モクニャンプル

 チェックのランニングシャツを着て、街道を闊歩していた。
 どうだろう、小一時間くらい過ぎただろうか。小腹が空いた俺は、ふと目に付いたファーストフード店に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ、こちらでお召し上がりですか?」
「はい」
「ご注文は何になさいますか?」
 店員はにこやかな眼差しで、じっとこちらを見ている。まるで俺がここで一万円以上使うのを期待しているかのようだ。だが今の俺に許されるのは五百円が限界、さっさと決めてしまおう。
 ええと、ん、メニューの片隅になにやら見慣れないものが記載されている。こっ、これはっ!
 俺はそれを読み上げた。
「モクニャンプル」
「はい、何ですか?」
「モクニャンプル」
「え、もう一度」
「モクニャンプル」
「皆さん、ご一緒に」
「モクニャンプル」
「店長! 店長! 来て下さい!」
 何だというのだろうか、書いてあるから読んだだけじゃないか。
 奥から、店長らしき人物が巨体を揺らしてやってきた。それにしてもあれだけの体で、よく狭い店内を通れるものだ。この人が店先に立ったほうが名物店になりそうなものなのに。
「お客様、それをどこでお知りになりました?」
「いや、ここに書いてあるんですけど」
 俺は、メニューの片隅を指差した。
「そうですか、読めてしまいましたか」
 巨大な店長は、神妙な面持ちでレジを叩き始めた。
「ああ、それより、ハンバーガーセットで」
 不穏な空気を察知した俺は、強引に注文して事態を収拾しようと試みた。
「いえ、お客様にはモクニャンプルになって頂きます」
 やばい、やばいぞ、これは。
「あ、あの、モクニャンプルって一体?」
 俺は、湧き上がる不安を抑えきれなくなり尋ねた。
「すぐおわかりいただけると思います、どうぞ、五百六十三円になります」
 トレイの上には、珍妙な模様が描かれたプレートと、ハンバーガーが一個置かれていた。
「モクニャンプルは少々お時間がかかりますので、お席にてお待ちください」
 何なんだろうか、しかしここは言う通りにするしかなさそうだ。店長の対応は丁寧だが、なにやら逆らえない雰囲気がある。俺は仕方なく金を払い、二階へと上がった。
 二階席は閑散としていて、客は俺一人だった。女性店員がゴミ箱の片づけをしているだけだ。俺は窓際の席に腰掛け、ハンバーガーの包みを開けた。
 ごく普通のハンバーガー。
 この店に秘密の何かがあるなんて、他の人は思いもしないだろう。俺もさっき入るまではそうだったのだ。
 程なくハンバーガーを食べ終えた俺は、行き交う人々をぼんやりと眺めていた。
「お待たせいたしました」
 うおおいつの間に、と見ると、背後に男性店員がやってきていた。
「お待たせいたしました、どうぞごゆっくり」
 男性店員はサッカーボールくらいの包み紙を置いて、そそくさと立ち去った。
 これが、モクニャンプル。
 俺は、その場でただ呆然と包み紙を眺めていた。

