ヒゲさん

 寂しい気持ちというは、どんな気持ちでしょうね。

            ヒゲさん   


 JR大塚駅から山手線に乗った。恵比寿に向かうためだ。どうって事はない、ウチで管理しているビルでの、ちょっとしたトラブルのため現場へ。よくある事だ。普段は基本的には車での移動が多いのだが、そのビルは駅前だし、近くに車を止めれる場所が少ないので、僕はスタッフジャンバーを着て、会社のロゴの入ったキャップをかぶり、恵比寿まで電車向かった。
 新宿に停車する辺りで気が付いた。いつから乗っていたのかはっきりとは思い出せない。気が付いたら目の前にいたのだ。池袋では確かに乗っていなかったのを覚えている。そこには別の人間がいた。だから目白か高田馬場、もしくは新大久保で一緒になったのかもしれない。
 僕はドアのすぐ横、椅子と手すりの間のスペースにもたれかかるようにしながら、なんともなしに車外の風景を眺めていた。時刻は夕方の五時を回り、外は薄暗く、電車内はそれなりに混み合う時間帯に差し掛かっていた。
 僕の目の前に、手すりをしっかりと握り、背すじを伸ばし、ドアの外をじぃっと眺めて立っているおじさん。何処かの清掃会社の清掃員だろう。うちの会社もビルの管理をしているので、その手の清掃会社と、何社か付き合いがある。
 青いツナギ、その上から黒のブルゾンを羽織り、足元には大きなボストンバッグが置かれている。きっと清掃に必要なアイテムがあれこれと入っているのだろう。
 おじさんといっても、「おじいさん」と呼んでもいいのかもしれない。きっと六十は確実に過ぎている。初老とでも言うのだろうか?白髪で、見事な白い口ひげを生やしていた。そしてもぐもぐと口を動かしている。ガムでも噛んでいるのだろうか。…ヒゲ?
 そう、見事な真っ白な口髭だ。
僕はとっさに帽子を目深にかぶり、顔を窓側へ向けた。何も僕自身に後ろめたい事があるわけでもない。ヒゲさんと僕の間に何か問題があったわけでもない。でも、僕はヒゲさんの顔をまともに見る事ができなかった。


