ワールドコンサルタント

これは世界をテーマに、そして創造改革における確かな視点である。

  腎臓を売った企業家

ある日私は腎臓を売ろうと思った。そして売ったお金でコンサルタント会社を建てようと思った。何をコンサルタントするかと言えば、世界、地球全体、自分達が認識できるものすべてだ。私はみんなが一体何を考えているのかがわかんないし、みんながなにをやっているのかが今一よくわかんない。たとえやっていてもそれを疑問に思ってしまう事もある。だからこう思ったのだ、自分以外の人達とどうやって仲良く平和に暮らせるか?それを機能させるための機関・会社を創ればいいのではないかと。
その前に忠告しておかなければならないことがある。世界を調整するという行為は世界機関が世界機関的にやっていなければいけなかった仕事である。もし平穏を謹んで行って生きている人の割合が多いならそれは神様にでもお祈りをしなくてはいけないだろう。それだけ人々が節度をもって現実を頼りに生きて幸福を表現しているのだから。
詰まるとこ政治がすべてを担っているのだろう。政治とはやりくりである。政治学の目的とは平和状態の確立である。そして科学とは世界的な進歩である。未来学とはそれらを見通す目と必要性を備えた行い、これもやりくりだと思う、だが未来とは想い描く行為でもあるため、生き生きと輝くためのロマンスであり人がただ質素に美しくというよりは、より高い世界で美しくとでも言うのだろうか、平たく言うと高さに応じたやりくりである。
それでは人はそれを学んで感じてあるいは感じさせて世界を見つけるだけではないか?人の疑問符に答えてくれるのは現実的な反応と行った上での結果じゃないだろうか?
私は不信感の中で彷徨ってる無神経な亡霊だろうか?人は魂は答えと価値観を知って基準に達しれるが、実直に私が一体何の貢献をしているだろう?あっという間の人生を晩年になってやっぱりあっという間だったとでも悟るのだろうか?行動を起こせと言われてむしゃくしゃした気持ちを抱えて何かしでかせばいいのか?これだけ常識がわかっているんだから教会に通って自分達を慰めようか?教会我通いしてる人達は結局その中のルールに甘んじて未来を掲げているのだろうか?集まって出来た集団性が何かに固執するだけの機能なら未来や科学や医療は必要ないだろう。もし過激に啓蒙活動を行うなら動物を観察する方が優れた財産になるんじゃないだろうか?リストカットしているやつらもそんなことするくらいなら献血でもすればいい。リストカットの二倍は生きる実感を手に出来るだろう。
私は誰とでも仲良くなれるだろう、だからと言ってそれがすべてではない、人が要していることは個性と能力であり個我はそれを知って外部と触れ合い感じるものを自分の仕事として生きるものである。しかし無個性で無能と思える人は外的育成と自己意識を発してないことになる。だからと言ってそういう人が完璧に無個性で無能だなんてことはありえない。世の中には手足の使えない人もいるからそういう人達をケアすることも立派な仕事
である。
私にはある程度の括りが欲しい。その括りとは世界に対する目線であり一個人が単純に分かっておくべき常識ラインと人類を並列させるための機能・知恵・法としての忠実な仕事そのものと考えたいのだ。その為には世界を見渡し現状を知りそれに合った行いをするというのがこの会社のコンセプトだ。つまり不確実なことは一切なく、見通す目さえあれば誰でもいいわけだ。
見る目に必要なのは視力とそれを超えた心の働きと意識の覚醒感、認識の行きとどいた確信だ。それらを感じることによって人は物事に突き進み独自のやり方で分野を切り開いていくのだ。
人とは生態機能上又は他者との共存上独自の或いは必然的なやりくりを行わないといけないのである。そしてそれらは法の元、卓越したセンスの元で成り立てなければ意味がない。つまり物事とは追及されるのである。そしてどの分野も学問的に取り扱われ地球環境生活の基盤となるのである。こういった考え方は他者との交流も深める上に日常にも利便性をもたらすだろう。
俗に言う宗教とは人と人との間にあるすべての事を結ぶ機関であり、物事のやりくりをしていくための交流と相談をし、より効率的に物事を調整して、平和と幸福を追求していくための学問の場であると思う。
職業でコンサルタントとかマネージメントすると言うが、なぜこれが世界的に行われないのかが分からない。必要な知識と能力を学ぶ事が社会人として必然じゃないのだろうか?そんなんだから訳も分からず卑屈になって自分を扱くだけの日常があるのである。
世の中とは見渡して必要な機関を設けてそれぞれの場に人を配置し高純度の調整を計って未来を創造していくべきだと思う。矛先を万弁なく向けない限り、そしてそれを意識的に行うことで衝突などはさけられるはず。地球は丸いのだから太陽の光がまるで全てを照らす様に人や動物も光の矛先を見つけて向かうのである。なので意識的に各々が向かい歩む必要がある。
私は未来に向かって突き進みたい、ただそれだけのはずだ。なぜそれができない?自分は役不足なのだろうか?そしたら年寄りはどうなる?あんなやつらが何のために年金なんてもらって余生を過ごすというのだろう?福祉違いも甚だしい介護業、あんなお守りをする暇があったらもっと世界に貢献できるのに。自分達がもっと楽しい世界を謳歌できるはずなのに。それに関しては老いぼけた年よりも一緒だろう。
