たった七日間の逃避行 1
いざやってしまえば、戻れないのです。
セーブもリセットも、タイトルに戻る事も出来ないのが現実。
なら、やってしまったのならばやり遂げてしまえばいいのですよ?
たった七日間の逃避行 1
その日は、酷い雨の日だった。
さっきまでの天気はどこかへ消え、空は雲が覆う。
彼女は、そこにいた。
……僕はずっと探していたのだろう。
彼女は、そこで立ち尽くしている。
僕はその前に立ち塞がっていた。
彼女は、そこで黙っている。
僕は、
「全部、僕に押し付けていい」
隠し子だとか、約束なんて関係ない。
僕はこの娘を、
「彼女の件で嫌な事は、全て僕に任せていい」
だから、もうこれ以上……
「だから、みなさん安心して彼女を任せて下さい」
この娘にこんな顔を、させないでほしい。
「……本当に良かったの?」
彼女がそう呟いた。
「もちろん……良かったと思うよ」
二人は真昼の地下鉄に揺られる。
辿り着いたのは、自分が借りているアパート。
一人暮らし向けの狭い部屋だ。
こんな部屋で、彼女は許してくれるだろうか?
「……汚いです」
「そうかなぁ?」
「仮にも、これから私も住むんだからもっと気を使ってください……全く」
そう言うと、彼女は掃除を始めた。
これは、僕が面倒を見る所か、僕が面倒を見られる事になりそうだ。
彼女は集めたゴミをちゃんとゴミ箱へ捨てると、ちゃぶ台の前へ座った。
座ってください。 ……と、言わんばかりにこちらを見る。
僕はそこへ座り、彼女を見る。
何を言うのか、少しドキドキしている自分がいる。
少し嫌な予感がするのは、気のせいだろうか?
「私、学校を辞めてバイトします」
「えっ?」
「食費やその他も迷惑をかけるのに、呑気に学校へ行ってられません」
「学費なら心配ないから、考え直して、ね?」
「じゃあ、今の貯金の残高と月の収入を教えてください」
……どうしよう。
貯金は5万も無い。
月の収入は10万とちょっと。
働かないフリーターには厳しい現実であった。
「……あのね、絵馬ちゃん」
「何ですか? あなたがフリーターなのは知ってます」
「なん……だ、と?」
「さっき給料明細を見ました。 あとそのちゃん付けはやめて下さい」
だからこんな事を言ったのか。
「絵馬ちゃ……さん、ずっとここに居るわけでもないんだし、ちゃんと定職に就く為に勉強しないと」
そう言うと、彼女はうつむいてしまった。
そして彼女は顔を上げ、こう言った。
「だって、あなたのこれからを私で費やしてしまうのかもしれないのですよ?」
なんだ、そんな事か。
そんな事でも、君はその顔をしてしまうのか。
それはほんと、反則だよ。
「絵馬さん、これからは家族になるんだから、迷惑はかけてもいいんだ」
「家族だからです」
「じゃあ、こうしよう」
僕は立ち上がり、部屋の奥の物置を開く。
すると、ブワッと埃が舞い上がる。
思ったより酷かったぞ。
「ご覧の通りだ。 僕も迷惑をかける。 だから君もかけていいんだ」
「そんなのおかしいですよ」
「おかしくない、同等だ」
「だから、絵馬さん、もうそんな顔はしないでほしい」
僕は彼女の頬に触れ、そう言った。
彼女に触れた手が濡れる。
「……気持ち悪いです」
えっ
「いつまで触ってるんですか」
「ご、ごめん、つい」
「ついじゃないですよ、ついじゃ。 あとそのさん付けもやめて下さい」
そう言うと後ろを向いてしまった。
「じゃあ、どう呼べばいい?」
「……絵馬」
「え?」
「二度も言いません。 さあ、掃除しますよ」
彼女は立ち上がり、埃の被った掃除機を手にする。
「わかったよ、絵馬」
「……」
彼女は黙ったまま、掃除機の電源を入れた。
目が覚めると、少し香ばしい匂いがした。
ハムとパンの焼けたような、そんな感じ。
その匂いで、空かしたお腹が鳴る。
昨日、あれだけの事があって、カップラーメンだけでは足りなかった様だ。
あれは、人生で一番長い一日だったと思う。
「起きましたか、相変わらず遅いですね」
絵馬さんが焼けたパンの盛られた皿を持ってテーブルに運んでいる。
パンにはハムと卵が盛られ、簡単なサンドイッチのよう。
あれ、あんなのあったっけ?