 僕がまだ学生の頃だ。実家からの仕送りは、家賃のみ、という当時にしてもなかなか珍しい、厳しい親だった。大学の友人に、同じような環境下の人間はほとんどいなかった。それどころか、二十万とか、三十万近くの仕送りを月々もらっているような奴もいた。そしてそんな奴らに限っていつも「金がない金がない」とグチをこぼしていた。 だが今思えば、僕の置かれた環境はとてもよかったと思っている。甘やかされなくてよかった。
 僕は当然アルバイトをしていた。フリーターの人間と同じくらい働いて生活費を稼いでいた。
色んなアルバイトを経験したが、大学二年の冬から、卒業までの間、表参道と、銀座線の外苑前駅の間あたりにある、おでん屋でのアルバイトが一番長続きした。
 そこの店長の高津さんは近隣でも付きあいが広く、顔の効く人だった。僕らアルバイト連中は、仕事が終わるとよく近くの店に飲みに連れて行かれた。実際大学生なんて今にして思えば気楽なものだ。次の日の事など気にしないでしょっちゅう飲みに行っていたのだ。
 外苑西通りから小道に入ったところにある、カラオケパブ、「アゴヒゲ」が、カラオケ好きの店長の一番のお気に入りだった。大抵近場の居酒屋か、焼き鳥屋で一杯引っかけてから、「アゴヒゲ」に行って、シーバスリーガルのボトルを飲む。僕はいつも濃い目の水割りをちびちび、店長は薄い水割りをハイペースで飲んでいだ。
 その店はカラオケ・パブといっても、本格的なカクテルも出す、なかなか気品のある、敷居の高そうな店だ。金額は、今の僕でも気軽に入れないような単価だった。
 オーディオ・システムが自慢で、素人耳にもそこのカラオケの音楽はまったく別物だな、と感じれるほどだった。大理石のカウンター、ビロード地の絨毯、適度に硬く、だがやさしい座り心地のソファー。まあ、作りだけでいったら、全てがバブルの遺産でできたような店だ。でもそんないやらしい感じはしない。むしろ僕は居心地の良さを感じたくらいだ。
そしてそこのマスターはきれいに整えられた白いヒゲをはやしていた。皆彼のことを「ヒゲさん」と呼んだ。
 偶然にも僕の出身がヒゲさんと同じ長崎県だったせいもあってか、僕は妙に気に入られていた、と思う。
「故郷にはよく帰るのか?帰ったほうがいい。俺なんかさんざん親不孝したからな。好き勝手に生きてきたもんだ」
ヒゲさんは低く艶のある声で、よくそんな事を言っていた。
 実はこのヒゲさんは、僕の親くらいの年齢の人なら、大抵名前くらいは知っている、そこそこ有名な歌手だった。一応、昭和の歌謡史を彩った一人だ。僕は名前も、彼の持ち歌もほとんど聞いた事がなかったが、帰郷した際に母親にヒゲさんの事を話すと「はいはい、知ってるわよ。へぇ、今そんなことしてるの」とさして興味なさそうに話をしていた。
 カラオケで客にせがまれると、機嫌の良い時、たまに自分の歌も歌う。でも大抵は人のコーラスに回る。
 歌声は、普段よりもさらに艶のある、しっとりとしたいい声だった。僕はそれまでプロの歌手が目の前で歌うのを聞いた事などなかったので、正直に感動したし、その声はいつ聞いても皆をうっとりさせた。
「九州の男はよく酒を飲むんだ。だから君も飲みなさい。何でもいい。酒と男は切っても切れないもんだ」
 店長が入れたシーバスリーガルのボトルの他にも、ヒゲさんはマティーニやら、マンハッタンやら、色々なカクテルも作ってくれた。ウイスキーの水割りなんて飲めない女の子も喜んだし、僕も九州男児、酒はなんでもいける口だから、ウイスキーに飽きたら色々カクテルも飲んだ。
 ヒゲさんは僕や店長のように、親しい人とはよく話すが、あまり親しくない人相手だと結構口下手だった。大勢の人の前で、ステージで歌なんか歌ってたのに、意外と照れ屋で人見知りをしてしまうらしい。よくそれで客商売ができたもんだ。でも店が続いているのは奥さんのおかげなのかもしれない。
 「アゴヒゲ」の従業員は基本的にヒゲさんと、その奥さん、通称「ママ」の二人だ。あとは週末だけ「女の子」、とヒゲさんは呼ぶが、「女の人」、が一人来ている。僕は大抵平日に飲みに行くことが多かったので、二回くらいしかその「女の子」を見た事がない。年齢は知らないが、おそらく四十近いだろうと思った。悪い人じゃないし、どことなく垢抜けないおっとりした人だったけど、どう考えても二十歳そこそこの僕からは「女の子」とは思えなかった。
 ママは明るく、いつも笑顔の絶えない人だった。夜の商売だけあってか、服装や化粧は派手だったが、僕も他のアルバイト連中も皆ママのことは好きだった。気風がよく、人の話をうまく聞きだし、それを自然に、そして上手に聞いてあげることができた。だから男女問わず、ママには悩みを打ち明けた。
「さあ、どんどん歌えよ、ソレッソレッ」
ヒゲさんはそんな冴えない合いの手を入れながら、誰の歌でも盛り上げようと努めた。コーラスを頼まれれば、大抵の曲は即興で僕らのへたくそな歌を色づけしてくれた。誰かが当時流行っていたラップの歌を歌った時は顔をしかめていたけど。
 皆「アゴヒゲ」が好きだった。仕事が上がり、カラオケと言えば、僕らおでん屋の面々は、必ず「アゴヒゲ」。普通のカラオケボックスには、まず行かなかった。
 
