楽園へ……

 添付ファイルを開いたら、そこには新たな世界が広がっていた。
 これは私の夢見た世界、自由と平和と笑顔が溢れてる。思い切って飛び込む、だってずっとこの時を待っていたんだから。
 イン!
 そこに待っていたのは、愛らしいウサギさんではなく、闇より黒いコウモリだった。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」
 まあ、まだ始まったばかり、これからよ。
「どうすれば、楽園の扉は開かれるのかしら?」
「ではまず、住所氏名電話番号を入力し、それからクレジットカードの番号とパスワードを入力してください」
 コウモリは微笑を浮かべながら、しゃがれた声で答えた。
 なるほど、まずは自己紹介が必要ということね。
 趣味は血液型占いっていうのは、どこに書いたらいいの? 住所の最後に書いておくか。
「はい、入力完了、と。……エラーって出たけど、ねえ、行けないの? 私は行けないって事なの? 心が汚れているから?」
「クレジットカードの番号が入力されていませんよ」
 コウモリは、やさしく答えた。
 だってクレジットカードなんて持ってないし、キャッシュカードでいいのかな、と思ったらそれも無いんだった、親に取り上げられたんだ。
「ええと、無いの」
 コウモリは、はっとした顔をして
「そうですか、さようなら」
 と言った。そしてその瞬間、私は自分の部屋に戻っていた。
 だめだった、最初で最後のチャンスかもしれなかったのに、だめだったんだ。私は落胆のあまり、ここ1ヶ月のメールを順々に読みふけっていた。
 9割は迷惑メールだった。まったく、引っかかる奴の頭の中を見てみたいよ、きっとダンゴムシがいるんじゃないの。
 でも添付ファイルは無くなってる、さっきクリックしたはずなのに見つからなかった。
「おかしいよ!」
 私はクリックした。叫んだ瞬間に、手に力が入ってしまったみたいだ。だからなのかどうかはわからないけど、画面はピクリとも動かなくなった。メールの文字は、■に変わっている。
「もう、寝る、アホか!」
 電源ボタンをいつもより強い力で押し、服を脱ぎ散らかしてベッドにもぐり込んだ。ああ、もう不幸のどん底、そんな気分だった。その割には、すぐに熟睡だったわけだけど。

