰もいなかったが、グラウンドに出るとそこに先客がいた。
「おはよう、金子」
「……おはようございます」
 やや面食らいながら先客、土屋に挨拶を返す。彼女はグランドの隅でストレッチをしているところだった。
「先輩、早いですね」
「別にいつも通りよ」
「もしかして毎日朝練してるんですか?」
「習慣だから。金子も朝練?」
「ええ、そうです」
「そう」
 それきりで会話が途切れる。この間彼女は一度も視線をこちらに向けずにストレッチを続けていた。
「手伝いましょうか?」
 後輩の務めかと考えて声をかけてみたものの、彼女はこちらを一瞥しただけで作業を続ける。おそらく拒否されたのだろうが、かえってその方がありがたい。面倒事が増えないのはいいことだ。
 その後二人は一切言葉を交わさないままそれぞれのメニューをこなし、予鈴が鳴る前に部室に戻った。

 それからの一週間と試験の四日間、僕は朝練を続けた。その間、彼女が僕よりも遅くグラウンドに現れることはなかった。僕が同じ時間の電車で登校したからか、毎朝グラウンドに行くと彼女は必ずストレッチの最中だった。
 僕たちの朝練はとても静かなものだった。
「おはよう」
「おはようございます」
 これだけの会話を済ませたら別々の練習を始め、時間になればそれぞれの部室に戻って着替え。各々の教室へと向かう。
 なんとなくだが、僕は朝のことを友達に話そうとしなかった。何も話すことがないもの事実だろう。だが放課後に友達と別れてからふと、何故朝練のことも彼女がいたことも離さなかったのだろうかと疑問に思った。
 そして朝練だが、期末テストが終わってからも僕は続けていた。たった十日程の習慣だったが、僕の体はその生活にすっかりなじんでしまった。テスト後はテスト休みに入るが、生徒の登校はもちろん禁じられていないし、部活によっては練習を再開している。不真面目な陸上部は完全に休みだったが、僕は朝練を続けることにした。それは彼女も同様だった。
「おはよう」
「おはようございます」
 僕たちの朝はこれから始まる。そしてテスト休みに入って増えたものがある。
「ストレッチ、手伝いましょうか?」
 後輩という立場を思い出したのか、それとも気まぐれを起こしただけなのか。どちらにせよ僕のこの発言は唐突なものだったのだろう。あの時と同じようにこちらを一瞥し、しかしこう言った。
「――お願いする」
 何を考えて答えたのか分からない。単なる気まぐれかもしれない。だが頼まれたことは事実なので彼女の後ろに回り、背中をゆっくり押す。前から思っていたが、彼女は相当に体が柔らかい。毎日の柔軟を欠かしては作れない体だ。
「…………あ」
「何?」
「いえ、何でもありません」
 薄い体操着からブラの線が見えたとは言わないでおいた。必要なほどのサイズがあったのか、とも。
 だが彼女は不穏な気配でも感じ取ったのか、すぐに身を起こしてしまった。
「ありがとう」
 それだけ言い残して彼女は走りに出てしまった。
「しまった、……かな?」
 気を許されたような感じがして、ついつい余計なことを考えてしまった。彼女から悪印象を持たれてしまったかもしれない。そんなことを考えると気分が暗くなってしまった。
 けれど彼女の態度は翌日からも変わることはなかった。
「おはよう」
「おはようございます」
「手伝いましょうか?」
「お願い」
 会話の量は倍に増えた。だがこれがまともな人間関係と言えるか、甚だ疑問だ。