 
 山手線が原宿で停車している。ヒゲさんは足元においてあるバックを面倒くさそうに、足を使って自分の方に少しよけた。乗り込んできた客の邪魔だったのだろう。僕は帽子を深くかぶり、ヒゲさんの様子をじっと眺めていた。こちらに気付かれないように。だけどヒゲさんは僕の事などまったく気にも留めてはいなかった。ずっとぼんやりとした顔つきで窓の外を眺めている。
 白いシャツに黒いベスト。蝶ネクタイ。背すじを伸ばし、その落ち着いた声や、佇まいが、格好イイな、と僕はよく思っていた。歳をとるなら、こんな風に格好よく歳をとりたいとも思った。僕の知っているヒゲさんは、さっきのような、バッグを足でよけるなんて、緩慢な動作をする人ではなかった。ガムなど噛んで電車に乗るような人ではなかった。本当に同じ人物なのだろうか?僕は何度もそう思いながらヒゲさんの顔を帽子の影から盗み見た。だが残念ながら見れば見るほど、今僕の目の前にいる人物は「ヒゲさん」に間違いなく、確信が高まるだけだった。
 最後に会ったのはもう何年前の事だろう?あれは僕がおでん屋のバイトを辞めて、今の会社に就職し、その夏に、一日だけおでん屋に手伝いに行った日だ。神宮外苑の花火大会の日で、もう五、六年前の事だ。
 僕らが一年で一番忙しい一日を終え、店長と二人で「アゴヒゲ」の重たい二重扉を開けたのは午前一時を過ぎていた。いつもなら大抵他の従業員も連れてくるのだが、その日は珍しく店長と二人だった。
 「アゴヒゲ」は相変わらず暇そうだった。僕らと入れ替わりに常連客らしき三人組が出て行った。きっと花火を見た後に「アゴヒゲ」で飲んでいたのだろう。彼らが帰るとお客は僕と店長二人だけになった。
 花火大会の余韻と、久々のおでん屋のバイトで気分が紅潮していたのか、僕はその日、しこたま飲んでしまった。店長と飲んだとはいえ、キープしてあったボトルを軽く開けて、もう一本入れたシーバスリーガルのボトルも、ずい分と減らした。
 ヒゲさんもそのボトルを一緒に飲んだ。ずいぶん飲んだ。いつもの飲み方とは違った。その時はきっとヒゲさんも僕と同じように気分が良かったのだろうと思っていた。
「よおし、どんどん飲め、歌うなら番号言えよ」
僕はへたくそなカラオケを歌い、店長はいつの間にかマイクを持ったまま、酔っ払ってソファで眠ってしまった。きっと疲れていたんだろう。朝早くから仕込みをしていたのだ。
店長が眠ってしまってからも、僕はまだご機嫌で飲んでいた。ヒゲさんは珍しく、自分自身の歌を歌ってくれた。僕が歌ってくれとせがんだのかどうなのかは、よく思い出せない。かなり酔っ払っていたのだ。
 歌本には三曲、ヒゲさんのかつてのヒット曲が載っていた。その内の一番売れたという一曲は、かろうじて僕も耳にした事があったが、あとの歌はまったく聞いたことはなかった。だが聞いた事がないとはいえ、やはりプロが目の前で、自身の持ち歌を歌ってくれるのだ。僕はうれしかった。
 目が覚めたのは「アゴヒゲ」の一番角にあるソファだった。いつの間にか酔いつぶれて眠ってしまっていたらしい。
「お、起きたか?俺もちょうど帰るところだ。高津さんからタクシー代預かってるからな」
 ヒゲさんは私服に着替えていた。僕はその時ヒゲさんの私服姿を始めて見た。地味なスラックスに、地味なジャケット。こげ茶色のハンチング帽をかぶっていた。
まるで別人だ、僕は思った。
二日酔いで頭がガンガンと痛かったし、ヒドイ吐き気に見舞われてたが、その時の印象は忘れられない。あんなにカッコよかったヒゲさんが、ただ年寄りくさい、地味なおじさんだったという事が。
 店長はとっくに帰ったらしく、「ママ」も先に帰ったという。僕らは一緒に店を出た。ヒゲさんと並んで階段を下り、朝の日差しがまぶしい、人気のない道路の上を歩く。
 ヒゲさんはずい分背が低かったんだなと、うつろな頭で思った。店を一歩出ると、さらにヒゲさんは老け込んで見えた。思えばヒゲさんは店の中でしか会った事がない。こんな風に朝日に照らされて、私服姿で表を歩く姿なんて想像できなかった。その時のヒゲさんの表情は僕が今まで知っていたヒゲさんの顔ではなかった。疲れた顔をした、その辺にいるおじさん。ああ、きっと仕事中は何かと無理しているんだろうな、と思いながら、僕が先に青山通りでタクシーを拾い、そこで別れた。それがヒゲさんと最後にあった日の事だ。
「気ぃ付けてな」
そんな何でもない台詞が耳に残る。
 

