地上20階
1
最近感動したことといえば、青山のトルコ料理屋と40歳の彼とのセックスぐらいだ。
生まれてこのかた、まだトルコには行ったことがない。数人の友人がすでに魅了されているその国には、常々興味を傾けていた。世界三大料理のひとつがトルコ料理だと初めて知ったとき、自分が何歳だったかは覚えていない。「トルコ料理」=「ヨーグルトを多用する」、これぐらいは知っていた。暇ができると、書店でグルマン垂涎ものの東京レストラン特集雑誌なんかをチェックする。フードスノッブではないといくら主張しても、同世代の庶民階級女子のなかではそこそこ舌は肥えているんだとか。ときどき誰かにそう描写される。まぁ、どうでもいいけれど。
感動という終点に行き着くには、そのベクトルの始点となる期待を意図的に抑えるとよい。ベクトルは右肩上がりがいいから。誰もがそう期待するように。
彼は彼ではない。つまり彼ではない。数週間前にバーで出会った人だ。深夜1時のカクテルが引き寄せた、カジュアルな出会いである。年齢について特に気にならないほど容姿若々しく、その手のビジネスマンによくあるようにジムで鍛えて締まった身体のように見受けられた。ウィットを込めて正体を明かさない彼の「職業」は、イルカの調教師。フロアに入り乱れる周りのきらきらした美女たちをさしおいて、どうして自分かと怪しんだのも束の間、一瞬で打ち解けた。それぐらい気分がよかった。これはあとで聞いた話だが、そのとき自分はペラペラとなにか面白いことをたくさん喋ったらしい。正直覚えていない。覚えているのは、そんな調子のいい自分に彼が引き寄せられていくのを楽しんでいたこと。彼女すごくおもしろい、そう隣の友達に耳打ちしている彼の声が聞こえて、気分がよかった。おごってもらった2杯目のマルガリータも飲み干してしまった。(その前に青山のレストランで友達とボトルを2本も空けている)
六本木の夜はまだ少し冷えるし、日曜日は何も予定がない。思い出して、放っておいた母親からのメールに返事をして店を出た。
煌びやかな世界に媚びるほど堕ちてはいない冷静な27歳だ。でもこのまま夜に身を隠して「ちゃんとした」世界から逃げ出すのも若さかもしれない。そんな自負と奔放を夜風にさらして、ゆっくりアルコールを分解してゆく。乗り込んだタクシーのガラス越しに流れ去る夜はどこまでも永遠で、きっと朝なんて遥か彼方で、大きな流れのなかでいつまでも遊んでいたかった。
2
結局、こうなる。
いや、まだ関係が継続しているとするならば、結局そうなる、というべきか。
彼を食事に誘ったメールの返事を待ち続けてすでに一日。一日なんて、そう思う男前な自分と、図らずもすっかり滅入っている女の自分がせめぎあう夜とはこういうものだ。仕事から帰宅、21:05。
初めて会った夜からもう3週間が経つ。3回彼のマンションに泊まって3回セックスした。毎週末ずっと一緒に過ごしてくれる彼に不満があるわけではない。むしろ不思議で仕方ない。
カジュアルフレンチでディナー、ちゃんとした食事もした。神宮前のミュージアム、デートもした。六本木のアメリカンダイナー、彼お気に入りのランチスポットで懇意のウェイターにも紹介してくれた。すべては自然な流れ。すべては自然な成り行き。ただ、ひとつわからない。彼の真意。
困惑の根源は、彼をまだ知らないことによる。年齢や職業、持っている物や生活スタイル、ファッション、星座、言葉のアクセント、家族背景。どんなスペックをかき集めても、3週間では限界がある。彼が発する質問や行動の意図、その真意がわからず今、混沌の海でもがいている。そんな最中である。
意識を逸らしてみる。こんなことに一喜一憂することはみっともない。なにせ相手は40歳。ベテランである。欲しいものは何でも手に入る。
のめり込んでは、イケナイ。
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