 ジリリリリ、ピヨピヨ、ホーホケキョ。
 朝? ねえ? 朝?
「そうでございますよ、ご主人様」
 ああ、そうなんだ……ん?
「誰?」
「執事でございますよ、ご主人様」
 ああ、執事か。
 私は思い出そうとした、でもだめだった、だって昨日はコウモリに冷たくあしらわれただけのはずだから。この高齢の紳士、簡単に言えばじいさんは誰なのか。
「いかが致しましたか、ご主人様」
「ごめんなさい、あなたの名前がわからなくて」
「わたくしめは、ダニエルでございます」
「へえ、日本人に見えるけど、外国の人なの?」
「その質問にはお答えしかねますね、ひとつ言えることは執事だということです」
 なるほど、とりあえずものすごく怪しい奴だということはわかった。
「で、何でここにいるんだっけ?」
「そんな、お忘れになられたのですか? しかし、わたくしめの口からは、ご主人様に失礼になってしまいますから」
 うまくごまかされた感じだ。でも、最初から結論は決まってる。
「とにかく、出てってくれない?」
 文脈からしたら突然の解雇勧告だったかもしれない、でも結構間を取ったつもりだった、だからそんなに不自然ではないはず、それよりも早く出て行ってもらいたい気持ちを優先した結果だ。
「わかりました、ご主人様がそう仰られるのであれば、わたくしめは従います、執事として、では失礼致します」
 ダニエルは去って行った。
 玄関の鍵を閉める音が。
「ちょっと! 鍵返してよ!」
 ダッシュで鍵を取り返した。一体なんだったのか。
 そしてそれ以来、2度とダニエルの姿を目にすることはなかった。
 変なことばっかりだ、ひょっとして夢? 夢オチ? いや、そんなことはないはず、起きてると思う、夢を見ている人は自分は起きてると思う事もあるけど、今は違うはず、根拠は無いけど。
 まあ、今日もとりあえずバイト探しでもするかな、ニートではないことを表明するために。ってことで、ポチっとパソコンの電源を入れた。
「あれ、おかしいな、あれ、何? 何? ちょっと、何?」
 電源が入らない、焦った私はスペースキーを連打した、私の必死の思いをパソコンに伝えるために。でもだめだった、私の想像上のモールス信号もパソコンには伝わらなかったみたいだ。
「仕方ないなー携帯で誰か呼ぶかなー、パソコンを直す的な意味じゃなく、暇つぶし的な意味で」
 携帯を手に取ると、ブルルッと震えだした、あれ~、マナーモードにしてないはずだけど。
「やばい、ちょっとトイレ行かせて」
 携帯から声が聞こえてきた。
 おかっ、おかしいな、通話にもしてないし、まだ何も。
 でも、携帯を持ってトイレに行った、頼まれたら断れないたちなもんで。
「ふ~、サンキュ、間に合ったよ」
 別に、携帯から液体とかが出るわけじゃなかった、私は何しに来たのか。
「もしもし、誰?」
 もう思い切って聞いた、色々慣れっこになっていたから。
「ああ、俺だよ、俺、わかるでしょ」
 はっとなった。
 これはおとといコンビニで見かけた、ちょっぴりワイルドで、それでいて知的な感じもあり、鋭い眼差しがセクシーなあの人じゃあないだろうか、きっとそうだ。
「ああっ、はいっ、わかります、なななんでしょう」
「実はさ、ちょっと困ったことがあってさ、相談に乗ってほしくって」
 できるだろうか、いやできる、私はできる子だから。
「はいっ!」
「俺……、実は……」
 大丈夫、心の準備はできてる、どうにか間に合った、間に合わせたよ。
「男が……、好きなんだ……」

 プツッ。

 あ、そうだったんだ、それなら仕方ないよね、そう、それなら仕方ないよ、うん仕方ない、仕方がないことだよ、仕方がないこともあるよ。
 そう思った、そう思うしかなかった、だって名前もわからないし、顔もうろ覚えだったし、着信履歴も残っていないから。
 でもせめてちょっと待っていてくれれば、私もそっち方面に理解がないわけじゃなかったのにな、そう思った。
 そうだ、気を取り直して電話だ、まだその気持ちは無くしてはいない。
「あー、私だけど、うん、そう、今から来ない? うん、ああ、そうなんだ、うん、ならいいよ、うん、頑張ってね、うん、それじゃ」
 そっか、これからバイトの面接か、やばいな、私もなんとかしないと。と言いながら、携帯サイトを見続けているっ! 小1時間ほどっ! もうだめかも! と思ったら、時給1万円当日払いって書いてある! これだ!
 私は疾風のような指捌きで、個人情報を入力し、エントリーした。
 すぐにメールが届いた。
『エントリーありがとうございます。今すぐそちらにうかがいます』
 出張面接か、気が効いてるなぁ、売り手市場だね。
「お待たせ致しました」
 おまえは!
 執事!
 って言うか、いつの間にか上がりこまれてる!
「あんた、ええと、ダニ、ダニエル、だったっけ?」
「いえ、わたくしめはジョセフでございます。ダニエルという者は存じませんね」
 ああ、そうなんだ。
「それでは、早速ですが面接を始めたいと思います、よろしいでしょうか?」
「ああ、すいません、その辺に座ってください、イスとかは無いですけど、じゅうたんのところにでも。私はお茶を入れますね」
 執事の表情が、はああっと変わった。
「いえ、ご主人様にやらせるわけには参りません、それはわたくしめが」
 いや、でも私の家なわけで、あなたは面接官なわけで、なんでやかんの場所を知っているのかと思うわけで、そうこうしている間にお茶が出されてるわけで。
「ああ、どうも」
 そんなわけで、自宅で面接が始まった。
「ではまず、ご自分の一番嫌なところを教えてください」
 いやあ、ひどい圧迫面接だ。
 執事の豹変ぶり、好々爺の表情が般若の形相に変わり、自分の部屋なのに一刻も早く出て行きたいと願わずにはいられなかった。
 でも頑張ってみた、嫌なところは毎日家でネットサーフィンばっかりして、食事はカップ麺で済まし、だらだらと過ごしていることです、と答えておいた。
 正直だと思われたいと思って。
「合格です!」
 よかった、自信はあったけどちょっぴり不安もあったから、ちょっぴりだけどね。
「では早速、働いていただきます、こちらに着替えてください」
 そうだ、そう言えばどんな仕事なのかよく確認してなかった、時給に目が眩んだだけだったもんね、面接では自己紹介しかしてないし。
 そして渡されたのは、高露出メイド服だった。なるほど、そっち系ってわけか。そりゃそうよね、あの時給なら、常識的に考えて。
「これを着て、お金持ちの豪邸に住み込んでいただきます」
 ほう、思ったよりまともそうじゃないの、私はてっきり場末のメイド喫茶で、他のメイドは全員40以上なのかと思ってたもんね。
「どこなの、その豪邸は?」
「こちらでございます」
 あった、私の住んでるアパートの向かいに建っていた。公園かと思ってたんだけど、入れないからおかしいとは思ってたんだ。