 この関係は夏休みの練習が始まってからも同じだった。練習が午前からでも午後からでも、僕が朝に行くと彼女も朝からいた。会話もやることも変わらない。変わったのは太陽が最初の頃より力を込めはじめたくらいだ。
 練習が午後からのある日。いつものメニューを終わらせた僕は男子の部室でゲームをしながら暇をつぶしていた。部室には扇風機しかなく快適と言えない環境だが、わざわざ炎天下の中冷房のある場所まで歩いていくのも億劫。妥協案として部室で扇風機を独り占めしているのだ。
 部室にテレビとゲーム機があるのは中学と高校の大きな違いだと思う。どちらも校則で禁じられているはずだが、容易く破って持ち込むのは高校生なりの胆の太さか。いずれにせよ僕はその恩恵で無駄な時間を過ごしていた。
 一面から始めた横スクロールアクションが三面まで行った頃、不意に部室のドアがノックされた。
「どーぞ」
 答えると同時にドアが開く。スタートボタンを押して視線を送ると、入ってきたのは土屋だった。ここは男子用の部室となっているが、混合でミーティングをする時にも使われるため、女子の出入りも半ば自由になっている。
 彼女は無言で扇風機の首の固定を解除し、手近な椅子を風の届く範囲に置いて座る。そしてテレビ画面をじっと見つめていた。
「やります?」
 二人プレイにも対応しているゲームなのでコントローラーを掲げながら聞くが、彼女はいい、と首を振った。
「それ、マリオ?」
「ドンキーコングですよ。知りません?」
「知らない」
「まあ、二十年くらい昔のゲームらしいですからね」
 とはいえ、面白いものは面白いと思う。部室で初めて知ったゲームだが、今では結構熱中している。難易度がそれなりにあるのも好みだ。
「…………あ」
 言ったそばから穴に落ちる。残機が一減ってしまった。しかしゲームオーバーには遠い。セーブポイントから再開しようとしたとき、後ろから声をかけられた。
「――金子」
「やっぱりやります?」
「そうじゃなくて、……飲む?」
 何を? と振り返ると彼女はポーチから缶ジュースを二本取り出す。二本とも緑茶で、缶の表面には水滴がついている。
「いただきます」
 珍しい、と思いながら礼を言って一方と受け取る。プルを開けて中身を口に含むと、自販機のものの割にぬるい。冷え切ったものがよかったが、そこまで贅沢を言える立場でもない。流し込むように飲み干して彼女を見る。彼女は対照的に一口一口、ゆっくりと飲んでいる。そんな仕草すらも真面目に見える。気になって彼女の仕草をじっと見ていたら、視線に気づいた彼女と目があった。それに気恥ずかしさを感じて目を逸らすと、彼女は視線を合わせるように顔を覗きこんできた。
「何ですか?」
「こっちの台詞。どうしたの?」
「何でもありませんよ!」
 テレビに向きなおしてゲームを再開。しかしうまくいかずに残りの残機を無駄にしてしまった。

