エリカの恋
マリーアントワネットの作者シュテファンツバイクの純愛小説です。
エリカの恋
シュテファン ツヴァイク 作
フルイチ ジュウロウ訳
エリカ エヴァルトはぬき足さし足そっと玄関に入ってきた。父と姉はちょうど夕食の最中だった。ドアの開く音の方にふたりは目をやった。侵入者に一瞥(いちべつ)を投げた。するとまた薄あかるい部屋のなかを皿がカタカタと、ナイフがコトコトとひびいた。ほとんど会話はない。だが、たまに言葉は捨てられた紙片のように空間にひらひら舞って、ぽとりぽとりと床に落ちた。ふたりとも自分から話そうとする気配がない。姉は貧弱で憎たらしい。そもそも、年増の経験から、いつも人の話をうわの空にききながした。中年の気だるい厭世観が身にただよい、なにかにつけ笑ってすませた。父は長年の単調な管理業務から身を退いていた。とりわけ、妻の死後、えてして肉体的な苦痛を隠すようになった。頑迷(がんめい)固陋(ころう)で不愛想と寡黙(かもく)が初老の身についていた。
こうした単調な夜にエリカはおおむね黙っていた。厚い雷雲がおびやかすように、暗い雰囲気が数時間にわたって漂った。そんな時は苛立たないのがいいと彼女は思った。とにかく、彼女はへとへとに疲れていた。日中は時間に追われて煩雑な仕事に身を駆使した。不協和音と漠とした協和音と非音楽的なあわただしい仕事を常に無難に処理した。そのため、気だるく睡眠不足である。いわば、日中の無理が重なり、感覚がすべてはたらかない。
彼女は好んで白日の夢に身をゆだねた。 なぜなら、熟した果樹の枝が実の重みに揺れるように、心が言い知れぬ抑圧に動揺するからである。とはいえ、他人に弱音をはくなんて、神経質で恥ずかしがりやの彼女には到底できない。上品な白いくちびるの周囲には、それとなくかすかな皺(しわ)がよった。煩悶(はんもん)と葛藤が心の中に渦巻き、名状しがたい不安な焦燥感に動揺した。固く閉ざされたくちびるがいくたびも小さく震えた。
まもなくして夕食は終わった。父は立ちあがると、「おやすみ」と言いおき、自室に入った。彼はたばこに火をつけた。これは家族の日課だ。家では、ごくささいな行動も一定のならいになった。 姉のジャネットは、いつものようにミシンを取り出し、灯火のもとで裁縫(さいほう)を始めた。近視のため極端に前かがみになってコトンコトンとミシンを踏んだ。
エリカも自室に入った。ゆっくりと服を脱ぎかけた。まだ早い時間である。ふだん彼女はよく深夜まで本を読んだ。あるいは、あまいムードで窓辺に立って、明るい月光に映え、きらきらした銀の潮を浴びた屋根の上を仰ぎみた。なにを思うでもなくただぼんやり、とりとめない愛の感傷にふけった。月光がまたたき、きらめき、のどかに流れた。生命の神秘をひめた無数の星を背景に、月光が輝いていた。今夜、彼女はあまい疲れを感じていた。それは安らかな気だるさだった。彼女は優しく温かいなじみの布団がこいしかった。睡魔は彼女をもっぱらあまく安らかな夢へいざなった。それは、麻酔薬のようにゆっくり全身に効いた。彼女は立ちあがるや、最後の一枚をさらりと脱ぎすて、キャンドルの灯を消すと、ベッドにドウッと身をのばした。
昼間の幸せな記憶が走馬灯のようにくるくる駆けめぐった。今日も、エリカは彼のわきに着いた。ふたりはコンサートに協演するためのリハーサルをした。そこでは、彼女のピアノが彼のヴァイオリンに伴奏した。彼がショパンの無言のバラードを前奏した。それは彼が彼女に語るあまい愛の言葉、豊穣(ほうじょう)な愛の言葉なのだ!