 そんなこんなで高露出メイド服を身にまとい、向かいの壁の前まで来ていた。
 ジョセフが着替えを手伝うといってかなり抵抗してきたけど、なんとか追い出して、1分もかからず着替えた、着替えの早さには自信があるんだ。
 それにしても結構冷える、よく考えたら、現場で着替えてもよかったのでは、という気もしてきた。
「わたくしでございます、旦那様。こちらが新しいアルバイトの方でございます」
 すると、ただの壁だと思っていた目の前の大理石が、凄い勢いで動き出し、だだっ広い草原が姿を現した。そして遥か向こうの丘の上に、豪邸らしき建物が建っているのが見えた。遠い上に比較するものが無いので、どれくらい大きいのかさっぱりわからない。
「参りましょう、つかまってください」
 ポワーン、ポワーン。
 飛んでいた、いや、正確には跳んでいたんだ、私はジョセフの背中で、風になった気持ちになっていた。しかしこの格好では、太ももの辺りがかなり厳しい。冷え性なのに。
「あら、ジョセフさん、お迎えに上がりましたのに」
 見ると、メイドさんが電気自動車に乗ってやってきていた。
 年の頃は40代くらい、ある意味、私の予想は正しかったのかもしれない。ただ、露出は低くなっている、その辺は自重しているのだろう。
「ああ、すいません、どうにもせっかちなもので」
「いくら100m5秒だといっても、人一人抱えていたのでは疲れてしまいますよ」
 ということで、ジョセフと私は、電気自動車の後部座席に乗り込んだ。よかった、空調が効いている。
「わたくしは、メイド長を務めさせていただいております、エリザベスと申します、よろしく」
「あ、私は今日からここでアルバイトすることになった井上です、よろしくお願いします」
 ふう、でもどう見ても日本人に見える事は指摘しない、それが礼儀だって事は理解しているつもりだから。
「まあ、ほんとは日本人で佐藤なんですけどねー、おほほほ」
 勘違いだったみたいだ、ざっくばらんな人なのだろう、この前の執事とは大違いだ。
 2分ほどで、豪邸に着いた。
 さすがに、ここで1時間とかはかからないんだな、もしかかったとしたら、メイド長は1時間前から出発していたことになるしね。
 豪邸は大きさで言うと上野の国立科学博物館くらいの建物だ。ゴシック風というのだろうか、よくわからないが言ってみたかった感じだ、どこかで聞いたことがあったから。
 玄関のドアは、人間が開くのは不可能じゃないかというくらい巨大だった。
 でも、メイド長が片手で軽々と開けていた、パワステ的なものだろうか。
「では、まずご主人様にご紹介致します」
 やばい、緊張してきた。
 館の主の部屋は、入ってすぐのところにあった。
 いや、ここは客間だろう、常識的に考えて、と思ったが、奥まで行くのがめんどくさいからとのこと。
「ああ、君かね、新しいメイドというのは。ほうほう、なるほどな」
 主人は、一見すると30そこそこのすらりと背の高いイケメンで、高そうな毛皮のバスローブをまとっている。左目の下の泣きぼくろがチャームポイントだ。
「は、はいっ、今日からこちらで働かせていただきます、井上ですっ、よ、よろしくおねがいしますぅ」
「ああ、頑張ってな。しかしもう着替えているとはね。楽しみが1つ減ってしまったよ」
 で、ですよね~、まあ、ちょっと通常のメイド服よりは露出が多めだけど、隠すべきところは隠れているのだし、別に問題ない、むしろひも状の水着を着ろと言われたとしても、着る覚悟はあった、あの給料であれば。
「いかがでしょう? 似合っておりますでしょうか?」
「ああ、いいんじゃない、エリたん後は頼んだよ」
「はい、ご主人様」
 メイド長が答えた。
「じゃあボクは寝るから」
 とご主人が言うので、メイド長に部屋の外へ連れ出された。
 これだけか、もっとお触りとか、言葉攻めとか、視姦とか色々あると普通思うだろうに、普通にメイドの仕事をするとでも言うのか、そんな普通な。
 そうだった。
 普通に掃除をし、普通に洗濯をし、普通に昼食を作った。
 それでいいんだ、まあ、それでもいいけど、金が目当てだし、メイド長もたまに細かい指摘をしてくるけど、いつも笑顔だし、こりゃあ楽勝バイトだね。
「ああっ!」
 ガッシャンンアンアン。
 やっちまった、こりゃあやっちまったように思う、だってかなり高そうな花瓶だもん、死んだ、もうだめだ、一生ただ働きだ、産まれてきてごめんなさい。
「ご主人様! ご主人様!」
 ああ、終わった、もう。
「おお! これだ! これがドジっ子メイドだ!」
「やりましたね、ご主人様!」
「ああ、でかしたぞ、エリたん」
 あれ。
「いやあ、待ってたよ、この場所に花瓶を配置しておいてよかった、もうちょっと右寄りにしようか迷ったんだけどね~、よかったよ」
「あの、どういうことでしょうか?」
「うむ、実のところドジっ子メイドが見たくなってなぁ、急に。でもエリたんは優秀だろ、だから君に来てもらったんだ。しかしボクが見ている前では気をつけてしまうかもしれないからね、いろいろ気を使ったよ、ほら、あそこにカメラが」
 どうやら、監視カメラにばっちり映されていたようだ。
「まあ、後は自由にしていいから、一応1ヶ月でお願いしてるからね。いつ見れるかもわからないから不安だったけど、しかし早かった、ラッキーだったなあ」
 一体なんなのか、金持ちの考えることはわからない。
 この満面の笑み。
 でも、弁償する必要はなさそうなので、まあいいだろう。
 自由にしていいと言われても、他にすることもないので、一応メイド的なことをしながら過ごすことにした。