 二十分くらい過ぎただろうか、そろそろ開けてもいいんじゃないか、という衝動に駆られた俺は意を決して包み紙をびりびりにひん剥いた。
「いや~ん、乱暴はやめて」
 包み紙の中から、何やらぽっちゃりタイプの珍獣が現れた。
「どうも、初めまして、こんにちは」
 珍獣は、ぺこりと頭を下げた。
 俺は意外に驚きはしなかったが、それでもなんとなく目頭が熱くなってきてしまった。
「なんだいこんちきしょう、突然に」
 俺が珍獣のほっぺたをタプタプすると、珍獣は得意げな笑顔を見せてきた。
「名前は、ナンプルです」
 と珍獣は言った。
 もう日も暮れてきたので、とりあえず帰宅することにした。歩きながらナンプルに色々と聞いてみた。ナンプルに食事をあげる人を、モクニャンプルというそうだ。好物はハンバーガーで、嫌いなものはチーズバーガーだそうだ。微妙なもんだ。三ヶ月前からファーストフード店の隠れキャラとして勤務しながら、新しいモクニャンプルを探していたらしい。モクニャンプルは誰でもなれるというわけではなく、特殊な記号文字が読めることが条件だそうだ。それを読んだのが俺というわけ。読めるかどうかは相性のようなものが大きいとの事。
 家に着くと、ナンプルは腹が減ったと言い出した。
 ああ、そういやぁ俺はハンバーガーを食べたけど、ナンプルには何も食べさせてはいなかったな。と思い、酢豚を作ることにした。
 一時間後、酢豚が完成した。ナンプルはテレビを見て待っていたようだ。ドラマの展開になんくせをつけていた。あと、カット割りを気にしていた。演出には一寡言あるらしい。
 酢豚を食べると、
「うまいよ、意外と」
 と言ってくれたので、これで俺も一人前のモクニャンプルだな、と思った。
 そんなこんなでナンプルとのエンジョイライフを満喫していた俺だったが、悩みもあった。ナンプルは大量に食事をするので、ちょっとエンゲル係数が上がり気味だということだ。あと、ナンプルはナンプラーのにおいがするのだ。今まで黙っていたけれど。普段は大してしないが、夜中の十時頃に強烈に臭ってくるのだ。きっとそれが目覚まし時計代わりになっているんだろう。でも時間は指定できなかった。

 ある日のこと、いつものようにナンプルを起こしにいくと、ナンプルは既にラジオ体操をしていた。
「どうして? いつもはぐっすり寝ているっていうのに」
 と聞くと
「実は今日はちょっと出かけるんだよ、一緒に来る?」
 と聞かれた。
 俺は休日は寝てすごす派だが、少しばかり興味が湧いたので、
「じゃあ、ストライプのタンクトップで行くよ」
 っということにした。
 ナンプルと一緒に、JR東海道本線に乗り込んだ。入るとすぐ、ナンプルはイスの上に正座して窓の外を眺めはじめた。俺は隣に腰掛け、携帯ゲームを始めた。
「いったいどこへ行くっていうんだい?」
 と、五連鎖を決めながら聞いてみた。
「熱海だよ」
 と、ナンプルは答えた。熱海か、きっと温泉に入るに違いない、と俺は思った。でも、一応聞いてみた。
「何しに?」
「ちょっと女将に知り合いがいてね」
 そういうことか、ナンプルは顔が広いな、と思った。

 そんなこんなで熱海駅に到着した。熱海駅を出ると、ナンプルは
「腹が減った、間違いない」
 と言い出した。
 まぁそりゃあそうだろう、朝飯も食ってないし、俺も減ったな、ということで近くにあった定食屋に入った。
「ごめんください」
「何名様ですか?」
「二名です」
 ごく自然な感じで、俺達は座敷へと通された。
「注文決まった?」
 と聞くと、ナンプルは
「アジのたたき定食」
 と答えた。
「じゃ、アジのたたき定食とミックスフライ定食で」
 と店員さんに注文した。
 ナンプルは、
「あ~、やっぱり刺身定食だったかな、いや、まぁいいか」
 と独り言を言っている。俺は意を決して
「ところで、女将とはどういう関係なの?」
 と尋ねた。他人の女性関係を詮索するのは野暮というものだが、どうしても気になって気になって、居ても立ってもいられなかったんだ。
「うん、まぁ、何ていうか、母親かな、簡単に言うと」
 なんとそうなのか、ナンプルのお母さんは旅館の女将か、と俺は感心した。
 アジのたたき定食が先に運ばれてきたので、どうぞ遠慮なく、と言おうとしたが、ナンプルは言う前に食べ始めていた。程なく、ミックスフライ定食も運ばれてきた。
「ちょっとアジのたたき食べさせてよ、エビフライと交換で」
 と言うと、
「いいけど、もうねぎしかないよ」
 ということで、普通にエビフライを食する事にした。ナンプルは何度もお茶を注文しては飲み干していた。緊張感? 俺達はそそくさと定食屋を後にした。