情景はせわしく速やかに展開した。それは、ときには彼女をひとり家路にせかし、ときにはせわしく過去をさまよい、ときには恋人と初めて出逢った日へいざなう。やがて、情景は夢と現実のはざまに現れ、しだいに荒くあでやかになった。姉が隣室のベッドにつく様子をエリカは聞いた。そのとき、だれかが膝まずき、祈りをささげるという奇想天外な幻想を彼女はいだいた。くちびるに淡い微笑を漂わせて、彼女は深い眠りに落ちた。数分も経たないうちに、安らかな眠りは彼女を幸せな夢へいざなう。
エリカは目をさました。ベッドの上に一枚の絵葉書がおかれていた。数行の言葉がしっかりと力強い筆致で書かれていた。誰あろう絵葉書は彼が書いたものなので、エリカはその言葉を幸せな贈り物として受けとめた。これは取るにたらない無意味なことのようだが、ほんとうの愛を予感せざるをえない。愛は、やさしい輝きのように、あまねく人々を明るく照らした。さらに、輝ける感情は心の深層へ消えていくと、閃光のようになった。それは深層で燃えあがり、無気力や無感情からよみがえるのである。幼少の頃からずっと、エリカは臆病で、暗くひっこみ思案な孤独癖があった。だが、なにごとも冷静に、だが無気力にではなく、寡黙の友としてとらえた。 そして、神秘や愛情について耳を傾けてくれる人を彼女は信頼した。子供の詩情の夢を満載した著書や絵本や絵画や楽曲は彼女に語りかけてきた。そこに描かれる人物が様々な世界を展開し、無気力な人々を勇気づけた。そこにエリカの孤高な城と至福があり、新しい愛にめぐりあえるのである。
そもそも、絵葉書に書かれた数行の言葉が事件の発端になった。彼がよく語りかける言葉を、彼女はやわらかいリズミカルな声で歌った。情愛の言葉に秘められた郷愁の魅力を彼女は胸に刻んだ。親族にあてた冷静で敬意ある書式をとった数行の文章に、ひそかにかなでる愛の響を彼女は聞いた。そして、内容をすべて忘れまいと、非常にゆっくりと夢うつつに行間を読んだ。 そうするのも意味があった。日曜日に計画したピクニックに行くかどうかを訊きたかった。さらに、以前に申し合わせたコンサートに彼女が協演する話しもあった。絵葉書には友情のメッセージと自筆のサインがあった。しかし、彼女はくりかえし文章を読んだ。というのも、彼女の琴線に触れる雄々しい気迫の感情を聞けると思ったからである。
愛がエリカ エヴァルトに届き、純情で素朴な乙女心がときめくには時間はいらない。ふたりの出会いは静かでありきたりだった。
ふたりは社交の場で知り合った。そこで彼女はピアノを教えていた。ところが、彼女の独特で繊細な技量は観客の間で好評を得たので、朋友以上のもてなしをうけた。一方、彼はいわば新進気鋭の演奏家としてホールのイベントに招かれていた。若年にもかかわらず彼のヴァイオリンの演奏の評判はこの上なくすぐれていた。
ふたりの気持が通じ合うようになる環境は整っていた。彼の演奏がリクエストされるたびに、もちろんエリカが伴奏をひき受ける羽目になった。まず、彼が彼女に合図を送った。彼女は相応の判断で彼のインテンションに激しく侵入した。すると、彼は直ちに彼女の心の機微と本意を感じとるのである。ふたりの演奏の後に続く嵐のような拍手の中で、彼はふたりの短いトークを提案した。聴衆の目につかないように、エリカは静かにおもむろにうなずいた。
それでも演奏は終らない。聴衆はふたりをそう簡単に放してくれない。彼はしばしば彼女の痩身のしなやかな姿を横目に見て、黒いひとみに奥ゆかしい合言葉を読んだ。ふたりの言葉は聴衆の浴びせるなれあいの声と賛嘆の声にかき消された。すると、新しいフアンや、様々なアートの酔狂な人らも加わった。ふたりは申し合わせるどころではない。ようやく演奏のすべてが終わった。彼女がホールを出ようとしたとき、彼がそっと近づいてきて、控えめなやさしい声で、「ご自宅までお送りしましょう」と言った。思わずエリカは後ずさりした。相手が安易に意思を通そうとする配慮をおぼつかない言葉で断った。
エリカは郊外のかなり遠くに住んでいた。澄んだ月光のもとに冬の夜道は長い。しばらくふたりの間に沈黙が続いた。沈黙も決して無駄ではない。しかし、上品な教養人が月並みな言葉をかわすのは、なんとなく面はゆい。ようやく彼が口を切った。ふたりで演奏した樂曲について、とりわけ、芸術性について話すのだが、それは単にきっかけであって、エリカの心をとりこむ過程であった。ちなみに、自分の最後の宝石まで芸術にすっかり使い果たす者もいれば、豊かな感性で音楽的な美を求める者もいる。だが、生涯熱心でありながら世に出ない人でも、もっぱら理解者だけには自己を開示できると、彼は意見を述べた。すると、彼女も個人的な体験をふくめ、数々の創作や作品や、誰にも打ちあけられない様々なこと、意識にのぼらない多くのことを自分の観点から堂々と述べた。後になって気づいてみると、ふだんでもすぐおどおどした臆病が直っていた。さらに気づいてみると、彼がエリカに近づくにつれて、ふたりの間の友情と信頼は深まっていった。