世界は時々美しい、そして残酷で殺伐としている。しかしそれを見切れない奴もいる。そいつらは置いてかれるだけなのだろうか。ぼくは手を取り合う事を忘れてしまっていいのだろうか?だからといって引きたい一線っていうのも自分にもっておきたい。ぼくの頭は使いものにならない状態、そんな時が結構ある。常識がすべてでいいときもあるし、その反対のときもある。そして何よりそれらを超えた理念理想がぼくを奮い起さずにいられないときが無意識のうちに覚醒される。この状態を頼りに今まで現実と大人になることと社会に出て働き活躍することにわくわくしていた幼少性、それが自分の原動力となってまだ見ぬ未来と言われる所に近づくのではないか、と僕は確信している。世界を救うのは若さと幼少性を兼ね備えた大人だろう。
僕は与えられた惰性的な世界よりも創造性に満ちた現実絵図のほうがわくわくするし、若さゆえの勢いのようなものを押さえずにはいられないでいる。僕はそういった状態を同世代の人達と共感共有してただ未来的なことをしていきたい。僕が思うに世界にとって未来と平和に向けた相関グラフの中に自分がいるような気がする。そう思う以外に自分が世の中に何を思えばいいだろう。全て何もない世界があったとしたら、僕はまず何をするだろう?花を咲かせるだろうか?家でも立てるだろうか?神話に出てくるような世界を繰り広げて宇宙や星やその上に暮らしている生き物たちの歴史でも考えるのだろうか。そして善悪でも説いてより良い世界に向けて動きだすのだろか?それとも悪魔のように人に疎まれるまで騙し盗み奪って人を見下し欲望と狡賢い企みを立てて一生を過ごすのだろうか?たとえそうなったとしても恋親しむ異性が現れたら僕はどうするのだろう?好かれるまでまとわりつくだろうか?諦めて来世で成就されるようにでも密かに祈っとくだろうか?それとも今を見つめ直して改心でもするだろうか?
 今僕に備わっているだろう想像力は世界に対して色んな予感を感じさせ、まるで欲望に従うように、素直に心に響いて涙し笑顔にさせては怒り楽しむのである。一個人とは物事すべてに離れることもできれば近づくこともできる、すべてを観察し達観してしまえる頭と心をもっているのである。吸血鬼が血を吸い何千年も生きられるように人とはその生命力をもって、無い事有る事すべてを司っているのである。そしてその想像力は現実に溶け込みそれを持っている人、それを表現した「自分だ」と言い現わせるのである。
全ての人が何かにすがってみたり何かを信じたりして、それを基準に判断して経済的に成功したりしている世界で僕は何をすれば?人のことを気にしたりしてる場合だろうか?自分と比べて劣っていると嘆いて内省的になるべきだろうか?僕の半生のほとんどがまるでドストエフスキーの地下室の手記みたいに内省的になっては地盤と地殻が変動している地球のようにすこしずつ練られていくようではあるが、頑迷なる妥協で地獄の出来レースを歩もうとしているのではないか?
そしたらそんなことが何になるというのだろう。僕が行えるのはそんな不消化な自分模索だろうか?いや。世の中に対してより良い世界に向けての現実的な実働業務だろう!そうでないならば自分の殻に閉じこもったつもりで「安心にでも浸ってよう」とでも言うのか?僕は誰に矛先を向けていいか分かんない状態で不満をもらして燻って、気を紛らわしたりしている。人生の専門家はいないが人は何でも出来るし、僕もそれに携わり少しでも世の中の役に立ちたい。ただそれだけ。じゃあ具体的に自分がやりたいことは?などと考えるのは馬鹿げている気がする。人は何でもやれるという視点を標準に考えたら人が人としてより良い方に向けた行いだけのはず、なのにも関わらず現実的に行っている事とは何だろう?今やっている世の中の仕事は一体どんな風に何処に何に向かっているかも分かんない、だけどエネルギーは消費され、職場では年寄り年上とは年下を野放しにした挙句、「同業者だろ?」とか社会人とか大人とか我慢だの忍耐だのと説いて訳の分かんない宗教だか思想とかをこうもあっさりほざいてきてしまうのである。そしたらそれを真似して年でも取れと言うのか?少なくてもそれを行ってるあなたはまるで捨て駒ですね!頑張ってくださいとでも言っておいた方がよさそうな現実認識をお持ちですよと返したくなる。一体「甘やかされてる」と何の権限で口走っているのかが分かんない。甘んじたぶん消費に繋がっていないのなら娯楽やゆとりは不要とでもいうのだろうか?そもそも年上の癖に年下を上手く配分出来ていない時点で立場と見方が曖昧以上のなんでもない。一体何を基準に物事を立ち上げてきたのだろうか?若者や年下からの不平不満や否定批判でもくらいたいのだろうか?それとも私たちは頑張ったから年金だけよこせとでも言ってみなさん後はよろしく頑張って下さいとでも言って死んで逝くのだろうか?それならそれでいいかもしれない、人がどう生きようが勝手な訳だから、あとは本当にこっちはよろしくやりますと頑張ればいいわけだ。必要な権利、必要な政策、必要とした世界価値観を見出し、それを大切にこさえて生きる礎とすればいいわけだ。
ヒトゲノムが解かれているこの時代で無知な大人の金儲け政策に携わるより人や他の生き物や自分達が暮らしているこの星や宇宙や未来的な文化を解き明かしていい風潮の中で自分達のやりたいことを後からやってでもやればいいのだろう。僕の創世記はもう始まっていて、あとは生きていくだけだ。
創造性も頓知も人徳や生命力の爆発もなく肉体にさよならするのならボケ老人になっても仕様がないのなら分かる気がする。せめて理性だけでも保たないと、その幼少性における無意識や潜在意識の状態のような感覚を科学や学問が解決しないとでも思うのだろうか?世界の総人口で研究に当たれば解けそうなことを、よりよって高齢化社会だなんて呼んで、問題視されてることに気付いているのだろうか?孫を可愛がれるなら世界を愛でることも容易じゃないか?
