母と私

私の記憶で一番古い母の姿は、台所に立つ後姿だ。当時、私は3歳くらいだったと記憶している。
母は居間と二間続きの台所で、みじん切りをしていた。トントン、トントンと包丁とまな板がぶつかる音と、合間に母が鼻をすする音がタイミングよく響くことに、居間でお絵かきをしていた私はふと顔を上げる。西に面している台所の窓からの夕やけのせいか、私は母を直視できなかった。何かうまく言えない怖さを感じた。
そんな私の存在を思いだすかのように振り返った母は、
「今日はハンバーグにしようね」
と私に声をかけた。
あ、いつものお母さんだ。そう思って安心し、またお絵かき帳に目を向ける。私が描いた男の人と、女の人と、小さな子供の絵に。

今、私が直面しているのは、その頃の母だ。正確にいうと、その頃の母の写真。
この写真を遺影に使うと言い出したのは母だ。私が高校生になったころから、母は私に、
「お母さんが死んだら、この写真を遺影にしてね」
と言い続けた。
私が幼稚園に入園した時にとったであろう写真。人より少しおとなしめの反抗期を迎えていた私とはいえ、一番最初にその写真を見せられた時は、
「こんな何十年も前の写真使う人いないしょ。変なの」
と聞き流した。
それでも母は
「だれが何を言ってもこの写真にしてね」
と念を押し、折に触れ、この写真のありかを私に言い続けた。
そして、現実に母の遺影とする写真を選ばなくてはならなくなった時、私はこの写真を母の兄という初老のおじさんに渡した。母が亡くなって初めて会った伯父は、
「こんな昔の写真だなんて。恥ずかしい」
と一笑した。そしてお通夜でもお葬式の場でも、私の隣の隣でぶつぶつと伯母に対して文句を言っていた。私の隣に座る夫蓮太郎は何事も耳に入らないかのようにまっすぐに前を見て、ぼろぼろと泣いていた。
「普段全然行き来のない親戚ほど、いざっていう時にいろいろと口出すものよ」
と、お店のお客さんに言っていた母の姿を思い出す。
どんな理由があったかはわからないけど、一度言い出したら聞かない母が幾度となく言い続けたことを破ることは私にはできなかった。というよりも、私も母と同じように一度言い出したら聞かない性格なのだ。
母の病気が発覚したのは、私が結婚して1年が過ぎたある日の夜。
帰宅した蓮太郎が、帰りに母の店に寄ろうとおもったら閉まっていたと報告をした。初めて蓮太郎を家に連れてきた日と私達夫婦の披露宴の日の夜以外、今まで何があっても営んでいる小料理屋を閉めたことがなかった母。何かあったのかと電話をしたら、
「今、病院なの。お母さん、癌みたい」
まるで他人事のように電話口でけらけら笑っていた母は、あの日から半年たった先日旅立った。
あっという間だった。もともと細い母がみるみる痩せ、もともとおしゃべりだったのに口数が減り、体中に走る激痛に耐えた日々を超え、眠るように旅立ったのだ。
実の息子かと看護婦さんに思われるくらい泣いた蓮太郎は、この葬儀中も泣き倒した。
骨上げ法要が終了し、実家に帰り、仏間に置いた母の遺影に、義理の息子にここまで泣いてもらえる母は幸せなのか、と尋ねてみる。いつもお店の酔客に言っていた口調のように、
「あぁ、面倒くさいんだから」
と今にも言い出しそう。そう思っても私は泣けなかった。

葬儀のすべてを終えて、私たちは家に―私が生まれ育った家に戻った。
母の病気が発覚し、すぐに蓮太郎はこの家に引っ越しを決めた。
「お母さんが戻ってきたときに、落ち着ける空間にできるのは、花がここで生活していることだけだから」
そう言って、母の了承を得たと、母はうれしそうに教えてくれた。
蓮太郎は決めたことの理由を私には話してくれない。付き合うことを決めたのも、私と結婚しようと思ってくれたのも、母を自分のお母さんよりも大切にしてくれたことも、その理由はいつも煙にまかれる。でも、その決断はいつも私の気持ちに沿ってくれているものだから、私が聞き出さなかったんだ。
きっと母はその理由を知っていたのかもしれない。ふと見上げると、そこには、黒地に金の桜柄が入った着物を身に包んだ母が微笑んでいる。
ふと、カツオだしのいい香りが仏間まで届く。
この半年間、料理のレパートリーがまた増えた蓮太郎が夕飯を作ってくれる。彼なりの「母を亡くした娘」である私への気遣いだろう。特に言い出すこともなく、母が使い慣れた小料理屋のカウンターに入り、食事の用意をしてくれている。結婚前から私にではなく蓮太郎にレシピを教え続けた母が作ってくれたうどん出汁の香り。
「蓮ちゃん、料理のセンスあるからね」
そう遺影の母が少し笑った気がした。もう二度と話すことも触れることもできない母。それでも私は泣けない。