一方、夕方になると彼女の家にはいろいろな人が訪ねてきた。芸術家や作家や、隠遁(いんとん)生活を送る近寄りがたい偉才の政治家もいれば、寛容な良識者や慈善家もいた。これまで、地味な人たちが彼女の世界に立ちいってきた。かれらは任務を分析評価する人たちで、彼女にとってうとましく、また怖い日和見主義で保守的な宗教裁判官たちだ。
静寂な明るい夜だった。そんな森々とした夜に、人声もきこえず、邪魔されず、ふたりは散策した。言葉は家並みの暗い影にのまれ、声はこだませず静寂の中に消えた。そんななかで、信頼はますます深まっていった。すると、想念は深層からよみがえった。想念は昼間の騒がしいなりわいの中にかき消されたが、夕べの静寂のなかで憩いの時をすごした。すると、だれにも気づかれないうちに、想念は語りはじめた。
寂しい冬の長い夜道に、ふたりはますます親密になっていった。別れぎわに握手を交わす。そのときも、彼女の白く冷たい指が、放心したように、彼の強い手に切なく残されていた。そして、ふたりは竹馬(ちくば)の友のように別々の帰路を急いだ。
この冬も、ふたりは頻繁に逢った。出逢いは千載(せんざい)一遇(いちぐう)の縁である。ゆたかな個性と特性をもち、好奇心の強い乙女は彼をすっかりとりこにした。彼には胸襟(きょうきん)を開き、むずかる子供のようにいじらしくじゃれつき、乙女心の奥ゆかしさに彼は感動した。彼女のこのうえない繊細さも素朴な感性も彼は好きだった。彼女は美しいものに対して手放しに感激した。だが、純粋な悦びの心境が乱されまいとするあまりに、人の目を避けようとした。一方で、誰とでも心おきなく快く共感し、やさしくナイーブな感性は彼にとって貴重だった。
彼がまだ少年時代、半人前の子供なのに、身も心も打ちこんだ恋愛にやすらぎを求めた。芸術家として女性たちからちやほやされ誘惑された。だが、彼はフェミニストになりきれず、まだ青くさく感じられた。傍若無人(ぼうじゃくぶじん)の学生気取りのあまえがおとなの生活にどうしてもなじまなかったようだ。恋愛に心血をそそいだ。結局、肉体的満足をむさぼった。情熱的に無謀にはげしい欲望で恋をした。しかし、彼は自己に目覚めた。自分に負けてしまう意思の薄弱さをことごとく排斥した。やりきれない衝動的な快楽をことごとく嫌悪した。そもそも、恋愛や愛欲は芸術だけでなく人生も破滅しかねない。彼の演奏の技量には、確固とした情熱的な男らしさが基調にある。ぎりぎりで息をぬくという意味では、憂鬱(ゆううつ)にまどろむ吐息のように、彼の情熱的なチゴイネルワイゼン風の弓運びに力をぬかなければならない。感動的な演奏の裏には必ずおごそかな畏怖があった。彼はその演奏をやりとげることができた。
ところで、エリカの彼への愛は非常に奥ゆかしく献身的であった。エリカは長い独身生活にしっかりした基盤を築いてきた。彼女は相手の人格にある自分の幻像(げんぞう)をことごとく愛した。さらに、彼の人間性の中で造られる芸術家像を彼女は尊敬した。そもそも、芸術家は自分の日常生活でも聖職者の品位をそなえていなければならないという処女的信念を彼女は抱いていた。信頼できる個性を感じる奇特な人として、彼女は常に冷静に禁欲的な目で彼を見つめた。彼女の信頼は聴(ちょう)罪(ざい)司祭(しさい)に対するものであった。彼女が人生に拘泥しなかったのは、世間の認識に疎く、とりとめなく夢のように生きてきたからである。エリカには将来に不安も心配もなかった。精神的に尊敬できる愛のあまく安らか響きは信じていた。彼女は芸術的審美観と敬虔な心で愛を確信した。
常々驚くことに、彼と一緒にいると、彼女はまったく話す必要がないのだ。彼が演奏する時や沈黙する間、彼女はじっと夢想にふけった。彼が話しかけると、彼女がまぶたをしばたたいた。すると、夢想は次第に明るく薄れていった。今日もすべてが終る。日中のいらだつ雑音にせかされることもない。静寂と沈黙のなかで銀のメモリアルクロックがひたすら心に深く時を刻む。そもそも、彼女は切々たる愛欲を恐れ、静かであまい言葉も期待しなかった。しかし、いま愛欲が彼女の中に胎動していた。「どうして私はすっかりあの人に魅かれたのかしら、どのようにあの人は独自の芸術を展開するのかしら、そして、どんな魅力的な音で歓喜と苦悩を演奏するのかしら」と、彼女は思った。こうしてエリカは彼の演奏を手放しに感動しながらも、言い知れぬ哀れを感じていた。なぜなら、自分はなにもしてあげられず、もっぱら感嘆し、ふるえる諸手を広げて懇願するだけであった。