 しばらく歩いていくと、ナンプルはすたすたと一軒の旅館に入っていった。
「いらっしゃいませ」
「おお、俺だ」
 と、ナンプルは堂々と言い放った。
「女将さん、来られましたよ! 女将さん、女将さん? 女将さ~~~ん! ごふぁぁ」
 従業員はもんどりうって十m先に倒れこんだ。
「どうしよう、事件だ、警察、それより救急車ーっ!」
 ナンプルは不敵な笑みを浮かべている。
「ああ、女将さん、こちらにいらっしゃいましたか」
 従業員は何事もなかったかのように立ち上がり、和服の珍獣を招き入れた。
「おお、来たかい」
 紫の和服を着た珍獣は、巨大なかつらをかぶってこちらにやってきた。
「こちらさんが、モクニャンプルだね」
「そうだよ~おっかさん」
 ナンプルは微妙に伏し目がちになっている。
「いつも、うちの子がお世話になっております」
 和服の珍獣が頭を下げると、かつらが落ちそうになったりした。持ちこたえたけど。
「今お部屋にご案内しますわ、ちょっとー、小林ーっ」
「はい、女将さん」
「部屋に案内してさしあげて」
「はい、ではこちらへ」
 導かれるまま、俺は長い廊下を歩いていった。ナンプルはとぼとぼとついてきていた。部屋は広々とした和室で、一泊二食付二万三千六百円といったところだった。あくまでも目安だけど。
「とりあえず、風呂でも入る?」
 と言うとナンプルは、
「用があるから先いってて」
 と言って部屋を出て行った。
 そりゃそうか、用があってきたんだもんな、ということで、一人で露天風呂に向かうことにした。途中ゲームコーナーがあったので、とりあえず全部の筐体のハイスコアに名前を入れておいた。軽いものである。
 露天風呂はこじゃれた日本庭園風で、海が一望できるようになっていた。まだ昼間ということで、他の客は一人も入っていなかった。
「うひょーっ!」
 俺は高らかな雄叫びをあげ、まずは体を洗い始めた。いきなり入るのは、マナー違反なので気をつけたい。
 体を洗い終え、いよいよ石作りの湯船に浸かった。
「いや~、極楽極楽」
 やはりこう言わなきゃだろ、温泉に入ったらね。お湯はちょうどいい湯加減で、体の芯から温まってくる。俺は温泉気分を満喫した。
「あ~、そろそろ熱くなって来たな~」
 ということで、湯船の脇に腰掛けて涼んでいた。女湯のほうからは、若い娘のキャッキャ言う声が聞こえてくる。は~、ええのう、極楽よのう。そう思って声のするほうを見ると、これはっ!
 俺は衝撃のあまり、濡れた洗い場に倒れこんだ。
 明らかに覗けそうな隙間があるじゃあないか、きみぃ、困るよ、きみぃ。ほんと、困るわぁ。と自分に言い聞かせながら、隙間を覗き込んだ。
 これは、あまりよくは見えないが、見えているようないないような、それがまた乙なような。
「はうぁ!」
 突然、巨大な顔が目の前に現れた。
「何やってんだか、ここはボイラー室だよ」
 よく見るとナンプルが手ぬぐい片手に立っていた。
「なんだ、つまらん、つまらん露天風呂だ」
 と俺はふてくされて湯船に戻った。
「ところでどうなの? いい話? 悪い話?」
 俺は何気ない感じを前面に押し出しつつ尋ねた。
「うん、ちょっとしたお見合い話だよ」
 なななんと、そういうことか、この俺様を差し置いてお見合いかぁ、ナンプルは堅実派だなぁ、と思った。
「へ~、そうかぁ、で、どうするの? ねぇどうするのぉ?」
 と俺は、いつの間にか必死になって問いただした。
「実は今から会うんだ、モクニャンプルの方もどうぞって話だよ」
 おおお、なかなかに急展開じゃあないか。早速風呂を上がって、控え室へと向かった。
「いや~、ちょっと入りすぎたかな、ぼーっとしてきたよ」
 俺はそのままうとうとし始めた。ナンプルは椅子に腰掛けて、壁の一点を見つめているようだった。
「お待たせしました、どうぞ」
 はっ、と気がつくと、従業員の人が来ていた。いよいよか~、一体相手はどんな人なんだろうか。そもそも人なんだろうか、どうなんだろうか。寝起きの俺は妙に興奮状態となっていた。
 俺達は、畳三十畳はある巨大な広間に通された。中央にゴージャスな和風のテーブルが置かれている。そして向かい側には、二十代前半くらいのキュートな美女と、ナンプルに良く似た珍獣が並んで正座していた。そうか、やはり珍獣同士なんだな、と俺は思った。
「では、後は若い二人にお任せして」
 従業員はいきなりその場を後にした。
 ちょっと任せすぎじゃないだろうか。まあいいけどな。
「ではまず自己紹介から始めましょうか」
 と俺は、仲人気分を満喫しながら切り出した。
「ナンプルです、趣味はラジオ体操です、よろしくお願いします」
 ナンプルは、いつもより半音上がった声色で自己紹介を行った。
「はい、袴田紀子です、趣味はインテリア作りです」
 二十台前半のキュートな美女は、にこやかに自己紹介を行った。
「ああ、ええと、ワタクシは、た、田端次郎です、趣味はお菓子作りです」
 美女のキュートさに動揺した俺は、適当な趣味を口走った。お菓子なんて、インスタントのホットケーキくらいしか作ったことはない。
「ピョンプルです、趣味は創作ダンスです」
 珍獣は、はきはきとした口調で自己紹介をした。
 そしてその後十分ほど沈黙が続いた。