自分は単なる恥ずかしがり屋だろうか?この状態が一番調子が狂う、自分は単なる常識家だろうか?この感覚が一番自分を惑わし無いものねだりさせる。自分ははっきり言ってこの二点に尽きる、自分を出そうとすると緊張してしまって正しい慣性に持ち込めない。惰性と無意識の世界が行きとどいていない世界観で心をあしらってくるからだろう。まるで大気圏に突入する時の悲鳴をあげてるような感覚と、異性を理解してあげていないような性的快楽の為だけに励んだ時の密やかに悲しい情緒感。こんな感覚で日常を送っていたら自分を相容れてくれる人と付き合えるだろうか?
世界は自分が行ってきたことが鏡のように照り返してくることがある。一個人とは少なくとも自分の失敗は被害妄想を作用させて心に訴えてくることがある、想像力とは使い方一つで自分を死に至らしめることがある。常識とは呵責を意味し、心はそれを体現し過ぎるのである。しかし意識と無意識がそれを紛らわしてくれるのである。恐らく人とは宇宙的な夢の中にいるのだろう、そして過去の良い出来事を懐かしんで自分の幼少性に響く妄想を抱きながら現実を糊していくのである。
 ぼくにはお金が必要だろう。お金は家となり暮らしとなり未来的な文化の風習を生んでくれるだろう、そうなったら私は一未来市民としてよりよい生活を送れるだろう。しかし、現実的に考えて今の僕はどうすればお金儲けだなんて出来るだろうか?実質的に幼少の頃から携わっているわけだけど意見などできないし、したくても誰が相手にするのだろう?僕は明らかに世間一般並みのことが言えるつもりだが、それを本当に察してくれる社会人が何処にいるのだろうか?世の中は学位や資格が必要で融通が上手く利かせるよう行きとどいていない。こんなんじゃ頭の中は振り出しに戻って粗野な自分や暮らしが待っているだけだ。「動き出したい」。募る思いはどこ吹く風だ。
地獄とは自分を扱くということじゃないだろうか?頭は使い放しで動きたいようにも動けず仕事に合わせた肉体労働。たとえそれらが慣れ扱えたとしても心はなんというだろう?人とはこんなことをするために生まれたのだろうか?ぼくは独り暮らししているアパートの近くにあった野菜の加工工場で訳も分からず働いている。一つ分かっていることはそこでそれをやっていればお金が貰えるということだ。僕が時間を割いた労働分が時給となり、僕の持っている銀行口座に、おそらく毎日発券されているであろう、世界経済を動かしている紙幣から宛がわれ僕の生活経済のやりくりが訳も分からないうちに行われるのである。
僕は訳も分かんない内に金融経済に携わり消費・納税し支えきれない世界に携わっていることになっている。
紙幣は造幣されているから一応普及しているわけだが、インターネットで調べたら世界のどの国も借金している。金融・経済は政策として行われているにもかかわらず、人類どうすべきかなどと考えるのではなく、金稼いだ者勝ちのような個人独占の視点が強かったり、世の中に貧しいを超えた生活環境のような現実がある、それを見て思うことは政策とは別のことが行なわれているのではないかと思えてならない。
僕はそもそも誰とも足並み揃えて生きていくことはできないのだろうか?自分が世界の人類の何処に何に属しているかが分からない。基盤をおかしいと言って少しでも良くしたいと思う心がけなど無意味だろうか?一個人とは自分の知っている範囲内で世界を見渡してどう世の中に働きかければいいか模索し研究して促していけばいいのではないか?そうでないなら善悪も義務教育も教科書も星占いも生年月日もいらないのではないか?
僕が思うに人はどの国にも働き掛けられて、足りない場所には相応のモノを足せばいいだけだと思う。そうすることのよって世界金融・経済は政策として成り立つのであると思う。というかそれだけのことじゃないのか?それ以外を政策等と言えるだろうか?僕は誰かの企みの中にでもいるのだろうか?少なくとも人類の政策面で不満を漏らし世界機関や国内政治や年上の価値観を疑い嫌い疎まずにはいられないわけだが、僕に法人格があるとすれば自然の脅威に匹敵するくらいのどうしようもないような憤りを感じているだろう。
お金儲けが政策という枠組みでないのなら、常識は判断基準でないのなら、歌が心に染み入らないのなら?笑顔を嬉しく思えないのなら、法律なんてもので取り締まったところで何を守れるだろうか?実際に現存して生活している子供がいるのにも関わらず、いい年こいた大人が自らの幼少性満たしたいが為の行いや保障や政策など、どの星の輩が威張っているのだろうか?優先順位がないのなら歴史も個人的な思い出など本当に存在するだろうか?僕は単純にそれらを生かしたいし、生かせばいいだけではないのかと思う。それなのになぜ僕は無暗やたらに見つけたアルバイトや就職口で現実を過ごさなければいけないのだろうか?