エリカが週になんども彼のところを訪ねるのも自然のなりゆきだった。最初はふたりのコンサートのリハーサルのためであった。二、三時間はまたたく間にすぎた。ふたりの友情の親密度が次第に増していった。エリカはその危険をまったく意識しなかった。彼の前に彼女のぎりぎりの自制心はくずれた。心に秘めた私事をすべて無二の友として彼に打ち明けた。エリカは自分の熱い幻想的な話に夢中になった。彼はエリカにひざまずき顔を近づけた。高まる興奮に彼女の手を握りしめ、なんども彼女の指に熱いキスをした。エリカは音楽に陶酔(とうすい)し、ひたすらファンタジーを追った。彼はエリカを激しくせきたてるように、要求がましく弦の音で彼女に語りかけたが、彼女の意識に入らない。なぜなら彼女は深く音楽に陶酔し幻想を追っていたからである。時のすぎるなかで、彼女はこれまでどうしても話せなかった様々なことを理解し解消していた。静寂な時間があるからこそ、すさんだ多忙な日中も楽しく過ごせるし、夜も明るいあたたかい時を過ごせるのだ。とにかく、彼女はひたすら静かにつつましくしていたいのだ。祭壇の前に立ち、世間からのがれた豊かな平和をひたすら祈った。
しかし、エリカは自分の幸せを素直に表現できない。人前や家族の前では、いかにも涙が本心から出るかのように、むんずと口をとじて、腹の中では純粋な至福の悦びを享受した。自分が多くの寄木(よせぎ)細工(ざいく)でできたもろい工芸品のように思えた。それは不安な叫びとともに、震える手のなかで壊れた。彼女は他人の視線を避けて自分の秘密を隠そうとした。彼女は自分の幸せや人生についてあたりさわりのない日常会話をかわした。そもそも、人に誤解されたり、世間から疎んじられないように、彼女はあれこれ気づかった。
ピクニックに出かける前日の土曜日の晩も、エリカはまた彼を訪ねた。ドアをノックしながらも、いつも恐ろしい不安におそわれた。彼の顔を見ないうちは、不安がますます増長した。しかし、彼女は長く待つ必要はなかった。彼はすばやくドアを開け、彼女を書斎に通した。慇懃(いんぎん)な態度で彼女のスプリングジャケットを脱がせた。透き通るような白い肌の手にうやうやしくキスをした。それから、ふたりはデスクに備えられた小さな黒いウールのソファに腰をおろした。
部屋はすっかり暗くなった。外の空に灰色の雲が夕風とともにせわしくたなびき、その影はぼんやりとくすんだ黄昏(たそがれ)に流れた。明かりをつけるかどうか彼は訊いた。エリカは拒(こば)んだ。くすんだあまい明かりはまったく彼女の意識に入らず、気にとまらなかった。彼のあまいメランコリーを彼女はとても好きだった。彼女はじっと座っていた。部屋に装飾されたインテリアがくっきりと脳裏(のうり)に刻まれた。りっぱなデスクにはブロンズ像が立ち、その右手には手彫りのヴァイオリン台がある。そのシルエットは、窓ガラスを通した静かな眺望にある灰色の空一面にくっきりと浮かびあがった。どこかで時計が重く規則正しい音を刻んだ。それはあたかも無情な時を刻む足音のようだ。あいかわらず静かな宵だった。彼のタバコから青い煙が闇の中を右に左にひゅるひゅるとのぼる。そのとき、開いた窓からさわやかな春風が部屋に入ってきた。
ふたりは談笑した。初めは笑顔でなごやかに話していたが、迫りくる闇とともに、言葉はしだいに息づまった。彼は新曲について話し出した。それは、かつて彼が田園で聴いた小節で、素朴なセンチメンタルな民謡のフレーズに乗せたラブソングである。数人の乙女たちが仕事から家路に向かうところだ。彼女たちの声がはるか遠くにこだました。歌詞は十分聞きとれないが、低音でうたう牧歌の郷愁を彼はしみじみ味わっていた。夕方も遅くなって、心の中に昨夜のメロディがよみがえり、それは彼のリートになった。
エリカはなにも言わず、彼をじっと見つめた。ただちに彼はエリカの要求を理解した。彼は黙って窓辺に歩みより、ヴァイオリンを手にとった。たっぷりした低音からリートは始まった。
背景がしだいに明るくなった。夕雲が赤く染まり、深紅色の輝きに燃えた。明るい残照はしだいに暗闇にかすんで、光が部屋の中を映し出した。
彼はみごとな迫力で哀しいリートを奏で、自分の音に埋没していった。彼はリートを離れて、限りなく哀しいオリジナルの民謡を記憶にとめた。あらゆるヴァリエーションで何度も何度も同じメロディをハミングし感涙し歓喜した。彼はもうなにも考えていない。思考は千々(ちぢ)に乱れた。だが、思いの流れるままに心は様々な旋律を奏で、ひたすら自分のものにしていった。この狭く暗い部屋が美に満ちあふれていた。赤い雲はすっかり黒い影になった。彼は演奏を続けた。しばらく、エリカへの求愛としてリートを演奏していることを彼はすっかり忘れていた。世界中の女性に向けた彼の苦悩も愛も美の心髄にいたるまですべてが、弦に乗りうつった。女たちは歓喜の熱に感涙した。彼は次々に新たな高揚と野性的なパワーを感じたが、けっして清々しい満足感はなかった。そこには、狂おしく動揺する中で、慕情が、感嘆と歓喜の慕情だけが残った。さらに彼の演奏は続いた。いつのまにか最終章をむかえ、一定の協和音に終わった。