 その次の年の冬だったと思う。久々におでん屋に、今度は客として、当時付き合っていた彼女と行ったのだ。週末で、次の日は僕も彼女も休みだったので、店長さえよければ店が終わった後、「アゴヒゲ」に行ってカラオケでもしようと思っていた。もちろん店長のボトルで。
 だがその日僕は終電前に帰ることになった。彼女は一人で帰った。大抵週末はどちらかのアパートに寝泊りしていたのだが、僕は一人で勝手にイライラし、彼女にひどい態度をとってしまった。今でもそれは後悔している。
 「アゴヒゲ」の前を通った。おでん屋に行くには少し遠回りだが、何となく歩きたい気分だったのだ。
 一階はコンビニエンスストア、三階と四階はなんかのオフィス、その上はマンション。そんなビルの二階に「アゴヒゲ」はある。
 あれっ、おかしいな、看板がない。僕は階段を駆け上がり、入り口の前まで行った。だがそこは何度も通ったカラオケ・パブ「アゴヒゲ」ではなく、無残な廃墟だった。ドアは壊れ、大きな看板も外されて、薄汚いコンクリートの壁に、その看板の跡だけが白く残っていた。ガラスが何枚が割れて、それを適当にガムテープで貼り付けて治そうとでもしたのか、余計に収集のつかない状態になって、より一層荒れた様子を露呈してた。割れたガラスとガムテープの隙間から中を覗いたが、真っ暗で何も見えず、中からカビと埃の混じった、いやな臭いがしただけだった。

