哲学する猫

「さて、ここにまるまると太ったうまそうな魚が居たとする」
 と、塀の上に座っている猫が言った。白と濃いこげ茶がランダムに入りまじった毛色は艶めいていて、おそらく野良ではないのだろう。おでこの辺りで、白色が横方向の帯状に伸びている。どこかで見たことがあるな、と少し考えてようやく、そうだこれは、はちまきだ、と得心した。しかしなんというか、はちまきをした猫だなんて、なんだか滑稽だ。
「この架空の魚は、わたしと君の間―――」
 はちまきはそこで言葉を区切り、僕の足元のアスファルトを指すような仕草をした。僕がつい目線を落とすと、そうそう、そこだと言った。
「ちょうどそのあたりに流れている仮想の川。その知識の奔流とも言うべきものの中を優雅に泳いでいるのだ」
 言い終わるとはちまきは小さく鼻をならし、想像上の川を差していた自らの手をしげしげと眺めた。しばらく点検するようにじっと見つめていたかと思うと、おもむろにぺろぺろ舐めて、毛並みを手入れし始めた。掌を翻して、肉球まで丹念に。なにせきれい好きなのだ。猫、とりわけ理屈をこねるような猫なんてものは、たいていが潔癖と相場が決まっている。
 それにしても暑い日だ。はちまきの頭上は、道にせりだした青々とした木々に覆われていて、彼の鎮座する塀の上はとても快適そうに見えた。風が吹いて葉擦れがしゃわしゃわと注ぐと、反対側の手をきれいにしていたはちまきは目を閉じて、いかにも良い気分に浸っている、というふうだった。一方の僕はといえば、なんの遮るものもなく日光の直射を受け、あまつさえアスファルトからの照り返しを無防備のままに浴びせられている。そうして猫の垂れる講釈をえんえんと、「気を付け」の姿勢で聞かされているのだ。
 ようやく毛繕いが終わったらしく、はちまきは目をきちんと開いて、僕の目をぐっと見据えた。そうしてゆっくりと、続きを話し始める。
「さて、その魚を捕るにはどうしたらいいか。それを君は、知っている」
 そんなもの知らない、と言おうかと思ったが、すんでのところで呑み込んだ。口を挟んだところで、ただ面倒なだけだ。実際の僕はといえば釣りもほとんどしたことがないし、魚捕りの罠に至ってはその仕組みを想像することすらできないのだがとりあえず、もっともらしい顔でこくりと頷いておいた。
「しかし、だ。君はいったい、いつ、どうやってそれを身に付けた?」
 もう少しストレートに喋れないものかと思いながら少し考えて、どうって、経験ですかねと、いい加減な答えを返した。そうとも。経験と失敗と教訓の積み重ね。魚の捕獲方法はそれらの上に成り立っている。人間の世界では、少なくともそうだ。そうでなければ、いったいなんだというのだ。
 幸い、そんなつまらない一般論が猫社会においても正しいらしく、猫はうんうんと繰り返し頷いた。僕は少し安心して、額に浮いた汗を手の甲で拭った。
「例えばもし、だ。ところがそれが、まるで嘘っぱちだったとしたら、どうだろう」
 はちまきはそこでいちど言葉を切って、僕の目を見据えた。僕も負けじと見返す。沈黙と猛暑の中、ただただ視線を合わせ続ける。そのうちに背中を汗がつたう。耳の後ろにも一筋。ああもう、もったいぶってないで早く話してくれ。このままでは自分の汗でずぶ濡れになってしまう。それでも視線を離せずにいると、流れた汗が目に入って、やむを得ず僕は目を閉じた。はちまきが、ふん、と鼻をならす音が聞こえた気がした。
「そう、つまり―――君のその技術は経験によって身に付けたものではなく、ただ、ぐうぜん初めから知っていただけだったとしたら?」
 おそらく、はちまきが話したいのは、世界の始まりが本当は昨日だったとしても我々にそれを知り得る手立ては無い、という有名な哲学的な命題のことだろう。いったいどこでそんな知識を手に入れてきたのだろう、猫のくせに。
「てことはその場合つまり、僕たちがこれまで自分の人生だと思っていたのは」「誰かに偽造された記憶を、ほんとうだと盲信しているだけ」はちまきが猛然と遮った。
 あまりの勢いに、彼の中にふだん飼い慣らされた猛獣の、その片鱗を垣間見た気がした。
「―――ってことになるんですよね」、はは、と思いのほか情けない笑いがこぼれた。ああ、ちくしょう。さっさと切り上げてしまいたいのに。
「だとしたら、まあ別にいいんですけど、どうしてもっといい人生じゃなかったのかなあとは思いますね」
「ふむ、例えば?」すっかり識者気取りだ。
「もっと背が高い、とか、すでに金持ち、とか、無条件に異性にモテるフェロモンが自在に出せる、とか…」
 そこまで喋って、なんだかコンプレックスを告白しているみたいだと急にはずかしくなった。まさかそれを狙ってこんな話題を振ったのだろうか、とはっとする。はちまきの表情から特別に読み取れるものは無いが、それが逆に僕を嘲る顔に見えなくもなかった。だって、さっきも僕を鼻で笑ったではないか。疑心暗鬼。
 苦し紛れに、「あと空を自由に飛べるうえに目から強力なビームを放つ、であるとか」と付け加えてみたが、はちまきはそれを無視して先を続けた。
「人はそれぞれにまるで違った願望を抱きながら、みんなおんなじような顔をして生きているんだ。しかも大抵は、叶わなかった事柄に対して。何十億年前かあるいは5分前か、世界がいつ始まったかなんて知りもしないが、いずれにしても、どんな条件下においても、みんなおんなじだ。実際にはそうならなかった事を、あとになってから切望する」
 はあ、と生返事。まったく、よく喋る猫だ。
「ねえ、それが興味深いことのようには思えないかい。そもそもだよ―――」

 猫の話はまだまだ続きそうだった。気付かれないようにこっそりと、腕時計に目をやる。汗が頬をつたって滴った。
 ずいぶん大人しくなった蝉の声を聞きながら、僕は気まぐれに足を止めたことを後悔し始めていた。

哲学する猫

哲学する猫

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-14

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