「いけなくはないよ、ただ金融的に生活を賄うように出来ているでしょ?その仕組みを理解して生活できるでしょ?」「したらちゃんとその政策を行うだけだ!それなら簡単だ!よし!そしたらこの仕事を行えばより良い世界に向かって働けばいいわけだ!でもあの人暗いな、あの人は怒りんぼうで、あの人はまるで魂が入っていない!すいませんけどおいくつですか?僕より年上なのに今まで人生なにやっていたんですか?これからやっていく僕達のこと考えていてくれたんじゃないですか?可愛いとか大切とかドラマや映画で言っていますが、そういうのを観て心に響いて現実的に何かされたりしなかったんですか?あなた達の中で何を継承していくべきですか?僕達が勝手に決めていいわけですね?したら世の中なめるなとかお金がすべてだとか言わないで下さいね?それと世の中なめてるじゃすまないのはあなた達なんじゃないですか?この年上が!おまえらのお守りするために生まれてきたんじゃないんだぞ!この単なるしみったれ!」
僕は職場で作業中や終わった後に何度となくそういったことを思わずにはいられなかった。そして一緒に働いている人達に対して疑問を抱かずにはいられなかったし、自分が思っていたことがまるで砕け散ったような気がして世の中で自分に似たような考え方を探さずにはいられなかった。
なんで格差なんてあるのだろうか?本当に世界機関なんてあるのだろうか?どこで企業しようと人類経済の一政策として一企業があるのではないのか?着服や横領がメインで会社を立てる事を目標に企業すればいいのだろうか?法の目を掻い潜れば世界は救われるのだろうか?そんなことが自然災害対策に役立つのだろうか?なぜ世の中のほとんどの人が独自の閉塞的な感覚をもって生きているのだろうか?少しでもテレビや映画や本や写真でも観れば独自の観点を持って、優れた価値観を持たずにはいられないんじゃないか?その人達みんなが同じ青空の元、独特の能力と知恵を持っているのではないのか?世界の基盤を象れる自己の内省が出来ているのにも拘らずそれを解き放つ場所はないとはとんだ世界観の検討違いだ。
世界機関はしっかりしていないのだろうか?自分達の上空の彼方向うには青空しかないのだろうか?そしてそれは美しくもなんともないのだろうか?これじゃ宇宙スペクタクルな物語映画なんてただの茶番で終わる。
雨水に野曝しにならないのは文化価値観のおかげであるように、誰もが何か当たり前の事を見出さずにはいられないんじゃないだろうか?そしてそれを繰り広げていくための能力を駆使して世界基盤をはっきりさせていけばいいのではないか?
人とは誰でも上下左右が分かっていてその照準の中からいいとこ取りして、より高い秩序を見つけて自分の内性を高めることが可能なのにもかかわらず、惜しまれることもなく死んでいく人と生まれてくる人が大勢いて、それを分かっていながら見過ごす人も大勢いる。そう考えると無意識とは恐ろしくないか?
世界とは自立していかなければいけないことの方が多いけど、自分達人類の範囲で線引きしていかないと個人性には無理がある。ところが無理になってもほっとかれて希望を失っては立て直し、また希望を失っては立て直しの繰り返しになり、最終的には気にしないことだけが思い付くだけ。誰もが無意識に関してアーティスト並みの感覚をもっている。
「えっと僕生きていますか?生きていますよー?」と頭と心は動きだす。
人とは無意識の内に何かに気付いたりして、しかも実際に物事を行ったりしたら案外楽しかったりする。たぶん僕は人生っていうものにそれを感じているのだと思う。物事の最後には己の低さを知るだけなのだろうな。だけど再び意識は何かを見つけては常識的な捉え方がコンボされて躍起になって何かしようとするんだろうな。一体いつになったら成功の道は開かれるのだろうか?ひらめきか?妄想か?世界にいる人達みんなの統計を執ってから自分のやることを見つけてもいいんじゃないか?
私はずっとこう思っていた、世界みんなのパワーが一丸となって世界を創ればあっという間に出来あがって、そういう出来あがった世界から自分のやることを当たり前の様に選び働いていると。
日本に関しては先進国で戦争すらない。そんな場所で義務教育を受けられるなんて、なんて世界は平和だろうと思い込んだことがあった。これらは捉えようによっちゃあその通りとも言えるが、世の中とは思った以上に人間性に重きを置くというよりはかなり殺伐としている。偉大な歴史創造者から学べることのほとんどが手抜きと不届きになってしまっているようなそんな感じだ。
「会社でも起てよう。そしてより良い方向に向かう様、世界の金融経済・労働政策に整理調整を働き促すことで単純に現実の世界情勢がよくなるだけじゃないのか?」
僕にとってどう考えても世界を良くする方法は世界を見渡し世界経済や科学研究の梃入れをすることのように思えてならない。要は世界が未来という高い秩序に向かっていることに対して効率を良くしてあげる政策をとることをする行いこそすべてであり、人のやるべきことであると思う。
未来とは必要性で平和とは世界の基盤の状態であると思う。この様に人類経済に働きを促し各国が独自の未来ヴィジョンに向けて働きかけるというのはどうだろうか?