「お前が来たら、話そうと思っていたんだ」
高津店長は言った。「アゴヒゲ」はもうないのだと。
詳しく説明をされたのは少し客が引いた頃だった。
「夜逃げ、って言うのかな…。今時ね。でもそういう人達もいるんだよ。可哀想にな」
 僕はそのとき初めて知ったが、店長も三十万円ほど、お金を貸していたらしい。
僕が「アゴヒゲ」にしょっちゅう通っていたのは学生の頃で、何も考えてはいなかったが、確かに「アゴヒゲ」はいつも暇そうだった。古くさい作りで、料金もかなり割高だったから、無理もないと思う。一部の常連客に支えられ、かろうじて持っていたのだろう。
「その借金は…、なんか、こう…、法的に、措置って言うか、なんつーか…」
僕が聞きたいのは、そんな事じゃないのに、そんなどうでもいい事しか尋ねられなかった。僕のおでんはすっかり冷めて、三杯目のビールは泡がなくなっていた。
「いや…、いいんだ。金は貸した時から返ってくることなんか気にしちゃぁいない…。ただ…」
そこまで言いかけると店長は他の客にビールを頼まれ、「はいよ」と言って生ビールを注ぎに行った。
ただ…、なんとなく店長の言わんとしていることは分かった。金の話ではないんだ。そういう問題ではないんだ。男同士の事だ、大人同士のことだ。そんなことじゃないんだ。
 店長はそれからまたカウンターの中に戻ると、おでんの種を追加したり、火が入り過ぎた大根を一旦汁の中から出したり、ちくわぶを違う仕切りの中に移動させたりしていた。僕は店長が何か話すのを待っていたが、彼は黙々と仕事をこなし、時々思い出したかのようにタバコを吸うだけだった。
 僕はぬるくなったビールを飲み干し、ホールにいた、ヒゲ面でピアスをしたアルバイトの男に日本酒を熱燗で頼んだ。こんな気分だ、酒でも飲もうと思った。
 呼び止めた従業員は僕の知らない人間だった。きっと最近入った学生だろう。ベテランの従業員は皆顔見知りなんだ。だがその男の態度はあまりよく感じられなかった。接客が横柄というか、態度がでかいというか…。いや、認める。あの時はきっと僕自身が変な精神状態だったのだ。誰が来ても、どんなしっかり接客できる人間でも、粗や欠点を探し出し、「なんか気に食わねぇヤツだ」と思ってしまったに違いない。
「おい、客に呼ばれたんだから、キチンと返事くらいしろよ」
僕は二本目の熱燗を追加する時に、もう一度その男を狙って呼び止めた。そしてそのアルバイトの男が返事もそこそこにオーダーを取りに来ると、とっさにそんな言葉が口から飛び出た。ホントに、今考えると恥ずかしいし、胸が痛い。
「申し訳ありません」
彼の対応は決して悪くはなかったのだ。
「あのさー、お客さんってどんなものなのか考えた事あんの?俺は昔ここで働いてたんだけどさ、もっと昔は皆しっかりやってたぜ」
「はぁ…」
少し表情が曇った。無理もない、知らない人間にいきなり先輩面されてイチャモン付けられたんだ。顔に出ないほうがおかしい。と、心のどこかでは僕もそう思っていたんだ。
「おい、何むすっとしてんだよ、忠告されて逆ギレかよ?」
「ねえ、やめなよ」彼女が悲しそうな顔して僕をなだめるが、僕は完全に無視した。
「学生だろ?いいよなぁ、遊び半分で働いて金貰ってんだもんな」僕は過去の自分の事を完全に棚に上げていた。よくそんな事が言えたものだ。
「いや、そんなんじゃないです、スイマセン」
彼はうつむき、眉をしかめた。
「おい、やめろやめろ。どうしたんだ?」
見かねて店長は僕にそう言った。
「まあ、話しなら店終わってから俺が聞くから、おとなしく飲んでろ。ウチのもんにからむな」
(ウチのもん)。当然そう言うだろう。自分の店の従業員が客にインネンつけられてるんだ。
だが僕は、店長が自分に見方してくれなかった事が、さらに面白くなかった。もう僕は店長から(ウチのもん)とは呼ばれない。当然だ。僕はとっくに辞めた人間だ。だがその分かりきった事実にさえ、苛立ちを覚えてしまった。
 僕はふてくされた顔で酒だけ飲んだ。彼女とも何も話さなかったし、おでんには手を付けなかったと思う。そして挨拶もそこそこにして店を出た。店を出る頃になり、ようやく後悔の気持ちが湧いてきたが、それを自分でも認めたくなかった。
「ねえ、私よく分からないけど、さっきのちょっとひどいんじゃない?あんなに言うことないじゃない」
店を出てから地下鉄の駅まで歩いていると、彼女がそんな事を言った。僕はそれを聞いて、またカッとなってしまった。
「じゃあ、お前はアイツの態度が正しいって言うのかよ?」
「正しい、とかそういうんじゃないの」
「じゃあ何なんだよ?」僕は自分でも分かっていたのだ。(むしろ僕が間違っている。かなり僕の方が悪い)。でも、もうどうにもならなかった。
「私、今日はもう帰る」
「ああ、勝手にしろ」
 彼女は足早にコートに手を突っ込み、西通りのゆるい坂道を下り、青山通りを表参道の方へ、一度も振り返らずに歩いた。寒さのせいで背中を丸くすぼめていたのがやけに印象に残っている。
 僕は彼女の姿が完全に見えなってからもそこに立ち尽くしていたが、彼女が確実に戻ってこないということを理解すると、西通りから一本路地に入り、また「アゴヒゲ」の前まで来た。様子はさっき見たときとまったく同じだった。そこだけ時間が止まってしまっていた。
 僕はそれから寒い中、トボトボと渋谷までの道のりを歩いて帰った。胸の中はさっきのことで後悔がいっぱいだった。あのアルバイトの学生、彼女。そしてヒゲさんのことを考えるとやりきれなかったし、店長の事を考えると胸が痛くなった。