 かれこれ1週間が過ぎた。
 なんか、結構頑張ってしまった。
 いままではパジャマ姿でだらだらしていたけど、メイド服を着ると自分がメイドになったような気がして、力がみなぎるのだ。いや、メイドになってるんだよ。そんな一人突っ込みも、心地いい。
「ちょっと、ステファニー」
 言ってなかったけど、私はステファニーになっていた、ご主人様が5秒で考えたのだ。
「はい、ご主人様」
 ご主人様は、DVDアニメ26本連続視聴フェスティバルの5本目に入った所だった。
「コーヒーお願い、いつものやつで」
 いつものやつとは、ブルーマウンテンを極限まで薄く入れ、砂糖3杯・メイプルシロップ1杯・はちみつ少々を入れた、どちらかというと甘いお湯に近いものである。
 もう、慣れたものだ。
「どうぞ」
 私が、10世紀初頭に作られたテーブルにコーヒーを置いた瞬間、
「ステファニー!!!」
「は、はいっ、ご主人様っ!」
 やばいと思った、突然の真剣な眼差し、テレビ画面では何やらお色気シーンが展開されている、そしてメイド長と執事は外出中で2人きり、それらを総合的に考えてのことだ。
「実は、ボクは……」
「いけません、ご主人様……」
「いや、違うんだ、聞いてくれ……」
「そんな、ご主人様……」
「ボクは……、エリたんのことが……」
 ん、ええと、私はステファニーだよね、エリたんっていうと、
「ずっとこう、気になってて、だっていつもさ、おはようございますご主人様って言う時さ、目がきらっと……」
 ああ、あの、あれ、
「でも、ジョセフも狙ってると思うんだ、だから、協力して欲しいんだ、頼むよ、一生のお願いだよ」
「はあ、そういうことならよろしいですよご主人様」
 まあ、愛の形は色々よね。そして、私達は打ち合わせを重ねた。2人が帰ってくるまでの1時間、濃密な時間を過ごしたのだ。