平和な状態を創るには平和を持って行いをするしかないだろう。つまり自分達の生活環境の完全な確保、土地環境に暮らしを左右されてしまわずに色んな危険からの安全の徹底研究を計って構築していくべきである。世の中言うべきこととして自分達が造幣しているのにも拘らずたかが政策でしかない金融経済の一仕組みを機能させられないのは不手際としか言いようがない。すべての大人が大人としておかしい!物事にはすべて何かしら仕組みがあって機能しだすもの、それを手動であろうが機械動作であろうが人の生み出した物であるなら、それを行うまで。なぜそれをやらない!疲れたら別の人と変わるか休むかしかないはず。というかこんなに人口の多い世界ならいくらでも代わりはいるに決まっている。お金を貰わなくても働いてくれる親切な人もいるだろう。
工場とはなんで訳も分からぬうちに大量に生産してしまうのだろう?しかもコストとサービスや人付き合いが分かんない為に廃棄作業が行われている!コンビニやスーパーでもだ!こいつらもリサイクルやら人付き合いの分かんないやつらで、たぶん気付いててもコストとリスクの相関性やらで上手く善処できずにいるんだろう。そもそも食べ物を売り物にするかどうか、この給食のある時代で未来を育んでいくと言ってるにもかかわらず個人個人がこさえてくるなんてまるでボケナスではないか?栄養学や食育・風土文化が有るにも拘らず一個人一個人は一体何を考えているのだろうか?のたれ死ぬのも当たり前ってか?政治観念や宗教観念を持ってるくせに、ただ持ち運んだだけになって、向かう先も曖昧で大して未来に貢献することもなくにやにや訳の分からないい事を嘲笑って何がおもしろいのだろうか?それとも風俗街で客引きをして生きているやつらがいるこの世界で世の中なめるなとでも思っているのか?当たり前のことは言わないでも分かっている。そう誇っていそうな割には年金貰って死んでくだけじゃないのか?未来も理想もなく世界や地球に対して「お邪魔しました?」とだけ言って墓石の下にただ入っていくつもりなのだろうか?人生の99パーセントがつらいなどとぬかしているが、宗教も未来性も科学も現実も世界の総人口もすべて自分達が創り出したもので、話しても分からない自然が生じたとでもいうのか?躾けが足りなかっただけじゃないのか?
人生とはそういうものなのだろうか?だとしたら「俺は何階から落ちても死なない」と言ってしんでくれた方がまだ笑いがありそうだ。不謹慎な表現ではあるが、持ち前の生命力をどう使おうと勝手だろう、しかしほとんどの人が訳も分からず不満の悪循環の中に陥っている。そんな状況があるなんて生命力の矛先がおかしんじゃないだろうか?せめて生活の基盤造りが為されている状態の中で自分達に必要なことだけをするというライフスタイルを取り入れるべきなのではないか。だからと言って働かないは基本的にありえないだろう。物事には分野立てた区分けが必要になってくるし、年功序列の観点から観て有限性の見極めや、仕事上の効率や難易度上の連携が必要になってくるに決まっている。そして何よりも自分達の憧れや理想を現実的に実らすことがやりたくない訳がない気がする。
そしてこの総人口とエキセントリックでユニークな個性達がいるのだから世界の風潮が整わずにいるなんてどの個性(個星)も聞いてませんとしか思わないだろう。
世の中とはどんなスリルもどんな健全性も手に入れられるだろう。そしたら実れない事なんてあるのだろうか?地球が滅びようが人類が破滅しようが、人類が人類の範囲内で安全圏を確保した上での世界を探るという名目の元で最低限機能してほしいと思わないか?それなのに、のたれ死ぬなど大規模な貧困民衆が顕在しているとは想像力の使い方がおかしいのではないか?野草の食文化や薬草の効用医学が有るにも拘らず飢饉とはどの星のろくでなしだろうか?人付き合いと金融政策を公私混同しているのではないか?ましてや一国の主が上手に捌ける訳でもないのに独裁政権だなんて、同じ遺伝子が宿っているとは思えないことをしてくれる!そしてそれを一体誰が裁いてあげるのだろうか?こうなると暗黒世界そのもののようではないか?世界機関が有るにも拘らず未来に対して機能しないとは一体何事だろう?悪いかどうかなんて中学生でも論理的に説明できるだろうに、今の世界じゃいい年こいた大人より小学校低学年の子達の方が遥かに平和な気がする。下手したら一国の主に秩序を問質せるスーパー天才児がいてもおかしくもなんともない。未来に受け継ぐだなんて調子のいいこと言って一体どのラインでそうするつもりなんだ?本当に大人としての責務なんて果たされずに習わしだけで貯金でもため込むのか?そんなことをするより世界一丸となって機能してみてゆとりを勝ち取るための政策に励んだりした方が訳の分かんない年金生活を待つより早いんじゃないか?そんな気がしてならない。
このままじゃ恥をかくだけの世界の秩序レベルしか気付けないまま世界は滅んだりするかもしれない。そうでなくても関係なくちゃんとやるだけと決まり切っているのではないか?作られれば作らさる、壊せば壊ささる。一体なんの曖昧模糊から選別し捌き切っているのだろう?繊細な心の機微を察してくれとでもいうのだろうか?一体何を持って一個人、一社会人と言えるのだろうか?昔の喜劇王チャールズ・チャップリンは自分を何処の国の人か問われて「私は世界市民だ」と答えたにもかかわらず、インターネットが繋がれている現代人こそ世界市民と言えそうなのにネットの中だけの単なる調子狂いになり果て、より不明確な視点から訳もわからず自分をアピールしたり、ネットの中に埋もれて電力を消費して無神経に陰湿に振る舞うことをよしとする。供給システムは一体どうなっているのだろう?節度のある世界は臨んで行わないとまず行われない。躾ないと行われないのである。