急に彼は慌てて口をきった‥‥エリカは音楽に陶酔(とうすい)していた。恍惚(こうこつ)状態で立ちあがるやいなや、重苦しくヒステリックな悲鳴をあげてソファに崩れ落ちた。彼女の繊細で敏感な神経はいつも感情音楽の魔力にしびれた。哀愁のメロディに彼女は泣いた。リートは彼女に興奮と情欲をかきたて、全感覚がしびれた。恐ろしく息づまる緊張感に彼女の神経が疲れてきた。抑圧された慕情の重圧が傷のように痛んだ。絞めつけられるような苦痛のあまりにすんでのところで悲鳴をあげるところだった。しかし、そうすることもできない。こみあげる嗚咽(おえつ)とともに高揚した全身の興奮は次第にやわらいでいった。
彼はエリカの足もとにひざまずき、なだめようとした。彼は彼女の手にそっとキスをした。それどころか、彼女のからだがだんだん震えて、感電したように手に激しい痙攣(けいれん)が走った。彼はやさしく話しかけるが、彼女は聞こうとしない。そこで、彼はさらにからだを深く抱きこんで、あつい言葉で指に手にキスをした。そして震える口に接吻した。彼女の口は彼のくちびるの下で無意識におびえていた。キスはしだいに激しくなった。さらに、彼はやさしい愛の言葉をささやきながら、いっそう荒々しくむさぼるように彼女を抱いた。
こつ然と、エリカは半睡状態から醒めるや、彼を激しく突きとばした。彼はぼう然と立ちすくんだ。急に彼女は黙ったが、事態をどう始末したらいいのか思案した。すると、彼女は不安な眼差にかすれた声でもどかしく言った。「ご免なさい、私、たまにヒステリーの発作が起こるの。音楽に興奮したのね」とつけくわえた。
しばし気まずい沈黙が残った。彼は卑しい行動をとったことを思うと、なんとも返す言葉がない。
「私、すぐに帰らなくては。家にずっと人を待たせているの」と彼女はつけくわえた。素早く彼女はジャケットをとった。その声が彼に冷たく凍りつくようにきこえた。
彼は弁解したかった。しかし、激しい興奮のなかで言葉を詮索するが、なにを話してもすべてが空しく思えた。彼は黙って丁重にエリカを玄関に見送った。彼女の手に別れのキスをした。
彼は遠慮がちに「では、明日ですね?」と訊いた。
「お約束ですから。よくって?」
「もちろん」
彼女が彼の行動を黙って看過してくれたので、彼はほっとした。荒立てず、相手を赦す彼女のこまやかな配慮に彼は感動した。ふたりはなお別れの言葉を交わした。ドアがカタンと閉まった。
日曜日の朝は薄曇りで憂鬱だった。どんよりした朝霧は、濃い網目模様の灰色のネットのように街全体を立ちこめていた。目のこまかいネットを縫って静かな霧雨が降っていた。街はまるで重い金色の王冠をかぶったようだ。空がゆっくりと輝き明るくなった。暗い朝霧の覆いも輝き始めた。どうやら、どんよりした敷物は光の負荷に破壊され、鮮やかな春の陽(ひ)が差しこんだ。太陽はピカピカした窓とぬれた屋根に、キラキラした水たまりに、やわらかな赤に染まった教会のドームに、さらに人々の晴れやかな眼差しにさんさんと輝いた。
午後、明るい日曜の活気に街が華やいだ。ごうごうと疾走する車が楽しいメロディを奏でた。スズメたちは電線に競って高らかにさえずる。一方、市街電車の信号が明るい往来の中にカランカランと鳴り響く。広い人の波が怒涛のように大通りあたりに押しよせた。淡くきらめく輝きが街に開放された白い春着や明るい色彩に映えた。いたるところに太陽がある。点滅するライトをのんで温かく光輝く春陽があった。
彼の腕をとって軽やかにうきうきと散歩ができて、エリカはうれしい。彼女が童(わらべ)のようにスキップし、はしゃぐなんてなんと可愛いことだろう。しかも、彼女はすっかりうぶな少女のように、まぶしい単色のワンピースを着ていた。いつも深くだらりと流していた漆黒(しっこく)の髪を今日は結いあげていた。彼女の大はしゃぎぶりがあまりにも無邪気に奔放(ほんぽう)なのに、かえって彼の方が気おくれするほどだった。
ふたりは前もってプラータ公園を散歩することを決めていたが、急きょとりやめることにした。なぜなら、飾られた公園の荘重な静寂を破って声高らかに歌う日曜の雑踏を避けたいからである。プラータには、整備された広い原始林の並木道、暗い森林に通じる広大で果てしない草原、豊饒な陽光を浴びたのどかな農園がある。すぐ近くに息づきうごめく百万都市があるなんてまったく想像できない。ところが、休日になると、街は人々にあふれ、そんな魅力はない。
彼はデュブリンにいくことを提案した。なかなか感じのいい所で、彼が気に入りの白い家々が立ちならぶ。きれいな公園の暗い柵から、家並を楽しくのぞくことができた。そこにはアカシヤの花が白雪のごとく咲きほこっていた。細い並木道はなだらかな広い田園に通じて、静かで快適な往復道を彼は知っていた。今日もふたりはその道を散歩した。散歩道は言い知れぬあまい香りにつつまれていた。ふたりは田園に日曜日の安息を求めて静かな場所に出た。何度も視線を交わした。沈黙はなんというゆとりだろうか。沈黙が春爛漫(はるらんまん)の幸福感にひたって、高揚するままをふたりはたのしんだ。