「わたくしめでございます、旦那様! ジョセフがただいま戻って参りました!」
 いつもながら大げさな人だ、ともかく私が迎えに行かなければならない、ってなわけで、電気自動車で往復5分の道程だ。
 2人は大量の食料品と日用雑貨を、巨大な風呂敷に入れて持ち帰ってきた。
 いや、泥棒ではない、そう思いたい。
 とにかく準備は万端、私が玄関のドアを開けたら作戦がスタートする。
「ご主人様、ただいま戻りました」
 トラップ発動! 巨大な鉄球が、メイド長に襲い掛かる!
「危ないっ!エリザべス!」
 絶叫と共にご主人様が立ち塞がり、受け止める。ジョセフも動きかけたけど、私ががっちりガードしたのだ。その辺も、抜かりは無い。
「怪我は……、無いかい?」
 ご主人様は、張りぼての鉄球を重そうに支えながら、キラ星のような笑顔で振り返る。
 完璧だ、計・画・通・り。
 でもメイド長は、さほど驚いた様子でもないけど。
「ありがとうございます、ご主人様。それは、わたくしが片付けましょう」
 メイド長が、鉄球に触ろうとした! 緊急事態発生!
「い、いや、いいよ、ステファニー、ステファニー、頼むよ」
「はい! ご主人様!」
 ふう、危ない、ばれてない、ばれてない、ばれた? いや、ばれてない、絶対に。
 そして、私が鉄球を動かそうと、手を触れた瞬間、
「危ないっ! ステファニーさん!」
「ジョセフッ! フォッ!」
 突然の事に、つい鼻息が出てしまった、ジョセフがいきなり私を押し倒したのだ、うはっ。
「一体、何を?」
 別に何も起きていない、鉄球が爆発するとか、吹き矢が飛んでくるとか、下から風が吹いてスカートがめくれるとか、そんな事は無い、何も無いのにこの仕打ち。
「いえ、ご安心ください、わたくしめが側にいる限り」
「は、はあ。」
 でもこのオヤジ臭っ! やばい、意識が、このままでは、ぶふぉっ、ふがふが。

 はっ! ここは?
 私は、絢爛豪華なお姫様ベッドに寝かされていた。
 なんてこった、こんな形で不測の事態が発生するなんて、バイト代に加算してもらわねばならないなこれは。
「気がつきましたか? 井上さん」
 部屋に入ってきたのは、メイド長だった。
「すいませんねぇ、あの執事、きつく言っておきましたから」
 どうも、話によると、ちょっとした勘違いだったらしい、ただちょっと遥か上空に光るものが見えて、それで回避行動にでたのだとか、だから失神した以外の被害はなかったみたいだった。
 そうか、失神の慰謝料のみか、まあいいけど。
「でも、わたくし、どうしたらよいのか、メイドと主人だなんて、許されるのでしょうか? ご主人様が産まれたときからお仕えしておりますのに」
 そのへんも全部ばれたらしい、鉄球はメイド長が粗大ごみに出したとの事。
「そういう問題じゃないですよ! 好きか嫌いか、どっちとも言いがたくて微妙かって事なんです! どうなんですかぁ! 愛なんですよ! 恋なんです! 勇気! 友情! 勝利なんですよ! わかりますか?」
 私は一気にまくし立てた、目覚めたばかりにこのハイテンションは堪えた、ちょっとクラッときたけど、2人の明るい未来を願う気持ちには抗えないのだ。
「そうですか、そうですよね、わたくしったら、躊躇することは無いんですよね」
 おっこれは……、これはっ!
 メイド長は、ご主人様の部屋へ小走りに駆けて行った。