「それ、どうしたの?」
「買ってきましたけど、何か?」
「……そんなお金、この私にはありません」
「初めての夕食がカップラーメンだったのは忘れましたか?」
絵馬さんが牛乳を注いだコップを置いてくれる。
それも冷蔵庫には存在するはずの無い物だ。
「まともな物を食べて下さい。 あなた一人の体じゃないんですから」
「しかし、そんなお金は……」
「大丈夫です、バイトをしますので」
自分の分も用意していたのか、もう1セットをテーブルに置く。
どこから持って来たのだろうか。 もはや錬金術だよ。
「だから、昨日の話は理解できなかった?」
「いえ、バイトはしますが学校は続けさせてもらいます」
彼女はハムッと、簡易サンドイッチにかぶりつく。
……美味しそうに食べるな。
反対だったが、少し食べたくなってきて、一口。
「どうです?」
「……おいしいです」
「それはよかった」
ああ、これはバイト増やさないとな。
この娘、食欲凄いぞ。
まだ足りないのか、物足りない顔をしてらっしゃる。
「大学、いつから?」
「あと1か月後です」
「そう」
そして、沈黙が訪れる。
部屋には彼女が牛乳をすする音だけが響く。
なんだか、信じられないな。
自分のやった事の勢いの良さというか、なんというか。
これからの事、何も考えずに飛び出してしまった。
「あの、大事な事を忘れてました」
「なに?」
「あなたの名前、まだ知らないのですが」
「苗字は同じ高梨で、下が……」
「下が?」
「……トウカ」
あ、今笑っただろ。
心の中で絶対に「可愛い名前ですね」なんて言ってるに違いない。
「可愛い名前、まるで女の子ですね」
言いやがった。
そういう事は黙っておくべきだ。
「とりあえず、下の名前では呼ばないでくれ、頼むから」
「わかりました、トウカさん」
「だから……」
「わかってますよ、トウカさん」
絶対に分かってやってるな、こいつ。
「さて、買い物にいってきます」
「ちょっと、お金は?」
「ありますよね?」
「あと食費に使えるのは、1万ぐらい」
「十分ですよ、行きましょう」
「……今月はあとちょうど1か月あるんだぞ」
彼女に連れられ、外へ出る。
考えると、俺は今、女の子と外を歩いている。
それも、その辺りに生息していないような。
「早く行きますよ」
「はいはい」
彼女に急かされたので、急ごう。
怒らせると大変そうだ。
「またカップラーメンですか」
「ああ、焼きソバが良かった?」
「そういう事じゃなく……」
「これ美味しいんだよ。 あ、期間限定のがある」
期間限定スキ焼風味のカップ麺を二つ手に取り、カゴに入れる。
彼女は不満そうだが、仕方ない。
節約は、塵も積もれば諭吉様だ。
「そんなのばかり食べていると、体壊して病院で余計な消費をするだけです」
「壊さなければいい」
少しキリッとして言ってみたが、彼女はやはり不満そう。
「じゃあ、何が食べたい?」
「まともで普通の食品なら、おいしければ何でもいいです」
彼女は期間限定スキ焼風味をカゴから戻した。
「具体的に教えてよ」
僕は戻した期間限定スキ焼風味をカゴに戻す。
「じゃあ、牛丼」
彼女が戻そうとしたスキ焼風味を、予測してそれを阻止する。
「わかったから、これは買わせて」
「仕方ないですね、今回だけです」
あ、少し嬉しそうだ。
そんなに牛丼が好きなのか。
席に着くなり、買った食券を出す。
数分もしない内に、店員が牛丼と卵、サービスの味噌汁をカウンター越しに提供する。
流石は牛丼屋、速い。
気が付いたら、彼女はもう完食していた。
速い……
「おいしかったですね」
牛丼屋の自動ドアを出て、彼女が語りかけてくる。
「牛丼はやっぱりおいしいですね」
「そうかな」
「そうですよ」
満足そうな顔で、絵馬さんは前を歩いてゆく。
手にはずっしりと重みのかかるエコバッグが。
こんなに食べるとは思えない。
おかげで、今月はこれで最後の買い物になる。
そんなに好きなら、また連れてこようかな。
そう思ったが、財布の厚さに余裕のある時にしよう。
「また連れて行って下さいね」
「ああ、また今度な」
気が付くと、19時を回っていた。
久しぶりにまともと言われる食事をしたせいか、気分よく昼寝が出来た。
「夕食ですよ、起きなさいトウカさん」
「……絵馬は僕の母親か」
「じゃあ私は何ですか?」
「……家族?」
「はいはい、分かりましたから早く起きて下さい」
プンと、油のにおいがする。
この香り……から揚げか?