田園はなお下りながら緑であった。しかし、暖を施す土壌の恵み深い芳香がふたりに胸のときめく祝福を贈った。かなたのカーレンベルクとレオポルドベルクに質素で古風な教会が立っていた。教会の岩壁はドナウ川まで急傾斜に落ちていた。さらに、ドナウとの間の豊穣な大地はほとんど褐色で未開墾だが期待の耕地である。しかし、ドナウとの間のほぼ正方形をなす平地に、果樹は黒い土壌から無骨にのびて熟れた果実をつけた。その光景は、日焼けした重労働者の褐色の隆々たる肉体にまといつき、ずたずたに切れたぼろ服のように見えた。さらに、畑の上空は青い大弧を描いて、晴れた春空が広がり、ツバメたちが天高く歓喜の声をさえずる。
ふたりは広い老木のアカシヤ並木を通りぬけていった。「この道はベートーベンが愛した小道です。散策しながら、彼の心底にある数々の作品を新たに創造したのです」と彼は語った。ベートーベンがふたりを厳粛(げんしゅく)に祝福してくれるようだ。幸せな長い時間に、二つの命をいっそう深く親密にしてくれるエネルギーをふたりは感じた。ベートーベンを想うと、すべてが意味深く壮重に映った。ふたりは荘大な眺望を享受した。眼の前に楽しいのどかな光景が展開した。さらに、燃える太陽と豊穣な土地の芳香が春の神秘の兆しを告げていた。
道は田園を通りぬけていく。歩きながら、エリカは未熟の麦を手にとって揉んだ。ときおり、麦の茎が手の中でパチンパチンとはじけた。それを彼女は気にとめる様子はない。ふたりの間に沈黙が訪れた。彼女はおもわず深い思いにふける。エリカのこころにやさしい秘めた愛情が芽生えていた。だが、寄りそって歩く彼をひとり思うのでない。自分の身のまわりにある生きとし生けるものすべてに、そよ風に揺れる麦畑に、活力や幸運を与えてくれる人たちすべてに愛を感じていた。ツバメたちは空高くつらなり、街ははるか下方に灰色の霧のじゅうたんに包まれ広がっていた。彼女はすべてを抱きこむような春の日差しを享受した。彼女はまるで少女のように、のどかな陽光に身を躍らせ歓喜した。
しばらく、ふたりは原野と田園を散策した。まもなく午後は終わろうとしていた。だが、まだ宵ではない。鋭い光はしだいに淡くくすんだ薄光にかわった。やがてそれは夜の訪れを知らせ、空に静かな淡紅色の音が響いた。エリカはちょっと疲れてきた。そのとき、小さな居酒屋から、にぎやかな話し声がきこえてきた。衝動的な好奇心から、ふたりはそこで休憩をとることにした。ふたりはガーデンに腰をおろした。隣りのテーブルには郊外から来た家族が座っていた。多くの市民は陽気な顔ににぎやかで屈託ない団欒(だんらん)を楽しんでいた。日曜日に人々はピクニックに出かけ楽しむのがウイーンの風潮である。東屋(あずまや)の袖にペアのミュージシャンと他に三、四人がいた。ウィークデイに、若者たちはホームレスのように街を徘徊し、日曜日にそこの軒下を宿にした。ところで、彼らはむかしから伝わるフォークソングをなかなか見事に演奏した。グループは特に軽快なポピュラーを歌い始めると、一斉に聴衆の歓声があがった。喉(のど)をいっぱいに膨らませてメロディを歌う。また女性たちも同調し歓声を上げていた。そこでは誰もが気がねなく心地よく悠々と時間を満喫(まんきつ)できるのである。
エリカはテーブルをはさんで彼に微笑をなげかけた。しかし、誰にもとがめられないと、ひそかに思った。4気さくで屈託(くったく)ない人々には好感がもてた。彼らは腹蔵なく話す。気持ちも態度もおだやかである。しかも、見知らぬ新参者を排除(はいじょ)する様子はない。なごやかでのんびりした雰囲気が気にいった。
マスターは肩幅が広く感じのいい男で、にこやかな笑顔でテーブルにやってきた。客の中でも気品のある客にマスターがみずからサービスにあたった。ワインはいかがですかとすすめて、注文をうけた。さらに「若いお嫁さんにもなにかお持ちいたしましょうか」と訊いた。
エリカは真っ赤になった。初対面の相手にどう返事をすべきか分からない。彼女は困惑しながらうなずいた。わが「婿」が対峙している。彼に視線を向けないにもかかわらず、彼女の困惑に水をさすような彼の視線を意識した。ごくありがちな錯覚なのに、それらしく振舞ってしまったことを恥かしく思い、気まずい気持ちをどうしても払拭できない。急に雰囲気が一転した。みんなも歌をぶつぶつに切り、メカニックに歌う様子を彼女ははじめて見た。気違いじみた歓声をあげ、ビール声の不快な怒声や罵声が耳ざわりになった。ただちにその場を逃げ出したい気持ちになった。