 トントン。
「失礼致します、ご主人様」
 ああ、ちょっと緊張してきた、他人事ながらこういう時は冷や汗が出てくるものだ。
「ご主人様? ご主人様ーっ!」
 なんだなんだ、緊急事態発生っぽい、こっそり見ていたのがばれるとしても、ここは行かなければっ。
 はっ、これはっ!
 そこにいたのはなんと、闇より黒いコウモリだった。どこかで見たような、そんな気がする奴だ。
「あなた方のご主人は、楽園にお連れしましたよ」
 コウモリは言った。
「どういう事なの? 返して! 帰してよ! ご主人様を!」
 私とメイド長は完璧にシンクロして叫んだ、これがメイドの隠された力なんだ、そう思った。
「カードを提示してくれましたからね、簡単な手続きですよ」
 そうだ、思い出した、カード、カードが無かったばっかりに。苦い思い出がよみがえる。
 いや、でも、あのときの私と今の私は違うはず、どこがと具体的には言えないけど、違うはずだ。
「カードならありますわ!」
 メイド長が、ゴールドカードを高く掲げた。
 そうだ、何が違うって、1人じゃないってことだ、要は他人頼みだってことだね。
「了解しました、あなたも楽園へお連れしましょう」
「ああっ、私もっ!」
「カードをお願いします」
 だめだった、他人頼みじゃだめなんだ、世の中そんなに甘くなかった。
「かっ、カードがなくても、ハートならあります!」
「カードでなければ、だめです」
 やっぱりか、万が一の可能性に賭けたけど、予想通りだった。
「井上さんすみません、わたくしだけ行かせていただきますね」
 仕方ない、世の中仕方ない事だらけだ、私には空間にぼんやりと浮かんだ影に、メイド長が飲み込まれるのをただ見ているしかできなかった。

 そして、1週間が経った。
 私は、広い屋敷に執事と2人きり。まあ、それなりに快適な暮らしをしていた。ジョセフは、最初は2人が楽園に旅立った衝撃で取り乱し、無意味に館中を駆け廻っていたけど、今ではソファーに寝転がってDVDを見ている。そんなもんだ、そして私も一緒に見ているのだ。
「ああ、ちょっと今のところを巻き戻していただけますか?」
 ジョセフはすぐに巻き戻したがる、年なので耳が遠めなのだ。
「はあ、仕方ないですね、またですか」
 お年寄りを大切にするという観点から、仕方なく従うのだ。と、その時、目の前に真っ黒い渦が現れた。しゅわわわ、しゅわわわ、といった感じの音と共に。そして、メイド長をお姫様抱っこして、ご主人様が現れたのだ。
 うほおっ、男前~っ!
「いやあ~、大変だったよ~、エリたんったらさ~、

 ~中略~

 そんなわけで、結婚したんだ、ごめんね、式に呼べなくてさ、何せ急だったからね~」
 ご主人様は、聞いてもいないのに2時間以上にわたって話し続けた。
 どうやら楽園で楽しく過ごし、2人は結婚したとの事だ、何だそりゃ。
「向こうで、20億ほど使ったかな~、まあ、大したことないけどね、ははっ、いや祝福ありがとう」
 そっか、楽園は私が行くようなところじゃあなかったみたいだな。