世の中には無神経な人が多すぎる。人間性を勘違いした分の無神経な個性が、そんな人のどこが魅力的だろうか?そんなやつらより即席の冷凍食品の方がまだ人間性を放っていそうだ。
俗っぽいだけの小話かもしれないが日常のほとんどの場所で躾のなってなさや堕落した惰性は行われているのである。何よりも酷いのが年をとった世代のやつらが大した未来性も育むこともなく世の中に彷徨っていることだ。世も末と言うがこいつらにぴったりだ。何処が?て仕事をした時の秩序のなさと自我確立の薄さと。何よりも世界を捌こうとしない謎の虚無と空白的な無意識が入り混じっている。プラスマイナスが分からない訳でもなく家計帳簿や利益高や出生率に街中のアンケートや厳しさと優しさ、これらが分かって世界を手なずけもせず世界機関や国家政府があるのに法人格も有していなければ労働者組合としての機能的な個我・技術の意識的な向上も計らないのなら、一体世界の歴史の社会人としての、あるいは善人としての何処のどの部分で精通してるというのだろう?お金もなく一生を過ごしたり、輝きも足りずに自分達を世代扱いして、人間性としては平和ボケしてるというより死人ボケしているというような感じだ。そんなに世界が神様と自然の驚異が形付くっていると思のか?人口爆発してる中でもお金儲けだけしか信用できないなら子供を産まないようにする為の布教活動でもすればいい。社会人としてのみなし方が雑過ぎてそれを教える事を忘れてる。ただ残念なことに躾けられる側が逆転してるだけでなく完全に同等以下の場合がある。ニートと呼ばれる人種を必然的に作ってるようなものだ。中にはそれすら分かんないどうしようもない輩がいて、世界機関同様立場と政策が曖昧になっている。そんなに階段(会談)の上り降りが難しいだろうか?自分の財布の中に有る分でやりくりができないのだろうか?返すつもりもないのに借りて、作ってどうするかも今一分かってない癖に、職務に就いて、国会議論も地方自治体も市町村も結局一部分のとばっちり合いでしかなくて良くて関心の向上煽動。人口が多い部と個人の尊重の部分で人間学的な見地と宗教学的なやりくり(とんち)が機能していない。だから最後には疑問符とあっけらかんとした怒りの持ち逃げ劇で終わるのだ。はっきり言って個人個人に善悪の観点が有る瞬間からその人は政治家である。経済的決済が出来ればやりくりが分かる。個人的な幸福感を感じたのなら宗教学家である。つまり政治家を批判できるのならより高く広く見渡せればマネージメントやコンサルタント、物事の仕組みを理解した調整(やりくり)ができるのである。
私が思うにほとんどの人がよりよい世界観の心地を感じていて、もしそうであるなら当然のように世界をよくしていくだけである。そもそもよさが分からない人間なんていない。それなのにも拘らず一体いつまで目の節穴を見せつけるというのか?
個人性を軽愚した人は暗闇に染まり、集団性を嘲笑った個人も暗闇の中かもしれない。物事を気にせず無意識に淡々と仕事にやり染まって一体何処に矛先を向けているかわかっっているのだろうか?人は全てを持ってして全人(善人)なのである。というよりはもっているし、それを出すのである。持っているから出せるのである。世界に何階あろうと決まった所から決まった回数を選ぶだけである。分からなければ頭の中で思う所をチョイスするだけでもいいだろう。少なくとも人は設定の中からしか選べない。つまりあるものでどうにかするだけである。思い描きは後回しのやる気付けでもある。
人が人に関して出来ない事があると思うだろうか?例え分からないことがあったとしても物事とは何かしら関連し合っている為それに気付かないことは結構考えずらいものである、意識したりして分かろうとしないのならそれは罪だろう。因みに仕事を後回しにするのは要領の超基本と言ってもいいだろう。後に回されてるものを捉えてる人は結び付け方が上手いのだ。そして後回しにした分の事柄が分かっていれば分かっているほど要領(容量)のいい人で、できるだけそういう状態を創ることを心がけるべきである。気を抜くなんていうのはその後だ。仕事のやり方なんて服を着るのと同じだと思う。単純に順序があってそれに伴った勢いを付けるだけのようなものだろう。伝え方と意識が肝心で、基本的には仕組みさえちゃんと分かれば機能のさせかたなんて後から付いてくるものであり、これを上手に説明出来ない人は教え方を勘違いしている。歌えるはずの一曲の後付けの鈍い所をさしたり、口頭だけになっていないだろうか?仕組みの関連性を伝えられない人はそもそも仕事を勘違いしているかもしれない。繋ぎ方もなく成り立つものなどない。逆に言えばそれさえ追及できればいいのである。仕事とは切り貼りのやりくりであり、未来絵図と平和絵図に近づける為の作業であり、心の輝きを発して行うのが常である。