 ああ、あああ、どうしよう、ナンプルー、ナンプルー。俺の緊張はピークに達し、真っ白な頭の中でナンプルに期待することしかできない、そんな状態となっていた。
 不意に、向かいのピョンプルが口を開いた。
「ナンプルさんは、好きな食べ物は何でしょうか?」
 ああ、よかった、俺への質問だったら、きっとパパパ、パイナップルですと言ってしまうところだった。
「好きな食べ物は、ハンバーガーですね。実はハンバーガー屋に勤めていたんですよ」
 ということで、ハンバーガー屋の話から、俺達の出会いの話などでどうにか繋いでいった。小一時間ほど談笑して、どうにか場も暖まってきた。俺はもう面倒くさくなってきたので、
「ではそろそろ二人きりにしましょうかね」
 と言って、退散することにした。
「そうですね、お邪魔ですものね、とピョンプルが言った」
 あれ、ということは。
 部屋には、ナンプルと紀子さんの二人きりになった。どういうこったい、これは。しかし、俺は衝撃をひた隠しにし、ピョンプルと共に部屋を出ていった。
 ああ、なんてこった、ナンプルはラブラブ新生活なのか。一人中庭でたそがれていると、ピョンプルが声をかけてきた。
「まあ、そんなに落ち込むなって、人生いろいろあるさ」
 俺はただ鼻水をすする事しかできなかった。
「紀子だって、ああ見えても、おっちょこちょいで酒乱なんだよ」
 そうかぁ、いいなぁ。
「それに、足の臭いを嗅ぐのが好きだし」
 そうかぁ、それもまたいいなぁ。
 もう何でもよかった。
「ばっきゃろー!」

 ぶぼはぁっ!