 そして、さらに1週間が過ぎた。
 はああぅう、もう終わってしまうのね、このバイト、色々あったよ、でも楽しかった、つらい事は特になかったし、むしろ楽勝にも程がある感じだったからね。
 そういやあ、給料は当日払いだったけど、全然チェックしてないや、だって高露出メイド服とは言え綺麗な衣装を着て、残り物とは言え豪勢な食事をして、空き部屋とは言え絢爛な部屋に寝泊りしているわけで、使う必要性が無いもんね。
「ああ、ステファニー、実は、ボク、色々考えたんだ」
「おああ、ご主人様、急に後ろから話しかけないでください」
「気にしてないよ、後ろ向きだとか、それより……、キミはもうクビだ!」
「ええっ! ひどいです、ひどいですよ、そんな、せめてお別れ会だとか、なんとか、ううあう」
「いや、わかってる、その辺は考えてあるよ、だって、1ヶ月の契約だったからね、1ヶ月前から準備していたよ、そのために今までやってもらってたと言っても過言じゃないね」
 そうなんだ、うれしいのか、かなしいのか、予定通りともいえる、まあ、こんなものなんだろう、普通だ、そう思うことにした。
「ほら、見て! 見て見て見て!」
 なんと、今まで未知の領域だった奥の部屋が、パーティー会場として豪華に飾り付けされていたのだ。
 そうか、このためだったのか、いつも「掃除します」と言っても、「いえ、ここはわたくしがやりますから」とメイド長に言われ続けた、その理由がこれだったのか。
「あ、ああ、ありがとうございます、こんな、私のために、私のっ」
「いやいや、構わないよ、ドジっ子メイドお別れパーティ、これが最後の大イベントだからねぇ、腕が鳴るよ」
 これは何か企みが? と思った、でもそれでもいい、だっておいしそうなんだから。
 食べまくった、相当やばいレベルで。ご主人様に贈呈された花束も、すぐにテーブルに置いて食べまくった。メイド長の語るドジっ子メイド3箇条も、1つも覚えることなく食べまくった。執事のお別れのカンツォーネも、軽く聞き流しながら食べまくった。
「いやあ、でも嬉しいよ、こんなに喜んでくれるなんて、ね、エリたん」
「そうですね、ご主人様、今日でもうお別れだなんて、早いものですね」
 ちなみに結婚しても、特に2人の関係は変わってない感じではある。まあ、夜になったら違うのかもしれないけど、知ったこっちゃあないさ。
 翌朝まで食べては出し、食べては出しまくった。
 そして、遂にお別れのときがやってきたのだった。
「お世話になりました」
 別に、涙とかは無い、ごく普通の世界中で日々繰り返されているお別れシーンだ。
「ステファニーさーん! ふごぉぉぉ!」
 いや、よく見たら涙があったみたいだ、ジョセフが何故か号泣している、きっと年のせいで涙腺が緩いのだろう。
「じゃっ、さよなら~」
「お元気で」
 こうして、私の高給バイトは終わった。
「ふ~、久々に帰ってきた~」
 じゃあ携帯で給料を確認!
 うおおおおお! 1万×24時間×31日で、うおおおおお!
 労働基準法的に問題ないのだろうか、いや、気にしちゃあいけないな、うんうん。
 ああ、でも、カードが無いんだ、おろすのがめんどくさいなぁ、まあ仕方ない。
「お困りですかな?」
 って、執事!!!
「な、なんで? ジョセフさん何か用ですか? 相変わらず勝手に……」
「いえ、わたくしめはセバスチャンでございます、ジョセフという方は存じ上げません」
 はあ、もうどうでもいいよ。
「そうですか、まあともかく帰ってくださいな」
「いやいや、わかっておりますよ、これをどうぞ」
 これは! キャッシュカード&クレジットカード!
「あ、ああ、どうも」
「では、わたくしめは、これで」
 執事は去っていった、一体何なのか。
 まあ、これで私も楽園の住人になれるわけだ。
 行かないけどね! だってお金もったいないし!
 やっぱり、家が一番だな。

楽園へ……

楽園へ……

楽園、それはあらゆる人が夢見る理想郷。 そんな楽園へ至るきっかけをつかんだ女性が一人。 彼女にいったい何が起きるのか。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-13

CC BY-NC
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