人がもし心の輝きを発しようとする以外の心情になったら単純な闇にしかならない。人は染まりやすく忘れやすい。たとえ私が何かしらの中途半端な価値観で本を書いてもそれはそれである事を表現することになるだろう。私はとりあえずそれを試したいが、人とは単純に輝ける心を発することにしか確かな生態状態を示すことにならない気がする。しかしほとんどの人が閉塞感を持って他者と接している。或いは謎の無意識的な拘り状態。因みに私自身はそういった感覚に恐れをなしたままのような振る舞いで、輝こうとすらせず、
変に拒んでるような状態を出来るだけ肯定して独特の闇のような性格の気がする。僕は要するに本来あった自然と呼べそうな幼少性を曖昧模糊し続け、ただ無常にも頭だけ動かしそこから切り開こうとしたり、心が備わっている限り私は必死なのだと思う。私は否定というものがどのくらい役立つか試し、それで自分を扱いてしまうのである。世界を見ている人はどうだろう。そこに切り開いた心があればただ見つめる事ができるはず。だけど大それてることに関して一個人は弱いのだろうか?宇宙が解明されるまで個性を閉塞させ、拘りや無意識、他者に対して卑屈になったり、年齢層、世代層にプライバシーの観点はあまりないのだろうか?社会性というよりは人間的な適応性の方が大事で専門性なんてものは枠組みに対する貼り付けでしかなく、基本調和を大切に考えて誰もが学べて誰もがどの枠組みの中で従事できるものであると考える。ましてや社会性における人間性を阻害するような枠組みなど仏の顔も三度までと言うが、「頭が悪いで仕方なく」が多すぎる。あと「人間性って何ですかお金の量ですか?」も多すぎる。子供に聞いたら暗黒面を指摘しだすだろう。つまり大人とは道徳的な理念実行を計って為せる社会人であり、その理想像に対して誰もが学に励む個人なのである。中学生の内から世界を見せて育み方を教えるべきである。あるいは学ばせるべきである。知らない分知りたがる時期でもある。

 私の個人的感想から言って、人とは支給(与え)されれば喜びが流れ出し何でも好きな事をやっていくようになる。しかし万人的な常識の管理下の元でだ。私は幼少の頃から税金で生活が賄われてきたから分かるのだが、支給を受けれるという状態自体がとても嬉しく、子供の頃の私はそのことを世界の平和構造の一部と考えていた。なぜなら万人や一市民を考えての政策を受けて子供が社会に対してハイテクな何かを感じずにいられるだろうか?
食べ物が世の中に並びまくっているが、栄養学などという観点がどの程度役に立つか良く知らないが、連携してはっきりと標準化して市民が困らないようにする為の食事文化機関を作るべきじゃないだろうか?これに関しては年功序列にそるなりして役割を決めるべきだろう。
元気がない若者というが、責任感のない大人という方が先じゃないか?責任感がないことを指摘するよりも、文化の中で国家機関などがあるにも拘らず能力と創作の配分と基盤認識がぽっかりと穴が空いているような気がする。子供と、年を取って社会に適応を求められてる大人を割り仕切るというのは社会に何の効率を与えるだろう。子供を人間として馬鹿にした挙句放り投げて何処に親子愛や家族愛があるのだろう?人類みな家族とみんなが思っていないことも危険な話な気がする。
人は心に素直になるというより必要なことだけするということをはっきりさせた上で物事を行うべきではないか?そんなことは年を取った大人にしか分からないということはないと思う、勘違いと訳の分からない拘りこそ脱却させて、宗教的・道徳的・人道的に手を合わせて社会・政治をつくるべきではないだろうか?これは当たり前の事を言っているのではない。ましてや擦れ枯れた精神性から出た発想でもない。例え私がそんな俗気たっぷりのことを言ったとしても、愛があるつもりだ。私と接してみればわかる。私にとって接し方とは接し方でしかなく、必要最小限と遊び心しか持ち合わせていない。この事から分かるように優先順位が私なりにはっきりしていて、どちらかというと感覚的出来ている。私は社会、世界、創造の部分で構築基盤の概念を少なからずこの今の自分にもっているのである。これを私は売り込みたいのである。金融経済の面から一般市民とは思えないような社会性と人間性、主に人間性を構築しているつもりだ。今まで難しいことも散々考えてきて、変な有限性はあまりもっていないつもりだ。数々の読書本から自分なりに得た素晴らしい知恵とその感覚性を持ってして社会に取り組むつもりである。私はセミナーをしてみたいと思う。なぜなら私が考えてる事を単純に伝えたいのだ。世界に必要な事。当たり前とは人にとって大切な知恵そのものである。その標準器が備わっていない人がただ生活費稼ぐ為だけに仕事なんてしたところで「嫌だ」強烈に心の声を発するだけだろう。彼ら彼女らには必要な養分が足りないため、心の悲鳴をあげる手段をださずにはいられないのである。心の声が肥大しない事など基本的にはない。しかし振る舞いとそれは別で自制の限りでしか人は振る舞えないのである。つまりそれが礼儀というもいのである。因みにそれに拘っても駄目である。なぜなら覚える必要性と行う必要性が必ずしも時と場合が一致する事ではないからである。文章で理解するのと、簡単なことをするのとでは全く違ったりする、因みに後者以外の答えは基本的にはありえない。難しさに対するイメージや見解なんてものは存在しない。自分に言い聞かせた事だけが行いになる。つまり無難性の見解で人はかならずしくじる。