 俺は中庭の池に頭から突っ込んだ。
 ピョンプルは大きな石の上に仁王立ちして、こっちを見下ろしている。
「なんなんだよ、だいたい落ち込む意味がわかんない」
 はっ、確かにそうだった、ただ、ナンプルのお見合いの相手が若くてキュートな美女だってだけじゃないか。
「ありがとう、心配かけてごめんよ」
 気を取り直した俺は、汚れた体を洗うため再び露天風呂に行くことにした。いつの間にか辺りも薄暗くなってきて、風呂にはちょうどいい時間帯になっていた。露天風呂では多くの人が体を洗ったり、頭にタオルを乗せたりしていた。
 俺は桶にお湯を入れるべく蛇口をひねった。
 プシャー。
 俺の頭髪にシャワーが降り注ぐ。お約束だ。
 ほんとはわかってたさ、と心の中でつぶやいた。
 お見合いの事だって、ほんとはわかってたんだ。そう自分に言い聞かせながら、そのままの体勢で頭髪を洗い始めた。
 はぁ、なかなか泡が落ちないなぁ。そう思いながら、十五分ほど頭を洗っていた。
 しかしいくらなんでもそんなばかな、これは何かの間違いだ、そんな思いが俺の心を支配したので、振り返ってみた。
 うおおお、あんたは!
 そこには謎の親父が両手にシャンプーを持って立っていた。
「どちら様ですか?」
 俺は目がかなり痛いので、五木ひろしばりの表情で尋ねた。
「わしはな、ママンプルのムクミャンプルで、この旅館のオーナーじゃよ、モクニャンプル殿」
 なんとも言いにくい単語を、さらっと言ってのけたものだ。
「これはどうも、初めまして」
 俺は軽く会釈し、素早くシャンプーを洗い流した。そのまま体を洗い始めたのだが、オーナーは全裸で立ったまま、俺が洗い終わるのをじっと待っていた。仕方がないのでちょっと急いで洗い終え、一緒に湯船に入ることにした。
「どうかね、この旅館は、気に入ってもらえたかな?」
「はい、とてもすばらしいと思います」
 我ながら、模範解答をしてしまった。
「そうか、よかった、このわしのセンスについてこれるとは、お主もやるのう」
「いえいえ、ハートにクリティカルヒットですよ」
「はっはっは、そうかそうか、さすがモクニャンプル殿だ、はっはっはっはっは」
 オーナーはすごいご機嫌さ加減となった。ひげもうれしそうに揺らめいている。
「ああ、ああ、ところで、ピョンプルはどうかね? かわいいだろう」
「そうですね、かわいくて、しっかり者で、気配り屋ですね」
「そうだろう、はっはっは、そうだろう、気に入ってくれたか。こりゃ大成功だな、はっはっは、なあ、ママンプルよ」
 オーナーが女湯の方に呼びかけると、
「そうですね、あなた、おっほっほっほ」
 女湯の方から女将の声が聞こえてきた。
 どういうことだろうか一体、俺は付き添いじゃないのだろうか。
「まぁ、ナンプルはあまり乗り気ではなさそうだったがな、それも作戦のうちだろう」
 そうか、ナンプルはクールな男を売りにしているもんな、と思った。
 そんなこんなでオーナーの甲高い声を聞いていると、そろそろ体が限界に達してきたので、風呂を上がることにした。
「おお、そろそろ上がるか、夕食は特別メニューを用意してある、たんまり食すがいい、はっはっはっはっ」
 俺は、ど、どうも、と小声で言いながら風呂を上がり、浴衣を着て部屋へと向かった。部屋ではナンプルがバラエティー番組を見ながら待っていた。
「う~ん、この芸人、もうちょっと頭を刈り上げたほうがいいなぁ」
 などと言っていた。
 食卓には山海の珍味が所狭しと並べられ、えもいわれぬ芳香がたちこめていた。
「じゃ、食おうか、ナンプル」
 俺は「いただきまーす」と言うやいなや、あわびの踊り食いを食べ始めた。
「うまい、うまいよ、ほらナンプルも食べなよ」
 しかしナンプルは、ぼんやりと浅漬けをポリポリしているだけだった。
「どうしたい、ナンプルー、お見合いが不完全燃焼に終わったのかい?」
「いや、もう大成功だよ、オーケーは間違いない、お互いにね」
 はぁぁああああ、そうなのか、やはりナンプルはクールな男。
「でも」
 ナンプルは黙りこくった。
 そして二十分が経過した。
 俺はその間に珍味を余すところ無く食べ尽くした。白子が特に美味であった。

「もう……、お別れだね…………」
 ん、俺は楊枝を動かしていた手を止めた。
「何? 何で? 何でなんだよ、ナンプル~、そんな事ないよ~」
 俺は突然の出来事に、半笑いで叫び声をあげた。ナンプルは静かに続けた。
「いや、これが決まれば、モクニャンプルとポクピョンプルの交換となり、新たな関係がスタートするんだ」
「あああ、何てこった、ナンプル~」
 涙がとめどなく溢れた。しかし俺は気付いていた。俺の中に生まれた、ピョンプルへの熱い思いに。

 スパーン!