 
「俺はねぇ。東京にもう何十年といるが、実は相当なイナカモンなんだよ」
 そんな話をしたのはいつだっただろう。
「俺みたいに都会に憧れて上京した人間ってのは、結局中身はずい分イナカモンだと思うのよ」
「そんなもんですかねぇ…」
「ああ、そんなもんだ。つらい時や、どうしようもない時にな、胸に残ってるのは田舎の景色とか、匂いとか、思い出すのはそんなんばっかだ。そりゃぁ華やかな時代もあったよ、色んな事があったさ。色んな所に行ったし、色んな奴等と知り合った。でもね、そういうのってのは、寝たら醒めちまう夢みたいなもんだ」
 僕には当時ヒゲさんの言っていることがよく分からなかったし、正直今でもよく分かっていないのかもしれない。僕が九州の片田舎に住んでいた頃、確かに都会に憧れた。つまり僕もヒゲさんのいうイナカモンの一人だ。そして今の僕の生活は、華やかではないが、ひょっとすると「寝たら醒めちまう夢」みたいなものなのかもしれない。
「田舎には帰ってんのか?」
こんな質問はしょちゅうだった。
「いや、一年に一回行けばいいほうですね」
僕は毎回そう答えた。そのたびに田舎の風景をぼんやり思い出した。


 山手線は恵比寿に到着する。僕はそこで降りなければならない。ヒゲさんはまだ降りる素振りを見せない。確か以前は武蔵小山に住んでいたはずだ。まだそこに住んでいるなら目黒で乗り換えるのだろうか?たしか子供はいないはず。なら奥さんと二人で細々とやっているのかもしれない。
 僕はヒゲさんが目黒駅で東急線に乗り換えるところを想像した。僕の想像のヒゲさんはどうしても、黒のベストに蝶ネクタイをした、夜の顔をしたヒゲさん。だがそんなヒゲさんが人波にもまれ、東急線の電車で運ばていく姿は何となく滑稽で、痛々しく、それは僕の胸を締め付ける絵だった。だからそんな残酷な想像をすることを止めた。
プシューッと音を立ててドアが開く。
ヒゲさんは相変わらず背すじを伸ばし、ドアの外へ顔を向け、手すりをしっかりと握り締め、ガムを噛んでいた。よく見るとあの頃よりも少しふくよかになった気がする。顔色もいい。ひょっとして不規則な夜の仕事よりも、朝から体を動かしている今の方が健康なのかもしれない。
 僕はそれほど混み合っていない車内から、電車を降りる人達にもまれながら外へ吐き出された。そして電車はまた新しい人々を受け入れる。
「幸せなのかな…」そんな事を考える。だがもちろん僕に分かるはずない。
プシューッと、開く時と同じような音を立てて扉が閉まる。ヒゲさんはまだ同じ場所に立っていた。僕にはやはり気付いていないようだった。それとももう僕の事なんて忘れてしまったのかな。でもそれでも構わないと思う。
僕はヒゲさんを乗せた山手線が動き出すのをぼんやり目で追いながら、エスカレーターに群がる人ごみに加わった。

ヒゲさん

ヒゲさん

ヒゲさんは昔アルバイトをしていた頃、よく通ったカラオケ・パブのマスター。 山手線で見かけたヒゲさんは、僕が知っているひげさんとはずいぶん違った様子だった。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-06-12

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