なぜなら人は貫くことと合わせることの両方の位置とそれらの概念を理解出来るからである。人とは必ずしも一つではない。むしろ無限である。私達は知らず知らずの内に明らかに地球にいてその上で明らかに総人口65億人以上いるのである。その数の生活手段なり人生観念が必要な訳である。だからと言って人は人、他の生き物は他の生き物として互いの探り方、順応の仕方があるのであり、お互い基本的にはそれしか必要ないだろう。そして何かしら試した分の反応が返ってくるのである。ここに注目しない生命体などいるだろうか。どの動物も基本的には窺い分かってから反応するものである。なぜ占いや呪いや風習を信じたりしたかはさておき、生き物とはただそれらの事を知り、ただ知ったら行ったり取りつかれた様に行うのである。つまり生き物とはただ知って行うという習性を用いていて決してそれにつきることはない。なので社会の仕事の中で嫌々やっている事を一々心で捉える必要性はなく、どちらかと言うと必要性だけで捉えればよい、時間の感覚もそれに合わせるだけだろう。人にとってこの地球上にいる限り、他者と情報交換などをする限りそれら全ての事が生命の活動でしかなく、形態性に順じた足運びでしかなく仕事や流通はそれそのもと言っていい。
あれが楽しいとかこれが好きというのは、基本的には生き物は持ち合わせていない。ただ生命に置ける価値観と形態性に対して順じているのである。だから生きてる状態そのものは常に生き生きとしているだけである。決して他者とどうこうなるということを考えるのではなく、状態そのものが常に生きる形でしかない。
個人が自分の道などというのは絶対に馬鹿げているだろう。総人口のたった一人二人が好きな事をしたいなどと現実逃避も甚だしいと思わないか?好きな事をやるとは具体的には総体性を考えずに個人性など放任主義の骨頂でしかないと思う。集団性を考えないのは個人性にとって孤立主義以外のなにものでもない。つまり好きとはものの例え程度でしかなく人間性の真意に元づいていないとたかだか気持ちで判断しやすく揺らぎやすい未対応な社会性しか持っていない若者など自殺、社会性拒否するのは分かりやすさを追求した人ならではで、考えや制度とは良く良く、世代世代が考え世界に対するやり方を見直し決めるべきである。これを基本的人権の立場として成立させない限り自殺の観点が放任の中で見だしてしまうかもしれない。ちなみに私は小さい時に自分は死んでも構わないんだと思ったことがあり、兄に怒られたこともある。その時は胸ぐらを強く絞められて泣き出した私に「本当に死にたいか?」と問うてきて私は「生きたいです」と答えた覚えがある。私はその頃まだ小学生入りたての頃だった。子供心はそういうものだろう。情緒感を覚えた時点で人は基本世界を知り歩み方を探るだろう。人権はすぐに出来るのである。政治家でない人も同様、気にかけることは重要である。
気にかけることは始まりであり繋がることの本質じゃないだろうか。人間の世界とはこれを機能とし、理想をみんなで立ち上げて、世界を構築するべきである。偽善とはレッテルであり気遣いの観点からは無縁である。もし偽善があるなら総人口なる大学感は構築はされず、やはり独占欲が前に出て無闇やたらに社会性を示すだろう。これが格差の根源ではないか?
私達は私達であり、「あなた達」とは総人口の一部である。心とはその中心であり、理想うとは総人口の頭である。わかりやすくないだろうか?
人の人生、人の生きる場は大学である。私達は積み上げることも可能で、平たくすることも可能だ。私達はその中心から、あるいは外側から観察して、自然に自分達の要すべき基盤を形成していくべきではないだろうか?善悪は正義をかざし、感覚は宇宙を読み取り高い秩序と効率ほ世界に施し、定めるべき範囲と括りたい空地を検討し、ただその繰り返しでしかないんじゃないだろうか?私達は無難を選んだり、スリルを求めてしまうかもしれないが、それは私達が私達としてからである。必要性を基準に高い機関と広い機関を私達なりの文化形成を、私個人は検討してみたくて堪らないのである。そして誰もがそれに気付けてないなんて信じられないのである。もし神様がいるのなら神様が言いそうな事を想定しようではないか。
私達にとって、宇宙とは地球とは世界とは、私達の為の大学である。
悟りを拓くとは私達を機能させるための生命促進装置のような役割である。そして謹んで機能することだけを行うことである。そして必要性という高くも、詰まった観点をもつことにより、大切なものを広げる世界の一部になるのである。

ワールドコンサルタント

潜在意識は輝いている。後半がとにかく簡素かな

ワールドコンサルタント

私なりに小説を書いてみようと思っていました。ふと浮かんだテーマから完全にエッセイのようなものに化けて行きましたが、深い疑問に私なりに答えています。そして過激に社会批判をしています。そして創造の中で各々の創造物がひとつになってくれれば幸いです、笑ってもらっても構いません。私なりの真摯なひとつの視点で書いたので、拙さや荒さよりも内容です!!!

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-06-09

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