 夏休み中とはいえ、毎日部活があるわけではない。週に四日、午前か午後かの違いはあるが、それだけの日数しか部活は行われない。つまり週に三日、朝練をしてそのまま帰る日があるということだ。そんな日にわざわざ学校に来る必要もないのだが、僕は何かを期待して学校で朝練をしていた。
 そんな日は土屋と二人で帰るのが習慣になっていた。年頃の男女が休みの日に二人で歩いている。噂になるには十分な状況だが、実際は色気の欠片もない時間だった。僕も彼女も電車で通学しているが、帰るときは僕が上り電車で彼女が下り電車。つまり一緒に歩くのは部室を出てから駅のホームまでだが、その間の会話は一切ない。ただ一緒に歩いているだけだ。
「おはよう」
「おはようございます」
「手伝いましょうか?」
「お願い」
「帰りましょう」
「そうね」
 会話はここまで増えた。ただ互いの何かに踏み込む会話は一切しなかった。それがなんだか悔しくて、今日、僕はこう切り出した。
「少し寄り道しませんか?」
 気まぐれでも何でもない。そうしようと、朝から考えていた。初めて会った頃の彼女ならば無視をするように歩いて行っただろう。けれど今の彼女はこう答える。
「どこに?」
「あっちの商店街、あそこを歩いてみませんか?」
「わかった」
 彼女は頷いて歩む先を変える。僕は躊躇いのない歩きを慌てて追いかける。
 この商店街は、全国の例に洩れずさびれていた。ただスーパーが駅の反対側、少し離れたところにあるおかげでシャッターを下ろさずに済んでいるようだ。肉屋も八百屋も、電気屋も桶屋も客は少ないが確かに経営していた。それらの前を歩きながらどうでもいいことを話す。空を見て今日は少し涼しいな、と。野良猫を見て猫は好きか、と。駄菓子屋を覗いてどれが好きか、と。ぶっきら棒ともいえる彼女の返答では一問一答のようになってしまうのは難点だが。
「ねえ、金子」
 彼女から話題を切り出したのはガラス細工を店頭に飾った店の前だった。風鈴が澄んだ音を奏でる下で、彼女は足を止めて店を覗き込む。彼女の視線を追いかけると、僅かに青いガラスで作られた、鳩サブレに似たデザインの細工が置いてある。
「金子は、楽しい?」
「何がですか?」
「私といること」
 彼女は視線を動かさないまま言葉を続ける。
「私、金子と何か特別なことを話したこともないし、それどころか必要なことも最低限しか話さないし」
「それもそうですね」
「学年だって違うし」
「そういえばそうですね」
「つまらない女だし」
「それは違います」
 否定の言葉に彼女が振り向く。けれど僕は彼女と視線を合わせない。一方しか相手を見ない構図で彼女が問う。
「どこが?」
「最近は会うたびに思いますよ」
 ゆっくりと、思ったことを丁寧に言葉にする。
「先輩はいつも言葉をほとんど返しませんけど、僕はいつも楽しみにしているんですよ。こう言ったら何て返すだろう、って。先輩の言動って先が読みやすいようで、でもたまに違うことが起きるんですよ。――最初にストレッチを手伝った日のこと覚えてます? あの時は僕、絶対断られるだろうなって思ってたんです。でもお願いって言われて、それはどうしてですか?」
「分からない。断る理由がなかったからかもしれない」
「でも最初から断る理由なんてなかったんじゃないですか? その時も最初の時も状況に違いなんてありません。変わったのは心境だけだと思います。それが受け入れるなんて心境に変化した理由が、あの時から気になっていたんですよ」
「単なる気まぐれかもしれない」
「だけど先輩はそれ以外に二度、気まぐれを起こしています。僕が帰ろうと誘った時と、さっき寄り道しようと誘った時。合計三回も気まぐれを起こせば、それは心境の変化と呼んでいいと思うんです」
「前から思ってたけど、金子って変な奴だね」
「そんなことありません」
「じゃあ質問。私みたいな人間を例えるならどれだと思う?」
 そう言って彼女は視線を店内に戻す。つまり中にあるガラス細工から彼女のようなものを選べということだ。
 僕は店内に並ぶものを一通り眺め、その中の一つを指差す。
「……金魚鉢?」
 そう、指差したのは金魚鉢だ。球体の上部を開口して縁を反らせた標準的な形。縁は波打たせるようなデザインで、首の部分を紐で締めることが出来れば金魚すくいでもらう袋にも見えるだろう。ガラスはうっすらと青いのか、胴体部は透明に見えるものの、ガラスが厚く見える上端が遠くからでも鮮やかな青に見える。
「駄目ですか?」
「理由を教えて」
「大半が綺麗な曲線を描いてぶれないように見えるけど、上の波打っているところなんかは先輩の起こす気まぐれに似ているな、って。――こういうこと言うの恥ずかしいですね」
「やっぱり金子は変わってるよ」
「そうですか?」
「そう」
 彼女は頷いて体を起こす。
「――金子」
「何ですか?」
「もしかして、――私に惚れてる?」
「分かりません」
「私も分からない」
「何ですか、それ」
 彼女に目を向けると、向こうもこちらを見据えた。
「私、君のことどう思ってるか分からない」
「僕だって同じですよ」
「ならどうして寄り道に誘ったの?」
「分からないからです」
「余計に分からない」
 眉をひそめる彼女に一歩近寄る。
「ならまた寄り道しましょう?」
「今度はどこに?」
「お祭りとか行きたいですね」
「行ったら分かる?」
「それも分かりません」
 ただ、と僕はさっきの金魚鉢を見た。
「金魚すくいやりませんか? 一度も取れたことないんですよ、あれ」
「金魚が取れても困らない?」
「大丈夫ですよ、金魚鉢を手に入れますから」
「……やっぱり分かってるんじゃないの?」
 何が、と問うと彼女は答えずに歩き出した。急いで後を追うと、彼女は振り返って笑みを見せた。
「楽しみね、金魚すくい」

金魚鉢

金魚鉢ってエロいなあ、とか、そんなことを考えていたら思いつきました。金魚鉢のエロさを人に合わせようとしたら、なぜか思い描いていたものと違う人柄ができてしまったのが難点です。
正直年頃の女の子としては異常だと思いますけど、ほかの場所では普通であると祈っています。

金魚鉢

高校の部活で出会った、内面の見えない不思議な先輩との交流。 彼女はまるで金魚鉢のよう。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-14

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