そのとき、ヴァイオリニストがユニークな二、三小節を奏でた。彼は弱くあまいタッチで、ヨハンシュトラウスの古風なワルツを弾きはじめた。すると、ほかの奏者たちがあまい愛のメロディでなめらかに調和した。音楽が彼女のこころになんと大きな強制力をもっているかとエリカは痛感していた。たちまち彼女のこころは軽快に躍動し動揺した。無意識に、彼女はあまいメロディにのせて即興詩を歌い静かにハミングした。すっかり気分が快く楽しくなった。ふたたび彼女は春爛漫にひたりながら、こころはワルツを踊った。
ワルツが終わると、さっさと彼は外へ出た。彼女はそそくさと後に従った。メロディの感動的な演奏と快い心境が荒々しい流行歌によって乱されると彼は懸念したのだ。彼女はそれを速やかに察した。ふたたびふたりは街へ軽快な道を帰っていった。
山陵の彼方に陽はすっかり沈んだ。黄金色に燃える木々の間からもれる微細な光線が異様なばら色になって谷間に溶けこんでいった。すばらしい光景だ。ほの赤い黎明(‚ê‚¢‚ß‚¢)は天高く燃える炎の帯に映った。はるか下方の街全体に霧は濃い光彩を帯びてアーチを描いた。それは深紅色の球体のようだ。夕闇の騒音は色々なあまいハーモニーを奏でた。遠く家路に急ぐハイカーたちの歌声にハーモニカが伴奏していた。虫たちの賑やかな鳴き声がしだいに大きくなった。ザーザー、ジージー、ミーミーと、とりとめない声は、周辺の木の葉の間に息づき、梢の中にささやき、空間にざわめく。
突然、彼の一言二言が彼女の厳粛で敬虔な沈黙を破った。「エリカ、冗談だよ、マスターがあなたをぼくの嫁さん呼ばわりしたことは」
すると、エリカはカラカラと笑った。つくり笑いだった。
エリカは瞑想からさめた。「この人っていったいどういうつもり? 私に何か言わせたいのね、なにがなんでも」と彼女は思った。恐ろしいというか、重苦しく漠然とした暗い不安におそわれた。彼女は返事をしなかった。
「いいや、あれは冗談じゃないか? なのに、どうしてそんなに赤くなんだ!」
彼女は向きなおって、彼の表情をうかがった。「マスターが私をからかうつもりだったのかしら?―違うわ! 彼はなかなか真摯(しんし)な人よ、私を全く見てなかったわ。きっと無意識に言ったのね。でも、返事はほしかったのだ」と、彼女は思った。わざわざ心にもないことを言って、なにかきっかけをつくりたかったと、彼女は推測した。そのことが彼女には気がかりだが、真意は分からない。とにかく、マスターもなにか期待していたのだから、私もなにか返事をしなければならなかったのだ。
「冗談はやめて、私、つらいのよ。とにかく、私、冗談をまともにとってしまうの」と、彼女はすっかり興奮し、かたくなにはっきり言った。
すると、ふたりの間にふたたび沈黙がおとずれた。しかし、静寂に以前のように共有する歓びはない。また、朋友感覚の同情も理解もない。ただ重苦しく暗い沈黙であった。いわば、沈黙は脅迫感や不信感などからくる黙秘であった。エリカの愛がにわかに不安に揺らいだ。彼女は幸運にめぐりあうたびに苦しみ悶えた。彼女は悲しいが優しい作品に感涙した。「トリスタンとイゾルデ」の燃えるような血潮の波は、彼女にこのうえない幸せを示唆してくれるが、彼女を罪人(つみびと)のように苦しめるのである。彼女にとって沈黙がだんだん苦しくなった。それは暗く重い霧のように、目をつらくおおった。次第に彼女の不安はなくなっていった。決着をつけたい、彼にはっきり腹蔵なく訊いてみたいと思った。
「あなたは、私になにか言いたいことがあるようね。いったいなんですか?」
はたと、彼は立ちどまった。すると、彼は動かぬ暗いひとみで彼女を見つめた。彼は考えこんだ。そして再び深いしっかりした眼差しで彼女を見つめた。彼の声が妙におおきくうわついてきこえた。
「こんなことずっと意識になかった。だが、このごろ意識するようになった。ぼくは‥‥あなたが好きです」
エリカは愕然(がくぜん)とした。彼女は地面を見すえたままだ。しかし、真剣に問いたげな鋭い彼の視線を彼女は感じた。彼のそばで私はどうしたらいいのかしら、彼はどのようにキスするのかしらと、その瞬間を彼女は想像した。言葉が出ない。ただ心臓が激しく鼓動した。恥ずかしいのか苛立たしいのか彼女はわからない。彼女は恐怖におそわれた。彼が燃えるように情熱的なリートを演奏するたびに彼女は戦慄した。それはまた底知れぬ地獄と天国の間におそう歓びの戦慄(せんりつ)でもあった。いったいなにが始まるというのか? おお、神様、おお、神様!‥‥彼はさらに語りつづけた。愛を求めながらも、それをはばかる自分を彼女は意識した。彼女にはもうなにも聞こえない。「私、田園を見たいの、そうよ、夕暮れを、すばらしい夕暮れを。いま、なにも聞きたくないの、なにも聞きたくないの。ただ、暗い夕霧の街を見たいの。街と田園を見たいの。空に雲が‥‥雲がすいすいと空を泳いでいる! 空の雲はもう数えるほどね。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ……ああ、五つ目が‥‥ない! 四つだけね!……四つ。」
そのとき、彼が話しかけてきた。