いやしかし、鶏肉は買ったが、その他の食材は買ってないぞ。
「早く起きて食べましょう」
「ああ、うん、分かったよ」
そのこがね色に輝くのは、鳥のから揚げ。
箸でつまみ、口へ運び、咀嚼する。
すると、サクッと衣が砕け、中から肉汁が溢れる。
……美味い。
「どうですか?」
「美味しい」
本当に言葉の通りだ。
「それだけですか?」
「うん、美味しい」
「うーん、その程度だと理解しました」
いや、凄く美味しいよ?
と言っても、反応は変わらないと思い、空いた口をから揚げで閉じる。
絵馬さんは何が駄目だったのかを考えているのか、箸で切ったり突いたりしている。
勉強熱心というか、真面目というか。
食事も終わり、絵馬さんが食器を片づけている。
「今日は寝るよ、疲れた。 明日バイトだし」
「お風呂入らないんですか? 汚いです」
「節約だよ。 シャワーだけならいいよ、絵馬」
「わかりました、おやすみなさい」
絵馬さんが風呂場へ行くのを確認すると、布団を敷いて灯りを消した。
昨日もなんだか寝れなかったので、今日はゆっくりするとしよう。
夜。
それは、静かで落ち着く時間であるべきだ。
人類が家を建築した理由の一つでもある。
しかし、この夜は静かでは無かった。
突然、ドアが開く。
その音で目が覚めた。
最近眠りが浅いせいだろう。
開いたドアから弱い光が差し込んでいる。
「……絵馬?」
「うおっ」
え、男?
今、男の声が……
その後すぐに、ドアが閉まり、部屋は真っ暗になった。
「おい!」
僕はドアを開き外へ出る。
星や月が飾る空は、街灯によってかき消されている。
そんな空の下、彼女はいた。
「どうしましたか?」
「どうって……いきなりドアが開いたからびっくりした」
「外へ出ちゃだめですか?」
「いや、時間が遅すぎるというか」
彼女はずっと、平静な表情を浮かべる。
「戻ろう」
「嫌です」
「何で?」
「星が、綺麗だから」
彼女はずっと、空を見上げる。
「ここじゃ見えない」
「見えます」
「私は一人で空を見たいのです」
そう言い、また空を見上げる。
だが、僕は彼女の手をとる。
「戻ろう、風邪引いても病院は愚か、薬すら買えない」
彼女の腕に力は入っていなかった。
容易く、引き寄せてしまえた。
僕の胸に、彼女を引き寄せてしまう。
こんなにも軽いなんて、こんなにも弱いなんて思っていなかった。
「何ですか」
「ご、ごめん」
僕は絵馬を胸から離す。
「……戻りましょう、思ってたより寒いです」
「そうしよう、それがいい」
手をとり、部屋へ戻っていく。
僕は、この日の夜を忘れない。
彼は、もう潜んでいた。
奴は、もう狙いを定めていた。
赤く染まった手で抱き寄せた女性を、僕は絶対に守る。
守らなければいけない。
それは、あの日よりも強い思いだった。
情けや約束なんて、最初から無かった。
今ここで、彼女に二度とこんな顔をさせないと、二度目の誓いを。
「……で、あなたが彼を見たのはそれが最後ですか?」
スーツの上にコートを身に纏った、いかにも警部という雰囲気の男が、小太りの男と話している
「はい、彼……茂是さんが最後に来店したのは、昨日の23時頃です」
被害者である茂是明彦の死亡推定時刻は23時45分頃。
凶器はバールのような物だと予想されている。
被害者の職業柄、自宅には工具が沢山あった。
その中の一つだろう。
桐生は、犯人の想定が出来ていた。
被害者は来店し、生ビールだけを注文し、飲み終えると帰って行った。
しかし、彼はその店である男と話をしていた。
「高梨君は、茂是さんと口論になっていました。 私が止めましたが」
小太りの男は、この店の店長。
被害者と高梨という男が話していた姿を見たという。
桐生は、この高梨という男を睨んでいる。
本名、高梨 トウカ。
彼は口論になっていた事と「もう一つ」以外、特に怪しい点は無い。
それは、彼が行方不明になっているという事だ。
「じゃあ絵馬、バイト行ってくる」
「気を付けてくださいね」
「大丈夫、警戒心は強い方だし」
「そうですか、良かった」
「そうそう、交通事故なんて起こしたくないからね」
「……早く行ってきてください」
そんな会話をし、出発する。
絵馬さんが最後までちゃんと見送ってくれている。
この生活に僕は充実感を感じている。
食費は増え続けるが……!
たった七日間の逃避行 1