 突然に部屋のふすまが開いた。
 そこには、オーナー、女将、美女、珍獣、と勢揃いしていた。
「さあ、今夜は飲み明かすぞ~!」
 とオーナーが言うと、大量の酒と枝豆が運び込まれ、乾杯が始まった。
 さらに、オーナーはカラオケで、夜霧よ今夜もありがとうを歌い始めた。俺は涙をぬぐう暇もなく、されるがままに梅サワーを飲まされていた。ナンプルもなんだかんだで、ほろ酔い加減になっていた。

 気がつくといつの間にか布団の中にいた。
 隣にはナンプルが眠っていた。
 よかった、隣がピョンプルだったら大変な事になるところだったと思ったが、過ちは犯してはいないみたいだ。
 部屋のふすまにところどころ穴が開いているが、あれは紀子さんがやったということは、かすかに覚えていた。それ以外は、オーナーの歌声くらいしか思い出せない。まぁ、悲しみにくれるより、パーっとやってくれてよかった、と思っていた。

 熱海から帰って、かれこれ一週間が経過した。
 ナンプルは帰った翌日に電話で
「オッケー、オッケーだよ、今すぐオッケーだよ」
 と言ってオッケーを出していた。人をあんなに泣かしといて。
 と思いつつ、俺はそう言ったナンプルの電話を奪い取って
「ボ、ボボボクもオッケーです、オッケーですからっ!」
 と言ったのだ。
 そろそろ先方の答えが伝えられるのではないか、という期待感を抱きつつ、二人でティータイムを楽しんでいた。
「ああ、俺は砂糖三杯ね」
 ダイニングルームに、ルパンⅢ世のテーマが響き渡った。
「あああ、きたー」
「ナナ、ナンプル出てよ、ナンプルー、ナンポウ、ナナ、ナンポウ」
 俺は動揺のあまり、ティーカップのとってに指を入れられず、仕方なく周りを持とうとして、熱っとなった。
「はい、もしもし」
 とナンプルは普通に電話に出た。
「ん、ああ、うん、ああ、うん、ああ、うん、オッケーね、うん、ああ、うん、オッケーだって、二人とも」
「ああああ、オッケー!」
 俺はどうにか指先でつまんで紅茶を飲み干すと、ナンプルに駆け寄りがっちりと握手を交わした。
「はぁ、これも嗅ぎ収めか」
 夜十時になったので、ナンプルはナンプラーの香りを撒き散らしだした。今となってはこれも、名残惜しいものだ。俺達はナンプラーの香りに包まれながら、眠りについた。

 翌朝、ナンプルは新たなモクニャンプルの元へと去っていった。
 俺はいつまでも手を振り続けた。
 ナンプルが見えなくなって、三十五分は続けた。
 そして戻って二度寝した。

 パラララッパラー。

 熟睡していたら、玄関の呼び鈴が鳴った。
「ああ、きちゃったよ、きちゃったよー!」
 俺は、インターホンを恐る恐る耳に当てた。
「はい、どちら様でしょうか?」
「ピョンプルと申します」
 やはり! やはり来たのか! 予定していた事とはいえ、目の前突きつけられた現実に俺の色々な所から体液がにじみ出た。しかし躊躇しても始まらない、俺は玄関に駆け寄り思い切ってドアを開けた。
 そこには全裸のピョンプルがいた。
 初めて会ったときからずっと全裸だったけど、今日も全裸だったのだ。
 これかぁ、新しい生活の始まりってのは。
 ピョンプルは「とりあえず飯」と言うので、さっそく俺は、明太子スパゲッティを作り始めた。う~ん、今までと同じようで違うこの感覚、思わず明太子を十%増量してしまう。
 一人前のポクピョンプルになれるだろうか。
 ピョンプルの体からは、微かにポン酢醤油の匂いがした。

モクニャンプル

モクニャンプル

ファーストフード店の隠しメニューを注文した俺に、容赦なく降りかかる運命。 時代の荒波に流され続ける、男の苦悩と絶望。 そんな中、わずかな希望が俺を奮い立たせる。 そうだ、モクニャンプル、それが俺なんだ。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-10

CC BY-NC
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