「花、夕飯できたよ」
蓮太郎の声で目を覚ます。母の遺影を見ながら、気が付いたら寝ていたらしい。
「沙世さんが亡くなってから、花、まともに寝てなかったもんね」
蓮太郎は独り言のようにつぶやいて、祭壇に線香をあげる。一瞬の静寂の後、
「さ、ご飯ご飯」
ぽんっと膝を叩いて蓮太郎は立ち上がり、まだ眠気が残る私に右手を差し出す。この人はいつだってこうして私にやさしくしてくれる。その右手に導かれるように起き上がり、母のお店に向かった。

小料理屋のカウンターには、うどんとお稲荷さん。
うどんのお椀からはゆらゆらと湯気が登っている。私は席に着き、すぐにうどん出汁をすする。母の味。またこの人は腕を上げたな、と思う。母が入院してから、週末ごとにこの店を開け、お客さんをもてなしてきただけある。お稲荷さんも母の味。
ほっとした瞬間、泣けるかと思った。でも泣けない。母の味だけど、どこか蓮太郎の味がする。2人で黙々と食べ、どちらかとなく晩酌を始めたころ、おつまみの枝豆をゆでながら、
「雪が解けて、川になって、流れていきます」
と、母が好きだったキャンディーズの「春一番」を口ずさみ、そしてふと笑った。
「沙世さん、この歌、本当好きだったよね」
誰に言うでもない風に、蓮太郎はつぶやいた。
まだ数年の付き合いである蓮太郎でさえ思うほど、母はこの歌をよく口ずさんだ。料理をしているときも、化粧をしているときも、常に母から聞こえてくるメロディはこの歌だった。
そう、初めて蓮太郎を母に会わせた時も、母は酔ってこの歌を歌ったのだ。

初めて紹介したい人はいる、会ってほしいと母に相談した時、母は買い出しするものを書き留めるために愛用している赤い手帳に何かを書きながら、明日にでも連れておいでよ、と顔も上げずに言った。
それでも約束の時間を決めようとすると、のらりくらりとかわし、結局約束の日時が決まったのは最初に言ってから1ヶ月経っていた。
母が言う日曜18時に家に来ると、居間に母の姿はない。ふとお店の方から声が聞こえ、蓮太郎と覗いてみると、常連客の長野さんや佐藤さんと一緒に日本酒を1本開けていた。
「ちょっと、なにしてんのよ」
と口にしかけた途端、母は
「何突っ立ってんのよ、あんたたちもこっちに来て飲みなさいよ」
と呂律の回らない口調で言ったのである。それまで見たことがないくらい緊張していた蓮太郎も、思わず吹き出して、私は顔から火が出るくらい恥ずかしいということはこういうことかと体感しながら、その輪に加わったのである。
とはいえ、その日の夜は楽しかった。長年娘のようにかわいがってもらった長野さんが泣き、その姿を見た佐藤さんと母が笑い、蓮太郎は言われるがままに酒を飲み、そして勧められるままに、母の作った料理を口に運んで、そして笑っていた。
完全に寝入った長野さんと佐藤さんを横目に蓮太郎は帰り、母と2人で洗い物をしていると、
「花、よかったね。あの人なら、あんた幸せになれるよ」
そういって、今まで笑っていた母は泣いて、照れ隠しのように、
「雪が解けて、川になって、流れていきます」
そう歌い始めたのである。母がこの歌を歌う時は、いつも感情の波が押し寄せた時だった。
初めてうたった時は、私が保育園で父の日の送りものとして、父の顔を描くということが出来なくて大泣きした、と知った時だった。お迎えに来てくれた母に保母さんがその事実を伝えた瞬間、母は私の手をぎゅっと握りしめた。
その帰り道、2人で歩きながら初めて母の歌は、「春一番」だった。
また歌っている、と思いながら、母の洗った食器を拭いていた。その布巾の桜柄が今でも鮮やかな色で思い出される。
「そう言ってくれていたんだ」
と蓮太郎はビールを口に含む。蓮太郎が知っているあの日の夜は、常連客2人が寝入り、母に翌日の会社のことを心配されて帰宅を促されるまでだ。
ちょっと上を見上げる蓮太郎は、きっとまた泣きそうなるのを我慢しているに違いない。
そうして2人の枝豆を食べ、ビールを飲む音だけが店の中に響く。こうして何も会話のない時間も苦痛ではない。お互いの存在を空気として感じる。母以外に初めて知った居心地の良さだった。
何杯目かのビールを飲んで、蓮太郎はふと、
「寂しいね」
とため息交じりにつぶやいた。私の家族はこの蓮太郎しかいなくなったんだ。そう思っても、私は泣けなくて、ただため息が出ただけだった。

母と私

母と私

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-10

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