「エリカ、最近ぼくは自分の愛欲がこわいんだ! それが現実になるだろうと、いつも感じていた。そう思いたくなかった。だが、とうとう現実になった。そう、昨日あなたと別れたあと、はっきり意識したんだ」
一瞬、彼は黙って深く一息ついた。
「こんなことになるなんて悲しい。実に悲しい。あなたと結婚できないことは分かっている。愛がぼくの芸術の血肉となることも分かっている。こんな気持ちは他の人には理解できない。愛するかわいいエリカ、あなただからこそぼくを理解してくれる。芸術家だからこそ理解できる。だって、あなたには豊かな、限りなく豊かな芸術家精神がそなわっている。実に賢明な方です。ぼくたちはもうこれ以上お付き合いはできないのです。もう終わりにしなければなりません‥‥」
彼は固唾(かたず)をのんだ。彼が終わりにするなんてエリカは思いもしなかった。彼の前にひざまずき、もうなにも言わないでと、懇願するのがよいのだろう。もうなにも聞きたくない、なにも考えたくない、もうなにもほしくない。不安を胸に彼女は雲を数え始めた‥‥。
しかし、雲はすっかり去った‥‥。いや、まだ一つ残っている。一つの雲、最後の雲が暗い川をすいすい泳ぐ。スワンのように赤々と息をふく‥‥そんな光景がどうして目に入ってくるのだろう? 自分にも分からない‥‥彼女の思考がますます混沌(こんとん)とした。願いをひたすら雲に託したいと思った‥‥その雲もいま去っていく。いままさに峰の彼方へ去っていく‥‥なぜ雲に執着するのか、諸手をいっぱいに伸ばせば雲なんてつかめるじゃないかと、彼女は思った。しかし雲は動いた‥‥雲は、だんだん速く、さらに速く、さらにさらに速く去っていく。そして雲は消えた。エリカは彼のはっきりした言葉を聞き、暗澹(あんたん)とした恐怖に心臓が震えた。
「こんなぼくを理解してくれるかどうか分からない。もちろん、ぼくを過大に評価してないと思う。ぼくはけっして立派な人間ではない。といって、自己満足に甘んじて生きるつもりはない。そんなことを望んだが、ごらんの通りだ。ぼくは生きることに執着している。もっぱら愛することにくよくよする人間だ。ふつうの男たちとかわりない。女性を愛すれば、尊敬するだけでなく、ぼくは‥‥女性も求める‥‥といって‥‥図々しい顔してきみを騙すつもりはない。きみに軽蔑されるなんて考えたくない‥‥。きみはとてもやさしくしてくれたのに‥‥」
エリカの顔が真っ青になった。彼の考えがやっと分かった。そんなこと、どうして早くから気づかなかったのか。にわかに彼女は落ち着きを取り戻した。なにもかも起こるべくして起こったのだ。
エリカはもうなにも話したくない。だが、そういうわけにはいかない。彼はやさしく「きみ」で問いかけてきた。とりわけ、彼の愛情深い人情に彼女は感激した。彼女もどんなに愛しているかを改めて感じていた。忘却の言葉が意識に戻るやいなや、彼女は正気に返った。そして、彼を失うことがどんなにつらいか、自分と彼とがかたく密接なきずなで結ばれているのを彼女は痛感した。なにもかもが夢のようだ‥‥
彼は話しつづけた。その声は愛撫のようにやさしい。彼女のかわいい指の間に彼の手を感じた。
「きみがぼくを愛したのかどうか、ぼくが愛したから、きみが愛するようになったのかどうか、ぼくは分からない。とにかく、ふたりは献身的だった。万難を排して逢った。それは、恵まれるままにだれにも侵されない神聖な愛です。ぼくも愛を信じます。愛するって犠牲が伴うものだ‥‥だが、いますべてが終ります。それだけに、返って愛しさがつのるばかりだ‥‥」
エリカは麻酔(ますい)にかけられたようだ。全身に快い震えが走った。私はこの人を失うかもしれない、いや、それはありえないと彼女は思った。彼女は運命の岐路(きろ)に立たされていた。すべてが果てしない彼方へ去った。天と地獄の間に静寂がしのびよった。街が遠のいた。街の咆哮(ホウコウ)が消えていった。現実に思い出されることはすべて消えていった。さずけられた喜捨(きしゃ)の愛と神々しい福音の力をかりて、彼女は憎悪と煩悩(ぼんのう)のすべてを超えて、かがやかしい玉座に着いた。彼女はなんの思惑もない。賢く打算的な詮索もない。彼女の気持ちはいままで意識したことのない歓喜に満ちあふれていた。そんな雰囲気にひたりながらも自我をおさえていた。すると、彼女は静かに淡々と述べた。
「世界であなた以上の人を私は知りません。私があなたを幸せにします」
相手に対しどのように話したらいいかと思うはにかみは、すっかりなくなっていた。ひと言が他人に多くの大きな幸せを与えられることをエリカは知った。彼のきらきらした眼差しと感謝の光を彼女は見た。
彼は身をかがめ、厳かにうやうやしく彼女の口にキスをした。
「ぼくは、きみをずっと信じてきました」
それから、ふたりは%8
エリカの恋
女の愛は男の愛欲とはちがう。だが、愛は純粋だ。永遠にくりかえされる。ツヴァイクの恋愛論がたのしめる作品です。